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2026/09/04

「因幡怪談集」(恣意的旧字化・オリジナル注附き)~起動/「岩井郡浦留にての妖怪の事」

[やぶちゃん注:ブログ・カテゴリ「怪奇談集Ⅱ」で『「因幡怪談集」(恣意的旧字化・オリジナル注附き)』を起動する。この作品は、ネットで調べても、ちゃんとした書誌データが見当らないものであり、筆者不明で、これは、現在、鳥取県立図書館が所蔵するもの以外には存在しないものであり、恐らく、御存知ない方の方が圧倒的に多いと思われる。所持する二〇〇三年国書刊行会刊『江戸怪異綺想文芸大系 第五巻』(高田衛監修・堤邦彦/杉本好伸編)の「近世民間異聞怪談集成」(二〇〇三年刊初版)に所収する伊藤龍平氏が校訂されているもののみが、現在、活字で読める唯一のものである。国立国会図書館デジタルコレクションで横断検索しても、ものになる記載は皆無であった。結果して、信頼出来る書誌情報は、前掲書の伊藤氏の解題に拠る以外には、ない。以下、ポイントを押さえて示す。

 本鳥取県立図書館蔵の「因幡怪談集」は、写本で、現在まで、他の伝本は見つかっていない。但し、写本を書いた人物は『裏表紙の「重松宣喜』(のぶき? のぶよし?)『蔵書」『とあり、書写の時点で』、『すでにこの題が用いられていたらしい』と述べられた後、初っ端から『成立については不分明な点が多い。』と記しておられる。そして、この写本は、実際の本文を持つ立項話は『三十八話から成るが、目録題の後には「追加」と記されており、現存の『因幡怪談集』よりも収録説話の多い原『因幡怪談集』と呼ぶべき作品が存在していたことが推察できる』とし、「目錄」の途中に、書写した重松氏によって――本文がなく、目録だけで、その当該話柄が載っていない。追って知れる者があったなら、追加して、書き入れる。――と言った意味の注意書きがあって、しかしながら、実際に、その十二の目録標題に相当する本文は、遂に写されていない、と解説され、『この点からも原『因幡怪談集』の存在が裏付られよう。』とある。しかも、私自身も、解題を読まずに、「近世民間異聞怪談集成」本文を読んだ際、奇妙に感じたのだが、本文の途中に、別な目録が十四題、突如、載るのである。そこで、伊藤氏の解題を見たところが、これを『不可解』とされ、『二つ目の目録以前の話』『と以後の話』『を比べてみると、記述に若干の相違が見られる』とされ、『前半の話に多い年代の明示』『が後半にはほとんど見られず、わずか一話にとどまる』ことなどから、『これを単純な錯簡とは見做せないのである』と述べておられる。而して、伊藤氏は、よく似た同一地方に限った怪奇談集を考証して見るに、『当時の因幡地方において、怪談が好まれる気風があったことは想像に難くない。『因府夜話』は寛保年間の成立、『雪窓夜話』は宝暦年間の成立である。『因幡怪談集』所収のうち、年代の『因幡怪談集』所収の話のうち、年代の下限は寛延二年(一七四九)で、成立はこの少し後と推察される』と述べておられる。以下、本篇の怪談を、柳田國男が提唱した『今日の説話の分類でいうところの世間話(同時代が舞台の、いくぶん真実味のある話)に相当』するとされ、さらに、各話の主人公の身分から、『原本の編者が、武士階級に属する者であったのは間違いない』と解析されておられる。伊藤氏の解題は、本「近世民間異聞怪談集成」の中でも、目から鱗で、群を抜いて素晴らしいものである。同書から、今まで複数の「怪奇談集」で基礎データを使用して電子化注をしてきたが、この本の他のものの中には、驚くべき杜撰な箇所が散見するものがあり、定価一万九千八百円という大枚に何度も憤激を感じたものだったが、今回は、溜飲を下げたものであった。そういう意味で、不肖な私乍ら、伊藤氏を非常に高く評価させて戴くものである。

 なお、以上の伊藤龍平氏校訂になる「近世民間異聞怪談集成」の本文をOCRで読み込み、加工データとした。ここに御礼申し上げる。

 ここでは、私のポリシーとして、以下の仕儀を凡例と規定した。

◎漢字は、基本、恣意的に適切と判断した旧字に変更した。複数の字形があるものは、私の好みのものを当てた。少なくとも、その方が、結果して原本に近い可能性が高くなるという推断からである。

◎各個標題は五字下げポイント上げであるが、ブラウザの不具合を考え、一字下げ同ポイントとした。これは、ブログ表題が、既に、その役割を代替していると判断したからである。なお、ブログ表題については、五月蠅いので、読みはカットし、句読点などの追加もしていない。

◎ルビは、( )で添えた。

◎原本を原作者が歴史的仮名遣を誤っている箇所(かなり多い)は《→ 》で正しい仮名遣を添えた。

◎読みの補助が必要と私が判断したものについては、推定で歴史的仮名遣で《 》を以って、訂した。読みが複数ある場合は、第一候補を先頭にし、後の候補を「/」を挟んで示した。実際、読みを附さないと、普通の若い読者でも、戸惑うものが多いため、結果して、多量に読みを追加することとなった。初めは、対象を高校卒業レベルで禁欲的に施そうとしたが、ネイティヴでない読者には、それでは、随所で躓くと予想されたからである。因みに、私の怪奇談テクストで、ここまでオリジナルに読みを附したものは、特異点である。

◎句読点については、私が正しいと判断したものに変え、或いは、あった方がいいと判断した箇所には、独自に、多く、追加してある。

◎直接(間接)話法、及び、あった方が読み易いと考えた箇所には、鍵括弧・二重鍵括弧を用い(加工データでは、二重括弧を独立して使用している箇所があるが、原本にそれが使用されていることは、通常、あり得ないので、勝手に変更してある)、また、恣意的に自由に改行した箇所を設けた。

◎心内語の場合は、必ず、二重括弧で括った。

◎踊り字「〱」「〲」は、私が生理的に嫌いなので、正字に換えた。

◎概ね、若い読者・ネイティヴでない読者を対象として、注を附した。

★最後に述べておくと、加工データを見るに、明らかに、意味を以って読めないフレーズや漢字が、複数、認められる。それは、原本を見られないため、原本の誤記なのか(但し、その場合は、加工データでは、必ず、傍注が附されてある)、いや、失礼ながら、校訂者伊藤龍平氏、或いは、判読に係わった伊藤氏の関係者の方々が誤読した可能性もゼロとは言えない(底本の他の別な担当者が校訂している怪談集で、別に私が原本・異本を判読したものもある。その中には、凡そ、ド素人が判読したのではないか? と呆れるほど、杜撰なものがあり、校訂者に質問状を出そうと思って調べると、既に仕事をやめているらしく、所在不明であったことがあった)。そこでは、一々、「失礼ながら」という前置きを附さないこととした。悪しからず。

 なお、二つ存在する標題目録は、凡てが終わったところで示すこととする。]

 

 岩井郡《いはゐのこほり》浦留《うらどめ》にての妖怪《やうくわい》の事

 

 享保(きようほう《→きやうほう》)年中の事也(なり)。

 浦留は、鵜殿《うどの》大隅領所《おほすみりやうしよ》也。屋敷茶屋、有り、家來も數輩(すはい)、住(ぢゆう)す。

 然(しか)るに、給人分《きふにんぶん》の者何某(なにがし)、此人(この《ひと》)、夜獵《やれふ》を好(このみ)て、大方(おほかた)、每夜《まいよ》、出行(いでゆき)けり。

 又、或(ある)時、日暮《ひぐれ》て、秋の事也(なり)しに、例のごとく、出行(いでゆき)けり。

 常に出入(いでいり)ける町人《ちやうにん》、來り、其人を尋(たずね《→たづね》)けるに、はや、例《ためし》の通(とおり《→とほり》)、夜獵に出《いで》て、留守なり。少し用事も有《あり》けるにや、其人の歸るを待《まち》て、夜半過(やはんすぎ)まで居(をり)けれども、歸らざりければ、ふしむ[やぶちゃん注:「ふしん(=不審)」の原本の誤記。]をなし、

「いつも、亥(ゐ)の刻(こく)の時分には御歸《おんかへ》り候(さうらふ)が、何とて、ケ樣(かやう)におそく御歸候(《おん》かへりさうらう《→かへりさふらふ》)や。若(もし)、又(また)、氣分共(とも《→ども》)、惡敷(あしき)は、是(これ)、なきや、心もとなし。」

とて、

「むかゐがてら[やぶちゃん注:「迎へがてら」の誤記。]に參候半(まゐりさうらはん)。」

と、男壹人(いちにん)、召連(めしつれ)、いつも行(ゆく)山路《やまぢ/やまみち》は存《ぞんじ》の事なれば、男と貳人(ににん)、松明(たいまつ)を、とぼし、むかい[やぶちゃん注:ママ。「むかひ」。]に出(いで)けり。

 いつも行(ゆく)山路へ行(ゆき)けるに、道より、少し、ひきゝ[やぶちゃん注:「低(ひき)き」。]所、有(あり)。

 たれ共(とも)しらず、人の、ふし[やぶちゃん注:「臥し」。]たるやうに見へ[やぶちゃん注:ママ。「見え」。]ければ、松明(たいまつ)を、ふり上(あげ)、あかりにて、能々(よくよく)見れば、其(その)人なり。

 立寄見(たちより《み》)れば、息たへ[やぶちゃん注:ママ。「息たえ」。「息絕え」。]て、伏《ふ》しい[やぶちゃん注:ママ。「ゐ」]たり。

 貳人(ににん)の者、驚(おどろき)て、水など、求め、口にそゝき[やぶちゃん注:「注(そそ)き」。]ければ、いき出(いで)たり。

 やうやう、人心付(《ひとごころ》つき)、本正(ほんせう[やぶちゃん注:ママ。「ほんしやう」。])になりて、

「これは。いかやうの事にてか。」

と、尋(たずね《→たづね》)ければ、其(その)人、申(まうす)やう、

「例《れい》の通り、引(ひき)[やぶちゃん注:目的語は「犬を」。]、方々(ほうぼう[やぶちゃん注:ママ。「はうばう」。])あるきけれども、得物(えもの)も、なし。『もはや、夜、(ふけ)更たり。歸らむ。』と、犬を引(ひき)、歸りけるに、此上の山にて、犬、すゝまず。しかれ共(とも[やぶちゃん注:「ども」に同じ。])、追立(おひたて)て、前ヘ、やりけるに、犬、何方(いずかた[やぶちゃん注:ママ。「いづかた」。])へやら、不通(ふつう)に、見へず[やぶちゃん注:犬の反応がなく、闇の中に見えなくなって、姿を失ったことを言う。]。くらき夜なれば、しばし[やぶちゃん注:「暫し」。]、たゝずみ、犬を呼《よび》けるに、何ものともしらず、犬を、我(われ)に、打(うち)つけたり。『こは、いかに。』と思ひ、刀《かたな》の柄(つか)に、手をかけ、見るに、ぬけず。とやかくする內《うち》に、何やら、我(わが)首筋《くびすぢ》を、つかみ、『中《ちゆう》を、なけられし。』[やぶちゃん注:何者かに中空(ちゅうくう)に投げられた。]と思へば、氣をうしなひ、前後不覺(ぜんごふかく)。」

と言(いふ)。

 犬を尋ねけるに、四、五閒(けん)[やぶちゃん注:七・二七~九・〇九メートル。]外《そと》の笹原《ささはら》に、二つに引(ひき)さき、捨《すて》て、有(あ)り。

「まづ、はやく、歸られ候(さうら)へ。」

と打連(うちつれ)、宿《やど》に歸りけるに、夜《よ/よる》も、ほのぼのと明(あけ)たり。

 其後(その《のち/ご》)、かはりたる事も、なし。

 思へば、天狗か、山の神の所爲(しよゐ)と見へたり。

 

[やぶちゃん注:「岩井郡《いはゐのこほり》浦留《うらどめ》」平凡社「日本歴史地名大系」の「浦富村 うらどめむら」に拠れば、旧『鳥取県岩美郡』(いわみのこおり)『岩美町』(いわみちょう)『浦富村』とし、現在地名を『岩美町浦富』とし、『現岩美町域の中央北端に位置する。する。正確には、現在は鳥取県岩美郡(いわみぐん)岩美町(いわみちょう)大字(おおあざ)浦富(うらどめ)で、ここである(グーグル・マップ)。以下、『正保期(一六四四―四八)作成と推定される因幡国絵図(県立博物館蔵)に浦住宿とみえる。元禄郷帳作成時に浦富村と改めたが(元禄一四年「変地其外相改目録」県立博物館蔵)、浦留』(☜)『とも記し(「在方御定」など)、南の町浦富(まちうらどめ)村に対して、本浦住村・本浦留(もとうらどめ)村・浜浦富(はまうらどめ)村とも通称された(「檀徒寄進帳」金剛院旧蔵など)。天正九年(一五八一)から慶長五年(一六〇〇)まで巨濃(この)郡を領有した垣屋恒総』(かきやつねふさ)『が南西の桐山(きりやま)城を本拠地として桐山東麓に居館を構えていた。西にある支村の田後(たじり)村は享保一九年(一七三四)以前に領内限りで一村となっていたと考えられる(同年鈴木孫三郎所持本「因幡誌」など)。藩政期の拝領高は六三〇石余。本免は四ツ九分。山役米一斗を課されており、天保三年(一八三二)の山林は二八町三反余(藩史)。鵜殿氏』(☜)『の給地であった(給人所付帳)。前掲「因幡誌」によれば高八七〇石、竈数四〇余。文政五年(一八二二)の岩井郡組合帳(勝山家文書)によれば家数九五』とあった。

「享保(きようほう《→きやうほう》)」一七一六年から一七三六年まで。謂わずと知れた吉宗の治世。

「鵜殿《うどの》大隅領所《おほすみりやうしよ》」まず、鵜殿氏であるが、しばしばお世話になっているサイト「城郭放浪記」の「因幡 鵜殿大隅陣屋」に拠れば、『鵜殿氏は鳥取藩主池田氏の家老で五千石を領した。池田光仲の父池田忠雄の生母督姫は家康と鵜殿長持の娘との間に生まれた子で、鳥取藩鵜殿氏はその縁によって家老を務めた。』とある。そして、ネットで調べると、この鵜殿氏は、代々、通称として「大隅(おおすみ)」を名乗る人物(「鵜殿大隅守」など)を多く輩出しており、彼らが治めた鳥取県内の自分手政治(じぶんてせいじ:家老が独自の裁量で治める特別な領地)の区域・拠点を「大隅領」あるいは「大隅陣屋」と呼ばれたのであった(ネットのサイトによっては、「大隅」を「大隈」と表記するものもある。読みは同じであろう)。而して、現在、浦富地区に「旧:御陣屋(鵜殿大隅陣屋跡)」がある。本話のロケーションを理解し易くするため、同陣屋後背にある山地地帯を見ることが出来るグーグル・マップ航空写真をリンクしておいた。また、左のサイド・パネルのこの画像で、岩美町教育委員会による解説板「御陣屋跡」を視認出来るので、見られたい。

「屋敷茶屋」これは、狭義には、恐らく「お茶屋屋敷」で、江戸初期に徳川家康が上洛の往還に際し、休泊のために岐阜県大垣市に設けた施設を指すが(当該ウィキを見よ)、ここでは、鳥取藩(因幡国・伯耆国)にあって、前に出した重臣が治めた自分手政治の特別な地区内の武家屋敷(陣屋・自分屋敷)の周辺に、商業的な茶屋が附属的にあったものを言っているものと思われる。

「給人分《きふにんぶん》の者」この場合は、広義の、主君から領地・扶持(俸禄)を貰っている家臣の上・中級の武士を指していよう。下級武士になると、領地はない場合もあろうが、この男、「夜獵《やれふ》を好(このみ)て、大方(おほかた)、每夜《まいよ》、出行(いでゆき)けり」とあることから、以上のように採った。でなければ、夕刻から夜間に、年がら年中、自由に、正式には陣屋領である後背の山間などに入って、自由に狩猟をするなどというのは、絶対にあり得ないことだからである。

「亥(ゐ)の刻(こく)」定時法では、ほぼ午後九時から午後十一時。不定期法では、秋は九時頃から十時四十~五十分頃まで。

「山の神の所爲(しよゐ)」個人的には、これには違和感がある。山の神は禁忌に厳しいとされ、山の神の祭日とされる期間の人の入山を嫌い、ウィキの「山の神」には、『長野県南佐久郡』の例として、『大晦日に山に入ることを忌まれており、これを破ると「ミソカヨー」または「ミソカヨーイ」という何者かの叫び声が聞こえ、何者か確かめようとして振り返ろうとしても首が回らないといい、山の神や鬼の仕業と伝えられている』とある。当事者の語りの中の『何やら、我(わが)首筋《くびすぢ》を、つかみ、『中《ちゆう》を、なけられし。』』という異常体験と、やや似ているように見えはするが、私が知っている限りで、確かに「山の神」の行為として――犬をまっ二つに引き裂いて捨てる――という残忍な仕打ちをするというのは、彼女らしくないからである。]

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