「因幡怪談集」(恣意的旧字化・オリジナル注附き)/「幽靈に出會、金子を請、以來出家思ひ立事」《☆ここまでの一押し!》
[やぶちゃん注:底本、及び、凡例その他は、初回を参照されたい。]
幽靈に出會(であひ)、金子(きんす)を請(うけ)、以來《いらい》、出家《しゆつけ》思《おもひ》ひ立《たつ》事
寬保年中《かんぽうねんちゆう》、荒尾近江《あらをあふみ》、徒《かち》の者、生所《せいしよ》、伯州米子《はくしうよなご》の生《せい/うまれ》也。
然(しかる)に、近年、御城下に出(いで)、近江方《あふみがた》へ、奉公人たり。
隨分、(ずいぶん)、貞心者にて、能(よく)、勤《つとめ》けり。
所用、有りて、日數《ひかず》の暇(いとま)を願(ねがひ)、伯州へ行(ゆき)けり。
時しも、秋の末《すゑ》にて、短日《みじかび/たんじつ》の節《せつ》也迚(なりとて)、道を急ぎ、伯州八橋《やばせ》の先《さき》、劔《つる》が野《の》に懸(かゝ)りければ、日《ひ》、殊外(ことのほか)、かたむき、はや、日《ひ》、入《いり》ければ、べふべふたる[やぶちゃん注:ママ。「渺眇(べうべう)たる」。]廣野を、獨り趣(おもむ)けり。
折節、道づれもなく、はや、くらぐらに[やぶちゃん注:「暗暗(くらぐら)に」。]成(な)り、雨も、少々、降出(ふいいで)たり。
物凄く、蹟(あと)へも、戾られず。
「もはや、壹里半[やぶちゃん注:五・八九一キロメートル。]行(ゆけ)ば、在所《さいしよ》、有り。何とも、夫迄(それまで)。」
と、急ぐに、狐火共(きつねびども)、所々《ところどころ》に見へ[やぶちゃん注:ママ。「見え」。後にも出るが、注さない。]、狼《おほかみ》の聲も、耳元に聞ゆ(きこ)。
『あら、物凄(ものすご)の所や。』
と、思ひながら、急ぐ道に、遙(はるか)に、火の光、かすかに見へたり。
「扨(さて)は。在所、近し。」
とて、競《きそ》ひて行(ゆく)に、次第に、近付(しかづき)見れば、門、有(あ)り。
內に入(いり)て見れば、人《ひと》の、十人斗(ばかり)住(すむ)家と見へたり。
思ふ樣(やう)、
『前々《まへまへ》、往來するに、此家は、無き樣(やう)に覺えたり。但(たゞ)し、近頃、新たに出來《でき》たるか。』
と、見ゆ。
家居(いえゐ《→いへゐ》も、百姓の家共(とも)、見えず。先《まづ》は、士《し》の住居《すまゐ》也《なり》。內《うち》の體(てい)も靜(しづか)にて、りやうじに[やぶちゃん注:「聊而に」。「いい加減に・ぶしつけにして失礼な」の意。]物を言難(いひがた)く、そと[やぶちゃん注:「そっと」の意。]、案內、申(まうし)けり。
答(こたへ)て小行燈(《こ》あんどん)を提(さげ)、年頃、五十斗(ばかり)の女、出《いで》て、
「何方(いづかた)より。」
と、いふ。
「苦《くる》しくも無《なき》き者也。夜のくらきに、行兼(ゆきかね)て、火の光を便《たよ》りに、立寄申(たいよりまうし)たり。我(われ)は鳥取御城下の者にて、米子迄(まで)行(ゆく)者にて候(さうらふ)。餘(あま)り、夜《よ》、くらく、明(あか)りは、持たず、雨、降る。殊(こと)の外(ほか)、草臥(くたびれ)は致す也(なり)。何卒(なんとぞ)、御家《おんけ》の隅《すみ》、庭の內《うち》成り共(とも)、一夜を明候樣(あかしさふらふやう)、御斗(おはから)ひ被下度(くだされたし)。」
と、念頃(ねんごろ)に賴(たのみ)けり。
女、聞(きゝ)て、
「扨々(さてさて)、見れば、若き御士《おんし》、御難儀(ごなんぎ)、いたわ敷(しき)[やぶちゃん注:ママ。「いたは敷き」後にも出るが、注さない。。]こそ、思ひ候(さうら)へ。先(まづ)、是(これ)へ、御腰懸(《おんこし》か)け候(さうら)へ。あるじに、其通(その《とほ》)り可申《まうすべし》。」
迚(とて)、行燈(あんどん)は、其儘(そのまゝ)置《おい》て、其身は、奧に入(いり)けり。
追付(おつゝけ)、件(くだん)の女房、立出(たちいで)て、
「あるじに其旨(その《むね》)
申候得(まうしさうらえ)ば、『御《お》いたわ敷存候(しくぞんじさうらふ)。暫(しばら)く御休息候(さうら)へ。』とて、最早(もはや)、御支度《おんしたく》も宜敷候半(よろしくさうらはん)。」
とて、したゝめの膳《ぜん》、拵(こしらへ)、菜𢌞《さいまは》り[やぶちゃん注:副食の「おかず」を指す。]、二ツ三ツ、調(とゝんへ)て、食《しよく》を、すゝめける。
「是は忝(かたじけなし)。」
とて、時分は能(よく)し[やぶちゃん注:おかしい。思うに、「よ」の崩し字の最後を「く」と分離して誤判読したもので、「よ」一字であって、「夕食を貰うにも、丁度、よかったから」。」と言う意味であろう。]、喰《くひ》けり。
酒も出《いだ》し、すゝめけり。
其後(その《のち》)、件(くだん)の女房、奧へ入(いり)て、暫(しばらく)して立出(たちいで)、
「扨(さて)、馴々敷(なれなれしく)思召候半(おぼしめしさうららはん)なれ共(ども)、亭主の女中《ぢよちゆう》、御目《おめ》に懸(かゝ)り度(たく)思召候(おぼしめしさうらふ)。あれへ、御通《おとほ》り候(さうら)へ。」[やぶちゃん注:ここで、錯覚している読者もおられるであろうから、先走って、バラしておかねばならないが、ここまで彼の前に出ている「女」(「女房」とも言い換えている)というのは、ここの家の実際の女中(じょちゅう)であり、この家の主人は奥にいて、その人物は「女主人」なのである。この女中が言う「亭主の女中」というのは、亭主だが、女性であることから、既にこの時代には、尊敬の称が消えて卑語となっている「女中」を、武士である主人公に説明するに際し、その女主人を「女中」と敢えて卑称したのであって、これは、何ら、違和感はないのである。]
とて、一閒《ひとま》の唐紙《からかみ》、引明(ひきあけ)たり。
「是(これ)へ、是(これ)へ。」
と申(まうす)に付(つき)、這入(はいゝり)たり。
見れば、內《うち》の奇麗さ、申(まうす)も、中々(なかなか)、及(および)がたく、亭女は、三十斗(ばかり)と、見へたり。
脇に、十七、八歲斗(ばかり)の女郞《ぢよらう》、有り。[やぶちゃん注:この場合の「女郞」はフラットな意味で、単に「若い女」である。]
燈明(とうみやう)に、てらし、件(くだん)の女房も、側《そば》に居(をり)たり。
扨(さて)、亭女《ていぢよ》、申(まうし)けるは、
「ふしぎの御緣《こゑん》にて、御目《おめ》に懸(かゝ)り候(さふらふ)。常《つね》ならば、中々(なかなか)、御立寄(《お》たちより)も有閒敷(あるまじき)に、能(よく)こそ御立寄被下(《お》たちよりくだされ)、いぶせく[やぶちゃん注:「不快に」の意。]思召候半(おぼしめしさうらはん)なれ共(ども)、今夜は御宿申(《おやど》まうす)べし。御休み候(さうら)へ。」
とて、念頃(ねんごろ)に挨拶にて、取肴《とりざかな》[やぶちゃん注:酒の肴(さかな)。]、取添《とりそへ》、酒を出《いだ》す。
其(その)時、亭女、盃《さかづき》を取上(とりあげ)て、くわへて[やぶちゃん注:ママ。「くはへて」。]、彼(かの)男に、さす。
「忝(かたじけな)し。」
と、いたゞき、吞(のみ)けり。
件(くだん)の老女《らうぢよ》、挨拶して、吞(のみ)けり。
其後(その《のち》)、數盃《すはい》の上《うへ》にて、亭女、申(まうし)けるは、
「是(これ)に候(さうらふ)は、我娘(わが《むすめ》)にて候(さうらふ)。未(いま)だ、定(さだま)る夫《をつと》もなく候(さうらふ)。同じくは、それ、殿《との》のやうなる人に、緣《ゑん》を組度存候(くみたくぞんじさうらふ)。それ、殿にも、未(いま)だ若く見へ候(さふら)へば、定(さだめ)て、御妻《おんつま》も有閒敷候(あるまじきさうらふ)。率爾(そつじ)ながら、其元(そこもと)、一生《いつしやう》のつれ共(とも)思召被下候(おぼしめしくだされさうら)はゞ、何か扨(さて)、是(これ)に增(まし)たる悅(よろこ)び、有(ある)まじ。是非(ぜひ)、左樣《さやう》に思召被下候(おぼしめしくだされさうら)へ。」[やぶちゃん注:この台詞の中の三つの「それ」は感動詞で、「そら!」「ほら!」で、人を誘ったり、注意を促したりするときに発する語である。指示代名詞ではないので、注意。]
と、申(まうし)ければ、彼(かの)男、行當(ゆきあた)り、返答に、つまりたり。
其(その)時、件(くだん)の老女、申樣(まうすやう)、
「是(これ)は。能(よ)き似合(にあひ)頃《ごろ》、是非(ぜひ)、其(その)通りに御極(おき)め候(さうら)へ。」
と申(まうす)。
男、聞(きゝ)、當惑して居(をり)けるが、酒を、しひて[やぶちゃん注:ママ。「强(しひ)て」。]、多く、吞(のみ)、馳走には、あひ、結構成殊(《けつかう》なること)にては、有り、
「委細承(《ゐさい》うけたまは)り候(さうらふ)。我等(われら)も、未(いま)だ、定(さだま)る妻も、なし。仰(おほせ)に隨(したが)ひ可申(まうすべし)。」
と、返答す。
依之(これにより)、何(いづ)れも、大(おほ)きに悅(よろこ)ぶ時、男の盃、娘に、さす。
其時、
「目出《めで》たし。」[やぶちゃん注:女亭主の寿(ことほ)ぎである。]
とて、肴(さかな)、色々(いろいろ)、出し、もてなしけり。
娘も、盃、くわへ[やぶちゃん注:ここは「加へ」。母に「次いで」男に銚子を執って、の意。]、男に、さす。
其後(その《のち》)は、數盃《すはい》、重(かさな)り、亭女も、機嫌にて、盃、おさめけり[やぶちゃん注:「治・納める」で「をさめけり」が正しい。「満足して十全に呑み終えた」の意である。]。
亭女、少《ちさ》きふくさ包《づつみ》一ツ出《いだ》し、
「是(これ)は、我(われ)、所持《しよじ》の金子(きんす)にて、十五兩、あり。是(これ)を、そもじ殿《どの》へ、遣(つかは)し申候(まうしさうらふ)。娘が行末(ゆくすゑ)、能(よき)樣(やう)に、それ、殿(との)、賴申也(たのみまうすなり)。」[やぶちゃん注:「そもじ殿《どの》」「そもじ」は漢字表記「其文字」で、二人称代名詞。「そなた」の「そ」に「もじ(文字)」を添えた語で、「そなた・あなた」の意。小学館「デジタル大辞泉」の補説に『中世には女性が目上の男性に対して用いる語であったが、近世以降、対等または目下の男性に、または男性から女性に用いるようになり、目上の場合には「そもじ様」』(この「そもじ殿」も同じ)『を用いるようになった。』とある。]
とて、遣(つかは)しけり。
男、請取(うけとり)、押戴(おしいたゞ)き、忝(かたじけなき)旨《むね》、一禮す。
其後(その《のち》)、老女、
「はや、夜も、更(ふけ)たり。御休み候(さうら)へ。」
と、其所(その《ところ》)に、寐所《ねどころ》、敷(しき)、老女、取持(とりもち)、娘も、休みけり。
男は、酒、大分《だいぶん》、吞(のみ)、其上(その《うへ》)、草臥(くたびれ)ければ、前後も知らず、寐《ねり》けり。[やぶちゃん注:野暮であるが、当然、男は娘と同じ褥(しとね)に同衾したのである。]
然(しか)るに、夜《よ》も、しらみ、明(あけ)て、鳥《とり》の聲、耳に入(いり)たり。
「是(これ)は。」
と、驚き、あたりを見れば、こはいかに、野原に、獨り、伏(ふし)たり。
其儘(そのまゝ)、起上《おきあが》り、見れば、我(わが)腰の物も、側《かたはら》に、有り。
扨(さて)、又(また)、亭女に貰ひし金子(きんす)も、有り。
「是(これ)は。ふしぎ。」
と、近邊《ちかきあたり》、見れば、古き塚、三ツ、有之(これあり)。
彌(いよいよ)、不審に思ひながら、旅裝束(たびしやうぞく)、しめ直し、急ぎ、立出(たちいで)て、壹里斗(ばかり)行(ゆき)ければ、例(れい)の村里《むらざと》に出《いで》たり。[やぶちゃん注:この「例(れい)の村里」は、初めの部分に出た「もはや壹里半行(ゆけ)ば、在所《さいしよ》、有り。何とも、夫迄(それまで)。」という言葉の中にあった、嘗つて見て存在を知っていた村落を指している。]
村の役人と見へたる大家《たいけ》に立寄(たつより)ければ、亭主と見へて、今、起出(おきいで)、多葉粉(たばこ)、すい居(をり)たり。
彼(かの)男、腰掛(《こし》かけ)て、
「御免候(ごめんさうら)へ」。
と申す。
亭主、申(まうす)は、
「何方(いづかた)より御出候哉(おいでさうらふや)。定(さだめ)て、夜《よ》を込(こめ)て被成御出哉(おいでなさるや)。殊外(ことのほか)に、早く、御通りにて候(さうらふ)。」
と申(まうす)。
男、申(まうす)は、
「夕部(ゆふべ)、劔《つる》が野《の》に行懸(ゆきかゝ)り、くらさは、くらし、雨は、降る、殊外(ことのほか)、難儀に及び、然(しか)るに、ケ樣ケ樣(かやうかやう)。」[やぶちゃん注:「夕部(ゆうべ)」私は古俳句に『春雨に雀かぞゆる夕部(ゆふべ)かな 如嬰』とあるのを知っている。]
と、右の荒增(あらまし)を、語る。
亭主、聞(きゝ)て、
「是(これ)は。野狐共(やこども)、化《ばか》し候哉(さうらふや)。」
と申(まうし)けり。
其時(その《とき》)、男、件(くだん)のふくさに包(つゝみ)たる金子(きんす)を出《いだ》して、
「誠《まこと》の金《かね》なりや。見てもらいたし。」
と申(まうす)。
亭主、請取(うけとり)、能々(よくよく)、見て、
「是(これ)は。實《まこと》の金子(きんす)也(なり)。然(しか)れば、野狐(やこ)の業(わざ)にも、あらじ。扨々(さてさて)、ふしぎ。」
と、暫(しばら)く、思案しけるが、又、申(まうす)樣(やう)、
「若(も)し、其當(その《あた》りに、古き塚《つか》共(ども)は、無候哉(なきさうらふや)。」
と申(まうす)。
答(こたへ)て、
「成程(なるほど)、三ツ、有之(これあり)。」
と申(まうす)。
亭主の曰(いはく)、
「昔物語の咄《はなし》、傳(つた)へ候(さうらふ)。いつの頃にや、歷々(れきれき)の內室《ないしつ》と見へ[やぶちゃん注:ママ。「見え」。]て、娘《むすめ》一人《ひとり》、つれ、幷(ならびに)、四十斗(ばかり)の乳母《めのと》と見へ、三人づれ、西の方《かた》より、此所(この《ところ》)へ來(きた)り。あなた、こなた、さまよひけるが、其時分は、世も騷がしくて、誰《たれ》、不便《ふびん》[やぶちゃん注:「不憫・不愍」に同じ。]を懸(かけ)るものもなくて有(あり)けるが、風病《ふうびやう》を煩(わづらひ)、程(ほど)なく、死(しに)たり[やぶちゃん注:以下で、「貳人《ふたり》の女房」と述べているから、亡くなったのは「娘」である。]。殊外(ことのほか)、悲しみけるが、程無(ほどな)く、貳人《ふたり》の女房も、同じ風病にて死(しに)けり。所の者、不便にも思ひしかども、折節(をりふち)、世の中、騷敷(さはがしく)、誰《たれ》吊(とふら)ふとも、なく、出家《しゆつけ》を呼(よぶ)といふ事も、なく、三人、共(とも)に其儘(そのまゝ)にて、あの野に、穴を掘(ほり)、埋(うめ)たり。其後、
『折々(をりをり)、幽靈、出《いづ》る。』
と、人々、申(まうす)。不思議なる事共(ことども)、有(あり)けるよし、咄《はなし》傳(つた)へけれ共(ども)、今は、久敷(ひさしく)なりて、近年《きんねん》、左樣《さやう》の咄も、聞不申候(きゝまうさずさうらふ)。定(さだめ)て、左樣《さやう》の事にても可有哉(あるべきや)。扨々(さてさて)、ふしぎ。」[やぶちゃん注:「風病」これは現在の流行性感冒よりも広い疾患・症状を指す。漢方では狭義の疾患としては、中風・リウマチ・痛風などを指す。「風疾」「風患」とも言う。]
と、申(まうし)けり。
扨(さて)、其後(その《のち》)、彼(かの)男、米子《よなご》へ行(ゆき)、諸用、濟(すみ)し[やぶちゃん注:この読み「すみ」は「すま」の崩し字の誤判読ではなかろうか。]、彼(かの)金子(きんす)を出《いだ》し、人々に見せけるに、
「是(これ)は、當代《たうだい》の金子(きんす)に、あらず。古(いにしへ)の金《かね》にて、結構なる上品の金也(なり)。」
と、申(まうす)。
夫(それ)より、當所《たうしよ》に歸り、沙汰なしに過(すぎ)けるが[やぶちゃん注:これは、例の数奇な体験は、暫くの間、「表沙汰にしない・人に話さないようにしていたが」の意。]、いかにしても、心底(しんてい)、濟(しま)ず、心安き朋友《ほういう》に、荒增(あらまし)、咄《はなし》けり。
人々、聞(きゝ)て、
「是は。不思議。」
隱《かく》すとすれ共(ども)、皆人《みなひと》、聞付(きゝつけ)、金子(きんす)を見て、彌(いよいよ)、驚きける。
然(しか)れ共(ども)、右の男、悅《よろこば》ず、
「いかゞすべし。」
と、人々の了簡(りやうけん)を借《か》りけり。
何(いづ)れも、評判して、
「たとへ、幽靈にても、夫婦と成(な)りて、其儘(そのまま)には、置《おか》れまじ。蹟(あと)、吊(とむら)ひて、可然(しかるべし)。」
と、申(まうす)に付(つき)、彼(かの)男も、
「我(われ)らも、左樣《さやう》に存也(ぞんずるなり)。され共(ども)、名も、しらず、𢌞向(ゑかう)せん事、いかゞ。」
迚(とて)、案じけるが、翌年、春、暇(いとま)を願(ねがひ)て、出(いで)けり。
其後(その《のち》)、出家して、屋敷《やしき》[やぶちゃん注:主君である荒尾近江のそれ。]へも、參り、語《かたり》けるは、
「分《ぶん》なき事と言(いひ)ながら、死(しゝ)たる人の金を、請(う)け、蹟吊(あとゝむら)ひて、其儘(そのまゝ)にては、得心(とくしん)、せず。迚(とて)もの事に、出家して、永く、蹟(あと)を懇(ねむごろ[やぶちゃん注:ママ。「ねんごろ」・「ねもごろ」。])に、とわむ、と、斯(かく)、姿《すがた》を、かえて候(さうらふ)。」
と言(いふ)。
人々、是(これ)を聞(きゝ)、
「扨々(さてさて)。貞心《ていしん》なる事や。」
と、打寄(うちより)、彌(いよいよ)、贊(さん)しけり。
此言(このこと)、正說《しやうせつ》也(なり)。
加藤重次郞方(かた)、別(わけ)て、入魂(じつこん)[やぶちゃん注:「昵懇」に同じ。]の人、荒尾、家士也(なり)。重次郞方《かた》へ來(きた)り、語る也(なり)。
加藤、別(わけ)て、入魂(じつこん)故(ゆゑ)、具(つぶさ)に咄(はなし)也(なり)。
[やぶちゃん注:「寬保年中《かんぽうねんちゆう》」「かんぽ」とも読む。一七四一年から一七四四年まで。徳川吉宗の治世。
「荒尾近江《あらをあふみ》」これは、江戸時代中期の鳥取藩家老で米子荒尾家代七代であった荒尾成熙(あらおなりひろ 享保二〇(一七三五)年~天明七(一七八七)年)である。「近江」は彼の通称であった。当該ウィキに拠れば、『鳥取藩家老荒尾成庸』(なりつね)『の次男として生まれる』。『寛延元年(1748年)7月、本家を相続していた兄荒尾成昌の死去により、急養子となって家督を相続し、米子城代となる。幼いため、実父の成庸が後見と米子の仕置代行を命じられたが、成庸は翌寛延2年(1749年)3月に死去した。同年8月、初めて米子入りする。寛延3年(1750年)10月、荒尾斯就の娘と結婚する。宝暦9年(1759年)、藩主池田重寛の将軍徳川家重への初御目見の際、共に登城し、拝謁を賜る』。『宝暦10年(1760年)11月、御職家老(執政家老)となり、若年の藩主重寛を補佐し、藩政を主導する。宝暦11年(1761年)10月、御根取となる。同年、宝暦の改革の推進者である郡代元締役安田成信を罷免させる。成信が推進してきた請免制を基礎とする農政は、商品作物の生産流通を重視する政策に変更された』。『明和8年(1771年)4月、後桃園天皇即位式の祝賀使を務める。安永7年(1778年)8月、病により』、『辞職する。天明3年(1783年)12月、藩主池田治道の家督相続御礼言上の際に、共に登城して将軍家治に拝謁する』。『天明7年(1787年)7月14日死去、享年53。家督は嫡男の成尚が相続した。』とある。
「徒《かち》の者」江戸時代には、主君に仕える下級武士の呼称。
「伯州米子《はくしうよなご》」現在の鳥取県米子市(グーグル・マップ)。
「御城下」鳥取城城下。
「貞心者」貞節な心・操(みさお)を守る心を持った誠実な人物。
「伯州八橋《やばせ》」現在の鳥取県東伯郡(とうはくぐん)琴浦町(ことうらちょう)八橋(やばせ:ここ:グーグル・マップ航空写真)。
「劔《つる》が野《の》」伯耆国立伯州学園中等部の史跡探検同好会のサイト「伯耆国 八橋郡 のつじょう 箆津城」の解説から別々の二箇所を以下に引用する(解説文中の太字・下線は私が附した)。塚や亡霊出現の内容が絡むのも、本話と同調していて、興味深い。
《引用開始》
赤碕町誌(一部抜粋)
城の内(じょうのうち)と呼ばれ堀跡、土塁跡が残る。近くの畑には建物の礎石と思われる石が点在する。文政年間(1818年~1829年)の古地図には二町四方の地域を有したとある。元弘3年(1333年)の船上山合戦の後、名和氏の軍勢に攻められ焼討された当時の伯耆国守護代糟屋弥次郎の居城、中山城とする説、地域狭小で守護の居城としない説がある。城跡の近くには「剣が野(つるがの)」「御立山」「カジ山」「牧戸」の地名があり城との結びつきを残す。「剣が野」では永正の頃(1504年~1511年)に藤井氏の岡部七郎が討死し、その亡霊が残っていて往来の人を悩ましたと伝えている。付近には古墳も散在している。槇の城から約1Km半、箆津部落の東のはずれの墓地(字陣場)に箆津豊後守敦忠の墓がある。
《引用終了》
《引用開始》
伯耆民談記 槇城の項
安田郷箆津村にあり。槇氏代々居す。永正の頃かとよ、藤井何某か家人、岡辺七郎当城に攻寄せ今云ふ剣ノ野に於て大いに戦ひ討死す。其亡霊残りて往来の人を悩す事、暫く累年に及ぶと云へり。此野に七の塚あり。是、首塚とも、又、七塚とも云ふ。一つは岡辺七郎か首塚、残る六は従卒の塚と云伝ふ。剣ノ野以西の金谷村にある大地を金谷野とも云ふ。此野は槇、藤井、多年の戦場にして千戈をちりはめし処なる故、剣ノ野と称すかや。(中略)又、件の藤井某は今の信州上田の城主、松平伊賀守忠国の先祖なるか。是、本姓藤井氏なり。長臣代々岡辺七郎と云ふ。今は九郎兵衛と云へり。
《引用終了》
以上の場所を、グーグル・マップ航空写真で示すと、ここである。右下中央に前の「赤橋」を配した。
「もはや、壹里半[やぶちゃん注:五・八九一キロメートル。]行(ゆけ)ば、在所《さいしよ》、有り。何とも、夫迄(それまで)。」この数値を考えると、本話後半で、主人公が辿り着いた「例の村里」は、グーグル・マップの子の左側辺り(右端中央に「箆津城城跡」を配した)になろうかと思われる。
*
さて、辿り着い亭主が語る話は「昔物語」と言って語り出している。そして、男が貰った金子(きんす)を、米子で、人々に見せたところが、「これは、今の時代の金子ではない。遥か昔のの金子であって、極めて精緻に造幣された上級の金子である。」と断定していることだ。これは、正直言って
――この母と娘と乳母が、ここに流れてきたのは戦国末期どころの話ではないのではないか?――
――室町時代後末期だったのではないか?――
と私は感じている。識者の御叱正を俟つものである。
*
この作品、私は、嘗つて読んだ際、なにか、しみじみとした印象を得たのを思い出す。今回、電子化注にした途中でも、そうした、ある種の感動を持った。死者との冥婚の怪談は、私の電子化した中にも、結構、多いが、ここまで、美しく、しかも、哀しい話は、そうそう、ないのである!
――武士を投げ捨て、僧となって、彼ら三人の後生を弔う――その後ろ姿が――点となるラスト・シーンまで――哀しくも心を打つものとなっているではないか!!]
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