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2026/09/05

「因幡怪談集」(恣意的旧字化・オリジナル注附き)/「靑木氏家に靈有る事」

[やぶちゃん注:底本、及び、凡例その他は、初回を参照されたい。]

 

 靑木氏家《あをきしいへ》に靈《れい》有る事

 

 天祥院公《てんしやう》御代《みよ》、御用人《ごようにん》、相勤居《あひつとめをり》ける人、

「此家《このいへ》に、靈、有りて、見たる人、多《おほく》有りけり。」

と沙汰《さた》しけり。

 佐藤庄助《さとうしやうすけ》は、其《その》時、奧に出來《いでき》、書記役にて、每日、行(ゆき)けり。

 夏の時分にて、夕飯後に、座敷の次の閒(ま)にて、書狀など、したゝめ、すでに晚、申(さる)の刻(こく)過《すぎ》て、大形(おほかた)、暮前《くれまへ》也。

 用事、調度[やぶちゃん注:ここは副詞「丁度(ちやうど)」の誤記であろう。]、思ひ、雪隱(せつちん)[やぶちゃん注:厠(かはや)・便所。]へ、行(ゆき)けり。

 庭の木立《こだち》、しげり、ほのぐらき所なり。

 何心《なにこころ》なく、雪隱の戶を明《あ》けるに、內(うち)に、歲《とし》の頃、十七、八歲斗(ばかり)なる女《をんな》、居(をり)けり。

 庄助も、ふしむ[やぶちゃん注:「不審(ふしん)」。既に第一話にも出た、本書の作者の慣用誤字。]に思ひけるが、

『ぞつ』

として、身の毛も立斗(たつばかり)にや、覺へ[やぶちゃん注:ママ。「覺(おぼ)え」の誤記。]けり。

 其(その)まゝ戶を立(たて)、出(いで)けるが、心の內《うち》、いよいよ、ふしむ[やぶちゃん注:先に同じで「不審」。]し、

『是(これ)は。亭主の妻か。何樣(なにさま)、勝手《かつて》は、遠し。女など、入來(いりき)る所に、あらず。』

と思ふ所に、其家(その《いへ》)の若黨(わかとう)、いそぎ、來(きた)りけるが、庄助が顏色《かほいろ》も、常《つね》ならず、見へ[やぶちゃん注:ママ。「見え」。]ければ、若黨、庄助に申(まうす)やう、

「御用事《ごようじ》、御調候(《おん》とゝのひさうら)はゞ、此方(この《かた》)へ御越《おこし》し候《さふら》へ。」

といふ。

 庄助、心得て、案內《あない》する所へ行(ゆき)けり。

 扨(さて)、歸りて、若黨(わかとう《→わかたう》)、庄助に申(まうし)けるは、

「何《なん》ぞ、かわり[やぶちゃん注:ママ。「かはり」(變り)。]たる事も御座候哉(ござさうらふや[やぶちゃん注:ママ。「ござさふらふや」が正しい。])。御《おん》けしき、惡敷御座候(あしくござさうらふや)。御咄候(おはなしさうら)へ。」

と、申(まうす)。

 庄助、つゝまず、右の次第を、語る。

 若黨(わかとう《→わかたう》、うなづき、

「とくにも[やぶちゃん注:「疾(とく)にも」。「もっと前から」の意。]、御咄申筈(おはなしもうすはず《→おはなしまうすはず》)に御座候所(ござさうらふところ)、失念致候(しつねんいたしさうらふ)。あの雪隱(せつちん)は、折惡敷《をりあしく》參り候(さうら)へば、每度、ケ樣(かやう)の事、御座候(ござさうらふ)。去共(されども)、くるしからぬものなり。」

と申(まうす)。

 庄助も、

「かの女を見《み》、ぞつと、身の毛立《けだち》て、顏色《がんしよく》あしく成(なる)事、若黨(わかとう《→わかたう》)のおもわく[やぶちゃん注:「思惑」。]、はづかしく存《ぞんず》る。」

と言《いひ》けり。

 其時、此(この)家に、靈、有(ある)事を、知りけり。

 夫(それ)より、十四、五年も過(すぎ)て、米村平作、御城にて、庄助《しやうすけ》に逢(あひ)、ひそかに、右の咄《はなし》、聞(きゝ)けり。

「我やしきがへ致候(いたしさうらふ)に付(つき)、其(その)實《じつ》を承度(うけたまはりたし)。」と、言《いひ》ける、と、なむ。

 其(その)時分は、庄助、御祐筆役(ごひつやく)なり。

 此(この)咄、庄助、物語(ものがた)り也(なり)。

 

[やぶちゃん注:「靑木氏家《あをきしいへ》」ネット検索したところ、信頼出来る複数のサイトで「青木」姓の藩士は、いる。しかし、本話のニュアンスでは、ロケーションとなる屋敷は、一介の藩士の家ではなく、御用人・書記役が出入りする屋敷であるからには、相応の高い地位にある人物でなくてはならない。と言うより、標題の「青木氏」の「家」とする具体な表現が、本文そのものに出現しないのは、極めて奇異である。これは、青木家が、由々しき高位の人物ゆえなればこそ、姓を示すのを、遠慮したものとも考えられた。そこで、国立国会図書館デジタルコレクションで「因幡 青木 御用人」で検索を行ったところ、一つの論文を見つけた。大嶋陽一・四井幸子・芝田尚子共著『鳥取県鳥取藩領因幡国岩井郡大庄屋中島家「御用日記」翻刻 その二』(『鳥取県立博物館研究報告』・二〇一三年三月三十日発行)で、そこに『御郡奉行』で『吟味役』の『青木甚太夫』なる人物が記載されてあった。解説に『正徳元、二年』『(一七一二、一三)』の『当時の』『関係役人』『在方役人』であることが示されており、この青木甚太夫の十数件の記載が確認出来る。この時期は、次で注した本話の時制内に含まれている。されば、この「靑木家」とは、この『青木甚太夫』であることが、ほぼ確定出来るのではあるまいか?

「天祥院公《てんしやう》御代《みよ》」「天祥院」は因幡国鳥取藩第三代藩主池田吉泰(貞享四(一六八七)年~元文四(一七三九)年)の戒名の院号。彼は、鳥取藩主池田光仲の次男池田仲澄の長男であったが、元禄八(一六九五)年、九歳の時、鳥取藩二代藩主池田綱清の養子となった。元禄一三(一七〇〇)年、十四歳で、綱清より、家督を譲られ、没年まで藩主を務めた。

「佐藤庄助」最後に、聴き取りした際には「御祐筆役」であったとあるが、調べてみたが、不詳。

「申(さる)の刻(こく)」午後三時から午後五時だが、続いて「過《すぎ》て、大形(おほかた)、暮前《くれまへ》也」とあるので、午後五時過ぎである。

「用事、調度、思ひ、雪隱(せつちん)へ、行(ゆき)けり。」割注では、『副詞「丁度(ちやうど)」の誤記であろう。』と書いたが、この一文を眺めるに、文章としては、おかしい。『やらねばならない「用事」を忘れていたのを思い出したのだが、丁度、便意を催していたので、ともかく、急ぎ、雪隠に行った。』という謂いであろう。なお、「雪隱」の語源は、ネットに幾つかあるが、森本行洋(もりもとゆきよし)氏のサイト「古墳のある町並みから」の『「せっちん」の由来について考える』がよい。複数説をそれぞれ考証しており、お薦めである。

「勝手」台所。

「若黨」武家奉公人の一種。中世では、年輩の侍である「老党」に対し、主人の身辺に仕えた若輩(じゃくはい)の侍に使った。近世では、大身の武家に仕えた軽輩を指し、その身分は徒士(かち)と足軽との中間に置かれ、始終、主人の身辺にあって、雑務・警固を担当した。彼らは百姓・町人出身の一季・半季の出替(でがわり)奉公人であり、給金は一ヶ年三、四両を相場とした(以上は小学館「日本大百科全書」を主文とした)。

「米村平作」国立国会図書館デジタルコレクションの「鳥取県の諸職 鳥取県諸職関係民俗文化財調査報告書」(鳥取県立博物館編・一九八六年鳥取県教育委員会刊)のここで、『享保16年、米村平作の領内大船造りの奨励策があり』とあり、時制上も問題ないので、この人物である。一応、「こめむらへいさく」と読んでおく。

「御祐筆役(ごいうひつやく)」。「祐筆」(祐筆:現代仮名遣「ゆうひつ」)は「右筆」「執筆」とも表記する。中世・近世に置かれた武家の秘書役を行なう文官。本来は、文章の代筆が本来の職務であったが、徐々に公文書・記録作成等も行った結果、事務官僚としての重い役目を担うようになっていった。]

2026/09/04

「因幡怪談集」(恣意的旧字化・オリジナル注附き)/「阿波國の浪士に生靈の付居ける事」

[やぶちゃん注:底本、及び、凡例その他は、初回を参照されたい。] 

 

 阿波國《あはのくに》の浪士《らうし》に生靈《いきりやう》の付居(つきをり)ける事

 

 光仲公《みつなかこう》御代(みよ)、阿波の浪士壹人(いちにん)、因幡に來(きた)り。身上《しんしやう》、望居(のぞみをり)ける程に、若き衆(しふ→《しゆう》)、ちなみ、多く成り、其(その)中にも、わけて、四、五輩、こむせつに[やぶちゃん注:「懇切(こんせつ)に」。]參會《さんくわい》しけり。

 然(しか)るに、此(この)浪人、夜《よる》は、咄《はなし》に出(いで)けれ共(ども)、五時分《いつつじぶん》[やぶちゃん注:近世の時刻の数え方。ここは、「夜五ツ」で、現在の夏至で午後九時過ぎ、春分・秋分では八時半頃、冬至で午後八時前頃を指す。]には、

「用事あり。」

とて、早く歸りけり。

 度々(たびたび)の事なれば、人々、ふしむ[やぶちゃん注:「不審(ふしん)」。後に複数回出るが、注は、しない。]して居(おり《→をり》)けり。

 其身(その《み》)の宅へ呼(よび)ても、五時分には、いねぶり[やぶちゃん注:「居眠り」。]ければ、咄に行(ゆき)ける人も、早く、歸りけり。

 人々、打寄(うちより)、

「いかにとしても、ふしむなり。其身(その《み》)、獨身成(な)り。外《そと》に、用事、可有(あるべき)に、あらず。如何樣(いかさま)、『忍《しの》び妻《つま》』なども有りけるや。其儀(その《ぎ》)ならば、申合(もうしあはせ《→まうしあはせ》)、四、五人、夜話《よばなし》に行(ゆき)、樣子をうかゞひ、一笑《いつしやう》すべし。」

と、三、四人、言合《いひあは》せ、暮《くれ》時分より、壹人(いちにん)づゝ、寄集(よりあつま)り、申《まうし》けるは、

「今夕(こんせき)は、幸(さいわい《→さいはひ》、何れも𨻶(ひま)也(なり)。夜更《よふけ》る迄(まで)、咄(はなす)べし。」

と、いへば、亭主も悅(よろこび)、

「忝(かたじけな)し。」

とて、もてなし、物語、時をうつしける。

 夜も、やうやう、更(ふけ)ぬれば、

「もはや、皆々、御歸り候(さうら)へ。」

と、いへば、四人の若者、申(まうし)けるは、

「『今夕(こんせき)は、迚(とて)もの事に、夜明(よあか)しに咄(はなす)べし。』とて、申合(まうしあはせ)、來《きた》りたり。御ふせう[やぶちゃん注:「御不承」。]ながら、御咄(おはなし)候(さふら)へ。」

と、いへば、亭主、打笑(うちわらひ)、

「たゞし、何も、もてなしはなけれども、夜明(よあか)しに語給(かたりたま)へ。」

とて、木枕(きまくら)取出(とりいだ)し、樂《らく》に、ねころび[やぶちゃん注:「寢轉び」。]、咄(はなし)ける。

 夜も、やうやう、丑(うし)の刻(こく)になりければ、いねぶり、しきりに付(つき)たり。

 然共(しかれども)、四人、目と目を見合(みあはせ)て、こらへたり。

 亭主は、とくより、ね入て[やぶちゃん注:「寢入(ねい)りて」。]、前後も、しらず。

 然(しか)るに、誰共(《たれ》とも)しらず、緣《えん》のしやうじを、しづかに明(あけ)て、入者(いるもの)あり。

「何ものぞ。」

と、見れば、十六、七斗(ばかり)なる、みめよき女房なり。

「さればこそ。」

とて、四人ながら、ね入(いれ)たるたい[やぶちゃん注:「體・躰」等だが、「てい」が普通。]にて居(をり)けるに、此女房、亭主が側《そば》へ、立寄(たちより)、見て、立上(たちあが)り、座敷のてい[やぶちゃん注:漢字は前に同じ。]を見て、立出(たちいで)て、又、しやうじを、しづかに明(あけ)て、外へ出《いで》て、しやうじを、たてける時、見けるに、しやうじに、かゝりける指、うつくしき事、言ふ斗(ばかり)なし。

「扨は、いよいよ、しのびものに、違《たがひ/ちがひ》、なし。」

と思へども、此(この)女《をんな》、入來(いりきた)る時分より、歸るまで、夢うつゝ共(とも)、しかと、覺へず[やぶちゃん注:「覺えず」が正しい。]。

 是(これ)、ふしむ[やぶちゃん注:前に同じ。]の所なり。

 とかくする內(うち)、夜明(よあけ)近くなりければ、みなみな、

「歸らむ。」

とて、亭主に、いとまごひをするに、能(よく)、ね入(いり)て居(をり)けり。

 人々、立寄(たちより)、

「もはや、目さまし給へ。」

と、いへば、亭主、目を覺《さま》しければ、四人の者、口を揃(そろへ)て、くたむ[やぶちゃん注:「件(くだん)」。]の樣子を物語(ものがたり)、

「こなたには、隨分、入魂(じつこん)に致(いたし)、御咄し申(まうす)に、かくのていは、よそがまし。」

と、うらみ、かこち、申(まうし)けれは、亭主、聞《きき》て、

「御ふしむ、御尤に候。扨々(さてさて)、はづかしき事ながら、其(その)實(じつ)を明(あか)さむ。我(われ)、生國《しやうごく》阿波(あは)にて、若き時、去(さる)町人の娘《むすめ》、みめ好(よき)に、ほだされ、ふと、なじみて通《かよ》ひけるが、元(もと)より、身上《みのうへ》、望(のぞみ)有れば、『妻など、相具(あいぐ《→あひぐ》)すべきやう、なし。』と思ひ、緣を切り、其後(その《のち》)、御當國《おんたうごく》へ參りけるが、女は、ふかく、思ひにしづみけるにや、さまざま、はなれがたきやうす[やぶちゃん注:「樣子」。]申越(まうしこし)けるが、され共(ども)、二盃《ふたつさかづき》とり、合(あひ)もせざりしに、親どもは、此事を、しらざりしにや。まもなく、同じ町人の方《かた》へ、遣(つかは)しけり[やぶちゃん注:嫁に行った。]。されば、なじみて、子も、二人、出來《できたる》たるよし。され共(ども)、此女(この《をんな》)、執心(しうしん)、今に殘りけるか、『阿波より、爰元(ここもと)へは、海上《かいじやう》を、かけ、山川(さんせん)、數十里をへだてたれ共(ども)、其(その)執心(しうしん)は、かよひ申(まうす)や』と覺へ[やぶちゃん注:ママ。「覺え」が正しい。]候《さふらふ》。しかれば、每夜、丑(うし)の刻(こく)[やぶちゃん注:午前二時。或いは、午前一時から午前三時の間。]の頃に、ゆめのやうに覺(おぼへ《→おぼえ》)、見へ[やぶちゃん注:ママ。「見(まみ)え」。]來《きた》り候(さうらふ)。今夕(こんせき)、皆々へ見へ[やぶちゃん注:ママ。「見え」。]ける事、近頃《ちかごろ》、近頃、はづかしき事《こと》。かならず、外《ほか》へ、御沙汰(おさた)、御無用(ごむよう)。」

と、申(まうし)ける。

 人々も、きひ[やぶちゃん注:ママ。「奇異(きい)」。]の思ひを、なしけり。

 扨(さて)、退參《たいさん》して後《のち》は、此(この)浪士、ふらふらと煩(わずらひ《→わづらひ》)けるが、半年斗(ばかり)過《すぎ》て、むなしく成(なり)けり。此咄(この《はなし》)、其(その)出合《いであひ》し四人の內《うち》、吉田氏(よしだし)の物語なり。

 

[やぶちゃん注:「光仲公《みつなかこう》御代(みよ)」因幡鳥取藩初代藩主池田光仲(いけだみつなか 寛永七(一六三〇)年~元禄六(一六九三)年:脳卒中により死去で享年六十四(満六十三歳))。徳川家康の外曾孫で、別姓は松平。寛永九(一六三二)年四月三日に父忠雄(ただお/ただかつ)が死去し、わずか三歳で家督を継いだので、後見人が充てられた。彼が領国に初入国し、鳥取城へ入ったのは、寛永一八(一六四一)年であった。貞享二(一六八五)年に長男綱清(つなきよ)に家督を譲って、隠居している(以上はウィキの「池田光仲」に拠った)。さて、この「御代」は、物理的には、事実上の寛永九(一六三二)年から貞享二(一六八五)年までを閉区間となるもの、冒頭注で示した通り、本「因幡怪談集」の所収の話の中で、年代の下限は寛延二(一七四九)年であると、校訂者伊藤龍平氏は述べておられることを考慮すると、最後に出る、実際に、この話に登場する『吉田氏』が存命でないとおかしい(未詳の本書の筆者が直(じか)に聴いた話とするのが、この手の怪談の鉄則である)ので、自ずと、この「御代」は、実際には以上の区間の、かなり後半での時制に限られてこよう。なお、初回に冒頭注でも触れたが、伊藤龍平氏は「解題」の中で、この「因幡怪談集」の作者は『武士階級に属する者であったのは間違いない』とし、さらに各話の年代設定に言及され、この光仲に係わる話を指示して、『これ以前の話は『因幡怪談集』にはない。編者が因幡藩士であることを思えば当然の仕儀ではある』と述べておられる。

   *

この話、実話談の体裁を採っており、全体に創作的な臭さが、ない。似たような怪談は私の電子化注したものには、かなりあるが、必ず、わざとらしい箇所があるのが普通である。されば、私は、これを高く評価するものである。]

「因幡怪談集」(恣意的旧字化・オリジナル注附き)~起動/「岩井郡浦留にての妖怪の事」

[やぶちゃん注:ブログ・カテゴリ「怪奇談集Ⅱ」で『「因幡怪談集」(恣意的旧字化・オリジナル注附き)』を起動する。この作品は、ネットで調べても、ちゃんとした書誌データが見当らないものであり、筆者不明で、これは、現在、鳥取県立図書館が所蔵するもの以外には存在しないものであり、恐らく、御存知ない方の方が圧倒的に多いと思われる。所持する二〇〇三年国書刊行会刊『江戸怪異綺想文芸大系 第五巻』(高田衛監修・堤邦彦/杉本好伸編)の「近世民間異聞怪談集成」(二〇〇三年刊初版)に所収する伊藤龍平氏が校訂されているもののみが、現在、活字で読める唯一のものである。国立国会図書館デジタルコレクションで横断検索しても、ものになる記載は皆無であった。結果して、信頼出来る書誌情報は、前掲書の伊藤氏の解題に拠る以外には、ない。以下、ポイントを押さえて示す。

 本鳥取県立図書館蔵の「因幡怪談集」は、写本で、現在まで、他の伝本は見つかっていない。但し、写本を書いた人物は『裏表紙の「重松宣喜』(のぶき? のぶよし?)『蔵書」『とあり、書写の時点で』、『すでにこの題が用いられていたらしい』と述べられた後、初っ端から『成立については不分明な点が多い。』と記しておられる。そして、この写本は、実際の本文を持つ立項話は『三十八話から成るが、目録題の後には「追加」と記されており、現存の『因幡怪談集』よりも収録説話の多い原『因幡怪談集』と呼ぶべき作品が存在していたことが推察できる』とし、「目錄」の途中に、書写した重松氏によって――本文がなく、目録だけで、その当該話柄が載っていない。追って知れる者があったなら、追加して、書き入れる。――と言った意味の注意書きがあって、しかしながら、実際に、その十二の目録標題に相当する本文は、遂に写されていない、と解説され、『この点からも原『因幡怪談集』の存在が裏付られよう。』とある。しかも、私自身も、解題を読まずに、「近世民間異聞怪談集成」本文を読んだ際、奇妙に感じたのだが、本文の途中に、別な目録が十四題、突如、載るのである。そこで、伊藤氏の解題を見たところが、これを『不可解』とされ、『二つ目の目録以前の話』『と以後の話』『を比べてみると、記述に若干の相違が見られる』とされ、『前半の話に多い年代の明示』『が後半にはほとんど見られず、わずか一話にとどまる』ことなどから、『これを単純な錯簡とは見做せないのである』と述べておられる。而して、伊藤氏は、よく似た同一地方に限った怪奇談集を考証して見るに、『当時の因幡地方において、怪談が好まれる気風があったことは想像に難くない。『因府夜話』は寛保年間の成立、『雪窓夜話』は宝暦年間の成立である。『因幡怪談集』所収のうち、年代の『因幡怪談集』所収の話のうち、年代の下限は寛延二年(一七四九)で、成立はこの少し後と推察される』と述べておられる。以下、本篇の怪談を、柳田國男が提唱した『今日の説話の分類でいうところの世間話(同時代が舞台の、いくぶん真実味のある話)に相当』するとされ、さらに、各話の主人公の身分から、『原本の編者が、武士階級に属する者であったのは間違いない』と解析されておられる。伊藤氏の解題は、本「近世民間異聞怪談集成」の中でも、目から鱗で、群を抜いて素晴らしいものである。同書から、今まで複数の「怪奇談集」で基礎データを使用して電子化注をしてきたが、この本の他のものの中には、驚くべき杜撰な箇所が散見するものがあり、定価一万九千八百円という大枚に何度も憤激を感じたものだったが、今回は、溜飲を下げたものであった。そういう意味で、不肖な私乍ら、伊藤氏を非常に高く評価させて戴くものである。

 なお、以上の伊藤龍平氏校訂になる「近世民間異聞怪談集成」の本文をOCRで読み込み、加工データとした。ここに御礼申し上げる。

 ここでは、私のポリシーとして

◎漢字は、基本、恣意的に旧字に変更した。

少なくとも、その方が、結果して原本に近い可能性が高くなるという推断からである。

各個標題は五字下げポイント上げであるが、ブラウザの不具合を考え、一字下げ同ポイントとした。

◎ルビは、( )で添えた。

◎原本が歴史的仮名遣を誤っている箇所(かなり多い)は《→ 》で添えた。

◎読みの補助が必要と私が判断したものについては、推定で歴史的仮名遣で《 》を以って、訂した。読みが複数ある場合は、第一候補を前に「/」を挟んで示した。

◎句読点については、私が正しいと判断したものに変え、或いは、あった方がいいと判断した箇所には、独自に追加してある。

◎直接(間接)話法・心内語、及び、あった方が読み易いと考えた箇所は、自由に改行した。

◎心内語の場合は二重括弧で括った。

◎踊り字「〱」「〲」は、私が生理的に嫌いなので、正字に換えた。

◎概ね、若い読者を対象として、オリジナルに注を附した。

 なお、二つ存在する標題目録は、凡てが終わったところで示すこととする。]

 

 岩井郡《いはゐのこほり》浦留《うらどめ》にての妖怪《やうくわい》の事

 

 享保(きようほう《→きやうほう》)年中の事也(なり)。

 浦留は、鵜殿《うどの》大隅領所《おほすみりやうしよ》也。屋敷茶屋、有り、家來も數輩(すはい)、住(ぢゆう)す。

 然(しか)るに、給人分《きふにんぶん》の者何某(なにがし)、此人(この《ひと》)、夜獵《やれふ》を好(このみ)て、大方(おほかた)、每夜《まいよ》、出行(いでゆき)けり。

 又、或(ある)時、日暮《ひぐれ》て、秋の事也(なり)しに、例のごとく、出行(いでゆき)けり。

 常に出入(いでいり)ける町人《ちやうにん》、來り、其人を尋(たずね《→たづね》)けるに、はや、例《ためし》の通(とおり《→とほり》)、夜獵に出《いで》て、留守なり。少し用事も有《あり》けるにや、其人の歸るを待《まち》て、夜半過(やはんすぎ)まで居(をり)けれども、歸らざりければ、ふしむ[やぶちゃん注:「ふしん(=不審)」の原本の誤記。]をなし、

「いつも、亥(ゐ)の刻(こく)の時分には御歸《おんかへ》り候(さうらふ)が、何とて、ケ樣(かやう)におそく御歸候(《おん》かへりさうらう《→かへりさふらふ》)や。若(もし)、又(また)、氣分共(とも《→ども》)、惡敷(あしき)は、是(これ)、なきや、心もとなし。」

とて、

「むかゐがてら[やぶちゃん注:「迎へがてら」の誤記。]に參候半(まゐりさうらはん)。」

と、男壹人(いちにん)、召連(めしつれ)、いつも行(ゆく)山路《やまぢ/やまみち》は存《ぞんじ》の事なれば、男と貳人(ににん)、松明(たいまつ)を、とぼし、むかい[やぶちゃん注:ママ。「むかひ」。]に出(いで)けり。

 いつも行(ゆく)山路へ行(ゆき)けるに、道より、少し、ひきゝ[やぶちゃん注:「低(ひき)き」。]所、有(あり)。

 たれ共(とも)しらず、人の、ふし[やぶちゃん注:「臥し」。]たるやうに見へ[やぶちゃん注:ママ。「見え」。]ければ、松明(たいまつ)を、ふり上(あげ)、あかりにて、能々(よくよく)見れば、其(その)人なり。

 立寄見(たちより《み》)れば、息たへ[やぶちゃん注:ママ。「息たえ」。「息絕え」。]て、伏《ふ》しい[やぶちゃん注:ママ。「ゐ」]たり。

 貳人(ににん)の者、驚(おどろき)て、水など、求め、口にそゝき[やぶちゃん注:「注(そそ)き」。]ければ、いき出(いで)たり。

 やうやう、人心付(《ひとごころ》つき)、本正(ほんせう[やぶちゃん注:ママ。「ほんしやう」。])になりて、

「これは。いかやうの事にてか。」

と、尋(たずね《→たづね》)ければ、其(その)人、申(まうす)やう、

「例《れい》の通り、引(ひき)[やぶちゃん注:目的語は「犬を」。]、方々(ほうぼう[やぶちゃん注:ママ。「はうばう」。])あるきけれども、得物(えもの)も、なし。『もはや、夜、(ふけ)更たり。歸らむ。』と、犬を引(ひき)、歸りけるに、此上の山にて、犬、すゝまず。しかれ共(とも[やぶちゃん注:「ども」に同じ。])、追立(おひたて)て、前ヘ、やりけるに、犬、何方(いずかた[やぶちゃん注:ママ。「いづかた」。])へやら、不通(ふつう)に、見へず[やぶちゃん注:犬の反応がなく、闇の中に見えなくなって、姿を失ったことを言う。]。くらき夜なれば、しばし[やぶちゃん注:「暫し」。]、たゝずみ、犬を呼《よび》けるに、何ものともしらず、犬を、我(われ)に、打(うち)つけたり。『こは、いかに。』と思ひ、刀《かたな》の柄(つか)に、手をかけ、見るに、ぬけず。とやかくする內《うち》に、何やら、我(わが)首筋《くびすぢ》を、つかみ、『中《ちゆう》を、なけられし。』[やぶちゃん注:何者かに中空(ちゅうくう)に投げられた。]と思へば、氣をうしなひ、前後不覺(ぜんごふかく)。」

と言(いふ)。

 犬を尋ねけるに、四、五閒(けん)[やぶちゃん注:七・二七~九・〇九メートル。]外《そと》の笹原《ささはら》に、二つに引(ひき)さき、捨《すて》て、有(あ)り。

「まづ、はやく、歸られ候(さうら)へ。」

と打連(うちつれ)、宿《やど》に歸りけるに、夜《よ/よる》も、ほのぼのと明(あけ)たり。

 其後(その《のち/ご》)、かはりたる事も、なし。

 思へば、天狗か、山の神の所爲(しよゐ)と見へたり。

 

[やぶちゃん注:「岩井郡《いはゐのこほり》浦留《うらどめ》」平凡社「日本歴史地名大系」の「浦富村 うらどめむら」に拠れば、旧『鳥取県岩美郡』(いわみのこおり)『岩美町』(いわみちょう)『浦富村』とし、現在地名を『岩美町浦富』とし、『現岩美町域の中央北端に位置する。する。正確には、現在は鳥取県岩美郡(いわみぐん)岩美町(いわみちょう)大字(おおあざ)浦富(うらどめ)で、ここである(グーグル・マップ)。以下、『正保期(一六四四―四八)作成と推定される因幡国絵図(県立博物館蔵)に浦住宿とみえる。元禄郷帳作成時に浦富村と改めたが(元禄一四年「変地其外相改目録」県立博物館蔵)、浦留』(☜)『とも記し(「在方御定」など)、南の町浦富(まちうらどめ)村に対して、本浦住村・本浦留(もとうらどめ)村・浜浦富(はまうらどめ)村とも通称された(「檀徒寄進帳」金剛院旧蔵など)。天正九年(一五八一)から慶長五年(一六〇〇)まで巨濃(この)郡を領有した垣屋恒総』(かきやつねふさ)『が南西の桐山(きりやま)城を本拠地として桐山東麓に居館を構えていた。西にある支村の田後(たじり)村は享保一九年(一七三四)以前に領内限りで一村となっていたと考えられる(同年鈴木孫三郎所持本「因幡誌」など)。藩政期の拝領高は六三〇石余。本免は四ツ九分。山役米一斗を課されており、天保三年(一八三二)の山林は二八町三反余(藩史)。鵜殿氏』(☜)『の給地であった(給人所付帳)。前掲「因幡誌」によれば高八七〇石、竈数四〇余。文政五年(一八二二)の岩井郡組合帳(勝山家文書)によれば家数九五』とあった。

「享保(きようほう《→きやうほう》)」一七一六年から一七三六年まで。謂わずと知れた吉宗の治世。

「鵜殿《うどの》大隅領所《おほすみりやうしよ》」まず、鵜殿氏であるが、しばしばお世話になっているサイト「城郭放浪記」の「因幡 鵜殿大隅陣屋」に拠れば、『鵜殿氏は鳥取藩主池田氏の家老で五千石を領した。池田光仲の父池田忠雄の生母督姫は家康と鵜殿長持の娘との間に生まれた子で、鳥取藩鵜殿氏はその縁によって家老を務めた。』とある。そして、ネットで調べると、この鵜殿氏は、代々、通称として「大隅(おおすみ)」を名乗る人物(「鵜殿大隅守」など)を多く輩出しており、彼らが治めた鳥取県内の自分手政治(じぶんてせいじ:家老が独自の裁量で治める特別な領地)の区域・拠点を「大隅領」あるいは「大隅陣屋」と呼ばれたのであった(ネットのサイトによっては、「大隅」を「大隈」と表記するものもある。読みは同じであろう)。而して、現在、浦富地区に「旧:御陣屋(鵜殿大隅陣屋跡)」がある。本話のロケーションを理解し易くするため、同陣屋後背にある山地地帯を見ることが出来るグーグル・マップ航空写真をリンクしておいた。また、左のサイド・パネルのこの画像で、岩美町教育委員会による解説板「御陣屋跡」を視認出来るので、見られたい。

「屋敷茶屋」これは、狭義には、恐らく「お茶屋屋敷」で、江戸初期に徳川家康が上洛の往還に際し、休泊のために岐阜県大垣市に設けた施設を指すが(当該ウィキを見よ)、ここでは、鳥取藩(因幡国・伯耆国)にあって、前に出した重臣が治めた自分手政治の特別な地区内の武家屋敷(陣屋・自分屋敷)の周辺に、商業的な茶屋が附属的にあったものを言っているものと思われる。

「給人分《きふにんぶん》の者」この場合は、広義の、主君から領地・扶持(俸禄)を貰っている家臣の上・中級の武士を指していよう。下級武士になると、領地はない場合もあろうが、この男、「夜獵《やれふ》を好(このみ)て、大方(おほかた)、每夜《まいよ》、出行(いでゆき)けり」とあることから、以上のように採った。でなければ、夕刻から夜間に、年がら年中、自由に、正式には陣屋領である後背の山間などに入って、自由に狩猟をするなどというのは、絶対にあり得ないことだからである。

「亥(ゐ)の刻(こく)」定時法では、ほぼ午後九時から午後十一時。不定期法では、秋は九時頃から十時四十~五十分頃まで。

「山の神の所爲(しよゐ)」個人的には、これには違和感がある。山の神は禁忌に厳しいとされ、山の神の祭日とされる期間の人の入山を嫌い、ウィキの「山の神」には、『長野県南佐久郡』の例として、『大晦日に山に入ることを忌まれており、これを破ると「ミソカヨー」または「ミソカヨーイ」という何者かの叫び声が聞こえ、何者か確かめようとして振り返ろうとしても首が回らないといい、山の神や鬼の仕業と伝えられている』とある。当事者の語りの中の『何やら、我(わが)首筋《くびすぢ》を、つかみ、『中《ちゆう》を、なけられし。』』という異常体験と、やや似ているように見えはするが、私が知っている限りで、確かに「山の神」の行為として――犬をまっ二つに引き裂いて捨てる――という残忍な仕打ちをするというのは、彼女らしくないからである。

2026/09/02

「駿國雜志」(内/怪奇談)電子化注~同怪奇談の部の「目錄」(全)

[やぶちゃん注:今年の六月九日に本文注を終えていたのだが、他の複数のプロジェクトがあったこと、及び、私の意志ではない下界の仕事が意想外に増えたため、最後に「目錄」を附すのを、すっかり忘れていた。ここに、お詫びする。

 底本では「目錄」は、ここからと、ここからに分離してある。原文は御覧の通り、四段組であるが、ブログのブラウザの不具合を考え、二段組とした。また、底本が綺麗に各標題を各段で均等割にしてあることや、字下げ・各中標題(郡名)・標題の中の字空け等は、一部を除いて、再現していない。各話へのリンクも面倒なので、附していない。但し、私のブログ・カテゴリ「怪奇談集Ⅱ」を開いた状態でご覧になられれば、容易に当該話を見出せるので、それでお願いする。]

 

駿 國 雜 志 卷之廿四上目錄

 

   怪    異

    有  渡  郡

天女失羽衣      子安神奇

献蠶產成字      㷠火

猫蜜柑        龍飛舟

石燈龍靈驗      馬骨治病馬

地藏佛食麪      笛吹松

神戱         姥か池

櫻塚         古墳靈驗

靈佛顯梢上      地藏佛好酒

面形有靈       村神忌縨

楠皮治瘧       臺所町無井

奇獸         蛇怪

弁忍田池龍      彌陀佛苗植

軍神坊の奇      狐唄謠

釜領の怪

    庵  原  郡

諸貝化石       北條氏堯現靈

孕女爲崇       龍落爪爲山名

龍爪神異       三角白鹿

白髭社怪       牛化石

布疊         蛸化爲僧

奇兒現橋上      幽靈火

藥師佛乘蟹出現    菊女爲祟

大船若經の奇怪    淸見關觀音告凶

    富  士  郡

雨灰         大宮神木發煙

獵師殺鬼       毒龍受牲

人穴怪        富士河怪

富士山北麓鼠怪    富士沼水鳥怪

人穴奇怪       富士山奇景

曾我祐成幽魂告苦

 

 

 

駿 國 雜 志 卷之廿四下目錄

 

   怪    異

    駿  東  郡

神木鳴動       釜化河伯

箭柄墳奇事      桃澤池奇怪

小龍爲佛身      私雨

    安  倍  郡

國分寺大蛇呑經    國分寺藥師佛奇

賤機山奇瑞      白狐裂死

雨米花        稻荷神爲方違

山吹猫        出世猫

禁杜若謠       禿榎

山姬井        杜若小屋

狸小屋        嘹小屋

逆柱爲怪       良眞靈

花畠怪        僧眞範怨鬼

兩蝕         怪男

奇男         奇火

夕日如火       府中町怪異

飛神         怪雷告凶

怪雲         大風雨遲速

飢饉騷動       狸施灸治

陰摩羅鬼       法明寺楠

椎田池怪       木枯森奇

鯨池龍        海野某顯靈

淺畑池夥池雩     肥付石

老婆殺河伯      異人行翁

祖益化牛       淚雨

異獸         こもとうの靈

山神悅惣髮      山男

產女         生奇竹

壯士契亡妻      うば狐

芭蕉謠の怪      杜若の精靈告凶

御城內犬の奇     神隱

燈明榎の怪      淸水御櫓の奇

瘧神人と媱

    止  駄  郡

水上池惡龍      大蛇

臼祖母岩       鬼巖

不動尊告夢      如意寳網珠

阿彌陀佛遁火災    翡翠啄佛像

富土見井       狼携嬰兒

震動         楚世乃木

狒々         隣村禁婚

鬼火         於魯知

蛇蛻         奇火

朝比奈河奇      蛇崩

白蛇         沙中木佛示靈

蛇玉         木葉天狗

    益  頭  郡

巨蟒化美童      猪田墓

僞の橋        福井長者爲念佛質

神木古楠       觀音奇瑞

逢異叟        めやかし

舟幽靈        楓樹の奇火

怪榎         諸木爲柊

餅米代        靑池雩

幽靈歸舊里謁寺僧

 

 

2026/09/01

河原田盛美著「淸國輸出日本水產圖說」正規表現版・オリジナル電子化注 下卷(九)乾魚並に䀋魚の說(その15) 乾火魚

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は、第一始動の記事、及び、「(一)鰑の說(その2)」の前注の太字部分を参照されたい。今回はここから。]

 

   乾火魚《ほしかながしら》

火魚(かながしら)は「本朝食鑑」に『鐵頭魚(かながしら)』とす。處々(しよしよ)、多くあり。世俗(せぞく)、子(こ)を誕(たん)するの家(いへ)、必ず、此魚を以て、賀膳(かぜん)に供するの舊例(きうれい)あり。鮮食(なまぐひ)、炙食(あぶりぐひ)、煑食(にぐひ)し、䀋燒(しほやき)を、此(こヽ)に珍(ちん)とす。淡乾(しらほし)、鹹乾(しほほし)、共(とも)に、味(あじわ[やぶちゃん注:ママ。])ひ、淡白にして、美(び)なり。近年、淸國に輸出すること、屢々(しばしば)、あり。

[やぶちゃん注:これは、私が、嘗つて、七尾市百海で釣り上げ、その美しさに魅了された魴鮄=条鰭綱ペルカ目 Perciformesホウボウ科ホウボウ属ホウボウ Chelidonichthys spinosus に、似た形状で知られる、

ホウボウ科カナガシラ(金頭)属カナガシラ Lepidotrigla microptera

である。但し、BISMaLで見ると、同属で、カナガシラ以外に、

ソコカナガシラ(底金頭) Lepidotrigla abyssalis

イゴダカホデリ(伊吾高火照) Lepidotrigla alata

カナド(金戸) Lepidotrigla guentheri

ヒメソコカナガシラ(恐らくは「姫底金頭」) Lepidotrigla hime

トゲカナガシラ(棘金頭) Lepidotrigla japonica

ヒレナガカナガシラ(鰭長金頭) Lepidotrigla kanagashira

オニカナガシラ(鬼金頭) Lepidotrigla kishinouyei

ツラナガソコカナガシラ(恐らくは「面長底金頭」) Lepidotrigla longifaciata

ヒレホシカナガシラ(鰭長金頭) Lepidotrigla punctipectoralis

の九種がいるので、こ十種をリストしておく。漢字表記は、を除いて「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」を参考にした。

ウィキの「カナガシラ」を引く(注記記号はカットした)。漢字表記は他に『方頭魚』・『六角魚』・『火魚』を挙げてある。『北海道南部以南から黄海、東シナ海、南シナ海まで分布し、水深50-300mほどの砂泥底に生息する』。『成魚の全長は30cmほどで、ホウボウより小さい。背面は一様に橙色 - 赤褐色をしているが、腹面は白色をしている』。『「カナガシラ」の和名は、頭部が大きく、形が金槌に似ていることに由来する。頭の骨が固いことに由来するとも言う。この硬い頭部を義憤に駆られて癇癪を起こした』、かの、江戸後期の儒学者にして、元大坂町奉行組与力で、「大塩平八郎の乱」を起こした義人である彼が『が、バリバリと噛み砕いて』、『骨ごと食べて』、『呆れられたことが、当時の記録に残されている。鼻先が前方にとがっていて、小さなとげが左右に数本ずつかたまって生え、その下に大きな口が開く。胴体はザラザラした細かい鱗に覆われる(ホウボウのウロコよりは大きい)』。『胸びれはホウボウよりも小さく、色も赤一色である。胸びれの一番下の鰭条3対はホウボウ同様、味を感知できる感覚器官があり、これを脚のように動かして海底を歩く』。『他のひれの構造もホウボウに似ているが、第1背びれに鮮紅色の大きな斑点があるのが特徴で、これは他のカナガシラ属( Lepidotrigla 属)の魚にも共通する特徴である。この斑点は液浸標本にすると黒くな』ってしまう。『食性は肉食性で、エビ、カニ、小魚、貝などを大きな口で捕食する』。『旬は冬で、底引き網で多く漁獲される。体の大きさのわりに身は少ないが、旨みと歯ごたえがある美味な白身魚で、料理法も煮付け、唐揚げ、塩焼き、鍋料理、干物など多種多様である。小さなものは蒲鉾など』、『魚肉練り製品の原料にも用いられる』。『この魚を縁起物にしている地域もある。長崎県では、丈夫な歯が生え』、『骨が丈夫になるように、お箸初の膳にカナガシラの焼きものを乗せる習慣がある。また、カナガシラという名が「お金が貯まる」に通じるとされ、節分にカナガシラを食べる風習がある』。別名は『キミヨ(秋田県)、キントウ(宮城県。金頭の音読)、カナ(関東地方)、カナド(関東地方、四国地方)、シシッポ(石川県)、カナンド(兵庫県)、カナゴ(愛知県)、ガッツ(長崎県)、ギダユウガタリ(鹿児島県)など』多い。『ホウボウと特に区別せず扱う地域もある』。既に示した通り、同属には他に九種があり、『種類によって』、『胸びれの模様や体のまだら模様、鼻先のとげなどに違いがある。カナガシラと同様、底引き網で多く漁獲され食用になる』。以下、カナド Lepidotrigla guentheri・トゲカナガシラ Lepidotrigla japonica のチョイスされた短い解説が載るが、それは、「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」の「カラガシラ」以下、八種(左に「カナガシラ属」のリンク・リストがある)の記載の方が、写真もあり、詳しいので、各種の項を見られたい。

『「本朝食鑑」に『鐵頭魚(かながしら)』とす。處々(しよしよ)、多くあり。世俗(せぞく)、子(こ)を誕(たん)するの家(いへ)、必ず、此魚を以て、賀膳(かぜん)に供するの舊例(きうれい)あり。』今まで通り、河原田氏は以上の後の三分の二を、恰(あたか)も自身の言説のように書いている。本当に不快なやり口である。国立国会図書館デジタルコレクションの元禄一〇 (一六九七)年板の当該部(ここの左丁最終行のみで表題部一行だけで、本文は次のコマの左丁六行が続く)をリンクさせておくので、お読みあれ。]

和漢三才圖會卷第九十二之本 草類 山草類 上卷・知母

 

Timo

 

ちも

     蚔母  貨母

知母  連母  地參

     蝭母  莐藩

     水参  苦心

ツウ モウ 兒草  𧂇【音單】

 

本綱知母生𠙚𠙚山上形似菖蒲而柔潤葉如韮至難死

掘出隨生須枯燥乃止四月開青花如韮花八月結實宿

根之旁初生子根形如蚔蝱之狀故名蚔母訛爲知母

氣味【辛苦寒氣味共厚】 沉而降陰也腎經本藥入足陽明手太

 陰其用有四瀉無根腎火療有汗之骨蒸止虛

 勞之熱滋化源之陰也下則潤腎燥而滋陰上則

[やぶちゃん注:この「四」(この右附きの数字群は良安が附したもの。訓読では、本文に[ ]で同ポイントで挿入した。)の下の「也」は、上の文末にあるべき断定の助字である。訓読では「なり」と読んで、前の文に繰り込んだ。

 清肺金而潟火乃二經氣分藥也【上行則浸酒焙乾下行則浸鹽水焙】得

 黃栢良【忌鐵】黃栢則是腎經血分藥二藥必相須而

 行譬之蝦與水母必相依附

△按知母【和名夜萬之】其葉忌人手觸也花如穗而淡紫色

 

   *

 

ちも

     蚔母《きも》  貨母《くわも》

知母  連母《れんも》  地參《ちじん》

     蝭母《しも/じも》  莐藩《ちんはん》

     水参《すいじん》  苦心《くしん》

ツウ モウ 兒草《じさう》  𧂇【音「單《タン》」。】

 

「本綱」に曰はく、『知母、𠙚𠙚《しよしよ》、山上《さんじやう》に生ず。形、菖蒲《しやうぶ》に似て、柔潤《じうかつ》、葉、韮《にら》のごとく、至《いたつ》て、死(か)れ難《がた》≪し≫。掘出《ほりいだせ》ども、隨《したがひ》て、生《しやう》ず。須《すべからく》、枯燥《こさう》[やぶちゃん注:枯れて完全に乾燥してしまうこと。]≪して≫乃《すなは》ち、止《や》む。四月に、青き花を開く。韮の花のごとし。八月に、實《み》を結ぶ。宿根(ふるね)[やぶちゃん注:古根。]の旁(そば)に、初め、子《さね》を生ず。根の形、蚔-蝱(あぶ)の狀《かたち》のごとし。故《ゆゑ》、「蚔母(き《も》)」と名《なづ》く。訛《なまり》て「知母」と爲《なす》。』≪と≫。

『氣味【辛、苦、寒。氣味、共《とも》に厚し。】』『沉《しづみ》て、降《くだ》る。陰《いん》なり。腎經《じんけい》の本藥《ほんやく》にして、足《あし》の陽明、手《て》の太陰に入《い》る。其《その》用《よう》、四《よつ》つ、有り。無根《むこん》の腎火《じんくわ》を瀉《しや》す。』[一つ。]。『有汗《いうかん》の骨蒸《こつじやう》を療《れう》す。』[二つ。]。『虛勞《きよらう》の熱《ねつ》を止《と》め、』[三つ。]、『化源《くわげん》の陰を滋《じ》す。』[四つ。]。『下(《し》も)には、則《すなはち》、腎の燥(かは)くを、潤(うるほ)して、陰を滋し、上《かみ》は、則《すなはち》、肺金《はいきん》[やぶちゃん注:東洋文庫訳の割注で『(肺は五行説で金)』(ごん)『にあたる』とある。]を清《せい》して、火《くわ》を潟《しや》す。乃《すなはち》、二經《にけい》の氣分《きぶん》の藥《くすり》なり【上行《じやうかう》すれば、則ち、酒《さけ》に浸《ひた》して焙《あぶ》り、乾《ほ》す。下行《げかう》すれば、則ち、鹽水《しほみづ》に浸《ひた》して焙《あぶ》る。】。黃栢(わうばく)を得て、良《よし》【鐵《てつ》を忌む。】。黃栢は、則《すなはち》、是れ、腎經《じんけい》≪の≫血分《けつぶん》の藥≪なれば≫、二藥、必《かならず》、相《あひ》須(も)ちて、行《ゆ》く。蝦(ゑび[やぶちゃん注:ママ。])と水母(くらげ)と、必≪ず≫、相《あひ》、依附《よりつき》するに、之《これ》を譬《たと》ふ。』≪と≫。

△按ずるに、知母【和名、「夜萬之(やまし)」。】、其《その》葉《は》、人《ひと》の手、觸(ふる)ゝことを忌《い》むなり。花、穗のごとくして、淡紫色≪なり≫。

 

[やぶちゃん注:これは、

単子葉植物綱キジカクシ(雉隠し)目キジカクシ科リュウゼツラン(竜舌蘭)亜科ハナスゲ(花菅)属ハナスゲ Anemarrhena asphodeloides

である。当該ウィキは貧弱で、私が必要とする事柄に全く言及していないので、「福田龍株式会社」の「医薬品原料(漢方系生薬)」の「チモ(知母)」(https://www.fukudaryu.co.jp/sozai2/chimoHP.pdf :リンクではchromeがブロックするのでアドレスで示した)を引用する(特殊なテンプレートなので、以下のような変則的な形になった)。私が特に重要とした部分は太字下線とした。

   《引用開始》

『語源』『ハナスゲ属 Anemarrhena は、ギリシャ語の否定の接頭辞 ア+ネーマ 「糸」+アッレーン 「男、雄」で、ハナスゲ属の植物が花糸のない葯(やく)であることを指すとする説や、ギリシャ語でアネモス「風」+ アッレーン「男、雄」で、ハナスゲが丈夫で風に強いことに由来するという説がある。種小名の asphodeloidesは、「ツルボラン属 Asphodelus のような」の意。和名のハナスゲとは、葉がスゲ[やぶちゃん注:単子葉植物綱イネ目カヤツリグサ(蚊帳吊草・莎草)科スゲ(菅)属 Carex 。ハナスゲとは、目タクソンで異なる全く異なる種であることに注意!]に似て、スゲよりきれいな花が咲くことから。また、生薬名の知母は、ハナスゲの古い根のそばに子球あるいは株が生じ、その根の形が「蚳母(チボウ)」[やぶちゃん注:「蚳」は「」の同字・異体字として使用される。(アリやアブの卵のこと)に似ていたことからチボウと呼ばれ、それが訛って知母となったという説、あるいは、知母に関する民話で、身寄りのない薬草採りの老婆が、自分を母親のように親切に助けた木こりの夫婦に、「母の心を知る息子にめぐりあえた」といってハナスゲの根が薬草であることを教えたことから、その名が「知母」になったという説もある。』。

『基原』『 Anemarrhena asphodeloides Bunge ハナスゲ(花菅) ウマノスズクサ科 多年生草本』。

『薬用部分』『根及び根茎』

『産地』『中国(河北、山西、内蒙古、甘粛、陝西、東北など)日本へは享保年間(江戸時代中期)に渡来し栽培されているが、生薬の生産はない。』。

『主な成分』『ステロイドサポニンのチモサポニンA-IA-IIA-IV、キサントンのマンギフェリン、その他、イソマンギフェリン、タンニン、パントテン酸、ニコチン酸』。

『主な薬効』『鎮静、鎮咳、解熱、利尿、消炎、止瀉』。

『代表的処方』『漢方処方用薬である。解熱薬とみなされる処方及びその他の処方に少数例配合されている。』

『【辛夷清肺湯】シンイセイハイトウ

体力中等度以上で、濃い鼻汁が出て、ときに熱感を伴うものの次の諸症:鼻づまり、慢性鼻炎、蓄膿症(副鼻腔炎)(処方内容) 辛夷/知母/百合/黄  /山梔子/麦門冬/石膏/升麻/枇杷葉今』

『【酸棗仁湯】サンソウニントウ

体力中等度以下で、心身が疲れ、精神不安、不眠などがあるものの次の諸症:不眠症、神経症(処方内容) 酸棗仁/知母/川 /茯苓/甘草弓』

『【消風散】ショウフウサン

体力中等度以上の人の皮膚疾患で、かゆみが強くて分泌物が多く、ときに局所の熱感があるものの次の諸症:湿疹・皮膚炎、じんましん、水虫、あせも(処方内容) 当帰/知母/地黄/胡麻/石膏/蝉退/防風/苦参/蒼朮(白朮)/荊芥/木通/甘草/牛蒡子』

『【白虎加人参湯】ビャッコカニンジントウ

体力中等度以上で、熱感と口渇が強いものの次の諸症:のどの渇き、ほてり、湿疹・皮膚炎、皮膚のかゆみ(処方内容) 知母/石膏/甘草/粳米/人参』

   《引用終了》

ここで大事なことは、

★ハナスゲは中国原産であること

で、諸辞書・事典類・ネットのサイト記事には、掲載そのものが多くはないが、それでも十数件を閲したところ、中国原産で、本邦には自生していなかったことは、共通している。

ハナスゲの本邦への伝来は享保年間(一七一六年から一七三六年まで)であること

も、以上の閲覧から、ほぼ確定的事実であることも確認出来た。

問題は、本「和漢三才図会」の成立時期である。同書全巻は、

  • 正徳二(一七一二)年自序で、同五(一七一五)年跋

である。即ち、非常に際どいものの、ハナスゲ伝来と同書刊行とは、辛うじて重ならず、

良安が本「知母」の項を書いた時点ではハナズゲの現草体或いは実種子を現認した可能性はゼロである

と断言してよいということである。ただ、気になるのは、東洋文庫版の後注に、

  • 本文最後の良安の評言の版の違い

が附されてあることである。即ち、『△按ずるに、知母【和名、「夜萬之(やまし)」。】、其《その》葉《は》、人《ひと》の手、觸(ふる)ゝことを忌《い》むなり。花、穗のごとくして、淡紫色≪なり≫。』の箇所の、竹島淳夫氏の訳『△思うに、知母〔和名は夜万之(やまし)〕の葉は人の手が触れるのを忌(い)む。花は穂状で淡(うす)紫色である。』について、注として、『の葉は⋯⋯の淡紫色である この部分、杏林堂版では、「は往昔(むかし)はわが国にもあった。しかし現今はない」となっている。』とあるのである。この「杏林堂版」というのは、正確には「五書肆名連記版」で、江戸時代の木版本出版では、一つの版木を複数の書肆が共同で出資して刊行・流通させることが一般的であり、五書肆名連記を 巻末の「奥付」に五つの書肆名が連記されている版である。これは、本書の正徳五年の初版、或いは、それに極めて近い後に出版された初期のオリジナルであることを示す書誌学的特徴であり、後に版木が売却されて再版されたものや、明治期に出た縮刷版などとは異なり、当時のオリジナルの版木・構成を、そのままに伝える資料であることを示すものである。

 則ち、良安は、当初、そのように記載したが、後に、そこをカットしたということになる。ということは、初稿では、

  • 良安は――日本にハナスゲは自生していた――しかし――今はハナスゲは日本では見られなくなった――絶滅した

と言っていることになるのである!?!?

 これについては、或いは

⋯⋯正徳二年(清の康熙五十一年/李氏朝鮮粛宗三十八年)以前に、大陸からハナスゲの種子が持ち込まれ、一度は、根付いたものの、繁殖に至らず、絶滅した⋯⋯

という解釈が成り立つ。

◎しかも、実際に、平安時代に、既に、この「知母」に対して、和名「やまし」が与えられているのである!

跡見群芳譜」の「はなすげ (花菅)」に、『Anemarrhena asphodeloides』とし、

☆『『本草和名』知母に、「和名也末止古呂」と。』

☆『『倭名類聚抄』知母に、「和名夜万之」と。』

とあり、さらに、

☆「古今和歌集」を引き、『巻10物名に「やまし」として』載る、平篤行(たいらのあつゆき)の一首(卷第十 物名(のののな)・四四七番。以下は、「新日本古典文学大系」版を参考に前書が「やまじ」とあるのを、脚注の『中世注には「やまし」とも示す』というのに従って清音にしておいた。)。

   *

    やまし

 ほとゝぎす峰の雲にやまじりにし

   ありとは聞(き)けどみるよしもなき

   *

も記されているのである。しかも、同底本の脚注では、「やまじ」を普通に種名として『ハナスゲ(花菅)』としているのである。日本に植生していないはずなのに?⋯⋯

⋯⋯ということになると⋯⋯

?■平安時代にはハナスゲが日本に大陸から送られて植生していた■?

ということになるのだが⋯⋯これ⋯⋯流石にお目出度い私も⋯⋯どうも信じられないのだ!⋯⋯おかしい⋯⋯と⋯⋯思ったのは、この和歌だ! この歌、和歌嫌いの私にも、変な前書じゃないカイ?!? 私の持つ他の「古今和歌集」の注釈でも何も書かれてないのだが、要するに「やまし・やまじ」というのは、失礼乍ら、『これ、国文学者の知的範疇では、埒外なんじゃないか?』と思ったのだ!

☆この一首の核心は「ホトトギスが鳴いているのが聴こえるが、姿を見る手だてがないことよ」という感懐だろ! それに詞書「やまし」を判じ物のように添えたんじゃないのか?!?

則ち、これ、篤行は、

☆『この歌のように、古いお偉いさまの書いた、「本草和名」に中国の「知母」を「也末止古呂(やましころ)」とか、或いは「倭名類聚抄」に同じく「知母」を「夜万之(よまし)」とか、読んでいるのだけれど、これ、呼び名だけで、肝心な「知母」というありがたい薬草の実物を、全然、見たことがないんだが?』

と言っているのではあるまいか? 私には、そうしか、読めないのである。

即ち、

私は、中古から江戸中期まで、ハナスゲが、日本に植生していたなどということは、あり得ないと断言するものである。★

当初、良安の最初の書き変えたのは、所謂、本当の「菅(すげ)」=単子葉類植物綱イネ目カヤツリグサ科スゲ属 Carex(最新のデータらしきものを調べたところ、本邦には現在、二百六十九種も分布している!)の中の、「本草綱目」の「知母」の記載その他を筆頭に、中国の本草書の「知母」の記載を見て、本邦の花が似ている、ある本邦産のスゲ属の希少種を、ハナスゲと間違ったに過ぎないと思っていたのだが、寧ろ、以上の通り、

◎『中古の記載にはあるから、嘗ては、日本に「やまし」(=ハナスゲ)は、確かに、あったのだが、その後、絶滅した。』

と書いたのを、彼自身、『それは、ない。やっぱり、日本には、ない。』と断じて、書き変えたものであるという結論に至った。異論のあられる方は、御教授下さると幸いである。因みに、私の連れ合いは源氏物語が専門だが、この和歌についての私の解釈に対しては、『単なる「やまじり」(山尻=山の峰)に「やまじ・やまし」という草の名前を掛けただけの遊びでしょ。』とケンモホロロであった。

 以下、各個注に移る。

「菖蒲」これは一応、単子葉植物綱ショウブ目ショウブ科ショウブ属ショウブ Acorus calamus L.1753)(シノニム: Acorus asiaticus Nakai (1936)/ショウブ変種ショウブAcorus calamus L. var. angustatus Besser (1834) (これは日本を含めた東アジアのものに対して用いられる。その他、シノニムは数多く存在する)としてよい。ただ、実は、李時珍が生きた明代以降には、同属のセキショウ(石菖: A. gramineus Soland. (漢名は同じく「菖蒲」があった)が、特に文人たちの園芸や机上の飾り(瓶生・盆玩)として非常に好まれたからである。即ち、この「菖蒲」という文字を見ると、有意に後者を想起する者が、多くいたからである。但し、時珍は、「本草綱目」の「草之八【水草類二十二種内附四種】の「菖蒲」の項の中で、「石菖」を、ちゃんと、別に使用しているから、ここは問題ない。

「韮」日中ともに、単子葉植物綱キジカクシ目ヒガンバナ科ネギ属ニラ Allium tuberosum

「腎經」足の少陰腎経を指し、生命力の根源である「精(せい)」を蓄え、発育・生殖・老化をコントロールする重要な経絡である。

「足の陽明」足の陽明胃経。詳しくは当該ウィキを見られたい。

「手の太陰」手の太陰肺経。詳しくは当該ウィキを見られたい。

「無根の腎火」命門(めいもん:腰部の、体後面の正中線上で、第二腰椎棘突起の下にある窪み。ヤコビー線(左右の腰骨の最も高い位置を結んだ線)と、脊柱との交点が第四腰椎棘突起に当たるが、そこから二つ上の棘突起の下の窪みを指す。)の火(腎陽)が、本来あるべき下半身(腎)に留まることがなく、本来の位置を失い、上半身へ浮き上がって「虚熱」の状態になることを指す。以下、中医学用語は、信頼出来る中医学や治療院のサイトで、比較的判り易いと思われるものを、複数、使用している。

「有汗の骨蒸」東洋文庫訳の割注に『(肉体衰弱による発熱)』とある。

「虛勞の熱」東洋文庫訳の割注に『(骨が蒸されるように熱く肉体衰弱による発熱)』とある。

「化源の陰」気・血・津液(体液)といった生命体を維持するために必要な、あらゆる物質を生み出す源泉が「化源」で、ここでの「陰(いん)」は「体を潤し、熱を抑える物質」であり、中医学の根本である「陰陽論」に於いて、「陰」は「血液(血)・体液(津液)・精髄」などの、身体の形にあって、「潤い」や「栄養」の成分全般を指す。

「火を潟す」余分な火(か)を下す。

「黃栢(わうばく)を得て、良《よし》【鐵《てつ》を忌む。】。」先行する「卷第八十三 喬木類 目録・黃蘗」を参照されたい。

「蝦(ゑび)と水母(くらげ)と、必≪ず≫、相《あひ》、依附《よりつき》するに、之《これ》を譬《たと》ふ。」前に示した「二つの薬物は、それぞれが、それぞれの得意の箇所の変異に作用して、絶妙に補い合って効果を出すのである。」という様態を、「海のエビと、クラゲとが、一緒におり、必ず、互いに助け合っている事例があるが、まさにそれを喩えて表現するに相応しいのである。」と言っているのである。この現象の実例に就いては、語り出すと、一晩かかるぐらい、私の独自の持ち論がある。大好きな話だから、幾らでも書けるのだが、まんず、『河原田盛美著「淸國輸出日本水產圖說」正規表現版・オリジナル電子化注 中卷(七)乾鰕の說(その2)』の私の「水母目(すいぼもく)」の注を見られたい。これでも、端折ったものである。

 さて、ここまで「本草綱目の引用は、「漢籍リポジトリ」の「卷十二上」の「草之一【山草類上一十三種】」のガイド・ナンバー[036-41b]の「知母」の項のパッチワークである。]

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