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カテゴリー「片山廣子」の89件の記事

2021/01/23

奥州ばなし 影の病

 

     影の病

 

 北勇治と云し人、外よりかへりて、我《わが》居間の戶をひらきてみれば、机におしかゝりて、人、有《あり》。

『誰《たれ》ならん、わが留守にしも、かく、たてこめて、なれがほに、ふるまふは。あやしきこと。』

と、しばし見ゐたるに、髮の結《ゆひ》やう、衣類・帶にゐたるまで、我《われ》、常に着しものにて、わがうしろ影を見しことはなけれど、

『寸分、たがはじ。』

と思はれたり。

 餘り、ふしぎに思はるゝ故、

『おもてを、見ばや。』

と、

「つかつか」

と、あゆみよりしに、あなたをむきたるまゝにて、障子の細く明《あ》けたる所より、緣先に、はしり出《いで》しが、おひかけて、障子をひらきみしに、いづちか行けん、かたち、みえず成《なり》たり。

 家内《かない》に、その由をかたりしかば、母は、物をもいはず、ひそめるていなりしが、それより、勇治、病氣《びやうき》つきて、其年の内に、死《しし》たり。

 是迄、三代、其身の姿を見てより、病《やみ》つきて、死《しし》たり。

 これや、いはゆる影の病《やまひ》なるべし。

 祖父・父の、此《この》病にて死《し》せしこと、母や家來は、しるといへども、餘り忌《い》みじきこと故、主《あるじ》には、かたらで有《あり》し故、しらざりしなり。

 勇治妻も、又、二才の男子をいだきて、後家と成《なり》たり。

 只野家、遠き親類の娘なりし。【解、云《いはく》、離魂病は、そのものに見えて、人には、見えず。「本草綱目」の說、及《および》、羅貫中が書《かけ》るものなどにあるも、みな、これなり。俗(よ)には、その人のかたちの、ふたりに見ゆるを、かたへの人の見る、と、いへり。そは、「搜神記」にしるせしが如し。ちかごろ、飯田町なる鳥屋の主《あるじ》の、姿のふたりに見えし、などいへれど、そは、まことの離魂病にはあらずかし。】【只野大膳、千石を領す。この作者の良人なり。解云《いふ》。】

 

[やぶちゃん注:最後の二つの注は底本に孰れも『頭註』と記す。孰れも馬琴(既に述べた通り、「解」(かい)はこの写本を成した馬琴の本名)のものしたもので、五月蠅くこそあれ、要らぬお世話で、読みたくもない。しかし、書いてあるからには注はする。なお、本篇は実は「柴田宵曲 續妖異博物館 離魂病」の私の注で、一度、電子化している。しかし、今回は零から始めてある。

 標題は「かげのやまひ」。恐らくは真葛の文章中、最も広く知られている一篇の一つではないかと思われる。かく言う私も実は真葛を知ったのはこの話からであるからである。教えて呉れたのは芥川龍之介である。龍之介が、大正元(一九一二)年前後を始まりとして、終生、蒐集と分類がなされたと推測される怪奇談集を集成したノート「椒圖志異」の中である(リンク先は私の二〇〇五年にサイトに公開した古い電子テクストである)。その「呪詛及奇病」の「3 影の病」がそれである。

   *

  3 影の病

北勇治と云ひし人外より歸り來て我居間の戶を開き見れば机におしかゝりし人有り 誰ならむとしばし見居たるに髮の結ひ樣衣類帶に至る迄我が常につけし物にて、我後姿を見し事なけれど寸分たがはじと思はれたり 面見ばやとつかつかとあゆみよりしに あなたをむきたるまゝにて障子の細くあき間より椽先に走り出でしが 追かけて障子をひらきし時は既に何地ゆきけむ見えず、家内にその由を語りしが母は物をも云はず眉をひそめてありしとぞ それより勇治病みて其年のうちに死せり 是迄三代其身の姿を見れば必ず主死せしとなん

  奧州波奈志(唯野眞葛女著 仙台の醫工藤氏の女也)

   *

或いは、これがその「椒圖志異」の最後の記事のようにも見えるが、それは判らない。今回、この一篇を紹介するに際して、「芥川龍之介がドッペルゲンガーを見たことが自殺の原因だ」とするネット上の糞都市伝説(そんな単純なもんじゃないよ! 彼の自死は!)を払拭すべく、ちょっと手間取ったが、

芥川龍之介が自身のドッペルゲンガーを見たと発言した原拠の座談会記録「芥川龍之介氏の座談」(葛巻義敏編「芥川龍之介未定稿集」版)』

をこの記事の前にブログにアップしておいた。そちらも是非、読まれたい。

「影の病」「離魂病」「二重身」「復体」「離人症」(但し、精神医学用語としての「離人症」の場合は見当識喪失や漠然とした現実感喪失などの精神変調などまで広く含まれる)とも呼ぶが、近年はドイツ語由来の「ドッペルゲンガー」(Doppelgänger:「Doppel」(合成用語で名詞や形容詞を作り、英語の double と同語源。意味は「二重」「二倍」「写し」「コピー」の意)+「gänger」(「歩く人・行く者」))の方が一般化した。これは狭義には自分自身の姿を自分で見る幻覚の一種で、「自己像幻視」とも呼ばれる現象を指す。それでも私は、この「影の病い」が和語としては最も優れていると思う。但し、広義のそれらは、ある同じ人物が同時に全く別の場所(その場所が複数の場合も含む)に姿を現わす現象を指すこともあり、自分が見るのではなく、第三者(これも複数の場合を含む)が目撃するケースもかく呼ばれる。なお、私は、「離魂病」というと、個人的にはポジティヴなハッピー・エンドの唐代伝奇である陳玄祐(ちんげんゆう)の「離魂記」を、まず、思い出す人種である。「離魂記」は、私の「無門關 三十五 倩女離魂」で、原文・訓読・現代語訳を行っているので、是非、読まれたい。

 さて、やや迂遠にあるが、日本の民俗社会にとっての「影」から考察しよう。平凡社「世界大百科事典」の斎藤正二氏の「影」の解説の「かげと日本人」によれば(ピリオド・コンマを、句読点或いは中黒に代え、書名の《 》を「 」に代えた)、『〈かげ〉ということばは、日本人によって久しく二元論的な使いかたをされてきた。太陽や月の光線 lightray も〈かげ〉であり、それが不透明体に遮られたときに生じる暗い部分 shadowshade もまた〈かげ〉である。そればかりか、外光のもとに知覚される人物や物体の形姿 shapefigure も〈かげ〉であれば、水面や鏡にうつる映像 reflection も〈かげ〉であり、そのほか、なべて目には見えるが実体のない幻影imagephantom も』、『また』、『〈かげ〉と呼ばれた。そして、これらから派生して、人間のおもかげ visagelooks や肖像 portrait を〈かげ〉と呼び、そのひとが他人に与える威光や恩恵や庇護のはたらきをも〈おかげ〉の名で呼ぶようになり、一方、暗闇darkness や薄くらがり twilight や陰翳 nuance まで〈かげ〉の意味概念のなかに周延せしめるようになった。このように、まったく正反対の事象や意味内容が〈かげ〉の一語のもとに包括されたのでは、日本語を学ぼうとする外国人研究者たちは困惑を余儀なくされるに相違ない』。『なぜ〈かげ〉の語がこのような両義性をもつようになったかという理由を明らかにすることはむずかしいが、古代日本人の宇宙観』、乃至、『世界観が〈天と地〉〈陽と陰〉〈明と暗〉〈顕と幽〉〈生と死〉などの〈二元論〉的で』、『かつ』、『相互に切り離しがたい〈対(つい)概念〉を基本にして構築されてあったところに、さしあたり、解明の糸口を見いだすほかないであろう。記紀神話には案外なほど』、『中国神話や中国古代思想からの影響因子が多く、冒頭の〈天地開闢神話〉からして「淮南子(えなんじ)」俶真訓・天文訓などを借用してつくりあげられたものであり、最小限、古代律令知識人官僚の思考方式のなかには』、『中国の陰陽五行説が』、『かなり十分に学習=享受されていたと判断して大過ない。しかし、そのように知識階級が懸命になって摂取した先進文明国の〈二元論〉哲学とは別に、いうならば日本列島住民固有の〈民族宗教〉レベルでの素朴な実在論思考のなかでも、日があらわれれば日光(ひかげ)となり、日がかくれれば日影(ひかげ)となる、という二分類の方式は伝承されていたと判断される。語源的にも、light のほうのカゲは〈日気(カゲ)ノ義〉(大槻文彦「言海」)とされ、shade darkness を意味するヒカゲは』「祝詞(のりと)」に〈『日隠処とみゆかくるゝを略(ハブ)き約(ツ)ゞめてかけると云(イフ)なり〉(谷川士清「和訓栞(わくんのしおり)」)とされている。語源説明にはつねに多少とも』、『こじつけの伴うのは避けがたいが、原始民族が天文・自然に対して畏怖の念を抱き、そこから出発して自分たちなりの世界認識や人生解釈をおこなっていたことを考えれば、〈かげ〉の原義が〈日気〉〈日隠〉の両様に用いられていたと聞いても驚くには当たらない。むしろ、これによって古代日本民衆の二元論的思考の断片を透視しうるくらいである』。『〈かげ〉は、古代日本民衆にとって、太陽そのものであり、目に見える実在世界であり、豊かな生命力であった。しかも一方、〈かげ〉は、永遠の暗黒であり、目に見えない心霊世界であり、ものみなを冷たいところへ引き込む死であった。権力を駆使し、物質欲に燃える支配者は〈かげの強い人〉であり、一方、存在価値を無視され今にも死にそうな民衆は〈かげの薄い人〉であり、さらに冷たい幽闇世界へ旅立っていった人間はひとしなみに〈かげの人〉であった。当然、ひとりの個人についても、鮮烈で具体的な部分は〈かげ〉と呼ばれる一方、隠戴されて知られざる部分もまた〈かげ〉と呼ばれる。とりわけ、肉体から遊離してさまよう霊魂は、〈かげ〉そのものであった。そのような遊離魂を〈かげ〉と呼んだ用法は「日本書紀」「万葉集」に幾つも見当たる。近世になってから「一夜船」「奥州波奈志」』(!!!)『「曾呂利話」などの民間説話集に記載されている幾つかの〈影の病〉は、当時でも、離魂病の別称で呼ばれる奇疾とされたが、奇病扱いしたのは、それはおそらく近世社会全体が合理的思惟に目覚めたというだけのことで、古代・中世をとおして〈離魂説話〉や〈分身説話〉はごくふつうにおこなわれていた(ただし、こちらのほうには唐代伝奇小説からの影響因子が濃厚にうかがわれるが)のであり、現在でさえ、〈影膳〉の遺風のなかにその痕跡が残存されている』。『ついでに、〈影膳〉について補足すると、旅行、就役、従軍などにより不在となっている家人のために、留守の人たちが一家だんらんして食事するさい、その不在の人のぶんの膳部をととのえる習俗をいい、日本民俗学では〈陰膳〉と表記する。民俗学の解釈では、不在家族も同じものを食べることにより』、『連帯意識を持続しようという念願が込められている点を重視しており、それも誤っていないと思われるが、〈かげ〉のもともとの用法ということになれば、やはり霊魂、遊離魂のほうを重視すべきであろう。もっとも、〈かげ〉をずばり死霊・怨霊の意に用いている例も多く、関東地方の民間説話〈影取の池〉などは、ある女が子どもを殺されて投身自殺した池のそばを、なにも知らずに通行する人の影が水に映るやいなや、池の主にとられて死ぬので、とうとう』、『その女を神にまつったという。同じ〈かげ〉でも、〈影法師〉となると、からっとして明るく、もはや霊魂世界とすら関係を持たない。この場合の〈かげ〉は、たとえば「市井雑談集」に、見越入道の出現と思って肝をつぶした著者にむかい、道心坊が〈此の所は昼過ぎ日の映ずる時、暫しの間向ひを通る人を見れば先刻の如く大に見ゆる事あり是れは影法師也、初めて見たる者は驚く也と語る〉と説明したと記載されてあるとおり、むしろ、ユーモラスな物理学現象としてとらえられる。〈影絵〉もまたユーモラスな遊びである。古代・中世・近世へと時代を追うにしたがい、日本人は〈かげ〉を合理的に受け取るように変化していった』とある。

 さてもそこを押さえた上で、ウィキの「ドッペルゲンガー」を見よう。『ドッペルゲンガー現象は、古くから神話・伝説・迷信などで語られ、肉体から霊魂が分離・実体化したものとされた』。『この二重身の出現は、その人物の「死の前兆」と信じられた』(注釈に『死期が近い人物がドッペルゲンガーを見ることが多いために、「ドッペルゲンガーを見ると死期が近い」という伝承が生まれたとも考えられる』とする)。十八世紀末から二十世紀に『かけて流行したゴシック小説作家たちにとって、死や災難の前兆であるドッペルゲンガーは魅力的な題材であり、自己の罪悪感の投影として描かれることもあった』。『ドッペルゲンガーの特徴として』は、『ドッペルゲンガー』である方の『人物は周囲の人間と会話をしない』・『本人に関係のある場所に出現する』・『ドアの開け閉めが出来る』・『忽然と消える』・『ドッペルゲンガーを本人が見ると死ぬ』『等があげられる』。『同じ人物が同時に複数の場所に姿を現す現象、という意味の用語ではバイロケーション』(Bilocation:超常現象用語。同一人が同時に複数の場所で目撃される現象、或いは、その現象を自ら発現させる能力の呼称)『と重なるところがあるが、バイロケーションのほうは自分の意思でそれを行う能力、というニュアンスが強い』。『つまりドッペルゲンガーの』場合は、『本人の意思とは無関係におきている、というニュアンスを含んでいる』ことが圧倒的多数である。『アメリカ合衆国第』十六『代大統領エイブラハム・リンカーン、帝政ロシアのエカテリーナ』Ⅱ『世、日本の芥川龍之介などの著名人が、自身のドッペルゲンガーを見たという記録も残されている』。十九『世紀のフランス人のエミリー・サジェ』(Émilie Sagée:女性で教師であった)『はドッペルゲンガーの実例として有名で』、『同時に』四十『人以上もの人々によって』彼女の『ドッペルゲンガーが目撃されたといわれる』。『同様に、本人が本人の分身に遭遇した例ではないが、古代の哲学者ピタゴラスは、ある時の同じ日の同じ時刻にイタリア半島のメタポンティオンとクロトンの両所で大勢の人々に目撃されたという』。『医学においては、自分の姿を見る現象(症状)は』「autoscopy」(オトスコピー:「auto-+「‎-scopy」:自動鏡像視認)、『日本語で「自己像幻視」と呼ばれる。 自己像幻視は純粋に視覚のみに現れる現象であり、たいていは短時間で消える』。『現れる自己像は自分の姿勢や動きを真似する鏡像であり、独自のアイデンティティや意図は持たない。しかし、まれな例としてホートスコピー(heautoscopy)』(この単語は心霊学用語で「幽体離脱」を示す語として有名)『と呼ばれる自身を真似ない自己像が見えたり、アイデンティティをもった自己像と相互交流する症例も報告されている。ホートスコピーとの交流は』、『友好的なものより』、『敵対的なことのほうが多い』(これは解離性同一性障害(旧多重人格障害)によく見られる)。『例えばスイス・チューリッヒ大学のピーター・ブルッガー博士などの研究によると、脳の側頭葉と頭頂葉の境界領域(側頭頭頂接合部)に脳腫瘍ができた患者が自己像幻視を見るケースが多いという。この脳の領域は、ボディー』・『イメージを司ると考えられており、機能が損なわれると、自己の肉体の認識上の感覚を失い、あたかも肉体とは別の「もう一人の自分」が存在するかのように錯覚することがあると言われている。また、自己像幻視の症例のうちのかなりの数が統合失調症と関係している可能性があり』、『患者は暗示に反応して自己像幻視を経験することがある』。『しかし、上述の仮説や解釈で説明のつくものと』、『つかないものがある。「第三者によって目撃されるドッペルゲンガー」(たとえば数十名によって繰り返し目撃されたエミリー・サジェなどの事例)は、上述の脳の機能障害では説明できないケースである』。以下、「作品中のドッペルゲンガー」では、ハインリヒ・ハイネ(Christian Johann Heinrich Heine 一七九七年~一八五六年)の詩篇、ドイツの多才な作家エルンスト・テオドール・アマデウス・ホフマン(Ernst Theodor Amadeus Hoffmann)の「大晦日の夜の冒険」(一八一五年)、イギリスの作家アルフレッド・ノイズ(Alfred Noise)の「深夜特急」、エドガー・アラン・ポーの「ウィリアム・ウィルソン」(一八三九年)、イングランドのラファエル前派の画家で詩や小説も書いたダンテ・ゲイブリエル・ロセッティの水彩画「How They Met Themselves」(「彼らはどのようにして彼らに出逢ったか」。一八六〇年~一八六四年作)、短編「手と魂」(Hand and Soul:一八五〇年)、オスカー・ワイルドの「ドリアン・グレイの肖像』」(一八九〇年)、ドイツの幻想作家ハンス・ハインツ・エーヴェルス(Hanns Heinz Ewers)の「プラーグの大学生」(一九一三年)、ドストエフスキーの「分身」(一八四六年)、ジグムント・フロイトが書いた病跡学的考証と独自の夢解釈理論の傑作であるドイツ人作家ヴィルヘルム・イエンセン(Wilhelm Jensen)作の「グラディーヴァ」(Gradiva:一九〇三年:特異的に、自分ではなくて他者のドッペルゲンガー幻想を抱く青年の物語である)を取り上げて分析した「W・イエンセンの小説『グラディーヴァ』に見られる妄想と夢」(Der Wahn und die Träume in W. Jensens „Gradiva“:一九〇七年)、パリ生まれのアメリカ人作家ジュリアン・グリーン(Julien Green)の「地上の旅人」(一九二七年)、既に本ブログ記事の前で示した芥川龍之介の「二つの手紙」(大正六(一九一七)年)、ドイツの作家ハンス・ヘニー・ヤーン(Hans Henny Jahnn 一八九四年~一九五八年)の「鉛の夜」(一九五六年)、梶井基次郎の「泥濘」(大正一四(一九二五)年。リンク先は「青空文庫」。但し、新字新仮名)及びそれを発展させた「Kの昇天」(大正一五(一九二六)年。リンク先は私の古い電子テクスト)をドッペルゲンガーを扱った作品として挙げている。さてもこれらを見ながら、私が驚いたのは、私自身が極めてドッペルゲンガー物の偏愛者であることに、今更乍ら、判ったからである。実にここに出ている作品は殆んど総てを読んでいるからなのである。フロイトのそれなどは、彼の芸術論の中ではピカ一に面白いものである。因みに、このウィキ、下方に『上段の項目「歴史と事例」の北勇治のドッペルゲンガーの話は杉浦日向子の漫画作品『百物語』上巻の「其ノ十六・影を見た男の話」でとりあげられている』とあるのだが(因みにこの日向子さんの漫画も持っている)、上段の「歴史と事例」に「北勇治」の話なんか出てないぜ? この記事を書いた人物は、この「奥州ばなし」の本篇を「歴史と事例」に記したつもりで、うっかりしているだけらしい。情けない。上記の作品記載がまめによく拾っているのに、残念な瑕疵だね。以下、モノローグ。――私はウィキペディアの記者だが、直さないよ。先年、ある出来事で、甚だ不快を覚えて以来、誤字・誤表現や、致命的な誤り以外には手を加えないことにしているからね。誰か僕のこの記事を見たら、直しといてやんな。ウィキペディアは自己の制作物はリンク出来ないからね。アホ臭――

「北勇治」不詳。

「あなたをむきたるまゝにて、障子の細く明《あ》けたる所より、緣先に、はしり出《いで》しが、おひかけて、障子をひらきみしに、いづちか行けん、かたち、みえず成《なり》たり」ここが本話のキモの部分である。この隙間はごくごく細くなくてはいけない! 北勇治のドッペルゲンガーは後ろ姿のまま、紙のように薄くなって(!)この隙間を……しゅうっつ……と抜けて行ってしまったのである……

「是迄、三代、其身の姿を見てより、病《やみ》つきて、死《しし》たり」この事実は、ごくごく主人には内密にされていた以上、現実の可能性を考えるならば、心因性ではなく、何らかの遺伝的な脳障害(最後には絶命に至る重篤なそれである)の家系であったことが一つ疑われるとは言えるようには思う。

「忌《い》みじき」違和感がない。真葛! 最高!

「勇治妻も、又、二才の男子をいだきて、後家と成《なり》たり」真葛の女らしい配慮を見よ!

「只野家、遠き親類の娘なりし」この未亡人が只野(真葛)綾(子)の夫の只野家の、遠い親類の娘であったというのである。その未亡人からの直接の聴き取りであろう。嘘臭さがここでダメ押しで払拭されるのである。短いが、優れた怪奇譚として仕上がっている。

「本草綱目」これは探し出すのに往生した! まず、巻十一の「草之一」の「人參」の「根」の「附方」の中にある以下に違いない!

   *

離魂異疾【有人臥則覺身外有身、一樣無別、但不語。蓋人臥則魂歸於肝、此由肝虛邪襲、魂不歸舍、病名曰離魂。】[やぶちゃん注:下略。]

(離魂異疾【人、有り、臥すときは、則ち、身の外に、身、有ることを覺ゆ。一樣にて、別(わか)ち無し。但、語らず。蓋し、人、臥すときは、則ち、魂、肝に歸す。此れ、肝虛に由りて、邪、襲ひて、魂、舍に歸らず。病、名づけて、「離魂」と曰ふ。】)

   *

「羅貫中が書《かけ》るものなどにある」羅貫中(生没年未詳)は元末・明初の小説家。太原(山西省)の人。号は湖海散人。知られたものでは「三国志演義」「隋唐演義」「平妖伝」などがあり、「水滸伝」も編者或いは作者の一人であるともされる。私は一作も読んだことがないので判らない。馬琴は彼の作品群を偏愛しており、特に「平妖伝」には深く傾倒し、二十回本を元に「三遂平妖伝国字評」を記しているが、それなら、それと書くであろう。判らぬ。識者の御教授を乞う。

『そは、「搜神記」にしるせしが如し』先の「柴田宵曲 續妖異博物館 離魂病」の本文頭に出る「搜神後記」(六朝時代の名詩人陶淵明撰とされるが、後代の偽作である)の誤りのように私には思われる。そちらを読まれたい。注で原文も示しておいた。

「ちかごろ、飯田町なる鳥屋の主《あるじ》の、姿のふたりに見えし、などいへれど、そは、まことの離魂病にはあらずかし」これは何かの皮肉を掛けているようだが、よく判らぬ。識者の御教授を乞うものである。「飯田町」は現在の飯田橋を含む広域附近。

「只野大膳」ウィキの「只野真葛」によれば、寛政九(一七九七)年三五歳の綾子は『仙台藩の上級家臣で当時江戸番頭の』只野行義(つらよし ?~文化九(一八一二)年:通称は只野伊賀)と『再婚することとなった。只野家は、伊達家中において「着坐」と呼ばれる家柄で、陸奥国加美郡中新田に』千二百『石の知行地をもつ大身であった。夫となる只野行義は、斉村』(なりむら)『の世子松千代の守り役をいったん仰せつかったが』、寛政八(一七九六)年八月の『斉村の夭逝により守り役を免じられ、同じ月に、妻を失っていた。行義は、神道家・蔵書家で多賀城碑の考証でも知られる塩竈神社の神官藤塚式部や漢詩や書画をよくする仙台城下瑞鳳寺の僧古梁紹岷』(こりょうしょうみん)『(南山禅師)など』、『仙台藩の知識人とも交流のあった読書人であり、父平助とも親しかった』。『かねてより』、『平助は、源四郎元輔』(次男。長庵元保がいるが、このウィキには彼の名を出すものの、その後の事蹟が記されていない。底本の鈴木氏の解説によれば、この長男は実は早逝しているのである)『の後ろ盾として』、『娘のうちのいずれかが仙台藩の大身の家に嫁することを希望しており、この頃より平助も体調が思わしくなくなったため、あや子は工藤家のため只野行義との結婚を承諾した。彼女は行義に』、

 搔き起こす人しなければ埋(うづ)み火の

       身はいたづらに消えんとすらん

『という和歌を贈り、暗に行義側からの承諾をうながしている』。『行義は、幼い松千代が』九『代藩主伊達周宗となったため、その守り役を解かれ、江戸定詰を免じられて』おり、一旦、『江戸に招き寄せた家族も急遽』、『仙台に帰している。したがって行義との結婚は』、『あや子の仙台行きを意味していた』とある。

 

 なお、ここに至って、実は国立国会図書館デジタルコレクションに正字正仮名版の本作「奥州ばなし」が、二つ、あるのを発見した。一つは、

「麗女小說集 德川時代女流文學集 下」のここから(標題は「奥州波奈志」で作者名は「只野綾女」と本名で出す)

で編著者は荒木田麗女で、与謝野晶子の纂訂、冨山房大正四(一九一五)年刊である。荒木田麗女(れいじょ 享保一七(一七三二)年~文化三(一八〇六)年:或いは単に「麗」とも)は江戸中期の女流文学者で、実父は伊勢神宮内宮の神職荒木田武遠(たけとお)。十三歳で叔父の外宮御師(おんし)であった荒木田武遇(たけとも)の養女となった。詳しくはウィキの「荒木田麗女」を参照されたい。しかし、何故、彼女の小説集の最後に、真葛の本作一つだけが載っているのか、実は――判らない。晶子の解題には何も書かれていないからなのである。これは異様な感じがする。まさに怪奇談である。今一つは、

「女流文學全集 第三卷」のここから

で、編者は古谷知新(ふるやともよし)、文芸書院大正八(一九一九)年刊である。孰れも総ルビに近いのであるが(後者は割注が本当に割注になっていいて、それにはルビがない)、総ルビというのが、寧ろ、気に入らない。孰れも親本が明記されていないからである。この何とも怪しい編集になる晶子の、或いは古谷氏の読みが、押し付けられる可能性が高いと言える(私の《 》の読みも私の推定に過ぎぬのだが)。しかも、後者の読みが前者を元にしている可能性も排除は出来ない。とすれば、この読みを信奉するわけにはゆかないのである。本篇は後、六篇を残すのみである。私は以上のそれを参考には一切しないことに決めた。私の自己責任で最後まで、ゆく。

 

 にしても、私は、これを以って、稀有の才媛只野眞葛と、稀有の芸術家ソロモン芥川龍之介と、そうして、最後に真に龍之介が愛した、やはり、稀有の才媛シヴァ片山廣子の三人をコラボレーションすることが出来たと感じている。……真葛の死から百九十六年……龍之介の死から九十四年……廣子の死から六十四年……三人の笑みが、私には見える……

2020/11/28

片山廣子 地山謙

 

[やぶちゃん注:片山廣子の随筆集「燈火節」(昭和二八(一九五三)年暮しの手帖社刊)の中の「地山謙」(ちざんけん:易占の卦(け)の名称)を電子化する。同作は当該随筆集のための書下ろしであるようで、月曜社の片山廣子の「野に住みて 短編集+資料編」の書誌を調べても、初出は見当たらない。

 昨日公開した「新版 片山廣子 芥川龍之介宛書簡(六通+歌稿)」の「□片山廣子芥川龍之介宛書簡【Ⅲ】 大正一四(一九二四)年二月十一日附」の注で、本作の一部を電子化したが、抄出というのが、どうにも気持ちが悪いので、ここに新たに全文を電子化することとした。

 歴史的仮名遣の誤りはママである。五月蠅くなるので、その注記はしていない。傍点は太字に代えた。

 なお、先ほど調べたところ、「青空文庫」にあることが判ったが、新字に直された方であるから、参考にせず、所持する上記底本をもとに完全に私がOCRで原本を読み取ったものであって、そちらの電子データ(同一の出版社ではあるが、先行する出版物で私の底本(正字正仮名版)とは異なる)は一切全く使用していないので特にお断りしておく。私はネット上の他者のものを安易に加工データにしておいて――しかも杜撰な電子データにしておいて――知らんぷりするような卑劣なことはしない。どこかの誰彼のようには、である。]

 

   地山謙

 

 Tが私のために筮竹(ぜいちく)や筭本(さんぎ)を買つて来て、自分で易を立てる稽古をするやうすすめてくれたのは、もうずゐぶん古い話であつた。お茶やお花のやうに易のお𥡴古をするといふのも變(へん)な言ひかたであるけれど、初めのうち私はほんとうに熱心にその稽古を續けてゐた。易の理論は何も知ら、内卦(くわ)がどうとか外卦(くわ)がかうだとか豫備(よび)知識をすこしも持たず、ただ敎へられたまま熱心にやつてみた。

 そのずつと前から、払は易を信じて事ある時には大森のK先生のお宅に伺つて占斷(せんだん)をお願ひしてゐたので、とかとか、や、も、さういふ象(かたち)だけはどうにか知つてゐて、おぼつかない素人易者はただもう一心に筮竹を働かしたが、そのうちに筮竹をうごかすことが非常に骨が折れて来て、人に敎へられたまま小さい十錢銀貨三つを擲(な)げてその裏面と表面で陰と陽を區別し、六つの銀貨を床(ゆか)に並べてその象(かたち)が現はれるままをしるした。この方が大そうかんたんであつた。

 自分自身の身上相談をしたり、他人の迷ふことがあれば、それについて敎へを伺ふこともあつて、私のやうなものがめくら滅法に易を立てて見ても、ふしぎに正しい答へが出た。また或るときはどうにも解釋のむづかしい答へもあつた。ある時、自分の一生の卦(け)を伺つてみようと思つたが、何が出るかその答へには好奇心が持てた。若い時から中年までの私の仕事はおもに病氣と鬪(たたか)ふことであつたから(自身の病氣でなく、良人の父の病氣、良人の長い病氣、義妹の長い病氣、義弟の病氣、それにともなふ經濟上の努力、私はまるで看護帰の仕事をしに嫁に來たのだと、それを一種の誇りにも思つて殆ど一生そんな方面の働きばかりしてゐた。)たぶん私の一生の卦は「地水帥(ちすいし)」が出るのではないかと心に占つてゐた待、意外にも答へは「地山謙(ちざんけん)」であつた。私はおもはずあつと驚いて、頭を打たれたやうに感じたのである。

 「謙(けん)は亨(とほ)る。君子終り有り吉(きつ)。○彖傳(たんでん)に曰く、天道は下(くだ)り濟(な)して光明。地道は卑(いやし)くして上行す。天道は盈(みつ)るを虧(か)きて謙に益(ま)し、地道は盈るを變(か)へて謙に流(なが)し、鬼神は盈るを害して謙に福(さいは)ひし、人道は盈るを惡みて謙を好む。謙は尊くして光り、卑(いやし)くして踰(こ)ゆべからず。君子の終りなり。」

 謙は卽ち謙遜、謙讓の謙(けん)で、へりくだることである。高きに在るはづの艮(ごん)の山が、低きに居るべき坤(こ)んの地の下に在るのである。たぶん私は一生のあひだ地の下にうづくまつてゐなければならない。「勞謙す、君子終り有り吉」といふのは地山謙の主爻(しゆかう)言葉である。頭を高く上げることなく、謙遜の心を以て一生うづもれて働らき、無事に平和に死ねるのであると解釋した。何よりも「終り有り吉」といふ言葉は明るい希望をもたせてくれる。何か困るとき何か迷ふ時、私は常に護符(ごふ)のやうに、謙(けん)は亨る謙は亨るとつぶやく、さうすると非常な勇氣が出て來てトンネルの路を掘つてゆく工夫のやうに暗い中でもコツコツ、コツコツ働いてゆける。この信仰は迷信ではない、むしろ常識であると思ふが、私のやうにわかい時から夢想をいのちとして來た人間がこの平凡な敎訓を一日も忘れずにゐられるのはさいはひである。六十四卦の中でこの「地山謙」だけがどの爻(かう)にも凶が出ず、その代りどの爻(かう)も謙を守つて終りをまつたくするといふ約束を持つてゐる。その堅實な地味な約束が、およそ堅實でない私のための一生の救ひでもあるのだらう。私のためにはもなくもなくもないのである。それで滿足してゐよう。

 

[やぶちゃん注:易学の熟語や古文引用部は私の手に負えない(というよりも易学には全く興味がないので調べる気が起こらない)ので注さない。

「T」この随筆の刊行時の時制だと、不詳だが、「もうずゐぶん古い話」とある。そうすると、堀辰雄がまず挙げられるか。または、廣子の子息の文芸評論家であった故片山達吉(ペン・ネームは吉村鉄太郎 明治三三(一九〇〇)年~昭和二〇(一九四五)年:東京帝国大学法科卒業後、川崎第百銀行に就職、堀辰雄・神西清・川端康成らと、『文學』の創刊に参加。同誌の発行元であった第一書房の立て直しに奔走していた昭和二〇(一九四五)年、馬込にあった彼の自宅で心臓病で倒れ、四十五歳で急逝した)かも知れない。私は後者っぽい気はする。

「筭本(さんぎ)」通常は「算木」と書くが、「筭」は「算」の異体字。易で卦を表す四角の棒で、一本の長さは約九センチメートルで、六本あり、おのおの四面の内の二面は爻(こう)の「陽」を表し、他の二面は「陰」を表わす。

「大森のK先生」熊崎健翁(くまざきけんおう 明治一五(一八八二)年~昭和三六(一九六一)年)であろう。アルマ氏のサイト「Witch Doctor's Garden」の「占術師列伝~東洋編」によれば、熊崎は『姓名判断を一般に流通させた元新聞記者』本名は『健一郎。出身は岐阜県。熊﨑式姓名学の創始者。教員を務めた後、中京新聞社に入社。その後も三重成功新聞』(調べてみたが、この名の三重の地方紙は見当たらなかった)、『伊勢新聞、大阪新報、時事新報などでジャーナリスト(記者)として活躍し、熊﨑』(表記はママ)『式速記を発表』し、昭和三(一九二八)年には、東京大森に『「五聖閣」という総合運命鑑定所を設立。ジャーナリスト時代から研究していた易学の理論を核として、姓名による吉凶禍福を鑑定する「熊﨑式姓名学」を考案。「主婦之友」において発表し公表を博し、この理論が一般に広く浸透することとなり、日本における姓名判断の普及に大きく貢献することとなった』。『その著書、知識は現代でも多くの占術家の手本書として広く流通している』とある。イニシャルと地名から推定した。本書刊行時も存命である。

「主爻(しゆかう)」占われた卦の中心となる爻の組み合わせ。]

2020/11/27

片山廣子の「自制心がなくなつて」つい示してしまった「不愉快な詩」について

例の「新版 片山廣子 芥川龍之介宛書簡(六通+歌稿)」の「片山廣子芥川龍之介宛書簡【Ⅴ】大正一四(一九二四)年六月二十四日附」書簡にある、

『先だつて非常に不愉快な気分の時に自制心がなくなつて不愉快な詩をおめにかけた事をすまなく思つてをります自分の気持がどんなであつてもそのためにあなたのお気持まで不愉快にする必要はなかつたのですが、ただその時わたくしは支那人になりたいとさへおもふほどに悲観してゐたのでした
わたくしほどに自尊心のつよい人間が支那人になる事を祈つたと想像して御らんになつてあの不愉快な詩をおゆるし下さい ちひさいお子さんがたにおめにかゝつた時にあなたのおぐしの一すぢもあのお子さんがたのためには全世界よりも大切なものだとしみじみおもひました
さうおもひながらあなたのお心持をいためるやうなあんな詩を考へた事はわたくしもよほどめちやな人間です
すべて流していただけるものなら流していただきたいとおもひます』

と廣子が記している――謎の悪魔のような――不謹慎な「詩」――のことであるが、実は私は何んとなく、その「詩」なるものが判るような気がしているである。ただ、何の物理的根拠もないものだから、新版の注でも、一切、語らなかった。向後も語る気は、ない。

ヒントだけ示しておく。

私のブログ記事『芥川龍之介「或阿呆の一生」の「四十七 火あそび」の相手は平松麻素子ではなく片山廣子である』がそのヒントである――

「新版 片山廣子 芥川龍之介宛書簡(六通+歌稿)」及び同縦書PDF版公開

四年足らずもの間の懸案であった「新版 片山廣子 芥川龍之介宛書簡(六通+歌稿)」及び同縦書PDF版を遂に「心朽窩旧館」に公開した。今年の電子化テクストの最後の特異点である。

――因みに――血圧は――教え子の忠告と降圧剤の効果絶大! 今朝は平均128/86まで落ちついた。早朝でここまで低いのは嘗てない。

精神的に片山廣子と芥川龍之介と教え子に救われた気がしている。

お読みあれかし!

2020/11/25

新改訂版「片山廣子芥川龍之介宛書簡(六通+歌稿)」の下書きを書き上げた

三年越しの懸案であった「未公開片山廣子芥川龍之介宛書簡(計6通7種)のやぶちゃん推定不完全復元版」の公開された同書簡類の新改訂版「片山廣子芥川龍之介宛書簡(六通+歌稿)」の下書きを、先程、完成させた。これをHTMLにするのがまた一苦労だが、今年中には完成させて公開する。死んでも死に切れんからな――

2017/01/26

綿引香織氏論文「高志の国文学館所蔵 芥川龍之介宛片山廣子書簡軸 翻刻と注釈」入手

つい先ほど、高校時代の親友の手を借りて、遂に今まで公にされなかった片山廣子の芥川龍之介書簡十四通及び歌稿(これらを全三巻の軸装としたもの)についての、綿引香織氏の論文「高志の国文学館所蔵 芥川龍之介宛片山廣子書簡軸 翻刻と注釈」を所載した「高志の国文学館 紀要 第1号」を入手した。

震える手でまずは縦覧したが、全書簡の翻刻と、その詳細な注釈には激しく感銘した。

私は以前、

「やぶちゃん編 芥川龍之介片山廣子関連書簡16通 附やぶちゃん注」(初版公開2010年10月18日)

の外に、まさにこの幻の片山廣子書簡について、凡そ6年前、

「未公開片山廣子芥川龍之介宛書簡(計6通7種)のやぶちゃん推定不完全復元版」

を公開している(初版公開2010年12月19日)が、そこで私が恣意的に荒っぽく推理した――公開されず、旧所蔵者であった吉田精一・辺見じゅん両氏によって死蔵され続けたために、推理するしかなかった――それらが、遂にここにその全容を見せたのである。

この推定復元をした頃の私は、公開されたら、私の推理部分を除去して、事実原文に差し換えるつもりであったが、この綿引香織氏の労作を前にしては、とても安易にそのようにする気は、今は全く失せた。

芥川龍之介或いは片山廣子に関心のあられる方は、この「高志の国文学館 紀要 第1号」を購入せずんばならず!
とだけ言っておく。

但し、翻刻を精読させて戴いた上で、私の「未公開片山廣子芥川龍之介宛書簡(計6通7種)のやぶちゃん推定不完全復元版」注の推理の決定的誤りや不完全な部分は――片山廣子自身のために――訂正或いは削除せねばならぬことは言うまでもない。それは、じっくりとやろう。まずは御報告まで――

2016/08/26

片山廣子第一歌集「翡翠」に佐佐木信綱の序文を挿入

片山廣子の第一歌集「翡翠」に佐佐木信綱の序文を挿入した。電子化した時(2009年4月29日)には彼の著作権が存続していたため、省略していたが、二年前にパブリック・ドメインになっていたことを最近知った。遅まきながら、これで――「全」――である。

2016/08/13

杉山萠圓(夢野久作) 「翡翠を讀んで」

 

[やぶちゃん注:杉山萠圓(はうゑん(ほうえん)は夢野久作(本名は杉山直樹)のペン・ネームの一つ。片山廣子の第一歌集「翡翠」の書評である。

 大正六(一九一七)年四月刊の『心の花』に掲載された(書誌情報は二〇〇一年葦書房刊西原和海編「夢野久作著作集6」の巻末に載る「夢野久作作品年表」に拠った)。初出以外では現在までに採録されたものはないと思われ(西原氏の「夢野久作著作集」でも書誌データのみで本文は載らない)、電子化もこれが最初であると思われる。夢野久作満二十八歳、還俗し、再び福岡香椎村の農園経営に戻った直後の頃で、エンディングのリアリズムは、まさにそうしたのっぴきならない夢野久作の夢野久作たる所以、と見逃してはならぬシークエンスなのである。

 「翡翠」は「かはせみ(かわせみ)」と読み、アイルランド文学の翻訳者としても知られる歌人片山廣子の第一歌集で、佐佐木信綱主宰の結社『心の花』の出版部門である竹柏会出版部から大正五(一九一六)年三月二十五日に『心の花叢書』の一冊として刊行されたものである(私は上記の「翡翠」以外にも、彼女の代表的歌集類及び翻訳と随筆を私のサイト「心朽窩旧館 やぶちゃんの電子テクスト集:小説・戯曲・評論・随筆・短歌篇の「■片山廣子/松村みね子」でオリジナルに公開している。興味のある方は是非、参照されたい)。

 この元データは私のツイッター上での私のこれに関わる書き込みを見られた夢野久作を研究されておられる方が、資料としてお持ちの本書評の画像部分を二〇一六年八月十二日にPDFファイルで無償で提供して下さったものを視認して電子化した。

 踊り字「〱」は正字化した。表題及び署名は底本に反して前後に空行を設けた。署名は「杉 山 萌 圓」と一字空けが施されて、本文ポイント三字上げの下インデントであるがブログでの表示不具合を考えて再現していない(最後の「(香椎園藝場に於て)」も下インデントは同じ)。短歌引用の最初の「何となく眺むる庭の生垣を鳥飛び立ちぬ野に飛びにけり。」の『「』の開始位置は明らかに半角分下がっているが、改行の空けとしても不自然にしか見えないので再現しなかった。引用の「幾千の大木ひとしく靜まりて月の祝福うくるこの時」の歌にだけ最後の句点がないのはママ。

 一ヶ所だけ、冒頭の一文中の「■い表裝」の「■」の字は原本の活字が潰れていて判読が出来ない。(へん)が「にすい」か「さんずい」のように見え、後で歌の趣きを筆者が「滋い沈んだ色彩」と述べていることや、歌集「翡翠」原本の表装はネット上の写真を見る限り、現存物は濃い青か或いは紺色で「しぶい」色には見えることなどから推すと、「しぶい」の意の可能性が高いようには思われる。ここでは、資料提供者の方の意見も伺い、「澁」「歰」「渋」或いは後に出る「滋」ではないか、と推察するに留めることとする。

 なお、引用された「翡翠」からの短歌は総てに亙って原本とは表記が異なっており、一部には問題外の誤字や脱字も認められるので、末尾に全歌の対照表を作って別に掲げた

 また、文中の「竹柏園先生」は『心の花』主宰の佐佐木信綱の別号。「ちくはくゑん」とはべつにこれで「なぎぞの」とも読み、元は同じく歌人であった父弘剛の号であり、門人組織名であった。彼の評「舊衣は破れて新衣未だ成らざる姿」は「翡翠」の信綱の序文(大正五年二月クレジット)の一節に基づいた表現であるが、そのままではない。当該箇所を引く。下線はやぶちゃん。

   *

 自分がこの集を通讀して感じたことを率直にいふと、思ふに著者の歌は、今や岐路に立つてゐる。舊衣を破り捨てて、それに代るべき新しい衣が未だ成つてをらぬといふ狀態にある。固より舊衣は如何に美しとも、それにまさつた新衣だに得なば破り捨てても決して惜しむに足りない。著者の態度は、舊い自己にあきたらないで、而も未だ新たなる信念にそふ歌を得むとして得かねてゐると思はれる。而して著者がその歌風のかかる岐路に立つて、その現在をありのままに曝露しようとした勇氣は、また多とすべきである。而して自分の著者に待つところは、その將來の大成にある。

   *

である。続くその後の、『野口先生の歌はれた樣に「終局の破滅に急ぐ傾向」を帶びて居る』というのも「翡翠」の信綱に先立つ巻頭序文(英文と和文の二種)の詩人野口米次郎(署名は「ヨネ、ノグチ」)の一節に基づく(これも完全な引用ではない)。以下に当該部を示す。下線はやぶちゃん(こちらの全文は私の片山廣子第一歌集「翡翠」に電子済)。

   *

心揚りよろこびを以て吾が常に歌ひしむかしの歌は今いづこにある? 今吾は灰塵となれる廢墟なり。火災と共に吾が生の第三期は始まりぬ。

君も亦君が生の第三期に入りしと吾は信ず。

終局の破滅に急ぐは現代の特色なり。ああ、吾が心の廢墟の上に新しき歌を再び築かばや! 哀愁(かなしみ)と傷痍(きず)より生れいでたる色彩(いろ)と認識(みかた)とを以て、詩人の寂しく大なる城を再び築かばや! 靈妙にして自由なる吾が企圖(おもひ)を行はんためには、吾は理想と夢の歡樂を犧牲にして惜しまざるべし。

吾が友よ、君は吾が言葉を能く理解すべし。

   *

 

 追記。

 因みに、彼女のこの歌集の書評を、今一人、著名な人物がものしている。

 大正五(一九一六)年六月発行の雑誌『新思潮』の「紹介」欄に掲載されたもので、最後に附された括弧書きの署名は「啞苦陀」となっている。「あくだ」、かの芥川龍之介である。片山廣子が処女歌集を龍之介に献本したものと推測される。短いので、参考までに私の芥川龍之介による片山廣子歌集「翡翠」評から引く(リンク先には草稿も電子化してある)。

   *

 

 この作者は、序で佐々木信綱氏も云つてゐる樣に在來の境地を離れて、一步を新しい路に投じ樣としてゐる。「曼珠沙華肩にかつぎて白狐たち黃なる夕日にさざめきをどる」と云ふ樣な歌が、其過去を代表するものとするならば、「何となく眺むる春の生垣を鳥とび立ちぬ野に飛びにけり」と云ふ樣な歌は、其未來を暗示するものであらう。勿論、後者の樣な歌に於ては、表現の形式内容二つながら、この作者は、まだ幼稚である。しかし易きを去つて難きに就いたと云ふ事は、少くとも作者自身にとつて、意味のある事に相違ない。そして同時に又この歌集が、他の心の花叢書と撰を異にする所以は、此處に存するのではないかと思ふ。左に二三、すぐれてゐると思ふ歌を擧げて、紹介の責を完する事にしやう。

 

   灌木の枯れたる枝もうすあかう靑木に交り霜とけにけり。

 

   日の光る木の間にやすむ小雀ら木の葉うごけば尾をふりてゐる。

 

   沈丁花さきつづきたる石だたみ靜にふみて戸の前に立つ。

 

 それから母としての胸懷を歌つた歌に、眞率な愛す可きものが、二三ある。

 

   たゆたはずのぞみ抱きて若き日をのびよと思ふわが幼兒よ。

 

   我をしも親とよぶびと二人あり斯くおもふ時こころをさまる。

 

 野口米次郎氏の序も、内容に適切である。裝幀は淸洒としてゐる。 (啞苦陀)

 

   *

 当時、芥川龍之介未だ二十四歳、片山廣子は龍之介より十四年上の三十八歳、また、この時(大正五(一九一六)年)の二人は、文学者同志の束の間の儀礼的擦れ違いに過ぎなかったものとは思われる。龍之介は同年十二月に塚本文と婚約しており、また、廣子はこの歌集刊行の四年後の大正九(一九二〇)年三月に日本銀行理事であった夫片山貞治郎と死別することとなる。

 ところが、龍之介と廣子は、この八年後の七月の軽井沢で運命の再会をすることとなる。周知の通り、「或阿呆の一生」の「三十七」に出る「越し人」、かの龍之介をして『彼は彼と才力の上にも格鬪出來る女に遭遇した』と言わしめたのが彼女、片山廣子であった。芥川龍之介の絶唱「越びと 旋頭歌二十五首」(大正一四(一九二五)年三月『明星』)も彼女の捧げられたものである。芥川龍之介が最後に愛したのは確かに片山廣子であった、と私は硬く信じて疑わない。それは私のブログ・カテゴリ「片山廣子」その他もろもろで語っているので興味のあられる方は是非、お読み戴きたく存ずる(なお、以上のリンク先は総て私のオリジナルな電子テクストである)。

 

 最後に。

 本電子化の底本データを下さった方に、再度、御礼申し上げるものである。【二〇一六年八月十三日 藪野直史】]

 


     
翡翠を讀んで

       
杉山萠圓

 

 翡翠の一卷を讀み了つて其の■い表裝をぼんやり見つめて居るといろいろの背景の前にいろいろの顏つきが浮み出て來る。

「何となく眺むる庭の生垣を鳥飛び立ちぬ野に飛びにけり。」

「靑白き月の光りに身を投げて舞はばや夜の落葉のをどり。」

「幾千の大木ひとしく靜まりて月の祝福うくるこの時」

 など云ふ快よい滿ち足つた有樣。又は

「春雨や精進のけふのあへものに底の木の芽を傘さして摘む。」

「朝霧の底に夢見る高き木に鶯鳴けばわが心覺む。」

 など云ふ小じんまりした情趣などが眼にちらついて其他の滋い沈んだ色彩を蔽ひかくす樣な氣がする。これは自分の誤解ではあるまいかと思つて二三度くりかへして讀んで見たが矢張り同じ事で、却つて其沈んだ顏つきと浮き立つた背景とが益々はつきりと自分の眼に泌み込んで次第にある一つの顏つきに統一して來る。さうして其輕い華やかな背景に反き乍らじつと眼の前の暗いものを見つめて居る瞳其瞳の光さへ明らかになつて來て靜かに自分の眼と相會ふた時白自分は正に頭の中に翡翠といふ婦人の肖像畫を作り得た心地がした。さうして此女人の表情と背景とが朧氣ならず矛盾して居る理由を察し得て何と無く頭の下るのを禁じ得なかつたのである。

 此矛盾が作者の歌であつた。生命であつた。

「生くるわれと夢見るわれと手をつなぎ歩みつかれぬ倒れて死なむ。」

 又過去と現在と未來であつた。

「くだものと古き心をすてゝ見む鳥やついばむ人や踏みゆく。」

 併せては又其生涯の回顧と煩悶空虛と實在であつた。

「花も見ず息をもつかず急ぎ來しわが世の道を今ふりかへる。」

「つれつれにちひさき我をながめつゝ汝何者と問ひて見つれど。」

 とあるのを見ても疑ふ餘地が無い。

 竹柏園先生のお詞の如く「舊衣は破れて新衣未だ成らざる姿」で又野口先生の歌はれた樣に「終局の破滅に急ぐ傾向」を帶びて居る。さればこそ

「渦卷きに一足入れてかへり見し悲しき顏は忘れ難かり。」

 と云ふ歌が殊に強く自分の腦狸に印象を殘したのであらう。

 併しもう仕方が無い。行く處まで行かねばならぬ。それならば何處ヘゆくか。自分は斯樣思つて再び翡翠を取り上げて豆だらけの手で裏表を撫で乍らぼんやりと外を眺めた。窓の前にはまだ熟せぬ水蜜桃の袋がいくつも葉蔭に並んで居る。遠くの野の低い處に雲雀が鳴いて居る。空も靑黑く地も靑黑い。何時まで眺めても考へがつかないまゝに筆を擱いた。さうして自分も亦此問題を考へねばならぬ者であると深く深く感じた。

          (香椎園藝場に於て)

 

 

■やぶちゃんによる引用歌と原本「翡翠」の当該歌との対照表

 引用中の一ヶ所を除いて総てに附されてある末尾の句点は原歌集にはないので除去して示した。

 最初に本文の引用短歌を出したが、頭に「○」「△」「×」の記号を附した。「○」は「許せる範囲」、「△」は「誤りではないが、転写引用としては問題がある」レベル、「×」は生死にかかわる緊急手術必要、という一種のトリアージとして示したものである。

 矢印(↓)の次の【翡翠】とある次の行の「◎」を附したものが、元歌集「翡翠」の正規表現である。引用の方に私が附した下線部太字は原本と異なる問題箇所である。

 

○何となく眺むる庭の生垣を鳥飛び立ちぬ野に飛びにけり

【翡翠】

◎何となく眺むる春の生垣を鳥とび立ちぬ野に飛びにけり

[やぶちゃん注:「翡翠」巻頭歌。正直、それくらいは誤らずに引用して欲しかった。以下、片山廣子は夢野久作の洞察に富んだ評言には心から感謝し乍らも、引用の杜撰さには少ししょんぼりしたような気がする。]

 

○靑白き月の光りに身を投げて舞はばやの落葉のをどり

【翡翠】

◎靑白き月のひかりに身を投げて舞はばや夜(よる)の落葉のをどり

[やぶちゃん注:「翡翠」の最終歌から十三首前の歌。引用には「夜」のルビがない。頂戴したデータの前後の別な人物の記事ではルビを振った箇所は認められないものの、多量の異なった記号の傍点が沢山認められるから、『心の花』の版組上、ルビが振れなかったとは言わせない。]

 

×幾千の大木ひとしく靜まりて月の祝福うくるこの時

【翡翠】

◎幾千の大木ひとしく靜まりて月の祝福(めぐみ)をうくるこの時

[やぶちゃん注:引用ではルビがなく、おまけに格助詞「を」が脱落しているため、「祝福」は「しゆくふく」と読まれてしまう。

 

×春雨や精進のけふのあへものの木の芽を傘さして摘む

【翡翠】

◎春雨や精進のけふのあへ物に庭の木の芽を傘さしてつむ

[やぶちゃん注:「庭」を「底」とするとんでもない誤りであるが、どう考えても「底」では意味が通らないから、夢野久作の誤りではなく、単なる『心の花』側の誤植・校正ミスであろう。]

 

○朝霧の底に夢見る高き木に鳴けばわが心覺む

【翡翠】

◎朝霧の底に夢みる高き木にうぐひす鳴けばわが心覺む

 

○生くるわれ夢見るわれと手をつなぎ歩みつかれぬ倒れて死なむ

【翡翠】

◎生くる我とゆめみる我と手をつなぎ歩み疲れぬ倒れて死なむ

[やぶちゃん注:「翡翠」の最終歌から十二首前の歌。]

 

○くだものと古き心をすてゝ見む鳥やついばむ人や踏みゆく

【翡翠】

◎くだものと古き心は捨てて見む鳥やついばむ人や踏みゆく

[やぶちゃん注:「翡翠」の最終歌から十一首前の歌。]

 

○花も見ず息をもつかず急ぎ來しわが世の道を今ふりかへる

【翡翠】

◎花も見ず息をもつかずいそぎ來しわが世の道を今ふりかへる

 

つれつれちひさき我をながめつゝ汝何者と問ひて見つれど

【翡翠】

◎つれづれに小さき我をながめつつ汝何者と問ひて見つれど

[やぶちゃん注:引用の「つれつれ」の後半は底本では踊り字「〱」であるので(「〲」では、ない)、かくした。原本でも前の引用の歌の次に配されている一首である。]

 

渦卷きに一足入れてかへり見し悲しき顏は忘れ難かり

【翡翠】

◎渦まきに一足入れてかへりみしかなしき顏はわすれがたかり

2015/04/10

片山廣子の芥川龍之介宛の幻の書簡の所在が判明した

片山廣子の芥川龍之介宛の幻の書簡の在り所が僕の昔馴染みから遂に知れた!――何か新しい動きが起りそうな予感が――する――!

やぶちゃん編 芥川龍之介片山廣子関連書簡16通 附やぶちゃん注

の原本(これは旧所蔵者であった吉田精一と辺見じゅん以外、如何なる芥川龍之介研究家も語っていない。ということはこの二人以外、親しく実見した研究者がいないということを意味する幻の書簡なのである)が公にされる可能性――現われていない秘められた事実が明らかにされるかもしれない可能性――が出て来たということである。

何だか……わくわくしてきた!……

2014/07/21

芥川龍之介「或阿呆の一生」の「四十七 火あそび」の相手は平松麻素子ではなく片山廣子である

 

       四十七 火あそび

 彼女はかがやかしい顏をしてゐた。それは丁度朝日の光の薄氷(うすごほり)にさしてゐるやうだつた。彼は彼女に好意を持つてゐた。しかし戀愛は感じてゐなかつた。のみならず彼女の體には指一つ觸れずにゐたのだつた。

 「死にたがつていらつしやるのですつてね。」

 「えゝ。――いえ、死にたがつてゐるよりも生きることに飽きてゐるのです。」

 彼等はかう云ふ問答から一しよに死ぬことを約束した。

 「プラトニツク・スウイサイドですね。」

 「ダブル・プラトニツク・スウイサイド。」

 彼は彼自身の落ち着いてゐるのを不思議に思はずにはゐられなかつた。

   *

 これは芥川龍之介の「或阿呆の一生」の一節である(以下、リンクは総て私のオリジナル・テクストである)。

 この章の次は、以下である。

   *

       四十八 死

 彼は彼女とは死ななかつた。唯未だに彼女の體に指一つ觸つてゐないことは彼には何か滿足だつた。彼女は何ごともなかつたやうに時々彼と話したりした。のみならず彼に彼女の持つてゐた靑酸加里(せいさんかり)を一罎(ひとびん)渡し、「これさへあればお互に力強いでせう、」とも言つたりした。

 それは實際彼の心を丈夫にしたのに違ひなかつた。彼はひとり籐椅子に坐り、椎の若葉を眺めながら、度々死の彼に與へる平和を考へずにはゐられなかつた。

   *

 この「四十九」との連続性から、多くの読者はこれを芥川龍之介が自死直前に起こした平松麻素子との心中未遂事件(昭和二(一九二七)年四月七日とされる)と関連づけ、この「彼女」は妻文が相談相手として接近させた幼馴染みの平松であると無批判に信じ続けてこなかったであろうか? 少なくとも私はまさに無批判にそう思続けてきた。それは研究者の間でも日の同定すらはっきりしなかった(七日の同定は二〇〇八年刊行の新全集の宮坂覺氏による年譜による。一九九二年河出書房新社刊の鷺只雄著「年表作家読本 芥川龍之介」では四月十六日の項にこの未遂事件を掲げ、『七日とする説もある』とする)平松との心中未遂という、自死完遂の二ヶ月前の事実があまりにもスキャンダラスで強烈であったからに他ならない。そうしてまた、平松と龍之介の関係が、ほぼここに語られているようなものであった事実とも一致するからでもある。

 しかし、本当にそうだろうか?――

 この「彼女」とは本当に平松麻素子なのだろうか?――

《補注:但し、私は正直言うと、この「四十八 死」は総体に於いて虚偽記載であると推定している。それは芥川龍之介の自死が一般に信じられているジャールやヴェロナールによるものではなく、青酸カリによるものだと考えているからである(宇野浩二 芥川龍之介 十一 ~(3)の私の注などで既に何度もその論理的理由は書いた)。そうしてそれはこのように関係を持っていた愛人から得たものではないとも思っているからである。そもそも自死後に青酸カリによる服毒自殺であると万一、処理された場合、この記載は極めて都合の悪い事態を招くからである。即ち、この「彼女」が一般に考えられているように平松だとすれば、彼女には立派な自殺幇助罪の嫌疑がかかることになり、それはダンディズムに徹した彼には最も忌まわしい事態となるからである(実際には芥川家の主治医で俳句を通しての友人でもあった下島勲氏によって現行の薬物と断じられて現在に至るのであるが、ここにも私は何か下島氏との間に何らかの事前の密約のようなものがあったのではないかと疑っている)。寧ろ、凡そ平松はそうしたものを入手出来得る女性では到底なく、仮に疑われても直ぐに嫌疑が晴れるような、凡そ信じがたい嘘として、龍之介はこの怪しげな虚偽の章段を創って差し挟んだのではなかったか、と私は思っている――ではどこから青酸カリを入手したか? それは山崎光夫氏の「藪の中の家-芥川自死の謎を解く」で目から鱗の推理がなされている。是非、お読みあれ。――ほんのすぐ近くにそれは――あったのである(なお、毎回ここでお茶を濁して終わるのは、偏えに、言ってしまうと山崎氏の本を読む楽しみが著しく減ぜられてしまうからであって、言わないことに実は他意はないのである。それほど「藪の中の家」はスリリングなのだ)。》

 とすれば――四十八の「彼女」が自殺未遂をした平松だとすれば――「四十七 火あそび」の「彼女」は『彼は彼女に好意を持つてゐた。しかし戀愛は感じてゐなかつた。のみならず彼女の體には指一つ觸れずにゐたのだつた』と、「四十八 死」の『彼は彼女とは死ななかつた。唯未だに彼女の體に指一つ觸つてゐないことは彼には何か滿足だつた』の完全に同一に見える叙述内容から、この「四十七 火あそび」の「彼女」も平松であると誰もが認定するであろう。

 しかし――である。

 そもそも章段がここまで強い連関性を持って並んでいる「四十七」と「四十八」は「或阿呆の一生」の中では実は極めて異例であるという事実に私は、ふっと気づいた。

 と同時に、「プラトニツク・スウイサイドですね。」/「ダブル・プラトニツク・スウイサイド。」という応答が、ある疑義の余韻とともに私の鬱々たる脳内に反響し始めたのである。

 「或舊友に送る手記」とともに芥川龍之介の文学的遺書であるところの「或阿呆の一生」の冒頭、龍之介は盟友久米正雄に当てた前書の中で、『君はこの原稿の中に出て來る大抵の人物を知つてゐるだらう。しかし僕は發表するとしても、インデキスをつけずに貰ひたいと思つてゐる』と述べているが、実はこれは龍之介特有の悪戯っぽい作為なのだと私は確信している。久米は実際には「インデキス」はつけられないのである(実際に久米は死後、龍之介の友人たちとの座談の中で本作の「月光の女」の同定を試みたりしているが、そこには現在の知見からみれば明らかな誤りが多く含まれている。宇野浩二 芥川龍之介 十 ~(4)などを参照)。いや、今もって芥川龍之介の研究者の間でも本作の「インデキス」はまるで完備していないと言った方が正しいのが実情である。

 それは何故か?

 それはまさに、久米や佐藤春夫らが指摘し、私も「月光の女」の同定を試みた幾多の作業の中(『芥川龍之介の幻の「佐野さん」についての一考察 最終章』に主な考察のリンクを附してあるので未見の方は参照されたい)に痛感した、龍之介自身による複数の女性の合体が「月光の女」の正体であり、しかもその複数が恐るべき数に上るものであり、しかも「或阿呆の一生」の章段が意識的に時系列をシャッフルして並べ変えられているからである。その際、龍之介は、「月光の女」又は龍之介の愛した「彼女」を〈読者一人ひとりが勝手に錯誤してしまい易いように〉計算して恣意的に配置してもいるのである。

 これは龍之介が最後に我々に仕掛け残した自伝的作品への文学的虚構としての迷宮(ラビリンス)であり、自己告白に対する驚くべき少年染みたはにかみであり、そうして何より、彼が愛した数多の「彼女」たち(そこには実は「或阿呆の一生」には実際には書かれていない女性も含めてである)へのおぞましいまでの復讐であると同時に、胸掻き毟る現在形の懸恋の情のほのめかしでもあるのである。即ち、本作を読んだ、龍之介と接触し、何らかの恋愛関係にあった女性たち――肉体関係の有無を問わない――が読んだ際に「これは私のことだわ!」と思わせるような巧妙な仕掛けが施されたものであるということである。

 しかも龍之介は、それを章単位ではなく、それぞれの章のある部分が、ある特定の女性(芥川龍之介が/を愛した女性)の特徴を限定する〈かのように見えるように〉書いているのである。

 そうして、性交渉を持たなかった数多の女性にまでその感染を広げるための、恐るべき生物兵器こそが、この二章の『彼女の體には指一つ觸れずにゐたのだつた』であり、『唯未だに彼女の體に指一つ觸つてゐないことは彼には何か滿足だつた』であったのである。それは如何にも童貞の少年ナルシスの甘い〈ほのめかし〉の連続した仕掛けなのである。

 そうした仕掛けである――

 とするなら――

――我々は取り敢えず、この二章は実は繋がっていない無縁なものを巧みにモンタージュしたものとして、「四十七 火あそび」と「四十八 死」の「彼女」を別人とすべきなのである。

 そこで「四十七 火あそび」である。今一度、掲げる。

 

       四十七 火あそび

 彼女はかがやかしい顏をしてゐた。それは丁度朝日の光の薄氷(うすごほり)にさしてゐるやうだつた。彼は彼女に好意を持つてゐた。しかし戀愛は感じてゐなかつた。のみならず彼女の體には指一つ觸れずにゐたのだつた。

 「死にたがつていらつしやるのですつてね。」

 「えゝ。――いえ、死にたがつてゐるよりも生きることに飽きてゐるのです。」

 彼等はかう云ふ問答から一しよに死ぬことを約束した。

 「プラトニツク・スウイサイドですね。」

 「ダブル・プラトニツク・スウイサイド。」

 彼は彼自身の落ち着いてゐるのを不思議に思はずにはゐられなかつた。 

 

 まず、『火あそび』という標題である。

 前に述べた通り、心中未遂を起こした平松麻素子は、妻文が夫の自殺の危険を憂慮して文自身が幼馴染みの友人である平松を相談相手として龍之介に接近させたことが分かっている。しかも平松との肉体関係は事実なかったというのが関係者の見解でもあるのである。そうした如何にも特異な関係性にあった平松との関係を――無分別なその場限りの〈情事〉を指す「火あそび」――という語で、かのストーリー・テラーたる文飾彫鏤巧みな芥川龍之介が、使うはずが、ない。「火あそび」という以上、それは妻文には知り得ぬような相手であってこそ「火あそび」である。但し、それは『彼女の體には指一つ觸れずにゐ』るものでも構わない。これはその気がないという意ではない。また『戀愛は感じてゐなかつた』の『戀愛』も、それこそ肉体関係を直ちに希求するような性的欲情を主とする心理状態という意味でとることが出来、それは実際に『戀』していなかったことの証左ではないという点にこそ着目すべきであろう。

……文に知られることのない……肉体関係のない……それをどこかで躊躇させるような女性……しかし龍之介が非常に強い恋情を抱いており……出来得るならば一緒に心中したいと思う女性……

しかもそれは平松のような――一緒に死んでくれるかも知れないと思わせるような多分に感傷的で同情的なか弱い印象の女性――ではないことは明白である。そんな女性は向こうから〈英語で〉『プラトニツク・スウイサイドですね。』とは私は決して言わないと断言出来る。

 以上が、この真の「彼女」の属性である。 

 

 次に『彼女はかがやかしい顏をしてゐた』という叙述である。

 既に私が誰を「彼女」と同定しているかは大方の方はお気づきであろう。

 この『彼女はかがやかしい顏をしてゐた』という表現は直ちに、「或阿呆の一生」の別の一章を直ちに連想させる。

   *

      三十七 越し人

 彼は彼と才力(さいりよく)の上にも格鬪出來る女に遭遇した。が、「越し人(びと)」等の抒情詩を作り、僅かにこの危機を脱出した。それは何か木の幹に凍(こゞ)つた、かゞやかしい雪を落すやうに切ない心もちのするものだつた。

   風に舞ひたるすげ笠(がさ)の

   何かは道に落ちざらん

   わが名はいかで惜しむべき

   惜しむは君が名のみとよ。

   *

この『木の幹に凍つた、かゞやかしい雪』という表現である。この『かゞやかしい雪』のような『顏をしてゐ』る『彼と才力の上にも格鬪出來る』『彼女』とは、芥川龍之介が最後に胸掻き毟る恋をした相手――片山廣子――である。

 『彼女の體には指一つ觸れずにゐた』は廣子との関係に照らすと事実であると断言出来るし、その廣子が「死にたがつていらつしやるのですつてね。」と龍之介に語りかけるのも如何にも首肯出来、それに対して、龍之介が丁寧語で「えゝ。――いえ、死にたがつてゐるよりも生きることに飽きてゐるのです。」と微妙な抑鬱的感触という訂正まで加えて答えるというのも、『才力の上にも格鬪出來る』と彼が絶賛した相手ならではの答えとして相応しい。この答えは平松のみでなく、それ以外の数多龍之介の周辺に見え隠れする如何なる女性(にょしょう)に対する台詞としても似合わしくなく、ただ片山廣子への答えだったと考えた時にのみ、私には最も自然且つ相応しい台詞として「真」であると言い得るのである。

 「死にたがつていらつしやるのですつてね。」

 この台詞は絶対に平松麻素子の台詞ではない。

 「ですつてね」は、そうした噂が広まって他者に知られてしまった後の伝聞に基づく「彼女」の台詞である。平松は既に述べた通り、龍之介の自殺願望を食い止めるために文に懇願されて彼の話し相手になったのであり、その彼女が文の手前からも、こんな火に油を注ぎかねない素(す)の台詞を安易に謂い掛けるというのは、それこそ却って不自然の極みなのである。

 『彼等はかう云ふ問答から一しよに死ぬことを約束した』。この地の文を、まずは芥川龍之介と片山廣子の二人だけの秘めた会話の冗談とスル―して取り敢えず進める(実際には冗談ではなかったことの考証は最後に述べる)。

 問題は次の会話である。

 

 「プラトニツク・スウイサイドですね。」

 「ダブル・プラトニツク・スウイサイド。」

 

この英語の会話は無論、素人にも解る英語ではある。解るが、しかし、この二つの台詞の英語は尋常な英語表現ではない(と私は思う)。意味がというより、検索をかけてもらっても解る通り、英語としての普通一般に用いられる表現ではないということである。当時の東京帝国大学英文科卒の流行作家芥川龍之介に対して、相手の女の方が「プラトニツク・スウイサイドですね。」という異様な水を向けて来ること、それに対して極めて奇異な造語の「ダブル・プラトニツク・スウイサイド」で龍之介が応えているという、このシチュエーションを実際に想起してみてもらいたい。

 この女性は当時の平均的な一般女性ではないことがよく分かる。

 彼女は英語に堪能であるからこそ、先にすかさず「プラトニツク・スウイサイドですね。」と語りかけたのであり、その謂いの背後にある彼女の才気の理解度を分かった上で、二重の、双方向性の、肉の臭いを全く持たない男女の自殺という、異常な英語「ダブル・プラトニツク・スウイサイド」で龍之介は応酬しているのである。これは危ないが故に素敵な智の遊びに他ならない。そうしてそうした遊びをし得る芥川龍之介の知人女性というのは、これ、片山廣子をおいて他にはない、のである。

 『彼は彼自身の落ち着いてゐるのを不思議に思はずにはゐられなかつた』のは何故か。これが二人の冗談だったから――では――ない。

 これは

――この「彼女」とは実際にそうした心中をすることはない

――この「彼女」はそんな心中をする女性では多分ないから

――あるとしても

――僕はしない

――僕は出来ない

――だからこそ

――僕はこの人を愛していられる

――愛したままで

――死ねる

と龍之介が思ったからこそ、彼は彼自身、存外落ち着いていられたのだと考えれば納得がいく。 

 

 片山廣子の後年の随筆に「五月と六月」(松村みね子名義・芥川龍之介の死後二年目の昭和4(1929)年6月号の雑誌『若草』に掲載がある(この作品については私の芥川龍之介と絡めた詳細な論考『「片山廣子「五月と六月」を主題とした藪野唯至による七つの変奏曲』がある。未読の方は是非読まれたい。私の貧しいオリジナル論考の中ではかなりの自信作の一つではある)。この前半部「五月」のパートは誰が読んでも相手が芥川龍之介であることが明白である。その後半に附された「六月」に相当する部分を引く。

 

 圓覺寺の寺内に一つの廢寺がある。ある年、私はそこを借りて夏やすみをしたことがあつた。山をかこむ杉の木に霧がかゝり、蝙蝠が寺のらん間に巣くつて雨の晝まごそごそと音をさせることがあつた。

 震災で寺がまつたく倒れたと聞いて、翌年の六月、鎌倉のかへりに寄つて見た。門だけ殘つてゐた。松嶺院といふ古い札がそのまゝだつた。くづれた材木は片よせられ、樹々は以前のとほりで、梅がしげり白はちすが咲き、うしろの崖が寺ぜんたいに被さるやうに立つてゐた。その崖からうつぎの花がしだれ咲いて、すぐ崖の下に古い井戸があつた。

 深くてむかし汲みなやんだことを思ひ出して、そばに行つて覗いて見た。水があるかないか眞暗だつた。そこへ來て死ねば、人に見えずに死ねるなと思つた。空想がいろんな事を教へた。落葉のかさなりを踏んで立つてゐると、井戸べりの岩を蜥蜴がすつと走つて行つた。その時はじめて私は薄ぐもりの日光がすこし明るく自分と井戸の上にあるのに氣がついた。同時に死んだつて、生きてるのと同じやうにつまらない、と氣がついた。その時の私に、死は生と同じやうに平らで、きたなく、無駄に感じられた。そこいらの落葉や花びらと一緒に自分の體を蜥蜴のあそび場にするには、私はまだ少し體裁屋であつたのだらう。そのまゝ山を下りて來た。

 

「震災で寺がまつたく倒れたと聞いて、翌年の六月、鎌倉のかへりに寄つて見た」とあることから、これは大正十三(一九二四)年六月、廣子四十六歳のことであることが分かる。この頃、片山廣子は未だ芥川龍之介とは親密ではなかった。但し、全く知らなかった訳ではない。大正五(一九一六)年に芥川二十五歳の折り、「翡翠 片山廣子氏著」という廣子の歌集評を『新思潮』に掲載、彼女とは何度かの手紙のやりとりがあり、廣子が芥川家を訪問してもいる。その時、廣子、三十八歳。しかし、二人が男女を意識し、急速に接近したのは正にこの廣子円覚寺訪問の一ヵ月後、大正十三(一九二四)年七月のことであった。しかも本作自体は龍之介の自死後に書かれたものである。

 この『そこへ來て死ねば、人に見えずに死ねるなと思つた。空想がいろんな事を教へた。落葉のかさなりを踏んで立つてゐると、井戸べりの岩を蜥蜴がすつと走つて行つた。その時はじめて私は薄ぐもりの日光がすこし明るく自分と井戸の上にあるのに氣がついた。同時に死んだつて、生きてるのと同じやうにつまらない、と氣がついた。その時の私に、死は生と同じやうに平らで、きたなく、無駄に感じられた』という廣子の述懐は、廣子自身がこの時そう遠くない近過去に自殺を思ったことがあるということを示している(でなければ、昔の馴染みの円覚寺の古井戸を訪ねて覗いてそしてここなら「死ねるな」などとは人は思わぬ)。しかし時系列から言えば、これは前半の「五月」よりも遙か以前となり、「五月」の主人公が芥川龍之介であるならば、この話は何の関係もない、ということになってしまう。しかも本作の前半部とは一見、何の脈絡も持たせずに廣子は叙述しているのである。こんなおかしな話はない。

 実はこの「五月と六月」の「六月」の部分には、ある巧妙な仕掛けがなされているのではあるまいか?

 この廣子が自殺を思ったのは、実はこの井戸の覗いた後の出来事であり、それを井戸に附会させることで時間設定を遡らせ、前半の人物が芥川龍之介であることが読者に分からないようにした(芥川龍之介であるはずがないと物理的に思わせた)のではなかったか?

 とすれば――実は廣子が考えた自殺というのは、実は生前の芥川龍之介と交わしたことがある心中の約束であったのではなかったか?

 本作「五月と六月」の前半に覆面の相手芥川龍之介を登場させておいて、しかもそこにこの一見無関係に見える文章をさりげなく投げ込んだ廣子の隠蔽の意図は、そこでうっかり安心して自死を匂わせる叙述を挟んで龍之介への秘かな追悼としてしまった結果、逆に龍之介と彼女が以前秘かに自死を語り合ったことがあったのではなかったかという私の疑惑を深くさせる結果となったということなのである。

 最後に。「火あそび」ならぬ、私の「あそび」で筆を措くこととする。

「或阿呆の一生」の「四十七 火あそび」の台詞部分をシナリオ風に書き直してみよう。因みに、ト書きの「よろしく」というのは、一部のなまくらな脚本家が現場の監督や俳優に当該部分の演出や演技を丸投げする際に用いる掟破りの業界用語である。 

 

廣子 「死にたがっていらっしゃるのですってね。」

龍之介「ええ。――いえ、死にたがっているというよりも、生きることに飽きているのです。」

(二人、これに類した問答、よろしく。その中で、一緒に死ぬことを約束するシーン、よろしく)。

廣子 「プラトニック・スゥイサイドですね。」

龍之介「ダブル・プラトニック・スゥイサイド。」

(龍之介、こう答えた自身が如何にも平然として落ち着いて笑みさえ浮かべているのを不思議そうに感じている風。)…………

 

 

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