幼い頃の記憶 泉鏡花 正規表現版 オリジナル注附(本文の一部に推定読みを附す)
[やぶちゃん注:これは泉鏡花の随筆である。底本とした所持する昭和五一(一九七六)年岩波書店刊「鏡花全集」別巻の「記後」に拠れば、明治四五(一九一二)年五月二十一日発行の『新文壇』七巻二号に掲載されたもので、同誌が『特輯した「人から受けた印象」欄の第三囘に當る』とある(同全集の「記後」は、漢字は、総て、旧字体で記されてある)。本文を見るに、これは、同欄への依頼原稿として正式に書かれたものと考えられる。通常の鏡花の小品・随筆・評論等に比すと、極めてルビは禁欲的(本記事では『( )』で添えた)である。しかし、だからこそ、このルビは鏡花自身が振ったものであることが判る。
本ブログ版は、通常の読者には不要かとも思われるが、ネイティヴでない読者、及び、若い読者のために、必要と感じた読みを推定で《 》で歴史的仮名遣で附加した。無論、鏡花の他作品のルビを確認して、最も相応しいと考える読みとしてあるが、決定出来ないものについては、「/」で、複数、附した。但し、私の感性で、『鏡花なら、これを使うだろう。』と思うものを、最初に配してある。なお、「友禪縮緬」にルビがなく、その後に出る「友禪」の方に「いうぜん」のルビがあるのは、ママである。
なお、私は踊り字「〱」「〲」は生理的に受け付けない(私自身、六十九歳の今日まで、一度も使ったことがない)ので、正字に代えてある。]
ㅤ幼い頃の記憶
人から受けた印象と云ふことに就いて先づ思ひ出すのは、幼い時分の軟らかな目に刻み付けられた樣々な人々である。
年を取つてからはそれが少《すくな》い。あつてもそれは少年時代の憧(あこが)れ易い目に、些(ちよ)つと見た何の關係もない姿が永久その記憶から離れないと云ふやうな、單純なものではなく、忘れ得ない人々となるまでに、いろいろ複雜した動機なり、原因なりがある。
此の點から見ると、私は少年時代の目を、純一無雜な、極く軟らかなものであると思ふ。どんな些つとした物を見ても、その印象が長く記憶に止まつて居る。大人となつた人の目は、最《も》う乾(ひ)からびて、殼が出來てゐる。餘程强い刺擊を持つたものでないと、記憶に止《とど》まらない。
私は、その幼い時分から、今でも忘れることの出來ない一人の女のことを話して見よう。
何處《どこ》へ行く時であつたか、それは知らない。私は、母に連れられて船に乘つて居たことを覺えて居《ゐ》る。その時は何と云ふものか知らなかつた。今考へて見ると船だ。汽車ではない、確かに船であつた。
それは、私の五つぐらゐの時と思ふ。未《ま》だ母の柔らかな乳房《ちぶさ》を指で摘(つま)み摘みして居たやうに覺えて居る。幼《をさな》い時の記憶だから、その外のことはハツキリしないけれども、何でも、秋の薄日の光りが、白く水の上にチラチラ動いて居たやうに思ふ。
その水が、川であつたか、海であつたか、又、湖であつたか、私は、今それを玆《ここ》でハツキリ云ふことが出來ない。兎に角、水の上であつた。
私の傍《そば/わき/かたはら》には澤山の人々が居た。その人々を相手に、母はさまざまのことを喋つて居た。私は、母の膝に抱かれて居たが、母の唇が動くのを、物珍らしさうに凝つと見て居た。その時、私は、母の乳房を右の指にて摘んで、恰度《ちやうど》、子供が耳に珍らしい何事かを聞いた時、目に珍らしい何事かを見た時、今迄貪《むさぼ》つて居た母の乳房を離して、その澄んだ瞳を上げて、それが何物であるかを究めやうとする時のやうな樣子をして居たやうに思ふ。
その人々の中に、一人の年の若い美しい女の居たことを、私はその時偶(ふ)と見出した。そして、珍らしいものを求める私の心は、その、自分の目に見慣れない女の姿を、照(て)れたり、含耻(はにか)んだりする心がなく、正直に見詰めた。
女は、その時は分らなかつたけれども、今思つて見ると、十七ぐらゐであつたと思ふ。如何にも色の白かつたこと、眉が三日月形に細く整つて、二重瞼《ふたへまぶた》の目が如何にも凉しい、面長《おもなが》な、鼻の高い、瓜實顔《うりざねがほ》であつたことを覺えて居る。
今、思ひ出して見ても、確かに美人であつたと信ずる。
着物は派手な友禪縮緬《いうぜんちりめん》を着て居た。その時の記憶では、十七ぐらゐと覺えて居るが、十七にもなつて、そんな着物を着もすまいから、或は十二三、せいぜい四五であつたかも知れぬ。
兎に角、その縮緬の派手な友禪(いうぜん)が、その時の私の目に何とも言へぬ美しい印象を與へた。秋の日の弱い光りが、その模樣の上を陽炎《かげろふ》のやうにゆらゆら動いて居たと思ふ。
美人ではあつたが、その女は淋しい顔立ちであつた。何所《どこ》か沈んで居るやうに見えた。人々が賑やかに笑つたり、話したりして居るのに、その女のみ一人除け者のやうになつて、隅の方に坐つて、外の人の話に耳を傾けるでもなく、何を思つて居るのか、水の上を見たり、空を見たりして居た。
私は、その樣を見ると、何とも言へず氣の毒なやうな氣がした。どうして外の人々はあの女ばかりを除け者にして居るのか、それが分らなかつた。誰《たれ/だれ》かその女の話相手になつて遣れば好《い/よ》いと思つて居た。
私は、母の膝を下《お》りると、その女の前に行つて立つた。そして、女が何とか云つてくれるだらうと待つて居た。
けれども、女は何とも言はなかつた。却《かへ》つてその傍に居た婆さんが、私の頭を撫でたり、抱いたりしてくれた。私は、ひどくむづがつて泣き出した。そして、直ぐに母の膝に歸つた。
母の膝に歸つても、その女の方を氣にしては、能く見返り見返りした。女は、相變らず、沈み切つた顔をして、あてもなく目を動かして居た。しみじみ淋しい顔であつた。
それから、私は眠つて了《しま》つたのか、どうなつたのか何の記憶もない。
私は、その記憶を長い間思ひ出すことが出來なかつた。十二三の時分、同じやうな秋の夕暮、外口の所で、外の子供と一緖に遊んで居ると、偶と遠い昔に見た夢のやうな、その時の記憶を喚び起した。
私は、その時、その光景や、女の姿など、ハツキリとした記憶をまざまざと目に浮べて見ながら、それが本當にあつたことか、又、生れぬ先にでも見たことか、或は幼い時分に見た夢を、何かの拍子に偶と思ひ出したのか、どうにも判斷が付かなかつた。今でも矢張り分らない。或は夢かも知れぬ。けれども、私は實際に見たやうな氣がして居る。その場の光景でも、その女の姿でも、實際に見た記憶のやうに、ハツキリと今でも目に見えるから本當だと思つて居る。
夢に見たのか、生れぬ前に見たのか、或は本當に見たのか、若し、人間に前世の約束と云ふやうなことがあり、佛說などに云ふ深い因緣があるものなれば、私は、その女と切るに切り難い何等かの因緣の下に生れて來たやうな氣がする。
それで、道を步いて居ても、偶と私の記憶に殘つた然《さ》う云ふ姿、然う云ふ顔立ちの女を見ると、若《も》しや、と思つて胸を躍らすことがある。
若し、その女を本當に私が見たものとすれば、私は十年後か、二十年後か、それは分らないけれども、兎に角その女に最う一度、何所かで會ふやうな氣がして居る。確かに會へると信じて居る。
[やぶちゃん注:本作は、冒頭注で述べた通り、明治四五(一九一二)年五月に発表されており、この時、泉鏡花は数え四十(満三十八)歳であった。当時、既に鏡花は著名な人気作家となっていた。明治三九(一九〇六)年には、逗子を舞台とした幻想連作「春晝」・「春晝後刻」(リンク先は私のカップリング正規表現版・オリジナル注附PDF)を発表、翌明治四十年の一月には『やまと新聞』で「婦系圖」の連載を開始し、明治四十一年には、かの幻想譚「草迷宮」を春陽堂より単行刊行している。翌年二月には、三年ほど静養していた逗子から東京に麹町に転居、『東京朝日新聞』に「白鷺」を連載、明治四三(一九一〇)年一月には、世評名高い「歌行燈」(『新小說』)を発表している。また、この年から『袖珍本 鏡花集』全五巻)の発行も始まって、ウィキの「泉鏡花」に拠れば、この時『すでにその文名は確立し』、『人気作家の』一『人となっていた』。同年五『月には』、『終生の住まいとなった麹町下六番町に転居』している、とある。
さて、本作は、泉鏡太郎、数えで『五つぐらゐの時』の『秋の薄日の光りが、白く水の上にチラチラ動いて居た』頃の記憶とある。
彼は明治六(一八七三)年十一月四日に石川縣金澤市下新町(しもしんちょう:ここ:グーグル・マップ:現在地名と同じ)で出生しているから、数え五つが、正確ならば、明治一〇(一九七七)年の秋の出来事となる。
叙述では、ロケーションの細部が記憶に残っていないのであるが、『何處《どこ》へ行く時であつたか、それは知らない。私は、母に連れられて船に乘つて居たことを覺えて居《ゐ》る。その時は何と云ふものか知らなかつた。今考へて見ると船だ。汽車ではない、確かに船であつた。』と述べ、更に、『幼《をさな》い時の記憶だから、その外のことはハツキリしないけれども、何でも、秋の薄日の光りが、白く水の上にチラチラ動いて居たやうに思ふ。』と言い添え、しかし、『その水が、川であつたか、海であつたか、又、湖であつたか、私は、今それを玆《ここ》でハツキリ云ふことが出來ない。兎に角、水の上であつた。』と述懐している。
この朦朧体の謂いを整理してみると――川とも言い難く――海かも知れぬが、明確には広大な『海』とは言えない――そして――『湖』とも断言出来ない――不思議な水域――ということになる。
私は、中高時代を、隣りの富山県高岡市伏木で過ごした。従って、隣県である石川県金沢市辺りは、何度か訪れており、地理好きでもあったから、古い旧金沢の旧地図等にも、一般人よりは遙かに良く知っているのである。
されば、この――何んとも言えない不思議な水域――の叙述を読んで、逆に川があり、その川が海に通じ、しかも湖のようにも見える場所――の有力候補が、直ちに、想起されたのである!
まず、彼の生地から、川は、当地の南西を流れる知られた「犀川」があり、これは、下って一気に日本海に注ぐ。しかし、そのルートなら、明確に「川」であり、河口に出れば、日本海が広角でばっちり広がるはずで、このような表現にはならない。
しかし、生地直近の北西には、「浅野川」があるのだ。そしてそれは、北から北東北へ下って、当時は非常に大きかった湖みたような「河北潟」(かほくがた)に下り、その潟の南西には、水路である「大野川」があり、そこを抜けると、「日本海」が開けるのである。
私は、この後者のルートこそが、彼の言うところの反語的描写をしている――川のようで川でなく(その逆も可)――湖のようで湖でなく(同前)――海のようで海でない(同前)場所を言っているのではあるまいか!?!――と考えるのである。大方の御批判を乞うものではある。因みに、「ひなたGIS」の戦前の地図で「河北潟」の広大な旧潟が見られる。赤のポイントが、作者の生地下新町である。
「友禪縮緬《いうぜんちりめん》」「友禪」は小学館「日本国語大辞典」から引くと、『江戸時代、天和・貞享(一六八一‐八八)のころ、京都の画工、宮崎友禅斎の創案になるという染法。絹布などに、もち米を主剤とした防染用の糊で、人物・花鳥などの模様の輪郭を描き、その上に染料や顔料で豊富な彩色を施し、さらにその部分を伏せ糊で厚くおおってから地色をはけでひき染めし、最後に全部を水洗いして、糊をおとして仕上げる。最初の糊を置くことから一切を手でするのを描友禅(かきゆうぜん)といい、上等品とするが、普通品は明治以後』、『糊に化学染料を混ぜて、これを型紙を用いて直接に彩色して模様をつける』「うつし糊」『による型友禅の手法が行なわれ、これを用いて、大量に生産される。生産地としては、古くから京都が知られており、加茂川染の名があり、京友禅として著名である。その他、加賀にも同じ手法のものが行なわれ、今日』、『俗に加賀友禅といわれる。また、絹布だけでなく、モスリン、ちりめん、つむぎなどにも、この染め方を施す。ゆうぜん。』とあり、「縮緬」には、『絹織物の一種。布面に細かな縐(しじら)縮みがある。経(たていと)に』、『よりのない生糸(きいと)、緯(よこいと)に』、『よりの強い生糸を使って平織りにし、ソーダをまぜた石鹸液で数時間煮沸してちぢませ、水洗いをして糊気を取り除き、乾燥させて仕上げたもの。衣服・帯地・裏地・ふろしきなどに用いられる。天正(一五七三‐九二)の頃、大坂堺に住む織工がたまたま渡来した明人から製法を習い、織りはじめたものといわれる。』とあった。
「私は、その記憶を長い間思ひ出すことが出來なかつた。十二三の時分、同じやうな秋の夕暮、外口の所で、外の子供と一緖に遊んで居ると、偶と遠い昔に見た夢のやうな、その時の記憶を喚び起した。」「私は、その時、その光景や、女の姿など、ハツキリとした記憶をまざまざと目に浮べて見ながら、それが本當にあつたことか、又、生れぬ先にでも見たことか、或は幼い時分に見た夢を、何かの拍子に偶と思ひ出したのか、どうにも判斷が付かなかつた。今でも矢張り分らない。或は夢かも知れぬ。けれども、私は實際に見たやうな氣がして居る。その場の光景でも、その女の姿でも、實際に見た記憶のやうに、ハツキリと今でも目に見えるから本當だと思つて居る。」「夢に見たのか、生れぬ前に見たのか、或は本當に見たのか、若し、人間に前世の約束と云ふやうなことがあり、佛說などに云ふ深い因緣があるものなれば、私は、その女と切るに切り難い何等かの因緣の下に生れて來たやうな氣がする。」「それで、道を步いて居ても、偶と私の記憶に殘つた然《さ》う云ふ姿、然う云ふ顔立ちの女を見ると、若《も》しや、と思つて胸を躍らすことがある。」「若し、その女を本當に私が見たものとすれば、私は十年後か、二十年後か、それは分らないけれども、兎に角その女に最う一度、何所かで會ふやうな氣がして居る。確かに會へると信じて居る。」こここそが、日本のたった独りの真正幻想作家の真骨頂の《事実感覚の主張》である。しかも、この随想は、満四歳の時の確かな記憶であり、しかも、未だ壮年であった満三十八歳の時に――そう――しみじみと想起し――事実として確証すると断言しているのである!⋯⋯私ごとだが、今、六十九歳だが、今年に入って、逆行性健忘症的な感覚を、しばしば感ずるようになった。十五歳に満たないまでの自身の記憶が、鮮やかに脳の中で昨日のことのように再生されるのである。そこでは、同い年の少年少女の台詞や表情・仕草が完璧に思い出されるのである。ところが、反対に、数分前に言った言葉や、知り合いの名前、昨日の自分の行状等が、ポロッと思い出せなくなるのである。それを考えると、この時の鏡花の年齢の頃は、私自身も、あらゆる記憶に絶大な自信を持っていた。決して「お目出度い杜撰な夢想家」ではなかったな⋯⋯⋯⋯。
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以上で注を終わるが、これをブログで公開してから、本篇の縦書ルビ版(PDF)を作成し、サイトに公開する予定である。そこでは、私が附した推定ルビはカットして、原本により近づける。注も、その修正を加えて生かす。]
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