「因幡怪談集」(恣意的旧字化・オリジナル注附き)/「高住善源寺、椿相と言僧死靈の事」
[やぶちゃん注:底本、及び、凡例その他は、初回を参照されたい。]
高住《たかずみ》善源寺《ぜんげんじ》、椿相《ちんさう》と言(いふ)僧死靈《しりやう》の事
同郡《どうこほり》[やぶちゃん注:前話と同じく「高草郡《たかくさのこほり》」。]高住村《たかずみみら》善源寺は、龍峯寺《りゆうほうじ》末寺《まつじ》也。
得翁和尙《とくわうおしやう》、享保(きようほう《→きやうほう》)子年《ねどし》、御城下、大半、火災の時より、御寺《おてら》も類燒《るゐしやう》に付(つき)、善源寺へ、しばらく、住居《すまゐ》にて、椿相と言(いふ)、納所(なつしよ)、有り。[やぶちゃん注:「納所(なつしよ)」これは、もと「禅宗の寺に於いて施し物を納めておく所」の意であるが、ここは、「納所坊主(ばうず)」の略で、「寺にあって、会計・庶務を取り扱う下級の僧。」を指す。寺の下働きとして雇われている民間人を除き、僧職としては、最も地位が低い。所謂、俗社会の金銭業務・実生活に係わる僧にとっては、広義の不浄な仕事に、仕方なく、係わらざるを得ないため、僧としてのランクは最下位となるのである。]
此僧、いかなる事にや、内福《ないふく》也[やぶちゃん注:金回りが良いこと。](なり)。依之(これにより)、米・銀、村中《むらぢゆう》、又、近在、湖山村《こやまむら》迄(まで)、借《か》し、利分《りぶん》を取(とり)、ひゞ[やぶちゃん注:「日々」。]、『ほかき』とて、魚《うを》取《とる》所の物、ことごとく、質《しち》に取置(とりおき)、若《もし》、右の米《こめ》・金《かね》、不埒(ふらち)の時は、右の質物《しちもの》を取《とり》、自分乍(ながら)、作廻《つくりまはし》致(いたし)けり。
村里《むらざと》の者、迷惑し、
「僧に不似合(ふにあい《→ふにあひ》)の事。」
と、つぶやく者も、多し。
されば、いか成《な》る事や、風與(ふと)、惡病《あくびやう》、煩(わづら)ひ、後《のち》は、目病《めやみ》に成り、目、不通(ふつう)に不見(みえず)。
しゆじゆに[やぶちゃん注:「種種に」。いろいろと。]養生《やうじやう》致(いた)しけれ共(ども)、印(しるし)なし。歎(なげき)くらし居《をり》けり。
或(ある)時、𢌞國《くわい》の者、寺へ立寄(たちより)、休みけるが、椿相[やぶちゃん注:「が」或いは「の」が欲しい。]眼病《がんびやう/めやみ》を見て、
「いたわしき事也(なり)。我等、奇妙なる眼病の妙藥、有り。是(これ)を送るべし。鳶《とび》の生血《いきち》にて、とき、目に入候(いれさうら)はゞ、平ゆ[やぶちゃん注:「平癒」。]すべし。」
と、委(くはし)く語(かたり)て、黑燒(くろやき)の藥《くすり》を送る。
椿相、悅(よろこび)、請取(うけと)り、用ひたく思《おもへ》ども、鳶の生血、才覺《さいかく》[やぶちゃん注:「工面・算段すること」。]に、こまりけるが、風與(ふと)思ひ付(つき)、同村に、今井某《なにがし》、在宅にて、平日《へいじつ》、入魂(じつこん)[やぶちゃん注:「昵懇」に同じ。]なれば、ひそかに、賴(たのみ)けり。
今井、請込《うけこみ》、
「安き事。」
とて、鐵炮(てつぱう)にて、鳶を打(うち)やりければ、大(おほい)に悅(よろこび)、右の藥《くすり》を、生血にて、とき、目に入れければ、少《すこし》、快《くわい》なる。
悅(よろこぶ)事、かぎりなし。
「何かな、お禮申さむ。」
とて、鍬(くは)に、鷄丸(にはとりまる)[やぶちゃん注:「鶏(にわとり)丸一羽」。殺生の極みであるから、今井の笑いの中に皮肉を含めた謂いは、尤もである。]、取《とり》そへ、送りけり。
今井、見て、
「僧に似合(にあい《→にあひ》)もなき事。」
と一笑しける。
其後(その《のち》)、又々、惡瘡《あくさう》、再發して煩《わづらひ》けるが、僧坊は、善源寺、門長屋《もんながや》に有り、病氣、重くて、ついに、死にけり。
「不便《ふびん》の事也(なり)。」[やぶちゃん注:この「不便」は「不憫・不愍」と同じで「不便」が正字であり、「可哀そうなこと。哀れむべきこと。また、そのさま」の意。」の意の名詞・形容動詞である。]
とて、和尙(おしやう《→をしやう》)より、十四、五歲なる沙味(しやみ)に命じて、死《しに》たる床《とこ》のわきに、夜中《よるぢゆう》、付置(つけおき)けるに、右《みぎ》の小僧主《こばうず》なれば、夜半過《やはんすぐ》る頃、死人《しびと》、
「むく」
と、起《おき》あがり、目を、ひらき、小僧に、いだきつく。
「是(これ)は。」と、小僧、きもをけし、
「わつ。」
と、さけび、ぜつ死《し》す。
此音(この《おと》)[やぶちゃん注:小坊主が引っ繰り返った、その音。]に、部屋に休居(やすみを)る下男(げなん)、火を付(つけ)、見れば、しゆむそう[やぶちゃん注:「主務僧」。ここでは「納所」と同義である。即ち、死んだはずの椿相である。]、あたりを、なで、さぐり、巾着《きんちやく》[やぶちゃん注:金入(かねい)れ。]に入(いれ)たる小簞笥(こだんす)の鍵《かぎ》を取出《とりいだ》し、口(くち)に入(いれ)、
「かりかり」
と、かみ、又、其まゝ、たをれ[やぶちゃん注:ママ。「たふれ」が正しい。]、死《し》して、けり。
下男、大《おほ》きに驚(おどろき)、寺へ、かけ行(ゆき)、和尙へ、此話(この《はなし》)を、ふるいふるい[やぶちゃん注:「ふるひふるひ」が正しい。「震ひ震ひ」で、「頻りに『ぶるぶると震え』ながら」の意である。]、物語、致(いたし)ければ、和尙、聞(きゝ)て、長屋へ行(ゆき)、見れば、椿相は、たをれ[やぶちゃん注:ママ「たふれ」が正しい。]死《し》して、小僧は、息絕(いきたへ)たり。
先(まづ)、水を、そゝぎ、藥など、あたへ、やふやふと、呼(よび)たすけ、人心ち[やぶちゃん注:底本では、「ち」右注で『地』とある。「人心地(ひとごこち)」。」]付(つき)ければ、和尙、
「もはや、かわる事[やぶちゃん注:ママ。「變(か)はる事」である。ここでは「死体が動き出す異常事態」を指す。]、有(ある)まじ。追付(おつゝけ)、夜《よ》も、明(あけ)なむ。今、少し、とぎ[やぶちゃん注:「伽」。「夜伽(よとぎ)」。死者の傍(かたわ)らで、夜通し寝ずに守ること。所謂、「通夜(つや)」。]致べし。」
とて、小僧・下男、二人、付置(つけおき)、和尙は、寺へ歸りけり。
その後《ご》は、何事も、なし。
翌日、暮《くれ》に及(および)、村はづれにて、火そう[やぶちゃん注:ママ。「火葬(かさう)」。]にし、骨《ほね》は、取集(とりあつめ)、通《とほ》り道《みち》、東の方《ひがしのかた》、『うぶめがたに』と言所《いふところ》、山中《さんちゆう》に、うづめけり。
其後《そのご》、日《ひ》、暮《くれ》、初夜《しよや》[やぶちゃん注:「そや」とも読む。これは、仏教で、一昼夜を「晨朝(じんじょう)」・「日中(にっちゅう)」・「日没(にちもつ)」・「初夜」・「中夜」(ちゅうや)]・「後夜(ごや)」の六つに分けたもの。この時刻毎(ごと)に念仏・読経などの勤行(ごんぎょう)をした。「初夜」は「戌(いぬ)の刻」で、現在の午後八時頃を指し、所謂、「宵(よい)の口(くち)」である。]、過(すぎ)て、此所(この《ところ》)より、光物(ひかりもの)、出《いで》て、湖《みづうみ》の上を、飛行《とびゆき》て、善源寺の邊(あたり)へ、行(ゆく)やうに見へし。
村民《そんみん》、集(つどひ)、何(いづ)れも、見て、取々(とりどり)、ふしぎを、なしけり。[やぶちゃん注:奇体な光り物が飛行(ひぎょう)する怪異を、目の当たりに見て、不思議の感を強く感じたのである。]
折節(をりふし)、夏の事、涼(すゞみ)ながら、近里《ちかきさと》[やぶちゃん注:ママ。「近い里の民草(たみぐさ)たちも」。]、集(あつま)り、
「椿相が靈魂《れいこん》に、違(ちがひ)なし。」
と、評議しけり。
今井氏も、兄弟ながら、
「光物(ひかりもの)、度々(たびたび)、見たり。」
と、咄《はなし》しなり。
有時、獵師何某《なにがし》と言(いふ)者、せひご網を揚《あげ》て、夜半時分に、湖水に、舟《ふね》、のり、出《いで》けるに、かの光物に、行逢《ゆきあひ》たり。
此(この)光物(ひかりもの)、獵舟(りやうぶね)、部先(へさき)に行當(ゆきあた)り、暫(しばら)く、ゆうよ[やぶちゃん注:「猶予」。]しければ、是非なく、とくと、見るに、大(おほき)さ、菅笠《すげがさ》のごとく、內《うち》の光りは、飯わむ[やぶちゃん注:ママ。「飯椀(めしわん)」。]程(ほど)、赤く、又、內《うち》に、黑く、猿《さる》の樣《やう》なる物、見へたり。
「されば。」
と、見る內《うち》に、又(また)、立上《たちあが》り、寺の方《かた》へ、行《ゆき》たり。
よくよく見れば、寺の石垣に、上へあがらむとすれ共(ども)、上《あが》り得ず。
あなたこなたと、水ぎわ[やぶちゃん注:ママ。「水際(みづぎは)」。]を、まわりけるやうに見へたり。
漁夫《ぎよふ》は、歸りけり。
「扨々(さてさて)、ふしぎの妖物(ばけもの)なり。」
と申(まうし)けり。
雨夜《あまよ》には、日暮前より、出る、となむ。
「しゆむそう[やぶちゃん注:「主務僧」。]が靈《れい》に、まぎれ、なし。」
と、人々、申(まうし)けり。
わけて、今井彌惣兵衞《いまゐやそべえ》、寺の和尙も、懇切なれば、此咄(この《はな》し、して、
「不便《ふびん》[やぶちゃん注:前出に同じ。]なる事、少し、法事共《はふじども》、成《な》され、跡(あと)、吊(とむら[やぶちゃん注:頭の「と」は前の「あと」に続いて「ゝ」であるが、読点を打った関係上、正字で添えた。])ひ被遣候(つかはされさうら)へ。」
と申(まうし)ければ、返答に、
「かやうの事は、佛法(ぶつぱう[やぶちゃん注:ママ。仏教用語の場合は「法」は歴史的仮名遣は「ほふ」が正しいので、「ぶつぽふ」が正しい。])の方《はう》にも有(ある)事に候(さうら)へ共(ども)、さして、かまひなき事也(なり)。跡吊(あとゝむら)ひ、申(まうす)に及不申(およびまうさず)。尤(もおつとも)、其身《そのみ》、銀子(ぎんす)少々、持居候(もちをりさうら)へ共(ども)、みな、寺の銀(ぎん)[やぶちゃん注:「金(かね)」の意。]なるまゝ、取《とり》かへし申《まうす》。」
との事也(なり)。
其上(その《うへ》)は申(もうす)べく樣《やう》もなく、其まゝにて、止《やみ》ぬ。
村民共(《そんみん》ども)、咄《はな》すには、
「光物(ひかりもの)、每夜、寺へ行(ゆき)、後《のち》は、戶・しやうじ[やぶちゃん注:「障子」。]に行當(ゆきあた)り、さうざう敷(しき)まゝ、『大《だい》はむにや[やぶちゃん注:「大般若經」のこと。]』の札(ふだ)、書《かき》て、所々《ところどころ》に押(おし)たり。」と申(まうす)。
それよりは、靈火(れいび)も、寺の內《うち》へは、入《い》らず、湖水・石垣限り(かぎ)にて、上《うへ》へは、あがる事、なし、とかや。
又、椿相、鍵をかみくだきける事は、たむす[やぶちゃん注:ママ。「簞笥」。]に銀錢五貫目程(ほど)、有るを、和尙に取られ、
『殘念。』
と思ひける執心(しうしん《→しふしん》)にや。
「和尙も、此銀《このぎん》にて、少《すこし》の法事を修行《しゆうぎやう》して、跡吊(あとゝむら)ひ候(さうら)はゞ、か程(ほど)には、くるひ申(もうす)まし[やぶちゃん注:ママ。「まじ」。]。」
と、人々の噂也(なり)。
夫(それ)より、三年目に、果(はて)られたり[やぶちゃん注:善源寺に移っていた龍峯寺住職得翁和尚のことである。]。不思議なる事也(なり)。今井氏、物語也(なり)。
[やぶちゃん注:「高住《たかずみ》善源寺《ぜんげんじ》」現在の鳥取県高住はここ(グーグル・マップ航空写真)だが、この寺は、最早、現存しない。残念ながら、旧地を捜し得なかった。
「龍峯寺《りゆうほうじ》」この寺は、発見出来た個人ブログ「お寺の風景と陶芸」の「龍峰寺 (鳥取県鳥取市) 鳥取藩主池田氏の四ヶ寺」に、『鳥取市街地の東端にあって、山麓に建つ龍峰寺は、鳥取藩主池田氏の関わる四ヶ寺の一つとして、江戸時代は栄えたといわれているが、現在は無住で、荒廃が進んでいる』。『龍峰寺は1585年』(天正十三年)、『岐阜城主池田輝政が父と兄の菩提を弔うために龍峰山広徳寺を開創したのに始まると伝えている』。『1600年』(慶長五年)、『輝政が姫路藩主となると、広徳寺も姫路に移った』。『輝政の次男・忠継が備前岡山藩主となると、広徳寺は岡山へ移ったが、1607年』(慶長十二年)、『輝政の菩提寺として、広徳寺の山号寺名を入れ替えて広徳山龍峰寺を創建し、1632年』(寛永九年)、『池田光仲が鳥取藩主となると、広徳寺、龍峰寺とも鳥取へ移転している』。『なお、輝政の菩提寺は龍峰寺を改名し』、『岡山に残った国清寺である』。『鳥取に移った龍峰寺は、宗派争いにより、1694年』(★元禄七年)、『黄檗宗に宗派を替え、龍峰山興禅寺となり、鳥取藩主菩提寺となった』。『その後』、『1701年』(元禄十四年)、『鳥取藩が現在地に広徳山龍峰寺を再建している』。『龍峰寺の変遷は複雑で、不詳の部分もあるが、姫路藩主池田輝政ゆかりのお寺として四ヶ寺に数えられている』とあって、『住所』を『鳥取県鳥取市栗谷41』とし、『山号』、『広徳山』、『宗派』は『臨済宗妙心寺派』。『本尊』は『薬師如来』とデータを載せてある。さらに、「参道」・「境内」・「本堂」・「鳥取市街地」の写真が並び、最後にグーグル・マップが附されてある。そこ(★←地形図で湖山地区を含んで中央に「竜峯寺」を置いた)と同じ箇所を、正規のそれで、航空写真で最大に拡大して見ると、ここである。ストリートビューでは、寺に入り込んでいないので、見ることは出来ないが、左パネルには、正式に「建造物」として「〒680-0012 鳥取県鳥取市栗谷町41 竜峯寺」とあるので、この寺で決まりであると、私は思った。ところが、実は、以下のウィキの「興禅寺(鳥取市)」で、★予想外の事実★が出来(しゅったい)したのであった。
私にこの時点で、一つの問題が残っていた。それは、本篇の時代が『享保(きようほう《→きやうほう》)子年《ねどし》』、則ち、
享保五年庚子(かのえね)=一七二〇年二月八日から一七二一年一月二七日
であることであった。その時の宗派の問題である。そこで、別の鳥取藩主池田家の菩提寺で、「竜峯寺」の僅か西北西百八十四メートル離れた「興禅寺(こうぜんじ)」(ここ・グーグル・マップ)のウィキを見たところとんでもない寺の名の変更があったことが判明したのである!(太字・下線は私が附した)、『寛永9年(1632年)、池田光仲が岡山藩より鳥取藩に転封となった際、伯父で初代岡山藩主にあたる池田忠継の菩提寺を家臣団が鳥取に移したことに始まる。この際には臨済宗妙心寺派の寺院で忠継の院号である龍峯院殿より広徳山龍峯寺と名乗っていた』。『その後、住職は黄檗宗への転向を願い』、『光仲はそれを認めた。しかし、妙心寺は』、『これを不服とし』、『転向を認めず、両者間で争議が起こった。結局、光仲が没した後に寺号を返納する事で和解が成立した。元禄6年(1693年)に光仲が没し、翌年の元禄7年(1694年)』(☜★)、『寺号が妙心寺に返納された。こうして黄檗宗に改宗され、光仲の院号である興禅院殿より寺号が龍峯山興禅寺と改められた。その後、藩により』、(★☞)『興禅寺の隣地に再び』、『龍峯寺が建立され、忠継の他、輝政・忠雄の位牌が移された。池田家の菩提寺ではあるが』、『墓所はここにはなく、鳥取市国府町奥谷に墓所が造営された。』とあったのである! 一読では、理解し難く、一瞬、戸惑ったのだが、本篇で言う「龍峯寺」とは、やはり、現在の「鳥取県鳥取市栗谷町41 竜峯寺」で間違いないと、迂遠な過程を経て、ようよう、確認出来たのである(以上の注は、未明から、三時間も掛かってしまった)。而して、この時の宗派は黄檗宗なのである。
「得翁和尙《とくわうおしやう》」片付いたと思ったら、また、困った。この人物は黄檗宗の高僧でなくてはならない。ところが、滋賀県中山道柏原(かしわばら)宿にある黄檗宗慧日山(えにちざん)永明寺(ようめいじ:グーグル・マップ)の公式サイト内の「黄檗宗資料集 黄檗宗僧侶名鑑」を、総て、見たが、この名の僧は、見出せなかった。事績のない人物で、「無得海寧」なる僧がいるが、年代が合わない。「住職地」で「鳥取」の「興禅寺」とする人物が三人いるが、またしても、年代が合わない。万事休す!
「椿相《ちんさう》」不詳。
「湖山村」現在の鳥取市湖山町(こやまちょう)。湖山池(こやまいけ)沿岸の北と東北部(こちらが広い)に当たる。諸地図では、うまく示せないので、「ひなたGIS」で示した。
「惡瘡《あくさう》、再發して煩《わづらひ》けるが」彼の目は単に失明する眼疾患ではなかったものかも知れない。「再發」と言っているが、頭で「惡瘡」(現代仮名遣「あくそう」)と表現しており、これは、眼球、又は、その周辺が激しく腫れ膨れている、或るいは、腐って挫滅するのでなければ、「惡瘡」(「質(たち)の悪い腫れ物」の意)とは表現しないからで、しかもそれが原因で死に至るということは、可能性として、眼球に腫瘍が起こり、奥で、脳の視床下部が侵された結果、視路を侵す毛様細胞性星細胞腫等の難治性疾患による腫瘍死だったものかと思われる。
「僧坊は、善源寺、門長屋《もんながや》に有り」納所であった椿相が与えられていた部屋は、善源寺の門の前面に下級の下働きの者(武家屋敷では門番)や、最下級の僧の住居として造った門に附属した貧相な「長屋(ながや)」を指す。
「沙味(しやみ)」梵語(サンスクリット語“śrāmaṇera”)の漢音写で、「仏門に入り、髪を剃って十戒を受けた初心の男子。ここでは「修行未熟な僧」の意。
「右《みぎ》の小僧主《こばうず》なれば」[やぶちゃん注:この「右の」というのは、筆者が、読者に判り易くしようとして『「右(みぎ)で既に述べた通り、未だ、新米の小坊主であったため』という附加文をしたものと思われるが、却って、意味が判りにくくなってしまっている恨みがある。
「ぜつ死《し》す」「絕死」であるが、ここでは、以下で判る通り、「気絶をすること」の意であって、「死んだ」のではない。
「下男(げなん)」言うまでもないが、これは、僧でない寺の下働きの民間人で、この長屋の別室に住み込みでいた人物である。
『しゆむそう、あたりを、なで、さぐり、巾着《きんちやく》[やぶちゃん注:金入(かねい)れ。]に入(いれ)たる小簞笥(こだんす)の鍵《かぎ》を取出《とりいだ》し、口(くち)に入(いれ)、「かりかり」と、かみ、又、其まゝ、たをれ[やぶちゃん注:ママ。「たふれ」が正しい。]、死《し》して、けり。』本篇の中で、最もリアルな怪奇感が描かれている場面である。椿相は、まず、辺りを、手で、頻りに撫でては、探っている。これは、生前の通り、眼病で見えなかったから、ではなく、既に、少なくとも一眼は腐ってしまい、落ちているもの、と私は考える。死んでいるわけだから、仮に、一方の目は、生前は、見えていたかも知れないが、この時は既に、その目も見えなかったのに違いない。⋯⋯虚ろな目のない眼窩と見えぬ片目で⋯⋯懸命に何かを捜している⋯⋯首に掛けている頭陀袋(ずたぶくろ)の中の巾着(きんちゃく)を手探りして取り出す⋯⋯それは⋯⋯己(おのれ)が――それこそ後生大事に――大枚(たいまい)の金を入れていた小箪笥の鍵だ⋯⋯しかし、最早、箪笥の所在も分からないのだ⋯⋯而して⋯⋯彼は、その鍵を口腔に含み――ガリガリ!――と齧(かじ)ることで、その憤懣(ふんまん)遣(や)る方(かた)なきを示す以外になかったのである。この描写の優れている点は、怪談として細部のクロース・アップの多数のカットの積み上げの妙(みょう)であると言える。個人的に多数の怪談を電子化注してきたが、これは、稀に見る――死霊の妄執を描いているものとして、特に称揚したいものと感じている。
「うぶめがたに」漢字表記は「產女谷」であろう。「姑獲鳥谷」とも書けるが、地名としては、私は相応しいと思わない。善源寺の所在地も不明であり、ここも不詳である。「うぶめ」については、一般に難産で死んだ女性の霊(或いは、生んで死んだ子も附属するケースもあり、逆に子は墓場の中に生きている話もある)が妖怪化したものとされる。ここでは、それを語る余裕はないので、私の『柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 橋姫(3) 産女(うぶめ)』や、「宿直草卷五 第一 うぶめの事」等を参照されたい。但し、当時、事実、「うぶめがたに」と地名呼称があったとすることに対しては、非常に興味を感じている。
「せひご網」底本では、「せひご」に右注して『(鮬)』とする。これは、「廣漢和辭典」に拠れば、漢語では、『鱊鮬(イツコ)は鮒(ふな)に似た小魚。たなご。にがぶな。』とすし、国字では、『せいご。すずきの当歳魚と二歳魚の称。』とする。前の「たなご」(鰱・鱮)=「にがぶな(苦鮒)」は、条鰭綱骨鰾上目コイ目タナゴ科タナゴ属 Acheilognathus の數種、或いは、タナゴ Acheilognathus melanogaster を指すが、ロケーション地には分布しない可能性が高いのと、漢語であることから、ここは後者の国字としての、棘鰭上目スズキ系スズキ目スズキ亜目スズキ科スズキ属スズキ Lateolabrax japonicus で採る。調べてみると、湖山池は、もともとは、僅かな塩分を含む汽水湖であったが、水質悪化を受けて、二〇一二年に水門を解放して塩分濃度の上げて、現在はスズキが採れる。「ひなたGIS」の戦前の地図を見るに、千代川河口近くで、湖山川が分流しており、江戸時代に、スズキがここを遡上して湖山池に棲息していた可能性は、極めて高い(スズキは淡水でも驚くべき内陸までも遡上する)と考える。即ち、この「せひご網」は「スズキを捕獲する網漁」と断定出来る。
「部先(へさき)」これには困った。まず、「部」を「さき」と読むケースは、福岡県北九州市門司区の企救半島北東端にある地名に「部埼」があり(ひなたGIS)、これで「へさき」と読む。しかし、本ロケーションからみて、この「さき」を用いる可能性は、ちょっとあり得ないと断じた。そこで、「部」の字が、誤判読である可能性を考えた。「部」の(へん)の「咅」と、(つくり)の(おおざと)=「⻏」を含む漢字の「くずし字」を図で調べてみた。何時もお世話になっている「人文学オープンデータ共同利用センター」の「日本古典籍くずし字データセット」では「舳」の字を検索しても、図像がないので、(へん)と(つくり)を含む漢字を別々に視認したところ、「咅」は、時に「舟」の崩し字に誤り易いケースがあること、及び、「⻏」はぞんざいに書いた場合、「由」と区別がつかないことが、複数、確認出来た。されば、私は、これは「舳先(へさき)」であると断ずるに至った。
「和尙も、此銀《このぎん》にて、少《すこし》の法事を修行《しゆうぎやう》して、跡吊(あとゝむら)ひ候(さうら)はゞ、か程(ほど)には、くるひ申(もうす)まし[やぶちゃん注:ママ。「まじ」。]。」まさしく、正論!!!]
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