佐野花子「私は芥川龍之介のかくれた愛人だった」禁欲的必要最低限注附き
[やぶちゃん注:これは、昭和三六(一九六一)年四月一日発行の小学館の雑誌『マドモアゼル』(第2巻第4号)に掲載された佐野花子さんの随筆である。未知の読者の方から、この作品の存在をお教え戴き、しかも、当該作品の全画像を頂戴した。この作品は、私は今まで全く未見のもので、正直、非常に驚いた。私は、ブログ・カテゴリ「芥川龍之介」やサイトで電子化注してきた、この方の書いた『佐野花子「芥川龍之介の思い出」(原文のみ)』や、『佐野花子「芥川龍之介の思い出」 附やぶちゃん注(PDF縦書版・上記ブログ版原稿)』や、彼女の書いたものをもとに小説化したもの(サイト版の田中純『二本のステッキ』・昭和三一(一九五六)年二月『小説新潮』発表)等を手掛け、それらを用いて、彼女と芥川龍之介について考察した拙考もものしているが、関口安義氏の編になる「芥川龍之介新辞典」(二〇〇三年翰林書房)にも、この記事は記載がないものであった。されば、提供者の方の許諾を受け、私が、電子化することとした。ここでは、読者に小生の独断のバイアスを与えないように、明らかな誤り、或いは、及び、明らかな勘違い等、普通に、芥川龍之介の愛読者、或いは、高校生・大学生程度の読書好きの方が、どう考えても、躓くであろうと考える箇所ついては、最低、必要と考える注を附して公開することとした。実は、当初、完全ベタ版注無しで公開しようと思ったが、それでは、初めから、「何、これ!?!」と、作者を初っ端から「この人! まるっきり! おかしい!」として全否定されて、ブン投げられてしまうことになりかねないことが明白であるから、あるところでは、花子さんの勘違い・思い込みが出現していることが判るように、また、時には――なるべく、フラットに彼女を守れるところはキッチりとサポートするように――注を附加するという方針に変更した。
個人的には、先に示した、
『佐野花子「芥川龍之介の思い出」 附やぶちゃん注(PDF縦書版・上記ブログ版原稿)』
或いは、
ブログ・カテゴリ「芥川龍之介」の『佐野花子「芥川龍之介の思い出」 附やぶちゃん注 (一)』から、『佐野花子「芥川龍之介の思い出」 附やぶちゃん注 (六)~その6 / 佐野花子「芥川龍之介の思い出」~了』の全十二回
をお読み頂くことを、強くお薦めするものである。
改めて、情報を下さった方に、心から御礼申し上げるものである。
なお、作品のヘッドには『■文学者の恋』とあるが、これは無論、雑誌編集者の附したものであるから、ここではカットし、同じく、標題の後に、『それは愛に似て苦しく、悲しみに似て甘かった⋯⋯若き日の天才とのひそやかな魂の交換を、一女性がここにはじめて公開する⋯⋯』というキャプションがあるが、これも同じ理由から電子化しない。いやいや! 標題「私は芥川龍之介のかくれた愛人だった」は見るからに、花子さんが附したとは、過去の自筆ものと照らして、ちょっと思えないスキャンダラスなもので、編集者が、花子さんに許可を得て、或いは、任せて貰う言質を得て、勝手に決定・標示したものである可能性が極めて高く、また、原文中の複数のパート・タイトルも、同じ疑いが濃厚である。しかしこれらは、かく、公開されてしまっている以上、これを正規なものとするしかないと判断する。なお、表題の次にある作者名「佐野花子」は「さのはなこ」のルビがあるが、この版では、カットした。なお、作品中の本文は二段組・明朝体で、パート見出しのみゴシック体であるが、明朝で統一し、そこだけ、太字とした。また、字起こしは、元画像の解像度が低いため、私のポンコツのリーダー・ソフトではダメだったので、総て、視認してタイピングした。
なお、文中で芥川龍之介が彼女に贈った自書に書き添えた句の第一句の下の句「※夫人」の「※」は「郛-(おおざと)+虎」の字体である。但し、このような漢字は、「大漢和辭典」にも存在しない。私のサイト版の「やぶちゃん浣芥川龍之介句集 五 手帳及びノート・断片・日録・遺漏」の注で示した通り、「虢夫人」と誤記で、芥川自身の誤字である。因みに「虢夫人」は、楊貴妃の姉で、正しくは虢國夫人と呼ばれた美女である。注を可能な限り、ベタ版本文に入れたくないので、ここで注しておく。
また、表題の後の姓名の上には、「私は」の「は」の半ばからやや下から、三行からなるゴシックで、
*
それは愛に似て著しく、悲しみに似て甘かった⋯⋯
若き日の天才とのひそやかな魂の交換を、一女性が
ここにはじめて公開する⋯⋯
*
という、明らかに編集者による文章があるが、これも、カットした。
本記事は同誌の「198」ページから「201」ページまで二段組となっている。
最後に。佐野花子さんは明治二八(一八九五)年一月十七日生まれで、昭和三六(一九六一)年八月二十六日、六十六歳で亡くなっている。掲載雑誌の発行日は昭和三六(一九六一)年四月一日であるから、逝去される約五ヶ月前の公表であり、彼女が、本作を書かれたのは、まさに六十五、六歳で、最晩年に書かれたものであることが明らかになる。因みに、既に知られている「芥川龍之介の思い出」については、歌人片山恵美子さんの「序として」に、『この稿は、昭和二十五年八月二十六日封切の映画、「羅生門」を見てから筆を起こしてありますので、永眠の日と、この映画封切の後とを考え合わせてみますと、五十五歳ごろから、六十歳以後の執筆と思われます。』とある。
而して――本作品は――「芥川龍之介の思い出」執筆前に――花子さんが書いたものである――
ことが明確に推定されたのである。
その理由は――実は、本記事について、花子さんは、既に「芥川龍之介の思い出」の中で言及している事実を、遅蒔き乍ら、発見できた――のである!
それは同作(リンク先はブログ版『佐野花子「芥川龍之介の思い出」(原文のみ)』)の最終部の『㈤』の後半の一段落である。以下に引用する。決定的事実箇所を太字にした。
*
私は自分でもこういうことに気づきまして病人になりましてから、ノートに覚えていることを書きはじめました。小説の形にしてまず書き残しても見ました。また、文壇で問題にしている「或阿呆の一生」中の四人の女性を私であるとも仮定して断定的な口調で書いても見ました。または、手当たりしだいの紙片に覚え書きを記しました。娘の耳にも語り聞かせました。病いは既に治りそうもなく先も長いとは思えず、書いたものは、ちぐはぐであるようです。私の言いたいことは一貫して頭の中にあるのですが、死後それはどのように語り伝えられて行くのでしょうか。
*
この太字部分は、いっかな厳しい書誌学者・芥川龍之介研究者も、この『書いても見』たものというのが、「本記事を指してはいない」と、反論は出来ないであろうと、私は、確認するものである。]
私は芥川龍之介のかくれた愛人だった
佐 野 花 子
まじわりの日々
私がはじめて芥川龍之介に会ったのは横須賀駅の入り口の所でした。大正六年四月七日のことです。私はその前日ささやかな結婚式をあげ、知人のお宅で初床をすごした後、新婚旅行に旅立つところだったのです。当時夫は横須賀の海軍機関学校の理科教官をしており、私は二十三歳、夫、慶造は三十歳を越しておりました。
太陽と月との何気ない出合日食のように、ごく自然な、だが滅多に起こらない、しかも何か宿命を感じさせるような出合いというものがあります。私と芥川さんの出合いがそんな風でした。人力車で横須賀駅頭に乗りつけた私たちに、優しく笑いかけながら近づいて来る背の高い青年が芥川さんだとすぐにわかりました。夫から彼の話をよく聞いていましたし、新聞などでその写真を見たことがありましたから。
その時、芥川さんは二十五歳で、新進作家としてその作品を発表するかたわら、海軍機関学校の文科教官として鎌倉の下宿から横須賀に通勤する身でした。紺の背広にステッキ、中折帽をかぶった芥川さんは、当時の言葉でいうならハイカラで純真そうで礼儀正しく、しかも気さくな話ぶり、芥川さんには人の心を紹介し合い、出発までの時間をおしゃべりに費やしました。思えば最初の出合いが、新婚旅行の旅立ちの時だったというのは、なんという運命の皮肉でしょう。彼は人妻としての私しか知りません。人妻――そのことが終生彼を息苦しい懊悩の淵にひたらせようとは思ってもみないことでした。
横須賀の小さな家に世帯を持った私たちは、お近づきのしるしに芥川さんを鎌倉の小町園という料亭に招待いたしました。彼はたいへん喜んでくれたそうで、その時は私に着物を着て白粉をつけて来るようにと夫に言っていたということでした。その日、夫も芥川さんもわずかの酒に酔って嬉しそうに学校や文壇の話に花を咲かせていました。
「結婚っていいものですね。佐野さんご夫妻を見ているとつくづくそう思いますね。」[やぶちゃん注:この直接話法は、前の行の末尾が、行末で句点で終わっており、それに続いて繋がっている可能性がある。或いは、その方が可能性が高いともとれるのだが(次の段落がそうなっている)、初出の芥川龍之介の台詞であるので、私は、敢えて改行することとした。私は、恣意的にそうしても流れとして、違和感は全くない、と思ったからである。]
芥川さんはその鋭い瞳を微笑に包んで、あくまで柔和でした。夫は人の好さを丸出しにして、「そう思ってくれますか。ありがとう。」と嬉しくてならない風でした。
「佐野さんの婚約者は女高師出だと聞いて、どんなこわい人か知らん。おとなしい佐野さんがそんな怖い人と結婚したらどうなるんだろうと心配していましたが、奥さんにお会いして安心しました。優しくお美しいし、月光のような理知に輝いていらっしゃるようにお見受けしましたから。」
それから芥川さんは急に打ち沈んでことばを続けました。
「ぼくは今さびしくてならないのです。なぜだかわかりますか⋯⋯。僕はもう幸福な家庭を作れそうもありません。」
「何言うんだい、龍ちゃん(芥川さんを夫はこう呼んでいました)そんなことはないよ。酔ったんじゃないのかい。」
芥川さんは急に明るい声になって、
「ああ、酔いました。酔いましたよ。奥さん、歌ができました。差し上げます。」と言って、短冊にさらさらと書いてくださいました。
[やぶちゃん注:前の『「ぼくは今さびしくてならない』から、以上の上段の最終行の始まりの『にさらさらと書いてくださいま』までの上段部(一行字数で半分相当)に(下部に細かい「■」を並べた区切りがある)、『芥川龍之介氏(左)と、交際のあった当時の佐野花子夫人』というキャプションを下部に配し、上に二人の写真(別個)が、二葉、掲げてある。
かなり粗いが、花子さんのものは、所持する佐野花子・山田芳子(花子さんの実娘)「芥川龍之介の思い出」(短歌新聞社『彩光叢書第8篇』・昭和四八(一九七三)年刊)の扉にある『大正七年写 長男清一を抱く著者佐野花子と夫君』からのトリミングと断定出来る。一方、龍之介のものは、私の所持する芥川龍之介関連書籍中の複数の写真を見ても、同一のものは見出せなかった。瘠せた方から上で、頭部の髪は少し切れており、左から斜めに撮ったものであるが、龍之介であろうとは、概ね、判るものの、かなり瘠せており、しかも、ムッとした顔つきである。目の鋭さや髪型から、私は、龍之介の晩年の、やや前期のものかと思う。全くポーズをしていない画像の雰囲気から、個人を撮ったポートレートには見えず、恐らく、複数の人物と一緒に撮られたものを、彼の部分だけを切り取ったものと推定する。この選択は、編集者に拠るものと思われる。当初、画像が粗く、綺麗でないので、載せなかったが、「X」のGrokの助言を受け、急遽、以上の通り、掲げた。]
〝悲しみは君がためたるその宵の 印度更紗の帯よりや来し〟と。
この歌の意味は一読すればどなたにもわかるはずです。それは私への思慕の情を訴えたものにほかなりません。しかしその夜の私は楽しさにまぎれて、歌の意味を深く考えてみようとともしませんでした。その夜ほど芥川さんが感情の起伏をあらわに見せたことはありません。横須賀駅で会った時、ひと目で私の愛を感じた芥川さんは、人妻を恋することの怖れに耐える心の準備も整わず、やみくもに思い乱れていたのでしょう。
[やぶちゃん注:この「悲しみは君がためたるその宵の 印度更紗の帯よりや来し」という短歌であるが、これは、ブログ版の私の「完全還暦記念 二本のステッキ 田中純 佐藤泰治 畫」にも、『悲しみは君がしめたるその宵の印度更沙の帶よりや來し』の表記で出ている。しかし、芥川龍之介の直筆のものとしては、私のサイト版「やぶちゃん版編年体芥川龍之介歌集 附やぶちゃん注」で、まず、Lucio Antonio名義の連作「さすらへる都人の歌」の「Ⅵ」に、
*
かなしみは 君がしめたる 其宵の
印度更紗の帶よりや來し
*
の表記で載り、また、
*
連作「思慕巴調 Leiden des jünger Werthers」の第四首に、
*
かなしみは 君がしめたる其宵の
印度更紗の帶よりや來し
*
の表記で載り、さらに、連作「客中戀」第八首に、
*
かなしみは君がしめたる其宵の印度更紗の帶よりや來し
*
の表記で載る。さて――ここからは、後に考えている本作のオリジナル注版の分析領域に含まれるが、判ってしまった以上、ここで言っておくと、これら酷似した三篇の最も古いものは、推定作成時期は大正三(一九一四)年夏である。芥川龍之介が佐野花子と邂逅したのは、大正六年である。即ち、この一首は、花子さんに悪いが――彼女を詠んだ歌ではない――のである。但し、龍之介は、他の女性にも、こうした以前に用いた表現や詩句を示すことは、茶判事であったから、彼女が、そう思い込んだのも、これ、無理はないのである。]
それから数日後、芥川さんは先日のお返しにと再び私たちを小町園に招いてくださいました。その日の芥川さんはいつも明るいもの静かな態度を崩すことではありませんでした。
こうして私たちと芥川さんの交わりは何気なくはじまり続きました。それは普通の友人同志の交際とかわりありませんでした。芥川さんは学校の帰りによく私たちの新居に立ち寄るようになりました。私はなれぬ手つきで料理を作って彼を歓待しました。
そのころ出版された彼の著作『煙草と悪魔』を私にくださった時、その表紙の裏につぎのような俳句を書いてくださいました。
秋立って白粉うすし※夫人
白粉の水すてしかり芙蓉なる 龍之介
追加 妻ぶりも襟白粉も夜は寒き
私の身動き一つにさえ女の匂いを感じ、自分の恋心の激しさを静かに見つめている芥川さんの息吹きが思われます。
[やぶちゃん注:「※」は冒頭注を見られたい。
「煙草と悪魔」は新潮社『新進作家叢書』の第八篇で、通常、第一短編集『羅生門』に次ぐ芥川龍之介の第二短編集である。発行は大正六(一九一七)年十一月十日である。さても、そこに添えた、この三句は、私の「やぶちゃん版芥川龍之介句集 五 手帳及びノート・断片・日録・遺漏」に載るが、これは、佐野花子による「芥川龍之介の思い出」にのみ発見出来るもので、類型句は、他にない。されば、これらの句は、龍之介が、確かに花子さんへのオード(ode:頌歌)として詠じたものと言って、差し支えないのである。]
このころ、芥川さんは文子夫人と婚約中でした。
「ぼくは彼女を静かな愛情で包んでやるつもりです。しかし、その前に自分の神経衰弱を克服しなければいけません。」
そんな風にいう彼の瞳に諦めに似た光があるのを感じ、彼の胸のうちを推し測りかねる私でした。彼は通勤に不便だから私たちの世話で横須賀に下宿をかえました。しかし、友人にあてた手紙に横須賀の息苦しさを訴えています。私の存在を身近に感じるのは彼には苦痛すぎたのでしょう。私たちに神経の疲労を訴えるようになったのもそのころからです。芥川さんと私との間にはいつも夫が介在していました。二人で会ったことは一度もありません。それは私との間に人妻としての垣根をかたく据えようとする彼の悲しい努力だったのです。そんな状態の交際は、芥川さんが文子夫人と結婚され、再び鎌倉に居を移してからは次第に縁遠くなり、私たちの住いをお訪ねになることも少なくなりました。そして大正八年に海軍機関学校を辞められ、東京の田端に帰って文筆生活に専心されるようになってからは、わずかな文通だけが私たちの間を通わせるよすがとなりました。長男比呂志さんの誕生の噂を聞いて、お祝いのベビー服を送ったのを最後に、芥川さんは決して私たちにおたよりをくださるようなことはなくなってしまいました。
[やぶちゃん注:「このころ、芥川さんは文子夫人と婚約中でした」大正五(一九一六)年十二月、塚本文との婚約が成立している。
「精神衰弱」これは、言うまでもないが、この時の芥川龍之介のそれは、狭義の旧疾患名としてのそれではなく、大雑把なポジティヴな感じや、個人的な過労やストレスに拠る、心や神経のエネルギーが、すり減って、意欲や気力が、何んとなく低下した状態全般を指したものである。この前後、龍之介は、初めから不愉快であった作家と教職の二重生活に、かなり強い嫌気がさしており、ボルテージが下がっていたのである。しかし、その大きな元凶は、かなり前であるが、大学在学中、初恋の相手吉田弥生との結婚が芥川家の猛反対によって、大正三(一九一七)年から、翌年二月にかけて、破恋に終わったことが、大きい。
「横須賀に下宿をかえました」大正六(一九一七)年九月十二日、龍之介は鎌倉から横須賀市汐入に下宿を移している。
「芥川さんが文子夫人と結婚され」大正七年二月二日、龍之介は、田端で、塚本文と結婚式を挙げている。
「再び鎌倉に居を移してから」大正七年三月一日、文とともに鎌倉町大町字辻小山別邸内に引っ越している(半月ほどは、龍之介の伯母ふきも同居していた)。
「大正八年に海軍機関学校を辞められ」龍之介が、実質上、海軍機関学校を辞職したのは、大正八年四月三十一日である。
「長男比呂志さんの誕生」大正九(一九二〇)年四月十日。因みに、龍之介の最大最悪の不倫相手秀しげ子との関係は、既に前年の大正八年の後半以降、ずんずんと深みへと入ってしまっていた。]
愛 の さ ざ 波
その後二年ほどたって雑誌『新潮』に芥川さんが、「佐野先生」と題する随筆を発表されたことがあります。それには夫をいちじるしく罵倒して書いてありました。あれほど夫に親しみ、しかもつつしみ深い芥川さんが、そのような随筆を仮名も使わずに発表したのは驚ろかされました。夫は動ずる風もなく、
「龍ちゃんはお前を好きだったのだよ。それが逆に私への嫉妬になり、こんなものをヒステリックに書いてしまったのだろう。」と言いました。彼が私を愛していた! そんなことを思ってもみなかった私には夫のことばは二重の驚きとなって襲いかかりました。胸の中で懸命にそれを打ち消そうとする私は、決定的な証拠を見て崩れ落ちる心の谺を感じるのでした。そのころ私の愛読していた『淑女画報』に田端居士という書名で「私の好きな女性」という小文がのったことがありました。芥川さんの作品をくわしく読んでいた私にはその文章の匂いと、東京の田端に住んでいることから、それは芥川さんが書いたものだとすぐに直感できました。それには「私の仕事(文学)を理解して、仕事を刺戟しない女性が好きだ」とあり、以前に知り合った横須賀の一女性がそんな人だと書いてありました。それを読んで芥川さんが私を愛していたというのはほんとうだったと確信したのです。
[やぶちゃん注:「その後二年ほどたって雑誌『新潮』に芥川さんが、「佐野先生」と題する随筆を発表されたことがあります。」「佐野先生」という題名の作品を芥川龍之介は書いていない。先行する『佐野花子「芥川龍之介の思い出」 附やぶちゃん注 (五)~その2』を見ると、そちらでは、「佐野先生」ではなく、「佐野さん」となっている。この芥川龍之介作とする「佐野さん」の謎について、私の推理を、そこで公開しているので見られたい。これは、一種の言語上の病的な入れ替えに拠る関係妄想・作話症と言える。しかも、全体の会話や認識は、このシチュエーションでは、奇異でなく、事実のように読める(則ち、夫の何でもない会話を、彼女自身の脳内で、自由に単語を特定的恣意的なものに無意識のうちに変形させ、しかもそれが不自然ではないものに置換させている)点が、なおのこと、恐ろしい仮想現実を現前させて、それを心底、真実として、彼女が脳に記憶して、がっちりと保存させているのである。]
『或阿呆の一生』から
芥川さんがその死に際して書き残した遺書と共に筐底に秘めていた『或阿呆の一生』という作品があります。これは彼の友人久米正雄氏にあてたもので、彼の生涯の事件や心象を印象的に五十一の短章にまとめたもので、暗示に富む筆致と手法の中に、真実が語られています。
『或阿呆の一生』の十七の章は「蝶」と題されています。
藻(も)の匂(におい)の満ちた風の中に蝶が一羽
ひらめいてゐた。彼はほんの一瞬間、乾いた彼の唇
(くちびる)の上へこの蝶の翅(つばさ)の觸れる
のを感じた。が、彼の唇の上へいつか捺(なす)つ
て行つた翅(つばさ)の粉だけは數年後にもまだき
らめいてゐた。
[やぶちゃん注:以上の引用とするものは、原文では、全体が三字下げ四行になっているが、ブログのブラウザでは不具合が生ずるので、特異的に二字下げで、一行字数を短くした(後の引用も同じ)。なお、芥川の公開された原文では、以上の読み(原文はルビであるが、丸括弧仕様とした)は附されていない(私のサイト版「或阿呆の一生 附未定稿(草稿)」を参照されたい)。ルビ(読み)の現代仮名遣はママ。]
このはじめにでてくる「藻の匂の満ちた風の中」というのは横須賀のことだと思います。そして、この「蝶」というのは私のことです。唇との触れ合いを唇をなすって行った蝶の羽の粉にたとえているのは芥川さんの心の悩ましさを表現しています。この悩ましさは恋にほかなりません。
同じく二十八「殺人」の章には、
(前略)「殺せ、殺せ。……」
彼はいつか口の中にかう言ふ言葉を繰り返してい
た。誰を?――それは彼には明らかだった。彼は如
何にも卑屈らしい五分刈の男を思ひ出してゐた。(後
略)とあります。
[やぶちゃん注:サイト版「或阿呆の一生 附未定稿(草稿)」の「二十八 殺 人」を見られたいが、芥川の原文では「⋯⋯」は九点リーダである。「誰」は「たれ」とルビが振られている。最終行で改行すべき花子さんの言葉が附いてしまっているのも、ママである。]
この「殺せ、殺せ」と彼がヒステリックに心の中で叫んでいる相手は私の夫のことは確かです。親しく往き来してきたころは夫を侮蔑するような態度はひとかけらも見せず、心から打ち解けている風でしたのに急に私の夫を罵倒した随筆をそれも実名で発表したのは、やはり嫉妬と考えるほかありません。それは逆に言えば私への愛情の深さを物語るものでしょう。それに当時夫はたしかに五分刈でした。
[やぶちゃん注:この「五分刈りの男」について、ロケーション同定を含め、私が考証した記事がある。かなりマニアックな自信のある『芥川龍之介「或阿呆の一生」の「二十八 殺人」のロケ地同定その他についての一考察』がある。未見の方は、是非、見られたい。そこで私は、この「五分刈りの男」を花子さんが言っている通り、佐野慶造と比定しているのである。]
このほかにも、芥川さんの詩には恋い慕う人の夫をのろったと思われるものがいくつかあります。
この身は鱶の餌ともなれ
汝を賭け物に搏打たむ
ぴるぜん、まりあも見そなはせ
汝に夫(つま)あるはたへがたし
[やぶちゃん注:原文では同前で詩の四節を二字空けで二行で配されてあるが、同じ理由で、かく、四行で分離した。「搏打たむ」はママ。芥川の原文は「博打」である(佐藤春夫の芥川龍之介直筆からの字起こしに拠る)。但し、「ぴるぜん、まりあ」は、芥川の原文(私の「澄江堂遺珠 本文Ⅶ」)では「ぴるぜん・まりあ」で字起こしされてあり、末尾に字下げで『船乘りのざれ歌』という添え題がある。]
また「夏」という詩では「虎疫(ころり)は殺せ汝が夫を」と書いています。
[やぶちゃん注:これは私の「澄江堂遺珠 本文Ⅵ」にある。但し、「夫」には「つま」のルビがある。]
私への愛情が報われないのは夫の存在ゆえです。彼の呪いも私には納得できると思うのです。
愚 か 心 に⋯⋯
芥川さんとかかわり合った女性は何人かありました。S夫人、彼がその才能に畏敬した十七歳も年上のアイルランド文学者夫人、彼が死を共にしようとした文子夫人の友人Hさん。この人たちの名はすでにその道の専門家によって明らかにされていますが、しかし、彼が真実の愛情を抱いていたのは、これらのことから私だと思うのです。彼は私を愛していたのです。彼の女性遍歴は、私の面影を慕い求めたさすらいにほかなりません。それは彼の女性を書いた文学の微妙に屈折した筆使いの中にもうかがうことができます。彼は私のことをあからさまには何一つ書きませんでした。筆にするにはあまりにもその思いは重く激しいものだったのでしょう。しかし、どの作品にも私の面影が投影されているのを感じずにはいられません。
[やぶちゃん注:自分一人にのみ、鮮やかに焦点を絞る花子さんの絶対の自信には、流石に呆れ返る以上に、最早、病的と批判するよりも、素直に『凄い』と感嘆せざるを得ない。この自信あればこそ、貴重な芥川龍之介関連の知られていなかった事実が彼女によって残ったのであるから。
「S夫人」歌人秀しげ子。既婚者。以下、判り切った芥川龍之介の愛した女性として、誰もが知られた人物であり、私の記事も多くあるので、今さらに各個解説は附さない。
「彼がその才能に畏敬した十七歳も年上のアイルランド文学者夫人」片山廣子。未亡人。
「彼が死を共にしようとした文子夫人の友人Hさん」文の幼馴染みの友人平松麻素子。独身。]
私は今、芥川さんとのまじわりの地横須賀で静かな余生を送っています。このまま芥川さんへの思いを胸に秘めて、どなたにも告げずにこの世を立ち去ろうかとも思いますが、彼の真実を知らずに、芥川さんの文学が読まれていくことは、彼への不実のような気がしてならず、はじめて筆をとった次第です。
窓べから仰ぎ見る横須賀の空には芥川さんの私への愛を秘めた瞳の光があります。今もなお、私への愛をそそいでいる芥川さんの思慕を私はひしひしと感じ、それは私を見詰めてはなしません。彼のそばに寄りそって、苦しみの孤独な影をひきずって歩み続けた彼の白い涙をぬぐってやれるのは私だけなのです。
君がまこと残さんものと思いけり 老いて涙む身の愚か心に
[やぶちゃん注:言うまでもないが、最後の短歌は、佐野花子さんの自作である。但し、前掲した佐野花子・山田芳子(花子さんの実娘)「芥川龍之介の思い出」の佐野花子「遺詠」パートの中に、酷似する一首を確認出来る。以下に示す。
*
君がまこと残さむものと思ひけり老いて病む身のはかな心に
*
字空け、及び、下句の表現に違いが認められるものの、この一首の初期形、或いは、別稿・異稿と見て全く問題ない、と私は断ずるものである。
最後に。⋯⋯自らの遠くないであろう死を自覚され、而して
――自身の最も美しかった時間――芥川龍之介に愛された時間――を切り取って、ここに――永遠の若き自身と若き『愛人』芥川龍之介とを――永久に二人だけの世界として結晶させること――
が、花子さんの願いであったものと思う。後半部の異様な言い換えの部分はさて置いて、私は、この作品を電子化注して良かったと、素直に、今は、感じている。
追伸。この「遺詠」は、近日中に、全首を電子化注しようと考えている。]
佐野花子「私は芥川龍之介のかくれた愛人だった」禁欲的必要最低限注附き/終り
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