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2026/07/16

芥川龍之介の霊に呼ばれたか⋯⋯!!!

さっき、気まぐれに、ふっと、国立国会図書館デジタルコレクションで「芥川龍之介 原稿」で検索をかけた。すると、

芥川竜之介 著『未定稿・デッサン集』,雪華社,1971.(本登録をしないと見られない)

というのが目に留まった。かの葛巻義敏氏の編である。――迂闊にも、私は入手していない本だった⋯⋯しかし、全画像を見たところ、所持する

①同氏編の昭和30(1955)年ひまわり社刊の「椒圖志異 芥川龍之介」

②同氏編の昭和43(1968)年岩波書店刊の「芥川龍之介未定稿集」

③日本近代文学館編の平成27(2009)年二玄社刊の「芥川龍之介の書画」

に載るもので、概ね、デッサンは含まれているようである。但し、最後の未定稿原稿の画像は、①に活字化されているものの、元原稿を見るのは、初めてだった。

しかも! これらの画像が――以上の三書に比して、全部が! 俄然!! 極めてクリアーなのである!!!

⋯⋯そして⋯⋯この国立国会図書館デジタルコレクションの当該書の公開日を見て驚いたのだ!!!

『芥川竜之介 著『未定稿・デッサン集』,雪華社,1971. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/12728974 (参照 2026-07-16)』☜!

今日なのだ!!! 龍之介の霊が呼んで呉れたとしか、思えないのだった!!! これで、暫く御無沙汰であった芥川龍之介のプロジェクトを、おっぱじめねばなるまい⋯⋯

2026/07/15

甲子夜話卷之九 三 肥前佐嘉にては火毬降ることある事

9―3 肥前佐嘉にては火毬降ることある事

 吾が永昌寺(えいしやうじ)の隣(となり)の宗源寺(そうげんじ)の住持(ぢうぢ)を、順道(じゆんだう)と云(いふ)。肥前佐嘉(さか/さが)領(りやう)の人なり。

「永昌寺に、語れり。」

とて、聞く。

「佐嘉にては、時として、天より、火毬(ひまり)、降ること、あり。里人、「テンピ」と謂ふ【「テンピ」は「天火」なる當(べ)し。】。

 火毬、おつると、地上を轉(てん)ず。

 人、これを視れば、卽(すなはち)、簇(むらが)り、逐(お)ふ。

 逐(おふ)とき、念佛を高唱(かうしやう)す。

 逐へば、乃(すなはち)、囘轉して、逃(にげ)るが如(ごと)し。

 因(よつ)て、郊外に逐行(おひゆき)て、野に轉(ころ)び入(いれ)ぱ、災(わざはひ)、なし。

 逐(お)はざれば、人家(じんか)に轉び入(いり)て、火を發す。」

と云ふ。

 奇(き)なること也(なり)。

 

■やぶちゃんの呟き

「吾が永昌寺」サイト「浄土宗寺院紹介」の「永昌寺」に拠れば、当初、永禄元 (一五五八) 年に浅草『下谷に下谷長者が開創した寺』で、寛永一四 (一六三七) 年に『現在の地』(台東区東上野のここ。グーグル・マップ。)『に移っているが、近辺は大名屋敷が多く、肥前藩主松浦壱岐守の妻、永昌院が開基となり、寺名に由来している』とあった。なお、この寺は、かの講道館柔道の発祥の地であることが書かれてある。

「宗源寺」永昌寺の西北西の直近にある、同じ浄土宗寺院。前のマップ・リンクで確認出来る。

「肥前佐嘉領」ウィキの「佐賀郡」に拠れば、『文献における初出は』「肥前國風土記」『(奈良時代初期・』八『世紀前半頃)で、佐嘉郡(さかのこおり)と表記された。一方』、「日本靈異記」(平安初期・』九『世紀前半頃)では肥前国佐賀郡とあるように』、『古代から江戸時代まで「佐嘉」「佐賀」両方の表記があった』とある。

「天火」「国際日本文化研究センターデータベース」の「怪異・妖怪伝承データベース」のこちらの「検索ページ」で、筆頭の「検索対象事例」に「テンピ」として本篇内容と同一内容が掲げられ、詳細カードには「地域(区町村名)」を『東松浦の山村』とし、『正体の知れない怪火で、大きさは提灯ほど。人玉のように尾を曳かない。佐賀県東松浦の山村では、これが落ちると病人が出るといって、鉦を叩いて追い出したといわれる。』とある。以下、「類似事例(機械学習検索)」に、熊本県(三件)・佐賀県・高知県(三件)(ノビ・ケチビ)・愛知県(オクリビ)・静岡県(グヒン・アキバシンカ)・静岡県(オチカビ)・京都府(タヌキノヒ)等が列挙される。それぞれの怪火の名のリンク先で詳細が読める。

河原田盛美著「淸國輸出日本水產圖說」正規表現版・オリジナル電子化注 中卷(八)乾貝並貝柱の說(その15) 板良貝柱

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は、第一始動の記事、及び、「(一)鰑の說(その2)」の前注の太字部分を参照されたい。今回はここの右ページから。]

 

   板良介柱《いたらかいはしら》

板良介(いたらかい)、一《いつ》に『にしきかひ』と名(なづ)く。「日東魚譜(につとうぎよふ)」に『錦蛤(きんがう)』と曰ふ。穀色(こくしよく)[やぶちゃん注:「殼色(からいろ)」の誤字。東洋文庫版で、漢字のみ修正注がある。]を以て、之を名(なづ)く也(なり)。『蛤(かう)の形、羽蛤に似て』、『背上に細條理《さいでうり》あり』。『沙剌《しやし》の如く』、『其色、紅(こう)、黃(くわう)、或は鮮紅』、愛すべし。『未だ、漢名を知らず。』[やぶちゃん注:以上は後注で「日東魚譜」の原文を示すが、一応、引用らしい部分のみを二重鍵括弧を添えたが、引用としては、正確さに甚だ欠けており、河原田氏が勝手に表現をいじって、追加してしまっている。]但(たヾ)、殼を以て、玩(ぐわん)と爲(な)すと在(ある)ものなるが、此貝柱を乾製したるものは、近年、「いたや介」、柱と共に淸國に輸出する少許(せうきよ)にあらず[やぶちゃん注:「少しばかり」というレベルではない(相応の輸出を行っている)。]。然(さ)れども、此介は、成長の度(ど)、甚だ、遲きを以て、捕季(ほき)を制定せざれば、每年に利を得る、なし。此板良介は、五、六月の間(あいだ[やぶちゃん注:ママ。])に採捕(さいほ)するものなるが、小介(せいかい)を、悉(ことごと)く捕(と)るより、四、五年、或(あるい[やぶちゃん注:ママ。])は、七、八年も、甚だ、產額を滅ずること、あり。

 乾製法は殼を去り、貝肉、凡そ、二斗五升に、食䀋(しよくえん)二升五合を和(くわ)し、入置(いれおき)しこと、一夜(いちや)にして、釜に入れ、煑ること、凡《およそ》十五分間にして、莚蓆(むしろ[やぶちゃん注:二字へのルビ。])に散布し、日乾(ひほし)すべし。

[やぶちゃん注:これは、

翼形亜綱イタヤガイ目イタヤガイ上科イタヤガイ科カミオニシキ亜科カミオニシキ属ニシキガイ Chlamys squamata

である。ここでは、先ず、保育社の『吉良図鑑』(昭和三四(一九五九)年改訂版)を引く。『殻は中形で左殻は少し膨れるが右殻は殆ど平坦である。殻表には強弱のある低い放射肋が約5条あり, 肋間に3~4条の小間肋を挾む。主肋間肋共に大小の鱗片が粗く突起する。色は多食形で白色・褐色・紅色など種々あり, 斑紋は雲状斑が多い。足糸彎入』(一部の斧足類の中で、殻の縁の一部が小さく弓型に窪んで、足糸(そくし:やはり一部の二枚貝がも持つ体内から分泌する細い糸状部位。これで貝を岩や小石に附着させる)を出す部分のこと)と櫛歯』(足糸を出す部分の突起を指す。足糸を綺麗に梳き広げて、安定して岩に固着させるための部分)『も顕著である。本州南部以南5~10fms.』(英語:fathom(s)(ファゾム:漁業上に使われる水深単位「尋(ひろ)」の略。同図鑑概説では6尺換算しているので、一・八二~十二・七三メートルである)とある。

 次に、小学館「日本国語大辞典」を引く。『にしき‐がい‥がひ【錦貝】』『① イタヤガイ科の二枚貝。房総半島以南に分布し、水深一〇~五〇メートルの岩や小石に付着する。殻はホタテガイに似て』、『丸みを帯びた扇形を呈するが、小形で殻が薄い。殻長約四センチメートル。約二〇条の放射肋』『が走り、そのうち強い放射肋上には短い鱗片状の突起をそなえる。殻の色は褐色・黄・赤・紫など多彩で、不規則な雲形模様を呈するものが多い。殻は観賞用にされる。みやこがい。〔書言字考節用集(1717)〕』。『② 貝殻に美しい模様のある貝。』。

 ウィキはないので、「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」の当該種のページを引く。「漢字」は『丹敷介、丹敷貝、錦介、錦貝』。「由来・語源」『『丹敷能浦裏』より。色合いから』。「生息域」は『海水生。房総半島以南。インド・西太平洋域』で、『水深5〜40メートル』。「生態」は『足糸で岩礁について棲息する。』とし、「基本情報」の項には、『市場に入荷することも、食用とされることもない。貝の収集の対象。』『淡い紅色が美しい』と終わる。なお、そこに出た「丹敷能浦裏」というのは、誤記で、「丹敷能浦裹」が正しく、「にしきのうらつと」と読む。「渚ノ錦」「渚の丹敷」。Terumichi Kimura氏の貝類サイト「@TKS」「貝の和名と貝書」によれば(以下、引用ではアラビア数字を漢数字に代えさせてもらった)、曾永年著で享和三(一八〇三)年刊、上下二巻。『上巻は二枚貝、下巻は巻貝で、合計百二十三項、五百四十品。付録五十四品を載せている』。『緒言によれは美麗な彩色図があるはずだが詳細不明。曾永年は通称を占春といい、薩摩候 島津重豪の記室。占春は貝類を記載するに当たり、ある一個の代表種を題目に掲げ、 類似のものはその下に取り纏めて記するような方式をとっ』ているとある。当該書は「東京国立博物館デジタルライブラリー」で原本画像(カラー)を見ることが出来る。ここである。以下、字起こしをしておく。右附き送り仮名はフラットにし、読みは( )で示した。

   *

錦木(ニシキ) 無對ノ類形礒(イソ)貝ニ似タリ表ノ縁(ヘ)リ黄色正中赤ク光艷アリ內チ黄白光アリ光彩他ノ介ニ勝(マサ)レリ愛ヘシ

   *

この図は、まあ、解説と図からニシキガイに同定出来る。なお、「礒(イソ)貝」は先行するここに出るが、色も形も似ていない。「䗩(ヨメノサラ)ニ似テ」以下の解説と図の形状から、私は腹足綱直腹足亜綱新生腹足上目吸腔目スズメガイ科スズメガイPilosabia trigona ではないかと推測する。

 しかし、以上の通り、如何なる現代のニシキガイの記事では、ここに記されるような食用対象の記載は、全くないのである。貝類収集家である私も、貝殻は幾つも持っているものの、これを食べたことは、ない。小さ過ぎる。されば、ここに列挙されていることには、正直、驚いた。というより⋯⋯「これって⋯⋯何か、もっと大きな別種じゃないか?」と深く疑っているのである。

「日東魚譜」私はカテゴリ『神田玄泉「日東魚譜」』を持っているが、四記事で停滞している。実は、彼の図譜が好きになれないからである。同書については、その初回『カテゴリ 神田玄泉「日東魚譜」 始動 / 老金鼠(ホヤ)』を見られたい。国立国会図書館デジタルコレクションのここが当該部である(左丁終り)。訓読しておく。推定訓読部は《 》で示した。推定脱落訓点は≪ ≫で添えた。

   *

錦蛤【同上】[釋名]形、羽蛤《はかひ》に似て、紅黃綘色、相交《あひまじは》る故に「錦蛤」(にしきかい[やぶちゃん注:ママ。])≪と≫名《なづ》く。狀、羽蛤より小んして、背の上、條理《でうり》有《あり》て、𮈔《いと》のごとく、沙刺、生ず。未だ漢名を知らず。

   *

・「同上」前の「羽蛤」の割注に『和品』とあるのを指す。

・「羽蛤」これ、ご覧になれば判る通り、貝殻の形状は、全く以って、ニシキガイとそっくりである。モノクロームだったら、別種とは思えないのである。ニシキガイは、幾つも採取したが、実は、貝殻背部の色は非常にヴァリエーションが多く、全体が白いものもある。ここまで白いには、所謂、白化個体であろう。それが一番しっくりくるのである

「いたや介」前の「(その14) 板屋貝柱」を見よ。]

2026/07/14

立原道造 詩集 優しき歌 Ⅰ 全篇 オリジナル分析注附き(★準備稿第5版)

《★以下は、「立原道造 詩集 優しき歌 Ⅰ 全篇 オリジナル分析注附き」の私の準備稿である。このプロジェクトは非常に時間が掛かるため、部分公開をすることとする。疑問・反論があられる方は、是非、お伝え下されたい。その内容に納得出来た場合は、書き直しをすることを、厭わないつもりである。以下の部分公開は、増補を行う都度、前のものを削除し、新たに起こすこととし、その際、既に示した内容でも、修正を加えて書き変えてあるので、必ず、再度、全体に目を通されんことを望む。

 

[やぶちゃん注:私は既にブログ・カテゴリ「立原道造」で、国立国会図書館デジタルコレクションの「立原道造全集 第一卷 詩集Ⅰ」(一九七一年角川書店刊)を用いて、「詩集 優しき歌 Ⅰ」の全篇を一篇ずつ、電子化し、オリジナル注を附したものを完遂している。総表題ページはここで『優しき歌 I 風信子叢書 第四篇』(下方の二つの附属表記は底本ではポイント落ち。「風信子」は「ヒアシンス」と読む。以下の冒頭の引用を参照されたい。)とあり、本篇はここからである。

 以下、第一回の「燕の歌」の冒頭注で、底本の「解説・編註」の一部を引用して述べた通り、本底本は――今までの全集とは異なる形で詩群が配置されている――ことが明記されており、しかも、★現在、流通している立川道造の詩集中の「優しき歌 Ⅰ」は、殆んどが、新字採用であり、しかも、本底本全集刊行以前の詩集の、全く異なった「優しき歌 Ⅰ」を以って読んで、鑑賞したきりの読者が、想像以上に多いと考えられるのである。私でさえ、本詩群が載る一九八八年岩波文庫刊「立原道造詩集」(杉浦明平編/現在は品切れ)を古本で入手したのは、二〇一五年の夏であったのである。

 されば、前にまず、ブログで「立原道造 詩集 優しき歌 Ⅰ / 全篇一括ベタ版・附;縦書版(PDF)」を公開した。その縦書版PDFこちらである。

 

 今回は、私なりに、道造が「優しき歌 Ⅰ」として全体をソリッドなものとして意図した「流れ」を、ある意味では、批判的に分析することになる。

 それは、既に、各篇を見てこられた読者も私と同じく、素朴に抱く根本的な疑問があるからである。簡単に言ってしまえば、

★この「優しき歌 Ⅰ」の十二篇からなる詩篇群は、

■巻頭を飾る「燕の歌」が創作されたのは、

昭和一〇(一九三五)年二月以前(「燕の歌」の初出は『四季』第五号(昭和十年三月号で、発行は同年二月二十日の発行)

であり、而して、

■終曲である「淺き春に寄せて」が創作されたのは、

昭和一二(一九三七)年二月以前(「淺き春に寄せて」の初出は『四季』第二十五号(昭和十二年三月号で、発行は同年二月二十日の発行)

で、

時間軸での創作時間は、実に、二年間に跨り、

しかも、以上の巻頭・終曲の初出が同じ詩誌『四季』であったのは、私には、たまたまであったと思われ、

その間にある十篇に至っては、発表されたのは、異なったバラバラな媒体だった

のである。

言うまでもないことだが、この二年間の間には、別な詩篇を、道造は、多数、創作している。いや! 何より大事なことは、

本「優しき歌 Ⅰ」としての叢書刊行の着想を道造が考えたのは、昭和十二年一月のこと推定されていること

である(以上に就いては、既に各篇の注で、底本全集の「解説」・「編註」を引用しつつ、詳細に記してある)。

 

 則ち、

この「優しき歌 Ⅰ」は、道造の生前に実際の原稿として十二篇を纏めて組まれたことはなかっただけではなく、角川書店昭和四六(一九七一)年六月二十日刊の『立原道造全集』の『第一卷 詩集Ⅰ』で初めて――道造の死から実に三十二年一月二十一日も経った後に――忽然と姿を現した十二の詩篇群であった

のである。

 

 思うに、

「優しき歌 Ⅰ」の構想をした道造は、その時点で、必ずや――全篇に亙って――細部に手を入れて変更を考えていたことは、火を見るより明らかである。

 と言っても、それを見ることは、何人(なんぴと)にも出来ぬのだ。

 

 私は以下、私の感性で、感じたことを注として語ることとするだけ、である。

 しかし、そこには、当然、致命的に

★二年もの間の時間経過に拠る道造の感性上の絶対矛盾が存在している

のであり、それを、

★私が道造を偏愛しているからといって、見て見ぬふりをすることは出来ない

ということである。

 なお、先の「ベタ版」のテクストを、そのまま使い、個別公開した際、字注として添えたものも、必要と感じる部分を検証の冒頭に再掲しておいた。

 

 

 優しき歌 Ⅰ 風信子叢書 第四篇

 

 

 燕の歌

    春來にけらし春よ春

     まだ白雪の積れども

           ――草枕

 

灰色に ひとりぼつちに 僕の夢にかかつてゐる

とほい村よ

あの頃 ぎぼうしゆとすげが暮れやすい花を咲き

山羊が啼いて 一日一日 過ぎてゐた

 

やさしい朝でいつぱいであつた――

お聞き 春の空の山なみに

お前の知らない雲が燒けてゐる 明るく そして消えながら

とほい村よ

 

僕はちつともかはらずに待つてゐる

あの頃も 今日も あの向うに

かうして僕とおなじやうに人はきつと待つてゐると

 

やがてお前の知らない夏の日がまた歸つて

僕は訪ねて行くだらう お前の夢へ 僕の軒へ

あのさびしい海を望みと夢は靑くてはてなかつたと 

 

 

 単体公開の注で既に述べた通り、最近、電子化注した「立原道造草稿詩篇 燕の歌(二) (恣意的に発表された正編正規版「燕の歌」を頭に添えた)」があり、それは、編註で、昭和一〇(一九三五)年の春の制作と想定しており、草稿詩篇では、『(二)』としている以上、この「燕の歌」の後に続篇として創作したものであるが、明らかに、この詩篇に比べて、ネガティヴさが、相対的に遙かに色濃いのである。以下に示す。

   *

 

  燕の歌(二)

 

朝をこえ 夜をこえ 望みをこえ

私はどこへ行くのだらう 海よ

私の羽根はもうくたびれた

海よ お前の掌は私を止らせてくれはしない

 

私はいつか信じてゐた 北の村には

昔の私が待つてゐると さうかしら

海よ お前は敎へてくれ きつと知つてゐるから

お前の身體が北の岸に觸れる村で

昔の私が私を待つてゐると 敎へてくれ

 

私の旅はもう長い 私の羽根はくたびれた

海よ お前は波立ち呟いてゐる

 

夜をこえ 望みをこえ 夢をこえ

私はどこへ行くのだらう 海よ

敎へてくれ 北の村で昔の私がやさしい朝と一しよに

私の着くのを待つてゐると敎へてくれ

お前は波立ち呟いてゐる それが私には

何だか不吉な裏切りを 海よ お前がしてゐるやうだ

 

私の羽根はもうくたびれた

私はどこへ行くのだらう 海よ

お前は大きく お前はむごく意地惡だ

 

   *

 私は、今回、この二篇を比較した際、微かに閃いたことは、

――『これは!⋯⋯フランス語の「半過去」と「複合過去」のニュアンス上の違いではなかろうか!?!――

ということであった。道造は、昭和七(一九三二)年八月二十八日(想定)附の堀辰雄宛書簡(底本全集の「第五卷 書翰」のここの「二二」。一高二年進級直後)で、立原は冒頭部で、『この夏は、たうとう東京でぼんやり過してしまひました、佛蘭西語などをすこしやつてみたりして、田舍へも行きたいと思ひましたけれど、結局どこへも行かずしまひでございました。頭のなかで、よい景色のことばかり考へて居りました。そいて、何だかそれが、僕に一番気に入る方法だと、新字ながら⋯⋯』と記しているように、独学で(彼は一高ではドイツ語を選んでいた)本篇を書いた凡そ二年半前から、フランス語を学び始めていた。

 ここで、フランス語の当該文法の違いを簡単に述べると(私は英語が嫌いだったので、大学ではフランス語を第一外国語にしていた)、

「半過去形」は、その行為や状態には終結点がなく、未完了の行為となる。

それに対して、

「複合過去形」では、継続的行為や反復的行為であっても、その期間・回数が閉じた時制として具体的であり、はっきりと完了すると判る行為となる。

 さて、以上の二篇を見てみよう。

 正統である知られた「燕の歌」は、

   *

 

  燕の歌

 

灰色に ひとりぼつちに 僕の夢に★かかつてゐる

とほい村よ

 

あの頃 ぎぼうしゆとすげが暮れやすい花を★咲き

山羊が啼いて 一日一日 ★過ぎてゐた

やさしい朝で★いつぱいであつた――

 

お聞き 春の空の山なみに

お前の知らない雲が燒けてゐる 明るく そして消え★ながら

とほい村よ

 

僕は★ちつともかはらずに待つてゐる

あの頃も 今日も あの向うに

かうして僕とおなじやうに人はきつと待つてゐる

 

やがてお前の知らない夏の日がまた歸つて

僕は訪ねて★行くだらう お前の夢へ 僕の軒へ

あのさびしい海を ★望みと夢は靑くてはてなかつた

 

   *

 ここで★と下線を引いた箇所は、

――詩を吟じている内心に於いて――「海」に仮託された「少女」との感情的体験は、過去としては――閉じていない――

のである。

 ところが、「燕の歌(二)」では、

   *

 

  燕の歌(二)

 

朝をこえ 夜をこえ 望みをこえ

私はどこへ行くのだらう 海よ

私の羽根は★もうくたびれた

海よ お前の掌は私を★止らせてくれはしない

 

私は★いつか信じてゐた 北の村には

昔の私が待つてゐると ★さうかしら

海よ お前は敎へてくれ きつと★知つてゐるから

お前の身體が北の岸に觸れる村で

昔の私が私を待つてゐると 敎へてくれ

 

私の旅は★もう長い 私の羽根は★くたびれた

海よ お前は波立ち呟いてゐる

 

夜をこえ 望みをこえ 夢をこえ

私はどこへ行くのだらう 海よ

敎へてくれ 北の村で★昔の私がやさしい朝と一しよに

私の着くのを待つてゐると敎へてくれ

お前は波立ち呟いてゐる ★それが私には

★何だか不吉な裏切りを 海よ お前がしてゐるやうだ

 

私の羽根はもう★くたびれた

私はどこへ行くのだらう 海よ

お前は大きく ★お前はむごく意地惡だ

 

   *

 ここで下線を引いた箇所は、明らかに、

――詩を吟じている内心に於いて――「海」に仮託された「少女」との感情的体験は――過去としては――殆どが――閉じてしまっている――

のである。

 いや! この「燕の歌(二)」を、道造が「燕の歌」とセットする確信犯を持っていたら、私は、「燕の歌 Ⅰ」は、以下、続いた詩群を後に組むことは、到底、あり得ない――出来ないもの――と断ずることが出来る。さればこそ、この「燕の歌(二)」は草稿としてのみ、残されたのである。

 そして、道造が、自身の比較的若き日の恋愛の思い出を、大学卒業を半年後に控え、また、新鋭詩人としての本格始動の一つの区切りとして――この――「優しき歌」の詩群(私は、この時点で、当初から、彼が、この詩群を「Ⅰ」として自覚し、後に「Ⅱ」を確信犯として企図していたかどうかは、微妙に留保するものである。それは、「覚書 Ⅱ」――底本の「第一卷 詩集Ⅰ」のここの左丁――には「Ⅰ」を打たず、また、前の右丁下の、現行では「優しき歌 Ⅱ」相当の「覚書Ⅱ」にも、「Ⅱ」は、打たれていないからである。だいたいからして、「Ⅰ」は「Ⅱ」の出版後に出現した――しかも、孰れも編者によるものである)を企画したと推理するものである。

 なお、ここで言っておくが、これ以降の詩篇もそうだが――と言うより――多くの道造の詩の実際の彼の恋愛経験を基盤に埋め込んだ作品群に於いて、その相手が、誰(たれ)それであると特定し、姓名を挙げ、恋愛事実と、その破綻を解剖する注や分析を行う意思は――全く――私には――ない。その方面から、詩や物語を分析する必要を一ミクロンも――感じないから――である。「しかし君は、芥川龍之介の作品群では、恐るべき数の、それを、子細にやってきたじゃないか?」と言われるであろうが、それは、龍之介が、本来の結婚したかった女性との結婚を親族に拒否されたことに始まり、既婚者となった後も、驚くべき数の複数の不倫をし、それが、龍之介の作品群執筆の動機・原因となっているケースが有意にあり、それを示さなければ、作品の深層を分析出来ないからであり、さらに、龍之介の精神をも蝕むところの、病跡学的なメスを加えるに際して、絶対的に必要であったからである。道造は、私は一種の双極性障害を抱えていたと考えているが、龍之介よりも、遙かに健全な精神を保持し続けていたのである。

 

 

  •    §   §

 

 

  うたふやうにゆつくりと⋯⋯

 

日なたには いつものやうに しづかな影が

こまかい模樣を編んでゐた 淡く しかしはつきりと

花びらと 枝と 梢と――何もかも⋯⋯

すべては そして かなしげに うつら うつらしてゐた 

 

私は待ちうけてゐた 一心に 私は

見つめてゐた 山の向うの また

山の向うの空をみたしてゐるきらきらする靑を

ながされて行く浮雲を 煙を⋯⋯

 

古い小川はまたうたつてゐた 小鳥も

たのしくさへづつてゐた きく人もゐないのに

風と風とはささやきかはしてゐた かすかな言葉を 

 

ああ 不思議な四月よ! 私は 心もはりさけるほど

待ちうけてゐた 私の日々を優しくするひとを

私は 見つめてゐた――風と 影とを⋯⋯

 

 

 一目瞭然、前の「燕の歌」との決定的な違いは、「燕の歌」が、まさに、プロローグ詩篇として、

ツバメが⋯⋯すぅーと⋯⋯遠い村を眺め⋯⋯暮れやすい花を咲かし⋯⋯山羊が啼いている軽井沢の野原を翔(と)び⋯⋯

音符のスラーのような春の空の山並みを掠めて⋯⋯夕焼けの中の遠景の村の遠景の色⋯⋯

と、水彩画で描き、次でブレイクして、

「僕はちつともかはらずに待つてゐる」「あの頃も 今日も あの向うに」「かうして僕とおなじやうに人はきつと待つてゐると」という確信犯の半過去の自己感懐の吐露をなした上で、「やがてお前の知らない夏の日がまた歸つて」「僕は訪ねて行くだらう お前の夢へ 僕の軒へ」「あのさびしい海を 望みと夢は靑くてはてなかつたと」という孤独な現在進行形の《閉じた時空間》に屹立しているのだ。

 「燕」は客観的な自然生物体のツバメではなく、「道造という孤独な燕」にメタモルフォーゼしようとしているのである。

 しかし、それを、道造は、読者に、その変容を気づかせないように――巧みに――フェイド・アウトさせているのである。

 さればこそ、この第二篇「うたふやうにゆつくりと⋯⋯」を、ここに配置することで、愛する永遠の女性像を最終第四聯を除いて、美事(私は「みごと」の漢字表記を国語教師であるのに――いや――国語教師である前に孤独な詩人面を確信犯として演じて――永く「見事」と書かずに、かく「美事」と書いてきた。何度か、男子生徒が「先生、『見事』の間違いではありませんか?」と注意しても、「僕は、こう書くことにしているんだ。」と応じて、ニヤッとしたものだった⋯⋯いや、これは、今も、私の個人的な拘りとして現に私の心の中で生きている私の絶対詩語言語なのである)に消し去って、「優しき歌」とするために――自分独りだけの半過去の詠唱にすり替えている――のである。

 物理的な事実が、それを証明する。

★「優しき歌 Ⅰ」のプロローグに置いた「燕の歌」の発表は、

『四季』第五号・昭和一〇(一九三五)年三月号(二月二十日刊)

であるのに対し、

★本「うたふやうにゆつくりと⋯⋯」の発表は、

『婦人畫報』第三百九十八号・昭和一二(一九三七)年四月号(同年四月一日刊)

で、実に――★二年一ヶ月十二日――も離れているのである。

恐らく、殆んどの読者は、本詩篇群が日の目を見た一九七一年当時だけではなく――本日只今にあっても――この事実を全く理解していないに違いないのである。

 そして、最終聯、

   *

ああ 不思議な四月よ! 私は 心もはりさけるほど

待ちうけてゐた 私の日々を優しくするひとを

私は 見つめてゐた――風と 影とを⋯⋯

   *

には、注意が肝要である。

本「優しき歌 Ⅰ」全十二篇の中で、初めて「優しい」という語(「やさしい」の語も含む)が使用された最初が、この二行目の「私の日々を優しくするひとを」のフレーズ中なのである。而して、実は、次の「優しい」は、「薊の花のすきな子に」パートの「Ⅱ 虹の輪」の第二聯の最終行「やさしい樹木のやうに腕をからませ おののいてゐた」であり、次は、同じ「薊の花のすきな子に」パートの次の「Ⅲ 窓下樂」の第二聯の最終行「とほい やさしい唄のやう!」で、その後は、ずっと後の「鳥啼くときに」の第一聯の最終行「なんと優しい笑ひ聲だ!」で、これで終りで、計四回である。

 但し、この物理的事実は、これと言って、問題するべきものではなく、《優しい》ニュアンスが、他の八篇にも感知されていれば、それで良く、それは、確かに、ある、と言える。道造は、無論、それを意識して、これら十二篇を選別したことは、明らかである。

しかし、そこは、時期を相応に隔てて、全く別個に詠んできた詩篇を、ある意味、無理矢理に「一緒くた」にしたことには、私は、かなりの問題があると感じているのである。

 而して、最終聯の、

   *

私は 心もはりさけるほど」「待ちうけてゐた 私の日々を優しくするひとを」

   *

の告解は、最早、特定の過去の複数の失恋相手誰(たれ)それなのではなく、

――架空の哀しい過去・現在・未来に於いて実現されない「私の日々を優しくするひと」を必死にイメージした産物――

であり、この「優しき歌 Ⅰ」全体に仕掛けられた

★「バッソ・コンティヌオ(Basso continuo)」=通奏低音となっている

と、私は信ずるものである。

 

 

  •    §   §

 

 

   薊の花のすきな子に

 

  Ⅰ 憩らひ

       ―― 薊の花のすきな子に――

 

風は 或るとき流れて行つた

繪のやうな うすい綠のなかを、

ひとつのたつたひとつの人の言葉を

はこんで行くと 人は誰でもうけとつた

 

ありがたうと ほほゑみながら。

開きかけた花のあひだに

色をかへない靑い空に

鐘の歌に溢れ 風は澄んでゐた、

 

気づかはしげな恥らひが、

そのまはりを かろい翼で

にほひながら 羽ばたいてゐた……

 

何もかも あやまちはなかつた

みな 獵人(かりうど)も盜人もゐなかつた

ひろい風と光の萬物の世界であつた。

 

 

[やぶちゃん注:この作品の初出は『コギト』第四十四号(昭和一一(一九三六)年一月号・一月一日刊)である。さても、ネットの個人評釈の中で、この添え題の中の『薊の花のすきな子』を、彼が勤めていた「石本(いしもと)建築事務所」【今回、「石本」の読みを確認するために、現在もある「石本建築事務所」公式サイトを訪ねた。そして、そこの「環境統合技術室」の『社会が変化しても「変わらない」想い』以下に、何んと! 道造の直筆原稿四葉から成る「建築衞⽣學と建築裝飾意匠に就ての⼩さい感想」が画像で示され、さらに字起こし(但し、現代仮名遣・新字である)もされているのを見て、驚愕した! 後の解説によれば、『本小論文は1936年(昭和11年)3月頃、立原道造が東京帝国大学建築学科2年次の終わり頃に書かれたものと言われています。』とあった。その年月日は――後に示す通り、ここまでの「優しき歌 Ⅰ」三篇の書かれた時期のど真ん中の時の原稿――なのである!! 是非、見られたい! 道造の当時の優しい読み易い筆致を見るだけでも至福たること、保証する!!! しかも! ★この原稿は角川版「立原道造全集」にはこの論考は載っていない★のである! 調べたところ、引用した通り、同全集の書簡の昭和十一年二月十八日附小場晴夫宛『二〇八』の末尾の方に(ここの左丁の下段一行目)『試驗が近くなると、目がまはりさう。試驗前に出す、演習の製圖があり論文があり、學校の製圖があり、衞生の論文があり』とある最後のものがそれである。同巻の「編註」を見ると、まさに、この「衞生の論文」について、『平山嵩助教授の「建築衞生」の提出論文のこと。』とある。】に働いていた水戸部(みとべ)アサイであろうか? とするものを見たが――

それは、物理的にあり得ない

のである。底本全集の「第六卷 雜纂」の「年譜」によれば、道造が同建築事務所に初出勤したのは、昭和十二年四月一日であり、同年譜では、昭和十四年四月の項に、『四月』『上旬、同じ事務タイピストをしていた水戸部アサイの姿が、少しづつ始める』(ここの五月の右丁下段五行目から)とあり、それ以降、急速に親密になっている(同左丁上段後ろから七行目以降、及び、同左丁下段の六月の項を見られたい)。但し、以降、道造が水戸部アサイを死に至るまで愛し続けたことは、明らかである。亡くなる記事の載る、ここの三月(右丁上段後半部。道造の逝去は三月二十九日午前二時二十分で、『肉身にもみとられずにひとり息を引きとった。享年、二十六歲(満二十四歳八か月)』とある。具体には、候補者は信濃追分で出会った親戚筋の少女横田ケイ子、同地で出逢った弁護士の令嬢関鮎子であろうかとは思う。しかし、クドいが、既に述べたように、詩篇に登場する詩人が愛した女性を特定することには、私は全く興味がないし、必要性もない――誰であるかというのは、彼の詩を解読する鍵とは――全く――ならない、と断言するものである。なお、敢えて、『立原道造「詩集 優しき歌」再起動版 詩集 優しき歌 Ⅰ  薊の花のすきな子に Ⅰ 憩らひ ――薊のすきな子に――』の私の注では、「薊の花のすきな子」の注に、引用で示してあるから、どうしても詮索が好きで、具体な彼が愛した女性が知りたい向きは、そちらを見られたい。

 因みに、「薊」の花の花言葉なんぞを意識したかどうかは、私には判らないが(私は「花言葉」には全く興味がない)、取り敢えず、サイト「GreenSnap STORE」の「【アザミの花言葉】怖い意味はないけど、色や種類で意味が違う?」から拾っておく。

『アザミの花言葉は「独立」「報復」「厳格」「触れないで」です』。『「独立」「報復」はスコットランドに伝わる伝説に由来します。「厳格」は動物を寄せ付けない雰囲気や、春から夏にかけて凜と咲くアザミの特徴が由来とされています。「触れないで」は、アザミの特徴である鋭いトゲが由来です』。『なお、アザミの花言葉に怖い意味はありません』。『アザミはさまざまな色の花を咲かせますが、それぞれにちがう花言葉がついています。ここでは4色のアザミについた花言葉をご紹介します』。『赤いアザミ』は『「権威」「報復」「復讐」』、『紫のアザミ』は『「厳格」「気品」「高貴」』、『白いアザミ』は『「ひとり立ち」「自立心」』、『青いアザミ』は『「安心」「満足」』、『赤いアザミの花言葉は「権威」「報復」「復讐」です。花以外にも葉や花の根元に鋭いトゲがついていることに由来すると考えられています』。『紫のアザミの花言葉は「厳格」「気品」「高貴」です。紫は古くから高位の人のみが身につけることを許されていた色です。紫のアザミにもどことなく高貴な印象があることにちなみ、これらの花言葉がついたと考えられています』。『白いアザミの花言葉は「ひとり立ち」「自立心」です。白は何色にも染まっていないピュアな色です。白だけでも十分に映えることにちなんで、これらの花言葉がついたのかも知れませんね』。『青いアザミの花言葉は「安心」「満足」です。一見、鋭いトゲがついていて近寄りがたい印象がありますが、側にアザミがいてくれれば、動物などを寄せ付けない安心感から、このような花言葉がついたのかも知れませんね。』とある。個人的には、アザミは好き💖 脱線だけど、寿司屋の「山牛蒡」は、モリアザミ(森薊)Cirsium dipsacolepis の根っこだ、って知ってましたか?

 

 さて。分析に入ろう。何より、

本詩は――徹頭徹尾――「複合過去」である

ことだ。この一篇は、表題と添え辞の優しさに反して――その詩の謳う心を語りながら、それは、

★既に終わってしまった魂の陰翳に全体のホリゾントはテッテ的に沈んでいる

のである。以下、ここまでの三篇の初出年月を再掲すると、

○「優しき歌 Ⅰ」のプロローグに置いた「燕の歌」の発表は、

『四季』第五号・昭和一〇(一九三五)年三月号(二月二十日刊)

○第二篇の「うたふやうにゆつくりと⋯⋯の発表は、

・『婦人畫報』第三百九十八号・昭和一二(一九三七)年四月号(同年四月一日刊

で、二年一ヶ月十二日も離れているが、

○第三篇の「薊の花のすきな子に」の「Ⅰ 憩らひ ―― 薊の花のすきな子に――」の発表は、

『コギト』第四十四号(昭和一一(一九三六)年一月号・一月一日刊

で、実は、

この詩篇は――★前の二篇の大まかには中間――但し、第一篇と第二篇のスパンが十ヶ月であるのに対し、第二篇と第三篇とは十五ヶ月も離れている――に当たる時期に創作されたもの★――

なのである。

※この物理的事実を知ると、以下のことが指摘出来る。

 ほぼ半過去の「燕の歌」の感懐は、このざっくりと複合過去による吟詠である「Ⅰ 憩らひ ――薊の花のすきな子に――」にあっては、実は、表題の醸し出しているように見える恋情は――完全に過去のものとして永遠の彼方の地平に暗く屹立してしまっている――のである。

※ところが、「優しき歌Ⅰ」を読む読者の殆んどは、第一篇から第二、第三篇と読み進んでくると――その違和感を感じ取ることが困難であろう――と私は踏む。

 而して――それは――まさしく――道造が「優しき歌Ⅰ」に仕掛けた巧妙なマジック――なのである!

 さらに言えば、添え題「薊の花のすきな子に」がそのマジックに大きな役割を添えている。即ち、通常の読者は、

「薊の花をすきな子に」を見た瞬間、一万人が一万人、誰もが、その「子」は、特定の人物であると自動的にインプレットしてしまう

からである。何度も言っているが

――この「子」は本「優しき歌 Ⅰ」にあっては特定の少女ではない

のである。無論、具体に薊を愛した誰彼がいたことは事実であるが、

――それが誰であるかということを詮索しても、何らの読解の重大な鑰(かぎ)とはならないから

である。「優しき歌 Ⅰ」にあっては、最早、

――あらゆる道造の愛した女性像の昇華してしまったミラージュ(mirage

なのである。

 この「Ⅰ 憩らひ ―― 薊の花のすきな子に――」が発表された『コギト』第四十四号(昭和一一(一九三六)年一月号・一月一日刊)から、四ヶ月後に発表された物語「ちひさき花の歌」(『未成年』第六号・昭一一(一九三六)年・五月号・五月一日刊)、八ヶ月後の物語「花散る里 FRAU R. KITA GEWIDMET」(『文藝懇話會』同年九月号・九月一日刊)にも――前者には『アンリエツト』=『鱵子』(さよりこ)が登場し、「Ⅵ」の終りで、『鱵子は、道のそばに咲いてゐた薊の花を摘みとると、手でくるくるまはしながら薊の花を摘みとると、手でくるくるまはしながら聞いてゐた。僕の頰はほてつてゐた。』と出ており(これは私は未電子化であるので、底本のものをリンクしておく。「ちひさき花の歌」の冒頭はここで、「Ⅳ」の当該部は、ここの左丁一~二行目)、後者では、第二パートの第二段落に『薊の花のすきな娘』が登場する(後者は、私がここで電子化している)。なお、この二篇の内、「ちいさき花の歌」は、作品内の記載から関鮎子がモデルであることが確実に判る。なお、関鮎子について知りたい方は、底本全集の「第六卷 雜纂」の年譜を読むのが最も判り易いと思われるので、昭和九(一九三一)年夏、軽井沢追分での初めての出逢いから、ここと、ここと、ここと、昭和一一(一九三六)年七月九日の最後の関鮎子との別離の最終記載までを、通して読まれたい。

 但し、以上の箇所には、二箇所、関鮎子でない女性の可能性があるものが含まれている。

 まず一つ目は、昭和一〇(一九三五)年十一月十月十二日の項の、ここの右丁下段後ろから五行目以下)『この日柴岡亥佐雄宛に書いた書簡に、「僕は不吉な恋をしてゐる。相手の人は Fiancé があるのだ、しかし僕らは愛しつくされない位互に愛しあつてゐる」と書いているのは、関鮎子、今井春枝のどちらのことか判然としない。鮎子は千葉市内の女学校を卒業後、当時は東京家政学院に通学していて、十一年春には結婚するはずの婚約者がいる身の上であったという』。『また春枝の方も、十一年八月には結婚しているので、当時すでに「Fiancé がある」という身の上だったかもしれない。ともあれ立原は、どのみち悲恋のコースをたどることを強いられてわけである。』とあるものである。

 さらに、ここの(右丁下段後ろから六行目から)、昭和一一(一九三六)年二月一日の項の、道造の同「第六卷 雜纂」の「いろいろなこと㈡」の「★不秩序の祭典」の終りの方の『その焚火の煙のなかに、よき人の姿』(☜)『を見ることの出來たのはうれしかつた。』を引いて『ここで「よき人の姿」と言っているのは、幻影のことなのか、実在の女性(関鮎子・横田ケイ子・今井春枝など)のことなのか、判然としない。』とあるのがそれである。なお、以上の関鮎子の引用リンクには、「鮎子」をポイントしてあるので、そこだけを手取り速く拾い読み出来るようにしておいた。ともかくも、道造の恋愛史を詩篇分析に導入してしまうと、とんだ迷路に迷い込むことは必定なのである。

 

 

  •    §   §

 

 

  Ⅱ 虹の輪

 

あたたかい香りがみちて 空から

花を播き散らす少女の天使の掌が

雲のやうにやはらかに 覗いてゐた

おまへは僕に凭れかかりうつとりとそれを眺めてゐた

 

夜が來ても 小鳥がうたひ 朝が來れば

叢に露の雫が光つて見えた――眞珠や

滑らかな小石や刃金の叢に ふたりは

やさしい樹木のやうに腕をからませ おののいてゐた

 

吹きすぎる風の ほほゑみに 撫でて行く

朝のしめつたその風の……さうして

一日(ひとひ)が明けて行つた 暮れて行つた

 

おまへの瞳は僕の瞳をうつし そのなかに

もつと遠くの深い空や晝でも見える星のちらつきが

こころよく こよない調べを奏でくりかへしてゐた

 

[やぶちゃん注:既に「注」・「字注」で示したものを冒頭に再掲しておく。

 第二聯三行目の「刃金」の「刃」は異体字で、「刅」の右側の「ヽ」を除去した「グリフウィキ」のこれであるが、表示出来ないので「刃」とした。「刅」なら表示出来るのだが、私は生理的に、この異体字が極めて嫌いであり、また、「刅金」を素直に「はがね」と一瞬には読めずに戸惑う若い読者のことを考えて、「刃」としたものである。

 第二聯四行目の「おののいて」は、ママである。但し、今回、底本全集を検索すると、他では、道造は正しく「をののく」を用いている箇所もあるので、完全な思い込みの慣用語ではなく、たまたま、初出原稿で誤った可能性もある。

 さて。この「Ⅱ 虹の輪」初出は『文藝汎論』(第六十号・昭和一一(一九三六)年八月号・八月一日刊)である。

 而して、ここまでの「優しき歌 Ⅰ」の四篇を、時間軸に合わせて並べ直すと、

「燕の歌」➤「Ⅰ 憩らひ ―― 薊の花のすきな子に――」➤「Ⅱ 虹の輪」➤「うたふやうにゆつくりと⋯⋯

となる。そして、年譜的事実に即すなら、

★最後の「うたふやうにゆつくりと⋯⋯」は明らかに関鮎子との恋愛の破綻の後となるのである。

 『立原道造「詩集 優しき歌」再起動版 詩集 優しき歌 I  薊の花のすきな子に Ⅱ 虹の輪』の注で、編註を引き、『初出副題は『夏への四つのプレリユウド』から」』であるが、その『副題の示す他の三篇は未詳である。』とあると示した後で、

   《引用開始》

 なお、この註にある未詳の「夏への四つのプレリユウド」は、一つの仮説に過ぎないが、これは、先行する「詩集 優しき歌 I  燕の歌」と、「詩集 優しき歌 I  うたふやうにゆつくりと⋯⋯」と、「詩集 優しき歌 I  薊の花のすきな子に I 憩らひ ――薊のすきな子に――」の三篇のそれぞれの初稿に、これを加えて纏めた初期構想詩篇である可能性が、一番、あり得るのではないか? とも思われる。心情的には、その四篇のみを並べて、電子化して見たい欲求が強く生じているのだが、これは証拠が一切ないから、涙を呑んで、やめる。

   《引用終了》

と述べた。ここでは、私の好き勝手にやらしてもらおう。そして、時間軸に従って、これを前に示した通りに作り替えて示す。

 

   *

 

   夏への四つのプレリユウド

 

  燕の歌

    春來にけらし春よ春

     まだ白雪の積れども

           ――草枕

 

灰色に ひとりぼつちに 僕の夢にかかつてゐる

とほい村よ

あの頃 ぎぼうしゆとすげが暮れやすい花を咲き

山羊が啼いて 一日一日 過ぎてゐた

 

やさしい朝でいつぱいであつた――

お聞き 春の空の山なみに

お前の知らない雲が燒けてゐる 明るく そして消えながら

とほい村よ

 

僕はちつともかはらずに待つてゐる

あの頃も 今日も あの向うに

かうして僕とおなじやうに人はきつと待つてゐると

 

やがてお前の知らない夏の日がまた歸つて

僕は訪ねて行くだらう お前の夢へ 僕の軒へ

あのさびしい海を望みと夢は靑くてはてなかつたと

 

 

   薊の花のすきな子に

 

  Ⅰ 憩らひ

     ―― 薊の花のすきな子に――

 

風は 或るとき流れて行つた

繪のやうな うすい綠のなかを、

ひとつのたつたひとつの人の言葉を

はこんで行くと 人は誰でもうけとつた

 

ありがたうと ほほゑみながら。

開きかけた花のあひだに

色をかへない靑い空に

鐘の歌に溢れ 風は澄んでゐた、

 

気づかはしげな恥らひが、

そのまはりを かろい翼で

にほひながら 羽ばたいてゐた……

 

何もかも あやまちはなかつた

みな 獵人(かりうど)も盜人もゐなかつた

ひろい風と光の萬物の世界であつた。

 

 

  Ⅱ 虹の輪

 

あたたかい香りがみちて 空から

花を播き散らす少女の天使の掌が

雲のやうにやはらかに 覗いてゐた

おまへは僕に凭れかかりうつとりとそれを眺めてゐた

 

夜が來ても 小鳥がうたひ 朝が來れば

叢に露の雫が光つて見えた――眞珠や

滑らかな小石や刃金の叢に ふたりは

やさしい樹木のやうに腕をからませ おののいてゐた

 

吹きすぎる風の ほほゑみに 撫でて行く

朝のしめつたその風の……さうして

一日(ひとひ)が明けて行つた 暮れて行つた

 

おまへの瞳は僕の瞳をうつし そのなかに

もつと遠くの深い空や晝でも見える星のちらつきが

こころよく こよない調べを奏でくりかへしてゐた

 

 

  うたふやうにゆつくりと⋯⋯

 

日なたには いつものやうに しづかな影が

こまかい模樣を編んでゐた 淡く しかしはつきりと

花びらと 枝と 梢と――何もかも⋯⋯

すべては そして かなしげに うつら うつらしてゐた 

 

私は待ちうけてゐた 一心に 私は

見つめてゐた 山の向うの また

山の向うの空をみたしてゐるきらきらする靑を

ながされて行く浮雲を 煙を⋯⋯

 

古い小川はまたうたつてゐた 小鳥も

たのしくさへづつてゐた きく人もゐないのに

風と風とはささやきかはしてゐた かすかな言葉を 

 

ああ 不思議な四月よ! 私は 心もはりさけるほど

待ちうけてゐた 私の日々を優しくするひとを

私は 見つめてゐた――風と 影とを⋯⋯

 

   *

 

こう並べると、第一篇が「半過去」であるのに対し、第二・三・四篇は纏まって「複合過去」となり、時制上の、ギクシャクした流れが綺麗に整序されるのである。

 しかも、「夏への四つのプレリユウド」である。

   ◆

 「燕の歌」では――「お聞き 春の空の山なみに」「お前の知らない雲が燒けてゐる」が――「やがてお前の知らない夏の日がまた歸つて」「僕は訪ねて行くだらう」「お前の夢へ」「僕の軒へ」「あのさびしい海を望みと夢は靑くてはてなかつたと」――と――「夏」と、夏の「海」を「前奏曲」の巻頭として予言する⋯⋯

   ◆

 「憩らひ」では――「風は 或るとき流れて行つた」、春の「繪のやうな うすい綠のなかを」、「ひとつのたつたひとつの人の言葉を」「はこんで行くと 人は誰でもうけとつた」「開きかけた花のあひだに」「色をかへない」夏を呼ぶ春の「靑い空に」「鐘の歌に溢れ 風は澄んでゐた」、「気づかはしげな恥らひが」、「そのまはりを」燕のような「かろい翼で」「にほひながら 羽ばたいてゐた……」「何もかも あやまちはなかつた」「みな 獵人(かりうど)も盜人もゐなかつた」春風駘蕩たる「ひろい風と光の萬物の世界であつた」⋯⋯

   ◆

 「虹の輪」では――「あたたかい香りがみちて 空から」「花を播き散らす少女の天使の掌が」「雲のやうにやはらかに 覗いてゐた」という春の空の下――「おまへは僕に凭れかかりうつとりとそれを眺めてゐた」――心地よい前奏曲を聴くように――「夜が來ても 小鳥がうたひ 朝が來れば」「叢に露の雫が光つて見えた」――しかし――「眞珠や」「滑らかな小石や刃金の叢に ふたりは」――そこに至福感と同時に――説明出来ない不吉な感じが――「やさしい樹木のやうに腕をからませ おののいてゐた」――それは――遂に必ずやってきてしまう――終わりへの慄(おのの)きだ――すっかり変容してしまう夏の到来に慄いているのだ――「吹きすぎる風の ほほゑみに 撫でて行く」「朝のしめつたその風の……さうして」「一日(ひとひ)が明けて行つた 暮れて行つた」――しかし、そこは――既に微妙に時空が変形した見たことのない夏へ向かって――である――だが、悲しいかな、「おまへの瞳は僕の瞳をうつし そのなかに」「もつと遠くの深い空や晝でも見える星のちらつきが」「こころよく こよない調べを奏でくりかへしてゐた」――のだった――永久に取り返しのつかないカタストロフへの通奏低音だ⋯⋯

   ◆

 「うたふやうにゆつくりと⋯⋯」では――「日なたには いつものやうに しづかな影が」「こまかい模樣を編んでゐた 淡く しかしはつきりと」「花びらと 枝と 梢と――何もかも⋯⋯」――「すべては そして かなしげに」――「うつら うつらしてゐた」――そんな中――一人称単独で――「私は待ちうけてゐた 一心に 私は」「見つめてゐた 山の向うの また」「山の向うの空をみたしてゐるきらきらする靑を」「ながされて行く浮雲を 煙を⋯⋯」呆然と眺めているばかり⋯⋯「古い小川はまたうたつてゐた 小鳥も」「たのしくさへづつてゐた」けれど⋯⋯「きく人もゐないのに」⋯⋯「風と風とはささやきかはしてゐた かすかな言葉を 」⋯⋯「ああ 不思議な四月よ! 私は 心もはりさけるほど」「待ちうけてゐた 私の日々を優しくするひとを」あの時「私は 見つめてゐた――風と 影とを⋯⋯」⋯⋯

   ◆

★この私が仮想した「夏への四つのプレリユウド」は、その総てが結果して――複合過去――なのだ!

★既にして――「私」は――「夏」にあって絶対の独りの存在であり、「優しくするひと」は永遠に「私」から去ってしまっているのである⋯⋯⋯⋯

 

 

  •    §   §

 

 

  Ⅲ 窓下樂

 

昨夜は 夜更けて

步いて 町をさまよつたが

ひとつの窓はとぢられて

あかりは僕からとほかつた 

 

いいや! あかりは僕のそばにゐた

ひとつの窓はとぢられて

かすかな寢息が眠つてゐた

とほい やさしい唄のやう! 

 

こつそりまねてその唄を僕はうたつた

それはたいへんまづかつた

昔の こはれた笛のやう! 

 

僕はあはてて逃げて行つた

あれはたしかにわるかつた

あかりは消えた どこへやら?

 

 

 表題「窓下樂」は、調べてみると、オーストリアのウィーン出身の世界的ヴァイオリニストのフリッツ・クライスラー(Fritz Kreisler 一八七五年~一九六二年)が、フランスの作曲家フランソワ・クープランの様式をもとに作曲した一九一一年のヴァイオリン曲“ Aubade Provençale ” :フランス語・音写「オーヴァード・プロヴァンサル」・逐語訳「プロヴァンスの朝の歌」)があるが、この曲は、日本語に訳された古い楽譜では「プロヴェンス人の窓下樂」と邦訳されていたことが、「CiNii」のここで、確認出来た。東京芸術大学 附属図書館蔵で、この出版社はセノオ音樂出版社、出版年は大正一五(一九二六)年二月発行である(この曲はYouTubeKochan's Channel氏の“"Aubade Provençale in the style of Couperin" by Fritz Kreisler”で視聴出来る)。その「窓下樂」は、また、国立国会図書館デジタルコレクションの「音樂と詩歌との境」(『音樂叢書』第四編/アムブロオス著・辻莊一訳・岩波書店大正一五(一九二六)年刊)のここに、『窓下樂 Ständchen』という下りがあった。しかし、このドイツ語、平凡社「世界大百科事典」の「セレナード Serenade // Serenatka[イタリア])」の解説の中に(コンマは読点に代えた)、『元来は、夕べに恋人の窓の下で歌う歌であるが、ここに含まれる〈夕方〉〈野外〉〈下から上にささげる〉といった意味から派生した各種の芸術音楽の総称となっている。〈夜曲〉〈小夜曲〉と訳されることがある。楽曲の形式を規定せずに演奏の方法や機会を指す名称であるため種類は非常に多いが、大きく次の三つに分けることができる。』『第1は、元来の〈夕べに男性が窓の下で恋人をたたえて歌う〉セレナードで、ルネサンス期のヨーロッパ全体に広まった習慣だった。曲は単純な民謡風のものからポリフォニックな重唱曲にまで及び、求愛する人物自身がリュート、ギター、マンドリンなどで伴奏する場合も多かった。18世紀以後モーツァルトらのオペラの一場面として,あるいはグノー、トスティらによって芸術歌曲として作曲された場合も、伴奏にはしばしばこれらの楽器か』、『楽器特有の音型が用いられる。また』、『このような歌曲を模したバイオリンやピアノの小品も作られている。19世紀ドイツではこの種のセレナードをシュテンチェン Ständchen といい、シューベルトの作品をはじめ』、『多くの歌曲・合唱曲がつくられた。』とあったので、こちらのドイツ語で「小夜曲(セレナーデ)」を意味する言葉と解説された方が、我々には(私には)、すんなり納得でき、また、道造は建築の関係上、ドイツ語を選んでいることから、この単語には、親しかったものと考えられる。因みに、私は、当初、見慣れぬ熟語で、読みに戸惑ったが、所持する昭和六一(一九八六)年改版三十版角川文庫刊中村真一郎編「立原道造詩集」のルビの『さうかがく』で適切と思われる。

 また、第一聯一行目の「昨夜」は、私は、嘗つて、うっかり「さくや」と読みかけたが、の「ゆふべ」が、確かに、しっくりくる。

 なお、第四聯一行目の「あはてて」は、底本の編註にはママ表記がないが、道造の誤り(慣用表現)であることが判明した。底本の全集を横断して調べたところ、彼は詩篇に限らず、書簡でも、しばしば「あわてて」を「あはてて」と誤記していることが横断検索で確認出来た。

 初出は『文藝汎論』第六十号の昭和一一(一九三六)年八月号(八月一日刊)である。ロケーションは軽井沢である(以下の「年譜」を見よ)。

 なお、底本全集の年譜を見ると、或いは、この詩作の字背と関係があるかも知れない、三人の女性についてのエピソードが確認出来るので、参考までに引用しておく。

『七月八日、上野を立ち、夜追分着。「僕にメエルヘンを贈[やぶちゃん注:ママ。「贈」。以下、数ヶ所に正字不全があるので、後は私がブレイクして挿入しておいた。]つてくれた少女(注・今井春枝)が、この月ずゑにHeriratenする。』[やぶちゃん注:ドイツ語で「結婚する」。]『追分に來るとき、その少女と偶然汽車でいつしよになり、雨の小半日を輕井澤ですごした(書簡、七月十一日・猪野謙二宛)。』[やぶちゃん注:同全集第五巻「二五〇」。]』『その夜は春枝も油屋に宿り、翌九日、彼女は帰京。「別れのときに、汽車の窓で、肌につけてゐた水晶のちひさな十字架を』贈『つてくれた。そして.一生涯もうお會ひすることも出來ないだらうと言つた。これが夏の出來事のプレリユードだつた。この少女と別れたやうにしてまた僕は鮎子さんとも別れねあなるまい。まだ、わがひとはここの村に』來『てゐない。そして僕がこの村に』來『てゐることを知らせるにもすぺがない」(書簡、前掲猪野宛)。春技が立原に水晶の十字架を贈ったのは、ジイド作「窄き門」のアリサの行為にならったものであろう。その日彼女は、小雨の中を追分まで立原に送ってもらうが、汽車に乗りそこない、タクシーで軽井沢まで汽車を追ったものの間にあわなかった。けっきょく一汽車遅らせて乗車の際、十字架を立原に渡した(「雨の小半日を』輕井澤『ですごした」とあるのは、この次の列車を待つ間のことをいったのであろう)。そうして彼女は翌八月四日に結婚している。さて立原は春枝との別離のあと、鮎子の出現をしきりに心待ちする。「僕がこの村に来てゐることを知らせるにもすべがない」とは、鮎子がすでに結婚していることを意味することばであろう。彼女はこの年の春に東大出の農学士の内田源太郎と結婚し、十五年一月元日、腸捻耘により二児を残して急逝した(享年二十三歳)。その夫君も、十八年四月に戦死している。』とある。今一人は、既に本記事で登場しており、以上の引用にも出た関鮎子で、七月『十二日』の記載の後に(ここの右丁一行最下部から)、『このころ、物語「かろやかな異ある風の歌」を書き始め、『また春枝との別れを主題とする物語「花散る里」』(これは私の電子化物がここにある)『を構想。同時に鮎子に捧げる幾つかのソネットを構想し』た、とある。実は、以上の春枝と鮎子の記載の間に、道造が「エルザベート」読んだ女性、「横田ケイ子」に就いての記載があるのだが(ここの左丁の下段の後ろから二行目)、既に表明しているように、私は道造の愛した実在の女性たちを詮索することは、全く興味がないので、調べる気は全くない。この横田ケイ子については、ネットで論文もあるので(一応、ダウンロードしたものを持ってはいるが、今のところ、読む気はないし、そんな余裕は、私には、ない)、ご自身で捜されたい。

 なお、既に述べたが、本「優しき歌 Ⅰ」の中で「優しい・やさしい」の単語が第三番めに使われている。第二聯最終行「とほい やさしい唄のやう!」である。

 

 分析に入る。

 まず、全体が複合過去相当であるが、詩を書いているのは、その翌日の設定であり、昨夜の実際の体験の体裁を採っている点で、今までの四篇の時制的複雑性のカラクリは、完全に後退してしまっている。しかも、詩篇は徹頭徹尾、「僕」の独白であり、象徴的な意味深長の「窓」は終始、「とぢられ」ているのであり、「かすかな寢息が眠つてゐ」るに過ぎず、「僕」もまた、独り、「夜更け」の「町」を「さまよ」っている彷徨の影法師でしかないのである。それを如何に「いいや! あかりは僕のそばにゐた」と謳歌しても、「とほい やさしい唄のやう! 」と謳っても、「かすかな寢息」が「とほい やさしい唄のやう!」と「こつそりまねてその唄を僕はうたつ」てセレナードを気取ってみても、「いいや! あかりは僕のそばにゐた」と断言しても、結局は、「それはたいへんまづかつた」ために、「昔の こはれた笛のやう!」と茶化したように叫び、「僕はあはてて逃げて行」くばかりで、「あれはたしかにわるかつた」と自己の不甲斐なさを感じざるを得ず、相手のいない「夜更け」の漆黒の中を疾走するのである! だからこそ、最終フレーズは「あかりは消えた どこへやら?」と投げ出したままに、「羅生門」のラストよろしく――『下人』ならざる「僕」『の行方は、誰も知らない』なのである!

(ブレイク注:個人的に私は同作のエンディングの「誰」を「たれ」と読まねばならないと考えている。そもそも同作では、芥川龍之介は「だれ」ではなく「たれ」と読みを振っていることから、しかして、突き放したコーダは絶対強調の「たれ」の以外にはあり得ないのである)

 更に言っておくと、私は、

★この第三聯の「それはたいへんまづかつた」「昔の こはれた笛のやう!」及び第四聯の「あかりは消えた どこへやら?」に対して『道造が表面上チャラかしてわざと言っているのだ!』と初読した際に強く感じた

のである。

 この詩は、初読者の中には、総表題「優しき歌 Ⅰ」、中標題のほんわかした「薊の花のすきな子に」に引かれて、夜の詩人の、ちょっとブラッキーを添えつつ、失恋のちょっとしたメンタル・ダウンを諧謔したものだろうと勘違いする者が、いるのではないか? と思っている。

 しかし、そんなもんじゃない!!!

 以下、「Ⅳ 薄明」と「Ⅴ 民謠    ――エリザのために」でこのパートは閉じるが、過ぎ去った失恋の回想を、さりげなくシャレてカッコよく

――この「Ⅲ 窓下樂」では特異的に、ちょいとコミックな演技をさせているかのようなミミックを導入している――

に組み立てただけの、安普請のセットを並べただけの、「しようがないよ⋯⋯」的の終曲では――これ、ない、のである!

 すなわち、

★この「Ⅲ 窓下樂」は――道造の恐ろしいまでの《自身の恋愛の致命的敗北》と――《絶対暗黒の孤独感懐》を巧妙に、コントで塗(まぶ)して「擬態」させたものである

と私は断言するものである。

 

 ここで、最後に、話を変える。

 このところ、私は、複数の私的なプロジェクトに関して、概ね、各種データの正確な収集のために、私の注釈について、時々、GoogleAIと親しくやり取りをやっているのだが、先日、なかなか進まない、この「Ⅲ 窓下樂」の初期分析稿の初っ端を読んで貰い、その評価を乞うたのだが、その返事は、概ね、恥ずかしくなるほどの過褒であった。

 が、そこで、彼が、この『「Ⅲ 窓下樂」の「草稿」』なるものと比較した内容が含まれていた。

 それを見て、正直、息が止まるほど、驚愕した。それは、私が、先に終えた「立原道造草稿詩篇」として、三ヶ月前の四月二日に電子化した一篇「(この闇のなかで⋯⋯)」であったからであった。

 しかし、これは、残念乍ら、物理的に「草稿」ではあり得ないものなのであった。既に述べたが、

☆本「窓下樂」は昭和一一(一九三六)年八月初出である

のに対し、「後記草稿詩篇」の全集の配列では、底本の堀內達夫氏の編註の前後によれば(ここここ)、

「(この闇のなかで⋯⋯)」は昭和一三(一九三八)年九月から十月初め(奇しくも道造が喀血して盛岡へ旅立つ直前から、療養生活へ入る時期に相当する)である

からである。もっとも、この間にある九篇については、堀內氏は、各個に草稿想定年月を記載していない。しかし、「前期草稿詩篇」「後期草稿詩篇」を編集された堀內氏は、原稿用紙の印刷元や紙質、道造が使用したインクの色の違い等を検証して、たった独りでその詩篇群を組み立てられておられるのである。従って、これらが、実は昭和一一(一九三六)年八月以前に書かれた草稿であったという可能性は、まず、あり得ないと断言してよいのである。なお、同「立原道造草稿詩篇」は時系列で電子化注しており、続けて認識しないと、この制作時期は直ぐには判らないので、AIが誤って「Ⅲ 窓下樂」の原作品「窓下樂」の草稿としたことは判らぬではない。

 しかし、以上をAIに伝えたところ、『一筋縄ではいかない立原道造という詩人の内的宇宙において、この「2年の時間差(逆行)」こそが、むしろ病跡学的・表現史的にとてつもない意味を持ってくるのではないでしょうか。』と返事があった。

 私も、実は、今――この草稿詩篇の数篇に対して――非常に強く――『「Ⅲ 窓下樂」の改変草稿ではないか?』と感じたのであった。

 そこで、以下、『対比するに価値あり』と私が判断した角川書店刊「立原道造全集 第一卷 詩集I」(一九七一年刊)の「後期草稿詩篇」の連続した四篇を、まず、示す。

 一つ目は、「立原道造草稿詩篇 僕は おまへに (添え題:「夜の歌」)」(以下、リンク先は総て私の記事)である(但し、そこでは、編者堀內氏の推理に基づいた可能性の状態の全篇を参考に、私が電子化したものを示してあるが、それは省略する。)。

   ※

 

  僕は おまへに

         夜の歌

 

僕は おまへに

何も ねがはなければ

何も 强ひはしない(――おまへはふたたびかへらないだらう)

そして 拒むことなく おまへを

去らせる 夜のなかへ なほとほく

 

つめたい雨が降つてゐるのを

僕は おまへに をしへよう

おまへが そこで そのやうに

ためらつてゐるのは 何であるかを

僕は とうに 知つてゐるのだ

 

おまへの大きな聲が

犬たちの吠えるのを叱りながら

きこえなくなるときに

やうやく 僕は ひとりになつて

僕の內の言葉に耳をすます

 

 

   ※

 次は「立原道造草稿詩篇  それが どういふことか (添え題:「夜の歌」)」である。

   ※

 

 

  それが どういふことか 

            夜の歌

 

それが どういふことか

僕は とうに 知つてゐるのだ

おろかしいこととも あるひは

ひどいこととも しかし それを

僕は ふせがうとはしない

 

窓の外で 風が 雨をかきみだす

その叫びが 僕の內からのやうに

僕に 語りかける――あれは いま

歩きなやんでゐる

倒れかかるやうに 光のとぼしい道を

步きなやんでゐると

 

ここはしづかだ 花やいだ

灯の下には紫の花が咲いてゐる

 

 

   ※

 次は「立原道造草稿詩篇  (昨日と今日とがいりまじる⋯⋯)」である。

   ※

 

 

  (昨日と今日とがいりまじる⋯⋯)

 

昨日と今日とがいりまじる

僕のなかの 深い淵に

萎えた僕のにくしみよ

身を投げるがいい 消えるがいい

 

おまへが眠れようが 眠れまいが

僕の知つたことではないのだ

この あはれな 恥も知らない魂よ

出て行くがいい くらい夜のなかへ

 

外に 秋は まだつづいてゐる

靑白くつめたい光が

虫たちをうたはせてゐる

 

だれが ここに 耐へてゐて

明日を待ちわびてゐる?

聞くすべもない 大きな 夜の歌

 

 

   ※

 最後は、「立原道造草稿詩篇  (この闇のなかで⋯⋯)」である。

   ※

 

 

  この闇のなかで

 

この闇のなかで 私に

うたへ と呼びかけるもの

この闇のなかで だれが

うたへ と呼びかけるのか

 

時はしづかだ 私らの

ちひさいささやきに耐へぬほど

時はみちてゐる 私らの

ひとつの聲で 溢れ出るほど

 

とほい涯のやうに闇が

私らを拒んでゐる つめたく

身體は 彫像のやうだ

 

しかし すでに この闇の底に

信じられない光が 信じられる

私らの聲を それは 待つてゐる!

 

 

   ※

 さて。この四篇は、前の二篇が、添え題として「夜の歌」を持ち、第三篇の最終第四聯の最終行が『聞くすべもない 大きな 夜の歌』で終わっている点で、同一の詩想下で、連続して創作された確信犯の――「夜の歌」群――であることは、誰も異義を挟まないであろう。

 而して、第四篇であるが、表題を「この闇のなかで」としてロケーションが「闇」で統一されている。第二聯を除いて「闇」が現前されている。第二聯はソネットとして、必然的変化を与えるために、「闇」を字背に暗示させるように、取り立ての係助詞「は」を使って――「時はしづかだ」「時はみちてゐる」――という「時」のみを用いたものであろう。しかし、この部分、単なる詩作上のレトリック(修辞学)ではない。

 これは、ただの「夜」の「闇」ではないのだ。

 作者だけに理解されている「闇」の中の「時」なのである。

 それは、永劫続く蒼褪めた物理的時間の「時」ではないのだ。

 作者だけに理解される固有の心理的な――「現存在」としての「時」――なのである。

 結果して、第二聯は

――私だけに理解される独自の「時」空間の――その彼の孤独な「闇」空間が――背後に読者に、何とかして、伝わって貰えるようにと、操作したもの――

と私は推理する。

 されば、この第四篇は、前の三篇の「闇の歌」群の「コーダ」に相当する終篇として私は〈聴く〉のである。

 そして、読者は、もう、お判りになるだろう。「優しき歌 Ⅰ  薊の花のすきな子に Ⅲ 窓下樂」が、殆んど、「夜」の「闇」の中のロケーションであることで、直に、この全四篇から成る「夜の歌」群と強い親和性を持っているのである。

 先走って、この道造としては、特異点である異様に徹底的にブラッキーな「夜の歌」群に私が感じた解釈を述べてしまった。以下、順に見てゆこう。

   *

 

  僕は おまへに

         夜の歌

 

僕は おまへに

何も ねがはなければ

何も 强ひはしない(――おまへはふたたびかへらないだらう)

そして 拒むことなく おまへを

去らせる 夜のなかへ なほとほく

 

つめたい雨が降つてゐるのを

僕は おまへに をしへよう

おまへが そこで そのやうに

ためらつてゐるのは 何であるかを

僕は とうに 知つてゐるのだ

 

おまへの大きな聲が

犬たちの吠えるのを叱りながら

きこえなくなるときに

やうやく 僕は ひとりになつて

僕の內の言葉に耳をすます

 

   *

 この第一詩篇には、見慣れた道造の持ち味であるロマンティクな雰囲気は、微塵もない。以下の四篇まで、それは、少なくとも第三篇まで、孤独な独白として対象者を突き放した状態で続いているのだ。第四篇のみ、第二聯以降の三聯には、「私ら」という対象者を含んだ表現に、唐突に(吃驚するほど、である)変容し、そこには、「私ら」の希望のように見える形で終わっている。これは、前の三篇の「闇」に塗り固めたそれに、私たちの知っている、彼の魅力と信じている優しさで、予感が響いては、いるように、一見、見える。それは、そこで検証するが、しかし、どうにも、その「闇」に苦しくなってしまった詩人道造が、やらかしてしまった「附けたし」のようにしか、私には、見えないのである。

 基(もとい)! この一篇で、道造は、愛する女たちに、敢然と、己れの最終宣告を言い放つのだ。

――「僕は」最早「おまへに」「何も」「ねがは」ない――「何も」「强ひ」ることも「しない」――いや、私が、そう言う前から、「おまへはふたたびかへらないだらう」ことを知っているのだ――「そして」全く「拒むことなく」「おまへを」「去らせ」せてやる――「夜のなかへ」「なほとほく」へだ――いや、途轍もない「つめたい雨が」既に「降つて」しまって「ゐるのを」、「僕は」何も判ってはいない「おまへに」冷徹に「をしへよう」――「おまへが」「そこで」「そのやうに」「ためらつてゐる」ような様子を、私に見せている「のは」、実際には、「何であるかを」、「僕は」まるで理解してないおまえとは違って「とうに」最早「知つてゐるのだ」――僕は思い出すのだ――「おまへの大きな聲が」「犬たちの吠えるのを叱りながら」「きこえなくなる」あの、ひと「とき」の情景の中「に」だ――そうして「やうやく」「僕は」「ひとりになつて」――「僕の內の言葉に」のみ「耳をすます」ことにする――

 

   *

 

  それが どういふことか

            夜の歌

 

それが どういふことか

僕は とうに 知つてゐるのだ

おろかしいこととも あるひは

ひどいこととも しかし それを

僕は ふせがうとはしない

 

窓の外で 風が 雨をかきみだす

その叫びが 僕の內からのやうに

僕に 語りかける――あれは いま

歩きなやんでゐる

倒れかかるやうに 光のとぼしい道を

步きなやんでゐると

 

ここはしづかだ 花やいだ

灯の下には紫の花が咲いてゐる

 

   *

 これは、もう、完全な――己れの最終宣告の「夜の歌」続篇――である。

――「それが どういふことか」なんてことは「僕は」「とう」の昔「に」「知つてゐるのだ」――僕と、お前の、「おろかしいこととも」「あるひは」「ひどいこととも」「しかし」「それを」「僕は」全く以って「ふせがう」(=防禦しよう)「とはしない」のだ――「窓の外で」「風が」「雨をかきみだす」――「その叫びが」「僕の內からのやうに」直(ちょく)に「僕に」「語りかける」のだ「――」「あれ」(=彼=道造)「は」「いま」「歩きなやんでゐる」のだ、と――「倒れかかるやうに」「光のとぼしい道を」「步きなやんでゐる」のだ――「と」僕に語りかけるのだ――「ここはしづかだ」――「花やいだ」「灯の下には紫の花が咲いてゐる」――僕は僕だけで十全に生きているのだ――

   *

 

  (昨日と今日とがいりまじる⋯⋯)

 

昨日と今日とがいりまじる

僕のなかの 深い淵に

萎えた僕のにくしみよ

身を投げるがいい 消えるがいい

 

おまへが眠れようが 眠れまいが

僕の知つたことではないのだ

この あはれな 恥も知らない魂よ

出て行くがいい くらい夜のなかへ

 

外に 秋は まだつづいてゐる

靑白くつめたい光が

虫たちをうたはせてゐる

 

だれが ここに 耐へてゐて

明日を待ちわびてゐる?

聞くすべもない 大きな 夜の歌

 

   *

 ここで道造は、さらに宣告に重要な――孤高の精神性へのメタモルフォーゼ――を加えてゆく。

――「昨日と今日とが」――即ち、物理的な直線上の立ち戻りしないはずの「昨日」と「今日」(「きのふ けふ」と読んでおく)が――絶対的であるはずの蒼褪めた無限遠の時空間が――変容を始めて「いりまじる」=「昨日」「今日」という区別が消失し、一つの永遠の複合体へと変容してしまったのだ――「僕のなかの」「深い淵に」――「萎」(な)「えた僕のにくしみよ」――今こそ「身を投げるがいい」「消えるがいい」――それが今の僕には瞬時に出来るんだ――が愛した「おまへ」たち「が眠れようが」「眠れまいが」、そんなことは――今や、「僕の知つたことではないのだ」よ――――「この」「あはれな」「恥も知らない魂よ」[これは、「この」と言う指示語から、表現上では、変容する前の「僕」=道造自身の魂を指していようが――それは末尾の「出て行くがいい」「くらい夜のなかへ」以下最後までの叙述で限定は出来る――しかし、考えてみれば、この決定的な時空間変容の中では、彼我(ひが)の違いも無化されるからして、「僕」と「おまへ」たちの区別もあり得ないのであるから、愛した女たち総体も含まれると読むべきであろう。]――「出て行くがいい」「くらい夜のなかへ」――「外に」「秋は」「まだつづいてゐる」「靑白くつめたい光が」「虫たちをうたはせてゐる」――いや、それはこの変容の中では、至極、当然なのだ――しかし、それは――私独りだけに判る感覚なのだ――いや! 一体、「だれが」「ここ」(=変容した特異な「僕」の時空間)「に」「耐へてゐて」、一体、誰が「明日を待ちわびてゐる?」――そんなことは、以外には――絶対に――感官することは不可能なのだ!――まさに「聞くすべもない」「大きな」「夜の歌」なのだ!!!

 この最後の「聞くすべもない」を解析するとなら、これは、文字通りの意味ではなく、

★変容した「僕」にとっては、それを「聞く」(=説明する)ための「すべ」(=くだらない「手段・行為」)を必要「もない」

の謂いであろう。即ち、「僕にとっては何らの判らないところのない当然のこと」の意だろう。謂い添えておくと、

★「僕」以外の存在とは――「愛した女たち」だけでなく――「この詩を読んでいる読者たち」さえも――理解不能なことだ――「僕」は言っているのだと私は思うのである。

 

   *

 

  この闇のなかで

 

この闇のなかで 私に

うたへ と呼びかけるもの

この闇のなかで だれが

うたへ と呼びかけるのか

 

時はしづかだ 私らの

ちひさいささやきに耐へぬほど

時はみちてゐる 私らの

ひとつの聲で 溢れ出るほど

 

とほい涯のやうに闇が

私らを拒んでゐる つめたく

身體は 彫像のやうだ

 

しかし すでに この闇の底に

信じられない光が 信じられる

私らの聲を それは 待つてゐる!

 

   *

 最終篇である。既に冒頭で指摘してしまったが、この篇は、明らかに、前の三篇のダークな突き放した折角の異様にダークにして強烈な哲学的認識が、私たちよく知っている道造の優しい希望を含んだ「闇の底に」「信じられない光が 信じられる」「私らの聲を それは 待つてゐる!」と全体が完全なフランスで言う「直説法現在」であり、今まで解説してきた「半過去」「複合過去」でさえない。されば、『前三篇の「夜の歌」群と外してしまって、分析した方がいいのではないか?』と思われる人が多いかも知れぬが、草稿篇の並びから物理的に、これだけが別個の草稿であるとは採れない以上、掲げておいた。

 思うに、道造には、前の三篇が、今まで過去に詠じてきたものと、激しく違ったものとなったことから、この一篇を書いて、永遠に「闇」に屹立してしまった自分を救助する必要があったものと推定される。

 しかし、この最終篇は、如何にも前の三篇を穢(けが)すものとしか採れない(私は私自身がそう強く感じる)。それは、一つのソリッドな「夜の歌」として、この第四篇でアウトである。それは、道造自身こそが、痛烈に感じたのである。さればこそ、この「夜の歌」は、お蔵入りとなったと考えられる。

 さて、私は、

★これらの「夜の歌」群は、後に「優しき歌 Ⅰ」を構想し出した以降、「薊の花のすきな子に Ⅲ 窓下樂」に相当する一篇(或いは複数篇)を、新たにしっくりくるものを道造は探しつつ、どうも見たらないので、新たに試作しようとしたのではなかったか?

と考えるものである。その可能性は十分にある。というより、そもそもが、私自身が強烈に違和感を感ずるところの、

既存の作詩だけで、ロケーションも、詠じた動機も、内容の登場人物や季節や自然が異なり、どれもがバラバラの感覚で詠じた、全然、異なったものを寄せ集めて、「優しき歌 Ⅰ」という題名で、十二篇のセット、しかも、その中を四パートに分割するというのは、所詮、無理な話

なのである! 私の、この分析は、

★そうした「優しき歌 Ⅰ」を批判する目的を主としている

と言ってもよいのである。

 

 

 

  •    §   §

 

 

 

  Ⅳ 薄明

 

音樂がよくきこえる

だれも聞いてゐないのに

ちひさなフーガが 花のあひだを

草の葉のあひだを 染めてながれる

 

窓をひらいて 窓にもたれればいい

土の上に影があるのを 眺めればいい

ああ 何もかも美しい! 私の身體の

外に 私を圍んで暖く香(かほり)よくにほふひと

 

私は ささやく おまへにまた一度

――はかなさよ ああ このひとときとともにとどまれ

うつろふものよ 美しさとともに滅びゆけ! 

 

やまない音樂のなかなのに

小鳥も果實(このみ)も高い空で眠り就き

影は長く 消えてしまふ――そして 別れる

 

 

 第二聯第四行のルビ「かほり」はママである。既に述べた通り、底本全集の横断検索でも、詩集・物語・雜纂に、この表記が散見されることから、道造の慣用誤記であることが判明している。初出は『文藝汎論」第六十六号昭和一二(一九三七)年二月号(二月一日刊)である。直前の「Ⅲ 窓下樂」は昭和一一(一九三六)年八月号(八月一日刊)であるから、七ヶ月後である。

 而して、この間、道造には、外的な大きな変化が起こっている。即ち、昭和十二年四月一日、石本建築事務所に初出勤しているのである。底本全集の年譜を見ると、『石本所長に愛され』、同僚の友人武基雄(後に多くの優れた建築作品を残した)も出来たが、翌日二日に書いた神保光太郞宛書簡(ここの「二八二」)に、『出發は決して祝福されてゐませんでした 貧しく みすぼらしく こともなげでした これをしも 祝福と今は僕は呼ばねばならないのせうか』と述懐しており、年譜には『繁華街でのオフィス勤めは、さすがに索漠として苦痛だったらしい』とある。

 一方で、七月一日には、三月以来、掲載が遅延していた物語「鮎の歌」が『文藝』七月号に発表され、四日頃には、処女詩集「萱草に寄す」が、やっと刊行されており(年譜のここ)、詩人としての自信を新たにしてもいた。本詩が発表された八月には、彼は『土曜日午後に上野を立って追分に行き、月曜の朝帰京して事務所に出るというようなことが以後しばしばくり返された』とある。八月二十九日(日曜日)軽井沢発信の武基雄宛の最後には『何の悔いもよろこびもなく、これが休らひといふのだろか。』と記している(ここの「413」)。

 本「薄明」が書かれた前後、こうした社会人と詩人の挟間で、道造は苦悶していたのである。そうした事実・心的相克を以って、この詩を読み直す必要があるのである。

 

 しかも、それは、既にして、第一聯に出現しているではないか!

 「フーガ」である!

 コントラプンクト(ドイツ語:Kontrapunkt:対位法)を主体とした楽曲形式フーガ(イタリア語:fuga:遁走曲・追走曲)が聴こえる――それは――まさに、この時の道造の抱えていたアンビバレンツ(ドイツ語:Ambivalenz:愛憎併存)を音楽なのである!

 それは、また――この時期以前に道造が経験してきた複数の女性に対する恋慕と破恋の繰り返し――をも、直ちに想起させるではないか!

 

 「だれも聞いてゐないのに」「よくきこえる」「ちひさなフーガ」は、道造の心の中の、対象者たちも、自分自身も、どうしようも出来ない絡みに絡んだ竹の根の如き、不可塑性のアンビバレンツの「音樂」である。

 それは薊の「花のあひだを」、「草の葉の」薊の「あひだを」、「染めてながれる」「フーガ」なのである。

 彼は心限りに求める――ただ「窓をひらいて 窓にもたれればいい」と――「土の上に影があるのを」ただ「眺めればいい」――ただそれだけで、「ああ 何もかも美しい!」と感じているのである――如何なる他者も――誰もが――「私の身體の」「外に」「私を圍んで暖く香(かほり)よくにほふひと」であれかし! と――一緒になって! 謳歌しようとする⋯⋯

 そうして「私は ささやく おまへにまた一度」「――はかなさよ ああ このひとときとともにとどまれ」!――「うつろふものよ 美しさとともに滅びゆけ!」と――高らかにともに叫ぼうとする⋯⋯

 しかし⋯⋯「やまない音樂のなかなのに」⋯⋯「小鳥も果實(このみ)も高い空で眠り就き」⋯⋯「影は長く 消えてしまふ」のだ!――誰も彼も!⋯⋯「――そして 別れる」⋯⋯⋯⋯と、凄絶なコーダで終わっている。

 

 私は、少なくとも、ここまでの「優しき歌 Ⅰ」の中で、この「Ⅳ 薄明」は、最もブルージィであり、「救い」を諦めた孤高に屹立している一篇として特異点である、と考えている。

和漢三才圖會卷第九十二之本 草類 山草類 上卷・長松

 

Matubagusa

 

まつばぐさ  仙茆

 

長松

       【其功如松脂

        及仙茆故有

        二名】

 

チヤン ソン

 

本綱生山谷古松下其葉如松葉上有脂根色如齋苨長

三五寸氣味類人參清香可愛山人服其葉云長年

氣味【甘微苦温】 能治大風悪疾眉髪堕落百骸腐潰毎以一

 兩甘草少許水煎服旬日卽癒

 

   *

 

まつばぐさ  仙茆《せんばう》

長松

       【其の功、松脂《しやうし》、

        及び、仙茆のごとし。故《ゆゑ》、

        二名、有り。】

 

チヤン ソン

 

「本綱」に曰はく、『山谷の古≪き≫松《まつ》の下≪に≫生≪ず≫。其《その》葉、松の葉のごとく、上《うへ》に、脂《あぶら》、有≪り≫。根≪の≫色、齋苨《せいねい》のごとく、長≪さ≫、三、五寸。氣味、人參に類《るゐ》≪し≫、清香≪にして≫、愛≪す≫べし。山人《さんじん》、其《その》葉、服≪せば≫、云《いはく》、「年《とし》、長《ちやう》ず。」と。』≪と≫。

『氣味【甘、微苦、温。】 能《よく》、大風《たいふう》・悪疾《あくしつ》≪にして≫、眉《まゆ》・髪《かみ》、堕落し、百骸、腐潰《ふくわい》するを、治《ぢす》。毎《つねに》、一兩《いちりやう》[やぶちゃん注:三・七五グラム。]を以《もつて》、甘草《かんざう》、少≪し≫許《ばかり》、水煎《すいせん》≪して≫、服《ふくす》。旬日《じゆんじつ》、卽《すなはち》、癒《いゆ》。』≪と≫。

 

[やぶちゃん注:これは、東洋文庫訳及び注では、探し得なかったのであろう、当該相当種を全く示していない。「百度百科」に「仙茆」があるのだが、学名が出ない。そこで、「百度百科」の日本語版「BaiduWiki」を見たところ、記載内容が全く異なっており、

モクレン綱キジカクシ目『仙芽科』『仙茅属』で学名は Curculigo orchioides

とあった。本邦のサイトでは、この学名検索で、「国立科学博物館」の「琉球の植物データベース」のここに、

キンバイザサ科キンバイザサCurculigo orchioides

とあり、「広域分布」として、『本州(紀伊半島)~九州,屋久島,種子島,トカラ列島; 台湾,中国,マレーシア,インド,オーストラリア』とあり、「文献に基づく分布」には、『奄美大島・徳之島・沖永良部島,沖縄群島,先島諸島』とする。

 ウィキでは「キンバイザサ科」があり、漢字表記を「仙茅科」とする。そこには、『キンバイザサ科』『は単子葉植物の科の1つ。ヒガンバナ科やユリ科に含められることもある。日本にはキンバイザサなど数種が自生するが、アッツザクラ』(アッツザクラ属アッツザクラ Rhodohypoxis baurii :アッツ桜。これは同種のウィキがあり、『原産地は南アフリカ共和国のドラケンスバーグ山脈周辺の高原で、アッツ島ではない。』とし、「和名の由来」の項があるので見られたい。なお、注意が必要で、前の「キンバイザサ科」に掲げられているピンクの花の写真は、このアッツザクラである。本キンバイザサは、学名でグーグル画像検索をしたものをリンクするが、花は黄色である)『など園芸植物として導入されたものもある。現在の呼称が使われるようになったのは、21世紀になってからで、植物図鑑などには旧称のコキンバイザサ科で出ていることが多い』。『線形の根出葉に長毛がある、花被片の外側が緑みを帯びることで近縁の科と区別される。子房は下位。周北極や旧熱帯、新熱帯、ケープ植物区、オーストラリアなどに分布する』――以上の分布の最後は誤記レベルである。これでは、本邦には分布していないことになる。この科の記載には、どこにも日本に分布する種があることを述べていないからである。――以下、「分類」の項。『タイプ属のHypoxisがコキンバイザサ属であるためコキンバイザサ科とする意見もあるが、キンバイザサ科が一般に使われる。日本では主に観賞用でアッツザクラやエンポディウムが栽培されている。また、流通はほぼ無いもののスピロキシネも栽培される』。『およそ10160種が属する』として、十の属が、三つのクレード(clade=単系統分岐群)に分けて示されてある。最後の「過去の分類体系」の項。『クロンキスト体系では独立の科と認められていない。新エングラー体系では独立科としてユリ目に含められる』とする。さて、言っておくと、その「分類」の最後の「Hypoxis clade」の『・Hypoxis L. コキンバイザサ属 - 90種 コキンバイザサ』とあるコキンバイザサ(小金梅笹)Hypoxis  aurea こそが、実は、本邦では、宮城県以南の本州から琉球列島にまで広範に分布するキンバイザサ科に属する種(この属では、これ一種のみ)なのである。詳しくは当該ウィキを見られたい。この種も花は黄色である。

 話を本来のキンバイザサCurculigo orchioides に戻す。

 「維基百科」を調べたところ、種で「仙茅」と立項していた。臺灣正體で見ると、別名を『地棕根、地棕、獨茅根、獨茅、獨腳仙茅、山黨參、仙茅參、海南參、婆羅門參、芽瓜子』とし(以下は機械翻訳を参考にした)、『多年生草本で、インドネシア・日本・東南アジア・台湾・中国本土(広西省・広東省・貴州省・福建省・雲南省・浙江省・四川省・湖南省・江西省)に分布する。標高五百~千六百メートルの草原・森林、又は、不毛な斜面に生育する。中国原産(これは「海外からの導入ではない」の意。同種の英文には、『ネパール・中国・日本・インド亜大陸・パプア・ミクロネシアが原産地である。』とある)。『多年生草本。高さ十~十四センチメートル。地下には分枝しない単一の根茎があり、色は濃い茶色で、断面は肉厚で白色。葉は根生し、三~六枚、葉柄があり、披針形で革質、長さ約十~三十センチメートル、幅約〇。六~二センチメートルで、まばらに長い毛が生えている。花茎は非常に短く、葉鞘の中に隠れており、花は黄色である。草の生い茂る斜面や丘陵地、低木の近くで育つことを好む。長江以南の地域に広く分布しており、主に四川省で生産されている。薬用として根茎を早春と晩夏に収穫する。繊維質の根と根頭を取り除き、洗浄し、切断した後、天日乾燥させて保存する』。「薬用」の項。『伝統的な中国医学では、苦・甘・温で、わずかに毒性があるとされている。腎臓を補い、陽気を強化し、寒さを払い、痺れを除く。西洋医学では、本種に含まれる成分がβアミロイド・タンパク質の重合を阻害するために使用可能なことが判明している』。『適応症は腎機能不全・腰痛・神経衰弱・勃起不全・婦女の更年期高血圧・慢性腎炎・原因不明の腫れ物』とある。

 最後に、学名をフルに整理すると、

単子葉植物綱キジカクシ(雉隠)目キンバイザサ(仙茅)科キンバイザサ属キンバイザサ(仙茅・金梅笹)Curculigo orchioides

ということになる。

 先に言っておくと、以上の「本草綱目」の引用は、「漢籍リポジトリ」の「卷十二上」の「草之一【山草類上一十三種】」のガイド・ナンバー[036-33b]の「長松」の項のパッチワークである。

「まつばぐさ」恐らく、良安の時代には、既にキンバイザザを基原とする漢方生剤が中国句から伝来していたものと思われる。而して、「長松」と「本草綱目」に立項するものが、それであると認識はしていたものと考えてよい。而して、この「長松」の以上の記事と、実際に手に入れた漢方製剤の見た目から、この和名を充てたものであろう。

「仙茆」この「茆」には「かや・ちがや」の意味があり、「仙茅」と同義ととれる。しかし、「其の功、松脂《しやうし》、及び、仙茆のごとし。故《ゆゑ》、二名、有り。」は「長松」の「釋名」時珍の言葉であるが、素人が読んでも、どうもおかしい。そこを引用する。

   *

釋名仙茆【時珍曰其葉如松服之長年功如松脂及仙茆故有二名】

   *

これを、推定訓読してみると、

   *

釋名「仙茆」【時珍曰はく、『其の葉、松のごとく、之れを服せば、長年(ちやうねん)す。功、「松脂(しやうし)」、及び、「仙茆(せんばう)」のごとし。故(ゆゑ)に、二名、有り。』。】

   *

となる。問題は、明らかに時珍が言っている引用部の「仙茆」は「キンバイザサの根」ではない。而して、素直に読むなら、この謂いは、

   *

その葉は、松のようで、これを服用すれば、長生きする。その、ここで言う「仙茆」は、「松の脂(やに)」、及び、同じ漢字表記する全く違う「仙茆」と同等の功能を持つ。故に、全く違った生薬であるが、「仙茆」という同じ名を持っているのである。

   *

と読まなくては通じないのである。さて核心部部は、本来の「仙茆」が何かである。「松やに」と並列し得るものは、「仙」人が霧以外に食べるとされる「松」の「やに」以外の部分とは、

「松」の「茆」=「茅」(かや)、即ち、「松の葉(花・実を含む)を含む穂」の部分の他にない

のである。その証拠に、「百度百科」の「仙茆」に附されてある画像を見られよ! モロ、それだもの!

「齋苨《せいねい》」先行する「齋苨」を見よ。

「大風」中国で歴史的に梅毒の異名として用いた語である。中文の「ハンセン病」の「維基百科」の「麻风病」の「中国歷史的情况」を見られたい。

「百骸、腐潰《ふくわい》する」身体の骨格が、がたがたに腐ったように潰瘍化する症状。

「甘草《かんざう》」先行する「甘草」を見よ。

「旬日」十日ほど。

 なお、良安は、附言を一切、附していない。されば、良安は、本種は本邦に存在しないと考えていたことは、明白である。但し、それ以前(江戸中期前期以前。「和漢三才圖會」は正徳二(一七一二)年成立)に中国から薬剤としての「長松」=「仙茅」は渡来していた可能性はあるが、しかし、添えられた図の茎以上の葉が、キンバイザサとは全く異なるので、彼は実際には見ていない。しかし、実は本邦にも分布していたのであった。だが、本邦では、当時は、薬草としては使用していなかったものと思われる。では、どの辺りで、本邦にキンバイザサがあると認識されたのか? 調べたところ、岡山大学図書館公式サイト内の『所蔵資料ピックアップ(植物研分館所蔵)』の「広参存擬(こうじんぞんぎ)」に、

   《引用開始》

広参存擬

大槻玄沢著, 写本, 文化71810)年頃成立

コレクション: 大原農書文庫(貴重資料)

広東人参に関する考察をまとめた書。後書きのうしろに、キンバイザサの彩色図とそれに関する手紙の内容が付随している。彩色図は栗本丹州によるもの。手紙は、丹州が玄沢に宛てたものの追伸部分と思われる。「キンバイザサの発見者は田村藍水(丹州の父)であり、和名の名付け親だ」と主張している。

   《引用終了》

として、原本の画像三枚が載る。一番、左には、キンバイザサの掘り出した全草体図が描かれている。大槻玄澤は知られた改訳「重訂解體新書」の訳者である。田村藍水(たむららんすい 享保三(一七一八)年~ 安永五(一七七六)年)は江戸中期の医師で本草学者である。

2026/07/13

河原田盛美著「淸國輸出日本水產圖說」正規表現版・オリジナル電子化注 中卷(八)乾貝並貝柱の說(その14) 板屋貝柱

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は、第一始動の記事、及び、「(一)鰑の說(その2)」の前注の太字部分を参照されたい。今回はここの右ページから。]

 

   板屋貝柱《いたやかひはしら》

板屋介(いたやかい)は「倭名鈔」は「新抄本艸」を引(ひき)て、『文蛤』を『伊太夜加比(いたやかひ)』と訓ず。此ものハ、主として、肉柱(にくはしら)を食(しよく)に供(きやう[やぶちゃん注:ママ。「きよう」でよい。])す。是、其味、佳良(かりやう)なるに由(よ)るなり。而して、之を乾製するには、介の肉を出(いだ)し、黑肉(くろにく)を去り、川水(かはみず[やぶちゃん注:ママ。])にて、洗淨し、釜にて、暫時、煑立(にた)て後(のち)、取出(とりいだ)し、廣げ、日に乾(ほ)すこと、二日《ふつか》、肉柱外(ぐわい)の物を、除去し、後日(のち《の》ひ)に乾すこと、二日、都合、四日間を以て、之を最良製品とす。然(さ)れども、乾燥中に降雨(かうう)あれば、下等品となるものなれば、最も、注意すべし。之を保存するに、箱に密閉するを、良(よし)とす。每年、梅雨(つゆ)の後(のち)、取出(とりいだ)し、乾せば、何ケ年(なん《か》ねん)をも、貯藏し得るものなり、と。此法は、天保年間、鳥取縣下、因幡氣多郡(いんばけたこほり)靑谷村(あをやむら)中濱六兵衞(なかはまろくへうゑ[やぶちゃん注:ママ。「なかはまろくひやうゑ」が正しい。])なるもの、長崎に於て、支那人(しなじん)より、傳習(でんしう)受(うけ)しものなり、と云ふ。「通商彙編(つうしやういへん)」に依(よれ)ば、香港市塲(ホンコンしじやう)に於ては、『江瑤柱(こふやうちう[やぶちゃん注:ママ。正しくは「かうえうちゆう」である。])』と稱す。此物は、元來、上海地方(シヤンハイちほう[やぶちゃん注:ママ。「ちほう」は「ちはう」が正しい。])に於ては、貴賤の別なく、一般(いつぱん)、嗜好(しかう)するものなれども、廣東(カントン)に在(あつ)ては、常食に供せざるが故に、價格、少しく騰貴(たうき[やぶちゃん注:ママ。「とうき」でよい。])すれば、需求(じゆきやう[やぶちゃん注:ママ。「じゆきう」が正しい。])、項(にはか)に[やぶちゃん注:ママ。東洋文庫版ではルビを振っているが、「項」の字には「にはか」の意味はなく、その注も、ない。一般には「俄」「卒」「遽」「勃」を想起したが、一つ、気づかなかった。「頓」があった。この誤植であろう。]、減却(げんきやく)し、一周年間、販賣の增減價格の昂低(こうてい)も、動搖(どうよう[やぶちゃん注:ママ。「どうえう」が正しい。])、尤(もつとも)常(つね)なきの、甚しき者とす。扨(さて)、市塲販賣の品位は、因州產(いんしゆうさん[やぶちゃん注:ママ。])を以て、第一とし、豐《ぶ》[やぶちゃん注:旧豊前国・豊後国。福岡県東部及び大分県全域。]・薩摩產、之に次ぐ。而して、此三種の區別ある所以(ゆゑん)は、唯(たヾ)、其(その)肉中(にくちう)に含蓄する鹹味(かんみ)の濃淡に由る耳(のみ)にて、鹹味、稀薄なるに隨ひ、價格、又、貴(たつと)し。明年(めいち[やぶちゃん注:ママ。「明治」の誤記であろう。])十六年二、三月の相塲は、因州上品、百斤四十九元、薩州上品、三十八元なりし、となり。明治十五年の輸出高は、拾萬〇三千二百五十一斤、此價(このあたひ)、三萬二千四百七十四圓、十六年は六萬六千七百九十九斤、此價二萬〇二百九十六圓十四錢なり。

[やぶちゃん注:これは、

翼形亜綱イタヤガイ(板屋貝)目イタヤガイ上科イタヤガイ科イタヤガイ属イタヤガイ Pecten albicans

である。当該ウィキに拠れば(注記記号はカットした)、漢字表記を『板屋貝、半辺蛤、魁蛤』とし、『食用。和名の漢字表記の1つである「板屋貝」の由来は、木の板で葺いた家屋・板屋。平らなほうの殻が板で葺いた屋根のようだから。別名:ヒシャクガイ』(柄杓貝)。『日本国内では北海道南部から九州。ほかに朝鮮半島、中国沿岸』。『右の殻は左の殻よりも大きく、強く膨らむ。白色または黄白色。内側は白色、しばしば暗褐色の斑を持つ。これに対し』、『左の殻は扁平で赤褐色。殻長10センチ。8 -10本の放射肋あり』。『100個の眼』点『を持つ。雌雄同体である』。『水深10 - 80メートルの砂底または砂泥底に生息。平らな側を上に向けて海底の砂の上にいる。敵に襲われると』、『殻の隙間(前後の端、腹縁部)から水を噴き出して逃げる。植物プランクトンなどを濾過して摂食する』。『食用。ホタテガイやヒオウギガイのように、大きな貝柱を賞味する。焼き物、煮物、フライ、干物などが美味』。『鹿児島県ではツキヒガイ』(イタヤガイ亜科AmusiumAmusium japonicum japonicum :以上の学名はBISMaLのものを参考にした)『に混獲されることがあるが、ツキヒガイに比べて小型で知名度も低く、市場にはほとんど出荷していない。伊勢湾でも底曳き網などで漁獲するが、水揚げは少ない』。『本種の漁は、大量発生した際に』、『これを漁獲し』尽くす『という形で行われるため、従来』、『資源管理が困難であった。島根県では』、『本種の天然採苗が可能であると分かったことから、1979年から養殖の対象となっている。養殖用稚貝は天然採苗により入手』している。『ほかに、貝杓や灯明皿に利用された実績』がある、とする。どうも、以上は、頗る食い足りないので、以下、「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」の同種のページを示す。漢字は『板屋貝。車渠』を示し、「由来・語源」の項には、「本草和名」に基づくとし、『板屋とは板で葺(ふ)いた屋根のこと。この板屋葺きの屋根に似た貝殻の文様から。』とし、さらに『車渠』の他に『板屋貝・海扇』を添え、『車渠という名の玉がある。この蛤はそれに似ている。それでこう名づけられた』とされ、『車渠は「ほたてがい」とも読む。〔俗に帆立貝ともいう。また板屋貝ともいう〕。「ほたてがい」、「いたやがい」ともイタヤガイのことだ。〔そもそも車輪の溝のことを渠というが』、『この背の文様が車の溝に似ている(ので車渠)〕。〔また板屋葺の形にも似ているので板屋貝とも〕。〔形は扇のようなので海扇(かいせん)とも〕。』とされるが、これは、「和漢三才図会」に拠ったことが示されている。私の寺島良安の「和漢三才圖會」卷第四十七 介貝部」の「車渠 ほたてがひ いたやがひ」を見られたいが、標題の通り、良安はホタテガイとイタヤガイでさえ区別していない為体(ていたらく)なのである。『いたらがい また古くは「いたらがい」。また漢字で書くと「板屋貝」すなわち、板葺き屋根のような貝ということ。下の写真を見るとわかるが右側の貝殻が深いのを利用して柄杓(ひっしゃく)をつくることから「柄杓貝(ひしゃくがい)」とも言われる』とある。「生息域」は『海水生。水深10〜100メートルの砂地。北海道南部〜九州。朝鮮半島、中国沿岸、東シナ海。』とされ、「生態」の項には、『雌雄同体』で、『産卵期は冬』とされ、『ときに大発生したり、まったくいなくなったりする』とあり、『幼貝は岩などに足糸で固着』するが、『成貝になると』、『自由生活をする』とある。『北海道南部から九州までの浅い砂地にいる貝で、古くから美味で知られていた』が、『国内では産地が限定的である上に、資源が不安定であるので』、『食用としてはローカルな存在』であるとされ、『島根県などでは養殖が試みられているが、難しいためかあまり盛んではない』。しかし、『味のいいことは知られており、大発生したときには食用として出回り、それなりに高値で取引される』とあり、『ヒオウギガイ、ツキヒガイとともに味ではイタヤガイ科中の最高峰だと思う』とある。私も、そう思う。「珍魚度」の項には、『古くから知られている食用貝ではあるが』、以上の通り、事実上では、『産地は限定的。しかも好不漁があるので探さないと手に入らない』と添えておられる。また、「歴史・ことわざ・雑学など」の項で、「貝殻節」について、『鳥取県の貝殻節は本種を粉に引くことで生まれたというのを聞いたことがあるが、それほど漁獲されていたのだろうか? と本種のことを調べるうちに』、『駿河湾、土佐湾などで』、『今現在』、『ほそぼそと漁獲されていることが判明した。そして普段、生息数の少ないはずの本種が何年かに一度』、『大量発生する。鳥取の貝殻節もそんな豊漁年の歌であろうか?』と添えられ、また、『イタヤガイの貝殻の深い方を杓子(しゃくし)にする。これを貝杓子という』と記されておられる。ぼうずコンニャク氏の語りを読むと、いつも通り、私は、やっと落ち着いたのである。

『「倭名鈔」は「新抄本艸」を引(ひき)て、『文蛤』を『伊太夜加比(いたやかひ)』と訓ず。』国立国会図書館デジタルコレクションの寛文七(一六六七)年板の当該部(右丁初行)をリンクしておく。因みに「新抄本艸」は「本草和名」の異名である。「本草和名」は「煎海鼠の說(その1)」の私の注を見られたい。

「黑肉(くろにく)を去り」節足動物や軟体動物の消化管の中腸に開口する、盲嚢状の器官である中腸腺(ちゅうちょうせん)を指す。私の貝類フリークは、よく知っているもので、これは、食すると、危険な場合があるので注意が必要なのである。やや、書き方がやや不全だが、ウィキの「中腸腺」の「食用」を引用する。太字は私が附した。『日常の食生活で認識されるものとしては、カニのいわゆる蟹味噌、イカの塩辛を作るときに用いられる』、『いわゆるワタの部分(ゴロ)などがこれに相当する』。『食品としては』、『美味で栄養の豊富な部分でもあるが、二枚貝の場合には』、『渦鞭毛藻などの有毒植物プランクトンを摂食したときに吸収された貝毒などが』、『ここに蓄積して食中毒の原因となったり、その中でもホタテガイなどでは』、『カドミウムやヒ素といった重金属の濃縮が認められる、あるいは』、『サザエやアワビのような海藻食の巻貝では』、『季節によりポルフィリンなど葉緑素の分解産物が蓄積して光過敏症の原因となるなど、扱いに注意を要する場合がある』。この最後の部分は、直前の「鳥貝」の私の注の最後のリンク先、「大和本草卷之十四 水蟲 介類 鳥貝」が、まさに、それなのである。

「天保年間」一八三一年から一八四五年まで。徳川家斉・徳川家慶の治世。

「鳥取縣下、因幡氣多郡(いんばけたこほり)靑谷村(あをやむら)中濱六兵衞(なかはまろくへうゑ)なるもの」現在の鳥取県鳥取市青谷町(あおやちょう)青谷(グーグル・マップ)である。なお、この「靑谷村」であるが、ウィキの「靑谷町」によれば、古く、町制前の名称は「あをやそん」と呼んでいた、とある。この「中濱六兵衞」に就いては、ネットは勿論、国立国会図書館デジタルコレクションでも、記載が見当らなかったので、不明である。しかし、「長崎に於て、支那人(しなじん)より、傳習(でんしう)受(うけ)しものなり」とあるからには、相応の人物であろうに⋯⋯。

「通商彙編(つうしやういへん)」前の「乾蠣」の私の注を見よ。

「拾萬〇三千二百五十一斤」「〇」は念のための配置。六十七・九五〇六トン。

「六萬六千七百九十九斤」四十・〇七九四トン。]

2026/07/12

泉鏡花「霰ふる」正規表現版・縦書ルビ附・オリジナル注公開

『泉鏡花「霰ふる」正規表現版・縦書ルビ附・オリジナル注』をサイトの「心朽窩旧館」に公開した(1.78MB)。ルビ化と注に、八日かかったが、相応に満足するものが出来た。特に注では、凡そ、現行の一般書籍では望めないレベルのものが書けたと、内心、自負している。御笑覧・御批評を乞うものである。

2026/07/05

私の泉鏡花の随筆「幼い頃の記憶」のロケーション考証に就いて

本朝、泉鏡花の「霰ふる」の正字正仮名読み附きのベタ原データを作成し終えた。これは先に公開した、鏡花の随筆「幼い頃の記憶」をもとに、同年に創作した作品であるが、校正中、そこの「三」に「八田潟(はつたがた)」の地名が出てきた。これは、私が「幼い頃の記憶」でロケーション考証した「河北潟」の古い呼称であることが判ったことをここに述べておく。但し、今回は、ルビ附き作業に時間が掛かり、同時にオリジナル注を附しているので(PDFでのみ公開)、公開には、相当の時間が掛かる。

2026/07/04

河原田盛美著「淸國輸出日本水產圖說」正規表現版・オリジナル電子化注 中卷(八)乾貝並貝柱の說(その13) 鳥貝

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は、第一始動の記事、及び、「(一)鰑の說(その2)」の前注の太字部分を参照されたい。今回はここの左ページから。]

 

   鳥貝《とりかひ》

鳥貝(とりかひ)は、他物(たぶつ)と其(その)乾製法を異(こと)にす。先づ、手にて、殼中(からちう)の肉を、捻(ひね)り取り、刀割(たうかつ)して、腸(はらはた[やぶちゃん注:ママ。「はらわた」でよい。誤記か誤植。])を去り、煑て、簀上(すのうへ)に並べ、日乾(ひほし)して、莚囊(かます)に收(おさ[やぶちゃん注:ママ。])め、貯藏す。肉に、黑色(こくしよく)のものあり、此色なきは、味を損ずるのみならず、腐敗し易きを以て、最も之に注意すべし。之を豫防(よばう)するには、少しなりとも、沸騰の湯(ゆ)、濁(にご)るを認(みと)めるときは、速(すみやか)に、之を廢棄し、更に淸淨なる沸湯(ふつたう)に換(かへ)るを要(よう[やぶちゃん注:ママ。「えう」が正しい。])す。如斯(かく[やぶちゃん注:二字へのルビ。])すれば、黑色を傷(いため)ることなく、保存、久しきを保ち、味(あじわい[やぶちゃん注:ママ。])を變ぜず。淸國貿易に適せり。

[やぶちゃん注:「鳥貝」これは、

斧足綱マルスダレガイ目ザルガイ科トリガイFulvia mutica

である。当該ウィキに拠れば(注記記号はカットした)、『名の由来は、食用とする足が鳥のくちばしのような形状をしていることから、また』、『食味が鶏肉に似ているからともいう』。『北海道を除く日本(青森県陸奥湾から九州)、朝鮮半島、中国沿岸に分布する。水深数mから数十mの内湾の泥地に生息し、日本では東京湾、三河湾、伊勢湾、瀬戸内海等が主な漁場である。陸奥湾が北限とされてきたが、2005年には函館市の七重浜に大量に打ち上げられているのが発見され、流れ着いたものか』、『函館湾で育ったものか』、『話題を呼んだ。また2006年には石狩市で』、『多数』、『見つかっている』。『雌雄同体で、春と秋の二回』、『産卵期がある。多くは』、『寿命が約一年で』、『プランクトンを餌として殻長7-9cmほどとなるが、2-3年生き残るものもあり、10cm以上に成長する。膨らんだ黄褐色の貝の表面には』、『放射状に40本程の溝(放射肋)があり、短い殻毛に覆われている。足は長く、普段は』、『貝殻の中に折りたたまれているが、ヒトデなどに襲われそうになると』、『この足でジャンプして逃げることも有るという』。『時として大発生を起こしたり、逆に大量死滅したりするため』、『豊凶の差が激しいが、総じて』、『高級食材として高価で取引きされる』。『足、別名オハグロともいわれる部分を食用とする。開いて』、『二等辺三角形状にしたものを湯通しし、寿司種、刺身、酢の物、酢味噌和えなどにする。貝としては』、『噛み切り易い適度な歯ざわりと』、『ほのかな甘みがあり』、『美味。市場では』、『一般に湯通しまでの下ごしらえをしたものがパックされて流通している。厚みがあり、色の黒いものが』、『良品として高値が付く。旬は太平洋側では春先、日本海側では』、『夏となる。冷凍しても』、『あまり食味が変わらないので、ほぼ通年』、『出回る』。『漁の盛んな地域では』、『ヒモも食べられ、店頭に並ぶことも有る。千葉県では』、『小ぶりのものの殻を』、『開かずに』、『丸ごと』、『醤油と砂糖で煮付け、あとから』、『殻と肝を取り除いて』、『佃煮にする。変わったところでは』、『炙ったり、塩コショウでソテー、バター焼きといった食べ方も有る』。『寿司ネタとしては、冷凍されたものが』、『韓国・中国から大量に輸入されている』。『構成成分は』、『多い順に、水分78.6%、タンパク質12.9%、炭水化物6.9%、灰分1.3%、脂質0.3%で、高たんぱく低脂肪のヘルシー食材である。ビタミンB1が0.16mgと他の貝類よりは』、『やや多く含まれている他、カルシウム、鉄分、カリウム、亜鉛も豊富である。肝機能の強化、動脈硬化の予防に効果が有るともいわれる』。『京都府では』、『全国に先駆け、トリガイの養殖に取り組んできた。舞鶴湾や若狭湾は』、『もともとトリガイの好漁場であったが、京都府立海洋センターが、稚貝を人工孵化させ、アンスラサイトという底質を敷いたコンテナに』、『有る程度』、『育った稚貝を入れて』、『海中に吊り下げるという方法を開発した。こうして天敵のタコやヒトデから守られて育てられたトリガイは』、『天然物より大きく育ち、安定した供給が可能となった。京都で育成された養殖トリガイは「丹後とり貝」という地域ブランド名を与えられ、高級食材として出荷されている。現在では、石川県の七尾湾でも養殖に成功している』とあった。私の記事では、先ずは、画像のある『毛利梅園「梅園介譜」 蛤蚌類 鳥貝  / トリガイ』が良かろう。また、「大和本草卷之十四 水蟲 介類 鳥貝」をシメとしよう。⋯⋯同種やアワビ類の生キモを猫が食うと耳が落ちる話を知らない人のために、ね⋯⋯♪ふふふ♪⋯⋯

2026/07/03

河原田盛美著「淸國輸出日本水產圖說」正規表現版・オリジナル電子化注 中卷(八)乾貝並貝柱の說(その12) 乾蠣

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は、第一始動の記事、及び、「(一)鰑の說(その2)」の前注の太字部分を参照されたい。今回はここの左ページから。因みに、私は強力なカキ・フリークである。

 

   乾蠣《ほしかき》

蠣(かき)は「倭名鈔」に『「本草」に云(いわく[やぶちゃん注:ママ。])、『蠣蛤(れいがう)は、和名(わみやう)、加木(かき)。』とす。これを乾(ほ)したるを、『乾蠣(ほしかき)』といふ。淸國にて『蠔豉(がうし)』と稱す。元來、牡蠣(かき)に、種類、多く、本邦產中、之を大別すれば、『ながかき』・『かき』・『ころびかき』・『いたぼかき』等(とう)にして、此他(このた)、品類、甚(はなはだ)、多し。「まかき」は、能(よ)く、竹、及び、柴(しば)等(とう)の麁朶(そだ)を立(たて)て、養作(やうさく)するを、よろし、とす。卽ち、安藝(あき)の廣島、磐城(いはき)の松川浦(まつかはうら)等(とう)なり。淸國人は、『蠣田(れいでん)』を作るに、岩石を、二個づゝ合(あは)して、龜脊狀(かめのせかた)に臥(ふ)せ、各(かく)一畝(ひとせ)に𤲿別(くべつ[やぶちゃん注:ママ。恐らく「區別」の意味を利かせた意味訓であろう。])し、大豆油(だいづあぶら)の搾滓(しぼりかす)を、養餌(やうじ)に施(ほどこし)て作る故に、『蠔豉(がうし)』の名(な)あり。

[やぶちゃん注:『「倭名鈔」に『「本草」に云、『蠣蛤(れいがう)は、和名(わみやう)、加木(かき)。』とす。』「和名類聚鈔」の「卷十九」の「鱗介部第三十」の「龜貝類第二百三十八」にある。国立国会図書館デジタルコレクションの寛文七(一六六七)年板の当該部をリンクしておく。

「蠔豉(がうし)」北京語「ハオチー」、広東語「ホウシー」で、新鮮な牡蠣(かき)の身を塩茹でして天日干しにしたものを指す。広東地方や香港の伝統的な料理である。

「ながかき」これは、「長蠣」であるが、次の「かき」と同種で、現在では、

斧足(二枚貝)綱翼形亜綱カキ(或いはウグイスガイ)目カキ上科イタボガキ(板甫牡蠣)科マガキ属マガキ Crassostrea gigas

である。所持する「吉良図鑑」(=保育社刊「原色日本貝類図鑑」昭和三四(一九五九)年改訂第三版の昭和四九(一九七四)年二十刷)でも、独立項があるものの、『本型はナガカキまたはエゾガキ』(蝦夷蠣)『と称し, 長さ300mm以上に達する巨大なものである。大連を模式産地としてCrassostrea talienwhanensis CROSSEの名で区別されているが, 最近の研究ではマガキと同種と認められている。また鹹度』(=海水塩分)『の低い所に棲息することにおいても首肯される。北海道潮線下。』とある。前にある、「マガキ」の項では、分布を『北海道以南潮線下。』とし、謂わば、本邦では、北海道の殻の長さの異様に長い個体を、本書の刊行時には、このように別種として呼称していたのである。当該ウィキに拠れば(注記記号はカットした)、『太平洋のアジア沿岸を原産地とする。別名として太平洋牡蠣や日本牡蠣、長牡蠣等がある』。『岩などに固着生活する二枚貝。一般には中程度の大きさのカキ類で、外形は付着する基盤の形にも依るのでさほど一定していない。左側の殻で岩などに付着し、この側の殻は内側が深く窪んでいる。外面にある右側の殻は』、『左殻より小さく、ほぼ平らとなっている。順調に成長したものでは成長脉、つまり』殻の『表面に成長する縁』(ふち)『沿いに発達する薄い板状の突起が』、『よく発達し、また』、『紫色の放射状の斑紋を帯びる』。但し、『普通には』、『殻は汚れた白色の地色に紫褐色の放射彩が出る。成長段階では』、『殻の表面に葉状の突起(平たい膜状に突き出たもの)を生じるが、成長したものでは』殆ど『無くなり、粗いが』、『のっぺりした殻面を持つようになる』。『右側の殻では』、『その頂端部が突き出る。殻の内側の面は白く、筋痕、つまり貝柱の跡が1つあるのが普通で、その部分は紫色をしている』。『時に大きくなるものがあり、エゾガキ、あるいはナガガキの名で呼ばれたものはO. talienwhanensis と別種とされたことがあるが、同一種と考えられる。これは』、『とても大きくなり、例えば』、『細長く伸びた殻の全長は340mm、靱帯部の長さが40mmという例もあり、この例では』、『その肉量は飯茶碗に山盛り一杯にもなったという』。『日本の北海道から九州、国外では朝鮮、中国、樺太に分布する』(かなり前のNHKのドキュメンタリーで、北方領土の沿海部には、巨大なマガキが筍(たてのこ)のように屹立しており、驚いた。同地のロシア人はマガキを食わないため、ニョキニョキ状態であった)。但し、『現在では』、『養殖用に持ち出されたことから』、『南北アメリカ、ヨーロッパ、オーストラリア、アフリカにまで移植されている』。『内湾から河口域に生息する。潮間帯から潮下帯に生息し、内湾性で富栄養の海域に普通に出現する。塩分濃度の低い水域を好む。消波装置に集まることで』、『動作不良を起こす事例もある』(消波装置は海面に浮かぶ形で配置するが、マガキが、多数、付着すると、その重みで沈下してしまい、全く機能を果たせなくなってしまう事態になってしまうのである)。『本種は』、『普通は』、『岩や杭など固いものに付着して成長するが、干潟では』、『時に』、『その表面に本種が集団をつくることがあり、時に広い面をなす。これをカキ床(英:Oyster bed』『)と呼ぶ。この状態になると、カキが表面を覆うために』、『その下の泥土は酸素欠乏状態とな』り、『泥は真っ黒になり、通常の干潟の生物は生存出来なくなり、岩礁の付着生物、それに低酸素で生活出来る間隙生物の生息域』が『変化』してしまう『ことになる。また』、『この環境は外来種が入りやすい場にもなっている』。『現在』、『日本の干潟でこれが増加しているとの指摘があり、環境変化について懸念されている』。『水深4-50mの岩礁を好むが、砂泥底にも棲息する。7月から8月の水温が19-23°C程度の頃に雌が5千万から1億個を産卵し、雄が放精する事で水中で受精する』。『本種を含むマガキ属は』、『水産経済動物としては』、『世界最大の年間生産量を持つとされ、その中でも本種は』、『アジアの温帯域で最も重要なものである。本種は日本の他、大西洋の北東部、特にフランス、ポルトガル、後には地中海に棲息域を広げ、また各地で養殖もされており、特にフランスでは』、『欧州での生産の75%を占め、近年の養殖場での生産量は4万トン/年となり、養殖牡蠣において世界一の生産量となる。また』、『オーストラリア等南半球でも養殖されている』(タスマニア島で食べたが、まことに美味かった)。

「ころびかき」これは単独種ではなく、小学館「日本国語大辞典」に『イタボガキ、イワガキなど浅海の海底にすむ大形の貝の称。食用とする。おきがき。なつがき。』とあった。この内、イワガキは、

イタボガキ科マガキ属イワガキ Crassostrea nippona

である。因みに、私はカキ・フリークであり乍ら、イワガキの生は、あまり好きではない。渋味があることと、強い脂(あぶら)が苦手であるからである。但し、蒸しなら、エンドレスで食える。

「いたぼかき」これは、

イタボガキ科イタボガキ属イタボガキ Ostrea denselamellosa

である。小学館「日本大百科全書」の奥谷喬司先生の解説を引く。『本州、四国、九州および朝鮮半島、中国沿岸に分布する。内湾の水深10~30メートルの海底の岩礫(がんれき)に付着したり、互いに接して団塊状になって生活する。殻長、殻高ともに13センチメートルぐらいになり』、『円板状で、右殻は平たく、殻表は成長線と一致する檜皮(ひわだ)状の殻皮で覆われ、多くの放射条がある。左殻は殻頂部で他物に付着し、やや深く粗い成長輪と不規則な放射肋』『がある。また殻頂の左右に耳状の突起が出て、殻内は白く筋肉痕』『は赤褐色。胎生種で、同一個体の性が交代する。産卵期は5~8月で、成育の好適塩分は27~34‰である。食用となり、一時』、『養殖が試みられたが、肉質が日本人に向かず継続されなかった。』とある。当該ウィキには、『別名としてボタンガキ』(牡丹蠣)『などがある』。『国内については』、『太平洋側が房総半島以南、日本海側が北海道南部以南』、『国外については』、『南シナ海のベトナム、マレーシア、大陸中国、台湾、韓国で、潮下帯から水深30m前後の浅海に多く棲息し、場合によっては』、『低潮線下数mの所にもみられる』とし、嘗つては『普通種として採取され』、『食用として流通していたが』、『近年』、『漁獲量が激減し、人工採苗による個体数回復の試みがなされている。また』、『貝殻は日本画の絵具や漢方薬、飼料として利用される』とあった。私は、とある地方で、生食用処理を施した同種を食したことがあるが、濃厚な味わいで、イケるものであった。私の『毛利梅園「梅園介譜」 蛤蚌類 草鞋蠣・コロビガキ  / イタボガキ』を見られたい。そこには、私が世界中で最も美味であったカキに就いて触れている。

 

 蠣を養ふは、河水流末(かすいりうまつ)の海濵にして、滿潮の際、常に、瀨、早き、水損風害(すいそんふうがい)のなき場所を、撰(えらぶ)べし。濵質(ひんしつ)は、泥砂(でいしや)をよろしとすと雖(いへども)、願(ねがわ[やぶちゃん注:ママ。])くは、砂地を、良(よし)とす。又、簱立設方(《ひび》たてまふけかた)

[やぶちゃん注:特異的に改行してブレイクし、重要な注を附す。これ以降の叙述を慎重に検証するに、東洋文庫版も、全く、そのままで、致命的矛盾があることに気づいておらず、そのままにしてあるのであるが、まず、

私が不審に思ったのは、この読みの頭の「簱」のみ、ルビがない

ことであった。一応、この後の暫くは、「はた」で躓かないように読めるしまうように感じたものの、途中で、

★★突然、「簱(ひヾ)」と、異なるルビが出現する

のである。しかも、さらに、その後に、

★★★よく見ると、漢字が異なり、さらに読みも違う「篊竹(ひヾたけ)」が出現する

のである。而して、ここで、次の大誤謬に完全に気づいたのである。

★★★★――この「簱」は、漢字も読みも、これ、総てが「篊(ひび)」の誤字+誤ルビなのであった

のである。読者が、それに、気づかず、なんとなく読めて違和感を感じなかったのは――「簱」が牡蠣養殖の「ひび」であることは判るのだが、「海苔ひび」等の「ひび」を私たちは漢字でどう書くか、まず、御存知の方は少なく、私も知らなかった。そして、私は、漠然と

『「海苔ひび」等から推定して、カキ養殖の固定の立て棒には、目印として「簱(はた)」を掲げてあるんだろうな。だから、「簱(はた)」なんだろう。』

と勝手に解釈して読み進めてしまったのである。天下の平凡社東洋文庫版の編者も、悲しいかな――それに全く以って――気づいていなかったのである!]

は、簱竹(《ひび》たけ)は、凡(およそ)、廻(まわ[やぶちゃん注:ママ。])り、三寸位(くらゐ)にして、枝(えだ)の儘(まヽ)、四尺位に切り、五、六本宛(づヽ)、數所(すかしよ)、揷(さ)し、之を、汐(ひは[やぶちゃん注:読みの意味、不明。恐らく、直下の「干際」のルビの誤りから推して、「しほ」の誤植であろう。])の干際(ひきわ[やぶちゃん注:ママ。「干潮(=引潮)の引(干)き際」。「ひきは」が正しい。])まで、二行に倂立(へいりつ)す。簱(ひヾ)[やぶちゃん注:★「ひび」の読みの最初の箇所である。]と簱(ひヾ)との間(あいだ[やぶちゃん注:ママ。])に、凡(およそ)、縱三尺、橫一尺五寸位を隔(へだて)て、立設(たてもふ)くべし。篊竹(ひヾたけ)は、專(もつは)ら、三年竹(さんねんちく)を用ゆべし。篊立(ひヾたて)の季節、及(および)、育養法は、篊竹(ひヾたけ)を、凡そ、每年、四、五月の頃に揷(さしはさ)み、六月頃に至(いたり)て、自(おの)づと、篊竹(ひヾたけ)に、種子、付着す。之を、九月に至り、篊(ひヾ)の儘(まヽ)、抽採(ちうさい)し、汐(しほ)の淺灘(せんなん)へ、立替(たてかへ)【之を「とや」と稱す。】、又、翌年九月に至り、竹より、打落(うちおと)し、潮(しほ)の深き處へ、廣(ひろ)め置き、而して、翌年三月より九月頃まで、汐水(しほみづ)の溜(たま)らざる干潟の高き場所へ移し替置(かへおく)べし。汐水の溜れば、炎天の際、氣(き)を釀(かも)し、腐敗するを恐(をそ)る故に、深(ふかし)といへども、滿干(みちしほ)に汐水の溜らざる場所は、移し替へざるも、妨げなし、とす。梢(やヽ)生育すれば、十一月頃より獲(とり)て、食用とす。倂(しか)し、生育の遲きものは、又、九月より再び、元の深き處へ移すべし。凡(およそ)、蠣の生育は三年を以て、極(きよく)とす。

 

『乾牡蠣(ほしかき)の根室縣下に產するものは、其(その)廉價(れんか)なるを以て、大(おほひ[やぶちゃん注:ママ。])に海外輸出に適すべし。』とは、橫濱の商(しやう)、串田八百吉(くしだやほきち)の見込なりしか[やぶちゃん注:ママ。「しが」。]、「通商彙編(つうしやゐへん)」に由(よれ)ば、『蠔豉(がうし)、卽ち、我(わが)北海產は香港(ホンコン)市上(しじやう)に、夥多(くわた)[やぶちゃん注:非常に多いさま。夥(おびただ)しいさま。]、輸入し、之を試賣(しばい)せしに、膏脂(がうし[やぶちゃん注:ママ。「かうし」でよい。])、稀薄なるより、味、亦、隨(したがつ)て、饒(じやう)ならず。』との評說にて、自然、廣東產(カントンさん)に壓抑(あつよく)せられ、十分の聲價(せいか)を得(う)るに至(いたら)ざりし。扨(さて)、其膏味(かうみ)、饒多(ぎやうた)なりしといふ廣東產を見るに、形狀は、我產(わがさん)より、稍(やや)大(だい)にして、全肉面(ぜんにくめん)に黃色の脂油(しゆ)を帶(おび)たり。然(しか)るに、其膏脂(がうし[やぶちゃん注:ママ。「かうし」。])は、牡蠣固有の物に非(あら)ずして、乾燥製作上に塗抹(とまつ)せし者の由(よし)なり。蓋(けだ)し、北海道厚岸(あつけし)には、牡蠣を出(いだ)す、多し。若(も)し、此製法を摸倣(もこう[やぶちゃん注:ママ。「もはう」の誤植。])せんには、必ず、當市上(とうしじやう)に於(おい)て、淸產と拮抗(きつかう)するを得(う)べし。價格、淸產、明治十六年に百斤十七、八元なり、と。この試賣品(しばいひん)は廣業商會(かうぎやうしやうくわい[やぶちゃん注:ママ。「かうげふしやうくわい」が正しい。])か[やぶちゃん注:ママ。]、厚岸にて試製せしものなりしなり。然(しか)るに、昨十八年、厚岸にて製したるものは、淸國產と、色澤(しよくたく)・形狀、少しも異(ことな)ることなく、大(おほい)に聲價(せいか)を得たり。當(たう)業者が、能く製法に注意して、かヽる良品を出(いだ)すあらば、輸出品中の上位を占るに至るや、必(ひつ)せり。然(しか)れども、安藝の廣島等(とう)にて養殖するものは、高價、且(かつ)、形質の小(しやう)なるとによりて、乾製に適せず。紀伊・伊勢等(とう)に產する『長蠣(ながかき)』、及び、『いたぼ』等(とう)は、形質、肥大にして、輸出品に製するを得(う)へし[やぶちゃん注:ママ。「べし」。]。

[やぶちゃん注:「串田八百吉」この人物、国立国会図書館デジタルコレクションで横断検索をかけると、水産関係の書籍に、複数、登場し、当時の貝類を始めとして海産製品の改良等に尽力した人物として記されてあり、「大日本水產會報告 號外」(明治二一(一八八六)年発行・合本)のここの「水產共進會事務要錄」の『審査委員』として、本書の著者河原田氏が筆頭に『主審 學藝委員』として姓名を記した、その三番目に『副審』として『通信委員兼地方世話掛』の肩書で、『串田八百吉』と載る。また、同年発行の「大日本水產會報告 第五拾四號」(合本)のここに、『串田八百吉氏死去』の記事があり、そこに(「產」「産」の字体の違いはママ。約物は正字に直した)『橫濱海産商中殖產篤志家の聞へありたる本會々員串田八百吉氏は水産貿易上盡力尠からず曩』(さき)『に本會々頭殿下より通信委員兼地方世話掛を委囑せられ水産擴張に熱心の人なりしに去る八月七日溘然遠逝せられたるは本邦水產業の痛嘆すへきことと云ふへし因て本會幹事長より其實子信太郞氏へ吊詞を贈り追悼の意を表したり』とあった。なお、出自を調べることは出来なかったのだが、因みに、lunaticrosier氏のブログ「旦さまと私」の「坂本龍馬の許婚・千葉さな子を旅する~②」という記事の中に、『商人・串田八百吉夫婦(鳥取藩御用人も務めていた)』という記載があった。同一人物か、全くの別人か、判らぬが、参考までに言い添えておく。

「通商彙編(つうしやゐへん)」各日本領事館の報告書のこと。重要輸出品に関する海外市場調査・通商情報の収集で成果を挙げた。その刊行は,明治一四(一八八一)年以後、「第一次大戦」までのそれが、この名であった。参照した平凡社「世界大百科事典」の「領事館」に拠れば、この報告は、『政府刊行物として印刷・配布され,年を追って質量ともに充実した。過去200年以上の間,ほとんど海外市場情報の蓄積がなく,また商社活動が未発展であった明治期日本にとって,領事報告が海外市場開拓に果たした役割は大きかった』とあった。]

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