立原道造「詩集 優しき歌」再起動版 詩集 優しき歌 Ⅰ 鳥啼くときに (★重要な私の見解を冒頭注で述べた)
[やぶちゃん注:この再起動版に就いては、初回の冒頭注(詳細なプロジェクトの経緯及びオリジナルな特徴を述べているため、かなり長い)を見られたいが、その中の、本底本の解説・編註の引用を漫然としか読まれていない読者は、今一度、しっかりと読まれたい。而して、今回の前注は、やや長めものとなる。
さて、今まで、私は――過去にランダムに電子化注した――と述べてきたが、
★本「鳥啼くときに」は漏らしていた
のであった。それについて、私は「優しき歌 序の歌 / Ⅰ 爽やかな五月に 立原道造」(「優しき歌Ⅱ」の「序の歌」と「Ⅰ爽やかな五月に」相当。所謂、「優しき歌Ⅱ」の方は、順列で過去に電子化注済みである)の注の最後で、
*
因みに、岩波文庫版杉浦明平編「立原道造詩集」(一九八八年刊)では、この従来の「優しき歌」を「優しき歌Ⅱ」として、それに先立って、「燕の歌」・「うたふやうにゆつくりと⋯⋯」、ここに中標題「薊の花のすきな子に」を立てて、次篇以下にローマ数字を頭に打ちつつ「Ⅰ 憩らひ――薊の花のすきな子に」・「Ⅱ 虹の輪」・「Ⅲ 窓下楽」・「Ⅳ 薄明」と続き、「Ⅴ 民謡――エリザのために」(この「Ⅴ」が冒頭のクレジットなしの「民謡」と「鳥啼くときに」・「甘たるく感傷的な歌」の三篇から構成される)と続き、その後に中標題「ひとり林に⋯⋯」が立って「Ⅰ ひとり林に⋯⋯」・「Ⅱ 真冬のかたみに⋯⋯」・「浅き春に寄せて」の都合、全十二篇からなるものを「優しき歌Ⅰ」として載せている。現物の解説を読んでいないので論評は避けるが、私はこの怪しげに極めて複雑怪奇な「優しき歌Ⅰ」群の存在規定と構成を現時点では、立原道造の想起企図していたプレ「優しき歌」群として、認める気には全くならないとのみ言いおくこととする。
*
と乱暴に吐いたのであった。
私は選集詩集の解説を蔑ろにする癖がある。以上を吐いた直後に杉浦版を入手してからも、ちゃんと解説を読んでいなかったことを自白する。既に、初回の解説・編註で引用した通りであるが、正直、ダラダラと長くて、通し見に終わる読者も多かろうから、杉浦氏の二群の「優しき歌」についての簡潔明快な新発見・編集経緯・事実記載を引用する。
《引用開始》
○『優しき歌Ⅰ』風信子叢書第四篇、ソネット一二篇、初出は一九二五年から二七年まで入り混じっている。戦後『優しき歌Ⅱ』が編成されたのち、立原の遺品からこの『優しき歌Ⅰ』に収録する作品を並列したメモが出現、第三次全集委員会によって集成された。
○「優しき歌Ⅱ」角川書店から、一九四七年三月十日付『優しき歌』(飛鳥新書)として刊行。堀辰雄が小山正孝、野村英夫、中村真一郎の協力によって編集した。そのさい、中村の記憶に基づいてこの『優しき歌』が編成された。ソネット一一篇、全篇生前未発表、歿後に前六篇『四季』に掲載。使用された原稿用紙などから一九三七年初めから三八年八月ごろまでの作と推定されるし、『暁と夕の詩』に接続する詩集と考えれば、ほぼ妥当な見解としてよい。
《引用終了》
以上から、既に賢明な読者であれば、既知の当たり前のことであろうが、「優しき歌」の「Ⅱ」は、道造が亡くなってから八年後の昭和二二(一九四七)年になって、読者に知られたものであり、「Ⅰ」に至っては、本底本の角川書店「立原道造全集」の「第一卷 詩集Ⅰ」が刊行された昭和四六(一九七一)年六月、実に、死後三十二年になって初めて、読者が目にした詩群であったのであった。私の立原道造の初体験は、明確には憶えていないが、自由律俳句の「層雲」に加わった中学二年生(昭和四五(一九七〇)年)頃以降の後のことであろうと記憶する。実際に彼の詩集を纏めて読んだのは、高校生になってからであり、所持する最も古いものが、新潮社『日本詩人全集28』の「伊東静雄 立原道造 丸山 薰」で昭和五二(一九七七)年刊だから、既に大学三年、次ぐのは、角川文庫刊中村真一郎編「立原道造詩集」は昭和六一(一九八六)年改版三十版であるから、これは、高校教師となって七年後、二十七歳であった。但し、私はそれよりも前、教員になってすぐに、「草に寢て⋯⋯」を教授しており(一般に高校国語教師は詩の授業は大半が苦手であり、「あんなものは一切やらない」と豪語する奴らがゴマンといた)、正直、この詩に激しいシンパシィを受け、三度以上、後に教え子の結婚式で失恋の詩であるのに、確信犯で朗読したものだったから、私が真正の道造フリークとなったのは、二十代の初め、一九八〇年代初期である。されば、私が、この「優しき歌Ⅰ」を通読したのは、この世に出てより、十年以上あと、下手をすると、それより後、へたをすると、四十代前半、学校図書館で垣間見したことになろうかと思う。何故かと言えば、同新全集を持っていた勤務校が極めて限られるからであり、以上の私の過去の乱暴な注の批判的謂いから、味読した訳でもなく、寧ろ、その「優しき歌Ⅰ」全体の詩群構成全体に強い違和感を持っていた、と推定されるからである。
而して、私は、今、現在も、「優しき歌Ⅰ」には違和感を覚えている。それは、それぞれの詩篇のレベルが低いというのでは、ない。要は、
★それらの相応に異なった心理的時間空間の中で形成された複数の詩篇を――そのような「群」としての連詩とする確信犯としての意志が――各詩篇の作詩当時にしっかりと構想としてあったとは思えない
からである。
長々とお附き合い有難く存ずる。果して、「優しき歌Ⅰ」群に、そうした全体としての躓きのない総譜の曲たり足り得ているか? という大問題は、最後に、予定通り、改めて全詩を並べて見て、判断をすることとする。
今回の底本は、国立国会図書館デジタルコレクションの「立原道造全集 第一卷 詩集I」(一九七一年角川書店刊)を用いる。総標題ページはここで『優しき歌 I 風信子叢書 第四篇』(下方の二つの附属表記は底本ではポイント落ち。「風信子」は「ヒアシンス」と読む)とあり、本篇はここで、編註はここである。それに拠れば、『「未成年」第6号 昭和11年5月号(5月1日刊)』とあり、さらに、『*初出は物語「ちひさき花の歌」(Ⅳ)の「ひとつのソネツト」。』とある。私は道造の「物語」物は電子化していないので、同全集で当該部を示す。ここ。確認した。全く同じである。また、『*式子内親王歌「ほととぎすそのかみ山の旅枕ほのかたらひし空ぞわすれぬ」『新古今和歌集』(岩波文庫)の「雑歌上」第一四八四番。』とあり、さらに、『*Nachdichtung (独)詩文の改作の意。』とある。この“Nachdichtung”は音写すると、「ナーハ・ディヒトゥング」で、辞書を見ると、「(文芸作品の自由な)翻案」とあった。和歌の私の注は、後注でする。]
鳥啼くときに
式子內親王《ほととぎすそのかみやまの》による Nachdichtung
ある日 小鳥をきいたとき
私の胸は ときめいた
耳をひたした沈默(しじま)のなかに
なんと優しい笑ひ聲だ!
にほひのままの 花のいろ
飛び行く雲の ながれかた
指さし 目で追ひ――心なく
草のあひだに 憩(やす)んでゐた
思ひきりうつとりとして 羽虫の
うなりに耳傾けた 小さい弓を描いて
その歌もやつぱりあの空に消えて行く
消えて行く 雲 消えて行く おそれ
若さの扉はひらいてゐた 靑い靑い
空のいろ 日にかがやいた!
[やぶちゃん注:「式子內親王《ほととぎすそのかみやまの》」注では『第一四八四番』とするが、「新編国歌大観」では『1486』番に変更されているので注意されたい。式子内親王(しよくし(しょくし)/しきし《のりこ》ないしんのう 久安五(一一四九)年~建仁元(一二〇一)年)は後白河天皇の第三皇女。母は藤原成子(しげこ:藤原季成の娘)、守覚法親王・亮子内親王(殷富門院)・高倉宮以仁王(もちひとおう)は同母兄弟。高倉天皇は異母弟。詳しくは、参照した当該ウィキを見られたい。和歌は、新日本古典文学大系11「新古今和歌集」(田中裕・赤瀬信吾校注/一九九二年刊)に拠った。「卷第十六 雜歌上」の一首。漢字表記は正字に代え、読みは一部で私が添え、上句と下句を分離した。
*
いつきの昔を思ひ出でて 式子內親王
ほとゝぎすそのかみ山の旅枕(たびまくら)
ほのかたらひし空(そら)ぞ忘(わす)れぬ
*
訳を引用する。『郭公よ。その昔賀茂山で旅寝した折のこと、お前がほのかに語りかけてきた、あの空のけしきを今も忘れない。』。語注も一部をカットして示す。西暦は半角であるが、全角で示した。
・「いつきの宮」『斎宮』(いつきのみや)『・斎院(さいいん)を「いつきの宮」』『という。ここは斎院であった当時。平治元年(一一五九)十月から嘉応元年(一一六九)七月病気で退下』(たいげ)『するまでの間。』。
・「そのかみ山」『その昔の意と「其神山(賀茂山)」(上賀茂神社の北北西にある標高三百一メートルの御神体の山である神山(こうやま)。ここ(「垂迹石(すいじゃくいし)」をポイントした。グーグル・マップ・データ))と掛詞。』。
・「旅枕」『賀茂祭の当日、神館』(かんだち:見よ注の示す「182」歌の注を引くと、『神職が参籠してして潔斎する殿舎。ここは賀茂の祭(四月中の酉)の当夜、斎院が一泊する上社の神館。』とある)『に一泊したこと。』。
・「かたらひ」『睦まじく話す。郭公の鳴き声をいう慣用語。』。
・最後に『参考』があり、「源氏物語」の「花散里」の帖から、
*
をち返りえぞ忍ばれぬ郭公
かたらひし宿の垣根に
*
を引いてある。サイト「源氏物語の世界 再編集版」の「花散里」の当該部のガイド・ナンバー「1.2.3」を見られたい。現代語訳附きである。
「羽虫」の「虫」はママ。道造は「蟲」の字を特に嫌う傾向はないようで(嫌う近代作家作家は芥川龍之介を始めとして、結構、多い)、他では、「蟲」の字を用いており、混用している。]
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