宇野浩二 芥川龍之介 二十三~(14) 宇野浩二「芥川龍之介」完結
芥川の葬式は、七月二十七日の午後三時から、谷中斎場で、行〔おこな〕われた。谷中斎場の前の道路は狭い。しかし、斎場は可なり広い。
その狭い道路に面して、通路の両側に受付〔うけつけ〕がある。右側の受付には、天幕が張ってあって、長いテエブルにむかって、和田利彦[春陽堂の主人]、石川寅吉、久保田万太郎、島中雄作[中央公論社の社長]、小蜂八郎[元春陽堂の番頭、その時は文藝春秋社出版部長]等がひかえ、その右の記録係の席には、宮本喜久雄、窪川鶴次郎、青地喜一郎、菅 忠雄等がならび、左側の受付(常設受付)には、小島政二郎、石田幹之助、神代種亮〔こうじろたねすけ〕[荷風の『濹東綺譚』の終りの「作後贅言」の中に登場する神代帚葉はこの人である]豊島與志雄等がひかえ、その左の記録席には、大草実〔おおくさみのる〕[その頃の「文藝春秋」の辣腕記者]、堀 辰雄、中島氏、中野重治等がならんでいた。さて、これらの堂堂たる人物たちが控えている左右の受付の間〔あいだ〕の通路の、右側には、高野敬録、山本実彦[改造社の社長]、中根駒十郎[新潮社の支配人兼社長代理]等が立ち、左側には、山本有三、南部修太郎、伊藤貴麿〔たかまろ〕[その頃は新進作家、その後は童話作家]等が立っていた。さて、これらの人たちが両側に立っているところを通り抜けると、ちょっと広い明〔あ〕き地に出る。
[やぶちゃん注:翰林書房「芥川龍之介新辞典」の池内輝雄氏の「葬儀」の項にある七月二十八日附『東京日日新聞』のデータによれば、会葬者は七百数十名、芥川家菩提寺である慈眼寺住職篠原智光を導師として、『先輩総代として泉鏡花』が『沈痛な声で弔文を読』み、『友人総代として菊池寛氏がたち弔文を読』んだが、菊池は『読むに先だつて既に泣いてゐた』。『文芸協会を代表して里見弴、後輩を代表して小島政二郎氏等の切々たる哀情に満てる弔文が』続き、午後五時に『式は終り、遺骸は親族知友の手で日暮里火葬場に送られた。遺骨は二十八日染井の墓地に埋葬される』とある(正確には「染井の墓地」ではなく、染井墓地の奥にある慈眼寺の墓地である)。同日附『読売新聞』では終式を『午後四時五分』とし、こちらの記事には『表通りには二千余人の人人が蝟集して個人の柩を見んと犇めき交通巡査がこの整理にあせだくであつた』と記す。
「石川寅吉」(明治二十七(一八九四)年~?)出版人。安政年間創業の版元を株式会社「興文社」にしてその代表となる。中等教科書や英語学関連書籍などを刊行、昭和二(一九二七)年には芥川龍之介と菊池寛編纂の『小学生全集』を出版して、アルス社の『日本児童文庫』と激しい販売合戦を繰り広げた。第二次世界大戦中に死亡(以上は岩波新全集の関口安義・宮坂覺の「人名解説索引」に拠った)。
「宮本喜久雄」詩人。雑誌『驢馬』同人。
「青地喜一郎」不詳。
「神代種亮」(明治十六(一八八三)年~昭和十(一九三五)年)は書誌研究者・校正家。海軍図書館等に勤務したが、校正技術に秀いで、雑誌『校正往来』を発刊、「校正の神様」と称せられた。芥川は作品集の刊行時には彼に依頼している。明治文学の研究にも従事し、明治文化研究会会員でもあった。「神代帚葉」は「こうじろそうよう」と読み、彼の雅号と思われる。「作後贅言」は「さくごぜいげん」と読み、所謂、「濹東綺譚」の作者後書き。そこで荷風の友人として登場し、明治人には人を押し退けて得をしようとする気風はなく、『それは個人めいめいに、他人よりも自分の方が優れているという事を人にも思わせ、また自分でもそう信じたいと思っている――その心持です。優越を感じたいと思っている欲望です。明治時代に成長したわたくしにはこの心持がない。あったところで非常にすくないのです。これが大正時代に成長した現代人と、われわれとの違うところですよ。』と述べさせている(自宅に原本が見当たらないので引用はSAMUSHI氏の「テツガクのページ」の「荷風を読んで 墨東綺譚再読」より孫引きした)。
「中島氏」不詳。芥川龍之介の従姉の子に中島汀なる人物がおり、新全集の人名解説索引には龍之介が勉強を見ていた旨の記載があるが、この人物か。先に示した本記載のソース「二つの絵」の会葬場見取り図にも「記録係」として「中島氏」とあり、宇野自身、「中島氏」とは誰であるか分からないままに、記したものと考えてよい。
以下の後記は、底本では全体が一字下げ。先に述べた通り、この誤りは小穴隆一の「二つの絵」の会葬場見取り図の誤りをそのまま引き写した結果である。因みに、この「中野重治」は翰林書房「芥川龍之介新辞典」の池内輝雄氏の「葬儀」の脚注によれば、神崎清(明治三十七(一九〇四)年~昭和五十四(一九七九)年:評論家。昭和九(一九三四)年から明治文学談話会を主宰、機関誌『明治文学研究』した。戦時中には大逆事件を、戦後は売春問題等を手掛けた。著作は「革命伝説」「大逆事件」「戦後日本の売春問題」等。)の誤りであった。]
(後記――この時、中野重治が列席していなかったことを、この本が出てからまもなく、本人から知らされた。これがほんの一例であるように、この本に書いたことのなかに、このようなマチガイがあることは必定であるから、ここでも、この事を、迷惑のかかった方方にお詫びし、その他の事を、読者に、御諄恕を乞う。)
[やぶちゃん注:「諄恕」は「じゅんじょ」と読むのであろう。敢えて言うなら「諄々として恕する」で、くどいくらいに何度も思いやりの心で過ちを許す、の意でとれなくもないが、「日本国語大辞典」にも「廣漢和辞典」の熟語にも出現しない。正直言わせてもらえば、「諒恕」の誤植ではなかろうか。]
ところで、この明き地の右側と左側に、おなじ形〔かたち〕の大きな天幕〔てんと〕が張ってあって、両方とも、程よい所に、イスとテエブルが据えてある、つまり、『休憩所』である。そうして、その『休憩所』の接待係は、右側は、高田保、川端康成、斎藤龍太郎[その頃の文藝春秋社で、佐佐木茂索と同じくらいの位置にあった人]、藤沢清造[その一生を貧窮にくらしながら、決して人に頭をさげず、貧乏にめげず、芥川に「へんな芸術主義者だからな、」と云われ、久保田に「正義派」と云われたほど芸術一途な男で、『根津権現裏』というすぐれた長篇一冊だけ残して、昭和七年の二月、芝公園で妙な死に方をした。武田麟太郎は『根津権現裏』を激賞して居た。久保田、芥川、菊池、その他を「君〔くん〕」と呼ぶ人であった。いい人であった]等であり、左側に、犬養健[この頃は、苦労知らずの行儀のよい小説をかいた新作家で、「白樺」の傍系であった]、三宅周太郎、横光利一、中河与一等であった。
[やぶちゃん注:「三宅周太郎」(明治二十五(一八九二)年~昭和四十二(一九六七)年)は演劇評論家。堅実な歌舞伎・文楽の劇評家として知られ、文楽の興隆にも尽くした。正続とある「文楽の研究」は名著である。
「犬養健」この最後の連載時は、正に吉田内閣法務大臣として造船疑獄の自由党幹事長佐藤栄作収賄容疑での逮捕許諾請求に指揮権を発動した悪印象の直後であった。]
さて、ここを通りすぎると、いよいよ斎場である。
斎場の玄関をはいった所の、すぐ、右側には、葬儀係の、下島空谷[空谷は下島の俳号]、
香取秀真[優秀な鋳金家、子規門の歌人]鈴木氏亨[この時分、文藝春秋社の代理の一切の仕事をしていた人]、谷口喜作[うさぎやという菓子屋の主人、滝井に俳句をまなび、芥川家に出入りしていた人]等が立ち、左側には、記録係の、滝井孝作と菅 忠雄が立っていた。それから、奥の方には、右側に、喪主親族席には、菊池 寛、室生犀星、小穴隆一等が著席〔ちゃくせき〕し、左側に、会葬者席には、泉鏡花、里見 弴、その他が居ならび、すこし離れて葬儀係の、久米正雄、佐佐木茂索、小野田通平[この頃、新潮社の出版部長か]等がひかえていた。(それから喪主親族席の後〔うしろ〕の方に、広い婦人席があヶた。)
そうして、柩は、いうまでもなく、正面の、奥の、本尊の前に、安置してあった。
[やぶちゃん注:「小野田通平」とあるが、小穴の会葬場見取り図には「小野田道平」とある。いずれにしても不詳。宇野の新潮社出版部長というのは会葬係としては不自然ではない。]
この日の導師は、芥川の菩提寺である、日蓮宗、慈眼寺の住職、原 智光師であった。
[やぶちゃん注:「原 智光」は「篠原智光」の誤り。]
告別式は、午後三時から三時半までであったが、会葬した文壇の人は七百数十人であった。そうして、先輩の総代として泉 鏡花が、友人の総代として菊池 寛が、文芸家協会を代表して里見 弴が、後輩を代表して小島政二郎が、それぞれ、弔文を読んだ。これらの人たちの中で、菊池は、弔文を、読みはじめる前に啜〔すす〕り泣き、読み出してからも、一句よんでは噎〔むせ〕び泣き、また一句読んでは噦〔しゃく〕りあげ、終には声を上げて泣きながら、読みおわったので、殊に人びとを感動させた。その菊池の弔文はつぎのようなものである。
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芥川龍之介君よ、
君が自ら選み自ら決したる死について、我等何〔われらなに〕をかいはんや。ただ我等は君が死面に平和なる微光の漂〔ただよ〕へるを見て甚だ安心したり。友よ、安らかに眠れ! 君が夫人賢なればよく遺児を養ふに堪ゆべく、我等また微力を致して、君が眠りのいやが上〔うへ〕に安らかならんことに努〔つと〕むベし、ただ悲しきは君去りて我等が身辺とみにせうでうたるを如何にせん。
[やぶちゃん注:菊池の直筆弔辞の写真を見ると、「堪ゆべく」は「堪ゆるべく」、「我等また」は「我等亦」、「眠り」は「眠」、「せうでう」は「蕭条」の表記である。最後に「友人總代 菊池寛」とある。]
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この時の葬儀に私の紋附〔もんつき〕と羽織と著物と袴と足袋を身につけて会葬した直木三十五が、帰りに私の留守宅に寄って、タラタラ流れる汗をふきながら、「あの葬式を見ると、急に芥川の死んだのが惜しい気がした、」と、私の家の者に、云った。
この時の葬儀に会葬した帰り道で、田山花袋が、三上於菟吉に、「君、物事を詰めて考えてはいけないよ、」と云った。(三上は、この話を、私に、何度も、した)
芥川が死んでから数日後に、吉井 勇と廣津和郎が、銀座で逢った。「ほかの人が死んでも『ああ、そうか、』と思うくらいだが、芥川が死んだ時は、悲しい気がしたね、」というような事を、何度も、云い合った。
[やぶちゃん注:以下の行間のアスタリスクは底本のもの。]
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今、こういう時から二十五六年たった、西洋流に云えば、四半世紀すぎたのである。
この頃、月〔つき〕のうちに十度ぐらい、私は、廣津と、喫茶店に、コオヒイだけを飲みに行って、文学談その他をかわす。その時、芥川の話が出ると、「芥川は、弱い男だったね、悲しい男だったね、……しかし、ああいう才能は滅多にないね、結局、あれは、不世出の才能だね、」と、(言葉はちがうが、こういう事を、)云い合うのである。そうして、二人の間に、何度、芥川の話が出ても、終局、こういう事を、云い合うのである。
[やぶちゃん注:この最後の部分を読むと――私は何故か――片山廣子(松村みね子名義)の「芥川さんの囘想(わたくしのルカ傳)」を思い出す――いや――正に「小説の鬼」を自認した宇野浩二の「芥川龍之介」という福音書は――廣子のそれと同じく――正しく自らをもミューズから遣わされた者とする――小説の使徒宇野浩二の――ルカによる福音書であった。――]
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本篇を以って、本年1月2日から始めた宇野浩二「芥川龍之介」(原稿用紙約1000枚)の注釈附電子テクスト化を終了した。これより、下巻のHP一括化に入る。