連れ合いがボランティアの音声訳の仕事が忙しいため、私への一部の写真転送が、やっと今日、受け取れた。
取り敢えず、私が最も楽しかった山の中の十分(シーフェン) での「天燈上げ(ランタン飛ばし)」 の写真を挙げる。
願い事を書いて空へ飛ばすのだが、日本人は殆んど見当たらなかったが、殆んどの観光客は、個人の願いがテンコ盛りであった。
私は「ウクライナ、ガザ、イランに自由を!(反対側には国名順を逆さにして「平和を!」とした)」とのみ書いた。連れ合いは「健康第一」であった。私の書いたものを見た添乗員の日本人女性が、えらく感動していた。
最初の写真の右手にいるのは、私の連れ合いである。実は、二〇〇三年の無謀な二人のドイツ一周の旅で、ベルリンのマリエン教会の前に蟻の大きさで立っているエリスならぬ彼女以外、写真を挙げるのは、今回が初めてである。明後日で結婚して三十六年になるから、遅過ぎた御披露目となった。
二枚目は、店員の女性が、その天燈を揚げてくれるところ。三枚目は空へ昇ってゆく天燈である。
私たちのランタンは私の頭の上方の山の頂上近くまで昇って降りていった。
タンタンは燃え上がらない材質で出来ており、毎日、村人が山中に入って回収するのであった。
不思議に、私も高揚した――
連れ合いは、ここのところ、音声訳のボランティアの主力メンバーになってしまい、忙しくなり、先週の河津桜リベンジの彼女の撮った写真が、今日になって、やっと手に入った(私は携帯で写真を撮ることは全く無い)ので、以下に掲げる。

連れ合いは、参加している音声ボランティア「戸塚朗読会」での仕事がどんどん増えてきて、忙しくなり、また、私の送った写真が私のパソコンに届いていなかったトラブルがあったこともあって、写真の公開が遅くなった。ここに掲げる。例によって、総て、彼女が撮ったものである。時に貧相な漱石の亡霊が入った心霊写真が数枚あるが、霊障は、ない――
修善寺奥の院正覚院内にて(殆んどは修善寺庭園特別公開)
大事な一枚を忘れていた!
福江島の休憩をとった珍しく美しい砂浜海岸で、連れ合いが作ってやった椰子の実に添えた蟹の墓標だ――
前の日の最後に、バスから見ただけの「中ノ浦教会」を訪ねた。以上の写真が、その正面である。
*
「矢堅目(やがため)の塩本舗」を訪ねた。私は、最後の五島の海岸風景を見入っていて、手前のガイドさんの話を、ちゃんと聴いていなかった。友達へのお土産の塩を買ったり、滅多に食べない塩アイスクリームを食べて、海を見ていた。
実は、ここには、近くの改修された冷水(ひやみず)教会堂(見学コースには入っていなかった)の以前の当時の古いステンドグラスの現物二枚が、この店内に飾られていたのだが、それをガイドさんが、「必ず、見て下さい。」と言っていたのだった。ちらりと、遠見にあるのは見たが、「模造品かな?」と思っただけで、バスに乗ってしまった。
帰宅して、連れ合いの写真の中に見つけて、びっくりした。あなたも、アイスなど食わずに、まず、その美しいステンドグラスを見て下さい。
最後の見学地である「青砂ヶ浦(あおさがうら)教会」に向かった。
祭壇の左に聖テレジアの像があった。
私は、反射的に手を握って、祈った。
連れ合いが近づてきて、「よかったわね。テレジアに逢えて。」と言った。
私の亡き母「聖子」のクリスチャン・ネームは「聖テレジア」であったからである…………
……私の母は鹿児島の大隅半島の山の中の町の歯科医の子であった。娘時代に洗礼を受け、ゆくゆくは修道院に入り、その後は、ハンセン病患者の国立療養所であった長島愛生園に勤めるつもりだった。それを父が強引に結婚を申し出たのであった。2011年3月、ALSで亡くなった……
*
帰りは、奈良尾港から、フェリーで長崎に向かい、長崎空港から飛行機で帰った。そのフェリーで、一つ、面白かったことがある。
添乗員の女性と、数人のツアーの女性たちが、ホールで何やら話していたので、聴いてみると、私も、「この航路で見られるはずだ。」と思っていた、私が、行って見たいと思いつつ、私が未だ行っていない軍艦島(正式名「端島(はしま)」)の話をしておられた。俄然、私も首を突っ込み、グーグル・マップを見ながら、見える可能性を指摘した。皆さん、「見たい。」と言うので、私の大型の双眼鏡をキャリー・バックを開いて持ち出し、デッキで、ぎりぎり、まさに、ちっちゃなプラモデルのような軍艦島を視認することが出来たのであった。
楽しい島旅であった。 (終)
海上タクシー(三十五人乗りだが、ツアー貸切で添乗員含めて二十三名。老船長と、初老の(福江島の方とは別な方)、やはり優れた「巡礼ガイド」さんが同船。この船は、今年で引退するものだった)で福江港を出港した。これが、その船。以下の久賀島着船中。

鬼岳(おにだけ)。両脚の人工関節三年目の連れ合いが、さくさくと、ぐんぐんと、坂を上ってゆく。背後の山がピーク。因みに、泊まったコンカナ王国の温泉は、この山の下から湧いている。私は、旅行前に捻挫をしたというツアーの女性を気遣って、一緒にゆっくりと登った。それを彼女がパチリ。なお、ウィキの「鬼岳」によれば、「おんだけ」と読むとしているが、コンカナ王国の支配人に聴いたら、「『おにだけ』です。」と答えられた。この日の現地のUターンの初老の素晴らしい博覧強記のボランティアも、「おにだけ」としか読まなかったぜ? ウィキさん……よ……
1.五島列島の隠れキリシタンの歴史(江戸時代)
五島列島に最初の隠れキリシタンが住み始めたのは、江戸時代末期の1800年ころでした。当時、五島列島を治めていた五島藩は度重なる飢饉や出生後生存率の低さから、人口の減少に悩まされていました。そこで、当時人口が石高に対して比較的多かった対岸の大村半島の大村藩に「五島列島に土地を分け与えるから移住しませんか?」という、今で言う「地方移住」の案内を出しました。その頃の大村藩としては人口が多すぎて耕す土地に困っていたこと、食糧不足などの問題から、3000人もの農民が移住を希望し五島列島に住み始めました。
しかし、他の地域では出生率が低く、人口減少に悩まされているほどだったのに、なぜ大村藩だけが人口増加していたのか? それを知るためには、当時の農民・漁民の経済と慣習を理解する必要があります。当時の一般的な貧しい家庭においては、土地や食料が不足している場合、口減らしとして子供が殺されたり売られたりすることが横行していました。つまり、飢饉が訪れると大人の餓死者も出るが、その前にまず子供が殺されてしまう。(江戸時代における子殺しは、惨いことというよりは、狭い島国で争いを起こさずに大半の大人たちが文化的な生活を維持するために必要なシステムだと一般に理解されていたのではないでしょうか?)それに対し、大村藩の民衆たちは、いくら自分たちが貧しくても決して子供を殺さなかったために、人口が増えすぎるという状況になっていたそうです。その彼らの根底にあったのは、キリスト教信仰でした。彼らは隠れキリシタンだったのです。
もちろん、信仰が他の誰かに知られれば、拷問と処刑は免れないため、隠れキリシタンは完全に信仰を隠しています。見た目や外での行動はすべて他の民衆と区別がつきません。踏み絵も踏みますし、神社や仏教行事にも参加します。しかし、その様な厳しい弾圧と迫害と監視の中にあっても、決して家の外には聞こえない様な口の中だけでもごもごと唱える様な祈りと賛美を、それもグレゴリオ暦に従ったクリスマスやイースターなどの教会歴に基づいたものを、口伝えで子供に伝えていた方々だったのです。
五島列島への移住した人たちに与えられたのは、耕しやすく港を作りやすい土地はすでに元からの住民がいるため、山間の狭い耕しにくい土地や、波が荒く港を作りにくい、漁業に向かない海のそばばかりでした。それでも、厳しい弾圧から逃れられる、自分たちの土地が手に入る喜びから、一生懸命開墾したそうです。
そのため、今でもわずかにある平野部は仏教徒が、住みにくい山間部や崖のような斜面、狭い峠を越えた狭い湾のそばにはクリスチャンがという風に集落が分かれていました。
2.キリシタン弾圧時代(明治時代最初期)
1865年(慶応元年)に長崎浦上での信徒発見以降、五島でもキリシタンたちはは次々と信仰を表明した。しかし、キリスト教は禁教のままであったために、この信者たちは投獄され拷問に掛けられるという弾圧にあった。五島列島でも久賀島では、6坪の牢屋に約200人のキリシタンが8ヶ月も収容され、40名以上の方々が亡くなりました。
この他にも多くの悲劇的な弾圧が長崎を中心に起こり、それらが神父たちによってヨーロッパに伝えられると、日本は各国から非難を受けるようになり、1873年(明治6年)になって、ようやく明治政府はキリスト教の禁教を解きました。
3.隠れキリシタンからカトリック信者となった後の歴史(明治初期~昭和)
この時代は一言で言うと、五島列島における「会堂建築期」です。
1873年2月、キリシタン禁制の高札が撤去され、信仰が黙認されることになると、澤二郎らがパリ外国宣教会フレノ神父を長崎へ迎えに行き、ついに念願の神父来島が叶います。フレノ神父の堂崎での野外ミサには、1000人を超える下五島各地のカトリック信徒が船で集まったといわれています。以降、宣教師と伝道士らの協力によって、潜伏キリシタンのカトリックへの復帰が進められていくのです。1877年からフレノ神父やマルマン神父たちは長崎から五島列島の巡回司牧に訪れます。1880年からは五島列島を2地区に分け、下五島をマルマン神父、上五島をブレル神父が担当し、常駐して巡回司牧に努めます。1888年堂崎に着任したペルー神父は、1893年から五島の主管者(司教代理)に任命され、全五島を巡回して司牧宣教に尽くします。このころから、1879年の大泊教会の仮御堂にはじまり、1880年堂崎に小聖堂(現教会は1907年建立され県指定有形文化財)、1881年には浜脇教会(現在旧五輪教会堂として1931年に移築され国指定重要文化財)、1906年江上天主堂(現教会は1918年に建立され国指定重要文化財)、上五島地区では1878年青砂ヶ浦教会(現教会は1910年に建立され国指定重要文化財)、1882年江袋教会(現教会は火災による焼損を2010年、創建時の姿に復元修復され県指定有形文化財)、1887年頭ヶ島教会(現教会は1917年に建立され国指定重要文化財)など、その他各集落に教会堂は建設されていき、潜伏キリシタンのひそかな祈りから、カトリック復帰によって、祈りが目に見えるものになっていきます。その前後で、日本は数々の戦争を経験し大変な時代ですが、教会を建造するために、生活の厳しい中でも、信者によって多くの献金が集まりました。さらに、宣教師の本国の私財や外国の信仰を同じくする方々からの善意の寄付が集まってきました。宣教師の設計や指導の下、信者の労働奉仕や鉄川与助など日本人大工の施工によって多くの教会が建てられていくのです。五島全域に現在50、下五島には21の教会があります。過疎化の進む下五島にも、かつて28の教会がありました。五島のカトリック信徒の人口は、2013年には8,995人で、五島総人口の約14%を占め、その中で五島市には3,275人と、五島市の総人口の8.3%を占めます。ちなみに日本全国でのカトリック信徒の人口割合は0.3%です。データのように五島列島は、日本の中でもカトリック信徒人口割合が最も高い地域です。このように、五島列島には、250年にも及ぶ禁教での迫害の歴史をこえ、真摯に信仰を伝え続けたキリシタンの歴史が最も深く刻まれています。現代においても真摯な信仰が伝えられ、世界で唯一無二となる歴史を刻み続けているのです。
《引用終了》電子化注が、なかなか難物であったために、五島列島の旅(ツアー:11月5日~8日)の画像を示すのが、遅れてしまった。月が替わってしまう前に示すこととした。画像は総て連れ合いが撮ったものである。
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