浦沢直樹様 「トイレのピエタ」を描いて下さい
映画化なんか問題じゃない! 是非、あなたに描いて貰いたいのです! あの「ノース2号」を描いたあなたに!!!
映画化なんか問題じゃない! 是非、あなたに描いて貰いたいのです! あの「ノース2号」を描いたあなたに!!!
今日、以前からやりたかった浦沢直樹の「プルートゥ」の「ノース2号の巻」を、一時間かけて近代文学の講座(僕の今の学校は単位制総合高校で普通科にはないオリジナルな講座がある。おまけに3年生が自由登校になって個人授業が一気に増えた)を受けている高校二年生の女子と作品構成や伏線を指摘しながら一緒に「読んだ」。
彼女は一回読んだことがあるとのことだったが……
二人で読み終わって……
彼女も僕も二人とも……
泣いていた……
こんな「授業」は……
僕の教師生活で……
最初で最後……
1.1 ボラー
1.1.1 「ホギャアアア…」と泣き叫ぶその声
1.1.2 つるつるでちんちくりんのその身体
1.1.1.2 手塚先生の原作も同様の形態である
1.1.3 惑星改造ロボットとして星を原初の形に改造するその機能
1.1.3.1 とすれば惑星改造ロボット・ボラーと砂漠緑化ロボット・プルートゥは本来ガロンのような一体であるべきものである
1.1.3.2 しかし惑星改造という領域の問題解決のためには反陽子爆弾による自己破壊を必要とせざるを得ない
1.1.3.3 ゆえにプルートゥとボラーは引き裂かれざるを得ない
1.2 ボラーはゴヤの巨人であった<過去に証明済>
1.2.1 ゴヤの巨人は闘争の生み出す力とその憎悪のシンボルである
1.2.1.2 しかしそれは愛憎の表現 憎しみの生み出す哀しみでもある
1.2.1.3 それは言い換えれば感情のカオスに他ならない
1.2.2 ボラーは原初の感情のカオスである
1.3 ボラーはヒラニア・ガルパ(スター・チャイルド)である
2 「1.1.3.3」からボラーはプルートゥと一体になることがゾルレンである
2.1 ボラーとプルートゥは一体となって機能としては全ったきものとなった
3 プルートゥはサハドである
3.1 プルートゥはサハドの希望と絶望の記憶である
3.2 プルートゥはアトムから総ての人工知能の体験した哀しみを完全に理解した
3.2.1 総ての人工知能とはモンブラン・ノース2号・ブランド・ヘラクレス・イプシロン・ゲジヒト そして そのハイブリッドな知性体としてのアトムである
4 総ての人工知能の総体となったプルートゥとボラーは全ったき存在である
4.4 全ったき存在は同じ失敗は繰り返さない
5 真理命題が与えられる
5.1 「憎悪からは何も生まれない」
5.1.1 「地球が終わってもおまえを離さない」
5.2 「4.4」からそれは必ず守られる
5.2.2 注意! 不完全で愚かである「人間」存在は同じ失敗を繰り返す
6 全ったき者は全ったき存在である
6.1 全ったき存在は総ての自己を守る
6.2 全ったき存在は総ての他者を守る
6.3 全ったき存在は総ての世界を守る
7 総ての世界を守る全ったき存在こそは人間のゾルレンである
8 「史上最大のロボット」とはモンブラン・ノース2号・ブランド・ヘラクレス・イプシロン・ゲジヒト・アトム・プルートゥ・ボラーにシンボライズされた人工知能の総体である
9 総ての世界を守る全ったき存在である「史上最大のロボット」は確かに浦沢直樹の「プルートゥ」で世界を守った
9.1 警告! 世界を守るのは神ではない
10 「史上最大のロボット」こそ/のみが「真の人間」である
*
僕の今まで書いた「プルートゥ」のブログ記事を纏めて読めるように「プルートゥ」をカテゴライズした。よろしければ、こちらで纏めてお読みあれ。
《垂翅PC余命連禱》に相応しい――
読み損なっていた「プルートゥ」の06と07を読む――
06――
最後にゲジヒトの最期がやってくる――
それは哀しく切なく透徹した美しさで僕らに迫る――
……何もかもが終わった後に――アントンの抱えた薔薇が雨に匂ってくる――
そうして僕にも――
確かなものとしてゲジヒトの(!)「喜び」と「悲しみ」が直感される――
07――
プルートゥ出現――僕には如何にもあっけない「出現」――
あっけなく現したその姿も手塚先生のプルートゥの「エヴァンゲリヲン」流――
でも、これはきっと確信犯だ!――もう、みんな気がついている!――僕らが本当に見たいのは、本当に知りたいのは――「感じたい!」のはボラーなんだ!――そうだ、ボラー、なんだ!
みんなで叫ぼう! あの孤児の少年たちと共に!
そうして気付く――
エプシロンは「サクリファイス」のアレクサンデルであり――
エプシロンは「ノスタリジア」のドメニコだ――
そうして――ボラーとは……誰か……
――「Act.49 サプライズパーティの巻」19下方のコマ……戦場の硝煙の中の巨大なもの……
――「Act.55 大いなる目覚めの巻」10+11上方のコマ……それは……あの「巨人」なり……
………………
Goya y Lucientes, Francisco José de
“The Colossus”
1808-12; Oil on canvas, 45 3/4 x 41 1/4 in; Museo del Prado, Madrid(画像元:“the WebMuseum,Paris”)
エプシロンへの追伸:どうかエプシロンよ、そのフォトンでもって、僕のPCを葬送してくれ給え――
*
「プルートゥ」を我に教えし教え子Y.O.へ。
これは僕の勝手な印象を綴ったものに過ぎない。「Act.48 六十億の偏りの巻」の22の伝馬博士の「そ………その顔は……」というコマからは、プルートゥやボラーの『内実としての本当の』60億の偏りの顔とは、我々の誰もが知っている顔でなくてはならないように思われる。さて、我々の誰もが知っている顔は――人類に最も知られた顔と言えば――善悪の彼岸の顔――全人類の罪を一身に受ける者――ナザレのイエスか?……また語り合いたいものだ。
* *
因みに、昨年、この有名な“The Colossus”はゴヤの真筆ではなく、彼の弟子の筆になるものという鑑定が専門家から提出されているということを、今日、この画像を探しに行って初めて知った。巨人の顔や下界の人物や馬の描写が粗雑なんだそうだ――ちょっと寂しい気がした――
「“Живые мощи”(Living Relic)中山省三郎訳「生神様」より
*
「歌を?……おまへが?」
「ええ、歌を、古い歌を。輪踊り(ハラウオド)のや、皿占(さらうらな)ひのや十二日節のなど、何でも歌ひますの。わたし、今でもたくさん知つてゐて、忘れないんでございます。ただ普通の踊りの歌は歌ひません。今の身分では仕方がございませんから」
「一體、どんな風に歌ふの、……自分ひとりのために歌ふのか?」
「ええ、さうですの、聲を立てて。大きな聲は出ませんけれど、それでも人に分かるくらゐに。あの、さつきお話しましたでせう――娘が來るつて。あれは孤し兒で、よく分かる子でございますよ。それで、私はあの子に歌を教へましてね、もう四つほど覺えました。ひよつとしたら本當になさらないでせうね? では一寸お待ち下さいまし、直ぐにお聞かせ申しますから……」
ルケリヤは息を繼いだ……この半ば死にかかつてゐる生物(いきもの)が歌を唄はうとしてゐるのだといふ考へは、思はず私のうちに恐怖を喚び起こした。しかし、私が一言(ひとこと)もいひ出さないうちに、私の耳には、長々とのばした、殆んど聞きとれるかとれないくらゐの、しかも清く澄んだ、しつかりした聲が響いて來た……、續いて二聲、三聲と。ルケリヤは『草場のなかで』を歌つた。彼女は化石したやうな顏のけしき一つ變へずに、眼さへ一ところに据ゑたまま歌ふのであつた。とはいへ、このあはれな、力をこめた、細い煙のやうにふるへ勝ちな聲たとへやうもなく哀切なひびきをもつてゐた。彼女はその魂の全部を注ぎ出さうとしたのである……。私はもう恐怖の念は感じなかつた。いひ知れぬ憐憫の情が私の胸に惻々と迫るのであつた。
「あゝ、やつぱりいけない」と不意に言ふ、「力が続きません……、お眼にかかつた嬉しさに胸が詰まつてしまひました」
彼女は眼を瞑ぢた。
*
多くを語りたくない。僕は思う。僕にとって、ノース2号の「あの」曲は、間違いなく、これであった――
私はある教え子の指摘から大変な錯誤に気づいた。
Act4-21の137コマ目でノースは「正確ではありませんが、このような…………」と言って『ダンカンの夢の曲』を弾き始めるのだった。それが彼の練習曲なのだ!
これはやはり、あのオリジナルのダンカンの『母の曲』なのだ! 如何なる既成曲でも、あってはならないのだった!
注:本篇は僕の教え子――それはあの素晴らしい「プルートゥ」を是非読んで見て下さいと言った彼、彼がその一言を言い貸してくれなければ僕は多分「プルートゥ」を読まなかった。そうしてそれは僕の人生にとって悲しいこととなったに違いない――その彼の「ノース2号の巻」へのミクシイでの日記(それは明白に僕への挑戦状であると認識した)に答えた全文である。それにしても、今日の夕刊……さても第1次中央アジア紛争は既に始まったな……
*
○紹介業者から新しい執事は軍隊出身だとわかっててなぜOKしたかということ
Act4-3でダンカンは「ふん、またどうせろくでもないのをよこしたんだろう。」と言う。彼は恐らく、紹介業者からの執事ロボット(その強い他者不信から人間の執事をダンカンは使わないと確信する)をことごとく解雇してきたことが伺える。所謂、通常の家事ロボット(失礼ながらロビーの奥方のようなタイプの)では最早無理と考えた紹介業者が、渡りに舟のノースをあてがったと考えてよいであろう。経歴から見ても、ノースの求職は極めて異例のものであろうから、紹介業者としてはどこにどうするかを却って困惑していたかもしれない。従って、往年の映画音楽作曲家のプライドを満足させられる、「輝かしい経歴」のロボットを示せば、ダンカンは興味を持つと思ったのであろう(事実、そのような経過を辿る)。他者を嫌悪するダンカンにとっては、執事専用ロボットではなく、軍隊で多くのロボットを殺してきたロボットとして、ある種の露悪的というか、サディスティックな関心が働いたとも言えるであろう。ダンカンの中には、「こゝろ」の先生のように、あらゆる人間への不信がある以上、そこには実は無意識的な殺戮願望があるとも言えるかもしれない。
振返って、まさにノースの執事ロボット志願自体が、作品冒頭の強力な伏線なのだ。彼は、もう戦いたくない。だからこそ、周囲が驚いたであろう、執事というノースの「人生」の選択がある。
なお、その「2号」の体制や機能から見て、想定されるノース「1号」はもともと純然たる戦闘専用ロボットとして開発され、そのバージョンアップが「2号」であると考えてよいであろう(原作で彼が従うのは開発研究者である博士)。
○ダンカンに破壊したロボットの数を聞かれるときダンカンは「数えきれないほどか?」と答えるが、ロボットがそんな曖昧な記憶しかないことはありえない。記憶を消去した可能性もなくはないが「何体のロボットを破壊した?」のセリフの前後でノース2号の顔が同じ表情で黙っていることから記憶(メモリー)を見て計算したに違いない。
その通りである。ノースの記憶素子から消去されている可能性は、ないと言ってよい。人工知能が成長することによって、人間に近づけば近づくほど、「記憶の消去」は不可能になる。僕ら自身を考えてみるがよい。僕らは忘れたい記憶ほど、忘れられないものである。
現実的に考えても、ノース自身に自己の過去の記憶を消去する権利は禁止されていると考えるべきであろう。そのようなものとしてロボットはある。主人(もしくは製作者)が命じるのではなく、恐らく原始的な手動によってのみ、記憶の消去は可能であるように思われる。まさにパソコンや「ターミネーター2」の頭部ハードディスクの初期化のような作業を必要とすると考えてよい。
しかし、ここでそれ以上に、気づかなくてはならないことがある。それはここで既にノースはロボット法第2条に違反しているという点である。ダンカンに聞かれた時、彼は君の言うように、その破壊したロボットの正確な数を答える「義務」があるのである。しかし、彼は黙っている。それは、極めて都合よく(ロボット法的に)考えるならば、第2条の付則部分、“that doesn't conflict with the First Law. ”に関わり、第1条“A robot may not injure a human, or allow a human to be injured. ”が優先するから、と考えるとすれば、実はその時、ノースは正しくダンカンの「心」をとらえているということになってしまう。しかし、そうではあるまい。逆に、第2条に違反するほどに、ノースは人間化している、いや、あの戦場での自身の大量殺戮のおぞましさに、「心」から「人」と同様に「苦悩」していることの暗示であると捉えるべきであろう。
○ダンカンが、この屋敷から出て行け、といったのにもかからわず出て行った(正確には歌の採取)あとに、ダンカンの「本当にでていったのか」のセリフ。人間の矛盾。人工知能の論理矛盾と規則。ノースはもちろん初めからボヘミアへ行くつもりだった。そのとき彼の人工知能は命令違反をしているわけである。
俺はここで人口知能の進化を考える。きっと命令違反したノースの人工知能を調べても正常だろう。
むしろ精工な人工知能ほど正常を保ちつつ、論理矛盾と規則の間から考えを導き出す。それはロボットの進化ではないか。もちろんこの進化は第39次中央アジア紛争後である。
激しくすべてに同意する。あの解雇を命じた時、すでにダンカンのノースへの「愛」が生じている。僕は素直に「愛」であると思うのだ。それは互いが、自己の内的な秘密の苦悩(ダンカンは過去の母へのトラウマ、ノースは第39次中央アジア紛争のトラウマ)の相互開示によって、その「心の孤独者」であることの共有感情である。――万一、それに抵抗があるのであれば、「師弟愛」の萌芽と言ってもよい――その証拠に、ここで初めて純粋にダンカンのノースへ開かれた心が言葉として開示される。Act5-20の「多少はうまくなったようだな」である。そして、その瞬間、ダンカンは無意識的に、ノースがロボットであることを忘れているのである。でなくて、どうして、ダンカンは「本当にでていったのか」と呟くだろう。それは、僕ら「人間」の男女が、愛憎の中でつい本気でない罵倒や拒絶(それは愛の裏返しであることがしばしばある)をし合うのとなんら変わりはないシチュエーションなのである。
そうして、ロボット法はここで、もはやノースを拘束しない。あれは命令違反では、最早、ない。「愛」の対象者となった、それを恐らく未来的に予測した「ノースを愛するであろうダンカンを愛するノース」(それは最後に確かに哀しく実現する)は――最早、ロボットでは、ない、から。
一般論を述べよう。戦争の技術が人類の文明を進化させてきたのとパラレルに、実は戦争のトラウマが人間の倫理を高めてきたのではないか? 倫理とは「心」である。ヤーヴェが自身に似せてアダムを創ったように、人形(ひとがた)に似せたロボットの人工知能が人の心と相同となるのは(それを進化と称してよいかどうかは微妙に留保したいのだが)、歴史的必然なのである。
○ノースの夢:紛争のフラッシュバックについて。なぜメモリーを消去しないのか? 人間の記憶は忘れたいほど残る。夢を見るように何度も見るなら消去という選択肢もあったろう。ただしここで消去していた場合、上で上げた進化は考えられない。
既に答えた。現実的に消去できない。消去する権利を持たない。そうして、君の言う通り、というか、消去していたら、この話は「ない」、のだ。ロボットのノースが人間と同じくトラウマを持ち、悪夢を見る。それがダンカンの孤独な悪夢と共鳴して、壮大な二人の心の交感の交響曲(シンフォニー)となってゆくという「曲想」が、この作品の単一的、シンフォニックな「主題」なのである。
○ノースは言葉を発するとき口を開かない。が、ボヘミアで採取してきた歌をダンカンに聴かせるときにのみ口が開いている。人間のまねごと? しかしダンカンには見えない。そのとき確かに、ノースは歌っている。本物の歌を。伝えているのである。
これは、まさに君の意見を読む直前に、僕も気づいたことである。この作品中、ノースの唇は能面のように一文字に閉じたままである。ところが、君の言う通り、「ボヘミアで採取してきた歌をダンカンに聴かせる」時、Act6-14及び15の412と414コマ目の2コマだけ、ノースの少年のような唇が開き、ボヘミアの歌を詠うのだ。それは、しかし断じて「人間のまねごと」、ではない。それはノースが真に人間になった瞬間、に他ならない。歌(=音楽)は恐らく、人類の最初の芸術である。そうして、それはタルコフスキイが「ノスタルジア」で音楽史家ゴルチャコフに語らせるように、人類の持ち物の中で、唯一、鮮やかに「国境」(=自己と他者の境界)を越えてゆけるものなのである。「そのとき確かに、ノースは歌っている。本物の歌を。伝えているのである。」……いい表現だ。気に入った。
○ノースだけ他の6人と違って世界最高水準という設定がでてこない。ダンカンは知っていたのか? 世界最高水準としての機能もでてこない。逆にわからないところが2人を対等な関係としてみれるのかもしれないな。
過去に僕が述べたように、これは「プルートゥ」の挿話ではない。少なくとも、それを感じさせない。やってくる「脅威」は「プルートゥ」でなくてもよいのだ。従って、世界最高水準である必然性もない。
*但し、第39次中央アジア紛争時にブリテン軍総司令官アンドリュー・ダグラス将軍の執事をしていたという設定や、彼のフラッシュバックに現れる戦闘シーンからは充分、世界最高水準のロボットという印象は与えられていると見てよいであろうし、ダンカンもその経歴からただものではないことを目が不自由であるがゆえに逆に敏感に感じ取っていたであろう。ダンカンがサディスティックにノースの過去を問い詰めるシーンもそのような認識があればこそであろう。
さらに言えば、プルートゥそのものがこの作品では、僕には、我々人類のあらゆる「脅威なるもの」に還元されてみえる。事実、この作品ではそのような脅威=自然の雷鳴の音としてのみプルートゥの襲来が表現されている(プルートゥ自体は全く点としてさえ描かれないことに着目せよ)。ここで、「プルートゥ」という額縁ははずされているのである。あるのは、ダンカンとノースを描いた、未完の、愛すべき哀しいキャンバス画なのである。
○最後のノースの「すぐ戻ります」のセリフ。死期に気づいていた。だからこそ最後に戦いながら音楽としてダンカンのもとへ、記憶のなかへ戻ってきたのだろう。そしてそれに、気づいているダンカンもまた、その音をボヘミアの風景のように本物の歌として記憶する。
素晴らしい! 付け加えるべき言葉を僕は持たない。ここにきて、君の文章は、僕のノース2号論を遥かに超えて、美しく確かに完結している。
*新たな疑問
第39次中央アジア紛争とはどのような戦争として浦沢は設定しているのであろう。Act2-1「ゲジヒトの巻」の冒頭に現れるモンブランについての叙述で「混迷を続けたペルシア王国の治安を回復させた」であるとか「潜伏していたテロリスト」という表現や、ノースの語る履歴の「ブリテン軍」からは何やらアメリカのイラク侵攻やそれを一番に援助したイギリスを思わせる。それにしても第39次は、半端ではないぞ。中東戦争だって25年間で第4次だ。イスラムのファンダメンタリスト(原理主義者)がらみであろうことは想像できるが、その中身が知りたいものだ。
教え子との議論の中で、確かなものとして固まった。
ショパンのバラード第1番作品23
だ。そうしてこれは、1と2に使う。フラッシュバックのシーンにも僕は確かにマッチすると確信する。でも……これって、実は、35年来、僕のショパンの最愛の曲なの♡ 一番の演奏はミケランジェリ!
今日は数回に亙って教え子と「ノース2号の巻」に用いられる曲についてメールでやりとりした。まず使用するシチュエーションは
1 『ノースが「練習」する』曲
2 『ノースがフラッシュバックする第10次中央アジア紛争の戦闘シーン』の曲(バックイメージ)
3 『ノース最期の出撃』の曲
の三つは外せない(1と2を同じ曲でカバーすることも考えたが、これは思いの外難しい。とりあえず別に考えたい。2と3も同曲を用いることが出来るが、それは少々作劇的には陳腐であるように思われる)。ピアノを弾くその教え子は、まず1に
ラフマニノフ「パガニーニの主題による狂詩曲 作品43」の「第18変奏」
を挙げた。ロマン的な甘さが気になるが、右手で奏でることの難易度から、承服できる曲だ。
次に2に
モーツァルトの「レクイエム」第8曲「ラクリモーサ」
これは使いたい誘惑に抗し切れないほど、はまり過ぎている――はまり過ぎていることが気になった。その標題性が「如何にも」という感を呈してしまう。音楽が余りにも説明的に過ぎる……しかし、う~ん、いいなあ。
僕のこの不安に彼女は次の2の候補として
ショパンの「革命」
を提示してきた。これは自然だ。しっくりくる。ノースの建前としての「正義」の使命、しかし、そこに内実としての齟齬を覚えるノースの心――を美事に描き出すように思えた。曲の長さと完結性も、あのシーンにぴったりくる。そうなると、今度は1から2へのジョイントのスムースさに欲が出てくる(ノースの「練習」とフラッシュバックはシーンとして連続しているから)。
すると1は同じショパンか、やっぱり東欧・ロシア系の民族派の音楽が合うか……僕がこの議論を始める前に最初に浮かべたのは、実はショパンの「別れの曲」だったのだが……
ところがそう考えながら、彼女も僕も実はやっぱりバッハが使いたくもなってくるのである。彼女が次に挙げた1は
バッハの平均律クラヴィーア第1巻第1曲
これも、いい(グールド好きの僕はノースのすらりとした姿にグールドを感じ、「ゴルトベルグ」の主題もいい、と更に欲を出すのだが)。そうなると、バッハの幾多の宗教曲、マタイやオルゲルビューヒライン、遂には「主よ、人の望みよ、喜びよ」なんぞを弾かせたい思いがむくむくと起ってくるのだが、それはまた標題性へ回帰してしまうので、禁欲的にならざるを得ない。
ノースの弾く曲……想像はまだまだ飛翔する――あの最期のノースのように――
今終えた構造分析の修正の後、僕はつくづくノース(ノース2号)を愛してしまった/愛していることを自覚する。反論は無論いつでも来い(必ず君の存在を明記せよ。好い加減なHNや匿名で許されると思うな。君はダンカンであるかもしれないし、ノースであるかもしれない。どちらでもいい。だって君も僕もノースでありダンカンであるのだから)。君がこの話を愛するならば、その収束は同じだ。……そうでないとしたら、君の他者への愛は、明白なエセだ、と僕は明言する。
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