『散文詩』を讀む人々のために(註釋の第二として) 生田春月 /「ツルゲエネフ(生田春月訳)」全電子化~了
『散文詩』を讀む人々の
ために(註釋の第二として)
譯 者
此の老年の憂欝と未だ消滅せざる靑春の若々しさとのあやしく織り交ぜられてゐる美しい哲學、深遠な詩のエッセンスたる小さな力ある書物は、ツルゲエネフがその晚年の五年間(一八七八年――八二年)に、自身の並びに社會の日常生活を觀察し思考するの餘、折りにふれてそのノオトに書き留めて置いた寫生や空想や考察の中から、五十篇だけを選んで、一八八二年、露西亞の大雜誌「歐羅巴の使ひ」(ウエストニク・エフ口ピイ)の十二月號に於て發表したものである。その主筆のもとに送られた原稿には、もと何等の題も指定されてゐなかつた代り、その表紙に覺え書きめかしく“Senilia”と云ふ一語が書き流してあつた。これは羅甸語で老衰の義である[やぶちゃん注:底本は「考衰」であるが、誤植と断じて特異的に訂した。]、されば鷗外陣士もこれを「耄語」と譯してゐられたやうに覺えてゐる。獨譯者ランゲは云ふ、ツルゲエネフは人も知る如く、極めて謙遜な人である、それ欽この過謙の語を書き記したものであらうが然しこの作品には最も適當しないものである、何故と云ふのに。これには精神的老衰の痕跡すらも認められないからであると。そして彼は前記雜誌の主筆スタシユレヰツチが、作者の手紙の中に記されてゐる「散文詩」と云ふ言葉を、此の無韻ではあるが眞に詩的な考へ深い作品の表題に定めたのを頗る當を得た處置だと云つて、自らその名によつて獨譯を發表した。此譯にも散文詩の名を棄て得たかつたのは、それが既にこの名によつて一般に知られてゐるのと、今一つは散文詩なる文字に對する一種の愛着からであつた。けれども、ツルゲエネフがもとかの非常な謙遜な題を眼中に置いてゐた事だけは述べて置く必要があると考へる。
ツルゲエネフはその原稿に添へて、スタシユレヰッチに與へた手紙の終りに左のやうに記してゐる、『……讀者が此の「散文詩」を一息に讀過しないようにと望みたい。でないと、その結果は恐らく退屈を來して、――そして「歐羅巴の使ひ」はその手から取落されてしまふであらう。むしろ一篇づゝ讀んで頂き度い、今日はこれ、明日はあれと云ふ風に――さうしたならば、多分その中から何物かがその胸に刻み込まれるであらうと思ふ……』と。全く、このやうな作品は一度や二度卒讀したのみでは十分でないのである。靜かな瞑想の中から生れたものは、また靜かに落着いて味はれなければならない。
この集に對する大思想家及び大批評家の批評。
クロポートキンは云ふ、『これは一千八百七十八年以降、彼の私生活もしくは公生活の、種々の事實から受けた印象に基いて書き留めた「飛ぴ行く思ひつき、思想、影像」である。これらは散文で書いてはあるが、優れた詩の眞の斷片であり、或るものは眞の寶玉である。或るものは深刻な剌戟を與へ、優れた詩人達の最もよい詩の樣に印象的である(「老婆」「乞食」「マーシヤ」「何と美しい、何と鮮かな薔薇だらう」)。而も一方には(「自然」「犬」)ツルゲエネフの哲學的思想を何よりも明かに語つたものがある』(田中純氏の譯による)
ブランデスはこれを『立派な散文集』と嘆賞し、その「自然」を引き來つて、ツルゲエネフが沈欝の特性を認め、ゴオゴリ、ドストエフスキイ、トルストイと比較し、『獨りツルゲエネフは哲學者である』と斷じ、また云ふ、『抒情的な、空想的な一要素がそれらの中に最も詩的に閃いてゐると云ふ事を除いては、同樣に靑年時代の諸作より□[やぶちゃん注:脱字。「遙」或いは「更」か。]に深い憂愁を含んでゐる。此處に、最後に、彼は生の祕密に面して、それを小止みもない悲しみの中に象徵や幻影を以て設明してゐる。自然は頑固で冷淡である、それならば人をして受することを怠らしめるな。此處にはツルゲエネフが、ハムブルグからロンドンヘの寂しい旅行中、哀れな、いぢけた、鎖に繋がれた小さい猿の手をとつて一時間も坐つてゐる場面がある――此處には如何なる信仰書に於けるよりも更に眞實の信仰がある」(瀕戶義直氏の譯による)
この小册子を讀んで先づ目に附くものは、作者の厭世思想である、それは最も深酷なニヒリズムである。人間の微小を二巨山によつて語らしめた「會話」、その宿命觀を披瀝した「老婆」、一瞬に於て人生の無常を觀じた「髑髏」、特にブランデスをして『ツルゲエネフにとつてはそれは、人類の理想は――正義も、理性も、優越も、善も、幸福も――悉く自然に對しては無關係の事である、そして決してそれ自身の精紳力で確立するものではないと云ふ事を理解した思想家の沈欝である』(瀨戶氏譯)云はしめた「自然」、それに老年の悲愁を託した「老人」、「明日は明日は」、「何を私は考へるだらう」。そして彼は常に常に死と云ふ大問題にはへつて來る。そして「世界の旅り」をさへ夢みてゐる。けれどもそれが何故激烈に心を打擊しないであらう? 何故にかくも溫かく柔かく心に沁み込むであらう? 何となれば、それは驚くべく沈靜な悲哀であるからである。[やぶちゃん注:この末尾は読点であるが、特異的に句点に訂した。]
それはやはらかな少女の手のやうに撫でさすり、薄暗に於て靜かな落着いた聲音で囁くからである。また眞理に美くしい衣裳を纒はしめてゐるからである。(赤裸の眞理は決して人の心を動亂させないでおくものでない)とりわけ彼の厭世思想を特徴づけてゐる愛の教の爲めである。溫かい慈悲と慈愛の心のためである。たとへば、「乞食」、「雀」、「海上にて」、「鳩」。
プウルヂエは云ふ、『彼の厭世思想はしばしば誠に强かりしも甞て人嫌に至れることはなかつた。思ふに、彼は方に斯くの如く人嫌と當然なるべきであつたらう、凡て厭世思想は、理想と現實との對比なる自然に對する呪咀なれば。然して一面に思想は人心の所產物なる故に、論理的に云はば、此の世を呪咀する權利を得んためには、此の心を激昂せしむるを要すべし。されど彼は決して斯くの如きことはなかつた。……彼は厭世思想家にして然も慈愛に富める人である。凡ての存在物が宿命的に老衰する樣は、彼をして致命の罪に處せられし可憐なる生物を、無辜の犠牲者なりと訴へしむるに至つた。……かくてツルゲエネフは其の作を靉靆たる慈愛の衣を以て包むに至つた。此れまさにその愛を捧ぐる女がその生涯の癒し難き不幸を語るその告白に面せる戀人の心の如くなるべし」(山田手捲氏の譯による)
ブリュクネルは云ふ、『彼の厭世思想は後に至つてはじめて内面外面の經驗からして形成されたものではなく、彼に生得のものなのである。その上、その非常なる教養が更にそれを助成した。しかもその知識たるや。たとへばベリンスキイの如きかき集められたものではないのである。……其處に人道的精神が加はつて來る――曾て靑年時代にバルザックが彼を親しましめなかつたのに反して、ジヨオジ・サンドが彼の崇拜を受けたのもその精神のためである。』
ツルゲエネフは人間の醜惡と痴愚と利己主義とを深く感じて悲痛の思ひに打たれた。その感情が反語となり機智となりユウモアとなつて現れたものが「滿足せるもの」、「處世法」、「愚物」、「エゴイスト」、「友と敵と」、「神の饗宴」などであるが、然し彼は、溫厚なる彼は、それをも堪へようとする、『私を打て、然し健康に幸福に生きよ!』と言ふことが出來るのである(愚者の審判)。ウレフスカヤと共に何人(なんぴと)に感謝されなくとも怨むことをしないのである。
この外、この集には蜂蜜も鋏けてはゐない。それは最も詩的で、薔薇の香りのやうに喜ばしい。「薔薇」、「おとづれ」、「空色の國」(幸福の領と譯した方がいゝかも知れない)。然しそれらもまた憂欝な黑い帷に織り出されたる薔薇の花である。
ツルゲエネフの晚年は、あゝ何等の苦痛、何等の孤獨! 彼は丁度かの獨逸の薄倖なロマンチシスト、彼が靑年時代に心醉してゐたかのハインリヒ・ハイネと相似たる運命に遭遇した。丁度同じ巴里で、丁度同じ death-in-life を彼は送らねばならなかつた。痛風だと思はれてゐたか實は頑强な病氣、脊髓の癌腫のために癈人のやうになつて、最後の數年間――丁度彼がこの散文詩を書いた時分である――を、ハイネの所謂蒲團の墓の中に橫はらねばならなかつた。そして彼は絕間なしに考へた、瞑想した、夢想した、囘想した、常に人生の謎に面して、人生の最後の大きな謎、――死に相面して。それ放に此悲痛な詩篇! 然り、この詩篇を讀む人は、この作者がかゝる境遇にあつたことを考へなくてはならない。彼が多年敬愛してゐて、その遺產の相續人に定めたヴィアルドオ夫人、彼のために無くてはならぬ人であり、彼に對して骨肉も及ばぬ世話を見てくれたそのヴィアルドオ夫人すら、後にはさまでの注意を彿はなくなつたのである。そして彼は孤獨に、愈々孤獨にその二二階に寢てゐたのだ。この事を想うてこの作品に對する時、一層力强く動かされずにゐられない!
ツルゲエネフは、この五十篇を發表した翌年、卽ち一八八三年にその第二の故鄕なる巴里で逝いた――年は六十五歲であつた。
ツルゲエネフの言葉の中でも、とりわけどうしても忘れ去ることの出來ない二箇を終りに添へて置きたい。
『人生は冗談ではない、慰みではない、勿諭快樂ではない……人生は重い苦痛である。放棄(あきらめの義)、永久の放棄――それが人生の祕義である。鍵である』フアウスト『人生はただ人生のことを思慮せず、そして人生より何物をも要求せずして、安んじて人生が附與する僅少の賜物を受け、安んじてその賜物を利用する人を欺かない。汝は出來るだけ前に進め、しかし足が疲れたなら路傍に坐して、悲むことなく、また猜む[やぶちゃん注:「そねむ」。]ことなく、通行者を眺めるがよからう、彼らも遠くは行くまい……』通信 (昇曙夢氏譯による)
――了――
[やぶちゃん注:「然り」は原典では「○」(特異的に大きな丸印)の傍点。今までの注の「ヽ」の傍点を太字としていたので、かく差別化しておいた。注は附さない。なお、本文中で一部の個所のポイントを落としてあるが、無視した。
以下、奥附。罫線や一部記号を省略、字配・ポイントは一致させていない。]
大正六年六月十三日印刷
(定價金五十五錢)
大正六年六月十八日発行
[やぶちゃん注:印刷日は「十三」の「三」を手書きで「二」に訂正してある)]
散 文 詩
[やぶちゃん注:以上の書名は横書(右から左)で左右を▲の一辺で挟んである。]
著 作 者 生 田 春 月
發 行 者 東京市牛込區矢肅町三番堆申の九
佐 藤 義 亮
發 行 所 東京市牛込區矢來町三番地
新 潮 社
八〇九番
電話■町
八九九番
[やぶちゃん注:「■」は字が擦れて判読不能。「番」か。以下振替は横書(同前)。]
振替(東京)一七四二番
印 刷 所 東京市神田區宮本町五
電話下谷、四〇六七番
新潮社印刷部
印 刷 者 高 橋 治 一