阿部正信編揖「駿國雜志」(内/怪奇談)正規表現版・オリジナル注附 「卷之二十四下」「幽魂歸舊里謁寺僧」 / 「駿國雜志」(内/怪奇談)電子化注~完遂
[やぶちゃん注:底本はここ。句読点・記号を附加・変更し、段落を成形した。なお、最後の次行には、下インデント二字空けで『――(卷之二十四下終り)――』とあるが、これは、刊行編集発行した担当者が添えたものであるので、ここで記しておく。
これを以って、昨年の一月二十八日に起動した「駿國雜志」(内/怪奇談)電子化注を完遂した。他の複数のプロジェクトと同時進行であったので、凡そ一年三ヶ月かかったが、今までの「怪奇談集」の中では、非常にレベルが高い内容であったので、大いに満足している。無論、「怪奇談集Ⅱ」での新シリーズは、近々、始動しようと思っている。]
「幽魂歸舊里謁寺僧《いうこん きうりに かへり じそうに えつす》」 益頭郡《ましづのこほり》郡村《こほりむら》、繁林山源昌寺【曹洞、止駄郡《しだのこほり》若王子村洞雲寺末。】に、あり。傳云《つたへていふ》、
「田中の城主本多遠江守正意《まさおき》、家士《かし》山口郡司《ぐんし》某《なにがし》と云《いふ》者、文化二年、江戶に勤番す。
此年、□月□日、惡疾《あくしつ》を病《やみ》て、死せり。
其夜、菩提所源昌寺《げんしようじ》に詣《まひ》りて、對面を乞《こふ》。
和尙、遠路を來り問ふを悅《よろこび》て、物いはんとすれば、忽ち、形《かたち》を失《しつ》して、徃方《ゆきがた》を知らず。
寺僧、
『奇《き》。』
とし、疑ふ事、凡《およそ》四日、時に、其父、惣右衞門某《そうゑもんなにがし》の許《もと》より、書を送りて、郡司が死を告げ、作善追福《さぜんついふく》を賴めり。
爰《ここ》に於《おい》て、先《さき》に來《きた》れる時日を合《あは》せ考《かんがへ》るに、卒《そつ》の時尅《じこく》に、聊《いささか》、違《たが》はず。
幽魂、纔《わづか》、一尅《いつこく》の間《あひだ》に、行程四十八里餘を來徃《らいわう》して、墓地に至り、和尙に面謁《めんえつ》す。
其志《そのこころざし》、偏《ひとへ》に、祖先と葬穴《さうけつ》を同《おなじ》ふせん事を求《もとむ》るに、あらん。
是、『最期《さいご》の一念、牛を引《ひく》。』の謂《いひ》にして、誣《そしる》べからざるの怪談也《なり》。
[やぶちゃん注:「文化二年」一八〇五年。徳川家斉の治世。なお、本書を書いた旗本阿部正信は文化一四(一八一七)年九月に駿府加番となって、駿府城の守衛などを担った。任期は一年間であったが、在任中から、また、江戸に戻ってからも、駿河国七郡の歴史・風土などを調査して書き上げたものが「駿國雜志」であった。これは、その中の怪奇談集パートに過ぎないが、しかし、このエンディングに覚悟ある家士山口郡司の霊の来訪譚を据えて、実に相応しい静謐にして荘厳(そうごん)なる終曲を奏でていると言える。
「四十八里」百八十八・五〇九キロメートル。GoogleのAIに「現在の藤枝市にあった田中城から、江戸の田中藩上屋敷までの距離を、旧東海道経由だと、どれぐらいになりますか?」と聴いたところ、約百九十八キロメートル(江戸時代の尺度で約五十里余り)と出た。穏当な数値であろう。
「最期の一念、牛を引。」「牛に引かれて善光寺参り」の伝説通り――信心のなかった強欲な老婆が、軒先に干していた布を「牛」(実は「仏の化身」であった)の角に引っ掛けられて、それを追いかけて行くうちに善光寺に辿り着き、仏の教えに目覚めて成仏した、――という話にあるように、「牛に引かれる」は、仏教説話やその死生観に於いて――他者の導きによって悟りや浄土へ向かうこと――を象徴している表現である。]
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