「因幡怪談集」(恣意的旧字化・オリジナル注附き)/「市川氏、夜獵に出て妖怪に逢ふ事 市川宗佐家」
[やぶちゃん注:底本、及び、凡例その他は、初回を参照されたい。なお、本篇も、前話と同様、「宗榮」の話したものであるが、筆者が、メインは話者の直接話法で統一するべき箇所を、宗榮の第一人称を、「宗榮」に書き換えてしまっているため、現在の文章作法から見ると、かなりギクシャクしている。仕方がないので、同じく、そのままにした。]
市川氏《いちかはし》、夜獵《よかり》に出《いで》て妖怪《やうくわい》に逢《あ》ふ事 市川宗佐家《いちかはそうさけ》
市川宗榮《いちかはそうゑい》、老母《らうぼ》、大切に煩(わずらひ)けり[やぶちゃん注:この「大切」は、通常の使い方ではなく、病気が「緊急を要すること・さし迫っていること・油断してはいられない状態であること」を言う。]。
老人の事なれば、近類《きんるゐ》、集(あつま)り、夜《よる》は、伽(とぎ)をして居(をり)たり[やぶちゃん注:この場合の「伽(とぎ)」は、老母が、病気の痛みのため、或いは、病いが気になって、じっくりと眠ることが困難なため、複数の人が、いろいろな話をしては、それを紛らせるために夜話しをしているのである。]。
伽(とぎ)の人々に、宗榮、咄(はなし)しけるは、
「我(われ)、若き時、夜獵、はやり、我(われ)も好(この)ければ、每度《まいど》、出行(いでゆき)たり。
或時(ある《とき》)、二月の末《すゑ》、夜四《よるよ》つ時《どき》[やぶちゃん注:不定時法であるので、凡そ午後九時半から十時前頃に相当する。]過《すぎ》て、犬壹疋(いつぴき)、引(ひき)て、百谷《ももだに》の方《かた》へ、行(ゆき)けり。
二里斗(ばかり)、行(ゆき)て、月も出(いで)ければ、方々(ほうぼう《→はうばう》)、𢌞《まは》りけれども、獵も、なし。
月しろ[やぶちゃん注:「月白・月代」。月が出ようとする時、東の空が白く明るく見えてくることを指す。]を見れば、八《や》つ時過(《どき》すぎ)[やぶちゃん注:これは、「月白」を見ての、定時法で述べていると思われるので、午前三時過ぎであろう。]、
『大かた、七つ前か。』[やぶちゃん注:同前の定時法で午前四時前と採る。]
と覺へ[やぶちゃん注:ママ。「覺え」。]、
『もはや、今夜は、仕合惡(しあはせあ)しく、得物《えもの》も、なし。歸らむ。』
と思ひ、犬を、つれ、瀧山《たきやま》の小坂《こさか》にかゝりけるに、見なれぬ小家(こや)、一軒、有り。
やうやう、近付(ちかづき)、まどの內《うち》を見れば、七十《しちじふ》斗(ばかり)の老女、いろりに、火を、たきて、有り。
さらば、
『たばこ、付(つけ)[やぶちゃん注:火を「點(つ)け」させて貰い。]、休まばや。』
と思ひ、犬をば、木立《こだち》に、つなぎ、內《うち》にいらむとせしが、思ふやう、
『此所(この《ところ》)は、近き頃も通りけるに、人家は、なし。然(しか)るに、近き頃、しつらひけるよ。』
と、おとなひして、戶を明(あけ)て、內に入(いる)に、老女は、ひざを、あぶりていたり[やぶちゃん注:ママ。「ゐたり」。]。
宗榮、云やう、
「夜更(《よ》ふけ)、殊(こと)なふ[やぶちゃん注:ママ。「なう」。]、さむく、火を壹(ひと)つ。」
と申(まうし)ける。
老女、いらゑ[やぶちゃん注:ママ。「答(いらひ)」。返事。]もせず、いろりのたきさしを、出《いだ》したり。
宗榮、腰、打懸(うつかけ)て、たばこを、すい付(つけ)[やぶちゃん注:「吸ひつけ」。]、あたりを見れば、はなはた[やぶちゃん注:ママ。「甚(はなは)だ」。]、せまく、筵(むしろ)、二、三枚、敷程(しくほど)なり。
宗榮、申(まうし)けるは、
「其方(そのほう[やぶちゃん注:ママ。「そのはう」。])、壹人《ひとり》、住(すむ)か。子共(こども)、有《ある》かや。』
と。
ばゞ、曰(いはく)、
「子は、なし。ぢい、有り。とつとり[やぶちゃん注:「鳥取」。]へ行(ゆき)て、未(いまだ)、歸らず。追付(おつゝけ)、歸るべし。」
と言(いふ)。
其時、いろりの明(あか)りにて、老女が顏を、よくよく、見れば、氣(け)しからぬつらつき[やぶちゃん注:「面付き」。]也。
目は、大《おほき》にして、口、廣く、さけ、色の有(ある)事、言斗(いふばかり)なし[やぶちゃん注:口の左右が、大きく裂けており、口唇全体が、毒々しい(恐らく「赤い」)色をなし、その異形(いぎょう)さたるや、言うべくもない。]
宗榮を見て、
「にこにこ」
笑(わらひ)けり。
『扨々(さてさて)、けう[やぶちゃん注:「稀有」。]なるやつかな。もし、取かゝりなば、切らむ。』
と思ひ、刀の柄《つか》に、手をかけ、ためらふ[やぶちゃん注:この場合は「様子を窺う・よくよく様子を注視する」の意である。]に、外《そと》より、人の足おと、して、
「ばゞ、歸りたり。」
とて、戶を、
「そろそろ」
と明《あく》る。
ばゞは、
「おつ。」
と、答へて、立上(たちあが)ると思へば、我(われ)[やぶちゃん注:宗榮自身。]は、其まゝ、氣絕して、前後不覺也(なり)。
おくしたりや[やぶちゃん注:「臆(おく)したりや」。普通は「気後(きおく)れしたものか」で、「相手の勢いや、その場の雰囲気などに押されて、すっかり呑(の)まれてしまい、心が、怯(ひる)んでしまったものか?」という意味であるが、ここは、それを突き抜けてしまって、「それに呑まれたままに、気絶してしまったものか?」という謂いとなっている。]、しばらく有つて、正氣付(《しやうき》づき)、あたりを見れば、人家《じんか》も、なし。
犬は、能《よく》、寐伏(ねふし)たり。
はや、夜明(よあけ)がたにて、東の方、しらみたり。
所《ところ》は、いづく共《とも》、しれがたし。
夜明《よあけ》て、よくよく見れば、奧谷一ノ宮の上に、古き墓所(はかしよ)、有り。
此所(この《ところ》)に居(をり)たり。
瀧山の邊《あたり》と思ひしが、大(おほひ)に違(ちがふ)なり。
しばし、思案すれ共(ども)、すべきやう、なし。
犬を引(ひき)、やうやう、歸りたり。
此事(この《こと》)、今迄(《いま》まで)は、口外《こうがい》する事、なし。
若き衆《しゆ》は、兼(かね)て、心得給へ。」
と、咄《はな》しなり。
[やぶちゃん注:「市川氏《いちかはし》」「市川宗佐家《いちかはそうさけ》」「市川宗榮《いちかはそうゑい》」昨日来、これらの「市川氏」「市川宗佐家」「市川宗栄」に「因幡」「鳥取藩」「藩士」「医者」「茶人」を組み合わせて何回もブログや国立国会図書館デジタルコレクションで検索を掛けたが、まず、既に使用した鳥取藩の家士のリスト(鳥取図書館作成)には「市川」姓のものは皆無であった。従って、正規の藩士ではあり得ない。「市川宗榮]という名は、何となく医者が名乗りそうな感じはした(老母に医者を招くことをしないのは、彼自身が医者だからという気もしないではなかった)が、そのような医師が同藩にいた痕跡は全く見当たらなかった。「市川宗佐家」という字面(じづら)を眺めていると、茶道との関係を感じはした。AIも、そういう人物が鳥取藩にいたと断定したが、実際に添えてある茶道関係のサイトを幾ら調べても、それを立証する記載は、遂に、全くなかった。さらに言えば、若い時と限定しているが、茶人・医師が「夜獵」に入れ込むというのは、そもそも、私には強い違和感があった。結局、不詳とするしかなかった。万一、御存知の方があれば、切に御教授願いたい。
「百谷《ももだに》」鳥取城の東北東の奥の、現在の鳥取市百谷(グーグル・マップ航空写真)。
「二里ばかり」約七・八五キロメートル前後。宗榮の屋敷が城下の中央辺りであったと、一応、仮定すると、今までの多くあった夜猟のコースを参考に、現在の鳥取城跡と、鳥取東照宮の間の尾根を直登するものと仮定すると、百谷の中央位置までが、四キロ半か五キロほどにはなろうと推定出来ると思う。そこから、さらに、左右の百谷を盛んに跋渉したとすれば、この数値に違和感はない。なお、「百谷」に向かうには、反時計回りで、現在の立川町を経て、山陰道(現在の山陰本線が並行して走る)がある山裾を回って、北西に入って行くことも可能だが、これでは、その大半が平地を移動するので、凡そ「夜獵」と言うには恥ずかしいことと、私は思う。
「瀧山《たきやま》」「ひなたGIS」の戦前の地図で中心に置いた。現行の表記は「滝山」であるが、戦前の地図では「瀧山」である。ここは、前注で言ったアウトなコースであるが、そもそも、「夜獵」を始めて、実に深夜五時間半を費やして、一つの獲物も獲れなかった大失策であった以上、「獵」を止めて帰宅するのであるから、この楽なショート・カット・ルートを採って帰るのは、何ら不思議ではない。私も、そうするであろう。また、この宗榮が、当時、何の仕事に従事していたか判らぬが、藩士・医師あたりだったとして、江戸時代の彼らの勤務時間開始は「明け六つ」=午前五時半から六時半頃には、職場に出仕て居なくてならない。彼は猟を諦めたのが『七つ前』と推定し、私は午前四時前と示した。もう、屋敷に帰らねばならない、余裕を持った時刻として納得出来るのである。
「瀧山《たきやま》の小坂《こさか》にかゝりけるに、見なれぬ小家(こや)、一軒、有り。」この位置を推論してみたい。「ひなたGIS」の戦前の地図を見ると、百谷から真っすぐに下る山道は、ない。とすれば、「百谷」から西にある山道を下り、本陣山のすぐ下を辿ると、山道が十字に交差している。ここを南に下って、中央辺りで東南に下がってゆくと、ごく短く道が無くなるものの、直ぐ下に寺の記号「卍」があり、そこから階段らしきものが見え、完全に降りると「瀧山」の地名のすぐ脇に出られる。これが、彼が下ったルートであったと私は思う。而して、老女がいる「小家(こや)」は、以上からは、地名「小西谷」(「こざい」と読む)の打たれた辺りであったろうと推定する(但し、続く文章では、全く異なる場所にワープしてしまっているのだが⋯⋯しかし、これは、これで、ラビリンス怪奇談として極めて面白いのである。
「奧谷一ノ宮の上に、古き墓所(はかしよ)、有り。」これは、今まで、出てきていない、因幡国一の宮である宇倍神社である。地名が総て見られる「GIS」で示した。いたはずの「瀧山」は中央「+」の少し上、正気に戻ったのは、「宇倍神社」はその対称位置の南側であり、両地は、凡そ二キロ四百メートルほど離れている。因みに、時間的には、宗榮、出仕には間に合ったことであろう。]
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