「因幡怪談集」(恣意的旧字化・オリジナル注附き)/「高草郡布施の山下にて幽靈を見る事」
[やぶちゃん注:底本、及び、凡例その他は、初回を参照されたい。]
高草郡《たかくさのこほり》布施《ふせ》の山下《やました》にて幽靈《いうれい》を見る事
高草郡布施村(ふせむら)に、與一兵衞《よいちへうべゑ》と言(いへ)る村民、有り。
生付(うまれつき)、强勇(ごうゆう《→がうゆう》)なり。
萬治年中《まんぢねんちゆう》、五月の末(すゑ)、山王《さんわう》の山下《やました》に『嵐が鼻《あらしがはな》』と言(いふ)所、有り。
此邊(このへん)、田畑《でんぱた》、多し。布施の屋形《やかた》の時分は、繁昌の地也。與一兵衞が田地も、有り。
夜《よる》、更(ふけ)て、只壹人(たゞいちにん)、鍬(くわ)を持(もち)、水を田にしかけ入(いれ)て、田(た)くろ[やぶちゃん注:「田畦」。「畦」は「あぜ」とも読む。]に腰を懸(かけ)て休(やすみ)けるが、たばこなど、すい[やぶちゃん注:ママ。「吸ひ」。]、何心《なにごころ》なく、居(をり)たり。
然(しか)るに、
「ざわざわ」
と風吹(ふき)て、何《なん》とやら、身に、しみしみと覺ゆ[やぶちゃん注:「心に、何やらん、感じ入るさま」で、「何んとも言えず、しんみりとした気になった」といった感じである。この理由の判らぬ不思議な感じ方が冥界とのアクセスの始まりである。]。
しかるに、何もの共(とも)しらず、若き女《をんな》壹人(いちにん)、白帷子(しろかたびら)を着《ちやく》し、さばき髮《がみ》にて、來《きた》り。
與一兵衞、驚(おどろき)けれ共(ども)、しづめて、
「何《なに》ものそ[やぶちゃん注:終助詞。「ぞ」と同源と考えられ、強調。或いは、濁点を打ち忘れたものかも知れない。]。」
と、とがめける。
女、申(まうす)は、
「左樣(さやう)にとがめ給ふ者にても、なし。我(われ)は、昔、此所(《この》ところ)、繁昌せし時、ある醫者の娘なり。其時は、山名源七郞殿の御在世にて、度々、(たびたび)、軍(いくさ)、さわがしかりし。我、其(その)時、病死しけるに、葬《はうむ》りもせず、其まゝ、此山のわきに埋(づ)めたり。もとより、髮をも、そらず、置(おき)しなり。願」(ねがは)くは、我に、髮(かみ)を、そり給はれ。」
と、ねむころ[やぶちゃん注:「懇ろ」。]に賴みけり。
與一兵衞、
「安き事。しかし、剃刀《かみそり》、爰(こゝ)に、なし。明夜(みやうや)、剃刀を持參して、望(のぞみ)、かなふべし。其方も、必(かならず)、出《いで》られ候《さふら》へ。」
と言(いふ)。
女、悅(よろこび)て、
「扨々(さてさて)、忝(かたじけな)し。」
と、言(いひ)て、失(うせ)にけり。
與一兵衞、不思議に思ふやう、
『昔咄《むかしばな》しに聞(きゝ)し幽靈成(なる)べし。」
と。
されば、短夜(みじかよ)の時分なれば、程なく、夜《よ》、明(あけ)にけり。
與一兵衞は、我が家に歸り、思ふやう、
『たとへ妖物(ばけもの)なり共(とも)、かたがたの[やぶちゃん注:これは副詞で、「いずれにしても・どの点から見ても」の意であろう。]約束なり。行(ゆか)ずむば、我(わが)男道《をとこのみち》、立(たつ)まじ。』
と思ひ、剃刀を用意して、暮(くれ)を待(まち)けるが、
『しかし、我ひとり行(ゆき)たり共(とも)、何を證據に、人に語(かたる)べけんや。誰《たれ》にても、一兩人《いちりやうにん》へ知らせ、遠(とお《→とほ》)ながらに、此體《このてい》を、見すべし。』
と思ひ、若き者、二、三人に、委細(いさい)を咄《はな》し、二、三十閒《けん》[やぶちゃん注:三十六・四~七十二・七メートル。]も見へぬ所へ、しのばせ置(おく)。
扨(さて)、夜《よる》も更(ふけ)、與一兵衞、件(くだん)の所へ行(ゆき)、
「今や、今や。」
と、待居(まちをり)たり。
しばらくして、女、出來(いできた)り、與一兵衞が前に立寄(たちより)、手を合(あはせ)、拜(おが)み、
「扨々(さてさて)。忝(かたじけな)し。さらば、賴候(たのみさふら)わん[やぶちゃん注:ママ。]。」
と言(いふ)。
與一兵衞、
「髮を洗候(あらひさふら)へ。」
と言(いふ)。
女、心得て、水にて、洗ければ、與一兵衞、剃刀、取出《とりいだ》し、念頃(ねんごろ)[やぶちゃん注:「懇ろ」。]に、そる。
女、ちさき[やぶちゃん注:「小(ち)さき」。]袋《ふくろ》を取出《とりいだ》し、髮を、うけて、悅(よろぶ)事、かぎりなし。
「我、年久敷(としひさしく)、此望(こののぞみ)ありて、人を見かけ、賴(たのみ)けれ共(ども)、人、驚《おどろき》て、近付(ちかづか)ず。貴邊《きへん》のやう成(なる)、丈夫《じやうぶ》成(なる)人を、見ず。扨(さて)も、扨も、御禮《おんれい》は申盡(まうしつくし)かたし。是(これ)にて、成佛得達《じやうぶつとくだつ》致(いたし)申候(まうしさうらふ)。『此(この)御禮(おんれい)、何《な》そ。』と思へ共(ども)、すべきやう、なし。是成共(これなりとも)。」
と、小(ちいさ)き書物《しよもつ》壹册(いつさつ)、取出《とりいだ》し、與一兵衞へ與《あた》へて、
「必《かなら》ず、必ず、人に見せ給ふな。此書を見て、りやうじ[やぶちゃん注:「療治」。]仕給(つかまつりたま》へ。ふしぎに、小兒《しやうに》の病《やまひ》は、いゆるべし。」
とて、又、何方(いづかた)へ行(っゆく)とも見へず、きへ失(うせ)たり。
與一兵衞も、夢のように覺へ[やぶちゃん注:ママ。「覺え」。]けるが、かの書物を、ふところへ入(いれ)、『歸らむ』と、兼(かね)て、二、三人、置ける人を尋(たづね)て、右の次第を語るに、三人共、
「寐《ね》て、とくと、此(この)人を、見ず。」
と言(いふ)。
扨々(さてさて)、ふしぎなる事共也(どもなり)。
其後(その《のち》)、與一兵衞、此(この)書物を見るに、平がなにて、小兒の、かむの蟲[やぶちゃん注:疳(かん)の虫(むし)。]の、りやうじ[やぶちゃん注:「療治」。]一切《いつさい》、小兒の、りやうじ本《ほん》也。
是(これ)を見て、村中《むらぢゆう》、近村の小兒の病を治(ぢ)する所、だんだん、ひろく、りやうじ、はやり[やぶちゃん注:「流行り」。]、荒尾但馬(あらをたじま)の家(いへ)にも呼(よば)れ、後《のち》には、家も、繁昌して、内福(ないふ)になり、其後(その《ご》)、右の書物、佛だん[やぶちゃん注:「佛壇」。]に入置(いれおき)けるが、いつとなく、失(うせ)けり。
ふしぎなる事共也《ことどもなり》。
與一兵衞、小兒りやうじ、御家中《ごかちゆう》、町方《まちかた》へも、もつぱら、行(ゆき)けり。其(その)子孫、のちに、有り。
[やぶちゃん注:「高草郡《たかくさのこほり》」「施村(ふせむら)」これは、現在の鳥取県鳥取市布勢(ふせ)が正しいと思われる。グーグル・マップ航空写真の、ここである。本文で「山王の山下」とロケーションが紹介されているが、この「山王」は、その地区にある山を後背とした「日吉神社」で、ここは、通称「布勢の山王さん」と呼ばれ、幼児やこどもの守護神として親しまれている。「鳥取縣神社廰」公式サイト内の「日吉神社」の「由緒」に、
《引用開始》
興国6年(1345)、布勢天神山城主山名時氏が国中無双の大社として九院の仏閣を巡らし、九相天台の奥義をもって、叡山山麓の坂本「日吉大社(山王二一社)」の分霊を勧請し奉斎したと伝えられる。
天正8年(1580)、羽柴秀吉の因幡攻めにかかり焼亡、神職は神霊を奉じて鳥取魚町日吉彦資邸に難を避けた。
慶長9年(1604)、亀井茲矩によって復興された。
元和3年(1617)、池田光政が因伯両国の藩主となるに及び、布勢の町勢は鳥取に移り、山王社も衰微の様相を呈したが、その後も藩の祈祷所として崇敬され、享保元年(1716)、嘉永3年(1850)に本殿等が建立されている。
藩主の若殿姫君以下、士分、町人の幼童まで、幼児愛護の神徳が伝播されていった[やぶちゃん注:☜。]。
明治初年に山王権現の旧称を廃し、日吉神社と改称した。
昭和前期の例祭日には参拝者が2万人を超え、臨時列車を増発する程の盛儀であった。
明治25年に銅猿が鋳造奉納されたが、大東亜戦争に供出。昭和25年5月に再建された。
参拝者に「お猿さん(ぬいぐるみの猿)」を奉納する慣わしがある。
《引用終了》
とある。
但し、この話では、「山王の山下」とあり、日吉神社の「山」の「下」方にある「嵐が鼻」というのが、正確なロケ地である。そこで、それを探って見たところ、サイト「土木学会 選奨土木遺産」の「安長土手(嵐ヶ鼻土手)」に行きあたった。そこに、
《引用開始》
名称
安長土手(嵐ヶ鼻土手)
やすながどて(あらしがはなどて)
所在地
鳥取県鳥取市
竣工年
13世紀以降
選奨年
2013年 平成25年度
選奨理由
安長土手(嵐ヶ鼻土手)は、周辺が宅地開発される中で奇跡的に残った中世の河川堤防で、周辺住民の散策路として利用されている貴重な土木遺産であります。
《引用終了》
とあった。この「安長土手」でグーグル・マップを調べたところ、山王=日吉神社のずっと東北東に直線で二・九六キロメートルの位置に、千代川(せんだいがわ)左岸に「安長土手」が確認でき、左のサイド・パネルのここに、同遺産のプレートの写真があり、そこの名称に『安長土手(嵐ヶ鼻土手)』を確認出来た。「鳥取教育委員会」の解説板の写真も見つけたので、それを字起こしして、終りとしておく。
《引用開始》
ふるさと文化探訪
安 長 土 手
平安末期~鎌倉初期に出現した安長保は、恋地として安定性に欠き、古代においては千代川溢流[やぶちゃん注:「いつりゅう」で、「あふれ流れること」。]と野坂川[やぶちゃん注:「のさかがわ」。グーグル・マップ航空写真の布施村を東北に流れて千代川に合流する川。ここ。]落水[やぶちゃん注:ここは「らくすい」で、単に、下流に流れる水が、溢れて周囲に浸水することを言っている。]におびやかされる地域であった。
この両川に洪水から耕地・集落を守るために築かれたのが「安長の土手」である。
現在、このような古代から中世頃に築かれた土手は鳥取市内ではほとんど見られず、安長土手も周辺に急速な住宅開発にともなってその景観を失いつつある。
平成四年三月
鳥取教育委員会
《引用終了》
「萬治年中」一六五八年から一六六一年まで。徳川家綱の治世である。これは、本作の中では、比較的古い話柄に属する。さればこそ、作者は「布施の屋形《やかた》の時分は、繁昌の地也。與一兵衞が田地も、有り。」という謂い方をして、当時の読者に対し、かなり時制を巻き直して、更に遡って、この地域の、嘗つての繁華な過去を嗅がせているものと判断する。実は、中世の因幡国にあっては、守護山名氏(因幡山名氏)が拠点とした居館(守護所)が、現在の鳥取市湖山町南、及び、布勢に跨(またが)る「天神山城」(ふせてんじんやまじょう)があり、それは、まさに「日吉神社」の北直近の、ここにあったのである(グーグル・マップ航空写真)。即ち、戦国から江戸初期にかけて、因幡山名氏は徐々に後退・衰微方向に向かっていったものの、依然、この布勢は、相応に過去の「屋形」の栄光・繁華な場所として、その地に住む民草には、相応のプライドがあったのである。だから、わざわざ、その末裔としての農民であった「與一兵衞が田地も、有り。」という言上(ことあ)げを附すことで、この話の「與一兵衞」にスポット・ライトを当てたものと、私は感じている。即ち、作者は「今に比べると、この男は、これから語る不思議な話の主人公になるだけの精神的力量を持っている」というニュアンスを、当時の読者に暗示しているのである。
「山名源七郞殿」私の前注が、正しかったことが判る。この人物は、戦国時代の武将で因幡国守護であった山名誠通(やまなのぶみち ?~天文一七(一五四八)年:詳しくは当該ウィキを見られたい)の嫡男であった源七郎=山名豊通(とよみち ?~天文二一(一五五二)年)のことであろう。彼は、室町幕府から因幡守護に任じられた尼子晴久の後援を受け、鹿野城(しかのじょう:現在の鳥取市鹿野町鹿野にあった)を拠点に、山名祐豊の弟豊定と争ったが、晴久の死去により、尼子氏の支援は無くなり、布勢屋形に反旗を翻した武田高信によって毒殺されている。
「荒尾但馬(あらをたじま)」江戸時代に因幡・伯耆を治めた鳥取藩池田家の筆頭家老家「米子荒尾家」の当主が、代々、名乗った通称。米子荒尾家初代は荒尾成利(あらおなりとし 天正一七(一五八九)年~明暦元(一六五五)年)であるが、冒頭の年代から、彼の嫡男荒尾成直(なりなお 元和四(一六一八)年~延宝七(一六七九)年)と思われる。リンクは当該ウィキ。]
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