阿部正信編揖「駿國雜志」(内/怪奇談)正規表現版・オリジナル注附 「卷之二十四下」「奇火」
[やぶちゃん注:底本はここから。句読点・記号を附加・変更し、段落を成形した。]
「奇火《きくわ》」 志駄郡《しだのこほり》橫內村《よこうち》にあり。里人云《いふ》、
「當村、朝比奈川《あさひながは》の邊《ほとり》に一寺【寺名、失《しつす》。】あり。或時、此《この》川の橋上《はしうへ》にて、旅行の士、莨草《たばこ》を薰《くん》し[やぶちゃん注:ママ。「じ」。]けるが、きせるを、欄干に當《あて》て、うちはたきけり。
其《その》ふきがら、
「ころころ」
と轉げて行《ゆく》事、物に追《お》はるが如し。
旅人、不思議に思《おもひ》て、其跡を慕《した》ひ行くに、寺院【寺名を失す。】の垣《かき》の崩《くづれ》より入《いり》ぬ。
猶、怪しく思《おもひ》て、門《もん》より打入《うちいり》見れば、其火《ひ》、消《きえ》もやらず、庭中《にはなか》を經《へ》て、客殿の橡《とち》の下に、深く、入《いり》けり。
「かく數十步《すじつぽ》の間《あひだ》、風もなきに、轉《まろ》び來《きた》れる、謂《いはれ》、有《ある》べし。今宵《こよひ》、出火《しゆつくわ》などや、あらん。」
と、其事を、住僧に告知《つげしら》せて、去《さり》ぬ。
住僧、大《おほい》にあやしみ、物多く、とりかた付《かたづけ》て、遁《のがる》る計《ばか》りに用心しけり。
其の夜半《やはん》計りに、火の氣《け》もなき客殿の隅より、失火して、此寺、悉《ことごと》く、燒《やけ》たり。云云《うんぬん。》。」。
一奇《いちき》と云《いふ》べし。まさしく見たる物語也。火災は、實《げ》に、「天火《てんび》」と謂《いふ》べし。
[やぶちゃん注:「志駄郡橫內村」現在の藤枝市横内(グーグル・マップ)。
「寺」横内地区で、橋が近いのは、曹洞宗の慈眼寺(じげんじ)のみで、橋は南南西の朝比奈川に架かる横内橋。距離は三百六メートル程である(寺と橋を入れてあるグーグル・マップ。但し、現在、同寺から朝比奈川までは、直線で二百三十三メートルはある。これを「邊《ほとり》」と言うかどうか? 或いは、江戸時代には、川の流れが曲がらずに真っすぐに下っていたと仮定すると、百メートル以下出逢った可能性もあり、それなら、違和感はない)。因みに、現在、その下流に県道二百八号が通っているが、これは「ひなたGIS」の戦前の地図で見ると、人道橋ではなく、今はない駿遠線(すんえんせん)の鉄道橋である。
「橡」ムクロジ目ムクロジ科トチノキ属トチノキ Aesculus turbinata 。特に霊的な樹木としての民俗的伝承は、聴かない。
「天火」は当該ウィキを見られたいが、所謂、「怪火」の一種である。但し、「天」という部分に道徳的なニュアンスを殊更にする向きは、普通は、そう多くないように私は思う。これは、多量の怪奇談を電子化してきた私の経験から言える。しかし、この場合は、それが例外の確信犯として、筆者の最終附言が加えられているのである。それは、驚いた「住僧」は「大にあやし」しんだ末、何をやったかというと、『物多く、とりかた付て、遁る計りに用心し」たという下りである。禅宗では、実は、こうした場合、相応の僧は、恐れず、静かに、禅を組んで、静謐にしているのが普通である。ところが、この僧は、過剰に恐れ戦(おのの)き、物欲一辺倒のクソ坊主丸出しだからである。]
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