阿部正信編揖「駿國雜志」(内/怪奇談)正規表現版・オリジナル注附 「卷之二十四下」「逢異叟」
[やぶちゃん注:底本はここから。句読点・記号を附加・変更し、段落を成形した。「異叟」とは「風変りな老人」の意。本篇は、今朝より、延べ十時間かかったが、相応に満足出来る注を作ることが出来た。]
「逢異叟《いさうに あふ》」 益頭郡《ましづのこほり》坂本村にあり。傳云《つたへいふ》、
「當村高草山林叟院《かうさうざんりんさうゐん》【洞家《たうか》、遠州高尾山石雲院末、寺領七石。】は、もと、小河村にあり。
徃昔《わうじやく》、小河村に長谷川政平と云《いふ》武士あり。家、富み、榮ふ。人、擧て、『法永長者《はふゑいちやうじや》』と稱す。
常に佛を信じ、行ひ、甚、殊勝也。
曾て、遠州高尾山、崇芝禪師《すうしぜんじ》の弟子、賢仲繁詰《けんちゆうはんてつ》と云《いふ》禪師あり。
法永、此禪の道風を慕ひ、文明三年の春、梵宇を小河村の東濱《ひがしはま》に建《たて》、『林叟院』と號け、師を請《しやう》じて、主席たらしめ、四時《しじ》、禮拜供養し、示《じ》を禀《う》け、空門《くうもん》を論學《ろんがく》せり。
後、明應六年、異叟あり、來て、師を拜す。
笑語《しやうご》する事、故《もと》より、相識《あひし》るが如し。
師、屢《しばしば》、此叟を視るに、顏色、威にして、眼光、人を射る。
聲音《せいおん》、間々《まま》、雅言《がげん》を發して、輭語《なんご》する事、低く、すべて、動靜、常人と、異《い》也。
時に、叟、
「地を易《かへ》て、可《か》ならん。」
と云。
師、其《その》事を
『奇《き》。』
として、叟と偕《とも》に門を出《いで》、高草山《かうさうざん》の麓《ふもと》に入《い》り、杉松《さんしよう》密林の中を行く事、數百步にして、山阿《さんあ》の地に至る。
叟、此地を指《さし》て云《いふ》、
「此所《このところ》、梵刹《ぼんさつ》を建《たつる》べし。もし、此言《このこと》を果《はた》さば、師の爲に、誓《ちかつ》て、永く、護法山神《ごほふさんじん》と、ならん。」
と。
師、首を擧《あげ》て、四壁《しへき》を顧視《こし》するに、幽溪寂寞《いうけいじやくまく》たる無人の地にして、實《まこと》に梵宮佛宇を建《たつ》べき所なり。
師、欣然として、首を囘《めぐらし》て、晤語《ごご》せんと欲《ほつす》るに、其《その》蹤跡《しやうせき》を瞬目《しゆんもく》の間《ま》に失《しつ》す。
只、立地《りつち》、一片の石を遺《のこ》すのみ。
師、是より、
『護神《ごしん》たる事。』
を知《しり》て、頭《かしら》を低《たれ》て、合掌し、院に歸り、彌《いよいよ》、此事を、
「異《い》。」
とし、長谷川氏に告ぐ。
不日《ふじつ》にして、寺を、今の地に移し、「林雙《りんさう》」を改《あらため》て、「林叟《りんさう》」とす。
今の『山神石《さんじんいし》』と云《いし》は、卽《すなはち》、此《この》異叟の遺跡也。
翌年八月八日、大雨《だいう》、二十五日、大地震動、海水、天に涌《わ》き、溺死する者、凡《およそ》、二萬六千餘人、林叟の舊地、忽ち、變じ、巨海《きよかい》と、なれり。云云《うんぬん》。」。
[やぶちゃん注:「益頭郡坂本村」「高草山林叟院《かうさうざんりんさうゐん》」場所は現在の焼津市坂本の後背に標高五百一メートルの高草山(たかくさやま)を望む、ここである(グーグル・マップ航空写真)。山号である「高草山」の読みは、同寺の公式サイトの「沿革」の記載に従がった。通常、寺院の山号名は「さん」と清音で記すのが普通で、連濁で「ざん」と読みケースは、一般にレアであるので、敢えて注した。「曹洞禅ナビ」の「高草山 林叟院」のページに、『文明3年(1471年)、今から545年の昔、時代は応仁の乱世にあって静岡県焼津に開かれた曹洞宗「林叟院」。元々は現在ある高草山麓、坂本の地ではなく、今では海中に没してしまった地、旧会下之島(えげのしま)海岸(現焼津市小川港の辺)の沖合いに建立されました。しかし、26年後の明応6年(1497年)、ある不思議な出来事をきっかけに今の地に移転することになったのです。移転の翌1498年に東海地方を襲った明応の大地震。発生した大津波による溺死者は(全国で)2万6千人。元の所在地、会下之島は一日にして海中に没してしまったと伝えられます。多くの犠牲者を出した悲しみの中、かくして難を逃れた林叟院。その不思議な移転にまつわる開創物語については、林叟院公式HPが詳しく紹介します。』とあり、以下には、やはり、『高草山 林叟院(こうそうざん りんそういん)』とある。以下、『勧請開山』は『崇芝性岱(そうししょうたい)大和尚』、『二世草創開山』は『賢仲繁哲(けんちゅうはんてつ)大和尚』、『開基』を『長谷川次郎左右衛門正宣(まさのぶ)(法永居士)』とする。さて、戻って、同寺の公式サイトの「沿革」の記載に戻ると、「林叟院開創物語」に、本文の奇譚、及び、賢仲禅師のことが詳細に記されてある。
《引用開始》
法永居士の発願
林叟院は、文明3年(1471年)現在地の焼津市坂本ではなく、焼津市小川(こがわ)の会下之島(えげのしま)[やぶちゃん注:「ひなたGIS」のここの戦前の地図で、やっと見つけた。「會下ノ島」(右から左に書かれており、「會」「下」の右に「ヱ」「ゲ」とごく小さく読みが添えてある)と確認出来る。現在の焼津漁港の南端の東海造船焼津造船所を陸側に時計回りに回り込んだ、現在の黒石川の河口の北の堤防を少し下った信香院という寺院のある辺り、グーグル・マップ航空写真で示すと、ここの附近が旧「會下島(ゑげのしま)」である。]に長谷川次郎左右衛門正宣(じろうざえもんまさのぶ)を開基として建立されました。長谷川次郎左右衛門は坂本の地頭、加納義久の次男として生まれ、長谷川家の嫁婿となった人で、篤く三宝に帰依し自らを法永居士(ほうえいこじ)と号しておりました。
時代は応仁の乱世にあり人々の心身は荒廃を極めていました。そこで法永居士は領地である小川の地に寺を建立し、人々の安寧を図りたいと考えました。当時この地域の名僧崇芝性岱(そうししょうたい)禅師が開いた坂部(今の静岡空港の南側)の石雲院には、三千人を超える(伝)修行僧がおりました。その中に石雲七哲といわれる七名の名僧の内の一人、備中岡山の生まれである、賢仲繁哲(けんちゅうはんてつ)禅師が修行に励んでいました。法永居士は石雲院の崇芝禅師に懇願し、賢仲禅師を林雙院の開山としてお迎えしたのです。開創当時、寺の名は「林雙院」と表わしました。それ以降賢仲禅師は小川の林雙院にて人々の教化に務めたのでした。
不思議な修験者の予言
開創して二十七年の歳月が流れたある日のことです。一人の年老いた修験者が現れ、賢仲禅師に言葉静かにこう忠告しました。「来年にはここに天変地異が襲って来るでしょう。林雙院は新しい土地に移転した方がよいでしょう。」賢仲禅師と修験者は連れだって適地を探しに門をましたが足は自然と高草山の方へと向かいました。
やがて今の坂本の地まで来ると修験者は「この地こそ寺としての適地であります。もし、私の言葉を信ずるならば私は永く護法の山神となりましょう。」と告げました。賢仲禅師が振り返るとそこに修験者の姿はなく、大きな杉の木の根元に一片の石を残すのみでした。
事の次第を法永居士に伝え、その年直ちに今の坂本の地に寺を移しました。するとその翌年の明応7年(1498年)8月には大雨のため大洪水となり、また大地震の発生で大津波がこの地を襲い、寺の跡地は勿論のこと小川の海辺は海中に没してしまいました。
これが世にいう「明応の大地震」です。この大地震は東海地方に甚大な被害をもたらしました。推定マグニチュードは8以上、記録ではその津波による溺死者2万6千人(地震による全体合計か)と伝えられ、この時浜名湖の砂防が今切で決壊し、現在の汽水湖となったことでも知られています。
大きな被害と多くの犠牲者を出した悲しみの中、修験者の予言により難を逃れた林雙院はこのことを後世に伝え残すため、寺の名をその老人を意味する「叟」の字をとって「林叟院」と改めました。それ以来、老人が一片の石と化したといわれる場所にそびえる大杉を「山神杉(さんじんすぎ)」と呼び、またその石には住職が交代ごとに血脈(けちみゃく)を授け仏縁を結び、「山神血脈石(さんじんけちみゃくせき)」(山神石)と呼んで寺を守る護法の神として奉るようになりました。
禅師の道風を慕って
賢仲禅師は永正5年(1509年)までの三十八年間を林叟院にて過ごしました。禅師の道風を慕って参禅するものは大変多く、伽藍が傾く程でした。七十歳を過ぎた禅師は陰楼のため島田の伊太の愚鶏寺に閑居しましたが、弟子の大樹宗光(だいじゅそうこう)師が静居寺(じょうこじ)を建立することとなり陰に陽に助力を与えました。その建立後は静居寺で老を養う身となり永正九年(1513年)静かにその生涯を閉じました。齢七十五歳でありました。
林叟院から枝分かれした末寺寺院は県内外二六〇余ヶ寺を数えます。その繁栄は賢仲禅師を始めとしてその弟子またその弟子と名僧を多く輩出したことによるものでした。
生前の賢仲禅師は「林叟院の御開山は私ではなく、日夜この山にあって我をお護り下さる本師、崇芝性岱禅師様である。」という言葉を残されました。この言葉を後世まで引き継ぎ、私たちは今でも崇芝性岱禅師を開山として賢仲繁哲禅師を二代様として供養しているのです。
《引用終了》
「示を禀け」目上の人から指導や教えを授かること、また、指示や許可を仰ぎ、受けることを意味する。特に仏教では「仏・師匠の教え(教導・指示)を素直に受け入れ、自らの行動や修行の規範とすること。」を指す。
「空門」一切を「空」と考える大乗仏教の根本的教義。
「山阿の地」山の隈(くま)。山の奥の入り込んだ場所。
「晤語」向き合って、うちとけて話すこと。]
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