サイト開設十八年記念(三日フライング)松村みね子名義/片山廣子「芥川さんの囘想(わたくしのルカ傳)」全面改訂
サイト開設十八年記念として、三日、フライングして、私の偏愛する一篇、松村みね子名義の片山廣子「芥川さんの囘想(わたくしのルカ傳)」の正字不全の修正とルビ化をし、全面的に書き変えた。なお、その私のそれへのオリジナルなブログでの注記『松村みね子「芥川さんの囘想(わたくしのルカ傳)」イニシャル同定及び聊かの注記』も、一部、追加したので見られたい。
サイト開設十八年記念として、三日、フライングして、私の偏愛する一篇、松村みね子名義の片山廣子「芥川さんの囘想(わたくしのルカ傳)」の正字不全の修正とルビ化をし、全面的に書き変えた。なお、その私のそれへのオリジナルなブログでの注記『松村みね子「芥川さんの囘想(わたくしのルカ傳)」イニシャル同定及び聊かの注記』も、一部、追加したので見られたい。
[やぶちゃん注:底本は国立国会図書館デジタルコレクションの室生犀星著「魚眠洞隨筆」(大正一四(一九二五)年六月新樹社刊)の「日錄」パートのここから始まる「碓氷山上之月」を視認して電子化した。
傍点「﹅」は太字とした。なお、本文中に四ヶ所出る「妹」は活字は孰れも「妺」であるが、「妹」に代えた。
注したいことがゴマンとあるのだが(無論、芥川龍之介と松村みね子=片山廣子に関わる部分で)、今回は急に思い立って仕儀であったので、躓いた箇所にのみ、語注を附すに留めた。]
碓 氷 山 上 之 月
ぽつたりと百合ふくれゐる株の先
その百合の花が一本に四つの花をもつてゐる。四つといふ數はきらひである。それゆえその一つを剪つてしまふ。ところが最う一本の百合にも四つの蕾がふくれてゐる。やはり剪ることにした。
澄江堂はとなりの襖を隔てた部屋で、予は入口の方に室を撰んだ。窓の前に小さい池があつて噴水がのぼつてゐる。筧に穴をうがつてあるところから一間くらゐの水が輪のやうに池の面を敲いてゐる。まるで誰か小便をしてゐるやうで、見てゐるのが呼吸苦しくなる。……
澄江堂と襖一重ではあとになつてお互ひ窮屈にならぬかと思ふ。澄江堂は君さへよければ關はぬといふ。しかし君にどうかといふ。なるべく隣室でない方がよいけれど、室がないからお互ひにがまんすることに仕やうといふことになつた。(大正十三年八月三日、七十九度)
×
朝六時に起きる。散步してかへつて來ても澄江堂はまだ床にゐる。が、とくに眼をさましてゐるらしく起きて出てくる。……」
「あゝよく寢た。……」
と云ふ。よく寢たらしい顏附である。
澄江堂はパンとミルクの朝飯だが、予はあたり前の朝のおぜんである。この宿に五十幾人かの避暑客はゐるがみんなパンとミルクの朝飯である。日本食は予ひとりくらゐださうである。パンとミルクで朝飯をたべると茶がうまく飮めない。も一つはパンとミルクで朝飯をすますと朝飯のかんじがしない。あれは朝寢坊のたべものだらうと考へた。
「この宿にゐる間だけパンとミルクにして、家へかへると日本食ぢやないかな。」
さういふと澄江堂はたいがいさうだらうと言つた。
「けふたつちやんこが來るが、別の室をたのんで置いた。」
「たつこちやんが來たらホテルヘ行つて飯を食はう。」
たつちやんこを聞きちがへてたつこちやんと澄江堂はいふ。たつこちやんは少しをかしい。その辰ちやんこは此間から予の鄕里の家で泊つてゐたのだが、予が輕井澤へ行くのと一日おくれて歸京するので、こゝヘ途中下車をして一泊することになつてゐるのである。
「風蘭や暑さいざよふ石の肌はどうぢや。」
澄江堂はいつの間にか予の田舍訛を覺てしまつた。が、また、「どうも上の句がしつくりしないな。」さう言いて、「石菖や暑さいざよふ……これもいかん。」と言つた。
「藤棚や暑さいざよふ……これもいかん。」
澄江堂は七へんばかり上の句をなほし、たばこをすぱすぱ喫つてゐる。「日盛りや暑さいざよふ……これもいかん。」と言つた。かれはいかんいかんを續けなりに言つた。
午扱、堀辰雄君來る。そして家の方で、昨日朝子が乳を吐いて一日泣き通してゐたと言つた。又かと思ふ。心すぐ暗くなる。
「消化不良だね、よく注意しないといけない。葉書でも出しときたまへ。そばにゐるやうに力になるものだよ。」
澄江堂は濕布その他の手當の話などをした。
晚、輕井澤ホテルヘ三人で行く。すぐ脇隣りに岩谷天狗のやうな西洋人がゐて、四合入の牛乳の甁を控ヘビールのやうにどくどく飮んでゐた。
「あれをみんな飮むつもりか?――」
予は尠なからず恐怖した。
「君、ちやんと聞いてゐるよ、あつち向いてゐてもね。」
澄江堂はしつしつといふやうな顏をる。……なるほど、田舍へ行つてから聲が大きくなつた矢先きだし、あわてて予は緘默した。
西洋人は予らが食卓を離れるまでに完全に牛乳の四合入りを一滴あまさすに飮んでしまつた。予はいまさらに世界地圖に一覽を與へたやうな悠大な氣がした。
喫煙室に坐つてゐるうち去年見た西洋人が泊つてゐないことに氣がついた。三人の子供に順繰りに本をよんで聞かせてゐた美しい異人の母親は來てゐなかつた。外へ出てから予は辰ちやん子に囁いた。
「去年とはさびしいやうだね。」
「そんな氣がしますね。」(四日、七十六度)
×
マンペイホテルヘ茶をのみに行つた。暗い木の茂みが橋の上をつつんでゐるところで、予は突然右の人差指がこの冬ぢゆう痺れてゐて、溫かくなつて癒つてゐたが二三日中に急にそのしびれが冷氣のために來てゐるのに氣づいた。
「これが君、またしびれ出して……」
さう言つて人差指をさし出すと、澄江堂はわつと言つて吃驚りした。
「ああびつくりした。こりや――」
葉のこまかい枝が夜ぞらに恩地君の版畫のやうに浮き出してゐる。「怕かつた――」と言つて吃驚したのぢやないと言つた。
散步からかへつてから松村みね子さんが室の前を通つて、お寄りになる。去年おあひをしてから話をするやうになつてゐる。それもいつも輕井澤だけである。
あとでお菓子を松村さんに持たせてやる。
辰ちやん子歸京。(五日、七十五度)
×
朝、あんまをとる。
澄江堂は仕事をしてゐる。あるだけの戶を閉めきつてゐる。予は開けてゐるが反對である。それから予は晚は九時には床にはいるが、澄江堂はたいがい一時ごろ寢るらしく、起きてゐるのか寢てゐるのか分らないほど靜かである。
松村さんから大きた栗饅頭六つ、紙に包んで女中にもたせて來る。手のひらくらゐある大きさである。澄江堂はその大きなのを一つ晝飯後にたべる。一たい食後にすぐ菓子をたべるのは胃によくないと言つたが、いつのまにか食べるやうになつた。予が國から持つて來た金玉糖を一つづつ食べるやうになつたのは、甘好きの澄江堂の風習がうつつてしまつたのらしい。
楓と鬼齒朶のかげから朝日グラフの記者がひよつこり顏を出して、ぱちつと二人の寫眞を撮つた。――それから向ふの座敷にゐる兄妹と母親との一族の、その兄らしい少年が散步からかへつてくると、澄江堂をぱちつと撮つてゐた。そのおれいに罐詰の水蜜桃が澄江堂へと持つて來た。予を閉却するも甚だしい。が、水蜜桃だけは一つ食べた。[やぶちゃん注:「そのおれいに罐詰の水蜜桃が澄江堂へと持つて來た。」はママ。「そのおれいに罐詰の水蜜桃を澄江堂へと持つて來た。」の誤字か誤植であろう。「閉却」もママ。「閑却」の誤植であろう。]
その少年の妹さんはべつぴんである。かの女はいたづらに椽側へ靴下の足を投け出してゐるのが、予の机の方から見えた。れいの「暑さいざよふ」敷石のまはりの芝をけふは手がけをかけた里女が刈つてゐる。その遠景にまつつぐに一とすぢの噴水が今日から上がつた。その芝と噴水との景色はよかつた。予はしきりにほめたが澄江堂は默つてゐた。しばらくしてから、
「なるほど、いいな。」と言つた。
そしてまた暫らくしてから「僕はちよつと睡るからね。」と言つて睡いかほをした。昨夜二時に起きて小用を達しに行つたら、かれの部屋のひらきが椽側の方へ二尺ばかり開いて、濛濛たる煙草のけむりの中に端然と坐つて仕事をしてゐた。予は默つて小用を達して睡つたのである。それゆえ[やぶちゃん注:ママ。]睡いのであらう。――
二時間ほどすると洗面したやうにさつぱりした眼つきをして、
「ああよく寢た。」
と言つた。
晝寢のできない予はこのああよくねたは羨しかつた。睡たいときにはほろりと睡れるらしいからである。
「ほんとによくねたよ。」
夜、マンペイホテルヘ飯をたべに行く。樹の間透く電燈が美しい。食卓のもう一つ向ふの食卓にひとりの美人が家族に交つて坐つてゐた。笑ふと白い齒が揃つてそれが屈託なささうに淸潔な感じをさせた。
一年間西洋人を見なかつた田含ぐらしの予の眼に、西洋人が珍らしかつた。一たい輕井澤は妙に上品振つてきらひである。しかし凉しいのは好きである。ことしは西洋人が見られるのが一つよけいな樂しみになつた。
「谷崎君が好きかも知れない。」
澄江堂はかう言つたが、予は春夫はどうだらうと言つた。そして予はまた、春夫は苦情なしにはここに居るまいと思つた。(六日、七十六度)
×
朝起、冷たい雨を見た。
椽さきの山百合が雨垂を含んでうなだれてゐる。家からの手紙に朝子乳吐くことと、東京から遊びにきてゐるひろちやんの耳の中へおできができた、多分、水泳のためであらう、なるべく早くかへれとあつた。予はまた心欝した。
澄江堂起きてくる。――
「夏に子供をあづかるのは考へものだ。」
さう言つた。
なるほど考へものであると思つた。[やぶちゃん注:一字下げ無しはママ。誤植であろう。]
二人で食事をするのは每度のことである。しかし予はまだ澄江堂が洗面をせずにゐることに注意を拂つた。が、かれは平然と箸の先きで木つつき鳥のやうに半熟の卵のからをこくめいに叩いて、その破れたところから剝ぎはじめた。洗面をせすに飯をくふつもりらしい。飯が終つた。
「据風呂に犀星のゐる夜さむかな、はどうぢや。」
「ひととほりはいいな。」
かれの脊中は形よい小ぢんまりした肉をもつてゐる。ちよつと鮎の感じがあるなと思つた。かれは湯をあびながら、
「けさ顏を洗ふのを忘れてしまつたよ。」
さう言つて洗面した。「僕はちやんと知つてゐたんだが默つてゐたんだ。」さう予は言つた。
午後、部屋にこもつて苦吟してゐるらしかつた。それが二三日前から烈しくなつたやうな氣がした。
夕方、裏門きはの女中部屋の戶板に向ひ、立つたままで女中のお雪が泣いてゐた。――色も白く浴衣も白い名もお雪といふ此の女中は、どこかの小間使ひをしてゐたので能く料理番なぞに叱られると聞いてゐたが、可愛さうな氣がした。
「さつき百合が泣いてゐた。……」
「可哀さうにいぢめられるんだね。――」
澄江堂と予とはこの女を百合と言つてゐたのである。百合は一日くらゐ客の間の世話を燒くと、つぎからつぎへと新手の客に代へられた。(七日、七十八度)
×
雨になつて雷嗚がした。次第に烈しくなる。……いままで靜まり返つてゐた澄江子は何か叫びながら、玄關さきの應接間へ飛んで行つた。予は折柄、あんまをとつてゐたが、療治はもう終りかかつてゐたけれど、澄江堂が馳け出してから少し怕くなつた。それにまだ肩先きにあんまが薄暗く取りついてゐる。――
「大丈夫か、あんまさん。」
「ぴりぴりと來る奴はあぶなうござんすが、まだごろごろくらゐでは大したことはありません。」
「だんだん烈しくなる。……」
「しまひにぴしつと來ます。そいつは恐いが……」
雷鳴が次第に近くなつた。雨は底ぢゆうに溜つた。池の水があふれた。
「もう止すよ、君!」
予はあんまを止めてもらつた。そして、「君はこの部屋にゐても大丈夫かね。」とさう尋ねた。
「なあに雷くらゐは――」
予は應接間へ行くために庭の雨の中を走つた。應接間には松村さん、そのお孃さんが、もう避難してゐた。澄江堂も神妙に椅子によりながら、酷いかみなりだなあと言つて、氣がついたやうに、
「君、あんまはどうした。」
「置いて來た。」
予は椽側に泰然と坐つてゐた先刻のあんまさんの姿を、勇勇しく思ひ返した。
「置いて來たは驚いた。……」
松村さんもびつくりしたやうな顏をした。
「かあいさうに――」さう言つて、女中にあんまさんをつれて來ておあげなさいと言ひつけられた。
「あんまは大丈夫だと言つてゐましたよ。」
「でもね、こんなに降つてゐるんですもの。」
お孃さんもさういふ。が、かみなりはやまなかつた。稻光りがするごとに松村さんのお孃さんが、
「おかあさま、大丈夫?――。」
怕さうにさう言つた。
晚、松村さん、お孃さん、大學へ行つてる坊ちやん、澄江堂の四人で散步をした。大學ヘ
行つてゐて坊ちやんはをかしいと予は松村さんに言つた。松村さんと予との間に風月論が出た。澄江堂は松村さんに議論を吹きかけた。松村さんは穩やかな人である。(八日、八十度)
×
はじめ澄江堂と襖合せではおたがひに仕事の都合がわるくないかと思つたが、一しよにゐると澄江堂といふひとはよくできた人物だと思つた。却つて襖どなりでお茶にしやうかとこちらで言ふと、又、向ふから少し步かうかと言ひ、すこしも氣が置けなかつた。晚、予は予の規則をまもるために九時半には床へ這入つたが、澄江堂は應接室へ行つてかへつてくるのにも、靜かに雨戶をあけて歸つた。
「また客か?――」
さう寢床から聲をかけると、
「眼がさめたのか。――」
と言つた。
「いや・まだ起きてゐたのだ。よくお客があるな。」
澄江堂は間もなく仕事を初める。……予はねむるのである。こんな風に暮しが反對であつたが、そのもたれが無かつた夜中であつた。
予が厠へ椽側づたひにゆくと、澄江堂が椽側にあるお湯を取りに出るのと一しよであつた。兩方でびつくりした。
「わあ――」
「ああびつくりした。」(九日、七十八度)
×
秋ぜみの明るみ向いて啞かな[やぶちゃん注:「啞かな」は「わらふかな」と読む。]
松村みね子さんが咋夜二階の段梯子をふみはづして、足のゆびを傷められたと女中が言つた。そこで一句、
草かげでいなごがひとり微笑うた[やぶちゃん注:下句は「うすわらうた」か。]
澄江子も和歌一首をしたゝめ、お見舞ひのかはりに持たせる。――晩、二人で松村さんの部屋へはじめて遊びにゆく。(十日、八十度)
×
朝、散步してゐると美しい西洋人の姉妹が別莊道から下りて來た。二人とも樂譜を持つてゐる。ひとりは藍色で妹は純白な服を着てゐる。姉の肩つきは富士山によく似てゐた。えりくびは乳のやうに白かつた。
この旅館の應接間は客がみんな食前とか食後には、よく出て來て椅子に坐つた。三年つづけて挨拶をしてゐたが、その五十がらみの人の好い顏の客が醫學博士であることや、白足袋でゴードを喫むのが齒科の先生であることや、毛糸のジヤケツを著てゐるのが千葉の地主であることや、三人のお孃さまをつれてきてゐるのが田端の地主であること、また每年のやうに演說會の事務を取りにくるのがレヴエヂヤトフに似てゐることや、朝から賑やかに若い妻君と出步いてゐるのが神奈川の金持ちであることや、その他の人人がみんな應接間へ坐つては休んでゐた。予は誰にも馴染みになれなかつた。[やぶちゃん注:「ゴード」不詳。「ゴルフ」のことか? はたまた、テニスの「コート」? 或いは葉巻の銘柄? 判らん! 「レヴエヂヤトフ」不詳。]
齒科の先生は輕井澤の金棒引きで、土地と別莊をもつてゐた。そして談たまたま輕井澤のことに及ぶと、昂然として言つた。
「輕井澤にはもう土地なんてありませんよ。」
夕方、澄江堂と散步しに出て射的をした。かれは二つパツトを落した。予も同樣二つ落した。予は生れて鐵砲を手にもつたことが初めてであつた。
「このつぎは五つの内四つまで落す自信はあるがなあ。――」
この前さう言つた澄江子は、たつた二つしか落せなかつた。(十一日、八十度)
×
朝子の帽子を二つ、マントのやうな毛糸編みのちやんちやんを二枚、レースを一丈、それだけを買つてかへりかけると、れいの裏門の女中部屋でまたお雪が唏いてゐた。予はすぐ神經質ですぐ對手に應へる顏の番頭を思ひ出した。每年の老番頭のかはりに新しく來た番頭であつた。老番頭の仕事はいくらか浮いて氣の毒であつた。時代はこの三千尺の山の上の旅館の上にまで、その餘勢をもつて訪づれてゐた。[やぶちゃん注:「唏いてゐた」「ないてゐた」と読んでいよう。「唏」は「なげく」「かなしむ」以外に「すすりなく」の意がある。]
室へはいると澄江子はすぐ起きて出て、
「ああよく寢た。」と又言つた。そして、
「今夜は徹夜ぢや、すこし瘦せたかな。」
と、その頰へ手を持つて行つた。予が來てからも少し瘦せたやうに思はれた。
「お雪がまた泣いてゐたよ。」
澄江堂は不愉快な顏をした。その不愉快さは次第に憐愍の表情に變化つた。戶板の方を向いてしくしくと泣いてゐるのが、予に鬪係のないことだけに哀れを催した。
「ああいふぼんやりした顏といふものは憎み出したらきりもなく憎くなる顏立ちだが…」
「さうだよ、だから可哀さうだよ。」
澄江子はさう言つた。
二人とも庭へ出た。澄江子はそこにある高い楓の木の枝移りにするすると木登りをはじめた。何か腹が立つたやうにである。
晚、マンペイホテルヘ茶を飮みに行つた。
食堂の電燈がいつもよりも數多く點れてゐて、音樂が夜色を縫うた植込みの中から起つてゐた。
「何かあるんだな今晚は?――」
「さうらしいね。」
サロンに集つてくる人達ち[やぶちゃん注:ママ。]は、西洋人もさうだが、日本人もつくりが派手らしく見えた。肌を露(む)いた西洋人が食堂の方へでかけるときに、サロンにゐる日木人の娘や夫人にあいさつをして行く。……あれらはみな知り合ひと見えるな。しばらくして今喪はダンスがあるので、宮さまもおいでだといふことであつた。二人はぽつ然[やぶちゃん注:ママ。]として坐つてゐたが、不調和な空氣を感じた。
「出やう。――」
二人は同時にさう言つて、玄關わきの美しい西洋人の間をすりぬけた。
「輕井澤では星が少し大きく見えるよ。」
さう言へば星が大きく見えた。これまで氣がつかなかつた。――宿の應接間に松村さんが居られた。どちらへ?――マンペイへ行つて來ましたと予はこたへた。(十二日、八十度)
×
二三日上らなかつた正面の噴水がけふから又上つた。刈つた芝が美しい。百合はみんな凋れて了つた。ばらばらと通り雨があつたあとに、全く秋の半ばのやうな凉風が吹いた。
夕方から碓氷峠の上へ月を見に行かうといふことになり、松村さんとお孃さん、旅館の主人、澄江堂と予とが自動車に乘つた。峠へは登り道ばかりで、松村さんは少し蒼い顏をして、
「恐うございますね。」と言つた。
お孃さんは十七であるのに、お母さんにしつかり抱きついてゐた。自動車はげつくりとはずみを食ひながら、樹の間から見える月の山峽を登つて行つた。屛風に描き分けた峽の道を指呼の間に上るやうな氣がした。
碓氷村は峠の頂に黑ずんだ屋根をならべ、その低い庇に四隅に紙房のある古風な切子燈籠を軒ごとに吊してあつた。けふは月遲れのうら盆の日である。
「あの燈籠はいいなあ。――」
自動車から下り立つた澄江堂は、仄暗い明りにやつと見分けられる家の中を覗き込みながら言つた。十二三の女の子がらんぷの下で何かの本を讀んでゐるのが、うす暗いので同じ家内でもずつと遠くのやうに見えた。
「賴んだら吳れないかね。」
燈籠の骨と紙とが四邊(あたり)の荒い風色と關係があるやうにも思はれた。暗さになれるとその燈籠を吊した庇の下に、何かの葉の硬い石菖のやうな草が磊落たる石の間に蓬蓬と茂つてゐた。
熊野權現へ參詣した。
松村さんもお孃さんも權親さまの石段の下で羽織を着た。見晴臺へ行くと、妙義山一帶の山脈が煤まみれのむら雲の中に、月の片曇りをあびながらどんより重疊してゐた。茫茫たる歲月を封じ込んでゐるやうで、むしろ騷騷しい挑んだ荒凉たる景色であつた。
二三人の西洋人が七輪に炭火を起して、お茶をあたためながら、ベンチに同勢らしい二三の若い娘さんたちと何か話してゐた。こんな景色は繪よりも文章よりも音樂に近いかなあと澄江子が言つた。
「そんなにおさむくはございませんね。」
松村さんは羽織着のほつそりした姿で、旅館のあるじとさう話してゐる。――予はうちの朝子が乳を吐いたことや、ひろちやんの耳のおできや、けふ來た手紙でうちのものの乳にこりのできたことなどを思ひ浮べた。雲は北方へ吹きよせられ東方の山道が見えて來た。雲がないので刷いだ[やぶちゃん注:「はいだ」。]山峽は靜かであつた。
「あれが暴れ出したら大變だな。」
淺間山はこんもりと象のやうに跼んで[やぶちゃん注:「かがんで」。]、どこか遠方で鎖がつないであるやうな氣がした。煙は上州へながれてゐるので見えなかつた。輕井澤の町もすぐ眼の下に見えた。
見晴臺から茶店へ行つた。黑い瘦せた猫が圍爐裏にゐたが、松村のお孃さんが呼んだのですぐその膝の上にあがつた。が、また思ひ返して圍爐裏のへりへ行つた。「あひにく力餅がみんなになりましてな。」無器用な口つきで、卒氣なく茶店の老人が言つた。すこしくらゐなら今から拵へると言つた。べつに食べたくもなかつたが待つことにした。――
吹きぬけの山風が裏の山脈から通りすぎた。
「お雪といふのはどんな女中でございますの。縹緻のいい子ですか?――」[やぶちゃん注:「縹緻」「きりやう」。「器量」に同じ。]
「いや、あれとはちがひます。」
れいの、お雪の話が出たのである。――旅館のあるじは、あのお雪はおしやべりで困る、それに沓掛のカフエにもゐたことがあると言つた。予の哀れは變らなかつた。お雪は白いゆかたを着け、すこしおしろいのある顏で、そして納戶に向いて泣いて居ればいい……さう思つて笑つた。
餅をたべ茶をのんで、峠を下りはじめた。明るい脚光に浮き出された山中に多い白い蛾が紙きれのやうに片片として舞うてゐた。
「かへりは少しもこはくはありませんかね。」
松村さんがさう言つた。坦坦として辷つて行つたからである。
「乘せてくれんか?」闇の中で、旅館のあるじの知り合ひらしいのが、これも月見のかヘりらしく道端から聲をかけたが、自動車は默つてしづかに辷つて行つた。(十三曰、八十度)
×
昨日、けふ發つことにしておいたが、夕景近くなると名殘り惜しい氣がした。しかし子供のことが氣になつて仕方がなかつた。
晚食後に疊の上に何か落ちてゐたので、觸つて見ると何かの骨であつた。
「鯛のほねたたみにひろふ夜さむかなはどうぢや。」
予はさう言つて澄江堂に示した。
「なるほど、それはうまい!」
十一時五十幾分だから夜はゆつくりひまがあつた。松村さん一族がお別れに散步いたしませう、來年までおあひできませんからと言つた。澄江子を加へ五人づれであつた。町の中をひと𢌞りした。
「ことしは何かさびしいやうですね。」
と、松村さんが言ふ。全く去年とくらべるとそんな氣がした。踏切りから裏通りの別莊の前通りへ出た。風月を樂しむといふ話が出た。テニスコートの通りへ出ると敎會堂からさんびかが起つてゐた。風は秋の十月くらゐの凉しさであつた。
「お國に入らつしやるとお年を召すやうな氣がいたしませんか?――」
松村さんがさう言つた。
「ええ、それは、そんな氣もしますが……」
散步から歸ると、遲いから見送りをおことわりした。澄江堂と例の應接間に居殘つた。十一時十分過ぎに車が來てみんなに別れた。(十四日、八十度)
大正八(一九一九)年二月二十六日・田端発信・佐野慶造 同花子宛
御見舞難有うございます日頃煙草をのみすぎた事が崇つて咽喉を害し甚困却して居りますしかしもう大分よろしい方ですから乍憚御休神下さい
病閒やいつか春日も庭の松
[やぶちゃん注:新全集宮坂年譜によれば、この先立つ二月十七日(火曜日)、芥川龍之介は『インフルエンザのため発熱し、田端で床に就く』。『月末まで床をあげられず、学校も翌月初めまで休んだ』。『スペイン風邪に罹ったのは、前年』十一『月上旬に続いて二度目で』、『この頃、久米正雄も肺炎を併発して重態になっている』とある。なお、同年譜によれば、この二日前の二月二十四日の項に、『この日までに、主任教授を通じて、海軍機関学校に退職願を提出』している、とあり、また、二十七日にはかなり快復したらしく、午後五時頃、『赤坂三河屋で開かれた「改造」発刊披露会に出席』しており、三月三日には田端から鎌倉へ戻っている。また、機関学校は龍之介の方は四月早々に辞める予定でいたが、学校側から『後任が見つかり次第の退職』を要請された。しかし、後任はすぐ見つかったらしく、実際の最後の授業は三月二十八日で(採用しなかったが、同日の岡栄一郎宛書簡に授業を終わって、教官室(推定)で、『敎科書その他皆ストオヴに抛りこんで燃やしてしまひました甚せいせいしてゐます早く東京へかへつてのらくらして暮らしたい』と記している。但し、晩年、龍之介はこの鎌倉時代の蜜月を想起して、一番、幸せだった、鎌倉を離れたのは失敗だった、と述懐していたと私は聴き及んでいる。
「乍憚」「はばかりながら」。この場合は、「自分でかく言っておきながら、変ですが」の意。
「休神」(きうしん(きゅうしん))は「休心」とも書き、「心を休めること・安心」の意で、多くここに出た形で手紙文で用いる。]
大正八(一九一九)年二月二十八日・田端発信・片山廣子宛
敬啓 御見舞下すつて難有う存じます私の方はもう二三日中に床をはなれられさうですがそちらの御病氣は如何ですか氣候不順の際吳々も御大事になさい私の方からも御禮旁〻御見舞まで 頓首
卽景
時雨れんとす椎の葉暗く朝燒けて
二月廿八日朝 芥川龍之介
片 山 廣 子 樣粧次
[やぶちゃん注:奇しくも「或阿呆の一生」(リンク先は私が電子化したもの)の中で複合表現した《月光の女》の候補たる二人――佐野花子と片山廣子――が並んでいる(底本の岩波旧全集で前者は書簡番号四九八、後者は四九九)。実際の廣子の見舞いは二十七日以前の直近と思われ、この時、病気の性質上、廣子は玄関先でフキか文にお見舞いを述べ、見舞いの品を渡し、龍之介とは逢わずに帰ったものと推察する。さればこその返礼である。但し、私は、これ以前、龍之介は廣子と佐々木信綱の「心の花」の歌会等で、面識や軽い対談は既にあったと考えている。無論、この時、龍之介はまさか彼女が、自分の最後に本気で愛する相手となろうとは、微塵も思いもせず、仮想すら出来なかったであろう。なお、この日から九日後の三月八日、遂に大阪毎日新聞社から客員社員の辞令が届いた。原稿料の他に報酬月額は百三十円であった。また、四月二十八日には鎌倉を引き払い、田端の養父母の芥川家へ轉居している。宮坂年譜には、この日の条に『二階の書斎に菅虎雄の扁額「我鬼窟」を掲げ、日曜日を面会日に決めて、他の日は面会謝絶とした』とあり、さらに『「大阪毎日新聞」の連載小説(四、五〇回位)の原稿依頼を受諾』し、六月三十日から八月八日(併せて四日休載)まで「路上」を連載した。
「そちらの御病氣」廣子の詳細年譜を調べたが、不明。]
大正八(一九一九)年五月八日・長崎発信・南部修太郞宛(絵葉書、菊池寛と寄書)
天雲の光まぼしも日本の聖母の御寺今日見つるかも(大浦の天主堂)
龍
[やぶちゃん注:これに先立つ、三月十六日の朝、芥川龍之介の実父敏三が東京病院で亡くなっている(スペン風邪の重症化)。享年六十八であった。その末期の様子は名品「點鬼簿」の「三」に語られてある。さて。龍之介はこの五月四日から菊池寛とともに長崎旅行に出発した(但し、菊池は風邪による頭痛のため、岡山で下車し、龍之介は独りで尾道に途中下車するなどして、長崎に向かった)。五日に長崎に到着し、六日に大浦天主堂を訪ね、遅れて到着した菊池とと合流した。長崎滞在中は、長崎の名家の当主で実業家にして文化人(南蛮美術の収集・研究や写真史研究で知られる)であった永見徳太郎(明治二三(一八九〇)年~昭和二五(一九五〇)年)の世話になった。宮坂年譜によれば、『菊池寛とともに、市中見物をしたり、永見家所蔵の長崎絵などを見たりして、大いに何番切支丹趣味を満足させた』とあり、また、『当時、長崎県立病院の精神科部長だった斎藤茂吉とも会った』とある。同月十一日、長崎を発して、大阪に到着、『夕方、菊池寛とともに、挨拶を兼ねて大阪毎日新聞社を訪ね』、たまたま、『同社の編集会議の例会が開かれており、その席でスピーチをし』ている。十五日の条には、『京都で葵祭りを見物するか』とあり、翌十六日の午前零時過ぎ、『タクシーで嵐山の渡月橋へ月見に出かけるなど、翌日未明まで祇園で遊』んでいる。田端帰還は十八日夜であった。
「南部修太郞」(明治二五(一八九二)年~昭和一一(一九三六)年:芥川龍之介より八ヶ月歳若である)は小説家。土木技師である父常次郎の長男として宮城県仙台市で生れる。父の転勤につれて東京・神戸・熊本・博多・長崎と転住した。明治三八(一九〇五)年の春、父の転勤とともに東京に上り、赤坂・麹町・四谷と住み移ったが、麻布区新龍土町に家を定め、芝中学校に通った。明治四五(一九一二)年、慶應義塾大学に入学し、文学科露文学を専攻、大正六(一九一七)年に慶應を卒業後、大正九年まで『三田文学』編集主任を務め、文筆生活に入り、大正十年に結婚し、二人の男子の父となった。芥川龍之介を師と仰ぎ、小島政二郎・滝井孝作・佐佐木茂索とともに「龍門の四天王」と呼ばれた。慶大で友人だった理財科の秋岡義愛が川端康成の従兄だったため、中学時代の川端と文通した経験があった。脳溢血のため自邸前で倒れ、逝去した。満四十三歳であった。以上は当該ウィキに拠ったが、そこには最後に、『南部は経済的には恵まれていたが、身体的には病が絶えず、持病の喘息、チフス、肺炎などで若い頃に命を落としかけている。作家としても、成功したとはいえない。現在では作品を手に入れることさえ困難である』とある。因みに、彼は翌大正九年七月には龍之介の「南京の基督」の批評を書くが、それに龍之介は強い不満を覚え、書簡上でかなり激しい反論を書き送っており(後に電子化する)、さらには、中国特派から帰った大正十年の九月には、龍之介は、隆之介の愛人秀しげ子が、何んと、この南部と密会しているところに、たまたま出合い頭に互いに遭遇してしまう、という大スキャンダルが発生することになる。大正十一年一月に発表したスキャンダラスな「藪の中」は、そうした龍之介・しげ子・修太郎の、猥雑にして痙攣的におぞましい三角関係が根底にあることは間違いない。]
大正八(一九一九)年五月十日・長崎発信・江口渙宛(絵葉書、菊池寛と寄書)
瑠璃燈のほのめく所支那人(アチヤ)來たり女を買へとすゝめけるかも
龍
[やぶちゃん注:長崎では俗に中国人のことを古くから親しみを込めて「阿茶(あちゃ)さん」と呼んだ。小学館「日本国語大辞典」によれば、享保年間の幕府史料にその事実が記されてあり、語源は「大言海」には、『チュンコレン(中国人)のチュン(中)ををとってアチュン(阿中)か』とある。しかし、サイト「ナガジン!」の「唐人屋敷の生活~唐人屋敷で暮らしてみた!」には、中国から来た『?州人』(「?」は文字化け。ソースで見ても「?」である。冀(き)州人か?)『が目上の人のことを「アチャウ」と言っていたのを』、『長崎の人が聞き覚え、唐人に尊敬の意味を込めて「アチャ」と呼んだことがこの愛称の始まりのようで』あるとある。]
大正八(一九一九)年五月二十七日・田端発信・佐野慶造宛
啓 御無沙汰しました皆さん御變りもございませんか私は每日甚閑寂な生活をしてゐます時々、いろんな人間が遊びに來ては気焰をあげたりのろけたりして行きます所で橫須賀の女學校を昨年か一昨年に卒業したのに岩村京子と云ふ婦人が居りませうかこれは奥樣に伺ふのですもし居たとすれば容貌人物等の大體を知りたいのですが如何でせう手前勝手ながら當方の名前が出ない範囲で御調べ下されば有難いと存じます 以上
この頃や戲作三昧花曇り
芥川龍之介
佐 野 樣 侍曹
[やぶちゃん注:『佐野花子「芥川龍之介の思い出」 附やぶちゃん注 (五)~その1』にも登場する書簡である。
「岩本京子」前の電子化注で私は以下のように注した。『不詳。但し、芥川龍之介の日記「我鬼窟日錄」の大正八年の五月二十六日(本手紙の前日である)の条の末尾に、「受信、南部、岩井京子、野口眞造」とある。恐らく、愛読者として何かを書き送ってきた文学少女であり、出身校が花子の勤めていた汐入の横須賀高等女学校卒であったことに由来する依頼であろう。』。
「侍曹」「じさう(じそう)」は「側(そば)に侍する者」の意で、手紙の脇付の一つ。侍史に同じ。]
大正八(一九一九)年六月十五日・田端発信・菅忠雄宛
拜啓 御手紙難有う 其後如例匆忙たる日を送つて居ます小說が一向捗取らないので大に閉口して居ます中戶川氏の小說は恐らく今月の創作中で第一の傑作だらうと思ひますあれでもう少し前半が油が乘つてゐたら更に申分がなかつたらうと思ひます
鹿兒島へ御出の由嘸御寂しいだらうと同情してゐます勉强も大事だが體も一層大切にしなくつちやいけません僕はこの頃大に感じる所があつて精々養生をしようと思つてゐます 次の歌は湯河原の久米へ送つたものだからその關係上君にも序に御覽に入れます
谷水の光は寒し夕山のまほらを見れば人立てり見ゆ
あしびきの岩根は濡れて谷水の下光りゆく夕なりけり
夕影はおぎろなきかもほそほそと峽間を落つる谷水は照り
頓首
六月十五日 芥川龍之介
菅 忠 雄 樣
二伸 先生によろしく申上げて下さいこの頃拓本や法帖を見るのが面白くなりましたがこれは全く先生の所でいろんな書を拜見したおかげです一生の得をしたと思つてゐます吳々もよろしく申上げて下さい 猶荆妻からお母樣や姊樣によろしく申上げてくれと云ふ事でした末ながら私からも姊樣の御緣談を御緣談を御祝ひ申上げます 以上
[やぶちゃん注:「二伸」は底本では全体が二字下げ。実は、この四日前に芥川龍之介にとって、運命的な邂逅があった。宮坂年譜から六月十日の条を引く。『神田の西洋料理店ミカドで開かれた十日会』(作家・詩人の岩野泡鳴(明治六(一八七三)年~大正九(一九二〇)年)が中心になって作った文学サロン。当初は大久保辺に住んでいた作家岩野泡鳴宅を会場として蒲原有明・戸川秋骨らが集まって行っていたが、大正五・六年からは、若い文学者や女流作家を集めた懇親会となっていた)『に初めて出席する。岩野泡鳴、菊池寛、江口渙、滝井孝作、有島生馬らが列席。女性も泡鳴夫人など四、五名が出席しており、秀(ひで)しげ子とも、この時初めて会った。さらにその後、室生犀星の『愛の詩集出版記念会に赴いたが、すでに散会後だったため、北原白秋、犀星らと食事をとった』とある。この秀しげ子こそ、芥川龍之介のファム・ファータルであり、この後、肉体関係を持った。しかし、後年、激しい嫌悪の対象と変じ、「或阿呆の一生」では『狂人の娘』とまで名指すことになる、「宿命の女」であった。偶然(私のチョイスは当初、これを意識していなかった)であるが、ここで佐野花子・片山廣子・秀しげ子が並ぶことに、私自身、何か重い感慨を抱かざるを得ない。詳しくは、芥川龍之介の日記「我鬼窟日錄 附やぶちゃんマニアック注釈」を参照されたい。そこでは、龍之介が秀しげ子との爛れた関係に転落してゆく一部始終が読み取れるからである。
「匆忙」「そうばう(そうぼう)」は「忙しいこと」を言う。「怱忙」とも書く。
「小說が一向捗取らない」具体的には『中央公論』七月一日発表となる「疑惑」と、「大阪毎日新聞」連載(六月三十日初回)の「路上」の執筆が重なっていたことを指す。
「中戶川氏の小說」中戸川吉二(明治二九(一八九六)年~昭和一七(一九四二)年:小説家・評論家。里見弴に師事)の代表作である「イボタの虫」。
「鹿兒島へ御出の由」筑摩全集類聚版脚注に、『第七高等学校の入学試験受験のためか』とある。
「荆妻」(けいさい)の「荊」は「茨(いばら)」の意。後漢の梁鴻の妻が、着飾ることなく、逆に、荊(いばら)の釵(かんざし)と木綿(もめん)の裳(もすそ)を着用したところから、自分の妻を遜(へりくだ)っていう語。「愚妻」に同じ。
「お母樣」虎雄の後妻であろう。
「姊樣」忠雄に姉がいたのは、この書簡を読むまで気がつかなかった。
「おぎろなき」「賾なし」(「なし」は形容詞をつくる接尾語)で、「広大である・果てしなく奥深い」の意。]
大正六(一九一七)年七月二十四日・片山廣子宛
拜啓
原稿用紙でごめんを蒙ります
False honests は誇張だから、惡くとつちやいけません あなたの事だから true modesty だと確信してゐます
心の花では、あなたの方が先輩です ですからお話しを伺ひに出るのなら、私の方から出ます あなたにあまり謙遜な手紙を頂くと私のやうな野人は 狼狽していけません 將來何等かの意味で、私の手紙が尊大に見えても 氣にかけないで下さい 私はこれを書きながら 田端へ來て頂きたいなどと云つたのが、惡かつたやうな氣がして 少し後悔してゐます
夏疫流行の爲 私も今日東京へかへります
七月廿四日 芥川龍之介
片山廣子樣 粧次
[やぶちゃん注:サイトの「やぶちゃん編 芥川龍之介片山廣子関連書簡十六通 附やぶちゃん注」で、電子化注済みである。基本的にそこでの注を変更する気はないので、以下、概ねそのまま転写する。さて、これは底本の旧全集一六二五書簡で、旧全集では書簡集最後の「年月未詳」パートに配されているが、新全集では、これを上記の年に同定している。その同定の根拠は恐らく新全集後記にある、本書簡の封筒による確認と思われる(田端文士村記念館蔵。但し、これは封筒のみの所蔵である)。但し、この年推定は既に旧全集後記でも示されていた。そんなことよりも、問題は本書簡の出所である。その旧全集後記によれば、本書簡は前の廣子宛書簡と同じく、昭和四〇(一九六五)年六月の『文學』に吉田精一氏によって発表されたものを転載した旨の注記がある。従って、現物からの活字起こしではない点に注意せねばならぬ。少なくとも――ここに吉田氏の操作が加わっていないとするならば――この文面からは、前の書簡でも述べたように、龍之介と廣子が、この時点では未だ実際に対面した印象はないと私は感触している。
・「False honests」“false”には、①正しくない、誤った、正確でない、狂っている。②いわれのない、見当違いな、適切でない、軽率な。③本物でない、偽の、誤魔化しの。④人工の。⑤人が虚偽を述べる、嘘を言う、虚偽の。⑥不実な、裏切りの。⑦代用の、仮の、一時の。⑧似非の、仮性。といった意味がある。しかし、問題は寧ろ、“honests”という複数形にありはしないか? これは“honest”が名詞であることを意味する。その場合、これは我々の知っている「誠実な、正直な、頼もしい」といった意味ではなく、「信用出来る人物」を意味する口語である。ここでは廣子の来信を読めぬ以上、如何なる意味であるか、同定を避けるが、芥川龍之介は廣子への先の手紙で“False honests”=「信用出来ない人々」という言葉を用いたのだが、その中に廣子が含まれないことを暗に弁解した言葉ではなかったか? と私は考えている。
・「true modesty」“modesty”は謙遜、控えめ、上品、素朴さ、節度といった意味がある。言うなら、「真実(まこと)の慎ましさ」ということになる。廣子への賛辞として、至当と理解出来る。
・「心の花」短歌雑誌。明治三一(一八九八)年に佐佐木信綱の主宰する短歌同人竹柏会機関誌として創刊された、現在も続く日本近現代歌壇中、最古の歴史を持つ短歌雑誌である。信綱の「広く深くおのがじしに」を理念とする。廣子は東洋英和女学校の学生であった十八歳の明治二九(一八九六)年に同級生新見かよ子とともに信綱の門を敲き、『心の花』に先行する信綱主宰の短歌雑誌『いささ川』(明治三一(一八九八)年二月に『心の花』に改題)の第三号(明治三〇(一八九七)年刊)に既に歌を発表しており、非常に早い時期に会員となっている。
・「私も今日東京へかへります」既に述べた通り、龍之介はこの時、鎌倉に下宿しており、大学時代の寮生活と同様、週末には実家に戻っていたが、この時は、海軍機関学校の夏季休暇(八月三十一日まで)が始まったための田端引き上げであって、「夏疫流行の爲」などとあるが、特に体調不良のためなどではない。]
大正六(一九一七)年六月十日(年次推定)・片山廣子宛(転載)
拜啓
御著書を頂いて難有うございます かう申上げる事が生意氣でなければ大へん結構に譯も出來てゐるやうに拜見致しました
坪内先生の序文は先生がモリス・ブルジョアを讀んでゐない事を暴露してゐるので少々先生に氣の毒な氣がしました
裝釘も非常に氣もちよく思はれます
とりあへず御禮まで 以上
六月十日 芥川龍之介
片山廣子樣
[やぶちゃん注:この大正六年(以下の内容から年次推定は正しい)六月十日は日曜であるから、鎌倉ではなく、田端発信の可能性が強い。或いは、芥川龍之介の鎌倉の住所は知らなかったのかも知れず、田端の実家に廣子の小包は送られてあったのかも知れない。
「片山廣子」(明治一一(一八七八)年二月十日~昭和三二(一九五七)年三月十九日:芥川龍之介より十四歳年上)は歌人で随筆家にしてアイルランド文学翻訳家。短歌では一時期(明治四四(一九一一)年三月)は雅号を「森の女」としたが、大正二(一九一三)年三月の『心の花』で初めて「松村みね子」のペン・ネームを用い、後の翻訳では専ら「松村みね子」名義を用いた(この筆名は電車で見掛けた少女の持つ傘に書かれたそれを用いたものと、後年、述べている。その後、歌人として大成後は、短歌・随筆では本名を通し、この筆名は後には使用しなくなった)。旧姓は吉田。外交官吉田二郎の長女として東京麻布で生まれた。東洋英和女学校卒業。明治二九(一八九六)年満十八の時に佐佐木信綱に入門。作品を同氏主宰の『心の花』に発表、歌壇に超然として、純粋な歌境に沈潜した。歌集「翡翠(かはせみ)」(大正五(一九一六)年三月二十五日竹柏会出版部発行。東京堂発売。芥川龍之介は大正五(一九一六)年六月発行の雑誌『新思潮』の「紹介」欄に書評「翡翠 片山廣子氏著」を掲載している(リンク先は私のサイト版の古い電子化)。署名は「啞苦陀」(あくた)。実は私は、廣子が龍之介に「翡翠」を献本した可能性が高いと考えている。そうでもなければ、ここに唐突に歌集の書評を書くはずがないと思うからである。勿論、唐突に廣子が自分の処女歌集を未知の龍之介に送ることは考えられないから、恐らくはそれ以前に、廣子の何らかの翻訳作品を介在として、英文学専攻の龍之介と彼女は間接的な接点があったものと思っている(但し、その時には直接には逢ってはいないと考えられる)。但し、この時点では、私は少なくとも廣子からのアプローチではなく、龍之介の方からの、稀有の才能を持った数少ないアイルランド文学の女流翻訳家の『おばさん』――廣子には礼を失することを承知で敢えてそう言っておこう――という好奇心に過ぎなかったのではあるまいか、とも考えている)出版後、アイルランド文学の訳業に専念し、その面での開拓者になり、その翻訳は上田敏・森鷗外・坪内逍遙らに才能を認められた。明治三二(一八九九)年夏に大蔵省に勤務していた片山貞治郎(後に日本銀行理事)と結婚し(廣子満二十一)、片山達吉(明治三三(一九〇〇)年~昭和二〇(一九四五)年:文芸評論家。ペン・ネーム吉村鉄太郎)と総子(明治四〇(一九〇七)年~昭和五七(一九八二)年:小説家(結婚とともに筆を折った)。ペン・ネーム宗瑛(そうえい)。婚姻後の姓は井本)の二子をもうけたが、本書簡の三年後の三月二十四日に夫貞次郎は病没した。菊池寛は「わが金蘭簿(きんらんぼ)[やぶちゃん注:親しい友人の住所録。]中、最も秀(すぐ)れた日本女性」とその人柄を賞している。昭和一〇(一九三五)年五十七歳の時、再び短歌に戻り、歌集「野に住みて」(昭和二十九(一九五四)年一月二十五日第二書房発行)を本名で出版した。昭和二八(一九五三)年六月に出版した随筆集「燈火節」は昭和三十年の第三回エッセイスト・クラブ賞を受賞した名品である。廣子と総子は堀辰雄の「聖家族」や「楡の象」などの小説のモデルでもある。因みに、後年、廣子が亡くなった後、総子は、芥川龍之介からの書簡の所在について聴かれた際、「総て焼き捨てた」と言い放っている。これこそ、まさに、私に龍之介と廣子の関係の深さという確証を高めさせ、追及をする契機となったものであったが、どうも実際には一部が残されて好事家に秘かに渡っていた。その一部がずっと後に吉田精一の手に渡って、公開されている(後掲する)。言わずもがなであるが、彼女は芥川龍之介が、晩年、最後に愛した女性であった。無論、この時、芥川龍之介は、彼女が、そうした人生最後の「Femme fatale」(ファム・ファタール:フランス語で「宿命の女」)となるとは夢にも思ってはいなかった。なお、私は、サイトで、
片山廣子集 《昭和六(一九三一)年九月改造社刊行『現代短歌全集』第十九巻版》 全 附やぶちゃん注・同縦書版
や、
新版 片山廣子 芥川龍之介宛書簡(六通+歌稿) 完全版・同縦書PDF版
芥川龍之介関連 昭和二(一九二七)年八月七日付片山廣子書簡(山川柳子宛)・同縦書版
及び、フィオナ・マクラオド(松村みね子名義訳)の、
及び、ジョン・ミリントン・シング(同前)の、
ロード・ダンセイニ(同前)の、
やアイルランド伝説集(以下の訳題は明らかに龍之介の「河童」を意識した秘かなオードである)の、
カッパのクー ――アイルランド伝説集から―― オケリー他編 片山廣子訳
の他、「燈火節」の数篇を電子化注(上記を含め私のサイト内の「心朽窩旧館」の「片山廣子」の項を見られたい)しており、芥川龍之介の廣子宛書簡は実は、
やぶちゃん編 芥川龍之介片山廣子関連書簡十六通 附やぶちゃん注・同縦書版
として既に電子化している(本書簡も冒頭に配してある)。但し、それは十一年も前の仕儀で、幾つかの不満や不全もあるので、ここでは、改めて電子化し、注を附す。また、ブログ・カテゴリ「片山廣子」でも、今も、片山廣子と芥川龍之介を追い続けている。その探求の中でも、私が拘った龍之介と廣子の最晩年の秘かな密会を追ったサイト版の『片山廣子「五月と六月」を主題とした藪野唯至による七つの変奏曲』は相応の自身作ではある。参照されたい。
「著書」これは以下の坪内逍遙への悪戯っぽい言いかけから、この大正六(一九一七)年六月に東京堂書店から「松村みね子」名義で刊行したジョン・ミリントン・シング(John Millington Synge 一八七一年~一九〇九年)の物議を醸しだした(初演時にアイルランドのナショナリストが公衆道徳とアイルランドに対する侮辱として暴動が発生したことでとみに知られる)問題作の三幕喜劇“The Playboy of the Western World ”(「西部の伊達男」。一九〇七年にダブリンにて初演)の全訳本である。序文を逍遙が書いている。歌集「翡翠」の時と同じように、片山廣子が芥川龍之介に同書を献本したのである。同書の奥付を見ると、六月三日発行であるから、廣子がいそいそと楽し気に龍之介宛のそれを梱包している姿が目に浮かぶ。彼女自身もまた、自身が芥川龍之介の最晩年に重要な龍之介の愛する女性として際会するなどとは、想像だにしなかったことは言うまでもないが。私は既にして遠く、芥川龍之介の「ファム・ファタール」廣子は起動していたのだと思う。しかし、何故、廣子は取り立てて親しくもない龍之介に本書を献本したのか? 私は先に示した、やぶちゃん編 芥川龍之介片山廣子関連書簡十六通 附やぶちゃん注の本書簡の注で以下のように推理した。『この十日前の六月一日には「東京日日新聞」に芥川龍之介の処女作品集となる『羅生門』の広告が掲載されている(刊行は前月五月二十三日であった)。『燦然たる文壇の新星!! 第一作品集出づ!! 羅生門は新進作家の雄にして、且つ先蹤の諸大家を壓倒するの槪ある芥川氏の第一作品集也。その觀察の鋭雋』[やぶちゃん注:「えいしゆん(えいしゅん)」。鋭く抜きん出ていること。]『にしてその文品淸洒なる殆んど現文壇その比儔』(「ひちう(ひちゅう。「匹儔」(ひっちゅう)に同じ。匹敵すること。)『を見ず。本集収むる處卷頭羅生門を始め鼻、父、猿、孤獨地獄以下十數篇總て文壇の耳目を聳動せしめしもの、敢て芳醇なる新興藝術に接せんとする士に薦む』(新全集宮坂覺氏編の年譜に引くものを底本としたが、恣意的に正字に直してある)。これを廣子も見たであろう。もしかすると、この時、既に芥川から『羅生門』が献本されていた可能性さえある。廣子の献本は、実は、それに応えるものではなかったか? 後年、出身校である東洋英和学院に寄贈された廣子の蔵書の中に芥川龍之介の『羅生門』があり、そこには芥川龍之介の「おひまの節およみ下さい」と書かれた名刺が挟まっているのである。さて。国立国会図書館デジタルコレクションのこちらで同初版全篇が読める。これは何時か電子化したいと私が考えている作品である。私はシングが大好きで、サイトの「心朽窩 新館」で、シング著で、かのウィリアム・バトラー・イェイツが挿絵を描いた「アラン島」(姉崎正見訳(昭和一二(一九三七年)刊岩波文庫版)附原文及びやぶちゃん注附きで、第一部・第二部・第三部・第四部と分割して公開してある(勿論、挿絵附き)。先行公開したブログ分割版もある。
「モリス・ブルジョア」綴るなら“Morris Bourgeois”であるが、このような名の作家は近現代にはいない。『モダンデザインの父』と呼ばれたイギリスの詩人で、デザイナーでありマルクス主義者でもあったウィリアム・モリス(William Morris 一八三四年~一八九六年)のことをちょっと皮肉(ブルジョアのマルクス主義者)を添えてかく呼んだものかと思われる。既に述べた通り、芥川龍之介の卒業論文は「ウィリアム・モリス研究」であった。私はやぶちゃん編 芥川龍之介片山廣子関連書簡十六通 附やぶちゃん注で、『調べたところでは、モリスはエイリクル・マグヌソンとの共訳でアイルランドの叙事詩「ヴェルスンガ・サーガ」を“Völsung Saga: The Story of the Volsungs and Niblungs, with Certain Songs from the Elder Edda with Eiríkr Magnússon (1870)(from the Volsunga saga)”に英訳しており、アイルランド文学との接点もあるようであるから、シングの作品の邦訳の序で逍遙が彼の名を出したとしてもおかしくはない』と述べたが、今回、序文を読んだところ、モリスの名は出てこない。而してこれは、私の印象に過ぎないのだが、逍遙が「序」の中でありながら、グタグタとみね子(廣子)の訳語の不適切を指摘しているどこかを指して芥川は逍遙を揶揄しているものと思われ、恐らくは標題の「いたづらもの」の訳を批判している部分が、モリスの上記の英訳辺りによって、「いたづらもの」のニュアンスが正当にして正統に正しいことを龍之介は言っているのではないか? と私には感じられた。因みに、逍遙は標題を「西國の鬼太郞」「西海岸の惡魔太郞」「西海岸の鬼息子」という、なんとも「ゲゲゲの鬼太郎」みたような奇体な訳を推奨しているからである。
「裝釘も非常に氣もちよく思はれます」見開きの英文ラベル部分をリンクさせておく。確かに! お洒落で、いいね!]
影の病
北勇治と云し人、外よりかへりて、我《わが》居間の戶をひらきてみれば、机におしかゝりて、人、有《あり》。
『誰《たれ》ならん、わが留守にしも、かく、たてこめて、なれがほに、ふるまふは。あやしきこと。』
と、しばし見ゐたるに、髮の結《ゆひ》やう、衣類・帶にゐたるまで、我《われ》、常に着しものにて、わがうしろ影を見しことはなけれど、
『寸分、たがはじ。』
と思はれたり。
餘り、ふしぎに思はるゝ故、
『おもてを、見ばや。』
と、
「つかつか」
と、あゆみよりしに、あなたをむきたるまゝにて、障子の細く明《あ》けたる所より、緣先に、はしり出《いで》しが、おひかけて、障子をひらきみしに、いづちか行けん、かたち、みえず成《なり》たり。
家内《かない》に、その由をかたりしかば、母は、物をもいはず、ひそめるていなりしが、それより、勇治、病氣《びやうき》つきて、其年の内に、死《しし》たり。
是迄、三代、其身の姿を見てより、病《やみ》つきて、死《しし》たり。
これや、いはゆる影の病《やまひ》なるべし。
祖父・父の、此《この》病にて死《し》せしこと、母や家來は、しるといへども、餘り忌《い》みじきこと故、主《あるじ》には、かたらで有《あり》し故、しらざりしなり。
勇治妻も、又、二才の男子をいだきて、後家と成《なり》たり。
只野家、遠き親類の娘なりし。【解、云《いはく》、離魂病は、そのものに見えて、人には、見えず。「本草綱目」の說、及《および》、羅貫中が書《かけ》るものなどにあるも、みな、これなり。俗(よ)には、その人のかたちの、ふたりに見ゆるを、かたへの人の見る、と、いへり。そは、「搜神記」にしるせしが如し。ちかごろ、飯田町なる鳥屋の主《あるじ》の、姿のふたりに見えし、などいへれど、そは、まことの離魂病にはあらずかし。】【只野大膳、千石を領す。この作者の良人なり。解云《いふ》。】
[やぶちゃん注:最後の二つの注は底本に孰れも『頭註』と記す。孰れも馬琴(既に述べた通り、「解」(かい)はこの写本を成した馬琴の本名)のものしたもので、五月蠅くこそあれ、要らぬお世話で、読みたくもない。しかし、書いてあるからには注はする。なお、本篇は実は「柴田宵曲 續妖異博物館 離魂病」の私の注で、一度、電子化している。しかし、今回は零から始めてある。
標題は「かげのやまひ」。恐らくは真葛の文章中、最も広く知られている一篇の一つではないかと思われる。かく言う私も実は真葛を知ったのはこの話からであるからである。教えて呉れたのは芥川龍之介である。龍之介が、大正元(一九一二)年前後を始まりとして、終生、蒐集と分類がなされたと推測される怪奇談集を集成したノート「椒圖志異」の中である(リンク先は私の二〇〇五年にサイトに公開した古い電子テクストである)。その「呪詛及奇病」の「3 影の病」がそれである。
*
3 影の病
北勇治と云ひし人外より歸り來て我居間の戶を開き見れば机におしかゝりし人有り 誰ならむとしばし見居たるに髮の結ひ樣衣類帶に至る迄我が常につけし物にて、我後姿を見し事なけれど寸分たがはじと思はれたり 面見ばやとつかつかとあゆみよりしに あなたをむきたるまゝにて障子の細くあき間より椽先に走り出でしが 追かけて障子をひらきし時は既に何地ゆきけむ見えず、家内にその由を語りしが母は物をも云はず眉をひそめてありしとぞ それより勇治病みて其年のうちに死せり 是迄三代其身の姿を見れば必ず主死せしとなん
奧州波奈志(唯野眞葛女著 仙台の醫工藤氏の女也)
*
或いは、これがその「椒圖志異」の最後の記事のようにも見えるが、それは判らない。今回、この一篇を紹介するに際して、「芥川龍之介がドッペルゲンガーを見たことが自殺の原因だ」とするネット上の糞都市伝説(そんな単純なもんじゃないよ! 彼の自死は!)を払拭すべく、ちょっと手間取ったが、
『芥川龍之介が自身のドッペルゲンガーを見たと発言した原拠の座談会記録「芥川龍之介氏の座談」(葛巻義敏編「芥川龍之介未定稿集」版)』
をこの記事の前にブログにアップしておいた。そちらも是非、読まれたい。
「影の病」「離魂病」「二重身」「復体」「離人症」(但し、精神医学用語としての「離人症」の場合は見当識喪失や漠然とした現実感喪失などの精神変調などまで広く含まれる)とも呼ぶが、近年はドイツ語由来の「ドッペルゲンガー」(Doppelgänger:「Doppel」(合成用語で名詞や形容詞を作り、英語の double と同語源。意味は「二重」「二倍」「写し」「コピー」の意)+「gänger」(「歩く人・行く者」))の方が一般化した。これは狭義には自分自身の姿を自分で見る幻覚の一種で、「自己像幻視」とも呼ばれる現象を指す。それでも私は、この「影の病い」が和語としては最も優れていると思う。但し、広義のそれらは、ある同じ人物が同時に全く別の場所(その場所が複数の場合も含む)に姿を現わす現象を指すこともあり、自分が見るのではなく、第三者(これも複数の場合を含む)が目撃するケースもかく呼ばれる。なお、私は、「離魂病」というと、個人的にはポジティヴなハッピー・エンドの唐代伝奇である陳玄祐(ちんげんゆう)の「離魂記」を、まず、思い出す人種である。「離魂記」は、私の「無門關 三十五 倩女離魂」で、原文・訓読・現代語訳を行っているので、是非、読まれたい。
さて、やや迂遠にあるが、日本の民俗社会にとっての「影」から考察しよう。平凡社「世界大百科事典」の斎藤正二氏の「影」の解説の「かげと日本人」によれば(ピリオド・コンマを、句読点或いは中黒に代え、書名の《 》を「 」に代えた)、『〈かげ〉ということばは、日本人によって久しく二元論的な使いかたをされてきた。太陽や月の光線 light・ray も〈かげ〉であり、それが不透明体に遮られたときに生じる暗い部分 shadow・shade もまた〈かげ〉である。そればかりか、外光のもとに知覚される人物や物体の形姿 shape・figure も〈かげ〉であれば、水面や鏡にうつる映像 reflection も〈かげ〉であり、そのほか、なべて目には見えるが実体のない幻影image・phantom も』、『また』、『〈かげ〉と呼ばれた。そして、これらから派生して、人間のおもかげ visage・looks や肖像 portrait を〈かげ〉と呼び、そのひとが他人に与える威光や恩恵や庇護のはたらきをも〈おかげ〉の名で呼ぶようになり、一方、暗闇darkness や薄くらがり twilight や陰翳 nuance まで〈かげ〉の意味概念のなかに周延せしめるようになった。このように、まったく正反対の事象や意味内容が〈かげ〉の一語のもとに包括されたのでは、日本語を学ぼうとする外国人研究者たちは困惑を余儀なくされるに相違ない』。『なぜ〈かげ〉の語がこのような両義性をもつようになったかという理由を明らかにすることはむずかしいが、古代日本人の宇宙観』、乃至、『世界観が〈天と地〉〈陽と陰〉〈明と暗〉〈顕と幽〉〈生と死〉などの〈二元論〉的で』、『かつ』、『相互に切り離しがたい〈対(つい)概念〉を基本にして構築されてあったところに、さしあたり、解明の糸口を見いだすほかないであろう。記紀神話には案外なほど』、『中国神話や中国古代思想からの影響因子が多く、冒頭の〈天地開闢神話〉からして「淮南子(えなんじ)」俶真訓・天文訓などを借用してつくりあげられたものであり、最小限、古代律令知識人官僚の思考方式のなかには』、『中国の陰陽五行説が』、『かなり十分に学習=享受されていたと判断して大過ない。しかし、そのように知識階級が懸命になって摂取した先進文明国の〈二元論〉哲学とは別に、いうならば日本列島住民固有の〈民族宗教〉レベルでの素朴な実在論思考のなかでも、日があらわれれば日光(ひかげ)となり、日がかくれれば日影(ひかげ)となる、という二分類の方式は伝承されていたと判断される。語源的にも、light のほうのカゲは〈日気(カゲ)ノ義〉(大槻文彦「言海」)とされ、shade や darkness を意味するヒカゲは』「祝詞(のりと)」に〈『日隠処とみゆかくるゝを略(ハブ)き約(ツ)ゞめてかけると云(イフ)なり〉(谷川士清「和訓栞(わくんのしおり)」)とされている。語源説明にはつねに多少とも』、『こじつけの伴うのは避けがたいが、原始民族が天文・自然に対して畏怖の念を抱き、そこから出発して自分たちなりの世界認識や人生解釈をおこなっていたことを考えれば、〈かげ〉の原義が〈日気〉〈日隠〉の両様に用いられていたと聞いても驚くには当たらない。むしろ、これによって古代日本民衆の二元論的思考の断片を透視しうるくらいである』。『〈かげ〉は、古代日本民衆にとって、太陽そのものであり、目に見える実在世界であり、豊かな生命力であった。しかも一方、〈かげ〉は、永遠の暗黒であり、目に見えない心霊世界であり、ものみなを冷たいところへ引き込む死であった。権力を駆使し、物質欲に燃える支配者は〈かげの強い人〉であり、一方、存在価値を無視され今にも死にそうな民衆は〈かげの薄い人〉であり、さらに冷たい幽闇世界へ旅立っていった人間はひとしなみに〈かげの人〉であった。当然、ひとりの個人についても、鮮烈で具体的な部分は〈かげ〉と呼ばれる一方、隠戴されて知られざる部分もまた〈かげ〉と呼ばれる。とりわけ、肉体から遊離してさまよう霊魂は、〈かげ〉そのものであった。そのような遊離魂を〈かげ〉と呼んだ用法は「日本書紀」「万葉集」に幾つも見当たる。近世になってから「一夜船」「奥州波奈志」』(!!!)『「曾呂利話」などの民間説話集に記載されている幾つかの〈影の病〉は、当時でも、離魂病の別称で呼ばれる奇疾とされたが、奇病扱いしたのは、それはおそらく近世社会全体が合理的思惟に目覚めたというだけのことで、古代・中世をとおして〈離魂説話〉や〈分身説話〉はごくふつうにおこなわれていた(ただし、こちらのほうには唐代伝奇小説からの影響因子が濃厚にうかがわれるが)のであり、現在でさえ、〈影膳〉の遺風のなかにその痕跡が残存されている』。『ついでに、〈影膳〉について補足すると、旅行、就役、従軍などにより不在となっている家人のために、留守の人たちが一家だんらんして食事するさい、その不在の人のぶんの膳部をととのえる習俗をいい、日本民俗学では〈陰膳〉と表記する。民俗学の解釈では、不在家族も同じものを食べることにより』、『連帯意識を持続しようという念願が込められている点を重視しており、それも誤っていないと思われるが、〈かげ〉のもともとの用法ということになれば、やはり霊魂、遊離魂のほうを重視すべきであろう。もっとも、〈かげ〉をずばり死霊・怨霊の意に用いている例も多く、関東地方の民間説話〈影取の池〉などは、ある女が子どもを殺されて投身自殺した池のそばを、なにも知らずに通行する人の影が水に映るやいなや、池の主にとられて死ぬので、とうとう』、『その女を神にまつったという。同じ〈かげ〉でも、〈影法師〉となると、からっとして明るく、もはや霊魂世界とすら関係を持たない。この場合の〈かげ〉は、たとえば「市井雑談集」に、見越入道の出現と思って肝をつぶした著者にむかい、道心坊が〈此の所は昼過ぎ日の映ずる時、暫しの間向ひを通る人を見れば先刻の如く大に見ゆる事あり是れは影法師也、初めて見たる者は驚く也と語る〉と説明したと記載されてあるとおり、むしろ、ユーモラスな物理学現象としてとらえられる。〈影絵〉もまたユーモラスな遊びである。古代・中世・近世へと時代を追うにしたがい、日本人は〈かげ〉を合理的に受け取るように変化していった』とある。
さてもそこを押さえた上で、ウィキの「ドッペルゲンガー」を見よう。『ドッペルゲンガー現象は、古くから神話・伝説・迷信などで語られ、肉体から霊魂が分離・実体化したものとされた』。『この二重身の出現は、その人物の「死の前兆」と信じられた』(注釈に『死期が近い人物がドッペルゲンガーを見ることが多いために、「ドッペルゲンガーを見ると死期が近い」という伝承が生まれたとも考えられる』とする)。十八世紀末から二十世紀に『かけて流行したゴシック小説作家たちにとって、死や災難の前兆であるドッペルゲンガーは魅力的な題材であり、自己の罪悪感の投影として描かれることもあった』。『ドッペルゲンガーの特徴として』は、『ドッペルゲンガー』である方の『人物は周囲の人間と会話をしない』・『本人に関係のある場所に出現する』・『ドアの開け閉めが出来る』・『忽然と消える』・『ドッペルゲンガーを本人が見ると死ぬ』『等があげられる』。『同じ人物が同時に複数の場所に姿を現す現象、という意味の用語ではバイロケーション』(Bilocation:超常現象用語。同一人が同時に複数の場所で目撃される現象、或いは、その現象を自ら発現させる能力の呼称)『と重なるところがあるが、バイロケーションのほうは自分の意思でそれを行う能力、というニュアンスが強い』。『つまりドッペルゲンガーの』場合は、『本人の意思とは無関係におきている、というニュアンスを含んでいる』ことが圧倒的多数である。『アメリカ合衆国第』十六『代大統領エイブラハム・リンカーン、帝政ロシアのエカテリーナ』Ⅱ『世、日本の芥川龍之介などの著名人が、自身のドッペルゲンガーを見たという記録も残されている』。十九『世紀のフランス人のエミリー・サジェ』(Émilie Sagée:女性で教師であった)『はドッペルゲンガーの実例として有名で』、『同時に』四十『人以上もの人々によって』彼女の『ドッペルゲンガーが目撃されたといわれる』。『同様に、本人が本人の分身に遭遇した例ではないが、古代の哲学者ピタゴラスは、ある時の同じ日の同じ時刻にイタリア半島のメタポンティオンとクロトンの両所で大勢の人々に目撃されたという』。『医学においては、自分の姿を見る現象(症状)は』「autoscopy」(オトスコピー:「auto-」+「-scopy」:自動鏡像視認)、『日本語で「自己像幻視」と呼ばれる。 自己像幻視は純粋に視覚のみに現れる現象であり、たいていは短時間で消える』。『現れる自己像は自分の姿勢や動きを真似する鏡像であり、独自のアイデンティティや意図は持たない。しかし、まれな例としてホートスコピー(heautoscopy)』(この単語は心霊学用語で「幽体離脱」を示す語として有名)『と呼ばれる自身を真似ない自己像が見えたり、アイデンティティをもった自己像と相互交流する症例も報告されている。ホートスコピーとの交流は』、『友好的なものより』、『敵対的なことのほうが多い』(これは解離性同一性障害(旧多重人格障害)によく見られる)。『例えばスイス・チューリッヒ大学のピーター・ブルッガー博士などの研究によると、脳の側頭葉と頭頂葉の境界領域(側頭頭頂接合部)に脳腫瘍ができた患者が自己像幻視を見るケースが多いという。この脳の領域は、ボディー』・『イメージを司ると考えられており、機能が損なわれると、自己の肉体の認識上の感覚を失い、あたかも肉体とは別の「もう一人の自分」が存在するかのように錯覚することがあると言われている。また、自己像幻視の症例のうちのかなりの数が統合失調症と関係している可能性があり』、『患者は暗示に反応して自己像幻視を経験することがある』。『しかし、上述の仮説や解釈で説明のつくものと』、『つかないものがある。「第三者によって目撃されるドッペルゲンガー」(たとえば数十名によって繰り返し目撃されたエミリー・サジェなどの事例)は、上述の脳の機能障害では説明できないケースである』。以下、「作品中のドッペルゲンガー」では、ハインリヒ・ハイネ(Christian Johann Heinrich Heine 一七九七年~一八五六年)の詩篇、ドイツの多才な作家エルンスト・テオドール・アマデウス・ホフマン(Ernst Theodor Amadeus Hoffmann)の「大晦日の夜の冒険」(一八一五年)、イギリスの作家アルフレッド・ノイズ(Alfred Noise)の「深夜特急」、エドガー・アラン・ポーの「ウィリアム・ウィルソン」(一八三九年)、イングランドのラファエル前派の画家で詩や小説も書いたダンテ・ゲイブリエル・ロセッティの水彩画「How They Met Themselves」(「彼らはどのようにして彼らに出逢ったか」。一八六〇年~一八六四年作)、短編「手と魂」(Hand and Soul:一八五〇年)、オスカー・ワイルドの「ドリアン・グレイの肖像』」(一八九〇年)、ドイツの幻想作家ハンス・ハインツ・エーヴェルス(Hanns Heinz Ewers)の「プラーグの大学生」(一九一三年)、ドストエフスキーの「分身」(一八四六年)、ジグムント・フロイトが書いた病跡学的考証と独自の夢解釈理論の傑作であるドイツ人作家ヴィルヘルム・イエンセン(Wilhelm Jensen)作の「グラディーヴァ」(Gradiva:一九〇三年:特異的に、自分ではなくて他者のドッペルゲンガー幻想を抱く青年の物語である)を取り上げて分析した「W・イエンセンの小説『グラディーヴァ』に見られる妄想と夢」(Der Wahn und die Träume in W. Jensens „Gradiva“:一九〇七年)、パリ生まれのアメリカ人作家ジュリアン・グリーン(Julien Green)の「地上の旅人」(一九二七年)、既に本ブログ記事の前で示した芥川龍之介の「二つの手紙」(大正六(一九一七)年)、ドイツの作家ハンス・ヘニー・ヤーン(Hans Henny Jahnn 一八九四年~一九五八年)の「鉛の夜」(一九五六年)、梶井基次郎の「泥濘」(大正一四(一九二五)年。リンク先は「青空文庫」。但し、新字新仮名)及びそれを発展させた「Kの昇天」(大正一五(一九二六)年。リンク先は私の古い電子テクスト)をドッペルゲンガーを扱った作品として挙げている。さてもこれらを見ながら、私が驚いたのは、私自身が極めてドッペルゲンガー物の偏愛者であることに、今更乍ら、判ったからである。実にここに出ている作品は殆んど総てを読んでいるからなのである。フロイトのそれなどは、彼の芸術論の中ではピカ一に面白いものである。因みに、このウィキ、下方に『上段の項目「歴史と事例」の北勇治のドッペルゲンガーの話は杉浦日向子の漫画作品『百物語』上巻の「其ノ十六・影を見た男の話」でとりあげられている』とあるのだが(因みにこの日向子さんの漫画も持っている)、上段の「歴史と事例」に「北勇治」の話なんか出てないぜ? この記事を書いた人物は、この「奥州ばなし」の本篇を「歴史と事例」に記したつもりで、うっかりしているだけらしい。情けない。上記の作品記載がまめによく拾っているのに、残念な瑕疵だね。以下、モノローグ。――私はウィキペディアの記者だが、直さないよ。先年、ある出来事で、甚だ不快を覚えて以来、誤字・誤表現や、致命的な誤り以外には手を加えないことにしているからね。誰か僕のこの記事を見たら、直しといてやんな。ウィキペディアは自己の制作物はリンク出来ないからね。アホ臭――
「北勇治」不詳。
「あなたをむきたるまゝにて、障子の細く明《あ》けたる所より、緣先に、はしり出《いで》しが、おひかけて、障子をひらきみしに、いづちか行けん、かたち、みえず成《なり》たり」ここが本話のキモの部分である。この隙間はごくごく細くなくてはいけない! 北勇治のドッペルゲンガーは後ろ姿のまま、紙のように薄くなって(!)この隙間を……しゅうっつ……と抜けて行ってしまったのである……
「是迄、三代、其身の姿を見てより、病《やみ》つきて、死《しし》たり」この事実は、ごくごく主人には内密にされていた以上、現実の可能性を考えるならば、心因性ではなく、何らかの遺伝的な脳障害(最後には絶命に至る重篤なそれである)の家系であったことが一つ疑われるとは言えるようには思う。
「忌《い》みじき」違和感がない。真葛! 最高!
「勇治妻も、又、二才の男子をいだきて、後家と成《なり》たり」真葛の女らしい配慮を見よ!
「只野家、遠き親類の娘なりし」この未亡人が只野(真葛)綾(子)の夫の只野家の、遠い親類の娘であったというのである。その未亡人からの直接の聴き取りであろう。嘘臭さがここでダメ押しで払拭されるのである。短いが、優れた怪奇譚として仕上がっている。
「本草綱目」これは探し出すのに往生した! まず、巻十一の「草之一」の「人參」の「根」の「附方」の中にある以下に違いない!
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離魂異疾【有人臥則覺身外有身、一樣無別、但不語。蓋人臥則魂歸於肝、此由肝虛邪襲、魂不歸舍、病名曰離魂。】[やぶちゃん注:下略。]
(離魂異疾【人、有り、臥すときは、則ち、身の外に、身、有ることを覺ゆ。一樣にて、別(わか)ち無し。但、語らず。蓋し、人、臥すときは、則ち、魂、肝に歸す。此れ、肝虛に由りて、邪、襲ひて、魂、舍に歸らず。病、名づけて、「離魂」と曰ふ。】)
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「羅貫中が書《かけ》るものなどにある」羅貫中(生没年未詳)は元末・明初の小説家。太原(山西省)の人。号は湖海散人。知られたものでは「三国志演義」「隋唐演義」「平妖伝」などがあり、「水滸伝」も編者或いは作者の一人であるともされる。私は一作も読んだことがないので判らない。馬琴は彼の作品群を偏愛しており、特に「平妖伝」には深く傾倒し、二十回本を元に「三遂平妖伝国字評」を記しているが、それなら、それと書くであろう。判らぬ。識者の御教授を乞う。
『そは、「搜神記」にしるせしが如し』先の「柴田宵曲 續妖異博物館 離魂病」の本文頭に出る「搜神後記」(六朝時代の名詩人陶淵明撰とされるが、後代の偽作である)の誤りのように私には思われる。そちらを読まれたい。注で原文も示しておいた。
「ちかごろ、飯田町なる鳥屋の主《あるじ》の、姿のふたりに見えし、などいへれど、そは、まことの離魂病にはあらずかし」これは何かの皮肉を掛けているようだが、よく判らぬ。識者の御教授を乞うものである。「飯田町」は現在の飯田橋を含む広域附近。
「只野大膳」ウィキの「只野真葛」によれば、寛政九(一七九七)年三五歳の綾子は『仙台藩の上級家臣で当時江戸番頭の』只野行義(つらよし ?~文化九(一八一二)年:通称は只野伊賀)と『再婚することとなった。只野家は、伊達家中において「着坐」と呼ばれる家柄で、陸奥国加美郡中新田に』千二百『石の知行地をもつ大身であった。夫となる只野行義は、斉村』(なりむら)『の世子松千代の守り役をいったん仰せつかったが』、寛政八(一七九六)年八月の『斉村の夭逝により守り役を免じられ、同じ月に、妻を失っていた。行義は、神道家・蔵書家で多賀城碑の考証でも知られる塩竈神社の神官藤塚式部や漢詩や書画をよくする仙台城下瑞鳳寺の僧古梁紹岷』(こりょうしょうみん)『(南山禅師)など』、『仙台藩の知識人とも交流のあった読書人であり、父平助とも親しかった』。『かねてより』、『平助は、源四郎元輔』(次男。長庵元保がいるが、このウィキには彼の名を出すものの、その後の事蹟が記されていない。底本の鈴木氏の解説によれば、この長男は実は早逝しているのである)『の後ろ盾として』、『娘のうちのいずれかが仙台藩の大身の家に嫁することを希望しており、この頃より平助も体調が思わしくなくなったため、あや子は工藤家のため只野行義との結婚を承諾した。彼女は行義に』、
搔き起こす人しなければ埋(うづ)み火の
身はいたづらに消えんとすらん
『という和歌を贈り、暗に行義側からの承諾をうながしている』。『行義は、幼い松千代が』九『代藩主伊達周宗となったため、その守り役を解かれ、江戸定詰を免じられて』おり、一旦、『江戸に招き寄せた家族も急遽』、『仙台に帰している。したがって行義との結婚は』、『あや子の仙台行きを意味していた』とある。
なお、ここに至って、実は国立国会図書館デジタルコレクションに正字正仮名版の本作「奥州ばなし」が、二つ、あるのを発見した。一つは、
「麗女小說集 德川時代女流文學集 下」のここから(標題は「奥州波奈志」で作者名は「只野綾女」と本名で出す)
で編著者は荒木田麗女で、与謝野晶子の纂訂、冨山房大正四(一九一五)年刊である。荒木田麗女(れいじょ 享保一七(一七三二)年~文化三(一八〇六)年:或いは単に「麗」とも)は江戸中期の女流文学者で、実父は伊勢神宮内宮の神職荒木田武遠(たけとお)。十三歳で叔父の外宮御師(おんし)であった荒木田武遇(たけとも)の養女となった。詳しくはウィキの「荒木田麗女」を参照されたい。しかし、何故、彼女の小説集の最後に、真葛の本作一つだけが載っているのか、実は――判らない。晶子の解題には何も書かれていないからなのである。これは異様な感じがする。まさに怪奇談である。今一つは、
で、編者は古谷知新(ふるやともよし)、文芸書院大正八(一九一九)年刊である。孰れも総ルビに近いのであるが(後者は割注が本当に割注になっていいて、それにはルビがない)、総ルビというのが、寧ろ、気に入らない。孰れも親本が明記されていないからである。この何とも怪しい編集になる晶子の、或いは古谷氏の読みが、押し付けられる可能性が高いと言える(私の《 》の読みも私の推定に過ぎぬのだが)。しかも、後者の読みが前者を元にしている可能性も排除は出来ない。とすれば、この読みを信奉するわけにはゆかないのである。本篇は後、六篇を残すのみである。私は以上のそれを参考には一切しないことに決めた。私の自己責任で最後まで、ゆく。
にしても、私は、これを以って、稀有の才媛只野眞葛と、稀有の芸術家ソロモン芥川龍之介と、そうして、最後に真に龍之介が愛した、やはり、稀有の才媛シヴァ片山廣子の三人をコラボレーションすることが出来たと感じている。……真葛の死から百九十六年……龍之介の死から九十四年……廣子の死から六十四年……三人の笑みが、私には見える……]
[やぶちゃん注:片山廣子の随筆集「燈火節」(昭和二八(一九五三)年暮しの手帖社刊)の中の「地山謙」(ちざんけん:易占の卦(け)の名称)を電子化する。同作は当該随筆集のための書下ろしであるようで、月曜社の片山廣子の「野に住みて 短編集+資料編」の書誌を調べても、初出は見当たらない。
昨日公開した「新版 片山廣子 芥川龍之介宛書簡(六通+歌稿)」の「□片山廣子芥川龍之介宛書簡【Ⅲ】 大正一四(一九二四)年二月十一日附」の注で、本作の一部を電子化したが、抄出というのが、どうにも気持ちが悪いので、ここに新たに全文を電子化することとした。
歴史的仮名遣の誤りはママである。五月蠅くなるので、その注記はしていない。傍点は太字に代えた。
なお、先ほど調べたところ、「青空文庫」にあることが判ったが、新字に直された方であるから、参考にせず、所持する上記底本をもとに完全に私がOCRで原本を読み取ったものであって、そちらの電子データ(同一の出版社ではあるが、先行する出版物で私の底本(正字正仮名版)とは異なる)は一切全く使用していないので特にお断りしておく。私はネット上の他者のものを安易に加工データにしておいて――しかも杜撰な電子データにしておいて――知らんぷりするような卑劣なことはしない。どこかの誰彼のようには、である。]
地山謙
Tが私のために筮竹(ぜいちく)や筭本(さんぎ)を買つて来て、自分で易を立てる稽古をするやうすすめてくれたのは、もうずゐぶん古い話であつた。お茶やお花のやうに易のお𥡴古をするといふのも變(へん)な言ひかたであるけれど、初めのうち私はほんとうに熱心にその稽古を續けてゐた。易の理論は何も知ら、内卦(くわ)がどうとか外卦(くわ)がかうだとか豫備(よび)知識をすこしも持たず、ただ敎へられたまま熱心にやつてみた。
そのずつと前から、払は易を信じて事ある時には大森のK先生のお宅に伺つて占斷(せんだん)をお願ひしてゐたので、火とか水とか、天や地や風や、雷も澤も山も、さういふ象(かたち)だけはどうにか知つてゐて、おぼつかない素人易者はただもう一心に筮竹を働かしたが、そのうちに筮竹をうごかすことが非常に骨が折れて来て、人に敎へられたまま小さい十錢銀貨三つを擲(な)げてその裏面と表面で陰と陽を區別し、六つの銀貨を床(ゆか)に並べてその象(かたち)が現はれるままをしるした。この方が大そうかんたんであつた。
自分自身の身上相談をしたり、他人の迷ふことがあれば、それについて敎へを伺ふこともあつて、私のやうなものがめくら滅法に易を立てて見ても、ふしぎに正しい答へが出た。また或るときはどうにも解釋のむづかしい答へもあつた。ある時、自分の一生の卦(け)を伺つてみようと思つたが、何が出るかその答へには好奇心が持てた。若い時から中年までの私の仕事はおもに病氣と鬪(たたか)ふことであつたから(自身の病氣でなく、良人の父の病氣、良人の長い病氣、義妹の長い病氣、義弟の病氣、それにともなふ經濟上の努力、私はまるで看護帰の仕事をしに嫁に來たのだと、それを一種の誇りにも思つて殆ど一生そんな方面の働きばかりしてゐた。)たぶん私の一生の卦は「地水帥(ちすいし)」が出るのではないかと心に占つてゐた待、意外にも答へは「地山謙(ちざんけん)」であつた。私はおもはずあつと驚いて、頭を打たれたやうに感じたのである。
「謙(けん)は亨(とほ)る。君子終り有り吉(きつ)。○彖傳(たんでん)に曰く、天道は下(くだ)り濟(な)して光明。地道は卑(いやし)くして上行す。天道は盈(みつ)るを虧(か)きて謙に益(ま)し、地道は盈るを變(か)へて謙に流(なが)し、鬼神は盈るを害して謙に福(さいは)ひし、人道は盈るを惡みて謙を好む。謙は尊くして光り、卑(いやし)くして踰(こ)ゆべからず。君子の終りなり。」
謙は卽ち謙遜、謙讓の謙(けん)で、へりくだることである。高きに在るはづの艮(ごん)の山が、低きに居るべき坤(こ)んの地の下に在るのである。たぶん私は一生のあひだ地の下にうづくまつてゐなければならない。「勞謙す、君子終り有り吉」といふのは地山謙の主爻(しゆかう)言葉である。頭を高く上げることなく、謙遜の心を以て一生うづもれて働らき、無事に平和に死ねるのであると解釋した。何よりも「終り有り吉」といふ言葉は明るい希望をもたせてくれる。何か困るとき何か迷ふ時、私は常に護符(ごふ)のやうに、謙(けん)は亨る謙は亨るとつぶやく、さうすると非常な勇氣が出て來てトンネルの路を掘つてゆく工夫のやうに暗い中でもコツコツ、コツコツ働いてゆける。この信仰は迷信ではない、むしろ常識であると思ふが、私のやうにわかい時から夢想をいのちとして來た人間がこの平凡な敎訓を一日も忘れずにゐられるのはさいはひである。六十四卦の中でこの「地山謙」だけがどの爻(かう)にも凶が出ず、その代りどの爻(かう)も謙を守つて終りをまつたくするといふ約束を持つてゐる。その堅實な地味な約束が、およそ堅實でない私のための一生の救ひでもあるのだらう。私のためには天もなく火もなく風もないのである。それで滿足してゐよう。
[やぶちゃん注:易学の熟語や古文引用部は私の手に負えない(というよりも易学には全く興味がないので調べる気が起こらない)ので注さない。
「T」この随筆の刊行時の時制だと、不詳だが、「もうずゐぶん古い話」とある。そうすると、堀辰雄がまず挙げられるか。または、廣子の子息の文芸評論家であった故片山達吉(ペン・ネームは吉村鉄太郎 明治三三(一九〇〇)年~昭和二〇(一九四五)年:東京帝国大学法科卒業後、川崎第百銀行に就職、堀辰雄・神西清・川端康成らと、『文學』の創刊に参加。同誌の発行元であった第一書房の立て直しに奔走していた昭和二〇(一九四五)年、馬込にあった彼の自宅で心臓病で倒れ、四十五歳で急逝した)かも知れない。私は後者っぽい気はする。
「筭本(さんぎ)」通常は「算木」と書くが、「筭」は「算」の異体字。易で卦を表す四角の棒で、一本の長さは約九センチメートルで、六本あり、おのおの四面の内の二面は爻(こう)の「陽」を表し、他の二面は「陰」を表わす。
「大森のK先生」熊崎健翁(くまざきけんおう 明治一五(一八八二)年~昭和三六(一九六一)年)であろう。アルマ氏のサイト「Witch Doctor's Garden」の「占術師列伝~東洋編」によれば、熊崎は『姓名判断を一般に流通させた元新聞記者』本名は『健一郎。出身は岐阜県。熊﨑式姓名学の創始者。教員を務めた後、中京新聞社に入社。その後も三重成功新聞』(調べてみたが、この名の三重の地方紙は見当たらなかった)、『伊勢新聞、大阪新報、時事新報などでジャーナリスト(記者)として活躍し、熊﨑』(表記はママ)『式速記を発表』し、昭和三(一九二八)年には、東京大森に『「五聖閣」という総合運命鑑定所を設立。ジャーナリスト時代から研究していた易学の理論を核として、姓名による吉凶禍福を鑑定する「熊﨑式姓名学」を考案。「主婦之友」において発表し公表を博し、この理論が一般に広く浸透することとなり、日本における姓名判断の普及に大きく貢献することとなった』。『その著書、知識は現代でも多くの占術家の手本書として広く流通している』とある。イニシャルと地名から推定した。本書刊行時も存命である。
「主爻(しゆかう)」占われた卦の中心となる爻の組み合わせ。]
例の「新版 片山廣子 芥川龍之介宛書簡(六通+歌稿)」の「片山廣子芥川龍之介宛書簡【Ⅴ】大正一四(一九二四)年六月二十四日附」書簡にある、
『先だつて非常に不愉快な気分の時に自制心がなくなつて不愉快な詩をおめにかけた事をすまなく思つてをります自分の気持がどんなであつてもそのためにあなたのお気持まで不愉快にする必要はなかつたのですが、ただその時わたくしは支那人になりたいとさへおもふほどに悲観してゐたのでした
わたくしほどに自尊心のつよい人間が支那人になる事を祈つたと想像して御らんになつてあの不愉快な詩をおゆるし下さい ちひさいお子さんがたにおめにかゝつた時にあなたのおぐしの一すぢもあのお子さんがたのためには全世界よりも大切なものだとしみじみおもひました
さうおもひながらあなたのお心持をいためるやうなあんな詩を考へた事はわたくしもよほどめちやな人間です
すべて流していただけるものなら流していただきたいとおもひます』
と廣子が記している――謎の悪魔のような――不謹慎な「詩」――のことであるが、実は私は何んとなく、その「詩」なるものが判るような気がしているである。ただ、何の物理的根拠もないものだから、新版の注でも、一切、語らなかった。向後も語る気は、ない。
ヒントだけ示しておく。
私のブログ記事『芥川龍之介「或阿呆の一生」の「四十七 火あそび」の相手は平松麻素子ではなく片山廣子である』がそのヒントである――
四年足らずもの間の懸案であった「新版 片山廣子 芥川龍之介宛書簡(六通+歌稿)」及び同縦書PDF版を遂に「心朽窩旧館」に公開した。今年の電子化テクストの最後の特異点である。
――因みに――血圧は――教え子の忠告と降圧剤の効果絶大! 今朝は平均128/86まで落ちついた。早朝でここまで低いのは嘗てない。
精神的に片山廣子と芥川龍之介と教え子に救われた気がしている。
お読みあれかし!
三年越しの懸案であった「未公開片山廣子芥川龍之介宛書簡(計6通7種)のやぶちゃん推定不完全復元版」の公開された同書簡類の新改訂版「片山廣子芥川龍之介宛書簡(六通+歌稿)」の下書きを、先程、完成させた。これをHTMLにするのがまた一苦労だが、今年中には完成させて公開する。死んでも死に切れんからな――
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