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2026/06/08

阿部正信編揖「駿國雜志」(内/怪奇談)正規表現版・オリジナル注附 「卷之二十四下」「觀音奇瑞」

[やぶちゃん注:底本はここから。句読点・記号を附加・変更し、段落を成形した。□□は底本では長方形。]

 

 「觀音奇瑞」 益頭郡《ましづのこほり》郡村《こほりむら》にあり。傳云《つたへいふ》、

「當村、邑岡山滿願寺《むらをかさんまんぐわんじ》【眞言、三寶院末、修驗。】「觀音緣起」云《いはく》、

『徃昔《わうじやく》、應安年中、當目浦《たうめうら》の海中《かいちゆう》より、夜々《よよ》、當山《たうさん》に、光明、輝きけり。

 當國の郡司、一色左衞門尉某《いつしきさゑもんのじゃうなにがし》、小船《こぶね》に棹さし、是を尋《たづぬ》るに、はたして、岩上《がんじやう》に尊像あり。

 當山の別當元海法印に告《つげ》て、村岡山に移し、郡司、此由を將軍義滿公に訴ふ。

 卽、佛供田《ぶくでん》を玉《たま》ふ。

 抑《そも》、此聖觀音《しやうくわんおん》は、相州鎌倉村岡鄕《をかがう》、□□山杉本寺《すぎもと

》□に安置する所也。

 然《しか》るに、北條一亂の時、粧坂《けはひざか》に、火《くわ》、かゝり、五十餘か所、炎燒す。

 像、炎中より、滑川《なめりかは》の水中に飛入《とびいり》、終《つひ》に、此浦の巖上に止《とま》りたり。

 今、當目の沖に、「觀音岩《くわんおんいは》」と唱《となふ》る巨巖《きよがん》あり。

 是、其遺跡也。

 抑《そもそも》、此尊像は、弘法大師一刀三禮の正作《せいさく》にして、靈現、最《もつとも》、多し。云云。』。

 寬永年中、田中城主水野監物忠善《みづのけんもつただよし》、靈驗《れいげん》を蒙《かうむ》り、寺堂再建、近歲《きんさい》、囘祿《くわいろく》、已後《いご》、廢《はい》せり。』。

 

[やぶちゃん注:「邑岡山滿願寺」文末にある通り、現存しないが、幸いにして、グーグル・マップに「村岡山 満願寺(跡)」がある。静岡県藤枝市郡の田中城跡の西南西の直近である。解説板が、左パネルのここで、写真で視認出来るので、以下に字起こしをしておく。ポイント違いは再現していないが、御詠歌等の字配等は、ほぼそのままで示した。

   *

 村 岡 山 満 願 寺

  駿河三十三観音

  札所 第六番 天台宗「村岡山 満願寺」

  御本尊 聖観音

 皆人の心の雲は 晴るるなり

     村岡山の 慈悲の光りに

 右は駿河一国三十三ケ所 観音霊場巡り案内による。

 満願寺の聖観音像は、弘法大師作といわれ、鎌倉の、村岡の郷に安置されていました。

 今から六百五十年前、新田義貞が鎌倉を攻め北条高時を亡ぼしましたが、その時の戦でたくさんの神社仏閣は戦火のため灰塵に帰したのです。

 聖観音の安置された、村岡郷の某山杉山寺もその時の戦火に合い、焼かれたのです。

 その時、尊像を持ち出した者がありましたが、誤って滑川へ落としてしまったのです。尊像は海に流れ、年経て焼津当目の浜の巨岩(この岩を観音岩という)の上にたどりつき、毎夜光を放っていました。

 時の郡司、一色佐衛門尉は、小舟を出して像を拾い上げたのです。

 そしてこの事を、大政[やぶちゃん注:「太政」の誤記。]大臣源義満に報告しました。

 義満は、尊像を安置する一宇を建立させ、供田を寄付されました。

 その後、永録[やぶちゃん注:「永禄」の誤記。]年間、武田方、馬場美濃の守が、田中城を建築し、後、山県三郎兵工[やぶちゃん注:甲斐武田氏家臣・譜代家老衆。後代、所謂、「武田四天王」の一人に数えられる山県三郎兵衛尉昌景(やまがたさぶろうひょうえのじょうまさかげ)の乱暴な略記載。当該人物のウィキを見よ。]の居城となりましたが、間もなく武田氏は亡び、徳川方の世となりました。

 その様な時代の移り替りの中で、城主は代々当観世音を、城の守護安鎮の祈願寺として尊崇し、堂宇の修繕は勿論、祈祷料の他、米数十俵をたまわっていたのです。

 明治初年に至って、国主は国替となり、ついで廃藩置県の制によって、祈禱料は止み、供田もとりあげられ、堂宇維持にも困難し、大破のままでした。明治三十三年八月、有志の補助を得て修繕が施されたのです。

 今では、駿河三十三観音札所として、広く参拝者を迎えています。(西益津村史並びに藤井誠氏資料による)

   *

「藤枝市観光ガイド『満願寺』」に拠れば、『明治以降は地元民により守られてきたが、老朽化により』、『お堂は取り壊されている』とある。

「應安年中」一六四八年から一六五二年まで。徳川家光・徳川家綱の治世。

「當目浦の海中」現在の焼津市浜当目にある「浜当目(はまとうめ)海水浴場」の沖附近であろう。グーグル・マップで示したのは、右中央に「浜当目海水浴場」を、左中央に「村岡山 満願寺(跡)」を配してある。海岸から少し離れた所から計測すると、直線で約七キロメートルは離れているから、観音の発光量は、かなり強いものであったことが判る。

「一色左衞門尉某」『藤枝市史だより』第二十三号(平成二三(二〇一一)年十一月十日発行・PDF)の巻頭記事「徳一色城について」(中世担当調査委員で県立島田商業高等学校教諭の小川隆司氏の記事)に、この人物に言及されている部分があるので、冒頭から中間部まで引用させて戴く。

   《引用開始》

 田中城は今川氏の代に築城され、当初は徳一色城と呼ばれていました。その名称が確認できる唯一の文書史料は、武田信玄が高山大和守(やまとのかみ)に宛てた元亀元年二五七〇)二月二十二日付けの書状で、「徳一色落居(らっきょ)」と記されています(『藤枝市史』資料編2四一〇号)。徳一色城に関する具体的な史料はなく、江戸時代に編さんされた地誌にわずかな記事がみえるだけです。

 それらによれば、徳(戸久) 一色城は益頭郡の郡司一色左衛門尉信茂が築き、今川義元の代には由比美濃守が守り、由比が桶狭間合戦で戦死した後は、長谷川次郎右衛門尉正長(じろううえもんのじょうまさなが)が守将になったと記されています。

 一色左衛門尉信茂についても史料はありませんが、『駿河記』には、益頭の郡司一色左衛門尉が、応安年中(一三七〇年頃)に遠目(とおめ)浦(焼津市浜当目)の岩山で観音像を発見して村岡山満願寺(まんがんじ)に移し、将軍足利義満に報じて仏供田を(ぶつくでん)寄進したとする、村岡山満願寺観音堂縁起の伝承が記されています。

 一色氏は足利氏の一族で、若狭(わかさ)・三河(みかわ)・丹後(たんご)の守護や幕府の侍所頭人(さむらいどころとうんびん)を務めました。

 寛政重修諸家譜(かんせいちょうしゆうしょかふ)』所収の一色系図には庶流となる範房(のりふさ)の系統に、「次郎左衛門尉」を称する詮定(あきさだ)と、その兄満氏(みつうじ)の子で「左衛門尉」を称する満重(みつしげ)の名がみえます。満氏には「義満より諱(いみな)の字を授けられ」との記載があるので詮定と満氏は足利義満の頃の人物と考えによいでしょう。

 このように一色氏の一族に官途名(かんとめい)「左衛門尉」を称する人物がいたことは確認できますが、一色左衛門尉信茂がこれらの系譜とどう関係するかわかりません。

   《引用終了》

「別當元海法印」村岡山満願寺は、応安年間(一三六六〜一三七四年)に元海法印(げんかいほういん)が開山していると伝えられている。

「佛供田」支配する有力者・大名など寺の外部の帰依・保護者が、仏に米を供えるために寄進した田畑を指す。

「此聖觀音は、相州鎌倉村岡鄕、□□山杉本寺□に安置する所也。然るに⋯⋯」現在の杉本寺は大蔵山(だいぞうさん)観音院杉本寺(すぎもとでら)と号している。ここ(グーグル・マップ)である。この寺は、頼朝入府以前から鎌倉にあった数少ない社寺の一つで、鎌倉最古の霊場とされている。鎌倉では、私は十代の終りから、鎌倉史研究を永らくしており、私の好きな寺の一つで、三十回以上は訪れている。公式サイトの「略縁起」には、『当山は天平(てんぴょう)6年(734年)聖武天皇の后である光明皇后の御願により、藤原房前(ふじわらのふささき)、行基菩薩(ぎょうきぼさつ)によって建立されました。御本尊は天平6年(734年)行基菩薩御作(ぎょうきぼさつおんさく)、仁寿元年(851年)慈覚大師円仁御作(じかくだいしえんにんおんさく)、寛和(かんわ)2年(986年)恵心僧都源信御作(えしんそうずげんしんおんさく)の三体の十一面観音様です。』とあるものの、諸研究書では、歴史的な経緯や開山時期に就いてには、実は、よく判っていない。「吾妻鑑」では、杉本寺では出ず、『大倉觀音堂』の名で記されてある。私の記載は、サイト内の「心朽窩旧館」内の「新編鎌倉志」や「鎌倉攬勝考」のものが、最も詳しいが、リンクを示すのが面倒なので、手っ取り早く読める判り易い記事として、「『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江の島名所圖會」  杉本觀音堂」を挙げておくに留める。但し、ここに出る、鎌倉幕府滅亡時の戦火により、聖観音が、能動的に滑川に飛び入り、直線でも百二十キロメートルも離れた場所に出現したという霊異譚は、知らなかった。私には、凡そ、実話とは思われない。

『今、當目の沖に、「觀音岩」と唱る巨巖あり』ここは、グーグル・マップ航空写真のここの、「神の岩」に比定されている。

「田中城主水野監物忠善」(慶長一七(一六一二)年~延宝四(一六七六)年)は当該ウィキに拠れば、『江戸時代前期の大名。水野忠元の長男。下総山川藩(茨城県結城市)の第2代藩主、のちに駿河田中藩(静岡県藤枝市)、三河吉田藩(愛知県豊橋市)主。三河岡崎藩(愛知県岡崎市付近)初代藩主。忠元系水野家2代。官位は従五位下・大監物』とある。最後に、「田中城」の当該ウィキをリンクしておこう。]

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