記憶して下さい
記憶して下さい。私は斯んな風にして生きて來たのです。
記憶して下さい。私は斯んな風にして生きて來たのです。
「海辺の月の出」“Mondaufgang am Meer”(部分)
1822年 カンヴァス 油彩 55×71㎝
昨日の「朝の田園風景(孤独な木)」との対幅である。「朝日美術館」の大原まゆみ氏の解説によれば、先の「朝の田園風景(孤独な木)」は、手前から奥にかけてフリードリヒが常套的に示すところの「時」の経過の描写が見られ、朝から昼への推移を示すとする(山裾の白煙がそれであるとする)。確かに、中景の池塘の畔に差し込む日差しとホリゾントの山塊を包んでいる気配は早朝のそれではない。それにしても、これを対幅とするには、如何にも本作は縮尺が違い過ぎる気がする。少なくともは、これを「朝の田園風景(孤独な木)」と並べて僕の部屋に飾りたいとは思わないということだ。大原氏は更に『現世的労働と宗教的瞑想の対比』、『異教とキリスト教』を見、『休らう羊飼いの素朴に対する』、岩礁の上の『「古ドイツ風」服装の、つまり都市に住む同時代の青年と娘たち』=『さまよう都会人』の思いが対峙しているとするのだ。フリードリヒはこの時42歳である。その彼が、『都市に住む同時代の青年と娘たち』に敢えて『「古ドイツ風」服装』をさせ、月光を見入らせる精神の彷徨をさせたことの意図は何であったのか? という問いかけを大原氏は、逆に我々に投げかけている。確かに彼らの背中は何かを期待し、待っているように見受けられる。同書の評論「フリードリヒ、時代の表現者」で大原氏はその種明かしをしてみせる。『ウィーン体制下のこの抑圧された時期、多くの画家が、敢えて政治的ととられるような態度を表明することなく、小市民的片隅の小さな幸福を見つめたり、人畜無害の夢の世界に遊ぶことを選んだのに対し、フリードリヒの作品の一部には、反体制派の学生たちの目印となった「古ドイツ風」の衣装をまとい、髪を伸ばした若者たちの姿が添景人物として登場するようになった。彼らが「デマゴーク」とみなされ得ることを画家は承知の上で描いたのである。』――言われて、僕の写真をよく見ると、確かに彼は長髪だ!――
――メランコリーの画家フリードリヒは、実は同時にどっこい反骨のプエル・エテルヌス(永遠の少年は常に反逆者である)であったことを忘れてはならない。――
フリードリヒ「朝の田園風景(孤独な木)」“Dorflandschaft bei Morgenbeleuchtung”(部分)
1822年 カンヴァス 油彩55×71㎝
これはもう明るく綺麗なネット画像を見るに如くはない(ドイツ語サイトの大画像)。ただ、実際には美術館の光量が極度に制限されており(窓にも全て黒い遮幕がなされていた)、こんなに明るい画面でみることは出来ない。例えばこちらのドイツ語版ウィキの画像は、NHKの朝のラジオ体操みたような如何にもな緑色なのであるが、こんなくっきりな色は、実物には到底見られないものなのである。これは全景で撮れる大きさではあったが、僕はどうしても、この「孤独な木」にズームしたかった。ご存知でない方のために言っておくと、フリードリヒは絵に殆んど題名を附しておらず、現在我々が呼称している題名はみな後世の研究者らが命名したものであり、実際には題名が錯誤しているものさえあることは押さえておきたい。
これはベルリン領事ヴェーゲナーのために描かれた、次回に僕が予定している「海辺の月の出」との対幅であることが分かっている。美術史家が言いそうな良き羊飼い(いや、羊飼い自体は労働であってさすればそれはアダムの原罪である)やら、アニミズム・自然・世俗という二元論的属性の一方は、確かに二つ並べた時に、語り得よう事柄であるし、そのようなものとして、生真面目なフリードリヒは描いたのであろうとも思う。しかし、この絵を前にした僕は、実はそんな解釈はどうでも良かったのだ。僕は実にこの「自然」の中に素朴に、フリードリヒの「雪の巨人塚」の枯れ果てた古木に対峙する、余りに健全な「息苦しい」「生命の木」を、確かに見た気がした。芽吹き、茂り、絡み、伸び、「花咲き、はびこる牧場のように」(アルチュール・ランボー作金子光晴訳「一番高い塔の歌」より)、むんむんと噎せるように、「鼻を撲つ」ように香ってくる「緑」の臭気の「生の暴威」を感じるのである。だから僕は、何かこの絵を前に居た堪れなくさせられるのである。そうして、何という、おぞましい感情! これが枯れることを、それに「雪降りつむ」ことを、切に、切に願うに到るのである。……枯れよ! 干乾びて、死、あれかし! と……
さて、それは何故であろう……僕が28歳の秋、とある傷心の中で――その当事者であった人物は、この謂いを聞いたら、傷心はこっちの方だと唾棄するであろうが、思いの齟齬とは、相応に両者も、そうして更には第三者をも、いや更には四人目、五人目を巻き込んで致命的に傷付けてゆくものであろう――伊良湖岬を一人旅した(僕の一人旅は都合、今までの生涯に、大学1年の折の原爆の広島及び尾崎放哉の事蹟を訪ねるための小豆島行と、この時の、たった2度きりである。僕は強烈な出不精なのである。実は僕は旅は嫌いなのだ)。……その折、「椰子の実」の歌で知られる恋路ヶ浜の上で見つけた枯れ果てた木が、上の写真である。……僕は僕の無数の拙い写真の中で、この何の変哲もない写真が、好きで好きで堪らない。……それは、その時も、そうして今も、これが、僕自身の惨めな写像であるからである……では、翻って、君は問うであろう、じゃあ、何故、よりによって息苦しくなる「朝の田園風景」の「あの木」に近づいたのか、と……ほれ、それが僕らの原罪だよ……
フリードリヒ「リーゼンゲビルゲの朝」“Morgen im Riesengebirge”(部分)
1810~11年 カンヴァス 油絵 108×170㎝
これはまず全図(ドイツ語版ウィキペディア“Morgen im Riesengebirge”画像)を見よう。
この程度の大きさでも、風景画として漫然と見る人はこの山上の十字架のキリスト像(地平線よりもこれだけを高く描き、その東雲(しののめ)の光背が特異なクロースアップの効果を生み出している)の下に、
白いドレスを着た女性が、左手に杖を持った紳士の右手を取って頂上に引き上げようとしているのに気づかないであろう(実際、ドイツ語サイトの別なもっと精密な大型画像で見ても、僕の写真のように杖を突いているのまでは良く分からない)。いや、僕も長くそのことを気にせず、視線はひたすら十字架から左へ流れて透明清澄な気に吸い込まれていたものだった。しかし僕はこの実物を見て、不思議に左の山並みの記憶がない。いや、僕は妙にこの点景の人物にこそ惹かれていた……。
「朝日美術館 フリードリヒ」の大原まゆみ氏の解説によれば、この作品は本来対幅の一方として描かれたものと言う。現在所在不明のその対の絵は、夕刻の日没直後の風景であったとされる。『同時代の記述によれば、「前景に高く切り立った岩山があり、雲に覆われたその頂からは小川が流れ、一か所雲の切れたところから遠くの夕日に染まった地平が見え」た』と記す。そうして、そちらの絵にも本作とよく似た男女が描かれており、こちらは岩から岩へと移ろうとする女性を男性が手を添えて助ける様子が描かれていたとする。そこにあるのは、朝日と夕日というザインとしての生にあって、キリスト者としてのアダムとイヴの幸福なゾルレンとしての理想の姿が暗示されていたといって良いであろう(大原氏は『人生を歩む上での世俗的活動と宗教的浄化とにおける男と女の、あるいは男性的理性と女性的直観の役割が、添景人物の行動に寓意化されており、これは十九世紀初めの社会や文学と共通するジェンダー観の反映ともなっている』述べている)。ただ強い悲哀のトラウマを抱えたフリードリヒ(少年期に川で溺れ、助けに入った弟クリストファーが逆に死んだ)独特ののメランコリックな筆致は、本作の冴えた清澄な朝の空気以上に、失われた対幅の夕景の方に効果的に現われていたであろうと思われる。
本作のみが残ったのは、当時の動詞の人称を無視して不定詞のまま使ったとかいう変人「不定詞王」プロイセン王フリードリッヒ・ウィルヘルム4世が、誰かと同じように美事な山並みだけを気に入って、本作のみを買い上げた結果だった。
但し、彼は好色であった父フリードリッヒ・ウィルヘルム3世を嫌悪し、ルイーゼ・フォン・メクレンブルク=シュトレーリッツ王妃のみを愛して愛人を持たなかったとされる。1806年、イエナ・アウエルシュタットの戦いでプロイセン王国はフランスに大敗、ナポレオン1世の強い圧迫を受けることとなった。彼女はその間、自らその交渉役を引き受け、崩壊寸前のプロイセン王国を辛くも支え切った。1810年7月、ルイーゼが34歳の若さで肺炎のために亡くなった時、この愛国の王妃の死をプロイセン中の国民が嘆いたと言われる。さすれば、この絵の方を選んだフリードリッヒ・ウィルヘルム4世は、もしかすると杖を突いてほうほうの体の男に自らを、そうして、この男を導く白いドレスの女性に亡きルイーゼの面影を感じていたのかも知れない。――
1996年夏、僕は妻とフランクフルトから旧東ドイツへ入って西へと向かうフリーの旅をした。バッハの生地アイゼナハを訪れ、その山上にあるルターが聖書のドイツ語訳をしたワルトブルグ城に泊まり、ライプチヒでバッハの墓参、しかし、全く言葉が通じない(ドイツ語は二人とも全く分からない上に、ホテルマンも殆どがまだ英語が喋れなかった)ストレスで胃が痛くなりながらも、辿り着いたベルリンのナツィオナル・ガレリーで、念願のフリードリヒの作品群に逢った。HPトップにその折の「海辺の僧侶」の部分を大画面で掲載しているが、その折に僕が写したその他の写真も少しアップして行きたい。
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「樫の森の中の修道院」“Abte im Eichwald”(部分)
1809~10 カンヴァス 油彩 110.4×171㎝
これは彼の作品として最も知られる、あのグライフスヴァルト郊外にある「エルデナ修道院跡」がモデルとなっている。
……曙の時、捩れた樫の木立が空を摑む。修道院の壁はかろうじて前方の部分のみが残りそそり立つ。その下方には、この廃院の空虚な入り口(そこには中央に十字架が見える)、門の更に手前の雪原には、真新しい墓穴が掘られ、土の地肌をのぞかせている。絵の左右の暗い雪原には、点々と墓標が立つ。そこへ仲間のものと思しい柩を担いだ黒い修道僧の列が闇の奥へと粛々と進む。――
それは厳粛な死の観想である。コントラストの悪い写真版や書籍の小さな挿絵では気づかないが、月は画面右上で、曙の中、白く光を失っている。作品の下部は薄闇に包まれているが、この空は晴れ渡った、澄んだ気に満ちている。それは旭日の予感である。これを不気味な絵としてはなるまい。光明の兆しこそがこの作品の静かな語りなのだ。
タスマニア紀行7《タスマニアで見る4》「タスマニアのフリードリヒ」
タスマニアの空は広い。そして透徹している、それは寂しいほどに――
ユーカリは擦れ合う葉から自然に発火し、黑焦げになる――
立ち枯れ山のように、焼けたユーカリが林立する山――
巨人塚のように平原に佇立する枯れ木――
荒寥たる無人の野――それは萩原朔太郎の「荒寥地方」――
フリードリヒ(Caspar David Friedrich)は、少年期に遭遇した弟の眼前の溺死を救い得なかったというトラウマから、その生涯を極めてストイックに、絶対の悲哀の中に過した。それは全く以って今風に言うならPTSDであったのだと僕は思う。フリードリヒはしかし、その禁欲的な自己の精神が乱されることを畏れて、当時の画家の常道であるローマへの道さえ拒んだ――
僕は思う――
フリードリヒをタスマニアに連れて来たい――
フルードリヒよ、君の描きたい景色は、ここに、ある。――
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