「因幡怪談集」(恣意的旧字化・オリジナル注附き)/「石河又太夫、猫またを半弓にて殺す事」
[やぶちゃん注:底本、及び、凡例その他は、初回を参照されたい。]
石河又太夫《いしかはまただいふ》、猫またを半弓(はんきゆう)にて殺す事
昔、石河又太夫と言(いふ)人、有り。
是(これ)も[やぶちゃん注:前の話を受けている。]夜獵《よかり》を好(このみ)けるが、或夜(ある《よ》)、上野山《うへのやま》を缺廻(かけめぐ)りけるに、得(え)ものもなく、犬を引(ひき)、國府一ノ宮の山へ上り、たばこなど、すひ付居(つきをり)たるに、又太夫、老母の聲にて、
「又太夫。」
を、二聲、三聲、呼音(よぶ《こゑ》)、聞(きこ)ゆ。
『不思議なる事哉(かな)。夜中といひ、更(ふけ)て、老母、是迄(こゝまで)來《きた》るべき事なし。是(これ)、狐狸(こり)の所爲(しよゐ)なるべし。』
と思ひ、木陰《こかげ》、くゞり、
『其所(その《ところ》)。』
と、思ひし所、ねらひ寄(より)、雲すき[やぶちゃん注:「雲」の「𨻶」。]に、うかゞひ見しに、まがふ所もなき、老母なり。
然共(しかれども)、
『妖(ばけ)ものに、違《たが/ちが》ひ、なし。』
と、例《れい》も[やぶちゃん注:この「も」は「の」の誤判読と採る。二字の崩し字は、よく似ているからである。]所致[やぶちゃん注:この「致」も「持」の御判読である。やは二つの字の崩しは、よく似ている。なお、底本でも右傍注して『(持カ)』とある。]しける半弓(はんきゆう)、腰より、取出《とりいだ》し、能(よく)引(ひき)て、放《はな》しけるに、手ごたへして、あたりけるにや、
「あつ。」
といふ聲、聞(きこ)へ[やぶちゃん注:ママ。]て、笹原、
「かさかさ」
と、はしる音、聞ゆ。
又太夫、飛《とび》かゝり、件(くだん)の所を見るに、何も、おらず。
やうやう、夜明(よあけ)にて、其所(その《ところ》)を見𢌞(みまは)すに、血、ながれて、引(ひき)たり。
『すはや。』
と、思ひ、のり[やぶちゃん注:「血糊(ちのり)」。]を、したひみるに、大道《おほみち》の方《はう》へ、のり、引《ひき》たり。
夜《よ》、明ければ、跡を、したひ、みるに、卯垣茶屋《ばうがきちやや》[やぶちゃん注:読みは、後注参照。]を過ぎ、矢津の橋迄(まで)、つゞきたり。
夫(それ)より、町口《まちぐち》にかゝり、我が門前に引(ひき)たりければ、又太夫も、きもを、けし、
「萬一、老母なれば、是非、なし。自《じ》がひ[やぶちゃん注:ママ。「自害(じがい)」。]する迄。」
とて、內《うち》に入(いり)、臺所にて、樣子を、うかゞひ、人を、呼出《よびいだ》し、
「歸りたり。」
と。
先(まづ)、
「留守、替(かは)る事、なきや。老母は、いかに。」
と尋《たづぬ》るに、下女、申《まうし》けるは、
「只今(たゞいま)、御部屋より、奧へ御出被成(おいでなさる)。」
と申(まうす)。
先(まづ)、替(かは)る事、なく、案心(あんしん)いたし、扨(さて)、のりの引(ひき)たる蹟(あと)を見るに、上《あが》り口《ぐち》のゑむの下[やぶちゃん注:ママ。「緣《ゑん》の下」。]へ、つゞきたる、のり、有(あり)。
疊《たたみ》を、はぐり、せんさくするに、老母の部屋と、物置との閒《あひだ》に、日頃、飼(かひ)ける年經《としへ》し大猫《おほねこ》、弓半[やぶちゃん注:ママ。「半弓」の誤字。]の矢に、あたり、死(しに)いたり。
其色は、はひ毛色《げいろ》なり、とかや。
是、『猫又(ねこまた)』と言(いふ)物成(なる)べし。
[やぶちゃん注:「石河又太夫」前話と同じく鳥取県立博物館所蔵の「鳥取藩政資料(藩士家譜)」の目録中に、寛永三(一六二六)年から享和三(一八〇三)年に至る『石河又太夫家譜』(藩士家譜)があるのを確認した。有力な当主であったことが判る。
「上野山《うへのやま》」鳥取県鳥取市福部町(ふくべちょう)久志羅(くじら)に「上野神社 本殿」がある。ここ(グーグル・マップ航空写真)。
「國府一ノ宮の山」これは、鳥取市国府町宮下にある國府神社であろう(同前)。前の上野神社の本殿から國府神社は、直線で約三キロメートルであるが、山を越えるルートであるから、ここへ至るには、実測では、かなりの距離がある。但し、本文では「國府一ノ宮の山」と言っているから、せいぜい山路で二キロメートルか。そもそも、「上野山」から石河又太夫が自分の屋敷(後注参照)に帰るためには、この國府神社に下(くだ)るのが、地図上で、最短距離であるから、違和感は、全く、ないのである。
「半弓(はんきゆう)」通常の弓の半分ほどの長さの弓。座ったままで射ることが出来るもので、射程距離は短くなるが、山での猟にあっては、対象の獲物は距離を置かないし、何より携帯するに、遥かに使い勝手がよいのである。
腰より、取出《とりいだ》し、能(よく)引(ひき)て、放《はな》しけるに、手ごたへして、あたりけるにや、
「すはや。」感動詞(感動詞「すは」に感動を示す間投助詞「や」の付いた)で、急の出来事に驚いた時などに発する「それ!」「あっ!」「すわ!」相当。
「大道《おほみち》」獣道(けものみち)、或いは、山越えの踏み分け道ではなく、よりしっかりと人工的にしっかり踏まれた幅のある山道(この場合は下り道)で、町屋に向かって続くものを指す。
「卯垣茶屋《ばうがきちやや》」平凡社「日本歴史地名大系」の「卯垣村 ぼうがきむら」に(太字は私が附した)、『鳥取県』『鳥取市旧法美郡地区卯垣村』で、『現在地名』は『鳥取市卯垣』(ぼうがき)『・卯垣一―五丁目・立川町(たちかわちょう)六―七丁目』とある。(グーグル・マップでは、鳥取市卯垣は、ここで、「立川町」はここ)。『矢津(やづ)村の南東、立川村の北東に位置する。法美往来』(ほうみおうらい:同大系の当該解説に『鳥取城下から』、『ほぼ袋(ふくろ)川に沿って通り、大茅(おおかや)山北東の十王(じゅうおう)峠を経て』、『岩井(いわい)郡蒲生(がもう)村(現岩美町)へ至る道』とある)『が通る。尺(しゃく)山の南西の狭間(はざま)にある古苗代(こなわしろ)と称される五畝(ほ)ほどの半月形の田地は、稲葉大明神が稲苗を植えた地で、因幡の国名の起源となったと伝える(岩美郡史)。永禄六年(一五六三)一二月一一日の山名豊数宛行状(譜録)によれば「法美郡之内坊垣百石」が秋里与四郎に与えられている。藩政期の拝領高は四六八石余、本免は五ツ五分。藪役銀七匁余・宇倍野山役米三斗余を課されており(藩史)、大場氏・吉田氏・野崎氏・藤田氏の給地があった(給人所付帳)。「因幡志」によれば』、『家数二一で、出茶屋が八軒あり、川苔を産した。安政五年(一八五八)の村々生高竈数取調帳では生高四八七石余、竈数二七(うち家中四)、ほかに山奉行一。城下近郊のため』、『城下とのかかわりが多くみられ、享保三年(一七一八)滝山(たきやま)村在住の木戸十右衛門が武芸教授のため』、『当村に稽古場と屋敷地拝領を願』い『出ているのをはじめ、明和三年(一七六六)には高田平治郎が村内の七反の畑を拝領している(在方諸事控)。』とある。
「矢津の橋」「殿ダム・袋川流域風土記」(出版者明記無し《恐らくは公的機関》・発行日2012年3月15日)に、『袋川』の項に、『雨滝川 雨滝より国府町谷までの、現在の袋川上流は雨滝川と呼ばれている。国府川 雨滝川より下流で天神川と合流する矢津(現・立川町)辺りまでの、現在の袋川中流部分の別称。因幡川ともいう。』とあった。前の注で示したマップを確認されたい。
「町口《まちぐち》」鳥取の町場の入り口。普通名詞。
「我が門前」石川又丈夫の屋敷は、相応な長年の藩士であると推定されるから、鳥取城下で、しかも、鳥取城からは、そう離れていない場所でなくてはならない。そして、以上の注の書諸記載から、重要なヒントは前の注の終りの、現在の袋川中流の、恐らくは、城側に近い右岸にあったのではないか、と推理する。「ひなたGIS」を見ると、戦前の地図では、込み入った地区は、立川町より北であるから、この中心部辺りのどこかであろうと思われる。ここは、初めに措定した「鳥取東照宮」(戦前の地図では「樗溪神社」である)が東直近となる。異論があれば、何時でも議論する所存である。
「萬一、老母なれば、是非、なし。自《じ》がひする迄。」母を射たとなれば、母殺し、或いは、その未遂となるから、藩主は許さない。されば、藩士として切腹以外の選択肢はないのである。
「猫又(ねこまた)」私の記事では、二十数記事もある。中でも、かなり本格的なケースで、相応に注も、よく記した部類の一つとして、『「想山著聞奇集 卷の五」 「猫俣、老婆に化居たる事」』をリンクさせて終りとする。]
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