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カテゴリー「藪野種雄」の15件の記事

2011/10/09

祖父藪野種雄選 啄木歌集

[やぶちゃん注:以下は、祖父藪野種雄の遺品である昭和七(一九三二)年紅玉同書店刊「啄木歌集」(「一握の砂」「悲しき玩具」所収)の中で、サイド・ラインが引かれたり、頭に〇や◎などの記号が附されてあるものを首巻から順に抽出したものである。底本のルビは一部の難訓を除き、排除した。]

 

□「一握の砂」より

 

東海の小島の磯の白砂に

われ泣きぬれて

蟹とたはむる

 

たはむれに母を背負ひて

そのあまり輕きに泣きて

三歩あゆまず

 

わが抱く思想はすべて

金なきに因するごとし

秋の風吹く

 

學校の圖書庫(としよぐら)の裏の秋の草

黄なる花咲きし

今も名知らず

 

神有りと言ひ張る友を

説きふせし

かの路傍(みちばた)の栗の樹の下(した)

 

先んじて戀のあまさと

かなしさを知りし我なり

先んじて老ゆ

 

人ごみの中をわけ來る

わが友の

むかしながらの太き杖かな

 

そのむかし秀才の名の高かりし

友牢にあり

秋のかぜ吹く

 

絲切れし紙鳶(たこ)のごとくに

若き日の心かろくも

とびさりしかな

 

ふるさとの訛なつかし

停車場の人ごみの中に

そを聽きにゆく

 

やまひある獸のごとき

わがこころ

ふるさとのこと聞けばおとなし

 

二日前に山の繪見しが

今朝になりて

にはかに戀しふるさとの山

 

かにかくに澁民村は戀しかり

おもひでの山

おもひでの川

 

わが庭の白き躑躅を

薄月の夜に

折りゆきしことな忘れそ

 

霧ふかき好摩の原の

停車場の

朝の蟲こそすずろなりけれ

 

汽車の窓

はるかに北にふるさとの山見え來れば

襟を正すも

 

ふるさとの土をわが踏めば

何がなしに足輕くなり

心重れり

 

三度ほど

汽車の窓よりながめたる町の名なども

したしかりけり

 

友われに飯を與へき

その友に背きし我の

性(さが)のかなしさ

 

あたらしき洋書の紙の

香をかぎて

一途に金を欲しと思ひしが

 

いくたびか死なむとしては

死なざりし

わが來しかたのをかしく悲し

 

呿呻(あくび)嚙み

夜汽車の窓に別れたる

別れが今は物足らぬかな

 

雨に濡れし夜汽車の窓に

映りたる

山間の町のともしびの色

 

雨つよく降る夜の汽車の

たえまなく雫流るる

窓硝子(まどガラス)かな

 

眞夜中の

倶知安(くちあん)驛に下りゆきし

女の鬢(びん)の古き痍(きず)あと

 

泣くがごと首ふるはせて

手の相を見せよといひし

易者もありき

 

いささかの錢借りてゆきし

わが友の

後姿の肩の雪かな

 

あをじろき頰に涙を光らせて

死をば語りき

若き商人

 

子を負ひて

雪の吹き入る停車場に

われ見送りし妻の眉かな

 

忘れ來し煙草を思ふ

ゆけどゆけど

山なほ遠き雪の野の汽車

 

何事も思ふことなく

日一日

汽車のひびきに心まかせぬ

 

あはれかの國のはてにて

酒のみき

かなしみの滓(をり)を啜るごとくに

 

よごれたる足袋穿く時の

氣味わるき思ひに似たる

思出もあり

 

かの時に言ひそびれたる

大切の言葉は今も

胸にのこれど

 

君に似し姿を街に見る時の

こころ躍りを

あはれと思へ

 

かの聲を最(も)一度聽かば

すつきりと

胸や霽(は)れむと今朝も思へる

 

みじみと

物うち語る友もあれ

君のことなど語り出でなむ

 

死ぬまでに一度會はむと

言ひやらば

君もかすかにうなづくらむか

 

時として

君を思へば

安かりし心にはかに騷ぐかなしさ

 

わかれ來て年を重ねて

年ごとに戀しくなれる

君にしあるかな

 

古文書のなかに見いでし

よごれたる

吸取紙をなつかしむかな

 

春の街

見よげに書ける女名(をんなな)の

門札(かどふだ)などを讀みありくかな

 

かの旅の夜汽車の窓に

おもひたる

我がゆくすゑのかなしかりしかな

 

目をとぢて

口笛かすかに吹きてみぬ

寐られぬ夜の窓にもたれて

 

わが友は

今日も母なき子を負ひて

かの城址(しろあと)にさまよへるかな

 

夜おそく

つとめ先よりかへり來て

今死にしてふ兒を抱けるかな

 

死にし兒の

胸に注射の針を刺す

醫者の手もとにあつまる心

 

□「悲しき玩具」より

 

遊びに出て子供かへらず、

取り出して

走らせて見る玩具の機關車。

 

本を買ひたし、本を買ひたしと、

あてつけのつもりではなけれど、

妻に言ひてみる。

 

旅を思ふ夫の心!

叱り、泣く、妻子(つまこ)の心!

朝の食卓!

 

家を出て五町ばかりは、

用のある人のごとくに

歩いてみたれど――

 

うっとりと

本の插繪に眺め入り、

煙草の煙吹きかけてみる。

 

年明けてゆるめる心!

うっとりと

來し方をすべて忘れしごとし。

 

何となく、

今年はよい事あるごとし。

元日の朝、晴れて風無し。

 

ぢりぢりと、

蠟燭の燃えつくるごとく、

夜となりたる大晦日かな。

 

何となく明日はよき事あるごとく

思ふ心を

叱りて眠る。

 

何故かうかとなさけなくなり、

弱い心を何度も叱り、

金かりに行く。

 

どうかかうか、今月も無事に暮らしたりと、

外に慾もなき

晦日の晩かな。

2011/09/04

藪野種雄遺稿 落葉籠 全 HP版

祖父藪野種雄の遺稿集である「落葉籠」(全)をトップ・ページに公開した。辞世の句について、父所蔵の原本によってブログ版に補正を加え、底本の画像も添付してある。

2011/09/03

藪野種雄 日記 昭和9(1934)年 辞世

□〔昭和九年(四十一才)〕

  病中日記の一節

  昭和九年七月九日
 母校二十五周年記念號を讀み、恩師の慈言を拜し、學園を偲び、病床數星霜、只何となく涙出ず。

  昭和九年八月十三日(死の前日)

    健康なりし日、眞面目な或る米國人と富士登山した折を追懷して。

 月光にひとしきなり 夜の蛙

 月光に大男の馬を選びけり

 樹閒漏る月影あびて馬子の唄

 歌ひつゝ居眠る馬子や月夜哉

 己がじ〔し〕駄馬も憩へり月の茶屋

[やぶちゃん注:先にも記したが、現在、祖父の祥月命日は八月十五日である。父の推測では、八月十四日深夜に誰にも看取られずに亡くなった祖父が、翌十五日の朝に看護婦の巡回で亡くなっているのが見つかったといった事実があったのではないか、とのことである。しかし、この辞世の句群は、月光射す富士の実景と臨場感溢れる蛙声や馬子の唄声を伝えて、あくまで清澄にして透明な絶唱である。]

     編 輯 後 記

 病中日記の無いのは淋しいが、茲に一つ男子の面目躍如たる、一面を紹介して稿を結ばう。其は氏が九軌時代〔、〕天誅を加へんと迄激怒された草刈氏と、東邦電力に於て再會された時の事である。嘗ての仇敵である事とて、草刈氏も相當覺悟されてゐたものとの事であつたが、案に相違して藪野兄の下へもおかぬ歡待に、全く驚かれたさうである。兄は「若氣の到りで…」草刈氏も「イヤ當時仕色々…」二人は呵々大笑して手を握られた。後〔、〕藪野氏の紹介で一人九軌へ就職を依賴した人があつたが、草刈氏も藪野さんの紹介される人ならとて、無理にも採用されたとの事である。
 永遠の若さと、若さが特有するイデアリズムを貫徹された外柔内剛の氏の一斑にても、此の稿によつて傳達出來れば余の欣幸之に増すものはない。

[やぶちゃん注:以下、奥附。]

【非賣品】

昭和十年七月 二十  日 印  刷
昭和十年七月二十五日 發  行

名古屋市東區柳原町三丁目四三番地
編集兼發行人        村 上 正 巳

        名古屋市東區千種町五反田五二番地
印刷所        合資會社 三 益 社

        名古屋市東區柳原町三丁目四三番地
發行所            村 上 正 巳

藪野種雄 日記 昭和5(1930)年

□〔昭和五年(三十七才)〕

  昭和五年正月三日
 夜十時、ヘソの上に温灸をのせ仰臥して隣家のマージアンの音を聞きつゝ靜かに新春を想ふ。父七十一才、母六十四才、正雄二十四才、種雄三十七才、茂子二十九才、直亮七才、豐昭二才〔。〕何よりも親子兄弟打ち集ひ、今年も多難の年なるを覺悟して靜省したい。
 二月中は日記一度も書かず、三月も今日(十七日)に到り始めてである。
 三月六日朝、思ひ設けざりし胃潰瘍突發せり。其より正味二晝夜絶食、幸に輕度に過し得たり。福島先生に多謝せざるべからず。
 最後かと、死なれぬ心 妻の守れる。
 誰れ博士、何の用かや 病癒ゆ
 二日間絶食中の一夜實にもうれしきユートピアを夢みぬ。
(一)日本アルプス高原にの一家に放浪の身。
(二)其の峻峰アルプス連山の中にも人生爭鬪の一場面を見る。
大男鑛山を失ひしとて狂氣。
(六)山上象牙の塔とも云ひたき純白に桃色の世界、此の所は
   遙か下にニユーヨークを見下し、透明の海たり、此所よ
   り子等を飛び込ませ、スマートな人々の集ひ。
右は夢なれど眞のユートピアには純情の外何者も妨げず、自由自在なるを見て愉快極まれり。
(註)是より五月十一日迄欠勤、十二日始めて出勤、暫くの後風邪の氣味にて就床、時々具合の好き日出勤として俸給は全額支給されたとか、〔→。〕信用の篤かつた事推して知るべしである。
[やぶちゃん注:この祖父の夢記述は面白い。夢分析を試みたい願望に駆られるが、祖父のユートピアを汚すまい。]

  六月某日
 小生欠勤(六ケ月内を限り)全額支給の件、身にあまる御言葉なり、穴あらば入りたき次第なるが、永く御厚意を銘記せん爲に左に録しおくものなり。
    具   陳
 藪野種雄技師ハ大正十三年八月名古屋火力建設所氣罐係主任トシテ來任シ、新鋭ナル箇所ノ汽罐工事ニ、更ニ二期増設工事二於テハ機械主任トシテ汽機増設ノ大工事ヲ一身ニ責任ヲ荷ヒ全力ヲ傾注シテ、驚異ニ値スルエ事ノ迅速正確ト、エ事上ノ低廉ナル竣成ヲ見クルハ君ノ粉骨碎身ノ努力ノ效大ナルモノアリ。且又爾來運轉ニ從事シテハ君ノ謹直ナル性格ヨク衆ヲ率ヒ衆望ヲ荷フテ責任者トシテ地位ヲ穢サズ、燦トシテ光彩ヲ放チ、火力界模範ノ良運轉成績ヲ擧ゲツヽアルハ實ニ氏ガ研鑚ノ效多キニ負フモノト信ジ疑ハザル者ニ候。然ルニ家庭ニハ老父母卜妻子三名及ビ實弟アリ、一昨年同氏ノ病臥シテ醫藥ニ親シメルニ引續キ長女ノ難病ニ、又病死ニ、常ニ醫藥ノ料ニ數々家計不如意ノ嘆聲ヲ漏ラスヲ漏レ聞クニ及ビ誠ニ同情ニ堪エズ。(中略)
 右は原稿なれ共辻野氏がかく迄に申し下されし御心中に對し
感激無くしては居られぬ心地す。

  七月十三日
 (註)一家を引あげて知多郡師崎に轉地療養、海岸通に借家して療養生活始まる。約二ケ月後六月三十一日歸名。後昭和七年退職されて河和町に轄地。更に病篤うして九年山田田村中病院に入らる。

  病中雜詠

 鱚釣りや、夜明けて獲物 少かり

  大震災追憶

 燒け跡に、西瓜ならべし 帝都かな

 子等の顏、覆ふて西瓜 喰ひ居り

 堀拔けの 井戸に西瓜の 浮べあり

 籤ひいて 西瓜買ひたる 女工かな

 西瓜積んで トラツク飛べる 暑さ哉

[やぶちゃん注:祖父は関東大震災当時、浅野セメント東京本社嘱託として東京にいた。]

藪野種雄 日記 昭和4(1929)年

□昭和四年〔(三十六才)〕≪日記復活≫
  一月一日
 見るばかりなり日記哉。
 今日は一月二十四日の夜、床の中よりペンを執る。お隣りの鐵雄君の泣き聲がする。さて思ひ出せば………と、
 元且や、長男連れて年始なり。
 元且や、寒うて年賀も橋の上
今年は幸福參れと、三社詣でとシヤレる。
[やぶちゃん注:「三社詣で」は三社参りとも言い、正月の初詣として三つの神社を詣でることを言う。西日本各地に広く伝わる風習で、必ずしも特別な神道への信仰心に基づくものではない。特に福岡県を中心として九州・中国地方に見られるから、これは福岡在住時の習慣に基づくもので、名古屋であるから三つの内には熱田神宮が含まれていると考えてよい。「日記復活」は〔 〕の二重括弧で括られている。私の補正括弧と混同するので、表記のような括弧を用いた。]

  一月二日
 初雪や、樂しかりける祝哉
 酒くみて、壽ほぐ歌や、年新なり。

  一月四日
 仕事始め。
 正月の氣分や仕事も、遠慮哉。
 遠慮なき、休みなりけり お正月

  一月十七日
 彈き初めや、若奧樣の 指の音
 ピンコシヤン、半日鳴るなり お正月
 あいの手に、尺八の音もすなり、春のどか。
 赤ん坊、今日は泣き初めらるゝ お正月

藪野種雄 手紙 昭和3(1928)年10月2日附 妻茂子(推定)宛て

□〔昭和三年(三十五才)〕

    手   紙
 昭和三年十月二日(奧さんあてのものらし)
一昨日正坊は校長ドンより「今月より五圓昇給」辭令は出さぬが次に正式の訓導の辭令下附の時には、改めて更に幾らか増俸の事になつて居るからとの事、「五十圓ニナツタラチツターエ、ナア」と老父と話し居ると聞きたり。
 昨日(一日)第一號タービン、主要な羽根の組立を終了したので一寸とホツとした。其の終了の時。吉原氏來所、態々小生を招きて曰く「一度も御見舞にも來なかつたが、どうですか」少々痛み入る「心配せぬが好いですよ。氣を樂にしてやり給へ」との事。
 「ヘイ、ぼつぼつやらして貰つてゐます」と答ふ。「僕の親戚の者で少し非道いのがあつたから鬪病術を買つて送つてやつたよ」………「小生も讀んで元氣は出してゐますが」と答ふ。「僕の知つた人で、獨乙と英國と日本の體温計を持つて、どれがどの位違ふとやら云ふて手ばかり握つてゐるのがあるが、あれでい〔→は〕イケン」との事、小生は一度も測らん方で困つた男なんぢやが、内心びくびくして死ぬのを待つてるような死ぬのが恐い樣な、自分自身を一寸と内省して見た。
一昨朝は自見夫人の御味噌汁、昨晩は同夫人がソツと臺所に來られて茶碗を洗つて下された。………老父と直亮は湯に行つたのだがと、寢轉んでゐなら音がする。………マア折角蔭德をして下さるのだから感謝しながら、歸られる時だけソロソロ出て障子の外から、誠に恐れ入ります。
 今朝は三輪夫人がおいしい味噌汁を作つて持つて來て下された。直亮が老父と一所について行つた留守に自見夫人が菜葉のお漬物を持つて來て下された。
 兎に角カヽアの留守ちうものを考察すると二つの得がある〔。〕
一、他人の親切を味へることが深い。其してどうやら、よりうまいものが喰べられる樣である。(あんまり永くなると味が惡うなるかも知れぬが)ツマリカヽアは居らんでも生きて行かれるらしい事之也。然し爺さんがビクビクして「胸のシツプ、背中のシツプ、喉のシツプ」をして呉れるのは心苦しい樣だ。ぢやが今日あたりは少しは氣分は宜しいから、心配せんでもよろしい。
 第二の得は、第一の裏か表か知らんが兎に角幾分自分の事は自分でやらうと云ふ氣が少しは起る。つまり克己心が少しは増加して精神修養になるかも知れんと言ふ心配がある。
良い意味で解釋すればツマリカヽアは有難いと言ふ結論になるかも知れぬと思はれる節がある。
 兎に角今朝手紙が來ると………來るべきであるのに來ぬので少し低氣壓の傾がある。マア其の積りで手紙を讀むのもよからう。
  昭和三年十月二日
[やぶちゃん注:当時、一家は名古屋在。祖父は既に肺結核に罹患している。「正坊」は弟正雄(当時二十二歳)。訓導とあるから、この頃は尋常小学校の美術教師をしていたものか。「直亮」は祖父の長男(当時五歳)。私の父の兄である。「態々」は「わざわざ」と読む。一部に鍵括弧を補った。]

藪野種雄 大正11(1922)年12月14日附 友人宛手紙

大正十一年〔二十九才〕

 (註)三月二十三日上京。
 再度の參禪〔。〕
 「如何か是堅固法身」より始め二十八日に終了、此の年は佐々木指月の霜花集から、何やかや取つて拔き書きされてゐる。後年筆者がよく談じ會ふようになつてからも、よく指月の話が出たものであるが、此の時始まつたらしい。
[やぶちゃん注:「如何か是堅固法身」は「碧巌録」の第八二則「大龍堅固法身」に基づく公案。以下、長い評唱を省略して示す(底本は岩波文庫版を用いたが、恣意的に旧字に直した)。

第八二則 大龍堅固法身
垂示云、竿頭絲線、具眼方知、格外之機、作家方辨。且道、作麼生是竿頭絲線、格外之機。試擧看。
【本則】
擧。僧問大龍、色身敗壞、如何是堅固法身。龍云、山花開似錦、澗水湛如藍。

○やぶちゃんの書き下し文
第八二則 大龍(だいりやう)の堅固法身
垂示に云く、竿頭の絲線、具眼にして方に知る。格外の機は、作家にして方に辨ず。且道(さて)、作麼生(いか)なるか是れ、竿頭の絲線、格外の機。試みに擧(こ)し看ん。
【本則】
擧す。僧、大龍に問ふ、「色身は敗壞す、如何なるか是れ堅固法身。」と。龍云く、「山花開きて錦に似、澗水湛へて藍のごとし。」と。

○淵藪野狐禪師訳
 垂示に云う、寺の旗の竿先にある紐は、それを普段から見ておれば、それが何であるかを確かに知っている。しかし、そんな常識を遙かに超越した禅機というものは、手だれの真(まこと)の悟達者にしか見抜けぬ。さても、如何なるか是れ! 竿先の紐、超絶の禅機?!
【本則】
僧が大龍和尚に問うた。
「現象としての肉体がやがて衰え、腐敗し、完膚無きまでに壊れるものであることは真理であります。だのに、堅固な仏の法身というは、これ一体、如何なるものなのですか?」
龍が答える。
「――山の花が咲き乱れている――それは錦を広げたのに似ている――渓谷は深く清き水を湛えている――それはまるで藍を流したようなじゃ……」

「佐々木指月」(明治十五(一八八二)年~昭和十九(一九四四)年)は先に示した通り、釈宗活の弟子。彫刻家(仏師)でもあり詩人でもあった。本名栄多。禅伝道のため長く在米した。太平洋戦争の際にはアメリカへの忠誠心を問う日章旗への発砲を拒否して監禁され、病いに冒されて死去している。文字通り、気骨ある古武士というべきか。]

    手   紙

 僕ノ血ミドロナ全信仰ハ、兄モ御承知故、今更贅言ハ要ラヌコト、サリ乍ラ想フガ故筆ノマヽニ記シテン。
 生涯ノ忘ルべカラザル重大ノ岐路ニ立ツタ僕ニトツテ、此年十二月一日ハ實ニ容易ナラザル日デアツタ。茂子サンノ告白ヲ聽キシ其瞬間迄、寸時モ腦裡ヲ去ル能ハザリシ、シカモ夢想ダニ許サレザリシ身ニトツテ、此ノ血ヲ吐ク樣ナ告白ハ僕自身ニトツテハ實ニ晴天ノ霹靂デアツタ。幾度カ其ノ言葉ヲ繰り返へシ、繰り返へシ我卜我ガ耳ヲ疑ヒシカ、オ察シノ事デセウ。其歡驚ハ茂子サンニ對スル從前ノ熱愛ガ。イヤガ上ニ深刻ナ反省ニナツタノデス。僕ガ常時抱懷セル生活目標ガ那邊ニアルカハ略々御察シトハ存ジマスガ、參禪卜云ヒ辨道トイヒ、上京卜云フ、一トシテ僕ノ信念ノ發露ナラザルモノハアリマセン。信念卜申スハ外ニ非ズ金剛不動ノ南無阿彌陀佛ニ廻向サル、僕ノ信念ハ「茂子サンヲ本當眞實ニ受サズニ居ラレナイ、シカモ本當ニ愛スルコトノ出來ナイ僕自身ノコノ心、コノ血、此ノ私ノ淺間シクモカ弱キ、愛ノ足ラザル日々ノ日暮シ」是ガ僕ノ全人格的、全信仰生活ノ表現デアリマス。此信念以外二僕ノ何者モナイ。低級ナ信念卜嘲ハバ嘲ヘ、僕ニトツテ茂子サント云フ眞實ノ愛ノ外ニ何ノ人生ノ意義ガアラウ。ヨモヤ兄モ是ヲシモ單ナルホレタスペツタノ世迷ヒ語トハ云ツテハ下サラナイト信ジマス。顧レバ九軌ニ於ケル二三ノ私ノ意義探キ奮鬪ノ跡モ、母校問題ニ死力ヲ盡セシコトモ參禪辨道ノ向上ノ一路ハ云フモ野暮ノコト、今又上京素志貫徹ノ決意モ皆是ナラザルモノハアリマセン。今後如何ナル事情ノモトニ僕ト僕ノ茂子サントノ愛ノ具體化ガ否定サルヽノ悲運ニ會フトモ、其ハ僕ニトツテハ死ノ問題デアリマス。魂ヲ奪ハレタ僕ハ自殺ハセヌ然リ、生ケル屍トナツテ微動ダニセザル僕ノ信仰生活ハ即チ茂子サンノ愛ノ具體化ハ一層峻嚴味ヲ帶ブルノミ。(中略)希クハ茂子サント不二ノ第一義ノ生活ガ一日モ早ク惠マレ、眞ニ生キ、念佛ニ愛シ愛サル、念佛ノ世界ヲ創造シタイ云々(中略)
 大正十一年十二月十四日
 (註)以下五六年と云ふものは記録なく、精神生活史は不明であるが、とも角其中に茂子さんと結婚され、二三職を變へられて大正十三年來名、東邦電力に入られたのであつた。
[やぶちゃん注:「スペツタノ世迷ヒ語」の「ペ」はママ。]

2011/09/02

藪野種雄 日記 大正10(1921)年

□大正十年〔(二十八才)〕

  一月一日
 朗らかな、木の間漏る光や落葉影。
 午前一時といふと、もう大正十年の元旦だな、乃公は丁度發電所で第八號機ばかりにしておいての歸りがけだ。汽車の踏切の所で東の山の端、家並の彼方に無格好な圖體の半月がヌツと出てゐる。歌にもならぬ俗景だ。
 朝十時頃又會社へ出た。午後日隈君來訪。夕食を共にし夜を明かし乍ら純な巖君と唯二人、佛の慈悲にひたり入つたのであつた。
 今日は元旦からして思ひもかけぬ有難い感謝の機會を頂けた。此上の喜びは無い。が矢張り此の胸は切實である。
[やぶちゃん注:「乃公」は普通は「だいこう」又は「ないこう」と読み、一人称の人代名詞で、男性が目下の人に対し、または尊大に自分を指していう語。我が輩。祖父は恐らく「わし」「おれ」又は「わたし」と訓じていると思われる。「東の山の端」当時、九軌の本社は小倉市京町にあった(現在の小倉駅南口の近く)から、足立山から下る富野の辺りの尾根下がりの部分を指しているものと思われる。]

  一月十日
 嚴君へ。
 何と言つたつて、誰がどう思つたつて、南無阿彌陀佛より外に、何が眞か、何が絶對ぞ。何が慈悲ぞ。何が愛ぞ。何が人の道ぞ。唯、々、々。
 南無阿彌陀佛のみぞ、まこと空事なき、天上天下唯一の事ぞ。ものぞ、心ぞ。我ぞ。人ぞ。いとし戀人ぞ。

  七月九日
 午前七時東京着、康さんが迎えてくれる。午後二時半、谷中の兩忘菴を訪ふ、大峽先生不在、夜半十時迄上野の動物園松坂屋をぶらつく。足が痛い、ねむい。兩忘菴に寢る。
[やぶちゃん注:「兩忘菴」は、現在は千葉県茂原市本納にある臥龍山両忘禅庵という禅宗寺院の前身。今は御茶会の会場としてしばしば用いられる。利休庵保利氏の「臥龍山両忘禅庵」の解説頁によれば、『両忘会の発足は明治初年頃、山岡鉄舟、勝海舟、高橋泥舟、鳥尾得庵、ほか十数名の居士が、鎌倉円覚寺・初代管長今北洪川老師を拝請して東京・湯島の麟祥院に於いて宗派によらぬ参禅会を結成、これを両忘会と名付け参禅活動を行なった事が始まり』で、「両忘」とは『論語「能所両志 能見所見」より導いた言葉で、禅の思想「自と他、物と我、生と死、善と悪、苦と楽、前と後」などの両者の対立観念を忘れ、ひとつになる』という謂いで、『「主客一如」に成りきると』いう意味を持っているという。開庵の発案者は鎌倉円覚寺初代管長であった今北洪川老師である。彼は『幕末・明治の禅僧で、雲水のみならず、一般大衆に対する禅指導に力を注ぎ、山岡鉄舟や鳥尾得庵ら明治期の著名人が参禅、弟子では、後に円覚寺管長となる釈宗演や鈴木大拙が著名で共に渡米して禅の宣揚につとめ』た人物である。明治二十六(一九〇五)年、『円覚寺管長今北洪川老師が還化したのち法嗣であった釈宗演が円覚寺管長に就任、今北洪川老師の志を引き継』ぎ、明治三十五(一九〇二)年に釈宗演は、禅をより広めることを目的として当時の高弟であった釈宗活に、この事業を託す。『宗活は、宗演より表徳号「両忘庵」を授かりその命により、東京谷中に草庵を結んで両忘会を継承』した。宗活は明治三九(一九〇六)年、後藤瑞巌・佐々木指月ら門下生十八名とともに渡米、西海岸に四年間滞在して、『初めて欧米に本格的な禅の布教をする。一行の中、佐々木指月が残留し、ニューヨークに支部道場(現在の北米第一禅堂)を開』いてもいる(明治四十五(一九一二)年帰国)。因みに大正十四年には『東京谷中の両忘庵を本部会堂に、九州、中国、東海、東北、北海道、朝鮮、満州、米国に支部道場を設け、財団法人両忘協会の認可を得、衆望により釈宗活老師が総裁に就任』、昭和十(一九三五)年には『宗教法人両忘禅協会と改称し、千葉県市川市国分新山(現在の国府台)に本部道場を建設』、この時の入門会員は約三千人、坐禅会員は約三万と、在家禅道場の草分けとして躍進した。一時、戦後の昭和二十二(一九四七)年、『釈宗活老師は、敗戦後の混乱期に正法の将来を憂』えて両忘会を解散したが、昭和二十九(一九五四)年に釈宗活老師が千葉県八日市場市に於いて遷化すると、彼に参禅していた禅僧大木琢堂が宗活の意を継いで、『道場建設を発願、建設基金のため托鉢をしながら全国を行脚』、昭和四十九(一九七四)年に茂原市本納に座禅道場を「両忘会」を設立、昭和五十八(一九八三)年、八日市場市椿の宗活老師終焉の地に諸堂を移築建立、臥龍山両忘禅庵となる。現在の地に移転したのは昭和六十三(一九八八)年である。「大峽先生」は一夢庵大峽竹堂。当時、明治専門学校の教師であったが、深く禅に帰依し、この後の大正十三(一九二四)年五月には九州に於ける禅道場の必要を痛感、最初の座禅会を行っている。また、ドイツ語版「禅」(副題は「日本における生ける仏教」)を出版、昭和八(一九三三)年には現在の福岡県北九州市小倉北区都に鎮西坐禅道場が建設、現在も続いている。この明専の恩師(と思われる)人物が、祖父とこの仕事を休んでの(としか思えない)上京、実に十一日間に及ぶ座禅会出席という出来事のキー・パーソンである。]

  七月十日
 午前五時、大峽竹堂居士から起された。朝參の時正式(あやしい素振りであつたが)に釋宗活老師に禪に入門を許された。是からが始まりだ。公案を貰ひ、參禪の心得を懇ろに御示し下された。
 午後三時から法話甲會があり、苔巖居士の「布施は報なき布施」とて實例を示さる。竹堂居士は禪と實際的修養法とて有益な御話があつた。終つて茶話あり、學者或は畫家、多分新聞の文學家らしき詩人風の大きな人が話題の中心であつたのも面白く、ウイツトに富んだ物語りを實に面白く拜聽したものだ。
[やぶちゃん注:「苔巖居士」は不詳だが、後に「畫家」という語あることから、一人の同定候補はいる。画家藤田苔巖(たいがん 文久三(一八六三)年~昭和三(一九二八)年)である。本名は俊輔で、特に山水画を得意とした。孤高な画家であるが時間的には符合する。]

  七月十一日
 午前五時に十分前だ。太鼓五つの音にとび起きた。終日參禪。
 朝參の見解見事に叱られた。そんな父母だの我だのを突破して「人類出來ざりし以前の本來の面目如何」自分は父母と言ふものから分析的に考へて、かく考へたのであつた。哲理を解く考であつたので、一喝を喰つたのである。
[やぶちゃん注:「人類出來ざりし以前の本來の面目如何」というのは「父母未生以前、本来の面目如何」という有名な公案の変形である。但し、実は「父母未生以前、本来の面目如何」自体が「不思善、不思悪、正與麼(しょうよも)の時、那箇(なこ)か是れ、明上座が本來の面目」を原型としたものであることは余り知られていない。これは「無門関」の第二十三則に現れる公案である。私の「無門関 全 淵藪野狐禅師訳注版」から引用する。

  二十三 不思善惡
六祖、因明上座、趁至大庾嶺。祖見明至、即擲衣鉢於石上云、此衣表信。 可力爭耶、任君將去。明遂擧之如山不動、踟蹰悚慄。 明白、我來 求法、非爲衣也。願行者開示。祖云、不思善、不思惡、正與麼時、那箇是明上座本來面目。明當下大悟、遍體汗流。泣涙作禮、問曰、上來密語密意外、還更有意旨否。祖曰、我今爲汝説者、即非密也。汝若返照自己面目、密却在汝邊。明云、某甲雖在黄梅隨衆、實未省自己面目。今蒙指授入處、如人飲水冷暖自知。今行者即是某甲師也。祖云、汝若如是則吾與汝同師黄梅。善自護持。
無問曰、六祖可謂、是事出急家老婆心切。譬如新茘支剥了殻去了核、送在你口裏、只要你嚥一嚥。

頌曰
描不成兮畫不就
贊不及兮休生受
本來面目没處藏
世界壞時渠不朽

淵藪野狐禪師書き下し文:
  二十三 善惡を思はず
 六祖、因みに明(みやう)上座、趁(お)ふて、大庾嶺(だいゆれい)に至る。
 祖、明の至るを見て、即ち衣鉢を石上に擲(な)げて云く、
「此の衣(え)は信を表す。力をもちて爭ふべけんや、君が將(も)ち去るに任す。」
と。
 明、遂に之れを擧ぐるに、山のごとくに動ぜず、踟蹰(ちちう)悚慄(しやうりつ)す。
 明曰く、
「我は來たりて法を求む、衣の爲にするに非ず。願はくは行者(あんじや)、開示したまへ。」
と。
 祖云く、
「不思善、不思惡、正與麼(しやうよも)の時、那箇(なこ)か是れ、明上座が本來の面目。」
と。
 明、當下(たうげ)に大悟、遍體、汗、流る。泣涙(きふるい)作禮(されい)し、問ふて曰く、
「上來(じやうらい)の密語密意の外、還りて更に意旨(いし)有りや。」
と。
 祖曰く、
「我れ今、汝が爲に説く者は、即ち密に非ず。汝、若し自己の面目を返照(はんせう)せば、密は却りて汝が邊(へん)に在らん。」
と。
 明云く、
「某-甲(それがし)、黄梅(わうばい)に在りて衆に隨ふと雖も、實に未だ自己の面目を省(せい)せず。今、入處(につしよ)を指授(しじゆ)することを蒙(かうむ)りて、人の水を飮みて冷暖自知するがごとし。今、行者は、即ち是れ、某甲の師なり。」
と。
 祖云く、
「汝、若し是くのごとくならば、則ち吾と汝と同じく黄梅を師とせん。善く自(おのづ)から護持せよ。」
と。
 無門曰く、
「六祖、謂ひつべし、是の事は急家(きふけ)より出でて老婆心切なり、と。譬へば、新しき茘支(れいし)の殼を剥ぎ了(をは)り、核を去り了りて、你(なんぢ)が口裏(くり)に送在して、只だ你(なんぢ)が嚥一嚥(えんいちえん)せんことを要するがごとし。」
と。
 頌して曰く、
描(ゑが)けども成らず 畫(ゑが)けども就(な)らず
贊するも及ばず 生受(さんじゆ)することを休(や)めよ
本來の面目 藏(かく)すに處(ところ)沒(な)し
世界の壞時(えじ) 渠(かれ) 朽ちず

淵藪野狐禪師訳:
  二十三 善惡を思わない
 六祖慧能が、慧能自身が五祖弘忍から嗣(つ)いだ法灯をそのままに、蒙山恵明(けいみょう)に嗣いだ時の話である。
 慧能は、ある日、ぷいと自分がそれまでいた寺を出てしまった。
 当時、未だその同じ寺で上座を勤めていた恵明は、機縁の中で、慧能の後を追いかけて行き、遂に大庾嶺(だいゆれい)の山中で追いついたのであった。
 慧能は、恵明の姿が見えるや、即座にその袈裟を脱ぎ、鉢(はつ)もろともに、傍にあった岩の上にぽんと投げて、
「この袈裟は、拙僧が五祖弘忍さまから真実(まこと)の伝法を受けた証しとして、受け嗣いだもの――臂力権力を以って、争い奪い去る如きものでは、ない――あなたが、勝手に持ってゆかれるがよろしいかろう。」
と言って、穏やかな表情で恵明に対した。
 恵明は、形ばかりの礼を示して、慧能の膝下に跪いていたが、その言葉を聞くや、かっと見開いた鋭い眼を上げると、慧能を凝っと見据えた。そうして、即座に躍り上がるや、慧能を見つめたまま、すぐ脇の石の上の衣鉢(いはつ)に手を伸ばして、荒々しくそれを取り挙げようした。
 ――動かない!?
恵明は恐懼(きょうく)して、黙ったまま、思わず衣鉢をきっと見つめるや、今度は両手でそれをぐいと摑むと、渾身の力を込めて持ち上げようとした。
 ――動かぬ!
薄くぼろぼろになった袈裟と粗末な鉢と――それが、如何にしても、山の如く微動だにせぬのであった。
 恵明は、諦めて手を離すと、再び、慧能の前に土下座し、余りの恥かしさから、とまどい、また、恐れ戦(おのの)き、へどもどしながらも弁解して言った。
「……私めが、ここまで行者(ぎょうじゃ)を追いかけて参りましたのは、その『法』そのものを求めんがため……袈裟のためにしたことでは、御座らぬ……どうか、行者! 私めのために、悟りの真実(まこと)を開示して下されい!……」
 すると慧能は、優しい声で問いかけた。
「遠く遙かに善悪の彼岸へ至り得た、まさにその時、何がこれ、明上座、そなたの本来の姿であるか?」
 ――その言葉を聴いた刹那、恵明は正に大悟していた。
 恵明の体じゅうから汗が噴き出したかと思うと、瀧のように下り、涙はとめどなく流れ落ちた――暫らくして、身を正した恵明は、慧能にうやうやしく礼拝すると、謹んで誠意を込めて訊ねた。
「只今、頂戴し、確かに私めのものとし得た密かな呪言、聖なる秘蹟以外に、もっと別の『何か深き秘儀』は御座いませぬか?」
 慧能は、ゆっくりと首を横に振りながら、穏やかに答えた。
「拙僧が今、あなたのために示し得たものは、総てが、秘儀でも、何でもない。あなたが、自分自身の本来の姿を正しく振り返って見たならば、きっとその『秘儀なるもの』は、かえって、あなたの中にこそ、あるであろう。」
 恵明は、莞爾として笑うと、
「拙者は、黄梅(おうばい)山にあって、かの五祖弘忍さまの下(もと)、多くの会衆とともにその教えに従い、修行に励んで参りました――しかし、実のところ、一度として、己(おのれ)の本来の姿を『知る』ということは、出来ませなんだ――ところが今、あなたさまから『ここぞ!』というお示しを頂戴し――丁度、人が生れて初めて水を飮んでみて、初めてその『冷たい!』ということ、また、『暖かい!』ということを、自(おの)ずから知ることが出来た――それと全く同じで御座いました――今、行者さま! あなたはまさしく、拙者の師で御座いまする。」
と言って、地に頭をすりつけた。
 すると慧能は、ゆっくりとしゃがんむと、その両手で、土に汚れた恵明の両手をとり、諭すように言った。
「あなたが、もし言われた通りであられるなら、則ち私とあなたと――この二人は、共に黄梅の五祖弘忍さまを師としようとする者――どうか心からその法灯を堅くお守りあられよ。」
 ――恵明には、その慧能の声が、あたかも大庾嶺の峨々たる峰々に木霊しながら、遠く遙かな彼岸から聞こえてくる鐘の音(ね)のようにも思われたのであった――
 無門、商量して言う。
「ヒップな六祖、言うならば、『やっちまたぜ! 老婆心! 有難迷惑! 至極千万! 小ずるい恵明に法灯を、渡してどないするんじゃい!』。喩えて言えば、新しい、茘支(ライチ)の殼を、剥(む)き剥きし、核(たね)までしっかり取り去って――『坊ちゃん、お口を、はい、ア~ン! 後は、自分でゴックン、ヨ♡』――」

 次いで囃して言う。
描(か)いても描いても成りませぬ 彩(いろど)ってみても落ち着きませぬ
当然 画讃も書けませぬ だから礼には及びませぬ
生れたマンマのスッポンポン
壊劫(えこう)にあっても朽ちませぬ

[淵藪野狐禪師注:
・「大庾嶺」は、現在の江西省贛州(かんしゅう)市大余県と広東省韶関(しょうかん)市南雄市区梅嶺にまたがる山。
・「壊劫」は、仏教で言う四劫(しこう)の第三期。四劫とは仏教での一つの世界の成立から存在の消失後までの時間を四期に分けたもので、その世界の成立とそこに生きる一切衆生(生きとし生ける総ての生物)が生成出現する第一期を成劫(じょうごう)、その世界の存続と人間が種を保存して生存している第二期を住劫、世界が崩壊へと向かい完全に潰滅するまでの第三期を壊劫、その後の空無の最終期を空劫(くうこう)と呼ぶ。この四劫全部の時間を合わせたものを一大劫(いちたいこう)と呼ぶ。
・「渠」について西村注は『第三人称の代名詞。「伊」(かれ)に同じ。禅者が真実の事故を指していう語。』とある。]

さて、この日記はちょっと分かりにくいのだが、私は次のように解釈する。祖父はこの前日、宗活老師から「人類出來ざりし以前の本來の面目如何」(人類が誕生する以前のお前の本来の姿とは何か?)という公案をもらい、朝の参禅で、自分の「見解」である、
「かかる父母だの我だのを突破して、人類出来ざりし以前の本来の面目!」
答えた。すると宗活老師から、「一喝を喰」らって「見事に叱られた」のであった。何故、叱られたか? それは祖父自体がその原因をはっきりと示しているから面白い。祖父は「父母と言ふものから」極めて論理的「分析的に考へて」、どこまでも理詰めで「かく考へ」抜き、総体として如何にも学者然として「哲理を解く考で」公案に向かってしまったからであると言い切ってよい。禅の公案と問答は、祖父が自信を以て語っている論理的帰結やヘーゲルのアウフヘーベン(止揚)のような構造からは、実は無限遠の対極にあると、私は思うからである。]

  七月十一日
 是ならばと提げて老師に面した。獲物は一喝である。實に有難い一喝である。「其はよくわかつた。然し其は實際上の問題である。實際上の問題は暫らく措いて、父母未生以前本來の面目如何」參禪亦參禪工夫、更に工夫流汗淋漓、午前に四時間、午後に二時間、本來の面目とは如何、本來の面目とは如何。
[やぶちゃん注:祖父が「かかる父母だの我だのを突破して」という答えを言ったことから、宗活は公案を人口に膾炙した例の「父母未生以前本來の面目如何」という公案にスライドさせている。ここには祖父が一括を食らったこの日の答えは示されていないが、その答えを宗活が「其はよくわかつた。然し其は實際上の問題である。實際上の問題は暫らく措いて」考えなければ、いつまで経っても一喝だぞ! と批判していることからも、私が先の注で推測した通り、祖父の公案深考の方法が徹底した論理的思考であり、誤った公案への姿勢であることを証明している。]

  七月十三日
 午前中獨參、本日休參
[やぶちゃん注:現実の論理的思考から抜け出せない祖父は答えが出ない。]

  七月十四日
 大接心、六時朝參「色もなし相もなし」とやり出すと、此の名論を屁の樣に「ソンナ公案を外所にした批評はいらぬ」「公案三昧、公案三昧」本來の面目如何。第二回の朝參、「梢に渉る風」其んな木も風もない以前の事じあ。本來の面目如何、ウーンクソ。何と何と蹴られても、此の信念にゆるぎあるべき。彌陀に救はれし身には、唯念佛、唯念佛。ドレモコレモ皆本來の面目じや。
[やぶちゃん注:この日も面白い。祖父はこのツー・ラウンド、巧妙に作戦を変えている。
○第一回朝参の場面
宗活「作麼生(そもさん)! 父母未生以前本来の面目如何?」
祖父「色(しき)もなし相もなし!」
宗活(鈴を鳴らして)「ソンナ、公案を外所(よそ)にしたような批評は、イ、ラ、ヌ!」

○第二回朝参の場面
宗活「作麼生(そもさん)! 父母未生以前本来の面目如何?」
祖父「梢に渉る風!」
宗活(鈴を鳴らして)「虚け者ガ! そんな木も風も、ない、以前のことじゃ!!」

第一回は私でも吹き出してしまいそうだ。勿論、祖父は極めて真面目に考えてはいる。「色」(しき)は色法で仏教でいう「存在」の謂いである。修行禅定のみを実存として考える仏教では、色(存在)は総ての認識されるところの対象となる諸行無常の自身の肉体を含む物質的現象の総称である。具体的には感覚器(目・耳・鼻・舌・身・意)によって認識される対象である「境」の一つで、狭義には特に眼識の対象を言う。「相」(そう)は同様にあらゆる現象・対象の見た目の外形や姿形(すがたかたち)の謂いであろう。それにしても私が笑ってしまうのは、
「父母未生以前とかけて何と解く?」
「本来の面目如何と説く。」
「その心は?」
「色もなし相もなし。」(笑)
と、これではまるで落語の謎かけみたようなもんだ。
 第二回の「梢に渉る風」はカンニングが見え見えだから、だめだと私も思う。これは容易に「雨月物語」の「青頭巾」の引用でも超有名な「禅林句集」の一節、
  江月照松風吹
  永夜淸宵何所爲
○書き下し文
江月照らし 松風吹く
永夜淸宵 何の所爲ぞ
○やぶちゃんの現代語訳
  ――月影は川面を美しく照らし――
――松風が爽やかに吹きぬける……
……この永き夜――
――淸らかな宵……これは一体、何のために、あるか?!
という公案を答えに安易にインスパイアしたものに過ぎないからである。この場に私がいたら、宗活の答えを聞いた瞬間、やっぱり吹き出してしまうだろう――しかし、そうして当然の如く、祖父の怒りを買って、夜、藪野種雄は私の寝床へやって来てさんざん議論を吹きかけられ、睡眠不足になること、必定でもある。]

  七月十五日
 どうしても愈々自分のものとして示す事が出來ぬ。布團上の公案が老師の面前屁一つ。殘念だ。無念だ。茶話會の時、何が故か俺には分らぬが老師の一言一句が乃公の心を打ち、生れて未だなき苦しさに耐え兼ね、衆人列座の中に聲をあげて涕泣す。
[やぶちゃん注:祖父の不思議な激情的資質を見る。祖父はともかくここまで徹底して超真面目に公案の答えを考えて続けて来たのである。ところが老師の、不真面目にしか見えない屁のような答えに対する、無意識の内的不満と抑え難い憤怒が頂点に達し、衆人列座の中にあって、図らずも涕泣してしまったのである。]

  七月十六日
 不思議とて、かくも不思議のことがあるか。興奮してゐるのではない。見るもの聞くもの一つとして公案ならざるはない。此の浴場の水迄も、くだらぬ廣告迄も。しかも老師の一喝に會ふ。古劍居士戒めて曰く。玄境なり、今一息の所、大勇猛心を起し給へ。本來の面目如何。
[やぶちゃん注:「古劍居士」不詳。]

  七月十七日
 大法を傷けし不屆者!彼禪宗活をしめ殺す宗活奴がと、其が目につきては殺しも殺せず。又無爲にして歸る。殘念無念〔。〕
[やぶちゃん注:そうだ! じっちゃん! それでいいよ! もう、一歩だよ!]

  七月十八日
 五感に感ずるもの一として我本來の面目に非るものなし。道行く人も人に非ず。空行く雲も雲に非ず。然るに何ぞや。卒然として惡夢より覺めし如く、宗活何者ぞ。我が此の絶大の信念を看破すること能はずして、徒らに宗旨を弄する者と思ひし瞬間、道は道、人は人、妙齡の美人は矢張り妙齡の美人だよ。元の木阿彌だ。何の爲の修業ぞ。何の爲の上京ぞ。將に危うし危うし。
[やぶちゃん注:祖父はここで確かに深化した。「妙齡の美人」は間違いなく祖母茂子である。快哉! 快哉!]

  七月十九日
 本來の面目如何、座禪三昧布團上工夫し骨折つて取り去り取り來る。一劍頭に、宇宙乾坤を卒然擧止するの外なき胸裡の苦惱、しかも切實なる將に死に勝る苦惱である。南無阿彌陀佛の本願がほのかに分明した心地がする。
 午前十一時、見性成佛。
[やぶちゃん注:はっきり言おう。確かに――この時――祖父は悟達している!]

  七月二十日
 午前二回、午後二時の參禪にて終り。
(註)此の年の九月頃かと思へるが、草刈氏と意見衝突、十月五日最後の談合、辭職に決せられて森先生や藤井先生、笠井さん等に相談と云ふより寧ろ報告された樣子である。超えて大正十一年二月二十五日離職許可、是丈けの經濟的壓迫の中に敢然として主義の爲に辭職された事には滿腔の敬意を表せずには居られない。
[やぶちゃん注:祖父の辞職と、この一連の座禅体験は無縁ではないと私は思う。村上氏は確かにそうしたコンセプトでこの年の日記を抜粋していると言ってよい。私は、祖父の毅然たる鮮やかな態度に、素直に心からの畏敬を覚えるものである。]

2011/09/01

藪野種雄 日記 大正9(1920)年

□大正九年〔(二十七才)〕

  一月一日
 男が二十七才と言へば花だ、其花の盛りには力の限りを押し延ばし、美しい花にせねばならぬ時だ。よろしい。
嵐に破れ散るか、見事に吹くか、どちらでも關はぬ。自分の力のあらん限りを奮つて大正九年を回顧する愉快な日を期するであらう。

  一月三日
 本年の第一に爲すべき事は。
 専門に對するしつかりとした土臺を作り、實力を物にせねばならぬこと。第二には身體を十分健全にし、活動の原動力をよくすることだ。

  一月十九日
 ワット百年祭。母校機械學會、牛後七時より十時迄、雨あり。(中略)卒業生六人の所感あり下級生の所感があつた。止むを得ず自分も出た。其して或る辯士が、何か湯呑を見てヨコンデンサーを考へたとの大發見?から思ひ出し。
一、ワットの如き偉人の追慕に対する自分の態度(讃美でなく、自分を偉大ならしむこと)
 二、大雷の例を出し、我が機械工學界の未成品なること、資本家の横暴なこと、技術者の無力を示し、今後の労働問題の大なるを告げ、團體的に訓練無き彼等を善導する我々殊に諸君の中に團結心無きを甚だ遺憾とする由を告げた。最後に二年吉村君の語りし二等卒が戰死するとの話を引いて。
 三、自分達は等級によりて評價さるべきでなく、又明専ニズムが何だ、大學が何ぞと、つまらぬ小競合ひは止めて、パーソニズムの爲に一身を捧ぐべき事を絶叫し、つまらぬ寮の解放など罵倒してやつた。
 (註)此時著者は初めて藪野氏の風貌に接したのである。當時二年生で、クラスメイト吉村が、兵卒が萬歳をとなへて死ぬるのは虚僞だとか何とか云つたのを大分反駁されたやうに記憶してゐる。
[やぶちゃん注:ジェームズ・ワット<James Watt>は一七三六年一月十九日生、一八一九年八月二十五日没であるから、ワット生誕記念祭ならば百年ではなく、百八十四年祭であるが、没年からは百一年目に当たるから、日本風に言うなら百回遠忌(それも本邦では百回遠忌は没年から九十九年に行うので二年遅れで)を祥月命日ではなく、誕生日に行ったということになる。明専の工学学会開催に合わせたためであろう。]

 一月二十二日
 欠勤届を出して、母校日隈君に會見す。
九州製鋼に行くべく確定せる君に對して氣の毒なれば、公の爲に、我動力界の爲に、吾等と共に行動せられん事を祈る。僕も男である。かく決心する迄には十分熟慮したのである。一度君に対して世話を爲すからには、絶對の責任を喜んで受けるのである。男子意氣に感ず。乞ふ吾輩のこの希望を入れ給へと。

  二月八日
 明治維新その折の人々の
 二十七年内外の靑年なりしを思へば
 わが身此年になりても尚さだかならぬ
 其日其時に捕はるゝを泣きたく思ふ。

  三月一日
 静かに自ら反省して過ぎこし方を思ふと、此の頃の自分はあまりに輕薄な奴になつたと思ふ。恩人に對しても、殊に松本氏に對して自分の心は實に御目にかゝるも苦しい事である。御手紙を差し上げるは勿論、訪問すべきであつた。(中略)

  三月二日
 ××さんと話してゐると○○と言ふ男の如何につまらぬ奴であるかと思ふや切である。折だにあらば、必ず天誅を加へてやらねばならぬ。
 紳士振つて、しかも内心利己の外何者も有せぬ。人の上におかれぬ輩である。

 ≪〔(註)〕五月より八月にかけては殆どブランク〔。〕≫
[やぶちゃん注:これは村上氏の註であるが、ここのみ表記の通り、「(註)」の表題がない。且つ、何故かここだけ〔 〕の二重括弧で括られている。私の補正括弧と混同するので、表記のような括弧を用いた。]

  八月二十七日
 昨日より愈々出勤、之にて丁度一ケ月の欠勤なりき。

  八月二十八日
 濱口氏より茲に新しく研究員を命ぜらる。主任補佐の大役を命ぜらる。自省して責任の大なるを思ふ。

2011/08/31

藪野種雄 日記 大正8(1919)年 社会人時代

    二、社會人時代

九 軌 時 代

□大正八年〔(二十六才)〕

  一月一日
 み佛の力わが力、わが力み佛の力にてこそ敗殘よ來れ艱苦よ襲へ。歡樂よ來れ、成功よ來れ、伴に生きよ。されど吾が心は、み佛の光にぞ輝かむ哉。新玉の年は迎ふるも此の心は變らじ。唯此の心の光いやが上にも勵みて、み佛の力に沿はむ哉。わが心よ怠ること勿れ。

  一月三日
 年賀廻り數ケ所を終り。午後一時年頃路惡しき中原畦に、ビスケツト嚙り乍ら、電車にて若松行、金子氏宅を訪れ、笠井氏に祝詞を述ぶ。父上。母上。光子。茂子樣直一直次氏と晩餐を受けぬ。
 片足を、去年に殘して年賀哉、直翁。
午後十一時、御別して辟りぬ。トランプを直一氏に習ひぬ。
茂子樣の元氣よくなれるを嬉びて。
 あかねさす其笑顏に永へにみ佛の力を加へませ。
 誰にか語らむ吾が胸よ、誰にか慰めてむ此の心。
[やぶちゃん注:「若松」北九州市の北西部に位置する都市。当時は若松市で、現在は若松区。「笠井氏」の「父上」は俳句の作者である私の曽祖父である笠井直(ちょく)。その娘である笠井茂子は私の父方の祖母、則ち後のこの祖父藪野種雄の夫人となる人物である。更にその長男である笠井直一(なおかず)なる人物は私の母方の祖父である。そう、私は、この笠井直一とその妻イヨの娘である笠井聖子と、藪野種雄とその妻茂子の息子、笠井聖子の従兄であるところの藪野豊昭の間に生まれた男である。従って、私にとってはこの笠井直という人物は、父方母方双方の唯一の曽祖父、通常なら二人いるはずの曽祖父が、私の場合は同一人物であるということになる。それは生物学的にこの笠井直なる人物の遺伝子が、私には強力に隔世遺伝しているということになるのである。その人物が登場するに彼の俳句が示される。私の専門は俳句(卒業論文は「尾崎放哉論」)である。唯至という俳号も持っている。奇縁と言う外、ない。なお、この笠井家と祖父藪野種雄の関係の動機は現在の私には不分明である。父の話では笠井直一の弟直次(なおつぐ)と祖父種雄がどこかで同級生で、友人であった由、聞いている。また、本記載の末尾でも、お分かりの通り、この後、日記は明らかにこの笠井茂子への恋情を綴っていくことになるのであるが、祖母茂子は生前、この藪野種雄以前に好意を寄せていた男性がおり、その人物は川で溺れて亡くなったということを私に話して呉れたのを思い出す。そして、その人物の名前を父は「豊」と言ったことを覚えていた(父の名は豊昭であるから特に印象に残ったのであろう)。因みに、先の日記で分かる通り、藪野種雄の弟の名は「豊」である。これ以上のことは今の私には分からない。なお、祖母の話を私が覚えているのは、そこに祖母の不思議な体験があったからである。――祖母はその日、外出して汽車に乗っていたそうである。夏の暑い日であった。その時、汽車に揺られながら、車窓から流れゆく景色を眺めつつ、祖母は『豊さんは泳ぎが好きだから今頃、きっと泳いでいなさるでしょう』とふと思ったという。帰宅して豊さんの溺死を知ったが、その死亡時刻は祖母が車中でそう思った時刻とぴったり一致していたのだそうである。――]

  一月六日
 われに慰めと絶望との二つの戀ありて、二つの精の如く絶えず吾を動かすとは、さりなん吾を慰めてよと思へ共、其人やあらで絶望かの如き歎息のみで出づる。さびしきは今日の心哉。

  一月九日
 思ひ出されてはやる瀨無き胸の千々に碎けて。今日は幾度も言ふ名を口につぶやきて思ひを加ふらむも、更にすべなし

  一月十七日
 忙しき仕事ありて、之を滿足に果しつゝある時は不平も起らず。
 わが力、ゆつたりとして眺むる、吸水路、・鐡筋の姿もゆかし。今日の煙れる。
一足も千金の價あり今日の仕事。
 仕事閑なる時、又は元氣無き時には不平のみに襲はれて。
これ程の 美しさ知らぬか たはけ者、
 燕雀は、何ぞ知るべう 此の雄圖
いらいらし、なうなれそ此の 發電機。
 不平と言ひ不滿と言ふに二つあり、一つは俸給一つは仕事の上の不滿、されど根本を尋ぬればやはり己が手、己の力の又己が人格の足らざるなり。足らぬを外部から得て一寸と安心を得んとせるが世情哉。
[やぶちゃん注:言わずもがなであるが「なうなれそ」は「な唸れそ」で、禁止の句法である。]

  一月二十三日
今日新罐のセパレーターを檢査したら小石が入つて居た。之を見て恐縮した。濱口さんから皆が叱られた。責任は皆自分に在ると思ふと殘念でならぬ。殊に石が入つてゐたのを見て離職すべしと一時は思つたが、早く發見したので、深く自ら戒める。何事とても、責任を切實に感受して作業せねばならぬ自分は切實に仕事が足らぬのだ。申譯が無いが過ぎにしは及ばず。將來を自戒して進むのだ。
[やぶちゃん注:私は全くの門外漢なので当てずっぽうであるが、祖父が最初に就職したのが九軌(九州電気軌道)という電気鉄道会社で、後の「八月二十四日」の日記に「發電所、變電所」を持っていたことが示されており、祖父は後に深く関わるのが火力発電所発電機でもあることから、「新罐のセパレーター」の「新罐」は祖父が制作した新しい火力発電用ボイラーで(ボイラーは現在でもタービンと並んで火力発電所の主要設備である)、「セパレーター」というのはそのボイラーの蒸気の湿度を落として乾き度を高め、異物や給水処理に用いた薬物を除去するための分離濾過浄化装置のことではあるまいか。このセパレーターがどのようなシステムのものであるかは分からないが、遠心分離機のような高速回転や、特殊なフィルターを装備するものであれば、小石の混入によってボイラー自体が致命的な損壊を生ずる可能性があるのではなかろうか。だからこそ「皆しかられた」のであり、祖父も「離職すべしと一時は思つた」のであろう。但し、それがボイラー炊きの直前か起動直後の検査によって、異常が起こる前に「早く發見し」、未然に除去出来たので、問題が起こらなかったのではなかったか。]

  一月二十九日
 朝日歌壇より(佐々木信綱選)
 今日も亦、悲しき想ひ 胸に祕めて
    事無しと書く いつはりの日記    蕉 子
 わかれては、後の心の さびしくも
    君戀ふる身を あはれとおぼせ   萍浪女
 老し梅花、四つ五つ咲ける下に
    ふと忍びけり 天平の女       選 者
 (註)茲數日、鼻、喉、耳の故障で市立病院へ行つてゐられる。體はあまり好調の樣子ではない〔。〕
[やぶちゃん注:最後の佐々木信綱の「天平の女」の「女」は「ひと」と読ませているのであろう。]

  二月三日
 他人に對し、又自分自身に對し、絶えずとも云ふ程に不平や不滿がある。其がとても耐え得られぬことが多い。其して其等に合ふ毎に、自分が惡いので無くて他人の誰かが惡いせいの如くに思ふのだ。其の惡い者を攻め、よくさせたい樣なあさましい心持が起る。しかも淺間しいと言ふ心も起らぬ位に誰人のせいの如くに思ふことが多い。

  六月九日―十一日欠勤(病)

  六月十日
 本日も病床だ。發熱は無いが不安だ。
 横川さんに診て貰つたが、もう宜しからうが健康をとの事である。
 終日床の上にあつて、彼女を憶ひ吾身のはかなさを思つて暗ひ想ひに沈む氣がした。何でこれしきの病氣にと思へど。
やる瀨なき此の思ひ御身知るや知らずや。

  六月十六日
 梅雨は神經的な時ではあるが、しつとりと物思ひに沈むにはよい時である。然ししつとりとした氣持が稍々もすればいらいらとして想ひは千々に碎かれる。
 午前中は愉快に働いたが、午後つい起るのが苦しくて休んだ。濱口さんに對して、近來の自分の態度はあまりにも吾儘である。病後とは云ひ乍ら、も少し本心に歸つて御恩に報ひ奉らねばならぬ。戀に苦しめる友を救ふも大切なれども、吾天職を盡すもより大切である。あゝされど、實は吾おのが戀に苦しき此心、誰か慰めくるゝものぞ。

  六月二十五日
 かく迄に想ひ焦れて打ち沈むのは何故であるか、彼女が許されざるためか。
 然りとせば吾心も亦、あまりに小我的なるに非るか。若し眞實に試錬を受けたる者ならば、彼女……最も愛憐する彼女の爲に、唯一日も早く平癒して、幸福たる彼女の許されたる家庭の人として、正しく強く樂しく一生を送らんことを希ふべきなり。

  六月二十六日
 疲弊甚し。
 明日市立病院にて診察を受けんとす。
 左肺に水音あるが如くに感じたり。夕食後なりし故胃の音かも知れぬ。神經大分過敏なり。
[やぶちゃん注:「水音」はラッセル音。肺結核だけでなく、気管支炎や喘息、急性肺炎・肋膜炎・肺水腫などの様々な呼吸器疾患の際に現れる。]

  六月二十七日
 藤澤博士の診察を受けしに、肋膜炎起らんとして一時壓へ居る状態なるが故に、勤務して差支なけれども、寧ろ一週間休養して全快を待つ方佳ならんとの事たれば、然く決して診斷書と共に濱口さんに御願ひしたり。私の爲に休みての申し譯無けれど、眞に健全となつて思ひ切つたる活動をせずんばあるべからず。心ひそかに松本氏濱口氏に謝す。乞ふ此の不幸者を許し給へ。
[やぶちゃん注:「然く」は「しかく」と読み、このように、の意。祖父は肺結核でなくなるが、この時に既に罹患していたのかどうかは不明である。]

  七月十二日
 初出勤だ。
 草刈氏が後から聲をかけられて、どうですか。皆が此の元氣を喜んで呉れた。嬉しかつた。

  七月十四日
 岡崎の叔父死去せられし故、本日葬式の爲欠勤せんと思つたが、あまりに休みて申譯なく、午後四時迄會社に出た。
 會社で聞けば、友人の間で小生が賞與最高なりしとの事なるが、迷惑千萬。B氏よりも多かつたとは實際何と云つてよいか分らぬ。迷惑である。

  七月十六日
 Y君から書留が來た。
 「何故早く言つて呉れぬか。用達は自分の如き者の當然の事だ。高利など借りて呉れるな。もつと足したいが、今後は何時にても遠慮なく言つて呉れ。其して返済は期限はいらぬ。君の苦痛の無くなつた時にでよい。又かゝる問題の爲に根本的に解決する時が、少くとも本年内に來るであらう。」
 此友の心を聞き言ふべき言葉がない。感激の外はない。

  七月二十七日
 職工給料支拂ひを自ら爲せり、本社が、書記にては不信なる故、もつと他の人をとの事なり。
 技術者が支拂ふとは何事ぞ。腹は立ちたれども其爲に中止しては職工が迷惑ならんと、自ら忍びて東原君と二人で支拂たり。
 明日濱口氏に云はん。以後絶對に御免を蒙りたい。

  八月二十四日
 發電所、變電所、職工一同、三割増歎願の件を盡力して呉れと云ふ。
 此際根本的の問題を解決せん爲には第一資本主の態度が眞に共に働らくの意を表して、魂在十二時間勤務を八時間(工事は十時間正味)とし現在の實收に加ふるに三割増、即ち五割増として之を本給とする事、而して可及的居殘り代勒を防止し、正味勤務を效率高く活用する事、日用品を實費給與の件、疾病、公傷に對する補助の件(古金物賣却金を基本金とす)以上に對し勞働者としての彼等は、誠心誠意に對する責任の輕からざるを自覚覺して會社の爲に力を盡すべきこと等を考ふ。是が實現せざる時は自ら處決すべし。
 (註)是より日記はブランクの場所の方が遙かに多い。
[やぶちゃん注:「是が實現せざる時は自ら處決すべし」は強烈な覚悟である。この祖父の労働者への思いは、倒産して幹部が夜逃げをしたアルミ会社で、社員の一人として残された機材を整理し、社員全員等分に退職金(雀の涙だったそうであるが)を配った私の父の気骨に通じるものがある(このことがアルミ会社の業界紙に載り、私の父は富山の別なアルミ会社から声がかかったのであった)。]

  十月十四日
 午前中草刈氏と吾々代表と會見し
 「バランスは斷じて破る能はざる事をくり返し、しかも是は既に實行しつゝあつて、支配人も認め居らるゝもの故、所長の獨斷にて歩増しを附けたとて差支へはよもあるまじ〔。〕で無くとも正々堂々と支配人に對して我々が要求の如くバランスをとりて、來る十二月あてにもならぬ昇給をせぬがよい」
此の要求に對して草刈氏は大分動いた。午後は最高幹部の話が成立し、草刈氏が平謝りに謝られた。そして自ら支配人を説服すべく決心されたとのこと。

  十月十五日
 午前十時頃、草刈氏は一同を招かれて、今日迄の事を謝され、一般昇給額の率以外にバランスの爲十二月の定時昇給迄歩増しを實行することゝなつたのである。

  十月十六日
 大阪名古屋東京へ出張

  十一月八日
 歸任
[やぶちゃん注:以上の二日は底本の「十月十五日」の後にある『(註)十月十六日大阪名古屋東京へ出張、十一月八日ニ歸任〔と〕日記は一二行位づゝ、十月以後は始どブランク〔。〕』とある註から推定復元した。] 

  十一月二十一日
 勞働者に向つて告げたい。吾々有識階級は、無自覺高慢なる資本家の敵となるに躊躇せぬのだ。
 同時に無自覺高慢なる勞働者の敵となるにも躊躇せぬのであるぞ。
 唯一つ正義にのみ味方するのだ。
   感  想  録
 大正八年は思ひも設けず事件の多い其して事件の可なりに大きい年であつた。苦しい事も隨分あつたが、其の苦しみはやがて此の拙い自分のためには強い試練であつたであらう。然し試練の後の現在の自分は依然として取るに足らざるものであるのは、何としてももどかしい極みである。
 我が倍する主張の爲に猛然と起つて主義の爲上長に面して成功した。にらまれてゐる。感謝を受けた。同時に敵を作つた。或は無闇にほめられ其の裏面には嘲笑されたのであらうと思ふ。友の爲に、友の戀の爲に戰つて其の家族の人、其友人、本人自分からも批難の的となつた。然し幸か不幸か、友の戀が許された。許された彼の眞の幸福の爲、自分が彼に對する務がまだ用意されてゐなければならぬ。其の三つ巴の如き戀のエピソードの中に、自分自身も危く捲き込まれて、人知らず苦しみ惱んだ。今も煩へてゐるが、自分の爲唯一人理解ある安川が、激励し忠告して呉れた。恩師の藤井さんも戒めて呉れた。或日だつた、友の捲きぞえを食つて期待もせぬ返事を同時に受けて自分の話を切られた。其の時の悲痛は何にたとえよう術もなかつた。無念であつた、然し怒るが愚かだ。彼女、彼女に対する寫眞は破棄した。其して斷然其争を、思ひ切つて起つた。安川も喜んで呉れた。一年越の申込状は藤井先生から井上氏に托されて今も尚井上氏の手許に保留されてゐるのである。此時友は、友の爲に破れんとする此の自分の爲、必ず話の成立を誓つて呉れた。彼女の心もたゞして呉れた。彼女が此の自分の如き者をも幾分理解して呉れてゐる事を知つて再び戀の芽は甦つた。どうすることも出来ぬ。
 安川は其れは當然だと言ふ。責任があると言ふ。安住はどうか知らぬが.兎も角三年越しの問題として明年は何とか之を解決しなければならぬ。
今年の後年に於ては職工の給金、時間短縮を解決した。痛快だつた。然し苦しい經驗であつた。此んなことはあまりあつては困りものだ。然し最も止むに止まれぬ爲だ。致し方もない(中略)
[やぶちゃん注:資本家・労働者孰れに向かっても檄を飛ばす祖父は強いインテリゲンチアとしての階級意識を持っていたようである(だからこそ「七月二十七日」の条で給与配分役を命ぜられた際に屈辱的と考えたのである)。当時のコミンテルンなら「ヴ・ナロード!」と批判されるところだが――僕には、如何にもカッコいい、古武士のような種雄じっちゃんの名台詞なのである――。なお、この意味深長な「感想録」には、祖父と祖母の関係に友人の恋愛が関わっていることを深く疑わせる記載になっているが、祖父は巧妙に朧化させて書いており、隔靴掻痒の感が否めない。じっちゃん! もそっと、後の孫にも分かるように書いてほしかったな!]
 大正八年終

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