阿部正信編揖「駿國雜志」(内/怪奇談)正規表現版・オリジナル注附 「卷之二十四下」「富士見井」
[やぶちゃん注:底本はここから。句読点を附加・変更し、段落を成形した。]
「富士見井《ふじみ の ゐ》」 志駄郡《しだのこほり》小坂村、祝融山萬松院《しゆくゆうざんばんしようゐん》【松山、曹洞、梅林院末《まつ》。】本堂の後にあり。傳云《つたへいふ》、
「當寺の靈井《れいゐ》は、水、深さ、六、七尺計《ばか》り、淸水《しみづ》にして、旱魃《かんばつ》に乾《かはか》ず。
往昔《わうじやく》、當山に於《おい》て、大日如來の像を鑄《い》、此水を以て、佛體を磨《みがき》けり。
其佛像を、富士嶽上《ふじがくじやう》に建《たつ》る、とぞ。
爾《しか》してより以來《いらい》、此《この》井底《ゐのそこ》に、富士山の影、うつれり。
或時、不淨の女子《によし》、此井を臨見《のぞきみ》る。
是より、其影、うつらず。云云。」。
里人、云《いふ》、
「富士山上《ふじさんじやう》に、空海・圓珍等《ら》が置く所の佛像、數多《あまた》あり。若《もし》くは、兩大師のうち、此山にて、作られけるか。」
≪と≫。
[やぶちゃん注:「志駄郡小坂村、祝融山萬松院【松山、曹洞、梅林院末。】」「小坂村」は調べても、旧志太郡には存在しなかった。そこで、「小坂」に近似した村名を捜したところ、「子持坂」を見出した。ここは、現在の藤枝市岡部町(おかべちょう)子持坂(こもちざか)で、グーグル・マップでは、ここであり、しかも、同地区に「萬松院」を見出せた。
さらに、「藤沢市」の「藤枝市郷土博物館・文学館」公式サイト内の、「歴史・文学・文化財 藤枝の伝説」にある「昔話」の「富士見の井戸」が詳しいので、引用する。これは、『「岡部のむかし話」(平成10年・旧岡部町教育委員会発行)より転載』である。
《引用開始》
子持坂の祝融山万松院(しゅくゆうざんばんしょういん)の第五代天桂和尚(てんけいおしょう)は本堂の裏の縁側(えんがわ)に座って今日も大日如来(だいにちにょらい)の仏像をみがいていた。仏像をみがくには縁側のそばの井戸の水を汲みあげて使った。
この仏像は、高さ七寸(約二十一センチメートル)、和尚が祈願のために自分で鋳造(ちゅうぞう)したもので、できもすばらしいものだった。みがきあげている井戸も、深さは二メートルばかりの井戸であるが、日照りの日が続いても今までに水がかれたことのない、玉のようなきれいな水の出る井戸だった。
ある日のこと、念願の日も近づいた頃
「そろそろ、仏教が広まり国が平和で人々が安心して暮らせるようにお祈りしなければ…」とつぶやいた。
静かな眠りについたその翌朝、身をきよめ朝のお経(きょう)のおつとめをすませた後、旅支度(たびじたく)も軽々としてから仏像を背負い、錫杖(しゃくじょう)(僧侶の持つ杖)を手に持って元気よく出発した。
和尚の出発してから数日たったある日、留守番の僧が和尚の身を心配しながら、ふと目を本堂のそばの井戸にやると、井戸の水の面に富士山の姿がありありとうつっていた。しかも、不思議な事だと我を疑い目をこらして見なおすと、今度は大日如来を背負って富士山を登る和尚の姿までうつっていたのである。留守番の僧は思わず座って礼拝をし井戸のふたをしながら和尚の安全を祈って無事に帰ってくるのを待った。
このことをいつしか聞いた里人は
「どうか富士山をおがませて欲しい」
と列をつくりながら頼んだ。しかし留守番の僧は固くこれを断った。かわったことを好むのは人の常、見せないとなるとよけいに見たくなるのが人情である。ある日、留守番の僧がいないのを幸いに、ある一人の婦人がこっそりと井戸に近づき、固くとじたふたをあけてみた。そうすると、富士山の姿がはっきりとあらわれて見えた。しかし富士山はたちまち消えてしまった。そうして二度と見ることができなくなってしまった。
婦人の心ない行いに富士山の姿を見れなくなった里人はとても残念がった。ただ、その語り草が残っている。
万松院にはこの井戸が今もあり、かれることなく静かに水をたたえている。
《引用終了》
これで、屋上屋をする必要は、あるまい。]
« 河原田盛美著「淸國輸出日本水產圖說」正規表現版・オリジナル電子化注 中卷(八)乾貝並貝柱の說(その1) | トップページ | 阿部正信編揖「駿國雜志」(内/怪奇談)正規表現版・オリジナル注附 「卷之二十四下」「狼携嬰兒」 »

