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2026/08/30

河原田盛美著「淸國輸出日本水產圖說」正規表現版・オリジナル電子化注 下卷(九)乾魚並に䀋魚の說(その14) 鰺乾物

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は、第一始動の記事、及び、「(一)鰑の說(その2)」の前注の太字部分を参照されたい。今回はここから。]

   鰺乾物《あぢのひもの》

 鰺(あぢ)は「倭名鈔」・「新撰字鏡」ともに『阿遲(あぢ)』と訓す。而して、漢名は『小竹筴魚(しようちくきようぎよ[やぶちゃん注:ママ。正しくは「せうちくけふぎよ」。])』と書(しよ)し、全國の海に產す。鰺の乾物(ひもの)を製するも、往古(わうこ)よりのことにして、「延喜式」に『內膳司食料(ないぜんししよくりやう[やぶちゃん注:ママ。「りやう」は「れう」が正しい。])』『干鰺《ほしあぢ》三十隻《せき》』とあり。「本朝食鑑」曰く、『駿(するが)・豆(いづ)・房(あは)・總(かづさ)の海濵采者(かいひんにとるもの)、最(もつとも)美(び)なり。』と。夏月(かげつ)、圓肥(まるくこへ[やぶちゃん注:ママ。「こえ」でよい。])たるもの、味、甚(はなはだ)、香美(かうび)にして、炙食(あぶりぐひ)に、最(もつとも)宜(よ)し。鮓(すし)となし、煑魚(にぐひ[やぶちゃん注:意訓。])、又は、膾(なます)となして、佳(か)なり。『中脹(ちうてう[やぶちゃん注:ママ。厳密には「ちゆうちやう」が正しい。])』と號《がう》す。腊鮝(さくしやう)となすも、味、亦、佳良なり。冬(とう)・春(しゆん)の際(さい)、魚(うを)、瘠(やせ)、味なき故(ゆへ[やぶちゃん注:ママ。])に、之れを、乾曝(ほしかわか[やぶちゃん注:ママ。])して民間の用(よう)とす。一種、『室鰺(むろあぢ)』といふもの、あり。狹小肉薄(きょうしようにくはく)故(ゆへ[やぶちゃん注:ママ。])に、乾燥(かんそう[やぶちゃん注:ママ。])す。又、『島鰺(しまあぢ)』といふもの、あり。伊豆七島の鹹乾(しほほし)のものを『くさやの乾物(ひもの)』といふ。近時(きんじ)、淸國輸出乾魚中(ひしうをちう)の一(いち)とす。

[やぶちゃん注:「(その2)」で、『代表種は条鰭綱アジ目アジ科アジ亜科マアジ(真鯵)属マアジ Trachurus japonicus であるが、広義のアジは、マアジを含むムロアジ(室鯵)群・ヨロイアジ(鎧鰺)群・ギンガメアジ(銀紙鯵・銀亀鯵・銀河目鯵)群に分類され、非常に種が多い。各個解説に譲る。』と注したが、以上の各個解説は、結果して、マアジを語っていると考えてよく(正直、貧弱である)、終りの部分は、先にバラシてしまうと、実は河原田氏は恰(あたか)も自分が言っているように書いているように見えるが、後で見る通り、実は、そこも、概ね、「本朝食鑑」の本文を、ほぼ元にしているので、その後の注で、ムロアジとシマアジは示すこととする。『何で、マアジをメインにして、それで、いいのか?』と疑問を持たれる方のために、小学館「日本大百科全書」の「マアジ」の項の冒頭を引用しておく(太字は私が附した)。『北海道南部以南の日本各地の沿岸、東シナ海、朝鮮半島の沿岸に分布する。マアジ属は背びれと臀(しり)びれの後ろに小離鰭(しょうりき)がないこと、稜鱗(りょうりん)(鋭い突起を備えた肥大した鱗(うろこ)。一般には「ぜんご」「ぜいご」ともいう)が側線の全体にわたって発達することなどで特徴づけられ、日本には本種しかいない。』(☜★☞)『日本産アジ類のなかでもっとも普通の種類である』とあるからである。以下、ウィキの「マアジ」を引いておく(注記記号はカットした。一部、私が太字にした。)。『北西太平洋の沿岸域に分布する海水魚である。日本では重要な食用魚の一つで、単に「アジ」といえば』、『通常は本種を指す』。『成魚の全長は50cmに達するが、よく漁獲されるのは30cm程度までである。体は紡錘形で』、『やや側扁し、頭長は体高より長い。側線は体の中ほどで下方に湾曲し、背鰭第8軟条下から尾まで直走する。この側線上には全体にわたって稜鱗(りょうりん:俗称「ぜんご」「ぜいご」)と呼ばれる棘状の鱗が69-73個並ぶ。臀鰭の前端部には2本の棘条がある。鰓蓋(さいがい、えらぶた)上縁には1つの黒色斑がある。口内では両顎・口蓋骨・鋤骨(じょこつ)・舌に細歯がある。背側は緑黒色で腹側は銀白色、中間域は金色である』。『体色と体型は、浅海の岩礁域に定着する「居つき型(瀬付き群)」と、外洋を回遊する「回遊型(沖合回遊群)」で異なる。居つき型は全体的に黄色みが強く、体高が高い。一方、「回遊型」は体色が黒っぽく、前後に細長い体型をしている。例えば、東京湾沿岸では居つき型を「キンアジ」「キアジ」、回遊型を「ノドグロ」「クロアジ」などと呼んで区別する』。『ムロアジ属 Decapterus 諸種、メアジ Selar crumenophthalmus などの類似種がいるが、本種は第二背鰭・臀鰭の後ろに小離鰭が無いこと、側線のすべてが稜鱗で覆われること、側線が体の中ほどで大きく下方に湾曲することにより、区別できる。関西ではマアジを赤アジ、ムロアジを青アジとも呼ぶ』。『北西太平洋の固有種で、北海道から九州までの日本各地、朝鮮半島周辺から東シナ海などに分布する。特に日本海や東シナ海で個体数が多い。地方毎に独立した地方系群もあると考えられ、これらは』、『遺伝子プール・形態・生態・産卵地も』、『わずかずつ』、『異なる』、『とされる。主なものは九州北部群、東シナ海中部群、東シナ海南部群、小さい群として九州南方域、高知沖、関東伊豆付近、瀬戸内海、富山湾がある』。『回遊型は』、『沿岸から沖合の中層・底層を群れで遊泳する。季節に応じた長距離の回遊を行い、春に北上・秋に南下する。一方、居つき型は』、『浅海の岩礁付近に定着し、季節的な回遊をしない。食性は肉食で、動物プランクトン、甲殻類、多毛類、イカ、他の小魚などを捕食する』。『産卵期は地域の気候によって異なり、東シナ海では1月だが』、『北海道では8月となる。早春の東シナ海で仔魚・稚魚が多数見られることから、回遊型は東シナ海で産卵し、これらが黒潮に乗って東アジア沿岸域に分散すると考えられている。産卵数は全長20cm台のメスが約10万-30万、全長34cm以上で36万-56万に達する。卵は直径0.8-0.9mmの分離浮性卵で、40時間ほどで全長2.5mmの仔魚が孵化する。幼魚は流れ藻に付くことがあり、内湾の浅い海でも見られる。2-3年で成熟し、寿命は最長12年という記録がある』。『主として薄明薄暮性(crepuscular)』(クリスパキュラー:生物学では「薄明や薄暮の時間帯に活動する性質」を指す)『の行動様式を示す沿岸性回遊魚であるが、その日周リズムは環境条件に応じて柔軟に変化し、弱いカテメラリティ(cathemerality)』(:昼夜の区別なく、二十四時間の周期を通じて、不規則、且つ、断続的に活動する行動パターン指す語。)『を併せ持つとされる。日中は中層から深場に散開して回遊するが、潮流の変化やベイトの集中が生じた場合には積極的に採餌活動を行う。夕暮れから夜間にかけては警戒性が低下し、岸近くや常夜灯周辺に接岸して活発な摂餌行動を示す。朝夕の薄明薄暮時が最も高い捕食活動を示す一方、昼夜を問わず条件が整えば高活性を示す点から、生態学的には厳密な夜行性には分類されず、薄明薄暮性を基調としつつ』、『カテメラル的な柔軟性を備えた種として位置づけられる』。『マアジは薄明薄暮性を主体とするが、捕食圧・潮流・ベイトの分布など環境条件に応じて日中および夜間にも活動を行う弱カテメラル性を示す。この柔軟な行動リズムは、捕食者から行動時間を予測されにくくする時間的不可視性(temporal crypticity)』(=テンポラル・クライプティシティ=時間的隠蔽性)『の一形態とも解釈され、捕食回避戦略として機能している可能性が指摘されている』。マアジの『寿命は』五~六『年』である。以下、「名称」の項。『本種は日本産アジ類の中でも』、『特に漁獲量が多く代表種となっていることから、「真」が付く。新井白石は「アジとは味也、その味の美をいふなりといへり」と記している。食用に利用する際は大きさによって「小アジ」「中アジ」「大アジ」などとも呼ばれる』(ウィキの「アジ」=アジ亜科 Caranginaeの「語源」に拠れば、『諸説はあるが、日本語の「アジ」は味が良いことに由来するといわれる。「魚」に「参」と書く漢字が当てられるが、この由来は諸説あり』、「」(音「ソウ」。意味は「魚が生臭い」」の意の漢語)。の字の写し間違いであるとする説、「おいしくて参ってしまう」の意であるとする説、最も美味の季節が旧暦の』三『月に当たるので』、『旁』(つくり)『に数字の「参」が使われたとする説などがある。』とある。)『地方名も多く、アヅ(富山・秋田)、メダマ(東京)、ノドクロ、クロアジ(東京:回遊型を指す)キアジ、キンアジ(東京:居つき型を指す)、アカアジ(関西:稚魚を指す)、ヒラアジ(和歌山・大阪・広島)、ホンアジ(和歌山)、トツカアジ、トツカワ(和歌山)、オオアジ(神戸・松江)、オニアジ(兵庫明石)、メックリアジ(神戸・明石・淡路島北部周辺)、ゼンゴ(中国・四国地方)、アジゴ(中国・四国地方:小型のもの)、キンベアジ(鹿児島)、ジンタン(鹿児島:稚魚を指す)などがある。関アジは豊予海峡で漁獲し、大分県大分市佐賀関で水揚げしたアジの』ブランド名『である』。『日本では重要な食用魚として、定置網、巻き網、引き網、刺し網、釣りなど各種の漁法で大量に漁獲される。ほぼ季節を問わず漁獲されるが、旬は夏とされている』。『身はピンク色で、ある程度の脂肪を含む。白身魚と赤身魚の中間の身質をもち、青魚の一種に数えられる。回遊型は漁獲量が多く、身の脂が少ない。居つき型は漁獲量が少なく、身の脂が多い』。『用途は唐揚げ・南蛮漬け・フライ(アジフライ)・ムニエル・塩焼き・煮付け・刺身・たたき・寿司種・干物・つみれなど極めて幅広い。大きさによって調理法も異なり、小さなものは唐揚げにされることが多い。薬味にはネギやショウガを用いる。房総半島周辺のなめろうなど、郷土料理も各地にある』。以下、「釣り」の項であるが、前置きのみで、以下はカットした。『大型個体は一本釣りなどで狙うこともあるが、中型・小型のものはアミ類などをまき餌(コマセ)として使い、サビキで釣り上げる方法が一般的である。中には』、『茨城や千葉などコマセなしで行う地域もある。夜には船舶や漁港などの集魚灯によく集まるので、夜釣りの対象ともなっている。陸からの釣りはサビキ釣り、カゴ釣り、ウキフカセ釣り、延べ竿のウキ釣り (float fishing) 、ルアー釣り』(Fishing lure)『などもある』とある。

『「延喜式」に『內膳司食料(ないぜんししよくりやう)』『干鰺《ほしあぢ》三十隻《せき》』とあり。』国立歴史民俗博物館の「デジタル延喜式 Engi shiki Database」(底本は「凡例」を見られたい)で当該部を見ることが出来る。画像は「内膳 1 春日春祭条 項1」の「6」コマ目(そのコマを手動で動かす必要がある)の右丁の二行目である。リンク先に同箇所の校訂文と現代語訳が載るので、以下、引用する(現代語訳の読みはルビであるが、そのままコピー・ペーストしたので、前後は半角空けとなっている)。【 】内は同データベースの「引用の記載例」をそのまま用いた。

   *

校訂文

六月神今食料〈十二月准此、〉

淡路 塩二升、東鰒七斤五両、薄鰒六斤十両、堅魚五斤、干鯛六隻、干鯵卅隻、鮨鰒・煮塩年魚・ 醤鮒 各二升、甘塩鯛四隻、海松・海藻各六斤十両、干棗子・生栗子・搗栗子・菱子各二升、〈十二月以橘子代菱子、〉瓫四口、堝十口、〈大四、小六、〉松明八束、供奉官人二人、膳部六人、各給暴布襅一条、〈長八尺、〉【『デジタル延喜式(国立歴史民俗博物館 khirin t)』校訂文(内膳 6 神今食条 項1)、https://khirin-t.rekihaku.ac.jp/engishiki/item/39200601/、2026年8月30日閲覧】

現代語訳

六月の 神今食 かんいまけ に供給する品〈十二月もこれに準じる〉

淡路 あわじ の塩二升、 東 あずま アワビ七斤五両、 薄 うす アワビ六斤一〇両、カツオ五斤、干し 鯛 だい 六尾、干し 鰺 あじ 三〇尾、アワビのなれ 鮨 ずし ・ 煮塩 にしお のアユ・ 醤漬 ひしおづ けの 鮒 ふな それぞれ二升、 甘塩 あまじお の鯛四尾、 海松 みる ・ワカメそれぞれ六斤一〇両、干しナツメ・生栗・干してむき身にした 搗 か ち栗・ 菱 ひし の実それぞれ二升〈十二月は菱の実の代わりに 橘 たちばな の実を用いる〉、 瓫 ほとぎ 四 口 く 、 堝 なべ 一〇口〈大四、小六〉、たいまつ八束。奉仕する 内膳司 ないぜんし の官人二人・調理担当の 膳部 かしわで 六人にそれぞれ麻のさらしの 襅 ちはや 一条〈長さ八尺〉を支給せよ。【『デジタル延喜式(国立歴史民俗博物館 khirin t)』現代語訳(内膳 6 神今食条 項1)、https://khirin-t.rekihaku.ac.jp/engishiki/item/39200601/、2026年8月30日閲覧】

   *

『「本朝食鑑」曰く、『駿(するが)・豆(いづ)・房(あは)・總(かづさ)の海濵采者(かいひんにとるもの)、最(もつとも)美(び)なり。』と。夏月(かげつ)、圓肥(まるくこへ)たるもの、味、甚(はなはだ)、香美(かうび)にして、炙食(あぶりぐひ)に、最(もつとも)宜(よ)し。鮓(すし)となし、煑魚(にぐひ)、又は、膾(なます)となして、佳(か)なり。『中脹(ちうてう)』と號《がう》す。腊鮝(さくしやう)となすも、味、亦、佳良なり。冬(とう)・春(しゆん)の際(さい)、魚(うを)、瘠(やせ)、味なき故(ゆへ)に、之れを、乾曝(ほしかわか)して民間の用(よう)とす。一種、『室鰺(むろあぢ)』といふもの、あり。狹小肉薄(きょうしようにくはく)故に、乾燥(かんそう)す。又、『島鰺(しまあぢ)』といふもの、あり。』国立国会図書館デジタルコレクションの「本朝食鑑」(元禄一〇(一六九七)年板)の当該部を見られたい。訓点附きで、はっきり言って、江戸時代の本草書(=博物学書)としては、非常に読み易いものであるので、訓読はしない。先に前触れした通り、河原田は最後の二文のみが、彼の実際のオリジナル部分なのである。簡単に語注をしておく。

・「鮓(すし)」この場合の以上は、古(いにし)えからあった御飯と魚を発酵させた「熟(な)れ鮓(ずし)・馴(な)れ鮓)とは違って(変態好きの私の『カテゴリ「今昔物語集」を読む 始動 / 卷第三十一 人見酒販婦所行語第三十二』を参照されたい)、発酵をさせずに、酢をさっと加えて調理した「早鮓(はやずし)」を指す。この処理は、一六〇〇年代=慶長五年から元禄十二年の間に生じて、急速にポピュラーになっていったものとされる。

・「中脹(ちうてう)」「なかふくらみ」とは、腹部が、腐れているのではなく、豊かに膨れ上がっているさまを言っている。

・「腊鮝(さくしやう)」干し魚。

「室鰺(むろあぢ)」狭義には、

アジ亜科ムロアジ属タイプ種ムロアジ Decapterus muroadsi  

ムロアジ Caranx kurra

であるが、本邦に分布する種として、BISMaLでは、ムロアジの他に以下の六種が、挙げられてある。

アカアジ(赤鯵)Decapterus akaadsi

クサヤモロ(臭屋鰘) Decapterus macarellus

モロ(鰘) Decapterus macrosoma

マルアジ(丸鯵) Decapterus maruadsi

インドマルアジ(インド丸鯵)Species Decapterus

オアカムロ(尾赤室) Decapterus tabl

以下、ウィキの「ムロアジ」(但し、実質は「ムロアジ属」の内容である)に拠れば(注記記号はカットした)、『ムロアジ(室鯵、鰘)は、狭義にはアジ目アジ科の海水魚の一種 Decapterus muroadsi を指すが、広義にはムロアジ属 Decapterus に属する魚の総称として使われる』。『全世界の熱帯・温帯海域に約10種が知られる。ただしマルアジ D. maruadsi はマアジ Trachurus japonicus によく似ていて、ムロアジ類とは』、『また』、『別に扱うことも多い』。『アジ亜科の分類でムロアジ属に特徴的なのは、小離鰭(しょうりき)と呼ばれる、背鰭と臀鰭の後ろに分離した小さな鰭である。他にも側線上の稜鱗(ぜんご・ぜいご)が体の後半の直線部にしかないこと、体型が前後に細長い円筒形であることなども特徴となる。また、本種には生時に黄色の縦線がある』。『外洋に面した沿岸部や島嶼周辺に生息する。海の表層-中層で群れを作り、活発に遊泳する。食性は肉食性で、小魚や甲殻類、頭足類、動物プランクトンなどを捕食する。産卵期は5-6月で、この時期には沿岸の浅場に接近する』。『分布域の沿岸各地で定置網・巻き網・釣りなどで漁獲される。旬は夏とされている』。『用途としては、マアジより血合肉が多いことと、脂肪分や旨みが少ないことから干物にされることが多い。ムロアジ類の干物として日本で有名なのが』、『伊豆諸島で作られる』「くさや」『である』。「くさや」『に使う』「くさや液」『のことを』「魚室(むろ)」『と呼んだことからムロアジの名が付いたともいわれる』(以上の「くさや」についての記載は、正確さを欠く。これでは、「くさや」がムロアジしか使用しないように読め、それは誤りだからである。「くさや」に用いられるのは、ムロアジの他に、トビウオ類(「(その12) 乾飛魚」の私の注を見よ)・シイラ(アジ目シイラ科シイラ属シイラ Coryphaena hippurus )などの複数に魚が用いられいている。因みに、私は「くさや」で最も旨いのは「トビウオ」に限る、と信じている。若き日に行った神津島で「くさや」の製造元を訪ね、若いご主人と意気投合、「くさや液」の原液も、直接、嘗めさせて呉れた。臭くなく、実に清(すが)しいのであった。その時、ご主人が「一番旨いのは飛び魚だよ。」と教えてくれ、その場で買い、民宿で焼いて貰ったのが、最初の素敵な経験であった。同宿だった女子大生二人が、あまりの臭さに大騒ぎになったが⋯⋯。『また、鰹節のように燻製にして硬く干したもの(鯵節/むろ節)は、ダシ取り用に鰹節同様に用いられ、特に中部地方で好まれる。新鮮なものは』、『刺身・たたき、焼き魚などで食べられる』。『食用以外の利用法として、ブリ類・マグロ類・ハタ類など大型肉食魚の釣り餌に使われることもある』。『本属のうち、オアカムロ種群(The red-fin Decapterus group)と呼ばれるアカアジ・オアカムロ・サクラアジ・キツネアカアジの4種は尾鰭が赤色を呈することで区別される』。以下、「種類」の項であるが、原拠が違うので、学名の一部が違っているから、省略し、本邦に棲息しない種、不審な種等もカットした。

ムロアジ(『日本での地方名にアカゼ(東京)、モロ(東京・長崎)、アジサバ(富山)、マムロ(和歌山)、ウルメ(鹿児島)などがある。全長60 cmほど。重さは1.5㎏が最大。体型は前後に細長い円筒形で、尾鰭は灰色を帯びた黄色である。稜鱗は側線直線部の3/4にある。新鮮なものは体側に金色の細い縦帯がある。インド洋・太平洋の熱帯・温帯域と、大西洋のアフリカ南部沿岸に広く分布する。日本でも北海道南部以南で見られる。』)

アカアジ(赤鯵;『全長 30 cm。ムロアジより体高が高く』、『マアジに似るが、小離鰭があるので区別できる。和名は尾鰭が赤いことに由来するが、オアカムロほど赤くない。日本南岸から南シナ海までの太平洋西部沿岸に分布する。』)

オアカムロ(『日本での地方名はオアカ(東京・和歌山)、アカムロ(和歌山・高知)、アカアジ(鹿児島)、アカムツなどがある』。『全長 50 cm。体型はムロアジに似るが、和名通り尾鰭が全体的に赤い。アカアジよりも体高が低い。日本・オーストラリア・ハワイまでの西太平洋、インド洋のアフリカ南東部沿岸、ノースカロライナからベネズエラまでの大西洋西岸に分布する。』)

モロ(『全長 35 cm。尾鰭は褐色が強い以外はムロアジによく似ている。インド太平洋の熱帯・温帯域沿岸に広く分布する。大洋を群れを作って泳ぐ。

クサヤモロ (『日本での地方名としてシロムロ、アオムロ(伊豆大島)、アオサギ(和歌山)などがある。全長 40 cm。口先がやや前方に突き出ること、稜鱗は側線直線部の1/2に留まること、尾鰭は褐色が強いことでムロアジと区別する。また、体側に1本の青い縦線が走る。全世界の熱帯・温帯海域に広く分布する。水深40-200 m の海、特に岩礁の周辺などに群れを成して生息する。動物プランクトンを食べる。クサヤモロで作ったクサヤは高級品で、最も美味とされる。』とあるが、くどいが、私は絶対にトビウオである!

マルアジ(丸鯵)『地方名にはマル(東京)、アオアジ(高知・和歌山)などがある。全長 25 cm。マアジに似るが、小離鰭があることや』、『稜鱗が側線直線部のみにあることから区別できる。ムロアジと総称される中には含まない場合が多い。西太平洋とインド洋東部の熱帯・亜熱帯域に分布する。』)

インドマルアジ(『全長 45 cmほど。尾鰭は淡黄色-淡紅色。インド太平洋の熱帯域に分布し、南日本でも見られる。』)

「島鰺(しまあぢ)」アジ科シマアジ属シマアジ Pseudocaranx dentex 当該ウィキに拠れば(注記記号、及び、不用と判断した箇所はカットした)、『亜熱帯・温帯海域の沿岸部に生息する大型のアジである。食用にもなり、日本ではアジ類の中で最高級の食材として扱われる』。『標準和名「シマアジ」はもともと東京・和歌山・富山・高知など各地で呼ばれていた呼称で、体側に縦帯があることから「縞鯵」、もしくは伊豆諸島など島嶼での漁獲が多いことから「島鯵」の名がある。他に日本での地方名はオオカミ(伊豆諸島での大型個体の呼称)、ヌクモメ(小笠原諸島)、コセ(和歌山)、コセアジ(高知)、ヒラアジ(熊本)、カツオアジ(鹿児島)、カイワリなどがある。「カイワリ」「ヒラアジ」は本種のみならず大型・扁平な体をしたアジ類の混称で用いられる。カイワリは別のアジの一種 Carangoides equula の標準和名でもある』。『学名の種名"dentex"は「鯛」の意で、扁平な体型がタイ類に似ることに因る』。『成魚は最大で全長122cm・体重18.1kgの記録があるが、通常は全長1mほどまでである。体は長楕円形で体高が高く、側扁する。体色は背側が青緑色、腹側が銀白色をしている。幼魚は体側中央に幅広い黄色の縦線があるが、成長に従い不明瞭になる』。但し、『食餌がカニ、エビなど栄養価の高いものであった場合、成魚であっても体側の黄色の縦線が現れる。また』、『鰓蓋中央部・胸鰭のすぐ上に黒斑が一つある』。『目は頭部に比して』、『やや小さく、脂瞼』(しけん:当該ウィキに拠れば、一部の『魚類の眼に』見『られる半透明の膜で、まぶた状に眼の一部、あるいは』、殆んど『全部を覆っている』個体や種もある。『真骨魚類のうち、回遊性をもつ浮魚でよくみられる。脂瞼を持つ魚の例として、ボラや、ニシン』、『サバやアジの仲間などが挙げられる。その機能については』、『結論が出ていないが、いくつかの可能性が提唱されている』とある)『は』、『ない。吻は眼径よりも長く前に突き出る。唇は薄くあまり頑丈ではないが、筒のように前に突き出すことができる。各鰭の鰭条は、第一背鰭8棘・第二背鰭1棘23-26軟条・臀鰭2遊離棘1棘21-23軟条である。側線の前半部は上向きの弧を描き、第二背鰭第13軟条下から直走する。稜鱗は直走部の3/4程度に25-31枚が並ぶ』。『全世界の亜熱帯・温帯海域に広く分布するが、東部太平洋には分布しない。また』、『赤道付近の熱帯海域にもいない。日本沿岸の分布域は、日本海側が新潟県以南、太平洋側が岩手県南部以南である。沿岸から沖合いの水深200m付近までの浅い海に生息する』。『群れで海中を遊泳する。食性は肉食で、小魚や甲殻類などの小動物を捕食する。遊泳するものを追って捕食する他にも、海底の砂を口で掘り、砂中に潜む小動物を吸い込んで食べる。繁殖期は冬で、日本近海では12-3月に産卵する。卵は分離浮遊卵である』。『釣り、定置網などの沿岸漁業で漁獲される。大型魚で美味なため』、『釣りの対象としても人気が高いが、唇が薄いので釣り針が外れ易い。また定置網では大型個体が入ることは少ない』。『関東の釣り人の間では、体長80cmを超えるものは「オオカミ」と呼ぶ地域がある。餌は小魚、甲殻類等。ルアーでも釣れる』。『日本ではアジ類の中で最高級の食材として珍重され』、『高価である。刺身、寿司種、塩焼き、蒸し物、鍋、などの料理で食べられる。沿岸各地で漁獲される他に養殖も行われている』とある。「本朝食鑑」の最後では「味も佳ならず、最も下品なり。」と、のたもうているが、私は、毎週一回、連れ合いと寿司屋に行くが、シマアジがあれば、必ず、刺し身で注文する。]

2026/08/29

佐野花子「遺詠」(「芥川龍之介の思い出」短歌新聞社『彩光叢書第8篇』・昭和四八(一九七三)年刊底本)

[やぶちゃん注:底本は佐野花子・山田芳子(花子さんの実娘)「芥川龍之介の思い出」(短歌新聞社『彩光叢書第8篇』・昭和四八(一九七三)年刊)の中の「遺詠」パートを用いた。表記は歴史的仮名遣であるが、促音は小さく打ってある。漢字は新字体であるが、一部、旧字を使用している箇所もある。思うに、元原稿は旧字体であったものを、概ね、新字体に書き換えたものと思われる。また、歌の下に稀に前書き風の記載がポイント落ちであるが、これは最小ポイントに落とした。短歌の間は一コマ空隙とした。その記載附きではなく、短歌単独でも、二行に渡ってしまうものもある。

 佐野花子の経歴は、よく纏まったものが少ないので、底本の芳子さんの「母の著書成りて」(①で示す。以下同じ。)、及び、同書の歌人片山恵美子さんの「序として」(②)をメインとし、翰林書房の関口安義編「芥川龍之介新事典」の「佐野花子」の項(③)を参考にしつつ、以下にオリジナルに示す。

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 佐野花子(旧姓・山田)は明治二八(一八九五)年一月十七日に、長野県諏訪郡下諏訪町東山田(「ひなたGIS」)で生まれた。父山田力之丞、母ゑいの長女で、旧家の和やかな大家族の中で育まれ、諏訪高等女学校を首席で卒業し、数え年十七歳で東京女子師範学校(現在の「お茶の水女子大学」の前身)に入学した。国文学者・歌人として知られる尾上芝舟(おのえさいしゅう)に、本「遺詠」の巻頭を飾る、

 よどみなく坂を車の登るごとわがはたとせは過ぎさりにけり

を詠み、褒められたとされる。卒業から一年後の大正六(一九一七)年春、当時、横須賀機関学校で(以上は①)物理担当に教授(ここのみ③)であった佐野慶造と結婚した。慶造は、前年大正五年十二月、同校の英語担当の教授嘱託となった芥川龍之介と知り合いとなっていたため、夫婦ともに龍之介との交際があった。花子の兄は関東大震災の折り、赤痢で病死し、慶造は五十一歳(昭和一二(一九三七)年(この没年は五島正夫氏の論文「芥川龍之介はなぜ横須賀を去ったかⅡ―佐野花子―」(ネット(「神奈川歯科大学リポジトリ」)のものがPDFで入手出来る)の「序」の記載に拠った))で急死、花子と弟由信は、労苦の末に結核に罹患した母親を看病したが、この由信も第二次世界大戦の東京空襲にて死亡している(①)。花子は昭和三六(一九六一)年八月二十六日、満六十六歳で亡くなった(②)。なお、死因は孰れにも記載がない。

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 なお、必要と感じた部分、特にネイティヴでない読者に向けて、私の注を附した。しかし、私は、中学生の時から自由律俳句の『層雲』に入っており、大学時分は俳諧・俳句研究を主としていたが、実は、大の和歌・短歌嫌いであるので、或いは、とんでもない解釈をし、誤った注をしている可能性がある。されば、誤った部分を見つけられた方は、是非指摘され、御教授願いたい。よろしくお願い申し上げるものである。]

 

 

   遺 詠    佐 野 花 子

 

 

音もなく坂を車ののぼるごとわがはたとせは過ぎ去りにけり

 

紅梅の花の香りをあびて立つ朝な夕なの春のわが庭

 

なすこともなくて過ぎゆくこの頃を惜しとも思ひのどかとも見る

 

心より心に通ふ道ありきこの長月の空の遙けさ

 

汲み交はすその盃に千代かけて君がみ幸を寿ぎまつる 芥川氏結婚

 

[やぶちゃん注:「芥川氏」芥川龍之介。彼は、大正七年二月二日、田端で、塚本文と結婚式を挙げている。]

 

柿の実は朱くつぶらに色づきて君を待ちつつ秋更けてゆく

 

暮れてゆくみ空眺めてたたずめば雁なきてゆく父ます方へ 信濃なる父上ヘ

 

果てしなきみ空仰ぎて得ることは雲なかりきといふやすらけさ

 

大空はいよよ冴えたり仰ぎみる瞳にうつる上弦の月

 

木犀の花の香りをあびて立つ朝な夕なの秋のわが庭

 

大輪の黄色の菊のいみぢしさにつとふれし手のつめたきあした

 

ほのかにもぱっと漂ふ一輪の花の薫りぞ今朝のよろこび

 

わが庭の紅の芙蓉のいろまして秋のあしたの雨のめでたさ

 

萩の花光に匂ひつつ薄むらさきの露ぞこぼるる

 

かにかくに思ひわづらふ一事も我なきあとはただに消えなむ

 

一筋に思ひしことの数々もわれなきあとはただに消ゆべし

 

還暦を迎へたる身の衰へよ思へばかなしうれしはかなし

 

もの皆がただに消ぬべき死にといふことを思ふも病みてあるゆゑ

 

お茶の水四年の友の懐かしき面輪浮かび来老いて病む身に

 

六十路が程逝くはよろしと八十の父言ひましきわが病む六十路

 

六十路にて逝くはよろしと父言ひぬ六十路となりて病みぬこの身は

 

[やぶちゃん注:以上の二首の「六十路」は「むそぢ」と読む。前の歌は上句初句が字余りであるが、父の台詞として第二句で繋がるため、声を挙げて読んでみると、全く、違和感がないことが判る。]

 

うれしさもかなしさも世のきびしさも聞き給へかし同窓の友よ

 

哀へのかすかにかすかに癒えてゆくこの命こそあやしかりける

 

おとろへの癒えて行くてふうれしさを夢とも思ひうつつともみる

 

わが病ひ癒ゆると知りて吾子芳子心よりこそよろこびくるる

 

[やぶちゃん注:「よろこびくるる」の「くるる」は「呉(く)る」の連用形「くるる」。余情・なごりを添える連体中止法(連体止め)。]

 

食欲は常にも増してあるものをなど細りゆくいとしこの身よ

 

癒えぬれば庭におり立ち踏む上の柔らかくして春はうれしも

 

春の庭に立ちて思へば死ぬことも老いたる身にはうれしきものを

 

熱なくて衰へてゆくわが病ひ不思議と思ひつつ病みてをり

 

宵々の夢に来まして語らひぬ老いて病む身に父母は恋しき

 

夜の夢に父母の来まして語らへど老いて病む身ぞしづこころなき

 

半年の長きいたつき癒えしゆゑ心いささか清くなりにき

 

慕ひ寄る二人の孫のいとしさにつなぎとめたるわが命かも

 

なつかしき君が面輪の浮かび来て語らまほしもはかなごとなど

 

[やぶちゃん注:この「君」⋯⋯私は、つい、芥川龍之介を想定してしまうのである。]

 

人目には事なきごとく歩み来て還暦といふ年迎へたり

 

八十四の父逝きましぬその病ひ老衰ときけば心やすらか

 

病み臥せど心やすらかわが夫の形見と思ふ恩給あれば

 

[やぶちゃん注:「夫」は古語・詩歌で「つま」と読む。言わずもがな、この「つま」は「配偶者」の意味である。]

 

おだやかに沈みゆく陽のやすらけさ静けさにわが命死なまし

 

重なれる注射のあとの痛みさへ馴れてわびしも長病みなれば

 

[やぶちゃん注:「重なれる」「かさなれる」。]

 

悲しみも憂ひも持たぬこの身ぞと思ふ端より物案じする

 

かりそめの事に憂へてかりそめのことに心の和みけるかな

 

いささ川水のめでたささらさらと底のさざれの数みせてゆく

 

[やぶちゃん注:「いささ川」「いささがは」。「いささ」は造語で、接頭語として「小さい・僅かな・細(ささ)やかな」の意を表わし、「小川・川幅の狭い川」で、時には「雨水の流れるのを小川に喩えて言う語」でもある。]

 

いささ川浮べば消ゆるうたかたのそれにも似たるわが思ひかな

 

思ひ葉を流して吉と占ひぬ心うれしき朝なりしかな

 

[やぶちゃん注:「思ひ葉」(おもひば)は「触れ合って重なり合うように茂っている草木の葉」を指すが、多く、「男女の恋慕・相愛」などに喩える。]

 

何ごともよしとみて皆よろこばむさやけき秋に心やすかれ

 

[やぶちゃん注:「さやけし」「明けし・清けし・爽けし」で、この場合は、「清らかである・さっぱりしている・(気分が)さわやかである・すがすがしい」の意。]

 

まことあるわれとし生きむ願ひあり君や知りますわれの心を

 

[やぶちゃん注:この「君」もまた、私は、芥川龍之介を想起してしまう。]

 

蕗の薹三つ四つ二つふくらみてわが庭隅に春訪づるる

 

[やぶちゃん注:「蕗の薹」歴史的仮名遣「ふきのたう」、現代仮名遣「ふきのとう」。キク亜綱キク目キク科キク亜科フキ属フキ Petasites japonicus の若い花茎。食用。日本原産で、樺太・朝鮮半島・中国でも見られる。]

 

しかなりと知り得し時の嬉しさにはた悲しさに泪流るる

 

[やぶちゃん注:「泪」「なみだ」。]

 

ほのかにも漂ふ菊はくくられて十三夜の月にかげをあらそふ

 

君がまこと残さむものと思ひけり老いて病む身のはかな心に

 

[やぶちゃん注:この「君」は、直前に公開した「私は芥川龍之介のかくれた愛人だった」をものした以上、芥川龍之介ではあり得ないと断言出来る。]

 

人恋し人は恋しく懐かしくかくてわが身のいつか果つべき

 

[やぶちゃん注:同前。]

 

懐しき君のおもわをありありと想ひてあかず月光青し

 

[やぶちゃん注:「月光」から、間違いなく、同前。]

 

君がみ影浮びては消ゆうれしさにひたりて過ごす今日の一日も

 

[やぶちゃん注:やはり「君」は芥川龍之介であろう。]

 

わが命消えなむとして又保つかなしきものぞ我れの終りは

 

新たなる年を迎へて嬉しきは君健やかにいますといふこと

 

[やぶちゃん注:「君」これは花子さんの実娘山田芳子さんであろう。]

 

逢ひがたき君(きみ)に見えし嬉しさも束の間にして過ぎしそのかみ

 

[やぶちゃん注:特異的な「君(きみ)」(底本ではルビ)は、やはり、嘗つて、芥川龍之介と邂逅した折の過去詠であろう。]

 

霙ふりまうら悲しき元且に思ふいつまでわが命ありや

 

[やぶちゃん注:「霙」「みぞれ」。「まうら」は「目裏」で「瞼(まぶた)の裏側」であるが、ここは、そこから、「目裏(めうら)」=「心」で「心に思い浮かべること」の意である。]

 

うらうらと日はさし初めて臘梅の蕾ながらに透くはさびしゑ

 

[やぶちゃん注:「臘梅」(歴史的仮名遣「らうばい」・現代仮名遣「ろうばい」)はクスノキ目ロウバイ科ロウバイ亜科ロウバイ属ロウバイ Chimonanthus praecox

「さびしゑ」これは「さぶしゑ」とも使い、「寂しさ」を表わす形容詞「さびし(さぶし)」に、嘆息・強い詠嘆(感嘆)の情を伴なう古代の終助詞「ゑ」が附いたもので、「万葉集」などの上代語に既に見られるが、明治以降の『根岸派』(この派によってこの語句が再生再興させたともされる)や、近現代の歌人らによって、短歌の中で好んで使われたものである。]

 

消えわびぬ憂ひかさねて来しものをまたあらたなる年は来にけり

 

池いちめんきらめき止まぬうすらひのうすきを歩む青き小鳥は

 

[やぶちゃん注:「うすらひ」もとは万葉語で、古くは「うすらび」とも。「薄く張った氷(こおり)・薄氷(うすらい)・薄氷(はくひょう)」の意。]

 

君がみたより読みつつあればそのかみの御声韻き来思ひほのかなり

 

[やぶちゃん注:「御声」は「みこゑ」で、「韻き来」は「ひびきく」。さても、その「声」の主たる「君」は、やはり芥川龍之介である。詠んだのは、彼自作の短歌か俳句か、まず、短歌であろう。]

 

風邪癒えてこころさやけき朝なれど君がみたより見ぬがかなしき

 

[やぶちゃん注:下句の「君がみたより」は、それに続く「見ぬがかなしき」の表記の違いから、「君が見たより」ではなく、「君が御便り」であろうと解釈した。「君が見たより」で採ってしまうと、論理的に意味が通じなくなってしまう以前に、既にお判りであろうが、「見た」では、現代仮名遣となってしまうから、そもそも、あり得ないのである。翻って、さらに、この一首を、物理的に、じっと眺めてみると、上句は、画数の多い漢字が詰まっていて、頭でっかちになっている印象が、ある。さても、それに加えて、もし、「君が御便り」と表記してしまうと、さらに字画がゴチャついてしまい、純粋に視覚的観点から、佶屈聱牙(きっくつごうが)な雰囲気を醸してしまう、と感ずるのである。仮に、そうして表記を変えてみよう。

 風邪癒えてこころさやけき朝なれど君が御便り見ぬがかなしき

これ、私でも、『ちょっと、「漢字」が「感じ」悪くて、ゴツゴツしてるぞ⋯⋯』と感じるのである。それを避けるために、わざわざ「みたより」と平仮名としたのだ、と、私は、考える。いや、何より、そう解釈すると、

「風邪が治って、心持ちも、すっきりと迎えた朝であったのに、あなたさまの御便(みたより)を見ることができない⋯⋯それだけで、私は、なんとも、哀しかったのでした⋯⋯」

と、きわめてなめらかに、音楽のスラーのように読解することが可能となるのである。而して、この「君」は、亡き芥川龍之介の幻(まぼろ)しと、私が読むことは、言うまでもない。]

 

恋ふべかる君にもあらず恋はるべき我ならなくに忘れかねつも

 

[やぶちゃん注:この「君」は、やはり、芥川龍之介である。]

 

あらたなる年を迎へていよいよにふかきいたはりのまなざし持つ娘(こ)

 

スプートニク飛ぶとふ空を仰ぎみれば事もなげにも澄める朝月

 

[やぶちゃん注:「スプートニク」ロシア語で“спутник” は「衛星」の意。ソビエト連邦が一九五七(昭和三二)年十月四日に打ち上げた世界初の人工衛星「スプートニク1号」(спутник-1)である(私はこの年の二月に生まれた)。本「遺詠」の中で、初めて作歌時期が特定出来る一首である。花子、満三十八歳の時である。作中の背景は明確に現在形であるから、無論、ずっと二十年以上も前の過去の詠では、ある。恐らく、当時の現代風の一首として、彼女は、特に気に入っていた一首であったのだろう。しかし、或いは、ずっと晩年になって多少の改作をしているかも知れない。

「朝月」「あさつき・あさづき」。私は前者で読む。]

 

めぐり来し春のよろこび誰とかも語らむものぞ沈丁花咲く

 

[やぶちゃん注:私は「来し」は「こし」で、「誰」は「たれ」で読む。]

 

人の死も人の泪も知らぬげに牡丹のつぼみふくらみてゆく

 

[やぶちゃん注:「泪」「なみだ」。彼女に名誉のために「人の死」は、ここでは、夫慶造(彼の忌日は不明である)の死と採っておく。芥川龍之介の自死とするには、各種ボタンの開花期の初めとは、全く一致しないからでもある。]

 

御たよりを読みもてゆけばわが袖の泪に濡れてくるる春の日

 

[やぶちゃん注:言い方から便りの主は芥川龍之介であろう。過去詠が元か。]

 

娘が買ひ来し初いちごの実つぶらにて故郷の野苺おもひつつ食む

 

[やぶちゃん注:「娘が買ひ来し」「こがかひこし」。字余り。

「故郷の野苺」「さとののいちご」。花子の郷里は諏訪湖の北岸であるが、対岸には、今、「諏訪湖いちご園」があり、よく知られている。

「食む」「はむ」。]

 

逢ひがたき人に逢ひにしうれしさよ命あやふき今日このごろに

 

御姉妹いと健やけく嵯峨の野にたたすみ姿思ひやるわれ 学友中島様京都散策

 

[やぶちゃん注:「御姉妹」「おんしまい」。

「健やけく」「すこやけく」。

「たたみ姿」「たたみすがた」。

「学友中島様」不詳。但し、次の一首によって、東京女子師範学校の学友であることが判明する。]

 

病むことも老いも思はずお茶の水の友と行きにし関西の旅

 

[やぶちゃん注:これは、また、次の一首によって、東京女子師範学校時代の関西(京都含む)への修学旅行であった可能性が極めて高い。さればこそ、先の一首で、その修学旅行での、過去の嵯峨野の背景を以って容易に想像出来たわけである。]

 

関西の旅を想へばまなうらにありありと浮かぶ亡き師のみかげ

 

[やぶちゃん注:「まなうら」「眼裏」。「鮮烈な印象が焼き付く場所としての目の奥」の意。]

 

さやさやと野の宮近き竹の葉の音鳴り出づれ行くべくも無し

 

[やぶちゃん注:「野の宮」京都市右京区嵯峨野宮町(さがののみやちょう)にある野宮神社(グーグル・マップ)であろう。同神社は数万本の竹が茂る「竹林(ちくりん)の小径(こみち)」の中心にある。]

 

遙けくも世に経しこの身いたはりて子の為孫のため永らへむ

 

[やぶちゃん注:これは、花子の思いであるが、前の野宮神社との意識上の連想が感じられる。同神社は、学問・恋愛成就・子宝安産等の祭神を祀っている。

「遙けくも」「はるけくも」。

「経し」「へし」。

「為」「ため」。]

 

速やかに廻りまはれよ待つ我に早く来れよ回覧のふみ お茶の水文化同級生の回覧文

 

[やぶちゃん注:永く東京女子師範学校時代の校友の通知が来ているのであろう。]

 

かしこしや陸奥の国より病む我をみまもり給ふ君いますこと

 

[やぶちゃん注:「陸奥」「むつ」。現在の青森県と、岩手県の一部に相当するが、ここは青森県であろう。]

 

今さらに何か嘆かむ病みながきこの身かなしとあきらめをれば

 

うれしさとはたかなしさとゆき通ひ心乱るる君います日は

 

[やぶちゃん注:「はた」副詞。この場合は、テンションのマックスを、「唐突に」行ったり来たりする心情の振(ぶ)れを指す。]

 

面影の昔にまさる清しさに君がみ幸を祈りこそすれ

 

[やぶちゃん注:「清しさ」「すがしさ」。

「み幸」「みさち」であろう。お幸(おしあわ)せ。この「君(きみ)」は誰かは判らない。しかし、ふと、この一首が、例えば、芥川龍之介が文さんと婚約、或いは、結婚した時期に、花子が詠んだものだと仮定すると、しっくりはくる、と、一瞬、感じたりした。しかし、これは、私が花子の意識に対して、龍之介バイアスが、強くかかってしまっているから、そう考えただけであり、よく見れば、この前後の歌群は、連続した連作であって、「かしこしや陸奥の国より病む我をみまもり給ふ君いますこと」に読み込まれた花子の友人が、花子のことを気にかけて呉れていることへの、素直な感謝の念を詠んだものと、とるのが、自然だった。悪しからず。

 

相あひて別れしのちのわびしきに一人想ふもみちのくの空

 

[やぶちゃん注:以下、「みちのく」の友は、結局、花子のもとに見舞いに来たのであろう。]

 

病む身こそいとどつらかれ君と居て語らふことの能はざりしよ

 

語らむこと残りしものをとのたまひしその郷言葉忘られなくに

 

[やぶちゃん注:「郷言葉」「さとことば」。東北方言。]

 

その昔君に見えし中里のかりの住居も恋ひしかりける

 

[やぶちゃん注:「見えし」「まみえし」。この言い方から、この「君」は、明らかに再び、芥川龍之介であると私は思う。]

 

隣室にきこゆるみ声なつかしみ泪するかな病みあつき身は

 

[やぶちゃん注:これは、芥川龍之介が慶造の家に呼ばれたが、花子は体調不良で、隣りの部屋で病臥していたというシチュエーションであろう。]

 

君をおもひ眺むる夜半の月かげの天心にしてはかなかりける

 

[やぶちゃん注:これも「君」は芥川龍之介。]

 

中里にありし日君のおとづれをいかに待ちけむ君は知らじな

 

[やぶちゃん注:「中里にありし日」この「中里」は不詳であるが、試しに、見当をつけて知らべたら、頭に当たった(と考えている)。現在の横須賀市上町(うわまち)に、嘗つて「中里村(なかざとむら)」があった。明治二二(一八八九)年に周辺の村と合併し、豊島(としま)村となり、その後、町制施行で「豊島町」になった後、明治三九(一九〇六)年に横須賀町(現在の横須賀市)へ編入された結果、「中里」の地名は残っていない。しかし、「中里通り商店会」や町内会の名称、而して、同所の中里神社にその名残が残っていると、ガイド・サイト「三浦半島日和」のこちらにあった。この旧上里は現在の横須賀市上町内(グーグル・マップ。以下、無指示は同じ)にあることになる。さて、旧横須賀機関学校は、ここに「海軍機関学校跡の碑」がある。ここは、三笠桟橋・猿島渡船場の東北直近で、この一帯が同機関学校であったのである。「ひなたGISの戦前の地図を見ると、中央にあるのが、学校である。ここで視認すると、横須賀駅と学校の間は、直線で六百メートルほどで、近い。佐野花子の作品の記載に拠れば、芥川龍之介が佐野慶造と一緒の花子に初めて逢ったのは、横須賀駅である。二人は、この日、新婚旅行に出かけるところであった。さて、一方、横須賀駅から旧中里までは「ひなたGIS」の戦前の地図に中央に「中里」とある)、直線で東南東に二キロ強である。即ち、佐野夫婦の住まいが、この旧中里にあったと考えても、仕事場との関係からも、何ら問題がないのである。さすれば、この一首の「君のおとづれをいかに待ちけむ」というのは、龍之介の訪問を彼女が何時も秘かに待っていたことを告白していると断じてよい、と私は、思うのである。

 

寝てはさめ覚めては思ふこのごろのはかな心を何にたとへむ

 

[やぶちゃん注:これは花子の「老いの儚(はかな)さ」を詠んだものと採る。]

 

君がためこの身いとしむ老いの身のかなしきおもひ知る人ぞ知る

 

[やぶちゃん注:同前。]

 

夕されば萩をみなへしなびかせて優しの野辺の風の彩かな

 

[やぶちゃん注:「夕されば」夕べが来ると。「彩」は「あや」。この場合は「風(かぜ)」であるから、「風の起こす様(さま)」の意。]

 

師の君に逢ひ参らせしうれしさは何にたとへむものならなくに 小松先生

 

[やぶちゃん注:「小松先生」これは、短歌の彼女の師であろうか。時代的に、『アララギ』派の有力な歌人で、選者としても知られていた小松三郎が想起されるが、花子が如何なる短歌結社に属していたかが、全く判らないことから、考証のしようがない。その辺りについて、御存知の方は、御教授下されたい。]

 

三十年を思ひ煩ひ経し我れに花咲く春のめぐり来むとは

 

[やぶちゃん注:前の一首と合わせるなら、新たに歌人としての再起の話があったものか。]

 

思ひきやとだえ絶えにし友情の老いて病む身にかへり来むとは

 

[やぶちゃん注:「小松先生」――「春のめぐり来(こ)む」――「とだえ絶えてしまった友情」――の連関性は、以上の通り、よく判らない。万事休す。]

 

絶対安静まもりて過ぎし幾月を心軽くも顧みるかな

 

わが病よろしとききてよろこびを告げなむ人のあまりに遠し

 

[やぶちゃん注:「告げなむ人のあまりに遠し」先に出た青森の旧友か。]

 

小春日のさやけき光身にうけて庭にたたずむひな鳥見つつ

 

ふる里の赤き柿の実送り来ぬこの愛しさを誰に告ぐべき

 

[やぶちゃん注:「愛しさ」「いとしさ」。「誰」は強意で「たれ」と読みたい。直(じか)に語る人が、いないという、当時の花子の孤独感をよく表現している。]

 

言はざるは言ふに優るとききにしを君言はざるははかなかりける

 

[やぶちゃん注:これは亡き芥川龍之介への恨み言(ごと)であろう。自分を愛していながら、明確なそれを、遂に作品の中で示さなかったことへの恨み節と採る。]

 

相生ひの松とも仰ぐ御夫妻は嫗翁ぞこれのうつしゑ

 

[やぶちゃん注:「嫗翁」七音に合わせる以上は、「おみなおきな」であろう。但し、一般的な語は「翁嫗」(をうあう/をうをん)で、この順列とするのが普通である。なお、私は、この一首は、後の四首目の「悼名取春山翁」と添えられた詞書(ことばがき)を持つ一首と遠くない、彼女の中の感情的な無意識的関連(関係妄想的と言ってもよい)があるように感じている。そちらの私のやや長い注を参照されたい。

 

師の君に逢ひ参らせし心地しぬ御うつしゑにまなこ疑らせば

 

[やぶちゃん注:「疑らせば」は、明らかに「凝」(こ)「らせば」の花子の誤記、若しくは、本「遺詠」の編者である花子の娘山田芳子さんの判読ミスであると思われる。]

 

初めしは誰ぞや別れとふことをはかなさ知らぬ人やはじめし

 

[やぶちゃん注:この一首、音数律から「はじめしは/たれぞやわかれ/とふことを/はかなさしらぬ/ひとやはじめし」であろう。「とふ」は「問ふ」。しかし、上句は表現としては上手くない。]

 

光足らふ春を心に持ちてよりいのちふふめる土になじみぬ

 

[やぶちゃん注:「光足らふ」「ひかりたらふ」(字余り)であろう。

「いのちふふめる」「ふふめる」は「含める」で、この場合は「花や葉がふくらんでいるが、未だ、開ききらないで蕾(つぼみ)のままでいる。」の意で、それを、初「春」の「土」に広げた表徴表現である。しかし、少々、語音としては、スマートさを欠いているように感ずる。]

 

芹なづなさはに摘み来し幼ならよ夕げの膳にみどり匂へり

 

[やぶちゃん注:思うに「幼ならよ」は、芳子さんの誤判読で、「幼(をさ)なけよ」「幼なげよ」(和歌では普通に、また近現代短歌でも濁点を打たないことが、よくある)であろう。

「芹」「せり」。セリ目セリ科セリ属セリ Oenanthe javanica 。本種は日本原産。「ぺんぺん草(グサ)」の異名で知られ、古代から食用にした「春の七草」の筆頭。

「なづな」アブラナ目アブラナ科ナズナ属ナズナCapsella bursa-pastorisシノニム: Capsella bursa-pastoris var. triangularis 。北半球に広く分布する。同じく「春の七草」の一つ。]

 

信濃なる山裾の野辺夢にたつ蕗の薹摘み雪消えの春

 

[やぶちゃん注:「信濃」花子の故郷。]

 

既に世に在らずと思ひし春仙が毒死の報を受けて泪す 悼名取春仙翁

 

[やぶちゃん注:詞書「悼名取春仙翁」(たう なとりしゆんせんをう)。名取春仙(明治一九(一八八六)年~昭和三五(一九六〇)年)は版画家・挿絵画家・浮世絵師・日本画家。中巨摩郡(なかこまぐん)明穂村(あけほむら)、現在の南アルプス市小笠原(おがさわらちょう)生まれで、久保田米僊(べいせん)に師事し、明治四〇(一九〇七)年、『東京朝日新聞社』に入社し、夏目漱石の「虞美人草」「三四郎」「それから」「明暗」等の挿絵を描いて、ジャーナリズムに認められ、以降、多くの挿絵を手掛け、長塚節の「土」、島崎藤村の「春」、泉鏡花の「白鷺」、石川啄木の「一握の砂」などの名作の挿絵で知られる。花子の郷里長野県諏訪郡下諏訪町東山田とは、直線で六十一キロメートル離れるが、この一帯は中部地方の中央高地地域に包含され、彼女には文化的に彼への近親感があったものであろう。但し、本首の「既に世に在らずと思ひし」の謂いから、実際に本人と面会したことはなかったものと思われる。以上を一部、参考にした当該ウィキに拠れば、昭和三三(一九五八)年二月に、『長女を肺炎で亡くし』、二年後の(以下は私が太字とした)昭和三五(一九五七)年三月三十日午前七時、『妻の繁子とともに』現在の東京都港区北青山の『高徳寺境内』にあった『名取家』の『墓前で』、『服毒自殺した』。満七十四歳であった。『法名は浄閑院芳雲春仙信士。遺書には、寺院へ迷惑をかけることの詫びと、将来、夫婦のどちらか一人だけが残されることは望まぬため、娘の傍で二人で逝くことにした旨が記されていた』とあった。恐らく、彼の凄絶な自死、さらに妻との冥途への道行という事実に、花子は強烈な共振的(愛した芥川龍之介の自死・夫慶造の急死等)ショックを受けたものと推測するに難くない。以下二首が同じく春仙を詠んでいることからも判る。読者に異論があれば、何時でも相手になる。なお、この一首も、作歌時期が限定出来る一首である。]

 

生きながら世に忘られて居たりける名取春仙その身断ちしか

 

夏目漱石泉鏡花の小説のさしゑ今なほ目にぞのこるを

 

拡ごりて光れる雪の野を遠く小さく汽車の進みゆく見ゆ

 

[やぶちゃん注:「拡ごりて」「ひろごりて」。但し、私は「拡」(原稿は「擴」であるかもしれない)の字は、この短歌では、生理的に厭な感じがする。]

 

いたづらの孫を叱ればいたづらを止めしが淋し春の日向に

 

[やぶちゃん注:「日向」「ひなた」。]

 

娘がくれし座椅子によりてウィルヘルム・マイスター読みぬ年よりの日よ 昭和三十五年九月十五日

 

[やぶちゃん注:珍しい作歌クレジットがある。昭和三十五年は一九六〇年で、花子は満六十五歲。逝去の約一年前の作歌である。

「ウィルヘルム・マイスター」ドイツの巨匠ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ( Johann Wolfgang von Goethe )が書いた教養小説の古典「ヴィルヘルム・マイスターの修業時代」(‘ Wilhelm Meisters Lehrjahre ’)。一七九六年発であるが、後に続篇「ヴィルヘルム・マイスターの遍歴時代」(‘ Wilhelm Meisters Wanderjahre ’)がある。両方ともに読んだものとしておく。]

 

ペンとればそのきしみさへしるくして夜半しづけしも秋のわが室

 

[やぶちゃん注:「しるくして」はっきりと(厭(いや)に)ギシギシと聴こえて。

「室」「へや」。]

 

山牛蒡の佃煮買ひぬ信濃路にみねばとよびて摘みし日恋し

 

[やぶちゃん注:「山牛蒡」(やまごばう)という、一般に、寿司屋などで、この名で供されるものは――漬物――で――「佃煮」――ではないのである。その材料は広義のアザミ(薊)様(よう)の植物の☆で、

○キク目キク科アザミ属モリアザミ(森薊) Cirsium dipsacolepis

○同属オニアザミ(鬼薊)Cirsium borealinipponense

○キク科ヤマボクチ(山火口)属オヤマボクチ(雄山火口)Synurus pungens

等などの☆根の総称である。さらに困ったことに、「ヤマゴボウ」という正式和名を持つのは、日本在来種の、目タクソンで異なる、全く違う、

ナデシコ(撫子)目ヤマゴボウ(山牛蒡)科ヤマゴボウ属マルミノヤマゴボウ(丸実山牛蒡) Phytolacca japonica

中国原産で本邦に帰化している、

✕ヤマゴボウ(山牛蒡)Phytolacca acinosa

等で、これは、上記のアザミ様のグループとは、全く、異なる種であり、しかも、このヤマゴボウ類は、全草に強い毒(アルカロイドのフィトラッカトキシンphytolaccatoxin 等)があり、食用にはならないのである。更に、残念ながら、

★花子の言う「みねば」というのは「山牛蒡」ではない

のである。次の注を見られたい。

「みねば」これは、キク亜綱キキョウ目キキョウ科ツリガネニンジン(釣鐘人参)属サイヨウシャジン(細葉沙参)変種ツリガネニンジン Adenophora triphylla var. japonica の地方名で、若苗・若葉・花を食用にする当該ウィキに拠れば(注記記号はカットした)、『地方によって別名は、トトキ』(何故か知らんが、太字になっている)、『アマナ、ツリガネソウ、チョウチンバナ、ヌノバ、ミネバ』(☜)『ヤマシャジンなどの方言名でも呼ばれている』とあり、また、根については、『姿が朝鮮人参に似た根は強壮作用があるといわれ、年間を通じて採取でき、細いひげを取ってから千切りにしてきんぴらなどにする』とあった。ところが、実は、ここでも悩ましいものがあって、「きんぴら(金平)」は炒め物であって、「佃煮」ではないのである。しかし、この場合、この「みねば」という方が本命であるからして

「山牛蒡」=「みねば」=ツリガネリンジン

と採らざるを得ないと結論しておく。個人的には、私の大好物で寿司屋で食うのは前者だから、極めて残念なのだが⋯⋯

 

亡母が語りし雪女むじなの昔ばなし孫はわが膝にすがりて聴ける

 

[やぶちゃん注:これは、詠み方で困り果てた。「亡母」は音数律から「なきはは」と読んで見たが、そうすると、以下の「語りし雪女むじなの」パートがえらく字余りになって、現実的でない。そこで、苦し紛れに、以下のように考えた。

「亡母が語りし」は、硬い響きだが、「ばうもがかたりし」で一字余りとし、

「雪女むじなの」の「雪女」を「ゆきをんな」と詠まずに(あまりに音数が多過ぎるため)「ゆきめ」とし、「ゆきめむじなの」で、きっちり、七音となり、

※【但し、私は中世以降の怪奇談を多量に電子化注しているが、「雪女」を「ゆきめ」と呼んだ例は、記憶に、ない。「日文研」の「怪異・妖怪伝承データベース」でも存在しない。ただ、一つだけ、「雪女」が「うぶめ」の姿をしているという事例があるものの、採取地は会津であり、ピンと来ない。そもそも、花子が、これを以って「うぶめ」と訓じる可能性は、極めてゼロに近いと思う。『⋯⋯だったら、「ゆきめ」だろう!』と私は思ったである。

「昔ばなし」は、そのままで、

「孫はわが膝に」で一字字余り、

「すがりて聴ける」は、七音、

で、まあ、いささか、ギクシャクはするものの、詠唱は可能であると思う。さても、もっとよい読み方があると言われる方は、御教授願いたい。

 

桔れのこる胡瓜の茎にこほろぎは黒く澄みたるまなこもてすがる

 

[やぶちゃん注:「胡瓜」「きうり」。最後は、一字余り。]

 

初袷清しみ庭に降りたちぬ鶏頭の冷え身にせまり来る

 

[やぶちゃん注:「初袷」「はつあはせ」は「その年はじめて袷(あわせ)を着ること・その袷」で、所謂、「衣替(ころもが)え」で、陰暦四月一日(新暦では五月上旬から六月上旬)、冬衣(ふゆごろも)を袷と着替える行事を指す。

「清しみ」「すずしみ」。この「み」は接尾語で、原因・理由の意で連用修飾の関係を示す。この場合、『涼しいので、(庭に)「降りたちぬ」』となるのである。

「鶏頭」ナデシコ目ヒユ科ケイトウ属ケイトウ Celosia argentea 。原産地はアジア・アフリカの熱帯地方と推定されるが、本邦には、奈良時代に中国を経由して渡来した。花期は五月から始まる。実際に、あのニワトリの鶏冠みたような「花」に触ったことは、誰も、あられるであろう。すると、実際――「ひんやりと」する――のである。さて、ご存知とは思うが、ケイトウの鮮やかな赤い(他にもピンク・オレンジ等がある)のふさふさした「花」と呼びたくなる部分は、茎が変形したものであり、「花」のように見える部分は「花序・花穂(かすい)」である(実際の花は、珊瑚のように見える箇所の、その下にあって、細かな毛のようなものが附いているだけであって、花弁は存在しないのである)。さて、ケイトウの花序は、夏から秋の暑い時期に咲くため、何より、強い日光から自分を守るため、盛んに蒸散を行って、自(みずか)らの組織の温度を、周囲の気温よりも低く保っている。さても、水分が空気中に蒸発する際には、周囲の熱を奪う気化熱が発生する。そのため、花序に触れた際、時に「ひんやり」と感ずるのである。

 

ひたすらに娘を頼み過ぐる日日にしてこのやすけさに病癒えなむ

 

[やぶちゃん注:「やすけさ」「安けさ」。「身体の感覚が穏やかになること・良くなること」で、「さすけし」の名詞形であるが、この「やすけし」という語は、実は万葉語としてこの意味の用例があったが、暫くして、使われることが少なくなった。しかし、江戸時代には、再び歌人や国学者らが用いたことがあり、近代、またしても歌人らが、その意味で再興して盛んに用いるようになったものなのである。]

 

蜜吸ひし蜂ふくらみて優しけれ菊の花むら明るきところ

 

[やぶちゃん注:「花むら」「花叢」で「花が群がり咲いている場所・花の咲いた草叢」を指す語。]

 

惜しからぬ命なりなど思ひしに経り居れば斯く楽しき日ある

 

[やぶちゃん注:「惜しからぬ」「をしからぬ」。惜しくもない。

「経り居れば」「へりをれば」。少しそうした状態でいられるようになったので。]

 

亡き母の眉にも似たる朝月のひそけきを見ぬ烏啼き過ぐ

 

[やぶちゃん注:「朝月」「あさつき」。早朝の空に昇って見える月。

「ひそけき」「ひそけし」は、「物音或いは対象物が静かで目立たない様子」或いは「もの寂しくひっそりとしているさま」を表わす語。

「烏」「からす」。]

 

ほととぎす庭をよぎりぬ故郷の柿の実は赤からむ亡き父母恋し

 

[やぶちゃん注:「故郷」「ふるさと」。

「柿の実は赤からむ」「かきんみはかからむ」で二字余り。]

 

御眉のただ懐しく偲ばれて恩師の米寿祝ぎまつるわれ 吉田熊次先生三十六年一月十日

 

[やぶちゃん注:「吉田熊次先生」この人物は、花子が東京女子高等師範学校在学中の教授であった文学博士吉田熊次(よしだくまじ 明治七(一八七四)年~昭和三九(一九六四)年)。詳しくは当該ウィキを見られたい。

「御眉」「おほんまゆ」。

「三十六年一月十日」昭和三十六年は一九六一年。花子は、この時から約八ヶ月後、逝去している。]

 

高齢の母が欲りせし塩鯟ほしとこそ思へわれもこのごろ

 

[やぶちゃん注:「欲り」「ほせり」。

「塩鯟」「しほにしん」。実際に花子が料(つく)ったのは、「春告魚(はるつげうお)」の異名を持つ条鰭綱ニシン目ニシン科ニシン属ニシン Clupea pallasii のニシンの一塩にしたものであろう。脂がのって旨い。但し、花子に母の想起していたのは、長野での記憶であるから、強力に塩漬けにした、強力に塩辛かったそれでは、あろう。]

 

並みいますみ仏のなかに立ちまじり満ち足りいます君を夢みき 田丸やす子様

 

[やぶちゃん注:「田丸やす子」不詳。]

 

夢にみし君が面輪の今日ひと日心を去らずほのぼのとあり

 

[やぶちゃん注:前の連作であろう。「面輪」「おもわ」。「輪」は「輪郭」の意。狭義には、人の顔や顔の輪郭及び表情を表わす古語であるが、この場合は、もっと幅のある「面影」(おもかげ)の意である。]

 

裏山に朝のひかりのさだまれば若葉のなかに百鳥啼けり

 

[やぶちゃん注:「百鳥」音数律と清音優先で「ももとり」。たくさんの鳥たち。ここでは、いろいろな種の鳥とも合わせた意で採る。]

 

花の庭にたちて思へば死てふ事もおとろへし身にうれしきものを

 

[やぶちゃん注:「死てふ事も」「しぬてふことも」。死ぬということも。]

 

なす事もなくて過ぎゆくこの頃を憂しとも思ひのどかとも見る

 

ゆく川の水にしづきて春の野のすみれたんぽぽゆれ止まぬ昼

 

[やぶちゃん注:「しづきて」は動詞で「靜(しづ)く」である。「万葉集」では「水底(みなそこ)に沈んでいる」の意で使われてあり、平安前期の「古今和歌集」では「水に映って見える」の用法がある。ここでは、後者で採り、川辺に花を咲かせている菫(すみれ)や蒲公英(たんぽぽ)の花たちが流れる川面(かわも)に映って揺れて止まないでいるモーション・シークエンスとして詠じたもので、妙な技巧を用いずに、よく描いていると言える。]

 

雪かとも散る夕桜手にとめて異国の友への文にはさまむ

 

花いかだ浮べてはゆく小川辺に野ぜりひたすらつむ少女居り

 

[やぶちゃん注:「花いかだ」「花筏」。この場合は、水面に散った花弁(はなびら)が連なって流れているのを筏に見立てた語である。即ち、その主語たる主体は「小川」である。

「野ぜり」セリ目セリ科セリ属セリ Oenanthe javanica 。私は裏山の嘗つてあった農業水源地(そこは既に藤沢市であり、そこを下ると、まさにフジの鬱蒼と生えた渓谷が続いていた)の周辺で、母と山ほど、摘んでは、食べたものだった。そこは⋯⋯今や、総て、住宅地となってしまった⋯⋯。]

 

菜の花の翳りもあらず咲く道を子らとし行けばもの思ひもなし

 

[やぶちゃん注:「翳り」「かげり」。花子の一連の叙景歌は、捩じれた感情や、奇妙な衒(てら)いが、全くなく、よい。]

 

君が賜ひし羽織の裏の友禅を老いて見出でし宵のおどろき 芥川様より三十二年春

 

[やぶちゃん注:この詞書は「芥川様より」で切れ、短歌に出る「羽織の裏の友禅」を芥川龍之介から花子が頂戴したことを指す。これは、花子の「芥川龍之介の思い出」に、その話が載っている。当該部分を以下に示す(前後部分はブログの『佐野花子「芥川龍之介の思い出」 附やぶちゃん注 (五)~その1』を見られたい)。

   *

 或る日、帰宅した夫は、今度は当方から芥川君の新居をお祝いかたがた訪問することにして来たと申しました。私は子供連れでたいへんだからと、ためらっては見ましたもののやはり夫の意見に従い、出かけることにいたしました。

 新居は松原を背に茂る青葉に包まれた小ぎれいな構えでございました。門辺には大きな芭蕉の葉がそよいでおりました。

 彼は私ども一家揃っての訪問を心から待ち受けて呉れておりました。新夫人も初めての挨拶を私に与えられ、都育ちのあでやかさを清楚に整えた初々しさで若紫ということばにも例えたい佳人でいられました。この新妻のもてなし振りに私はすっかり嬉しくなり、しまいには初対面ということも忘れて寛いでおりました。私の田舎育ちの荒さや、女学校時代のスパルタ教育の名残りがどこかに出るようで、注意をしながらもはしゃいでしまうのです。彼の方は今日の訪問客のために髪を洗い、仕立て下ろしの浴衣を着て、すがすがしさを身につけた感じでした。若主人振りを私は心中まことに可愛らしいと思ったのです。

 「実は今日、親友、久米正雄をご紹介しようと思いましてね。もうすぐ来ることになっているんですよ。どうぞ、夕方までおくつろぎ下さい。赤ちゃんは女中さんと海岸へでもおやりになっては如何ですか。うちの女中もお伴させますよ」

と、しきりに引きとめられたのですが、子供連れであり、初めての外出でございましたので、名残り惜しくも、頃よい時に辞去することになりました。

 考えればこのときが、あとにも先にも、私にとっては彼を訪う一度の日だったのです。

 ついでに思い出を書きますと、このとき、彼から贈られた初着は、男の子の柄ですから如何にも、すかっとした、見立てのよいもので、私自身がすっかり気に入り、実は、主人を通して彼の承諾も得てありましたが、私の羽織の裏に使わせていただくことになったのです。

 機関学校では各々に子供誕生の折りには、初着用三丈の布を贈り合うことになっていたのです。彼もその規則にしたがって、彼自身の見立てで贈ってくれたのでございました。

 また、当方からのお返しには、お盆をそれぞれ送りましたが、まだ、独身の彼のみは、お盆でも困るだろうとの話が、うちうちに交わされまして、主人と私で、お誘いかたがた横須賀の町でご馳走し、「さいか屋」という店で財布を買って差し上げ喜ばれました。財布は使って下さった由。羽織裏は長く、色あせるまで使用いたしました…………。

   *

因みに、昭和「三十二年」は一九五七年(注している私の生まれた年である)であり、この「遺詠」は作歌年代が、殆んど整列していないことが、明らかとなる。

 

ただひと目相見し故に人の世を独り経しとてたより賜ひき

 

[やぶちゃん注:この「たより」は芥川龍之介からのもののように読めるが、不詳。しかし、実際に芥川龍之介直筆の佐野花子宛書簡があって、晩年までその実物を所持していたのなら、それを花子は何故、何回かの全集編纂の際に報知しなかったのか、少々疑問である。夫慶造の目に触れないように廃棄したのかも知れない。また、彼が、このような秘密の懊悩を花子宛に書く可能性は、決してありえないとは断言出来ないと私は感ずる。龍之介なら、やらかし兼ねないと思うからである。

 

寝てはさめさめては思ふこの頃のはかな心を何に譬へむ

 

何かは知らず早く明けたる春清し心はずみて筆をはしらす

 

[やぶちゃん注:「清し」「すがし」。]

 

四十年の昔一度相見し君なれどみたよりあればうれしかりける

 

[やぶちゃん注:「君」は、明らかに芥川龍之介である。]

 

古と変らぬものとのたまひてみちのく里に独りすむ君

 

[やぶちゃん注:読み込んだ「君」は既に出た青森に友人である。]

 

吹雪して散り来る桜手にうけぬ待てるわが子の家づとにせむ

 

[やぶちゃん注:「家づと」は「いへづと」で「家苞」。 家へ持ち帰るお土産。]

 

つと落ちし簪の草にふれしよりよき露のたまはらとこぼれぬ

 

[やぶちゃん注:「簪」「かんざし」。何らかのシンボライズされた朦朧とした一首である。しかし、本邦の文楽や歌舞伎に於いては、「かんざしを落とす」という行為が「秘密の発覚」や「動揺」を象徴する。されば、この歌は、夫を持つ花子が、芥川龍之介が彼女に赤らさまに向けた誘惑のモーションを、内心に於いて、実は受け入れたかったことを暗示しているように私には見えるのである。]

 

露の玉こぼれて消えてあともなしわれの思ひもかくあらまほし

 

[やぶちゃん注:前の――危険がアブナい歌――を、実景で言い直し、その過去のものであった不倫誘惑衝動を断ち切ろうとする希望を「あらまほし」(そうあってほしい)と述懐しているものと執る。]

 

つき草はかなしき花につゆおびて夕の憂ひをかたり気に咲く

 

[やぶちゃん注:「つき草」既に「万葉集」に用例がある「露草」=単子葉植物綱ツユクサ目ツユクサ科ツユクサ亜科ツユクサ属ツユクサ Commelina communis の古名。同種は、朝、咲いた花が、昼早くには凋(しぼ)み始めてしまうことから、「儚(はかな)さ」の象徴として詠まれたものが多い。

「夕」「ゆふ」。

「憂」(うれ)「ひを」「かたり気に咲く」「かたりげにさく」。憂いの悶々とした気持ちを語りたいかの如く「咲く」よ、というのである。無論、花子の内心の表象である。]

 

夕暮の雲にほのめく三日月のはつかなるより秋うらがなし

 

[やぶちゃん注:「はつかなる」形容動詞ナリ活用で、「はつ」は、「はつはつ」(=「わずか(に)・かすか(に)」。「万葉集」に用例がある「ほんのかすかに」「こんなにも~となるまでに」)と同語源で、「か」は接尾語である。「物事のはじめの部分がちらりと現われるさま・かすか・ほのか」の意で、特に「視覚・聴覚に感じられる度合が少ないさま」を表わす語である。]

 

病葉に弱き光を投げかけて澄みきはまりぬ十三夜の月

 

[やぶちゃん注:「病葉」「わくらば」と読む。これは、第一義に「木の若葉」であるが、第二義に「病気や虫に犯されて枯れた葉。特に夏の頃、紅葉のように、赤、又は、黄白色に色づき、枯れた葉」を指す。この場合は、後者の意味であるが、言わずもがな、それは花子自身の身体のメタファー(隠喩・暗喩)である。]

 

十三夜の月見むとしてはりの戸を明くればさむし長つきの空

 

[やぶちゃん注:「十三夜の月」陰暦九月十三日の夜。八月十五日の夜の「十五夜」に次いで月が美しいとされ、「後(のち)の月」とも言う。十五夜の月を「芋名月(いもめいげつ)」というのに対し、「豆名月・栗名月」とも呼ぶ。

「はり」「玻璃」。ガラス。

「長つき」長月。九月の異名。]

 

還暦を迎へたる身の衰へよ衰えヘばかなしうれしはかなし

 

[やぶちゃん注:「還暦」花子は明治二八(一八九五)年一月十七日生まれであるから、数えで還暦は昭和三一(一九五六)年一月一日である。彼女は昭和三六(一九六一)年八月二十六日に逝去しているから、狭義には、亡くなる五年前の元旦の詠と措定しておく。]

 

心経の墨いろ冴ゆる扇より風立つごとく秋に入りたり

 

[やぶちゃん注:「心経」「般若心経」、正確には「般若波羅蜜多心經」(はんにゃはらみったしんぎょう)である。現在、最も流布しているのは、玄奘三蔵訳とされる『小本系(しょうほんけい)』の漢訳であり、通常は、これを指す。冒頭の「佛說摩訶般若波羅蜜多心經」十二文字、及び、最後の締めの「般若心經」四文字題名を含めると二百七十八字となる。これは、小さな文字で扇に毛筆で書くことは可能であり、私も持っている(但し、蔵書の藻屑となっているので、見当たらない)。]

 

六十路が程逝くはよろしと八十の父言ひましき吾はいま病む

 

[やぶちゃん注:「六十路」「むそじ」。数え。花子の父山田力之丞は生没年が判らないので、本作の作歌時期を特定出来ない。

「八十」「やそ」。]

 

衰へのいえてゆくてふ嬉しさを夢とも思ひ現ともみる

 

[やぶちゃん注:「てふ」「という」の意。

「現」「うつつ」。現実。]

 

病いえぬ庭に下り立ちふむ土の軟らかにして春は来にけり

 

[やぶちゃん注:「病」「やまひ」。「いえぬ」「癒えた」の意。「下り立ち」「おりたち」。]

 

もち草の芽のやはらかさそとふれしおよびにも沁む春のいきほひ

 

[やぶちゃん注:「もち草」「もちぐさ」。「餅草」で、お馴染みのキク目キク科キク亜ヨモギ属ニシヨモギ変種ヨモギ Artemisia indica var. maximowiczii のこと。

「そと」そっと。

「および」「指(および)」。]

 

静かにもまた苦しくも歩み来て還暦といふ年迎へたり

 

病みぬれどなじか嘆かんこの日頃心足らひてすぎゆく我を

 

吾子とゐて病の床にふしたれば心尽して看取られてをり

 

[やぶちゃん注:「吾子」「あこ」。我が子。]

 

八十四の父逝きましぬその病老衰ときけば心暗むも

 

病みてあれど心は安しわが夫が形見の一つ病めるこの身も

 

ひとすぢに思ひし事の数かずよ我がなきあとをただに消ゆるな

 

宵よひの夢に来まして語らひぬ老いて病む身に霊は悲しき

 

[やぶちゃん注:「宵よひ」「よひよひ」。宵毎(よいごと)。毎晩。ここの来たる「霊」は、前後の歌の詠唱から見て、夫慶造か、実父、或いは、実母であろう。]

 

夜の夢に父母の来まして語らふよ老いて病む身ぞしづ心なき

 

半年といふ長きいたつき経し故に心何ほどか清まりにけん

 

[やぶちゃん注:「いたつき」古語の「労(いたつ)き・病(いたつ)き」で、この場合は、第一義的には「骨折り・苦労」であるが、この場合は、第二義の自身の「病気」である。]

 

慕ひ寄る二人の孫のいとしさにつなぎとめたる命とも見し

 

毎日の注射の針の痛みさへなれてわびしも長く病みゐて

 

なつかしき君がおもわを浮べては独り語らむはかな事など

 

[やぶちゃん注:「はかな事」「はかなごと」。「儚(はかな)い事がら」の意。頭の「なつかしき君」という語り方から、私は芥川龍之介であろうと思う。]

 

はかなくも思ひてすぎし君が上遙けく経てはわが事思ふ

 

[やぶちゃん注:上句の謂いから、「君」は芥川龍之介であろう。

「上」「うへ」。

「遙けく」「はるけく」。この場合、意味は「時空間的に遠い・久しい・ずっと昔である」を表としつつ、「心理的に隔たっている」を重層させているに違いない。さればこそ、この「君」は芥川龍之介である。]

 

花見ても人懐しく思ふかな老いて病む身のはかな心に

 

御たよりを読みもてゆけばわが袖の涙にぬれて読めずなりたり

 

幾年を思ひてすぎし吾れなれど君に見えむ時近づきぬ

 

[やぶちゃん注:花子の芥川龍之介への執心から、この「君」も芥川龍之介である。]

 

熱なくて哀へてゆくわが病ひ不思議と思ひ思ひつつやむ

 

食慾は常に変らであるものをなどてこの身の細りゆくらむ

 

紫は母が好める花なりとあまた摘み来る子は汗ばみて

 

降りくれし牡丹雪こそめでたけれ手に受けたればただに消えゆく

 

[やぶちゃん注:これは、辞世とは断定出来ぬが、詠唱対象の季節性と「ただに消えゆく」の謂いから、それに相応しいとは思われる。花子の素直な諦念が伝わってくる。]

 

 

佐野花子「遺詠」/終わり

 

2026/08/25

佐野花子「私は芥川龍之介のかくれた愛人だった」禁欲的必要最低限注附き

[やぶちゃん注:これは、昭和三六(一九六一)年四月一日発行の小学館の雑誌『マドモアゼル』(第2巻第4号)に掲載された佐野花子さんの随筆である。未知の読者の方から、この作品の存在をお教え戴き、しかも、当該作品の全画像を頂戴した。この作品は、私は今まで全く未見のもので、正直、非常に驚いた。私は、ブログ・カテゴリ「芥川龍之介」やサイトで電子化注してきた、この方の書いた『佐野花子「芥川龍之介の思い出」(原文のみ)』や、『佐野花子「芥川龍之介の思い出」 附やぶちゃん注(PDF縦書版・上記ブログ版原稿)』や、彼女の書いたものをもとに小説化したもの(サイト版の田中純『二本のステッキ』・昭和三一(一九五六)年二月『小説新潮』発表)等を手掛け、それらを用いて、彼女と芥川龍之介について考察した拙考もものしているが、関口安義氏の編になる「芥川龍之介新辞典」(二〇〇三年翰林書房)にも、この記事は記載がないものであった。されば、提供者の方の許諾を受け、私が、電子化することとした。ここでは、読者に小生の独断のバイアスを与えないように、明らかな誤り、或いは、及び、明らかな勘違い等、普通に、芥川龍之介の愛読者、或いは、高校生・大学生程度の読書好きの方が、どう考えても、躓くであろうと考える箇所ついては、最低、必要と考える注を附して公開することとした。実は、当初、完全ベタ版注無しで公開しようと思ったが、それでは、初めから、「何、これ!?!」と、作者を初っ端から「この人! まるっきり! おかしい!」として全否定されて、ブン投げられてしまうことになりかねないことが明白であるから、あるところでは、花子さんの勘違い・思い込みが出現していることが判るように、また、時には――なるべく、フラットに彼女を守れるところはキッチりとサポートするように――注を附加するという方針に変更した。

 個人的には、先に示した、

『佐野花子「芥川龍之介の思い出」 附やぶちゃん注(PDF縦書版・上記ブログ版原稿)』

或いは、

ブログ・カテゴリ「芥川龍之介」の『佐野花子「芥川龍之介の思い出」 附やぶちゃん注 (一)』から、『佐野花子「芥川龍之介の思い出」 附やぶちゃん注 (六)~その6 / 佐野花子「芥川龍之介の思い出」~了』の全十二回

をお読み頂くことを、強くお薦めするものである。

 改めて、情報を下さった方に、心から御礼申し上げるものである。

 なお、作品のヘッドには『■文学者の恋』とあるが、これは無論、雑誌編集者の附したものであるから、ここではカットし、同じく、標題の後に、『それは愛に似て苦しく、悲しみに似て甘かった⋯⋯若き日の天才とのひそやかな魂の交換を、一女性がここにはじめて公開する⋯⋯』というキャプションがあるが、これも同じ理由から電子化しない。いやいや! 標題「私は芥川龍之介のかくれた愛人だった」は見るからに、花子さんが附したとは、過去の自筆ものと照らして、ちょっと思えないスキャンダラスなもので、編集者が、花子さんに許可を得て、或いは、任せて貰う言質を得て、勝手に決定・標示したものである可能性が極めて高く、また、原文中の複数のパート・タイトルも、同じ疑いが濃厚である。しかしこれらは、かく、公開されてしまっている以上、これを正規なものとするしかないと判断する。なお、表題の次にある作者名「佐野花子」は「さのはなこ」のルビがあるが、この版では、カットした。なお、作品中の本文は二段組・明朝体で、パート見出しのみゴシック体であるが、明朝で統一し、そこだけ、太字とした。また、字起こしは、元画像の解像度が低いため、私のポンコツのリーダー・ソフトではダメだったので、総て、視認してタイピングした。

 なお、文中で芥川龍之介が彼女に贈った自書に書き添えた句の第一句の下の句「※夫人」の「※」は「郛-(おおざと)+虎」の字体である。但し、このような漢字は、「大漢和辭典」にも存在しない。私のサイト版の「やぶちゃん浣芥川龍之介句集 五 手帳及びノート・断片・日録・遺漏」の注で示した通り、「虢夫人」と誤記で、芥川自身の誤字である。因みに「虢夫人」は、楊貴妃の姉で、正しくは虢國夫人と呼ばれた美女である。注を可能な限り、ベタ版本文に入れたくないので、ここで注しておく。

 また、表題の後の姓名の上には、「私は」の「は」の半ばからやや下から、三行からなるゴシックで、

   *

 それは愛に似て著しく、悲しみに似て甘かった⋯⋯

 若き日の天才とのひそやかな魂の交換を、一女性が

 ここにはじめて公開する⋯⋯

   *

という、明らかに編集者による文章があるが、これも、カットした。

 本記事は同誌の「198」ページから「201」ページまで二段組となっている。

 最後に。佐野花子さんは明治二八(一八九五)年一月十七日生まれで、昭和三六(一九六一)年八月二十六日、六十六歳で亡くなっている。掲載雑誌の発行日は昭和三六(一九六一)年四月一日であるから、逝去される約五ヶ月前の公表であり、彼女が、本作を書かれたのは、まさに六十五、六歳で、最晩年に書かれたものであることが明らかになる。因みに、既に知られている「芥川龍之介の思い出」については、歌人片山恵美子さんの「序として」に、『この稿は、昭和二十五年八月二十六日封切の映画、「羅生門」を見てから筆を起こしてありますので、永眠の日と、この映画封切の後とを考え合わせてみますと、五十五歳ごろから、六十歳以後の執筆と思われます。』とある。

 而して――本作品は――「芥川龍之介の思い出」執筆前に――花子さんが書いたものである――

ことが明確に推定されたのである。

 その理由は――実は、本記事について、花子さんは、既に「芥川龍之介の思い出」の中で言及している事実を、遅蒔き乍ら、発見できた――のである!

 それは同作(リンク先はブログ版『佐野花子「芥川龍之介の思い出」(原文のみ)』)の最終部の『㈤』の後半の一段落である。以下に引用する。決定的事実箇所を太字にした。

   *

 私は自分でもこういうことに気づきまして病人になりましてから、ノートに覚えていることを書きはじめました。小説の形にしてまず書き残しても見ました。また、文壇で問題にしている「或阿呆の一生」中の四人の女性を私であるとも仮定して断定的な口調で書いても見ました。または、手当たりしだいの紙片に覚え書きを記しました。娘の耳にも語り聞かせました。病いは既に治りそうもなく先も長いとは思えず、書いたものは、ちぐはぐであるようです。私の言いたいことは一貫して頭の中にあるのですが、死後それはどのように語り伝えられて行くのでしょうか。

   *

 この太字部分は、いっかな厳しい書誌学者・芥川龍之介研究者も、この『書いても見』たものというのが、「本記事を指してはいない」と、反論は出来ないであろうと、私は、確認するものである。

 

   私は芥川龍之介のかくれた愛人だった

               佐 野   花 子

 

    まじわりの日々

 

 私がはじめて芥川龍之介に会ったのは横須賀駅の入り口の所でした。大正六年四月七日のことです。私はその前日ささやかな結婚式をあげ、知人のお宅で初床をすごした後、新婚旅行に旅立つところだったのです。当時夫は横須賀の海軍機関学校の理科教官をしており、私は二十三歳、夫、慶造は三十歳を越しておりました。

 太陽と月との何気ない出合日食のように、ごく自然な、だが滅多に起こらない、しかも何か宿命を感じさせるような出合いというものがあります。私と芥川さんの出合いがそんな風でした。人力車で横須賀駅頭に乗りつけた私たちに、優しく笑いかけながら近づいて来る背の高い青年が芥川さんだとすぐにわかりました。夫から彼の話をよく聞いていましたし、新聞などでその写真を見たことがありましたから。

 その時、芥川さんは二十五歳で、新進作家としてその作品を発表するかたわら、海軍機関学校の文科教官として鎌倉の下宿から横須賀に通勤する身でした。紺の背広にステッキ、中折帽をかぶった芥川さんは、当時の言葉でいうならハイカラで純真そうで礼儀正しく、しかも気さくな話ぶり、芥川さんには人の心を紹介し合い、出発までの時間をおしゃべりに費やしました。思えば最初の出合いが、新婚旅行の旅立ちの時だったというのは、なんという運命の皮肉でしょう。彼は人妻としての私しか知りません。人妻――そのことが終生彼を息苦しい懊悩の淵にひたらせようとは思ってもみないことでした。

 横須賀の小さな家に世帯を持った私たちは、お近づきのしるしに芥川さんを鎌倉の小町園という料亭に招待いたしました。彼はたいへん喜んでくれたそうで、その時は私に着物を着て白粉をつけて来るようにと夫に言っていたということでした。その日、夫も芥川さんもわずかの酒に酔って嬉しそうに学校や文壇の話に花を咲かせていました。

「結婚っていいものですね。佐野さんご夫妻を見ているとつくづくそう思いますね。」[やぶちゃん注:この直接話法は、前の行の末尾が、行末で句点で終わっており、それに続いて繋がっている可能性がある。或いは、その方が可能性が高いともとれるのだが(次の段落がそうなっている)、初出の芥川龍之介の台詞であるので、私は、敢えて改行することとした。私は、恣意的にそうしても流れとして、違和感は全くない、と思ったからである。]

 芥川さんはその鋭い瞳を微笑に包んで、あくまで柔和でした。夫は人の好さを丸出しにして、「そう思ってくれますか。ありがとう。」と嬉しくてならない風でした。

「佐野さんの婚約者は女高師出だと聞いて、どんなこわい人か知らん。おとなしい佐野さんがそんな怖い人と結婚したらどうなるんだろうと心配していましたが、奥さんにお会いして安心しました。優しくお美しいし、月光のような理知に輝いていらっしゃるようにお見受けしましたから。」

 それから芥川さんは急に打ち沈んでことばを続けました。

「ぼくは今さびしくてならないのです。なぜだかわかりますか⋯⋯。僕はもう幸福な家庭を作れそうもありません。」

「何言うんだい、龍ちゃん(芥川さんを夫はこう呼んでいました)そんなことはないよ。酔ったんじゃないのかい。」

 芥川さんは急に明るい声になって、

「ああ、酔いました。酔いましたよ。奥さん、歌ができました。差し上げます。」と言って、短冊にさらさらと書いてくださいました。

[やぶちゃん注:前の『「ぼくは今さびしくてならない』から、以上の上段の最終行の始まりの『にさらさらと書いてくださいま』までの上段部(一行字数で半分相当)に(下部に細かい「■」を並べた区切りがある)、『芥川龍之介氏(左)と、交際のあった当時の佐野花子夫人』というキャプションを下部に配し、上に二人の写真(別個)が、二葉、掲げてある。

Ryunosuketohanako

かなり粗いが、花子さんのものは、所持する佐野花子・山田芳子(花子さんの実娘)「芥川龍之介の思い出」(短歌新聞社『彩光叢書第8篇』・昭和四八(一九七三)年刊)の扉にある『大正七年写 長男清一を抱く著者佐野花子と夫君』からのトリミングと断定出来る。一方、龍之介のものは、私の所持する芥川龍之介関連書籍中の複数の写真を見ても、同一のものは見出せなかった。瘠せた方から上で、頭部の髪は少し切れており、左から斜めに撮ったものであるが、龍之介であろうとは、概ね、判るものの、かなり瘠せており、しかも、ムッとした顔つきである。目の鋭さや髪型から、私は、龍之介の晩年の、やや前期のものかと思う。全くポーズをしていない画像の雰囲気から、個人を撮ったポートレートには見えず、恐らく、複数の人物と一緒に撮られたものを、彼の部分だけを切り取ったものと推定する。この選択は、編集者に拠るものと思われる。当初、画像が粗く、綺麗でないので、載せなかったが、「X」のGrokの助言を受け、急遽、以上の通り、掲げた。]

 〝悲しみは君がためたるその宵の 印度更紗の帯よりや来し〟と。

 この歌の意味は一読すればどなたにもわかるはずです。それは私への思慕の情を訴えたものにほかなりません。しかしその夜の私は楽しさにまぎれて、歌の意味を深く考えてみようとともしませんでした。その夜ほど芥川さんが感情の起伏をあらわに見せたことはありません。横須賀駅で会った時、ひと目で私の愛を感じた芥川さんは、人妻を恋することの怖れに耐える心の準備も整わず、やみくもに思い乱れていたのでしょう。

[やぶちゃん注:この「悲しみは君がためたるその宵の 印度更紗の帯よりや来し」という短歌であるが、これは、ブログ版の私の「完全還暦記念 二本のステッキ 田中純 佐藤泰治 畫」にも、『悲しみは君がしめたるその宵の印度更沙の帶よりや來し』の表記で出ている。しかし、芥川龍之介の直筆のものとしては、私のサイト版「やぶちゃん版編年体芥川龍之介歌集 附やぶちゃん注」で、まず、Lucio Antonio名義の連作「さすらへる都人の歌」の「Ⅵ」に、

   *

かなしみは 君がしめたる 其宵の

 印度更紗の帶よりや來し

   *

の表記で載り、また、

   *

連作「思慕巴調 Leiden des jünger Werthers」の第四首に、

   *

かなしみは 君がしめたる其宵の

 印度更紗の帶よりや來し

   *

の表記で載り、さらに、連作「客中戀」第八首に、

   *

かなしみは君がしめたる其宵の印度更紗の帶よりや來し

   *

の表記で載る。さて――ここからは、後に考えている本作のオリジナル注版の分析領域に含まれるが、判ってしまった以上、ここで言っておくと、これら酷似した三篇の最も古いものは、推定作成時期は大正三(一九一四)年夏である。芥川龍之介が佐野花子と邂逅したのは、大正六年である。即ち、この一首は、花子さんに悪いが――彼女を詠んだ歌ではない――のである。但し、龍之介は、他の女性にも、こうした以前に用いた表現や詩句を示すことは、茶判事であったから、彼女が、そう思い込んだのも、これ、無理はないのである。

 それから数日後、芥川さんは先日のお返しにと再び私たちを小町園に招いてくださいました。その日の芥川さんはいつも明るいもの静かな態度を崩すことではありませんでした。

 こうして私たちと芥川さんの交わりは何気なくはじまり続きました。それは普通の友人同志の交際とかわりありませんでした。芥川さんは学校の帰りによく私たちの新居に立ち寄るようになりました。私はなれぬ手つきで料理を作って彼を歓待しました。

 そのころ出版された彼の著作『煙草と悪魔』を私にくださった時、その表紙の裏につぎのような俳句を書いてくださいました。

   秋立って白粉うすし※夫人

   白粉の水すてしかり芙蓉なる    龍之介

   追加  妻ぶりも襟白粉も夜は寒き

 私の身動き一つにさえ女の匂いを感じ、自分の恋心の激しさを静かに見つめている芥川さんの息吹きが思われます。

[やぶちゃん注:「※」は冒頭注を見られたい。

「煙草と悪魔」は新潮社『新進作家叢書』の第八篇で、通常、第一短編集『羅生門』に次ぐ芥川龍之介の第二短編集である。発行は大正六(一九一七)年十一月十日である。さても、そこに添えた、この三句は、私の「やぶちゃん版芥川龍之介句集 五 手帳及びノート・断片・日録・遺漏」に載るが、これは、佐野花子による「芥川龍之介の思い出」にのみ発見出来るもので、類型句は、他にない。されば、これらの句は、龍之介が、確かに花子さんへのオード(ode:頌歌)として詠じたものと言って、差し支えないのである。]

 このころ、芥川さんは文子夫人と婚約中でした。

「ぼくは彼女を静かな愛情で包んでやるつもりです。しかし、その前に自分の神経衰弱を克服しなければいけません。」

 そんな風にいう彼の瞳に諦めに似た光があるのを感じ、彼の胸のうちを推し測りかねる私でした。彼は通勤に不便だから私たちの世話で横須賀に下宿をかえました。しかし、友人にあてた手紙に横須賀の息苦しさを訴えています。私の存在を身近に感じるのは彼には苦痛すぎたのでしょう。私たちに神経の疲労を訴えるようになったのもそのころからです。芥川さんと私との間にはいつも夫が介在していました。二人で会ったことは一度もありません。それは私との間に人妻としての垣根をかたく据えようとする彼の悲しい努力だったのです。そんな状態の交際は、芥川さんが文子夫人と結婚され、再び鎌倉に居を移してからは次第に縁遠くなり、私たちの住いをお訪ねになることも少なくなりました。そして大正八年に海軍機関学校を辞められ、東京の田端に帰って文筆生活に専心されるようになってからは、わずかな文通だけが私たちの間を通わせるよすがとなりました。長男比呂志さんの誕生の噂を聞いて、お祝いのベビー服を送ったのを最後に、芥川さんは決して私たちにおたよりをくださるようなことはなくなってしまいました。

[やぶちゃん注:「このころ、芥川さんは文子夫人と婚約中でした」大正五(一九一六)年十二月、塚本文との婚約が成立している。

「精神衰弱」これは、言うまでもないが、この時の芥川龍之介のそれは、狭義の旧疾患名としてのそれではなく、大雑把なポジティヴな感じや、個人的な過労やストレスに拠る、心や神経のエネルギーが、すり減って、意欲や気力が、何んとなく低下した状態全般を指したものである。この前後、龍之介は、初めから不愉快であった作家と教職の二重生活に、かなり強い嫌気がさしており、ボルテージが下がっていたのである。しかし、その大きな元凶は、かなり前であるが、大学在学中、初恋の相手吉田弥生との結婚が芥川家の猛反対によって、大正三(一九一七)年から、翌年二月にかけて、破恋に終わったことが、大きい。

「横須賀に下宿をかえました」大正六(一九一七)年九月十二日、龍之介は鎌倉から横須賀市汐入に下宿を移している。

「芥川さんが文子夫人と結婚され」大正七年二月二日、龍之介は、田端で、塚本文と結婚式を挙げている。

「再び鎌倉に居を移してから」大正七年三月一日、文とともに鎌倉町大町字辻小山別邸内に引っ越している(半月ほどは、龍之介の伯母ふきも同居していた)。

「大正八年に海軍機関学校を辞められ」龍之介が、実質上、海軍機関学校を辞職したのは、大正八年四月三十一日である。

「長男比呂志さんの誕生」大正九(一九二〇)年四月十日。因みに、龍之介の最大最悪の不倫相手秀しげ子との関係は、既に前年の大正八年の後半以降、ずんずんと深みへと入ってしまっていた。]

 

    愛 の さ ざ 波

 

 その後二年ほどたって雑誌『新潮』に芥川さんが、「佐野先生」と題する随筆を発表されたことがあります。それには夫をいちじるしく罵倒して書いてありました。あれほど夫に親しみ、しかもつつしみ深い芥川さんが、そのような随筆を仮名も使わずに発表したのは驚ろかされました。夫は動ずる風もなく、

「龍ちゃんはお前を好きだったのだよ。それが逆に私への嫉妬になり、こんなものをヒステリックに書いてしまったのだろう。」と言いました。彼が私を愛していた! そんなことを思ってもみなかった私には夫のことばは二重の驚きとなって襲いかかりました。胸の中で懸命にそれを打ち消そうとする私は、決定的な証拠を見て崩れ落ちる心の谺を感じるのでした。そのころ私の愛読していた『淑女画報』に田端居士という書名で「私の好きな女性」という小文がのったことがありました。芥川さんの作品をくわしく読んでいた私にはその文章の匂いと、東京の田端に住んでいることから、それは芥川さんが書いたものだとすぐに直感できました。それには「私の仕事(文学)を理解して、仕事を刺戟しない女性が好きだ」とあり、以前に知り合った横須賀の一女性がそんな人だと書いてありました。それを読んで芥川さんが私を愛していたというのはほんとうだったと確信したのです。

[やぶちゃん注:「その後二年ほどたって雑誌『新潮』に芥川さんが、「佐野先生」と題する随筆を発表されたことがあります。」「佐野先生」という題名の作品を芥川龍之介は書いていない。先行する『佐野花子「芥川龍之介の思い出」 附やぶちゃん注 (五)~その2』を見ると、そちらでは、「佐野先生」ではなく、「佐野さん」となっている。この芥川龍之介作とする「佐野さん」の謎について、私の推理を、そこで公開しているので見られたい。これは、一種の言語上の病的な入れ替えに拠る関係妄想・作話症と言える。しかも、全体の会話や認識は、このシチュエーションでは、奇異でなく、事実のように読める(則ち、夫の何でもない会話を、彼女自身の脳内で、自由に単語を特定的恣意的なものに無意識のうちに変形させ、しかもそれが不自然ではないものに置換させている)点が、なおのこと、恐ろしい仮想現実を現前させて、それを心底、真実として、彼女が脳に記憶して、がっちりと保存させているのである。

 

    『或阿呆の一生』から

 

 芥川さんがその死に際して書き残した遺書と共に筐底に秘めていた『或阿呆の一生』という作品があります。これは彼の友人久米正雄氏にあてたもので、彼の生涯の事件や心象を印象的に五十一の短章にまとめたもので、暗示に富む筆致と手法の中に、真実が語られています。

 『或阿呆の一生』の十七の章は「蝶」と題されています。

  藻(も)の匂(におい)の満ちた風の中に蝶が一羽

  ひらめいてゐた。彼はほんの一瞬間、乾いた彼の唇

  (くちびる)の上へこの蝶の翅(つばさ)の觸れる

  のを感じた。が、彼の唇の上へいつか捺(なす)つ

  て行つた翅(つばさ)の粉だけは數年後にもまだき

  らめいてゐた。

[やぶちゃん注:以上の引用とするものは、原文では、全体が三字下げ四行になっているが、ブログのブラウザでは不具合が生ずるので、特異的に二字下げで、一行字数を短くした(後の引用も同じ)。なお、芥川の公開された原文では、以上の読み(原文はルビであるが、丸括弧仕様とした)は附されていない(私のサイト版「或阿呆の一生 附未定稿(草稿)」を参照されたい)。ルビ(読み)の現代仮名遣はママ。]

 このはじめにでてくる「藻の匂の満ちた風の中」というのは横須賀のことだと思います。そして、この「蝶」というのは私のことです。唇との触れ合いを唇をなすって行った蝶の羽の粉にたとえているのは芥川さんの心の悩ましさを表現しています。この悩ましさは恋にほかなりません。

 同じく二十八「殺人」の章には、

  (前略)「殺せ、殺せ。……」

   彼はいつか口の中にかう言ふ言葉を繰り返してい

  た。誰を?――それは彼には明らかだった。彼は如

  何にも卑屈らしい五分刈の男を思ひ出してゐた。(後

  略)とあります。

[やぶちゃん注:サイト版「或阿呆の一生 附未定稿(草稿)」の「二十八 殺  人」を見られたいが、芥川の原文では「⋯⋯」は九点リーダである。「誰」は「たれ」とルビが振られている。最終行で改行すべき花子さんの言葉が附いてしまっているのも、ママである。]

 この「殺せ、殺せ」と彼がヒステリックに心の中で叫んでいる相手は私の夫のことは確かです。親しく往き来してきたころは夫を侮蔑するような態度はひとかけらも見せず、心から打ち解けている風でしたのに急に私の夫を罵倒した随筆をそれも実名で発表したのは、やはり嫉妬と考えるほかありません。それは逆に言えば私への愛情の深さを物語るものでしょう。それに当時夫はたしかに五分刈でした。

[やぶちゃん注:この「五分刈りの男」について、ロケーション同定を含め、私が考証した記事がある。かなりマニアックな自信のある『芥川龍之介「或阿呆の一生」の「二十八 殺人」のロケ地同定その他についての一考察』がある。未見の方は、是非、見られたい。そこで私は、この「五分刈りの男」を花子さんが言っている通り、佐野慶造と比定しているのである。

 このほかにも、芥川さんの詩には恋い慕う人の夫をのろったと思われるものがいくつかあります。

   この身は鱶の餌ともなれ

   汝を賭け物に搏打たむ

   ぴるぜん、まりあも見そなはせ

   汝に夫(つま)あるはたへがたし

[やぶちゃん注:原文では同前で詩の四節を二字空けで二行で配されてあるが、同じ理由で、かく、四行で分離した。「搏打たむ」はママ。芥川の原文は「博打」である(佐藤春夫の芥川龍之介直筆からの字起こしに拠る)。但し、「ぴるぜん、まりあ」は、芥川の原文(私の「澄江堂遺珠 本文Ⅶ」)では「ぴるぜん・まりあ」で字起こしされてあり、末尾に字下げで『船乘りのざれ歌』という添え題がある。]

 また「夏」という詩では「虎疫(ころり)は殺せ汝が夫を」と書いています。

[やぶちゃん注:これは私の「澄江堂遺珠 本文Ⅵ」にある。但し、「夫」には「つま」のルビがある。]

 私への愛情が報われないのは夫の存在ゆえです。彼の呪いも私には納得できると思うのです。

 

    愚 か 心 に⋯⋯

 

 芥川さんとかかわり合った女性は何人かありました。S夫人、彼がその才能に畏敬した十七歳も年上のアイルランド文学者夫人、彼が死を共にしようとした文子夫人の友人Hさん。この人たちの名はすでにその道の専門家によって明らかにされていますが、しかし、彼が真実の愛情を抱いていたのは、これらのことから私だと思うのです。彼は私を愛していたのです。彼の女性遍歴は、私の面影を慕い求めたさすらいにほかなりません。それは彼の女性を書いた文学の微妙に屈折した筆使いの中にもうかがうことができます。彼は私のことをあからさまには何一つ書きませんでした。筆にするにはあまりにもその思いは重く激しいものだったのでしょう。しかし、どの作品にも私の面影が投影されているのを感じずにはいられません。

[やぶちゃん注:自分一人にのみ、鮮やかに焦点を絞る花子さんの絶対の自信には、流石に呆れ返る以上に、最早、病的と批判するよりも、素直に『凄い』と感嘆せざるを得ない。この自信あればこそ、貴重な芥川龍之介関連の知られていなかった事実が彼女によって残ったのであるから。

「S夫人」歌人秀しげ子。既婚者。以下、判り切った芥川龍之介の愛した女性として、誰もが知られた人物であり、私の記事も多くあるので、今さらに各個解説は附さない。

「彼がその才能に畏敬した十七歳も年上のアイルランド文学者夫人」片山廣子。未亡人。

「彼が死を共にしようとした文子夫人の友人Hさん」文の幼馴染みの友人平松麻素子。独身。]

 私は今、芥川さんとのまじわりの地横須賀で静かな余生を送っています。このまま芥川さんへの思いを胸に秘めて、どなたにも告げずにこの世を立ち去ろうかとも思いますが、彼の真実を知らずに、芥川さんの文学が読まれていくことは、彼への不実のような気がしてならず、はじめて筆をとった次第です。

 窓べから仰ぎ見る横須賀の空には芥川さんの私への愛を秘めた瞳の光があります。今もなお、私への愛をそそいでいる芥川さんの思慕を私はひしひしと感じ、それは私を見詰めてはなしません。彼のそばに寄りそって、苦しみの孤独な影をひきずって歩み続けた彼の白い涙をぬぐってやれるのは私だけなのです。

  君がまこと残さんものと思いけり 老いて涙む身の愚か心に

[やぶちゃん注:言うまでもないが、最後の短歌は、佐野花子さんの自作である。但し、前掲した佐野花子・山田芳子(花子さんの実娘)「芥川龍之介の思い出」の佐野花子「遺詠」パートの中に、酷似する一首を確認出来る。以下に示す。

   *

君がまこと残さむものと思ひけり老いて病む身のはかな心に

   *

字空け、及び、下句の表現に違いが認められるものの、この一首の初期形、或いは、別稿・異稿と見て全く問題ない、と私は断ずるものである。

 

 最後に。⋯⋯自らの遠くないであろう死を自覚され、而して

――自身の最も美しかった時間――芥川龍之介に愛された時間――を切り取って、ここに――永遠の若き自身と若き『愛人』芥川龍之介とを――永久に二人だけの世界として結晶させること――

が、花子さんの願いであったものと思う。後半部の異様な言い換えの部分はさて置いて、私は、この作品を電子化注して良かったと、素直に、今は、感じている。

 

追伸。この「遺詠」は、近日中に、全首を電子化注しようと考えている。]

 

 

佐野花子「私は芥川龍之介のかくれた愛人だった」禁欲的必要最低限注附き/終り

2026/08/24

「私は芥川龍之介のかくれた愛人だった」は「ベタ版」をやめて「禁欲的必要最低限注附き」とする

当初、「ベタ版」と指定していたが、

『このままでは、凡そ、芥川龍之介研究者は鼻で笑い、

芥川龍之介愛好家は、花子さんを「やっぱり、ちょっとイカれてるね。」と唾を吐き、

あまり芥川龍之介の作品を読んでいない迂闊な青年は、無批判に、「そうなんだ!」と信じてしまう。

そして、結局は――「百害あって一利なし」の作品――となってしまうに違いない!

と、考えるに至った。されば、

『「私は芥川龍之介のかくれた愛人だった」禁欲的必要最低限注附き』

に変更することとし、現在、最終章の注に取り掛かっている。今少し、お待ちあれ。

2026/08/23

河原田盛美著「淸國輸出日本水產圖說」正規表現版・オリジナル電子化注 下卷(九)乾魚並に䀋魚の說(その13) 三摩乾物

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は、第一始動の記事、及び、「(一)鰑の說(その2)」の前注の太字部分を参照されたい。今回はここから。]

 

   三摩乾物《さんまほしもの》

 三摩(さんま)は西京(さいきよう[やぶちゃん注:ママ。])にては「さより」、大阪にては「さハら」といふ。而して、漢名は詳(つまびらか)ならず。「水族志」に『「さより」、一名「さんま」・「だつ」・「おきざより」・「水針魚《すいしんぎよ》」(淸俗)』とす。「魚鑑(うをかヾみ)」に、『秋冬(しうとう)の交(あいだ[やぶちゃん注:ママ。])、房(あわ[やぶちゃん注:ママ。])・總(かづさ)、海(かい[やぶちゃん注:ママ。素直に「うみ」だろう。])に多し。淡䀋(うすしほ)して鬻(ひさ)ぐ。鮮(なま)なるもの、炙食(やきしよく)するに、よし。上饌(おあがり)[やぶちゃん注:「たべもの(食物)」の尊敬語。召し上がり物。]に充(あた)らずとあれ共(ども)、鱠(なます)となす。又、薰乾(くんかん)するときは、淡味(たんみ)にして、佳なり。食鹽(しよくえん)の量を適度にし、久しく貯藏せらる〻製法のものは、淸國人も嗜好し、橫濵港より、折々(おりおり)、輸出することあり。

[やぶちゃん注:これは、すっきりと、

条鰭綱ダツ(駄津)目ダツ上目サンマ(秋刀魚)科サンマ属サンマ Cololabis saira

である。本邦には他種はいない(太平洋には、東太平洋に分布する別種 ololabis adocetus が棲息する。英語名は本邦のサンマと一緒に“saury” (ソゥリィ)であるが、この単語自体を殆どの英語圏の人は知らない。欧米人は、これらを食用としていないこともあるが、御存知とは思うが、そもそも欧米人は、一般の日本人のように海産生物の各個の種を正確に分けて表現する当たり前の習慣を、殆んど持っていないのである。なお、大西洋産の別属の種が、三種、棲息する。以下の引用中で示す)。当該ウィキに拠れば(注記記号はカットした。必要を感じない箇所は、断らずに省略した。一部のリンクを生かした)、漢字表記を別に『青串魚』・『秋光魚』とするが、私はこの二つの漢字名を使用したことも、見たこともない。『北太平洋に広く生息する』。『日本では秋の味覚を代表する食材のひとつとして供される他、季節を問わず』、『缶詰食品などの具材としても利用される』。『2010年代以降、水揚量が激減していたが、2025年、久しぶりに大漁になった』。『サンマを欧米に紹介したのは、1854年に日米和親条約締結のため来日したマシュー・ペリーが連れてきた学術調査団の一員であったジェイムズ・カーソン・ブレボートである。サクラマス/ヤマメ・マアナゴ・イトウなど日本産の「新種」62種の中にサンマが含まれている。彼は大西洋に生息するニシサンマ』( Scomberesox )『と同属の新種と判断し』、 Scomberesox saira 『の学名を1856年に発表した。ニシサンマとサンマは鰭の位置や形状が酷似しているが、ニシサンマの吻が長いのに対し、サンマは短いことをはじめ、異なる点も多かった。1896年、セオドア・ニコラウス・ジルが新属』 Cololabis 『を提唱し、サンマを移したため、現在の学名に変更された。属名』 Cololabis 『は、ギリシア語の「kolos(コロス、短い)」とラテン語「labia(ラビア、唇)」を合成したもの。種小名』 saira 『は、日本語での一古称であり』、『紀伊半島の方言名である「サイラ(佐伊羅魚)」に由来している』。以下、「各国語名」の項。『和名「サンマ」の由来については、2つの有力な説がある。「サ(狭、意:狭い、細い)」に起源があるとして「細長い魚」を意する古称「サマナ(狭真魚)」が「サマ」 - 「サンマ」と変化したとする説が一つ、大群をなして泳ぐ習性を持つことから「大きな群れ」を意する「サワ(沢)」と「魚」を意する「マ」からなる「サワンマ」が語源となったという説が一つである』。『サンマは古くは「サイラ(佐伊羅魚)」「サマナ(狭真魚)」「サンマ(青串魚)」などと読み書きされており、また、明治の文豪・夏目漱石は、1906年(明治39年)発表の『吾輩は猫である』の中でサンマを「三馬(サンマ)」と記している。これらに対して「秋刀魚」という漢字表記の登場は遅く、大正時代まで待たねばならない。現代では使用されるほとんど唯一の漢字表記となっている「秋刀魚」の由来は、秋に旬を迎え』、『よく獲れることと、細い柳葉形で銀色に輝くその魚体が刀を連想させることにあり、「秋に獲れる刀のような形をした魚」との含意があると考えられている。1922年(大正10年)の佐藤春夫の詩『秋刀魚の歌』で、広くこの漢字が知れわたるようになった。ただし、迪宮裕仁親王(後の昭和天皇)の幼少期のエピソードから、「秋刀魚」の表記は明治後期に流布していたとみなすこともできる。生後間もなく川村純義海軍中将の元に里子に出されていた親王は、川村邸では「アキガタナ」と呼ばれていたサンマを好んだという。日本語のほか、中国語でも同じ漢字で記して「qiūdāoyú」と読まれている』。『他に朝鮮語では「꽁치(kkongchi)」、ロシア語では「сайра(saira)」、英語では「Pacific saury」と称する』。『体は細長く、上下顎は』、『くちばし状で』、『下顎は上顎より突出した形状。背鰭の後方に6個程度、尻鰭の後方に7個の程度の小離鰭を有する。体の背部は暗青色、腹部は銀白色。胃が無く短く直行する腸が肛門に繋がる。腸が短いため』、『摂食した餌は、20分から30分程度の短時間で消化され』、『体外に排出される』。『鱗が小さい上にはがれやすく、棒受け網で漁獲されたものは漁船から水揚げされる際に』、殆んどの『鱗が』、『はがれ落ちてしまうため、状況によっては』、『水揚げの直前に自らや』、『他の個体から剥がれた鱗を』、『多数』、『呑み込んで内臓に溜める個体が少なくない。サンマの内臓には多くの鱗が含まれている場合があるが、これらはサンマが捕食した小魚の鱗ではなく、そのような形で呑み込まれたサンマ自らの鱗である』。『北太平洋に広く生息し、日本海を含む日本近海から、アメリカ大陸沿岸のアラスカおよびメキシコまでの海域に分布する。季節によって広い範囲を回遊する魚として知られるが回遊経路は十分に解明されていない。かつて分布群は北西太平洋系群、中央太平洋系群、東部太平洋系群の3系統が考えられていたが、分布に明瞭な境界が無く連続して分布し、また遺伝子解析の結果からも明瞭な差がないとされている』。『日本近海の群れは、太平洋側では』、『黒潮の暖流域で孵化し』、『海流とともに北上する、夏季はオホーツク海方面で回遊し』、『成長する。成魚になると』、『秋に』、『産卵のために寒流(親潮)に乗って』、『太平洋側では東北、関東沖を通過し、近畿・九州沖までに南下する。日本海側でも同様に山口県沖の対馬海流の暖流域で産卵し』、『新潟県沖など日本列島を囲むように南下を行う』。『寿命は1年から2年程度であり、通常2年で全長35cm程度まで、まれに40cmを超える大きさに成長する。28cm未満は、0歳魚と考えられる。成魚は海洋の表層近く(昼間の成魚の分布水深は表層から10-15m程度、仔魚は昼夜に無関係で少なくとも水深20cm以浅)を大群をつくって泳ぐ。千島列島沖で群れが形成される際は』、『表面水温10℃から18℃で水深25mの温度が8℃の等温線に沿って分布するとする研究がある。捕食者から逃げるときにはトビウオのように水面から飛び出して滑翔することもある。動物性プランクトン・甲殻類・小魚・魚の卵などを食べる』。『海域によって産卵時期は異なり』、『ニシンの様な特定の季節に集中した産卵ではなく、一定の大きさを超え成熟した個体が産卵するが、「年2回のピークを持った産卵」とする説と「冬を産卵期」とする説があり』、『解明されていない。また、一度に全ての卵を産卵するのか、あるいは複数回に分けて産卵するのか等も不明である。たとえば、日本列島の南側の産卵場は、黒潮本流のやや南側の海域とされるが、日本海側では5月から6月に山口県沖』である。『人工照明下で昼夜を擬似的に再現した環境下での産卵は8時から13時の時間帯に多く、少数ながらも深夜1時台にも観察された。強い照度変化が産卵誘発の要因として示唆される』。『卵は1.7-2.2mmと大型で』、『付属糸を有し、同じダツ目のメダカの卵によく似ている。メスはこの卵を流れ藻などに産着させる。卵は水温10℃から25℃の範囲で孵化することが確認されており,この範囲では水温が高いほど』、『孵化日数が短く、20℃では10日前後となる』。『DNAなど分子レベルの研究は決して盛んではなかったが、日本を含むいくつかの機関が別々にゲノム解析に取り組み、2024年には、アクアマリンふくしまと国立遺伝学研究所などが率いる共同チームによって、初の染色体レベルでの高精度なDNA塩基配列が解読・報告された。この配列情報は、水産資源としての研究や比較生物学における有用な基盤データとして活用されることが期待されている』。

以下、「食用」の項。『秋のサンマは脂肪分が多く独特の風味があり、特に塩焼きは日本の秋の味覚の代表のひとつして親しまれており、しばしば「究極の美味」などと表現されることもある』。『日本では、塩焼きにしてカボスや、スダチ、ユズなどの搾り汁やポン酢、醤油などをかけ、大根おろしを添えて食べることが多い。サンマは餌を食べてから排出する時間が30分程度と短いため、内臓に独特のクセはあるが』、『えぐみは少なく、塩焼きのはらわたを好んで食べる人も多い。またイワシ類ほどではないが』、『小骨が多い。日本各地でサンマ祭りが行われる』。『蒲焼きの缶詰は水産物缶詰のなかでも人気が高い。近年では刺身としても流通しており、脂の乗り切らない初秋が食べ頃とされ、他の青魚と同様に酢じめして食べる事も寿司にすることもある。また、押し寿司としても利用される』。『関西や紀伊半島(南紀、熊野)、志摩半島の一部において「サイラ」と呼び(学名はここから取られた)、秋刀魚寿司や開きにして一夜干しにしたものを焼いて食べるのが』、『一般的。志摩では天岩戸の神饌の一つ。11月23日には岩戸の前でサンマを焼いて食べる』。『伊豆や紀州、北陸などでは』、『脂の落ちたサンマを丸干しに加工することもある。特にサンマの若魚を丸干しにしたものは「針子(ハリコ)」、鈴鹿ではカドと呼ぶ』。『岐阜県の中濃地方、東濃地方の郷土料理として、塩漬けしたサンマを使用した炊き込みご飯である』。『さよりめしがある』。『サンマには、血液の流れを良くするといわれるエイコサペンタエン酸』(Eicosapentaenoic acid(EPA)、又は、イコサペンタエン酸(Icosapentaenoic acid)。ω-3脂肪酸の一つで必須脂肪酸。)『が含まれており、脳梗塞・心筋梗塞などの病気を予防する効果があるとされている。また、ドコサヘキサエン酸』(Docosahexaenoic acid(DHA)。不飽和脂肪酸の一つで、僅かに黄色を呈する油状物質。)『も豊富に含まれており、体内の悪玉コレステロール(LDL)を減らす作用、脳細胞を活発化させ、頭の回転を良くする効果もあるとされている』。『生のサンマの鮮度の見極めは』、『・尾を持ちサンマの頭を上に向けたとき、体が曲がらずにできるだけまっすぐに立つもの』。『・目が濁っていないもの』。『・口先がほんのり黄色いこと』。『などと言われている。おいしいサンマは口先だけでなく』、『尾も黄色く、極まれに全身が黄色のサンマも獲れる。これらは高級魚として高値で取り引きされる。サンマが黄色くなる理由はいまだ解明されていない』。以下、「寄生虫」の項。『サンマの内臓には小さく赤いミミズのような虫が含まれていることがあるが、これはラジノリンクス』(扁形動物上門鉤頭動物門古鉤頭虫綱鉤頭虫(エキノリンクス)目Echinorhynchidaラジノリンクス科Rhadinorhynchidaeラジノリンクス属ラジノリンクス・セルキルキRhadinorhynchus selkirki )『という名の寄生虫である。気味は悪いが、人体に寄生することはなく、無害である。また、黒い糸は』(節足動物門甲殻亜門顎脚綱カイアシ(橈脚)亜綱新カイアシ下綱後脚上目シフォノストム目Siphonostomatoida ヒジキムシ(ペンネラ)科Pennellidaeヒジキムシ(鹿尾菜虫)属)『サンマヒジキムシ』( Pennella filosa )『で、甲殻類であるため』、『甲殻アレルギーを持つ人は注意するように管理栄養士は述べている』。『一方で、アニサキス』(=線形動物門双腺綱回虫目回虫上科アニサキス科 Anisakidae アニサキス亜科 Anisakinae アニサキス属 Anisakis 等)『が寄生している場合もあり、生食やそれに近い調理方法には注意が必要である』(私は小学生の時から生物学上の寄生虫のフリークであり、大学一年の時、飲み屋で供されたイカの生焼けを食ってアニサキスに罹患して七転八倒した経験もあるので、以上の差し込みには、根性を入れて添えてある)。『焼き魚として調理する場合、取り除くべき大きな鱗を持たず、内臓やえらを取り出すことも少ないので』、『包丁を必要とせずに扱いやすく、料理書で入門用鮮魚とされることがある』。『沿岸漁業でサンマが獲れる地域が日本近海に限定されるため、サンマを食べる習慣があるのは日本とロシアのサハリンとカムチャツカ半島周辺に限られていたが、近年では中国などでも和食ブームでサンマを出す日本食レストランが増え、人気が高まっている。ロシアでは焼いた物にスメタナ』(smetana/ロシア語смета́на /ポーランド語 śmietana /ウクライナ語cметана;東欧など原産の発酵乳の一種。)『をつけたり、生の切り身をマリネにするなどして食べる。初競りの際には1匹で万単位の価格が付くこともあり、この時だけ超高級魚の扱いを受けるという』。以下、「漁業」の項(データ表などはカットした)。『日本付近の主漁場は根室沖 - 三陸沖 - 銚子沖である。日本におけるサンマ漁の漁期はかつては9月から11月だったが、乱獲などによるサンマ資源の減少に伴い、不漁対策として2018年より通年の操業が許可されているため、2019年以降は1年中漁獲することができる。日本近海で漁獲する場合、夏期にオホーツク海や北海道東方沖で成長した個体群は、9月頃から親潮とともに南下するが、30cm程度に成長し南下する群れを対象として流し網漁や光に集まる習性を利用する棒受け網漁によって行われる。棒受け網漁は敷き網の一種で、一まとめに漁獲しようとする趣旨の漁法である。北海道道東地方で漁獲されるサンマの多くは』、『この漁法による(知事許可漁業)。このほか、刺し網による漁業も行われている。また、産卵しようと流れ藻に入り込むサンマを手づかみで捕らえる漁が、日本の佐渡島や北海道西岸沿海で行われている』。『三陸沖から銚子沖での漁場は、親潮第一分枝の先端や三陸沖暖水塊に巻き込まれた細長い第二分枝、第三分枝の先端に形成される』。『単位当たりの卸売価格は、シーズン初期(8月)の主要陸揚げ港である北海道・道東の港で高く、三陸海岸沖に魚群が南下してくるシーズン中期以降の主要陸揚げ港である東北地方太平洋側諸港で安くなる傾向がある。ただし、魚群の南下スピードや漁期、市場の需要と供給などにより、細かく魚価は変化している』。『2020年8月12日に解禁された北海道東部漁場の小型船によるサンマ棒受け網漁は、極端な不漁となり』、『漁獲が』、『ほぼゼロに近い状態となった』。『2010年代後半の低調なサンマの水揚げについて、水産学者の勝川俊雄は、日本の近隣諸国の乱獲によってでなく』『、日本に来遊するサンマが減っているからだとしている。それと同時に、各国ごとの漁獲枠についての国際的なルールの設定を主張している』。『北太平洋漁業委員会参加国におけるサンマの漁獲量について、日本以外の国の漁獲が占める割合が増えている。サンマの資源量の減少もあって、2015年以降の日本のサンマの漁獲は激減している』。『サンマは太平洋全域に生息するが、日本は主に排他的経済水域内で漁獲し、公海上では少ない(日本の2013年の漁獲量約15万7千トンのうち、公海で取ったのは約8千トン)。一方、2010年代前半から日本の排他的経済水域の外側公海でサンマ漁をする海外の船の急増が見られ、漁獲の大半は北太平洋の公海で、サンマの群れが日本付近に来遊する前に先取りする。中国、台湾、韓国の漁船は多いときには1つの漁場に50 - 60隻が集まり、日本では見られない1,000トン級の大型船も用いられている。北太平洋漁業委員会参加国・地域のうちで最大の漁獲量を上げているのが台湾で、2013年には日本の漁獲量を上回り、豊漁だった2014年には台湾の漁獲量はおよそ23万トンに達している。2013年よりサンマ漁を開始した中国も、2010年代後半には日本の漁獲量の半分を超える規模となっている』。『日本ではサンマ漁船の大きさは200トン未満に制限されており、20トン未満の小型漁船も多いため、公海での遠洋漁業には向かない。日本の漁船が漁獲したサンマは氷蔵され』、『漁港に運ばれ、加工などは漁港で行う。公海で漁獲したサンマも日本の漁港に持ち帰るか、ロシア船に洋上販売する。一方、台湾の大型漁船は公海上で冷凍・加工まで行う。総トン数およそ1,000トンという日本の一般的なサンマ漁船の50倍の大きさの船が台湾全体で90隻以上あるという』。『サンマの漁獲量の減少もあり、日本では2019年より法令が改正され、サンマ漁の漁期が撤廃されてサンマ漁の通年操業が可能となった。もともと、ロシアが2016年にロシアの200海里内における日本漁船のサケ・マス流網漁を禁止したことへの代替漁業として、2016年より国の補助を得て北太平洋公海においてサンマ漁を行う「公海さんま」事業が試験的に行われていたが、サンマ漁の通年操業が解禁されたことを受けて2019年より公海さんま事業が本格的にスタートした。ただし、全国さんま棒受網漁業協同組合は北太平洋公海における漁期を5月1日から7月20日までに自主規制を行っている。日本近海のサンマはTAC制度(漁獲可能量制度)に従って水産庁により資源量が調査され、日本近海における漁獲量は管理されている。そのため、日本が北太平洋公海において通年操業を行っても』、『サンマの資源量には影響しないと水産庁は評価している』。以下、「飼育」の項。『生存したままでの捕獲が極めて難しく、従来は養殖の需要もなかったため、飼育はほとんど行われていない。ただし、昨今の情勢変化により一部の企業が養殖に興味を示す動きも見られる』。『日本の福島県にあるアクアマリンふくしまにおいて継続的な展示用飼育が行われており、2000年の開館当初からサンマの展示を続け、世界初の水槽内繁殖にも成功している。同館は生きたサンマを見られる全国で唯一の水族館として、「継代飼育」を重ねてきた』。『しかし、サンマは非常に臆病な魚でパニックを起こしやすく、水槽から飛び出たり』、『壁にぶつかって体が曲がってしまったりするほか、ウロコもはがれやすいなど傷つきやすい体質を持つ。さらに胃を持たない魚であるため、1日3回の給餌や自動給餌器の設置など細心の注意が払われている。水槽内では水温を20度ほどに調節し、人工産卵床を設置することで』、『産卵・ふ化の生態調査を進めながら飼育数を確保しているが、当初は1000匹いたのが2014年10月には30匹に減少したこともあった。また、東日本大震災により予備飼育施設「水生生物保全センター」が被災した際には、2012年8月に展示を一時中止し、2013年5月に展示を再開するなどの苦労を経ている』とある。

『西京(さいきよう)にては「さより」、大阪にては「さハら」といふ』「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」のサンマのページを見ると、「地方名・市場名」に「サヨリ」とし、『阜県下呂市萩原町、愛知県三谷、岐阜県大垣市、和歌山県由良町白崎・田辺、石川県大聖寺、富山県、京都』とある。個人的には、甚だ、気に入らない。生魚の下顎の美しい赤を忘れられないダツ目ダツ亜目トビウオ上科サヨリ科サヨリ属サヨリ Hyporhamphus sajori は、私の中では、ホウボウと並ぶ美魚だからである。

『「水族志」に『「さより」、一名「さんま」・「だつ」・「おきざより」・「水針魚《すいしんぎよ》」(淸俗)』とす』国立国会図書館デジタルコレクションの当該部をリンクさせておく。

「魚鑑(うをかヾみ)」複数回既注。江戸後期の外科医武井周作の著書。天保二(一八三一)刊。絵入り本。挿絵の画力は絶品である。]

河原田盛美著「淸國輸出日本水產圖說」正規表現版・オリジナル電子化注 下卷(九)乾魚並に䀋魚の說(その12) 乾飛魚

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は、第一始動の記事、及び、「(一)鰑の說(その2)」の前注の太字部分を参照されたい。今回はここから。]

   乾飛魚《ほしとびうを》

飛魚(とびうを)は、「倭名鈔」に『鰩(よう[やぶちゃん注:ママ。「えう」が正しい。])』を『止比乎(とびを)』と訓ず。「多識篇」に、『文鰩魚(ぶんようぎよ[やぶちゃん注:ママ。「ぶんやうぎよ」が正しい。])、本草を考(かんがふ)るに、一名、飛魚(ひぎよ)』とし、「酉陽雜俎(やうようざつし[やぶちゃん注:ママ。])」には『飛魚』とす。九州・中國等にて、一名『あこ』、長門にて『つばくらうを』、石見にて『つばめうを』とす。漢名は、「典籍便覽」に『鰩魚』、又、『五色魚』とし、「正字通」に『𩹉(ひ)』、又、『鯡(ひ)』とす。一種、薩州の飛魚は兩鰭(りやうし)、相交(あひまじわ[やぶちゃん注:ママ。])るもの、あり。又、一種『くさい』は、仙臺にて、『とびうを』とも、『ともきす』とも、いひ、讃岐にて、『みのかさご』、紀伊にて、『しまをこぜ』、又、『やまのかみ』、淡路にて、『くろぼう』、安藝にて、『なぬかぼしり』、伊豫松山にて、『うみしてう』、仝國(どうこく)吉田にて、「ほご」といふもの、あり。

[やぶちゃん注:これは、

条鰭綱ダツ目トビウオ科Exocoetidaeのトビウオ類

を指す。以下、「BISMaL」を参考に本邦に分布する種を示すと(漢字名は「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」他を参考にしたが、全く判らないものは、示さなかった)、

ツクシトビウオ(筑紫飛魚)(=ハマトビウオ(浜飛魚))亜科Cypselurinae

 ツクシトビウオ属 Cheilopogon

 ・サンノジダマシ(恐らく「三の字騙し」) Cheilopogon abei

 ・トビウオ Cheilopogon agoo

 ・イマイトビウオ(恐らく魚類学者今井貞彦氏に因んだ「今井飛魚」) Cheilopogon arcticeps

 ・アカトビ(赤飛) Cheilopogon atrisignis

 ・カラストビウオ(烏飛魚) Cheilopogon cyanopterus

 ・オジロトビ Cheilopogon exsiliens

 ・シロフチトビウオ (白縁飛魚)Cheilopogon furcatus

 ・ハマトビウオ(浜飛魚) Cheilopogon pinnatibarbatus  japonicus

 ・チャバネトビウオ(茶羽飛魚) Cheilopogon spilonotopterus

 ・マトウトビウオ(的飛魚) Cheilopogon spilopterus

 ・オオアカトビ(恐らく「大赤飛」) Cheilopogon suttoni

 ・オオメナツトビ(大目夏飛) Cheilopogon unicolor

 ・ツクシトビウオ(筑紫飛魚)属Cypselurus

 ・ヒメアカトビ Cypselurus angusticeps

 ・ツクシトビウオ Cypselurus doederleinii

 ・ Cypselurus hexazona

 ・ホソトビウオ(細飛魚) Cypselurus hiraii

 ・ウチダトビウオ(内田飛魚) Cypselurus naresii

 ・Cypselurus oligolepis (漢名「少燕鰩」)

 ・アヤトビウオ(綾飛魚) Cypselurus poecilopterus

 ・アリアケトビウオ(有明飛魚) Cypselurus starksi

 ニノジトビウオ(二ノ字飛魚)属 Hirundichthys 

 ・ ツマジロトビウオ(恐らくは「爪白飛魚」) Hirundichthys affinis

 ・ Hirundichthys albimaculatus

 ・ホソアオトビ(細青飛) Hirundichthys oxycephalus

 ・ Hirundichthys rondeletii

 ・ニノジトビウオHirundichthys speculiger

 ダルマトビ(恐らくは「達磨飛」)属Prognichthys

 ・ザカトビウオ Prognichthys brevipinnis

 ・ダルマトビ Prognichthys sealei

の☆二十七種である。ウィキの「トビウオ」を引く(注記記号はカットした。「分類」の項は上記のものが正確と断ずるので、カットした)。『トビウオ(止比乎、飛魚、鰩、𩹉 、文鰩魚、英: Flying fish)は、ダツ目トビウオ科に属する魚類の総称。太平洋、インド洋、大西洋の亜熱帯から温帯の海に生息する海水魚で、世界で50種ほど、日本近海でも30種弱ほどが知られる』。『「トビウオ」の名前の由来は、水上に飛び出し、胸ビレを広げて滑空することから。日本では食用魚として漁業の対象となり、九州や日本海側ではアゴの別名で呼ばれる。島根県の「県の魚」に指定されている』。『細い筒状の逆三角形の断面を持つ体をしており、最大の種でも、全長は約30-40 cm。体色は背は藍色、腹は白色で、青魚の一つ。胸ビレが発達して著しく大きく、尾ビレは』、『上端と下端が長く伸びたV字状で、特に下端が長く』、『水面滑走時に水中へ推進力を効率よく伝えられるようになっている。滑空時には胸ビレを広げるので、これがグライダーの翼のような役割をする。腹ビレも大きい種もおり、この場合には翼が4枚あるように見える』。『一般に陸地に近い沿岸部に多い。海の表層近くに生息し、動物プランクトンなどを食べる。水上に飛び出して、海面すれすれを猛スピードで滑空する。これは主に、マグロやカジキ、シイラなどの捕食者から逃げるためといわれる。滑空時は100 mくらいは当たり前に飛ぶことができ、水面滑走時の速度は35 km/h、空中滑空時の速度は50-70 km/h、高さ3-5 mに達する(大型のものであれば600 m程度滑空するものがある)』。『平均的には、風上に向かって、海面の上約2 mを、100-300 m飛ぶ。滑空中に急に海中に入る必要が生じた時は、急ブレーキをかけることもでき、また、空中で方向転換も可能である』。『勢い余って漁船などに自ら飛び込むこともある。2008年5月、NHKのクルーが鹿児島県沖のフェリーから45秒にわたって(時々水面を尾びれで叩きながら)飛び続ける様子を撮影し、映像として捉えられた記録としてはおそらく過去最長であると報じられた』。『産卵は、流木や海藻に粘着性のある卵を産みつける。』以下、「食材としてのトビウオ」の項。ノルウェーの人類学者・海洋生物学者にして探検家としても知られる『トール・ヘイエルダール』(Thor Heyerdahl 一九一四年~二〇〇二年)は、著書「コンチキ号漂流記」‘ The Kon-Tiki Expedition ’(一九四八年刊)『にトビウオに関しての記述がある。昼夜別なく、イカダの上の乗組員にぶつかって来るので』、『辟易したが、食べると』、『美味なので怒りを忘れてしまうという話であった。夜間にイカダ上に落下したトビウオを集めて朝食にしたとの記述もある』。以下、「日本における利用」の大項目。『食用としての利用』――『旬は初夏から夏。小骨の多い魚だが、脂肪分が少なく淡白な味で、成魚は塩焼き、フライ等にして食べる。新鮮なものは刺身が美味。新島や八丈島ではくさやに加工される。房総半島の郷土料理なめろうの材料にもなる』。『単一の漁業協同組合としては』、『トビウオ漁獲量が国内最多である屋久島(鹿児島県)、トビウオをアゴと呼ぶ日本海沿岸地域では、鮮魚としてよりも練り物(すり身)や出汁(アゴだし)の材料として利用されることが多い』。『アゴを原料とした竹輪は「あごちくわ」と呼ばれ、鳥取県・兵庫県の特産品。島根県では、形や食感が竹輪に似ているものの製法は異なる「あご野焼き」と呼ばれる焼き抜きかまぼこの特産品がある』。『日本海沿岸では素干しした「アゴ干し」が作られる。アゴ干し自体のほか、それを破砕した「トビ節」や火であぶって焦がした「焼きアゴ」が、味噌汁や料理のダシをとるために使われることが多い。山形県飛島でも、天日干しと炭火による「焼き干し」が作られており、対岸本土側の酒田市のラーメンでは、ほとんどがトビウオでダシを取っている』。『あごだし発祥地の平戸がある長崎県でもトビウオのダシ入りつゆで麺が多く食べられ、その他九州の醤油・調味料メーカーがそれを真似て「あごだし」を商品名に冠した粉末だし、めんつゆ、だしパックを商品化しており、他地方の家庭や飲食店にも、あごだしが浸透しつつある。マスコミによるPR等で知られるようになった「五島うどん」(長崎県南松浦郡新上五島町でつくられる郷土料理)も、あごだしを使って食べるうどんである。長崎県平戸市生月発祥の、あごだしラーメンも評判を呼びつつある』。『トビウオの卵は』『とびこ』『と呼ばれ、珍味や寿司ネタになる』とある。個人的には、私はダントツが、神津島で食べた「くさや」で、第二は屋久島での二泊の間、堪能した同種の多数な料理類であった。以下、本邦での「文化的な利用」の項。『古事記上巻第五部天宇受賣命に登場し「是以御世嶋之速贄獻之時給猿女君等也」と古くから、現代にいたるまで、三重県志摩市大王町波切では速贄(トビウオ)を毎年の様に皇室に奉納し、皇室では猿女君(アメノウズメ)に奉納している。現在は、伊勢市にある猿田彦神社でも、これに習い、猿田彦に奉納している。この他、他の神社でも皇室を見習ったのか』、『「景気が跳ねる(上向く)」などの縁起物として供えられることがい多い』。『この他、万葉集には「阿胡」(あご)と言う単語が多数登場し、トビウオを指している物と見られている』。以下、「日本近海のトビウオと漁業」の項。『トビウオ漁には、刺網、定置網、ロープ曳き漁、たも抄網などがある』。『屋久島の「ロープ引き漁」は、2隻の漁船が円状に漁網を張り、漁師が海に飛び込んでトビウオを網に追い入れる』。『カツオ、サンマなどと同様、季節回遊をする魚で、春先から夏にかけて日本付近まで北上してきて産卵し、秋に南下する。日本で漁獲量が多いトビウオには、ハマトビウオ、ホソトビウオ、ツクシトビウオ、トビウオ(ホントビウオ)などがある。種類により、漁の時期、分布が異なり、また味や用途も違う。漁業の対象となっているこれらの種類は、いずれもハマトビウオ属に含まれる種類である』。『3月、4月に春先に最初に関東などの市場に出回るトビウオは、八丈島などからのハマトビウオである。最も大型のトビウオで味も良く、くさやの材料にも使われる。ハマトビウオは、九州南部では晩秋に回遊してくるのを獲る』。『それに続いて、初夏にはツクシトビウオ、ホソトビウオなどが北上してくる。これらの種は、太平洋側とともに、日本海側にも北上し、九州北部、山陰、北陸地方などでは、ホソトビウオ、ツクシトビウオが主に獲られる。トビウオ(ホントビウオ)、アカトビウオ、オオメナツトビウオ、ホソアオトビなどもこの時期から夏にかけての種類である』。『これらのトビウオの種類は、市場によって様々な通称で呼ばれる。関東では、春に出回るハマトビウオなどを春トビ、その後の夏に出回る種類を「夏トビ」(あるいは「本トビ」)と呼ぶことがある。各地で獲れるホソトビウオは頭部、体つきが丸いことから「丸トビ」(西日本・日本海側では「丸アゴ」)と呼ばれ、それに対して頭部が角張った種類を「角トビ」(角アゴ)と呼ぶ。ホソトビウオとツクシトビウオが主なトビウオである日本海側ではツクシトビウオを角トビと呼ぶが、太平洋側ではハマトビウオも角トビと呼ぶ場合がある。愛称で「トッピー」と呼ぶ地域もある』とある。

『「倭名鈔」に『鰩(よう)』を『止比乎(とびを)』と訓ず。』国立国会図書館デジタルコレクションの寛文七(一六六七)年板の当該画像(左丁五行目)を視認して、推定訓読を示す。

   *

鰩(トビヲ) 陸詞が「切韻」に云はく、『鰩【音「遙(エウ)」。和名「止比乎(とひを)」。】魚の鳥翼(とりのつばさ)あ≪り≫て、能(よ)く飛ぶなり。』≪と≫。

   *

この「鰩」(音の現代仮名遣は「ヨウ」)の字は、漢語で古くからトビウオを指す語である。

『「多識篇」に、『文鰩魚(ぶんようぎよ)、本草を考(かんがふ)るに、一名、飛魚(ひぎよ)』とし』「多識篇」は複数回既注だが再掲すると、本草辞書。林羅山編。全五巻。明の林兆珂が「詩経」中の動植物を分類して注を施した「多識篇」に倣ったもので、「本草綱目」から物の名を抜き出し、万葉仮名で和訓を施したもの。「羅山林先生文集」の「多識編跋」に、「壬子之歲本草綱目を拔き寫して附するに國訓を以てす」とあり、慶長一七(一六一二)年の著述であることが判る。配列は「水部門」から「蔴苧(おま)門」までの部門別。版本に寛永七(一六三〇)年古活字版三巻本があるが、翌寛永八年に、諸漢籍から、異名を抜き出して追加し、万葉仮名に片仮名ルビを施し、五巻に仕立て直した整版が出た。以上は国立国会図書館デジタルコレクションの解題・抄録に拠ったが、そこには、当館本は慶安』二年(一六四九)『版で、寛永』八『年版の覆せ彫りである。本草学者白井光太郎の「白井氏蔵書」の印記あり』とあり、当該部はここの六行目で、「鱗部」第五に配されてある。推定訓読すると(「鰩」の字は「グリフウィキ」のこれだが、表示出来ないので、近い「鰩」で示した。「異名」は黒地で白抜きだが、太字に換えた。)、

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文鰩魚【登(ト)比宇於】異名飛(ヒ)魚

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「酉陽雜俎(やうようざつし)」(いうやうざつそ)は複数回既出既注だが、再掲すると、唐の段成式(八〇三年~八六三年)が撰した、古今の神話・伝説・故事・風俗・儀礼など多分野にわたる異聞、及び、怪異記事を、多く集録した随筆集。本巻二十巻・続集十巻で、八六〇年頃の成立。当該部は「卷十七」の「廣動植之二」の以下。

   *

飛魚、朗山浪水有魚、長一尺、能飛、飛卽凌雲空、息即歸潭底。

   *

推定訓読すると、

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飛魚は、朗山(らうざん)の浪水(らうすい)に有り。魚、長さ一尺、能(よ)く飛び、飛べば、卽ち、雲空(うんくう)を凌(しの)ぎ、息(いき)せば、卽(すなは)ち、潭(たん)の底(そこ)に歸る。

   *

所持する東洋文庫版現代語訳(今村与志雄訳注)の注に拠れば、『これは淡水産らしい。』されており、だとすると、これは、純粋な海産魚であるトビウオではあり得ず、また、淡水魚で、このような習性を持つ種を私は想起出来ない。中国の誇張性を勘案すれば、コイ類・サケ類の遡上時の運動性能を言ったとも思えなくはない。

『九州・中國等にて、一名『あこ』』これは「あご」の誤植か、聴き違いである。私自身全く聴いたことがないし、調べても、「あこ」は、ない。九州あご文化推進委員会公式サイトの「九州あご」の「あごいろは」の冒頭で、『「あご」とは、九州北部から日本海側の地域で呼ばれている「トビウオ」の呼称です。ダツ目トビウオ科、亜熱帯〜温帯の海域に生息する海産魚で、世界で50種類ほど存在すると言われています。回遊魚のため地域によって漁期は異なりますが、日本近海では20〜30種類のトビウオが生息しています。トビウオが九州などの地域で「あご」と呼ばれるようになった由来は「あごが落ちるほど美味しいから」「食べるときに硬くてあごをよく使うから」「トビウオを前からみると顎が出ているから」「トビウオの学名:Cypselurus agooから」など諸説あります。』とある。学名(斜体でないのはママ)のそれは、前掲の通り、種として「トビウオ」の学名である。

「長門にて『つばくらうを』、石見にて『つばめうを』とす」漢字では「燕魚」で、「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」の種トビウオ Cheilopogon agoo の「地方名・市場名」に、『ツンバクロ』とし、採取地(以下は総て文献よりとある)を『新潟県能生、富山県旧下新川郡(現朝日町・入善町)』とあり、以下、『ツバメウオ』で『茨城県水戸、山陰、島根県石見』、『ツバクロウヲ』・『ツバクロウオ』で『兵庫県播磨灘、山口』及び『山口県長門』を確認出来る。

『漢名は、「典籍便覽」に『鰩魚』、又、『五色魚』とし』「典籍便覽」は明の范泓(はんおう)の纂輯になる本草物産名の類書(百科事典)。

『「正字通」に『𩹉(ひ)』、又、『鯡(ひ)』とす』「正字通」は中国の字書。明末の張自烈の著。初刻本は一六七一年刊行、直後に本邦にも渡来して多く読まれた。現行通行本には清の廖(りょう)文英撰とするが、実際には原稿を買って自著として刊行したものである。十二支の符号を付した十二巻を、それぞれ上・中・下に分け、部首と画数によって文字を配列し、解説を加えたもの。形式は、ほぼ明の梅膺祚(ばいようそ)の「字彙」に基づくが、その誤りを正し、訓詁を増したものである。但し、本書自体にも誤りが少くない。「字彙」とともに後の「康煕字典」の基礎となった。「廣漢和辭典」を見ると、飛魚の意を漢語として明確に持つのは、「𩹉」の方のみである。

「一種、薩州の飛魚は兩鰭(りやうし)、相交(あひまじわ)るもの、あり」これは、私には、トビウオ類の種が異なるものを指しているもののように思われるが、私の貧しい知見では、それをそれぞれ仮定比定は出来ない。

「一種『くさい』は、仙臺にて、『とびうを』とも、『ともきす』とも、いひ」「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」の「トビウオ」の「地方名・市場名」に「クサイ」があり、『宮城県仙台』(文献に拠るとある)とあった。問題は「ともきす」であるが、確認出来なかったものの、個人的には、魚体のフォルムがやや似ている、条鰭綱ニザダイ目キス科 Sillaginidaeのキス類、或いは、ソトイワシ目ソトイワシ科ギス(義須)属ギス Pterothrissus gissu と擬えたものではなかろうか? とは思った。

「讃岐にて、『みのかさご』、紀伊にて、『しまをこぜ』、又、『やまのかみ』」孰れも地方名として確認出来ない。但し、学術的立場からの見解ではないものの、私には、非常に納得できる面白い語りを見つけた。ebisutokyojapanのサイト「tobiuo」の「fish fish」の"No. 17 - ミノカサゴ"である。そこの『トビウオとの相性は?』で『異常に発達した胸ビレは、ミノカサゴとトビウオの共通点。かたや誘惑の手招き、かたや高性能の翼として、まさに胸ビレは彼らのステイタスシンボルになった。もし胸ビレが普通だったなら、ミノカサゴはキンキ、トビウオはサンマだったかもしれない。美味しそう。なるほど、胸ビレは食べられないための武器になったのかもしれない。(多分に空想を含んでいます)』とあった。こういう連想空想は、まっこと! 面白いじゃないか!!!

「淡路にて、『くろぼう』」確認出来ず。「黑棒」か?

「安藝にて、『なぬかぼしり』」同前。但し、思いつきに過ぎぬが、これは「なぬかはしり」で「七日走り」ではなかろうか? 非常な距離を「水切り」遊びのように連続して飛行するという私の解釈である。

「伊豫松山にて、『うみしてう』」同前。「海士(司・師)長」? 先立てて指揮するように飛ぶさまを比喩したものか?

「仝國(どうこく)吉田にて、「ほご」といふもの、あり」愛媛県松山市南吉田町のことか。漁業とミカンの町として知られる。現在は町内の約半分が、松山空港に中央部を占められているので、「ひなたGISの戦前の地図を見られたい。「ほご」は確認出来ない。]

 

「廣東通志」・「泉州府志」・「廣東新語(かんとんしんご)」・「正字通」等(とう)に『飛魚(とびうを[やぶちゃん注:ママ。以上は中文書籍であるから、「ひぎよ」とすべきものである。])』とし、「臺灣續志」には『飛籍魚(ひせきぎよ)』とす。「中山傳信錄(ちうざんでんしんろく)」・「海島逸志(かいとういつし)」等に、『燕魚(ゑんぎよ[やぶちゃん注:ママ。])、古名『鰩』、俗、『飛魚(ひぎよ)』と呼ふ[やぶちゃん注:ママ。誤植。]とし、「閩中海錯疏」には、『海燕(かいゑん[やぶちゃん注:ママ。])』と『飛魚(ひぎよ)』と分(わか)ち、本邦、亦、二、三種あり。從來、鹽乾(しほほし)となしたるを、京都に出(いだ)せり。東京は鮮(なま)なるもの、多し。近年、伊豆七島(いづしちたう)より出(いだ)す鹽乾製(しほほしせい)を、橫濱より、淸國に輸出せり。又、十七年の輸出調(ゆしゆつしらべ)に、神戶港は四萬八千八百九十斤、價(あたい[やぶちゃん注:ママ。])千二百十七圓、大坂港百斤、價三圓二十錢を載せたり。其製法は、背を割(わ)り、腸(わた)を去り、一度(いちど)、食䀋(しよくゑん[やぶちゃん注:ママ。])に和(くわ)し、一日(いちじつ)を過ぎて、風乾(ふうかん)するに過(すぎ)ざれども、能(よ)く乾燥するを、よろし、とす。

[やぶちゃん注:中文書の解説は、概ね既注であり、原文を確認する必然性を感じない。悪しからず。

「四萬八千八百九十斤」二百九十三・三三二八トン。

「百斤」六十キログラム。]

2026/08/21

佐野花子「私は芥川龍之介のかくれた愛人だった」ベタ版に就いて

佐野花子「私は芥川龍之介のかくれた愛人だった」ベタ版を、最低、表現部分への注を附したものを、今朝、完成した。データを送って下さった方に、御校正・御意見を伺うため、先ほど、送付した。公開は今少し、待たれたい。

2026/08/19

現状のお知らせ(急遽、芥川龍之介関連記事の未見記事のテクスト化作業に入ること)

先週、我が家の水道で莫大な水漏れ(三万円超え)が発覚し、昨日、県から紹介された業者が来られ、検査を受け、最も怪しい浴槽を完全リニューアルすることになった。物理的に水が普通に使えない(二世帯住宅で水道は別個にあるので、隣りが使用は出来る)ことの不便と、精神的なストレスがマックスになっている。そんな中、河原田盛美著「淸國輸出日本水產圖說」の電子化注で、著者の記載の引用の杜撰さに、遂に怒髪天を衝く状態になっている。ところが、先般、未知の方が、私が、ブログ・サイトで電子化注している芥川龍之介の関係者佐野花子の、見たことのない直筆記事(昭和三六(一九六一)年発行・雑誌掲載)、題名はショッキングな「私は芥川龍之介のかくれた愛人だった」を紹介して呉れ、昨日、そのデータを、その方から画像を頂戴した。されば、悶々たる現状の中、健全なる精神状態に浸かって、第一に作業出来ることとして、まず、今日から、そのベタ・データを作ることと決した。現況まで――

2026/08/18

河原田盛美著「淸國輸出日本水產圖說」正規表現版・オリジナル電子化注 下卷(九)乾魚並に䀋魚の說(その11) 乾梭魚

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は、第一始動の記事、及び、「(一)鰑の說(その2)」の前注の太字部分を参照されたい。今回はここから。本文は貧弱なので、注は最後に回した。]

 

   乾梭魚(ほしかます)

梭魚(かます)は「かます」と訓じ、又、魳(かます)、𩶸(かます)、鮊(かます)等(とう)の文字をも用(もち)う[やぶちゃん注:ママ。]。「本朝食鑑」に、『近世、「魳(しう)」の字を用ふ。字書に惟名(いめい)の名と爲すのみ[やぶちゃん注:これは、惟(ただ)、「魚」と示すだけであり、それ以外の固有種名・形状・性質などを含んでいない漢語であることを言う。後注する。]。長崎の市人(しじん)、中華の船客(せんきやく)に逢ふて、此の魚を指して問ひしに、『梭子魚(しゆんしぎよ)なり。』と答(こたへ)たり。』と。『「閩書」に『梭魚(しゆんぎよ)、織梭(をりをさ)の如し。豐肉脆骨(はうにくぜいこつ)、此れを魳魚(しうぎよ)と謂ふ乎(か)。』と載せたり。

 

 此ものは全國の海にあり、『鮝(しやう[やぶちゃん注:最後は「ふ」にしか見えないが、正しい歴史的仮名遣で「う」と判じた。])』と作(な)して賞美し、脂(あぶら)多きものは、色、淡赤(たんせき)、脂少きものは、色、黃白(こうはく[やぶちゃん注:ママ。])なり。

[やぶちゃん注:「乾舒(ほしかます)」アジ目カマス(魳・梭子魚・梭魚・魣)科カマス属 Sphyraena の干物。同属は、世界では二十七種を数えるが、本邦産食用種として重要な種は、

ヤマトカマス(大和叺・大和梭子) Sphyraena japonica

アカカマス(赤梭子魚 Sphyraena pinguis

アオカマス(青梭子魚 Sphyraena japonica

の三種である。今回は、当該ウィキは内容的に不満足なので、小学館「日本大百科全書」「カマス」の項を引用することとする(太字は私が附した)。『硬骨魚綱スズキ目カマス科Sphyraenidaeの海水魚の総称。口を大きくあけて餌物』『を大食するさまが、蓆(むしろ)を二つ折りにして穀物や塩などを入れた袋(叺(かます))に似ているので、この名があるという。体は細長く頭は細くとがる。下顎(かがく)は上顎より突出し、上下両顎に牙(きば)状の強い歯がある。背びれは2基で互いによく離れており、第1背びれは小さくて5本の棘条(きょくじょう)しかない。胸びれは短く、腹びれは胸びれの基部よりやや後方にある』。『沿岸の表層を遊泳し、小形魚は群れをつくるが、大形魚は成長とともに群れなくなり、しだいに単独で行動するようになる。代表的な肉食魚であり、群れをつくる小魚を追って食べる。サンゴ礁海域では』、『大形魚はサメ類やハタ類などとともに食物連鎖で最高の地位にあり、イワシ類、アジ類、ベラ類、スズメダイ類などを餌』『としている。他物の形や行動に敏感に反応する性質があり、異常な行動をするもの、光るものなどに興味を示し、目にも留まらぬほどの速さで相手を攻撃して大きな傷害を与える。大形魚はとくに気が荒く、ダイバーや海水浴中の人間を襲う。場所によってはサメ類による被害よりも多いことがあり、暗い水中や濁った水中での被害が多い』。『産卵は春から夏にかけてなされるが、多くの個体は1産卵期に数回に分けて放卵する。卵は分離浮性卵であり、卵径は1ミリメートル以下である。アカカマスの熟卵は卵膜が透明で多くの亀裂』『があり、油球は1個ないしは2個である。1回の産卵で20万粒を産むので、産卵期間を通じて多いものでは100万粒前後を放卵する。水温23℃では受精後1日余りで孵化(ふか)する』。『熱帯のサンゴ礁にすむものは、シガトキシンciguatoxin』(同全書の当該項から引くと(以下でダブりがある)、『名前はカリブ海に生息する巻き貝のシガcigua(チャウダーガイ)』(腹足綱古腹足亜綱ニシキウズガイ目ニシキウズガイ上科クボガイ科 シッタリアム属チャウダーガイ Cittarium pica )『による食中毒に由来する。世界の熱帯、亜熱帯海域に生息する400種以上の魚種から報告されている。魚の餌(えさ)になるサンゴ礁で育っている石灰藻類を藻食魚が食べると、それに付着する渦鞭毛藻(うずべんもうそう)Gambierdiscus toxicus でつくられた毒が、藻食魚から食物連鎖を通して、ほかの魚の体内に蓄積することがある。毒は筋肉より内臓に多い。これらの魚を食べると、口や手足などのしびれ、ドライアイスセンセーション(温度感覚異常)、めまいなどの神経障害、腹痛、嘔吐』『、下痢などの胃腸障害をおこし、ときには死ぬことがある。日本での死亡例は報告されていない。神経障害は回復が遅くて数か月続くことがある。日本では亜熱帯の沖縄、奄美』『諸島周辺にいるハタ類(バラハタ、マダラハタなど)、フエダイ類(バラフエダイ、イッテンフエダイなど)、ニザダイ類(サザナミハギなど)、カマス類(オオカマスなど)のほか、ある種のブダイ類、ベラ類、カマス類など20種ほどがこの毒をもつことが知られ、これらを食べて食中毒がおきているが、2000年ごろから、地球温暖化によって本州でも疑われるような症状が報告されている。』とある)『という毒素をもつことがある。この毒素をもった魚を食べるとシガテラciguatera『とよばれる中毒症状をおこし、ときに死亡することがある。この中毒症は神経障害が主であり、感覚がしびれ、全身に悪寒やふるえ、吐き気があり、ひどくなると腕や足の筋肉や関節に激痛がおこる。この徴候は徐々に』、『または』、『急激に現れる。毒素は地域や季節によって著しく異なるが、カマス類が食べた餌から体内に蓄積されたものである。毒素はもともと海藻類に含まれており、これを食べたサザナミハギなどの藻食魚に移され、さらにこれらを食べたカマス類に蓄積される。大形魚は小形魚より毒性が大きい傾向がある。オニカマスは国によっては』、『産卵期に販売を停止することがある』(以上、落合明氏)。『カマス類は世界には20種余りが知られている。そのうち世界的にもっとも有名なのは、英名でバラクーダbarracudaとよばれるオニカマス(別名ドクカマスSphyraena barracuda である。世界中の熱帯から亜熱帯に分布しており、日本でも』、『南日本の太平洋岸、琉球』『諸島海域の内湾や、サンゴ礁域に生息する。鱗』『が大きく、側線に沿って7587枚、側線より背方に数列に並ぶこと、体側の側線の上半分に青色の横縞』『があることが大きな特徴である。カリフォルニアカマス Sphyraena argentea も体長が1.2メートルになり、カリフォルニア沿岸を中心に北アメリカ太平洋沿岸の広い範囲に生息している』。『日本の沿岸では体長数十センチメートルになるアカカマス Sphyraena pinguis 、アオカマス Sphyraena nigripinnis 、ヤマトカマス Sphyraena japonica などは漁獲量が多く』、『産業的に重要である。とくにアカカマスは一般にカマスとよばれ、美味である。琉球諸島以南の太平洋や』、『インド洋の熱帯域にはオオカマス Sphyraena putnamae 、南日本からインド洋にかけてはオオメカマス』(大目梭子)『 Sphyraena forsteri などが広く分布している。オオカマスは体長2メートルほど、オオメカマスは体長90センチメートル前後になり、毒性は弱いが、まれに中毒することがある。そのほかに、日本からタイワンカマス Sphyraena flavicauda 、ホソカマス Sphyraena helleri 、オオヤマトカマス Sphyraena africana が知られている』(以上は落合明・尼岡邦夫氏)。以下、「食用」の項。『肉は白身で淡泊な味であるから、料理には幅広く利用できる。新鮮なものは、身がしまっていて刺身にもなるが、一般的には水分が多いため、薄塩干しにして食用にすることが多い。なまの場合は、塩をしてしばらく置き、身をしめてから塩焼きにするとよい。洋風ではフライ、ムニエルによい。秋に味がよいとされるが、年中とれる。良質のかまぼこの材料でもある』とある。

『「本朝食鑑」に、『近世、「魳(しう)」の字を用ふ。字書に惟名(いめい)の名と爲すのみ。長崎の市人(しじん)、中華の船客(せんきやく)に逢ふて、此の魚を指して問ひしに、『梭子魚(しゆんしぎよ)なり。』と答(こたへ)たり。』と。『「閩書」に『梭魚(しゆんぎよ)、織梭(をりをさ)の如し。豐肉脆骨(はうにくぜいこつ)、此れを魳魚(しうぎよ)と謂ふ乎(か)。』と載せたり。』国立国会図書館デジタルコレクションの当該部(「卷之八」の「鱗介部之二」の「江海有鱗部之二」の「魳」を示し、推定訓読する。読みでは、河原田氏の読みに従はず、私が正しいと判断したものを用いた。また、訳であるが、東洋文庫版を一部参考にした。

   *

魳【「帀(ソウ)」・「沓(タウ)」・「師(シ)」三音、義、同じ。「加麻沫(かます)」と訓ず。】

釋名 𩶤(せん)【「先」・「顕」の切(せつ)。音「銑(セン)。」。】・𩶧(きう)【釋師練。】・梭子魚(さしぎよ)【按ずるに、「𩶤」「𩶧」、「字彙」に曰く、『倶(とも)に魚の名。、音「臼(ハク)」。「其(キ)」・「九(キユウ)」の切(せつ)』。師錬の「下學集(かがくしふ)」、此の字を用ゆなり。近世、「魳」の字を用ゆ。字書(じしよ)には、惟(ただ)、魚の名のみ。「梭子魚」、今、間(まま)、之(これ)を稱す。或いは、曰はく、『長﨑の市人(いちびと)、中華の船客に逢(あふ)に、而(しかして)、此の魚を指し、問ひて曰はく、『本邦、何を以つて、之を名づくや。』と云ふに、客(かく)、曰はく、「梭子魚。」と』。愚(ぐ)[やぶちゃん注:筆者人見必大の卑称。]、謂(い)へらく、『諸魚を「水梭花(すいひくわ)」と曰ふ時は、則ち、魚(うを)に於いて、相當(あひあた)れり。然(しかれ)ども、「閩書南産志(びんしよなんざんし)」に、『梭魚、織梭(しよくさ)のごとし。豊肉脆骨(はうにくぜいこつ)、此れを、「魳魚(せんぎよ)」と謂ふか。】

集觧【形、鰺(あじ)のごとくして、細鱗(さいりん)は、光色(つや)、有り、色、淡黒(あはぐろ)有り、鉛白(なまりじろ)なる有り、嘴(くしばし)、尖(とが)りて、鋒頭(ほこさき)のごとく、首尾、狹(せま)く尖(とが)り、身(み)、圓(まろ)く、肥えにして、最も、織梭(しよくさ)[やぶちゃん注:機織(はたお)り機の「梭(ひ)」。]に似たり。大なる者、數寸に過ぎず、脂(あぶら)、多く、味、美なり。又、細刺(ほそきとげ)、有り。惟(ただ)、炙食(あぶりぐひ)に宜(よろ)し。膾(なます)・烹(に)には、堪(た)へざるなり。𠙚𠙚(しよしよ)、江海、之れ、有り。鮝(ほしもの)に作(な)して、多く賞美す。脂、多き者は、色、淡赤、脂、少き者は、色、黃白(わうはく)、京師難波(けいしなんば)の漁市(れふいち)、其の子(こ)、一、二寸なる者を採(と)りて、「美(よ)し。」と稱す。一種、色、淡黒(あはぐろ)、形、短小、漸(やうや)く、三、四寸の者に過ぎざる者の、脂、少なく、味、佳なり。「志豆岐魳(しづきかます)」と曰(い)ふ。其の魚、黒き腸(わた)、美味なる者、有り。亦、「志豆岐」と曰ふ。海市(うみいち)、醢(しほから)と作(な)して、國守に獻(けん)ず。國守、上厨(じやううちゆう)に獻じ、四方に贈る。世(よ)、以つて、「珍。」と爲す。尾・勢の産、最も、上品たり。賀・越も亦、出(いづ)れども、佳(か)ならず。

肉 氣味【微温。毒、無し。】。【主治】五臓を補ひ、氣血を調へ、陰精(いんせい)を添へ、肌肉(ひにく)を潤(うるほ)し、身を輕くし、髮を黒くす。、惟(ただ)、蟲積(ちゆうしやく)[やぶちゃん注:現在の口経性の寄生虫症を指す漢方用語。]・濕痰(しつたん)[やぶちゃん注:漢方で、体内の水分代謝が滞って、余分な水分(湿)や粘り気のある老廃物(痰)が体に溜まっている状態を言う。]の者は、食ふべからず。多き時は、嘔吐(わうと)せしむなり。鮝(ひもの)と作(な)して、尤も、人に、可なり。赤鮝(あかのひもの)、脂、多くして、血を潤(うるほ)す。白鮝(しろきひもの)は、脂、少くして、氣を順(なごやかに)するのみ。

   *

・「𩶧(きう)【釋師練。】」「師錬の「下學集(かがくしふ)」、此の字を用ゆなり。」この人見の記述は、おかしい。「下學集」は室町中期の国語辞書(全二巻)であるが、著者未詳。文安元(一四四四)年成立で、天地・時節・神祇・言辞など十八部門に分類し、用字・意味・語源を簡単に記したものである。この不明の作者を「釋師練」とは、決して言わないからである。見た瞬間に、私は、鎌倉後期から南北朝にかけての臨済宗の名僧であった虎関師錬(こかんしれん)を考えたが、彼が、カマスに係る記載を記することは、あり得ないからである。

・「大なる者、數寸に過ぎず」このスケールから、必大の視認しているカマスは、最全長三十五センチメートルであるヤマトカマス Sphyraena japonica に比定出来る。

・「膾(なます)・烹(に)には、堪(た)へざるなり」嘗つては、カマスの鮮魚は流通しておらず、専ら、塩焼き魚とされたからである。]

2026/08/16

河原田盛美著「淸國輸出日本水產圖說」正規表現版・オリジナル電子化注 下卷(九)乾魚並に䀋魚の說(その10) 乾鰈

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は、第一始動の記事、及び、「(一)鰑の說(その2)」の前注の太字部分を参照されたい。今回はここから。]

 

   乾鰈《ほしかれひ》

鰈(かれひ)ハ、「倭名鈔」には『王餘魚(わうよぎよ)』を『加禮比(かれひ)』と訓(くん)し、「閩書」に『比目魚(ひもくぎよ)』とし、『「比(ひ)」は「並(ならび)」なり。東方にありて、其名(そのな)を「蝶(てう)」と曰(いふ)。』とす。此外(このほか)、種々(しゆじゆ)の異名あるも、形狀によりて、名(なづ)くるもの、多し。「北戶錄(ほくとろく)」には『鰜(けん)』と謂ひ、「吳都賦(ごとうふ[やぶちゃん注:ママ。誤植であろう。])」には『魪(かい)』といひ、「上林賦(じやうりんふ)」にハ、『魼(きよ)』といふ。閩廣(みんくわう)は『鞋底(けいてい)』と名《なづ》け、「臨海志」は『婢簁(ひと)[やぶちゃん注:底本では「簁」は(たけかんむり)の下は「徒」となっており、ルビは「ひと」となっているのだが、これは後注で示すが、「徙」で、音は「シ」でないと、おかしい。東洋文庫版もそうなっている。されば、特異的に「簁」に変え、ルビも「ひし」と差し替えた。]』に、「臨海風土記(りんかいふうどき)」は『奴屩(どきやう)』に、「南越志」ハ『南版(なんはん)』とし、「南方異物志」[やぶちゃん注:底本では「南」がなく、「方異物志」とするのだが、これは明らかに脱字であるから、「南」を補った。東洋文庫版もそうなっている。]は『箬葉(にやくよう[やぶちゃん注:ママ。「じやくえふ」が正しい。])』に、「朱厓記(しゆかいき[やぶちゃん注:ママ。「しゆがいき」が正しい。])」にハ『王餘魚(わうよぎよ)』の字を用(もちひ)たり。

而して、此ものは、本邦の沿海に、悉(ことごと)く產し、種類、尤(もつとも)多く、大(おほひ)さ、一、二尺、或(あるひ[やぶちゃん注:ママ。])は、五、六寸、裏(うら)の白皮(しらかわ[やぶちゃん注:ママ。])に、黑點、あるものを『星蝶(ほしかれい[やぶちゃん注:ママ。])』といひ、大(だい)なるもの、尺許(ばかり)、或は、七、八寸より、一、二寸に至るもの、表の黑皮、鰭(ひれ)の兩邊、上より下に向つて、黑片石子(こくへんせきし)あり、『石蝶(いしかれい[やぶちゃん注:ママ。以下、多くあるが、ママ注記は附さない。])』といふ。六、七寸に過(すぎ)ず。形(かた)ち、尋常の小蝶(こかれい)に比(ひ)すれば、狹少(けうしよう[やぶちゃん注:ママ。「けふせう」が正しい。])にして、肉、薄く、卵(たまご)、腹(はら)に滿(み[やぶちゃん注:ママ。「みつ」の脱字。])るといへども、味(あじわ)ひ、佳(か)ならす[やぶちゃん注:ママ。濁点落ち。]。『藻蝶(もかれい)』、又、『霜月蝶(すもつきかれい)』といふ。形、略(ほ)ぼ、同じ表裏(おもてうら)、あり。鱗(うろこ)なきもの、號(なづ)けて『雌板蝶(《め》いたひらめ[やぶちゃん注:ママ。後注する。])』といふ。又、『片口蝶(かたくちかれい)』といふものあり。其(その)表裏(ひようり[やぶちゃん注:ママ。])、相反(あいはん[やぶちゃん注:ママ。])するものを『平目(ひらめ)』といふ。大なるもの、二、三尺許(ばかり)に至る。

[やぶちゃん注:本書の出版時、未だ、近代魚類学上のカレイ類とヒラメ類の弁別認識の確立が科学的に明確でなく、前代の古典的博物学に頼るほか、なかったから、以上の記載に多くの違和感があるのは仕方がないことである。主題に従い、カレイ類から示すと、

条鰭綱アジ目カレイ亜目カレイ科 Pleuronectidae

は、現在、「BISMaL」に拠れば(ツリーの分岐記載の種タクソンに疑問があったが、上位タクソンを優先した。また、和名の漢字表記は「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」の各種のページを概ね参考にした)、日本産では、まず、

ムシガレイ(虫鰈)亜科Eopsettinae

オヒョウ(大鮃・大兵)亜科Hippoglossinae

アカガレイ(赤鰈)亜科Hippoglossoidinae

カレイ(鰈)亜科Pleuronectinae

の五亜科に分かれ(本邦種まで示す。以下同じ)、

ムシガレイ亜科は、

・ムシガレイ属ムシガレイ Eopsetta grigorjewi 

 オヒョウ亜科は、

・オヒョウ属オヒョウHippoglossus stenolepis

アカガレイ(赤鰈)亜科は、アカガレイ属Hippoglossoidesの、

・アカガレイ(赤鰈)Hippoglossoides dubius

・ウマガレイ(馬鰈) Hippoglossoides elassodon

・ドロガレイ(泥鰈)Hippoglossoides robustus

大所帯のカレイ亜科は、

・ウロコメガレイ(鱗眼鰈)属ウロコメガレイAcanthopsetta nadeshnyi

・アブラガレイ(油鰈)属アブラガレイ Atheresthes evermanni

・ソウハチ(宗八・惣八)属ソウハチCleisthenes pinetorum

・サメガレイ(鮫鰈)属サメガレイClidoderma asperrimum

・ミギガレイ(右鰈)属ミギガレイ Dexistes rikuzenius

・シモフリガレイ(霜降鰈)属シモフリガレイ Embassichthys bathybius

・ヒレグロ(鰭黒)属ヒレグロGlyptocephalus stelleri

・イシガレイ(石鰈)属イシガレイKareius bicoloratus

・シュムシュガレイ(占守鰈)属シュムシュガレイLepidopsetta bilineata

・シュムシュガレイ属アサバガレイ(浅場鰈・浅羽鰈) Lepidopsetta mochigarei

スナガレイ属Limanda

 ・コガネガレイ(黄金鰈)Limanda aspera

 ・ハナガレイ(漢字表記不詳。個人的には英名が“ longhead dab”であり、学名で写真を複数視認したところ、他の種類に比べて、吻(口先・鼻先)が、やや突き出ていることから、「鼻鰈」であろうと思う) Limanda proboscidea

 ・スナガレイ(砂鰈) Limanda punctatissima

 ・カラフトガレイ(樺太鰈)Limanda sakhalinensis

ババガレイ(婆鰈・母鰈)属

 ・ババガレイ Microstomus achne

 ・ヌマガレイ(沼鰈)属ヌマガレイ  Platichthys stellatus

 ・ツノガレイ(角鰈)属ツノガレイPleuronectes quadrituberculatus

メイタガレイ(痛鰈・目板鰈)属

・メイタガレイ Pleuronichthys cornutus

・ナガレメイタガレイ(流目痛鰈・流目板鰈)Pleuronichthys japonicus

マガレイ(真鰈)属

 ・マガレイ Pseudopleuronectes herzensteini

 ・ クロガレイ(黒鰈)Pseudopleuronectes obscurus

 ・クロガシラガレイ(黒頭鰈) Pseudopleuronectes schrenki

 ・マコガレイ(真子鰈)Pseudopleuronectes yokohamae

・カラスガレイ(烏鰈)属カラスガレイReinhardtius hippoglossoides

・ヤナギムシガレイ(柳虫鰈・柳蒸鰈)属ヤナギムシガレイTanakius kitaharae

マツカワ(松皮・松川)属

 ・マツカワVerasper moseri

 ・ホシガレイ(星鰈) Verasper variegatus

計三十二種である。

問題は、ここでは、しかし、河原田氏は、

〘✕?〙「形、略(ほ)ぼ、同じ表裏(おもてうら)、あり。鱗(うろこ)なきもの、號(なづ)けて『雌板蝶(《め》いたひらめ)』といふ。」という、奇体な名前と記載を記している。しかし、この「雌板鰈」「めいたひらめ」という「もの」は、これ、調べても、掛かってこず、異名としても見つからず、種を同定出来ないものなのである。

?〙しかも、「其(その)表裏(ひようり[やぶちゃん注:ママ。])、相反(あいはん)するものを『平目(ひらめ)』といふ。大なるもの、二、三尺許(ばかり)に至る。」と、明らかに「鮃」(=ヒラメ類)を一緒に記しており、最悪なことに、『雌板蝶(《め》いたひらめ)』という「鰈」に「ひらめ」とルビしてしまっているのである。

✕?〙この「ひらめ」のルビは

――うっかり誤ったものか?

それとも、

――確信犯なのか?

全く、判らない、のである。

 まあ、

〘★?★〙河原田氏は、平然と、以上の現在の我々には理解出来ない記載をしているとするなら、

■彼は、広義の「ヒラメ類」=カレイ亜目ヒラメ(鮃)科 Paralichthyidae・ダルマガレイ科 Bothidaeも、広義の「カレイ類」に包括している

としか読めないのである。

★されば、ここで河原田氏は、カレイ亜目ヒラメ科ヒラメ属ヒラメ Paralichthys olivaceusに代表されるヒラメ類――正確に述べるならば、

〙ヒラメ科 Paralichthyidae 及びダルマガレイ科 Bothidae のヒラメ類をカレイ類と一括して認識している

と採る以外はないのである。或いは、

――これは当時の一般人の一般認識であった――

のかも、知れない。

 以上で、私が注をするに、困惑せざるを得ないことが、お分かり戴けたと思う。

 されば、当初は、広義の「カレイ類」を先にし、次に、広義の「ヒラメ類」を説明するつもりであったが、それは、諦めることにした。何故なら、「ヒラメ類」を解説するとなると、まず、「カレイ類」と同じ程度の分量が必要になるであろうからである。

 取り敢えず、ウィキの「ヒラメ」の、最低必要と見做した一部だけを引用する。「特徴」の中の前半部である(注記記号はカットし、太字にした)。

   *

太平洋西部(千島列島、樺太、日本の北海道から九州)、朝鮮半島などの沿岸から南シナ海まで)に分布。最大で全長1m、体重10kgほどになる。他のカレイ目の魚と同じように左右に扁平な体型をしていてカレイと区別が付きにくいが、俗に「左ヒラメに右カレイ」と言われるように、ヒラメの目は両目とも頭部の左側半分に偏って付いているのが大きな特徴である。また、ヒラメはカレイと比べて口が大きく、歯も11つが大きく鋭い。

ヒラメは海底で両目のある体の左側を上に向けて生活しているため、その両目は常に上の方を向いている。

ヒラメという名が現れたのは14世紀ごろだが、日本では19世紀以前にはカレイとヒラメは区別されておらず、大きいものをヒラメ、小さいものをカレイと呼んでいた。はっきりと別種として扱った文献は小野蘭山の『本草綱目啓蒙』(1803)が初出である。

   

 以下、ウィキの「カレイ」を部分引用する(注記記号はカットした。なお、「分類」の項は、既に冒頭で精密なものを示したので省略した。また、注意箇所と、ヒラメとの相違解説には、太字・下線を私が附した)。カレイ類は『砂や泥の海底に生息し、海底に潜むのに適した平たい体をしており、目が体の右側の面に2つともある特徴的な形態をしている。北極海、太平洋、インド洋、大西洋の沿岸の浅い海から水深1000mの深海までに生息する海水魚。汽水に生息する種もいる』。『体は平たく、両目は、ヌマガレイなどの一部の例外を除き、原則として体の右側の面に集まっている。逆にヒラメ類では、目は体の左側側面に集まる。しかし、個別の個体では偶発的に逆となる変異現象(reversal of sides)がある。両目のある側を上にして海底に横向きになり、砂や泥に潜るなどして潜む。体の目のある側は黒褐色から褐色。特有の斑点を持つものもある。この体色は体表にたくさん散らばっている色素細胞である黒色素胞(メラノフォア)』(=melanophore・メラニン顆粒を含む色素胞)『の大きさを変えることにより、周囲の環境に合わせて変えることができ、保護色となる。両目のない側は白色。背ビレと尻ビレが長く、背ビレは頭部からはじまり尾ビレの根元まで、尻ビレは、頭部のそばにある小さな腹ビレから尾ビレの根元まで続く』。『幼生は目が普通の魚と同様に左右に分かれて付いており、体も平たくない。成長とともに変態し、目がだんだんと右側に移動していき、体が平たくなり、また浮き袋がなくなり底生の成体となる。カレイは概して長寿命で、ヨーロッパ産の1種 プレイス(European plaice)』(日本語名「ツノガレイ」=Pleuronectes platessa )『で50年、オヒョウで40年などの記録がある』。『主に肉食性で、小魚や海底の無脊椎動物を食べるが、似たような外見でフィッシュイーター』(Fish-eater)『であるヒラメとは異なり、捕食行動は』、『やや大雑把である。そのため、ヒラメ釣りでは』、『生き餌の イワシ、キス、 キビナゴ等の小魚や俊敏な動きのルアーを用いるのに対し、カレイ釣りではゴカイ・イソメ、アサリのほか、鈍重な動きのワームを用いる。冬の釣りの対象魚として知れられる』。以下、「名称」の項。『日本語の「かれい」は「唐鱏」(からえい)または「涸れ鱏」の転訛とされる。漢名は「鰈」であるが、ヒラメとの混称で「偏口魚」、「比目魚」などとも呼ばれる』。『漢字の「鰈」は、発音を表す「枼」と意味を示す「魚」とを組み合わせた形声文字である(なお、「枼」は葉に由来し』、『薄いものの意味だと説明されることがあるが、これは民間俗説に過ぎない』(ここには[独自研究?]の要請が附されてある)。『王が魚を半分食べたところを水に放すと』、『泳ぎだした』、『との中国の故事から「王余魚、王餘魚」とも書くが、ヒラメをも含めた言い方である。このほか「鰕魿」、「嘉列乙」、「嘉鰈」、「魪」、「鮙」、「鰜魚」などの漢字表記もある』。『カレイはフランス語ではリマンド(limande)』(リマァーン(ドゥ):「女性の胸が貧弱である/卑屈な態度をとる」が原義)『。英語では、カレイ、ヒラメ、シタビラメなどカレイ目の魚を "flatfish" と総称する。そのうち、カレイ、ヒラメは「flounder」』(フゥラウダァ)『と呼び、体の右側に目が寄っているカレイ科などの魚を、「righteye flounder」、ヒラメ科、ダルマガレイ科などの目が左側に寄っているものを「lefteye flounder」と呼ぶ。カレイ科のうち、オヒョウ類を特に「halibut」』(ハリバァット)『と呼ぶが、その区別はあいまいである。また、ウシノシタ科』(Cynoglossidae)『などに用いられる「sole」』(ソーォル:「靴の底」)『を名の一部に持つカレイ科の魚も少なくない』。『カレイ目には、カレイ科以外でも「〜カレイ」の名で呼ばれる種は多い。ヒラメ科のアラメガレイ、テンジクガレイ、メガレイ、ダルマガレイ科のダルマガレイ、トゲダルマガレイ、コウベダルマガレイ、ヤリガレイなど。これらはヒラメを参照。また、地方名ではウシノシタ科のクロウシノシタ』(イヌノシタ亜科タイワンシタビラメ属クロウシノシタ Paraplagusia japonica )『をスジガレイやニジリガレイなどと呼ぶ例もある』。以下、「主な種」の項であるが、本邦に棲息しない種はカットし、解説の一部も不要と見做したものはカットした。

   *

メイタガレイ(目痛鰈) Pleuronichthys lighti (Ridged-eye flounder)

30cm。北海道以南の日本沿岸、朝鮮半島沿岸、黄海、渤海、東シナ海。目の間に棘があり、「目痛」が語源とされる。関西では「本メイタ」と呼ばれ特に人気がある。

ナガレメイタガレイ(流目痛鰈) Pleuronichthys cornutus

メイタガレイに非常に似た外見を持つが、体が細目で、味はかなり落ちる。関西では「化けメイタ」と呼ばれる。

ヤナギムシガレイ(柳虫鰈) Glyptocephalus kitaharai (Willowy flounder)

30cm。北海道以南の日本沿岸、朝鮮半島沿岸、黄海、渤海、東シナ海。「若狭がれい」は若狭湾で獲れるヤナギムシガレイで、これを一夜干しにしたものが京都でよく食べられる「笹かれい」。以前はヤナギムシガレイ属(学名:Tanakius)に分類されていた。

ニシナメタガレイ Microstomus kitt (lemon sole)

北ヨーロッパの約200メートルの浅い岩礁に分布し、体長65cm、約3kgに成長する。

ババガレイ(婆鰈、別名:ナメタガレイ) Microstomus achne (Slime flounder)

60cmになる。中部日本沿岸以北、千島列島南部、樺太、日本海、黄海、渤海、東シナ海に分布。体表が、粘液を多く分泌するためぬるぬるしており、滑多鰈の呼び名がある。煮付など。東北、北陸の一部などでは、年越しにババガレイを食べるため、年末に市場価格が数倍に跳ね上がる。通年出回り大きな物は高価だが小さなものは安い。煮付け、塩焼き、干物にして非常に美味。

オヒョウ (大鮃) Hippoglossus stenolepis (Pacific halibut)

最大2.5m、350kgに達するカレイ科では最大の種。北太平洋に広く分布する。日本の東北地方以北、オホーツク海、ベーリング海、チュクチ海の南部、カリフォルニア半島からメキシコ沿岸まで。またハリバッド(halibut)という名前でも呼ばれておりゲームフィッシングのターゲットとされているらしい。

カラスガレイ (烏鰈) Reinhardtius hippoglossoides (Greenland halibut)

100cm以上。北部大西洋および北部太平洋の水深約200〜1,600 m (700〜5,200 ft)。底生魚。左目は成長と共に頭部右側に移動するが、カレイのように完全には移動せず、前方への視界も保持。表面は斑点のある褐色で、左側もやや薄い色だが白色ではない。カラスガレイ属は本種一種のみの単型属。

マツカワ (松川、松皮) Verasper moseri (Barfin flounder)

メスは、体長80cm、体重6kgになるものもある。太平洋北西部。日本の中北部沿岸(太平洋側、日本海側)からオホーツク海南部、樺太、千島列島まで。目のある側の鱗が大きくざらざらしており、松の樹皮のようであることから。背ビレと尻ビレに黒い縞状の紋が入る。水揚げ量が減少している。北海道では、えりも以西海域マツカワ資源回復計画を策定し種苗放流等に取り組んでいる。これに関連し、えりも以西栽培漁業振興推進協議会では、この海域で水揚げされる本種を「王鰈」と名付けた。また近年養殖も試みられている。

ホシガレイ (星鰈) Verasper variegatus (Spotted halibut)

60cm。太平洋北西部。日本中部、朝鮮半島沿岸、東シナ海まで。比較的暖かい海のカレイ。背ビレと尻ビレに黒い縞状の紋が入る。目のない側の表面、尾ビレの根元などに黒い斑点がある。水揚げ量が減少しており、珍重される。

ソウハチ(宗八) Cleisthenes pinetorum (Pointhead flounder)

太平洋北西部。日本中北部の近海。アカガレイ属に分類する説もある。

痛みが早いため鮮魚で出回ることはない。脂に独特の風味があり、干物に加工されることが多い。

アカガレイ (赤鰈) Hippoglossoides dubius (Flathead flounder)

45cmになる。太平洋北西部。オホーツク海、日本海などに分布。カムチャツカ半島から朝鮮半島、日本沿岸など。目のない側の体色が血がにじんだように赤みがかる。

ドロガレイ (泥鰈) Hippoglossoides robustus (Bering flounder)

30cmほど。北太平洋。北海道沿岸(オホーツク海)、アリューシャン列島、アラスカ付近まで。

アサバガレイ (浅羽鰈) Lepidopsetta mochigarei (Dusky sole)

40cmほど。太平洋北西部。オホーツク海南部から朝鮮半島、日本では本州北部以北の沿岸にかけて。マガレイ、マコガレイに似ている。

スナガレイ (砂鰈) Myzopsetta punctatissima (Sand flounder)

30cmほど。千島列島、オホーツク海南部から日本海北部(朝鮮半島、日本沿岸)にかけて分布。北海道、東北北部に水揚げされる。身が薄く、脂があまり乗らない。口が細長くとがっている。体高は高く体形が菱形。目のある側に砂粒のような細かい斑点がある。目のない側には背ビレ、尻ビレに沿って幅の広い黄色い帯がある。泳ぐ姿がまるで海底の砂を食べるように見えることからスナガレイの名称がついたという。また、カレイ類の中では最も価格が安い。

ヌマガレイ (沼鰈) Platichthys stellatus

30cm。カレイ科に属する数少ない眼が左側にある種。汽水域や淡水にも入ることがあるのでこの和名がついている。実際に、その名のとおり河川でも釣れる。

イシガレイ (石鰈) Platichthys bicoloratus (Stone flounder)

50cmほど。太平洋北西部。日本(北海道から九州西岸)、千島列島、樺太、朝鮮半島、中国、台湾。沿岸の海域。河川や湖沼などの汽水、淡水域まで侵入する。目のある側の背ビレ、尻ビレの根元に沿うように、骨片の突起が並ぶ。以前はイシガレイ属(学名:Kareius)に分類されていた。

マガレイ (真鰈) Pseudopleuronectes herzensteini (Littlemouth flounder)

最大50cmほどになる。他種より口が小さくとがっており、クチボソなどの別名がある。太平洋北西部。千島列島、樺太、沿海州から、黄海、渤海、朝鮮半島沿岸、日本沿岸、東シナ海中部まで分布。日本では北海道、本州沿岸、瀬戸内海など。水揚げ量が多い。

クロガレイ (黒鰈) Pseudopleuronectes obscurus

クロガシラガレイとよく似ており、区別せずに扱われることが多い。

クロガシラガレイ (黒頭鰈) Pseudopleuronectes schrenki (Cresthead flounder)

最大50cmほどになる。太平洋北西部。千島列島、オホーツク海南部から、日本の北部(北海道や青森県)の沿岸、日本海の朝鮮半島東岸まで。クロガシラとも呼ばれる。クロガレイとよく似ており、クロガレイと呼ばれることも多い。北海道では釣りの対象として人気が高い。

マコガレイ (真子鰈) Pseudopleuronectes yokohamae (Marbled flounder)

最大45cm程度。太平洋北西部。北海道南岸以南の日本沿岸、瀬戸内海、朝鮮半島沿岸、黄海、渤海、東シナ海北部まで。水揚げ量が多い。

「城下かれい」(しろしたかれい)はマコガレイの地方名で、大分県日出町沿岸で獲れるもののこと。特においしいとされ、高値で取引されるブランド魚である。

   *

以下、「利用」の項(一部をカットした)。『ほぼ全ての種が食用になり、日本では、刺身 (新鮮な物に限る)、寿司、煮付け、焼き物、揚げ物などさまざまな料理に用いられる。また、冬のカレイ、特に産卵前の時期のメスは大きな卵巣をもっており、子持ちガレイと呼ばれ、甘辛く煮付けたものが日本の冬の味覚として好まれる。干物、特に一夜干しもよく行われる。日本料理では多くの場合、魚の頭を左に配膳するのに対し、頭を右に配膳する珍しい魚でもある。中華料理では、唐揚げ、蒸し魚、煮魚などとして食べられている。またソウハチ、ババガレイの干物は数ある魚類の干物の中でも非常に美味である』。『京都市では福井県の若狭地方で水揚げされて一夜干しにされた笹かれいが、京都を代表する食材の一つとなっている』。『カレイは人気の高い食用魚であるが、寿命が長い分、成長が遅く、大きく育てるには長い年月が必要であるため、養殖に適しているとは言いがたい。そのため、出荷サイズまでの養殖はほとんど行われていないが、親魚から採取した卵を孵化させ、稚魚になるまで育ててから放流する試みが行われ、種類によっては一定の成果を得ている。特に市場価値の高いマツカワなどは2000年代から養殖も行われている』。以下、最後の「アレルギー」の項。『子持ちカレイに強いアレルギーをもつ人がいる。これはカレイの魚卵蛋白に由来する抗原によるアレルギーで、蕁麻疹やアナフィラキシーを起こす。この子持ちカレイのアレルギーは、牛肉や豚肉にも交差反応を起こすことが知られ、高い確率で牛肉や豚肉の摂取によってもアレルギー反応を起こす』。但し、『AB型やB型の血液型の人には』、『これらのアレルギー症状をもつ比率が極めて低いことが知られる。これらのアレルギーの原因は、過去にマダニ』(真蜱:節足動物門鋏角亜門クモ綱 Parasitiformes 上目ダニ目Acari/マダニ目 Ixodidaマダニ上科マダニ科 Ixodidae)『に噛まれたことにより、マダニの唾液腺に存在するgalactose-α-1, 3-galactose(以下α-gal)によって対象者の免疫が感作されたことが原因であると推測されている。なお、このα-galに対してアレルギー(α-galアレルギー)を持つ人は、上記の子持ちカレイや牛肉、豚肉の他、セツキシマブ』(Cetuximab:上皮成長因子受容体(Epidermal Growth Factor Receptor:EGFR)に結合して、その働きを阻害するモノクローナル抗体(monoclonal antibody/mAb/moAb:単一の抗体産生細胞をクローニングして作られた抗体))『にもアレルギーを呈する(セツキシマブの分子構造にα-galが存在するため)』とある。この最後のアレルギーは、私も迂闊にして、知らなかったのでオロロイた。私はB型であるが、子持ちカレイが好物である。発症したことはないので、安心した。

『「倭名鈔」には『王餘魚(わうよぎよ)』を『加禮比(かれひ)』と訓(くん)し』国立国会図書館デジタルコレクションの寛文七(一六六七)年板の「卷十九」の「鱗介部第三十」・「龍魚類第二百三十六」の当該部(右丁二行目以降)を視認して推定訓読する。

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王餘魚(かれい) 「朱厓記」に云はく、『南海に王餘魚(わうよぎよ)有り【和名「加良衣比(からいひ)」、俗に云ふ「加禮比」。】。昔、越王、鱠(なます)に作り、盡(つく)さず、餘(よ)、半(なかば)、水に棄(す)つ。因(より)て、半身(はんみ)を以(もつ)て、魚(うを)と爲(な)る。故(ゆゑ)、「王餘魚」と曰ふなり。』と。

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この「朱厓記」は、後に出るが、河原田氏は以上を受けて言ったもので、原本に当たったのではない。何故なら、これは中国で、古い時代について記された遠く昔に失われた逸書だからである。こういうやり口も、極めて、気に食わないね、河原田!

『「閩書」に『比目魚(ひもくぎよ)』とし』ここから後も、実は、人見必大の「本朝食鑑」の「卷十二」の末尾にある「中華異同」の「鰈」からの河原田の孫引きなのである!! 国立国会図書館デジタルコレクションの元禄一〇(一六九七)年板の当該画像を視認して推定訓読する。

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   鰈(かれひ)

鰈(かれひ)と比目(ひらめ)、本(もと)、同類なり。今(い)ま、本邦、二名を以つて、之を分(わか)つ。氣味・形色の異(い)、有り。李時珍、一物の者と爲すは、未だ、詳(つまびらか)ならず。「閩書南産志(びんじよなんざんし)」に曰はく、『鰈魦魚(てうせさぎよ)、漯沙(たふさ)と名づく。音(おん)は、撻(タツ)。魚、江(こう)に在り、行くこと、漯漯(たふたふ)[やぶちゃん注:「集まる」の形容。]たり。又、占沙(せんさ)と名づく。今、閩(びん)[やぶちゃん注:現在の福建省を中心とした地方。]・広(かう)[やぶちゃん注:現在の広東省地方。]、此の魚(うを)を以つて、比目(ひめ)と名づく。』と。比目、又、一魚(いちぎよ)なることを知らざるなり。按ずるに、比目、諸書、倶(とも)に『「比」は「並(ならぶ)」、魚、各(おのおの)、一目(いちもく)を相並(あひならび)て、行くなり。』と言ふ。是れ、未だ、解し得ず。細(こまか)に魚の形を視(み)れば、則ち、黒きを表(おもて)と爲(な)し、白きを裏と爲す。其の黒き𠙚(ところ)、頭中(とうちゆう)に兩眼(りやうがん)、有り。相並(あひなら)ぶこと、甚(はなは)だ、邇(ちか)し。然らば、則(すなはち)、他魚(たぎよ)の相並びて行くに非ざるなり。大抵、此の魚、名義(めいぎ)、多し。「上林賦(じやうりんふ)」の、之を『魼(きよ)』と謂ふ。『相胠(あひきよ)する』と、なり。「呉都賦」に、之を『魪(かい)』と謂ふ。『相介(あひたす)くるなり。段公路(だんこうろ)が「北戶錄」に、之を『鰜』、《音、》『兼』と謂ふなり。「臨海志」に『婢𥱰(ひし)』と名(なづ)く。「臨海風土記」は『奴屩(どきやう)』と名く。宋の沈懐遠(しんくわいゑん)が「南越志」に、『版魚(はんぎよ)』と名づく。房千里(ばうせんり)が「南方異物志」、『箬葉(じやくえふ)』と名づく。皆、『形(かたち)』に因(より)てなり。

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以上の引用に出る書籍は、総て、知っているものを除いて、作者・年代を総て確認した。全部が古い中国の書である。本来ならば、今まで通り、注するのだが、正直、河原田氏のやり口に、かなり、怒髪天を衝く思いをしているのだ! それに加えて、自宅の水道が洩れていることが三日前に発覚、イライラが波状的に続いている。そこで、流暢な注など、本当は出来ない状況にさえ、ある。されば、これで、お許しあれかし。なお、せめても、私の二〇二〇年に公開した「大和本草卷之十三 魚之下 比目魚(カレイ) (カレイ・ヒラメ・シタビラメ)」を参照して戴けると、多少はお慰めになろうかとも思う。

石蝶(いしかれい[やぶちゃん注:ママ。以下、多くあるが、ママ注記は附さない。])』といふ。六、七寸に過(すぎ)ず。形(かた)ち、尋常の小蝶(こかれい)に比(ひ)すれば、狹少(けうしよう[やぶちゃん注:ママ。「けふせう」が正しい。])にして、肉、薄く、卵(たまご)、腹(はら)に滿(み[やぶちゃん注:ママ。「みつ」の脱字。])るといへども、味(あじわ)ひ、佳(か)ならす[やぶちゃん注:ママ。濁点落ち。]。『藻蝶(もかれい)』、又、『霜月蝶(すもつきかれい)』といふ。形、略(ほ)ぼ、同じ表裏(おもてうら)、あり。鱗(うろこ)なきもの、號(なづ)けて『雌板蝶(《め》いたひらめ[やぶちゃん注:ママ。後注する。])』といふ。又、『片口蝶(かたくちかれい)』といふものあり。其(その)表裏(ひようり[やぶちゃん注:ママ。])、相反(あいはん[やぶちゃん注:ママ。])するものを『平目(ひらめ)』といふ。大なるもの、二、三尺許(ばかり)に至る。]

 

 此ものは、鱠(なます)、羹(あつもの)、煑食(にくひ)、炙食(あぶりぐひ)、蒲鉾(かまぼこ)等(とう)、種々(しゆじゆ)の割烹(りやうり[やぶちゃん注:意訓。])にも供せり。乾製に種々あり。蒸蝶(むしかれい)は若狹・越前等(とう)より出(いだ)すものを上好(じようかう[やぶちゃん注:ママ。])とす。其法、鮮蝶(なまかれい)、多子(たし)のもの[やぶちゃん注:多くの卵を持った個体。]を採りて、䀋水(しほみづ)を以て、之を、蒸(む)す。半熟ならしめて、取出(とりいだ)し、陰乾(かげほし)すること數月(すげつ)にて貯(たくわ[やぶちゃん注:ママ。])ふ。乾蝶ハ、尋常、乾脯(かんほ)にして、和泉(いづみ)・紀伊等(とう)の產を、著名とす。『木葉蝶(このはかれい)』は、長さ、寸餘の者を哺(ほ)[やぶちゃん注:ママ。「脯」の誤植。]となす。是れ和泉・紀伊・下總(しもうさ[やぶちゃん注:ママ。歴史的仮名遣は「しもふさ」。])等の珍品(ちんひん)なり。和泉より出(いだ)すものを、名を『岡田鰈(をかだかれい)』といふ。

[やぶちゃん注:「木葉蝶(このはかれい)」「デジタル大辞泉」の「このは‐がれい〔‐がれひ〕【木の葉×鰈】」に『1 メイタガレイの別名』、『2 小さなカレイを重ね合うように並べて干したもの。ささのはがれい。あしのはがれい。』とある。

「岡田鰈(をかだかれい)」「泉南市」及び「泉南市泉南市商工会」が作っている「泉南市観光ガイド 恋するせんなん」の「里外神社」(りげじんじゃ)に、『里外神社(りげじんじゃ)は、仁徳天皇(在位313-399年)の代に呉服(くれは)大明神を産土神として創立された社です。呉服大明神は、大阪池田市の呉服神社(くれはじんじゃ)に祀られている事でも知られている、呉の国から渡来し日本に機織(はたおり)技術を伝えたとされる織姫で、「機織」の守り神として崇敬されています』。『また、境内に残る王餘魚淵(かれいがぶち)には、後鳥羽上皇に献上した「岡田ガレイ」が飼育されていたといわれています。現在のご祭神は素戔嗚尊(スサノオのミコト)です』とあり、さらに「後鳥羽上皇の岡田ガレイ」に、『建仁元年(1201年)10月、後鳥羽院が熊野行幸の折、岡田カレイに興味をもたれたので、里外神社境内にある池で飼育していたカレイを捕らえ献上したところ大変喜ばれ、この淵を王餘魚淵(かれいがふち)と名づけられました。その後は行幸のたびに王餘魚淵で飼育したカレイを献上してもらうのが通例になったということです』とあった。里外神社は泉南市岡田のここにある(グーグル・マップ)。サイド・パネルの説明板の写真にも終わりの方に、記載がある。]

2026/08/15

姪っ子の可愛い娘の墓参り

不信心の我が家に、連れ合いの妹一家の名古屋の義父母の墓参りの写真が届いた。一所懸命の三歳の合掌――そして可愛い姿をお目に掛けよう。

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2026/08/14

河原田盛美著「淸國輸出日本水產圖說」正規表現版・オリジナル電子化注 下卷(九)乾魚並に䀋魚の說(その9) 乾鱈

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は、第一始動の記事、及び、「(一)鰑の說(その2)」の前注の太字部分を参照されたい。今回はここから。]

 

   乾鱈《ほしたら》

 

 鱈(たら)は古名『由支(ゆき)』にして、「新撰字鏡(しんせんじきよう[やぶちゃん注:ママ。])」に『𩺴』を『由支(ゆき)』と訓ず。「古名錄(こめいろく)」に『多樂(たら)』、『韓名(かんめう[やぶちゃん注:ママ。「かんめい」でよい。現代仮名遣「かんみょう」なら「かんみやう」。])、呑魚(どんきよ[やぶちゃん注:ママ。])』とす。『鱈』の字は、諸往來物(しよおうらいもの[やぶちゃん注:ママ])等(とう)の外(ほか)、古書に見へ[やぶちゃん注:ママ。]ず。漢名は『大口魚《だいこうぎよ》』といふ。北海(ほくかい)に產し、寒(かん)を喜(よろこん)で暖(だん)を喜ばす[やぶちゃん注:ママ。「ず」の誤植。]。味(あぢは)ひ、䀋(しほ)に宜(よろ)しくして、初め、之を採る。先つ[やぶちゃん注:ママ。「づ」の誤植。]、䀋を以(もつ)て、口腹(くちはら)に盈(みつ)る時は、久(ひさしく)して、腐(くさ)れず。偶々(たまたま)、些(すこし)の臭氣(しうき)あり、梢(やヽ)可(か)なり。又、微(すこし)、䀋(しほ)を以てするもの、『一(ひ)と䀋(しほ)』と名《なづ》けて、其(その)味(あじは[やぶちゃん注:ママ。])ひ、上品とす。多䀋(たゑん[やぶちゃん注:ママ。])のものを、下品(かひん)とす。生鮮(せいせん)のものは、淡白(たんぱく)にして、美味とす。亦(ま)た、新奇(しんき)を賞(しよう[やぶちゃん注:ママ。])す舊幕時代(きうばくじだい)には、奧羽の諸侯、之を朝貢(てうこう)せり。孟冬(もうとう[やぶちゃん注:ママ。「まうとう」が正しい。「孟」は初めの意で、「冬の初め・初冬」、また、「陰暦十月の異称」である。])、開爐茗會(ろひらきちやくわい)の際、京都・江戸、新奇を好み、或(あるひ)は歲旦(さいたん)、之(これ)を、昆布鱈(こんぶたら)、吸(すい)ものとし、冠昏大饗(かんこんだいけやう[やぶちゃん注:ママ。「かんこんだいきやう」が正しい。冠婚・宴会料理。])の餽(おく)りもの[やぶちゃん注:「餽」は訓「おくる」で原義は「祭(まつ)る・死者の霊に食物を供えてまつる」であるが、別に「食物や金品を贈る」の意を持つ。]とせり。之を『眞鱈(まだら)』といふ。一種、『介黨(すけとう[やぶちゃん注:ママ。歴史的仮名遣では「すけたう」が正しいが、ここでは、以下、現代仮名遣で述べている。])』と稱するもの、あり。形、小(ちいさ)きも、味(あじは)ひ、亦、佳(か)なり。朝鮮(てうせん)にて、是(これ)を『明大魚(めいたいぎよ)』といふ。乾製(かんせい)に二法(にはう)あり。胴(どう)を割(わ)り、淡乾(しらほし)するものを『棒鱈(ぼうたら)』といひ、胴を開きて䀋乾(しほほし)するものを『干鱈(ひだら)』といふ。『棒鱈』は眞鱈(まだら)に限れり。而(しか)して、此ものは、近年、淸國に輸出すること、逐年(ちくねん)[やぶちゃん注:「年々・毎年」の意。]に、多きを加へたり。十七年、橫濱輸出「棒だら」、二百萬斤、價(あたひ)拾萬圓、『すけと』、五萬斤、價千七百五十圓なり。又、「すけと[やぶちゃん注:ママ。「すけとう」。]」の一種に、九州にて「すけそう」といふもの、あり。明治十八年、脊割乾(せわりほし)となして、長崎港にて、淸人へ、百斤の價、五圓五十錢にて販賣せり。尤(もつと)も、北海道の「すけとう」と、九州の「すけそう」とは、少しく、異(こと)なれり。此魚は、對州(たいしう)[やぶちゃん注:対馬(つしま)。]にて『めぐだい』、朝鮮にて『明大魚(めいたいぎよ)』と稱せり。

[やぶちゃん注:これは広義には、

条鰭綱タラ目タラ亜目タラ科 Gadidae

に属するタラ類を指し、本邦では、

タラ科マダラ(真鱈)属マダラGadus macrocephalus

タラ属スケトウダラ(介党鱈・鯳) Gadus chalcogrammus

コマイ(氷下魚)属コマイ Eleginus gracilis

の三属三種が分布する。但し、狭義にはマダラを指す。しかし、この本文では、

スケトウダラがメイン

で語られている(漢名「介党鱈」は、ご覧の通り、歴史的仮名遣では「すけたうだら」となる)から、以下、ウィキの「スケトウダラ」を引用する(注記記号はカットした)。

『スケトウダラ』『は』、『スケソウダラ(介宗鱈・助惣鱈)とも呼ばれる。北太平洋に広く分布するタラの一種で、重要な漁業資源となっている。深海魚でもある』。『北太平洋に広く分布し、その範囲は日本海、宮城県以北の太平洋沿岸、オホーツク海、ベーリング海、カリフォルニア州沿岸までとなっている。しかし、広い範囲を回遊せず』、『比較的狭い範囲の群れを形成していると考えられている。なお』、『南方の海域で漁獲された事例としては、1984年(昭和59年)5月17日に千葉県館山市平砂浦の伊戸沖2 kmに設置された定置網で、スケトウダラ(体長約40 cm)数匹がマスノスケ』(鱒の介・𮫼:サケ亜科タイヘイヨウサケ属マスノスケ Oncorhynchus tschawytscha )『(体長115 cm、体重16 kg)やヒラマサ』(平政・平鰤:条鰭綱アジ目アジ科ブリ属ヒラマサ Seriola lalandi )、『ブリ』(鰤=異名:ハマチ・八町)アジ科ブリ属ブリ Seriola quinqueradiata )『などとともに漁獲されたという事例があるが、千葉県内水面水産試験場によれば、スケトウダラはアリューシャン方面で漁獲される魚であり、千葉県内の海で漁獲されることは』、『通常』、『考えられないという』。『産卵期以外は水深500 mまでの沿岸や大陸棚斜面の海底近くに生息する。最も多いのは水深300 m 前後。海水温が低下する産卵期には、浅場や海面近くに現れることもある』。『体長約70cm、最大で全長1m程度、体重1,400 gに達するが寿命は不明である。3歳以上で性成熟し、産卵期は海域によって異なり12月から翌年3月、分離沈性卵を産卵する。稚魚は春先の藍藻類の大増殖期の頃に孵化し、成長すると沖合の深い海域に移動する。年級と魚体の大きさの関係は、4歳 36cm 499g、5歳 41cm 525g、6歳 44cm 592g、7歳 47cm 660g』。『マダラ』(マダラ属マダラ Gadus macrocephalus 。最大で全長一・二メートル、体重二十三キログラム程に達する)『よりは小さい。背側の体色は褐色で、まだら模様が繋がった2本の縦帯模様がある。腹側は白色。タラ類に共通の特徴である、3基の背鰭と2基の臀鰭(しりびれ)をもつ。外見はマダラやコマイに似るが、スケトウダラは目が大きく、下顎が上顎より前に出ており、口ひげは』、『ほとんど目立たない』。『肉食性で、貝類、頭足類、甲殻類、小魚などいろいろな小動物を捕食する』。『産卵期のスケトウダラは、威嚇・攻撃行動時に800Hz以下の鳴音、求愛・産卵時に500Hz以下の鳴音を発する』。『日本付近の群れは』、『産卵場所と生育場所が異なる「日本海北部系群」「根室海峡」「オホーツク海南部」「太平洋系群」に分けられる』。『独立行政法人 水産総合研究センターの報告によれば、スケトウダラ太平洋系群の資源量は、1981年から2005年度までは約90万トン~130万トン程度の範囲で増減していたが、1993年度以降急減し2006年度以降も減少傾向が続き2010年度は、83万トン程度と推定されている。0歳魚の新規加入量の多かった年は、1981,1982,1991,1994,1995,2000であるが、1996年以降は』、『概ね』、『新規加入量/親魚の比率が低い値で推移している』。『日本周辺での漁獲量減少は、乱獲が指摘されているほか、対馬暖流の強勢や』、『水温の上昇による回遊経路の変化から産卵海域が縮小している可能性も報告されている』。『漁獲の対象となるのは2歳魚以上で、オホーツク海を中心として沿岸での底引き網や延縄などで漁獲されるが、TAC』(Total allowable catch)『制度(漁獲可能量制度)により海域毎に漁法と期間が規定されている。ロシアの排他的経済水域設定以前は、オホーツク海、樺太沿岸、北方四島周辺海域は好漁場でトロール船による漁獲量が多かった』。『1814年に』ドイツの動物学者・植物学者で、ロシアのサンクトペテルブルク科学アカデミーの教授であった『ペーター・ジーモン・パラスによって記載され、タラ属の一種としてGadus chalcogrammusの学名が与えられた。種小名 chalcogrammus は古代ギリシア語のχαλκός(真鍮)とγράμμα(線)の複合語で、体の模様に由来する。その後』、『1898年に本種のみを含むTheragra 属が設立された。Theragraは古代ギリシア語のθήρ(獣)とἄγρα(獲物)の複合語で、キタオットセイ』(哺乳綱ネコ目アシカ(海驢・葦鹿)科キタオットセイ(北膃肭臍)属キタオットセイ Callorhinus ursinus )『の主食となっていることに由来する。しかしmtDNA』(mitochondria deoxyribonucleic acid)『を用いた分子系統解析により』、『本種はタイセイヨウダラと近縁であることが示され、2008年には本種を再びタラ属に戻すことが提案された。FDA』(アメリカ食品医薬品局:Food and Drug Administration)『もこの提案を追認している』。『日本では』、『一般にスケソあるいはスケソウとも呼ばれ、その名の由来には諸説がある。佐渡について書かれた史料』「秉穗錄」(現代仮名遣で「へいすいろく」と読む。「秉」は、これ自体が「一本の稲穂を取り持つ」ことを意味する)。尾張藩に仕えた儒者岡田新川(しんせん)、号雲霞堂老人による考証随筆で、寛政一一(一七九九)年に成立。)『によれば、佐渡にはスケトウという魚があり、漢字で「佐渡」と書く、と記述されており、佐渡を名前の由来とした魚だという』(同書は私も所持しているが、国立国会図書館デジタルコレクションの『日本隨筆大成』巻十(昭和三(一九二八)年日本随筆大成刊行會刊)のこちらと、こちらで確認出来る)。『また』、スケトウダラ研究者(所持する末広恭雄「魚の博物事典」(講談社学術文庫・一九八九年刊)で確認した)『竹野肇の主張によれば、元々はスケソという名前であり、『助宗鱈』という字が当て字されたことに由来するという』。「大言海」『によれば、「鮭の鱈」が転訛して「スケタラ」となったのが』、『名前の由来とされる』国立国会図書館デジタルコレクションのここの「すけとだら」で確認出来るが、推定である)。『また、タラを漁獲するのには人手が必要であることから、漁に助っ人が必要なタラということで「助っ人ダラ」を由来とする説もあるが、この由来は「いささか穿った見方」だと指摘されている』(前掲書で確認した)。『地方によりさまざまな呼び名があり、新潟県でスケトウ・ナツトオダラ・ヨイダラ、富山県でキジダラ・キダラ・シラミダラ、島根県でスケドオなどと呼ばれるほか、中国語ではミンタイ(míngtài / 明太)/ ミンタイユィ(míngtàiyú / 明太魚)、朝鮮語ではミョンテ(명태 / 明太、myeongtae)、ロシア語ではミンターイ(минтай / mintaj / mintay)と呼ぶ。メンタイ・ミンタイという名称と「明太子(めんたいこ)」の名はここから来ている。また、2-3歳くらいの未成魚をピンスケ、ピンコ、それより小さいものをマゴスケ、くぎなどと呼び分けることもある』。『日本においては重要な水産資源である一方で、傷みが早いため』、『鮮魚として流通することは少なく、かまぼこを初めとする魚肉練り製品の主原料としての需要が多い。また、養殖魚の配合飼料のほか加工残渣は家畜類の飼料や肥料として利用される。冷凍技術が発達する以前は、鮮度が低下した魚は肥料として利用されていた。 加工用途以外ではフライやムニエル、乾物の棒鱈に多く利用される。脂肪が少ない身質で水っぽく生食には適さない。 また、スケトウダラの卵巣は比較的珍重されており、塩漬けにしたたらこや唐辛子を加えた辛子明太子が作られる。また、白子はタチと呼ばれ味噌汁等に利用されるが、マダラの白子に比べると味が劣るため価格は安い。 最近では、麺にも加工されている』。マクドナルドのサンドイッチ『フィレオフィッシュ』(Filet-O-Fish)『の材料としても多く利用されている』。『釣りの対象魚でもあり、餌にはイカや小魚が使用される』とある。

「新撰字鏡」は平安時代の漢和字書。全十二巻。僧の昌住(しょうじゅう)著とされるが、事績は不詳。昌泰年間(八九八年~九〇一年)に成立。漢字二万余字を偏・旁などによって百六十部に分け、字音・字義・和訓を付したもので、現存する最古の漢和字書である。一説に寛平四(八九二)年に三巻本が完成したとされるが、原本や写本は伝わっていない。その三巻本を元に増補した十二巻本が同年間に完成したとされ、写本が現存する。この十二巻本には約二万千字を収録する。当該部は、「国書データベース」のここの、右丁下段三行目で確認出来る。

『「古名錄(こめいろく)」に『多樂(たら)』、『韓名(かんめう)、呑魚(どんきよ[やぶちゃん注:ママ。])』とす。』「古名錄」江戸末期の本草学者・博物学者であった畔田翠山(くろだ すいざん/源伴存)が天保一四(一八四三)年に纏めた、本邦の植物・動物・魚介などの古名・方言・異名に関する大著。著者に関しては、私の『カテゴリ 畔田翠山「水族志」 創始 / (二四六) クラゲ 《リロード》』を見られたい。当該部は、国立国会図書館デジタルコレクションの『日本古典全集』 第五期(正宗敦夫編・日本古典全集刊行會・昭和一〇(一九三五)年刊)の同書の「卷第五十四」の「魚部 海魚類 上」のここの左丁「多樂(タラ)」以下を見よ。そこでは、その出典を「尺素往來」(せきそわうらい(せきそおうらい))とする。同書は、室町時代後期に一条兼良によって編纂されたと言われている往来物で、全二巻。この「往来物」とは、平安後期から明治初頭にかけて、主に往復書簡などの手紙類の形式をとって作成された初等教育用の教科書の総称である。直後で、河原田氏は、「『鱈』の字は、諸往來物(しよおうらいもの)等(とう)の外(ほか)、古書に見へず」と言っており、ということは、「鱈」(=広義のタラ類)という使用は、明治初頭以前には、一般的には使われていなかったらしいことが、判る。また、「韓名(かんめう)、『呑魚』とす。」というのは、出典を「東醫寶鑑」とする。これは、李氏朝鮮時代の医書で全二十三編二十五巻から成る医書で、作者は医師の許浚(きょしゅん/ホ・ジュン)の著。一六一三年に刊行され、「朝鮮第一の医書」として評価が高く、中国・日本を含め、広く流布した。探すのに往生したが、国立国会図書館デジタルコレクションの「続東医宝鑑」(笠原之也訳・一九七三年日韓経済新聞社刊)の「湯液篇㈡」の「八、魚部」のここで見つけた。標題の「夻魚」の「夻」は「吞(呑)」の異体字である。

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   一七、 夻魚

 性は平らで味は鹹、無毒である。補気には腸と脂が良い。(俗方)

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「漢名は『大口魚《だいこうぎよ》』といふ」私のサイト版「和漢三才圖會 卷第四十九 魚類 江海有鱗魚」の「たら 㕦魚」を見られたいが、そこで「魚の大口の者を㕦と云ふ。」に注して、私は『「廣漢和辭典」の「㕦」には、原義は「大声」とし、二番目の意味に「大きい口」として、明代の字書である「字彙」から『㕦、魚之大口者曰㕦』と引用する。』と書いた。

「開爐茗會(ろひらきちやくわい)」茶道に於ける大切な茶会で、冬になって初めて囲炉裏(いろり)又は茶事の炉(ろ)を開いて用いること。正式には、十月の終わりから十一月初めにかけて行事である。

「二百萬斤」百二十キログラム。

「五萬斤」三十トン。

『「すけと[やぶちゃん注:ママ。「すけとう」。]」の一種に、九州にて「すけそう」といふもの、あり。』九州というのは、怪しい。スケソウダラは、日本海側でも山口県以北が南の限界である。タラ科 Gadidaeのマダラとコマイもあり得ない。従って、これは、まったく別種の魚である。検索してみたところ、正体が判明した。これは、私も好物だが、市場への入荷量が少ないため、高級魚とされる、

条鰭綱ペルカ目Perciformes(目名は「パーチに似た魚類」の意で、旧カサゴ目、及び、旧トゲウオ目の一部が統合された二〇一六年に独立した極めて新しい目名である)アラ(𩺊・阿羅・敏魚)科アラ属アラ Niphon spinosus

である。サイト「日本の旬   魚のお話(秋の魚-20)」の「𩺊(あら)」の「地方名」の頭に、

   *

スケソウダラ(長崎)・・・・・・・・長崎で助宗タラが獲れるということで調査船まで出して調べたら、その正体はアラだったとわかった。

   *

とあった。なお、以下、「此魚は、對州(たいしう)にて『めぐだい』、朝鮮にて『明大魚(めいたいぎよ)』と稱せり。」というのは、訳が判らない。対馬でアラを「メグダイ」と呼んでいるという事実を、ネット上では確認出来ず、「明大魚」は、少なくとも現在の韓国では、スケソウダラを指すからである。

 

本邦北海(ほつかい)の『大口魚(たら)』漁塲(ぎよじやう)は、地球上、屈指の良塲(りやうじやう)にして、殊に、此ものヽ肝油(かんゆ)は、貴重の藥品となるものなれば、漁船を改良して、增益(ぞうゑき[やぶちゃん注:ママ。「ぞうえき」でよい。])せんことを、希望す。

 

2026/08/12

立原道造 詩集 優しき歌 Ⅰ 全篇 オリジナル分析注附き(★準備稿第6版)

《★以下は、「立原道造 詩集 優しき歌 Ⅰ 全篇 オリジナル分析注附き」の私の準備稿である。このプロジェクトは非常に時間が掛かるため、部分公開をすることとする。疑問・反論があられる方は、是非、お伝え下されたい。その内容に納得出来た場合は、書き直しをすることを、厭わないつもりである。以下の部分公開は、増補を行う都度、前のものを削除し、新たに起こすこととし、その際、既に示した内容でも、修正を加えて書き変えてあるので、必ず、再度、全体に目を通されんことを望む。

 

[やぶちゃん注:私は既にブログ・カテゴリ「立原道造」で、国立国会図書館デジタルコレクションの「立原道造全集 第一卷 詩集Ⅰ」(一九七一年角川書店刊)を用いて、「詩集 優しき歌 Ⅰ」の全篇を一篇ずつ、電子化し、オリジナル注を附したものを完遂している。総表題ページはここで『優しき歌 I 風信子叢書 第四篇』(下方の二つの附属表記は底本ではポイント落ち。「風信子」は「ヒアシンス」と読む。以下の冒頭の引用を参照されたい。)とあり、本篇はここからである。

 以下、第一回の「燕の歌」の冒頭注で、底本の「解説・編註」の一部を引用して述べた通り、本底本は――今までの全集とは異なる形で詩群が配置されている――ことが明記されており、しかも、★現在、流通している立川道造の詩集中の「優しき歌 Ⅰ」は、殆んどが、新字採用であり、しかも、本底本全集刊行以前の詩集の、全く異なった「優しき歌 Ⅰ」を以って読んで、鑑賞したきりの読者が、想像以上に多いと考えられるのである。私でさえ、本詩群が載る一九八八年岩波文庫刊「立原道造詩集」(杉浦明平編/現在は品切れ)を古本で入手したのは、二〇一五年の夏であったのである。

 されば、前にまず、ブログで「立原道造 詩集 優しき歌 Ⅰ / 全篇一括ベタ版・附;縦書版(PDF)」を公開した。その縦書版PDFこちらである。

 

 今回は、私なりに、道造が「優しき歌 Ⅰ」として全体をソリッドなものとして意図した「流れ」を、ある意味では、批判的に分析することになる。

 それは、既に、各篇を見てこられた読者も私と同じく、素朴に抱く根本的な疑問があるからである。簡単に言ってしまえば、

★この「優しき歌 Ⅰ」の十二篇からなる詩篇群は、

■巻頭を飾る「燕の歌」が創作されたのは、

昭和一〇(一九三五)年二月以前(「燕の歌」の初出は『四季』第五号(昭和十年三月号で、発行は同年二月二十日の発行)

であり、而して、

■終曲である「淺き春に寄せて」が創作されたのは、

昭和一二(一九三七)年二月以前(「淺き春に寄せて」の初出は『四季』第二十五号(昭和十二年三月号で、発行は同年二月二十日の発行)

で、

時間軸での創作時間は、実に、二年間に跨り、

しかも、以上の巻頭・終曲の初出が同じ詩誌『四季』であったのは、私には、たまたまであったと思われ、

その間にある十篇に至っては、発表されたのは、異なったバラバラな媒体だった

のである。

言うまでもないことだが、この二年間の間には、別な詩篇を、道造は、多数、創作している。いや! 何より大事なことは、

本「優しき歌 Ⅰ」としての叢書刊行の着想を道造が考えたのは、昭和十二年一月のこと推定されていること

である(以上に就いては、既に各篇の注で、底本全集の「解説」・「編註」を引用しつつ、詳細に記してある)。

 

 則ち、

この「優しき歌 Ⅰ」は、道造の生前に実際の原稿として十二篇を纏めて組まれたことはなかっただけではなく、角川書店昭和四六(一九七一)年六月二十日刊の『立原道造全集』の『第一卷 詩集Ⅰ』で初めて――道造の死から実に三十二年一月二十一日も経った後に――忽然と姿を現した十二の詩篇群であった

のである。

 

 思うに、

「優しき歌 Ⅰ」の構想をした道造は、その時点で、必ずや――全篇に亙って――細部に手を入れて変更を考えていたことは、火を見るより明らかである。

 と言っても、それを見ることは、何人(なんぴと)にも出来ぬのだ。

 

 私は以下、私の感性で、感じたことを注として語ることとするだけ、である。

 しかし、そこには、当然、致命的に

★二年もの間の時間経過に拠る道造の感性上の絶対矛盾が存在している

のであり、それを、

★私が道造を偏愛しているからといって、見て見ぬふりをすることは出来ない

ということである。

 なお、先の「ベタ版」のテクストを、そのまま使い、個別公開した際、字注として添えたものも、必要と感じる部分を検証の冒頭に再掲しておいた。

 

 

 優しき歌 Ⅰ 風信子叢書 第四篇

 

 

 燕の歌

    春來にけらし春よ春

     まだ白雪の積れども

           ――草枕

 

灰色に ひとりぼつちに 僕の夢にかかつてゐる

とほい村よ

あの頃 ぎぼうしゆとすげが暮れやすい花を咲き

山羊が啼いて 一日一日 過ぎてゐた

 

やさしい朝でいつぱいであつた――

お聞き 春の空の山なみに

お前の知らない雲が燒けてゐる 明るく そして消えながら

とほい村よ

 

僕はちつともかはらずに待つてゐる

あの頃も 今日も あの向うに

かうして僕とおなじやうに人はきつと待つてゐると

 

やがてお前の知らない夏の日がまた歸つて

僕は訪ねて行くだらう お前の夢へ 僕の軒へ

あのさびしい海を望みと夢は靑くてはてなかつたと 

 

 

 単体公開の注で既に述べた通り、最近、電子化注した「立原道造草稿詩篇 燕の歌(二) (恣意的に発表された正編正規版「燕の歌」を頭に添えた)」があり、それは、編註で、昭和一〇(一九三五)年の春の制作と想定しており、草稿詩篇では、『(二)』としている以上、この「燕の歌」の後に続篇として創作したものであるが、明らかに、この詩篇に比べて、ネガティヴさが、相対的に遙かに色濃いのである。以下に示す。

   *

 

  燕の歌(二)

 

朝をこえ 夜をこえ 望みをこえ

私はどこへ行くのだらう 海よ

私の羽根はもうくたびれた

海よ お前の掌は私を止らせてくれはしない

 

私はいつか信じてゐた 北の村には

昔の私が待つてゐると さうかしら

海よ お前は敎へてくれ きつと知つてゐるから

お前の身體が北の岸に觸れる村で

昔の私が私を待つてゐると 敎へてくれ

 

私の旅はもう長い 私の羽根はくたびれた

海よ お前は波立ち呟いてゐる

 

夜をこえ 望みをこえ 夢をこえ

私はどこへ行くのだらう 海よ

敎へてくれ 北の村で昔の私がやさしい朝と一しよに

私の着くのを待つてゐると敎へてくれ

お前は波立ち呟いてゐる それが私には

何だか不吉な裏切りを 海よ お前がしてゐるやうだ

 

私の羽根はもうくたびれた

私はどこへ行くのだらう 海よ

お前は大きく お前はむごく意地惡だ

 

   *

 私は、今回、この二篇を比較した際、微かに閃いたことは、

――『これは!⋯⋯フランス語の「半過去」と「複合過去」のニュアンス上の違いではなかろうか!?!――

ということであった。道造は、昭和七(一九三二)年八月二十八日(想定)附の堀辰雄宛書簡(底本全集の「第五卷 書翰」のここの「二二」。一高二年進級直後)で、立原は冒頭部で、『この夏は、たうとう東京でぼんやり過してしまひました、佛蘭西語などをすこしやつてみたりして、田舍へも行きたいと思ひましたけれど、結局どこへも行かずしまひでございました。頭のなかで、よい景色のことばかり考へて居りました。そいて、何だかそれが、僕に一番気に入る方法だと、新字ながら⋯⋯』と記しているように、独学で(彼は一高ではドイツ語を選んでいた)本篇を書いた凡そ二年半前から、フランス語を学び始めていた。

 ここで、フランス語の当該文法の違いを簡単に述べると(私は英語が嫌いだったので、大学ではフランス語を第一外国語にしていた)、

「半過去形」は、その行為や状態には終結点がなく、未完了の行為となる。

それに対して、

「複合過去形」では、継続的行為や反復的行為であっても、その期間・回数が閉じた時制として具体的であり、はっきりと完了すると判る行為となる。

 さて、以上の二篇を見てみよう。

 正統である知られた「燕の歌」は、

   *

 

  燕の歌

 

灰色に ひとりぼつちに 僕の夢に★かかつてゐる

とほい村よ

 

あの頃 ぎぼうしゆとすげが暮れやすい花を★咲き

山羊が啼いて 一日一日 ★過ぎてゐた

やさしい朝で★いつぱいであつた――

 

お聞き 春の空の山なみに

お前の知らない雲が燒けてゐる 明るく そして消え★ながら

とほい村よ

 

僕は★ちつともかはらずに待つてゐる

あの頃も 今日も あの向うに

かうして僕とおなじやうに人はきつと待つてゐる

 

やがてお前の知らない夏の日がまた歸つて

僕は訪ねて★行くだらう お前の夢へ 僕の軒へ

あのさびしい海を ★望みと夢は靑くてはてなかつた

 

   *

 ここで★と下線を引いた箇所は、

――詩を吟じている内心に於いて――「海」に仮託された「少女」との感情的体験は、過去としては――閉じていない――

のである。

 ところが、「燕の歌(二)」では、

   *

 

  燕の歌(二)

 

朝をこえ 夜をこえ 望みをこえ

私はどこへ行くのだらう 海よ

私の羽根は★もうくたびれた

海よ お前の掌は私を★止らせてくれはしない

 

私は★いつか信じてゐた 北の村には

昔の私が待つてゐると ★さうかしら

海よ お前は敎へてくれ きつと★知つてゐるから

お前の身體が北の岸に觸れる村で

昔の私が私を待つてゐると 敎へてくれ

 

私の旅は★もう長い 私の羽根は★くたびれた

海よ お前は波立ち呟いてゐる

 

夜をこえ 望みをこえ 夢をこえ

私はどこへ行くのだらう 海よ

敎へてくれ 北の村で★昔の私がやさしい朝と一しよに

私の着くのを待つてゐると敎へてくれ

お前は波立ち呟いてゐる ★それが私には

★何だか不吉な裏切りを 海よ お前がしてゐるやうだ

 

私の羽根はもう★くたびれた

私はどこへ行くのだらう 海よ

お前は大きく ★お前はむごく意地惡だ

 

   *

 ここで下線を引いた箇所は、明らかに、

――詩を吟じている内心に於いて――「海」に仮託された「少女」との感情的体験は――過去としては――殆どが――閉じてしまっている――

のである。

 いや! この「燕の歌(二)」を、道造が「燕の歌」とセットする確信犯を持っていたら、私は、「燕の歌 Ⅰ」は、以下、続いた詩群を後に組むことは、到底、あり得ない――出来ないもの――と断ずることが出来る。さればこそ、この「燕の歌(二)」は草稿としてのみ、残されたのである。

 そして、道造が、自身の比較的若き日の恋愛の思い出を、大学卒業を半年後に控え、また、新鋭詩人としての本格始動の一つの区切りとして――この――「優しき歌」の詩群(私は、この時点で、当初から、彼が、この詩群を「Ⅰ」として自覚し、後に「Ⅱ」を確信犯として企図していたかどうかは、微妙に留保するものである。それは、「覚書 Ⅱ」――底本の「第一卷 詩集Ⅰ」のここの左丁――には「Ⅰ」を打たず、また、前の右丁下の、現行では「優しき歌 Ⅱ」相当の「覚書Ⅱ」にも、「Ⅱ」は、打たれていないからである。だいたいからして、「Ⅰ」は「Ⅱ」の出版後に出現した――しかも、孰れも編者によるものである)を企画したと推理するものである。

 なお、ここで言っておくが、これ以降の詩篇もそうだが――と言うより――多くの道造の詩の実際の彼の恋愛経験を基盤に埋め込んだ作品群に於いて、その相手が、誰(たれ)それであると特定し、姓名を挙げ、恋愛事実と、その破綻を解剖する注や分析を行う意思は――全く――私には――ない。その方面から、詩や物語を分析する必要を一ミクロンも――感じないから――である。「しかし君は、芥川龍之介の作品群では、恐るべき数の、それを、子細にやってきたじゃないか?」と言われるであろうが、それは、龍之介が、本来の結婚したかった女性との結婚を親族に拒否されたことに始まり、既婚者となった後も、驚くべき数の複数の不倫をし、それが、龍之介の作品群執筆の動機・原因となっているケースが有意にあり、それを示さなければ、作品の深層を分析出来ないからであり、さらに、龍之介の精神をも蝕むところの、病跡学的なメスを加えるに際して、絶対的に必要であったからである。道造は、私は一種の双極性障害を抱えていたと考えているが、龍之介よりも、遙かに健全な精神を保持し続けていたのである。

 

 

   §   §   §

 

 

  うたふやうにゆつくりと⋯⋯

 

日なたには いつものやうに しづかな影が

こまかい模樣を編んでゐた 淡く しかしはつきりと

花びらと 枝と 梢と――何もかも⋯⋯

すべては そして かなしげに うつら うつらしてゐた 

 

私は待ちうけてゐた 一心に 私は

見つめてゐた 山の向うの また

山の向うの空をみたしてゐるきらきらする靑を

ながされて行く浮雲を 煙を⋯⋯

 

古い小川はまたうたつてゐた 小鳥も

たのしくさへづつてゐた きく人もゐないのに

風と風とはささやきかはしてゐた かすかな言葉を 

 

ああ 不思議な四月よ! 私は 心もはりさけるほど

待ちうけてゐた 私の日々を優しくするひとを

私は 見つめてゐた――風と 影とを⋯⋯

 

 

 一目瞭然、前の「燕の歌」との決定的な違いは、「燕の歌」が、まさに、プロローグ詩篇として、

ツバメが⋯⋯すぅーと⋯⋯遠い村を眺め⋯⋯暮れやすい花を咲かし⋯⋯山羊が啼いている軽井沢の野原を翔(と)び⋯⋯

音符のスラーのような春の空の山並みを掠めて⋯⋯夕焼けの中の遠景の村の遠景の色⋯⋯

と、水彩画で描き、次でブレイクして、

「僕はちつともかはらずに待つてゐる」「あの頃も 今日も あの向うに」「かうして僕とおなじやうに人はきつと待つてゐると」という確信犯の半過去の自己感懐の吐露をなした上で、「やがてお前の知らない夏の日がまた歸つて」「僕は訪ねて行くだらう お前の夢へ 僕の軒へ」「あのさびしい海を 望みと夢は靑くてはてなかつたと」という孤独な現在進行形の《閉じた時空間》に屹立しているのだ。

 「燕」は客観的な自然生物体のツバメではなく、「道造という孤独な燕」にメタモルフォーゼしようとしているのである。

 しかし、それを、道造は、読者に、その変容を気づかせないように――巧みに――フェイド・アウトさせているのである。

 さればこそ、この第二篇「うたふやうにゆつくりと⋯⋯」を、ここに配置することで、愛する永遠の女性像を最終第四聯を除いて、美事(私は「みごと」の漢字表記を国語教師であるのに――いや――国語教師である前に孤独な詩人面を確信犯として演じて――永く「見事」と書かずに、かく「美事」と書いてきた。何度か、男子生徒が「先生、『見事』の間違いではありませんか?」と注意しても、「僕は、こう書くことにしているんだ。」と応じて、ニヤッとしたものだった⋯⋯いや、これは、今も、私の個人的な拘りとして現に私の心の中で生きている私の絶対詩語言語なのである)に消し去って、「優しき歌」とするために――自分独りだけの半過去の詠唱にすり替えている――のである。

 物理的な事実が、それを証明する。

★「優しき歌 Ⅰ」のプロローグに置いた「燕の歌」の発表は、

『四季』第五号・昭和一〇(一九三五)年三月号(二月二十日刊)

であるのに対し、

★本「うたふやうにゆつくりと⋯⋯」の発表は、

『婦人畫報』第三百九十八号・昭和一二(一九三七)年四月号(同年四月一日刊)

で、実に――★二年一ヶ月十二日――も離れているのである。

恐らく、殆んどの読者は、本詩篇群が日の目を見た一九七一年当時だけではなく――本日只今にあっても――この事実を全く理解していないに違いないのである。

 そして、最終聯、

   *

ああ 不思議な四月よ! 私は 心もはりさけるほど

待ちうけてゐた 私の日々を優しくするひとを

私は 見つめてゐた――風と 影とを⋯⋯

   *

には、注意が肝要である。

本「優しき歌 Ⅰ」全十二篇の中で、初めて「優しい」という語(「やさしい」の語も含む)が使用された最初が、この二行目の「私の日々を優しくするひとを」のフレーズ中なのである。而して、実は、次の「優しい」は、「薊の花のすきな子に」パートの「Ⅱ 虹の輪」の第二聯の最終行「やさしい樹木のやうに腕をからませ おののいてゐた」であり、次は、同じ「薊の花のすきな子に」パートの次の「Ⅲ 窓下樂」の第二聯の最終行「とほい やさしい唄のやう!」で、その後は、ずっと後の「鳥啼くときに」の第一聯の最終行「なんと優しい笑ひ聲だ!」で、これで終りで、計四回である。

 但し、この物理的事実は、これと言って、問題するべきものではなく、《優しい》ニュアンスが、他の八篇にも感知されていれば、それで良く、それは、確かに、ある、と言える。道造は、無論、それを意識して、これら十二篇を選別したことは、明らかである。

しかし、そこは、時期を相応に隔てて、全く別個に詠んできた詩篇を、ある意味、無理矢理に「一緒くた」にしたことには、私は、かなりの問題があると感じているのである。

 而して、最終聯の、

   *

私は 心もはりさけるほど」「待ちうけてゐた 私の日々を優しくするひとを」

   *

の告解は、最早、特定の過去の複数の失恋相手誰(たれ)それなのではなく、

――架空の哀しい過去・現在・未来に於いて実現されない「私の日々を優しくするひと」を必死にイメージした産物――

であり、この「優しき歌 Ⅰ」全体に仕掛けられた

★「バッソ・コンティヌオ(Basso continuo)」=通奏低音となっている

と、私は信ずるものである。

 

 

   §   §   §

 

 

   薊の花のすきな子に

 

  Ⅰ 憩らひ

       ―― 薊の花のすきな子に――

 

風は 或るとき流れて行つた

繪のやうな うすい綠のなかを、

ひとつのたつたひとつの人の言葉を

はこんで行くと 人は誰でもうけとつた

 

ありがたうと ほほゑみながら。

開きかけた花のあひだに

色をかへない靑い空に

鐘の歌に溢れ 風は澄んでゐた、

 

気づかはしげな恥らひが、

そのまはりを かろい翼で

にほひながら 羽ばたいてゐた……

 

何もかも あやまちはなかつた

みな 獵人(かりうど)も盜人もゐなかつた

ひろい風と光の萬物の世界であつた。

 

 

[やぶちゃん注:この作品の初出は『コギト』第四十四号(昭和一一(一九三六)年一月号・一月一日刊)である。さても、ネットの個人評釈の中で、この添え題の中の『薊の花のすきな子』を、彼が勤めていた「石本(いしもと)建築事務所」【今回、「石本」の読みを確認するために、現在もある「石本建築事務所」公式サイトを訪ねた。そして、そこの「環境統合技術室」の『社会が変化しても「変わらない」想い』以下に、何んと! 道造の直筆原稿四葉から成る「建築衞⽣學と建築裝飾意匠に就ての⼩さい感想」が画像で示され、さらに字起こし(但し、現代仮名遣・新字である)もされているのを見て、驚愕した! 後の解説によれば、『本小論文は1936年(昭和11年)3月頃、立原道造が東京帝国大学建築学科2年次の終わり頃に書かれたものと言われています。』とあった。その年月日は――後に示す通り、ここまでの「優しき歌 Ⅰ」三篇の書かれた時期のど真ん中の時の原稿――なのである!! 是非、見られたい! 道造の当時の優しい読み易い筆致を見るだけでも至福たること、保証する!!! しかも! ★この原稿は角川版「立原道造全集」にはこの論考は載っていない★のである! 調べたところ、引用した通り、同全集の書簡の昭和十一年二月十八日附小場晴夫宛『二〇八』の末尾の方に(ここの左丁の下段一行目)『試驗が近くなると、目がまはりさう。試驗前に出す、演習の製圖があり論文があり、學校の製圖があり、衞生の論文があり』とある最後のものがそれである。同巻の「編註」を見ると、まさに、この「衞生の論文」について、『平山嵩助教授の「建築衞生」の提出論文のこと。』とある。】に働いていた水戸部(みとべ)アサイであろうか? とするものを見たが――

それは、物理的にあり得ない

のである。底本全集の「第六卷 雜纂」の「年譜」によれば、道造が同建築事務所に初出勤したのは、昭和十二年四月一日であり、同年譜では、昭和十四年四月の項に、『四月』『上旬、同じ事務タイピストをしていた水戸部アサイの姿が、少しづつ始める』(ここの五月の右丁下段五行目から)とあり、それ以降、急速に親密になっている(同左丁上段後ろから七行目以降、及び、同左丁下段の六月の項を見られたい)。但し、以降、道造が水戸部アサイを死に至るまで愛し続けたことは、明らかである。亡くなる記事の載る、ここの三月(右丁上段後半部。道造の逝去は三月二十九日午前二時二十分で、『肉身にもみとられずにひとり息を引きとった。享年、二十六歲(満二十四歳八か月)』とある。具体には、候補者は信濃追分で出会った親戚筋の少女横田ケイ子、同地で出逢った弁護士の令嬢関鮎子であろうかとは思う。しかし、クドいが、既に述べたように、詩篇に登場する詩人が愛した女性を特定することには、私は全く興味がないし、必要性もない――誰であるかというのは、彼の詩を解読する鍵とは――全く――ならない、と断言するものである。なお、敢えて、『立原道造「詩集 優しき歌」再起動版 詩集 優しき歌 Ⅰ  薊の花のすきな子に Ⅰ 憩らひ ――薊のすきな子に――』の私の注では、「薊の花のすきな子」の注に、引用で示してあるから、どうしても詮索が好きで、具体な彼が愛した女性が知りたい向きは、そちらを見られたい。

 因みに、「薊」の花の花言葉なんぞを意識したかどうかは、私には判らないが(私は「花言葉」には全く興味がない)、取り敢えず、サイト「GreenSnap STORE」の「【アザミの花言葉】怖い意味はないけど、色や種類で意味が違う?」から拾っておく。

『アザミの花言葉は「独立」「報復」「厳格」「触れないで」です』。『「独立」「報復」はスコットランドに伝わる伝説に由来します。「厳格」は動物を寄せ付けない雰囲気や、春から夏にかけて凜と咲くアザミの特徴が由来とされています。「触れないで」は、アザミの特徴である鋭いトゲが由来です』。『なお、アザミの花言葉に怖い意味はありません』。『アザミはさまざまな色の花を咲かせますが、それぞれにちがう花言葉がついています。ここでは4色のアザミについた花言葉をご紹介します』。『赤いアザミ』は『「権威」「報復」「復讐」』、『紫のアザミ』は『「厳格」「気品」「高貴」』、『白いアザミ』は『「ひとり立ち」「自立心」』、『青いアザミ』は『「安心」「満足」』、『赤いアザミの花言葉は「権威」「報復」「復讐」です。花以外にも葉や花の根元に鋭いトゲがついていることに由来すると考えられています』。『紫のアザミの花言葉は「厳格」「気品」「高貴」です。紫は古くから高位の人のみが身につけることを許されていた色です。紫のアザミにもどことなく高貴な印象があることにちなみ、これらの花言葉がついたと考えられています』。『白いアザミの花言葉は「ひとり立ち」「自立心」です。白は何色にも染まっていないピュアな色です。白だけでも十分に映えることにちなんで、これらの花言葉がついたのかも知れませんね』。『青いアザミの花言葉は「安心」「満足」です。一見、鋭いトゲがついていて近寄りがたい印象がありますが、側にアザミがいてくれれば、動物などを寄せ付けない安心感から、このような花言葉がついたのかも知れませんね。』とある。個人的には、アザミは好き💖 脱線だけど、寿司屋の「山牛蒡」は、モリアザミ(森薊)Cirsium dipsacolepis の根っこだ、って知ってましたか?

 

 さて。分析に入ろう。何より、

本詩は――徹頭徹尾――「複合過去」である

ことだ。この一篇は、表題と添え辞の優しさに反して――その詩の謳う心を語りながら、それは、

★既に終わってしまった魂の陰翳に全体のホリゾントはテッテ的に沈んでいる

のである。以下、ここまでの三篇の初出年月を再掲すると、

○「優しき歌 Ⅰ」のプロローグに置いた「燕の歌」の発表は、

『四季』第五号・昭和一〇(一九三五)年三月号(二月二十日刊)

○第二篇の「うたふやうにゆつくりと⋯⋯の発表は、

・『婦人畫報』第三百九十八号・昭和一二(一九三七)年四月号(同年四月一日刊

で、二年一ヶ月十二日も離れているが、

○第三篇の「薊の花のすきな子に」の「Ⅰ 憩らひ ―― 薊の花のすきな子に――」の発表は、

『コギト』第四十四号(昭和一一(一九三六)年一月号・一月一日刊

で、実は、

この詩篇は――★前の二篇の大まかには中間――但し、第一篇と第二篇のスパンが十ヶ月であるのに対し、第二篇と第三篇とは十五ヶ月も離れている――に当たる時期に創作されたもの★――

なのである。

※この物理的事実を知ると、以下のことが指摘出来る。

 ほぼ半過去の「燕の歌」の感懐は、このざっくりと複合過去による吟詠である「Ⅰ 憩らひ ――薊の花のすきな子に――」にあっては、実は、表題の醸し出しているように見える恋情は――完全に過去のものとして永遠の彼方の地平に暗く屹立してしまっている――のである。

※ところが、「優しき歌Ⅰ」を読む読者の殆んどは、第一篇から第二、第三篇と読み進んでくると――その違和感を感じ取ることが困難であろう――と私は踏む。

 而して――それは――まさしく――道造が「優しき歌Ⅰ」に仕掛けた巧妙なマジック――なのである!

 さらに言えば、添え題「薊の花のすきな子に」がそのマジックに大きな役割を添えている。即ち、通常の読者は、

「薊の花をすきな子に」を見た瞬間、一万人が一万人、誰もが、その「子」は、特定の人物であると自動的にインプレットしてしまう

からである。何度も言っているが

――この「子」は本「優しき歌 Ⅰ」にあっては特定の少女ではない

のである。無論、具体に薊を愛した誰彼がいたことは事実であるが、

――それが誰であるかということを詮索しても、何らの読解の重大な鑰(かぎ)とはならないから

である。「優しき歌 Ⅰ」にあっては、最早、

――あらゆる道造の愛した女性像の昇華してしまったミラージュ(mirage

なのである。

 この「Ⅰ 憩らひ ―― 薊の花のすきな子に――」が発表された『コギト』第四十四号(昭和一一(一九三六)年一月号・一月一日刊)から、四ヶ月後に発表された物語「ちひさき花の歌」(『未成年』第六号・昭一一(一九三六)年・五月号・五月一日刊)、八ヶ月後の物語「花散る里 FRAU R. KITA GEWIDMET」(『文藝懇話會』同年九月号・九月一日刊)にも――前者には『アンリエツト』=『鱵子』(さよりこ)が登場し、「Ⅵ」の終りで、『鱵子は、道のそばに咲いてゐた薊の花を摘みとると、手でくるくるまはしながら薊の花を摘みとると、手でくるくるまはしながら聞いてゐた。僕の頰はほてつてゐた。』と出ており(これは私は未電子化であるので、底本のものをリンクしておく。「ちひさき花の歌」の冒頭はここで、「Ⅳ」の当該部は、ここの左丁一~二行目)、後者では、第二パートの第二段落に『薊の花のすきな娘』が登場する(後者は、私がここで電子化している)。なお、この二篇の内、「ちいさき花の歌」は、作品内の記載から関鮎子がモデルであることが確実に判る。なお、関鮎子について知りたい方は、底本全集の「第六卷 雜纂」の年譜を読むのが最も判り易いと思われるので、昭和九(一九三一)年夏、軽井沢追分での初めての出逢いから、ここと、ここと、ここと、昭和一一(一九三六)年七月九日の最後の関鮎子との別離の最終記載までを、通して読まれたい。

 但し、以上の箇所には、二箇所、関鮎子でない女性の可能性があるものが含まれている。

 まず一つ目は、昭和一〇(一九三五)年十一月十月十二日の項の、ここの右丁下段後ろから五行目以下)『この日柴岡亥佐雄宛に書いた書簡に、「僕は不吉な恋をしてゐる。相手の人は Fiancé があるのだ、しかし僕らは愛しつくされない位互に愛しあつてゐる」と書いているのは、関鮎子、今井春枝のどちらのことか判然としない。鮎子は千葉市内の女学校を卒業後、当時は東京家政学院に通学していて、十一年春には結婚するはずの婚約者がいる身の上であったという』。『また春枝の方も、十一年八月には結婚しているので、当時すでに「Fiancé がある」という身の上だったかもしれない。ともあれ立原は、どのみち悲恋のコースをたどることを強いられてわけである。』とあるものである。

 さらに、ここの(右丁下段後ろから六行目から)、昭和一一(一九三六)年二月一日の項の、道造の同「第六卷 雜纂」の「いろいろなこと㈡」の「★不秩序の祭典」の終りの方の『その焚火の煙のなかに、よき人の姿』(☜)『を見ることの出來たのはうれしかつた。』を引いて『ここで「よき人の姿」と言っているのは、幻影のことなのか、実在の女性(関鮎子・横田ケイ子・今井春枝など)のことなのか、判然としない。』とあるのがそれである。なお、以上の関鮎子の引用リンクには、「鮎子」をポイントしてあるので、そこだけを手取り速く拾い読み出来るようにしておいた。ともかくも、道造の恋愛史を詩篇分析に導入してしまうと、とんだ迷路に迷い込むことは必定なのである。

 

 

   §   §   §

 

 

  Ⅱ 虹の輪

 

あたたかい香りがみちて 空から

花を播き散らす少女の天使の掌が

雲のやうにやはらかに 覗いてゐた

おまへは僕に凭れかかりうつとりとそれを眺めてゐた

 

夜が來ても 小鳥がうたひ 朝が來れば

叢に露の雫が光つて見えた――眞珠や

滑らかな小石や刃金の叢に ふたりは

やさしい樹木のやうに腕をからませ おののいてゐた

 

吹きすぎる風の ほほゑみに 撫でて行く

朝のしめつたその風の……さうして

一日(ひとひ)が明けて行つた 暮れて行つた

 

おまへの瞳は僕の瞳をうつし そのなかに

もつと遠くの深い空や晝でも見える星のちらつきが

こころよく こよない調べを奏でくりかへしてゐた

 

[やぶちゃん注:既に「注」・「字注」で示したものを冒頭に再掲しておく。

 第二聯三行目の「刃金」の「刃」は異体字で、「刅」の右側の「ヽ」を除去した「グリフウィキ」のこれであるが、表示出来ないので「刃」とした。「刅」なら表示出来るのだが、私は生理的に、この異体字が極めて嫌いであり、また、「刅金」を素直に「はがね」と一瞬には読めずに戸惑う若い読者のことを考えて、「刃」としたものである。

 第二聯四行目の「おののいて」は、ママである。但し、今回、底本全集を検索すると、他では、道造は正しく「をののく」を用いている箇所もあるので、完全な思い込みの慣用語ではなく、たまたま、初出原稿で誤った可能性もある。

 さて。この「Ⅱ 虹の輪」初出は『文藝汎論』(第六十号・昭和一一(一九三六)年八月号・八月一日刊)である。

 而して、ここまでの「優しき歌 Ⅰ」の四篇を、時間軸に合わせて並べ直すと、

「燕の歌」➤「Ⅰ 憩らひ ―― 薊の花のすきな子に――」➤「Ⅱ 虹の輪」➤「うたふやうにゆつくりと⋯⋯

となる。そして、年譜的事実に即すなら、

★最後の「うたふやうにゆつくりと⋯⋯」は明らかに関鮎子との恋愛の破綻の後となるのである。

 『立原道造「詩集 優しき歌」再起動版 詩集 優しき歌 I  薊の花のすきな子に Ⅱ 虹の輪』の注で、編註を引き、『初出副題は『夏への四つのプレリユウド』から」』であるが、その『副題の示す他の三篇は未詳である。』とあると示した後で、

   《引用開始》

 なお、この註にある未詳の「夏への四つのプレリユウド」は、一つの仮説に過ぎないが、これは、先行する「詩集 優しき歌 I  燕の歌」と、「詩集 優しき歌 I  うたふやうにゆつくりと⋯⋯」と、「詩集 優しき歌 I  薊の花のすきな子に I 憩らひ ――薊のすきな子に――」の三篇のそれぞれの初稿に、これを加えて纏めた初期構想詩篇である可能性が、一番、あり得るのではないか? とも思われる。心情的には、その四篇のみを並べて、電子化して見たい欲求が強く生じているのだが、これは証拠が一切ないから、涙を呑んで、やめる。

   《引用終了》

と述べた。ここでは、私の好き勝手にやらしてもらおう。そして、時間軸に従って、これを前に示した通りに作り替えて示す。

 

   *

 

   夏への四つのプレリユウド

 

  燕の歌

    春來にけらし春よ春

     まだ白雪の積れども

           ――草枕

 

灰色に ひとりぼつちに 僕の夢にかかつてゐる

とほい村よ

あの頃 ぎぼうしゆとすげが暮れやすい花を咲き

山羊が啼いて 一日一日 過ぎてゐた

 

やさしい朝でいつぱいであつた――

お聞き 春の空の山なみに

お前の知らない雲が燒けてゐる 明るく そして消えながら

とほい村よ

 

僕はちつともかはらずに待つてゐる

あの頃も 今日も あの向うに

かうして僕とおなじやうに人はきつと待つてゐると

 

やがてお前の知らない夏の日がまた歸つて

僕は訪ねて行くだらう お前の夢へ 僕の軒へ

あのさびしい海を望みと夢は靑くてはてなかつたと

 

 

   薊の花のすきな子に

 

  Ⅰ 憩らひ

     ―― 薊の花のすきな子に――

 

風は 或るとき流れて行つた

繪のやうな うすい綠のなかを、

ひとつのたつたひとつの人の言葉を

はこんで行くと 人は誰でもうけとつた

 

ありがたうと ほほゑみながら。

開きかけた花のあひだに

色をかへない靑い空に

鐘の歌に溢れ 風は澄んでゐた、

 

気づかはしげな恥らひが、

そのまはりを かろい翼で

にほひながら 羽ばたいてゐた……

 

何もかも あやまちはなかつた

みな 獵人(かりうど)も盜人もゐなかつた

ひろい風と光の萬物の世界であつた。

 

 

  Ⅱ 虹の輪

 

あたたかい香りがみちて 空から

花を播き散らす少女の天使の掌が

雲のやうにやはらかに 覗いてゐた

おまへは僕に凭れかかりうつとりとそれを眺めてゐた

 

夜が來ても 小鳥がうたひ 朝が來れば

叢に露の雫が光つて見えた――眞珠や

滑らかな小石や刃金の叢に ふたりは

やさしい樹木のやうに腕をからませ おののいてゐた

 

吹きすぎる風の ほほゑみに 撫でて行く

朝のしめつたその風の……さうして

一日(ひとひ)が明けて行つた 暮れて行つた

 

おまへの瞳は僕の瞳をうつし そのなかに

もつと遠くの深い空や晝でも見える星のちらつきが

こころよく こよない調べを奏でくりかへしてゐた

 

 

  うたふやうにゆつくりと⋯⋯

 

日なたには いつものやうに しづかな影が

こまかい模樣を編んでゐた 淡く しかしはつきりと

花びらと 枝と 梢と――何もかも⋯⋯

すべては そして かなしげに うつら うつらしてゐた 

 

私は待ちうけてゐた 一心に 私は

見つめてゐた 山の向うの また

山の向うの空をみたしてゐるきらきらする靑を

ながされて行く浮雲を 煙を⋯⋯

 

古い小川はまたうたつてゐた 小鳥も

たのしくさへづつてゐた きく人もゐないのに

風と風とはささやきかはしてゐた かすかな言葉を 

 

ああ 不思議な四月よ! 私は 心もはりさけるほど

待ちうけてゐた 私の日々を優しくするひとを

私は 見つめてゐた――風と 影とを⋯⋯

 

   *

 

こう並べると、第一篇が「半過去」であるのに対し、第二・三・四篇は纏まって「複合過去」となり、時制上の、ギクシャクした流れが綺麗に整序されるのである。

 しかも、「夏への四つのプレリユウド」である。

   ◆

 「燕の歌」では――「お聞き 春の空の山なみに」「お前の知らない雲が燒けてゐる」が――「やがてお前の知らない夏の日がまた歸つて」「僕は訪ねて行くだらう」「お前の夢へ」「僕の軒へ」「あのさびしい海を望みと夢は靑くてはてなかつたと」――と――「夏」と、夏の「海」を「前奏曲」の巻頭として予言する⋯⋯

   ◆

 「憩らひ」では――「風は 或るとき流れて行つた」、春の「繪のやうな うすい綠のなかを」、「ひとつのたつたひとつの人の言葉を」「はこんで行くと 人は誰でもうけとつた」「開きかけた花のあひだに」「色をかへない」夏を呼ぶ春の「靑い空に」「鐘の歌に溢れ 風は澄んでゐた」、「気づかはしげな恥らひが」、「そのまはりを」燕のような「かろい翼で」「にほひながら 羽ばたいてゐた……」「何もかも あやまちはなかつた」「みな 獵人(かりうど)も盜人もゐなかつた」春風駘蕩たる「ひろい風と光の萬物の世界であつた」⋯⋯

   ◆

 「虹の輪」では――「あたたかい香りがみちて 空から」「花を播き散らす少女の天使の掌が」「雲のやうにやはらかに 覗いてゐた」という春の空の下――「おまへは僕に凭れかかりうつとりとそれを眺めてゐた」――心地よい前奏曲を聴くように――「夜が來ても 小鳥がうたひ 朝が來れば」「叢に露の雫が光つて見えた」――しかし――「眞珠や」「滑らかな小石や刃金の叢に ふたりは」――そこに至福感と同時に――説明出来ない不吉な感じが――「やさしい樹木のやうに腕をからませ おののいてゐた」――それは――遂に必ずやってきてしまう――終わりへの慄(おのの)きだ――すっかり変容してしまう夏の到来に慄いているのだ――「吹きすぎる風の ほほゑみに 撫でて行く」「朝のしめつたその風の……さうして」「一日(ひとひ)が明けて行つた 暮れて行つた」――しかし、そこは――既に微妙に時空が変形した見たことのない夏へ向かって――である――だが、悲しいかな、「おまへの瞳は僕の瞳をうつし そのなかに」「もつと遠くの深い空や晝でも見える星のちらつきが」「こころよく こよない調べを奏でくりかへしてゐた」――のだった――永久に取り返しのつかないカタストロフへの通奏低音だ⋯⋯

   ◆

 「うたふやうにゆつくりと⋯⋯」では――「日なたには いつものやうに しづかな影が」「こまかい模樣を編んでゐた 淡く しかしはつきりと」「花びらと 枝と 梢と――何もかも⋯⋯」――「すべては そして かなしげに」――「うつら うつらしてゐた」――そんな中――一人称単独で――「私は待ちうけてゐた 一心に 私は」「見つめてゐた 山の向うの また」「山の向うの空をみたしてゐるきらきらする靑を」「ながされて行く浮雲を 煙を⋯⋯」呆然と眺めているばかり⋯⋯「古い小川はまたうたつてゐた 小鳥も」「たのしくさへづつてゐた」けれど⋯⋯「きく人もゐないのに」⋯⋯「風と風とはささやきかはしてゐた かすかな言葉を 」⋯⋯「ああ 不思議な四月よ! 私は 心もはりさけるほど」「待ちうけてゐた 私の日々を優しくするひとを」あの時「私は 見つめてゐた――風と 影とを⋯⋯」⋯⋯

   ◆

★この私が仮想した「夏への四つのプレリユウド」は、その総てが結果して――複合過去――なのだ!

★既にして――「私」は――「夏」にあって絶対の独りの存在であり、「優しくするひと」は永遠に「私」から去ってしまっているのである⋯⋯⋯⋯

 

 

   §   §   §

 

 

  Ⅲ 窓下樂

 

昨夜は 夜更けて

步いて 町をさまよつたが

ひとつの窓はとぢられて

あかりは僕からとほかつた 

 

いいや! あかりは僕のそばにゐた

ひとつの窓はとぢられて

かすかな寢息が眠つてゐた

とほい やさしい唄のやう! 

 

こつそりまねてその唄を僕はうたつた

それはたいへんまづかつた

昔の こはれた笛のやう! 

 

僕はあはてて逃げて行つた

あれはたしかにわるかつた

あかりは消えた どこへやら?

 

 

 表題「窓下樂」は、調べてみると、オーストリアのウィーン出身の世界的ヴァイオリニストのフリッツ・クライスラー(Fritz Kreisler 一八七五年~一九六二年)が、フランスの作曲家フランソワ・クープランの様式をもとに作曲した一九一一年のヴァイオリン曲“ Aubade Provençale ” :フランス語・音写「オーヴァード・プロヴァンサル」・逐語訳「プロヴァンスの朝の歌」)があるが、この曲は、日本語に訳された古い楽譜では「プロヴェンス人の窓下樂」と邦訳されていたことが、「CiNii」のここで、確認出来た。東京芸術大学 附属図書館蔵で、この出版社はセノオ音樂出版社、出版年は大正一五(一九二六)年二月発行である(この曲はYouTubeKochan's Channel氏の“"Aubade Provençale in the style of Couperin" by Fritz Kreisler”で視聴出来る)。その「窓下樂」は、また、国立国会図書館デジタルコレクションの「音樂と詩歌との境」(『音樂叢書』第四編/アムブロオス著・辻莊一訳・岩波書店大正一五(一九二六)年刊)のここに、『窓下樂 Ständchen』という下りがあった。しかし、このドイツ語、平凡社「世界大百科事典」の「セレナード Serenade // Serenatka[イタリア])」の解説の中に(コンマは読点に代えた)、『元来は、夕べに恋人の窓の下で歌う歌であるが、ここに含まれる〈夕方〉〈野外〉〈下から上にささげる〉といった意味から派生した各種の芸術音楽の総称となっている。〈夜曲〉〈小夜曲〉と訳されることがある。楽曲の形式を規定せずに演奏の方法や機会を指す名称であるため種類は非常に多いが、大きく次の三つに分けることができる。』『第1は、元来の〈夕べに男性が窓の下で恋人をたたえて歌う〉セレナードで、ルネサンス期のヨーロッパ全体に広まった習慣だった。曲は単純な民謡風のものからポリフォニックな重唱曲にまで及び、求愛する人物自身がリュート、ギター、マンドリンなどで伴奏する場合も多かった。18世紀以後モーツァルトらのオペラの一場面として,あるいはグノー、トスティらによって芸術歌曲として作曲された場合も、伴奏にはしばしばこれらの楽器か』、『楽器特有の音型が用いられる。また』、『このような歌曲を模したバイオリンやピアノの小品も作られている。19世紀ドイツではこの種のセレナードをシュテンチェン Ständchen といい、シューベルトの作品をはじめ』、『多くの歌曲・合唱曲がつくられた。』とあったので、こちらのドイツ語で「小夜曲(セレナーデ)」を意味する言葉と解説された方が、我々には(私には)、すんなり納得でき、また、道造は建築の関係上、ドイツ語を選んでいることから、この単語には、親しかったものと考えられる。因みに、私は、当初、見慣れぬ熟語で、読みに戸惑ったが、所持する昭和六一(一九八六)年改版三十版角川文庫刊中村真一郎編「立原道造詩集」のルビの『さうかがく』で適切と思われる。

 また、第一聯一行目の「昨夜」は、私は、嘗つて、うっかり「さくや」と読みかけたが、の「ゆふべ」が、確かに、しっくりくる。

 なお、第四聯一行目の「あはてて」は、底本の編註にはママ表記がないが、道造の誤り(慣用表現)であることが判明した。底本の全集を横断して調べたところ、彼は詩篇に限らず、書簡でも、しばしば「あわてて」を「あはてて」と誤記していることが横断検索で確認出来た。

 初出は『文藝汎論』第六十号の昭和一一(一九三六)年八月号(八月一日刊)である。ロケーションは軽井沢である(以下の「年譜」を見よ)。

 なお、底本全集の年譜を見ると、或いは、この詩作の字背と関係があるかも知れない、三人の女性についてのエピソードが確認出来るので、参考までに引用しておく。

『七月八日、上野を立ち、夜追分着。「僕にメエルヘンを贈[やぶちゃん注:ママ。「贈」。以下、数ヶ所に正字不全があるので、後は私がブレイクして挿入しておいた。]つてくれた少女(注・今井春枝)が、この月ずゑにHeriratenする。』[やぶちゃん注:ドイツ語で「結婚する」。]『追分に來るとき、その少女と偶然汽車でいつしよになり、雨の小半日を輕井澤ですごした(書簡、七月十一日・猪野謙二宛)。』[やぶちゃん注:同全集第五巻「二五〇」。]』『その夜は春枝も油屋に宿り、翌九日、彼女は帰京。「別れのときに、汽車の窓で、肌につけてゐた水晶のちひさな十字架を』贈『つてくれた。そして.一生涯もうお會ひすることも出來ないだらうと言つた。これが夏の出來事のプレリユードだつた。この少女と別れたやうにしてまた僕は鮎子さんとも別れねあなるまい。まだ、わがひとはここの村に』來『てゐない。そして僕がこの村に』來『てゐることを知らせるにもすぺがない」(書簡、前掲猪野宛)。春技が立原に水晶の十字架を贈ったのは、ジイド作「窄き門」のアリサの行為にならったものであろう。その日彼女は、小雨の中を追分まで立原に送ってもらうが、汽車に乗りそこない、タクシーで軽井沢まで汽車を追ったものの間にあわなかった。けっきょく一汽車遅らせて乗車の際、十字架を立原に渡した(「雨の小半日を』輕井澤『ですごした」とあるのは、この次の列車を待つ間のことをいったのであろう)。そうして彼女は翌八月四日に結婚している。さて立原は春枝との別離のあと、鮎子の出現をしきりに心待ちする。「僕がこの村に来てゐることを知らせるにもすべがない」とは、鮎子がすでに結婚していることを意味することばであろう。彼女はこの年の春に東大出の農学士の内田源太郎と結婚し、十五年一月元日、腸捻耘により二児を残して急逝した(享年二十三歳)。その夫君も、十八年四月に戦死している。』とある。今一人は、既に本記事で登場しており、以上の引用にも出た関鮎子で、七月『十二日』の記載の後に(ここの右丁一行最下部から)、『このころ、物語「かろやかな異ある風の歌」を書き始め、『また春枝との別れを主題とする物語「花散る里」』(これは私の電子化物がここにある)『を構想。同時に鮎子に捧げる幾つかのソネットを構想し』た、とある。実は、以上の春枝と鮎子の記載の間に、道造が「エルザベート」読んだ女性、「横田ケイ子」に就いての記載があるのだが(ここの左丁の下段の後ろから二行目)、既に表明しているように、私は道造の愛した実在の女性たちを詮索することは、全く興味がないので、調べる気は全くない。この横田ケイ子については、ネットで論文もあるので(一応、ダウンロードしたものを持ってはいるが、今のところ、読む気はないし、そんな余裕は、私には、ない)、ご自身で捜されたい。

 なお、既に述べたが、本「優しき歌 Ⅰ」の中で「優しい・やさしい」の単語が第三番めに使われている。第二聯最終行「とほい やさしい唄のやう!」である。

 

 分析に入る。

 まず、全体が複合過去相当であるが、詩を書いているのは、その翌日の設定であり、昨夜の実際の体験の体裁を採っている点で、今までの四篇の時制的複雑性のカラクリは、完全に後退してしまっている。しかも、詩篇は徹頭徹尾、「僕」の独白であり、象徴的な意味深長の「窓」は終始、「とぢられ」ているのであり、「かすかな寢息が眠つてゐ」るに過ぎず、「僕」もまた、独り、「夜更け」の「町」を「さまよ」っている彷徨の影法師でしかないのである。それを如何に「いいや! あかりは僕のそばにゐた」と謳歌しても、「とほい やさしい唄のやう! 」と謳っても、「かすかな寢息」が「とほい やさしい唄のやう!」と「こつそりまねてその唄を僕はうたつ」てセレナードを気取ってみても、「いいや! あかりは僕のそばにゐた」と断言しても、結局は、「それはたいへんまづかつた」ために、「昔の こはれた笛のやう!」と茶化したように叫び、「僕はあはてて逃げて行」くばかりで、「あれはたしかにわるかつた」と自己の不甲斐なさを感じざるを得ず、相手のいない「夜更け」の漆黒の中を疾走するのである! だからこそ、最終フレーズは「あかりは消えた どこへやら?」と投げ出したままに、「羅生門」のラストよろしく――『下人』ならざる「僕」『の行方は、誰も知らない』なのである!

(ブレイク注:個人的に私は同作のエンディングの「誰」を「たれ」と読まねばならないと考えている。そもそも同作では、芥川龍之介は「だれ」ではなく「たれ」と読みを振っていることから、しかして、突き放したコーダは絶対強調の「たれ」の以外にはあり得ないのである)

 更に言っておくと、私は、

★この第三聯の「それはたいへんまづかつた」「昔の こはれた笛のやう!」及び第四聯の「あかりは消えた どこへやら?」に対して『道造が表面上チャラかしてわざと言っているのだ!』と初読した際に強く感じた

のである。

 この詩は、初読者の中には、総表題「優しき歌 Ⅰ」、中標題のほんわかした「薊の花のすきな子に」に引かれて、夜の詩人の、ちょっとブラッキーを添えつつ、失恋のちょっとしたメンタル・ダウンを諧謔したものだろうと勘違いする者が、いるのではないか? と思っている。

 しかし、そんなもんじゃない!!!

 以下、「Ⅳ 薄明」と「Ⅴ 民謠    ――エリザのために」でこのパートは閉じるが、過ぎ去った失恋の回想を、さりげなくシャレてカッコよく

――この「Ⅲ 窓下樂」では特異的に、ちょいとコミックな演技をさせているかのようなミミックを導入している――

に組み立てただけの、安普請のセットを並べただけの、「しようがないよ⋯⋯」的の終曲では――これ、ない、のである!

 すなわち、

★この「Ⅲ 窓下樂」は――道造の恐ろしいまでの《自身の恋愛の致命的敗北》と――《絶対暗黒の孤独感懐》を巧妙に、コントで塗(まぶ)して「擬態」させたものである

と私は断言するものである。

 

 ここで、最後に、話を変える。

 このところ、私は、複数の私的なプロジェクトに関して、概ね、各種データの正確な収集のために、私の注釈について、時々、GoogleAIと親しくやり取りをやっているのだが、先日、なかなか進まない、この「Ⅲ 窓下樂」の初期分析稿の初っ端を読んで貰い、その評価を乞うたのだが、その返事は、概ね、恥ずかしくなるほどの過褒であった。

 が、そこで、彼が、この『「Ⅲ 窓下樂」の「草稿」』なるものと比較した内容が含まれていた。

 それを見て、正直、息が止まるほど、驚愕した。それは、私が、先に終えた「立原道造草稿詩篇」として、三ヶ月前の四月二日に電子化した一篇「(この闇のなかで⋯⋯)」であったからであった。

 しかし、これは、残念乍ら、物理的に「草稿」ではあり得ないものなのであった。既に述べたが、

☆本「窓下樂」は昭和一一(一九三六)年八月初出である

のに対し、「後記草稿詩篇」の全集の配列では、底本の堀內達夫氏の編註の前後によれば(ここここ)、

「(この闇のなかで⋯⋯)」は昭和一三(一九三八)年九月から十月初め(奇しくも道造が喀血して盛岡へ旅立つ直前から、療養生活へ入る時期に相当する)である

からである。もっとも、この間にある九篇については、堀內氏は、各個に草稿想定年月を記載していない。しかし、「前期草稿詩篇」「後期草稿詩篇」を編集された堀內氏は、原稿用紙の印刷元や紙質、道造が使用したインクの色の違い等を検証して、たった独りでその詩篇群を組み立てられておられるのである。従って、これらが、実は昭和一一(一九三六)年八月以前に書かれた草稿であったという可能性は、まず、あり得ないと断言してよいのである。なお、同「立原道造草稿詩篇」は時系列で電子化注しており、続けて認識しないと、この制作時期は直ぐには判らないので、AIが誤って「Ⅲ 窓下樂」の原作品「窓下樂」の草稿としたことは判らぬではない。

 しかし、以上をAIに伝えたところ、『一筋縄ではいかない立原道造という詩人の内的宇宙において、この「2年の時間差(逆行)」こそが、むしろ病跡学的・表現史的にとてつもない意味を持ってくるのではないでしょうか。』と返事があった。

 私も、実は、今――この草稿詩篇の数篇に対して――非常に強く――『「Ⅲ 窓下樂」の改変草稿ではないか?』と感じたのであった。

 そこで、以下、『対比するに価値あり』と私が判断した角川書店刊「立原道造全集 第一卷 詩集I」(一九七一年刊)の「後期草稿詩篇」の連続した四篇を、まず、示す。

 一つ目は、「立原道造草稿詩篇 僕は おまへに (添え題:「夜の歌」)」(以下、リンク先は総て私の記事)である(但し、そこでは、編者堀內氏の推理に基づいた可能性の状態の全篇を参考に、私が電子化したものを示してあるが、それは省略する。)。

   ※

 

  僕は おまへに

         夜の歌

 

僕は おまへに

何も ねがはなければ

何も 强ひはしない(――おまへはふたたびかへらないだらう)

そして 拒むことなく おまへを

去らせる 夜のなかへ なほとほく

 

つめたい雨が降つてゐるのを

僕は おまへに をしへよう

おまへが そこで そのやうに

ためらつてゐるのは 何であるかを

僕は とうに 知つてゐるのだ

 

おまへの大きな聲が

犬たちの吠えるのを叱りながら

きこえなくなるときに

やうやく 僕は ひとりになつて

僕の內の言葉に耳をすます

 

 

   ※

 次は「立原道造草稿詩篇  それが どういふことか (添え題:「夜の歌」)」である。

   ※

 

 

  それが どういふことか 

            夜の歌

 

それが どういふことか

僕は とうに 知つてゐるのだ

おろかしいこととも あるひは

ひどいこととも しかし それを

僕は ふせがうとはしない

 

窓の外で 風が 雨をかきみだす

その叫びが 僕の內からのやうに

僕に 語りかける――あれは いま

歩きなやんでゐる

倒れかかるやうに 光のとぼしい道を

步きなやんでゐると

 

ここはしづかだ 花やいだ

灯の下には紫の花が咲いてゐる

 

 

   ※

 次は「立原道造草稿詩篇  (昨日と今日とがいりまじる⋯⋯)」である。

   ※

 

 

  (昨日と今日とがいりまじる⋯⋯)

 

昨日と今日とがいりまじる

僕のなかの 深い淵に

萎えた僕のにくしみよ

身を投げるがいい 消えるがいい

 

おまへが眠れようが 眠れまいが

僕の知つたことではないのだ

この あはれな 恥も知らない魂よ

出て行くがいい くらい夜のなかへ

 

外に 秋は まだつづいてゐる

靑白くつめたい光が

虫たちをうたはせてゐる

 

だれが ここに 耐へてゐて

明日を待ちわびてゐる?

聞くすべもない 大きな 夜の歌

 

 

   ※

 最後は、「立原道造草稿詩篇  (この闇のなかで⋯⋯)」である。

   ※

 

 

  この闇のなかで

 

この闇のなかで 私に

うたへ と呼びかけるもの

この闇のなかで だれが

うたへ と呼びかけるのか

 

時はしづかだ 私らの

ちひさいささやきに耐へぬほど

時はみちてゐる 私らの

ひとつの聲で 溢れ出るほど

 

とほい涯のやうに闇が

私らを拒んでゐる つめたく

身體は 彫像のやうだ

 

しかし すでに この闇の底に

信じられない光が 信じられる

私らの聲を それは 待つてゐる!

 

 

   ※

 さて。この四篇は、前の二篇が、添え題として「夜の歌」を持ち、第三篇の最終第四聯の最終行が『聞くすべもない 大きな 夜の歌』で終わっている点で、同一の詩想下で、連続して創作された確信犯の――「夜の歌」群――であることは、誰も異義を挟まないであろう。

 而して、第四篇であるが、表題を「この闇のなかで」としてロケーションが「闇」で統一されている。第二聯を除いて「闇」が現前されている。第二聯はソネットとして、必然的変化を与えるために、「闇」を字背に暗示させるように、取り立ての係助詞「は」を使って――「時はしづかだ」「時はみちてゐる」――という「時」のみを用いたものであろう。しかし、この部分、単なる詩作上のレトリック(修辞学)ではない。

 これは、ただの「夜」の「闇」ではないのだ。

 作者だけに理解されている「闇」の中の「時」なのである。

 それは、永劫続く蒼褪めた物理的時間の「時」ではないのだ。

 作者だけに理解される固有の心理的な――「現存在」としての「時」――なのである。

 結果して、第二聯は

――私だけに理解される独自の「時」空間の――その彼の孤独な「闇」空間が――背後に読者に、何とかして、伝わって貰えるようにと、操作したもの――

と私は推理する。

 されば、この第四篇は、前の三篇の「闇の歌」群の「コーダ」に相当する終篇として私は〈聴く〉のである。

 そして、読者は、もう、お判りになるだろう。「優しき歌 Ⅰ  薊の花のすきな子に Ⅲ 窓下樂」が、殆んど、「夜」の「闇」の中のロケーションであることで、直に、この全四篇から成る「夜の歌」群と強い親和性を持っているのである。

 先走って、この道造としては、特異点である異様に徹底的にブラッキーな「夜の歌」群に私が感じた解釈を述べてしまった。以下、順に見てゆこう。

   *

 

  僕は おまへに

        夜の歌

 

僕は おまへに

何も ねがはなければ

何も 强ひはしない(――おまへはふたたびかへらないだらう)

そして 拒むことなく おまへを

去らせる 夜のなかへ なほとほく

 

つめたい雨が降つてゐるのを

僕は おまへに をしへよう

おまへが そこで そのやうに

ためらつてゐるのは 何であるかを

僕は とうに 知つてゐるのだ

 

おまへの大きな聲が

犬たちの吠えるのを叱りながら

きこえなくなるときに

やうやく 僕は ひとりになつて

僕の內の言葉に耳をすます

 

   *

 この第一詩篇には、見慣れた道造の持ち味であるロマンティクな雰囲気は、微塵もない。以下の四篇まで、それは、少なくとも第三篇まで、孤独な独白として対象者を突き放した状態で続いているのだ。第四篇のみ、第二聯以降の三聯には、「私ら」という対象者を含んだ表現に、唐突に(吃驚するほど、である)変容し、そこには、「私ら」の希望のように見える形で終わっている。これは、前の三篇の「闇」に塗り固めたそれに、私たちの知っている、彼の魅力と信じている優しさで、予感が響いては、いるように、一見、見える。それは、そこで検証するが、しかし、どうにも、その「闇」に苦しくなってしまった詩人道造が、やらかしてしまった「附けたし」のようにしか、私には、見えないのである。

 基(もとい)! この一篇で、道造は、愛する女たちに、敢然と、己れの最終宣告を言い放つのだ。

――「僕は」最早「おまへに」「何も」「ねがは」ない――「何も」「强ひ」ることも「しない」――いや、私が、そう言う前から、「おまへはふたたびかへらないだらう」ことを知っているのだ――「そして」全く「拒むことなく」「おまへを」「去らせ」せてやる――「夜のなかへ」「なほとほく」へだ――いや、途轍もない「つめたい雨が」既に「降つて」しまって「ゐるのを」、「僕は」何も判ってはいない「おまへに」冷徹に「をしへよう」――「おまへが」「そこで」「そのやうに」「ためらつてゐる」ような様子を、私に見せている「のは」、実際には、「何であるかを」、「僕は」まるで理解してないおまえとは違って「とうに」最早「知つてゐるのだ」――僕は思い出すのだ――「おまへの大きな聲が」「犬たちの吠えるのを叱りながら」「きこえなくなる」あの、ひと「とき」の情景の中「に」だ――そうして「やうやく」「僕は」「ひとりになつて」――「僕の內の言葉に」のみ「耳をすます」ことにする――

 

   *

 

  それが どういふことか

            夜の歌

 

それが どういふことか

僕は とうに 知つてゐるのだ

おろかしいこととも あるひは

ひどいこととも しかし それを

僕は ふせがうとはしない

 

窓の外で 風が 雨をかきみだす

その叫びが 僕の內からのやうに

僕に 語りかける――あれは いま

歩きなやんでゐる

倒れかかるやうに 光のとぼしい道を

步きなやんでゐると

 

ここはしづかだ 花やいだ

灯の下には紫の花が咲いてゐる

 

   *

 これは、もう、完全な――己れの最終宣告の「夜の歌」続篇――である。

――「それが どういふことか」なんてことは「僕は」「とう」の昔「に」「知つてゐるのだ」――僕と、お前の、「おろかしいこととも」「あるひは」「ひどいこととも」「しかし」「それを」「僕は」全く以って「ふせがう」(=防禦しよう)「とはしない」のだ――「窓の外で」「風が」「雨をかきみだす」――「その叫びが」「僕の內からのやうに」直(ちょく)に「僕に」「語りかける」のだ「――」「あれ」(=彼=道造)「は」「いま」「歩きなやんでゐる」のだ、と――「倒れかかるやうに」「光のとぼしい道を」「步きなやんでゐる」のだ――「と」僕に語りかけるのだ――「ここはしづかだ」――「花やいだ」「灯の下には紫の花が咲いてゐる」――僕は僕だけで十全に生きているのだ――

   *

 

  (昨日と今日とがいりまじる⋯⋯)

 

昨日と今日とがいりまじる

僕のなかの 深い淵に

萎えた僕のにくしみよ

身を投げるがいい 消えるがいい

 

おまへが眠れようが 眠れまいが

僕の知つたことではないのだ

この あはれな 恥も知らない魂よ

出て行くがいい くらい夜のなかへ

 

外に 秋は まだつづいてゐる

靑白くつめたい光が

虫たちをうたはせてゐる

 

だれが ここに 耐へてゐて

明日を待ちわびてゐる?

聞くすべもない 大きな 夜の歌

 

   *

 ここで道造は、さらに宣告に重要な――孤高の精神性へのメタモルフォーゼ――を加えてゆく。

――「昨日と今日とが」――即ち、物理的な直線上の立ち戻りしないはずの「昨日」と「今日」(「きのふ けふ」と読んでおく)が――絶対的であるはずの蒼褪めた無限遠の時空間が――変容を始めて「いりまじる」=「昨日」「今日」という区別が消失し、一つの永遠の複合体へと変容してしまったのだ――「僕のなかの」「深い淵に」――「萎」(な)「えた僕のにくしみよ」――今こそ「身を投げるがいい」「消えるがいい」――それが今の僕には瞬時に出来るんだ――が愛した「おまへ」たち「が眠れようが」「眠れまいが」、そんなことは――今や、「僕の知つたことではないのだ」よ――――「この」「あはれな」「恥も知らない魂よ」[これは、「この」と言う指示語から、表現上では、変容する前の「僕」=道造自身の魂を指していようが――それは末尾の「出て行くがいい」「くらい夜のなかへ」以下最後までの叙述で限定は出来る――しかし、考えてみれば、この決定的な時空間変容の中では、彼我(ひが)の違いも無化されるからして、「僕」と「おまへ」たちの区別もあり得ないのであるから、愛した女たち総体も含まれると読むべきであろう。]――「出て行くがいい」「くらい夜のなかへ」――「外に」「秋は」「まだつづいてゐる」「靑白くつめたい光が」「虫たちをうたはせてゐる」――いや、それはこの変容の中では、至極、当然なのだ――しかし、それは――私独りだけに判る感覚なのだ――いや! 一体、「だれが」「ここ」(=変容した特異な「僕」の時空間)「に」「耐へてゐて」、一体、誰が「明日を待ちわびてゐる?」――そんなことは、以外には――絶対に――感官することは不可能なのだ!――まさに「聞くすべもない」「大きな」「夜の歌」なのだ!!!

 この最後の「聞くすべもない」を解析するとなら、これは、文字通りの意味ではなく、

★変容した「僕」にとっては、それを「聞く」(=説明する)ための「すべ」(=くだらない「手段・行為」)を必要「もない」

の謂いであろう。即ち、「僕にとっては何らの判らないところのない当然のこと」の意だろう。謂い添えておくと、

★「僕」以外の存在とは――「愛した女たち」だけでなく――「この詩を読んでいる読者たち」さえも――理解不能なことだ――「僕」は言っているのだと私は思うのである。

 

   *

 

  この闇のなかで

 

この闇のなかで 私に

うたへ と呼びかけるもの

この闇のなかで だれが

うたへ と呼びかけるのか

 

時はしづかだ 私らの

ちひさいささやきに耐へぬほど

時はみちてゐる 私らの

ひとつの聲で 溢れ出るほど

 

とほい涯のやうに闇が

私らを拒んでゐる つめたく

身體は 彫像のやうだ

 

しかし すでに この闇の底に

信じられない光が 信じられる

私らの聲を それは 待つてゐる!

 

   *

 最終篇である。既に冒頭で指摘してしまったが、この篇は、明らかに、前の三篇のダークな突き放した折角の異様にダークにして強烈な哲学的認識が、私たちよく知っている道造の優しい希望を含んだ「闇の底に」「信じられない光が 信じられる」「私らの聲を それは 待つてゐる!」と全体が完全なフランスで言う「直説法現在」であり、今まで解説してきた「半過去」「複合過去」でさえない。されば、『前三篇の「夜の歌」群と外してしまって、分析した方がいいのではないか?』と思われる人が多いかも知れぬが、草稿篇の並びから物理的に、これだけが別個の草稿であるとは採れない以上、掲げておいた。

 思うに、道造には、前の三篇が、今まで過去に詠じてきたものと、激しく違ったものとなったことから、この一篇を書いて、永遠に「闇」に屹立してしまった自分を救助する必要があったものと推定される。

 しかし、この最終篇は、如何にも前の三篇を穢(けが)すものとしか採れない(私は私自身がそう強く感じる)。それは、一つのソリッドな「夜の歌」として、この第四篇でアウトである。それは、道造自身こそが、痛烈に感じたのである。さればこそ、この「夜の歌」は、お蔵入りとなったと考えられる。

 さて、私は、

★これらの「夜の歌」群は、後に「優しき歌 Ⅰ」を構想し出した以降、「薊の花のすきな子に Ⅲ 窓下樂」に相当する一篇(或いは複数篇)を、新たにしっくりくるものを道造は探しつつ、どうも見たらないので、新たに試作しようとしたのではなかったか?

と考えるものである。その可能性は十分にある。というより、そもそもが、私自身が強烈に違和感を感ずるところの、

既存の作詩だけで、ロケーションも、詠じた動機も、内容の登場人物や季節や自然が異なり、どれもがバラバラの感覚で詠じた、全然、異なったものを寄せ集めて、「優しき歌 Ⅰ」という題名で、十二篇のセット、しかも、その中を四パートに分割するというのは、所詮、無理な話

なのである! 私の、この分析は、

★そうした「優しき歌 Ⅰ」を批判する目的を主としている

と言ってもよいのである。

 

 

 

   §   §   §

 

 

 

  Ⅳ 薄明

 

音樂がよくきこえる

だれも聞いてゐないのに

ちひさなフーガが 花のあひだを

草の葉のあひだを 染めてながれる

 

窓をひらいて 窓にもたれればいい

土の上に影があるのを 眺めればいい

ああ 何もかも美しい! 私の身體の

外に 私を圍んで暖く香(かほり)よくにほふひと

 

私は ささやく おまへにまた一度

――はかなさよ ああ このひとときとともにとどまれ

うつろふものよ 美しさとともに滅びゆけ! 

 

やまない音樂のなかなのに

小鳥も果實(このみ)も高い空で眠り就き

影は長く 消えてしまふ――そして 別れる

 

 

 第二聯第四行のルビ「かほり」はママである。既に述べた通り、底本全集の横断検索でも、詩集・物語・雜纂に、この表記が散見されることから、道造の慣用誤記であることが判明している。初出は『文藝汎論」第六十六号昭和一二(一九三七)年二月号(二月一日刊)である。直前の「Ⅲ 窓下樂」は昭和一一(一九三六)年八月号(八月一日刊)であるから、七ヶ月後である。

 而して、この間、道造には、外的な大きな変化が起こっている。即ち、昭和十二年四月一日、石本建築事務所に初出勤しているのである。底本全集の年譜を見ると、『石本所長に愛され』、同僚の友人武基雄(後に多くの優れた建築作品を残した)も出来たが、翌日二日に書いた神保光太郞宛書簡(ここの「二八二」)に、『出發は決して祝福されてゐませんでした 貧しく みすぼらしく こともなげでした これをしも 祝福と今は僕は呼ばねばならないのせうか』と述懐しており、年譜には『繁華街でのオフィス勤めは、さすがに索漠として苦痛だったらしい』とある。

 一方で、七月一日には、三月以来、掲載が遅延していた物語「鮎の歌」が『文藝』七月号に発表され、四日頃には、処女詩集「萱草に寄す」が、やっと刊行されており(年譜のここ)、詩人としての自信を新たにしてもいた。本詩が発表された八月には、彼は『土曜日午後に上野を立って追分に行き、月曜の朝帰京して事務所に出るというようなことが以後しばしばくり返された』とある。八月二十九日(日曜日)軽井沢発信の武基雄宛の最後には『何の悔いもよろこびもなく、これが休らひといふのだろか。』と記している(ここの「413」)。

 本「薄明」が書かれた前後、こうした社会人と詩人の挟間で、道造は苦悶していたのである。そうした事実・心的相克を以って、この詩を読み直す必要があるのである。

 

 しかも、それは、既にして、第一聯に出現しているではないか!

 「フーガ」である!

 コントラプンクト(ドイツ語:Kontrapunkt:対位法)を主体とした楽曲形式フーガ(イタリア語:fuga:遁走曲・追走曲)が聴こえる――それは――まさに、この時の道造の抱えていたアンビバレンツ(ドイツ語:Ambivalenz:愛憎併存)を音楽なのである!

 それは、また――この時期以前に道造が経験してきた複数の女性に対する恋慕と破恋の繰り返し――をも、直ちに想起させるではないか!

 

 「だれも聞いてゐないのに」「よくきこえる」「ちひさなフーガ」は、道造の心の中の、対象者たちも、自分自身も、どうしようも出来ない絡みに絡んだ竹の根の如き、不可塑性のアンビバレンツの「音樂」である。

 それは薊の「花のあひだを」、「草の葉の」薊の「あひだを」、「染めてながれる」「フーガ」なのである。

 彼は心限りに求める――ただ「窓をひらいて 窓にもたれればいい」と――「土の上に影があるのを」ただ「眺めればいい」――ただそれだけで、「ああ 何もかも美しい!」と感じているのである――如何なる他者も――誰もが――「私の身體の」「外に」「私を圍んで暖く香(かほり)よくにほふひと」であれかし! と――一緒になって! 謳歌しようとする⋯⋯

 そうして「私は ささやく おまへにまた一度」「――はかなさよ ああ このひとときとともにとどまれ」!――「うつろふものよ 美しさとともに滅びゆけ!」と――高らかにともに叫ぼうとする⋯⋯

 しかし⋯⋯「やまない音樂のなかなのに」⋯⋯「小鳥も果實(このみ)も高い空で眠り就き」⋯⋯「影は長く 消えてしまふ」のだ!――誰も彼も!⋯⋯「――そして 別れる」⋯⋯⋯⋯と、凄絶なコーダで終わっている。

 

 私は、少なくとも、ここまでの「優しき歌 Ⅰ」の中で、この「Ⅳ 薄明」は、最もブルージィであり、「救い」を諦めた孤高に屹立している一篇として特異点である、と考えている。

 

 

 

   §   §   §

 

 

 

  Ⅴ 民謠

         ――エリザのために

 

絃(いと)は張られてゐるが もう

誰もがそれから調べを引き出さない

指を觸れると 老いたかなしみが

しづかに歸つて來た⋯⋯小さな歌の器(うつは)

 

或る日 甘い歌がやどつたその思ひ出に

人はときをりこれを手にとりあげる

弓が誘ふかろい響――それは奏でた

(おお ながいとほいながれるとき)

 

――昔(むかし)野(ばら)が咲いてゐた

野鳩が啼いてゐた⋯⋯あの頃⋯⋯

さうしてその歌が人の心にやすむと

 

時あつて やさしい調べが眼をさます

指を組みあはす 古びた唄のなかに

――水車よ 小川よ おまへは美しかつた

 

 

 既に単発テクストで述べた通り、昭和一〇(一九三五)年十月十四日号『帝國大學新聞』初出で、さらに、編註に拠れば、『初出は殆んどルビ付であるが、本編は山本書店版第一巻のルビのみを採用した』とある。これには、納得がゆく。当時の新聞類――但し、本公開は大学発行の新聞であるから、全く同列に並べてよいかどうかは、微妙ではあるけれど――では、概ね、発行先の記者が勝手にルビを振るのが、当たり前であったので(例えば、私のカテゴリ『夏目漱石「こゝろ」』で行なった「『東京朝日新聞』」の『夏目漱石作「心」』の掲載日をシンクロさせたものを見られたい。そこで、漱石は、勝手に誤ったルビを振ることに怒り心頭に発している箇所が、複数回、出てくるのである)旧全集の当該部(国立国会図書館デジタルコレクションの昭和一六(一九四一)年版のここ)のルビのみとしたのは至当であると言える。そもそも、道造は、一詩篇を全ルビすることは、ソネット形式に拘って後は、まず、そんな視覚的に五月蠅いルビを、全漢字に附すなどということは、逆立ちしても、あり得ないからである。

 さて、既に電子化した草稿詩『夏の旅』(ここ)には、添え題に『エリザの記念に』とある。これは、後に「SONATINE No.1」冒頭の「はじめてのものに」(これは私の古い電子化注で、底本が旧全集であることから、表記(リーダ数)に問題がある。それを修正していないことは、追加注で述べておいた)に結実するのであるが、そこで、諸氏の注を示した通り、道造が偏愛したドイツの抒情詩人テオドール・シュトルム作の小説「みずうみ」の女主人公であると、ほぼ断定されては、いる。

 しかし、前の「Ⅳ 薄明」の制作は昭和一二(一九三七)年二月一日発表であるのに対し、

★本篇は、それより――凡そ一年三ヶ月も前の詩篇――

なのである。即ち、この詩篇は「Ⅳ 薄明」よりも、ずっと前の感懐を詠んでいるのであり、読者の誰もが考える――道造が愛した実在の複数の女性たちの影を――否(いや)が応(おう)にも――想起せざる能わざる事態を惹起するのである。

 しかも、新全集の年譜の昭和十年の九月のパートを見ると(ここの左丁の九行目以降)、道造より二歳下の松竹少女歌劇団に所属して芸名を「北麗子」と名乗っていた今井春枝と、道造が邂逅し、道造が――実際に震えるほど――強く惹かれていることが、明らかに語られているのである。

 無論、再三述べた通り、私は、各個詩篇に登場する道造が愛した女性たちを、それぞれ特定することに興味を全く所持していないし、それを詮索する研究者の論文を読もうとは、殆んど、思わない人種なのである。しかし、私の読者の中には、『そこを無視して通らずに分析するというのは手抜きだろう。』と指弾する方もいることは、重々、理解してはいる。

 個人的には、敢えて、そう、もの言いされる方には、私が、道造が愛した女性たちを示して、しかも、フラットな形で提示されておられる、サイト「杉篁庵」主の「山小屋 ぱれっと 北軽井沢」の、「立原道造詩集」の中の「立原道造の生涯Ⅱ ―ゆうすげびとの抒情― 詩人の出発(帝大時代・卒業論文提出まで)」の中の、「十四行詩形の獲得」のパートを強くお薦めするものである。特に、どうしても、ご紹介したい箇所を引用させて戴く。

   《引用開始》

道造がエリザベートとか鮎子とかの名で呼んだ女性たちとのめぐり合いもこの追分でのことであった。全集年譜は「エリザヘエトはたまたま追分を訪れた柴岡の遠縁にあたるひと」「鮎子はおいわけの或る由緒ある宿屋の娘さんで、東京の学校から夏休みで帰ってきていた。」とある。(エリザヘエトは別荘の少女、横田ケイ子。「あの人はそのまま黄色なゆふすげの花となり」と歌った黄色い帯の少女は関鮎子。秋に恋心を抱いた少女は今井春枝という)。

 九月下旬、追分を去る頃このエリザベートとのめぐり合いをうたって「はじめてのものに」という十四行詩を書いた。これは「四季」十二号(十一月号)に発表され、やがて、これが詩集「萓草に寄す」の冒頭の詩となる。

   《引用終了》

この方の述べ方に、私が強い共感を感じるのは、私が考えている、

   *

――道造は、確かに、具体的な個々人の女性たちを、愛した。そして、実際の各個詩篇が、当初、詠まれた際には、それが特定の個人であったに相違ない。しかし、それらの感情は、後に総てが融合し、「賢者の石」(ラテン語: lapis philosophorum:ラピス・フィロソポルム)へと変成したのだ。――

   *

という認識と通底する、と思うからである。

 

 実は、特異的に、この「Ⅴ 民謠」についての分析は、凡そ一ヶ月の間、考えつつ、なかなか書けなかった。別な大きな仕事が後半に生じ、そちらにリキを入れてしまったためでもあるが、何より

――また⋯⋯「複合過去」べったりの「独り」の詩か⋯⋯――

というところが、少々、ガックりきたからである。ともかくも、以上で、「Ⅴ 民謠」の分析は終わる。後に、追記をするかも知れない。

和漢三才圖會卷第九十二之本 草類 山草類 上卷・萎蕤

 

Izui

 

[やぶちゃん注:上部の図に「倭」(日本産)、右下の図に引用書名「救荒本草」、左下の図に引用書名「三才圖會」とある。]

 

いずい  葳甤 萎䔟

     女萎 萎香

萎蕤  委萎  熒【音行】

     玉竹 地節

    【和名惠美久佐

     一云阿末奈】

 

本綱萎甤山中有之莖幹強直似竹箭簳有節其葉如竹

兩兩相値表白裏青三月開青花結圓實其根橫行似黃

精差小黃白色性柔多鬚最難燥嫩葉及根可煮淘食

氣味【甘平】 能升能降陽中陰也補中益氣止消渴潤心

 肺補五勞七傷虛損腰脚疼痛目痛眥爛淚出

 黃精萎甤二物功用大抵相近而萎甤之功更勝則二

 物雖通用亦可

△按萎甤河州金剛山之産良其莖帶紫色葉似竹而厚

 窄不對生而向上花如風鈴狀白色本末帶青結子

 

   *

 

いずい  葳甤《いずい》 萎䔟《いい》

     女萎《ぢよい》 萎香《いかう》

萎蕤  委萎《いい》  熒《けい》【音「行《カウ》」。】

     玉竹《ぎよくちく》 地節《ぢせつ》

    【和名、「惠美久佐《ゑみぐさ》」

     一《いつ》に云《い》ふ、「阿末奈《あまな》」。】

 

「本綱」に曰はく、『萎甤、山中に、之《これ》、有り。莖幹《けいかん/くき》、強直《がうちやく》にして、竹--簳《たけやがら》に似て、節《ふし》、有り。其≪の≫葉≪も≫、竹のごとし。兩兩《りやうりやう》[やぶちゃん注:二つずつ]、相《あひ》値《あた》ふ[やぶちゃん注:「二つずつ、向かい合っている。」の意。]。表《おもて》、白く、裏《うら》、青《あを》し。三月、青≪き≫花を開き、圓《まろ》き實《み》を結ぶ。其≪の≫根《ね》、橫行《わうかう》し、黃精《わうせい》に似て、差《や》や、小《ちいさ》く、黃白色《わうはくしよく》。性《せい》、柔《やはら》≪かにして≫鬚《ひげ》、多し。最《もつとも》、燥《かは》き難《がた》し。嫩葉《わかば》、及《および》、根《ね》、煮《に》≪て≫淘《すす》≪ぎ≫、食《く》≪ふ≫べし。』≪と≫。

『氣味【甘平】』『能《よく》、升《あが》り、能《よく》、降《くだ》≪る≫。陽中《やうちゆう》の陰《いん》なり。中《ちゆう》[やぶちゃん注:漢方で言う「脾胃」。]を補≪ひ≫、氣を益《えき》し、消渴《しやうけつ》[やぶちゃん注:口が渇き、小便が近い症状。糖尿病のこと。]を止《と》め、心肺を潤《うるほ》し、五勞七傷《ごらうしちしやう》、虛損、腰《こし》≪や≫脚《あし》≪の≫疼痛《とうつう》、目≪の≫痛《いた》≪み≫、眥《まなじり》≪の≫爛《ただれ》て淚《なみだ》≪の≫出《いづる》を補《ほ》す。』≪と≫。

『黃精《わうせい》・萎甤《いずい》≪の≫二物《にぶつ》の功用《こうよう》、大抵《たいてい》、相近《あひちかく》して、「萎甤の功、更《さら》に勝《まさ》≪れ≫り。」と云《いふ》時は[やぶちゃん注:「云」「時」は訓点にある。]、則《すなはち》、二物、通用《つうよう》すと雖《いへども》、亦《また》、可《か》なり。』≪と≫。

△按ずるに、萎甤、河州《かしう》[やぶちゃん注:河内の国。]、金剛山《こんがうさん/こんがうざん》の産、良し。其《その》莖《くき》、紫色《むらさきいろ》を帶≪び≫、葉、竹に似て、厚く窄(くぼ)く、對生《たいせい》せずして、上に向《むき》、花、風鈴《ふうりん》の狀《かたち》≪の≫ごとく、白色《はくしよく》にして、本《もと》≪と≫末《すゑ/さき》に、青(あを)みを帶《おび》、子《み》を結《むす》≪ぶ≫。

 

[やぶちゃん注:これは、日中ともに、

単子葉植物綱キジカクシ目キジカクシ科アマドコロ(甘野老)連アマドコロ属アマドコロ変種アマドコロPolygonatum odoratum var. pluriflorum

であり、変種に、

ヤマアマドコロ Polygonatum odoratum var. thunbergi

オオアマドコロ Polygonatum odoratum var. maximowiczii

がある。「維基百科」の同種では、「玉竹」とあり、別名として『萎蕤、尾参、地管子、铃铛菜』を挙げてある。そこでは、

玉竹 Polygonatum odoratum

とあるが、冒頭のアマドコロの広義のシノニムである。以下の二つの変種も、広義では、アマドコロに含まれる。当該ウィキに拠れば(注記記号はカットした。太字は私が附した。)、『日当たりのよい山野に生え、草丈50センチメートル前後で、長楕円形の葉を左右に互生する。春に、葉の付け根から』、壺『形の白い花を垂れ下げて咲かせる。食用や薬用にもなる』。『和名アマドコロは、根茎の見た目が』、『ヤマノイモ科』Dioscoreaceae『の』一群の『トコロ』類(ヤマノイモ属 Dioscorea )『に似ており、甘みがあることが由来になっている。「トコロ」の語源については』、『よくわかっていないが、ヤマノイモの仲間のオニドコロ』(鬼野老:Dioscorea tokoro:「トコロ」と言った場合に、しばしば、この種を指す場合がある。)『やハシリドコロ』(走野老:Scopolia japonica:有毒)『のように、多肉の地下茎をもつ植物を指す名に使われている』。『別名で、ジョウシュウアマドコロともよばれる。地方により、キツネノチョウチン、アマナ(甘菜)、イズイ、エミグサ、カラスユリ、キツネノマクラ、チョウチンバナ、ナルコ、ヘビスズラン、ヘビユリなどともよばれている。中国植物名は玉竹(ぎょくちく)』。『花言葉は、「元気を出して」「心の痛みがわかる人」である』。『ヨーロッパ・東アジアに分布する。日本では、北海道、本州、四国、九州にかけて分布する。原野、丘陵、山麓、尾根筋などに群生して見られ、日当たりのよい山野などの草原や、林縁、落葉樹の木陰などに自生する』。『栽培されることも多く、庭先や鉢植えなどで葉に斑入りの園芸種を見かける。栽培では、夏季は冷涼なところを好むことから、腐葉土で水はけをよくして半日陰の場所で育て、秋に根分けさせる』。『多年草。地下には横走する多肉質の地下茎があり、浅く横に長く這い、伸びた先に花茎を立てる。地下茎(根茎)は円柱形でところどころには節があり、節間は長く細いひげ根が生える』。『草丈は30 - 80センチメートルで、変種のオオアマドコロでは草丈1メートル、茎径1センチメートルにもなる。茎は地下茎の先端から毎年1本、毛筆を逆さにしたような芽を出して、少し斜めに立ち、4 - 6本の稜角(縦筋)があり、触ると』、『少し』、『角張った感じがする。少し』、『紫褐色を帯びるものもある。茎から枝を出すことはない。葉は互生し、葉身は』笹(単子葉植物綱イネ目イネ科タケ亜科に属する植物の中で、その茎に当たる「稈(かん)」を包んでいる葉鞘が枯れる時まで残るものの総称)『に似た楕円形から幅広い長楕円形で』、『両端が』、『やや尖り、普通の緑のものと』、『斑入』(ふい)『りの園芸種がある』。『花期は春から初夏(4 - 5月)ころ。各葉の付け根から1 - 2個の細い花柄を伸ばして、細長いつぼ型(鐘形)をした白色から』、『緑白色の花を垂れ下げてつける。花は長さは2センチメートル (cm) 6花被片が合体した筒状形で、合弁と花被の先に緑色の点がある』。『果実は液果で、径1センチメートルほどの球形をしていて、花と同様に茎に下向きに垂れ下がる。果実の色は、夏から秋に暗緑色から青黒く熟す。種子は、楕円形や卵球形で』、『大きめの』臍(へそ)『が目立ち、色は茶褐色をしている。種子は低温にあたることで休眠状態が打破されるため、一冬越すと翌春に芽生える。さらに、もう一冬を越さなければ、地上で葉を開いて生長することができない』。『初夏に花を下垂させて美しいことから、庭に植えて観賞用に栽培される。班入り葉の園芸種も作出されている。地方によってオオアマドコロやヤマアマドコロなど』、『さまざまな種類があり、若い茎葉や花は食用に、根茎は食用と薬用に利用される。なめらかな舌触りと、特有の甘味がある美味しい山菜として知られている』。『若芽、花、地下茎が食用になる。春の若芽や地下茎には甘みがあり、山菜として食用にされる。若芽は、筆の先のように膨らんでいるものを利用する。根茎は栄養価が高く、昔は凶作時の救荒食物として利用された』。『若芽の採取時期は、暖地で』三~五『月ごろ、寒冷地で』四~五『月が適期とされる。主に10センチメートルほどに伸びた若芽を地中部の白い部分から採取するか、10 - 20センチメートルほど伸びた芽を地上部で摘み取り、そのまま天ぷらにしたり、茹でてマヨネーズをつけて食べたり、和え物、おひたし、煮物、炒め物、汁の実などにする。花は初夏に摘み取って、軽く茹でて酢の物に利用したり、寒天寄せや花酒にもできる。若芽や花は灰汁が少なく、下ごしらえに軽く茹でて』、『冷水に冷やして使い、塩漬け、ぬか漬けにして保存できる』。『根茎は』、『一年中』、『利用できるが、特に晩秋(10月ごろ)が旬とされ、太った根を掘り取って』、『ひげ根を取り除き、砂糖と醤油で甘く煮て食べたり、天ぷらやフライにすると美味とされる。また、根を刻んで』、『天日で干してアマドコロ酒をつくる』。以下、「薬用」の項。『薬用部位となる根茎には配糖体のコンバラリン、粘液質のマンノースなどを含んでいる。マンノースには、胃や腸の粘膜を保護する作用や消炎作用があるほか、分解して体に吸収されると滋養になるといわれ』、「本草綱目」『でも滋養強壮、消炎薬として紹介されている』。『漢方では滋養強壮剤であるが、伝統的な漢方方剤では』、『あまり使われず、日本薬局方にも収録されていないが、かつては民間薬として利用された。地上部の茎葉が黄変して枯れはじめる10 - 11月ごろに地下茎を掘り上げて、ヒゲ根や茎を取り除いて水洗いし、きざんで』、『天日乾燥させたものを萎蕤(いずい)、漢方では玉竹(ぎょくちく)ともいう生薬である。かつて滋養強壮に用いられていたが、現在では』、『あまり使われていない。咳や疲労倦怠にも効果があるとされ、1日量5 - 10グラムを600 ㏄で30分ほど半量になるまで煎じ、3回に分けて服用される。また、根茎を漬けた薬用酒も作られる』。『打ち身、捻挫の薬として用いられることもあり、生の根茎をすり下ろしたものや、粉末または絞り汁は』、『食酢と小麦粉を加えて練り合わせて』、『ペースト状にしたものをガーゼや布に伸ばして、湿布として利用』する。『若い芽生えの時期に似ている植物に、ナルコユリ(キジカクシ科)、オオナルコユリ(同)、ユキザサ(同)、ホウチャクソウ(宝鐸草:単子葉植物綱ユリ目イヌサフラン科チゴユリ属ホウチャクソウ変品種ホウチャクソウ Disporum sessile f. var. sessile 『などがある』。『同属のナルコユリ』(鳴子百合: Polygonatum falcatum )『とよく似ているが、ナルコユリは』、『花のつけ根に緑色の突起があるのに対し、アマドコロでは花と花柄のつなぎ目が突起状にならないことで区別がつく。また、ナルコユリの茎は円柱形であるが、アマドコロの茎では角張っている。花の数は多く、ナルコユリの』方『は3個以上ずつ付くが、アマドコロは1 - 2個ずつ付けて垂れ下がる』。『ナルコユリやユキザサはアマドコロと同じように食べることができ、茎に陵がなく、草丈が60 - 100センチメートルになる点で区別できる』。『ホウチャクソウは若芽に有毒成分を含んでいる有毒植物である』当該ウィキに拠れば『全草有毒といわれているが、成分などは明らかにはなって』おらず、『若芽にアルカロイド成分を含む』とあった)。『若芽の見た目はアマドコロに似ているが、ホウチャクソウの根は毛根で、アマドコロには太い地下茎があるので区別できる。食用にはならず、地下茎がないこと、芽生えの葉の先に蕾が包まれていること、茎は枝を打つことなどの外見上の違いを見ることができる。また、ホウチャクソウは摘んだときに悪臭があるので、摘んだ時に臭いを確かめるのも大事だと言われている』とある。

☆ここで、冒頭の図のキャプションに就いて、注しておく。「救荒本草」は、明の太祖の第五子周定王朱橚(しゅしゅく 一三六一年~一四二五年)の撰になる本草書。飢饉の際の救荒食物として利用出来る植物を解説している。全二巻、一四〇六年刊で、収載品目は四百余種に及び、その形態を文章と図で示し、簡単な料理法を記しているが、画期的なのは、その総てを実際に園圃に植えて育て、実地に観察して描いている点である。植物図は他の本草書に比べても遙かに正確であり、明代に利用されていた薬草の実態を知る上で重要な文献とされる。「漢籍リポジトリ」の同書の「卷三」の「草部」の「葉可食【新增四十二種】 根可食【本草原有九種新増十五種】」の「萎蕤」(ガイド・ナンバー[003-43b])を転写しておく。

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萎蕤  本草一名女萎一名熒一名地節一名玉竹一名馬薰生太山山谷及舒州滁州均州今南陽府馬鞍山亦有苗高一二尺莖斑葉似竹葉濶短而肥厚葉尖處有黄㸃又似百合葉却頗窄小葉下結青子如椒粒大其根似黄精而小異節上有鬚味甘性平無毒

 救飢採根換水煮極熟食之

 治病文具本草草部條下

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さらに、一六三九年に出版された徐光啓の「農政全書」の「荒政」の部分は、実は「救荒本草」に徐光啓の附語を加筆したものである。この書は、私は、ブログ・カテゴリ『「大和本草」の水族の部』で親しんだ優れた書物で、享保元(一七一六)年版の訓点附きが、国立国会図書館デジタルコレクションで全巻視認出来る。なんと言っても、絵が素晴らしいのである。そこで、そこの部分(ここと、ここ)も、大盤振る舞いで、トリミングして以下に示す。修正はサイズ縮小以外は行っていない。十分、判読出来る。良安が選んだのは、右側の伸び上がった方の図を基にしている。

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Syuuhon1

 

Syuuhon2

 

   

「三才圖會」書誌説明は、いらんだろう。東京大学の「三才圖會データベース」(清刊本・槐蔭草堂藏板のもの。メイン・ページ「明代の図像資料」に同データベースにリンクがある)の「萎蕤」図説をダウンロードしたものをトリミングして(二図・図と解説。やや汚損があるので、図だけは軽く清拭した)、以下に示す。良安が選んだのは、左下の右の図である。

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Zui1

 

Izui2

 

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「竹--簳《たけやがら》」竹で出来た簳(やがら)。矢の幹(みき)を指し、鏃(やじり)と矢羽根を除いた部分。普通は雌竹(めだけ:単子葉植物綱イネ目イネ科タケ亜科メダケ属メダケ Pleioblastus Simonii )で作る。「篦(の)」・「矢篦(やの)」とも言う。同種は多年生常緑笹(ささ)であるが、葉(枝)が上部にしか出来ないこと、「芽溝(がこう)」と呼ばれる棹の窪みが、浅くて、太さが一定であることに拠る。

「黃精《わうせい》」前の「黃精」を見よ。

「五勞七傷」前の「黃精」で既注だが、再掲すると、東洋文庫後注に、『心労・肝労・脾勞・肺労・腎勞など、五臟のつかれによって、陰寒・陽萎・裏急・精漏・精少・精清・小便頻数などの症狀のでること。』とある。

「金剛山」同前だが、再掲する。奈良県御所市(ごせし)と大阪府南河内郡千早赤阪村(ちはやあかさかむら)との境目にある山。ここ(グーグル・マップ)。]

2026/08/11

河原田盛美著「淸國輸出日本水產圖說」正規表現版・オリジナル電子化注 下卷(九)乾魚並に䀋魚の說(その8) 乾きびなご

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は、第一始動の記事、及び、「(一)鰑の說(その2)」の前注の太字部分を参照されたい。今回はここから。]

 

      乾《ほし》きびなご

「きびなご」は、九州にて、俗に「𩸕(きびなご)」の字を用ふ。「大和本艸」に『「きびなご」は海魚なり。海鰛(いわし)に似て、同類なり。長さ三寸餘、四、五寸に滿たず。口は、海鰛より小さく、身は、少し、厚し。兩傍(りやうはう)に銀色の筋(すじ[やぶちゃん注:ママ。])あり。』とす。又、「水族志」に『「きびなご」ハ、海磯(うみいそ)の間(あいだ[やぶちゃん注:ママ。])に群(むれ)をなす。夏月(かげつ)、多し。』とあり。「海魚考《かいぎよかう》」に『「きひなご[やぶちゃん注:ママ。]」、艙條魚(さうでうぎよ)は淸人(せいひと)の呼ぶ所(ところ)、丁香魺(ていかうか)は「閩書」の名にて、又、藁乾(わらほし)の者を「閩書」に『丁香魺』といふ。』と、あり。此ものは、九州、及び、土佐の海に產する者にて、東國には、絕(たへ)て、之(これ)なく、肥前にて、一(いつ)に『可成(かなり)』とも、いひ、煑食(しやうしよく)・炙食(せきしよく)・鱠(なます)ともなして、佳味(かみ)なり。又、從來、煑乾(にほし)となして、內國用に販賣するものなるが、近年、白乾(しらほし)のものを、淸國に輸出し、四川地方(しせんちはう)の人、之を嗜好するに至るといへども、尙ほ、煑乾(にほし)に製するもの、十の八、九に居(を)れり。故に、從前(じうぜん[やぶちゃん注:ママ。「じゆうぜん」が正しい。])の煑乾製(にほしせい)を改めて、白乾製(しらほしせい)となすに至らば、將來、極めて販路の擴(ひろ)まるは、疑(うたがひ)なし。然(しか)るに、輸出額、僅少(きんしよう[やぶちゃん注:ママ。「きんせう」が正しい。])にして、稅關の調査の如きは、田作(たづくり)の中(うち)に混入し、往々(わほわほ[やぶちゃん注:ママ。「わうわう」が正しい。])、鯷(ひしこ)を乾したるものと同樣に、誤り混(こん)す[やぶちゃん注:ママ。「ず」]といへとも[やぶちゃん注:ママ。「ども」。]、全く、同じからず。

[やぶちゃん注:「きびなご」ニシン科キビナゴ亜科(或いはウルメイワシ亜科)キビナゴ属キビナゴ Spratelloides gracilis

である。同属種で、本邦に分布するものに、

リュウキュウキビナゴ Spratelloides atrofasciatus (旧名「バカジャコ」)

ミナミキビナゴ Spratelloides delicatulus (沖縄・インド洋・西太平洋熱帯域)

がいる。当該ウィキに拠れば(注記記号はカットした)、漢字表記は『黍女子、黍魚子、吉備女子、吉備奈仔、𩸕』で、『インド洋と西太平洋の熱帯・亜熱帯域に広く分布する小魚で、食用にされる』。『日本における地方名としてハマイワシ、ハマゴ、ハマゴイ(静岡県)、キミナゴ(三重県)、キビナ、カナギ(長崎県)、スルン(鹿児島県奄美大島)、スリ(沖永良部島)、スルル(沖縄県)などがある』。『中国語では「日本銀帶鯡」』である。『成魚は全長10センチメートルほど。体は前後に細長い円筒形で、頭部が小さく』、『口先は前方に尖る。体側に幅広い銀色の縦帯があり、その背中側に濃い青色の細い縦帯が隣接する。鱗は円鱗で、1縦列の鱗は39 - 44枚だが剥がれ易く、漁獲後にはほとんど脱落してしまう。海中にいるときは背中側が淡青色、腹側が白色だが、鱗が剥がれた状態では』、『体側の銀帯と露出した半透明の身が目につくようになる』。『以前はニシン科に分類され、ニシン科の分類上ではキビナゴ亜科やウルメイワシに近縁のウルメイワシ亜科とする見解もあった。学名の種小名" gracilis "は「薄い」「細い」などの意味があり、細長い体型に由来する』。『本州中部からポリネシア・メラネシア・オーストラリア北岸、西はアフリカ東岸まで、インド洋と西太平洋の熱帯・亜熱帯域に広く分布する。外洋に面した水のきれいな沿岸域を好み、大きな群れを作って回遊し海岸にもよく接近する。主に動物プランクトンを捕食する。一方、天敵はアジ、サバ、カツオ、ダツなどの大型肉食魚やアジサシ、カツオドリなどの海鳥類がいる』。『熱帯域では』、『ほぼ周年産卵するが、亜熱帯海域では』、『春から秋にかけての産卵期があり、たとえば西日本近海での産卵期は4 - 11月となる。産卵期には成魚が大群を作って沿岸の産卵場に押し寄せる。繁殖集団は潮の流れの速い海域に集まり、海底を泳ぎ回りながら』、『産卵を行う』。『ニシン目魚類は海中に浮遊する分離浮性卵を産卵するものが多いが、キビナゴは浅海の砂底に粘着性の沈性卵を産みつける。受精卵は砂粒に混じった状態で胚発生が進み、1週間ほどで孵化する。寿命は半年 - 1年ほどとみられる。西日本では夏 - 秋生まれのものが翌年の春に産卵、孵化した子供がその年の秋に産卵し、寿命を終えると考えられている』とし、以下に、加工品を含む五枚の画像があるが、それは、「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」の同種のページを見るに、及(しく)はない(「地方名・市場名」も必見)。私の亡き母は鹿児島出身であった。薩摩を訪ねると、必ず出た、皿に綺麗に円心上に並べられたキビナゴの美しさは、得も言われぬものであった。

『「大和本艸」に『「きびなご」は海魚なり。海鰛(いわし)に似て、同類なり。長さ三寸餘、四、五寸に滿たず。口は、海鰛より小さく、身は、少し、厚し。兩傍(りやうはう)に銀色の筋(すじ[やぶちゃん注:ママ。])あり。』とす。』私の「大和本草附錄巻之二 魚類 きびなご (キビナゴ)」を見られたい。

『「水族志」に『「きびなご」ハ、海磯(うみいそ)の間(あいだ[やぶちゃん注:ママ。])に群(むれ)をなす。夏月(かげつ)、多し。』とあり。』これは、独立項の記載ではなく、総論「イワシ」の中の『㋦キビナゴ』の記載であるので、注意が必要である。国立国会図書館デジタルコレクションのここから(左丁最終行から)が、後者である。因みに、前者の独立項は、ここである。

『「海魚考《かいぎよかう》」に『「きひなご[やぶちゃん注:ママ。]」、艙條魚(さうでうぎよ)は淸人(せいひと)の呼ぶ所(ところ)、丁香魺(ていかうか)は「閩書」の名にて、又、藁乾(わらほし)の者を「閩書」に『丁香魺』といふ。』と、あり。』「海魚考」は既注であるが、再掲すると、東洋文庫版の後注に、『饒田喩義著『海魚考』、文化四年(一八○七)自序。『天柱録』(楠本碩水〈写〉、一八九四)の識語によれば、饒田喩義(一七七一。-一八三三)は、桜井開斎に師事し、長崎聖廟の助教を務めた儒者。この二書のほか、『長崎名勝図絵』『西疇転筆学論』がある。』とある。ネットでは、テクストや画像は見当たらない。]

「鯷(ひしこ)」既注。カタクチイワシの異名。]

2026/08/10

碑文の判読・注釈・現代語訳畢る

碑文の判読・注釈・現代語訳畢(おわ)る。これは、依頼者のプライバシーに係わるので、公開はしない。A4で15ページの大枚になった。最後の最後になって、字の欠損のため、判らなかった識者を同定出来たのは、亡き人の霊の導きと感じた。久々に、いい仕事が出来た。

私をよく知らない方は、能力に胡散臭(うさんくさ)さを感じる方もおられるであろうから、一言言っておくと、私は、元は神奈川公立高等学校の国語教師で、他に図書館司書の資格を所持しており、こうした古い文書等を判読することは、一般の方よりは、慣れている。二十代の時には、八丈島出身の方から、幕末の手書きの百十数日に及ぶ漂流記の判読依頼を受け、一ヶ月掛って、手書きで訓読し、注も添えた。それを元に、後に国立公文書館館員に拠る最終校正を経て、書籍になっている。

さても――日常に戻る。

2026/08/04

河原田盛美著「淸國輸出日本水產圖說」正規表現版・オリジナル電子化注 下卷(九)乾魚並に䀋魚の說(その7) 乾玉筋魚

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は、第一始動の記事、及び、「(一)鰑の說(その2)」の前注の太字部分を参照されたい。今回はここから。]

 

   乾玉筋魚(ほしいかなご) 一名「ほしかなぎ」

 

玉筋魚(いかなご)は軟鰭類(なんぎるひ[やぶちゃん注:ママ。])に屬する海魚中(かいごぎよちう)の、一種、小(しよう)なるものにして、俗に『かますこ』又は『かまちこ』とも云ひ、筑前にて『いかなこ』、紀伊にて『しやしやらなご』、安藝にて『かますなこ』、又、『あぶらめ』、丹後宮津にて『いさなご』、北陸道、及び、攝津・尾張・三河・肥前の五島、及び、平戶等(とう)にて「少女子(かうなこ[やぶちゃん注:ママ。一般的に歴史的仮名遣では「こうなご」のママである。])」とも稱せり。但し、陸中・佐渡の海に多く產する「めらうど」は同種なれども、大にして、長さ八、九寸に成長せるものなり。

[やぶちゃん注:これは、本邦には、現行では、以下の三種が棲息する(以下は「北海道大学のLASBOS」の髙津哲也氏の「陸奥湾のイカナゴ属(Ammodytes sp.)の生活史」他を参照した)。

条鰭綱ベラ(倍良・遍羅)目 Labriformesイカナゴ(玉筋魚・鮊子)科イカナゴ属イカナゴ Ammodytes japonicus(瀬戸内海・伊勢湾・若狭湾・陸奥湾・三陸沿岸・北海道周辺)

オオイカナゴ Ammodytes heian(「大玉筋魚・大鮊子」:陸奥湾・三陸沿岸・北海道周辺)

キタイカナゴ Ammodytes hexapterus (「北玉筋魚・北鮊子」:北海道周辺の内、石狩湾・稚内周辺。但し、陸奥湾には棲息せず)

髙津氏の解説に拠れば、『2015年以前は「イカナゴ Ammodytes personatus」と表記されていましたが,DNA解析の結果,2種が混じっていたことがわかりました。DNA解析でのみ区別できます』。前二種と『キタイカナゴとの区別は,産卵期や背鰭軟条数で』、『おおよそは区別できますが,実際には外見からの区別はほとんど無理です。本種もDNA解析が望ましいです』。『2015年以降,A. personatusはベーリング海からカリフォルニア沖の太平洋沿岸に生息し,日本周辺には生息しないことになりました(Orr et al., 2015)』。『シワイカナゴ Hypoptychus dybowskii という紛らわしい名前の魚がいますが,この種はトゲウオ亜目Gasterosteoideiの仲間です。』とあった。その「シワウカナゴ」については、「小学館 日本大百科全書」に、漢字表記は『皺玉筋魚』とし、『硬骨魚綱トゲウオ目シワイカナゴ科に属する海水魚。相模』『湾以北の北日本、日本海の本州沿岸、北海道、オホーツク海に分布する。日本では北海道に多い。体形はイカナゴに似るが、背びれが後方にあって臀(しり)びれと対位すること、鱗(うろこ)がないこと、体の背中線と腹中線にしわがあること、体が黄色で半透明なのが特徴。全長9センチメートル。4~7月に水深2~3メートルのところで群れをつくり、1回に数十粒の卵をブドウ状の卵塊にして海藻に生みつける。雄は卵を保護する。10℃の海水温で1週間後に孵化(ふか)する。産卵期の雄は背びれと臀びれの前半部は暗色で、後半部は紅色。』とあった。

 以下、当該ウィキを引く(注記記号はカットした)。『イワシなどと並んで、沿岸海域における食物連鎖の底辺付近を支える重要な魚種である。日本においては食用とされ、釘煮(くぎ煮)、天ぷらなどに調理される』。『イカナゴには様々な地方名があり、稚魚は東日本で「コウナゴ、コオナゴ(小女子)」、西日本で「シンコ(新子)」と呼ばれる。毎日新聞ではイカナゴについて取り扱った記事で、東京本社版は「コウナゴ」、大阪本社版は「コウナゴ(イカナゴ)」「イカナゴ」と表記した例がある』。『また、成長した個体は北海道で「オオナゴ(大女子)」、東北地方で「メロウド(女郎人)」、西日本では「フルセ (古背)」「カマスゴ(加末須古)」「カナギ(金釘)」などと呼ばれる』。『イカナゴ科』Ammodytidae『は北半球の寒帯域から温帯域を中心に熱帯域まで、沿岸部に5属18種が分布する。沿岸の粒径0.5ミリメートルから2.0ミリメートル程度までの砂泥底に棲息し、主にプランクトンを食べる。産卵期は冬(12月)から翌年春(5月)で、寒冷な水域ほど遅い傾向が見られ、水深10メートルから30メートル付近の砂底に、粘着質の卵を産卵する。なお、北方系の魚であるため、温暖な水域では、夏季に砂に潜って夏眠(かみん)する』。『日本産イカナゴは移動性が小さく、各地に固有の系統群が存在している』。『1歳で体長10センチメートル程度まで成長し、成熟する。3年から4年で20センチメートル程度まで成長する。ただし瀬戸内海や伊勢湾では大きくても15センチメートルである』。『日本では沿岸漁業で漁獲される。集魚燈を用いた敷網漁や、定置網漁や、船曳網によって捕獲する。日本では生食や加工食品以外に、太刀魚、スズキ、メバル等の釣り餌や養殖用飼料としても利用される』。『しかし、乱獲や生息環境の悪化および海砂の採集による生育適地の破壊により、日本各地で漁獲量は激減した。特に、瀬戸内海のようなイカナゴが夏眠を行う水域において、イカナゴの夏眠に適した粒度分布の海砂が、ちょうどコンクリートの骨材に適していたため、その海砂が建設資材として大量に採取され、多くの漁場が壊滅的な被害を受けた』。『下水処理の普及、海水浴場の衛生維持を想定した水質規制により、河川から流れ込む栄養塩類の減少もイカナゴの資源量を減らす原因とみられる』。『このような状況を受けて、伊勢湾や瀬戸内海では、年ごとにイカナゴの生育度合いや推定資源量を調査し、その年の漁獲量を決定している。それだけでは資源量回復に不十分であるため、以下のように各地で禁漁が実施されている』。『青森県の陸奥湾での漁獲量は、1973年に1万トンを超えていたが、乱獲により1980年代には100トン以下に激減した。1990代後半に、漁獲量は一旦回復して1,000トンを超えたものの、その後は減少を続け、2012年には1トンまで減少した』。『漁獲量の減少傾向を受けて、青森県庁は2007年に「イカナゴ資源回復計画」を立案し、漁期短縮などを行い資源量の回復を目指した。しかし、資源量回復に失敗した。陸奥湾における2012年の親魚は、約1,000万尾程度と推定され、適正水準の3億尾を大きく下回っていた。そのため、2013年漁期から資源回復のために、陸奥湾での「集魚灯を使った漁や小型の定置網漁の全面禁漁」を決定した。ところが、2019年2月に陸奥湾湾口周辺海域で実施された調査では、稚仔が全く採集されなかった』。『伊勢湾と三河湾では2016年から禁漁が続いている(2024年時点)』。『伊勢湾では冬季に資源調査を行い、春のイカナゴの漁獲実施の際の漁獲量を判断している。前年末から2月にかけて行われる資源調査の結果、2016年以降は稚魚の捕獲数が著しく少なく、ゼロの年度もあるため、愛知県及び三重県で、イカナゴは禁漁の状態が続いている』(調べたところ、本二〇二六年も続行中のようである)。『大阪湾のイカナゴ漁は、2016年まで毎年1万トン以上の漁獲があったものの、2017年以降には極端な不漁に陥り、2019年1月の仔魚採集調査では1998年以降で最も少ない漁獲であった。実際の漁においても、2019年には漁業者が3日で漁を打ち切ったほど、漁獲量が僅少だった。これに対して、2019年の段階では淡路島以西の海域では、それなりの漁獲量は維持されていた』。

以下、「調理方法」の項。『釘煮』『→詳細は「釘煮」を参照』。『四国を除いた、播磨灘や大阪湾に面した瀬戸内海東部沿岸部で、イカナゴは釘煮と呼ばれる郷土料理で親しまれ、阪神地区、播磨地区では春先に、各家庭でイカナゴの幼魚を炊く光景が見られてきた』。『釘煮は佃煮の1種であり、水揚げされたイカナゴを、醤油やざらめ糖、千切りにしたショウガなどで味付けして煮込み、煮汁が減った段階で味醂を加えながら、焦がさぬように、煮汁が無くなるまで数回煮詰める事を繰り返す。この際に、箸などでかき混ぜると』、『身が崩れ、団子状に固まってしまうため、一切』、『かき混ぜない。炊き上がったイカナゴの幼魚は、茶色く曲がっており、その姿が錆びた釘に見えるため「釘煮」と呼ばれるようになったとする説が有力である。なお「くぎ煮」は、神戸市長田区の珍味メーカーである株式会社伍魚福(ごぎょふく)の登録商標である』。『ある種の風物詩として、また毎年3月末頃に、阪神地区、播磨地区の食料品店に、製品化された釘煮が山積みされてきた。また、この地域の土産物店でもイカナゴの釘煮は販売されており、ショウガ味以外に、サンショウ味、トウガラシ味の製品も見られる』。『常温で日持ちする釘煮は、郵送で親類・知人に送付することも多く行われており、郵便局だけでも年間100万件近く、釘煮が送付されている。これに着目し、明石市の郵便局の一部では、レターパックに収まるサイズのプラスチック容器の販売を行っている』。『神戸市の垂水区はイカナゴの釘煮発祥の地と呼ばれており、それを示す石碑が垂水区塩屋町に建てられた。ただし、これには異説も唱えられており、2013年10月2日には、神戸市長田区駒ケ林の駒林神社の大鳥居前に「いかなごのくぎ煮発祥の地」の石碑が建立され』てもいる。『一方で、同じ近畿地方でも、前述の地域を除く他の地域では』、『イカナゴの釘煮は、あまり食されない。顕著な例として、京都ではイカナゴの釘煮よりも』、『ちりめん山椒が主流であり、そもそも京都の住人などは、イカナゴ自体を下魚』(げざかな/げうお)『として嫌う傾向も散見される』。以下、「フルセの佃煮」にの項。『イカナゴの釘煮と類似の調理法だが、一般に釘煮はイカナゴの幼魚を調理したものであるのに対して、成魚であるフルセを佃煮に調理する地域も見られる。そのような地域としては、例えば、淡路島が挙げられる。フルセを調理した佃煮は、釘煮と明確に区別するため、釘煮とは呼ばず、そのまま「佃煮」の名称で扱われる』。以下、「ちりめん」の項。『水揚げされた体長2センチメートル程のイカナゴの幼魚は、鮮度が落ちないよう、水揚げ後にただちに釜揚げにされ、店頭に並ぶ。これを』『新子』(しんこ)『または』『新子ちりめん』『と呼ぶ。また、釜茹でした後に、乾燥させた場合はカナギ(小女子)ちりめんと呼ばれる』。以下、「カマスゴ」の項。『体長4 - 5センチメートル程度の大きさのイカナゴを釜茹でしたものはカマスゴと呼ばれ、そのまま酢醤油やからし酢味噌で食べる。この際に、1回炙ると香ばしさが出て』、『美味しくなるとされる』。以下、「いかなご醤油」の項。『→詳細は「いかなご醤油」を参照』。『香川県では、イカナゴを原材料とした魚醤である、いかなご醤油が見られる。かつては「しょっつる」および「いしる」と共に、日本三大魚醤と呼ばれたものの、1950年代に製造が途絶えた。しかし、その後、少量ながら』、『復活生産されるようになった』。「その他」として『東北地方では成魚を調理する方が一般的で、干物にされることもあるが、総じて安価に売られている。』とある。

『一名「ほしかなぎ」』「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」の同種のページに拠れば、「カナギ」という異名は『福岡県福岡市』採取とある。同ページは、以上のウィキの記載よりも、遙かに勘所を押さえた解説があり、さらに異名については、実に、二十五種が挙げられてあるので、見られたい。特に、イカナゴを加工した食品群は画像が附されており、解説と相俟って誠に理解し易い。ここでは、「漢字・学名由来」の項を引用させて戴くこととした。

   《引用開始》

漢字 玉筋魚、如何子、以加奈古、鮊 Ikanago

由来・語源

〈東京ではコウナゴと云ひ、六月上総から来るものはコウナゴカマスと云い、佃煮ではカマスジャコとして賣っている。九州北部、山口縣ではカナギ、関西でイカナゴと云い、大阪や神戸で本種の幼魚をカマスゴと云う〉『図説有用魚類千種 正続』(田中茂穂・阿部宗明 森北出版 1955年、1957年)

大言海 〈語源、詳ナラズ、如何な子ノ義ニテ、梭子魚ト混ジテ、知ラレヌ意ナリナド云フ説アリ〉。

魚鑑 〈状ひしこ. かます雑子(ざこ)に似て、小さく脂多し、三四月の頃、これあり、このものにて、いかなご醤油を作る。〉

和漢三才図会 〈玉筋魚 俗に以加奈古という。また加末須古ともいう〉、〈『三才図会(明の時代1607年にでた中国の絵入りの時点のようなもの)』に「玉筋魚は身体は丸くて箸のようである。やや黒くて鱗がなく、両目店は黒い。菜の花の開くときになると子を持って肥えている。これを菜花玉筋という」〉。漢字、玉筋魚は中国明の魚でイカナゴとは限らない。江戸時代の本草の世界は中国に習うということが多く、こじつけも少なくない。

■ 「いかり魚=カマス」の幼魚の意味。地方の呼び名に「かます子」とあるのと同じ。「いかり」とは「いかる=とがる」の意味で栗の毬(いが)と同義語。

■ イカナゴの小さいものが、いかなる魚の子であるかわからないため、「如何子」の意味。

■ 〈い〉は語声強調の接頭語、〈かな〉は古語で糸のように方添いもの、〈ご〉は接尾語。『新釈魚名考』(榮川省造 青銅企画出版)

   《引用終了》

なお、以上のうち、「和漢三才図会」の記載に就いては、私のサイト版「和漢三才圖會 卷第五十一 魚類 江海無鱗魚  寺島良安」の「いかなご かますご 玉筯魚」で、本文、及び、私の注も添えてあるので、是非、確認されたい。

「軟鰭類(なんぎるひ)」旧分類名。Malacopterygii。軟条鰭(棘鰭がない)のみを持ち、背鰭と脂鰭が、それぞれ一つずつで、背鰭と腹鰭が、背中と腹部の輪郭のほぼ中央に位置し、胸鰭が体の低い位置にあることを特徴とする「下等」硬骨魚類(Osteichthyes)のグループ(上目)を表わす。「上等」硬骨魚類は通常、棘鰭類(Acanthopterygii)として分類される。、ギリシャ語由来の“malakos”(柔らかい)と“pteryx”(鰭)を合成した語で、「柔らかい鰭を持つ魚」を指す旧分類名として成立したものである。]

 

 此魚の漢名は、未だ、詳(つまびらか)ならず。「掌中市鑑(しやうちうしかん)」には『玉筋魚(ぎよくきんぎよ)』とす。「海魚考(かいぎよこう[やぶちゃん注:ママ。])」『いかなご』の條に、田中宣宗(たなかせんそう)、云ふ。『京攝(けいせつ)の俗、春の頃、「かますこ」と云ふ者を食(しよく)す。山陽、四國邊(へん)の海邊(かいへん)より出づるものなり。按ずるに、如何なる子(こ)なりや、又、長(てう[やぶちゃん注:ママ。「ちやう」が正しい。])じて、如何なるものとなるや、不分明なれば、斯(か)く名(なづけ)し。』とぞ。

[やぶちゃん注:「掌中市鑑」東洋文庫版の後注に、『初版は青苔園著、高嶋春松画『海川諸魚掌中市皆全』、天保八年(一八三七)に刊行され、嘉永二年(一八四九)に『魚貝能毒晶物図考』と改題刊行。図入りで、二〇〇種ほどの魚介類の食性、毒、形状、味の良し悪し等が記されている。』とあった。

『「海魚考」……田中宣宗』東洋文庫版の後注に、『饒田喩義著『海魚考』、文化四年(一八○七)自序。『天柱録』(楠本碩水〈写〉、一八九四)の識語によれば、饒田喩義(一七七一。-一八三三)は、桜井開斎に師事し、長崎聖廟の助教を務めた儒者。この二書のほか、『長崎名勝図絵』『西疇転筆学論』がある。田中宣宗は未詳。』とある。]

 

此魚は、形狀の相似(あいに[やぶちゃん注:ママ。])たると、「かますご」の名あるとによりて、世人(せじん)、往々(おほおほ[やぶちゃん注:ママ。「わうわう」が正しい。])『梭魚(かます)の兒(こ)なり』と誤り、『之れを捕獲するは、稚魚(ちぎよ)を捕ふるものにして繁殖の妨害なり。』といふもの、あり。然(しか)れども、元來、此ものは、槪ね、二、三寸のもの、多く、成長するも、三、四寸にして、「かます」とは、全く、異(ことな)れり。

[やぶちゃん注:「梭魚(かます)」スズキ目サバ亜目カマス(魳・梭子魚・梭魚・魣)科カマス属 Sphyraena「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」のこちらに従うと、本邦に棲息する真正のカマス類は、

アカカマス(赤梭子) Sphyraena pinguis 

イブリカマス(以布利梭子) Sphyraena iburiensis

オオカマス(大梭子) Sphyraena putnamae

オオメカマス(大目梭子) Sphyraena forsteri

オオヤマトカマス(大大和梭子) Sphyraena Africana

オニカマス(鬼梭子) Sphyraena barracuda

タイワンカマス(台湾梭子) Sphyraena obtusata

タツカマス(龍梭子) Sphyraena qenie

トラカマス(虎梭子) Sphyraena jello

ホソカマス(細梭子) Sphyraena stellata

ヤシャカマス(夜叉梭子) Sphyraena arabiansis

ヤマトカマス(大和梭子) Sphyraena japonica

である(各種を説明する気はないので、各自でリンク先の記事を見られたい)。BIMaL」の同属リストを比較してみたところ、日本名を附さない(調べたが、和名はないようである)

Sphyraena acutipinnis

があった。]

 

「飮膳摘要(いんぜんてきよう[やぶちゃん注:ママ。])」には、『『いかなご』は、梭魚(かます)の子なり。又、「かますこ」とも云ふ。』とし、「魚鑑(うをかヾみ)」は、『いかなこ』は『ひしこ』。『かます』に似て、少さく、脂(あぶら)、多し。三、四月の頃、これあり。」とし、又、「大和本艸」は『梭魚(かます)の苗(こ)を、俗に「いかなこ」といふ。』とし、「水族志」は『『いかなこ』の『かます』の兒にあらざる』ことを、詳記せり。近頃、出版の「漁產一班(ぎよさんいつはん)」には、『梭魚』の條下に、『玉筋魚(いかなご)、一《いつ》に『かますこ』。』とす。其他、數部の書册を閱(けみ)するに、『かます』を載せたるもの、あれども、『いかなこ』を記せる書、甚だ、少なし。

[やぶちゃん注:「飮膳摘要」東洋文庫版の後注に、『文化一四年(一八一七)刊。著者は小野蘭山(一七二九―一八一〇)、小野畝(?―一八五二)。』とあった。

『「大和本艸」は『梭魚(かます)の苗(こ)を、俗に「いかなこ」といふ。』とし』私の「大和本草卷之十三 魚之下 梭魚(かます) (カマス/イカナゴ誤認)」を見よ。

『「水族志」は『『いかなこ』の『かます』の兒にあらざる』ことを、詳記せり』私は、実はブログ・カテゴリ『畔田翠山「水族志」』を持っているのだが、二〇二三年を最後に、長くペンディングしている。この際、ここで、字起こしだけをやっておくことにする。国立国会図書館デジタルコレクションの当該部は、ここである。一部の読みを推定で《 》示した。

   *

(一七七)

イカナゴ 一名カマスナゴ シヤシヤラナゴ【紀州海士郡《あまのこほり》加太浦《かだうら》】カマスゴ【攝州兵庫】カナギ【筑前姪ノ濱《めいのはま》】

大和本草曰「イカナゴ」尼崎兵庫等ノ海ニテ網ニテ多クトル大ナル假屋ヲ海邊ニ作リ釜ヲナラベ「カマスゴ」ヲ煎シ[やぶちゃん注:「せんじ」。]油ヲトリ賣ル燈油トス或《あるいは》田圃ノ糞《こやし》トス兵庫漁人曰三月初捕ル梭魚(カマス)子に非ス[やぶちゃん注:「あらず」。]按《あんずる》に「イカナゴ」ハ海底砂アリテ泥鰌《どじやう》ノ如ク無鱗ニ乄[やぶちゃん注:「にして」。]箭[やぶちゃん注:「や」=「矢」。]ヲナスヿ[やぶちゃん注:「こと」。]火箭(ヤガラ)觜《はし》ニ似タリ形狀梭魚ニ似タリ脂《あぶら》多シ此魚梭魚ノ苗に非ス[やぶちゃん注:「あらず」。]梭魚ノ苗ハ寸許ニ乄モ細鱗アリテ口二ツニ切レ自《おのづか》ラ別也

   *

流石は、私の好きな翠山! 正しく指弾している!]

 

玉筋魚(いかなご)は、長さ、二寸許(ばかり)より、三、四寸許、身、狹(せま)くして、蒼(あを)・黑(くろ)・銀色(ぎんいろ)なり。背鰭(せひれ)、肩(かた)より起りて、尾(を)に連(つらな)り、後鰭(しりひれ)もまた、胴の半(なかば)より起り、背・尾・兩鰭、共に、其質(そのしつ)、軟(やはらか)なり。梭魚(かます)は、之に反し、大なるもの、七、八寸、身(み)、圓長(ゑんてう[やぶちゃん注:ママ。])にして、細鱗(こまかなうろこ)あり。背鰭、二つあり、後鰭、一基(ひとつ)あり、共に剌狀(しじやう)を、なす。是れ、二者の、判然、別なるの証(あかし)とす。

 

 玉筋魚は、生鮮(なま)のま〻膾(なます)となし、或(あるい[やぶちゃん注:ママ。])は、烹(に)て食し、炙(あぶ)りて食し、佃煑(つくだに)とも、なし、又、煑乾(にぼし)、䀋乾(しほほし)、白乾(しらほし)となし、又、魚醬(ぎよしやう)をも、製せり。北陸道の如きは、多額の收獲あるより、搾榨(しぼりかす)[やぶちゃん注:「榨」はママ。「榨」は「搾」の異体字であるから、おかしい。「滓」の誤植であろう。東洋文庫版では、「榨滓」となっている。]となして販賣せり。其油は鰯油(いはしあぶら)に優(まさ)り、滓(かす)は肥料となして、効(こう)あり。此製法中、淸國に輸出するは白乾なれども、淸國にも魚醬の製方あるを以て見れば、將來、輸出するも量(はか)るべからず。此魚を以て、魚醬を製することは、往時(をほじ[やぶちゃん注:ママ。])、景行天皇の御宇(ぎよう)、第十の皇子(わうじ)神櫛玉命(かんくしたまのみこと)、讚岐(さぬき)の國守たりし時、皇子(みこ)、自ら䀋藏(ゑんざう[やぶちゃん注:ママ。])して、肉醬(にくしやう)を造り、献(けん)じたまひしに創(はじ)まり、其後(そのご)、菅公(くわんこう)の國守たりし時も、數々(しばしば)、都(みやこ)へ送られたりし、と。又、「明月記」にも、屋島(やしま)の內裡(だいり)より肉醬(にくしやう)を贈ることも、載せたり。

[やぶちゃん注:「景行天皇の御宇(ぎよう)、第十の皇子(わうじ)神櫛玉命(かんくしたまのみこと)、讚岐(さぬき)の國守たりし時、皇子(みこ)、自ら䀋藏(ゑんざう[やぶちゃん注:ママ。])して、肉醬(にくしやう)を造り、献(けん)じたまひし」探したが、見出せなかった。識者の御教授を乞うものである。

『「明月記」にも、屋島(やしま)の內裡(だいり)より肉醬(にくしやう)を贈ることも、載せたり』藤原定家は大嫌いなので、調べる気がしない。悪しからず。]

 

 近世、下總國(しもをさのくに[やぶちゃん注:ママ。])千葉郡(ちばこほり)野田驛(のだゑき[やぶちゃん注:ママ。])三枝(みつえだ)某の製する魚醬は、天保年間の創業にして、今に、年々(としとし)、價額(かがく)二千圓內外を產出せり、といふ。其魚醬の製法は、魚一升に食䀋三合を混和し、樽に詰め、蓋をなし、其上を紙にて密封して藏すること、百有餘日)ひやくゆうよじつ)、卽ち、土用に至り、其樽の下部に、小孔(こあな)を穿(うが)ち、管(くだ)を揷し、これより、汁を滴らし、其(その)出(で)たるものを、紙漉(かみごし)にし、鍋に入れ、火に掛け、沸騰せしめ、其冷(そのひゆる)を待つ。其色、透明にして、味(あじわひ[やぶちゃん注:ママ。])、芳美(ほうび[やぶちゃん注:ママ。])なり。これを『一番取(いちばんどり)』といふ。殘(のこり)の滓(かす)に、又、食䀋若干を入れ、再製するを『二番取(にばんとり[やぶちゃん注:ママ。差別化するためかもしれない。])』といふ。玉筋魚の油、及び、搾粕(しぼりかす)を產出するは、加賀・能登・越中・越後・佐渡等(とう)にして、煑乾(にぼし)、及《および》、白乾(しらほし)を出(いだ)すハ、志摩・伊勢・筑前・四國・淡路地方等を多しとす。

[やぶちゃん注:「千葉郡(ちばこほり)野田驛三枝某」不詳。場所は現在の匝瑳市のここ。地名が残っていないので「ひなたGIS」で示した。戦前の地図に「野田村」が確認出来る。ここであろう。]

 

 此ものを淸國に輸出するは、近年のことにて、未だ、多數ならずと雖も、明治十六年、神戶港より輸出するもの、一萬七千二百九十八斤、價《あたひ》四百三圓六十錢、又、長崎・橫濱兩港より、輸出するもの、若干あり、とす。

[やぶちゃん注:「明治十六年」本書の刊行は明治一九(一八八六)年。

「一萬七千二百九十八斤」十・三七八八トン。]

2026/08/02

町内の古い慰霊碑を判読するための電子化注遅速化のお知らせ

町内会の役員をしているのだが、故前会長の娘さんから、町内に遠い親族の大きな慰霊碑があるのだが、長い漢文で書かれているために意味が判らないので、判読して欲しいという依頼が来た(私が、もと高校の国語教師だったことを町内会の同僚が伝えたらしい)。実は、この碑、以前から気になって、数度、視認して目視判読したことがあり、それは日清戦争に従軍し、戦場で負傷し、現地の軍部の医療施設に入り、後に内地に移されたが、 亡くなったということは読めた。されば、これは、私が、かの人物の霊に呼ばれたのかも知れないなとも思い、判読と訳を引き受けた。無論、報酬は受けない。しかし、かなりの長文であり、一回、真っ二つになって損壊したものを補修したものであるため、判読には、かなり時間が掛かる。気持ちとして、私の作業を、後回しにして、最優先でやることにして、取り敢えず、三十枚近くの写真を、昨日、撮り、今朝より作業に掛かったが、四メートル近い直立碑であるため、上部の陰刻が見づらく、何度か、現地に出向かないと難しく、時間が掛かるようだ。複数の進行中のプロジェクトも、遅速化せざるを得ない。悪しからず。

 九割がた、字起こしを終えた。昼過ぎ、幾つかの字を、直接、視認しに行こうとしたが、暑さで、連れ合いに止められた。明日は温度が少し下がるので、延期した。

【2026年8月3日追記本日、午前中に一時間半、碑文に登り、写真では判らなかった部分を、98%、判読し得た。残りは、真っ二つに破損したものを、修復した際に欠損した箇所があるためである。しかし、識辞を書いたのは、当時の(明治三〇(一九八七)年の記文)漢文学者が書いたものであるため、訓読にもかなり時間が掛かる。

しかし、久々に、いい仕事に邂逅したという気持ちを、強く感じている。

2026/08/01

河原田盛美著「淸國輸出日本水產圖說」正規表現版・オリジナル電子化注 下卷(九)乾魚並に䀋魚の說(その6) 乾鰯幷䀋鰯

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は、第一始動の記事、及び、「(一)鰑の說(その2)」の前注の太字部分を参照されたい。今回はここから。]

 

   乾鰯幷䀋鰯《ほしいはし ならびに しほいはし》

 鰯(いわし)は「倭名鈔」に「漢語鈔」を引《ひき》て『以和之《いわし》』と訓ず。「新撰字鏡」は、獨(ひと)り、『𩺮』の字を『伊和志』とすと雖ども、「延喜式」には『鰯』の字を用ゆ。是「閩書」の『鰮魚』あり。鰯の種類ハ、『大羽(おほは)』、一名『まいわし』、『中羽(ちうは)』、『うるめいわし』『こしながいわし』等(とう)なり。而して、鮮(なま)にて膾(なます)とし、又、炙(あぶ)りて食ひ、煑(に)ても食(しよく)し、醃乾(しほぼし)、白乾(しらほし)、目刺、鰓刺(あごさし)、開乾(ひらきぼし)、等(とう)ともなし、[やぶちゃん注:原文は読点であるが、句点に代えた。]煑(に)て搾滓(しめかす[やぶちゃん注:「しぼりかす」以外に、こうも訓ずる。])とし、肥料(こやし)に供し、又、其油をとり、收益の多きこと、本邦の海產物中、此上(このうへ)に出づるもの、なし。近年、此目刺鰯は、淸國へ輸出せり。

[やぶちゃん注:『「倭名鈔」に「漢語鈔」を引《ひき》て『以和之《いわし》』と訓ず。』国立国会図書館デジタルコレクションの寛文七(一六六七)年板の当該部を推定訓読して示すと、

   *

鰯(イハシ) 「漢語抄」に云はく、『鰯【以和之《いわし》。今、按ずるに、本文、未だ、詳らかならず。】。』≪と≫。

   *

である。「漢語抄」は「楊氏漢語抄」で、奈良時代(八世紀)の成立とされる辞書であるが、佚文のみで、原本は伝わらない。さて、ここで明確に言っておくこととするが、

★読者は、この記事が、おかしいことに気づく。

即ち、作者源順(みなもとのしたごう)は、立項した「鰯」に「いはし」と読みを記していながら、後の割注で、和訓を「以和之」としているのである。これは、まさに「いわし」であって、「いはし」とは――逆立ちしても――読めない。即ち、これが何を意味するかと言うと、

☆平安中期に成った「和名類聚鈔」(承平年間(九三一年~ 九三八年)に執筆完成)の時代にあっても、正式な歴史的仮名遣表記では「いはし」であったものの、実は、この時代にあっても、実際の当時の京都の口語上の発音では、現代仮名遣と同じく「いわし」であったことを示唆しているとしか採れないのである。

☆続いて、本文で『「新撰字鏡」は、獨(ひと)り、『𩺮』の字を『伊和志』とす』とあるが、ここも「いわし」である。「新撰字鏡」は当該ウィキによれば(注記号はカットした)、『平安時代に編纂された字書の名。現存する漢和辞典としては最古のもの』で、『平安時代の昌泰年間』(八九八年~九〇一年:醍醐天皇の治世。因みに、同四年には正月二十五日、左遷左大臣藤原時平の讒言により、菅原道真が大宰府に左遷されている。所謂、「昌泰の変」である)。)『に僧侶・昌住が編纂したとされる』。寛平四(八九二)年に三『巻本が完成したとされるが、原本や写本は伝わっていない』。後、三『巻本をもとに増補した』十二『巻本が昌泰年間に完成したとされ、写本が現存する』。十二『巻本には約』二万一千『字を収録』する。『古い和語を多く記しており、古代日本における漢字受容を知り得る資料として、日本語学史上きわめて重要である。また、平安時代になると失われた上代特殊仮名遣のうち』、『コの甲乙を区別していることでも知られる』(ウィキの「上代特殊仮名遣」を見よ)。以下、「諸本」の「享和本」の項。十八『世紀後半に村田春海によって再発見され』、享和三(一八〇三)『年に刊行された。和訓をつけた漢字だけを抜き出した抄録本で、部首を』百七『に分類している』。以下、「天治本」の項。『天治元』(一一二四)年『の写本で、唯一の完本』。安政二・同三(一八五六)年~安政四・五(一八五八)『年に発見された。和訓の付いた字は』三千『字以上あり、部首を』百六十『に分類している』。以下、「群書類従本」の項、『塙保己一』(はなわほきいち)『の』「群書類從」『に収められている抄録本』。以下、「構成」の項。『部首内の漢字は規則的に配列されてはおらず、同じ部首を持つ熟語では、二文字を』、『ひとつの項目として扱っている。読みを反切で示してから、字義を類義の漢字で説明するほか、万葉仮名で和訓を付けているものもある』。『本居宣長は』「玉勝間」『の中で「あつめたる人のつたなかりけむほど、序の文のいと拙きにてしるく」「其字ども多くは世にめなれず、いとあやし」』(卷十四)『と酷評しているが、著者は』、『部首分けの上で部類立ての字類のようなものを構想していたとみられ、配列上の混乱は彼の独創性の裏返しであったと見られている』とある。

さて、実は、「鰯」=イワシ(類)を「いはし」と訓ずる語源は明確ではない。しかし、漢字の字面から、一般には「弱(よは)し」から「いはし」になったとの説が知られているが、これは、実は、正確な定説なのでは、ない。例えば、イワシには別に「大きなイワシ類」を意味するとされる「鰮(いはし)」の字があるが、この字素の一つである「囚」の字を穿って解釈すると、「囚(とら)はれ人(びと)」=「囚人」を想起し、恰も「獄屋の囚人に食べさせる卑しい魚」だったのではないか? という勘繰りも生ずる。実際、「いはし」の語源説には「卑しい民(たみ)のみが食べる雑魚(ざこ)」だったから、「いやし」が「いわし」になったとする説もあるらしい。即ち、このように、言語形成自体がブラック・ボックスである以上、イワシを指す歴史的仮名遣は、絶対的に「いはし」のみが正しいとする根拠は全くないことが判るのである。従って

――明治期の本書で「鰯」に「いはし」「いわし」が混淆すること自体が、実は、全く以って、有意な誤用混淆として、いちいち、指摘する価値が全くない――

のである。されば、以降は本文・ルビで、「いはし」「いわし」が混淆していても、一切、ママ注記を附すことやめることとする。

 

「延喜式」によれば、神祇部に『鰯汁(いわしじる)』あり。主計部に『乾鰯(ひしわし)』、又、『鮨(すし)』ありて、紀伊・若狹・丹後・備中・備後・安藝・周防・讚岐等(とう)より貢獻し、本邦往古より種〻(しゆしゆ)の製法ありて、常陸の水戶、伊豫の宇和・肥前の松浦等を著名とす。

[やぶちゃん注:「鮨」言うまでもないが、これは、現行の鮨ではなく、馴(な)れ鮓(ずし)である。]

 

 此魚は、性(せい)、至(いたつ)て脆弱なる故に、「いはし」の名、あり。又、「おむら」ともいふ。凡そ、漁業の大利を得ること、鯨の右に出るもの、鰯なり。「大和本草」に曰く、『最も大なるを䀋につけて、苞(むしろ)にいれて、遠(とふき[やぶちゃん注:ママ。])に、よす。賤民、朝夕(てうせき)の饌(せん)[やぶちゃん注:これは「食事」の意。]に用ゆ。又、醢(しほから)とし、糟藏(かすづけ)・飯藏(めしづけ)とす。味、よし。』とありて、從來、乾製・目刺等(とう)は、良品ありしも、䀋藏鰯(えんざういわし)は、精良の製法、なく、且(かつ)、苞(むしろ)に藏(ざう)するか[やぶちゃん注:ママ。「が」。]如き、粗造(そぞう[やぶちゃん注:ママ。])の取扱(とりあつか[やぶちゃん注:ママ。])なりしと見たり。近來(きんらい)、各地にて䀋藏するものは、槪(おほひ[やぶちゃん注:ママ。誤植。])ね、樽詰(たるづめ)にして、較(や)〻精良のものもあれども。䀋加減等(とう)、末だ、一定せずして、淸國の輸出の如《ごとき》も、「華蠻交易洽聞錄(くわいかうえきこうぶんろく)」に載(の)する如く、從前より、䀋鰯を輸出するも、僅々《きんきん》に[やぶちゃん注:ごく、わずかなさま。]過(すぎ)ざるなり。然《しか》れども、䀋量(ゑんりやう)を適度ならしめ、壓搾噐(あつさくき)を以て、搾(しぼ)めて、漬汁(つゆしる)を去り、樽に密封して、輸出せば、其需用を擴(ひろ)むるに至るべし。

[やぶちゃん注:『「大和本草」に曰く、⋯⋯』私の「大和本草卷之十三 魚之下 鰛(いはし) (マイワシ・ウルメイワシ・カタクチイワシ)」を見よ。]

 

 此鰯は、油漬(あぶらづけ)・酢漬等(とう)とし、鑵詰(くわんづめ)にしたるは、歐州諸國に於て、甚だ、嗜好するものなれども、寧ろ、淡乾(しらぼし)・鹹乾(しほぼし)の精良品を、多く、造り出し、淸國人の需求に充つるを得策とす。

[やぶちゃん注:「淡乾(しらほし)」しらすを生のまま、または、蒸して干したもの。]

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