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カテゴリー「尾形亀之助」の375件の記事

2023/05/27

尾形亀之助 靑狐の夢 / 初出正規表現版(思潮社版全集の本篇は不全であったことが発覚した)

 

[やぶちゃん注:初出である国立国会図書館デジタルコレクションの雑誌『あおきつね』(郷土趣味会発行・昭和二(一九二七)年一月一日印行)初出形。扉の表記で、「あお」はママ。但し、その前ページの目次には「靑狐」と漢字表記する。ここで視認出来る)の『二の卷』の当該部を視認した。踊字「〱」、及び、「え」の字の「江」の崩し字は正字ひらがなで示した。

 さて、私は二〇〇八年一月に思潮社一九九九年刊「尾形亀之助全集 増補改訂版」を底本として本詩篇を電子化しているのだが、驚くべきことに、それと比べると、そちらは、大きな脱落があることが判った。具体的には、「夕やみの奧から鶴の啼き聲などが聞えてくると、園丁が食物を運んで來るばけつの音がま近くする。」とあるのが、全集版では「夕やみの奧から鶴の啼き聲などが聞えてくる。外燈の瓦斯が蒼白に燃え初める。」とあって、ゴッソりなくなっているのだ! 他にも、全集では、「企」が「企て」、「尾に包まるのだつた。」が「尾に包まるれるのだつた。」となっており、これは、頗るおかしい。問題だ。私は全集の編者である秋元氏の編集には、以前から、ある不審を抱いていたが、後の二箇所は確信犯で秋元氏が書き変えたものである気がしている。しかし、前の有意な脱落は、それ以前に呆れかえった。龜之助よ、遅まきながら、正規表現版を公開するよ……。

 

   靑 狐 の 夢

 

        尾 形 龜 之 助

 

 ぼんやりとした月が出て、動物薗の中はひつそり靜寂につゝまれてゐた。

 しかし、彼は秋晴れの美しい空に三日月の銀箔を見、そよ風に眼をほそくして自動車に乘るところであつた。彼は水色の軍服を着た靑年士官になつてゐるので、心もち反身になつて小脇に細いステツキを抱へ煙草に火をつけてゐた。

 そして、彼の瀟洒な散步は事もなく捗どつて、自動車が門を走り出ると彼はほつとした。ほつとして狐にかへつてゐるのであつた。

 又、或るときは街のペーブメントを步いてゐて、あまり小さすぎる靴をはいてゐるのに氣がついて姿をかくさなければならなかつた。

 

 彼は靑年士官になり紳士にもなつて、幾度となく催した企が何時も煙のやうにふき消された。動物園の晝の雜踏に、彼は首をたれ眼をつむつてゐた。靑い空が眼にしみた。さみしかつた。

 あるとき彼の檻の前に立つてラツパを吹きならす子供があつた。そのとき彼は頭にふる草鞋を載せる藝當を思ひ出して苦しい笑ひを浮べた。人間になりたい希望はもはや見はてぬ夢となつて、彼の親も死ぬまでその希望をすてなかつた。彼もその禁斷の血をひいてゐるのであつた。

 日暮れになつて、今までどよめいてゐた園内がひつそりすると、彼はぽつねんとした。そしてつむつてゐた眼をあけた。夕やみの奧から鶴の啼き聲などが聞えてくると、園丁が食物を運んで來るばけつの音がま近くする。外燈の瓦斯が蒼白に燃え初める。彼はペタペタと冷めたい水を嘗めると脊筋まで冷めたくしみるので藁床に入つて尾に包まるのだつた。眠らうとしても眠れない。あわれな記憶が浮ぶ。呼ぶ。惡血が彼の尾を二倍も大きくするだらう。彼はふらふらと立ちあがる。

 「女に化けやう――」

 そして、彼は喰ひ殘りの雞の骨を頭に載せる。

 

[やぶちゃん注:「あわれな」はママ。]

2022/12/28

尾形龜之助詩集「障子のある家」原本(昭和二三(一九四八)年再版本)準拠正規表現版・藪野直史作製・注附き(PDF)公開

 

今年最後の大物電子化注、

尾形龜之助詩集「障子のある家」原本(昭和二三(一九四八)年再版本)準拠正規表現版・藪野直史作製・注附き(1.82MB)

をサイト「心朽窩新館」に公開した。私の電子化注の過程として、嘗つての、

尾形龜之助 第三詩集「障子のある家」〈恣意的正字化版(附 初出稿復元)横書版〉

は残すこととしたが、あくまで、今日のそれが、私の確定決定版である。

2022/12/27

尾形龜之助第三詩集「障子のある家」再版本に基づく縦書PDF化作業始動

遅蒔き乍ら、遂に昨日、国立国会図書館の本登録を完了し、「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」で、尾形龜之助の第三詩集「障子のある家」(限定版。但し、昭和二三(一九四八)年再版本。初版は昭和五(一九三〇)年九月発行の私家版で限定七十部の非売品)の画像を全篇見ることが出来るようになった。当初、私のサイト版の同詩集の「恣意的正字化版(附 初出稿復元)」を修正する形で始めようと思ったが、やはり正規表現版は縦書にしたいと思い、ワードで以上の原本画像を視認して凡て作り直し、後にPDF縦書版で公開することとした。

また、国立国会図書館デジタルコレクションの画像は申請しないと、使用できない上、モノクロームであるため、ちょっと悲しくなった。そこで、今朝、ネットを検索したところ、hkurukuru氏のブログ「●古本屋●掘り出しモノショップ くるくる 営業日記●」の「●障子のある家●尾形亀之助エッセイ●1930●即決の詳細写真」に、同原本の複数の画像を見つけたので、まずは、それを参考にして、表紙の中央にある特異なそれを(オレンジ色の折り紙の風車の中に「をがたかめのすけ」のひらがなが印字されたイラスト)、ソフトを用いて、独自に作ってみた。ソフトがしょぼいので、かなり苦労したが、御笑覧あれ。
Syoujinoaruie


また、私の「尾形龜之助全集」の書誌の見落としだったが、驚くべきことに、本詩集の添辞副題として知られる、
 

あるひは(つまづく石でもあれば私はそこでころびたい)

 
という詩句は、何んと! 奥付の! 詩集名の後に! 驚くべき小ささで、さりげなく記されているだけなのであった!!! 前掲のhkurukuru氏のブログの上から八枚目の画像を参照されたい。
龜ちゃん! やってくれちゃってるわッツ!!!

2016/11/16

サイト版尾形龜之助第二詩集「雨になる朝」〈恣意的正字化版(附 初出稿・第二次稿復元)〉及び第三詩集「障子のある家」〈恣意的正字化版(附 初出稿復元)〉公開

サイト版の

尾形龜之助第二詩集「雨になる朝」〈恣意的正字化版(附 初出稿・第二次稿復元)〉

及び

尾形龜之助第三詩集「障子のある家」〈恣意的正字化版(附 初出稿復元)〉

「心朽窩新館」に公開した。

2016/11/15

「障子のある家」 後記   尾形龜之助 (附 「後記」の内・父母宛初出復元~「雨になる朝」恣意的正字化版(一部初出稿復元)~了

 

    後記

 

        泉ちやんと獵坊へ

 

 元氣ですか。元氣でないなら私のまねをしてゐなくなつて欲しいやうな氣がする。だが、お前達は元氣でゐるのだらう。元氣ならお前たちはひとりで大きくなるのだ。私のゐるゐないは、どんなに私の頰の兩側にお前達の頰ぺたをくつつけてゐたつて同じことなのだ。お前達の一人々々があつて私があることにしかならないのだ。

 泉ちやんは女の大人になるだらうし、獵坊は男の大人になるのだ。それは、お前達にとつてかなり面白い試みにちがひない。それだけでよいのだ。私はお前達二人が姉弟だなどといふことを教へてゐるのではない。――先頭に、お祖父さんが步いてゐる。と、それから一二年ほど後を、お祖母さんが步いてゐる。それから二十幾年の後を父が、その後二三年のところを母が、それから二十幾年のところを私が、その後二十幾年のところを泉ちやんが、それから三年後を獵坊がといふ風に步いてゐる。これは縱だ。お互の距離がずいぶん遠い。とても手などを握り合つては事實步けはしないのだ。お前達と私とは話さへ通じないわけのものでなければならないのに、親が子の犧牲になるとか子が親のそれになるとかは何時から始つたことなのか、これは明らかに錯誤だ。幾つかの無責任な假説がかさなりあつて出來た悲劇だ。

 ――考へてもみるがよい。時間といふものを「日」一つの單位にして考へてみれば、次のやうなことも言ひ得やうではないか。それは、「日」といふものには少しも經過がない――と。例へば、二三日前まで咲いてゐなかつた庭の椿が今日咲いた――といふことは、「時間」が映畫に於けるフヰルムの如くに「日」であるところのスクリンに映寫されてゐるのだといふことなのだ。雨も風も、無數の春夏秋冬も、太陽も戰爭も、飛行船も、ただわれわれの一人々々がそれぞれ眼の前に一枚のスクリンを持つてゐるが如くに「日」があるのだ。そして、時間が映されてゐるのだ。と。――

 又、さきに泉ちやんは女の大人獵坊は男の大人になると私は言つた。が、泉ちやんが男の大人に、獵坊が女の大人にといふやうに自分でなりたければなれるやうになるかも知れない。そんなことがあるやうになれば私はどんなにうれしいかわからない。「親」といふものが、女の兒を生んだのが男になつたり男が女になつてしまつたりすることはたしかに面白い。親子の關係がかうした風にだんだんなくなることはよいことだ。夫婦關係、戀愛、亦々同じ。そのいづれもが腐緣の飾稱みたいなもの、相手がいやになつたら注射一本かなんかで相手と同性になればそれまでのこと、お前達は自由に女にも男にもなれるのだ。

  

        父と母へ

 

 さよなら。なんとなくお氣の毒です。親であるあなたも、その子である私にも、生んだり生まれたりしたことに就てたいして自信がないのです。

 人間に人間の子供が生れてくるといふ習慣は、あまり古いのでいますぐといつてはどうにもならないことなのでせう。又、人間の子は人間だといふ理屈にあてはめられてゐて、人間になるより外ないのならそれもしかたがないのですが、それならば人間の子とはいつたい何なのでせう。何をしに生れて來るのか、唯親達のまねをしにわざわざ出かけてくるのならそんな必要もないではないでせうか。しかもおどけたことには、その顏形や背丈がよく似るといふことは、人間には顏形がこれ以上あまりないとでもいふ意味なのか、それとも、親の古帽子などがその子供にもかぶれる爲にとでもいふことなのでせうか。だが、たぶんこんなことを考へた私がわるいのでせう。又、「親子」といふものが、あまり特種關係に置かれてゐることもわるいのでせう。――私はやがて自分の滿足する位置にゐて仕事が出來るやうにと考へ決して出來ないことではないと信じてゐました。そのことを私は偉くなると言葉であなたに言つて來たのですが、私はそれらのことを三四年前から考へないやうになり最近は完全に捨てゝしまひました。私の言葉をそのまゝでないまでもいくらかはさうなるのかも知れないと思はせたことは詫びて許していたゞかなければなりません。

 

[やぶちゃん注:この遺書そのものとも言うべき「後記」とともに第三詩集「障子のある家」は終わっている。本私家版詩集出版は昭和五(一九二九)年九月であるが(この春頃から尾形龜之助は餓死自殺を口にするようになっていた)、その後凡そ十二年後の昭和一七(一九四二)年十二月二日午後六時十分、五歳の時に発症した宿痾の『喘息と長年の無頼な生活からくる全身衰弱のため、だれにもみとられず永眠』している(引用は思潮社版現代詩文庫の年譜の記載から。私の非常に好きな哀しいフレーズであるからである)。

「泉ちやん」尾形龜之助と最初の妻タケとの間にもうけた長女尾形泉(「いづみ」か)。大正一三(一九二四)年四月十六日生まれ。尾形龜之助が孤独のうちに亡った時は満十八歳であった。

「獵坊」同じく龜之助と妻タケとの間にもうけた長男尾形猟(本文は正字化した。「りょう」と読むか)。大正一五(一九二六)年十二月二十二日生まれ。龜之助死亡時は満十五歳。泉と猟は死の前年に龜之助の妹夫婦の家でここに出る龜之助の祖母や父母と暮らすようになり、当時、尾形は二度目の妻優とその間にもうけた三人の子(次男茜彦(あかひこ)・三男黄(おう)・次女湲(けい))とも別居して独りで住んでいた。

「お祖父さん」尾形安平(あんぺい 安政五(一八五八)年~昭和一三(一九三八)年)。本姓は高山で、幼名は龜之助。実父は奥羽街道大河原宿(現在の宮城県の仙南地方の中央に位置する大河原町(おおがわらまち))で旅籠を営んでいた。次注のもととともに、藩政時代(伊達藩)から大河原で酒蔵を営んでいた初代尾形安平の夫婦養子となり、明治三〇(一八九七)年に家督を継ぐや、順調に経営されていた醸造業を廃して仙台へ移住、実業には就かず、後は概ね、先代の資産を蚕食して生きた。

「お祖母さん」尾形もと(安政五年~昭和一八(一九四三)年)。旧姓平井。大河原出身。「一二年ほど後を、お祖母さんが步いてゐる」と龜之助は述べているが、これは生年を指しているから、事実とは合わない。ご覧の通り、彼女は夫と同年生まれで、誕生日も八月十日で夫安平より五日早いからである。恐らく、祖母は孫尾形龜之助に自身の年齢をサバを読んで伝えてあったのであろう。

「父」尾形十代之助(とよのすけ 明治一一(一八七八)年~昭和二一(一九四六)年)は二代目安平の長男。『ホトトギス』の虚子選句にしばしば登場していたという趣味人でもあった。父同様、旧家尾形家の家産を食い潰して生きたようである。

「母」尾形ひさ(明治一三(一八八〇)年~昭和四一(一九六六)年)は旧姓武田。父は宮城県南部の阿武隈川の河口に位置する亘理町(わたりちょう)の酒造家。安平以下、ここまでのデータは一九七九年冬樹社刊の秋元潔「評伝 尾形龜之助」に拠った)。

 

「飾稱」「しよくしよう(しょくしょう)」或いは「かざりしよう(かざりしょう)」と読むか。有名無実の指し示すための名ばかりのもので中身のない名・呼称。の謂いであろう。

 

 本「後記」の二篇は、

 

    父と母と、二人の子供へおくる手紙

 

を原題として、昭和五(一九三〇)年四月発行の『桐の花』第九号に初出している。底本の対照表によれば、後半の父と母へ送る「後記」が敬体ではなく常体で書かれており、表現も有意に異なり、相当にきつい言い方になっている。ここではその後半の父と母へ送る「後記」部分の初出形のみを示す。

   *

 

 人間に人間の子供が生れてくるといふ習慣は、あまりに古いのでいますぐといつてどうにもならないことらしい。人間の子は人間だといふ理屈にあてはめられてゐて、人間になるよりほかないのならそれもしかたがないが、人間の子とはいつたい何なのだらう。何をしに生れて來るのか。親達のまねをしにならばわざわざ出かけて來る必要もないだらうではないか。しかもおどけたことには、その顏形や背丈がよく似るといふは、人間には顏形がこれ以上あまりないとでもいふ意味なのか。それとも、親父の古帽子などがその子供にもかぶれる爲にとでもいふことなのか。全く、顏が似てゐるからの、「親子」でもあるまいではないか。又、人間がその文化を進めるために次々に生れて來るのなら、今こそそのうけつぎをしている俺達は人間の何なのだ。遺傳とは何のことなのだ。物を食つてそれがうまいなどといふことも、やがては死んでしまふことにきまつてゐるといふ人間のために何になることだ。俺達に興奮があるなどとは、人間といふものが何かにたぶらかされてゐるのではなくてなんだ。俺達は先づ「帽子」だなどといふ、眼に見えて何んにもならない感情を馬鹿げたこととして捨ててしまはふではないか。

 

   *

「今こそそのうけつぎをしている俺達は」の「いる」、末尾の「捨ててしまはふではないか」の「しまはふ」はママ。]

おまけ 滑稽無聲映畫「形のない國」の梗概   尾形龜之助

 

    おまけ 滑稽無聲映畫「形のない國」の梗概

 

 形のない國がありました。飛行機のやうなものに乘つて國の端を見つけに行つても、途中から歸つて來た人達が歸つて來るだけで、何處までも行つた人達は永久に歸つては來ないのでした。勿論この國にも大勢の博士がゐましたから、どの方向を見ても見えないところまで廣いのだからこの國は圓形だと主張する一派や、その反對派がありました。反對派の博士達は三角形であると言ふのでしたが、なんだか無理のありさうな三角説よりも圓形説の方がいくぶん常識的でもあり「どつちを見ても見えないところまで云云……」などといふ證明法などがあるので、どつちかといふと圓形だといふ方が一般からは重くみられてゐました。圓にしても三角にしても面積をあらはさうとしてはゐるのですが、確かな測量をしたのではないのですからあてにはなりませんでした。或る時、この二つの派のどちらにもふくまれてゐない博士の一人が、突然氣球に乘つて出來るだけ高く登つて下の方を寫眞に寫して降りて來てずいぶん大きなセンセイシヨンを起しましたが、間もなく、その寫眞に寫つた馬のやうな形は國ではなく、雲が寫つたのではないかといふ疑問が起りました。そこでひきつゞいて圓形派の博士達に依つて同じ方法で試めされましたが、今度は尾の方が體よりも大きい狐の襟卷のやうなものが寫つてゐました。三角派だつてじつとはしてはゐませんでした。やはり同じ方法で寫眞を寫して降りて來たのですが、寫つてゐる棒のやうなものが寫眞の乾板の兩端からはみ出してゐたので、どうにもなりませんでした。

 又、これも失敗に終つたのでしたが、大砲の彈丸に目もりをした長い長いこれ位ひ長ければ國の端にとゞいても餘るだろうと誰もが思つたほど長いテイプを結びつけて打つた博士がありました。が、まだいくらでもテイプが殘つていたのに大砲の彈丸は八里ばかり先の原つぱに落ちてゐたのでした。これはあまり馬鹿げているといふので、新聞の漫畫になつて出たりしたので、眞面目なその博士は「これからです」と訪問した新聞記者に一言して、靑い顏をして第一囘の距離をノートに書きとめて更にそのところから第二囘の彈丸を打ちました。この博士は同じことをくりかへして進んで行つてしまつたのです。始めのうちは通信などもあつたのですが、次第にはその消息さへ絶えてしまつて、博士が第一囘の發砲をしてから五年も經過した頃は、街の人達は未だにその博士が發砲をつゞけながら前進してゐることを忘れてしまひました。氣の毒なのはこの博士ばかりではないのですが、出發が出發なだけに困つた氣持になつてしまひます。[やぶちゃん字注:「位ひ」はママ。]

 又、かうした現實派の他に無限大などと言ふ神祕主義の博士達のゐたことも事實でした。この博士達は時間などは度外視してゐたのでせう。雜誌や新聞の紙面に線なんかを引いたりして、測り知れないほどの面積であつても決して無限ではないとかあるとか、實に盛んな論爭を幾百年つゞけてきたことであらう。又、一ケ年の小麥の總收穫から割り出して國の廣さを測り出さうとしたアマチアもありましたが、計算の途中で麥畑でない地面もあるのに氣がついて中止しました。勿論汽車などもすでにあつたのですが、創設以來しきりなしに先へ先へと敷設してゐても、その先がどの位ひあるのかは博士達のそれと同じやうに全くはてしないばかりでなく、最初に出て行つたその汽車は今では何處へ行つても見られないやうな舊式な機關車なので、未だにそれが先へ先へと進んでゐることを思ふと、どう判斷していゝのかわからなくなるのです。それに、レールの幅が昔の三倍にもなつてしまつてゐるのですから、もし最初の人達がひきかへして來ることになつて又幾百年かかるのはいゝとしても、何處かでレールの幅が合はなくなつてゐるにきまつてゐることが心配です。[やぶちゃん字注:「幾百年つゞけてきたことであらう」の末尾の常体表現はママ。「しきりなしに」(「ひつきりなしに」の意であろう。「仕切り」とは読めない)及び「位ひ」はママ。]

 そこには海もありしたがつて港もあるのですが、海は陸よりもゝつとたよりない成績しかあがりませんでした。どうしてこんな國が出來てしまつたかは大昔にさかのぼらなければなりません。大昔といつてもただの大昔ではなく一番の大昔なのです。千年以上も前なのか二萬年も以前のことなのかわからないのです。その大昔に、何處か或る所に一人の王樣がゐて、だんだんに年寄になつて、三人か四人の王子達もすつかり大人になつてゐたのです。そこで、一日王樣は王子達を集めてそのうちから誰かを一人の世嗣に定めることになりました。背の高さをはかつてみたり、足の大きさを較らべてみたりしてみましたが、それでは誰にきめてよいのか王樣にはわかりませんでした。で、一人々々に「お前はどんな王國が欲しいか」と問ひますと、百までしか數を知つてゐなかつた王子は「百里の百倍ある國が欲しい」その次の王子は「百里の百倍ある國の千倍欲しい」などと答へたのですが、豆ほどの小いさな圓を床に畫いて「この外側全部欲しい」と答へた王子とはとても匹敵しませんでした。王樣もその答へにはすつかり感心してしまつて、すぐ世嗣はその王子と決定したのです。その頃は貯金などといふものが流行して、圓そのものに一日いくら月幾分などと錢が少しづつ子を生むやうに利子がついたものです。で、その利子の殖えるのをうれしがつて錢を舐めてみたり利子が異數に加算される方法を發明したり、大勢の人達の貯金を上手に利用したりする社會があつたのです。その王子が最もよくばつてゐたといふので世嗣に選ばれたことは言ふまでもないことです。全く、錢のない人達こそいゝ面の皮だつたのです。いくら働らいても、働らけば働くほどもらつた賃金では足らぬほど腹が空くやうな仕掛に、うまく仕組まれてゐたのですからたまりません。それとは知らずに働らけば暮らしが樂になると思ひこんでゐた人達が大部分だつたのです。そんなわけですから、何も仕事をしないものは「なまけもの」と言はれて輕べつされたり、錢がなければ食へないなどという規則みたいなものさへあつたのです。

 新らしい王樣が位についたときは勿論大變なさわぎだつたのです。旗も立てたしアーチなども作つてその下を通るやうにし、花火もたくさんあげたのです。「正しい數千年の歷史」なのですから、實にたくさんの祭日や記念日があり老王の退位の日もちやんと旗を立てゝ、來年からも同じ日に旗をたてることになつたことは勿論です。王樣は、盜られてはいけないといふので立派な鐵砲や劍をもたした兵隊を國境へ守備に出しましたが、何處まで行つても國境がないのですから、これが如何に大變なことであつたかは、先に述べた博士達のことででもわかる筈です。しかし、新しい王樣が少しでも國を減らさうなどとは思ひもよらなかつたことだけは、それから幾千年かの後そのまゝの廣さの國を博士達が測量しやうとしたことででもわかるのです。後から後からとひつきりなしに國境へ送られた兵隊達は二度と再び歸つては來ませんでした。何處で暮らすのも一生と考へ、かへつてせいせいしていゝと思つた兵隊も中にはゐたのでせうが、住みなれた街から再び歸らぬ旅に出るのですから、別れにくい心殘りもあつたことはあつたのでせう。

 時間が經つてその王樣も死に、その次の王樣も死にました。そして、その次の王樣も死んでしまつたことはあたりまへのことです。百年も千年もの間には次々の何人もの王樣が死んだし、王樣でない人達だつて死んだり生れたりしたのです。初めの頃はほんの二三人の大臣が王樣のそばにゐたのでしたが、だんだんにその數が多くなつて「時計大臣」「紙屑大臣」などといふものまであるやうになつてしまつたので、數百人といふ大臣が王樣の仕事の補佐をするやうになつたのです。

 時計大臣といふのは、自分の時計とちがつた時計を持つてゐる者から見つけ次第に罰金を取つたり時計をたくさん持つてゐるものに勳章を呉れたり、屆けをしないで時計を止めてゐるものを罰したり、街の時計を正確に直して步いたりするのが役目なのです。時には、金の時計は胸ポケツト銀のは胴ポケツト銅のはずぼんポケツト、それから鐵のは足首へなどといふ法律を定めたりもするのでした。又時計の定價をそれぞれ大きさや金屬によつてきめなければならない重要な役もあるのですから時計會社の重い役にも就いてゐなければなりませんでした。紙屑大臣といふのは、主として紙屑やさんの取締りが役目なのです。が自分で屑拾ひに出ることもあるのです。このほかに「鼻糞大臣」これは鼻糞を亂棒に取つては衞生的でないといふので出來た大臣ですが、このほか色々の大臣がゐるのでした。つまらない大臣もあつたもんだと思ふでせうが、「紙屑大臣」だつて「鼻糞大臣」だつて高い位であるばかりではなく、金があつてもつてがなければなれないし、つてだけあつても金がなければどうにもならないのですから、なりたいと思ひながらなれずにゐるうちに死んでしまふ人達だつてたくさんにゐたわけです。こんな風にして、王樣自身ですることがなくなつてしまひましたが、王樣がなければ大臣もないわけなのですからそこはぬけ目のない人達は、よつてたかつて王樣は人ではなく、神樣だといふことにしてしまひました。大臣達は、自分の思ふまゝの世の中をつくり上げると、今度はそれを保護しなければならない立場になりました。そこで色々な特種な法律をたくさんつくつて、足らなければその時に應じて又いくらでもつくることにしました。又、大臣の世襲といふことも問題になつたのでしたが、あまりよくない大臣はもつとよい大臣になつてからそれをきめた方が都合がよいと思つてゐたのでまとまらずにしまひました。

 それから、又、永い時間が經つて、さうした世の中が絶頂にゆきつくと、そこから又變な世の中の方へ動きかけました。「働らかなければ食へない」といふ男の前で「それはこのことなのか」と、餓死自殺をしてしまつてみせるのがゐるかと思ふと、「大臣」の間に黨派が出來て別々に異つた名稱をつけてゐたり、一部の人達が過飮過食を思想的にも避けるやうになると、たちまちそれが流行になつてしまつたり、さうかと思ふと本を讀むほど馬鹿げたことはない、今までは金を出して本を買はされるばかりではなくその内容まで讀まされてゐたのだが、これは向ふで讀者へ讀んでもらうつぐなひとして渡す金高をわれわれが今まで仕拂つてゐたあの「定價」といふところへ刷られてゐなければ噓だ。そのほかに四五日分の日當さへ出してもらはなければならないものにさへ、われわれはうつかりして自分の方から金を出して買つてゐたのだ――といふことがすばらしい人氣を呼んで本が一册も賣れなくなつたり、電車の行つたり來たりするのを見てゐた二人の子供の一人が「朝の一番最始の電車はどつちから先に來るんだ」と言つたことに端を發して、朝に就ては世の學者誰一人として何も知らなかつたことを暴露してしまつたり、最低價額の下宿住ひの或る男が、そこの賄ひだけで死なずに十分生きてゆける筈なのに、時折りカフエーなどに出入してビールやトンカツを食ふといふことが、どういふわけのことであるのかといふことになつて、結局は熱心な學者に依つて生きたまゝ解剖されて腦と胃袋がアルコール漬の標本になつてしまつた等々々――のさうした狀態もそのまゝずいぶん永くつゞくだけはつゞいたのです。[やぶちゃん注:「讀んでもらう」の「もらう」はママ。]

 そして、何時の間にか電車の數が住居者の人口より多くなつてゐたり、警官の數が警官でない者の五倍にもなつてゐるのにびつくりして、最善の方法としてそのまゝに二つのものゝ位置をとりかへたりするやうなことを幾度かくりかへした頃には、人達はてんでに疲れてしまつたのです。そして、あの大砲を打ちながら消息を絶つてしまつたりした博士達のゐた頃からでさへすでに數へきれないほどの時間が經過してしまつてゐるのに、まだこれから來る時間が無限だと聞かされた人達は何がなんだかまるでわからなくなりました。

 一方、何時の頃からか國の形も次第にわかり廣さもわかつて彩色した立派な地圖も出來、その國のほかにもまだたくさんの異つた國のあることを知ると、王樣や大臣達は自分の國がさう廣いやうには思はれなくなりましたが、その綺麗な地圖の中に何一つ自分のものを持つてゐない人達はそれに何らの興味もないばかりでなく、地圖の中の一里四方といふ面積が何を標準にしてきめた廣さなのか更にけんとうもつかないのでありました。王樣や大臣達は彼らが面積とは何であるか知らないのに驚きました。[やぶちゃん字注:「けんとう」はママ。]

 

[やぶちゃん注:本詩篇を以って詩集「障子のある家」の詩篇本文は終わる。なお、尾形龜之助の詩には別に無形国へという一篇がある(リンク先は私の八年前のブログでの電子テクスト。尾形龜之助拾遺詩集 附やぶちゃん注にも採録してある。但し、孰れも本底本を用いた新字版である)。]

 

家   尾形龜之助

 

    

 

 夕暮になつてさしかけたうす陽が消え、次第に暗くなつて、何時ものやうに西風が出ると露路に電燈がついてゐた。そして、夜になつた。私は雨戸を閉めるときから雨戸の内側にゐたのだ。外側から閉めて、何處かへ歸つて行つたのではないのだ。

 毎月の家賃を拂ふといふので、貸してもらつてゐる家を自分の家ときめてゐる心安さは、便所はどこかと聞かずにもすみ、壁にかゝつてゐるしわくちやの洋服や帽子が自分の背丈や頭のインチに合ひずぼんの膝のおでんのしみもたいして苦にはならぬが、二人の食事に二人前の箸茶碗だけしかをそろへず、箸をとつては尚のこと自分のことだけに終始して胃の腑に食物をつめ込むことを、私は何か後めたいことに感じながらゐるのだ。まだ大人になりきらない犬が魚の骨を食ひに來る他は、夜になると天井のねずみが野菜を食ひに出てくる位ひのもので、臺所はいつも小さくごみつぽく、水などがはねて、米櫃のわきにから瓶などが列らんでゐる。又、一山十錢の蕗の薹を何故食べぬうちにひからびさしてしまつたかとは、すてるときに一ツが芥箱の外へころがり出る感情なのであらうか。

 夜の飯がすんで、後は寢るばかりだといふたあいなさでもないが、私は結局寢床に入いつて、夜中に二度目をさまして二度目に眠れないで煙草をのんでゐたりするのだ。ときには天井の雨漏りが寢てゐる顏にも落ちてくるのだが、朝は、誰も戸を開けに來るのではなくいつも内側から開けてゐるのだ。眼やになどをつけたとぼけた顏に火のついた煙草などをくはへて、もつともらしく内側から自分の家のふたを開けるのだ。

 

[やぶちゃん注:「位ひ」はママ。底本の対照表にはないが、「編註」で秋元氏は、初出を『ニヒル一ノ三』(昭和五(一九三〇)年五月発行)及び同年同月の『旗魚』『詩神』と記した後に、『異文あり』と明記する。やはり、実はこの「異稿対照表」なるものは完全なものでないことが判明するのである。]

 

學識   尾形龜之助

 

    學識

 

 自分の眼の前で雨が降つてゐることも、雨の中に立ちはだかつて草箒をふり廻して、たしかに降つてゐることをたしかめてゐるうちにずぶぬれになつてしまふことも、降つてゐる雨には何のかゝはりもないことだ。

 私はいくぶん悲しい氣持になつて、わざわざ庭へ出てぬれた自分を考へた。そして、雨の中でぬれてゐた自分の形がもう庭にはなく、自分と一緒に緣側からあがつて部屋の中まで來てゐるのに氣がつくと、私は妙にいそがしい氣持になつて着物をぬいでふんどし一本の裸になつた。

 (何といふことだ)裸になると、うつかり私はも一度雨の中へ出てみるつもりになつてゐた。何がこれなればなのか、私は何か研究するつもりであつたらしい。だが、「裸なら着物はぬれない――」といふ結論は、誰かによつて試めされてゐることだらうと思ふと、私は恥かしくなつた。

 私はあまり口數をきかずに二日も三日も降りつゞく雨を見て考へこんだ。そして、雨は水なのだといふこと、雨が降れば家が傘になつてゐるやうなものだといふことに考へついた。

 しかし、あまりきまりきつたことなので、私はそれで十分な滿足はしなかつた。

 

[やぶちゃん注:老婆心乍ら、「何がこれなればなのか」の「これなれば」とは――こうして褌一丁の裸であるのであるからして――の意で、ここは詩人が、『何といふことだらう! これなれば、則ち、――裸なら着物はぬれない――ではないか!』という事実をことさらに始めて発見し、『そいつを一つ実地に研究してやらう』と「するつもりであつたらしい」ということを意味している。]

 

へんな季節   尾形龜之助

 

    へんな季節

 

 次の日は雨。その次の日は雪。その次の日右の眼ぶたにものもらひが出來た。

 午後、部屋の中で錢が紛失した、そして、雨まじりの雪になつて二月の晦日が暮れた。

 少しでも拂らはふと思つてゐた肉屋と酒屋はへんに默つて歸つて行つた。

 私は坐つてゐれないのでしばらく立つてゐた。ないものはないのであつた。盜つたことも失くなつたことも、つまりは時間的なことでしかないやうだ。

 天井に雨漏りがしかけてきて、雨がやんだ。

 

 次の日いくぶん眼ぶたの腫がひいてゐた。

 朝のうちに陽が一寸出てすぐ曇つた。

 庭の椿が咲きかけてゐた。

 湯屋へ行くと、自分と似たやうな頭をした男が先に來て入つてゐるのだつた。晝の風呂は湯の音がするだけで、いつかうに湯げが立たない。そしてつゝぬけに明るい。誰かゞ入つて行つたまゝの乾いた桶やところどころしかぬれてゐないたゝきが、その男とたつた二人だけなので私の步くのにじやまになつて困つた。私よりも若いのに白く太つてゐるので、湯ぶねを出ると桃色に赤くなつたりするのだつた。

 湯屋を出ると、いつものやうに私のわきを自轉車が通つた。

 緣側に出て頸にはみ出してゐる髭をつんでゐると、友達が訪づねて來た。そして、金のない話から何か發明する話になんかなつた。

 友達が歸ると、又友達がやつて來た。十二時過ぎて何日目かで風呂に入るつもりで出かけて來たのが遲くなつたと言つて、歸りに手拭と石鹼をふところから出して見せた。

 あくびが出て、糊でねばしたやうに頭の後の方が一日中なんとなく痛かつた。一日が、ながい一時間であつたやうな日であつた。

 どしや降りになる雨を床の中で聞いてゐると、小學校にゐた頃の雨の日の控室や、ひとかたまりになつて押されて二階から馳け降りる階段の跫音が浮かんだ。寢てゐる足が重く、いくども寢がへりをして眠つた。

 風が吹いて、波頭が白くくづれてゐる海に、黑い服などを着た人達が乘つてゐるのに少しも吃水のない、片側にだけ自轉車用車輪をつけてゐる船が、いそがしく砂地になつてゐる波打際へ着いたり沖の方へ出て行つたりしてゐるのを見てゐると、水平線の黑い雲がひどい勢ひでおほいかぶさつてくるのであつた。私はその入江になつた海岸の土堤で、誰か四五人女の人なども一緒に蒲團をかぶつて風を避けてゐた。そしてしばらくして、暗かつた蒲團の中から顏を出すと、もうそこには海も船もなくなつてゐて、土堤にそつて一列に蒲團が列らんでゐるのであつた。

 明け方、小いさな地震が通つて行つた。

 雨はまだ朝まで降りつゞけてゐた。櫻草の鉢をゆうべ庭へ出し忘れてゐた。

 朝の郵便は家賃のさひそくの葉書を投げこんで行つた。

 もうひと頃ほど寒くはなくなつた。

 新聞は、雨の街を人力車などの走つてゐる寫眞をのせてゐた。

 夕飯にしやうかどうしやうかと思つてゐると、――暖かいには暖かいが、と隣家のふたをあけたまゝのラヂオが三味線をひいた後天氣豫報をやり出した。

 私は便所に立つて、小降りのうちに水をくんだ。そして、鹽鮭と白菜の漬物を茶ぶ臺に揃へて、その前にきちんと坐つた。

(暖かいには暖たかいが、さて連日はつきりしない、北の風が吹いて雨が降りつのる。この天候は日本の東から南の海へ橫たはつてゐる氣壓の低い谷を、低氣壓がじゆずのやうに連らなつて進んでゐるためで、まだ一兩日はこのまゝつゞく)――と、ラヂオは昨日と同じことを言ふのであつた。

 

[やぶちゃん注:太字「じゆず」は底本では傍点「ヽ」。「拂らはふ」「糊でねばしたやうに」(「のばす」の方言か?)「おほい」「ゆうべ」「さひそく」「夕飯にしやうかどうしやうか」(二箇所の「しやう」)「暖かいには暖たかいが」(後者の送り仮名)は総てママ。

なお、現代文庫版(旧全集準拠版)では、「緣側に出て頸にはみ出してゐる髭をつんでゐると」の「髭」は「髪」(正字は「髮」)となっている。底本新全集の秋元氏の補正と思われるが、果たしてこの補正は本当に正しいのだろうか? 私にはやや疑問が残る。]

 

第一課 貧乏   尾形龜之助 (附 初出復元)

 

    第一課 貧乏

 

 太陽は斜に、桐の木の枝のところにそこらをぼやかして光つてゐた。檜葉の陽かげに羽蟲が飛んで晴れた空には雲一つない。見てゐれば、どうして空が靑いのかも不思議なことになつた。緣側に出て何をするのだつたか、緣側に出てみると忘れてゐた。そして、私は二時間も緣側に干した蒲團の上にそのまゝ寢そべつてゐたのだ。

 私が寢そべつてゐる間に隣家に四人も人が訪づねて來た。何か土産物をもらつて禮を言ふのも聞えた。私は空の高さが立樹や家屋とはくらべものにならないのを知つてゐたのに、風の大部分が何もない空を吹き過ぎるのを見て何かひどく驚いたやうであつた。

 雀がたいへん得意になつて鳴いてゐる。どこかで遠くの方で雞も鳴いてゐる。誰がきめたのか、二月は二十八日きりなのを思ひ出してお可笑しくなつた。

 

[やぶちゃん注:「雞」は「にはとり」で尾形龜之助の好きな用字であり、ここは底本でも本字を用いている。本詩集刊行(九月刊)の昭和五(一九三〇)年は閏年ではなく、これ以前の閏年は昭和三年であるから、本詩篇初出時制(同年五月)から考えて、当年、この昭和五年の二月がシチュエーションと考えてよい。

 本篇は昭和五(一九三〇)年五月発行の『詩神』第一巻第五号を初出とし、そこでは題名も異なる。以下に示す。

   *

 

    貧乏第一課

 

 太陽は斜に、桐の木の枝のところにそこらをぼやかして光つてゐた。檜葉の陽かげに羽蟲が飛んで晴れた空には雲一つない。見てゐれば、どうして空が靑いのかも不思議なことになつた。緣側に出て何をするのだつたか、緣側に出てみると忘れてゐた。そして、私は二時間も緣側に干した蒲團の上にそのまゝ寢そべつてゐたのだ。

 私が寢そべつてゐる間に隣家に四人も人が訪づねて來た。何か土産物をもらつて禮を言ふのも聞えた。私は空の高さが立樹や家屋とはくらべものにならないのを知つてゐたのに、風の大部分が何もない空を吹き過ぎるのを見て何かひどく驚いたやうであつた。

 雀がたいへん得意になつて鳴いてゐる。どこかで遠くの方で雞も鳴いてゐる。誰がきめたのか二月は二十八日きりなのを思ひ出してお可笑しくなつた。私は月拂いを今月も出來ぬのだ。

 

   *

削除された末尾の「月拂い」の「い」はママ。]

 

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