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2026/05/31

阿部正信編揖「駿國雜志」(内/怪奇談)正規表現版・オリジナル注附 「卷之二十四下」「蛇蛻」

[やぶちゃん注:底本はここから。句読点・記号を附加・変更し、段落を成形した。「蛇蛻」は「蛇(へび)の蛻(ぬけがら)」の意。語りでは、寺に伝わる話として出る。仏教では、最初期に定着した音読みは圧倒的に呉音である。「蛻」は、呉音では「エチ・セ・タイ」、漢音は「エツ・セイ・タイ」、慣用音は「ゼイ」である。しかし、「ジヤエチ・ジヤセ・ジヤタイ」というのは、如何にも聴いただけでは、ピンとこない。漢音でも「ジヤエツ・ジヤセイ」も今一である。実際には、江戸時代では、学術的な諸書に於いては「蛻」は圧倒的に慣用音(本邦での一般に用いられた表記)「ゼイ」と読むものが圧倒的である。寺の関係者が「ぬけがら」と半公式な語として読むことはないと考えられ、「へび(の)ぬけがら」の訓では、如何にもチャすくて、話しにならない。されば、ここは、慣用音で「ジヤゼイ」(実際の発音は「ジャゼイ」)で読みを附すこととした。

 

 「蛇蛻《じやぜい》」 志駄郡《しだこほり》下の鄕村《しものがうむら》、大揚山長慶寺【濟家《ざいか》[やぶちゃん注:臨済宗の意。]、京、妙心寺末。】にあり。傳云《つたへいふ》、

「當寺は、今川上總介泰範《いまがはかづさのすけやすのり》の墓所【或云《あるいはいはく》、氏親二男、義直墓。云云。】にして、始《はじめ》、眞言宗たり。

 天文《てんぶん/てんもん》年中、今川治部大輔《ぢぶだいふ》義元、雪齋長老《せつさいちやうらう》をして、中興の開山《かいさん》とし、濟家に轉じ、大龍山臨濟寺《だいりゆうざんりんざいじ》【濟家。】の隱寮《いんりやう》とす。當寺、泰範【泰範は嘉慶二年六月十四日卒、法名「長慶寺殿前總州別賀太山高公大禪定門《ちやうけいじでんぜんさうしうべつがたいざんかうこうだいぜんぢやうもん》」と號す。】の墓に、義元の分骨を納《をさ》む。此《この》墓上《ぼじやう》に、蛇蛻《じやぜい》、懸《かか》れり。四時《しじ》、共《とも》に、纏《まと》ふ。若《もし》、風雨の爲に吹拂《ふきはら》へば、一夜《いちや》の中《うち》に纏ふ事、もとの如し。」≪と≫。

 玆《ここ》に、文化六年のころ、當寺の住僧某《なにがし》、並《ならび》に、客《きやく》素白《そはく》【益頭郡《ましづのこほり》寶積寺《はうしやくじ》僧也。】と共に謀《はかり》て、泰範の古墳を發《あば》き、義元の分骨合葬の眞僞を試《こころみ》んとし、古塔《ふるたう》五輪の笠石《かさいし》を取り見るに、正中《せいちゆう》に丸《まろ》き石柱《せきちゆう》を建て、臺座に貫《つらぬ》きたるさま也。

「此石柱を、拔《ぬか》ん。」

とて、漸《やうや》く、二、三寸、引出《ひきいづ》るに、小蛇《こへび》、石柱に纏ひ、其《その》半身《はんしん》を現《あらは》す。

 鱗《うろこ》、五色《ごしき》にして、小點《しやうてん》あり、金色《このじき》の光をなす時に、此《この》小蛇、忽《たちまち》、大形《おほがた》となり、頭《かしら》を、もたげ、奮怒《ふんぬ》の色《いろ》をなし、頭《かしら》を石柱によせて、其《その》眼面《がんめん》を隱《かく》せり。

 兩僧、恐怖の思ひをなし、心氣、忙然《ばうぜん》たり。

 終《つひ》に、其志《こころざし》を果《はた》さず、石柱を下《おろ》すに、小蛇、穴中《あななか》に入《いり》て、形《かた》ち、見へず。

 石柱と穴との間《あひだ》、透《す》く事、わづかに、二分《にぶ》[やぶちゃん注:六ミリ。]計《ばか》り。いかで、此蛇の入《いり》たるや、不思議と云《いふ》べし。

 兩僧、其夜《そのよ》、俄《にはか》に發熱して、陰莖、腫《はる》る事、蚯蚓の匐《はふ》るが如く、兩《りやう》の腿《もも》・肛《しり》、日を追《おひ》て、腐爛し、全身、疼痛《たうつう》すること、へんに、物《もの》、なし。

 醫《ゐ》をして服藥するに治《ぢ》せず、終《つひ》に死せり。

 素白は、

『古墓の崇り。』

なるを、悟《さと》り、日夜、誦經《じゆきやう》して、彼《かの》靈廟《れいびやう》を犯《をか》せし罪《つみ》を陳謝し、服藥する事、連日《れんじつ》、幸《さひはひ》に、病《やまひ》、癒《いゆ》る事を得たり。云云。」。

 

[やぶちゃん注:「志駄郡下の鄕村、大揚山長慶寺【濟家、京、妙心寺末。】にあり。」この寺は「大楊山長慶寺」(おおこうやまちょうけいじ)の誤りである。現在の静岡県藤枝市下之郷(しものごう)にある臨済宗妙心寺派の寺院。ここ(グーグル・マップ)。公式サイトのここに(この解説は総てがコピー出来ないようになっているので引用出来ない)、「由緒縁起」・「今川氏」・「今川泰範」、及び、再興の功ある本文の雪齋長老=「太原崇孚」(たいげんそうふ)の解説があり、その後に「伝説」として、本話「《蛇蛻(だぜい)(へびのぬけがら)》」の現代語訳がある。この原文は出典が示されていないが、国立国会図書館デジタルコレクションの「駿河志料 第一編」(中村高平著・文久元(一八六一)年自序・昭和五(一九三〇)年靜岡鄕土硏究會刊)のここで、誰でも視認出来る。なお、この原資料は「駿河記」(全三十七巻・桑原藤泰(くわばらとうたい)編・文政元(一八一八)年成立)である(正字・古文・歴史的仮名遣)。以下、電子化しておく。読点を禁欲的に追加した。一部に《 》で私が読みを推定で附した。ポイント落ちの割注は【 】で示した。

   *

○龍門寺【發地。】今權右衛門【彥坂氏。】宅地なり、藤泰云、文化六年の秋、葉梨鄕を經歷し、長慶寺に宿り、長慶寺殿の墓所を拜せしに、五輪塔に蛇蛻懸れり、夫《それ》に付て寺僧の話に、先年一奇事ありき、予が先住一日客來り、談話の次《つい》で永祿年間尾州に於て義元戰死ありしに、遺骸を當寺の泰範の墳墓に合葬せしと云傳ふれども、寺記詳ならず、予、此寺に従事し、虛實を知ざるも本意《ほい》なし、彼《かの》五輪塔の臺石の下に墓誌あるべし、改め見んと主僧諾《だく》し、共に行て彼塔の笠石を取除け見るに、中央の丸き石柱を立《たて》、五輪を臺石に貫きてあり、此柱を二三寸も引《ひきぬき》しに、小蛇石柱に累《かかりあ》ひ、其躰《からだ》の半《なかば》出《いで》たり、鱗に五色に小點あり、金色の光あり、俄然と形ち太くなり、頭を揚《あげ》、憤怒の勢をなす、其形樣《けいやう》言葉に述《のべ》がたし、又頭《かしら》を下げ、面《おもて》を隱す、主客驚き、恐怖すれども、意を果さゞるも遺懷[やぶちゃん注:恐らく「遺憾」の誤記・誤植であろう。]なりと、再び石柱を引んと、手を下すに、小蛇以前よりも怒氣十倍し、頭躰を動搖し、兩眼血を淋《したたる》が如く、其憤怒の貌《かたち》、甚太《はなはだ》怖《おそろ》し、兩僧とも毛起踈踊《もうきそよう》[やぶちゃん注:身の毛がよだち、驚いて不規則に飛び上がること。]し、心氣駭然とし、終《つひ》に志を遂《とげ》ず、思止《おもひとどま》り、石柱を下《おろ》すに、小蛇柱と共に、穴の中に入《いり》て、姿を見ず、又、奇なるは、石柱と穴との際《きは》、纔《わづか》二三分もあるに、いかで此蛇の入しにや、不審なりと思ひ、元の如く、笠石を置き、塔所を去、寺に歸り、談話し、夕《ゆふべ》に及び、客僧は歸りぬ、又主僧は其夜半より、大熱を發し、惡寒甚しく、陰莖俄に脹《はれ》、苦痛堪がたし、因て醫を招、治療を施すに、藥力《やくりよく》更に應ぜず、出瘡《しゆつさう》益々さかんなり、兩の腿肛《ももしり》にも腫《はれ》出《いで》、後《のち》には全身悉く浮腫し、癩疾《らいしつ》の如くなりて落命せりとぞ、鬼神の威靈、嚴にして然《しか》らしむるか、小蛇の毒にふれて、然らしむるか、知るべからずと云へども、蛇の出沒くしびに[やぶちゃん注:形容動詞。「靈びなり/奇びなり」。動詞「くしぶ」の連用形から派生したもので、「不思議だ・霊妙だ」の意。]怪しき事にぞありける、藤泰[やぶちゃん注:「駿河記」の作者桑原藤泰。]又後に益頭郡《ましづのこほり》を履歷し、寳積寺《はうしやくじ》に至り、住侶《ぢゆうりよ》[やぶちゃん注:その寺に住む僧侶。「住僧」に同じ。]素白に謁《えつ》し、宿りけるが、彼《かの》長慶寺の奇談に及びしに、素白、手を拍《うつ》て、其客僧は予なり、其談話に違はず、予が若かりし時なるが、寺に歸りしに、師も他《ほか》に出《いで》られ、日も暮に及び、讀經も終《を》へ、房に入、卧時《がじ》に苦熱言べからず、故に躶体《らたい》になり、仰臥《ぎやうが》す、一睡して目覺しに、陰莖頻り痒く、堪《たへ》がたし、燭を點じ、憂ふる所を見るに、脹《はれ》甚太《はなはだ》しく、搔破《あきやぶ》れる所、水《みづ》流《ながれ》、痒痛《やうつう》頻りなり、時々惡寒發熱して、苦煩《くはん》[やぶちゃん注:わずらい。]堪がたし。醫坂氏を招き、藥を服するに、更に功徵《かうちよう》なし、時に長慶寺の住侶病症も、共に同じきを聞《きき》、こは全く廟の神靈の咎《とが》めを請《うけ》しと恐怖し、日夜誦經し、靈廟を犯せる罪を陳謝す、然るに日を追ひ、病怠り癒ゆるを得たり、其時の奇怪、今に將《はた》おそろしと云へり、其人に親見《しんけん》して聞けるまゝに記す[やぶちゃん注:以下は、底本では全体が一字下げ。]

 高平[やぶちゃん注:底本「駿河資料」の著者中村(新宮)高平。]再《ふたたび》此地に履歷せしに、住侶の話しに、此奇事は三代前の住侶の時なり、また、蛇蛻は、今に每年春秋に懸りてあり、此寺にある開基の木主《もくしゆ/ぼくしゆ》[やぶちゃん注:御霊代(みたましろ)として霊魂を祀るための木製の牌や像のこと。位牌を指すこともある。]、長慶寺殿と法謚《ほふし/おくりな》[やぶちゃん注:法名・称号に同じ。]を合刻してあり、按《あんずる》に義元の時中興ありければ、開基と共に位牌を置《おく》なるべし【此《これ》合刻なるに依《より》て合葬と惑《まど》ひ、其瑩[やぶちゃん注:「瑩」は「グリフウィキ」のこれから、「土」の右下に打たれた「﹅」を除いたものであるが、こんな異体字は存在しないので、「瑩」とした。この字は「玉(ぎょく)に似た石」の意。]を穿《うがつ》に至れるか】

   *

 さて、ここで問題になる、今川泰範の五輪塔は、太原雪齋の無縫塔(=卵塔)と並んで現存する。グーグル・マップの左パネルで、二墓の写真、及び、解説板が見られる。なお、平凡社「日本歴史地名大系」の「長慶寺」には(一部私が太字にした)、『花倉(はなぐら)川左岸の丘陵麓にある。大楊山と号し、臨済宗妙心寺派。本尊は釈迦如来。「駿河記」は開基を駿河守護今川泰範、法名長慶寺殿太山仲高大禅定門とするが、泰範の入道名は法高で、仲高は泰範の叔父仲秋の入道名である。弘治二年(一五五六)一一月二九日の今川義元判物(長慶寺文書)に「太年尼長老開基之地也、依為先祖之菩提所、先師太原和尚再興」とあり、太年尼長老が開基で雪斎太原崇孚(駿府臨済寺二世)が中興開山であった。太年尼について「駿河記」は雪斎の姉とするが』、『史料的裏づけがなく、もし太年尼が雪斎の姉であるとすると』、『当寺の創建は戦国期となり、寺伝と矛盾する』。但し、『当寺の寺名が今川泰範の法名長慶寺殿に由来することは間違いないであろう。泰範は応永一六年(一四〇九)九月二六日の死去とされ(今川記)、京都南禅寺八七世大周周の語録「三周集」に「為太山禅定門拈香長慶寺殿」が収められている。』とあった。

 因みに、今川義元は当該ウィキを見て貰うとして(ちょっと気になるのは、割注に出る「氏親二男義直」(の墓)で、義元の父氏親には、義直という子息はいない。長男氏輝の弟は彦五郎であるが、彼が「義直」を名名乗った事実はなく、しかもこの彦五郎は当該ウィキには、『当主である氏輝と同日に死亡したという異様な出来事が記録に残されているにもかかわらず、不明な点の多い人物である』とある)。ともかくも、義元の五代前の今川泰範(建武元(一三三四)年?~応永161409)年?)は当該ウィキを引いておく(注記記号はカットした)、『南北朝時代から室町時代前期にかけての武将、守護大名。室町幕府侍所頭人、駿河・遠江守護。駿河今川氏の第3代当主。今川範氏の次男』。『建長寺に僧侶(喝食』(かっしき:当時は稚児の別称となっていた)『)として出家していたが、正平20/貞治4年(1365年)に父が死去し、兄氏家も間もなく死去したため、叔父の今川貞世(了俊)の命で還俗し、家督を継ぐこととなった(従弟で了俊の子貞臣も後継者に挙がったが、却下されたといわれる)。生年は建武元年(1334年)とされるが、家督を継いだ時に30代になるため、それまで喝食のままだったのかという点から疑問が上がっている』。『天授4/永和4年(1378年)、3代将軍足利義満より侍所頭人に任じられて幕政に参与し、元中8/明徳2年(1391年)の明徳の乱で幕府軍の一員として参戦し、武功を挙げた。応永2年(1395年)6月に義満が出家すると、叔父の今川仲秋や貞臣と共に出家した』。『しかし』、『同年、九州探題を罷免された叔父了俊が遠江と駿河の半国守護に補任されたため、駿河を分割統治することとなった(遠江は仲秋と了俊が分割統治)。この年に泰範は鶴岡八幡宮や円覚寺の駿河国内の所領が押領されたことを口実に半国を取り上げられ、了俊に与えられたため、了俊が自ら所望して守護職を得た物と勘違いして恨みを抱いており、駿河半国返還を幕府に訴えた。了俊も義満の』、『この措置に不満を抱き、大内義弘や鎌倉公方足利満兼に密かに連絡を取ったとされる。この任命は今川氏の内紛を画策した義満の策略が疑われている』。『応永6年(1399年)の応永の乱でも』、『幕府軍に加わり、『今川記』には河内森口城を攻め落としたこと、大内義弘に呼応して丹波から攻め上った宮田時清の軍勢を撃破したこと、乱の終結で降参した義弘の弟大内弘茂(新介)を召し取るなどの武功を挙げたことが書かれている。翌応永7年(1400年)110日には関東管領上杉憲定に対して了俊追討令が出されたが、憲定が了俊を説得している間に』、『了俊の助命嘆願に奔走した結果』、『許され、了俊が94日に上洛して翌5日に出仕し』、『義満に詫びを入れたことで赦免された。ただし、了俊と仲秋の半国守護は取り上げられ、それらを与えられた泰範は駿河・遠江2ヶ国を領有した。これは』、『了俊が助命嘆願と引き換えにかねてからの泰範の駿河半国返還要求を受け入れた結果だった』『。応永16年(1409年)926日、76歳で死去し、後を嫡男の範政が継いだ。没年には異説も多く、『今川家略記』・『寛政重修諸家譜』・『駿河記』に元中5/嘉慶2年(1388年)624日に55歳で亡くなったという説があるが(『駿河国新風土記』は同年924日説)、応永14年(1407年)99日付の書状が最後に確認される泰範の発給文書であるため、否定されている。『今川家譜』・『今川記』は応永16926日とするが、『慶寿寺過去帳』は2日前の924日とする。亡くなった場所も諸説あり、京都または駿河とされている』とある。

「天文年中」一五三二年から一五五五年まで。室町幕府将軍は足利義晴・足利義輝。

「大龍山臨濟寺」静岡市葵区大岩町にある臨済宗妙心寺派の禅寺。ここ(グーグル・マップ)。左下方に長慶寺を配しておいた。

「隱寮」隠居した住持のための寺を言う。

「文化六年」一八〇九年。

「益頭郡寶積寺」静岡県焼津市石脇下(いしわきしも)にある宝積寺。臨済宗妙心寺派。]

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