西播怪談實記 佐用鍛冶屋平左衞門幽靈に逢て死し事
[やぶちゃん注:本書の書誌及び電子化注凡例は最初回の冒頭注を参照されたい。底本本文はここから。【 】は二行割注。]
◉佐用鍛冶屋平左衞門幽㚑(ゆうれい)に逢《あひ》て死(しせ)し事
延寶年中の事成しに、佐用郡佐用邑に「いと」いへる女(おんな)、嬬(やもめ)にて暮しけるが、朝夕の煙(けふり)も立兼(たてかね)、元來(もとより)、立《たち》よるへき一家もなく、又は、一飯(うつはん)を施す人もなくて、おもひわづらひしが、比(ころ)は卯月の末つかたなれば、あそこの川辺(《かは》へ)、爰《ここ》の渚(なきさ)にも、麥、多く刈干(かり《ほし》)て有けるを見置《みおき》て、其夜、密(ひそか)に行《ゆき》て、穗切(ほきり)をして歸れば、翌日、食物(くい《もの》)のいとなみに、心づかひ、なし。
かくしつゝ、度(たひ)かさなれば、後《のち》には、人も、それぞとは知《しり》ぬれど、
「貧(ひん)の盜(ぬすみ)なれば。」
とて、誰(たれ)あつて訴出(うたへ《いづ》[やぶちゃん注:ママ。後も同じ。])る人もなく打過《うちすぎ》けるが、猶、いやましの盜に、町内も《ちやうない》、せん方なく、打寄(うちより)、談合して、いとが組頭(くみかしら)の方《かた》へ盜の次第を申遺《まをしつかは》し、
「今より、堅く止《やむ》るならば、是迄の事は、堪忍すへし。左もなくば、町中《ていちゆう》として御公邊(ごこうへん)へ、訴(うたへ)申べし。」
と、いひ遺す。
組頭、「いと」を呼寄(よびよせ)て、右の子細を申渡し、折檻するに、「いと」、氣色(けしき)を損じ、
「更々、身に、覚《おぼえ》なし。難題をいひ懸(かけ)て、我を所に置(をく)まじきとの企(くはたて)なるへし。此上は、是非もなし。さ、いひける人の家々を、燒(やき)て恨(うらみ)をはらさんものを。」
と過言(くはこん)して、立歸る。
組頭、思ふやう、
『虛言にもせよ、「火を付《つく》る」といへば、其分に、ならず。』
と、町中《まちぢゆう》へ件(くたん)の趣を返荅して、共々に御公儀へ訴出(うつたへ《いで》)ければ、早速、搦捕(からめとら)れて入牢しけるが、
「かゝる所存のものは、追放しても行末、覚束なし。」
と、死罪に一決して、辰巳谷《たつみだに》といふ所にて【佐用より平福《ひらふく》へ行道の右の谷なり。】、打首(うちくび)にしられけるが、其後(そののち)、
「『いと』が幽霊、出《いづ》る。」
と、專(もはら)、いひふらしける。
慥に見たる人はなけれども、聞おちして[やぶちゃん注:「聞き怖じして」。]、暮ては、往來の人も、なし。
ほどへて、鍛冶屋平左衞門といふもの、所用の事ありて平福へ行《ゆき》、夜(よ)、更(ふけ)ぬれども、元來、大膽なるものにて、恐しともおもはず、立歸る。
折しも、彌生十日あまり、村雨、打そゝぎて、いとゞ朧(おほろ)の月影に、そろそろと、辰谷[やぶちゃん注:「近世民間異聞怪談集成」には『辰(巳)谷』とする。後の割注から脱字であることが判明する。「たつみだに」。]の口へ懸《かか》る。
道の下、谷川(たにかは)の邊(へん)に、白きものを着たる女、手を洗ふ風情に見へければ、平左衞門、思ひけるは、
『夜更て、此所《このところ》に、女の居るべきやう、なし。世上の噂の「いと」が幽㚑なるへし。』
と、足はやに行過《ゆきすぐ》るに、跡より、
「のふ、かなしや、待《まち》給へ。」
と呼《よび》かくる聲を、聞とひとしく、身の毛も弥竪(よたち)、手足もふるひ、漸(やうやう)に大願寺《だいぎわんじ》村【辰巳谷、少《すこし》、南也。】知人の宅へ走入《はしりいる》と、忽(たちまち)、氣絕すれば、亭主、驚き、いろいろ介抱しければ、正氣になり、問ヘども、聲、ふるひて、さだかに聞(きこへ)す[やぶちゃん注:ママ。]。
翌朝、駕籠に乘《のせ》て、送り歸しぬ。
それより、ぶらぶらと煩(わつらひ)て、終(つい)に死《しに》けり。
其子孫、今に有《あり》て、折々、右の噺を聞《きき》ける趣を書傳ふもの也。
[やぶちゃん注:「延寶年中」一六七三年から一六八一年まで。徳川家綱・綱吉の治世。
「組頭」江戸時代の村の「五人組」(惣百姓、町では地主・家持を、近隣毎に五戸前後を「一組」として編成し、各組に「組頭」と呼ばれる代表者を定め、名主・庄屋の統率下に組織化したもの)の筆頭の百姓。「五人組頭」と称し、「五人組」に属する百姓の統轄に当たり、質地などの連判役も行った。「五人組」内の百姓から最有力者が選ばれた。
「死罪に一決」江戸時代の「火付け」重罪で、ただ「火をつける」と言っただけでも、未遂罪に問われた。この場合、窃盗の見逃しを提案してやったのに、無実と反論したばかりか、「五人組」の上級責任者にそうした暴言を吐き、結果して村中を脅迫したわけであるから、一向に過重刑とは言えない。但し、奉行も一度は躊躇はしたではあろうが、知った町民(その中には哀れに思って盗んでいるのを知らんふりしていて呉れた優しい人々も含まれている)の恐慌・パニック状態を考えれば、これはもう彼女が悪いとしか言えない。
「荅」「答」の異体字。
「辰」『巳』「谷」思うに、グーグル・マップ・データ航空写真の中央を南東に抜ける谷なら、その先の方向が名前の「辰巳」にまさぴったりだからである。現在の金近川(かねちかがわ)沿いに並行する横坂下徳久線県道「547」号である。ここは谷を東に向かったあと、急激に辰巳(南東)に向かう谷道だからである。この推理には「ひなたGPS」の戦前の地図も参考にした。そこでは辰巳(南東)に向う谷道は、当時、そこしかないことが判るからである。ここはストリートビューで見ても、田に沿った尾根の間の長い谷になっていることが判り、当時の処刑場としても、これ、相応しかったであろう。
「平福」現在の兵庫県佐用郡佐用町平福。佐用町の中心から北へ少し行ったところ。五キロ圏内。
「大願寺村【辰巳谷、少、南也。】」先の現在の地図で、実は旧村名を残す大願寺公民館をポイントしてある。再度、見られたい。戦前の地図でも「大願寺」地名があって複数の家屋が認められる。]