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カテゴリー「宇野浩二「芥川龍之介」【完】」の79件の記事

2024/04/22

本『宇野浩二「芥川龍之介」』のリンクに就いて

本カテゴリ内の記事中、本サイト内のリンクは、後にアドレスが変わったため、機能していない。各記事は膨大に及ぶため、いちいち、リンクを変更することが出来ない。大半はサイトの「心朽窩旧館」の「芥川龍之介 附やぶちゃん注 上巻」・「芥川龍之介 附やぶちゃん注 下巻」にリンクしてあるので、機能しない場合は、そちらを見られたい。悪しからず。

2023/05/11

宇野浩二 「龍介の天上」 / 異本底本二ヴァージョン同時電子化

 

[やぶちゃん注:以下は、宇野浩二(明治二四(一八九一)年~昭和三六(一九六一)年)が後に盟友となる芥川龍之介と知り合った(大正八(一九一九)年七月二十八日、江口渙の「赤い矢帆」出版記念会で龍之介は発起人の一人で、宇野は江口と旧知であった。当時、宇野二十八歳、龍之介二十七歳)、その僅か三ヶ月後の大正八年十一月に発表した童話「龍介の天上」(「りゆうすけのてんじやう」)の異本底本二ヴァージョンである。ネット上では電子化されていない模様である。

 増田周子(ちかこ)氏の「宇野浩二童話目録」(『千里山文學論集』五十一巻所収・関西大学大学院文学研究科院生協議会出版・一九九四年三月発行・「関西大学学術リポジトリ」のこちらからPDFでダウン・ロード可能)によれば、本作は雑誌『解放』の大正八年十一月一日発行)第一巻第六号に載ったものが初出であるが、その初出には、「付記」があって、

   *

右はオランダ國の詩人、ラメエ、デタの著すところ「日本童話集」の中から、飜譯したものである。デタは幾多の詩集及び小說集の著者だと聞いてゐるが自分はまだそれ等を讀む機會を得ない。一はそれ等の英譯書がないからでもある。こゝに揭げた「龍介の天上」原名「鼻」は先に揭げた英譯書からの重譯で、所々固有名詞などは讀者の頭に入りよいやうにとの老婆心から、譯者が任意に變へたところもあることを斷つておく。尙デタの右の書物の中には、此の外色々興味の深い小說があるが、その中[やぶちゃん注:「うち」。]時々譯して讀者の淸鑑に資するつもりである。(譯者)

   *

とあった(原雑誌を私は確認出来ないが、以上の引用は正しく歴史的仮名遣で記されてあるので、初出「付記」に近づけるため、恣意的に漢字を正字化した)。

 さて。まず、

■第一番目のヴァージョンの底本は、童話の体裁をしっかり保持した、

国立国会図書館デジタルコレクションの宇野浩二の本篇を書名とした単行本童話集『龍介の天上』(敗戦後の昭和二一(一九四六弘文社)の正字正仮名の「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」のこちら(リンク先は本文開始冒頭。挿絵が左ページにある。但し、この挿絵は最終シークエンスのものである。標題ページは前のここ

を使用した。

 太字は底本では傍点「﹅」である。漢数字を除いて総てにルビ(但し、これを一般に「総ルビ」と称する)附されてあるが、五月蠅いだけなので、示した方が躓かないと判断した箇所にのみ、読みを附した。踊り字「〲」(ルビにのみある)は生理的に嫌いなので正字で示した。

 なお、一部、改行かどうかが物理的に判断出来ない箇所が一箇所あり、それは前後の表現様式から改行し、地の文内で改行しているにも関わらず、次行で一字空けがない箇所一箇所は、不自然なだけであるから、私の判断で一字下げを行った。また、直接話法の一箇所が文末に句読点等がなかったが、ここは句点よりも以前のシークエンスに徵して、口の中での唱えであっても、「!」であるべきでところと私は判断し、それらは特に注を入れぬが、底本と比べて戴ければ、判る。而して、この一番目の改行と、三番目の「!」は、電子化終了後に発見した以下に示した宇野の全集所載の、初出直後に書き変えたもので確認することが出來、私の判断した改行と「!」とになっていることが確認出来た。但し、二つめの改行はそちらでは、改行せずに続けているのであるが、私は底本の童話集を読んだ子どもたちの立場に立って、それに従わずに一字空け改行のままとして変更しないこととした。

 ところが、以上を電子化した後に、改めて国立国会図書館デジタルコレクションを調べたところ、表記と内容が異なるものを(正字正仮名の「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」のこちらに見出した。それが、

■第二番とした電子化ヴァージョンは『宇野浩二全集』第九巻(昭和四五(一九六九)年中央公論社刊)の正字正仮名の同名異稿

である。こちらは、第一ヴァージョンとは異なり、ルビが殆んどなく、漢字表記を格段に多く、表現にも異同が有意に見られ、特にコーダが異なる別ヴァージョンなのである。これは、同全集の「あとがき」によれば、大正九年一月聚英閣刊の単行本『海の夢山の夢』(他の資料で調べたところ、宇野の別な童話集の一冊で、一月十八日発行であるから、本篇初出から一月半後のことである)を底本としているとあるが、ルビが殆んどない点で、底本通りではないだろう。この状態では子供は読めないからである。いや、実は、これは童話の形を借りた、実際には、秘かに大人の読者をターゲットとして書かれたものであることが判然としてくるであろう。本ヴァージョンは、結末部分が大きく異なる点で、無視出来ないものであり、実は、時期的に見て、これこそが、或いは本篇の初出形に最も近い内容である可能性が高いと思われるので、煩を厭わず、後に続けて電子化した。

   *

 さて。実はいろいろと述べたいこと(種明かし)はあるのだが、読み始めると、まんず、芥川龍之介好き(宇野浩二ではない)の方なら、この話、何だか、モヤモヤしてくるに決まってる。……それらについては、二種のテクストを示した後、一番、最後に種明かしをすることと致そう。……まずは、まず、童話を、お楽しみあれかし!

 

 

■単行本童話集『龍介の天上』(昭和二一(一九四六)年弘文社刊)所収版

 

     

 

        

 今は昔、あるところに、龍介といふ、大へんいたづらずきな男がすんでゐました。

 龍介は、兩親には早く死にわかれたのですが、わづかながら財產を殘されましたので、別にこれといふしごともせずに、年中あそんでくらしてゐました。ですから、なほのこと、いたづらすることばかり考へてゐました。

 けれども、毎日のことですから、しまひにはそのいたづらの種もつきてしまひまして、なにもすることがなくて、退屈で退屈でこまつてゐました。

 ところが、ある日のこと、龍介は何かいたづらの種はないかと思つて、押入の中をかきさがしてゐますと、ふと片すみにへんな小箱があるのが目に止まりましたので、明けて見ますと、中に古ぼけた小さなつちがはひつてゐました。

「何だらう?」と思つて、しばらく首をかしげてゐましたが、やがて龍介は思はず膝をたたいて、

「これはいいものが見つかつた!」と喜びました。

 それは彼の父の金助(きんすけ)が死ぬときに、

「この中には小さなつちがはひつてゐる。これは家(うち)の大事な寶(たから)だからむやみに人に見せてはいけない。またお前もこれは一生に一度しか使つてはならないよ。だが、とにかく、その使ひ方を敎へておかう……」

 といつて、金助がせつめいするには、これはまことふしぎなつちで、たれか人に向つてこれを振りながら、こちらの思ふ高さになるまで、

「あの人の鼻高くなれ!」

 ととなへると、その人の鼻がいくらでも高くなるし、また

「その人の鼻低くなれ!」

 といふと、その人の鼻がいくらでもつちを振つてゐる間(あひだ)は低くなるといふのでした。

 龍介は、今それを思ひ出しますと、根がいたづらずきな上に、每日退屈でこまつてゐた時ですから、

「どうせ、人間は生身のからだだ。いつなんどき死ぬかも知れないのだから、さつそく使つてやらう。」

 と、かう思ひ立ました。

 ちやうど、その翌日が村のお祭で、鎭守のけいだいに芝居がかかりましたので、彼はそつとその小づちふところにして、何食はぬ顏をして、けんぶつに出かけました。

 見ると、龍介のすぐそばのせきに、おともの女中を三四人もつれた、それはそれはきれいな娘が、同じやうに見物に來てゐました。

 これは、きつとよほどよい家(うち)の娘にちがひないとは、たれが見ても思はれました。

 そこで、「同じためすなら、こんな娘に一つためしてやらう。」と思ひつきましたので、龍介はそつとふところから例の小づちを取り出しまして、誰(たれ)にも氣がつかれぬやうに、

「この娘の鼻高くなれ!」

 と口の中でとなへて見ました。

 すると、思つたとほり、そのきれいな娘の鼻が、見る見るうちに高くなつて行きました。

 面白いので、龍介はてうしに乘つて、いつまでも小づちを振りながら、

「この娘の鼻もつとのびろ、もつとのびろ!」

 と口の中でとなへつづけました。ところが、娘の鼻は、ずんずんのびて行つて、たうとう向ふの舞臺の背景につかへてしまひました。

 當人(たうにん)の娘はいふまでもありませんが、大ぜいの見物人も、みなみな目を見はつて、

「おやおや、あの肉の柱(はしら)のやうなものは、あれは一たいなんだらう?」

 と口々(くちぐち)にさけびながら、よく見ますと、その柱の根もとが、きれいな娘の鼻なのですから、びつくりしてしまひました。

 そのうちに、舞臺でしばゐをしてゐた役者たちも、しばゐが出來なくなつたものですから、さわぎ出しました。

 しかし、どうにも手のつけやうがありません。

 そのうちに、娘の家(うち)に知らせにゆく者なぞがありしたので、家(うち)からはお醫者やら、人足(にんそく)やらがかけつけて來ました。さうして、やつとのことで、まるで神輿(みこし)をかつぐほどの人數(にんず)で、大の男が大(おほ)ぜいよつて、その鼻をかついで娘を家(いへ)へつれてかへることになりました。[やぶちゃん注:「人足」はこの場合、この豪家に、常時、雇われている、主に荷物の運搬や普請などの力仕事に従事している人夫を指すのであろう。]

 いつの間(ま)にか、それを聞きつたへてあつまつて來た人人(ひとびと)で、娘のとほる道すぢは、けが人が出來(でき)るほどのさわぎでした。

 娘ははづかしいやら、苦しいやらで、氣をうしなつてしまひました。

 やがて、やうやうのことで娘を家(うち)につれて歸りましたが、門(もん)をくぐるのにも、げんくわんを通るのにも、なかなかてまが取れました。それに、今までのやうに、四疊半(でふはん)の部屋では、鼻だけでもはひりきれませんので、幾間(いくま)も部屋をあけはなして、やうやうのことで橫向きに娘をねかしました。

 それから、村の醫者はいふにおよばず、方々(はうばう)の村々、遠方の町々から、呼べるだけのお醫者を呼んで、なんとかちれうをしてくれと賴みましたが、どの醫者もどの醫者も、

「こんなふしぎな病氣は、今まで話にも聞いたことがありません。どんな本を見ても、こんな病氣のことは出てゐません。いくらお禮をいただいても、私どもに手の下(くだ)しやうがありません。」

 といひました。

 さういふわけで、どうにも手のつけやうがなく、家中(うちぢゆう)の者はただうろうろとしてゐるばかりでした。

 兩親はいふにおよばず、あつまつて來たしんるゐの人たちも、途方にくれて、泣いてゐるばかりでした。

 そのうちに、氣つけぐすりだけはきゝましたので、きぜつしてゐた娘はやつと正氣にかへりましたが、そのために、娘はなほのこと、はづかしいのと、苦しいのとで、一晩ぢゆう泣きつづけました。

 すると、その翌朝(よくあさ)のことでした。おもての通(とほり)を、

「どんななんびやうでも、ちれうするまじなひ! まじなひ!」

 と呼びながら、りつぱな房(ふさ)のついた、そのくせ小さな、古ぼけたつちをふりながら、通る男がありましたので、なんでもためしに呼んで見ようといふので、さつそくその男をむかへました。

 その男とは、いふまでもなく、いたづら者の龍介であります。

 龍介はさつそく病室に通されますと、しさいらしく病人をしんさつするまねをしてから、

「これはめづらしい病氣です。が、御安心なさい。きつと私(わたくし)がなほして上げます。」

 と、いかにもえらさうにいひました。

「なほりますか?」

 と娘の親は、うれしさに、とび立つやうな聲を上げて、

「もしなほりましたら、娘はあなたにさし上げませう。また、あなたがおひとり身なら、どうぞ娘のむこになつて下さい。そして、この家(うち)の後(あと)をとつて下さい!」といひました。

 そこで、龍介はもつたいをつけて、長い間、口の中ででたらめおまじなひのやうなことを唱(とな)へてから、れいの小づちを手に持つて、それをうやうやしくふりながら、口の中で人には聞えぬやうに、

「この娘の鼻低くなれ、低くなれ!」

 といひますと、さしもの長い鼻が、しだいしだいに低くなつて、わけなくもとの通りになりました。

 娘はいふまでもなく、兩親の喜びは口でいへないほどでした。

 そこで約束どほり、龍介はその娘のむこになって、まんまとその家の若主人(わかしゆじん)となることになりました。

 で、さつそく、今まで、娘の鼻のために、ぶツ通しにあけてあつた部屋を式場にして、そこに赤いまうせんをしくやら、床の間に花をいけるやら、金びやうぶを立てるやら、大さわぎをして、めでたいこんれいの式をあげました。

 

        

 

 さて、なにをいふにも、龍介はその家(うち)の一人娘の命(いのち)の親(おや)のやうな者ですから、一家(か)の人人(ひとびと)に大へん大事にされましたので、今までよりももつともつときらくな身分になりました。それとともに、からだがますますひまになりましたので、性來(しやうらい)のいたづらずきな龍介には、まつたくもつてこいの身分なのでした。

 それにこの家(うち)は、近在(きんざい)での、第一番の物持(ものもち)でしたから、したいはうだいのことが出來るわけで、又どんなことをしても、けつして誰(たれ)もしかるものはありませんでした。

 それといふのも、みな死んだ父の金助がのこしてくれた、あの寶の小づちのおかげだと思ふと、龍介はつくつく父の金助をありがたいと思ひました。

 が、また、一生に一度しか使つてはいけないといふゆゐごんを思ひ出しますと、ふふくでなりませんでした。もう自分が生きてゐるうちに、あれが使へないのかと思ふと、なんだか使つてしまつたのを、後悔するやうな氣にさへなりました。[やぶちゃん注:「ゆゐごん」戦前には、この歴史的仮名遣が通用していたが、現在は歴史的仮名遣としても「ゆいごん」が正しいとされている。]

 それにしても、いくらしたいはうだいのいたづら出來る身分なつたとはいひながら、すぐそのいたづらの種がつきてしまひましたので、また前のやうな退屈な日を送らねばならなくなりました。

 秋とはいひながら、じこうはまだ夏のとほりで、朝から家(うち)の中が暑くてたまりませんので、龍介は、庭のふんすゐのそばの草原にねころんで、凉(すゞ)しい風に吹かれてゐました。[やぶちゃん注:「ふんすゐ」これも敗戦前は、かく書かれることが圧倒的であったが、中国音韻の研究が進んで、現在は「噴水」の歴史的仮名遣は「ふんすい」でよい。]

 やがて、晝飯もそこへはこばせて、腹ばひになつてそれを食べてしまひますと、又ごろりとあふむけになつて、なにか面白いいたづらをすることがないか、と、しきりに考へてゐました。

 さうして、ぼんやりとして、高い、靑い空を見上げたり、また低く目をおとして、すぐ自分の鼻のさきをながめたりしてゐますと、ふとこの自分の鼻がれいの小づちでどのくらゐのびるものか、ためして見たくなりました。

 さう思ひたつと、龍介は、

「一生に一度しか使つてはならぬ。」

 といふ死んだ父のゆゐごんも何も忘れてしまひました。

 ちやうど、晝休みのじぶんで、家の者たちはみんな晝ねをしてゐるやうでしたから、

龍介はそつと自分で小づちを持ち出して來まして、またもとのところで仰向けになつて寢ころびながら、

「おれの鼻高くなれ、高くなれ!」

 かう口の中でとなへながら、少しも休まずに、大いそぎで小づちをふりはじめました。

 すると、鼻はだんだんのびて行つて、見る見るうちに、たうとう雲の中(なか)まで入つて行きましたが、てうしに乘つた龍介は、それでもなほ止(や)めないで、

「もつとのびろ、もつとのびろ!」

 と、いつまでもいつまでも、小づちをふつてゐました。

 そのうちに、眠氣(ねむけ)がさして來て、うとうとしながらも、やつぱり少しも小づちをふる手を止(や)めないで、むちゆうで、

「もつとのびろ、もつとのびろ!」といつてゐました。

 と、とつぜん、遠くの鼻のさきの方(はう)が、ちくりちくりと痛むのを覺えましたので、龍介はびつくりして、目をさましました。

 龍介は急にあわて出して、

「俺の鼻ちぢまれ、ちぢまれ!」

 と、となへながら、あらためて大いそぎで、小づちをふりはじめました。が、もう、その時は、いつの間にか、誰(たれ)が見つけるともなく見つけて、家(うち)の人人(ひとびと)も、村の人人も、さてはよその村の人人も、思ひ思ひに一かたまりになつて、このふしぎなありさまを眺めてさわぎ出しました。

 龍介は、それと知ると、きまりが惡いやら、何やらでますますあわてて、むちゆうで小づちをふりまはしましたが、遠くの方の鼻のさきの痛さは、少しもなほらないばかりでなく、ふしぎなことには、小づちをふつて、

「ちぢまれ、ちぢまれ!」

 といふ度(たび)に、だんだん自分のからだが、地べたをはなれて、持ちあがつてゆくのです。

 これは一たいどうしたわけかといふと、龍介の鼻はいつの間にか天までとどいてゐたので、それが天の川の川上の、たなばた川(がは)といふ川をつきぬけたのです。すると、ちやどそのたなばた川で、橋をかける工事中だったので、とつぜん川の中からぬツと突き出て來た、ゑたいのしれない柱に、人々は一時(じ)はびつくりしましたが、天國の人人は、地上の龍介よりはもつといたづらずきと見えて、これはさいはひ橋ぐひにいいといふので、にはかにそれに穴をあけてよこげたをさしこんだのでした。

 龍介が遠くの鼻のさきに痛みをおぼえて、目をさましたのは、その時でした。

 ですから、いくら「俺の鼻短くなれ!」と叫んだところが、なるほど鼻は短くなつて行くのですが、さきを止められたものですから、からだの方が持ち上げられて行くわけなのでした。

 けれども、如何(いか)にりこうな龍介も、そんなこととは知りませんから、ますますあわてて、

「おれの鼻短くなれ、短くなれ!」

 とさけびながら、やたらに小づちをふりましたが、さうすればさうする程、からだがだんだん上にあがつて行くのでした。

 そのうちに、にはかに空がくもつて來て、ぴかぴかと電(おなづま)が光つて、雷(かみなり)がなりはじめたかと思ふと、たちまち、さつと夕立がふつて來ました。その中を龍介のからだは、ばたばたと手足をはんもんさせながら、上へ上へと上(あが)つて行きましたが、さつきからあまり小づちをふりつづけてゐましたので、手がしびれて來ました上に、夕立にはげしく打(う)たれたために、その手が次第に冷たくかじかんでしまつたものですから、たうとう天まで行(ゆ)かないうちに、小づちをおとしてしまひました。[やぶちゃん注:最後の「小づち」の「づち」は傍点がないのは、ママ。]

 ですから、龍介は、いまだに雨が降つても、風が吹いても、雷が鳴つても、天にもとどかず、地にも落ちず、雲の中に宙(ちう)ぶらりになつてゐるさうです。

 

 

■『宇野浩二全集』第九巻(昭和四五(一九六九)年中央公論社刊)の所収版

[やぶちゃん注:太字は底本では傍点「﹅」。ルビは完全に採用した。踊り字「〱」「〲」は正字化した。一部、物理的に改行かどうかが判らない部分は、私の判断で改行した箇所がある。特にそれは指示しない。]

 

 龍介の天上

 

        

 

 今は昔、あるところに、龍介といふ、大變いたづら好な男が住んでゐました。彼は、兩親には早く死に別れたのですが、僅ながら財產を殘されましたので、別にこれといふ仕事もせずに、年中遊んで暮らしてゐました。ですから、尙のこと、いたづらすることばかり考へてゐました。けれども、毎日のことですから、終(つひ)にはそのいたづらの種も盡きてしまつて、何もすることがなくて、退屈で退屈で困つてゐました。

 ところが、或日のこと、龍介は何かいたづらの種はないかと思つて、押入の中を搔き探してゐますと、ふと片隅に變な小箱があるのが目に止りましたので、開けて見ますと、中に古ぼけた小さな槌が入つてゐました。

「何だらう?」と思つて、暫く首を傾(かし)げてゐましたが、やがて龍介は思はず膝を叩いて、「これはいゝものが目付(めつ)かつた!」と喜びました。それは彼の父の金助が死ぬ時に、

「この中には小さな槌がはひつてゐる。これは家(うち)の大事な寶だから無暗に人に見せてはいけない。又お前もこれは一生に一度しか使つてはならないよ。だが、兎に角、その使ひ方を敎へておかう……」と言つて、金助が說明するには、これは誠不思議な槌で、誰か人に向つて、これを振りながら、こちらの思ふ高さになるまで、「あの人の鼻高くなれ!」と唱へると、その人の鼻がいくらでも高くなるし、又「その人の鼻低くなれ!」といふと、いくらでも槌を振つてゐる間は低くなると言ふのでした。

 龍介は今それを思ひ出しますと、根がいたづら好きな上に、每日退屈で困つてゐた時ですから、「どうせ、人間は生身のからだだ。いつ何時死ぬかも知れないのだから、早速使つてやらう。」と斯う思ひ立ました。で、丁度、その翌日が村のお祭で、鎭守の境内に芝居が掛りましたので、彼はそつとその小槌をふところにして、何食はぬ顏をして、見物に出かけました。

 見ると、龍介のすぐ傍(そば)の桝に、お供の女中を三四人も連れた、それはそれは奇麗な娘さんが、同じく見物に來てゐました。これは、屹度餘程よい衆の娘に違ひないとは、誰が見ても思はれました。そこで、同じ試すなら、こんな娘に一つ試してやらう、斯う思ひつきましたので、龍介はそつと懷から例の小槌を取り出しまして、誰にも氣がつかれぬやうに、それを振りながら、

「この娘の鼻高くなれ!」と口の中で唱へて見ました。すると、案の定、その奇麗な娘の鼻が、見る見るうちに高くなつて行きました。面白いので、龍介は調子に乘つて、いつ迄も小槌を振りながら、「この娘の鼻もつと延びろ、もつと延びろ!」と口の中で唱へつゞけましたところが、娘の鼻は、ずんずん延びて行つて、到頭向うの舞臺の背景に迄つかへてしまひました。

 當人の娘は言ふ迄もありませんが、おほ勢の見物人も、みなみな目を見張つて、

「おやおや、あの肉の柱のやうなものは、あれは一體なんだらう!」と口々に叫びながら、よく見ますと、その柱の根元が、奇麗な娘の鼻なのですから、吃驚(びつくり)してしまひました。そのうちに、舞臺で芝居をしてゐた役者たちも、芝居が出來なくなつたものですから、騷ぎ出しました。

 しかし、どうにも手の附けやうがありません。そのうちに、娘の家に知らせに行く者なぞがありしたので、家からはお醫者やら、人足(にんそく)やらが駈けつけて來ました。そして、やつとのことで、まるで神輿をかつぐ程の人數で、大の男がおほ勢寄つて、その鼻をかついで、娘を家へ連れて歸ることになりました。いつの間にか、それを聞き傳へて集つて來た人々で、娘の通る道筋は、怪我人が出來るほどの騷でした。娘は恥しいやら、苦しいやらで、氣を失つてしまひました。

 やがて、漸くのことで娘を家に連れて歸りましたが、門をぐゞるのにも、玄關を通るのにも、中々手間が取れました。それに、今迄のやうに、四疊半の居間では、鼻だけでもはひり切れませんので、幾間も部屋を明け放して、漸うのことで橫向きに娘を臥(ね)かしました。それから、村の醫者は言ふに及ばず、方々の村々、遠方の町々から、呼べるだけのお醫者を呼んで、何とか治療をしてくれと賴みましたが、どの醫者もどの醫者も、

「こんな不思議な病氣は、今まで話にも聞いたことがありません。どんな本を見ても、こんな病氣のことは出てゐません。とても、いくらお禮をいたゞいても、私(わたし)どもに手の下(くだ)しやうがありません。」と言ひました。

 さういふ譯で、どうにも手の附けやうがなく、家中(うちぢゆう)の者は唯うろうろとしてゐるばかりでした。兩親は言ふに及ばず、集つて來た親類の人たちも、途方に暮れて、泣いてゐるばかりでした。そのうちに、氣附藥だけはきゝましたので、氣絕してゐた娘はやつと正氣にかへりましたが、そのために娘は尙のこと、恥かしいのと苦しいのとで、一晩ぢゆう泣きつゞけました。

 すると、その翌朝(よくてう)のことでした。表の通を、「どんな難病でも、治療するまじなひ! まじなひ!」と呼びながら、立派な房のついた、その癖小さな、古ぼけた槌を振りながら、通る男がありましたので、何でも試しに呼んで見ようといふので、早速その男を迎へました。

 その男とは、言ふ迄もなく、いたづら者の龍介であります。龍介は早速病室に通されますと、仔細らしく病人を診察する眞似をしてから、

「これは珍しい病氣です。が、御安心なさい。屹度私がなほして上げます」と、如何にも自信ありげに、言ひますと、

「なほりますか?」と娘の親は、嬉しさに、飛び立つやうな聲を上げて、「もしなほりましたら、娘はあなたにさし上げませう。また、あなたがお獨り身なら、どうぞ娘の婿になつて下さい。そしてこの家(いへ)の後(あと)をとつて下さい!」と言ひました。

 そこで、龍介は勿體をつけて、長い間、口の中で出鱈目のおまじなひのやうなことを唱へてから、さて例の小槌を手に持つて、それを恭々しく振りながら、口の中で聞えぬやうに、

「この娘の鼻低くなれ、低くなれ!」と言ひますと、さしもの長い鼻が、次第々々に低くなつて、難なく元の通りになりました。

 娘はいふ迄もなく、兩親の喜びは口で言へないほどでした。そこで約束通り、龍介はその娘の婿になって、まんまとその家の若主人となることになりました。で、早速、今まで、娘の鼻のために、ぶツ通しに開(あ)けてあつた部屋を式場にして、そこに赤い毛氈を敷くやら、床の間に花を活けるやら、金屛風を立てるやら、大騷ぎをして、目出たい婚禮の式を擧げました。まづは、めでたし、めでたし。

 

        

 

 さて、何を言ふにも、龍介はその家(うち)の一人娘の命の親のやうな者ですから、一家の人々に大へん大事にされましたので、今迄よりももつともつと氣樂な身分になりました。それと共に、からだが益々暇になりましたので、性來のいたづら好な龍介には、まつたくもつてこいの身分なのでした。

 それに、この家は近在での、第一番の物持でしたから、したい放題のことが出來るわけで、又どんなことをしても、決して誰も叱る者はありませんでした。それといふのも、みな死んだ父の金助が殘してくれた、あの寶の小槌のお蔭だと思ふと、龍介はつくづく父の金助を有難いと思ひました。が、また、一生に一度しか使つてはいけないといふ遺言を思ひ出しますと、不服でなりませんでした。もう自分が生きてゐるうちに、あれが使へないのかと思ふと、何だか使つてしまつたのを、後悔するやうな氣にさへなりました。それにしても、いくらしたい放題のことが出來る身分とは言ひながら、直(すぐ)もうするいたづらの種が盡きてしまつて、又以前のやうな退屈な日を送らねばならなくなりました。

 或秋の始めのことでした。秋とはいひながら、時候はまだ夏のとほりで、朝から家の中が暑くてたまりませんので、龍介は庭の噴水の傍の草原に寢轉んで、涼しい風に吹かれてゐました。やがて、晝飯もそこへ運ばせて、腹這ひになつてそれを食べてしまふと、又ごろりと仰向けになつて、何か面白いことがないか、と頻(しきり)に考へてゐました。

 さうして、ぼんやりとして、高い、靑い空を見上げたり、又低く目を落して、すぐ自分の鼻の尖(さき)を眺めたりしてゐますと、ふとこの自分の鼻が例の小槌でどの位延びるものか、試して見たくなりました。さう思ひ立つと、龍介は、「一生に一度しか使つてはならぬ」といふ、死んだ父の遺言も何も忘れてしまひました。丁度、晝休みの時分で、家の者たちは皆晝寢をしてゐるやうでしたから、彼はそつと自分で小槌を持ち出して來まして、また元の所で仰向けになつて寢轉びながら、

「俺の鼻高くなれ、高くなれ!」

 斯う口の中で唱へながら、少しも休まずに、大いそぎで小槌を振り始めました。すると、鼻はだんだん延びて行つて、見る見るうちに、到頭雲の中まで入つて行きましたが、調子に乘つた龍介は、それでも尙止(と)めないで、

「もつと延びろ、もつと延びろ!」と、いつ迄もいつ迄も、小槌を振つてゐました。そのうちに眠氣がさして來て、うとうとしながらも、やつぱし少しも小槌を振る手を止めないで、夢中で「もつと延びろ、もつと延びろ!」と言つてゐました。と、突然、遠くの鼻の尖の方が、ちくりちくりと痛むのを覺えましたので、龍介はびつくりして、目を醒しました。

 龍介は急にあわて出して、

「俺の鼻縮まれ、縮まれ!」と唱へながら、改めて大急ぎで、小槌を振り始めました。が、もう、其時は、いつの間にか、誰が目付(めつ)けるともなく目付けて、家の人々も、村の人々も、さてはよその村の人々も、思ひ思ひに一團になつて、この不思議な有樣を眺めて騷ぎ出しました。龍介は、それと知ると、氣まりが惡いやら、何やらで、益々あわてゝ、夢中で小槌を振り𢌞しましたが、遠くの方の鼻の尖の痛さは、少しもなほらないばかりでなく、不思議なことには、小槌を振つて、「縮まれ、縮まれ!」と言ふ度に、だんだん自分のからだが、地面を離れて、持ち上つて行くのです。

 これは一體どうした譯かと言ふと、龍介の鼻はいつの間にか天までとゞいてゐたので、それが天の川の川上の、あくた川といふ川を突き拔けたのです。すると、丁度そのあくた川で、橋を架ける工事中だったので、突然川の中からぬツと突き出て來た、異樣な柱に、人々は一時は吃驚しましたが、天國の人々は、地上の龍介よりは更にいたづら好と見えて、これはさいはひ橋杭にいゝといふので、俄にそれに穴をあけて橫桁をさし込んだのでした。

 龍介が遠くの鼻の尖に痛みを覺えて、目を醒ましたのは、その時で、それからいくら「俺の鼻短くなれ!」と叫んだところが、なる程鼻は短くなつて行くのですが、尖を止められたものですから、からだの方が持ち上つて行くわけなのです。

 けれども、如何に利口な龍介も、そんなこととは知りませんから、益々あわてゝ、「俺の鼻短くなれ、短くなれ!」と叫びながら、矢鱈に小槌を振りましたが、さうすればさうする程からだが段々上に上(あが)つて行くのでした。

 そのうちに、俄に空が曇つて來て、ぴかぴかと電(いなづま)が光つて、雷が鳴り始めたかと思ふと、忽、さつと夕立が降つて來ました。その中を龍介のからだは、ぱたぱたと手足を煩悶させながら、上へ上へと上つて行きましたが、さつきから餘り小槌を振りつゞけてゐましたので、手がしびれて來ました上に、夕立に激しく打たれたために、次第に冷たく凍(かじ)かんでしまつたものですから、到頭天まで行かない小槌をおとしてしまひました。(その後(のち)、その小槌を拾つたのは、大黑といふ大へん肥つた男だともいひますし、又一說には、心王羅漢とかいふ、これも大へん肥つた男が、實はそつと拾つて持つてゐるといふことです。)[やぶちゃん注:「ぱたぱた」はガンマ補正をかけて、周囲のそれらと比較した結果、濁点ではなく、半濁点と判断した。また、最後の丸括弧部分は第一ヴァージョンにはない。]

 餘談はさておき、ですから、龍介はいまだに雨が降つても、風が吹いても、雷が鳴つても、天にもとゞかず、地にも落ちず、雲の中に宙ぶらりになつてゐるさうです。(今では又、彼はすつかりをさまつてしまつて、俺は雲を起し、風を吹かす、傀儡師だと言つて、威張つてゐるとも言ひます。)[やぶちゃん注:最後の丸括弧部分も第一ヴァージョンにはない。]

 けれども、下界の人々はそんなことは知りませんから、龍介は天上したのだと思つてゐます。めでたし、めでたし。[やぶちゃん注:この最終段落も第一ヴァージョンにはない。]

 

[やぶちゃん注:再度示すと、本篇を宇野浩二が発表したのは大正八(一九一九)年十一月である。

 而して、芥川「鼻」は、大正五(一九一六)年二月十五日に『新思潮』に発表され、それが夏目漱石(本名は夏目である)の激賞を受けて、華々しく文壇にデビューしたことも御存知の通りである。「鼻」を含む芥川龍之介の処女作品集『羅生門』の刊行は大正六(一九一七)年五月(阿蘭陀書房)刊である。

 私は古くに、宇野の盟友芥川龍之介を追懐した力作である「芥川龍之介」を、ブログ・カテゴリ『宇野浩二「芥川龍之介」』で七十七分割で電子注し、直後にサイト版として、それらをブラッシュ・アップして、上巻一括及び下巻一括とに二分割して公開しているが、ブログ分割版の「宇野浩二 芥川龍之介 六」で、宇野自身が、この「龍介の天上」について述べているので読まれたいが、冒頭注で宇野が述べた初出の付記にある、『オランダ國の詩人、ラメエ、デタの著すところ「日本童話集」』という原拠は、「デタ」「ラメエ」=「出鱈目」であり、本篇は、宇野浩二の確信犯の芥川龍之介に対する、かなり露骨にして辛辣なカリカチャライズされた童話仕立てにした揶揄(からか)いの小品なのであり、宇野自身が以上の「六」で、『私はこの童話を作ってから、自分ながら、これはちょっとおもしろいと思ったので、その二三の友だちに話すと、そのなかで廣津と鍋井克之が、それはおもしろいから、童話の雑誌に出さないで、普通の雑誌に出したら、といった。それで、鍋井が顧問のようになっていた、解放社[註―この解放社の社長は鍋井や私と中学の同窓であった]から出している「解放」に出すことにした。それで、私は、ふと、思いついて、この童話の主人公を龍介という名にし、『龍介の天上』という題にし、ついでに、『たなばた川』を『あくた川』とかえる事にした。これは、いうまでもなく、芥川の出世作『鼻』をおもいだし、芥川をからかってみたくなったのである。』とあるのである。「六」の最後に以下のようにある。

   *

 ところが、この『龍介の天上』が発表されてからまもなく、あう人あう人が、私にちかいうちに、『宇野浩二撲滅号』という雑誌が出るそうである、そうして、その音頭取〔おんどとり〕は芥川龍之介だそうである、そうして、その雑誌は、「文章世界」だとか、「新潮」だとか、「秀才文壇」だとか、つたえる人によって、まちまちであった。私は、当時三十九歳の青年であったが、そんな事はまったく信じられなかった。ところが、改造社の社長であった、山本実彦さえ、その頃のある日、その事をつたえながら、「しつかりやりなさい、私はできるだけ後押ししますから、」といったが、「もしそんな事があったら、まだ無名の僕が得しますから、……が、そんなこと噓ですよ、」と、私は、いった。

 そうして、それは、私がいったとおり、まったくの流言であった。

 さて、私がはじめて芥川と顔をあわしたのは、大正九年の、たしか、七月頃、江口 渙の短篇集『赤い矢帆』の出版記念会が、万世橋の二階の「みかど」という西洋料理店であった。(この「みかど」はその頃の文学者の会合のよく行〔おこな〕われたところである。)この会の発起人であり世話役であったのは、たしか、芥川である。芥川は、その前の前の年(つまり、大正六年)の六月に開かれた、自分の『羅生門』の出版記念会、江口の世話あったので、その礼のつもりであったのだ。芥川にはこういう物堅い実に謹直なところがあった。これは芥川の友人たちにとって忘れがたい美徳であった。(これを書きながら、またまた、私情をのべると、私は涙ぐむのである。私の目から涙がながれるのである。ああ、芥川は、よい人であった、感情のこまかい人であった。深切な男であった。昨日も、廣津がいった。芥川が死んだ時だけは悲しかった、あの朝、銀座であった、吉井 勇も、やはり、悲しい、といった、と。)

 さて、その『赤い矢帆』の会では、長いテエブルの向う前に人びとが腰をかけた、江口が正座に、江口の右横に芥川が、江口のむかいに廣津が、廣津の左横に私が、それぞれ、席についていた。そのテエプルにむかいあって腰かけていた人たちは、おもいおもいに、雑談をしていた。といって、話をするのは、となり同士か、せいぜい一つおいた隣の人であった。私は、そういう会になれていなかったので、たいてい、となりの廣津とばかり、話をしていた。と、突然、むこう側の三人目の席の方から、

「宇野君、……僕が君を撲滅する主唱者になるって噂があったんだってね、おどろいたよ、僕は、それを聞いて……」と、芥川が、いった。

「……もし、それが、本当だったら、君なら、相手にとって、不足はないよ、」と私がこたえた。

 これが、つまり、私が芥川とはじめて逢った時の思い出である。

   *

とあるのである。ここには、事実の時制との決定的齟齬がある。これは、宇野の記憶違い、或いは、病的な(後述)記憶齟齬があると考えてよい。

 ともかくも、この露骨な宇野の行為を、寧ろ、芥川龍之介は好意的に捉え、以降、逆に宇野浩二と非常に懇意となり、芥川の最晩年、宇野が重い精神疾患を発症した際にも(後に脳梅毒によるものと判明している。宇野が入院している最中に芥川龍之介は自殺しているが、後に固定治癒している。私が「固定」と添えている理由は、発症以前と、治癒の後の彼の文体に、かなり激しい変異が見られると考えているからである)、率先して、彼の入院や、家族への気配りをしていることも、よく知られている。

 このかなりキツい小説を読みながら、私は、後の二人の固い友情の形成を、正直。羨ましく思うのである。

 また、第二ヴァージョンの「大黑といふ大へん肥つた男」「心王羅漢とかいふ、これも大へん肥つた男」というのも、恐らく特定人物のカリカチャーで、例えば、芥川作品の御用達であった『中央公論』の編集長の滝田樗陰とか、『大阪毎日新聞』社学芸部部長で、芥川龍之介を社員として招聘した詩人薄田泣菫などを想起するが、これは私の思いつきに過ぎず、「小槌」を持っている肥った作家となれば、芥川龍之介のライバル谷崎潤一郎なども浮かぶ。

 なお、本篇には、発表時期が以上の二つの間に当たる時期の、昭和七(一九三二)年十月に刊行された宇野の童話集『海こえ山こえ』 (春陽堂・『少年文庫』第十一)の中に、「長鼻天つく」という標題に変えた、別ヴァージョンが。今一つ、ある。ただ、その内容は、ほぼ、先に掲げた、「■単行本童話集『龍介の天上』(昭和二一(一九四六)年弘文社刊)所収版」と同じで、最後に、『何(なに)といたづらのばつは恐(おそ)ろしいではありませんか。』(太字は原本では傍点「﹅」)と添えてあるもので、私には、電子化する食指が全く動かない。幸い、これは、国立国会図書館デジタルコレクションで、『ログインなしで閲覧可能』の『インターネット公開(保護期間満了)』であり(当該篇はここから)、誰もが視認出来るので、見られたい。宇野は芥川龍之介の自死後、病気から恢復した、推定で、遅くとも、昭和五、六年頃に(この時期、宇野は盛んに童話を書いている。当該ウィキを参照されたい)、芥川龍之介を辛辣に弄った初出形を、せめても、自殺を決意していながら、最後まで自分を労わって呉れた龍之介との、出逢いの思い出の形見として、ソフトに変容させ(標題の変更が明らかにそれを意味していると私は思う)、書き直しをしていたことが判然とするのである。

 最後に。龍介は娘を貰って結婚しているが、芥川龍之介は、この前年の大正七年二月二日に文と婚姻している。しかし、私は龍介が、騙して女を手に入れているのが、妙に、気になるのである。無論、これは偶然なのだが、実は、この大正八年の九月、芥川龍之介は、秀しげ子と深い不倫関係に堕ちていることが、真っ先に想起されたからである。]

2012/05/10

宇野浩二 芥川龍之介 二十三~(14) 宇野浩二「芥川龍之介」完結

 芥川の葬式は、七月二十七日の午後三時から、谷中斎場で、行〔おこな〕われた。谷中斎場の前の道路は狭い。しかし、斎場は可なり広い。

 その狭い道路に面して、通路の両側に受付〔うけつけ〕がある。右側の受付には、天幕が張ってあって、長いテエブルにむかって、和田利彦[春陽堂の主人]、石川寅吉、久保田万太郎、島中雄作[中央公論社の社長]、小蜂八郎[元春陽堂の番頭、その時は文藝春秋社出版部長]等がひかえ、その右の記録係の席には、宮本喜久雄、窪川鶴次郎、青地喜一郎、菅 忠雄等がならび、左側の受付(常設受付)には、小島政二郎、石田幹之助、神代種亮〔こうじろたねすけ〕[荷風の『濹東綺譚』の終りの「作後贅言」の中に登場する神代帚葉はこの人である]豊島與志雄等がひかえ、その左の記録席には、大草実〔おおくさみのる〕[その頃の「文藝春秋」の辣腕記者]、堀 辰雄、中島氏、中野重治等がならんでいた。さて、これらの堂堂たる人物たちが控えている左右の受付の間〔あいだ〕の通路の、右側には、高野敬録、山本実彦[改造社の社長]、中根駒十郎[新潮社の支配人兼社長代理]等が立ち、左側には、山本有三、南部修太郎、伊藤貴麿〔たかまろ〕[その頃は新進作家、その後は童話作家]等が立っていた。さて、これらの人たちが両側に立っているところを通り抜けると、ちょっと広い明〔あ〕き地に出る。

[やぶちゃん注:翰林書房「芥川龍之介新辞典」の池内輝雄氏の「葬儀」の項にある七月二十八日附『東京日日新聞』のデータによれば、会葬者は七百数十名、芥川家菩提寺である慈眼寺住職篠原智光を導師として、『先輩総代として泉鏡花』が『沈痛な声で弔文を読』み、『友人総代として菊池寛氏がたち弔文を読』んだが、菊池は『読むに先だつて既に泣いてゐた』。『文芸協会を代表して里見弴、後輩を代表して小島政二郎氏等の切々たる哀情に満てる弔文が』続き、午後五時に『式は終り、遺骸は親族知友の手で日暮里火葬場に送られた。遺骨は二十八日染井の墓地に埋葬される』とある(正確には「染井の墓地」ではなく、染井墓地の奥にある慈眼寺の墓地である)。同日附『読売新聞』では終式を『午後四時五分』とし、こちらの記事には『表通りには二千余人の人人が蝟集して個人の柩を見んと犇めき交通巡査がこの整理にあせだくであつた』と記す。

「石川寅吉」(明治二十七(一八九四)年~?)出版人。安政年間創業の版元を株式会社「興文社」にしてその代表となる。中等教科書や英語学関連書籍などを刊行、昭和二(一九二七)年には芥川龍之介と菊池寛編纂の『小学生全集』を出版して、アルス社の『日本児童文庫』と激しい販売合戦を繰り広げた。第二次世界大戦中に死亡(以上は岩波新全集の関口安義・宮坂覺の「人名解説索引」に拠った)。

「宮本喜久雄」詩人。雑誌『驢馬』同人。

「青地喜一郎」不詳。

「神代種亮」(明治十六(一八八三)年~昭和十(一九三五)年)は書誌研究者・校正家。海軍図書館等に勤務したが、校正技術に秀いで、雑誌『校正往来』を発刊、「校正の神様」と称せられた。芥川は作品集の刊行時には彼に依頼している。明治文学の研究にも従事し、明治文化研究会会員でもあった。「神代帚葉」は「こうじろそうよう」と読み、彼の雅号と思われる。「作後贅言」は「さくごぜいげん」と読み、所謂、「濹東綺譚」の作者後書き。そこで荷風の友人として登場し、明治人には人を押し退けて得をしようとする気風はなく、『それは個人めいめいに、他人よりも自分の方が優れているという事を人にも思わせ、また自分でもそう信じたいと思っている――その心持です。優越を感じたいと思っている欲望です。明治時代に成長したわたくしにはこの心持がない。あったところで非常にすくないのです。これが大正時代に成長した現代人と、われわれとの違うところですよ。』と述べさせている(自宅に原本が見当たらないので引用はSAMUSHI氏の「テツガクのページ」の「荷風を読んで 墨東綺譚再読」より孫引きした)。

「中島氏」不詳。芥川龍之介の従姉の子に中島汀なる人物がおり、新全集の人名解説索引には龍之介が勉強を見ていた旨の記載があるが、この人物か。先に示した本記載のソース「二つの絵」の会葬場見取り図にも「記録係」として「中島氏」とあり、宇野自身、「中島氏」とは誰であるか分からないままに、記したものと考えてよい。

以下の後記は、底本では全体が一字下げ。先に述べた通り、この誤りは小穴隆一の「二つの絵」の会葬場見取り図の誤りをそのまま引き写した結果である。因みに、この「中野重治」は翰林書房「芥川龍之介新辞典」の池内輝雄氏の「葬儀」の脚注によれば、神崎清(明治三十七(一九〇四)年~昭和五十四(一九七九)年:評論家。昭和九(一九三四)年から明治文学談話会を主宰、機関誌『明治文学研究』した。戦時中には大逆事件を、戦後は売春問題等を手掛けた。著作は「革命伝説」「大逆事件」「戦後日本の売春問題」等。)の誤りであった。]

(後記――この時、中野重治が列席していなかったことを、この本が出てからまもなく、本人から知らされた。これがほんの一例であるように、この本に書いたことのなかに、このようなマチガイがあることは必定であるから、ここでも、この事を、迷惑のかかった方方にお詫びし、その他の事を、読者に、御諄恕を乞う。)

[やぶちゃん注:「諄恕」は「じゅんじょ」と読むのであろう。敢えて言うなら「諄々として恕する」で、くどいくらいに何度も思いやりの心で過ちを許す、の意でとれなくもないが、「日本国語大辞典」にも「廣漢和辞典」の熟語にも出現しない。正直言わせてもらえば、「諒恕」の誤植ではなかろうか。]

 ところで、この明き地の右側と左側に、おなじ形〔かたち〕の大きな天幕〔てんと〕が張ってあって、両方とも、程よい所に、イスとテエブルが据えてある、つまり、『休憩所』である。そうして、その『休憩所』の接待係は、右側は、高田保、川端康成、斎藤龍太郎[その頃の文藝春秋社で、佐佐木茂索と同じくらいの位置にあった人]、藤沢清造[その一生を貧窮にくらしながら、決して人に頭をさげず、貧乏にめげず、芥川に「へんな芸術主義者だからな、」と云われ、久保田に「正義派」と云われたほど芸術一途な男で、『根津権現裏』というすぐれた長篇一冊だけ残して、昭和七年の二月、芝公園で妙な死に方をした。武田麟太郎は『根津権現裏』を激賞して居た。久保田、芥川、菊池、その他を「君〔くん〕」と呼ぶ人であった。いい人であった]等であり、左側に、犬養健[この頃は、苦労知らずの行儀のよい小説をかいた新作家で、「白樺」の傍系であった]、三宅周太郎、横光利一、中河与一等であった。

[やぶちゃん注:「三宅周太郎」(明治二十五(一八九二)年~昭和四十二(一九六七)年)は演劇評論家。堅実な歌舞伎・文楽の劇評家として知られ、文楽の興隆にも尽くした。正続とある「文楽の研究」は名著である。

「犬養健」この最後の連載時は、正に吉田内閣法務大臣として造船疑獄の自由党幹事長佐藤栄作収賄容疑での逮捕許諾請求に指揮権を発動した悪印象の直後であった。]

 さて、ここを通りすぎると、いよいよ斎場である。

 斎場の玄関をはいった所の、すぐ、右側には、葬儀係の、下島空谷[空谷は下島の俳号]、

香取秀真[優秀な鋳金家、子規門の歌人]鈴木氏亨[この時分、文藝春秋社の代理の一切の仕事をしていた人]、谷口喜作[うさぎやという菓子屋の主人、滝井に俳句をまなび、芥川家に出入りしていた人]等が立ち、左側には、記録係の、滝井孝作と菅 忠雄が立っていた。それから、奥の方には、右側に、喪主親族席には、菊池 寛、室生犀星、小穴隆一等が著席〔ちゃくせき〕し、左側に、会葬者席には、泉鏡花、里見 弴、その他が居ならび、すこし離れて葬儀係の、久米正雄、佐佐木茂索、小野田通平[この頃、新潮社の出版部長か]等がひかえていた。(それから喪主親族席の後〔うしろ〕の方に、広い婦人席があヶた。)

 そうして、柩は、いうまでもなく、正面の、奥の、本尊の前に、安置してあった。

[やぶちゃん注:「小野田通平」とあるが、小穴の会葬場見取り図には「小野田道平」とある。いずれにしても不詳。宇野の新潮社出版部長というのは会葬係としては不自然ではない。]

 

 この日の導師は、芥川の菩提寺である、日蓮宗、慈眼寺の住職、原 智光師であった。

[やぶちゃん注:「原 智光」は「篠原智光」の誤り。]

 告別式は、午後三時から三時半までであったが、会葬した文壇の人は七百数十人であった。そうして、先輩の総代として泉 鏡花が、友人の総代として菊池 寛が、文芸家協会を代表して里見 弴が、後輩を代表して小島政二郎が、それぞれ、弔文を読んだ。これらの人たちの中で、菊池は、弔文を、読みはじめる前に啜〔すす〕り泣き、読み出してからも、一句よんでは噎〔むせ〕び泣き、また一句読んでは噦〔しゃく〕りあげ、終には声を上げて泣きながら、読みおわったので、殊に人びとを感動させた。その菊池の弔文はつぎのようなものである。

 芥川龍之介君よ、

君が自ら選み自ら決したる死について、我等何〔われらなに〕をかいはんや。ただ我等は君が死面に平和なる微光の漂〔ただよ〕へるを見て甚だ安心したり。友よ、安らかに眠れ! 君が夫人賢なればよく遺児を養ふに堪ゆべく、我等また微力を致して、君が眠りのいやが上〔うへ〕に安らかならんことに努〔つと〕むベし、ただ悲しきは君去りて我等が身辺とみにせうでうたるを如何にせん。

[やぶちゃん注:菊池の直筆弔辞の写真を見ると、「堪ゆべく」は「堪ゆるべく」、「我等また」は「我等亦」、「眠り」は「眠」、「せうでう」は「蕭条」の表記である。最後に「友人總代 菊池寛」とある。]

 

 この時の葬儀に私の紋附〔もんつき〕と羽織と著物と袴と足袋を身につけて会葬した直木三十五が、帰りに私の留守宅に寄って、タラタラ流れる汗をふきながら、「あの葬式を見ると、急に芥川の死んだのが惜しい気がした、」と、私の家の者に、云った。

 この時の葬儀に会葬した帰り道で、田山花袋が、三上於菟吉に、「君、物事を詰めて考えてはいけないよ、」と云った。(三上は、この話を、私に、何度も、した)

 

 芥川が死んでから数日後に、吉井 勇と廣津和郎が、銀座で逢った。「ほかの人が死んでも『ああ、そうか、』と思うくらいだが、芥川が死んだ時は、悲しい気がしたね、」というような事を、何度も、云い合った。

[やぶちゃん注:以下の行間のアスタリスクは底本のもの。]

 

      *

 

 今、こういう時から二十五六年たった、西洋流に云えば、四半世紀すぎたのである。

 この頃、月〔つき〕のうちに十度ぐらい、私は、廣津と、喫茶店に、コオヒイだけを飲みに行って、文学談その他をかわす。その時、芥川の話が出ると、「芥川は、弱い男だったね、悲しい男だったね、……しかし、ああいう才能は滅多にないね、結局、あれは、不世出の才能だね、」と、(言葉はちがうが、こういう事を、)云い合うのである。そうして、二人の間に、何度、芥川の話が出ても、終局、こういう事を、云い合うのである。

[やぶちゃん注:この最後の部分を読むと――私は何故か――片山廣子松村義)の「芥川さんの囘想(わたくしのルカ傳)を思い出す――いや――正に「小説の鬼」を自認した宇野浩二の「芥川龍之介」という福音書は――廣子のそれと同じく――正しく自らをもミューズから遣わされた者とする――小説の使徒宇野浩二の――ルカによる福音書であった。――]

本篇を以って、本年1月2日から始めた宇野浩二「芥川龍之介」(原稿用紙約1000枚)の注釈附電子テクスト化を終了した。これより、下巻のHP一括化に入る。

宇野浩二 芥川龍之介 二十三~(13)

 芥川の葬式は、七月二十七日の午後三時から、谷中斎場で、行〔おこな〕われた。谷中斎場の前の道路は狭い。しかし、斎場は可なり広い。

 その狭い道路に面して、通路の両側に受付〔うけつけ〕がある。右側の受付には、天幕が張ってあって、長いテエブルにむかって、和田利彦[春陽堂の主人]、石川寅吉、久保田万太郎、島中雄作[中央公論社の社長]、小蜂八郎[元春陽堂の番頭、その時は文藝春秋社出版部長]等がひかえ、その右の記録係の席には、宮本喜久雄、窪川鶴次郎、青地喜一郎、菅 忠雄等がならび、左側の受付(常設受付)には、小島政二郎、石田幹之助、神代種亮〔こうじろたねすけ〕[荷風の『濹東綺譚』の終りの「作後贅言」の中に登場する神代帚葉はこの人である]豊島與志雄等がひかえ、その左の記録席には、大草実〔おおくさみのる〕[その頃の「文藝春秋」の辣腕記者]、堀 辰雄、中島氏、中野重治等がならんでいた。さて、これらの堂堂たる人物たちが控えている左右の受付の間〔あいだ〕の通路の、右側には、高野敬録、山本実彦[改造社の社長]、中根駒十郎[新潮社の支配人兼社長代理]等が立ち、左側には、山本有三、南部修太郎、伊藤貴麿〔たかまろ〕[その頃は新進作家、その後は童話作家]等が立っていた。さて、これらの人たちが両側に立っているところを通り抜けると、ちょっと広い明〔あ〕き地に出る。

[やぶちゃん注:翰林書房「芥川龍之介新辞典」の池内輝雄氏の「葬儀」の項にある七月二十八日附『東京日日新聞』のデータによれば、会葬者は七百数十名、芥川家菩提寺である慈眼寺住職篠原智光を導師として、『先輩総代として泉鏡花』が『沈痛な声で弔文を読』み、『友人総代として菊池寛氏がたち弔文を読』んだが、菊池は『読むに先だつて既に泣いてゐた』。『文芸協会を代表して里見弴、後輩を代表して小島政二郎氏等の切々たる哀情に満てる弔文が』続き、午後五時に『式は終り、遺骸は親族知友の手で日暮里火葬場に送られた。遺骨は二十八日染井の墓地に埋葬される』とある(正確には「染井の墓地」ではなく、染井墓地の奥にある慈眼寺の墓地である)。同日附『読売新聞』では終式を『午後四時五分』とし、こちらの記事には『表通りには二千余人の人人が蝟集して個人の柩を見んと犇めき交通巡査がこの整理にあせだくであつた』と記す。

「石川寅吉」(明治二十七(一八九四)年~?)出版人。安政年間創業の版元を株式会社「興文社」にしてその代表となる。中等教科書や英語学関連書籍などを刊行、昭和二(一九二七)年には芥川龍之介と菊池寛編纂の『小学生全集』を出版して、アルス社の『日本児童文庫』と激しい販売合戦を繰り広げた。第二次世界大戦中に死亡(以上は岩波新全集の関口安義・宮坂覺の「人名解説索引」に拠った)。

「宮本喜久雄」詩人。雑誌『驢馬』同人。

「青地喜一郎」不詳。

「神代種亮」(明治十六(一八八三)年~昭和十(一九三五)年)は書誌研究者・校正家。海軍図書館等に勤務したが、校正技術に秀いで、雑誌『校正往来』を発刊、「校正の神様」と称せられた。芥川は作品集の刊行時には彼に依頼している。明治文学の研究にも従事し、明治文化研究会会員でもあった。「神代帚葉」は「こうじろそうよう」と読み、彼の雅号と思われる。「作後贅言」は「さくごぜいげん」と読み、所謂、「濹東綺譚」の作者後書き。そこで荷風の友人として登場し、明治人には人を押し退けて得をしようとする気風はなく、『それは個人めいめいに、他人よりも自分の方が優れているという事を人にも思わせ、また自分でもそう信じたいと思っている――その心持です。優越を感じたいと思っている欲望です。明治時代に成長したわたくしにはこの心持がない。あったところで非常にすくないのです。これが大正時代に成長した現代人と、われわれとの違うところですよ。』と述べさせている(自宅に原本が見当たらないので引用はSAMUSHI氏の「テツガクのページ」の「荷風を読んで 墨東綺譚再読」より孫引きした)。

「中島氏」不詳。芥川龍之介の従姉の子に中島汀なる人物がおり、新全集の人名解説索引には龍之介が勉強を見ていた旨の記載があるが、この人物か。先に示した本記載のソース「二つの絵」の会葬場見取り図にも「記録係」として「中島氏」とあり、宇野自身、「中島氏」とは誰であるか分からないままに、記したものと考えてよい。

以下の後記は、底本では全体が一字下げ。先に述べた通り、この誤りは小穴隆一の「二つの絵」の会葬場見取り図の誤りをそのまま引き写した結果である。因みに、この「中野重治」は翰林書房「芥川龍之介新辞典」の池内輝雄氏の「葬儀」の脚注によれば、神崎清(明治三十七(一九〇四)年~昭和五十四(一九七九)年:評論家。昭和九(一九三四)年から明治文学談話会を主宰、機関誌『明治文学研究』した。戦時中には大逆事件を、戦後は売春問題等を手掛けた。著作は「革命伝説」「大逆事件」「戦後日本の売春問題」等。)の誤りであった。]

(後記――この時、中野重治が列席していなかったことを、この本が出てからまもなく、本人から知らされた。これがほんの一例であるように、この本に書いたことのなかに、このようなマチガイがあることは必定であるから、ここでも、この事を、迷惑のかかった方方にお詫びし、その他の事を、読者に、御諄恕を乞う。)

[やぶちゃん注:「諄恕」は「じゅんじょ」と読むのであろう。敢えて言うなら「諄々として恕する」で、くどいくらいに何度も思いやりの心で過ちを許す、の意でとれなくもないが、「日本国語大辞典」にも「廣漢和辞典」の熟語にも出現しない。正直言わせてもらえば、「諒恕」の誤植ではなかろうか。]

 ところで、この明き地の右側と左側に、おなじ形〔かたち〕の大きな天幕〔てんと〕が張ってあって、両方とも、程よい所に、イスとテエブルが据えてある、つまり、『休憩所』である。そうして、その『休憩所』の接待係は、右側は、高田保、川端康成、斎藤龍太郎[その頃の文藝春秋社で、佐佐木茂索と同じくらいの位置にあった人]、藤沢清造[その一生を貧窮にくらしながら、決して人に頭をさげず、貧乏にめげず、芥川に「へんな芸術主義者だからな、」と云われ、久保田に「正義派」と云われたほど芸術一途な男で、『根津権現裏』というすぐれた長篇一冊だけ残して、昭和七年の二月、芝公園で妙な死に方をした。武田麟太郎は『根津権現裏』を激賞して居た。久保田、芥川、菊池、その他を「君〔くん〕」と呼ぶ人であった。いい人であった]等であり、左側に、犬養健[この頃は、苦労知らずの行儀のよい小説をかいた新作家で、「白樺」の傍系であった]、三宅周太郎、横光利一、中河与一等であった。

[やぶちゃん注:「三宅周太郎」(明治二十五(一八九二)年~昭和四十二(一九六七)年)は演劇評論家。堅実な歌舞伎・文楽の劇評家として知られ、文楽の興隆にも尽くした。正続とある「文楽の研究」は名著である。

「犬養健」この最後の連載時は、正に吉田内閣法務大臣として造船疑獄の自由党幹事長佐藤栄作収賄容疑での逮捕許諾請求に指揮権を発動した悪印象の直後であった。]

 さて、ここを通りすぎると、いよいよ斎場である。

 斎場の玄関をはいった所の、すぐ、右側には、葬儀係の、下島空谷[空谷は下島の俳号]、

香取秀真[優秀な鋳金家、子規門の歌人]鈴木氏亨[この時分、文藝春秋社の代理の一切の仕事をしていた人]、谷口喜作[うさぎやという菓子屋の主人、滝井に俳句をまなび、芥川家に出入りしていた人]等が立ち、左側には、記録係の、滝井孝作と菅 忠雄が立っていた。それから、奥の方には、右側に、喪主親族席には、菊池 寛、室生犀星、小穴隆一等が著席〔ちゃくせき〕し、左側に、会葬者席には、泉鏡花、里見 弴、その他が居ならび、すこし離れて葬儀係の、久米正雄、佐佐木茂索、小野田通平[この頃、新潮社の出版部長か]等がひかえていた。(それから喪主親族席の後〔うしろ〕の方に、広い婦人席があヶた。)

 そうして、柩は、いうまでもなく、正面の、奥の、本尊の前に、安置してあった。

[やぶちゃん注:「小野田通平」とあるが、小穴の会葬場見取り図には「小野田道平」とある。いずれにしても不詳。宇野の新潮社出版部長というのは会葬係としては不自然ではない。]

2012/05/09

宇野浩二 芥川龍之介 二十三~(12)

 その翌日(つまり、七月二十五日)の都下の各新聞は、(七八種の新聞は、)その第三面の殆んど全部を、芥川の自殺に関する記事で、埋めた。(その頃、出版社の間〔あいだ〕に、書籍や雑誌の宣伝のために、新聞に一ペイジの広告をする事が、流行したが、芥川の自殺の記事の出ていた第三面は、ちょっと見た瞬間、その『二へイジ広告』か、と思われた程であった。)

[やぶちゃん注:披見した昭和二年七月二十五日附『東京日日新聞』では下部の広告欄を除くほぼ十段の一面全部を芥川龍之介自殺関連記事で埋めている。]

 それは、一〔ひと〕つ一〔ひと〕つの見出しに、(例えば、『芥川龍之介氏』『劇薬自殺を遂〔と〕ぐ』『昨晩、滝野川の自宅で』『遺書四通を残す』というような文句に、)初号あるいは一号の活字をつかい、本文(例えば「二十四日午前七時市外滝野川田瑞四二五の自邸寝室で劇薬ベロナアル』および『ヂエアールを多量に服用して[中略]」にところどころゴシック活字をつかう、というような麗麗〔れいれい〕しい組み方で、仮りに一ペイジを六段とすれば、その六段全部に殆んど芥川の自殺に関する記事が出ていたのである。

[やぶちゃん注:ここで宇野が参照しているのは、昭和二年七月二十五日附の『東京朝日新聞』の方である。こちらは全十段の内、八段強相当を芥川龍之介自死関連に割いている。]

 つまり、芥川の自殺は、このように、文壇の人たちは、もとより、世人の耳目〔じもく〕をも聳動させたのであめる。

 

 七月二十四日の午後三時頃、家の者が、果物〔くだもの〕などを持って病院にたずねて来た時、問わず語りに、ふと、「……芥川さんが、昨夜〔ゆうべ〕、眠〔ねむ〕り薬〔ぐすり〕を飲みすぎて、……」というような言葉を、漏らした。

 と、虫が知らした、と云うか、この言葉が、私に、妙に、異様に、感じられた。なにか、どきッとしたような感じをうけた。

 それで、なにか予感のようなものを感じていたのか、その翌日、あの誇大な新聞の記事を見た時、もちろん、はッとしたが、それほど驚かなかった。

 その日も、どんよりした暑い日で、じっとしていても、体〔からだ〕じゅうに脂汗〔あぶらあせ〕がにじみ出た。私は、すこし気がおちつくと、「芥川は死んだ、」と、しみじみ、思った。が、ふと、「僕は、うんと暑い時に死んで、みんなを困らしてやるつもりだ、」と、芥川が、目尻と頰に例のいたずらっ児〔こ〕らしい笑いをうかべて、云った事を、思い出したりした。

[やぶちゃん注:宇野浩二の渾身の作品「芥川龍之介」のコーダ、ここに窮まれりの感がある。永遠に忘れることの出来ない本作の最も美事なシーンである。]

宇野浩二 芥川龍之介 二十三~(11)

 さて、遺書は、芥川夫人、小穴隆一、菊池 寛、竹内得二[註―養父の道章の弟、つまり芥川の叔父]あての四通と、伯母のふきと甥の義敏と、別に、『或旧友へ送る手記』とである、ところが、これらの中で、芥川は、殊更に、『旧友へ送る手記』の中に、「どうかこの手紙は僕の死後にも何年かは公表せず措いてくれ給へ、」と書いているが、これは、『思わせ振〔ぶ〕り』で、実は、この原稿だけは、「死後にすぐに公表」される事を予期していたのである。(こういう所にも芥川の仕組〔しくみ〕があるので、それは、芥川が、この手記風の手紙も、『或阿呆の一生』も、菊池に託さないで、融通のきく久米に、託している事だけでも、窺われるのである。)

[やぶちゃん注:芥川龍之介の遺書は、厳密に言うと(現在、作品に数えられている「或旧友へ送る手記」を除いて考える)、宇野が挙げている「小穴隆一」宛は昭和二(一九二七)年四月七日に「歯車」脱稿後、帝国ホテルで心中平松麻素子と心中未遂をした頃に書かれたものと推測される五枚から生前遺書で、外の実際の自死直近の遺書群とは区別する必要がある。その遺書群も「芥川夫人」宛一通(+断片二通)、「わが子等に」宛一通、「菊池 寛」宛一通、「竹内得二」宛(一通?)、「伯母のふき」宛(一通?)葛巻「義敏」宛(一通?)等、小穴宛生前遺書を含めると確実に総計七通を超える数の遺書があった。その内、紛失(焼却?)も含めて芥川文宛の複数(若しくは一通の一部)の一部、竹内得二宛・芥川フキ宛・葛巻義敏宛の四通から五通が未発表(恐らくは最早公開されないか、存在しない)である。この後、宇野は遺書の内容に触れていないが、私の渾身の電子テクスト「芥川龍之介遺書全6通 他 関連資料1通≪2008年に新たに見出されたる遺書原本やぶちゃん翻刻版 附やぶちゃん注≫」及び先行する旧全集版「芥川龍之介〔遺書〕(五通)」の私の注は是非お読み戴きたい。]

 

 さて、午後四時頃、久米は、佐佐木たちと一しょに、既に白木の台と晒木綿などの置いてある玄関をあがり、うすい掛け蒲団をかけてある既に仏〔ほとけ〕になつた旧友の枕元でしばらく目をつぶって黙禱し、それから、そこそこに、二階に、あがって行った。

 永眠した芥川の顔は、顎〔あご〕のへんに少〔すこ〕しばかり不精鬚〔ぶしょうひげ〕が生えていたが、平静で、清浄〔せいじょう〕で、冴え切って神神〔こうごう〕しく見えた。

 僕はこの原稿を発表する可否は勿論、発表する時や機関も君に一任したいと思つてゐる。

 君はこの原稿の中に出て来る大抵の人物を知つてゐるだらう。しかし僕は発表するとしても、インデキスをつけずにおいて貰ひたいと思つてゐる。

 僕は今最も不幸な幸福の中に暮らしてゐる。しかし不思議にも後悔してゐない。唯僕の如き悪夫、悪子、悪親をもつたものたちを如何にも気の毒に感じてゐる。ではさやうなら。僕はこの原稿の中では少くとも意識的〔やぶちゃん注:「意識的」には底本では傍点「ヽ」。〕には自己弁護をしなかつたつもりだ。

 最後に僕のこの原稿を特に君に托するのは君の恐らくは誰よりも僕を知つてゐると思ふからだ。(都会人と云ふ僕の皮を剥ぎさへすれば)どうかこの原稿の中に僕の阿呆さ加減を笑つてくれ給へ。

 これは、『或阿呆の一生』にそえた、久米正雄にあてた、手紙で、日づけは「昭和二年六月二十日」となっているから、『或阿呆の一生』を脱稿した月に、書いたものである。(実に『一糸〔し〕みだれず』という観があるではないか。)

 この手紙(『或旧友へ送る手記』)と『或阿呆の一生』の原稿を、久米は、二階の座敷(芥川の書斎であった部屋)で、籐椅子〔とういす〕に腰をかけていた時、芥川家の人から、わたされた。

 その頃は、小島政二郎、南部修太郎、野上豊一郎、野上弥生子、香取秀真、犬養 健、その他の人たちが、その応接間になっている座敷の中に続続とつめかけていた。

[やぶちゃん注:「犬養 健」(たける、明治二十九(一八九六)年~昭和三十五(一九六〇)年)は政治家・小説家。元首相犬養毅三男。法務大臣。長与善郎や武者小路実篤は義父の弟に当たり、彼等の影響下、白樺派の作家としてデビュー、大正十二(一九二三)年、処女作品集『一つの時代』を刊行、精緻な心理描写と繊細な感性が評価され、後に政治家に転身してからも文士の知友が多かった。昭和二十七(一九五二)年に吉田茂首相の抜擢で法務大臣に就任したが、造船疑獄における自由党幹事長佐藤栄作の収賄容疑での逮捕許諾請求を含めた強制捜査に対して重要法案審議中を理由に指揮権を発動、逮捕の無期限延期と任意捜査へと強引に切り替えさせて不評を買った。指揮権発動の翌日には法務大臣を辞任したが、この指揮権発動によって事実上の政治生命は絶たれ、この指揮権発動を理由として日本ペンクラブは彼の加入を拒否している(以上はウィキ犬養健」を参照した)。]

 久米は、ずっと後に、『或阿呆の一生』の原稿を「もう少し早くわたしてくれたら、死因などもすっきりして、別にいろいろ云われずにすんだと思うのだが、ごたごたがあってから渡されたものだから、……」と、こぼしたが、その時は、『或旧友へ送る手記』を発表すべきかどうか、というような問題などが出て、それがやっと決定する、というような状態であった。

 さて、やっと菊池がついたのは、長い夏の白が暮れて、もう暗〔くら〕くなった頃であった。菊池は、遺骸の前に、長い間、だまって、うつむいて、坐っていた、が、急に立ち上がって、小走りにあるき出し、二階にあがると、皆に目もくれず、噎〔むせ〕び泣きながら、廊下の隅の籐椅子の方へ、すごすごと、あるいて行った。

 菊池が着く少し前から、いろいろな新聞の記者が、おしよせて来て、これと思う人に、面会をもとめた。しかし、みな、「九時に、『竹むら』[前に書いた、六月十日頃の夜、私が高野と、芥川をたずねて行った家か]で、すべて、発表するから、」と云って、断った。

[やぶちゃん注:「竹むら」は芥川邸の近くにあった貸席。宇野の推測は恐らく誤りである。]

 

 さて、菊池が来〔く〕ると間〔ま〕もなく、軽井沢から、室生犀星が、駈けつけた。つづいて、斎藤茂吉、土屋文明、山本有三、その他も、やって来た。それから、どこからか聞き知って来〔く〕るのも可也〔かなり〕あった。又、悔みに来た人の中には、その頃めずらしかったラジオのニュウス放送で知ったと云うのもあった。

[やぶちゃん注:日本初のラジオ放送は、先立つ二年前の大正十四(一九二五)年三月二十二日に仮放送、本放送は同年七月二十一日に開始されたばかりであった。なお、このラジオの一件の記載は小穴隆一の「二つの絵」の「芥川の死」の末尾の記載に拠るものと考えてよい。
喪主は満七歳の長男芥川比呂志が務めた。通夜の様子は『納棺は今暁四時ふみ子夫人外二三の家族ばかりでしめやかに済ませ棺を玄関突き当りの八畳間に移し、すべて仏式でねんごろなる通夜をした』とあり、位牌の戒名(後の墓碑も)は故人の遺志によって俗名のまま、白木に「芥川龍之介之靈位」とあったとする(昭和二(一九二七)年七月二十六日及び二十七日附『東京日日新聞』の記事を引いた翰林書房「芥川龍之介新辞典」の池内輝雄氏の「葬儀」の項より孫引き。「霊」のみ正字に改めた)。『棺のうへの写真には、頬杖に倚つて前面を凝視したものを選んである。守刀がこれに添えられてある。此処には満室の花輪の香と香水の匂が強い。花の香に酔ふもののあるくらゐに強い』(昭和二(一九二七)年九月号『改造』所収の犬養健「通夜の記」より。前記の池内輝雄氏の「葬儀」の項より孫引き)。]

宇野浩二 芥川龍之介 二十三~(10)

 さて、これから書こうとする事は、芥川が死んでからの『伝説』である。

 十返舎一九が死んで、遺骸を茶毘に附すると、数道の星光が棺の中から逬〔ほとばし〕った。これは、一九が遺言して、会葬者を驚かせるために、棺の中に花火を仕掛けておく事を花火師に頼んであったからである。(ところが、この話は嘘で、これに似た話が一九の作品の中〔なか〕にあるのである。)

[やぶちゃん注:十返舎一九の荼毘花火の逸話は、出所データが不明ながら、宇野の言うような一九の作品中にあるのではなく、同時代人であった落語家初代林家正蔵(安永十・天明元(一七八一)年~天保十三(一八四二)年)のエピソードとしても知られており、実際には一九の逸話として伝えたのも正蔵であったというのが事実であるらしい。とすれば、実際には一九はやっておらず、正蔵がそうした都市伝説を高座で語り、実際に自分の葬儀でやった、というのが正しいのであろうか。識者の御教授を乞うものである。]

『伝説』とは大体こういうものであるから、私がこれから書こうと思う芥川の死後の伝説も、この一九の伝説と似たり寄ったりの物〔もの〕にちがいないから、その事を前以〔もっ〕てお断りしておく。――

 芥川が自殺しそうな心配がある、と思って、芥川の内〔うち〕の人たちは警戒していたが、殊に文子夫人は鵠沼にいる時分から夜となく昼となく警戒していた。ところが、芥川はその事を十分に知っていた。さて、七月二十四日の午前六時すこし前に、文子夫人は、芥川の寝顔が不断とちがう事を、発見した。そこで、すぐ呼ばれた下島が、さっそく飛んで来て、聴診器を耳にはさんで、「蓬頭蒼顔の唯ならぬ貌」をしている芥川の寝間著〔ねまき〕の襟をかきあけると、左の懐〔ふところ〕から西洋封筒入りの手紙がはねて出た。それを、左脇にいた夫人が、はッと叫んで、手に取った。それは遺書であった。

 やがて、下島が、「もう全〔まったく〕く絶望である、」と知って、近親その他の人びとに通知を出した頃は、午前七時を少〔すこ〕し過ぎていた。(その時分に、下島は、芥川の伯母から、「これは昨夜〔ゆうべ〕龍之介から、明日〔あした〕の朝になったら、先生にお渡〔わた〕ししてくれと頼まれました、」と云って、紙につつんだ物を、わたされた、それが例の『水涕や……』の句を書いた短冊である。)

 さて、下島は、手続きをするのにも菊池に来てもらわねばならぬ事情があるので、文藝春秋社に電話をかけさせた。そこへ、小穴がやって来た。小穴は、下島から芥川の死んだ事を聞くと、何ともいえぬ悲痛な顔をした、が、すぐ、芥川の最後の面影を写すために、縁の近くの程よい所に画架を据えた。(小穴がその木炭でその下図〔したず〕をかいていると、その画架のまわりをうろついていた長男の比呂志が、突然、心配そうに、小穴の画布をのぞいて、「絵の具、つけるの、つけないの、」と、小穴に、云った、それで、小穴が「あとで、」と答えると、比呂志は、安心したような顔をして行ってしまったが、間〔ま〕もなく、帳面とクレオンを持って、出て来たが、帳面とクレオンを持ったまま、しずかに眠っている父の枕元に、ぼんやり立っていた、という話が残っている。その時、比呂志は、かぞえ年〔どし〕、八歳であった。)

 さて、前の晩の二時頃に、芥川が、睡眠剤を飲んで、寝た、として、今朝〔けさ〕の六時すこし前に、文子夫人が、寝ている芥川が異常であるのを、知った、――と、三時、四時、五時、六時、と四時間である、「これは、」と不審に思った下島は、斎藤茂吉の睡眠剤や薬屋から取って来た薬の包み紙や日数などを、計算してみた。すると、ますます腑におちない。「そこで、奥さんや義敏君[註―芥川の姉の子、葛巻義敏]に心当〔こころあた〕りを聞いてみると、二階の机の上が怪しさうだ。すぐ上〔あが〕つて検〔しら〕べてみて、初めてその真因を摑むことが出来たのであつた、」と、下島は、書いている。

(芥川は、睡眠剤で死ねる、とは思っていなかったので、ほかの『クスリ』を用意していたのである。)

[やぶちゃん注:この下島の文章は昭和二(一九二七)年九月一日発行の『文藝春秋・芥川龍之介追悼号』に載った「芥川龍之介氏終焉の前後」からの引用である。山崎光夫氏の「藪の中の家」によれば、昭和二年八月五日の執筆年月日がクレジットされている。但し、下島はこの後にその『真因』を語っていないのである。宇野は芥川龍之介の死後、小峰病院を退院後に、以下に見るように、誰かからの伝聞によって、「ほかの『クスリ』」であるという情報を得たのであろうが(山崎氏は小島政二郎と推定しているが、私は微妙に留保したい。山崎氏が根拠として昭和三十五(一九六〇)年十二月号『小説新潮』に掲載された「芥川龍之介」の『実際、死後の彼の書斎には青酸加里が一ト罎〔びん〕あった』を挙げておられるのだが、寧ろこの部分は、その前に書かれた本宇野浩二作の「芥川龍之介」のここの叙述を下敷きにしていると考える方が自然な気がするからである)、宇野の言を俟つ前に、山崎氏が不審(というより確信)を抱くのは、下島自身が記した行動と、その文脈の最後に現れる『真因』という語の重みである。確かなことは宇野も後述するように、これはド素人であっても芥川が自死に用いた薬物が、実は現在でも公式に記されているところの睡眠剤ベロナールとジャールでは――ない――確実に死を迎えることの出来る必殺の毒物で――ある――にという、自死の『真因を摑むことが出来た』という意味でしか、読めないということである。]

 最後に僕の工夫〔くふう〕したのは家族たちに気づかれないやうに巧みに自殺することである。これは数箇月準備した後、兎に角或自信に到達した。   『或る旧友へ送る手記』の内

……彼女は何〔なに〕ごともなかつたやうに時々〔ときどき〕彼と話したりした。のみならず彼に彼女の持つてゐた青酸加里を一罎渡〔ひとびんわた〕し、「これさへあればお互に力強いでせう」とも言つたりした。   『或阿呆の一生』の中の『死』の内

 今度こそほんとに青酸加里を手に入れたよ。一寸〔ちよつと〕、君〔きみ〕、と言つて薬屋に這入つて行つた彼を神明町の入口〔いりくち〕の角〔かど〕で其の日見た。目薬の罎よりも小さい空罎〔あきびん〕を買つて、透かしてみながら、やつとこれで入物〔いれもの〕ができたよと嬉しさうにみえてゐた。   小穴隆一の『二つの絵』の内

[やぶちゃん注:私は特に小穴の記載に着目する。それは、この証言が真実を語っているとすれば、芥川は青酸カリを裸の粉末状態で一定量入手したという事実を指しているからである。則ち、芥川龍之介が入手した際、それが入っていた容器ごと入手は出来なかったことを意味する。また、余裕のある状態なら事前に壜を用意してそれを入れるだろうから、それを入手するシチュエーションが、比較的場当たり的な状況であるか、稀なチャンスであった、だから紙包とか封筒とか家庭内にあるピル・ケースのようなものに入れざるを得なかったのではないかと私は考えるのである。なお、青酸カリは、潮解により空気中の二酸化炭素と反応して猛毒のシアン化水素(青酸ガス)を放出しながら炭酸カリウムに変化してしまう(保管するだけでも家内の者にも危険が及ぶ可能性が生ずるし、長期にわたって開放的に放置すれば毒性は容易に失われてしまう)。特に日光に当たる状態では反応が進み易いため、空気に触れず、日光に当たらないよう、飴色の密閉したガラス瓶に保管するのが普通である。]

 右の三つの文章はみな一種の作品であるけれど、下島が「初めてその真因を摑むことが出来た」と書いているのは「(つまり、下島が芥川の机の上に見つけたのは、)『青酸加里』(つまり『シャン化カリウム』⦅Cyan Kalium⦆である。いうまでもなく、この薬は、猛毒薬であるから、下島は、その『真因』を公表しなかったのであろう。

 さて、下島が文藝春秋社にかけさせた電話によれば、菊池は、雑誌「婦女界」の講演のために、水戸から宇都宮の方へまわった、と云う。それで、下島は、近親の人たちと相談して、法律の手続きを取ることにした。

 やがて、警察官が来て、検案や調査をはじめた。方方に電報を打って通知した。そのうちに、鎌倉から、久米正雄と佐佐木茂索と菅 忠雄が駈けつけた。それが午後四時頃であった。夏の日はまだ高かった。

[やぶちゃん注:ここで多くの読者は、もし、山崎氏や私が考えるように青酸カリによる自死であったなら、何故、それが司法解剖(変死体で犯罪の結果の致死の可能性が疑われる場合の死因究明のための剖検)なり行政解剖(死因の判明しない犯罪性のない異状死体への死因究明のための剖検)なりが警察の検死によってなされなかったのかを疑問視されるであろう。それは下島医師が死亡診断書を書くに当たって、警察当局に、睡眠剤の「劇薬『ベロナール』と『ジャール』等を多量に服用」(昭和二年七月二十五日附『東京日日新聞』)したことによる「急性心不全」(山崎氏の「藪の中の家」での死因推定)であることを語り、当時の通報を受けて芥川家を訪れた担当警部補二人が、その下島の医師証言や家族の希望などを勘案して、解剖の必要を認めないと判断したからであると考えてよい。推理小説好きの方は、それでも当時であっても、もし青酸カリの自殺だったら、それは入手経路が問題にされるはずだ、と言われるであろう。下島から、もしかするとこの時の警部補らもそれが青酸カリ自殺であることを知らされていたのかも知れない(山崎氏は真相を下島は警部補らに話していたと考えておられるようである)。しかし、この時の芥川の身内・下島・警部補らは――そしてその直後に真相を知った周辺の人々も――『真相を包みこむ文学的処理は龍之介の名誉を守る』『芥川龍之介の場合、文学こそ真実だ』――という考えで一致した、と記しておられる。私も山崎氏の推論を支持するものである。読者の中のホームズ氏は――それでも尚且つ、入手先は? と食い下がるであろう。そこは山崎氏の名推理を「藪の中の家」で堪能されたいのである。……ヒントは……龍之介の辞世の句の……「鼻の先だ」け……である……♪ふふふ♪]

(ここで、書き忘れたことを述べる。――文子夫人に宛てた遺書の中に、「絶命後は小穴君に知らせよ、」という文句があったので、さっそく小穴の所へ葛巻が走ったので、小穴が一ばん早く来た。つぎに、近くの日暮里諏訪神社前に住んでいた、久保田万太郎が飛んで来た。)
[やぶちゃん注:言わずもがなであるが、ここらから後は、総て宇野の実体験に基づくものではなく、総て伝聞である。宇野自身は精神病院で『死ぬか生きるかの瀬戸際』(水上勉による底本の解説)にいたのである。宇野の叙述は会葬場の配置にまで及び、驚くべき精緻を凝らすのを不審に思われる読者も居ようが、これは小穴隆一の「二つの絵」の一四一頁に載せる精密巧緻な芥川龍之介の会葬場見取り図に拠るものである。その証拠は、後文で中野重治出席の誤りが中野自身によって指摘されたとあるが、小穴のそれには、はっきりと「記録係」の位置の左端に「中野重治」と記されていることから明白である。]

宇野浩二 芥川龍之介 二十三~(9)

 七月の初めに、私は、芥川に、斎藤茂吉を紹介してもらい、斎藤茂吉の世話で、滝野川のナニガシ病院に、入院した。

[やぶちゃん注:「七月初め」前掲の通り、現在の知見では宇野の入院は六月上旬である。

「滝野川のナニガシ病院」は王子の小峰病院のこと。現在の東京都北区滝野川北端は明治通りと本郷通りを境界に王子と接する。]

 私のはいった病室は六畳ぐらいで、両側が壁で、南側の一間半は、全体が窓で、四枚のガラス戸〔ど〕がはまっていて、中〔なか〕の二枚が観音開〔かんのんびら〕きになっていた。そうして、三尺ぐらいの幅の寝台が、窓にむかって右側の壁の際に、据えてあった。

 私が入院した七月の初め頃はまだそれ程ではなかったが、十日頃からしだいに温度が高くなり、中頃には華氏の九十度をしばしば越えるようになり、二十日頃〔はつかごろ〕には九十二三度ぐらいになった。

[やぶちゃん注:「華氏の九十度」は摂氏三二・二度、華氏「九十二三度」は摂氏三三・三から三三・九度。]

 二十日の夕方であったか、妻が、たずねて来て、その日の昼すぎに、「芥川さんが、お見えになりまして、僕は、旅の支度で忙しいので、病院までお見まいに行けないから、と、おっしゃいまして、これを持って来てくださいました、」と云って、その頃めずらしかったタオル地の寝間著〔ねまき〕と菓子箱を、風呂敷づつみの中から、取り出した。それから、芥川が、私の入院料の事から、内〔うち〕の暮らしの費用の心配までしてくれた事、「それから、宇野が、退院してから、困るような事があったら、文藝春秋社に行ったら、都合するように、菊池にたのんでありますから、と、芥川さんは、御深切に、云ってくださいました、」というような事を話してから、妻は、急に妙な顔をして、わざとらしく声をひそめて、「芥川さん、今日〔きょう〕は、めずらしく、妙に、そわそわしていらっしゃいました、」と云った。

[やぶちゃん注:「僕は、旅の支度で忙しいので」芥川龍之介の、この宇野の妻(八重)への伝言が真実だとすれば……これはドリュ・ラ・ロシェル&ルイマルの「鬼火」のアランの、正にあの台詞――「だけどもうすぐ出立〔たびだち〕だ……旅に出る……出発が送れてるんだ……気がつかなかったかい?』――ではないか! 宇野にして正に「恐ろしい」「不気味な」言葉であったはずであるが……宇野はそれを語っていない……

以下、二つの後記は底本では全体が一字下げ。]

 

 (後記――これも、後に述べてある、芥川が世を捨てる前にいろいろな『伝説』が流布したが、その中の一つに、芥川は、死ぬ覚悟をしてからは、大へん深切にした人たちと、その反対に、わざとらしい嫌〔いや〕がらせを云って閉口させた人たちと、――二〔ふ〕た通〔とお〕りある、という『伝説』である。そうして、その後者の例として、佐多いね子(その頃は窪川いね子)が、死ぬ数日前にたずねた時、芥川が「君は心中しそくなった時にどういう気持がしたか、」と云った、というのである。この話は、いくらか『伝説』ずきの私でも、信用しない。が、おなじ窪川いね子の処女作といわれる『レストラン洛陽』を「文藝春秋」に紹介したのは芥川である、という話もある。又、窪川鶴次郎に、おなじ頃、芥川が、ほんの少しの(志だけの)経済的な援助を一度したことがある、という話もある。但し、窪川や、その友人の中野重治や堀 辰雄などが、芥川を知ったのは、室生犀星を中心として出した、主として詩の雑誌「緒馬」の同人であったからであろう。)

[やぶちゃん注:窪川いね子(佐田稲子)が、この頃に偶然、近所に住んでいることを知り、堀辰雄を通して面会を申し入れていたのが、七月二十一日、夫の窪川と共に芥川龍之介を来訪、七年振りの再会を果たしたが、その際、芥川は自殺未遂の経験のある稲子に詳細を訊ねたのは事実であり、伝説ではない。また、稲子は非常に困惑し、薄気味悪く感じたことは事実であるが、それは『わざとらしい嫌がらせ』ではない。芥川は稲子には終始、好感を持っていた(彼女とは男女の関係にはなかった。が、しかし、窪川と彼女の関係を知って漠然とした嫉妬心を芥川が持った可能性はあり、それを強いて『わざとらしい嫌がらせ』の可能性があると言おうなら、言えぬとは言えないが)。それは、まさに自死の三日前のことであった。]

 

 (後記-それから、これは、誠に通俗的な『伝説』であるが、私のうろおぼえの記憶であるが、芥川が死んでからは、いろいろな『伝説』が新聞や週刊雑誌に出たが、その一つに、芥川家の女中のナニガシの話として、芥川は、伯母のところに紙につつんだ短冊をわたして、自分の部屋に帰る途中で、廊下、から名品の花瓶を庭にむかって投げつけた、というのが「ソレガシ」(週刊雑誌)に出た。それを読んだ菊池 寛が、「そんなら、芥川は、もっと三つも四つも花瓶を投げつけたら、死なずにすんだかもしれない、」と云った、誠しやかな、話も流布された。その他、これに似た『伝説』は私が聞いたり読んだりしたものでも十以上あるから、かかる伝説は数しれずあるにちがいない。)

[やぶちゃん注:これは、自死の四日前の七月二十日、伯母フキと諍いを起こして、フキが泣き出したために一度は宥めたものの、芥川自身の気持が収まらず、床の間にあった花瓶を庭石に投げつけた(宮坂年譜に昭和二年八月十四日「週刊朝日」の森梅子「芥川氏の死の前後」に基づく)という記事が誤って伝えられたもの(若しくは誤って宇野が伝え聞いたもの)であろう。]

 

 その翌日であったか、二人の看護人が、廊下を掃除しながら、「昨日は九十三度だつたそうだが、新聞を見ると、この暑さはつづくそうだが、やりきれないね。」「いや、もっと暑くなるそうだよ、それに、もう一と月以上も、雨が降らないからね、」というような話をしていた。

 ところが、その雨が、一と月と何日かぶりで、七月二十三日の夜中から、(正しく云えば、七月二十四日の午前二時頃から、)降り出した。

 七月二十三日は、九十五六度の暑さが夕方までつづき、八時を過ぎて、窓の外が暗くなってからも、まだ蒸し暑かった。それで、窓を細目〔ほそめ〕にあけて、十時頃に寝た私は、夜中に、窓の外〔そと〕に、雨の降る音を、うつつに、聞いたが、窓をしめて、すぐ又、眠ってしまった。

[やぶちゃん注:金子大輔気象から考え河童忌などによれば、気象庁天気相談所の公式なデータとして同年七月二十三日の最高気温は摂氏三五・六度、不快指数八九の猛暑日であったが、七月二十四日は最低気温二〇・七度、最高気温二六・八度という涼しさになっていたことと、暗い雲に覆われて雨が降りしきり、一四・二ミリの降水を観測していた、とある。そして金子氏は『寒冷前線が近づくと喘息の発作が起きやすい、うつ病が悪化する方が多いと話す人もいる。寒冷前線は、急激な気温低下・天候悪化などをもたらし、体にとって大きなストレスになる』として、当日の天候が芥川龍之介の自殺決行を促す一因子であった可能性を示唆されて興味深い。宇野が降雨の時間を記憶しているのも印象深いが、当時の宇野の病態を考えると、これは残念ながら、後の吉田精一の評論等に所載するデータを、自分のオリジナルな疑似記憶として取り込んでいる可能性が、残念ながら高い気がする。]

 芥川は、その雨の降り出した頃、死ぬクスリを飲んで、永久の眠りにつく床についた。それは七月二十四日の午前二時頃であった。そうして、その三十分ほど前に、(つまり、午前一時半頃に、)芥川は、伯母[註―養父道章の妹であり、実母ふくの姉である、芥川ふき]の寝ている枕元に来て、紙に包んだ短冊をわたしながら、「これを、明日〔あした〕の朝、下島さんに渡〔わた〕してください、先生が来た時、僕はまだ寝ているかもしれませんが、寝ていたら僕を起こさずにおいて、まだ寝ているからと云って、わたして下さい、」と云った。そうして、その短冊には、『自嘲 水涕や鼻の先〔さき〕だけ暮れ残る』と書いてあった。

[やぶちゃん注:「永久の眠りにつく床についた。それは七月二十四日の午前二時頃であった」とあるが、現在の年譜的知見では、この時刻に二階の書斎から階下に降り、文と三人の子の眠る部屋で床に就いたが、既にこの時、薬物を飲用していたとされる。「その三十分ほど前に、(つまり、午前一時半頃に、)芥川は……」は、現在では午前一時頃とされており、宇野の謂いはより細かいが、これは寧ろ宇野独自の情報ではなく、彼の推測(午前二時の雨の振り出し、同時刻の自殺決行という時系列から宇野が割り出した推測に過ぎないものと思われる。

以下、後記は底本では全体が一字下げ。]

(後記――この『水涕や鼻の先だけ暮れ残る』という句は、この時分に作られたものではなく、大正十二年の一月頃に作られたものである。おなじ「自嘲」という題で、おなじ頃、『元日や手を洗ひをる夕ごころ』という句がある。)

 これは芥川の死ぬ前の晩から夜中へかけての『伝説』である。(『伝説』とは、英語でいう“Tradition”とすれば、「口碑または文書によって伝えられた過去の事実、あるいは、事実と信じられた事件の伝承」という程の意味である。)

[やぶちゃん注:私は「伝説」というと、“legacy”を思い浮かべるが、因みにその違いを調べてみると、“legacy”は個人から個人へ受け渡されるもの、“tradition”は民族・結社・宗派といった集団から集団に受け渡されるものであるらしい。――なるほど――これは芥川龍之介の「遺産」とは何かを考える時、面白い違いである気がした――。]

 さて、こういう芥川の伝説は、寡聞な私の知っている限りでは、芥川の無二の親友であった小穴隆一の『二つの絵』の中に、もっとも多く出てくる。

 そこで、芥川のいろいろな伝説を作った人を、仮りに小穴その他とすれば、小穴その他は唯『伝説』を書いただけであって、その伝説を仕組〔しく〕んだのは芥川である。芥川が、東西古今のさまざまの伝説を『種』にして、いろいろな小説を作〔つく〕った事は、私が前にくどいほど述べ、多くの人が知っているとおりである。芥川は、創造したり空想したりする才能は、乏しかったようであるが、物事を仕組むことは実に巧みであった。

 ところで、芥川は、前にも述べたように、晩年になってからは、健康が弱るとともに、創作力もしだいに衰え、しまいには書くものが断片的になり、題材は幾らかちがっても、同じようなものばかり書いているような観があった。しかし、どの作品にも、何ともいえぬ哀調があり、底に切〔せつ〕ない悲しみが潜〔ひそ〕んでいる。そうして、芥川は、書く事を、死ぬ薬を飲む数時間前まで、つづけたのである。(後記――校正ずりを読みながら、ここのところを読んだ時、私は、芥川は実に『異常な人』であった、と、しみじみと思うのである。それは、この文章のなかで既に述べたように、芥川は、死ぬ前の年〔とし〕あたりから、強度の神経衰弱が高〔こう〕じて神経病者になっていた。そのほんの一つの例をあげれば、『歯車』のしまいの方の「何ものかの僕を狙つてゐることは一足毎に僕を不安にし出した。そこへ半透明な歯車も一つづつ僕の視野を遮り出した。……」という文句だけでも察せられるような状態であった。それにもかかわらず、芥川が、自殺をくわだてる一二時間ほど前まで、『続西方の人』の(22)『貧しい人たちに』を、少しも乱れない文章で書きつづけた、ということに、私は、文字どおり、驚歎し、実に『異常な人』であった、と感歎するのである。)

「わが父よ、若〔も〕し出来るものならば、この杯〔さかづき〕をわたしからお離し下〔くだ〕さい。けれども仕〔し〕かたはないと仰有〔おつしや〕るならば、どうか御心〔みこころ〕のままになすつて下〔くだ〕さい。」

 あらゆるクリストは人気〔ひとげ〕のない夜中〔よなか〕に必ずかう祈つてゐる。同時に又あらゆるクリストの弟子たちは「いたく憂〔うれ〕へて死ぬばかり」な彼の心もちを理解せずに橄欖の下に眠つてゐる。

 これは『西方の人』の中の(28)「イエルサレム」の最後の一節である。(後記――口さがない人たちは、⦅あるいは、根も葉もないことを喋る連中は、⦆さきに引いた、『西方の人』の(28)のなかの、「あらゆるクリストは人気のない夜中に必ずかう祈つてゐる。同時に又あらゆるクリストの弟子たちは『いたく憂へて死ぬばかり』な彼の心もちを理解せず……」という文句のなかの『弟子たち』は芥川の『弟子たち』を差すのであろう、と云う。しかし、私は、この言葉は信じたくないのである。)

[やぶちゃん注:「弟子たち」宇野は例えば龍門の四天王と呼ばれた連中や、その他の芥川に師事した若い作家志望の『若者』をイメージしていると考えてよい。則ち、当然の宇野は勿論、芥川の盟友であり、『弟子』ではない。ではないが、芥川龍之介が西方人」西方人」で自らをキリストに擬えた時、彼は年若の後の小説家や小説家志望の若者らだけを『弟子』と認識していたのでは、無論、ない。寧ろ、彼に敵対し、彼を正しく理解出来ない、彼よりも先に自らを預言者(作家)であると自認していた者達をこそ、真の教え(芸術世界)へと導くべき『弟子』と認識していたはずである。宇野には承服出来ないであろうが――それは、宇野が芥川を、いや、寧ろ、他の小説家や大衆が芥川龍之介という稀有にして孤高の小説家を、正しく見なかった、芥川と自分との間の『一歩』の違いを理解し得なかった、と芥川龍之介自身は感じていたのである(『天才とは僅かに我我と一歩を隔てたもののことである。只この一歩を理解する爲には百里の半ばを九十九里とする超數學を知らなければならぬ』。「侏儒の言葉」の「天才」)。芥川龍之介は、ある意味で(少なくともその生前に於いて)芸術家としては絶対の孤高者として、絶対の孤独の中で、軍靴の音が響き始める大日本帝国の幻影の城を見上げる曠野に立ち竦まざるを得なかった。しかしにも拘らず彼は、惨めな「失敗であった」自身の一個の生と死が、無数の彼を遺伝する未来人として復活することを予言して(『わたしは勿論失敗だつた。が、わたしを造り出したものは必ず又誰かを作り出すであらう。一本の木の枯れることは極めて區々たる問題に過ぎない。無數の種子を宿してゐる、大きい地面が存在する限りは。』(「侏儒の言葉」掉尾「民衆」)、自らを架刑したのである(リンク先は私の電子テクスト「正續完全版「西方の人」)。]

『西方の人』も、『続西方の人』も、芥川の死後、「遺稿」として、雑誌[註―「改造」の八月号と九月号]に出た。

 前者は七月十日に脱稿し、後者は七月二十三日に書き上げた。つまり、芥川は、『続西方の人』の最後の章(22)「貧しい人たちに」を書いた日の翌日の未明に、死んでしまったのである。

[やぶちゃん注:テクストから、最終章「貧しい人たちに」を引用しておく。

 

      22 貧しい人たちに

 

 クリストのジヤアナリズムは貧しい人たちや奴隷を慰めることになつた。それは勿論天國などに行かうと思はない貴族や金持ちに都合の善かつた爲もあるであらう。しかし彼の天才は彼等を動かさずにはゐなかつたのである。いや、彼等ばかりではない。我々も彼のジヤアナリズムの中に何か美しいものを見出してゐる。何度叩いても開かれない門のあることは我々も亦知らないわけではない。狹い門からはひることもやはり我々には必しも幸福ではないことを示してゐる。しかし彼のジヤアナリズムはいつも無花果〔いちじく〕のやうに甘みを持つてゐる。彼は實にイスラエルの民〔たみ〕の生〔う〕んだ、古今に珍らしいジヤアナリストだつた。同時に又我々人間の生んだ、古今に珍らしい天才だつた。「豫言者」は彼以後には流行してゐない。しかし彼の一生はいつも我々を動かすであらう。彼は十字架にかかる爲に、――ジヤアナリズム至上主義を推し立てる爲にあらゆるものを犧牲にした。ゲエテは婉曲にクリストに對する彼の輕蔑を示してゐる。丁度後代のクリストたちの多少はゲエテを嫉妬してゐるやうに。――我々はエマヲの旅びとたちのやうに我々の心を燃え上らせるクリストを求めずにはゐられないのであらう。]

2012/05/08

宇野浩二 芥川龍之介 二十三~(8)

 芥川が、一世一代の作品、『或阿呆の一生』を書き上〔あ〕げたのは、六月二十日〔はつか〕らしいが、『或阿呆の一生』を、何〔なん〕月何日頃から、書きはじめたかは、よく分〔わ〕からない、が、五月の終り頃か六月の初め頃ではないか、と思う。

 

『或阿呆の一生』は、五十一章になっているが、章が変〔かわ〕るごとに、原稿用紙が改めてあるそうであるから、思いつくままに、工夫〔くふう〕に工夫〔くふう〕を凝らし、文章を練〔ね〕りに練〔ね〕って、丹念に、書いたものにちがいない。(そのために、迫力の欠けているところも随分ある。)

[やぶちゃん注:「或阿呆の一生」は松屋製ブルー二百字詰原稿用紙に書かれている。タイトルの「或阿呆の一生」は、写真版原稿によって最初、「彼の夢――自伝的エスキス――」とされ、次に「神話〔しんわ〕」というルビ付き標題となり(この時点で副題の「自伝的エスキス」がどうなったかは不明)、最後に「或阿呆の一生」となったことが分かっている。葛巻義敏は「芥川龍之介未定稿集」で本作は二度以上書き直しているのではないかという推定を示しており(宇野と同意見)、「芥川龍之介新辞典」の関口安義氏の本文脚注では、本作は久米正雄が本作の『改造』誌上への発表に際して『「脱字乃至誤字と目されるべきもの」がかなりあると言及してい』ることから、『十分に練られた作品ではな』く、『不眠症にとらわれていた芥川には、もはや作品を十分に推敲するゆとりはなかったのである』と断じている。私は――私は本作は、寧ろ十分に練られたものだと思う。――しかし、その練り方は整序する方向へではなく、芥川龍之介という謎に満ちた『神話』を創造するための、時空間を自在に行き来するような驚天動地の『練り方』であったと考えている。「或阿呆の一生」は恐らく、永遠に解けぬように創られた推理小説である。]

 ところで、『或阿呆の一生』は、「自伝的エスキス」と云われているが、そういうところもあるけれど、全体から見て、『或阿呆(あるいは、或人間)の一生』という感じが殆んどない、が、芥川の晩年の「心象風景」として見れば、随所に、いたく心を打たれるものがある。

 しかし、極言すれば、「いたく心を打たれる」のは、『或阿呆の一生』の最後の数章だけぐらいなもので、他の大部分は、芥川好〔ごの〕みの、逆説的な話を、機智のある話を、あるいは、アフォリズムを、気どった文章で、書いたものである。(そうして、その中には、さすがに気のきいた物もあるが、つまらないのもある。)

 あの遺稿[註―『或阿呆の一生』]に書いてある言葉は多く短い。しかし私はちひさなふし穴のやうなあの短い言葉の一〔ひと〕つ一〔ひと〕つを通しても、君[註―芥川のこと]が感Jた精神の寂寥を覗き見る心地がした。

これは、島崎藤村の『芥川龍之介君のこと』[註―昭和二年の十一月号の「文藝春秋」に出た]という文章の中の一節である。

 これもなかなか気どった文章である。しかし、気どり方はちがうが、おなじ気どっていても、藤村の方が意地がわるく、龍之介の方は、見え張〔は〕ってはいても、さっぱりしていて、潔いところがある。(この『芥川龍之介君のこと』は、芥川が死んでから出たのであるが、『或阿呆の一生』一章一章を「ちひさなふし穴のやうなあの短い言葉」などと書いてある、この文章を、仮りに芥川が生前に読んだとすれば、芥川は、あの青白い顔を真赤〔まっか〕にして、怒〔おこ〕ったにちがいない、私でさえ、あそこのところ読んだ時は、「この書き方〔かた〕はあんまりひど過ぎる、」と思った程であるから。)

[やぶちゃん注:以上の宇野の義憤は私と完全にシンクロする。島崎藤村「芥川龍之介君のこと」は私のブログに電子テクスト化し、注も附してあるが、これは永久にHPからのブログ・リンクである。それはこの忌まわしい文章を、芥川龍之介を愛する私として、HPの芥川龍之介と対等な頁とすることを、私が許さないからである。]

 彼は「或阿呆の一生」を書き上げた後、偶然或〔ある〕古道屋の店に剥製の白鳥のあるのを見つそれは頸を挙げて立つてゐたものの、黄ばんだ羽根さへ虫に食はれてゐた。彼は彼の一生を思ひ、涙や冷笑のこみ上げるのを感じた。彼の前にあるものは唯発狂か自殺かだけだつた。彼は日の暮〔くれ〕の往来をたつた一人歩〔ある〕きながら、徐〔おもむ〕ろに彼を滅しに来る運命を待つことに決心した。

 これは、『或阿呆の一生』の最後の章にちかい、『剥製の白鳥』の一節である。

 芥川は、いよいよ自分でこの世(裟婆)を捨てる、という時まで、かがやいた芸術家であった、極度の神経衰弱にかかりながら、『死ぬ薬』を飲む時吾も、決して正気〔しょうき〕を失わなかった。

 されば、ここ書いた一節も、創作であるかもしれない、いや、創作であろう。しかし、創作、である、としても、この時すでに自殺を覚悟していた、とすれば、「彼は彼の、一生を思ひ、涙や冷笑のこみ上げるのを感じた」「日の暮の往来をたつた一人歩きながら、……」などというところは、文字どおり、悲痛である。

 ところで、この『剥製の白鳥』は、六月二十日〔はつか〕前後に、書いたものであろう。

 六月二十日、といえば、私は、日は忘れたが、六月の上旬に、芥川をたずねた。

[やぶちゃん注:以下の注で述べるが、この記憶は錯誤である可能性が高い。]

 

 六月上旬の或る日の夜の九時頃、上野桜木町の私の家をたずねて来た、高野敬録と一しょに、芥川を、訪問することになった、「中央公論」の編輯を、滝田樗陰の下で、長い間、していたのを、半分以上自分から進んで止〔や〕めた高野を、「文藝春秋」の編輯部に、世話してくれることを、芥川に、頼むためである。(その時分の「文藝春秋」は、『看板に偽〔いつわり〕なし』という諺〔ことわざ〕どおり、文芸雑誌であり、その頃、『文壇の檜舞台』と称せられた「中央公論」に、菊池に、はじめて、小説[註―『無名作家の日記』]を、たのみに行ったのは、高野であり、それ以来、芥川や菊池その他に、「中央公論」の原稿をたのみに行ったのは、殆んど皆、高野であったから、文藝春秋社に高野ははいれるであろう、と、こう、単純に、考えたからであった。それで、その時、高野は、文藝春秋社に、はいれなかったが。)

 さて、時間もおそく、その方〔ほう〕が便利であったから、桜木町の私の家から、田端の芥川の家まで、私たちは、人力車に、乗った。六月の晩としては珍しく初秋のような涼しい晩で、いや、肌寒い晩で、私は、車の上で、幾度か、単物〔ひとえもの〕の襟をかき合わせた。やがて、見なれた芥川の家の門の前に、車がついたので、玄関で声をかけると、めずらしく、夫人が出て来て、「すぐ近くにおりますから、呼んでまいりましょう、」と云った。が、私たちは、それは辞退して、「さしつかえのない所でしたら、おしえてくださいましたら……」と云って、芥川が原稿を書いているという、隠れ家の方へ、行くことにした。

 その家は、自笑軒[註―芥川の家(高台)の下の狭い町の中にあった。「天然自然軒」というのが本当の名で、茶料理専門も芥川のヒイキの家であったが、芥川の歿後、何十年、毎年、祥月命日(七月二十四日)の夜、友人たちが、芥川を思い出す『河童忌』をひらいたのも、この家である]の裏あたりの、静かな一軒家であった、(と思う。なにぶん、二十四五年前に、それも、夜、一度しか行った事がない所であるから、記憶はおぼろである、が、芥川の家の方から行って、自笑軒の前を通〔とお〕り、五六間〔けん〕ほど行ったところを右にまがり、曲〔まが〕ってからまた五六間ぐらい行った右側にあった、ように、覚えている。)

[やぶちゃん注:宇野のこの記憶には、私は錯誤があると踏んでいる。何故なら、現在の年譜的事実を並べて見た時、凡そこれから書かれるような――平常な状況下に宇野浩二自身がなかった――と考えられるからである。宮坂年譜などをもとにこの前後を見ると、

●五月中下旬か

精神に変調をきたし、母や内縁の妻八重、友人の画家永瀬義郎らに伴われて箱根に静養に行くも、途中の小田原の料理屋で突然薔薇の花を食べるような奇行があり、数日で帰京する。

●五月下旬

友人広津和郎・芥川龍之介・永瀬義郎らが、宇野発狂の報を受け、奔走する。

●六月二日

芥川龍之介の紹介で斎藤茂吉が宇野を診断する(同日診察後の宇野の同行は不明)。同夜十時頃、芥川は主治医で友人の下島勲を訪れ、宇野の病態を下島医師に説明している。

●六月上旬(二日から十一日前後)

斎藤茂吉の紹介によって、王子の小峰病院に嫌がる宇野浩二を半ば強制的に入院させる。以後の入院日数は七十日。

●六月十二日

午後、下島勲と宇野の症状などを談話。

●七月二十四日

芥川龍之介、自死(宇野は継続入院中)。

以上の経緯から、六月二十日には宇野は既に入院しており、芥川訪問などあり得ないのである。この錯誤記載の時期が宇野の発狂とシンクロしているのには、前にも少し書いたが、私は宇野の側の病跡学的な問題と大きな関係があると考えている。それはそれとして、宇野が先に引いた昭和二年一月三十日附宇野浩二宛芥川書簡に『高野さんがやめたのは気の毒だね。』の一言から、この宇野と高野の芥川龍之介訪問が事実あったとすれば(年譜上は確認されていないが、これは事実あったと考えてよい)、その上限は昭和二(一九二七)年二月から下限は同五月下旬の宇野が精神病の発作をする直前までである。しかし、五月は十三日から二十七日まで例の改造社の『現代日本文学全集』宣伝のための旅行に出ており、上記のように宇野の発作も起こっているから考えにくい。宇野が以下で、『六月の晩としては珍しく初秋のような涼しい晩で、いや、肌寒い晩で、私は、車の上で、幾度か、単物の襟をかき合わせた』と記す六月以外を信ずるならば、二、三月ではあり得ない。これは、四月下旬、いや、五月の上旬の記憶の錯誤ではあるまいか?

 更に付け加えるならば、芥川龍之介がこのような自宅近くに作業場を持っていたことも初耳である。宮坂年譜を見ると、六月の上旬の項に、『この頃、編集者や来客を避けるため、自笑軒の近くに家を借り、仕事場として利用していた』とはあるのだが、実はこれは、この宇野浩二「芥川龍之介」のここの記載にのみ拠ったもので、他にそのような事実を証明する事実はないようである。私は宇野のこの時期の記憶は、以上述べた通り、精神病発症の直後であるだけに信ずるに躊躇するのである。しかし、宇野のここでの道筋や家屋の描写は実にリアルである。逆に言えば、この作業場がこの時期にあったことが他のソースで立証されれば、私の宇野への疑惑は偏見であったことになる。情報があれば御教授願いたい。宇野のために。]

 背〔せ〕の低い枝折垣〔しおりがき〕があって、此方〔こちら〕から行くと、その枝折垣の手前の方に、柴折戸〔しおりど〕があった。そうして、その枝折垣の中に、五六坪の庭があって、その庭の向〔むこ〕うに、小ぢんまりした平屋建〔ひらやだ〕ての家が立っていた。そうして、その家の座敷のまん中〔なか〕の上〔うえ〕の方〔ほう〕に、明〔あか〕りが一〔ひと〕つ、ぽつりと、ついていた。それが妙に寂しべに見えた。

 私たちが、暗〔くら〕い狭〔せま〕い町町〔まちまち〕をたどって、その柴折戸の前に、立った時、これらの光景が、陰絵〔かげえ〕のように、見えたのであった。それとともに、その明〔あか〕りの下〔した〕に、二三人の人影が、影人形のように、あわただしく、動くのが、見えた、深閑〔しんかん〕とした町の中を、私たちがあるいて行った足音と、その 足音が柴折戸の前あたりに止〔と〕まった気〔け〕はいを、家の中にいた人たちが、覚〔さと〕ったのであろう。

「……客らしいね、」「うん、でも、……」と、云いながら、私たちは、暗い中で、顔を見あわして、ちょっと、ためらった。

 と、ふいに、玄関に、芥川の、立ちはだかるような恰好〔かっこう〕をした、影法師が、あらわれた。それを見つけた私は、思わず、はッと、声が出るほど、おどろいた、その影法師が、骸骨のように痩せ細って、見えたからである。

 しかし、それは、一瞬間で、私は、芥川の姿を見かけると、すぐ、「おおい、」と、向うまでとどくような声で、叫んだ。私は、自分の声のはずんでいるのが、自分で、わかった、うれしかったのである。芥川の方でも、私の声がすぐわかったらしく、「やあ、」と、元気のよい声で、答えた。

 ここで、思い出したが、(まちがっているかもしれないけれど、)その家は、玄関が二畳か三畳で、つぎの間〔ま〕が、あの表〔おもて〕の方から見えた座敷で、八畳ぐらいであったか、(と思う。)

 さて、先客は、二人であったか、私たちと入れ違いに、帰って行った。芥川は、客を送り出して、座敷に戻ってきて、私の方を見ると、いきなり、「君、困ったよ。……まあ、坐〔すわ〕りたまえ、」と云った、「今の人たちは、君が『婦人公論』に出した小説のことで、ゴタゴタがおこった、と云って、優に相談に来たんだよ。」

「……なに、『婦人公論』の小説って、」と、私は、ちょっと考えて、「ああ、そうか、『彼等のモダアン振り』というのか、」と聞いてみた。

「そうだよ、君、……彼等は、モダアンじゃないよ、だから、モダアンでない僕が、仲裁をたのまれて、因ってるんだ。」

 この小説は、たしか、その頃、井伏鱒二と、傾向は正反対であるが、『ナンセンス』文学の創始者と云われ、新進作家の雙璧と並〔なら〕び称せられた、中村正常と、私の注学校[大阪府立天王寺中学校]の国語の教師であり、旧派の歌人兼歌学者である、田中常憲の姪、女流文士志望者、伊牟田何子〔いむたなにこ〕と、――この両人の噂話を面白可笑〔おもしろおか〕しく作り上げた物であるが、どういう事を書いたか、きれいに忘れてしまった、殆んど悉く作り話であったからである。(唯、中村の最初の戯曲に、幕があくと、一人の青年が、仰向〔あおむ〕けに寝ながら、両足を壁に突っぱって新聞を読んでいる、というような場面があったのに感心し、次ぎに、「芸術復興」とかいう同人雑誌に出た、中村の小説の中に、恋い人にシュウクリイムを贈るのに、持って行くのが極〔き〕まりがわるかったのか、そんな事は趣きがないと思ったのか、シュウクリイムを、郵便配達人になって、「はい、小包、」と云って、とどける、というような場面があるのを、面白い事を書くもんだな、と思ったような記憶がある。それから、ついでに書くと、昭和五六年頃であったか、文藝春秋社から出していた「婦人サロン」という雑誌に、毎号、『ユマ吉ペソ子何とか』という連載読み物が出ていたが、その筆者が井伏鱒二と中村正常であり、たしか、ユマ吉が中村であり、ペソ子が井伏であった。いうまでもなく、『ユマ』とは『ユウモア』であり、『ペソ』とは『ペエソス』である。)

[やぶちゃん注:「彼等のモダアン振り」不詳。宇野の代表的作品一覧の中には見当たらない。宇野には登場人物に実際のモデルが多く、「大阪人間」(昭和二十六(一九五一)年)はモデルから告訴されて未完となっている。

「中村正常」(まさつね 明治三十四(一九〇一)年~昭和五十六(一九八一)年)は劇作家・小説家。岸田国士に師事し昭和四(一九二九)年に戯曲「マカロニ」で注目される。他に「ボア吉の求婚」「隕石の寝床」などのナンセンス・ユーモア作品を発表し新興芸術派の代表的作家となったが、後に文壇を離れた。女優中村メイコの父である(以上は講談社「日本人名大辞典」に拠った)。

「田中常憲」(つねのり 明治六(一八七三)年~昭和三十五(一九六〇)年)は歌人・教育者。鹿児島生。上京して落合直文に師事。二十三歳で小学校校長となり、長野・大阪・大分・福岡県・京都府福福知山から桃山の各中学校校長を歴任した。

「伊牟田何子」不詳。]

 さて、私が殊更このような事を書いたのは、私が芥川を訪問したのは、前に述べたように、昭和二年の六月十日頃であり、その六月十日頃には、芥川が、あの一世一代の『或阿呆の一生』を、この隠れ家で、一章ずつ、ぽつり、ぽつり、と書いていた時分である、そうして、私が、高野と、夜〔よる〕おそく、この隠れ家を、たずねた時、私たちより先きに芥川を訪問したのは、どうも、中村正常と伊牟田何子であるような気がするからである。

 しかし、私は、その時、芥川に、「君はそんなことを云うけど、君だって、ほんとは、『彼等』をモダアンだ、と思ってるんだろう、」と、云おう、と思ったのであるが、それは止めて、その時の訪問の目的である高野の勤め口の話をした。

 さて、その話がすんで、高野が帰って行き、二人〔ふたり〕きりになると、芥川は、「御馳走しようか、」と云った。「御馳走なら、何でもいいよ、」と私が云った。

 その『御馳走』というのは抹茶であった。

 今〔いま〕、思いがけなく、芥川が、茶を点じてくれるのは、私には、涙の出る程うれしい事であった、

 しかも、二人きりで。

 二人きりになると、二人は、やっと、寛〔くつろ〕ぎをおぼえた。が、ふと、茶を点じている芥川の手が、痩せて骨ばっているのに、目が止ったので、私が、思わず、「……君、ひどく、痩せたね、大事〔だいじ〕にしたまい、ね、」と云うと、芥川は、(芥川も、)私の顔を眺めながら、「君も、痩せたよ、養生したまい、ね、」と、同じような事を、しみじみした調子で、云った。

「……ここで、ずっと、書いてるの。」

「うん、書いてる、……しかし、先月は、書きなぐったので、つまらない物ばかりだ、……君、僕は、ね、書かなければならない。必要があって、書いたんだよ、……情ないよ。」(この時、芥川が、書きなぐつた、と云ったのは、『たね子の憂鬱』、『古千屋』、『冬』、『手紙』などで、これらの作品は、佐藤春夫が、「心にもない重たげな筆を義務を痛感しながら不機嫌さうに運んでゐる、」と説いているように、出来〔でき〕のよい物ではない。)

[やぶちゃん注:この証言が事実とすると、作品群から推すと一見、六月説が正しく見えるように叙述されてはいる。私の推測するように、五月説をとると、四月発表の作品には「三つのなぜ」「春の夜は」「誘惑」「浅草公園」「今昔物語鑑賞」といった、とても書きなぐったとは言えない、野心的な(若しくは「三つのなぜ」のように芥川にとって私的に深い意味のある)作品があるからである。]

「しかし、今夜〔こんや〕は、元気そうな顔をしているね、」と、そこで、私が、云うと、

「うん、」と云って、顔を上げた芥川は、久しぶりで見る『いたずらっ児〔こ〕』らしい笑い顔をしながら、「君の『軍港行進曲』の向こうを張った訳ではないが、横須賀を題材にした小説を書いたんだ。……妙な小説だけど、これは、ちょいと自信があるんだがね、……」

「長いもの、」と、私は、ちょっと息をはずまして、聞いた。

「いや、二十五枚だが、君の『軍港』のような勢いはないけど、……僕のは、二万噸の一等戦闘艦が、舞台だ、……が、結局、しまいに、その戦闘艦を人間にしてしまうのが『味噌』なんだけど、……」と云って、云ってしまってから、なぜか、芥川は、急に侘しそうな顔をした。

 しかし、その時は、私は、「戦闘艦を人間にしてしまう」などというのは、例の芥川の洒落〔しゃれ〕(『ざれごと』)であろうぐらいに、思っていた。(それが、『三つの窓』の㈢の『戦闘艦××』であった事は、後に知ったのである、「二万噸の××は白じらと乾いたドツクの中から高だかと艦首を擡〔もた〕げてゐた。彼の前には巡洋艦や駆逐艦が何隻も出入してゐた。それから新らしい潜航艇や水上飛行機も見えないことはなかつた。しかしそれ等は××には果〔はか〕なさを感じさせるばかりだつた。××は照つたり曇つたりする横須賀軍港を見渡したまま、ぢつと彼の運命を待ちつづけてゐた。その間もやはりおのづから甲板〔かんぱん〕のじりじり反〔そ〕り返つて来〔く〕るのに幾分か不安を感じながら。……」という文句で終つている『戦闘艦××』を、そうして、その『戦闘艦××』が芥川その人であった事を。)

[やぶちゃん注:「三つの窓」の脱稿は六月十日である。正に悩ましい日附けではないか!「書いたんだ」という過去形は確かに気になる。宇野が元気なら六月二十日は正にぴったりくるのだが、先に述べたようにそれはあり得ない。……いや……それより何より……宇野が……「三つの窓」の、正にこの「三 一等戰鬪艦××」の……

 

 横須賀軍港には××の友だちの△△も碇泊してゐた。一萬二千噸の△△は××よりも年の若い軍艦だつた。彼等は廣い海越しに時々聲のない話をした。△△は××の年齡には勿論、造船技師の手落ちから舵の狂ひ易いことに同情してゐた。が、××を劬〔いたは〕るために一度もそんな問題を話し合つたことはなかつた。のみならず何度も海戰をして來た××に對する尊敬の爲にいつも敬語を用ひてゐた。

 すると或曇つた午後、△△は火藥庫に火のはいつた爲に俄かに恐しい爆聲〔ばくせい〕を擧げ、半ば海中に横になつてしまつた。××は勿論びつくりした。(尤も大勢の職工たちはこの××の震へたのを物理的に解釋したのに違ひなかつた。)海戰もしない△△の急に片輪〔かわた〕になつてしまふ、――それは實際××には殆ど信じられない位〔くらゐ〕だつた。彼は努めて驚きを隱し、はるかに△△を勵〔はげま〕したりした。が、△△は傾いたまま、炎や煙の立ち昇る中〔うち〕にただ唸り聲を立てるだけだつた。

 それから三四日たつた後〔のち)、二萬噸の××は兩舷の水壓を失つてゐた爲にだんだん甲板も乾割〔ひわ〕れはじめた。この容子を見た職工たちは愈〔いよいよ〕修繕工事を急ぎ出した。が、××はいつの間にか彼自身を見離してゐた。△△はまだ年も若いのに目の前の海に沈んでしまつた。かう云ふ△△の運命を思へば、彼の生涯は少くとも喜びや苦しみを嘗め盡してゐた。××はもう昔になつた或海戰の時を思ひ出した。それは旗もずたずたに裂ければ、マストさへ折れてしまふ海戰だつた。……

 

そう……この……

『一萬二千噸』の『戰艦△△』が……

他ならぬ宇野浩二であることに……

これを書いている時点に於いても本人宇野浩二が全く気付いていないことに……

私は呆然とするほか……

ないのである……

いや……

分かっていなかったとは思われない……

もし、恐ろしい鈍感でないとしたら……

宇野は――この比喩を――自分とは絶対に認めないのだ、としか思えない――

絶対に自身の精神異常を――精神異常、則ち――「発狂」としたくないのである――

彼は自分はあくまでも――正常範囲での――たかが境界的な神経衰弱に過ぎなかったと――

固く信じていることになる――いや――信じているのである――と私は確信しているのである……

さればこそ宇野浩二にとって、この『戰艦△△』が、彼自身であろうはずが、ないのである――]

 さて、芥川は、その晩、「門のところまで送ろう、」と云って、提燈〔ちょうちん〕を片手に、飛び石づたいに、あるきながら、問わず語りに、「僕は、今、すこし骨の折れる原稿を書いているんだが、それを書き上げたら、ここを引きあげるつもりだ、」と云った。「ここにいる間は、うちには帰らないの。」「うちへ帰ったら、寝てばかりいる。」「体もなんだけど、……君、どうしたんだ、ひどく気が弱くなったね。」「……」「ね、しつかりしろよ。」「ありがとう。」(この時、ちょうど柴折戸のところに来たので、)「じゃ、」と私が云うと、「じゃ、さよなら、大事〔だいじ〕にしたまいね、じゃ、……」、芥川が、云った。

 今、この時の事をかんがえると、この時、芥川が、「すこし骨の折れる原稿」と云ったのが、『或阿呆の一生』であったのだ。

宇野浩二 芥川龍之介 二十三~(7)

 さて、丸善の二階といえば、最初の一章であるからか、たいていの人が知っている、『或阿呆の一生』の一ばん初めの『時代』が、やはり、丸善の二階が舞台になっている。必要があるので、つぎに、それを写す。

 それは或本屋の二階だつた。二十歳の彼は書棚にかけた西洋風の梯子に登り、新〔あた〕らしい本を探してゐた。モウパスサン、ボオドレエル、ストリントベリイ、イブセン、シヨウ、トルストイ……

 そのうちに日は迫り出した。しかし彼は熱心に本の背文字を読みつづけた。そこに並んでゐるのは本といふよりも寧ろ世紀末それ自身だつた。ニイチエ、ヴエルレエン、ゴンクウル兄弟、ダスタエフスキイ、ハウプトマン、フロオベエル、……

 彼は薄暗がりと戦ひながら、彼等の名前を数へて行つた。が、本はおのづからもの憂い影の中に沈みはじめた。彼はとうとう根気も尽き、西洋風の梯子を下りようとした。すると傘のない電燈が一〔ひと〕つ、丁度〔ちやうど〕彼の頭〔あたま〕の上に突然ぽかりと火をともした。彼は梯子の上に佇んだまま、本の間に動いてゐる店員や客を見下〔みおろ〕した。彼等は妙に小〔ちひ〕さかつた。のみならず如何にも見すぼらしかつた。

「人生は一行のボオドレエルにも若〔し〕かない。」

 彼は暫く梯子の上からかう云ふ彼等を見渡してゐた。

 おなじ丸善の二階が舞台になっていても、これは、さきに引いた『歯車』の中の一節とくらべると、感じもまるで違い、物も全然ちがう。つまり、先きに引いたところは、いくらか虚仮〔こけ〕おどしの感じのするところもあり、文章も素気〔そっけ〕ない感じさえあるが、何〔なに〕か側側〔そくそく〕と人の心に迫るものがあった、ところが、これは、文章が気がきいていて、様子〔ようす〕がよく、見得を切っている観さえあるが、読む者の心に殆んど残るものがない。

『楼門五三桐〔さんもんごさんのきり〕』という歌舞伎芝居で、石川五右衛門が、南禅寺の楼門にあがって、大見得を切りながら、「絶景かな、絶景かな、春の夕ぐれの眺め、価〔あたひ〕千金とは、……」と叫ぶところがある。

 それとこれとは全〔まった〕く違うけれど、私は、この『或阿呆の一生』が、はじめて、昭和二年の十月号の「改造」に、出た時、この一ばん初めの『時代』を読んで、「これはまずいな、」と思った、というのは、芥川が、本の一ぱい詰まっている丸善の書棚にかけた梯子の上に立って、傘のない一〔ひと〕つの電燈に照らされながら、下の方に動いている店員や客を見おろしで、「人生は一行のボオドレエルにも若〔し〕かない、」と、大見得を切りながら、叫んでいるのを、ふと、想像したからである。

 私は、ここで、二十歳の芥川が、こういう生意気な事を云うのが、おかしい、などと云うつもりではない、芥川が、相変らず、一等俳優を気取っているな、と思ったのである。

[やぶちゃん注:「見得を切っている」私の電子テクスト「或阿呆の一生」の最後に附した本章の別稿を以下に示す。

 

       一 時  代

 

 それは或本屋の二階だつた。二十歳の彼は書棚にかけた西洋風の梯子に登り、新らしい本を探してゐた。モオパスサン、ボオドレエル、ストリンベリイ、イブセン、シヨオ、トルストイ、………

 そのうちに日の暮は迫り出した。しかし彼は熱心に本の背文字を讀みつづけた。そこに並んでゐるのは寧ろ世紀末それ自身だつた。ニイチエ、ヴェルレエン、ゴンクウル兄弟、ダスタエフスキイ、ハウプトマン、フロオベエル、…………

 彼は薄暗がりと戰ひながら、彼等の名前を數へて行つた。が、本はおのづからもの憂い影の中に沈みはじめた。彼はとうとう根氣も盡き、西洋風の梯子を下りようとした。すると傘のない電燈が一つ、丁度彼の頭の上に突然ぽかりと火をともした。彼は梯子の上に佇んだまま、本の間に動いてゐる店員や客を見下した。彼等は妙に小さかつた。のみならず如何にも見すぼらしかつた。

 「何と云ふもの寂しさ、……」

 彼は暫く梯子の上からかう云ふ彼等を見渡してゐた。………

 

「何と云ふもの寂しさ、……」の部分はテクストを見て頂くと分かる通り、最初、『何と云ふ貧しさ!』と書いたものを削除線で消し、「何と云ふもの寂しさ、……」と書き直したものである。宇野の言うように、この初期形と比すと、芥川龍之介は「南禅寺山門の場」の五右衛門の如く、美事に見得を切っている、とは言える。

「楼門五三桐」は安永七 (一七七八)年の大阪初演の歌舞伎。初代並木五瓶作の全五幕の荒唐無稽な伝奇ロマン活劇であるが、宇野が引用する二段目の返し「南禅寺山門の場」の五右衛門の名台詞で専ら有名。

『昭和二年の十月号の「改造」に、出た時、この一ばん初めの『時代』を読んで、「これはまずいな、」と思った』というのは、死後の小説家としての芥川の名声や光栄に、傷が附くことを宇野は危惧したということになる。勿論、この「一 時代」や「或阿呆の一生」、更には宇野のように後期の芥川作品を評価しない(宇野は少なくとも「小説」としては評価ていない)評者もいることはいる。しかし、どうであろう、宇野の危惧は杞憂であったというべきであろう。「見得」を切らなかった宇野の作品は、今や容易に書店に見出すことも出来ない。宇野の嫌った「見得」が(宇野はそれが芥川の「小説」を似非物にしていると考えていると私は断言する)、皮肉なことに(宇野にとってである)芥川龍之介の「小説」人気の長命の一つの要因であることは間違いないのである。]

 芥川は、『一等俳優』の一人であった、が、普通の一等俳優に間間〔まま〕あるような、単純な心の持ち主ではなかった、そうして、すぐれて聡明な人であった、それから、前に何度か述べたようにはげしい神経衰弱にかかりながら、精神病者のようになりながら、頭の働きは殆んど鈍らなかった。それは、(そのほんの一例は、)『或阿呆の一生』の中の『剥製の白鳥』の書き出しの、

 彼は最後の力を尽し、彼の自叙伝[註―『或阿呆の一生』]を書いて見ようとした。が、それは彼自身には存外容易に出来なかつた。それは彼の自尊心や懐疑主義や利害の打算の未だに残つてゐる為〔ため〕だった。……

という文句だけでも、わかる。

 ついでに述べると、神経衰弱がひどくなるにつれて、芥川の頭〔あたま〕は、ますます、冴えてきたようにさえ、私には、思われるのである。

 それから、しばしば云うように、その作品が用意周到であったように、生活などもなかなか用意周到であった芥川は、自分が死んだ後の事まで、作品の事も、残った者たちの生活の事も、ちゃんと、抜かりなく、考えていたのである。

 何ものかの僕を狙つてゐることは一足〔ひとあし〕毎に僕を不安にし出した。そこへ半透明な歯車も一つづつ僕の視野を遮り出した。僕は愈〔いよいよ〕最後の時の近づいたことを恐れながら、頸すぢをまつ直にして歩いて行つた。歯車は数の殖〔ふ〕えるのにつれ、だんだん急にまはりはじめた。同時に又右の松林はひつそりと枝をかはしたまま、丁度細〔ちやうどこま〕かい切子硝子〔きりこガラス〕を透かして見るやうになりはじめた。僕は動悸の高まるのを感じ、何度も道ばたに立ち止まらうとした。けれども誰かに押されるやうに立ち止まることさへ容易ではなかつた。……

 これは、『歯車』の㈥の「飛行幾」の最後に近いとこかの、一節である。

 君は芸術の天にたぐひなき凄惨の光を与へぬ。即ち未〔いま〕だ曾〔かつ〕て無〔な〕き一つの戦慄を創成したり。[上田敏による]

[やぶちゃん注:これは「海潮音」のボードレールの上田訳の掉尾「梟」の後にポイント落ちで附された上田敏の解説に現れる。以下にその全文を引いておく。

 

現代の悲哀はボドレエルの詩に異常の發展を遂げたり。人或は一見して云はむ、これ僅に悲哀の名を變じて欝悶と改めしのみと、而も再考して終に其全く變質したるを曉〔さと〕らむ。ボドレエルは悲哀に誇れり。即ち之を詩章の龍葢帳中に据ゑて、黑衣聖母の觀あらしめ、絢爛なること繪畫の如き幻想と、整美なること彫塑に似たる夢思とを恣にして之に生動の氣を與ふ。是に於てか、宛もこれ絶美なる獅身女頭獸なり。悲哀を愛するの甚しきは、いづれの先人をも凌ぎ、常に悲哀の詩趣を讚して、彼は自ら「悲哀の煉金道士」と號せり。

 

           *

 

先人の多くは、惱心地定かならぬまゝに、自然に對する心中の愁訴を、自然其物に捧げて、尋常の失意に泣けども、ボドレエルは然らず。彼は都府の子なり。乃ち巴里叫喊地獄の詩人として胸奧の悲を述べ、人に叛き世に抗する數奇の放浪兒が爲に、大聲を假したり。其心、夜に似て暗憺、いひしらず、汚れにたれど、また一種の美、たとへば、濁江の底なる眼、哀憐悔恨の凄光を放つが如きもの無きにしもあらず。    エミイル・ルハアレン

 

ボドレエル氏よ、君は藝術の天にたぐひなき凄慘の光を與へぬ。即ち未だ曾て無き一の戰慄を創成したり。                       ヸクトル・ユウゴオ

 

「龍葢帳中」は「りようがいちようちう(りょうがいちゅちゅう)」と読み、「龍蓋」は超能力を持った龍を呪法によって封じ込めることを言う。ボードレールが魔術的自在性をその詩句に込めたことを比喩するものであろう。「黑衣聖母」黒い聖母マリア及び聖母子像。ここでは単にただ汚れて黒ずんだ聖像を指すのではなく、原始キリスト教以前にオリエント一帯に広まっていた大地母神信仰の習合されたそれをイメージし、原母(グレート・マザー)への畏怖を示す。「獅身女頭獸」スフィンクス。]

 これは、ヴィクトル・ユウゴオが、シャルル・ボオドレエルに宛てた手紙の中の、有名な文句であるが、誇張して云えば、この文句をいくらか思わせるようなものが、『歯車』の中に、ところどころに、ある。例えば、(そのほんの一例を上げると、前にも引いたかもしれないが、)つぎのようなところである。

 海は低い砂山の向うに一面に灰色に曇つてゐた。その又砂山にはブランコのないブランコ台が一〔ひと〕つ突つ立つてゐた。僕はこのブランコ台を眺め、忽ち絞首台を思ひ出した。実際又ブランコ台の上には鴉が二三羽とまつてゐた。鴉は皆僕を見ても飛び立つ気色さへ示さなかつた。のみならずまん中にとまつてゐた鴉は大きい嘴を空へ挙げながら、確かに四たび声を出した。

 芥川は、その作品の中に好んで鴉をつかうが、鴉といえば、斎藤茂吉が鴉を詠んだ歌の中に、こういうのがある。

  しまし我〔われ〕は目をつむりなむ真日〔まひ〕おちて鴉ねむりにゆくこゑきこゆ

  ひさかたのしぐれふりくる空〔そら〕さびし土〔つち〕に下〔お〕りたちて鴉は啼くも

[やぶちゃん注:「しまし」は上代語で、暫く、ちょっとの間、の意。いずれも「あらたま」所収の句。]

 さて、『歯車』は、ずっと前に述べたように、葛西善蔵がほめ、佐藤春夫が、芥川の作品の中で第一である、と激賞し、廣津和郎も「一ばん頭〔あたま〕に残つてゐる、」と云い、川端康成などは、「芥川氏のすべての作品に比べて、断然いいと思ふ、……文章までが『歯車』だけは何〔なん〕か違ふやうな気がし、自〔おのづか〕ら迫りながら、暢びてゐて、……芥川氏の気もちが一番よく出でゐると思ふ、……どこか気遣ひと正気の間ぐらゐな、……」と、述べている。

 この川端の説には私もほぼ同感であるが、又、『歯車』には川端の好きそうなところもある。

 が、いずれにしても、『歯車』は、欠点は随分あるけれど、これこそ、芥川が、必死で書いたようなところもある。そうして、この作品の中には、それこそ、「人生は地獄よりも地獄的である、」というところもあり、その実感のいくらか出ている.ところもある、それに、作者が夜〔よる〕となく昼となく悩まされた極度の神経衰弱から起こる脅迫観念と恐怖が一種の迫力をもって読者に迫ってくるところもある。

 ざっとこういう点で、『歯車』は、芥川の全作品の中で、もっともすぐれた作品という訳にはゆかないが、前にも書いたように、もっとも特殊な作品である。

 しかし、又、この『歯車』は、無理やりに、怪奇に、怪奇に、と工〔たく〕んでいるようなところが随所にあり、何〔なに〕も彼〔か〕もあまりに誇張して書いてあるので、不自然な気がするところも可也〔かなり〕あり、それに、筆がすべり過ぎていて、興味を殺〔そ〕ぐようなところも多分にある。

 それから、多くの人が問題にしている『歯車』の最後の「僕はもうこの先を書きつづける力を持つてゐない。かう云ふ気もちの中に生きてゐるのは何とも言はれない苦痛である。誰か僕の眠つてゐるうちにそつと絞め殺してくれるものはないか?」という文句なども、私などは、書き過ぎであるばかりで、なく、否味〔いやみ〕である、とさえ思うのである。

 しかし、さすがに、芥川は、『歯車』が書き過ぎであることは、覚〔さと〕っていた。それから、芥川は、『歯車』は、書き過ぎたところがあるばかりでなく、発表をはばかられるような所もあり、未定稿でもあったからか、筐底にしまってしまった。

 ところで、『歯車』を脱稿したのは四月七日であり、『歯車』は、芥川の物としては可なり長い方〔ほう〕で、七十五六枚であるから、立ち入った事を云えば、その時分の芥川は、どこかの雑誌にでも出して、金〔かね〕にかえた方が、便利であったのではないか、と思われるのに、それをしなかったのは、臆測を逞しくすれば、芥川の芸術的な良心と打算のためであったのであろうか。(ここで、『打算』というのは、この原稿⦅つまり『歯車』⦆を、死後に、家族のために、残しておこう、という程の意味である。)

[やぶちゃん注:厳密には「一 レエン・コオト」は、生前の昭和二(一九二七)年六月の『大調和』に「歯車」の題で掲載されている(全文公開が死後の十月一日発行の『文藝春秋』)。また、私も(というより、本作の内容に於いて、勿論)、「歯車」全体は、芥川が死後に公開されることを念頭に於いて「計画的に」(それは作品の随処に現れている)執筆したものと考えてよい(芥川龍之介の自死があってこそ「歯車」は絶対暗黒の強靭さを持つのであり、生き延びた芥川龍之介と名作「歯車」のツー・ショットなんどは全体にあり得ないのである)。但し、芥川龍之介が「歯車」を『筐底にしまってしまった』という宇野の表現は、如何なものか。先に宇野が、

(『歯車』は、原稿には、はじめ、『夜』とか、⦅『東京の夜』とか、⦆いう題をつけてあったが、佐藤春夫が、その原稿を見せられた時、『夜』というのは個性がなさ過ぎ、『東京の夜』というのは気取りすぎる、と云って、『歯車』という題をすすめた、と書いている。)

と述べている事実からも、これは言い過ぎである。四月七日の脱稿は現在の年譜的事実からも確定されているが(但し、それも掉尾のクレジットによって、である)、芥川は「歯車」を、恐らく最後まで改稿する努力を続けていたと私は考えている。]

 死後、と云えば、芥川が、いかに、自分の死後の名聞〔みょうもん〕の事や家族の事などを、気にしたか、――それは、『河童』の最後の方の、自殺したトックの幽霊と心霊学協会の会員との問答の報告(記録)の中の、「予の死後の名声は如何〔いかん〕?」「予の全集は出版せられしや?」(「君の全集は出版せられたれども、売行甚だ振〔ふる〕はざる如し、」)「予の全集は三百年の後、――即ち著作権の失はれたる後、万人の購〔あがな〕ふ所となるべし。予の同棲せる女友だちは如何?」「予が子は如何?」「予が家は如何?」などという記事だけを見ても、大凡〔おおよ〕その一端が窺われるであろう。

 ところで、前に述べたように、芥川が、『歯車』の最後の分〔ぶん〕㈥『飛行磯』を脱稿したのは、四月七日である。

 昭和二年になってから、芥川は、力作、『玄鶴山房』、『河童』、それから、『歯車』、と、書いてまったく、精根を、使い尽〔つく〕してしまった。

 それで、芥川の最後の作品は、(作品らしい作品は、)未定稿ではあるが、『歯車』である、という事になる。

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