「因幡怪談集」(恣意的旧字化・オリジナル注附き)/「宮內惣門にて妖怪を見る事」
[やぶちゃん注:底本、及び、凡例その他は、初回を参照されたい。]
宮內惣門《みやうちそうもん》にて妖怪《やうくわい》を見る事
元祿年中に、友とする人、三、四人、湯所《ゆところ》[やぶちゃん注:村名。後注参照。]に夜話《よばなし》に行(ゆく)。
夜《よる》、丑(うし)の刻過(こくすぎ)[やぶちゃん注:午前二時半から午前三時以降。]、同道にて、宮內惣門、過(すぎ)て、石橋《いしばし》の邊《あたり》へ、行(ゆき)かゝり、江崎《えざき》の方へ歸る迚(とて)、暗夜《やみよ》に見渡候(みわたしさうらふ)に、何やらん、黑き牛《うし》の如き物、大(おほき)さ、酒屋の五尺桶《をけ》程成(ほどな)る物、見へたり。
四人の士、驚(おどろき)て、
「是は。何物《なにもの》ならん。」
と、見るや否(いな)、氣味惡敷(あしく)、
「いかゞ。」
と、ためらひたり。
一人、申(まうし)けるは、
「いざいざ、上《うへ》の町《まち》へ𢌞《まは》りて、歸るべし。此道、歸らで、不叶事(かなはざる《こと》)も、あらず。」
と、言へば、
三人、
「尤(もつとも)。」
と、同意して、上の町へ、廻りけり。
蹟(あと)、返り見れば、右の物、彼(かの)道を、次第に來《きた》ると、見て、
「いざいざ、急ぎ給へ。」
と、足早《あしばや》に行(ゆき)けり。
然(しか)るに、件(くだん)のもの、はや、追付(おひつき)、石橋《いしばし》の邊《あたり》に來(きた)りたり。
何(いづ)れも、角《かど》を、𢌞り、山田が屋敷[やぶちゃん注:これは、四人共通の同志で昵懇であった「山田」姓の人物で、その男の屋敷は、城下の直近の屋敷に住んでいたのであろう。この日は昼番だったものか。にしても、時間が時間で、迷惑ではある。]の內《うち》に、隱《かく》れ居(をり)たり。
其恐敷事(そのおそろしきこと)、言斗(いふばかり)なし。
暫(しばら)く有(あり)て、一人《ひとり》、外《そと》を覗(のぞき)て見れば、栗谷《くりたに》の方《はう》へ、通りたり。
蹟に、何やらん、長き物、引(ひき)づり行(ゆく)樣(やう)に見へければ、人々、
「あれ、見給(みたま)へ。」
と、申(まう)せば、殘り三人も、見ける。
漸(やうやう)、尾《を》も、見えずなりけり。
何(いづ)れも、奇異の思ひを、なし、四人、門を出(いで)て、歸る道にて申(まうし)けるは、
「あれは、何物ならん。」
と言へば、一人の曰(いはく)、
「去れば、我(われ)、聞事(きくこと)、有り。『夜更(《よふけ》て、栗谷の牛頭天王(ごづてんのう《→こづてんわう》)出給(いでたま)ふ事、有(あ)り。』と言(いへ)り。左樣《さやう》の物《もの》にか。」
と、何(いづ)れも申(まうし)けり。
其內(その《うち》)、あの所《ところ》にて、小川理兵衞《おがはりへゑ》が事《こと》も咄(はなし)けり。
漸(やうやう)、我(われ)、家々《いへいへ》に、歸りたり。
其後(その《のち》)、彼(かの)四人、人々に咄(はなし)けり。
[やぶちゃん注:「元祿六、七年」一六八八年から一七〇四年まで。徳川綱吉の治世。
「湯所《ゆところ》」平凡社「日本歴史地名大系」『湯所村(読み)ゆところむら』に拠れば(太字は私が附した)、『鳥取県』『鳥取市旧邑美郡地区湯所村』は『現在地名』では『鳥取市湯所町一―二丁目・材木町(ざいもくちょう)・丸山町(まるやまちょう)・東町(ひがしまち)三丁目・松並町(まつなみちょう)三丁目・青葉町(あおばちょう)三丁目』に当り、『久松(きゅうしょう)山の北西山麓、惣堀(そうぼり)と袋(ふくろ)川(旧袋川)の間に位置し、袋川を挟み』、『西は田島(たのしま)村。鳥取城の惣構中に』、『ただ一つ立地する在方の村。鳥取城下を発した但馬往来が通過する最初の村で、丸山山麓に支村丸山がある。永禄六年(一五六三)四月五日の山名豊数感状(中村文書)に「湯所」とみえ、同月三日の合戦で討死した中村伊豆守の働きを賞している。この合戦は高草(たかくさ)郡布施の天神山(ふせのてんじんやま)城を拠点とした因幡国守護山名豊数と、鳥取城を拠点とした』、『その臣武田高信との合戦で、湯所合戦とよばれる。羽柴秀吉の鳥取城攻めの際、毛利方は当地東の雁金(かりがね)山頂に鳥取城と千代川際の出城丸山城とのつなぎのため』、『雁金城を築いたが、秀吉方の宮部継潤により』、『攻め落されたという(因幡民談記)』。『藩政期の拝領高は二七一石余、本免五ツ七分。安政五年(一八五八)の生高二一〇石余、物成一一二石余(「邑美郡下札帳」太田垣家文書)。「因幡志」によれば』、『家数四九、うち茶屋一七。安政五年の村々生高竈数取調帳によれば』、『竈数一二八、うち』、『家中自分屋敷七。当村の山は城山(久松山)に連なっているため、承応四年(一六五五)以来』、『入山が禁止され(寺社方御法度)、明暦三年(一六五七)には円護寺(えんごじ)村へ通じる坂道に』、『番所が建てられ』、『天徳(てんとく)口とよばれ、鉄砲衆が』、『二、三人番を勤めた(町方御定)。天徳寺前には山奉行の詰所も置かれ、文久三年(一八六三)には同寺前の坂道に木戸が建てられた(「在方諸事控」など)。宝暦一〇年(一七六〇)千代川と袋川の合流点近くの土手、通称小松原(こまつばら)に縊死人があり(因府年表)、その処理費用の分担をめぐって』、『田島村との間に牓示』(小学館「日本国語大辞典」に拠れば、「ほうじ(はうじ)」で漢字表記は他に『牓爾・榜示』とし、読みは『「ぼうじ」とも』あり、『① 領地・領田などの境界を示すために、杭・石・札などを立てること。また、その立てたもの。牓示杭。』とし、その初出例は平安後期の文集「朝野群載」(永久五(一一一七)年成立)である。而して、『② ものを書きつけて示す札。目印として書き記した札。立て札。』とあって、初出例を平安中期の「延喜式」(延長五(九二七)年成立)を掲げる。)『論争が起こり、藩は同一二年土手馬踏道の東を当村、西を田島村とする裁許を下した(在方諸事控)。』とあった。以上から、旧湯所村の村域は、鳥取城の西北方向に袋川に沿った形で存在していたことが判る。それが、最も視認し易いものとして、「ひなたGIS」のここの右の国土地理院図がよい。赤いドットが、現在の「湯所村(一)」で、鳥取城は直線で南東五百メートル強に配してある。さて、而して、登場人物は、皆、藩士であり、恐らく、城の前日の遅い交代番を丑三つ時遅くに終わって、下り、湯所村にあった茶屋辺りで、一杯やりながら、夜話を、やらかしたものと思われる。
「宮內惣門《みやうちそうもん》」「、」「過(すぎ)て、石橋《いしばし》の邊《あたり》へ、行(ゆき)かゝり、」ここで彼らは怪異に遭遇する。この「宮內惣門」というのは、同じく「日本歴史地名大系」『湯所村(読み)ゆところむら』に拠れば(太字は私が附した)、『江崎上の惣門 えざきうえのそうもん』に、『鳥取市鳥取城下江崎上の惣門』とし、『現在地名』『鳥取市東町(ひがしまち)一丁目』で、『鳥取城郭内九つの惣門の一で、宮内(みやうち)御門、また』、『宮内口ともいう。鳥取城南(みなみ)の御門から南東に向かい、東西両分知家の屋敷の間を通って』、『栗谷(くりたに)川に至る約一四〇間』(二百五十四・五メートル)『の道(宮内通)のうち、天王の尾(てんのうのお)の先端が八間』(十四・五メートル)『ほど突き出している地に造られていた。鳥取城および武士居住地である郭内への関門の一で、栗谷川から北に三〇間』(五十四・五四メートル)『ほどのところにあり、道幅は約八間。また』、『ここから西の大名(だいみょう)小路に向かって、西館家と堀の間を通って江崎下(えざきした)の惣門に続く幅二間』(三・六メートル)『ばかりの道もあった(安政六年城下絵図)』とある。以上の数値記述を地図上で検証し、確認するために「GeoNLP」の「江崎上の惣門」で調べたところ、地図があり、確定出来た。この★「宮內惣門」は、現在の鳥取県庁の北の角に存在したのである(如何なる他の地図上では、これは確認出来なかったので非常に時間を食った)。而して、次の問題は「栗谷(くりたに)川」とは、どこかという点であったが、これも苦労した。何故なら、如何なる公的資料(公的資料には文字で「栗谷川」はあっても、その流域の指示がないのである)や地図類に「栗谷川」が明記されていないのである。以上の位置関係、及び、「栗谷」という呼称、さらに新聞の事故記事まで動員して、やっと、これは、栗谷町(くりたにちょう)を南西に流れている川であると、私は断定した。グーグル・マップのここである。「江崎上の惣門」の位置(県庁北の角)を中央に於いて、「栗谷町」の名を右上に配した。
さて、肝心の怪異出来の「石橋」だが、こればっかりは、流石に判らないのだが、以上の検証の結果して、グーグル・マップのここで、中央上の「(有)和光武道具」という会社が、嘗つての「宮內惣門」である。そして、やはり次の「江崎」の注で示す「鳥取藩士 岡崎可之邸」で判る通り、そこの左上の地域が、彼らの屋敷があるのである。とすれば、
★彼らが怪異に遭遇した場所は、現在の地図では、この中央を斜めに左上から右下に走る道の途中であろう
と推定する以外は不可能である。
★しかも「石橋」とある以上、現在の地図では、これは栗谷川に架かっていた「石橋」と採る以外には、ない。
のである。異論のある方は、何時でも、相手になる。⋯⋯蛇足だが⋯⋯因みに、ほぼ初めの方の先行する複数の話の注で、地図を調べた際、いち早く、気がついていたのだが、本作を電子化注を始めた時、この辺りの地図を見て、思わず、心臓が止まるかと、ドキッ! としたのである⋯⋯。上の地図の右の中央に「尾崎放哉句碑」とあるが、私の卒論は「尾崎放哉論」であり、私が中学時代から心酔した自由律俳句『層雲』の俳人で、私は直ちに誌友となり、二十五歳まで在籍していたのであった⋯⋯このロケーションの、やや南にある鳥取市義方町(よしかたちょう:グーグル・マップ)が、かの放哉の、生地なのである⋯⋯。
「江崎の方へ歸る」「江崎」はグーグル・マップのここで、鳥取城の真南である。この附近は、藩政時代は、江崎に接する日香寺(にちこうじ)附近一帯に、藩士の武家屋敷が多くあったらしいが、現在は荒廃している。サイト「攻城団」の「鳥取城」の「武家屋敷(岡崎邸)」の解説に、『鳥取市江崎町(日香寺付近)にありますが、ご覧の通り荒れ果てています。』とある。これは、「江崎鳥取藩士 岡崎可之邸」として(住所は鳥取市馬場町)「江崎町」を拡大すると、出る。
「暗夜《やみよ》に見渡候(みわたしさうらふ)に、何やらん、黑き牛《うし》の如き物、大(おほき)さ、酒屋の五尺桶《をけ》程成(ほどな)る物、見へたり。四人の士、驚(おどろき)て、「是は。何物《なにもの》ならん。」と、見るや否(いな)、氣味惡敷(あしく)、「いかゞ。」と、ためらひたり。一人、申(まうし)けるは、「いざいざ、上《うへ》の町《まち》へ𢌞《まは》りて、歸るべし。此道、歸らで、不叶事(かなはざる《こと》)も、あらず。」と、言へば、三人、「尤(もつとも)。」と、同意して、上の町へ、廻りけり。蹟(あと)、返り見れば、右の物、彼(かの)道を、次第に來《きた》ると、見て、「いざいざ、急ぎ給へ。」と、足早《あしばや》に行(ゆき)けり。然(しか)るに、件(くだん)のもの、はや、追付(おひつき)、石橋《いしばし》の邊《あたり》に來(きた)りたり。何(いづ)れも、角《かど》を、𢌞り、山田が屋敷の內《うち》に、隱《かく》れ居(をり)たり。其恐敷事(そのおそろしきこと)、言斗(いふばかり)なし。暫(しばら)く有(あり)て、一人《ひとり》、外《そと》を覗(のぞき)て見れば、栗谷《くりたに》の方《はう》へ、通りたり。蹟に、何やらん、長き物、引(ひき)づり行(ゆく)樣(やう)に見へければ、人々、「あれ、見給(みたま)へ。」と、申(まう)せば、殘り三人も、見ける。漸(やうやう)、尾《を》も、見えずなりけり。」前の注と合わせて事実を知ると、彼ら四人が、四人とも、総て、正直、武士とは思えぬ小心に震え上がって、強烈に恐懼畏怖したことが判ってくる。彼らの屋敷は、目と鼻の先なのに、今来た道を戻って、大きく反時計回りに町場を延々と遠回りして、栗谷 ( くりたに ) の南東の「上の町」、現在の鳥取市上町(うえまち:グーグル・マップ)、彼らの屋敷町の向う側へ大迂回して帰る、と言っているのである。
その妖怪を考察しよう。
しかし、ただ、「黑き牛《うし》の如き物、大(おほき)さ、酒屋の五尺桶《をけ》程成(ほどな)る物」と「巨大な黒い牛のような物」と表現するだけで、暗闇の中であればこそ、実体の細部が、全く以って表現されていない。この「五尺桶」とは、酒蔵や醤油蔵などで酒造りや仕込み• 酒や味噌、漬物、酒粕などの仕込みや貯蔵に広く使われた、高さ約一八〇メートル、直径約一・五〇メートルもある、杉などで作られた非常に大きな、昔の大きな木桶を指す。当時の人の背丈を優に超えるバカでかいものである。但し、このサイズが正しく、「黑き牛」に似ているとすれば、これは、出現場所周辺の自然形態と棲息地域を見るに、
哺乳綱食肉目クマ科クマ亜科クマ属ツキノワグマ(月輪熊)亜種ニホンツキノワグマ Ursus thibetanus japonicus
が、ごく、しっくりくる。平凡社「世界大百科事典」を見ると、体長は一・三~一・六メートルで、体重は百二十キログラム前後とあるが、当該ウィキでは、体長一~一・五メートル、体重は♂で六十~百二十キログラム、♀で四十~八十キログラムとしつつ、『最大の記録は1967年に宮城県で捕獲された』二百二十『キログラムの個体で、近年にも2001年に山形県で体長』一・六五メートル、体重』二百『キログラムの記録が報告されている』とある。なお、鳥取県内での本年度での出没件数は、鳥取県公式で、九月二十五日時点で百四十一件とあった。
また、『蹟に、何やらん、長き物、引(ひき)づり行(ゆく)樣(やう)に見へければ、人々、「あれ、見給(みたま)へ。」と、申(まう)せば、殘り三人も、見ける。漸(やうやう)、尾《を》も、見えずなりけり。』というシークエンスは、やや、ほの明るくなったのであろうか、「その化け物が長い物を、引きずってゆくように見えたが、直(じき)に、その尾のような物も見えなくなってしまった。」と言うのだが、これも、これがニホンツキノワグマの♀だったと考えると、合点出来る。即ち、この「長き物」に見えたのは、♀が、子熊たちを引き連れていたのではなかったか?
『夜更(《よふけ》て、栗谷の牛頭天王(ごづてんのう《→こづてんわう》)出給(いでたま)ふ事、有(あ)り。』これは、現在の栗谷町のここ(グーグル・マップ)にある栗溪神社(くりたにじんじゃ)絡みの神威的な話である。サイト「鳥取縣神社廰」の「栗溪神社」に拠れば、「神社名」に『栗溪神社 〈通称 牛頭天王・天王さん〉』(☜)とあり、「由緒」に(太字は私が附した)、
《引用開始》
創立年代不詳。社伝によると貞観の頃(860年頃)、因幡国内に疫病が流行した際に鎮疫の神として神徳の高い播磨国廣峯神社の分霊を勧請奉祀したものという。
『陰徳太平記』巻48に、元亀3年(1572)、山中鹿之助が久松の城に押寄せる際の記述に「天王の尾より山伝いに…」とあり、当時既に当社が鎮座していたことが知られる。
享保5年(1720)の石黒火事の際、社殿類焼、古記録等も焼失した。
元文3年(1738)、卜部神祇管領より正一位の宣旨があり、正一位牛頭天王と称し、社地を天王山といった。幣殿・拝殿は寛保2年(1742)建立の優美な建物。
文政9年(1826)、正一位牛頭天王祇園會永代講の棟札もあり、氏子地区のみならず、近隣の人々にも広く崇敬されている。
明治元年(1868)、栗溪神社と改称。
境内末社稲荷神社は、往古は地主神ともいい境内の鎮守として一段上の山口の方に鎮座していたが、正保あるいは慶安の頃(1644~51頃)に、藩主池田家の命により現社地に奉遷されたという。現存する最古の棟札は、享保5年(1720)、牛頭天王社宮殿再建のもの。
《引用終了》
とある。
「小川理兵衞《おがはりへゑ》が事《こと》も咄(はなし)けり。」これは、『鳥取県立博物館研究報告』(第40号・2003年3月発行)の福代宏(ふくしろひろし)氏の論文『野間宗蔵の「怪談記」について』(国立国会図書館デジタルコレクションのここでダウンロード可能・『許諾』)に、書誌、及び、翻刻がある。書誌、及び、論文内容(作者の詳細な記載がある)は各自で見られたい。ともかくも、ここの「小川理兵衞が事」の当該話は「怪談記」の『(第十八段)』の『小河理兵衛、クサメノ化物ニ逢事』で、本底本の「小川」は『小河』の誤りである。翻刻本文は論文に『42』ページに、ある。「許諾」ではあるが、本来は、作者の許諾を受ける必要があるのだが、翻刻部であることと、翻刻が新字で表記されていることから、それを旧字に恣意的変換し、踊り字部分は恣意的に正字化し、以下に示させて戴く。なお、翻刻者からクレームが着いた場合は、カットし、その時は、不満足であるが、私の現代語訳に代えるつもりである。
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小河理兵衞、クサメノ化物ニ逢事
小河ハ佛者ニテ、常ニ怪談多シ、アル時夜中ニ鳥府侍ヤシキノ邊ヨリ、クサメシテ大キナルヲ、小河カ頭ノ上一閒計ニテクサメクサメト云、己カ宅へ皈ルマテ如此ト、元祿ノ末寶永ノ初比取沙汰ナリ。或徒士ノ妻、江﨑竪町ニテ產ヲス、側ニ人モ居ラス、一人居タリシニ、側ノ障子ヲ開テ法師―人入來テ、小兒ヲヨクヨク見ル、產婦少モ驚カス見居タレハ、法師曰此子ハ能キ所有、年長テ物頭ニ可成ト云テ障子ノ外ヱ出、此時產婦上無シテ次ニ居タル人到レハ、シカシカト語ル、其後何ンノ沙汰モナカリシニ、此子物頭ニ成タルト云リ野閒夫左衞門正賢說。
一說ニ、福住主膳カ出生ノ時ト云リ。
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