阿部正信編揖「駿國雜志」(内/怪奇談)正規表現版・オリジナル注附 「卷之二十四下」「舟幽靈」
[やぶちゃん注:底本はここから。句読点・記号を附加・変更し、段落を成形した。]
「舟幽靈《ふないうれい》」 益頭郡《ましづのこほり》城の腰村《じやうのこしむら》、及び、燒津村等《など》の海に、あり。傳云《つたへいふ》、
「每年、七月十五、十六兩日《りやうじつ》の夜《よ》、深更に及《および》て、海上に、人の悲しむ聲、あり、更に、其所《そのところ》を定めず。
或《あるい》は、朦朧《もうろう》たる沖に、忽ち、數十《すじふ》の白帆《しらほ》を顯《あらは》して、徃來《ゆきき》す。
里人《さとびと》、是を『舟幽靈』と號《なづ》く。
凡《およそ》、此《この》兩日《りやうじつ》は、漁父《ぎよふ》、かたく、舟を出《だ》す事を禁じて、獵《れう》をなさず。云云《うんぬん》。」。
是《これ》、亡者《まうじや》の執念《しふねん》、消滅せずして、此怪をなせるが故に、獵事《りやうじ》を、とどめて、追福《ついぶく》に備《そなふ》るの心底《しんてい》成《なる》べし。
[やぶちゃん注:「城の腰村」平凡社「日本歴史地名大系」に拠れば、現在の『焼津市城之腰』(じょうのこし)で、『北新田(きたしんでん)村の南に位置し、益津(ましづ)郡に属する。西は堀(ほり)川(黒石川)を境に焼津村、東は駿河湾に臨み、焼津湊がある。』とある。グーグル・マップのここである。この村名の名乗りの意味に疑問があったので調べたところ、「焼津市」公式サイトの「焼津市の歴史・文化」「昔話」の中の「鰯ヶ島の御殿屋敷」(「鰯ヶ島」は「いわしがしま」と読み、現在、海岸沿いの地名であり、現在の城之腰に、南で接する海浜である(グーグル・マップのここ)。但し、過去に島であった事実はない。但し、島があったという伝承はあるようである)に以下のようにあった(行空けはカットした)。
《引用開始》
鰯ケ島に、今でも近所の人々から御殿とよばれている場所があります。そこには昔、御殿屋敷があったと言われています。
その場所は、鰯ケ島から城之腰の札の辻の小路にかけての、海がわのあたりです。
このあたりは、他の場所より、1メートルから1.5メートルくらい高くなっています。屋敷の一部は、今では、海の中にしずんでいるそうですから、その広さは見当もつきませんが、かなりの広さだったのでしょう。
なぜ御殿屋敷とよばれるようになったのでしょうか。
江戸時代に作られた本で、駿河の国(今の静岡県)のことが書かれている「駿河記」や「駿河雑誌」の文の中に、「将軍が京都へ上るとき、田中城が将軍のお休み所になる。そのため、田中城の城主は、鰯ケ島のうら畑の、松の大木のある所に仮の館を作り、そこに移って浜の警護をした」と書いてあります。
この館のことを、人々は「御殿屋敷」とよぶようになったということです。また、札の辻の小路に、「二門小路」と今でも呼ばれているところがあり、館の二の門だったとも考えられますが、たしかなことはわかりません。
もう一つ、こんな言い伝えが残っています。
大坂夏の陣に敗れた大坂方の武士三人が、この地にやって来ました。三人は、ここに住みつき、海岸の松のある付近に畑を作り、農作物を作ったり、漁師の手つだいをしたりして生活していました。
ところが、三人のうち二人が、きびしい労働と心配ごとがかさなったためか、つづいてなくなりました。残った一人は、悲しみにくれていましたが、近所の人の世話で、近くの漁師のむすめと結婚しました。
二人は一生けんめい働いて、このあたりでは見たこともないような、京都風の家を建ててくらしました。この家があまりにもりっぱであったので、人々は、「御殿のようだ」、「御殿屋敷だ」というようになったということです。
この二人には、子どもがなかったため、二人がなくなると、あとが絶えてしまったそうです。
《引用終了》
これを読むに、ずっと昔は、やや高いここに、満潮時に海水が左右から回り込んで、浅い水路或いは潟が出現し、島のように見えたからとすれば、「鰯島」は納得出来るのである。而して、そこに北で並ぶ「城之腰」も、以上に、『鰯ケ島から城之腰の札の辻の小路にかけての、海がわのあたりで』(☜「!」☞)『このあたりは、他の場所より、1メートルから1.5メートルくらい高くなってい』るからして、人間の「腰」のように、「周囲より一段高くなっている斜面や山裾・段丘の端」であり、即ち、これは、規模のごく小さい「土塁」、原始的な天然のプチ「城砦」のようであると言える。さればこそ、「城の腰」という名を負うて、なんら、不自然ではないのである。
「燒津村」同前に拠れば、現在の『焼津市焼津一―六丁目・本町(ほんまち)二―六丁目・小川新町(こがわしんまち)一丁目・焼津』が相当する。『小石(こいし)川河口の南に位置し、益津(ましづ)郡に属する。古代の焼遣(やきづ)・焼津(やいつ)の遺称地とされ、中世には焼津(やいづ)郷とよばれた。村内に式内社焼津(やいづ)神社があり、集落は同社の北と東に形成された。』とある。
「舟幽靈」これに就いては、私の過去の電子化注で、非常に多くある。中でも、内容が豊富であるもの、文芸性の強いものをチョイスして、以下に掲げておくので(古い記事順)、見られたい。これらは、古いものも、既に正字化不全を直してある。
「古今百物語評判卷之四 第九 舟幽靈附丹波の姥が火、津國仁光坊事」
『小泉八雲 化け物の歌 「七 フナユウレイ」 (大谷正信譯)』
最後のものは、最初に掲げたものと同一作者のものであるが、テッテ的に注を増してあり、多くの私の舟幽霊関連の記事のリンクも添えてあるので、或る意味では、最も使い勝手が良いと言える。]
« 阿部正信編揖「駿國雜志」(内/怪奇談)正規表現版・オリジナル注附 「卷之二十四下」「めやかし」 | トップページ | 阿部正信編揖「駿國雜志」(内/怪奇談)正規表現版・オリジナル注附 「卷之二十四下」「楓樹の奇火」 »

