上高地を散策してきた――
実は、今週半ば、二泊三日で連れ合いを案内して、四十二年前が最後だった、上高地周辺に行った。
(☆私の登山では、最も過酷だった。友人と二人で北穂高に直登して一泊――小屋仕舞い蚺前日――し、奥穂まで縦走、上高地に下山した。北穂の登りの最後で、人生一度だけの高度障害になって、一足を二、三分もかかり、辛うじて日没を五分前に見れた。)
彼女(両足とも人工関節)を帝国ホテルから明神池まで往復させたが、実に、一日で驚異の二万歩越えを達成し、二人とも、元気に帰宅出来た。
正確には、一日目に上高地に到着、周辺の散策をし、釜トンを戻って、岐阜県高山市奥飛騨温泉郷平湯の深山桜庵(みやまおうあん)に一泊、翌日、上高地に戻り、大正池ホテルから帝国ホテルまで軽く歩いて一泊、翌日、晴れ女である彼女のお蔭で、ロケーションは期待以上の上々であった。
以下、例によって画像は、彼女が撮ったものである。
河童橋にて
【変顔で河童顔をしてみた。因みに、芥川龍之介には、「槍ヶ岳紀行 芥川龍之介」(サイト版:芥川龍之介満十七歳の明治四二(一九〇九)年八月の槍ヶ岳山行記録)があるが、彼は、その後、槍ヶ岳も上高地も、行っていない。未定稿「槍ケ岳に登つた記」もあるが、これは二年後の明治四四(一九一一)年頃(第一高等学校一・二年次)に書かれたもので、前掲の経験に基づく回想文である。さらに、大正九(一九二〇)年七月の『改造』に発表した「槍ケ嶽紀行」があるが、研究者や登山家の間には、芥川龍之介が、この大正九(一九二〇)年の直近に槍ヶ岳に登山していると思い込んでいる方もいるのであるが(そう書かれた学術論文やエッセイが実際にある)、そのような事実は、年譜的事実からも認められず、実は十一年も前の、この時の経験をインスパイアした、確信犯の偽作紀行文なのである。彼の「河童」では、主人公が河童世界へ入り込むのが、上高地とされているけれども(「河童」は多種類の電子化注をサイト及びブログで公開している。サイト版では「河童 附草稿」 / 「芥川龍之介 「河童」 やぶちゃんマニアック 注釈」 / 芥川龍之介「河童」決定稿原稿の全電子化と評釈 藪野直史 / 「芥川龍之介「河童」決定稿原稿(電子化本文版)他がある)、龍之介は、以上の三中時代の一回ぽっきりで(私は四回登頂している)、槍ヶ岳も上高地も、その後に来てはいないのである。龍之介に因んでの「河童橋」であるが、正直、芥川龍之介を偏愛する私には、如何にも白々しい気がするのである。】


「山菜喰い処 よし本」の「大ざるそば」
【二日目の昼食。大きな朴葉二枚に盛られたもの。旨い。お薦め!】
【大正池ホテル前で降り、帝国ホテルへ行く途中で大正池池畔で。】
【バスターミナルがある上高地終点への梓川右岸。このコースは殆んど平坦。以下、重い荷物一つを預けて、私のみが必要物を背負い、河童橋を越え、初日に散歩したキャンプ場の終わった上りになるところまで速足で稼ぐ。
【40分・30分の二回休息で明神池への橋まで到着。連れ合いは植物やキノコが好きなので、それらで疲れを感じない様子だった。】
【予想より、かなり早く明神池に向かう橋に至る。】
【足の不自由な彼女が、このコースを四時間強で踏破したのには、内心、かなり驚嘆した。】
*私が指示して彼女が撮った、梓川の左岸、河童橋の少し上の小川の水草が美しい動画が、「X」と「フェイスブック」で見られる。
**「Instagram」では全画像を公開した。
*私が指示して彼女が撮った、梓川の左岸、河童橋の少し上の小川の水草が美しい動画が、「X」と「フェイスブック」で見られる。
**「Instagram」では全画像を公開した。
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