阿部正信編揖「駿國雜志」(内/怪奇談)正規表現版・オリジナル注附 「卷之二十四下」「巨蟒化美童」
[やぶちゃん注:底本はここから。句読点・記号を附加・変更し、段落を成形した。パート標題「益頭郡」は「ましづのこほり」と読み、駿河國にあった旧郡の一つ。当該ウィキ「益津郡」に拠れば、「和名類聚鈔」には「益頭郡」の表記で載る、とあった。近代まであったが、明治二九(一八九六)年四月一日に、『郡制の施行のため、志太郡・益津郡の区域をもって、改めて志太郡を設置。同日益津郡廃止。』とあった。旧郡域は、明治一二(一八七九)年)『に行政区画として発足した当時の郡域は、現在の行政区画では』、『藤枝市の一部(平島・田中・益津および立花・城南・緑町・郡・岡出山・本町・藤枝・稲川の各一部)』と『焼津市の一部(越後島を除く鰯ヶ島、本町、焼津、大村新田以北)』で『駿河国で最も面積の小さい郡であった。』とある。そこにある地図をリンクしておく。]
益 頭 郡
「巨蟒化美童《をろち びだうに くわす》」 益頭郡長樂寺村《ちやうらくじむら》にあり。傳云《つたへいふ》、
「當村は舊德一色《きうとくいつしき》の內《うち》なり。
徃古《わうこ》、仁安《にんなん》年中、此里《このさと》に粉川長樂齋《こかはちゃうらくさい》と云《いふ》鄕士《がうし》、住《すみ》けり。
妻は、勢州神戶《かんべ》の住人神戶藏人《かんべくらうど》某《ばう》が女《むすめ》也。
夫婦共に佛法に皈依《きえ》す。
家代々、豊饒《ほうぜう》にして、世人、「粉川長者《こかはちやうじや》」と唱へ、「佛心長者」と稱す。
一女子あり。「賀姬《いはひひめ》」と號す。年、二八《にはち》にして、容色、美艷《びえん》なり。
父母の寵愛、最《もつとも》、厚し。
賀姬、また、佛《ほとけ》を信ず。
さきに、父、藥師佛を山下《やました》に安置す。
賀姬、朝々《あしたあした》、爰《ここ》に賽《まうで》て、冥福を修《しゆ》する事、年《とし》あり。
此地、東山を越《こえ》て、「眞池」、あり。其周圍、一里計り。
池中に於魯地《をろち》、潜《かく》る。
然《しか》るに、彼巨蟒《をろち》、美少年と化《くわ》て、朝々《あしたあした》、同じく、此藥師に詣で、終《つひ》に、賀姬に通じ、誘引《さそひ》て、池中《ちちゆう》に入《いる》。
父母《ふぼ》、是《これ》を憂《うれ》ひ悲《かなし》む事、切《せつ》也。
長樂齋、怒《いかり》にたへず、砂石《させき》を燒《やき》て、炎火《ゑんくわ》とし、銅・鐵を鑠《とろか》して、熱湯とし、共に、池中に投入《なげいる》。
於魯地、免《まるか》るゝ事、あはたず、終《つひ》に斃《たふ》る。
長樂齋、女子が爲に菩提心を起《おこ》し、己《おのれ》が屋宅《をくたく》を精舍《しやうじや》とし、彼《かの》藥師と、彌陀の兩像を、本尊とす。
靑龍山長樂寺【濟家、京、妙心寺末。】、是也。
其後《そののち》、大覺禪師、鎌倉下向の時、其子孫某《なにがし》、禪師を請《しやう》じて、供養をなし、開山とす。
建長七年、火災、正中《せいちゆう》年中、伽藍建立《こんりふ》、相州鎌倉金峯山淨智寺□の芝巖《しぐわん》和尙を招請して、中興とす。云云。」。
[やぶちゃん注:まず、表題であるが、「巨蟒」は、音では「きよまう」であるが、どうも話に合わない。当て訓では「をろち」と「うはばみ」であるが、本文の中間部で「於魯地」と出るのが、決定打となる。この文字列では「をろち」である。話柄からしても民話であり、古語の中でも最も古い「をろち」が最も相応しい(因みに、「うはばみ」は「酒飲み」の換喩があるので候補から最初に避けた)。また、「粉川長樂齋」と「賀姬」の読みは、「藤枝市郷土博物館・文学館」の「藤枝の伝説・昔話」の「大蛇にさらわれた賀姫」を参考に歴史的仮名遣で添えた。
「益頭郡長樂寺村」現在、藤枝市本町に臨済宗妙心寺派青龍山長楽寺がある。ここ(グーグル・マップ航空写真)。山号・寺号からも、判る通り、本伝説と繋がる。同寺の公式サイト内の「歴史」を見ると、この「粉川長樂齋」を、この寺の開基としてあるのである。「賀姬」のことも記されてあるので、以下に引用する。
《引用開始》
仁安年中(1166年~69年)粉川長楽斎の娘力姫(賀姫)が、真薦池の水龍に魅入られて水中に沈んだらことから、長楽斎が娘の冥福を祈るため、屋敷を寺とし、薬師如来と阿弥陀如来を本尊とした。その後、中国宋の臨済僧で、北条時頼に招かれて鎌倉建長寺を開いた蘭渓道隆が関東下向の際、蘭渓道隆を開山として、青龍山長楽寺と号した。青龍山という山号は、地主神の青龍から土地を譲り受けて開かれたことを伝えているとみられ、境内に聖徳太子信仰を物語る太子堂があることも注目される。
長楽寺は、建長7年(1255年)火災にあい、正中年間(1324~26年)に長楽斎4世の孫法栄斎が再建、中国杭州からの渡来僧で鎌倉建長寺・円覚寺の住持をつとめた霊山道隠の弟子、鎌倉五山の浄智寺の芝巖德香を招いて中興開山とした。
開基粉川長楽斎は、陸海交通の要衝であった小川駅(焼津市)の長者小川氏に関わり、藤枝宿の経営に携わる有徳人とも呼ばれた長者であると共に益頭荘の開発領主のひとりともみられる。また、益頭荘の鎌倉時代の地頭は北条氏であったから、芝巖による中興にあたっては、北条氏の関与もあったことが考えられる。
《引用終了》
また、「大蛇にさらわれた賀姫」でも、最後に『娘の仇を討った長者は、娘の霊を慰めるために自分の屋敷を寺としました。これが長楽寺の始まりだと伝えられています。』とあるので、この辺りに、この旧「長樂寺村」は、あったとして、よい。
「仁安」平安後期の一一六六年から一一六九年までの期間を指す。天皇は六条天皇・高倉天皇。なお、仁安二年には平清盛が太政大臣となっている。
「勢州神戶」現在の三重県鈴鹿市神戸(かんべ:グーグル・マップ)。
「皈依」「歸依」に同じ。
「二八」数え十六歳。
「眞池」「ひなたGIS」で見ると(長楽寺を中央にした)、この寺の近くで周囲が「一里計り」(約三・九三キロメートル)もあるというのは、現在の蓮華寺池(グーグル・マップ)しかあり得ない。但し、現在のこの池の周囲は、戦前の地図を見ても、一・三五キロメートルしかない。「ひなたGIS」では、南西の現在の「花しょうぶ園」部分が池域であるだけで、一・四五キロメートル増えるだけである。現在のこの池の西方部分は河川が流れており、この部分が、昔は、西北にある山(標高百十一メートル)の南側に、池が、ずっと伸びていたと考えられる。だが、それを大きめに測っても、せいぜい二キロメートル程度である。しかし、「ひなたGIS」の国土地理院図の蓮華寺池は、一部(北東部分と「花しょうぶ園」の岸)を除き、擁壁(塀・人工堤防)の記号でガッチリと囲まれている。そもそも、この話、実に現在から、最長で八百六十年も前の話であるから、ここは二倍の沼沢(「池」ではない。古昔にあっては、沼沢・池沼・湖等の厳密な区別は存在しない)であったと考えるのが至当である。とすれば、その湿地帯は、先の倍、或いは、+αで、「一里計り」あったというのは、強ち、無理はないのではないかと思われる。なお、藤枝市スポーツ文化観光部 街道・文化課の「ふじえだ東海道まちあるき」の「蓮華寺池公園 意外に知らない蓮華寺池の歴史 ~①池の誕生秘話~」には、
《引用開始》
池と周囲の山々が織り成す自然や景観の美しさが人気の「蓮華寺池公園」。特に、公園の中心となっている周囲約1.5km、広さ4.8haの大きな池は、古くからそこにあるかのような存在感を放っていますが、実はこの池は、今から400余年前に人の手によって造られた人工池なのです。当時、付近の村々では、瀬戸川から水を引いて農業を行っていましたが、用水の末端部に位置する五十海・市部村は水の確保に大変苦慮していました。二つの村は農業用水を確保するため、現在の公園周辺を村域としていた若王子村と共同で、慶長15(1610)年から3年の歳月をかけて、若王子村の一部の田畑をつぶして堤を築き、ため池を築造しました。この「ため池」が現在の『蓮華寺池』です。
池にはハスが多く生えており、初めのころは「蓮池」と呼ばれていたようです。また、池の奥まったところには古くから蓮池山蓮花寺というお寺があり、いつしか「蓮花寺ため池」や「蓮花寺池」と呼ばれるようになり、明治以降になって現在の「蓮華寺池」の名前が定着しました。名前の由来になった「蓮花寺」はすでに廃寺となり現存していませんが、お寺の名残のお地蔵様が今も公園の東側の園路沿いに祀られています。
《引用終了》
とあった。「なーんだ、池なんか、やっぱり、なかったんじゃないか!」と、私を、せせれ笑う向きもあろうが、この話は、以上の人工池の築造よりも、更に、仁安末年を起点としても、四百四十一年も前の話なのである。私は、以上の見解を撤回する気は、さらさらない。仁安の時代の古地図・絵図でも示して論理的に「ここに池沼はなかった」と反論されるまでは、以上のを一つの可能性の見解として拘るものではある。
「眞池」いろいろ調べたが、読み不詳であった。池の固有名詞と採っておく。一応、「まいけ」と読んでおく。しかし、「大蛇にさらわれた賀姫」では「青池」となっている。「靑」「眞」は崩しでは、乱暴な場合は、判読がつかない。個人的には「靑池」の方が、しっくりくると思う。ところが! である。
「青池」ならば、このロケーションの反対側直近に存在するのである! グーグル・マップの、ここである。しかし、調べてみると、現在の大きさの三分の一が埋め立てられてある。しかし、この青池の想定原形は「一里」どころか、 四百メートル止まりである。しかし、先に拘ったのと同じで、デカかったと言うことは出来る。名前が誤りであったならば、この「青池」こそが、第一候補となろう。
「大覺禪師」蘭溪道隆(建保元(一二一三)年~弘安元(一二七八)年)。南宋西蜀(現在の中国四川省)から渡来した禪僧。「大覺禪師」は諡(おくりな)。蘭渓は道号、道隆は諱(いみな)である。以下、ウィキの「蘭渓道隆」から引用する。『13歳で出家し、無準師範、北礀居簡に学んだ後、松源崇岳の法嗣である無明慧性の法を嗣ぐ。1246年(寛元4年)33歳で、入宋した泉涌寺僧、月翁智鏡との縁により、弟子とともに来日』し、『筑前円覚寺・京都泉涌寺の来迎院・鎌倉寿福寺などに寓居。宋風の本格的な臨済宗を広める。また執権北条時頼』が深く帰依し、招かれて北条氏の個人的な祭祀寺院として創建された建長寺開山となった。一時期、元の密偵の嫌疑を懸けられたり、讒言を受けたりして伊豆や甲斐国(現・山梨県)に身を置いた時期もあるが、京都の建仁寺や鎌倉の寿福寺等を経て、最後は建長寺に戻って没した。建長寺西来庵に現存する木造蘭渓道隆像は、私の好きな鎌倉芸術(造像は室町時代)の一つである。
「建長七年」一二五五年。鎌倉幕府将軍は宗尊親王。執権は北条時頼。
「正中年中」一三二四年から一三二六年まで。鎌倉幕府将軍は守邦親王。執権は北条高時。
「相州鎌倉金峯山淨智寺□」この割注の「□」は不明。
「芝巖和尙」芝巖德香(しがんとくこう)は鎌倉末期に活動した臨済宗の禅僧。]
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