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2026/09/26

「因幡怪談集」(恣意的旧字化・オリジナル注附き)/「法美郡しやく山城主の事」

[やぶちゃん注:底本、及び、凡例その他は、初回を参照されたい。]

 

 法美郡《はうみのこほり》しやく山城主《やまじやうしゆ》の事

 

 淸源樣御代《せいげんさまみよ》、御臺所《みだいどころ》御煮方《おんにかた》某《なにがし》と言(いふ)者、元《もと》奧州仙臺《わうしふせんだい》の者也。

 若き時分、御當家御臺所板元御小人《いたもとおこびと》に出《いで》て、久年(きうねん)、宜(よろしく)相勤(あいつとめ《→あひつとめ》)、御上下《おんかみしも》の御供(おとも)、數度《すど/すたび》、勤(つとめ)けり。

 元より、丁寧に御奉公申(まうし)たり。

 去(さる)に依(よつ)て、頭役《かしらやく》の者共(ども)、其趣(《その》おもむき)、段々《だんだん》、申立(まうしたて)、御頭料理人《おんかしられうりにん》になり、其後(その《のち》)も勤(つとめ)て、老年に成(なり)ければ、江戶御供(おとも)御免被成(ごめんなられ)、御國勝手(おくにかつて)に成(なり)たり。

 然(しか)れば、

「難有存(ありがたくぞんず[やぶちゃん注:底本のママであるが、一介の彼が、形式上、城主から受けた許可に対して、「ぞんず」という終止形の謂い方、而して、後が読点というのは、私には、かなり違和感がある。「ぞんずる、」或いは、「ぞんずる。」であるべきであり(無論、その際の句読点は校訂者が附したもの)、さればこそ、読点で続くのも、普通に自然と読める。])、江戶御奉公も是迄(これまで)なり。古鄕《ふるさと》仙臺へ罷越(まかりこし)、親類共(ども)にも暇乞(いとまごひ)せん。」

と、其旨(その《むね》)、願奉(ねがひたてまつ)り、四十日《しじふにち》斗(ばかり)の御暇給(おいとまたまは)り、仙臺へ行(ゆき)けり。

 元より、出生(しゆつしよう《→しゆつしやう》)は在鄕なりければ、早速(さつそく)、親類共(ども)にも對面《たいめ/たいめん》して、今生(こんじやう)の暇乞(いとまごひ)して、緩々(ゆるゆる)、逗留《たうりう》して歸りけるが、其身(その《み》》、幼少《えうしやう》の時、奉公初《はうこうはじめ》に居(をり)たる御家中《ごかちゆう》、有り。是も又、厚恩《こうおん》の事共(《こと》ども)、存出(ぞんじ《いだ》)し、古主《ふるきあるじ》の家《いへ》に尋行(たづねゆき)、案內《あない》しければ、亭主、委細(いさい)、聞屆(きゝとゞけ)、

「久々(ひさびさ)の事、能(よく)こそ尋來(たづねきた)りたり。」

とて、早々(さうさう)、立出(たちいで)、座敷へ請《しやう》じ、物語、數刻(すうこく)に及ぶ。

 料理《れうり》抔(など)出《いだ》し、馳走《ちさう》して、

「物語の通りなれば、立身とは申(まうし)ながら、其御方(その《おんかた》)にも、老人の事、因幡へ居(をり)とまり候得(さうらえ)ば、對面も、限りなり。」

と盃《さかづき》を、とり替(かは)し、念頃(ねんごろ)に暇乞(いとまぎひ)し、泪(なみだ)、流しけり。

「拙者妻《せつしやつま》も、御目(おめ)に懸(かゝ)り度(たし)。」

と、勝手へ通す。

 辭退申(まうし)けれ共(ども)、聞入(きゝいれ)ず、奧の方《かた》へ通しける。

 亭主も、六百石の領主なれば、下人も、多く召仕(めしつか)ひけり。

 扨(さて)、內室《ないしつ》、出逢(であ)ふて、念頃(ねんごろ)の挨拶にて、其上(その《うへ》)にて、女房、申(まうし)けるは、

「こなたには、此度(このたび)、御供(おとも)にて、因幡へ御歸(おかへり)の由(よし)、承り申候(まうしさうらふ)。我等(われら)は、初めて御目(おめ)に懸(かゝ)り候得共(さうらえども)、兼(かね)て御事(おんこと)の樣子、承及(うけたまはり《およ》びけり。因幡と聞《きけ》ば、懷敷(なつかしく)思ひ候(さうらふ)。夫(それ)に付(つき)、率爾(そつじ)ながら、賴申度事(たのみまうしたき《こと》)、有り。御聞被下候半(おきゝくださりさうらはん)や。」

と、言(いふ)。

 御料理人《ごれうりにん》、申樣(まうすやう)、

「安き御事《おんこと》に候(さうらふ)。因幡への御用は、何にても、身に叶ひ候(さうらふ)事に候(さうら)はゞ、承(うけたまは)り可申(まうしべし)。」

と、言(いふ)。

 女房、悅び、

「さらば、賴可申(たのみまうしべし)。我(われ)は、元《もと》、因幡の生《うま》れ也(なり)。御城(おんしろ)もとに、大(おほい)なる池《いけ》・沼《ぬま》、有(ある)や。」

 答(こたへ)て申樣(まうすやう)、

「城下より壹(いち)里斗(ばかり)には、池も、段々《だんだん》[やぶちゃん注:副詞。「かずかず」。]、御座候(ござさうらふ)。いづれにて候哉(やうらふや)。」

と申(まうす)。

「いや、其(その)池の上に、『しやく山』と申(まうす)、城蹟、有りや。定(さだめ)て御存候半(ごぞんじさうらはん)。」

と、言(いふ)。

 答(こたへ)て言(いふ)やう、「しやく山は存居申候(ぞんじをりまうしさうらふ)。其邊(その《あたり》)には、池、御座(ござ)なく候(さうらふ)。其(その)近邊は、皆々、山野(さんや)にて、卯垣《ぼうがき》と申(まうす)村も御座候(ござさうらふ)。又、瀧山《たきやま》と申(まうす)所も御座候(ござさうらふ)。」

と、いふ。

 女房の曰(いはく)、

「我(われ)、四、五歲の時の頃、成(な)りければ、聢(しか)と覺へ[やぶちゃん注:ママ。後も出るが、注さない。]不申(まうさず)。事久敷(ことひさしく)成候(なりさうら)へば、池は、かすかに、覺(おぼ)へ候得共(さうらへども)、今は、池も、平地に成候(なりさうらふ)や。我(われ)、身は、其(その)しやく山の城主の娘也(なり)。其(その)時分、乳母《めのと/うば》に抱《だ》かれ、近邊の山に遊びに行(ゆき)しに、大木《たいぼく》の本(もと)に、老人、三、四人、寄合(よりあ)ふて、圍碁《ゐご》を圍《かこ》み居(をり)けるが、我(われ)、其所(その《ところ》)へ行(ゆき)ければ、老人の謂(いはく)、

『扨(さて)、此(この)小兒《しやうに》は、能(よき)生付(うまれつき)かな。』

と、つむり[やぶちゃん注:「頭(つむり)」。]を摩(さすり)て、

『され共(ども)、短命なり。不便《ふびん》の事。』

とて、側《かたはら》なる小德利《しやうとつくり》の酒《さけ》を猪口(ちよこ)に入(いれ)、吞(のま)せたり。其(その)甘き事、忘れがたし。其後(そのご)、乳母、『はや、日暮(ひぐれ)なり。歸らん。』

迚(とて)、我(われ)を抱《いだ》き、歸りけり。

 其夜(その《よ》)、敵、

『夜打(やうち)入候(いりさうらふ)。』

迚(とて)、皆々、ちりぢりに、立退(たちのき)たり。

 我をば、乳母、抱《いで》きて、何地共(いづちとも)なく、逃出《にげいで》たり。

 父母《ぶも/いちはは》も、別々に、行衞知(ゆくゑ《し》れず。我は、乳母と、京都の方《はう》へ立退(たちのき)、兔(と)や角(かく)と、しけれ共、其(その)時分、何方(いづかた)も、亂世の時分にて、何《なに》、國《くに》・住所《すむところ》も、難叶(かなひがたく)、諸國を𢌞(めぐ)りて、遠江(とほとみ[やぶちゃん注:ママ。「とほたふみ」が正しい。])の國に、暫(しばら)く、足を留(とゞみ)けれ共(ども)、爰(こゝ)も、騷《さは》がしく成(なり)、

「奧州《あうしふ》は靜(しづか)なり。」

と聞(きゝ)、元より、乳母は、早く過(すぎ)たり[やぶちゃん注:早くに亡くなってしまった。]。

 獨り身と成(な)り、諸國、𢌞り、此(この)所へ來りて、もはや、何十年と言(いふ)事を、知らず。

 夫《をつと》に添ふも、幾人《いくにん》か、不覺(おぼへず《→おぼえず》)。

 我が年《とし》、何百か、不覺(おぼへず《→おぼえず》)。

 扨々(さてさて)、不思議の事共也(どもなり)。

 子供は、始終、出生《しゆつしやう》せず。

 見らるゝ通り、いつも、廿歲《はたち》位(くらゐ)にて、少しも、年寄(としより)たる事、なし。

 今の夫も、はや、四十年過(すぎ)、夫婦也。

 扨々(さてさて)、我(われ)ながら、不思議の事也。

 夫(それ)に付(つき)、其元樣(そこもとさま)へ賴度事(たのみたきこと)は、我(われ)、其古(そのいにし)へ、「因幡しやく山城主の娘《むすめ》」とは、乳母の言《ことば》、聞《きく》を忘れはせね共(ども)、先祖の事も、しらず。其(その)しやく山近邊《きんぺん》、寺は、なく候(さうらふ)や。聞(きゝ)たし。」

と言(いふ)。

 答(こたへ)て、

「近邊には、寺は、御座(ござ)なく、夫(それ)より、半道《はんみち》過(すぎ)て、瀧山《たきやま》と申(まうす)所に、律宗の寺、有り。光淸寺《くわうせいじ》と申候(まうしさうらふ)。」

「然(しか)らば、其(その)寺へ、茶湯料(ちやたうれう)・金子(きんす)遣(つかは)し申度(まうしたし)。屆《とど》け可被下哉(くださるべきか)。」

と賴(たのみ)ければ、

「安き御用に御座候(ござさうらふ)。歸り候(さうら)はゞ、早々(さうさう)、其(その)寺へ屆け、金子請取證文(きんすうけとり《しやうもん》)、取(とり)、便《たよ》りに遣(つかは)し可申(まうすべし)。」

と申(まうし)けり。

「扨々(さてさて)、忝存(かたじけなくぞんず)る。必(かならず)、金子(きんす)五兩包置候閒(つつみおきさうらふ《あひだ》)、是(これ)を賴申(たのみまうす)。」

迚(とて)、金子(きんす)、渡しけり。

 其後(その《のち》)、色々(いろいろ)、馳走《ちさう》に逢(あひ)、暇乞(いとまご[やぶちゃん注:「ご」の濁音はママ。])ふて、歸りけり。

 其後(その《のち》)、江戶へ戾り、殿樣御供(おとも)して、御國《おくに》へ歸り、瀧山へ、金子(きんす)、屆け、請取手形(うけとりてがた)、取候(とりさうらひ)て、能(よく)、便《たよ》りを賴(たのみ)、江戶迄(まで)、遣(つかは)しけり。

 其後(その《のち》)、不知(しらず)、其身(その《み》)も七十斗餘(ばかりあま)り、又、江戶御免(ごめん)にて、御國《みくに》にて、果(はた)けり、と、なり。

 扨々(さてさて)、不思議の咄《はなし》也(なり)。

「則(すなはち)、其料理人、直談(ぢきだん)、聞(きゝけり。」

と、なむ。

 其(その)名字《みやうじ》、失念す。

 

[やぶちゃん注:「法美郡《はうみのこほり》」当該ウィキに拠れば、『法美郡(ほうみぐん)は、鳥取県(因幡国)にあった郡』で、『律令制のもとで7世紀後半に設置されたと推定されており、古代から近世まで存続した。明治維新に伴う制度改革で』一度、『廃止されたが、まもなく行政単位として復活、1896年(明治29年)に近隣の郡と合併して岩美郡とな』り、『郡域の多くは、現在は鳥取市の一部となっている』とある。同ウィキの法美郡の地図と、ウィキの「岩美郡」の地図をリンクさせておく。また、現在の鳥取市と旧岩美郡との位置関係を確認するには、「ひなたGIS」の戦前の地図と現在の地図のこれを見るのが、手っ取り早い。そこでは、現在の地図(右)で、左上中央に鳥取城跡の「⛫︎ 」、戦前の地図(左)の右下中央に旧「美岩」とあるので、確認出来る。

「しやく山城主《やまじやうしゆ》」私は戦国時代や城郭には疎いので、昔からお世話になっている個人サイト「城郭放浪記」で探し当てることが出来た。「因幡 爵山城(いなばしゃくやまじょう)」である(地図有り)。位置は、既に先の本書で何度もロケーションとして見てきたところで、実は、鳥取城の僅か南東二・六㎞の位置にある。旧法美郡は、実は兵庫県県境から西に伸びており、まさにその西の端に、この旧爵山城は、そこにあったのである。現在の取県鳥取市卯垣(ぼうがき)のここである(グーグル・マップ航空写真。中央上に鳥取城跡を配してある)。解説冒頭には、『詳細不明。『因幡誌』に「小西采女正と称するする人代々居城の跡と...」あり、城主は小西采女正と伝えられる。』とするだけで、残念ながら、城主の詳細も、時代も、判らない。『稲葉山地区公民館の駐車場が利用できる。西の尾根先、山陰本線の高架橋をくぐった先に鉄塔巡視路の登口があり、ここから登ることができる。』とある。GoogleのAIで調べると、

   *

『因幡志』などの地誌に小西采女正が代々居城とした跡である旨が記されています。戦国時代末期の元亀・天正期には、尼子再興軍の山中鹿介(幸盛)が因幡に進出した際、周辺の諸城主とともに同城主も鹿介側(尼子方)に味方したことが『陰徳太平記』などに描かれています。

   *

とあったが、国立国会図書館デジタルコレクションで「因幡志」及び「陰徳太平記」を調べたが、「小西采女正」の名を見出せない。しかし、この女の語る奇体に古過ぎる話からの感じからは、戦国末期というのは、当たりであろうとは思う。

「淸源樣御代《せいげんさまみよ》」これは、初代藩主池田光仲の長男であった因幡鳥取藩第二代藩主池田綱清(つなきよ:正保四(一六四八)年~正徳元(一七一一)年)のことである。「淸源」は彼の戒名「清源寺殿良宗常温大居士」に基づく。当該ウィキに拠れば(注記記号はカットした)、彼は、貞享二(一六八五)年、三十九『歳で家督を相続する。しかし』、『病弱であったため、父の光仲が後見人として政務を補助した』。『綱清には息子がなかったため』、元禄八(一六九五)年、『甥で鹿奴藩(鳥取東館新田藩)の初代藩主である弟・仲澄の嫡男長吉(後に輝清、吉泰と改名)を養嗣子に迎え』、元禄一三(一七〇〇)年、『綱清は病気を理由に隠居し、吉泰に家督を譲った』とある。従って、これは以上の閉区間の出来事となる。

「御臺所《みだいどころ》御煮方《おんにかた》」綱清の妻(南部重信の長女式姫)に供する料理の調理を担当した部署のことであろう。

「板元御小人《いたもとおこびと》」将軍家・貴人の家などで、主人の雑用をする少年。「御小者」で「おこびと」とも呼ぶ。

「御上下《おんかみしも》の御供(おとも)」これは、領主の外出・お国入り・上洛(京都へ行くこと)などをする際に、家臣が正装である「裃(かみしも)」を着用して行列に供奉することを指している。

「御頭料理人《おんかしられうりにん》」領主の調理の最高責任者。

「江戶御供(おとも)御免被成(ごめんなられ)、御國勝手(おくにかつて)に成(なり)たり」今回の参勤交代の際の追従を以って、これを免除され、当地で行う旧来の仕事以外は、私的に、ある程度、藩内で自由に生活することが許可されることとなった。

「半道《はんみち》」当時の一般には、一里(三・九四キロメートル)の半分を指すから、一・九七キロメートル、約二キロメートル。

「瀧山《たきやま》と申(まうす)所に、律宗の寺、有り。光淸寺《くわうせいじ》と申候(まうしさうらふ)」現存する。鳥取県鳥取市滝山(たきやま)のここである。中央下に爵山城跡を配しておいた(グーグル・マップ)。但し、宗派が時宗で、違う。サイト「MINAKONUSHI」の「光清寺」に同寺の写真があり、その中に「当山由来記」とする解説板が撮られてあるが、そこには、『当山は平安朝末期天台宗の碩学恵僧都の開基』(この前に『本尊は聖観音菩薩 恵信僧都作』とあるので、「恵僧都」で省略したものである。)とし、『鎌倉時代に時宗の開祖遊行上人当地に巡錫踊念仏を始めたのが縁となり以後時宗所属となり今日に至り開創以来一千百年になん』なん(踊り字「〱」なので正字にした)『とす藩政時代は池田家の尊崇篤く寺領を有していた』とある。

「茶湯料(ちやたうれう)・金子(きんす)」前者「茶湯料」(ちゃとうりょう)は「供養料」で、以下の「金子」は、「寺に対しての御布施」であって、全く別物である。現行の寺でも、二つを別物として、同額を要求するところがある。まあ、今、やられると、無神論者である私はムッとするが、ここでは、謂わば、恐るべき古えの先祖への回向を菩提寺でも何でもない寺に望む以上、当然あって、然るべきだろうとは、思う。]

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