阿部正信編揖「駿國雜志」(内/怪奇談)正規表現版・オリジナル注附 「卷之二十四下」「めやかし」
[やぶちゃん注:底本はここから。句読点・記号を附加・変更し、段落を成形した。]
「めやかし」 益頭郡《ましづのこほり》燒津村にあり。傳云《つたへいふ》、
「當村の鎭守、入江明神の社《やしろ》より、二町計り海邊《うみべ》に、『繼子(まゝこ)の森《もり》』と稱する森、あり。
此森より、四時《しじ》とも、雨夜《あまよ》の深更に及ぶ頃、二《ふたつ》の陰火《いんくわ》、飛出《とびいで》、中央を、凡《およそ》四町計《ばか》り先《さき》、『城《じやう》の腰《こし》村』の田子橋《たごのはし》へ、往來す。
見る者、徃々《わうわ》、有り。
其《その》火《ひ》、人の形に似て、聲、なし。
里人、是を『めやかし』と云《いへ》り。
又、每年六月、入江明神祭禮の時、神輿《しんよ》、此森を過《すぐ》るに、必《かならず》、鳴《なり》を靜め、物音《ものおと》を止《や》む。云云。」。
此森中《もりなか》、奇怪、有《ある》べし。按《あんず》るに、「めやかし」は「怪(あやかし)」の訛《なまり》にや。
[やぶちゃん注:この「入江明神」は、現在の焼津市焼津にある焼津神社である。当該ウィキに拠れば(注記記号はカットした)、『旧称は「入江大明神(いりえだいみょうじん)」。ヤマトタケルの東征伝説に関わる神社として知られる』。『主祭神』は『日本武尊(やまとたけるのみこと)』であり、『『日本書紀』『古事記』の伝説によれば』、『日本武尊』『は天皇の命で東征し、その途上で賊の火攻めに遭った。しかしヤマトタケルは草薙剣で草を薙ぎ、さらに向い火をつけて難を逃れた。これによりその地は「ヤキツ」(紀は焼津、記は焼遣と表記)と称される、という。この火難伝説地が静岡県焼津地域に比定され、焼津神社はその事跡を伝える神社とされる』。但し、『この伝説では、「ヤキツ」の所在地を『日本書紀』で駿河国、『古事記』で相武国(相模国か)と記載し』、『異同が存在する。このことに関しては、「相武国」を単なる誤記とする説のほか、相模国が古くは駿河国も含む広領域であったとする説、駿河・相模に「ヤキツ」が並存したとする説などがあるが明らかではない。『焼津市史』では、ヤマトタケル伝説には『日本書紀』の記述の方に原初的な要素が見られることから、『古事記』の記述には』、『かなり後世の手が入ったと見て、『古事記』の編纂過程で関東地方の征討に重点を置いたために伝承地が本来の駿河から相模に移されたと推測する。実際、『万葉集』では駿河の地名として「焼津邊」と詠まれた歌が知られる(巻3 284番)。また』、『平安時代中期の『和名抄』によると、駿河国には「益頭(ましづ:のちに益津)」が郡名・郷名として存在したが、これは「ヤキツ」の「焼」を忌み好字として「益」をあてたのが「マシヅ」の読みに転訛したものとされる』とある。
「二町計り海邊に、『繼子(まゝこ)の森』と稱する森、あり。」「ひなたGIS」の戦前の地図を見ても、焼津神社自体が、周囲は水田で、二百メートルほど海浜に向かう場所も、村道と住居地域の他は、ばかりである。しかし、四百二十五メートル東南東のここに(グーグル・マップ)焼津神社境外社の須賀神社がある。或いは、この辺りが小さな森だったとしても、おかしくはない。一つの候補と出来るのではあるまいか?
『「めやかし」は「怪(あやかし)」の訛にや』納得出来る。]
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