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2026/05/27

阿部正信編揖「駿國雜志」(内/怪奇談)正規表現版・オリジナル注附 「卷之二十四下」「狼携嬰兒」

[やぶちゃん注:底本はここから。句読点を附加・変更し、やや長めなので、段落を成形した。欠字の「□□」は底本では長方形。]

 

 「狼携嬰兒《おほかみ えいじを たづさふ》」 志駄郡《しだのこほり》假宿村《かりやどむら》にあり。傳云《つたへいふ》、

「延喜年中、堤中納言兼輔卿《つつみちゆうなごんかねすけきやう》と申《まうす》公卿、おはしけり。「和歌神壽錄」を論ぜられし罪に依《より》て、當國に左遷し給ひ、朝比奈川《あさひながは》の邊《ほとり》、松山の麓《ふもと》に假住《かりずまひ》せらる。

 歲來《としごろ》、此卿、一子《いつし》なき事を憂ひて、八幡宮に祈誓し玉ふ事、切《せつ》也。

 通夜滿願《つうやまんぐわん》の日、皈路《きろ》[やぶちゃん注:「歸路」に同じ。]に、坂を過ぐ。

 時に、狼獸《らうじゆう》、錦《にしき》の衣《ころも》にまとへる赤兒《あかご》を、くはへ來《きたり》て、此卿の前に置《おき》、去る。

 卿、是を見るに、肩に狼齒《らうし》の跡あり。

「奇《き》。」

として、館《やかた》に養育し玉ふ。

 後、歸京の時、此兒《このこ》を、朝比奈の鄕《さと》に殘し止《とどめ》らる。

 成長して、

「吉泰《よしやす》。」

と號し、武勇俊傑の人也。

 彼《かれ》、狼《おほかみ》を祭《まつり》て、

「內宮權現《うちみやごんげん》。」

と崇《あが》め祭り、或《あるい》は、

「狼明神《おほかみみやうじん》。」

と號す。

 今、□□山萬福寺【時宗。】の境內にある處の「狼明神」、是也《これなり》。云云《うんぬん》。」。

 或云《あるいはいふ》、

「『吉泰』を『朝比奈備中守某《なにがし》の事』とし、『岡部權頭《ごんのかみ》泰綱の事』。」

とす。

 共に詳《つまびらか》ならず。

 里人云《いふ》、

「文曆《ぶんりやく》年中、兼輔卿の男《をのこ》、公國《きんくに》、當國に下向して、爰《ここ》に住する時、此事、あり。兼輔卿とするは、非也。又、當村萬福寺にある處の、『兼輔卿の古墳』と稱する五輸の石塔も、疑《うたがふ》らくは、公國の墳か、又は、岡部家の古墳ならん。云云。」。

 今、府中傳馬町金剛山法泰寺【濟家《ざいか》[やぶちゃん注:「臨済宗の寺」の意]。】に、『岡部家來由《らいゆ》の記あり。』と。此《この》記錄を閱《み》ば、必《かならず》、是非を分《わか》つべし。

 又、云《いふ》、

「當郡《たうこほり》、『朝比奈《あさひな》の谷《たに》』は、殿村《とのむら》に屬せり。爰《ここ》に、世々《よよ》、朝比奈三郞右衞門某《あさひなさぶらうゑもんなにがし》と云《いふ》農夫あり。自稱して、『朝比奈三郞義秀の後胤《こういん》也。』とす。家督の男子は、必《かならず》、脊《せ》に、犬の齒跡《はあと》、三《みつつ》あり。云云。」。

 

[やぶちゃん注:「志駄郡假宿村」藤枝市仮宿(かりやど:グーグル・マップ・データ)。

「延喜年中」平安中期の九〇一年から九二三年まで。醍醐天皇の治世。

「堤中納言兼輔卿」藤原兼輔(元慶元(八七七)年~承平三(九三三)年)は平安前・中期の歌人。「三十六歌仙」の一人。歌人清正(きよただ)の父で、紫式部の曾祖父。従三位中納言まで進み、その邸宅が賀茂川堤にあったので「堤中納言」と称された。藤原定方(さだかた)などとともに、紀貫之・凡河内躬恒などの専門歌人の後援者であった。家集に「兼輔集」があり、「聖徳太子伝暦」の著作もある(主文は、ほぼ、小学館「日本国語大辞典」に拠った)。

「和歌神壽錄」不詳。ネットでは、この書名では掛かってこない。国立国会図書館デジタルコレクションで検索しても、この伝承、及び、類似する奇談にのみ語られているのみである。従って、この時点で、この話は信が措けない架空の話であることが判る。そもそも、堤中納言藤原兼輔が訳の分からぬ「和歌神壽錄」を批判して左遷されたという事実自体が、史料には全く見出せないのである。最も判り易く、読み易い(視認することが容易である)現代の解説を捜したところ、国立国会図書館デジタルコレクションの「島田市史 上巻」(島田市史編纂委員会編・出版/島田市・一九七八年刊)の「第四章 頼朝と島田」の「第一節 駿河武士の系譜――武士の発生とその発達」の「⑵ 地歩武士の系譜」のここ341ページ後ろから七行目以降)がよい。そこでは、『岡部付近には堤中納言兼輔の末裔だと伝える朝比奈氏もいた』と前置きし、まさに、ここで語られる話が現代語訳で記されている(同ページ最終行から次のコマにかけて)。その342ページ後ろから四行で、史実でないことを語り出し、『厳密には中央貴族の御落胤の土着伝承というべきものであろう』として、以下、具体に批判してある。引用する(執筆担当が具体に明記されていないので、巻末の委員の一覧をリンクしておく)。

   《引用開始》

 しかもこの伝説の中にはいろいろ矛盾がある。例えば堤中納言が子どもを欲しがり、八幡宮に願をかけてその満願の日に狼が子どもを連れて来たという点である。それはまさしく堤中納言の現地妻の子どもを正当化し神秘化するために造られものであろう。また中納言が京都に帰ってもこの地に置いて行った子の吉泰に二人の子供どもがあり、一人が朝比奈氏の祖となり、今一人は岡部氏の祖となったというのも、本来は矛盾に満ちていた。すなわち堤中納言の系譜は藤原氏四流中北家に属し、尾鍋氏は南家に属するものであるから、そこには作為があることは明らかであった。また最も重要な矛盾はされてこの地に来たという事である。このような事実は信じられなく、もしそれがあったとすれば兼輔の六代目の孫に公俊があり、この公俊の子公国が天暦年中に駿河守いなっていて、公国と現地妻との間に生まれた国俊が、父と京都に帰ることをせず、そのまま朝比奈郷に土着し、朝比奈の祖となったものだと考えることが正しいように思われる。つまり堤中納言兼輔の六代の孫公国の落胤が土着し武士化して、朝比奈氏の祖となるという事実が、堤中納言を主人公とした伝説に語りかえられていたものなのである。

   《引用終了》

これで十分であろう。

「朝比奈川の邊、松山の麓」仮宿の地図を拡大すると、現在も朝比奈川の右岸であることが判る。「松山」という山は見当たらないが、これを固有名詞ではない、「松の生えたる山」の「麓」に「假宿(かりやど)」をお建てになった、それが、後に村の名「假宿」となったとすれば、極めて納得出来る。「ひなたGISの戦前の地図を見ると、「假宿」の村名の南西直近には、標高二百三メートルの「潮山」があり、朝比奈川を隔てた北側直近には、無名のピーク(177.8メートル)があり、そのピークの南西麓の地名には、「子持坂」とあるのである! 因みに、右の現在の国土地理院図では、地区名として、まさに岡部氏を残しつつ、何んと、ちゃんと「岡部町子持坂」の名が、その山の南西麓に記されているのである!

「八幡宮」前の引用の部分の上には、『岡部の若宮八幡神社』というキャプションを添えて、写真がある。即ち、この「八幡宮」というのは、先の引用書では、仮宿地区の朝比奈川を挟んだ対岸の岡部町にある、直近の「岡部若宮八幡宮」(グーグル・マップ)であった指定しているのである。おまけに、ここまで拡大して見ると、実は、この借宿地区には、「おしゃもっつぁん(岡部氏居館跡)」(同前)があることが判るのである! いや! この神社、公式には全く記していないものの、複数の個人の記事では、この神社には、狼信仰がある、或いは、あったのではないか? というニュアンスの記載があったことを添えておく。

「朝比奈の鄕」「ひなたGISの戦前の地図を見ると、「假宿」から朝比奈川を遡上すると、山間部に広大な「朝比奈村」が確認出来る。中古の「朝比奈鄕」は、この朝比奈川の流れる南北の広大な郷名であったことが知れるといってよいだろう。

「內宮權現《うちみやごんげん》」この読みは、朝廷・神社の「ないぐう」を避けて、かく、私が読んだものである。

「□□山萬福寺【時宗。】の境內にある處の「狼明神」、是也《これなり》。」不詳。藤枝市水上(みずかみ)に萬福寺(グーグル・マップ)があるが、ここの宗旨は曹洞宗であり、時宗から宗旨替えする可能性は低いように思われるので、違うだろう。なお、藤枝市藤枝三丁目にある真言宗の鬼岩寺は、今まで本書で、数回、登場しているが、この境内には、黒犬神社があり、狼の血を引く神犬を祀っている。

「朝比奈備中守某」戦国武将で今川氏の重臣にして、遠江国掛川城主であった、朝比奈備中守泰能(やすよし 明応六(一四九七)年~弘治三(一五五七)年(病死とされるが、異伝あり))か。当該ウィキに拠れば(注記記号はカットした)、『、朝比奈泰煕の子として誕生。永正9年(1512年)、父の死去により家督を継ぐが、若年のため』、『叔父・朝比奈泰以の後見を受ける。永正15年(1518年)6月、寿桂尼の兄・中御門宣秀の娘を娶ることで主君・今川氏の姻戚となった』。『泰能は氏親、氏輝、義元の今川氏3代に渡って仕えた宿老であり、大永6年(1526年)に制定された「今川仮名目録」には、三浦氏満と並ぶ重臣として記され、今川氏における外交文書などでは、太原雪斎と共に名を連ねている』。『遠江の要衝・掛川城を居城として今川義元の西方(遠江・三河)への戦略を常に助ける働きを示すが、その一環として分家の泰長・元智の兄弟などに浜名湖西岸の宇津山城を託している。自らも天文17年(1548年)の小豆坂の戦いでは、総大将の太原雪斎を補佐する副将として出陣した』。『天文18年(1549年)には、岡崎城主・松平広忠が横死すると、岡崎城接収の任にも当たっている』。『なお、永禄3年(1560年)の桶狭間の戦いで尾張国鷲津砦を攻撃した将の名が「朝比奈泰能」となっている史料もあるが、実際は後を継いだ嫡子・泰朝のことで、親子を誤ったものと見られているが、一説に雪斎に続く重臣の死に』、『今川軍が動揺する事を恐れて3年間、喪を伏していた可能性がある』。『雪斎に続く補佐役であった泰能の死は義元にとって痛手であった。義元が桶狭間の戦いで織田信長に敗れて討ち死にするのは』、『この3年後である』。但し、『別伝』として、『一説に』、『泰能は通称を弥太郎といい、武田信玄による駿府占領まで存命であったという。泰能は急追する武田軍に突入して』、『主君氏真や城中の女房衆の脱出の時間を稼ぎ、自らは市中で自害したとする。その墓が死没の地とする静岡市の大正寺に残る。或いは同族の誰かと伝承が混同したものか。』とある。

「岡部權頭泰綱」当該ウィキに拠れば、『生没年不詳』で、『平安時代末期から鎌倉時代初期の武将。藤原南家工藤氏の流れを組む入江清綱の子』。『泰綱は駿河武士の中心人物であったとされ、父清綱の代に岡辺権守となり、泰綱の時に岡部氏を称した。鎌倉時代に駿河国志太郡岡部郷(現在の静岡県藤枝市岡部町)の地頭になり、鎌倉幕府との結びつきが強くなったという。子孫に岡部元信や岡部正綱らがいる』とある。

「文曆年中」一二三四年から一二三五年まで。鎌倉幕府将軍は藤原頼経で、執権は北条泰時。

「兼輔卿の男、公國」この「男」は以上の年号から判る通り、兼輔の男子ではなく、第八代の長男であった刑部大輔雅正の系統の男子。当該ウィキに拠れば(注記記号はカットした)、『堤 公国(つつみ きんくに、生没年不詳)は、平安時代の貴族』。『駿河国の朝比奈氏・岡部氏の祖とされる』。『『家譜類』などによると、「藤原鎌足七代の孫堤中納言兼輔の末裔である堤公国が、駿河国司として在国中(赴任中)に二人の男子をもうけた。長子の国俊は朝比奈郷に居住して朝比奈氏の祖となり、末子の公俊は岡部郷に居住して岡部氏の祖となった」と記されている』とある。

「當村萬福寺にある處の、『兼輔卿の古墳』と稱する五輸の石塔も、疑《うたがふ》らくは、公國の墳か、又は、岡部家の古墳ならん」この言い方から、不詳の「萬福寺」は仮宿村にあったことになる。

「府中傳馬町金剛山法泰寺【濟家。】」現在の静岡市葵区伝馬町(てんまちょう)にある臨済宗金剛山(こんごうさん)泰寺(ほうたいじ)の誤りである。当該ウィキを見たところ、先に出た「岡部權頭泰綱」の子孫で、最終的に家康の家臣となった岡部正綱の墓がある

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