□大正十年〔(二十八才)〕
一月一日
朗らかな、木の間漏る光や落葉影。
午前一時といふと、もう大正十年の元旦だな、乃公は丁度發電所で第八號機ばかりにしておいての歸りがけだ。汽車の踏切の所で東の山の端、家並の彼方に無格好な圖體の半月がヌツと出てゐる。歌にもならぬ俗景だ。
朝十時頃又會社へ出た。午後日隈君來訪。夕食を共にし夜を明かし乍ら純な巖君と唯二人、佛の慈悲にひたり入つたのであつた。
今日は元旦からして思ひもかけぬ有難い感謝の機會を頂けた。此上の喜びは無い。が矢張り此の胸は切實である。
[やぶちゃん注:「乃公」は普通は「だいこう」又は「ないこう」と読み、一人称の人代名詞で、男性が目下の人に対し、または尊大に自分を指していう語。我が輩。祖父は恐らく「わし」「おれ」又は「わたし」と訓じていると思われる。「東の山の端」当時、九軌の本社は小倉市京町にあった(現在の小倉駅南口の近く)から、足立山から下る富野の辺りの尾根下がりの部分を指しているものと思われる。]
一月十日
嚴君へ。
何と言つたつて、誰がどう思つたつて、南無阿彌陀佛より外に、何が眞か、何が絶對ぞ。何が慈悲ぞ。何が愛ぞ。何が人の道ぞ。唯、々、々。
南無阿彌陀佛のみぞ、まこと空事なき、天上天下唯一の事ぞ。ものぞ、心ぞ。我ぞ。人ぞ。いとし戀人ぞ。
七月九日
午前七時東京着、康さんが迎えてくれる。午後二時半、谷中の兩忘菴を訪ふ、大峽先生不在、夜半十時迄上野の動物園松坂屋をぶらつく。足が痛い、ねむい。兩忘菴に寢る。
[やぶちゃん注:「兩忘菴」は、現在は千葉県茂原市本納にある臥龍山両忘禅庵という禅宗寺院の前身。今は御茶会の会場としてしばしば用いられる。利休庵保利氏の「臥龍山両忘禅庵」の解説頁によれば、『両忘会の発足は明治初年頃、山岡鉄舟、勝海舟、高橋泥舟、鳥尾得庵、ほか十数名の居士が、鎌倉円覚寺・初代管長今北洪川老師を拝請して東京・湯島の麟祥院に於いて宗派によらぬ参禅会を結成、これを両忘会と名付け参禅活動を行なった事が始まり』で、「両忘」とは『論語「能所両志 能見所見」より導いた言葉で、禅の思想「自と他、物と我、生と死、善と悪、苦と楽、前と後」などの両者の対立観念を忘れ、ひとつになる』という謂いで、『「主客一如」に成りきると』いう意味を持っているという。開庵の発案者は鎌倉円覚寺初代管長であった今北洪川老師である。彼は『幕末・明治の禅僧で、雲水のみならず、一般大衆に対する禅指導に力を注ぎ、山岡鉄舟や鳥尾得庵ら明治期の著名人が参禅、弟子では、後に円覚寺管長となる釈宗演や鈴木大拙が著名で共に渡米して禅の宣揚につとめ』た人物である。明治二十六(一九〇五)年、『円覚寺管長今北洪川老師が還化したのち法嗣であった釈宗演が円覚寺管長に就任、今北洪川老師の志を引き継』ぎ、明治三十五(一九〇二)年に釈宗演は、禅をより広めることを目的として当時の高弟であった釈宗活に、この事業を託す。『宗活は、宗演より表徳号「両忘庵」を授かりその命により、東京谷中に草庵を結んで両忘会を継承』した。宗活は明治三九(一九〇六)年、後藤瑞巌・佐々木指月ら門下生十八名とともに渡米、西海岸に四年間滞在して、『初めて欧米に本格的な禅の布教をする。一行の中、佐々木指月が残留し、ニューヨークに支部道場(現在の北米第一禅堂)を開』いてもいる(明治四十五(一九一二)年帰国)。因みに大正十四年には『東京谷中の両忘庵を本部会堂に、九州、中国、東海、東北、北海道、朝鮮、満州、米国に支部道場を設け、財団法人両忘協会の認可を得、衆望により釈宗活老師が総裁に就任』、昭和十(一九三五)年には『宗教法人両忘禅協会と改称し、千葉県市川市国分新山(現在の国府台)に本部道場を建設』、この時の入門会員は約三千人、坐禅会員は約三万と、在家禅道場の草分けとして躍進した。一時、戦後の昭和二十二(一九四七)年、『釈宗活老師は、敗戦後の混乱期に正法の将来を憂』えて両忘会を解散したが、昭和二十九(一九五四)年に釈宗活老師が千葉県八日市場市に於いて遷化すると、彼に参禅していた禅僧大木琢堂が宗活の意を継いで、『道場建設を発願、建設基金のため托鉢をしながら全国を行脚』、昭和四十九(一九七四)年に茂原市本納に座禅道場を「両忘会」を設立、昭和五十八(一九八三)年、八日市場市椿の宗活老師終焉の地に諸堂を移築建立、臥龍山両忘禅庵となる。現在の地に移転したのは昭和六十三(一九八八)年である。「大峽先生」は一夢庵大峽竹堂。当時、明治専門学校の教師であったが、深く禅に帰依し、この後の大正十三(一九二四)年五月には九州に於ける禅道場の必要を痛感、最初の座禅会を行っている。また、ドイツ語版「禅」(副題は「日本における生ける仏教」)を出版、昭和八(一九三三)年には現在の福岡県北九州市小倉北区都に鎮西坐禅道場が建設、現在も続いている。この明専の恩師(と思われる)人物が、祖父とこの仕事を休んでの(としか思えない)上京、実に十一日間に及ぶ座禅会出席という出来事のキー・パーソンである。]
七月十日
午前五時、大峽竹堂居士から起された。朝參の時正式(あやしい素振りであつたが)に釋宗活老師に禪に入門を許された。是からが始まりだ。公案を貰ひ、參禪の心得を懇ろに御示し下された。
午後三時から法話甲會があり、苔巖居士の「布施は報なき布施」とて實例を示さる。竹堂居士は禪と實際的修養法とて有益な御話があつた。終つて茶話あり、學者或は畫家、多分新聞の文學家らしき詩人風の大きな人が話題の中心であつたのも面白く、ウイツトに富んだ物語りを實に面白く拜聽したものだ。
[やぶちゃん注:「苔巖居士」は不詳だが、後に「畫家」という語あることから、一人の同定候補はいる。画家藤田苔巖(たいがん 文久三(一八六三)年~昭和三(一九二八)年)である。本名は俊輔で、特に山水画を得意とした。孤高な画家であるが時間的には符合する。]
七月十一日
午前五時に十分前だ。太鼓五つの音にとび起きた。終日參禪。
朝參の見解見事に叱られた。そんな父母だの我だのを突破して「人類出來ざりし以前の本來の面目如何」自分は父母と言ふものから分析的に考へて、かく考へたのであつた。哲理を解く考であつたので、一喝を喰つたのである。
[やぶちゃん注:「人類出來ざりし以前の本來の面目如何」というのは「父母未生以前、本来の面目如何」という有名な公案の変形である。但し、実は「父母未生以前、本来の面目如何」自体が「不思善、不思悪、正與麼(しょうよも)の時、那箇(なこ)か是れ、明上座が本來の面目」を原型としたものであることは余り知られていない。これは「無門関」の第二十三則に現れる公案である。私の「無門関 全 淵藪野狐禅師訳注版」から引用する。
二十三 不思善惡
六祖、因明上座、趁至大庾嶺。祖見明至、即擲衣鉢於石上云、此衣表信。 可力爭耶、任君將去。明遂擧之如山不動、踟蹰悚慄。 明白、我來 求法、非爲衣也。願行者開示。祖云、不思善、不思惡、正與麼時、那箇是明上座本來面目。明當下大悟、遍體汗流。泣涙作禮、問曰、上來密語密意外、還更有意旨否。祖曰、我今爲汝説者、即非密也。汝若返照自己面目、密却在汝邊。明云、某甲雖在黄梅隨衆、實未省自己面目。今蒙指授入處、如人飲水冷暖自知。今行者即是某甲師也。祖云、汝若如是則吾與汝同師黄梅。善自護持。
無問曰、六祖可謂、是事出急家老婆心切。譬如新茘支剥了殻去了核、送在你口裏、只要你嚥一嚥。
頌曰
描不成兮畫不就
贊不及兮休生受
本來面目没處藏
世界壞時渠不朽
*
淵藪野狐禪師書き下し文:
二十三 善惡を思はず
六祖、因みに明(みやう)上座、趁(お)ふて、大庾嶺(だいゆれい)に至る。
祖、明の至るを見て、即ち衣鉢を石上に擲(な)げて云く、
「此の衣(え)は信を表す。力をもちて爭ふべけんや、君が將(も)ち去るに任す。」
と。
明、遂に之れを擧ぐるに、山のごとくに動ぜず、踟蹰(ちちう)悚慄(しやうりつ)す。
明曰く、
「我は來たりて法を求む、衣の爲にするに非ず。願はくは行者(あんじや)、開示したまへ。」
と。
祖云く、
「不思善、不思惡、正與麼(しやうよも)の時、那箇(なこ)か是れ、明上座が本來の面目。」
と。
明、當下(たうげ)に大悟、遍體、汗、流る。泣涙(きふるい)作禮(されい)し、問ふて曰く、
「上來(じやうらい)の密語密意の外、還りて更に意旨(いし)有りや。」
と。
祖曰く、
「我れ今、汝が爲に説く者は、即ち密に非ず。汝、若し自己の面目を返照(はんせう)せば、密は却りて汝が邊(へん)に在らん。」
と。
明云く、
「某-甲(それがし)、黄梅(わうばい)に在りて衆に隨ふと雖も、實に未だ自己の面目を省(せい)せず。今、入處(につしよ)を指授(しじゆ)することを蒙(かうむ)りて、人の水を飮みて冷暖自知するがごとし。今、行者は、即ち是れ、某甲の師なり。」
と。
祖云く、
「汝、若し是くのごとくならば、則ち吾と汝と同じく黄梅を師とせん。善く自(おのづ)から護持せよ。」
と。
無門曰く、
「六祖、謂ひつべし、是の事は急家(きふけ)より出でて老婆心切なり、と。譬へば、新しき茘支(れいし)の殼を剥ぎ了(をは)り、核を去り了りて、你(なんぢ)が口裏(くり)に送在して、只だ你(なんぢ)が嚥一嚥(えんいちえん)せんことを要するがごとし。」
と。
頌して曰く、
描(ゑが)けども成らず 畫(ゑが)けども就(な)らず
贊するも及ばず 生受(さんじゆ)することを休(や)めよ
本來の面目 藏(かく)すに處(ところ)沒(な)し
世界の壞時(えじ) 渠(かれ) 朽ちず
*
淵藪野狐禪師訳:
二十三 善惡を思わない
六祖慧能が、慧能自身が五祖弘忍から嗣(つ)いだ法灯をそのままに、蒙山恵明(けいみょう)に嗣いだ時の話である。
慧能は、ある日、ぷいと自分がそれまでいた寺を出てしまった。
当時、未だその同じ寺で上座を勤めていた恵明は、機縁の中で、慧能の後を追いかけて行き、遂に大庾嶺(だいゆれい)の山中で追いついたのであった。
慧能は、恵明の姿が見えるや、即座にその袈裟を脱ぎ、鉢(はつ)もろともに、傍にあった岩の上にぽんと投げて、
「この袈裟は、拙僧が五祖弘忍さまから真実(まこと)の伝法を受けた証しとして、受け嗣いだもの――臂力権力を以って、争い奪い去る如きものでは、ない――あなたが、勝手に持ってゆかれるがよろしいかろう。」
と言って、穏やかな表情で恵明に対した。
恵明は、形ばかりの礼を示して、慧能の膝下に跪いていたが、その言葉を聞くや、かっと見開いた鋭い眼を上げると、慧能を凝っと見据えた。そうして、即座に躍り上がるや、慧能を見つめたまま、すぐ脇の石の上の衣鉢(いはつ)に手を伸ばして、荒々しくそれを取り挙げようした。
――動かない!?
恵明は恐懼(きょうく)して、黙ったまま、思わず衣鉢をきっと見つめるや、今度は両手でそれをぐいと摑むと、渾身の力を込めて持ち上げようとした。
――動かぬ!
薄くぼろぼろになった袈裟と粗末な鉢と――それが、如何にしても、山の如く微動だにせぬのであった。
恵明は、諦めて手を離すと、再び、慧能の前に土下座し、余りの恥かしさから、とまどい、また、恐れ戦(おのの)き、へどもどしながらも弁解して言った。
「……私めが、ここまで行者(ぎょうじゃ)を追いかけて参りましたのは、その『法』そのものを求めんがため……袈裟のためにしたことでは、御座らぬ……どうか、行者! 私めのために、悟りの真実(まこと)を開示して下されい!……」
すると慧能は、優しい声で問いかけた。
「遠く遙かに善悪の彼岸へ至り得た、まさにその時、何がこれ、明上座、そなたの本来の姿であるか?」
――その言葉を聴いた刹那、恵明は正に大悟していた。
恵明の体じゅうから汗が噴き出したかと思うと、瀧のように下り、涙はとめどなく流れ落ちた――暫らくして、身を正した恵明は、慧能にうやうやしく礼拝すると、謹んで誠意を込めて訊ねた。
「只今、頂戴し、確かに私めのものとし得た密かな呪言、聖なる秘蹟以外に、もっと別の『何か深き秘儀』は御座いませぬか?」
慧能は、ゆっくりと首を横に振りながら、穏やかに答えた。
「拙僧が今、あなたのために示し得たものは、総てが、秘儀でも、何でもない。あなたが、自分自身の本来の姿を正しく振り返って見たならば、きっとその『秘儀なるもの』は、かえって、あなたの中にこそ、あるであろう。」
恵明は、莞爾として笑うと、
「拙者は、黄梅(おうばい)山にあって、かの五祖弘忍さまの下(もと)、多くの会衆とともにその教えに従い、修行に励んで参りました――しかし、実のところ、一度として、己(おのれ)の本来の姿を『知る』ということは、出来ませなんだ――ところが今、あなたさまから『ここぞ!』というお示しを頂戴し――丁度、人が生れて初めて水を飮んでみて、初めてその『冷たい!』ということ、また、『暖かい!』ということを、自(おの)ずから知ることが出来た――それと全く同じで御座いました――今、行者さま! あなたはまさしく、拙者の師で御座いまする。」
と言って、地に頭をすりつけた。
すると慧能は、ゆっくりとしゃがんむと、その両手で、土に汚れた恵明の両手をとり、諭すように言った。
「あなたが、もし言われた通りであられるなら、則ち私とあなたと――この二人は、共に黄梅の五祖弘忍さまを師としようとする者――どうか心からその法灯を堅くお守りあられよ。」
――恵明には、その慧能の声が、あたかも大庾嶺の峨々たる峰々に木霊しながら、遠く遙かな彼岸から聞こえてくる鐘の音(ね)のようにも思われたのであった――
無門、商量して言う。
「ヒップな六祖、言うならば、『やっちまたぜ! 老婆心! 有難迷惑! 至極千万! 小ずるい恵明に法灯を、渡してどないするんじゃい!』。喩えて言えば、新しい、茘支(ライチ)の殼を、剥(む)き剥きし、核(たね)までしっかり取り去って――『坊ちゃん、お口を、はい、ア~ン! 後は、自分でゴックン、ヨ♡』――」
次いで囃して言う。
描(か)いても描いても成りませぬ 彩(いろど)ってみても落ち着きませぬ
当然 画讃も書けませぬ だから礼には及びませぬ
生れたマンマのスッポンポン
壊劫(えこう)にあっても朽ちませぬ
[淵藪野狐禪師注:
・「大庾嶺」は、現在の江西省贛州(かんしゅう)市大余県と広東省韶関(しょうかん)市南雄市区梅嶺にまたがる山。
・「壊劫」は、仏教で言う四劫(しこう)の第三期。四劫とは仏教での一つの世界の成立から存在の消失後までの時間を四期に分けたもので、その世界の成立とそこに生きる一切衆生(生きとし生ける総ての生物)が生成出現する第一期を成劫(じょうごう)、その世界の存続と人間が種を保存して生存している第二期を住劫、世界が崩壊へと向かい完全に潰滅するまでの第三期を壊劫、その後の空無の最終期を空劫(くうこう)と呼ぶ。この四劫全部の時間を合わせたものを一大劫(いちたいこう)と呼ぶ。
・「渠」について西村注は『第三人称の代名詞。「伊」(かれ)に同じ。禅者が真実の事故を指していう語。』とある。]
さて、この日記はちょっと分かりにくいのだが、私は次のように解釈する。祖父はこの前日、宗活老師から「人類出來ざりし以前の本來の面目如何」(人類が誕生する以前のお前の本来の姿とは何か?)という公案をもらい、朝の参禅で、自分の「見解」である、
「かかる父母だの我だのを突破して、人類出来ざりし以前の本来の面目!」
答えた。すると宗活老師から、「一喝を喰」らって「見事に叱られた」のであった。何故、叱られたか? それは祖父自体がその原因をはっきりと示しているから面白い。祖父は「父母と言ふものから」極めて論理的「分析的に考へて」、どこまでも理詰めで「かく考へ」抜き、総体として如何にも学者然として「哲理を解く考で」公案に向かってしまったからであると言い切ってよい。禅の公案と問答は、祖父が自信を以て語っている論理的帰結やヘーゲルのアウフヘーベン(止揚)のような構造からは、実は無限遠の対極にあると、私は思うからである。]
七月十一日
是ならばと提げて老師に面した。獲物は一喝である。實に有難い一喝である。「其はよくわかつた。然し其は實際上の問題である。實際上の問題は暫らく措いて、父母未生以前本來の面目如何」參禪亦參禪工夫、更に工夫流汗淋漓、午前に四時間、午後に二時間、本來の面目とは如何、本來の面目とは如何。
[やぶちゃん注:祖父が「かかる父母だの我だのを突破して」という答えを言ったことから、宗活は公案を人口に膾炙した例の「父母未生以前本來の面目如何」という公案にスライドさせている。ここには祖父が一括を食らったこの日の答えは示されていないが、その答えを宗活が「其はよくわかつた。然し其は實際上の問題である。實際上の問題は暫らく措いて」考えなければ、いつまで経っても一喝だぞ! と批判していることからも、私が先の注で推測した通り、祖父の公案深考の方法が徹底した論理的思考であり、誤った公案への姿勢であることを証明している。]
七月十三日
午前中獨參、本日休參
[やぶちゃん注:現実の論理的思考から抜け出せない祖父は答えが出ない。]
七月十四日
大接心、六時朝參「色もなし相もなし」とやり出すと、此の名論を屁の樣に「ソンナ公案を外所にした批評はいらぬ」「公案三昧、公案三昧」本來の面目如何。第二回の朝參、「梢に渉る風」其んな木も風もない以前の事じあ。本來の面目如何、ウーンクソ。何と何と蹴られても、此の信念にゆるぎあるべき。彌陀に救はれし身には、唯念佛、唯念佛。ドレモコレモ皆本來の面目じや。
[やぶちゃん注:この日も面白い。祖父はこのツー・ラウンド、巧妙に作戦を変えている。
○第一回朝参の場面
宗活「作麼生(そもさん)! 父母未生以前本来の面目如何?」
祖父「色(しき)もなし相もなし!」
宗活(鈴を鳴らして)「ソンナ、公案を外所(よそ)にしたような批評は、イ、ラ、ヌ!」
*
○第二回朝参の場面
宗活「作麼生(そもさん)! 父母未生以前本来の面目如何?」
祖父「梢に渉る風!」
宗活(鈴を鳴らして)「虚け者ガ! そんな木も風も、ない、以前のことじゃ!!」
第一回は私でも吹き出してしまいそうだ。勿論、祖父は極めて真面目に考えてはいる。「色」(しき)は色法で仏教でいう「存在」の謂いである。修行禅定のみを実存として考える仏教では、色(存在)は総ての認識されるところの対象となる諸行無常の自身の肉体を含む物質的現象の総称である。具体的には感覚器(目・耳・鼻・舌・身・意)によって認識される対象である「境」の一つで、狭義には特に眼識の対象を言う。「相」(そう)は同様にあらゆる現象・対象の見た目の外形や姿形(すがたかたち)の謂いであろう。それにしても私が笑ってしまうのは、
「父母未生以前とかけて何と解く?」
「本来の面目如何と説く。」
「その心は?」
「色もなし相もなし。」(笑)
と、これではまるで落語の謎かけみたようなもんだ。
第二回の「梢に渉る風」はカンニングが見え見えだから、だめだと私も思う。これは容易に「雨月物語」の「青頭巾」の引用でも超有名な「禅林句集」の一節、
江月照松風吹
永夜淸宵何所爲
○書き下し文
江月照らし 松風吹く
永夜淸宵 何の所爲ぞ
○やぶちゃんの現代語訳
――月影は川面を美しく照らし――
――松風が爽やかに吹きぬける……
……この永き夜――
――淸らかな宵……これは一体、何のために、あるか?!
という公案を答えに安易にインスパイアしたものに過ぎないからである。この場に私がいたら、宗活の答えを聞いた瞬間、やっぱり吹き出してしまうだろう――しかし、そうして当然の如く、祖父の怒りを買って、夜、藪野種雄は私の寝床へやって来てさんざん議論を吹きかけられ、睡眠不足になること、必定でもある。]
七月十五日
どうしても愈々自分のものとして示す事が出來ぬ。布團上の公案が老師の面前屁一つ。殘念だ。無念だ。茶話會の時、何が故か俺には分らぬが老師の一言一句が乃公の心を打ち、生れて未だなき苦しさに耐え兼ね、衆人列座の中に聲をあげて涕泣す。
[やぶちゃん注:祖父の不思議な激情的資質を見る。祖父はともかくここまで徹底して超真面目に公案の答えを考えて続けて来たのである。ところが老師の、不真面目にしか見えない屁のような答えに対する、無意識の内的不満と抑え難い憤怒が頂点に達し、衆人列座の中にあって、図らずも涕泣してしまったのである。]
七月十六日
不思議とて、かくも不思議のことがあるか。興奮してゐるのではない。見るもの聞くもの一つとして公案ならざるはない。此の浴場の水迄も、くだらぬ廣告迄も。しかも老師の一喝に會ふ。古劍居士戒めて曰く。玄境なり、今一息の所、大勇猛心を起し給へ。本來の面目如何。
[やぶちゃん注:「古劍居士」不詳。]
七月十七日
大法を傷けし不屆者!彼禪宗活をしめ殺す宗活奴がと、其が目につきては殺しも殺せず。又無爲にして歸る。殘念無念〔。〕
[やぶちゃん注:そうだ! じっちゃん! それでいいよ! もう、一歩だよ!]
七月十八日
五感に感ずるもの一として我本來の面目に非るものなし。道行く人も人に非ず。空行く雲も雲に非ず。然るに何ぞや。卒然として惡夢より覺めし如く、宗活何者ぞ。我が此の絶大の信念を看破すること能はずして、徒らに宗旨を弄する者と思ひし瞬間、道は道、人は人、妙齡の美人は矢張り妙齡の美人だよ。元の木阿彌だ。何の爲の修業ぞ。何の爲の上京ぞ。將に危うし危うし。
[やぶちゃん注:祖父はここで確かに深化した。「妙齡の美人」は間違いなく祖母茂子である。快哉! 快哉!]
七月十九日
本來の面目如何、座禪三昧布團上工夫し骨折つて取り去り取り來る。一劍頭に、宇宙乾坤を卒然擧止するの外なき胸裡の苦惱、しかも切實なる將に死に勝る苦惱である。南無阿彌陀佛の本願がほのかに分明した心地がする。
午前十一時、見性成佛。
[やぶちゃん注:はっきり言おう。確かに――この時――祖父は悟達している!]
七月二十日
午前二回、午後二時の參禪にて終り。
(註)此の年の九月頃かと思へるが、草刈氏と意見衝突、十月五日最後の談合、辭職に決せられて森先生や藤井先生、笠井さん等に相談と云ふより寧ろ報告された樣子である。超えて大正十一年二月二十五日離職許可、是丈けの經濟的壓迫の中に敢然として主義の爲に辭職された事には滿腔の敬意を表せずには居られない。
[やぶちゃん注:祖父の辞職と、この一連の座禅体験は無縁ではないと私は思う。村上氏は確かにそうしたコンセプトでこの年の日記を抜粋していると言ってよい。私は、祖父の毅然たる鮮やかな態度に、素直に心からの畏敬を覚えるものである。]