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カテゴリー「芥川龍之介「長江游記」【完】」の21件の記事

2017/08/24

岩波文庫ニ我ガ名ト此ノぶろぐノ名ノ記サレシ語(コト)

先週、近代文学研究家の山田俊治氏(現・横浜市立大学名誉教授)より、自筆の御葉書を戴いた。

山田氏の名は芥川龍之介新全集の諸注解で存じていた。最近では特に、ブログでの「侏儒の言葉」のオリジナル注企画で頻繁に引用させて戴いたが、無論、終生、巷間の野人たる小生は面識もない。何か誤ったことでも私がブログで書いているのを注意されでもしたものかと思うて読んでみたところが、そこには、

『この度 芥川龍之介の紀行文集を岩波文庫から出版することになり、注解にあたっては、ブログを拝見して、大いに刺激されるとともに、一般書のため、逐次 注にできませんでしたが、大変 参考にさせていただきました。そこで、一部献本させていただきますので、御受納いただければ幸いです』

とあって、驚いた。

昨日、それが届いた。

2017年8月18日発行・山田俊治編「芥川竜之介紀行文集」(850円)
 

Aku1

 
である。中国特派の際の五本は「Ⅱ」として纏められてあるが、それ以外の「松江印象記」(リンク先は私の初出形)に始まる九本の選択も非常に面白い。注を縦覧したが、語句や表現要所が非常によく押さえられており、「Ⅱ」パートでは地図なども附されてあってお薦めである(数年前に他社の文庫でもこれらは出ていたが、本屋で立ち読みしただけで、その注のお粗末さに呆れた果てたのを覚えている)。
特に、あの時代にあって稀有のジャーナリストたらんとして――芥川龍之介は自らを「ジヤアナリスト兼詩人」(「文藝的な、餘りに文藝的な」(リンク先は私の恣意的時系列補正完全版)の「十 厭世主義」)と称し、遺稿の「西方の人」(リンク先は私の正・続完全版)ではキリストを「古い炎に新しい薪を加へるジヤアナリスト」と評している――書かれた中国特派のそれらは、もっと読まれるべきものであると私は強く感じている(芥川龍之介の「上海游記」「江南游記」「長江游記」「北京日記抄」はそれぞれブログ分割版(全)があり、それらの一括版及び「雜信一束」はHTML横書版で「心朽窩旧館 やぶちゃんの電子テクスト集:小説・戯曲・評論・随筆・短歌篇」の「芥川龍之介」パート内の「§ 芥川龍之介中国紀行関連作品 §」に収めてある)。

さて。山田氏の解説の最後を読んで、さらに驚いた。
 

Aku2


 
何と! その末尾、参照先行文献の一覧の最後の最後には、天下の岩波版「芥川龍之介全集」(新全集)がずうっと並んだその終りに……『および、藪野直史「Blog鬼火~日々の迷走」』とあるではないか!?!

私のような凡愚の野人の仕儀が、誰かの役に立つとならば、逆に、恩幸、これに過ぎたるはないと言うべきで、ここに山田俊治先生に深く謝意を表したい。
 
 

2013/08/08

芥川龍之介 長江游記 T.S.君「蕪湖」探勝記

芥川龍之介「長江游記」の「一」の舞台である蕪湖の注に教え子T.S.君の探勝になる優れた紀行文と写真を追加した。特にT.S.君のそれはすこぶる感慨深いものである。芥川龍之介を愛し、同時に中国を愛する方は、必読せずんばならず!

2009/08/30

芥川龍之介中国土産浴衣

芥川龍之介が中国で買い求めた浴衣である……

 

Siyukata

 

――そうして この浴衣……

――この浴衣を着て 彼は自死したのであった――

芥川龍之介 中国旅行関連書簡群(全53通) 附やぶちゃん注釈

夏の終わりに。あなたに送る。

芥川龍之介『支那游記』参考資料として、「芥川龍之介中国旅行関連書簡群(全53通) 附やぶちゃん注釈」を正字正仮名で「やぶちゃんの電子テクスト:小説・戯曲・評論・随筆・短歌篇」に公開した。

2009/08/29

書簡に注を附すのはなかなか大変である

ということが分かった今日この頃である――

やっと芥川龍之介が北京に到着した。全53通(新全集の新資料により3通を追加した)の内、残すところ注釈十通余り。

当たり前のことながら、差出人と受取人が分かれば済むために、第三者である我々が読むと、そこら中で躓くこととなる。どうも作家や思想家の書簡を読むというのは、多分に窃視的で私は好まないのだが、それ以上に読解し難いという事実を再認識した。今暫く、御猶予あれ。

2009/08/21

結局こんなことでは鬱は消えずに終わった――芥川龍之介中国旅行関連書簡群 打留

さてもこれに僕の注を附して、近日公開予定――

九一四 六月十四日
    北京から 芥川道章宛

北京着山本にあひました唯今支那各地動亂の兆あり餘り愚圖々々してゐると、歸れなくなる惧あれば北京見物すませ次第(大同府の石佛寺まで行き)直に山東へ出で濟南、泰山、曲阜、見物の上、青島より海路歸京の筈、滿洲朝鮮方面は一切今度は立ち寄らぬ事としましたその爲旅程は豫期の三分の二位にしかなりませぬが、やむを得ぬ事とあきらめます今度の旅(漢口より北京まで)は至つて運よく、宜昌行きを見合せると宜昌に掠奪起り、漢口を立てば武昌(漢口の川向う)に大暴動起り(その爲に王占元は部下千二百名を銃殺したと云ふ一件)すべて騷動が僕の後へ後へとまはつてゐますこれが前へ前へまはつたら、どんな目にあつたかわかりません體はその後ひき續き壯健この頃は支那の夏服を着て歩いてゐます支那の夏服はすつかり揃つて二十八圓故、安上りで便利ですしかも洋服より餘程涼しい北京は晝暑くても夜は涼しい所です六月末か遲くも七月初には歸れますからそれが樂しみです。山東は殆日本故、濟南へ行けばもう歸つたやうなものです。漢口よりの本屆きましたかあれは運賃荷造り費共先拂ひ故よろしく願ひますまだ北京でも本を買ひます叔母さんにさう云つて下さい袋はとうとう使はずじまひです。南京蟲に食はるのなぞは當り前の事になつてしまひました。僕が東京へ歸る日は前以て電報を打つ故皆うちにゐられたし伯母さんもその日は芝へ行かずにゐられたし芝と云へば弟は眞面目に商賣をやつてゐますか 以上
    六月十四日          芥川龍之介
   芥川皆々樣
二伸 文子雜誌に何か書いた由諸所の日本人より聞き及びたれどまだ僕自身は讀まず惡い事ならねば叱りはせねど餘り獎勵もせぬ事とは存ぜられたし山本瑤子よりは芥川比呂志の方利巧さうなりもう立てるやうになりしや否や

九一五 六月十四日
    北京から 岡榮一郎宛 (絵葉書)

北京着北京はさすがに王城の地だ此處なら二三年住んでも好い
   夕月や槐にまじる合歡の花
    六月十四日          東單牌樓   我鬼生

九一六 六月二十一日
    北京から 室生犀星宛 (繪葉書)

拜啓北京にある事三日既に北京に惚れこみ侯、僕東京に住む能はざるも北京に住まば本望なり昨夜三慶園に戲を聽き歸途前門を過ぐれば門上弦月ありその景色何とも云へず北京の壯大に比ぶれば上海の如きは蠻市のみ

九一七 六月二十四日
    北京から芥川宛(繪葉書)

ボク大同へ行かんとする所にストライキ起り汽車不通となる。やむを得ず北京に滯在、漢口より送りし本とどき候や香やこちらはもう眞夏なり、この手紙に返事出す事勿れ返事が來るには十日かかる十日たてばもう北京にゐない故に御座候 以上
下島先生より度々手紙頂き候お禮を申上下され度候
上海より村田君章氏の書を送つた由これ又とどき候事と存じ候

九-八 六月二十四日
    日本東京市外田端五七一 瀧井折柴君(繪葉書)

北京は王城の地なり壯觀云ふべからず御府の畫の如き他に見難き神品多し 目下大同の石佛寺に至らむとすれどストライキの爲汽車通ぜず北京の本屋をうろついてゐる 以上
    二十四日          龍之介

九一九 六月二十四日
    日本東京市外田端自笑軒前 下島勳樣 (繪葉書)

度々御手紙ありがたう存じます 僕目下支那服にて毎日東奔西走してゐます 此處の御府の畫はすばらしいものです(文華殿の陳列品は貧弱)北京なら一二年留學しても好いと云ふ氣がします 又本を買ひこみました
    二十四日          我鬼

九二〇 六月二十四日
    北京から 中原虎雄宛 (繪葉書)

僕は今北京にゐます北京はさすがに王城の地です、僕は毎日支那服を着ては芝居まはりをしてゐます 以上
    六月二十四日          北京東單牌樓   芥川龍之介

九二一 六月二十七日(推定)
    日本東京市本郷區東片町百三十四 小穴隆一樣
    二十七日 (繪葉書)

   花合歡に風吹くところ支那服を着つつわが行く姿を思へ
二科の小山と云ふ人に遇つた君と同郷だと云つてゐた文華殿の畫は大した事なし、御府の畫にはすばらしいものがある畫のみならず支那を是非一度君に見せたい

九二二 七月十一日
    北京崇文門内八寶胡同大阪毎日通信部内 鈴木鎗吉樣
    七月十一日朝 蠻市瘴煙深處 芥川龍之介

    天津貶謫行
   たそがれはかなしきものかはろばろと夷(えびす)の市にわれは來にけり
   夷ばら見たり北京の駱駝より少しみにくし駿馬よりもまた
   ここにしてこころはかなし町行けどかの花合歡は見えがてぬかも
   支那服を着つつねりにし花合歡の下かげ大路思ふにたへめや
                    我鬼戲吟
二伸 波多野さんによろしく
三伸 福田氏(上海)への三弗こちらから送ります 御送に及びません 唯扶桑舘の茶代及女中の心づけを多からず少からず願ひます 多すぎる心配は無用だらうと思ひますが、
それから立つ前中山君に會ひながら扇の御禮を云はずにしまつた よろしく御禮を云つてくれ給へ
索漠たる蠻市我をして覊愁萬斛ならしむ一日も早く歸國の豫定

九二三 七月十二日
    天津から南部修太郎宛(繪葉書)

昨日君の令妹の御訪問をうけて恐縮したその時君の手紙も受取つた偉さうな事など云はずに勉強しろよ僕は近頃文壇とか小説とか云ふものと全然沒交渉に生活してゐる、さうして幸福に感じてゐる寫眞中書齋に於ける僕は美男に寫つてゐるから貸してやつても好い窓の所で寫たのは唐犬權兵衞の子分じみてゐるから貸すべからず 以上

九二四 七月十二日
    日本東京市本郷區東片町百三十四 小穴隆一君
    七月十二日 (繪葉書)

天津へ來た此處は上海同樣蠻市だ北京が戀しくてたまらぬ
   たそがれはかなしきものかはろばろと夷(エビス)の市にわれは來にけり
   此處にして心はかなし町行けどかの花合歡は見えがてぬかも
                    天津   我鬼
二伸 一週間後はもう東京にゐる

九二五 七月十二日
    天津から 芥川宛 (繪葉書)

今夜半發の汽車にて歸京す暑氣甚しければ泰山、曲阜皆やめにしたり一週間後には必東京にあるべし右とりあへず御報まで
    七月十二日          天津   芥川龍之介

九二六 七月
    天津から
    安徽省蕪湖唐家花園齋藤貞吉樣 (繪葉書)
お前の手紙は英語のイデイオムを使ひたがる特色ありこは無きに若かざる特色なりされど亦お前を愛せしむる特色なり僕はお前の手紙を讀んでお前が一層可愛くなつたお前を可愛がらぬ五郎は莫迦なり僕お前の所へChinese Profilesと云ふ本を忘れたりあの本紀行を書くには入用故東京市外田端四三五僕まで送つてくれ兎に角蕪湖でお前の世話になつた事は愉快に恩に着たき氣がする僕北京で腹下しの爲め又醫者にかかつた今夜歸國の程に上る一週間後はもう東京にゐるべしお前の健康を祈る北京で蝉の聲をききお前を思ひ出した蕪湖には今もブタが横行してゐるだらうな何だかゴタゴタ書いたもう一度お前の健康を祈る僕のやうに腹下しをするなよ さやうなら
                    天津   我鬼

芥川龍之介中国旅行関連書簡群 完

鬱を忘れるためにこんなことを始めた――芥川龍之介中国旅行関連書簡群 4

 

九〇三 五月二十三日
    日本東京市外田端自笑軒前 下島勳樣
    五月二十三日 (繪葉書)

廬山をすつかり見物するには一週間ばかりかかるさうです 旅程を急ぐ爲山上に一夜とまつて明朝九江へ下りすぐに漢口へ上るつもりです 今の廬山は殆西洋人どもの避暑地にすぎません
二伸 蕪湖にて御手紙拜見、難有く御禮申上げます 廬山行同行は竹内栖鳳氏、

 

九〇四 五月三十日
    長沙から 與謝野寛 同晶子宛 (繪葉書)

  しらべかなしき蛇皮線に
  小翠花(セウスヰホア)は歌ひけり
  耳環は金(きん)にゆらげども
  君に似ざるを如何にせむ
コレハ新體今樣デアリマス長江洞庭ノ船ノ中ハコンナモノヲ作ラシメル程ソレホド退屈ダトオ思ヒ下サイ 以上
    五月三十日          湖南長沙   我鬼

 

九〇五 五月三十日
    長沙から松岡讓宛(繪葉書)
揚子江、洞庭湖悉濁水のみもう澤國にもあきあきした漢口ヘ引返し次第直に洛陽、龍門へ向ふ筈
二伸先生の所に孝胥の書が一幅あつたと思ふが如何上海で僕も孝胥に會つた 頓首
    長沙 卅日   芥川生

 

九〇六 五月三十日
    長沙から 吉井勇宛(繪葉書)〔轉載〕
[やぶちゃん注:「〔轉載〕」はこの書簡文が原書簡から起こしたのではなく、昭和4(1929)年2月27日発行の『週刊朝日』からの転載であることを示している。但し、昭和4年7月『相聞』にもこの書簡の影印が掲載されている、と後記にはある。それ以降に、所在が分からなくなったものらしい。]

   河豚ばら揚子(ヤンツエ)の河に呼ぶ聞けば君が新妻まぐと呼びけり
    五月三十日          湖南長沙   我鬼

 

九〇七 五月三十日
    長沙から 石田幹之助宛 (繪葉書)

長沙に來り葉德輝の藏書を見たり葉先生今蘇州にありあの藏書三十五萬卷皆賣拂ふ意志ある由君の所では買はないか好ささうな本があるぜ詳しくは觀古堂藏書目四卷見るべし僕明朝漢口に歸り、二三日後洛陽へ行く筈 以上

 

九〇八 五月三十一日
    日本東京市外田端五七一 瀧井折柴樣
    五月卅一日 長沙 我鬼 (繪葉書)
君はもう室生氏のあとへ引きこした由僕は本月中旬にならぬと北京へも行けぬ上海臥病の祟りには辟易した長沙は湘江に臨んだ町だが、その所謂清湘なるものも一面の濁り水だ暑さも八十度を越へてゐるバンドの柳の外には町中殆樹木を見ぬ 此處の名物は新思想とチブスだ 以上

 

九〇九 六月二日
    漢口から 薄田淳介宛
啓最初約束すらく「原稿は途中から送ります」と今にして知るこの約束到底實行しがたしその故は僕陸にあるや名所を見古蹟を見芝居を見學校を見るの餘暇は歡迎會に出席し講演會に出席し且又動物園の山椒魚を見んと欲する如く僕を見んと欲する諸君子を僕の宿に迎へざるを得ず、僕水にあるや船長につかまり事務長につかまり、時にその所藏の贋書僞畫を恭しく拜見せざる可らずその間に想を練り筆を驅らんとせば唯眠を節すべきのみこれ僕を神經衰弱にする所以にして到底長續きすべからず(二日程やつて辟易せり)私に思ふ澤村先生紹介の藥聊利きすぎたるものの如し是に於て僕やむを得ず歸朝後に稿を起さんと欲す、しかも目に見る所、耳に聞く所、忘却し去るを恐るゝが故に、街頭にあると茶樓にあるとを問はず直に手帖を出してノオトを取るこれ僕の近状なり。僕の約を守らざる、責められざれば幸甚なり。且僕上海に病臥する事二旬、時當に孟夏に入らんとす。即ち宜昌峽を見るを抛ち、西安行きを抛ち、僅に洛陽龍門を見て匆々北京に赴かんと欲す。蓋宜昌峽を見るは必しも僕の任にあらず。西安は戰塵未收まらずして實は龍門さへ行かれぬやうな風説を塗に聞くが故なり。天愈暑からんとして嚢底漸冷かならんとす。遊子今夜愁心多し。草々不宜
          芥川龍之介拜
   薄田先生 侍史

 

九一〇 六月六日
    日本東京市本郷區東片町百三十四 小穴隆一君 (繪葉書)

子供に御祝の畫を下すつた由家書を得て知る、難有く御禮申上げますこれは朱子の白鹿書院、うしろの山は廬山です僕聊支那に飽き、この頃敷島の大和心を起す事度々
    六月六日          漢口   龍之介
金農と云ふ清朝の畫かき君のやうな書を書く號を多心先生、詩も作る歸つたら複製を御めにかけます

 

九一一 六月 漢口から
       芥川道章宛

拜啓 御手紙漢口にて拜見その後多用の爲御返事今日まで延引しました體はますます壯健故御安心下さい小包の數不審です、今日までに送つたのは
  上海より箱六つ 包三つ(コノ内一ツハ後ニテ出シタリ古洋服包)
  南京より靴と古瓦(コレハ幾ツニ包ンダカ知リマセン賓來館ノ亭主ニマカセタカラ)
この手紙に書留めの受取りを同封しますから全體の數が合はなかつた節は受取を郵便局へ持ち行き御交渉下さい但し箱幾つ包み幾つと云ふ事は僕の記憶ちがひもあるか知れぬ故全體の數にて御教へ下さい(但シ受取は上海より出した最初の八つだけのです。つまり古洋服包みの外八つあればよいのです)それから箱の上に書いた册數は出たらめです。又中につめた古新聞は當方にてつめたのです。それ故もし小包の數さへ合へば包みを解き、中の本を揃へて下さい。御面倒ながら願ひます。
多分小包みは紛失してもゐず、中の本も紛失してゐぬ事と思ひます 又漢口にて五六十圓本を買ひましたから、明日送ります 包みの數はまだわかりません。僕むやみに本を買ふ爲その他の費用は大儉約をしてゐます漢口では住友の支店長水野氏の家に厄介になつた爲、全然宿賃なしに暮せました。支那各地至る所の日本人皆僕を優遇します。小説家になつてゐるのも難有い事だと思ひました。
明日漢口發、洛陽龍門を見物(三四日間)それから北京へ入ります。漢口を出れば旅行は半分以上すんだ事になります。
小澤、小穴の親切なのは感心です。ハガキの禮状を出しました
内地にゐるとわからないでせうが、僕晝間は諸所見てあるき、夜は歡迎會に出たり、ノオトを作つたりする爲非常に多忙です。新聞の紀行も歸朝後でないととても書けぬ位です。ですからこの位長い手紙を書くのは大骨です。諸方へはがきを書く爲、睡眠時間をへらしてゐる位です。
もう當地は七月の暑さです。
九江にて池邊(本所の醫者)のオトさんに遇ひました二十年も日本で遇はぬ人に九江で遇ふとは不思議です。今は松竹活動寫眞の技師をしてゐます。
皆樣御體御大切に願ひます。夜眼をさますとうちへ歸りたくなる。さやうなら
          龍之介 拜
   芥川皆々樣
二伸 北京の山本へも手紙を出しました。伯母さんは注射を續けてゐますか。あんまり芝へばかり行つてゐると芝の子が可愛くなつてうちの子が可愛くなくなる。なるべくうちにゐなさい。

 

九一二 六月六日
    日本東京市下谷區下谷町一ノ五 小島政二郎樣(繪葉書)

今夜漢口を發して洛陽に向ふ、龍門の古佛既に目前にあるが如し 然れど漢口に止まる一週日、去るに臨んで多少の離愁あり
   白南風や大河の海豚啼き渡る
    六月六日          漢口   我鬼

 

九一三 六月十日
    日本東京市外田端天然自笑軒前 下島勳樣
    六月十日 河南鄭州 我鬼生 (葉書)

やつと洛陽龍門の見物をすませました龍門は天下の壯觀です 洛陽は碑林があるばかり、城外には唯雲の如き麥畑が續いてゐます 支那もそろそろ陝西の戰爭がものになりさうです 小生も側杖を食はない内に北京へ逃げて行く事にします 以上
  (コノ旅行ハ支那宿、支那馬車ノ苦シイ旅行デス)

 

 

――以下、続く――

2009/08/20

鬱を忘れるためにこんなことを始めた――芥川龍之介中国旅行関連書簡群 3

八八七 五月二日
    日本東京市牛込區早稻田南町七夏目樣方 松岡讓樣 (繪葉書)

杭州より一筆啓上、西湖は小規模ながら美しい所なりこの地の名産は老酒と美人、
   春の夜や蘇小にとらす耳の垢
    五月二日         芥川龍之介

八八八 五月二日
    日本東京京橋區尾張町時事新報社内 佐々木茂索君 (繪葉書)

西湖は余り纖巧な美しさが多すぎて自由な想像を起させない(雷峰塔だけは例外だが)今日西湖見物の序に秋瑾女史の墓に詣でた墓には「鑑湖秋女俠之墓」と題してある女史の絶命の句に曰「秋風秋雨愁殺人」この頃の僕には蘇小々より女史の方が興味がある
    五月二日          龍之介
二伸 僕の通信は時事には發表しないでくれ給へ社の方がやかましいから 以上

八八九 五月四日
 杭州から 南部修太郎宛(繪葉書)

杭州に來た今新々旅館の一室に名物の老酒をひつかけてゐる窓の外には月のない西湖、もうの螢の飛ぶのが見える多少のノスタルジア 以上
二伸 立つ前に寫眞を難有う

八九〇 五月五日
    上海から江口渙宛(繪葉書)

西湖から又上海へ歸つて來たもう上海も一月になる尤もその間二十日は病院にゐた今日は蒸暑い雨降り、隣の部屋には支那の藝者が二人來て胡弓を引いたり唱つたりしてゐる二三日中には蘇州から南京の方へ行くつもりだ
   燕や食ひのこしたる東坡肉
    五月五日          我鬼

八九一 五月五日
    日本東京市外田端天然自笑軒前 下島勳樣
    上海 我鬼 (繪葉書)

昨日杭州より歸來、西湖は明畫じみた景色です 夜はもう湖の上に螢が飛んでゐるのに驚きました 杭州は名高い老酒の産地ですが僕のやうな下戸では仕方がありません
   燕や食ひ殘したる東坡肉
東坡肉と云ふ料理が脂つこい所を見ると東坡も今の支那人のやうに脂つこいものが好きだつたのでせう
    五月五日

八九二 五月五日
    上海から 芥川道章宛

拜啓その後無事消光いたし居候間御安心をねがひます昨日杭州からかへりました二三日中には蘇州南京から漢口の方へ行くつもりです今日五月五日につき比呂志の初の節句だなと思ひました皆々樣御丈夫の事と存じます御用の節は(御用がなくても)支那湖北漢口英租界武林洋行内宇都宮五郎氏氣附僕にて手紙を頂けば結構です梅雨前は日本も氣候不順と思ひます伯母樣なぞは特に御氣をおつけ下さいお父樣もあまり御酒をのむべからず支那にもお母樣のやうな鼻をしたお婆さんがゐます文子よりもつと肥つた女もゐますなほ別封は上海の新聞切拔です僕の事が三日續きで出るなぞは恐縮の外ありませんそれから上海から小包にて本を送りました南京蟲をよくしらべた上二階にでもお置き下さいずゐぶん澤山の本ですよ 以上
二伸この間家へかへつた夢を見ました本所の家でした義ちやんが來てゐました皆が幽靈だと云つて逃げました伯母さんは逃げませんでした眼がさめたら悲しくなりました夢の中では比呂志がチヨコチヨコ駈けてゐました上海の奧さん連が僕に銀のオモチヤをくれました(一つ二十圓位のを二つ)文子の御亭主上海では大持てです 以上
    五月五日          龍之介
   皆々樣

八九三 上海から(推定)
    宛名不明 (下書き)

目下上海にぶら/\してゐる 上海語も一打ばかり覺えた この地の感じは支那と云ふより西洋だ しかも下品なる西洋だね 僕の今坐つてゐる料理屋にも日本人の客は僕一人あとは皆西洋人だ 壁上の英國の皇后陛下の寫眞がそれを愉快さうに見下してゐる

八九四 五月十日
    蘇州から芥川宛(繪葉書)

その後ずつと丈夫です一昨日當地著明日は揚州へ參ります本はつきましたか明日は揚州明後日は南京へ行きます 以上

八九五 五月十日
    蘇州から岡榮一郎宛(繪葉書)

一昨日蘇州着蘇州は杭州より遙に支那的なり水に臨める家家の気色は直に聯芳樓記を想起せしむは 今日蘇州發明日揚州にある可く候 以上
    五月十日          芥川龍之介

八九六 五月十日
    日本東京本郷區東片町百三十四 小穴隆一君
    五月十日 蘇州 我鬼(繪葉書)

上海にずつと風の爲寢てゐたその爲無沙汰してすま亨なく思ひます昨今やつと旅行開始手始に杭州から蘇州へ來ましたこの孔子廟は宏大なものだが蝙蝠の巣になつてゐる 行くと廟内に雨のやうな音がするから何かと思ふと蝙蝠の羽音だと云ふから驚く 床は糞だらけ、恐る可く臭い明日は揚州へ參る筈 以上
二伸 碧童先生宛の手紙は皆よんでくれましたか

八九七 五月十日
    日本東京市外田端天然自笑軒前 下島勳樣
    五月十日 我鬼(繪葉書)

外はともかく蘇州だけは先生におめにかけたいと思ひました 寒山寺は俗惡無双ですが天平山の如きは一山南画中の山景です 以上
二伸 明日は揚州に入るつもりです

八九八 五月十四日
    南京から 中戸川吉二宛(繪葉書)

蘇州では留園と西園とを見た西園は留園の規模宏壯なのに到底及ばぬしかしどちらも太湖石や芭蕉や巖桂が白壁の院落と映發してゐる所は中々見事だ願くばあんな邸宅に一日中支那博奕でも打ちくらして見たい

八九九 五月十六日
    日本東京市本郷區片町百三十四 小穴隆一君(繪葉書)

明後日上海鳳陽丸にて漢口へ向ふ筈、どうも健康が確かでないから廬山に登る事は見合せすぐに漢口から北京へ行かうと思ふ支那へ來てもう河童の畫を二枚書いた
    五月十六日          上海   龍之介

[やぶちゃん注:底本では空行なしで『〔裏に南京名所烏龍潭の寫眞あり。余白に〕』とある。次の一文が、この洋装の兵隊が写りこんだ烏龍潭の繪葉書の写真の余白に書き入れられているということである。]

支那ノ風景ハ全然西洋ノ文明ト調和シナイ コノ兵隊ノ無風流サヲ見給へ

九〇〇 五月十七日
    上海から芥川道章宛

その後杭州、揚州、蘇州、南京等を經めぐりましたこの分で悠々支那旅行をしてゐると秋にでもならなければ歸られないかも知れませんそれでは閉口ですから廬山、三峽、洞庭等は悉ヌキにしてこれからまつすぐに漢口から北京へ行つてしまふつもりですいくら支那が好いと云つても宿屋住まひを二月もしてゐるのは樂なものぢやありません體は一昨日もここの醫 者に見て貰ひましたが、一切故障はないと云ふ事でした寫眞はとどきましたかもう少しすると揚州や蘇州で寫した寫眞がとどきます南京で比呂志の着物を買ひました支那の子供がお節句の時に着る虎のやうな着物ですあまり大きくないから此呂志の體ははひらないかも知れません尤もたつた一圓三十錢です僕は見つかり次第本や石刷を買ふ爲目下甚貧乏です北京へ行つたら大阪の社から旅費のつぎ足しを貰ふつもりです(病院費用も三百圓程かかりましたから)一日も早く北京へ行き一日も早く日本へ歸りたいと思つてゐます今晩船に乘り五日目に漢口着そこから北京は二晝夜ですからもう一週間すると北京のホテルに落着けます手紙は北京崇文門内八寶胡同波多野乾一氏氣附で出して下さい皆々樣御無事の事と思つてゐます叔母さんは注射を續けてゐますか、注射は靜脈注射よりも皮下注射の方がよろしいやつてゐなければこの手紙つき次第お始めなさい支那には草決明と云ふお茶代りの妙藥があります僕の實驗だけでも非常に效き目が顯著です歸つたら叔母さんにもお母さんにも飮ませますそれから文子へ、もし人參のエキスがなくなつてゐたら、早速買つてお置きなさいあれば誰でものむけれどないとついのまないから。ついのまないと云ふのが養生を怠る一歩です。
    五月十六日          芥川龍之介
   芥川皆々樣
二伸 唯今手紙落手しました呉服なぞは目下貧乏で買へません土産は安物ばかりと御思ひ下さい

九〇一 五月二十日
    日本東京市本郷區片町一三四 小穴隆一君
    蕪湖 龍 (丁悚油繪、高璞女士像の繪葉書)
これは現代支那の洋畫なり日本畫でも近頃上海の日本人倶樂部に展覧會を催した支那人ありこの先生は栖鳳なぞの四條末派の影響を受けてゐた要するに現代支那は藝術的にダメのダメのダメなり、
    五月二十日

九〇二 五月二十二日
    廬山から 石黑定一宛 (繪葉書)

上海を去る憾む所なし唯君と相見がたきを憾むのみ
     留別
   夏山に虹立ち消ゆる別れかな
    大正十年五月二十二日          廬山   芥川龍之介

――以下、続く――

鬱を忘れるためにこんなことを始めた――芥川龍之介中国旅行関連書簡群 2

八八二 四月二十四日
    上海から芥川道章宛

拜啓上海着後風邪の全快致し居らざりし爲乾性肋膜炎を起しただちに里見病院へ入院、治療し候所幸手當早かりし經過よろしく今日退院致す事と相成候されどこの爲約三週間あまり病院生活を致し侯爲豫定に大分狂ひを生じ候へば北京へ參るのも五月下旬に相成る事と存じ侯もし今後體の具合惡く候はば北京行きは見合せ、揚子江南岸のみを見物して歸朝致すべく候入院中手紙かんかと思ひ候も入らざる御心配をかけて詮なき事と存じ今日までさし控へ候されど一時は上海にて死ぬ事かと大に心細く相成候幸西村貞吉、ジヨオンズなど居り候爲何かと都合よろしくその外知らざる人もいろいろ見舞に來てくれ、病室なぞは花だらけになり候且又上海の新聞などは事件少き故小生の病氣の事を毎日のやうに掲載致し候井川君の兄さんには「まるで天皇陛下の御病氣のやうですな」と苦ひやかされ候今後は一週間程上海に滯留の上杭州南京蘇州等を見物しそれより漢口の方へ參るつもりに候 以上
    四月二十四日          上海萬歳館内   芥川龍之介
   芥川皆々樣
二伸 宿所録並に父上文子の手紙確に落手致候今後も北四川路村田孜郎氏方小生宛手紙を下さらばよろしく候その節はなる可く母上伯母上も御かき下され度日本を離れると家書を讀む事うれしきものに候
末筆ながら父上御酒をすごされぬやう願上候病氣以來小生も支那旅行中一切禁煙の誓を立て候兎に角病氣になると日本へ歸りたくなり候されど社命を帶びて來て見ればさうも行かずこの頃は支那人の顏を見ると病にさはり侯

八八三 四月二十四日
    上海から 薄田淳介宛

拜啓その後御無音にうちすぎました度々御見舞を頂き難有く存じます小生の病氣はやはり大阪の風邪が十分癒つてゐなかつた爲乾性肋膜炎を起したのです醫者は一月程靜養しろと云ひましたが手當てが早かつたせゐか咽喉の加太兒を除き殆平癒しましたから早速見物旅行に出かけようと思ひますもしその途中又惡くなつたら見物は一まづ長江沿岸宜昌までに切り上げ一度歸京養生の上北京へは秋に行かうかとも思つてゐます勿論この儘體の具合がよければすぐに漢口から北京へ向ひます出直すとなると億劫ですから。この手紙はとうに書くつもりでしたが病中病後の懶さの爲今日まで延引しました不惡御ゆるし下さい昨日退院今日はこれから村田君と支那文人訪問に出かける所です。昨日は退院後すぐに城内を見物、乞食と小便臭いのとに少からず驚嘆しました 以上
    四月廿四日          上海萬歳館    芥川龍之介
   薄田淳介樣

八八四 四月二十五日
    上海から 岡榮一郎宛(繪葉書)

この公園Public Gardenと云へど支那人の入るを許さずしかもシベリア邊から流れこんだ碧眼の立ん坊はぞろぞろ樹下を徘徊してゐる
    四月二十五日          上海    芥川生

八八五 四月二十六日
    日本東京市京橋區尾張町時事新報社内 佐々木茂索君
    二十六日 (繪葉書)

鄭孝胥、章炳麟なぞの學者先生に會つた鄭先生要は書ではずつと前から知つてゐたから會つた時にはなつかしい氣がした 章先生も同樣。この先生はキタナ好きだものだから細君に離婚を申込まれたさうだが襟垢のついた着物を着て古書堆裡に泰然としてゐる所は如何にも學究らしかつた
上海  龍
二伸「その日次の日」新潮に載る由可賀稻田君にはがきを書きたいが住所不明につき書けない よろしく云つてくれ給へ

八八六 四月三十日
    上海から澤村幸夫宛

拜啓先達は御手紙難有く存じますその後やつと病氣快復毎日人に會つたり町を歩いたりして居りますさうなつて見ると何處へ行つても必人が「澤村さんから手紙が來ましてetc.」と云ひます私の爲にあなたが方々へ紹介状を出して下さつた難有さが異國だけに身にしみますおかげで短い日數にしては可成よく上海を見ましたこれは村田君も保證してくれます人では章炳麟、鄭孝胥、李經(?)邁等の舊人及余穀民李人傑等の新人に會ひました李人傑と云ふ男は中々秀才です場所は徐家匯以外大抵一見をすませました徐家匯は領事館がまだ見物許可證をくれないのです御教示の書物はまだ見つかりません明後日は杭州へ出かけます 頓首
    四月三十日          芥川龍之介
   澤村先生 侍史

[やぶちゃん注:底本では「徐家匯」の「匯」は(くがまえ)の左に(へん)として「氵」が出る字体であるが、通用字体に改めた。]

――以下、続く――

鬱を忘れるためにこんなことを始めた――芥川龍之介中国旅行関連書簡群

 

右手不具合にして鬱鬱として職場に行く気力も失せたり――今朝よりこんなものを始めて憂いを忘れんとするなり――取り敢えず上陸まで――

芥川龍之介中国旅行関連書簡群(全50通)

[やぶちゃん注:以下は、芥川龍之介が大正十(1921)年に大阪毎日新聞社特派員として中国に派遣された際の、旅行前、中国派遣がはっきりと文面に現れる書簡から外地からの最後の発信迄、芥川龍之介の全50通を電子テクスト化したものである。底本は岩波版旧全集第十一巻の132頁から164頁を使用した。従って、書簡番号は岩波版旧全集のものである。字の配置は底本に従わずに総て同ポイントとし、見出しは、書簡番号(一字空け)見出し日付で改行、四字下げで宛先(一字空け)宛名等で改行、四字下げ封書記載発信日(一字空け)差出人住所(一字空け)署名等とした。本文の最後の署名等、下部にインデントされているものは、ブラウザの関係上、原則、上部から二十字又は上部の語句から十字下げで記し、且つ署名・宛名の字間は詰めた。追伸も全体が二字下げとなっているが、左に揃えた。「候」の草書体は正字に直した。]

 

八五七 二月二五日

    牛込區矢來町三新潮社内 中村武羅夫樣

    二月廿五日

拝啓
今度社命により急に支那見物に出かける事となりましたその爲五月号の小説及び四月号の随筆はさし上げられまいと存じます 誠に手前勝手で恐縮ですが右樣の次第故不惡御海恕を願誓す 右常用のみこの手紙を書きました 頓首

    二月二十五日          芥川龍之介

   中村武羅夫樣

 

八五八 三月二日

    田端から 薄田淳介宛

拜啓 先達はいろ/\御世話になり且御馳走を受け難有く御禮申上げます 次の件御尋ねします

(一)旅費とは汽車、汽船、宿料 日當とはその外旅行中日割に貰ふお金と解釋してかまひせんかそれとも日當中に宿料もはひるのですか

(二)上海までの切符(門司より)はそちらで御買ひ下さいますかそれともこちらで買ひますか或男の説によれば上海から北京と又東京までぐるり一周りする四月通用の切符ある由もしそんな切符があればそれでもよろしい

(三)旅行の支度や小遣ひが僕の本の印税ではちと足りなさうなのですが月給を三月程前借する事は出來ませんか
又次の件御願ひします

(一)旅行並びに日當はまづ二月と御見積りの上御送り下さいませんか僕の方で見積るより社の方で見積つて戴いた方が間違ひないやうに思ひますから

(二)出發の日どりは十六日以後なら何時でも差支へありませんこれも社の方にて御きめ下さい自分できめると勝手にかまけて延びさうな氣もしますから

右併せて五件折返し御返事下されば幸甚に存じます

     旅立たんとして

   春に入る柳行李の青みかな
                    我鬼 拜
   薄田樣 梧右

 

八五九 三月四日

    田端から 宮本勢助宛 (寫)

[やぶちゃん注:「(寫)」はこの書簡文が原書簡から起こしたのではなく、写しをもとにしていることを示す。]

拜啓 先達は參堂失禮仕候。さて御手紙この度は確に落手致候間左樣御承知下され度候。再度御面倒をかけ候段申譯無之重重御禮申上候。小生本月中旬支那へ參る事と相成居候爲目下拜趨の機を得ずこれ亦不惑御容捨下され度願上候。右とりあヘず當用まで如斯に候

    三月四日          芥川龍之介

   宮本勢助樣

 

八六〇 三月四日

    本郷區東片町百三十四 小穴隆一樣

    消印五日 三月四日 市外田端四三五 芥川龍之介

今卷紙なしこの惡紙にて御免蒙る

國粹いろいろ御手數をかけ感佩します僕の小説は駄目、急がされた爲おしまびなぞは殊になつてゐなささうです

今日中根氏が見本を見せに來ました表紙の藍の色が薄くなつた爲見返しの色彩が一層派手になつたやうです表紙の色の薄くなつた事は僕も知らなかつた故少し驚きましたそれから扉と見返しとの續きが唐突すぎる故紙を入れたい旨並に紙の質は何にしたら好いかと云ふ旨御宅へ伺ひに上るやうに云つて置きましたよろしく御取計らひを願ひますそれから見返しは和紙へ刷つた方が手數はかかつても紙代は安かつた由入らぬ遠慮をした事をひどく後悔してゐますまだ本文の刷にも多少不備な點がありしみじみ本一册造る事の困難なのを知りましたしかし新潮社としてはまあ精一杯の仕事故勘所する外はありません 唯一つあきらめられぬのは見返しに和紙を使はなかつた事ですこれは折角の君の畫を傷けたやうな氣がして君にすまないで弱つてゐます

愈月半に立つ事になりましたその前に入谷の大哥と小宴を開きたいと思ひます 以上

    三月四日          芥川龍之介

   小穴隆一樣

 

八六一 消印三月五日

    京橋區尾張町時事新報社内 佐佐木茂索君

    田端四三五 芥川龍之介 (葉書)

拜啓迭別會の事昨夜又考へるとどうしても小人數の方が好いやうな氣がして來た 大人數は僕の神經にこたへるのだ その旨菊池へも手紙を出した なる可く内輪だけの會にしてくれ給へ 今日小田原へ參る以上

 

八六二 三月七日

    京都市下鴨森本町六 恒藤恭樣

    消印八日 三月七日 東京市外田端四三五 芥川龍之介



今この紙しかない 粗紙だが勘弁してくれ給へ 僕は本月中旬出發三月程支那へ遊びに行つて來る 社命だから 貧乏旅行だ谷森君は死んだよ 余つ程前に死んだ 石田は頑健 あいつは罵殺笑殺しても死にさうもない 藤岡には僕が出無精の爲曾はない成瀨は洋行した 洋行さへすれば偉くなると思つてゐるのだ 厨川白村の論文なぞ仕方がないぢやないかこちらでは皆輕蔑してゐる 改造の山本實彦に會ふ度に君に書かせろと煽動してゐる君なぞがレクチュアばかりしてゐると云ふ法はない 何でも五月には頂く事になつてゐますとか云つてゐた 僕は通俗小説なぞ書けさうもないしかし新聞社にもつと定見が出來たら即 評判の可否に關らず作家と作品とを尊重するやうになつたら長篇は書きたいと思つてゐる この頃益東洋趣味にかぶれ印譜を見たり拓本を見たりする癖が出來て困る小説は藝術の中でも一番俗なものだね

同志社論叢拜受渡支の汽車の中でよむ心算だ 京都も好いが久保正夫なぞが蟠つてゐると思ふといやになる あいつの獨乙語なぞを教つてゐると云つたつて ヘルマン und ドロテアは誤譯ばかりぢやないか

奧さんによろしく 頓首

    三月七日午後          龍之介

   恭 樣

 

八六三 三月十一日

    田端から 薄田淳介宛

拜啓 今度はいろ/\御世話になり難有く御禮申上げます紹介状も澤山に今日頂きました大阪へは目下寄らぬつもりですが御用がおありなら一日位は日をくり上げてもかまひません折返し御返事を願ひますそれから紀行は毎日書く訣にも行きますまいが上海を中心とした南の印象記と北京を中心にした北の印象記と二つに分けて御送りする心算ですどうせ祿なものは出來ぬものと御思ひ下さい一昨日精養軒の送別會席上にて里見弴講演して曰「支那人は昔偉かつたその偉い支那人が今急に偉くなくなるといふことはどうしても考へられぬ支那へ行つたら昔の支那の偉大ばかり見ずに今の支那の偉大もさがして來給へ」と私もその心算でゐるのですそれからお金は一昨々日松内さんに貰ひましたもし足りない事があつたら北京から頂きますそれまでは澤山ですやはり送別會の席上で菊池寛講演して曰「芥川は由來幸福な男だしかし今度の支那旅行ばかりは少しも自分は羨しくない報酬がなければ行くのは嫌である」その報酬は二千圓ださうです事によると支那旅行と「眞珠夫人」と間違へてゐるのかも知れません以上とりあへず御返事まで 頓首

    三月十一日          芥川龍之介

   薄田淳介樣

二伸 澤村さんの本はまだ屆きません屆き次第御禮は申上げますがどうかあなたからもよろしく御鳳聲を願ひます それから何時か御約束した時事新報の通俗小説原稿料は一囘十圓だと云ふ事です朝日も恐らくその位でせう但し朝日は谷崎潤一郎に通俗小説を書かせる爲一囘二十圓とかの申込みをしたさうです 以上

 

八六四 三月十一日

    田端から 菅虎雄宛

拜啓 洋畫家有田四郎君を御紹介申します 同君は忠雄さんなぞも御存じの鎌倉の住人です同君の友人小山東助氏の全集を出版するにつき表紙の文字を先生に御願ひしたいとか云ふ事でした

右よろしく御取計らひ下さらば幸甚です 頓首

    三月十一日          芥川龍之介

   菅先生 梧右

[やぶちゃん注:本書簡は中国旅行についての言及もなく無関係であるが、これだけを省略するのもおかしいので、出立前の雰囲気を伝えるための一つとして置いておく。]

 

八六五 三月十一日

    田端から 小杉未醒宛

拜啓 支那旅行につきいろいろ御配慮に預りありがたく存じそろ漢口に參り侯節は必水野先生を御訪ね仕る可くそろなほ肇を以て次手を以て拙著一册右に戲じそろ文章のまづい所は皆誤植と思召被下度又嫌味なる所は皆作者年少の故と御見なし下さる可く侯 頓首

    三月十一日            夜來花庵主

   未醒畫宗 侍史

 

八六六 三月十三日

    本郷區東片町百三十四 小穴隆一樣

    三月十三日 市外田端四三五 芥川龍之介

拜啓

いろいろ御手數をかけ難有く存じます十六日までに出來れば好いがと思つてゐます十五日頃入谷の兄貴や何かと人形町の天ぷらを食ひに行きませんか古原草先生も行けば好都合です兎に角僕は午後三時頃最仲庵へ行きます(これから小澤遠藤兩先生へも手紙を出します)田村松魚と云ふ人が未見なるにも不關新潮の隨筆を見て柿右ェ門の鉢を一つ僕にやらうと云つて來ましたその時までに貰つたらおめにかけます空谷老人入谷大哥の「夜來の花」を見て曰不折なぞとは比べものになりませんな」と 頓首

    三月十三日            夜來花庵主

   一遊亭主人 侍史

[やぶちゃん注:八六〇書簡参照。]

 

八六七 三月十三日

    田端から中根駒十郎宛

拜啓お孃さんの御病氣如何ですかさて夜來の花の裝幀につき小澤小穴先生へなる可く早く御禮上げてくれませんか津田青楓には二十五圓とか云ふ事ですがなる可く御奮發下さい印税は菊池なぞ一割二分の由小生春陽堂では一割二分ですが「夜來の花」は一割でよろしいその代り兩先生の方へ御禮を少し餘計出して頂きたいと思ひます右とりあへず御願ひまで 頓首

    三月十三日          芥川龍之介

   中根駒十郎樣

 

八六八 三月十六日

    田端から田村松魚宛

拜啓 うづ福の茶碗わざわざ御持參下され恐入りそろ仰せの如く形も色も模樣も見事と申す外無之そろ御祕藏の品を頂戴仕候事心苦しくも難有くそろ早速拜趨申上ぐ可きのところ新聞社より支那旅行を申しつかり居り出發の日どりも二三日中に迫り居る次第につき何かと忙しく候へば失禮ながら書面にて御免蒙り候その段不惡御海恕下されたくひとへに願上そろいづれ歸來の節は拜眉の上御禮申上ぐ可くまづはとりあヘず鳴謝まで如斯に御座そろ

   渦福のうつはの前に阿彌陀ぐみ夜來花庵主は涙をおとす

   手にとればうれしきものか唐草はこと國ぶれる渦福の鉢

   渦福の鉢ながむればただに生きしいにしへ人の命し思ほゆ

   この鉢のうづの青花たやすげに描きて死にけむすゑものつくり

惡歌一咲をたまはらば幸甚にそろ

    三月十六日           芥川龍之介

   田村先生 侍史

 

八六九 三月十六日

    田端から 澤村幸夫宛

拜啓 角山樓類腋昨日落手致しました旅行中御言葉に甘へて拜借致します難有うございました又小生の支那旅行につきいろいろ御配慮下さつた事を厚く御禮申上ます十九日朝東京發廿一日門司出帆の豫定故次便は禹域の地から差上げる事になるだらうと存じます右とりあへず御禮の爲草毫を走せました

     留別

  海原や江戸の空なる花曇り

   三月十六日          芥川龍之介

  澤村先生 侍史

 

八七〇 三月十七日

    本郷區湯島三組町三十九 瀧井折柴樣

    十七日 芥川龍之介 (葉書)

 

   秋海棠が簇つてゐる竹椽の傾き

昨日は失禮その節は結構なものを難有う 頓首

[やぶちゃん注:本書簡は中国旅行についての言及もなく無関係であるが、これだけを省略するのもおかしいので、出立前の雰囲気を伝えるための一つとして置いておく。]

 

八七一 三月十七日

    本郷區湯島三組町三十九 瀧井孝作樣(速達印)

    十七日 芥川龍之介



十八日午後御光來下さるやう申候も風邪の爲當日御面會いたしかね候十九日午後五時半門司へ下る筈に候へば十九日午後にても御ひまの節は御來駕下され度候 頓首

 

八七二 消印三月十七日

    京橋區尾張町時事新報社内 佐々木茂索君(速達印)

    芥川龍之介 (葉書)

啓 十八日午後御光來の由申候へども小生風邪につき十九日午後に御くりのべ下され度候  十九日午後五時半發門司へ下る可く候 頓首

 

八七三 三月十七日

    本郷區東片町百三十四 小穴隆一君 (速達印)(葉書)

出發は十九日午後五時半になりましたとりあへず御知らせします碧、古兩先生にも通知しました 頓首

    十七日          芥川龍之介

 

八七四 三月十九日

    田端から中根駒十郎宛

啓 立つ前に參上する筈の所何かと多用の爲その機を得ず今日に至り候就いては別紙の諸先生へ拙著一部づつ書きとめにて御贈り下され度願上候代金は勝手ながら歸京の日までお待ち下され度候書き留めの受取りは御面倒ながら上海日本領事館氣附にて小生宛御送り下され度願上侯とりあへず當用のみ如斯に御座候 頓首

    三月十九日          芥川龍之介

   中根駒十郎樣

菊地寛 久米正雄 久保田万太郎 小宮豐隆 齋藤茂吉 島木赤彦 藤森淳三 岡榮一郎 佐佐木茂索 中村武羅夫 岡本綺堂 薄田泣菫 瀧井折柴 與謝野晶子 豐島與志雄 宇野浩二 江口渙 南部修太郎 加藤武雄 室生犀星 谷崎潤一郎

[やぶちゃん注:『夜来の花』謹呈者の名簿は、底本では全体が二字下げ。]

 

八七五 三月二十六日

    大阪から芥川道章宛

啓 その後皆々樣おかはりなき事と存候 私東京發以來汽車中にて熱高まり一方ならず苦しみ候その爲大阪に下車致し停車場へ參られし薄田氏と相談の上新聞社の側の北川旅館へ投宿仕りすぐに近所の醫者に見て貰ひ候その醫者至極舊弊家にて獸醫が牛の肛門へ插入するやうな大きな驗温器なぞを出し候へば一向信用する氣にならずやはり唯の風邪の由にて頓服二日分くれ侯へどその藥はのまず私自身オキシフルを求めて含漱劑を造りそれから下島先生より頂戴の風藥服用しなほその上に例のメンボウにて喉ヘオキシフルを塗りなぞ致し候へば三十九度に及びし熱も兎に角三日ばかりの内に平温まで降り候然れば船も熊野丸は間に合はず廿五日門司發の近江丸に乘らんかと存居候さて大阪まで來りて見れば鋏、萬創膏、驗温器、ノオトブックなぞいろいろ忘れ物にも氣がつきそれらを買ひ集め侯へば自然入れ物が足りなくなりやむを得ずバスケット一つ買ふ事に致し候なほ私病氣は最早全快につき(今朝卅六度四分)御心配下さるまじく候 次便は上船前門司より御手許へさし上ぐべく候 草々

    三月廿三日          龍之介

   芥川道章樣

二伸 中川康子、菅藤高德 武藤智雄 野口米次郎(動坂ノ住人)四氏の宿所並に「新文學」の新年號の卷末にある文士畫家の宿所録を支那上海四川路六十九號村田孜郎氏氣附芥川龍之介にて送られたし 宿所録は「新文學」から其處だけひつ剥して送られたし

三伸 留守中は何時なん時紀行が新聞に出るか知れぬ故始終新開に注意し切拔かれ置かれたし

四伸 唯今薄田氏來り愈廿八日の船ときまり候廿六日か七日大阪を立ち候 宿所録はやはり上海へ送られたしこちらへ送つたのでは間に合はず候

五伸 大阪滯在中大阪毎日に一日書き候(日曜附録)それをも切拔かれたく候

まだ煙草の味も出ず鼻は兩方ともつまり居り不愉快甚しく候

同封の新聞は上海の新聞に侯小生の寫眞あれば送り候

伯母さんの風如何に候や無理をすると私のやうにぶり返し候間御用心大切に侯

比呂志事はおじいさん、おばあさん もう一人のおばあさんが面倒を見て下さる故少しも心配致さず侯

兎に角旅中病氣になると云ふ事はいやなものに候

早速下島先生の藥の御厄介になつた事よく先生に御禮申し下され度願上候

    二十五日

 

八七六 三月二十六日

    大阪から澤村幸夫宛

拜啓 支那の本中楊貴妃の生殖器等の事を書いた本と云ふのは何と云ふ本ですか御教示下されば幸甚ですなほそんな本で面白いのがあつたら御教へ下さいませんか僕の知つてゐる誨淫の書は金瓶梅。肉蒲團。杏花天。牡丹奇縁。痴婆子。貪官報。歡喜奇觀。殺子報。野叟曝言。如意君傳。春風得意奇縁。隔簾花影等です以上

    三月二十六日          芥川龍之介

   澤村幸夫樣

 

八七七 三月二十九日

    筑後丸から芥川宛(繪葉書)

啓 咋日玄海灘にてシケに遇ふ船搖れて卓上の皿ナイフ皆床に落つ小生亦舟醉の爲もう少しにてへドを吐かんとす今日は天氣晴朗波靜にして濟州島の島影を右舷に望む明日午頃上海入港の筈 頓首

叔母さん風如何にや小生はもう全快し用心の爲禁煙致居候 以上

 

八七八 三月二十九日(推定)

    小澤忠兵衛 小穴隆一宛 (封筒缺)

  小澤忠兵ェ衛樣

  小 穴 隆 一 樣

啓 出發の際は御見送下され難有存じます その後汽車の中にて發熱甚しくなり とうとう大阪に下車 一週間程北濱のホテルにねてゐました それから廿七日に大阪を立ち 廿八日門司から筑後丸へ乘りました。所が玄海にてシケを食ひ船の食卓の上の皿、ナイフなぞ皆ころげ落ちる始末故小生もすつかり船に醉ひ少からず閉口しました 舟醉と云ふものは嫌なものですな 頭がふらふらして胸がむかむかしてとてもやり切れません 尤も醉つたのは僕のみならず船客は勿論船員の中にも醉つた先生があります 船客中醉はなかつたのは亞米利加人一人、この男は日本人の妾同伴ですがシケ最中携帶のタイプライタアなぞ打つて悠々たるものでした

今日は天氣晴朗、午前中は濟州島が右舷に見えました 淡路より少し大きい位ですが住んでゐるのが朝鮮人で 朝鮮風の掘立小屋しかないせゐか甚人煙稀薄の觀があります

上海へは明日午後三時か四時頃入港の豫定、今日は船醉はしませんが昨日のなごりでまだ頭がふらふらするやうです

この手紙御讀みずみの上は小穴氏におまはし下さい 以上

          筑後丸サルーンにて          芥川龍之介

[やぶちゃん注:この八七八書簡は底本でも横書である。]

 

八七九 三月二十九日

    日本東京市外田端自笑軒前 下島勳樣

    二十九日 筑後丸船中 芥川龍之介(繪葉書)

啓二十八日門司發筑後丸へ乘りました門司を出て玄海へかかると忽ち風波に遇ひ小生も危くヘドを吐く所でした尤も舟醉をしたのは僕ばかりでなく船客は勿論船員さへ醉つてゐました 今日は天氣晴朗かうなると航海も愉快です

 

八八〇 四月二十日

    日本東京下谷笹下谷町一ノ五 小島政二郎樣(上海、南京路の繪葉書)

南京路は上海の銀座通り、僕の行くカツフェ、本屋等皆此處にあり新しい支那の女學生は額の髮へ火鏝を入れ赤い毛布のシヨオルをする それがこの通りを潤歩する所は此處にのみ見らるべき奇觀ならん

    二十日         我鬼

 

八八一 四月二十三日

    上海から岡榮一郎宛(繪葉書)

これは上海城内の湖心亭なりこの中に支那人たち皆鳥籠携へ來りて雲雀、目白の聲なぞに耳を傾つつ悠然として茶を飮んでゐる但し亭外は尿臭甚し

          上海西華德路萬歳館   我鬼

 

――以下、続く――

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