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カテゴリー「アルバム」の111件の記事

2025/12/10

修善寺周遊

連れ合いは、参加している音声ボランティア「戸塚朗読会」での仕事がどんどん増えてきて、忙しくなり、また、私の送った写真が私のパソコンに届いていなかったトラブルがあったこともあって、写真の公開が遅くなった。ここに掲げる。例によって、総て、彼女が撮ったものである。時に貧相な漱石の亡霊が入った心霊写真が数枚あるが、霊障は、ない――

修善寺奥の院正覚院内にて(殆んどは修善寺庭園特別公開)

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これは、池で大鯉が跳ねた瞬間のショットで、アブストラクト然たる連れ合いのベスト作品。

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修善寺湯舟川散策(芥川龍之介が散歩したところ)
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修善寺北の「もみじ林」

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その高台にある大きな漱石の碑(「修禅寺日記」中の直筆の漢詩を拡大して刻したもの)

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右奥の木に多数の巨大なサルノコシカケを発見したが、マダニ警戒注意があったので遠望で我慢した。

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黄昏れる漱石の霊――ではない。バスを待つうちに生理的我慢の限界になり、山中に行く私を面白がって彼女が撮ったのだ――
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(おまけ)三島大社にて。七五三に来た少女二人がボール遊びをしていた。
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2025/11/25

五島列島の旅(おまけ) 椰子の実の蟹の墓標

大事な一枚を忘れていた!

福江島の休憩をとった珍しく美しい砂浜海岸で、連れ合いが作ってやった椰子の実に添えた蟹の墓標だ――

 

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これは、節足動物門甲殻亜門軟甲綱十脚目抱卵亜目短尾(カニ)下目イワガニ上科ベンケイガニ科アカテガニ属アカテガニ Chiromantes haematocheir である。砂浜の小川の傍の砂の上に亡くなったものを、これ以上、壊れないように取り上げて、小さな砂丘の上にあった流れ着いた椰子の実の上に連れ合いが、そっと置いて撮ったものだ。
椰子の右下には、多くの甲殻亜門顎脚綱鞘甲(しょうこう/フジツボ)亜綱蔓脚(フジツボ)下綱完胸上目有柄目エボシガイ亜目エボシガイ科エボシガイ属エボシガイ Lepas anatifera の殼板(かくばん)が蝋燭の灯の如く、多く附着している。
――「哀しくも、素敵な墓標」――と僕は思った。彼女の絶妙の配置に、とても感動したのだった――



2025/11/24

五島列島の旅(4) エピローグ

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 前の日の最後に、バスから見ただけの「中ノ浦教会」を訪ねた。以上の写真が、その正面である。


  
   *

 

 「矢堅目(やがため)の塩本舗」を訪ねた。私は、最後の五島の海岸風景を見入っていて、手前のガイドさんの話を、ちゃんと聴いていなかった。友達へのお土産の塩を買ったり、滅多に食べない塩アイスクリームを食べて、海を見ていた。

 

 実は、ここには、近くの改修された冷水(ひやみず)教会堂(見学コースには入っていなかった)の以前の当時の古いステンドグラスの現物二枚が、この店内に飾られていたのだが、それをガイドさんが、「必ず、見て下さい。」と言っていたのだった。ちらりと、遠見にあるのは見たが、「模造品かな?」と思っただけで、バスに乗ってしまった。

 帰宅して、連れ合いの写真の中に見つけて、びっくりした。あなたも、アイスなど食わずに、まず、その美しいステンドグラスを見て下さい。

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 最後の見学地である「青砂ヶ浦(あおさがうら)教会」に向かった。

 祭壇の左に聖テレジアの像があった。

 私は、反射的に手を握って、祈った。

 連れ合いが近づてきて、「よかったわね。テレジアに逢えて。」と言った。

 私の亡き母「聖子」のクリスチャン・ネームは「聖テレジア」であったからである…………

……私の母は鹿児島の大隅半島の山の中の町の歯科医の子であった。娘時代に洗礼を受け、ゆくゆくは修道院に入り、その後は、ハンセン病患者の国立療養所であった長島愛生園に勤めるつもりだった。それを父が強引に結婚を申し出たのであった。2011年3月、ALSで亡くなった……

   *

 帰りは、奈良尾港から、フェリーで長崎に向かい、長崎空港から飛行機で帰った。そのフェリーで、一つ、面白かったことがある。

 添乗員の女性と、数人のツアーの女性たちが、ホールで何やら話していたので、聴いてみると、私も、「この航路で見られるはずだ。」と思っていた、私が、行って見たいと思いつつ、私が未だ行っていない軍艦島(正式名「端島(はしま)」)の話をしておられた。俄然、私も首を突っ込み、グーグル・マップを見ながら、見える可能性を指摘した。皆さん、「見たい。」と言うので、私の大型の双眼鏡をキャリー・バックを開いて持ち出し、デッキで、ぎりぎり、まさに、ちっちゃなプラモデルのような軍艦島を視認することが出来たのであった。

 楽しい島旅であった。 (終)

五島列島の旅(3)三日目 海上タクシーで北上する

海上タクシー(三十五人乗りだが、ツアー貸切で添乗員含めて二十三名。老船長と、初老の(福江島の方とは別な方)、やはり優れた「巡礼ガイド」さんが同船。この船は、今年で引退するものだった)で福江港を出港した。これが、その船。以下の久賀島着船中。

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久賀島の「旧五輪教会」を見る。「五島市 世界遺産の島 五島」の当該ページから引く。『旧五輪教会堂は、浜脇教会の建て替えを機に、五輪地区に譲り受けたものです』。『1881年(明治14年)に浜脇教会として久賀島の浜脇に建てられたものが、1931年(昭和6年)に現在地に移築されました。旧五輪教会堂は以後約50年間、五輪地区と蕨小島の信徒たちの信仰のよりどころでしたが、老朽化のため1985年(昭和60年)、すぐそばに五輪教会が新築され、教会の役目を終えました』。『この時点で解体の話が持ちあがりましたが“貴重な文化財として、価値ある建造物を守ろう”との関係者の熱意と地元信徒たちの協力によって解体の危機を乗り越え、当初の姿で保存されることになりました。建物は福江市(現五島市)に寄贈され、市の維持管理のもと、一般公開され』、『現在にいたっています』。『建物は創建時の形態をよく伝えていますが、移築の際には正面玄関が付加され、祭壇背後の下屋も拡張された形跡がみとめられます。木造瓦葺平屋建、窓がポインテッドアーチ型である点を除けば、外観は一見全くの和風建築です。内部は三廊式、板張りのリブ・ヴォールト天井による空間構成、ゴシック風祭壇など、本格的な教会建築様式となっています。当時の教会建築の様子を知るうえで、歴史的に貴重な建造物であり、1999年(平成11年)5月13日、国の重要文化財に指定されました』とある。直ぐ近くに、新しい聖堂がある。そのため、ここのみ、内部の撮影が許可されている。以下に示す。

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 私は、昔日の職人たちが移築再築したこの教会に、甚だ感動した。
 奥の新聖堂を訪ねたら、門柱の上に猫がいた。

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この子は、片眼が不自由だった。今、私のブログが爆当たりしている小泉八雲にあやかって、「ヘルンちゃん」と勝手に名付けた。小泉八雲はキリスト教嫌いだったが。

 また、船で、奈留島へ。同前のサイトの「江上天主堂」を引く。『江上(えがみ)天主堂の歴史は、1881年(明治14年)3月に潜伏キリシタンの4家族が洗礼を受けたことにはじまります。かれらの先祖は、江戸時代末期に大村藩領(現在の長崎市外海(そとめ)方面)から移住してきたのでした。そのころ江上地区には教会がなかったため、信徒の家でミサがおこなわれていましたが、1906年(明治39年)、現在地(奈留(なる)町大串1131)に簡素な教会が建てられました』。『本格的な教会が建築着工されたのは、1917年(大正6年)でした。当時の信徒は40戸から50戸でしたが、各地で教会建築をしていた鉄川与助に設計施工を依頼し、信徒たちはタブの木を伐りはらって敷地を造成しました。建築資金はすべて、キビナゴの地引網(じびきあみ)で得た収入などを出しあい、翌1918年(大正7年)3月に完成させました』。『江上天主堂を訪ねると、緑の木々の間からのぞく白い壁、窓がブルーの外観からは愛らしい印象を受けます。建物の構造は、湿気を避けるために床を高くし、柱には手描きの木目模様、窓には花を描いた透明ガラスを工夫していることなどが特徴です。内部は本格的な立面構成の三廊式になっており、リブ・ヴォールト天井(蝙蝠(こうもり)天井)の美しい曲線が、人々の祈りの空間をあたたかく包んでいます』。『この教会は、わが国における木造の教会のうち、完成度の高い作品として歴史的価値に優れ、小規模ながら教会建築の名工鉄川与助の代表作としても重要であり、2008年(平成20年)6月9日、国の重要文化財に指定されました』とある。まさに、可愛い、ほっとする素敵な教会だった。写真は、逆光で、暗いが、リンク先の写真を見られたい。


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 船旅が続く。舅賀島千畳敷(しゅうとがしませんじょうじき)を経て、若松島のキリシタン洞窟へ。

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「長崎しま旅行こう」の「キリシタン洞窟」を引く。『この洞窟は、潜伏キリシタンの信仰と弾圧の歴史を今に伝える重要な場所です。幕末から明治初期、長崎各地でキリシタン弾圧が起きていました。明治元年(1868年)、「五島崩れ」と呼ばれる弾圧の際、3家族12人が迫害を逃れてこの洞窟に身を隠しました。若松港から船で10分の場所にあるこの洞窟は、奥行き50m、高さ5m、幅5mの十字型。海岸からは入口が見えず、絶好の隠れ場所でした。しかし、ある朝の炊事の煙が漁船に発見され、彼らは捕らえられ』、『厳しい拷問を受けることになりました。この悲しい出来事は、禁教令が解かれる直前に起こりました。昭和42年(1967年)、苦しみに耐え』、『信仰を守り抜いた先人たちをしのび、その悲しみを長く祈念するため、洞窟の入口には高さ4mの十字架と3.6mのキリスト像が建てられました。現在も毎年11月には、土井ノ浦教会の信者を中心に約100名が集まり、ミサを捧げています』とある。「こんな所に……」と……私は絶句し、暗澹たる気持ちになった……。
 さても、ここから、郷ノ首港までの瀬戸(グーグル・マップのここだ)は、船長の許可が出たので、私は舳先に座り込んだ(他に孰れも若い男性一人・女性二人がいた)。スピードも速く、海峡の流れも合わせて、痛快爽快の二十五分だった。連れ合いは、流石に来ず、写真も、ない。残念至極!

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 以上の二枚は、昼食をした、ビーチの写真。既に述べた通り、まことに綺麗なんだが、砂や岩場を探索しても、全く生物の影もなかった……。



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 以上の二枚は、頭ヶ島(かしらがしま)天主堂。非常に重厚な荘厳であった。



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 これは、中ノ浦(なかのうら)教会。女性のバス・カイド(この方も優れた方だった)さんは、この湾に映る、この教会の景色を大いに喧伝された。まあ、可愛い形だけれど、それが見られれば、幸せになれる的な紹介は、もう、幸い等は、いらん、この爺イには、ピンと来なかった。教会ラッシュで、三度のイタリア旅行で感じた、くちくなった感じも、再発し始めていたのでは、あった。

 この日の宿は、民宿で、若松島の「えび屋」。私どもの部屋は、幸い洋室のベッドであった(彼女は両脚人工関節であるため、和室で布団では眠れないのである)が、鬼岳で写真を見せた捻挫をした御婦人は、和室で、困った、とおっしゃっていた。

 しかし、夕食は、今回のツアーでは、最も素晴らしかった。写真を掲げておく。

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2025/11/23

五島列島の旅(2)二日目 福江島周遊

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鬼岳(おにだけ)。両脚の人工関節三年目の連れ合いが、さくさくと、ぐんぐんと、坂を上ってゆく。背後の山がピーク。因みに、泊まったコンカナ王国の温泉は、この山の下から湧いている。私は、旅行前に捻挫をしたというツアーの女性を気遣って、一緒にゆっくりと登った。それを彼女がパチリ。なお、ウィキの「鬼岳」によれば、「おんだけ」と読むとしているが、コンカナ王国の支配人に聴いたら、「『おにだけ』です。」と答えられた。この日の現地のUターンの初老の素晴らしい博覧強記のボランティアも、「おにだけ」としか読まなかったぜ? ウィキさん……よ……

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 初回に見た井持浦(いもちうら)教会。五島市観光サイト「五島の島たび」の「井持浦教会とルルド」から引用し、少し手を加えると、『かつて、大村藩からの移住キリシタンが潜伏し、五島藩が塩造りの竈場で働せたという地区で』ある。明治三〇(一八九七)『年建立のレンガ造教会が台風で倒壊し』たため、平成一〇(一九八八)『年にコンクリート造の現教会となりました』。『当時の五島列島司牧』(しぼく:ローマカトリック教会・聖公会で、司祭が教会を管理し、信徒を指導すること。)『の責任者』でフランス人宣教師であった『ペリュー神父は』、明治二四(一八九一)『年、バチカンに』、『このルルドの洞窟が再現されたと聞き、五島の信徒に呼びかけて島内の奇岩・珍石を集め』、明治三二(一八九九)『年、日本で最初のルルドを作りました。この霊水を飲むと病が治ると言われ、日本全国の信者の聖地となっています』とある。ルルドにつおては、ウィキの「ルルドの聖母」を見られたい。連れ合いは、その水を飲んでいた。

 さて。
 明治六(一八七三)年二月二十四日の「キリスト敎禁敎」の高札が撤去され、江戸初期の禁教以来、初めてキリスト教が公認されている。この「明治維新」で近代日本が始まったとして、この禁教令廃止のタイム・ラグが、一般の日本人に十全に理解されているとは、私は思っていない。このラグの中で、五島列島の「キリシタン」は凄絶な苦しみを味わっているのである。
 ちょっとブレイクすると、私は高校時代、歴史の年数を覚えるのが大嫌いだったため、幼少より好んでいた「地理」(「地理B」=「世界地誌」までやった)と「政治・経済」を選択したため、後に郷土史研究で鎌倉史には、すっかりのめり込んだのだが、キリシタンの問題は、一般人の知識レベルであった。ところが、現地ガイドさんの話を聴いて、実は、複雑なグループが、今も、存在していることを、今更ながら、聴いて、勉強になった。私が了解した内容を以下に示す。
〇禁教令で、「ころんだ」で、正直に「棄教」した人々が、まず、いる。
〇次に、「ころんだ」として、仏教や神道の信者として見かけ上、「棄教」したように装い、それらの本邦の具体な宗教行事を、忠実にこなしながらも、実際には、キリスト教を内心で続けていた人々がいた。私たちは、それを安易に「隠れキリシタン」と呼んでいることが多いが、それは、間違いである。明治六年のキリスト教公認を受けて、カトリック教会に合流した人々は、本邦の歴史上の「元キリシタン」であり、カトリック信者である。
しかし、旧来の禁教としての「キリシタン」を秘密裡に信仰を守り続けた、いや、今もカトリックに合流せずに、禁教時代を通じて、本邦で形成された「隠れキリシタン」として独自信仰を守っている人々が、現におられるのであり、そうした人々が「隠れキリシタン」なのである。★しかも、それを親族にさえも全く表明していない文字通りの「隠れキリシタン」の方が、現に、今も、おられるのである。
この三つのグループ(最後の真正「隠れキリシタン」の最後に「★」以下で示した人々を別に分けるなら、四つのグループとも言えるように私は思われる)の信仰者たちの人生を考えた時、どの人々も、まさに、長い塗炭の苦しみを抱えてこられたのであった。

而して、キリシタンの人々にとって、この五島列島は、まさに、人の容易に達することが出来ない岬の先の洞窟に、はたまた、人跡未踏の山中や無人島に「隠れる場所」を求め得る――Gimme Shelter――であったのだった。……その場所も、後の写真に収めてある。なお、ガイドさんは、「隠れキリシタン」と言わず、「潜伏キリシタン」と述べておられたい。しかし、当時、そう言っていたとは、私は思われず、これは、現代の日本史学の規定した用語のように思われることから、かく、用いた。

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水ノ浦天主堂。同前のサイトの当該ページから同前の仕儀で引く。『水ノ浦の信徒は、五島と大村の藩の政策による』寛政九(一七九七)『年の外海(大野・牧野・神ノ浦)5人の男性と』、『その妻子の移住にはじまると伝えられています』。『1880年に最初の教会が建築されましたが、老朽化にともない、奥の土手を削って広げ、1938年、鉄川与助設計施工の木造の優美な現教会に改築されました。ロマネスク、ゴシック、和風建築が混合した白亜の美しい教会で、木造教会堂としては最大の規模を誇り、青空に尖塔がそびえる光景は絵になる美しさです。高台にはヨハネ五島(26聖人の内の五島出身者)の像や、弾圧時代の牢跡もあります』とある。なお、リンク先には、一枚、教会内の写真があるが、教会は祈りの場であり、内部写真は一箇所(次の投稿で示す「旧五輪教会」のみ)を除き、写真は一切、禁止である。

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 堂崎天主堂。「五島市 世界遺産の島 五島」の当該ページから引く。『1868年(明治元年)の久賀島(ひさかじま)牢屋の窄(さこ)殉教事件をきっかけに、奥浦地区でもキリシタンに対する拷問や捕縛、入牢などの迫害がおこなわれました』(☜明治初期の凄惨な事実は別に後に引用する)。『1873年(明治6年)、フレノー師が来島し、禁教の高札撤去後、五島で初めてのクリスマスミサが堂崎(どうざき)の浜辺で捧げられました』。『1877年(明治10年)には司祭が常駐するようになり、五島での本格的な司牧が開始されました。以後島内各地に小教区制度が整うまで、堂崎は五島キリシタン復活後の拠点としての重要な役割を果たすことになりました』。『1880年(明治13年)パリ外国宣教会マルマン師によって、堂崎に仮聖堂が建立されました。後任のペリュー師によって建て替え工事がおこなわれ、1907年(明治40年)に現在の教会が完成し、翌年1908年(明治41年)に祝別されました』。『当時の建築技術を物語る証しとして、1974年(昭和49年)4月9日、長崎県の文化財に指定されました』。『1977年(昭和52年)には、内部に堂崎天主堂キリシタン資料館が開設され、布教時代から迫害を経て復活にいたる信仰の歴史が展示されています』。『さらにこの地は宣教再開と同時期に、宣教師の指導のもとにはじまった子部屋と、その事業母体となった女部屋発祥の地でもあり、信仰に貫かれたもうひとつの歴史が刻まれています』とある。

 而して、「日本キリスト改革派 浜松教会」公式サイト内の「五島列島旅行記6(隠れキリシタンと五島列島の近現代史)」を、やや長いが、非常に重要な内容なので引用する。特に「2」を見逃さないで戴きたい。
   《引用開始》

1.五島列島の隠れキリシタンの歴史(江戸時代)

 五島列島に最初の隠れキリシタンが住み始めたのは、江戸時代末期の1800年ころでした。当時、五島列島を治めていた五島藩は度重なる飢饉や出生後生存率の低さから、人口の減少に悩まされていました。そこで、当時人口が石高に対して比較的多かった対岸の大村半島の大村藩に「五島列島に土地を分け与えるから移住しませんか?」という、今で言う「地方移住」の案内を出しました。その頃の大村藩としては人口が多すぎて耕す土地に困っていたこと、食糧不足などの問題から、3000人もの農民が移住を希望し五島列島に住み始めました。

 しかし、他の地域では出生率が低く、人口減少に悩まされているほどだったのに、なぜ大村藩だけが人口増加していたのか? それを知るためには、当時の農民・漁民の経済と慣習を理解する必要があります。当時の一般的な貧しい家庭においては、土地や食料が不足している場合、口減らしとして子供が殺されたり売られたりすることが横行していました。つまり、飢饉が訪れると大人の餓死者も出るが、その前にまず子供が殺されてしまう。(江戸時代における子殺しは、惨いことというよりは、狭い島国で争いを起こさずに大半の大人たちが文化的な生活を維持するために必要なシステムだと一般に理解されていたのではないでしょうか?)それに対し、大村藩の民衆たちは、いくら自分たちが貧しくても決して子供を殺さなかったために、人口が増えすぎるという状況になっていたそうです。その彼らの根底にあったのは、キリスト教信仰でした。彼らは隠れキリシタンだったのです。

 もちろん、信仰が他の誰かに知られれば、拷問と処刑は免れないため、隠れキリシタンは完全に信仰を隠しています。見た目や外での行動はすべて他の民衆と区別がつきません。踏み絵も踏みますし、神社や仏教行事にも参加します。しかし、その様な厳しい弾圧と迫害と監視の中にあっても、決して家の外には聞こえない様な口の中だけでもごもごと唱える様な祈りと賛美を、それもグレゴリオ暦に従ったクリスマスやイースターなどの教会歴に基づいたものを、口伝えで子供に伝えていた方々だったのです。

 五島列島への移住した人たちに与えられたのは、耕しやすく港を作りやすい土地はすでに元からの住民がいるため、山間の狭い耕しにくい土地や、波が荒く港を作りにくい、漁業に向かない海のそばばかりでした。それでも、厳しい弾圧から逃れられる、自分たちの土地が手に入る喜びから、一生懸命開墾したそうです。

 そのため、今でもわずかにある平野部は仏教徒が、住みにくい山間部や崖のような斜面、狭い峠を越えた狭い湾のそばにはクリスチャンがという風に集落が分かれていました。

 

2.キリシタン弾圧時代(明治時代最初期)

 1865年(慶応元年)に長崎浦上での信徒発見以降、五島でもキリシタンたちはは次々と信仰を表明した。しかし、キリスト教は禁教のままであったために、この信者たちは投獄され拷問に掛けられるという弾圧にあった。五島列島でも久賀島では、6坪の牢屋に約200人のキリシタンが8ヶ月も収容され、40名以上の方々が亡くなりました。

 この他にも多くの悲劇的な弾圧が長崎を中心に起こり、それらが神父たちによってヨーロッパに伝えられると、日本は各国から非難を受けるようになり、1873年(明治6年)になって、ようやく明治政府はキリスト教の禁教を解きました。

 

3.隠れキリシタンからカトリック信者となった後の歴史(明治初期~昭和)

 この時代は一言で言うと、五島列島における「会堂建築期」です。

 18732月、キリシタン禁制の高札が撤去され、信仰が黙認されることになると、澤二郎らがパリ外国宣教会フレノ神父を長崎へ迎えに行き、ついに念願の神父来島が叶います。フレノ神父の堂崎での野外ミサには、1000人を超える下五島各地のカトリック信徒が船で集まったといわれています。以降、宣教師と伝道士らの協力によって、潜伏キリシタンのカトリックへの復帰が進められていくのです。1877年からフレノ神父やマルマン神父たちは長崎から五島列島の巡回司牧に訪れます。1880年からは五島列島を2地区に分け、下五島をマルマン神父、上五島をブレル神父が担当し、常駐して巡回司牧に努めます。1888年堂崎に着任したペルー神父は、1893年から五島の主管者(司教代理)に任命され、全五島を巡回して司牧宣教に尽くします。このころから、1879年の大泊教会の仮御堂にはじまり、1880年堂崎に小聖堂(現教会は1907年建立され県指定有形文化財)、1881年には浜脇教会(現在旧五輪教会堂として1931年に移築され国指定重要文化財)、1906年江上天主堂(現教会は1918年に建立され国指定重要文化財)、上五島地区では1878年青砂ヶ浦教会(現教会は1910年に建立され国指定重要文化財)、1882年江袋教会(現教会は火災による焼損を2010年、創建時の姿に復元修復され県指定有形文化財)、1887年頭ヶ島教会(現教会は1917年に建立され国指定重要文化財)など、その他各集落に教会堂は建設されていき、潜伏キリシタンのひそかな祈りから、カトリック復帰によって、祈りが目に見えるものになっていきます。その前後で、日本は数々の戦争を経験し大変な時代ですが、教会を建造するために、生活の厳しい中でも、信者によって多くの献金が集まりました。さらに、宣教師の本国の私財や外国の信仰を同じくする方々からの善意の寄付が集まってきました。宣教師の設計や指導の下、信者の労働奉仕や鉄川与助など日本人大工の施工によって多くの教会が建てられていくのです。五島全域に現在50、下五島には21の教会があります。過疎化の進む下五島にも、かつて28の教会がありました。五島のカトリック信徒の人口は、2013年には8,995人で、五島総人口の約14%を占め、その中で五島市には3,275人と、五島市の総人口の8.3%を占めます。ちなみに日本全国でのカトリック信徒の人口割合は0.3%です。データのように五島列島は、日本の中でもカトリック信徒人口割合が最も高い地域です。このように、五島列島には、250年にも及ぶ禁教での迫害の歴史をこえ、真摯に信仰を伝え続けたキリシタンの歴史が最も深く刻まれています。現代においても真摯な信仰が伝えられ、世界で唯一無二となる歴史を刻み続けているのです。

   《引用終了》

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堂崎天主堂への道にある「りんご岩」(旅行者が勝手につけたもの)周辺を観察したが、どうも、残念なことに、五島の海浜は「磯枯れ」傾向が認められ、何らの海岸動物を見ることが出来なかった。以下は、昼食をした「高浜ビーチ」も、一見、陽光が輝いて美しいのであるが、砂浜の脇の岩礁の生物相は全く確認出来ず、漂流ゴミもひどかった。今回の旅で、これだけは、甚だ残念だった。 

五島列島の旅(1) カットッポの夜

電子化注が、なかなか難物であったために、五島列島の旅(ツアー:11月5日~8日)の画像を示すのが、遅れてしまった。月が替わってしまう前に示すこととした。画像は総て連れ合いが撮ったものである。

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福江島の落日
プロペラ機畿内から


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福江の空港に着く

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五島コンカナ王国(温泉有り)の私たちのロッジ

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敷地内から見上げるスーパー・ムーン

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 これが、夕食。ツアーの事前の予定で、ハコフグ(フグ目フグ亜目ハコフグ科ハコフグ属ハコフグ Ostracion immaculatus 。現地では、「カットッポ」と呼ぶ)で、最も楽しみにしていたのだが(ハコフグは未体験であった)……確かに、左に添えてあるのは、ハコフグであった。ところが、横にある料理長のメニューを見たところが、「箱河豚とウマヅラハギの味噌焼き」と書いてあった(正確には、「噌」は(つくり)が「曽」となっている)ので、海産フリークの私は、「おかしいぞ! これは、ハコフグじゃない!」と連れ合いに小声で言った。本来の「カットッポ」は、このハコフグの中に、ハコフグの肉を叩いたものを味噌焼きにしたもので、供されるからだ! 失望した。終わってロッジに帰る時、シュンとしている私を見て、連れ合いが、係の人に何やら、訊ねていた。而して、ニッコリして戻ってきて、「明日の夕食でハコフグをオプションで出して呉れるそうよ💖」と言った。歓喜乱舞した!

 さても。翌日の夕食が、これだ!💖!

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 嬉しい私の蘊蓄が始まった。……「ハコフグはテトロドトキシンは持っていないけど、体表面にパフトキシンという毒がある。でも、それは、焼いた時の熱で毒性は消えるんだ……でも、肝臓や卵巣は外しておく。食べちゃ、ダメ……」てなことを、言った。ところが……すぐ横に、ツアーの夫婦がいた。その奥方が、ずう~っと、私の話を聴いていたのである……ちょっと悪い気がした。……そう! 他のツアーの、恐らく方々の大方は、前日の料理がハコフグだと思って食していたらしいのである。……確かに、「箱河豚」ってかいてあったもんなぁ……しゃあないなぁ……やっぱ! 「カットッポ」万歳! だった!!!

2022/10/16

昨日クルーズ 第二海堡到達

昨日は、親友のヨットで、クルーズ、念願の第二海堡に到達、その沖で昼食を摂り、往復、六時間足らずで、無事、ハーバーへ帰った。浦賀水道の巨大タンカーの混雑水域で、行きと帰りに警告の汽笛を受けたが、久し振りに、とても楽しかった。

Google-map
グーグル・マップから私がトリミングした第二海堡
Jps
親友のスマホGPS画像(以下、親友の撮影)
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帰途、安全海域で梶取(右は妻)

2020/09/02

遠い昔の僕

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小学校二年生。麻疹(はしか)に罹って治った直後。恐らくは真鶴。手に持っているのは「森永ミルクキャラメル」――
(本当はね、もっと前の豊島園で撮った写真をアップしたかったのだけれど――見当たらなかったの…………)

2016/10/17

祖父遺品の絵葉書から――中国絵葉書七枚

Kosintei


Musyaku


Ssyu


Shanghai


Tinkou


Kousyu


Nankin

[やぶちゃん注:縦型の一枚画像の「上海舊城内湖心亭」の一枚を除き、他の六枚は表の使用が完全に一致し(総て赤字印刷で上部に右書きで「郵便はがき」、切手塗布欄内に「軍事郵便」、中央区分線も赤の波線)、裏の写真のコンセプトもほぼ完全に一致していることから、同じセットの絵葉書と考えてよい。これら六枚の各写真は総て古き良き中国の名勝を写しているにも拘わらず、「南京」の一枚を除き、その間に、戦車と複葉戦闘機(「無錫」)・複葉戦闘機二機(「蘇州」)・戦闘機二機(「上海」)・重装備歩兵二名(「鎭江」)・日章旗(「杭州」)のコンテ画を配していて見るにおぞましい。]

祖父遺品の絵葉書から――「戰役紀念」(日露戦争絵葉書四種)

 

[やぶちゃん注:四枚の内、二枚(左下に雪の積もった木の上で歩哨する写真のあるものと沙河(さか/しゃか)会戦の右に双眼鏡の絵が添えられたもの)は表が全く同じ仕様なので、同じ絵葉書セットであった可能性が強い。なお、日露戦争は明治三七(一九〇四)年二月八日~明治三八(一九〇五)年九月五日に終了している。以下は総て、日露戦争勝利後の戦勝絵葉書類と思われる。


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「戰役紀念」縦型一枚

上部に消印を真似た印刷で「明治卅十八年戰役陸軍会戦觀兵敷紀念 39・4-30東京」(他英文)とあり、下部に軍艦の絵、上に観兵式の絵が載る一枚は、表は左手に「CARTE POSTALE」(フランス語で「葉書」の意)、下部に「信陽堂分工塲発行」(「発」はママ)とあるのみ。



Saka

「戰役紀念」日露戦争の沙河(さか/しゃか)会戦の一枚

右書きで「沙河會戰中第三司團司令部」(同英文)とキャプション。表は切手塗布位置に一行で「軍事郵便」、その下に英文で「CARTE POSTALE」、下部に右書きで「逓信省發行 東京印刷株式會社製」(他に二ヶ所に英文があるが、特に特異なものではないので略す)。

「沙河會戰」は日露戦争に於いてロシア陸軍が日本陸軍に対して行った反撃により始まった会戦。ウィキの「沙河会戦」によれば、この戦い以降、冬季に突入し、『沙河の対陣と呼ばれる膠着状態に陥った』。『会戦の契機はロシアがロシア満州軍をアレクセイ・クロパトキンのみの指揮下であったものを、グリッペンベルクとクロパトキンの二頭体制に移行させる決定をしたことである。この決定に不満のあるクロパトキンは日本陸軍を攻撃して威信を示そうとした』。十月九日『にロシア軍の攻撃が始まり、それを日本陸軍が迎撃するという形で戦いが始まった。日本陸軍はロシア軍の攻撃を察知したので、圧倒的な兵力差がありながらもロシア軍に対して効率的な防御を行い、大きな損害を与えた。それから日本軍はロシア軍に対して攻撃を仕掛けたため、ロシア軍は沙河北岸に退却した。日本軍はさらに攻撃を行おうとするもロシア軍の反撃を受けて退いた』。『満州軍は弾薬がつき、大本営は旅順攻囲戦を遂行するために優先して弾薬をそちらに送ったことと、冬季に突入して軍隊行動が困難となったことから満州軍は塹壕で次なる攻勢機会を待つこととなった』。(同会戦の終結は十月二十日とされる)。『なお、この会戦に於いて特筆するべき存在としては梅沢道治少将率いる近衛後備混成旅団(俗に言う「花の梅沢旅団」)がいる。近衛後備混成旅団は後備兵(予備役)の兵士たちによって構成された二級部隊ながら、梅沢による卓越した指揮の下、最前線に於いて精鋭部隊に劣らぬ猛烈な奮戦を見せ、勝機の一端をも担う活躍を見せた事で現在にその名を残している』とある。


Nitiro2

「戰役紀念」日露戦争の運河と雪の樹上の歩哨のショットの一枚

上部の写真キャプションは右書きで「運河ニ據ル我歩兵戰」(同英文。「據ル」は「よる」と読む。表は切手塗布位置に一行で「軍事郵便」、「軍事郵便」の下に英文で「CARTE POSTALE」下部に右書きで「逓信省發行 東京印刷株式會社製」(同前。前とこの一枚が同一のセット物の二枚と考えられる)。

下部の写真キャプションは右書きで「積雪樹上ノ我展望哨」。



Kouryokukounohousen

右下に騎馬と歩兵と野戦砲の絵の入った、刳り貫き画に写真を合成した一枚

左端に縦に「鴨綠江ノ砲戰」(他英文その他)。これは表は切手塗布位置に一行で「軍事郵便」とある他は、上部の右書き「郵便はがき」と「軍事郵便」の下に英文で「CARTE POSTALE」とあるだけで、上の二枚のようなごちゃごちゃとした他の英文は印刷されていない。]

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