阿部正信編揖「駿國雜志」(内/怪奇談)正規表現版・オリジナル注附 「卷之二十四下」「福井長者爲念佛質」
[やぶちゃん注:底本はここから。句読点・記号を附加・変更し、段落を成形した。]
「福井長者《ふくゐちやうじや》 念佛《ねんぶつを》 質《しちと》 爲《なす》」 益頭郡《ましづのこほり》長樂寺村にあり。傳云《つたへいふ》、
『當村、西池山蓮生寺《せいちさんれんしやうじ》【一向宗、東本願寺末。】は、もと、福井長者の家也。
建久四年、熊谷蓮生《くまがいれんせい》法師【平氏、二郞直實《なほざね》。】、關東に赴く時、茲《ここ》に至《いたり》て、糧《かて》、盡く。
故に「福井長者」と云《いふ》者の家に入《いり》、錢《ぜに》一貫文《いつかんもん》を借《かり》ん事を、請ふ。
主《あるじ》云《いふ》、
「汝《なんぢ》は誰《たれ》、質物《しちもの》ありや否《いなや》。」。
答《こたへ》て曰《いはく》、
「あり。」
と。
卽《すなはち》、念佛十遍を唱《とな》ふ。
主、其誠《そのまこと》を感じ、一貫文を與ふ。
同七年、又、來《きたり》て、先《さき》に借所《かりるところ》の錢を返し、謝禮してのち、『前に置く處の質物《しちもの》を返すべき』旨《むね》を述ぶ。
家主《いへぬし》、せんすべを、知らず。
蓮生云《いはく》、
「他《ほか》、なし。汝も、念佛十遍を唱ふべし。」
と。
依《より》て、言《げん》の如し。
厚く饗《きやう》し、終日《ひねもす》、一向專修《いつかうせんしう》の法意《ほふい》を聞《きき》て、夫婦、忽《たちま》ち、剃髮し、庵《おほり》を別所に結び、居地《きよち》を轉じて、寺とす。
今の蓮生寺《れんじやうじ》、是也。云云。』。
或《あるいは》云《いふ》、
『初め、念佛を受《うけ》し時、庭前《ていぜん》の池に、靑蓮華《せいれんげ》、十莖《じつくき》、咲出《さきいで》たり。
今、返す時、念佛一遍に蓮華一莖《いつくき》づゝ、消失す。
主、其奇特《きどく》を感じ、我家《わがや》を寺とし、親鸞聖人を、とゞめて、弟子となり、「蓮生寺」と號し、其池跡《そのいけあと》、今にあり。云云。」。
[やぶちゃん注:「藤枝市郷土博物館・文学館」の「藤枝の伝説・昔話」の「質に入れた念仏」を引用しておく。
《引用開始》
今から800年も前のことです。法然上人の弟子であった熊谷蓮生房(坊)(れんしょうぼう)は、お母さんが病気になったというので、急いで都から関東へ向かいました。ところが、小夜の中山を通りかかったとき、突然山賊に襲われ、持ち物をすべて奪われて無一文になってしまいました。やっとのことで藤枝にたどり着いた蓮生房は、福井長者というお金持ちからお金を借りることにしました。お金を借りるにはその代わりになるものを置いていかなければなりませんが、蓮生房には何もありません。そこで、南無阿弥陀仏という念仏を10回唱えて借金の質としました。
その翌年、蓮生房は約束どおりお金を持って福井長者を訪ねました。お金を返す代わりに、この前預けておいた念仏10回を返してくれというので、長者は南無阿弥陀仏・・・・・・と唱えると、念仏が次々と仏様の姿に変わっていきました。長者は不思議な出来事にびっくりしましたが、9回目を唱えた後、最後の1仏を蓮生房にお願いしてもらい受け、それをご本尊としてお寺を造りました。それが今の蓮生寺(れんしょうじ)だといわれています。
《引用終了》
「益頭郡長樂寺村」「蓮生寺」現在の藤枝市本町の、ここの真宗大谷派熊谷山蓮生寺(くまがいさんれんじょうじ)。熊谷直実連生法師二就いては、熊谷市立熊谷図書館の「熊谷直実・連生法師デジタルライブラリー」が詳しいので見られたいが、私のものでは、「北條九代記 熊谷小次郎上洛 付 直實入道往生 竝 相馬次郎端坐往生」(Unicode導入前であるので正字不全がある)がコンパクトに纏めてあり、お薦めである。
「建久四年」一一九三年。前年に源頼朝征夷大将軍に補任されている。
『親鸞聖人を、とゞめて、弟子となり、「蓮生寺」と號し、』一応、親鸞が、東国布教から帰洛の道中(貞永二(一二三三)年頃)、一行は、駿河国の現在の蓮生寺に立ち寄ったと伝わっては、いる。当時の住職(浄土宗)が教えに感銘を受けて弟子となり、同寺は浄土真宗へ改宗したとする。但し、熊谷直実は、建永二(一二〇七)年に遷化(せんげ)しているので、本記事の内容は、この伝承とは、時間軸上、複数の致命的齟齬がある。]
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