阿部正信編揖「駿國雜志」(内/怪奇談)正規表現版・オリジナル注附 「卷之二十四下」「神木古楠」
[やぶちゃん注:底本はここから。句読点・記号を附加・変更し、段落を成形した。]
「神木古楠《しんぼくふるくす》」 益頭郡《ましづのこほり》郡村《こほりむら》にあり。傳云《つたへいふ》、
「當村大井明神は、徃昔《わうじやく》、田中城內にあり。
社中に大楠《おほくす》あり。此楠、南海《なんかい》より見ゆ。故に往來の諸船、海上繋《かいじょうつなぎ》の目當《めあて》とせり。
天正十九年、守護中村式部少輔一氏《なかむらしきぶたいふかずうぢ》、
『此楠を伐《きり》て、船に造《つくら》ん。』
とす。
神主《かんぬし》佐竹某《なにがし》、是を憂ひ、駿府に來《きたつ》て、愁訴する事、七度《しちど》也。
然《しか》りといへども、一氏、これを免《ゆる》さず、終《つひ》に、楠を伐て、淸水湊《しみづみなと》に於《おい》て、大船《おほぶね》を新造し、諸荷《もろもろ の に》を積み、湊を出帆す。
時に此舟、忽《たちまち》、ひしげ、海底に、しづめり。
神主、神木《しんぼく》の名を失《うしな》ん事を悲しみ、是より、苗字を「大楠《おほくす》」と改む、云云。」。
此神社、舊《きゆう》「大楠神社」共《とも》、云《いへ》り。
[やぶちゃん注:「群村」平凡社「日本歴史地名大系」に拠れば、『こおりむら』とあり、『東海道藤枝宿の南、長楽寺(ちようらくじ)村の東に位置し、益津(ましづ)郡に属する。当村の一部は藤枝宿の白子(しろこ)町・下伝馬(しもでんま)町・左車(さぐるま)町の一部を形成し、村には庄屋、各町には年寄が置かれた。「駿河志料」に「往古小府にて、郡領の住せし地なり、故に小府里と称せしならん」とみえ、益頭(ましず)郡の中心地であったことを記しており、地内の郡遺跡は益頭郡衙跡推定地とされる。永禄一二年(一五六九)正月一八日の臨済寺領・天沢寺領等書立土代(臨済寺文書)に臨済(りんざい)寺(現静岡市)の塔頭常修院領として「代方藤枝郡之夫銭拾三貫文」とみえる』とあった。その「現在地名」には、『藤枝市郡一丁目・郡・城南』(じようなん)『二―三丁目・立花(たちばな)一―三丁目・田中(たなか)一―三丁目・本町(ほんまち)一―四丁目・大手(おおて)一―二』とあるので、ここ(グーグル・マップ:ポイントは「郡」)の一帯で、まさに田中城跡外郭外の北東部分を除いて、城跡を囲む位置に以上の現在地名は、あることが、確認出来る。
「大井明神」大井神社は現在、島田市大井町にある。ここ(グーグル・マップ)。先の郡(こおり)からは、西南西に直線で九・一七キロメートル隔たっている。当該ウィキに拠れば(注記記号はカットした)、『創建は不詳。国史では、貞観7年(865年)に駿河国の「大井神」の神階が従五位下に昇叙された旨の記事がある。しかし『延喜式』神名帳には記載がないため、いわゆる国史見在社にあたる(神名帳では志太郡条が欠落する)。また『駿河国内神名帳』では、志太郡に「大井天神」の神名で正五位下の神階を有する旨とともに記載されている』。『大井神社では流着伝説が残されており、元は大井川上流の谷畠村の大沢(現・榛原郡川根本町)に祀られていたが、建治2年(1276年)の洪水で流されて島田に漂着し、以後は島田の下島(現在の御旅所の地)に祀られるようになったという。この元宮伝承地である大沢地区では、現在までに「大井神社旧社跡」碑が建てられている(ただし』、『元宮伝承地は大沢地区の他にも数ヶ所ある)。大井川は農耕に欠かせない一方で洪水も繰り返したことから、流域では大井川に対する信仰が深く、「大井神社」が50社以上も分布することが知られる。当社はそれらの中で中心的な存在になる』とあった。思うに、移ったのではなく、その嘗つて存在した、多くの「大井明神」社・「大井神社」の一つで、田中城郭内にあったものと考える方が、自然である。
「楠」クスノキ科ニッケイ(肉桂)属クスノキ Cinnamomum camphora 。当該ウィキに拠れば(注記記号はカットした)、『建築(寺社など)、家具、彫刻、木魚、仏壇、楽器、玩具、船などに利用される』とし、『縄文時代から古墳時代のクスノキ製丸木舟も多く出土している。『日本書紀』では、スサノオノミコトが眉毛からクスノキを作り出し、これを造船に用いるように命じたと記している。また『古事記』の「仁徳記」や『日本書紀』の「応神紀」には、クスノキ製の快速船である「枯野」(からぬ、からの)が登場する。室町時代以降の安宅船にも、クスノキ材が使われた』とあり、『日本では、中世から近世にかけて建築や造船用にクスノキが多く伐採され、さらに江戸時代以降には樟脳生産のためますます消費されるようになったため、江戸時代の各藩や明治時代以降の政府は、クスノキの植林を行なっていた。植林最盛期の1908年(明治41年)には、5,639ヘクタールに植林された』とあった。さらに、「文化」の項に、『クスノキは森厳で風格があることから、西日本各地でクスノキ崇拝が見られ、特に寺社に残るクスノキは、ご神木として人々の信仰の対象となることがある』とあった。「市区町村の木」の項で、『静岡県』の『富士市』と『磐田市』が挙げられてある。
「海上繋」やや荒れている海上等で、中大型船や漁船を安全のために繩で繋ぎ留める「繋船(けいせん)」のことを指していよう。
「天正十九年」一五九一年。征夷大将軍は足利義昭。
「守護中村式部少輔一氏」(?~慶長五(一六〇〇)年)は平凡社「世界大百科事典」に拠れば(コンマを読点に代えた)、『安土桃山時代の武将。通称は孫平次、式部少輔。一政の子。豊臣秀吉に仕え、1583年(天正11)以降』、『和泉岸和田城主として紀州の根来・雑賀一揆と戦う。85年』、『近江水口城主となり』、『豊臣秀次に属する。90年』、『徳川家康関東移封後の駿河国14万2000石を与えられ』、『府中城主。1600年(慶長5)6月』、『重病により、家康の会津征伐には弟一栄を名代として従軍させ、翌月』、『病死。関ヶ原の戦後、子息忠一は伯耆米子17万5000石に加転される』とある。当該ウィキは、ここ。
「此神社、舊「大楠神社」共、云り。」国立国会図書館デジタルコレクションで、何らかの情報が掛かってこないかを複数のフレーズ検索を試みたが、無益であった。]
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