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カテゴリー「アルバム」の105件の記事

2022/10/16

昨日クルーズ 第二海堡到達

昨日は、親友のヨットで、クルーズ、念願の第二海堡に到達、その沖で昼食を摂り、往復、六時間足らずで、無事、ハーバーへ帰った。浦賀水道の巨大タンカーの混雑水域で、行きと帰りに警告の汽笛を受けたが、久し振りに、とても楽しかった。

Google-map
グーグル・マップから私がトリミングした第二海堡
Jps
親友のスマホGPS画像(以下、親友の撮影)
Content-2
Content-13
Content-18
帰途、安全海域で梶取(右は妻)

2020/09/02

遠い昔の僕

File00881

小学校二年生。麻疹(はしか)に罹って治った直後。恐らくは真鶴。手に持っているのは「森永ミルクキャラメル」――
(本当はね、もっと前の豊島園で撮った写真をアップしたかったのだけれど――見当たらなかったの…………)

2016/10/17

祖父遺品の絵葉書から――中国絵葉書七枚

Kosintei


Musyaku


Ssyu


Shanghai


Tinkou


Kousyu


Nankin

[やぶちゃん注:縦型の一枚画像の「上海舊城内湖心亭」の一枚を除き、他の六枚は表の使用が完全に一致し(総て赤字印刷で上部に右書きで「郵便はがき」、切手塗布欄内に「軍事郵便」、中央区分線も赤の波線)、裏の写真のコンセプトもほぼ完全に一致していることから、同じセットの絵葉書と考えてよい。これら六枚の各写真は総て古き良き中国の名勝を写しているにも拘わらず、「南京」の一枚を除き、その間に、戦車と複葉戦闘機(「無錫」)・複葉戦闘機二機(「蘇州」)・戦闘機二機(「上海」)・重装備歩兵二名(「鎭江」)・日章旗(「杭州」)のコンテ画を配していて見るにおぞましい。]

祖父遺品の絵葉書から――「戰役紀念」(日露戦争絵葉書四種)

 

[やぶちゃん注:四枚の内、二枚(左下に雪の積もった木の上で歩哨する写真のあるものと沙河(さか/しゃか)会戦の右に双眼鏡の絵が添えられたもの)は表が全く同じ仕様なので、同じ絵葉書セットであった可能性が強い。なお、日露戦争は明治三七(一九〇四)年二月八日~明治三八(一九〇五)年九月五日に終了している。以下は総て、日露戦争勝利後の戦勝絵葉書類と思われる。


Nitiro1

「戰役紀念」縦型一枚

上部に消印を真似た印刷で「明治卅十八年戰役陸軍会戦觀兵敷紀念 39・4-30東京」(他英文)とあり、下部に軍艦の絵、上に観兵式の絵が載る一枚は、表は左手に「CARTE POSTALE」(フランス語で「葉書」の意)、下部に「信陽堂分工塲発行」(「発」はママ)とあるのみ。



Saka

「戰役紀念」日露戦争の沙河(さか/しゃか)会戦の一枚

右書きで「沙河會戰中第三司團司令部」(同英文)とキャプション。表は切手塗布位置に一行で「軍事郵便」、その下に英文で「CARTE POSTALE」、下部に右書きで「逓信省發行 東京印刷株式會社製」(他に二ヶ所に英文があるが、特に特異なものではないので略す)。

「沙河會戰」は日露戦争に於いてロシア陸軍が日本陸軍に対して行った反撃により始まった会戦。ウィキの「沙河会戦」によれば、この戦い以降、冬季に突入し、『沙河の対陣と呼ばれる膠着状態に陥った』。『会戦の契機はロシアがロシア満州軍をアレクセイ・クロパトキンのみの指揮下であったものを、グリッペンベルクとクロパトキンの二頭体制に移行させる決定をしたことである。この決定に不満のあるクロパトキンは日本陸軍を攻撃して威信を示そうとした』。十月九日『にロシア軍の攻撃が始まり、それを日本陸軍が迎撃するという形で戦いが始まった。日本陸軍はロシア軍の攻撃を察知したので、圧倒的な兵力差がありながらもロシア軍に対して効率的な防御を行い、大きな損害を与えた。それから日本軍はロシア軍に対して攻撃を仕掛けたため、ロシア軍は沙河北岸に退却した。日本軍はさらに攻撃を行おうとするもロシア軍の反撃を受けて退いた』。『満州軍は弾薬がつき、大本営は旅順攻囲戦を遂行するために優先して弾薬をそちらに送ったことと、冬季に突入して軍隊行動が困難となったことから満州軍は塹壕で次なる攻勢機会を待つこととなった』。(同会戦の終結は十月二十日とされる)。『なお、この会戦に於いて特筆するべき存在としては梅沢道治少将率いる近衛後備混成旅団(俗に言う「花の梅沢旅団」)がいる。近衛後備混成旅団は後備兵(予備役)の兵士たちによって構成された二級部隊ながら、梅沢による卓越した指揮の下、最前線に於いて精鋭部隊に劣らぬ猛烈な奮戦を見せ、勝機の一端をも担う活躍を見せた事で現在にその名を残している』とある。


Nitiro2

「戰役紀念」日露戦争の運河と雪の樹上の歩哨のショットの一枚

上部の写真キャプションは右書きで「運河ニ據ル我歩兵戰」(同英文。「據ル」は「よる」と読む。表は切手塗布位置に一行で「軍事郵便」、「軍事郵便」の下に英文で「CARTE POSTALE」下部に右書きで「逓信省發行 東京印刷株式會社製」(同前。前とこの一枚が同一のセット物の二枚と考えられる)。

下部の写真キャプションは右書きで「積雪樹上ノ我展望哨」。



Kouryokukounohousen

右下に騎馬と歩兵と野戦砲の絵の入った、刳り貫き画に写真を合成した一枚

左端に縦に「鴨綠江ノ砲戰」(他英文その他)。これは表は切手塗布位置に一行で「軍事郵便」とある他は、上部の右書き「郵便はがき」と「軍事郵便」の下に英文で「CARTE POSTALE」とあるだけで、上の二枚のようなごちゃごちゃとした他の英文は印刷されていない。]

祖父遺品の絵葉書から――「(滿州國安東縣名勝)冬の鴨綠江スケート大會」


Ouryokkou

 

[やぶちゃん注:左下に同英文があるが、「winten」と誤植している。

「安東縣」現在の中華人民共和国遼寧省南部にある、鴨緑江を隔てて、朝鮮民主主義人民共和国と接する国境の街、丹東市の旧名。ウィキの「丹東市」によれば、『朝鮮族が』二十『万人以上居住している。中朝貿易最大の物流拠点であり、その』七『割以上がここを通過すると言われている』とある。一九三一年(昭和六年)に『満州事変が勃発すると直ちに日本軍に占領され、満州国は』一九三四年に『安東省を新設、安東県を省城とした』。一九三七年(昭和十二年)、『安東県は安東市に昇格している。この時代には多数の日本企業が安東に進出した』。一九四五年、『日本の降伏後は中国共産党軍が接収し、朝鮮戦争』(一九五〇年~一九五三年)『では中国人民義勇軍の兵站前線となった』。一九六五年、『安東市は丹東市に改称された』とある。ということは、この絵葉書には「安東縣」とあり、安東が市になる前、昭和一二(一九三七)年よりも前の製造になるものであることが判る。

「鴨綠江」(おうりょくこう:北京語:Yālù Jiāng(ヤールージャン/朝鮮語(北朝鮮)アムロッカン/(韓国)アムノッカン)は現在の中華人民共和国東北部と朝鮮民主主義人民共和国との国境となっている川。同じく国境にある白頭山(中国語:チャンパイシャン/朝鮮語:ペクトゥサン)に源を発し、黄海に注ぐ。ウィキの「鴨緑江」によれば、『水の色が鴨の頭の色に似ていると言われたことからこの名前がある』。『日露戦争時には日本軍とロシア軍が激戦を繰り広げた(鴨緑江会戦)』川でもあった。]

祖父遺品の絵葉書から――「野外で開く我等の現地分會の集ひ(訥河縣龍河嶺分會)」


Bunnkai

 

[やぶちゃん注:右に中国語で「在野外召開之我們的分會常務會(訥河縣龍河嶺分會)」とあり、表は上部に右書きで「郵政明信片」、中央の区切り線中央に右書きで「滿州帝國協和會中央本部・滿州事情案内所發行」とある。「明信片」は中国語で「葉書」の意。

「訥河」(とつが)は現在の中華人民共和国黒竜江省チチハル市にある県級都市である訥河市に相当する。ここ(グーグル・マップ・データ)。その中の「龍河嶺」とは、恐らく現在の「龍河鎮」、ここであろう(同前)。なお、満州国が建国(一九三二年(昭和七年)三月一日)後、チチハルには一九三六(昭和十一)年に市政が施行されている。

「滿州帝國協和會」満州国における官民一体の国民教化組織「満州国協和会」。ウィキの「満州国協和会によれば、『満州事変以後、中華民国からの分離独立や王道政治に基づく新国家建設の理念を説いた于沖漢らの自治指導部が協和会の起源である』。『満州国建国に至り、自治指導部は解散したが、このうち合流していた大雄峯会(主に資政局に流れた)の中野琥逸』(こいつ)『と満州青年連盟の山口重次、小澤開作、于沖漢の子于静遠、阮振鐸らが奉天忠霊塔前で「満州国協和党」を結成、軍司令部の石原莞爾と板垣征四郎から設立準備金』二万円『が拠出され、さらに結党宣言と綱領を監督した板垣・石原のブレーン宮崎正義の「ソ連や中国国民党と同じく、政府が補助金を出すべきだ」との提案により年額』百二十万円『が国庫から支弁されることになり』、『協和党という名称に反対した愛新覚羅溥儀の意向』『もあって溥儀を名誉総裁とする満州国協和会に改組された』。『協和会の基本的単位は「分会」で、地域毎に設立された。そして、各地方行政機関ごとに本部が設置され、これらの分会を統括した』(下線やぶちゃん)。『開設されなかった立法院に代わり、分会代表が参集した連合協議会が実質的に民意を汲み取る機関として期待され、石原に至っては協和会を関東軍に代わる「将来の主権者」として設定し、協和会による一党独裁制を志向していた。しかし、協和党から協和会への改組当初』『より小磯國昭らが山口や小澤ら旧協和党の古参を排除して関東軍と日系官吏による「内面指導」を強化して教化団体化を図り、特に協和会中央本部の甘粕正彦や古海忠之らと協和会東京事務所を根城にする石原一派の対立』『からはその存在意義は変質して日中戦争を機に国家総動員体制を担い』始めるに至った。その後、協和会青年訓練所・協和義勇奉公隊・協和青少年団を次々に創設し、一九四〇年(昭和十五年)からは『分会と連携して全住民や各家庭に浸透させる隣組を設置』、翌年四月には『各県長や各省長が地方の協和会の本部長を兼任することになり、政府行政と完全に一体化した』が、これはまさに日本本土の『道府県支部長を道府県知事が兼任した大政翼賛会と同じである』とある。]

祖父遺品の絵葉書から――「松花江  和田香苗 筆」


Syoukakou


[やぶちゃん注:表は最上部に右書きで「郵便はがき」、切手欄の中に「軍事郵便」、中央の区切り線の真ん中に右書きで「(陸軍恤兵部發行)」、最下部に右書きで「東京・一瀨印行」とある。
「陸軍恤兵部」(「恤兵」は「じゅっぺい」と読む)は陸軍省内の部署の一つで、長は恤兵監。戦地への慰問或いは慰問で送られるものを「恤兵」と呼ぶが、この部署では主にその恤兵の管理などを行っていた。また『陣中倶楽部』など、兵士向けの慰問雑誌の発行業務も行っていた。日中戦争の長期化に伴って恤兵も大きく増加したため、その規模は拡張した、とウィキの「陸軍恤兵部にある。「印行」は「いんこう」と読み、印刷して発行することの意。印刷物を製作した印刷会社の名前。ここは「一瀨」が固有社名らしい。

「松花江」(しょうかこう/中国音「ソンホワチアン」)は中国東北部を流れる川で、ウィキの「松花江」によれば、『満州語では松花江は「松阿里鳥喇(スンガリ・ウラー、sunggari ula)」すなわち「天の川」と呼ばれており、この地に入ったロシア人もスンガリ(Сунгари)と呼んだ。第二次世界大戦前の日本、殊に満州国時代の日本人の間でもスンガリ川の名で知られている』。『アムール川最大の支流で、長白山系の最高峰、長白山(朝鮮語名:白頭山)の山頂火口のカルデラ湖(天池)から発し、原始林地帯を貫き吉林省を北西に流れ、吉林省長春の北で伊通河が合流する飲馬河をあわせて松嫩平原に入り、白城市(大安市)で嫩江をあわせて北東に流れを変え』、『しばらく吉林省と黒竜江省の境の東北平原を流れてから黒竜江省に入り、ハルビン市街区のすぐ北を流れる。その後牡丹江などの大きな支流をあわせて三江平原の湿地帯に入り、ロシア国境の黒龍江省同江市付近でアムール川に合流する』。長さは千九百二十七キロメートル、流域面積は二十一万二千平方キロメートルに及ぶ。『冬季は凍結し、春になると雪解け水によって最大流量に達する』とある。

「和田香苗」(明治三〇(一八九七)年~昭和五二(一九七七)年)は東京都港区生まれの洋画家。光風会会員。大正九(一九二〇)年、東京美術学校西洋画家(岡田三郎助教室)卒。卒業の年の十一月に渡米、シカゴに赴き、翌年八月にパリに移った。大正一二(一九二三)年二月までヨーロッパ各地を遊学して三月に帰国、同年四月から東京高等工芸学校の絵画授業を嘱託され、翌年助教授、昭和六(一九三一)年教授となり、昭和二〇(一九四五)年三月に退官したが、その後も講師として昭和二四(一九四九)年まで勤めた。後、工学院大学講師、次いで教授。美術学校卒業の大正九(一九二〇)年の第二回帝展で「オルガンノソバ」が初入選、以後、帝展・文展に出品、大正一二(一九二三)年に文展無鑑査。光風会展にも出品、昭和八(一九三三)年、光風会会員となり、後に評議員を務めた。戦後も日展・光風会展に出品したほか、同二二(一九四七)年、同志十名と国際観光美術協会を結成している。彼は昭和一三(一九三八)年五月に陸軍嘱託画家となっている(「東京文化財研究所」公式サイト内のデータに拠った)。]

2016/10/16

祖父遺品の絵葉書から――「ホロンバイル 蒙古風俗」

M0

[やぶちゃん注:「ホロンバイル」現在の中華人民共和国内モンゴル自治区北東部に位置するフルンボイル市。市名はモンゴル語で、地区に含まれる湖である呼倫湖(フルン・ノール)と貝爾湖(ボイル・ノール)に因む。参照したウィキの「フルンボイル市によれば、『フルンボイル地方は遊牧に好適な草原地域であり、匈奴、鮮卑、室韋、キルギス、契丹、タタルなど、古来様々な遊牧民が興亡した。また、東方の森林地帯からは女真をはじめとするツングース系の民族も入り込んでおり、現在のオロチョン、エヴェンキの先祖となった』。『モンゴル帝国のもとではチンギス・ハーンの末弟テムゲ・オッチギンがこの地方に遊牧し、モンゴル高原東部から遼東にかけて絶大な権勢を誇った。元の北走後も北元にとっての重要な拠点であったが』、一三八八年に『この地でトグス・テムル・ハーンが殺害され、北元は崩壊した』。十七世紀には『バルグ(今日のブリヤート人に近いモンゴル系部族)、ダフール(モンゴル系民族)、エヴェンキ、オロチョンなどが住んでいたこの地方は清の支配下に置かれた。清は領土の北辺にあたるこの地方を支配するに当たり、八旗に準じて諸部族をソロン八旗(ソロンはエヴェンキの満州語名)に編入し、清朝皇帝の隷臣として扱った』。十八世紀には『外モンゴルのハルハの隷属民であったバルグの別派がフルンボイルに移住されてバルグ八旗に編成され、黒竜江将軍の支配下に置かれた』。『清末においてもこの地方は北方の辺境であったために漢族の流入や定住農耕化が比較的遅れ、その後も長い間遊牧生活が保たれた』。一九一二年に『ロシアとモンゴルのボグド・ハーン政権の援助で勝福や貴福らによって分離独立するも』一九一五年に『中国の特別区域となり』、一九一九年には『高度な自治権も解消された。満洲事変が起こると日本の勢力下に入り、満洲国』(一九三二年(昭和七年)三月一日満洲国建国)『に編入されて南のジェリム盟と合併、興安省が置かれた。さらに興安省が分割されるとフルンボイルのうち嶺東地区は「興安東省」、嶺西地区は「興安北省」が設置された。満州国崩壊後、興安北省省長だったエルヘムバトは侵攻してきたソ連とモンゴル人民共和国の連合軍に支援されてフルンボイル地方自治政府を分離独立させる』。一九四八年に『中国共産党のウランフの工作が実り、ホロンバイル盟が設置されて内モンゴル自治区に属すことになった』とある。本絵葉書は年次を示すデータがないが、満洲国に編入されてからのものである。

 冒頭の封筒(画像ファイルm0)の「屆先」の「笠井直一」(なおかず)が私の母方の祖父(私の父母は従兄妹なので母方の祖母の兄でもある)、住所「九州鹿児島県岩川後町」(「後町」は「うしろまち」と読む)、差出人欄「ハルピンにて」「松崎博一」は祖父の友人。]

M1

「(蒙古風俗)頑健なる子供と精悍な親達」(画像ファイルm1

表のキャプション。以下、やや異なるが、英文キャプションが附帯しているが、省略する。


M2

「(蒙古風俗)正裝せる蒙古貴人」(画像ファイルm2


M3

「(蒙古風俗)奇妙な面を覆る羅漢踊り」(画像ファイルm3



M4

「(蒙古風俗)宿營地に於ける食事の用意」(画像ファイルm4



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「(蒙古風俗)奇觀を呈する喇嘛僧の讀經」(画像ファイルm5

「喇嘛僧」は「ラマそう」と読む。



M6

「(蒙古風俗)盛裝せる蒙古人の一族」(画像ファイルm6

2016/10/08

母方の祖父の遺品より「新京」バス乗車券附絵葉書

旧満洲国の首都、新京特別市(しんきょうとくべつし:現在の吉林省長春市)の観光バス乗車券(使用済)の接合絵葉書。

(裏)

Sinkyoubasu1

(表)

Sinkyoubasu2

母方の祖父の遺品より「滿鐡繪葉書」

祖父は歯科医師として鹿児島の田舎でその人生を全うした。彼は文人趣味でもあって、診察室には「リーダーズ・ダイジェスト」しか置いていなかった。彼は絵葉書の蒐集などもしていた。亡き母の遺品の中にそれがあり、僕の手元に残る。それを少し紹介しよう。満州鉄道の絵葉書四種と表及び袋である。――

Mantetu1

Mantetu2

Mantetuehagakihukuro



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