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カテゴリー「宇野浩二「芥川龍之介」【完】」の77件の記事

2012/05/10

宇野浩二 芥川龍之介 二十三~(14) 宇野浩二「芥川龍之介」完結

 芥川の葬式は、七月二十七日の午後三時から、谷中斎場で、行〔おこな〕われた。谷中斎場の前の道路は狭い。しかし、斎場は可なり広い。

 その狭い道路に面して、通路の両側に受付〔うけつけ〕がある。右側の受付には、天幕が張ってあって、長いテエブルにむかって、和田利彦[春陽堂の主人]、石川寅吉、久保田万太郎、島中雄作[中央公論社の社長]、小蜂八郎[元春陽堂の番頭、その時は文藝春秋社出版部長]等がひかえ、その右の記録係の席には、宮本喜久雄、窪川鶴次郎、青地喜一郎、菅 忠雄等がならび、左側の受付(常設受付)には、小島政二郎、石田幹之助、神代種亮〔こうじろたねすけ〕[荷風の『濹東綺譚』の終りの「作後贅言」の中に登場する神代帚葉はこの人である]豊島與志雄等がひかえ、その左の記録席には、大草実〔おおくさみのる〕[その頃の「文藝春秋」の辣腕記者]、堀 辰雄、中島氏、中野重治等がならんでいた。さて、これらの堂堂たる人物たちが控えている左右の受付の間〔あいだ〕の通路の、右側には、高野敬録、山本実彦[改造社の社長]、中根駒十郎[新潮社の支配人兼社長代理]等が立ち、左側には、山本有三、南部修太郎、伊藤貴麿〔たかまろ〕[その頃は新進作家、その後は童話作家]等が立っていた。さて、これらの人たちが両側に立っているところを通り抜けると、ちょっと広い明〔あ〕き地に出る。

[やぶちゃん注:翰林書房「芥川龍之介新辞典」の池内輝雄氏の「葬儀」の項にある七月二十八日附『東京日日新聞』のデータによれば、会葬者は七百数十名、芥川家菩提寺である慈眼寺住職篠原智光を導師として、『先輩総代として泉鏡花』が『沈痛な声で弔文を読』み、『友人総代として菊池寛氏がたち弔文を読』んだが、菊池は『読むに先だつて既に泣いてゐた』。『文芸協会を代表して里見弴、後輩を代表して小島政二郎氏等の切々たる哀情に満てる弔文が』続き、午後五時に『式は終り、遺骸は親族知友の手で日暮里火葬場に送られた。遺骨は二十八日染井の墓地に埋葬される』とある(正確には「染井の墓地」ではなく、染井墓地の奥にある慈眼寺の墓地である)。同日附『読売新聞』では終式を『午後四時五分』とし、こちらの記事には『表通りには二千余人の人人が蝟集して個人の柩を見んと犇めき交通巡査がこの整理にあせだくであつた』と記す。

「石川寅吉」(明治二十七(一八九四)年~?)出版人。安政年間創業の版元を株式会社「興文社」にしてその代表となる。中等教科書や英語学関連書籍などを刊行、昭和二(一九二七)年には芥川龍之介と菊池寛編纂の『小学生全集』を出版して、アルス社の『日本児童文庫』と激しい販売合戦を繰り広げた。第二次世界大戦中に死亡(以上は岩波新全集の関口安義・宮坂覺の「人名解説索引」に拠った)。

「宮本喜久雄」詩人。雑誌『驢馬』同人。

「青地喜一郎」不詳。

「神代種亮」(明治十六(一八八三)年~昭和十(一九三五)年)は書誌研究者・校正家。海軍図書館等に勤務したが、校正技術に秀いで、雑誌『校正往来』を発刊、「校正の神様」と称せられた。芥川は作品集の刊行時には彼に依頼している。明治文学の研究にも従事し、明治文化研究会会員でもあった。「神代帚葉」は「こうじろそうよう」と読み、彼の雅号と思われる。「作後贅言」は「さくごぜいげん」と読み、所謂、「濹東綺譚」の作者後書き。そこで荷風の友人として登場し、明治人には人を押し退けて得をしようとする気風はなく、『それは個人めいめいに、他人よりも自分の方が優れているという事を人にも思わせ、また自分でもそう信じたいと思っている――その心持です。優越を感じたいと思っている欲望です。明治時代に成長したわたくしにはこの心持がない。あったところで非常にすくないのです。これが大正時代に成長した現代人と、われわれとの違うところですよ。』と述べさせている(自宅に原本が見当たらないので引用はSAMUSHI氏の「テツガクのページ」の「荷風を読んで 墨東綺譚再読」より孫引きした)。

「中島氏」不詳。芥川龍之介の従姉の子に中島汀なる人物がおり、新全集の人名解説索引には龍之介が勉強を見ていた旨の記載があるが、この人物か。先に示した本記載のソース「二つの絵」の会葬場見取り図にも「記録係」として「中島氏」とあり、宇野自身、「中島氏」とは誰であるか分からないままに、記したものと考えてよい。

以下の後記は、底本では全体が一字下げ。先に述べた通り、この誤りは小穴隆一の「二つの絵」の会葬場見取り図の誤りをそのまま引き写した結果である。因みに、この「中野重治」は翰林書房「芥川龍之介新辞典」の池内輝雄氏の「葬儀」の脚注によれば、神崎清(明治三十七(一九〇四)年~昭和五十四(一九七九)年:評論家。昭和九(一九三四)年から明治文学談話会を主宰、機関誌『明治文学研究』した。戦時中には大逆事件を、戦後は売春問題等を手掛けた。著作は「革命伝説」「大逆事件」「戦後日本の売春問題」等。)の誤りであった。]

(後記――この時、中野重治が列席していなかったことを、この本が出てからまもなく、本人から知らされた。これがほんの一例であるように、この本に書いたことのなかに、このようなマチガイがあることは必定であるから、ここでも、この事を、迷惑のかかった方方にお詫びし、その他の事を、読者に、御諄恕を乞う。)

[やぶちゃん注:「諄恕」は「じゅんじょ」と読むのであろう。敢えて言うなら「諄々として恕する」で、くどいくらいに何度も思いやりの心で過ちを許す、の意でとれなくもないが、「日本国語大辞典」にも「廣漢和辞典」の熟語にも出現しない。正直言わせてもらえば、「諒恕」の誤植ではなかろうか。]

 ところで、この明き地の右側と左側に、おなじ形〔かたち〕の大きな天幕〔てんと〕が張ってあって、両方とも、程よい所に、イスとテエブルが据えてある、つまり、『休憩所』である。そうして、その『休憩所』の接待係は、右側は、高田保、川端康成、斎藤龍太郎[その頃の文藝春秋社で、佐佐木茂索と同じくらいの位置にあった人]、藤沢清造[その一生を貧窮にくらしながら、決して人に頭をさげず、貧乏にめげず、芥川に「へんな芸術主義者だからな、」と云われ、久保田に「正義派」と云われたほど芸術一途な男で、『根津権現裏』というすぐれた長篇一冊だけ残して、昭和七年の二月、芝公園で妙な死に方をした。武田麟太郎は『根津権現裏』を激賞して居た。久保田、芥川、菊池、その他を「君〔くん〕」と呼ぶ人であった。いい人であった]等であり、左側に、犬養健[この頃は、苦労知らずの行儀のよい小説をかいた新作家で、「白樺」の傍系であった]、三宅周太郎、横光利一、中河与一等であった。

[やぶちゃん注:「三宅周太郎」(明治二十五(一八九二)年~昭和四十二(一九六七)年)は演劇評論家。堅実な歌舞伎・文楽の劇評家として知られ、文楽の興隆にも尽くした。正続とある「文楽の研究」は名著である。

「犬養健」この最後の連載時は、正に吉田内閣法務大臣として造船疑獄の自由党幹事長佐藤栄作収賄容疑での逮捕許諾請求に指揮権を発動した悪印象の直後であった。]

 さて、ここを通りすぎると、いよいよ斎場である。

 斎場の玄関をはいった所の、すぐ、右側には、葬儀係の、下島空谷[空谷は下島の俳号]、

香取秀真[優秀な鋳金家、子規門の歌人]鈴木氏亨[この時分、文藝春秋社の代理の一切の仕事をしていた人]、谷口喜作[うさぎやという菓子屋の主人、滝井に俳句をまなび、芥川家に出入りしていた人]等が立ち、左側には、記録係の、滝井孝作と菅 忠雄が立っていた。それから、奥の方には、右側に、喪主親族席には、菊池 寛、室生犀星、小穴隆一等が著席〔ちゃくせき〕し、左側に、会葬者席には、泉鏡花、里見 弴、その他が居ならび、すこし離れて葬儀係の、久米正雄、佐佐木茂索、小野田通平[この頃、新潮社の出版部長か]等がひかえていた。(それから喪主親族席の後〔うしろ〕の方に、広い婦人席があヶた。)

 そうして、柩は、いうまでもなく、正面の、奥の、本尊の前に、安置してあった。

[やぶちゃん注:「小野田通平」とあるが、小穴の会葬場見取り図には「小野田道平」とある。いずれにしても不詳。宇野の新潮社出版部長というのは会葬係としては不自然ではない。]

 

 この日の導師は、芥川の菩提寺である、日蓮宗、慈眼寺の住職、原 智光師であった。

[やぶちゃん注:「原 智光」は「篠原智光」の誤り。]

 告別式は、午後三時から三時半までであったが、会葬した文壇の人は七百数十人であった。そうして、先輩の総代として泉 鏡花が、友人の総代として菊池 寛が、文芸家協会を代表して里見 弴が、後輩を代表して小島政二郎が、それぞれ、弔文を読んだ。これらの人たちの中で、菊池は、弔文を、読みはじめる前に啜〔すす〕り泣き、読み出してからも、一句よんでは噎〔むせ〕び泣き、また一句読んでは噦〔しゃく〕りあげ、終には声を上げて泣きながら、読みおわったので、殊に人びとを感動させた。その菊池の弔文はつぎのようなものである。

 芥川龍之介君よ、

君が自ら選み自ら決したる死について、我等何〔われらなに〕をかいはんや。ただ我等は君が死面に平和なる微光の漂〔ただよ〕へるを見て甚だ安心したり。友よ、安らかに眠れ! 君が夫人賢なればよく遺児を養ふに堪ゆべく、我等また微力を致して、君が眠りのいやが上〔うへ〕に安らかならんことに努〔つと〕むベし、ただ悲しきは君去りて我等が身辺とみにせうでうたるを如何にせん。

[やぶちゃん注:菊池の直筆弔辞の写真を見ると、「堪ゆべく」は「堪ゆるべく」、「我等また」は「我等亦」、「眠り」は「眠」、「せうでう」は「蕭条」の表記である。最後に「友人總代 菊池寛」とある。]

 

 この時の葬儀に私の紋附〔もんつき〕と羽織と著物と袴と足袋を身につけて会葬した直木三十五が、帰りに私の留守宅に寄って、タラタラ流れる汗をふきながら、「あの葬式を見ると、急に芥川の死んだのが惜しい気がした、」と、私の家の者に、云った。

 この時の葬儀に会葬した帰り道で、田山花袋が、三上於菟吉に、「君、物事を詰めて考えてはいけないよ、」と云った。(三上は、この話を、私に、何度も、した)

 

 芥川が死んでから数日後に、吉井 勇と廣津和郎が、銀座で逢った。「ほかの人が死んでも『ああ、そうか、』と思うくらいだが、芥川が死んだ時は、悲しい気がしたね、」というような事を、何度も、云い合った。

[やぶちゃん注:以下の行間のアスタリスクは底本のもの。]

 

      *

 

 今、こういう時から二十五六年たった、西洋流に云えば、四半世紀すぎたのである。

 この頃、月〔つき〕のうちに十度ぐらい、私は、廣津と、喫茶店に、コオヒイだけを飲みに行って、文学談その他をかわす。その時、芥川の話が出ると、「芥川は、弱い男だったね、悲しい男だったね、……しかし、ああいう才能は滅多にないね、結局、あれは、不世出の才能だね、」と、(言葉はちがうが、こういう事を、)云い合うのである。そうして、二人の間に、何度、芥川の話が出ても、終局、こういう事を、云い合うのである。

[やぶちゃん注:この最後の部分を読むと――私は何故か――片山廣子松村義)の「芥川さんの囘想(わたくしのルカ傳)を思い出す――いや――正に「小説の鬼」を自認した宇野浩二の「芥川龍之介」という福音書は――廣子のそれと同じく――正しく自らをもミューズから遣わされた者とする――小説の使徒宇野浩二の――ルカによる福音書であった。――]

本篇を以って、本年1月2日から始めた宇野浩二「芥川龍之介」(原稿用紙約1000枚)の注釈附電子テクスト化を終了した。これより、下巻のHP一括化に入る。

宇野浩二 芥川龍之介 二十三~(13)

 芥川の葬式は、七月二十七日の午後三時から、谷中斎場で、行〔おこな〕われた。谷中斎場の前の道路は狭い。しかし、斎場は可なり広い。

 その狭い道路に面して、通路の両側に受付〔うけつけ〕がある。右側の受付には、天幕が張ってあって、長いテエブルにむかって、和田利彦[春陽堂の主人]、石川寅吉、久保田万太郎、島中雄作[中央公論社の社長]、小蜂八郎[元春陽堂の番頭、その時は文藝春秋社出版部長]等がひかえ、その右の記録係の席には、宮本喜久雄、窪川鶴次郎、青地喜一郎、菅 忠雄等がならび、左側の受付(常設受付)には、小島政二郎、石田幹之助、神代種亮〔こうじろたねすけ〕[荷風の『濹東綺譚』の終りの「作後贅言」の中に登場する神代帚葉はこの人である]豊島與志雄等がひかえ、その左の記録席には、大草実〔おおくさみのる〕[その頃の「文藝春秋」の辣腕記者]、堀 辰雄、中島氏、中野重治等がならんでいた。さて、これらの堂堂たる人物たちが控えている左右の受付の間〔あいだ〕の通路の、右側には、高野敬録、山本実彦[改造社の社長]、中根駒十郎[新潮社の支配人兼社長代理]等が立ち、左側には、山本有三、南部修太郎、伊藤貴麿〔たかまろ〕[その頃は新進作家、その後は童話作家]等が立っていた。さて、これらの人たちが両側に立っているところを通り抜けると、ちょっと広い明〔あ〕き地に出る。

[やぶちゃん注:翰林書房「芥川龍之介新辞典」の池内輝雄氏の「葬儀」の項にある七月二十八日附『東京日日新聞』のデータによれば、会葬者は七百数十名、芥川家菩提寺である慈眼寺住職篠原智光を導師として、『先輩総代として泉鏡花』が『沈痛な声で弔文を読』み、『友人総代として菊池寛氏がたち弔文を読』んだが、菊池は『読むに先だつて既に泣いてゐた』。『文芸協会を代表して里見弴、後輩を代表して小島政二郎氏等の切々たる哀情に満てる弔文が』続き、午後五時に『式は終り、遺骸は親族知友の手で日暮里火葬場に送られた。遺骨は二十八日染井の墓地に埋葬される』とある(正確には「染井の墓地」ではなく、染井墓地の奥にある慈眼寺の墓地である)。同日附『読売新聞』では終式を『午後四時五分』とし、こちらの記事には『表通りには二千余人の人人が蝟集して個人の柩を見んと犇めき交通巡査がこの整理にあせだくであつた』と記す。

「石川寅吉」(明治二十七(一八九四)年~?)出版人。安政年間創業の版元を株式会社「興文社」にしてその代表となる。中等教科書や英語学関連書籍などを刊行、昭和二(一九二七)年には芥川龍之介と菊池寛編纂の『小学生全集』を出版して、アルス社の『日本児童文庫』と激しい販売合戦を繰り広げた。第二次世界大戦中に死亡(以上は岩波新全集の関口安義・宮坂覺の「人名解説索引」に拠った)。

「宮本喜久雄」詩人。雑誌『驢馬』同人。

「青地喜一郎」不詳。

「神代種亮」(明治十六(一八八三)年~昭和十(一九三五)年)は書誌研究者・校正家。海軍図書館等に勤務したが、校正技術に秀いで、雑誌『校正往来』を発刊、「校正の神様」と称せられた。芥川は作品集の刊行時には彼に依頼している。明治文学の研究にも従事し、明治文化研究会会員でもあった。「神代帚葉」は「こうじろそうよう」と読み、彼の雅号と思われる。「作後贅言」は「さくごぜいげん」と読み、所謂、「濹東綺譚」の作者後書き。そこで荷風の友人として登場し、明治人には人を押し退けて得をしようとする気風はなく、『それは個人めいめいに、他人よりも自分の方が優れているという事を人にも思わせ、また自分でもそう信じたいと思っている――その心持です。優越を感じたいと思っている欲望です。明治時代に成長したわたくしにはこの心持がない。あったところで非常にすくないのです。これが大正時代に成長した現代人と、われわれとの違うところですよ。』と述べさせている(自宅に原本が見当たらないので引用はSAMUSHI氏の「テツガクのページ」の「荷風を読んで 墨東綺譚再読」より孫引きした)。

「中島氏」不詳。芥川龍之介の従姉の子に中島汀なる人物がおり、新全集の人名解説索引には龍之介が勉強を見ていた旨の記載があるが、この人物か。先に示した本記載のソース「二つの絵」の会葬場見取り図にも「記録係」として「中島氏」とあり、宇野自身、「中島氏」とは誰であるか分からないままに、記したものと考えてよい。

以下の後記は、底本では全体が一字下げ。先に述べた通り、この誤りは小穴隆一の「二つの絵」の会葬場見取り図の誤りをそのまま引き写した結果である。因みに、この「中野重治」は翰林書房「芥川龍之介新辞典」の池内輝雄氏の「葬儀」の脚注によれば、神崎清(明治三十七(一九〇四)年~昭和五十四(一九七九)年:評論家。昭和九(一九三四)年から明治文学談話会を主宰、機関誌『明治文学研究』した。戦時中には大逆事件を、戦後は売春問題等を手掛けた。著作は「革命伝説」「大逆事件」「戦後日本の売春問題」等。)の誤りであった。]

(後記――この時、中野重治が列席していなかったことを、この本が出てからまもなく、本人から知らされた。これがほんの一例であるように、この本に書いたことのなかに、このようなマチガイがあることは必定であるから、ここでも、この事を、迷惑のかかった方方にお詫びし、その他の事を、読者に、御諄恕を乞う。)

[やぶちゃん注:「諄恕」は「じゅんじょ」と読むのであろう。敢えて言うなら「諄々として恕する」で、くどいくらいに何度も思いやりの心で過ちを許す、の意でとれなくもないが、「日本国語大辞典」にも「廣漢和辞典」の熟語にも出現しない。正直言わせてもらえば、「諒恕」の誤植ではなかろうか。]

 ところで、この明き地の右側と左側に、おなじ形〔かたち〕の大きな天幕〔てんと〕が張ってあって、両方とも、程よい所に、イスとテエブルが据えてある、つまり、『休憩所』である。そうして、その『休憩所』の接待係は、右側は、高田保、川端康成、斎藤龍太郎[その頃の文藝春秋社で、佐佐木茂索と同じくらいの位置にあった人]、藤沢清造[その一生を貧窮にくらしながら、決して人に頭をさげず、貧乏にめげず、芥川に「へんな芸術主義者だからな、」と云われ、久保田に「正義派」と云われたほど芸術一途な男で、『根津権現裏』というすぐれた長篇一冊だけ残して、昭和七年の二月、芝公園で妙な死に方をした。武田麟太郎は『根津権現裏』を激賞して居た。久保田、芥川、菊池、その他を「君〔くん〕」と呼ぶ人であった。いい人であった]等であり、左側に、犬養健[この頃は、苦労知らずの行儀のよい小説をかいた新作家で、「白樺」の傍系であった]、三宅周太郎、横光利一、中河与一等であった。

[やぶちゃん注:「三宅周太郎」(明治二十五(一八九二)年~昭和四十二(一九六七)年)は演劇評論家。堅実な歌舞伎・文楽の劇評家として知られ、文楽の興隆にも尽くした。正続とある「文楽の研究」は名著である。

「犬養健」この最後の連載時は、正に吉田内閣法務大臣として造船疑獄の自由党幹事長佐藤栄作収賄容疑での逮捕許諾請求に指揮権を発動した悪印象の直後であった。]

 さて、ここを通りすぎると、いよいよ斎場である。

 斎場の玄関をはいった所の、すぐ、右側には、葬儀係の、下島空谷[空谷は下島の俳号]、

香取秀真[優秀な鋳金家、子規門の歌人]鈴木氏亨[この時分、文藝春秋社の代理の一切の仕事をしていた人]、谷口喜作[うさぎやという菓子屋の主人、滝井に俳句をまなび、芥川家に出入りしていた人]等が立ち、左側には、記録係の、滝井孝作と菅 忠雄が立っていた。それから、奥の方には、右側に、喪主親族席には、菊池 寛、室生犀星、小穴隆一等が著席〔ちゃくせき〕し、左側に、会葬者席には、泉鏡花、里見 弴、その他が居ならび、すこし離れて葬儀係の、久米正雄、佐佐木茂索、小野田通平[この頃、新潮社の出版部長か]等がひかえていた。(それから喪主親族席の後〔うしろ〕の方に、広い婦人席があヶた。)

 そうして、柩は、いうまでもなく、正面の、奥の、本尊の前に、安置してあった。

[やぶちゃん注:「小野田通平」とあるが、小穴の会葬場見取り図には「小野田道平」とある。いずれにしても不詳。宇野の新潮社出版部長というのは会葬係としては不自然ではない。]

2012/05/09

宇野浩二 芥川龍之介 二十三~(12)

 その翌日(つまり、七月二十五日)の都下の各新聞は、(七八種の新聞は、)その第三面の殆んど全部を、芥川の自殺に関する記事で、埋めた。(その頃、出版社の間〔あいだ〕に、書籍や雑誌の宣伝のために、新聞に一ペイジの広告をする事が、流行したが、芥川の自殺の記事の出ていた第三面は、ちょっと見た瞬間、その『二へイジ広告』か、と思われた程であった。)

[やぶちゃん注:披見した昭和二年七月二十五日附『東京日日新聞』では下部の広告欄を除くほぼ十段の一面全部を芥川龍之介自殺関連記事で埋めている。]

 それは、一〔ひと〕つ一〔ひと〕つの見出しに、(例えば、『芥川龍之介氏』『劇薬自殺を遂〔と〕ぐ』『昨晩、滝野川の自宅で』『遺書四通を残す』というような文句に、)初号あるいは一号の活字をつかい、本文(例えば「二十四日午前七時市外滝野川田瑞四二五の自邸寝室で劇薬ベロナアル』および『ヂエアールを多量に服用して[中略]」にところどころゴシック活字をつかう、というような麗麗〔れいれい〕しい組み方で、仮りに一ペイジを六段とすれば、その六段全部に殆んど芥川の自殺に関する記事が出ていたのである。

[やぶちゃん注:ここで宇野が参照しているのは、昭和二年七月二十五日附の『東京朝日新聞』の方である。こちらは全十段の内、八段強相当を芥川龍之介自死関連に割いている。]

 つまり、芥川の自殺は、このように、文壇の人たちは、もとより、世人の耳目〔じもく〕をも聳動させたのであめる。

 

 七月二十四日の午後三時頃、家の者が、果物〔くだもの〕などを持って病院にたずねて来た時、問わず語りに、ふと、「……芥川さんが、昨夜〔ゆうべ〕、眠〔ねむ〕り薬〔ぐすり〕を飲みすぎて、……」というような言葉を、漏らした。

 と、虫が知らした、と云うか、この言葉が、私に、妙に、異様に、感じられた。なにか、どきッとしたような感じをうけた。

 それで、なにか予感のようなものを感じていたのか、その翌日、あの誇大な新聞の記事を見た時、もちろん、はッとしたが、それほど驚かなかった。

 その日も、どんよりした暑い日で、じっとしていても、体〔からだ〕じゅうに脂汗〔あぶらあせ〕がにじみ出た。私は、すこし気がおちつくと、「芥川は死んだ、」と、しみじみ、思った。が、ふと、「僕は、うんと暑い時に死んで、みんなを困らしてやるつもりだ、」と、芥川が、目尻と頰に例のいたずらっ児〔こ〕らしい笑いをうかべて、云った事を、思い出したりした。

[やぶちゃん注:宇野浩二の渾身の作品「芥川龍之介」のコーダ、ここに窮まれりの感がある。永遠に忘れることの出来ない本作の最も美事なシーンである。]

宇野浩二 芥川龍之介 二十三~(11)

 さて、遺書は、芥川夫人、小穴隆一、菊池 寛、竹内得二[註―養父の道章の弟、つまり芥川の叔父]あての四通と、伯母のふきと甥の義敏と、別に、『或旧友へ送る手記』とである、ところが、これらの中で、芥川は、殊更に、『旧友へ送る手記』の中に、「どうかこの手紙は僕の死後にも何年かは公表せず措いてくれ給へ、」と書いているが、これは、『思わせ振〔ぶ〕り』で、実は、この原稿だけは、「死後にすぐに公表」される事を予期していたのである。(こういう所にも芥川の仕組〔しくみ〕があるので、それは、芥川が、この手記風の手紙も、『或阿呆の一生』も、菊池に託さないで、融通のきく久米に、託している事だけでも、窺われるのである。)

[やぶちゃん注:芥川龍之介の遺書は、厳密に言うと(現在、作品に数えられている「或旧友へ送る手記」を除いて考える)、宇野が挙げている「小穴隆一」宛は昭和二(一九二七)年四月七日に「歯車」脱稿後、帝国ホテルで心中平松麻素子と心中未遂をした頃に書かれたものと推測される五枚から生前遺書で、外の実際の自死直近の遺書群とは区別する必要がある。その遺書群も「芥川夫人」宛一通(+断片二通)、「わが子等に」宛一通、「菊池 寛」宛一通、「竹内得二」宛(一通?)、「伯母のふき」宛(一通?)葛巻「義敏」宛(一通?)等、小穴宛生前遺書を含めると確実に総計七通を超える数の遺書があった。その内、紛失(焼却?)も含めて芥川文宛の複数(若しくは一通の一部)の一部、竹内得二宛・芥川フキ宛・葛巻義敏宛の四通から五通が未発表(恐らくは最早公開されないか、存在しない)である。この後、宇野は遺書の内容に触れていないが、私の渾身の電子テクスト「芥川龍之介遺書全6通 他 関連資料1通≪2008年に新たに見出されたる遺書原本やぶちゃん翻刻版 附やぶちゃん注≫」及び先行する旧全集版「芥川龍之介〔遺書〕(五通)」の私の注は是非お読み戴きたい。]

 

 さて、午後四時頃、久米は、佐佐木たちと一しょに、既に白木の台と晒木綿などの置いてある玄関をあがり、うすい掛け蒲団をかけてある既に仏〔ほとけ〕になつた旧友の枕元でしばらく目をつぶって黙禱し、それから、そこそこに、二階に、あがって行った。

 永眠した芥川の顔は、顎〔あご〕のへんに少〔すこ〕しばかり不精鬚〔ぶしょうひげ〕が生えていたが、平静で、清浄〔せいじょう〕で、冴え切って神神〔こうごう〕しく見えた。

 僕はこの原稿を発表する可否は勿論、発表する時や機関も君に一任したいと思つてゐる。

 君はこの原稿の中に出て来る大抵の人物を知つてゐるだらう。しかし僕は発表するとしても、インデキスをつけずにおいて貰ひたいと思つてゐる。

 僕は今最も不幸な幸福の中に暮らしてゐる。しかし不思議にも後悔してゐない。唯僕の如き悪夫、悪子、悪親をもつたものたちを如何にも気の毒に感じてゐる。ではさやうなら。僕はこの原稿の中では少くとも意識的〔やぶちゃん注:「意識的」には底本では傍点「ヽ」。〕には自己弁護をしなかつたつもりだ。

 最後に僕のこの原稿を特に君に托するのは君の恐らくは誰よりも僕を知つてゐると思ふからだ。(都会人と云ふ僕の皮を剥ぎさへすれば)どうかこの原稿の中に僕の阿呆さ加減を笑つてくれ給へ。

 これは、『或阿呆の一生』にそえた、久米正雄にあてた、手紙で、日づけは「昭和二年六月二十日」となっているから、『或阿呆の一生』を脱稿した月に、書いたものである。(実に『一糸〔し〕みだれず』という観があるではないか。)

 この手紙(『或旧友へ送る手記』)と『或阿呆の一生』の原稿を、久米は、二階の座敷(芥川の書斎であった部屋)で、籐椅子〔とういす〕に腰をかけていた時、芥川家の人から、わたされた。

 その頃は、小島政二郎、南部修太郎、野上豊一郎、野上弥生子、香取秀真、犬養 健、その他の人たちが、その応接間になっている座敷の中に続続とつめかけていた。

[やぶちゃん注:「犬養 健」(たける、明治二十九(一八九六)年~昭和三十五(一九六〇)年)は政治家・小説家。元首相犬養毅三男。法務大臣。長与善郎や武者小路実篤は義父の弟に当たり、彼等の影響下、白樺派の作家としてデビュー、大正十二(一九二三)年、処女作品集『一つの時代』を刊行、精緻な心理描写と繊細な感性が評価され、後に政治家に転身してからも文士の知友が多かった。昭和二十七(一九五二)年に吉田茂首相の抜擢で法務大臣に就任したが、造船疑獄における自由党幹事長佐藤栄作の収賄容疑での逮捕許諾請求を含めた強制捜査に対して重要法案審議中を理由に指揮権を発動、逮捕の無期限延期と任意捜査へと強引に切り替えさせて不評を買った。指揮権発動の翌日には法務大臣を辞任したが、この指揮権発動によって事実上の政治生命は絶たれ、この指揮権発動を理由として日本ペンクラブは彼の加入を拒否している(以上はウィキ犬養健」を参照した)。]

 久米は、ずっと後に、『或阿呆の一生』の原稿を「もう少し早くわたしてくれたら、死因などもすっきりして、別にいろいろ云われずにすんだと思うのだが、ごたごたがあってから渡されたものだから、……」と、こぼしたが、その時は、『或旧友へ送る手記』を発表すべきかどうか、というような問題などが出て、それがやっと決定する、というような状態であった。

 さて、やっと菊池がついたのは、長い夏の白が暮れて、もう暗〔くら〕くなった頃であった。菊池は、遺骸の前に、長い間、だまって、うつむいて、坐っていた、が、急に立ち上がって、小走りにあるき出し、二階にあがると、皆に目もくれず、噎〔むせ〕び泣きながら、廊下の隅の籐椅子の方へ、すごすごと、あるいて行った。

 菊池が着く少し前から、いろいろな新聞の記者が、おしよせて来て、これと思う人に、面会をもとめた。しかし、みな、「九時に、『竹むら』[前に書いた、六月十日頃の夜、私が高野と、芥川をたずねて行った家か]で、すべて、発表するから、」と云って、断った。

[やぶちゃん注:「竹むら」は芥川邸の近くにあった貸席。宇野の推測は恐らく誤りである。]

 

 さて、菊池が来〔く〕ると間〔ま〕もなく、軽井沢から、室生犀星が、駈けつけた。つづいて、斎藤茂吉、土屋文明、山本有三、その他も、やって来た。それから、どこからか聞き知って来〔く〕るのも可也〔かなり〕あった。又、悔みに来た人の中には、その頃めずらしかったラジオのニュウス放送で知ったと云うのもあった。

[やぶちゃん注:日本初のラジオ放送は、先立つ二年前の大正十四(一九二五)年三月二十二日に仮放送、本放送は同年七月二十一日に開始されたばかりであった。なお、このラジオの一件の記載は小穴隆一の「二つの絵」の「芥川の死」の末尾の記載に拠るものと考えてよい。
喪主は満七歳の長男芥川比呂志が務めた。通夜の様子は『納棺は今暁四時ふみ子夫人外二三の家族ばかりでしめやかに済ませ棺を玄関突き当りの八畳間に移し、すべて仏式でねんごろなる通夜をした』とあり、位牌の戒名(後の墓碑も)は故人の遺志によって俗名のまま、白木に「芥川龍之介之靈位」とあったとする(昭和二(一九二七)年七月二十六日及び二十七日附『東京日日新聞』の記事を引いた翰林書房「芥川龍之介新辞典」の池内輝雄氏の「葬儀」の項より孫引き。「霊」のみ正字に改めた)。『棺のうへの写真には、頬杖に倚つて前面を凝視したものを選んである。守刀がこれに添えられてある。此処には満室の花輪の香と香水の匂が強い。花の香に酔ふもののあるくらゐに強い』(昭和二(一九二七)年九月号『改造』所収の犬養健「通夜の記」より。前記の池内輝雄氏の「葬儀」の項より孫引き)。]

宇野浩二 芥川龍之介 二十三~(10)

 さて、これから書こうとする事は、芥川が死んでからの『伝説』である。

 十返舎一九が死んで、遺骸を茶毘に附すると、数道の星光が棺の中から逬〔ほとばし〕った。これは、一九が遺言して、会葬者を驚かせるために、棺の中に花火を仕掛けておく事を花火師に頼んであったからである。(ところが、この話は嘘で、これに似た話が一九の作品の中〔なか〕にあるのである。)

[やぶちゃん注:十返舎一九の荼毘花火の逸話は、出所データが不明ながら、宇野の言うような一九の作品中にあるのではなく、同時代人であった落語家初代林家正蔵(安永十・天明元(一七八一)年~天保十三(一八四二)年)のエピソードとしても知られており、実際には一九の逸話として伝えたのも正蔵であったというのが事実であるらしい。とすれば、実際には一九はやっておらず、正蔵がそうした都市伝説を高座で語り、実際に自分の葬儀でやった、というのが正しいのであろうか。識者の御教授を乞うものである。]

『伝説』とは大体こういうものであるから、私がこれから書こうと思う芥川の死後の伝説も、この一九の伝説と似たり寄ったりの物〔もの〕にちがいないから、その事を前以〔もっ〕てお断りしておく。――

 芥川が自殺しそうな心配がある、と思って、芥川の内〔うち〕の人たちは警戒していたが、殊に文子夫人は鵠沼にいる時分から夜となく昼となく警戒していた。ところが、芥川はその事を十分に知っていた。さて、七月二十四日の午前六時すこし前に、文子夫人は、芥川の寝顔が不断とちがう事を、発見した。そこで、すぐ呼ばれた下島が、さっそく飛んで来て、聴診器を耳にはさんで、「蓬頭蒼顔の唯ならぬ貌」をしている芥川の寝間著〔ねまき〕の襟をかきあけると、左の懐〔ふところ〕から西洋封筒入りの手紙がはねて出た。それを、左脇にいた夫人が、はッと叫んで、手に取った。それは遺書であった。

 やがて、下島が、「もう全〔まったく〕く絶望である、」と知って、近親その他の人びとに通知を出した頃は、午前七時を少〔すこ〕し過ぎていた。(その時分に、下島は、芥川の伯母から、「これは昨夜〔ゆうべ〕龍之介から、明日〔あした〕の朝になったら、先生にお渡〔わた〕ししてくれと頼まれました、」と云って、紙につつんだ物を、わたされた、それが例の『水涕や……』の句を書いた短冊である。)

 さて、下島は、手続きをするのにも菊池に来てもらわねばならぬ事情があるので、文藝春秋社に電話をかけさせた。そこへ、小穴がやって来た。小穴は、下島から芥川の死んだ事を聞くと、何ともいえぬ悲痛な顔をした、が、すぐ、芥川の最後の面影を写すために、縁の近くの程よい所に画架を据えた。(小穴がその木炭でその下図〔したず〕をかいていると、その画架のまわりをうろついていた長男の比呂志が、突然、心配そうに、小穴の画布をのぞいて、「絵の具、つけるの、つけないの、」と、小穴に、云った、それで、小穴が「あとで、」と答えると、比呂志は、安心したような顔をして行ってしまったが、間〔ま〕もなく、帳面とクレオンを持って、出て来たが、帳面とクレオンを持ったまま、しずかに眠っている父の枕元に、ぼんやり立っていた、という話が残っている。その時、比呂志は、かぞえ年〔どし〕、八歳であった。)

 さて、前の晩の二時頃に、芥川が、睡眠剤を飲んで、寝た、として、今朝〔けさ〕の六時すこし前に、文子夫人が、寝ている芥川が異常であるのを、知った、――と、三時、四時、五時、六時、と四時間である、「これは、」と不審に思った下島は、斎藤茂吉の睡眠剤や薬屋から取って来た薬の包み紙や日数などを、計算してみた。すると、ますます腑におちない。「そこで、奥さんや義敏君[註―芥川の姉の子、葛巻義敏]に心当〔こころあた〕りを聞いてみると、二階の机の上が怪しさうだ。すぐ上〔あが〕つて検〔しら〕べてみて、初めてその真因を摑むことが出来たのであつた、」と、下島は、書いている。

(芥川は、睡眠剤で死ねる、とは思っていなかったので、ほかの『クスリ』を用意していたのである。)

[やぶちゃん注:この下島の文章は昭和二(一九二七)年九月一日発行の『文藝春秋・芥川龍之介追悼号』に載った「芥川龍之介氏終焉の前後」からの引用である。山崎光夫氏の「藪の中の家」によれば、昭和二年八月五日の執筆年月日がクレジットされている。但し、下島はこの後にその『真因』を語っていないのである。宇野は芥川龍之介の死後、小峰病院を退院後に、以下に見るように、誰かからの伝聞によって、「ほかの『クスリ』」であるという情報を得たのであろうが(山崎氏は小島政二郎と推定しているが、私は微妙に留保したい。山崎氏が根拠として昭和三十五(一九六〇)年十二月号『小説新潮』に掲載された「芥川龍之介」の『実際、死後の彼の書斎には青酸加里が一ト罎〔びん〕あった』を挙げておられるのだが、寧ろこの部分は、その前に書かれた本宇野浩二作の「芥川龍之介」のここの叙述を下敷きにしていると考える方が自然な気がするからである)、宇野の言を俟つ前に、山崎氏が不審(というより確信)を抱くのは、下島自身が記した行動と、その文脈の最後に現れる『真因』という語の重みである。確かなことは宇野も後述するように、これはド素人であっても芥川が自死に用いた薬物が、実は現在でも公式に記されているところの睡眠剤ベロナールとジャールでは――ない――確実に死を迎えることの出来る必殺の毒物で――ある――にという、自死の『真因を摑むことが出来た』という意味でしか、読めないということである。]

 最後に僕の工夫〔くふう〕したのは家族たちに気づかれないやうに巧みに自殺することである。これは数箇月準備した後、兎に角或自信に到達した。   『或る旧友へ送る手記』の内

……彼女は何〔なに〕ごともなかつたやうに時々〔ときどき〕彼と話したりした。のみならず彼に彼女の持つてゐた青酸加里を一罎渡〔ひとびんわた〕し、「これさへあればお互に力強いでせう」とも言つたりした。   『或阿呆の一生』の中の『死』の内

 今度こそほんとに青酸加里を手に入れたよ。一寸〔ちよつと〕、君〔きみ〕、と言つて薬屋に這入つて行つた彼を神明町の入口〔いりくち〕の角〔かど〕で其の日見た。目薬の罎よりも小さい空罎〔あきびん〕を買つて、透かしてみながら、やつとこれで入物〔いれもの〕ができたよと嬉しさうにみえてゐた。   小穴隆一の『二つの絵』の内

[やぶちゃん注:私は特に小穴の記載に着目する。それは、この証言が真実を語っているとすれば、芥川は青酸カリを裸の粉末状態で一定量入手したという事実を指しているからである。則ち、芥川龍之介が入手した際、それが入っていた容器ごと入手は出来なかったことを意味する。また、余裕のある状態なら事前に壜を用意してそれを入れるだろうから、それを入手するシチュエーションが、比較的場当たり的な状況であるか、稀なチャンスであった、だから紙包とか封筒とか家庭内にあるピル・ケースのようなものに入れざるを得なかったのではないかと私は考えるのである。なお、青酸カリは、潮解により空気中の二酸化炭素と反応して猛毒のシアン化水素(青酸ガス)を放出しながら炭酸カリウムに変化してしまう(保管するだけでも家内の者にも危険が及ぶ可能性が生ずるし、長期にわたって開放的に放置すれば毒性は容易に失われてしまう)。特に日光に当たる状態では反応が進み易いため、空気に触れず、日光に当たらないよう、飴色の密閉したガラス瓶に保管するのが普通である。]

 右の三つの文章はみな一種の作品であるけれど、下島が「初めてその真因を摑むことが出来た」と書いているのは「(つまり、下島が芥川の机の上に見つけたのは、)『青酸加里』(つまり『シャン化カリウム』⦅Cyan Kalium⦆である。いうまでもなく、この薬は、猛毒薬であるから、下島は、その『真因』を公表しなかったのであろう。

 さて、下島が文藝春秋社にかけさせた電話によれば、菊池は、雑誌「婦女界」の講演のために、水戸から宇都宮の方へまわった、と云う。それで、下島は、近親の人たちと相談して、法律の手続きを取ることにした。

 やがて、警察官が来て、検案や調査をはじめた。方方に電報を打って通知した。そのうちに、鎌倉から、久米正雄と佐佐木茂索と菅 忠雄が駈けつけた。それが午後四時頃であった。夏の日はまだ高かった。

[やぶちゃん注:ここで多くの読者は、もし、山崎氏や私が考えるように青酸カリによる自死であったなら、何故、それが司法解剖(変死体で犯罪の結果の致死の可能性が疑われる場合の死因究明のための剖検)なり行政解剖(死因の判明しない犯罪性のない異状死体への死因究明のための剖検)なりが警察の検死によってなされなかったのかを疑問視されるであろう。それは下島医師が死亡診断書を書くに当たって、警察当局に、睡眠剤の「劇薬『ベロナール』と『ジャール』等を多量に服用」(昭和二年七月二十五日附『東京日日新聞』)したことによる「急性心不全」(山崎氏の「藪の中の家」での死因推定)であることを語り、当時の通報を受けて芥川家を訪れた担当警部補二人が、その下島の医師証言や家族の希望などを勘案して、解剖の必要を認めないと判断したからであると考えてよい。推理小説好きの方は、それでも当時であっても、もし青酸カリの自殺だったら、それは入手経路が問題にされるはずだ、と言われるであろう。下島から、もしかするとこの時の警部補らもそれが青酸カリ自殺であることを知らされていたのかも知れない(山崎氏は真相を下島は警部補らに話していたと考えておられるようである)。しかし、この時の芥川の身内・下島・警部補らは――そしてその直後に真相を知った周辺の人々も――『真相を包みこむ文学的処理は龍之介の名誉を守る』『芥川龍之介の場合、文学こそ真実だ』――という考えで一致した、と記しておられる。私も山崎氏の推論を支持するものである。読者の中のホームズ氏は――それでも尚且つ、入手先は? と食い下がるであろう。そこは山崎氏の名推理を「藪の中の家」で堪能されたいのである。……ヒントは……龍之介の辞世の句の……「鼻の先だ」け……である……♪ふふふ♪]

(ここで、書き忘れたことを述べる。――文子夫人に宛てた遺書の中に、「絶命後は小穴君に知らせよ、」という文句があったので、さっそく小穴の所へ葛巻が走ったので、小穴が一ばん早く来た。つぎに、近くの日暮里諏訪神社前に住んでいた、久保田万太郎が飛んで来た。)
[やぶちゃん注:言わずもがなであるが、ここらから後は、総て宇野の実体験に基づくものではなく、総て伝聞である。宇野自身は精神病院で『死ぬか生きるかの瀬戸際』(水上勉による底本の解説)にいたのである。宇野の叙述は会葬場の配置にまで及び、驚くべき精緻を凝らすのを不審に思われる読者も居ようが、これは小穴隆一の「二つの絵」の一四一頁に載せる精密巧緻な芥川龍之介の会葬場見取り図に拠るものである。その証拠は、後文で中野重治出席の誤りが中野自身によって指摘されたとあるが、小穴のそれには、はっきりと「記録係」の位置の左端に「中野重治」と記されていることから明白である。]

宇野浩二 芥川龍之介 二十三~(9)

 七月の初めに、私は、芥川に、斎藤茂吉を紹介してもらい、斎藤茂吉の世話で、滝野川のナニガシ病院に、入院した。

[やぶちゃん注:「七月初め」前掲の通り、現在の知見では宇野の入院は六月上旬である。

「滝野川のナニガシ病院」は王子の小峰病院のこと。現在の東京都北区滝野川北端は明治通りと本郷通りを境界に王子と接する。]

 私のはいった病室は六畳ぐらいで、両側が壁で、南側の一間半は、全体が窓で、四枚のガラス戸〔ど〕がはまっていて、中〔なか〕の二枚が観音開〔かんのんびら〕きになっていた。そうして、三尺ぐらいの幅の寝台が、窓にむかって右側の壁の際に、据えてあった。

 私が入院した七月の初め頃はまだそれ程ではなかったが、十日頃からしだいに温度が高くなり、中頃には華氏の九十度をしばしば越えるようになり、二十日頃〔はつかごろ〕には九十二三度ぐらいになった。

[やぶちゃん注:「華氏の九十度」は摂氏三二・二度、華氏「九十二三度」は摂氏三三・三から三三・九度。]

 二十日の夕方であったか、妻が、たずねて来て、その日の昼すぎに、「芥川さんが、お見えになりまして、僕は、旅の支度で忙しいので、病院までお見まいに行けないから、と、おっしゃいまして、これを持って来てくださいました、」と云って、その頃めずらしかったタオル地の寝間著〔ねまき〕と菓子箱を、風呂敷づつみの中から、取り出した。それから、芥川が、私の入院料の事から、内〔うち〕の暮らしの費用の心配までしてくれた事、「それから、宇野が、退院してから、困るような事があったら、文藝春秋社に行ったら、都合するように、菊池にたのんでありますから、と、芥川さんは、御深切に、云ってくださいました、」というような事を話してから、妻は、急に妙な顔をして、わざとらしく声をひそめて、「芥川さん、今日〔きょう〕は、めずらしく、妙に、そわそわしていらっしゃいました、」と云った。

[やぶちゃん注:「僕は、旅の支度で忙しいので」芥川龍之介の、この宇野の妻(八重)への伝言が真実だとすれば……これはドリュ・ラ・ロシェル&ルイマルの「鬼火」のアランの、正にあの台詞――「だけどもうすぐ出立〔たびだち〕だ……旅に出る……出発が送れてるんだ……気がつかなかったかい?』――ではないか! 宇野にして正に「恐ろしい」「不気味な」言葉であったはずであるが……宇野はそれを語っていない……

以下、二つの後記は底本では全体が一字下げ。]

 

 (後記――これも、後に述べてある、芥川が世を捨てる前にいろいろな『伝説』が流布したが、その中の一つに、芥川は、死ぬ覚悟をしてからは、大へん深切にした人たちと、その反対に、わざとらしい嫌〔いや〕がらせを云って閉口させた人たちと、――二〔ふ〕た通〔とお〕りある、という『伝説』である。そうして、その後者の例として、佐多いね子(その頃は窪川いね子)が、死ぬ数日前にたずねた時、芥川が「君は心中しそくなった時にどういう気持がしたか、」と云った、というのである。この話は、いくらか『伝説』ずきの私でも、信用しない。が、おなじ窪川いね子の処女作といわれる『レストラン洛陽』を「文藝春秋」に紹介したのは芥川である、という話もある。又、窪川鶴次郎に、おなじ頃、芥川が、ほんの少しの(志だけの)経済的な援助を一度したことがある、という話もある。但し、窪川や、その友人の中野重治や堀 辰雄などが、芥川を知ったのは、室生犀星を中心として出した、主として詩の雑誌「緒馬」の同人であったからであろう。)

[やぶちゃん注:窪川いね子(佐田稲子)が、この頃に偶然、近所に住んでいることを知り、堀辰雄を通して面会を申し入れていたのが、七月二十一日、夫の窪川と共に芥川龍之介を来訪、七年振りの再会を果たしたが、その際、芥川は自殺未遂の経験のある稲子に詳細を訊ねたのは事実であり、伝説ではない。また、稲子は非常に困惑し、薄気味悪く感じたことは事実であるが、それは『わざとらしい嫌がらせ』ではない。芥川は稲子には終始、好感を持っていた(彼女とは男女の関係にはなかった。が、しかし、窪川と彼女の関係を知って漠然とした嫉妬心を芥川が持った可能性はあり、それを強いて『わざとらしい嫌がらせ』の可能性があると言おうなら、言えぬとは言えないが)。それは、まさに自死の三日前のことであった。]

 

 (後記-それから、これは、誠に通俗的な『伝説』であるが、私のうろおぼえの記憶であるが、芥川が死んでからは、いろいろな『伝説』が新聞や週刊雑誌に出たが、その一つに、芥川家の女中のナニガシの話として、芥川は、伯母のところに紙につつんだ短冊をわたして、自分の部屋に帰る途中で、廊下、から名品の花瓶を庭にむかって投げつけた、というのが「ソレガシ」(週刊雑誌)に出た。それを読んだ菊池 寛が、「そんなら、芥川は、もっと三つも四つも花瓶を投げつけたら、死なずにすんだかもしれない、」と云った、誠しやかな、話も流布された。その他、これに似た『伝説』は私が聞いたり読んだりしたものでも十以上あるから、かかる伝説は数しれずあるにちがいない。)

[やぶちゃん注:これは、自死の四日前の七月二十日、伯母フキと諍いを起こして、フキが泣き出したために一度は宥めたものの、芥川自身の気持が収まらず、床の間にあった花瓶を庭石に投げつけた(宮坂年譜に昭和二年八月十四日「週刊朝日」の森梅子「芥川氏の死の前後」に基づく)という記事が誤って伝えられたもの(若しくは誤って宇野が伝え聞いたもの)であろう。]

 

 その翌日であったか、二人の看護人が、廊下を掃除しながら、「昨日は九十三度だつたそうだが、新聞を見ると、この暑さはつづくそうだが、やりきれないね。」「いや、もっと暑くなるそうだよ、それに、もう一と月以上も、雨が降らないからね、」というような話をしていた。

 ところが、その雨が、一と月と何日かぶりで、七月二十三日の夜中から、(正しく云えば、七月二十四日の午前二時頃から、)降り出した。

 七月二十三日は、九十五六度の暑さが夕方までつづき、八時を過ぎて、窓の外が暗くなってからも、まだ蒸し暑かった。それで、窓を細目〔ほそめ〕にあけて、十時頃に寝た私は、夜中に、窓の外〔そと〕に、雨の降る音を、うつつに、聞いたが、窓をしめて、すぐ又、眠ってしまった。

[やぶちゃん注:金子大輔気象から考え河童忌などによれば、気象庁天気相談所の公式なデータとして同年七月二十三日の最高気温は摂氏三五・六度、不快指数八九の猛暑日であったが、七月二十四日は最低気温二〇・七度、最高気温二六・八度という涼しさになっていたことと、暗い雲に覆われて雨が降りしきり、一四・二ミリの降水を観測していた、とある。そして金子氏は『寒冷前線が近づくと喘息の発作が起きやすい、うつ病が悪化する方が多いと話す人もいる。寒冷前線は、急激な気温低下・天候悪化などをもたらし、体にとって大きなストレスになる』として、当日の天候が芥川龍之介の自殺決行を促す一因子であった可能性を示唆されて興味深い。宇野が降雨の時間を記憶しているのも印象深いが、当時の宇野の病態を考えると、これは残念ながら、後の吉田精一の評論等に所載するデータを、自分のオリジナルな疑似記憶として取り込んでいる可能性が、残念ながら高い気がする。]

 芥川は、その雨の降り出した頃、死ぬクスリを飲んで、永久の眠りにつく床についた。それは七月二十四日の午前二時頃であった。そうして、その三十分ほど前に、(つまり、午前一時半頃に、)芥川は、伯母[註―養父道章の妹であり、実母ふくの姉である、芥川ふき]の寝ている枕元に来て、紙に包んだ短冊をわたしながら、「これを、明日〔あした〕の朝、下島さんに渡〔わた〕してください、先生が来た時、僕はまだ寝ているかもしれませんが、寝ていたら僕を起こさずにおいて、まだ寝ているからと云って、わたして下さい、」と云った。そうして、その短冊には、『自嘲 水涕や鼻の先〔さき〕だけ暮れ残る』と書いてあった。

[やぶちゃん注:「永久の眠りにつく床についた。それは七月二十四日の午前二時頃であった」とあるが、現在の年譜的知見では、この時刻に二階の書斎から階下に降り、文と三人の子の眠る部屋で床に就いたが、既にこの時、薬物を飲用していたとされる。「その三十分ほど前に、(つまり、午前一時半頃に、)芥川は……」は、現在では午前一時頃とされており、宇野の謂いはより細かいが、これは寧ろ宇野独自の情報ではなく、彼の推測(午前二時の雨の振り出し、同時刻の自殺決行という時系列から宇野が割り出した推測に過ぎないものと思われる。

以下、後記は底本では全体が一字下げ。]

(後記――この『水涕や鼻の先だけ暮れ残る』という句は、この時分に作られたものではなく、大正十二年の一月頃に作られたものである。おなじ「自嘲」という題で、おなじ頃、『元日や手を洗ひをる夕ごころ』という句がある。)

 これは芥川の死ぬ前の晩から夜中へかけての『伝説』である。(『伝説』とは、英語でいう“Tradition”とすれば、「口碑または文書によって伝えられた過去の事実、あるいは、事実と信じられた事件の伝承」という程の意味である。)

[やぶちゃん注:私は「伝説」というと、“legacy”を思い浮かべるが、因みにその違いを調べてみると、“legacy”は個人から個人へ受け渡されるもの、“tradition”は民族・結社・宗派といった集団から集団に受け渡されるものであるらしい。――なるほど――これは芥川龍之介の「遺産」とは何かを考える時、面白い違いである気がした――。]

 さて、こういう芥川の伝説は、寡聞な私の知っている限りでは、芥川の無二の親友であった小穴隆一の『二つの絵』の中に、もっとも多く出てくる。

 そこで、芥川のいろいろな伝説を作った人を、仮りに小穴その他とすれば、小穴その他は唯『伝説』を書いただけであって、その伝説を仕組〔しく〕んだのは芥川である。芥川が、東西古今のさまざまの伝説を『種』にして、いろいろな小説を作〔つく〕った事は、私が前にくどいほど述べ、多くの人が知っているとおりである。芥川は、創造したり空想したりする才能は、乏しかったようであるが、物事を仕組むことは実に巧みであった。

 ところで、芥川は、前にも述べたように、晩年になってからは、健康が弱るとともに、創作力もしだいに衰え、しまいには書くものが断片的になり、題材は幾らかちがっても、同じようなものばかり書いているような観があった。しかし、どの作品にも、何ともいえぬ哀調があり、底に切〔せつ〕ない悲しみが潜〔ひそ〕んでいる。そうして、芥川は、書く事を、死ぬ薬を飲む数時間前まで、つづけたのである。(後記――校正ずりを読みながら、ここのところを読んだ時、私は、芥川は実に『異常な人』であった、と、しみじみと思うのである。それは、この文章のなかで既に述べたように、芥川は、死ぬ前の年〔とし〕あたりから、強度の神経衰弱が高〔こう〕じて神経病者になっていた。そのほんの一つの例をあげれば、『歯車』のしまいの方の「何ものかの僕を狙つてゐることは一足毎に僕を不安にし出した。そこへ半透明な歯車も一つづつ僕の視野を遮り出した。……」という文句だけでも察せられるような状態であった。それにもかかわらず、芥川が、自殺をくわだてる一二時間ほど前まで、『続西方の人』の(22)『貧しい人たちに』を、少しも乱れない文章で書きつづけた、ということに、私は、文字どおり、驚歎し、実に『異常な人』であった、と感歎するのである。)

「わが父よ、若〔も〕し出来るものならば、この杯〔さかづき〕をわたしからお離し下〔くだ〕さい。けれども仕〔し〕かたはないと仰有〔おつしや〕るならば、どうか御心〔みこころ〕のままになすつて下〔くだ〕さい。」

 あらゆるクリストは人気〔ひとげ〕のない夜中〔よなか〕に必ずかう祈つてゐる。同時に又あらゆるクリストの弟子たちは「いたく憂〔うれ〕へて死ぬばかり」な彼の心もちを理解せずに橄欖の下に眠つてゐる。

 これは『西方の人』の中の(28)「イエルサレム」の最後の一節である。(後記――口さがない人たちは、⦅あるいは、根も葉もないことを喋る連中は、⦆さきに引いた、『西方の人』の(28)のなかの、「あらゆるクリストは人気のない夜中に必ずかう祈つてゐる。同時に又あらゆるクリストの弟子たちは『いたく憂へて死ぬばかり』な彼の心もちを理解せず……」という文句のなかの『弟子たち』は芥川の『弟子たち』を差すのであろう、と云う。しかし、私は、この言葉は信じたくないのである。)

[やぶちゃん注:「弟子たち」宇野は例えば龍門の四天王と呼ばれた連中や、その他の芥川に師事した若い作家志望の『若者』をイメージしていると考えてよい。則ち、当然の宇野は勿論、芥川の盟友であり、『弟子』ではない。ではないが、芥川龍之介が西方人」西方人」で自らをキリストに擬えた時、彼は年若の後の小説家や小説家志望の若者らだけを『弟子』と認識していたのでは、無論、ない。寧ろ、彼に敵対し、彼を正しく理解出来ない、彼よりも先に自らを預言者(作家)であると自認していた者達をこそ、真の教え(芸術世界)へと導くべき『弟子』と認識していたはずである。宇野には承服出来ないであろうが――それは、宇野が芥川を、いや、寧ろ、他の小説家や大衆が芥川龍之介という稀有にして孤高の小説家を、正しく見なかった、芥川と自分との間の『一歩』の違いを理解し得なかった、と芥川龍之介自身は感じていたのである(『天才とは僅かに我我と一歩を隔てたもののことである。只この一歩を理解する爲には百里の半ばを九十九里とする超數學を知らなければならぬ』。「侏儒の言葉」の「天才」)。芥川龍之介は、ある意味で(少なくともその生前に於いて)芸術家としては絶対の孤高者として、絶対の孤独の中で、軍靴の音が響き始める大日本帝国の幻影の城を見上げる曠野に立ち竦まざるを得なかった。しかしにも拘らず彼は、惨めな「失敗であった」自身の一個の生と死が、無数の彼を遺伝する未来人として復活することを予言して(『わたしは勿論失敗だつた。が、わたしを造り出したものは必ず又誰かを作り出すであらう。一本の木の枯れることは極めて區々たる問題に過ぎない。無數の種子を宿してゐる、大きい地面が存在する限りは。』(「侏儒の言葉」掉尾「民衆」)、自らを架刑したのである(リンク先は私の電子テクスト「正續完全版「西方の人」)。]

『西方の人』も、『続西方の人』も、芥川の死後、「遺稿」として、雑誌[註―「改造」の八月号と九月号]に出た。

 前者は七月十日に脱稿し、後者は七月二十三日に書き上げた。つまり、芥川は、『続西方の人』の最後の章(22)「貧しい人たちに」を書いた日の翌日の未明に、死んでしまったのである。

[やぶちゃん注:テクストから、最終章「貧しい人たちに」を引用しておく。

 

      22 貧しい人たちに

 

 クリストのジヤアナリズムは貧しい人たちや奴隷を慰めることになつた。それは勿論天國などに行かうと思はない貴族や金持ちに都合の善かつた爲もあるであらう。しかし彼の天才は彼等を動かさずにはゐなかつたのである。いや、彼等ばかりではない。我々も彼のジヤアナリズムの中に何か美しいものを見出してゐる。何度叩いても開かれない門のあることは我々も亦知らないわけではない。狹い門からはひることもやはり我々には必しも幸福ではないことを示してゐる。しかし彼のジヤアナリズムはいつも無花果〔いちじく〕のやうに甘みを持つてゐる。彼は實にイスラエルの民〔たみ〕の生〔う〕んだ、古今に珍らしいジヤアナリストだつた。同時に又我々人間の生んだ、古今に珍らしい天才だつた。「豫言者」は彼以後には流行してゐない。しかし彼の一生はいつも我々を動かすであらう。彼は十字架にかかる爲に、――ジヤアナリズム至上主義を推し立てる爲にあらゆるものを犧牲にした。ゲエテは婉曲にクリストに對する彼の輕蔑を示してゐる。丁度後代のクリストたちの多少はゲエテを嫉妬してゐるやうに。――我々はエマヲの旅びとたちのやうに我々の心を燃え上らせるクリストを求めずにはゐられないのであらう。]

2012/05/08

宇野浩二 芥川龍之介 二十三~(8)

 芥川が、一世一代の作品、『或阿呆の一生』を書き上〔あ〕げたのは、六月二十日〔はつか〕らしいが、『或阿呆の一生』を、何〔なん〕月何日頃から、書きはじめたかは、よく分〔わ〕からない、が、五月の終り頃か六月の初め頃ではないか、と思う。

 

『或阿呆の一生』は、五十一章になっているが、章が変〔かわ〕るごとに、原稿用紙が改めてあるそうであるから、思いつくままに、工夫〔くふう〕に工夫〔くふう〕を凝らし、文章を練〔ね〕りに練〔ね〕って、丹念に、書いたものにちがいない。(そのために、迫力の欠けているところも随分ある。)

[やぶちゃん注:「或阿呆の一生」は松屋製ブルー二百字詰原稿用紙に書かれている。タイトルの「或阿呆の一生」は、写真版原稿によって最初、「彼の夢――自伝的エスキス――」とされ、次に「神話〔しんわ〕」というルビ付き標題となり(この時点で副題の「自伝的エスキス」がどうなったかは不明)、最後に「或阿呆の一生」となったことが分かっている。葛巻義敏は「芥川龍之介未定稿集」で本作は二度以上書き直しているのではないかという推定を示しており(宇野と同意見)、「芥川龍之介新辞典」の関口安義氏の本文脚注では、本作は久米正雄が本作の『改造』誌上への発表に際して『「脱字乃至誤字と目されるべきもの」がかなりあると言及してい』ることから、『十分に練られた作品ではな』く、『不眠症にとらわれていた芥川には、もはや作品を十分に推敲するゆとりはなかったのである』と断じている。私は――私は本作は、寧ろ十分に練られたものだと思う。――しかし、その練り方は整序する方向へではなく、芥川龍之介という謎に満ちた『神話』を創造するための、時空間を自在に行き来するような驚天動地の『練り方』であったと考えている。「或阿呆の一生」は恐らく、永遠に解けぬように創られた推理小説である。]

 ところで、『或阿呆の一生』は、「自伝的エスキス」と云われているが、そういうところもあるけれど、全体から見て、『或阿呆(あるいは、或人間)の一生』という感じが殆んどない、が、芥川の晩年の「心象風景」として見れば、随所に、いたく心を打たれるものがある。

 しかし、極言すれば、「いたく心を打たれる」のは、『或阿呆の一生』の最後の数章だけぐらいなもので、他の大部分は、芥川好〔ごの〕みの、逆説的な話を、機智のある話を、あるいは、アフォリズムを、気どった文章で、書いたものである。(そうして、その中には、さすがに気のきいた物もあるが、つまらないのもある。)

 あの遺稿[註―『或阿呆の一生』]に書いてある言葉は多く短い。しかし私はちひさなふし穴のやうなあの短い言葉の一〔ひと〕つ一〔ひと〕つを通しても、君[註―芥川のこと]が感Jた精神の寂寥を覗き見る心地がした。

これは、島崎藤村の『芥川龍之介君のこと』[註―昭和二年の十一月号の「文藝春秋」に出た]という文章の中の一節である。

 これもなかなか気どった文章である。しかし、気どり方はちがうが、おなじ気どっていても、藤村の方が意地がわるく、龍之介の方は、見え張〔は〕ってはいても、さっぱりしていて、潔いところがある。(この『芥川龍之介君のこと』は、芥川が死んでから出たのであるが、『或阿呆の一生』一章一章を「ちひさなふし穴のやうなあの短い言葉」などと書いてある、この文章を、仮りに芥川が生前に読んだとすれば、芥川は、あの青白い顔を真赤〔まっか〕にして、怒〔おこ〕ったにちがいない、私でさえ、あそこのところ読んだ時は、「この書き方〔かた〕はあんまりひど過ぎる、」と思った程であるから。)

[やぶちゃん注:以上の宇野の義憤は私と完全にシンクロする。島崎藤村「芥川龍之介君のこと」は私のブログに電子テクスト化し、注も附してあるが、これは永久にHPからのブログ・リンクである。それはこの忌まわしい文章を、芥川龍之介を愛する私として、HPの芥川龍之介と対等な頁とすることを、私が許さないからである。]

 彼は「或阿呆の一生」を書き上げた後、偶然或〔ある〕古道屋の店に剥製の白鳥のあるのを見つそれは頸を挙げて立つてゐたものの、黄ばんだ羽根さへ虫に食はれてゐた。彼は彼の一生を思ひ、涙や冷笑のこみ上げるのを感じた。彼の前にあるものは唯発狂か自殺かだけだつた。彼は日の暮〔くれ〕の往来をたつた一人歩〔ある〕きながら、徐〔おもむ〕ろに彼を滅しに来る運命を待つことに決心した。

 これは、『或阿呆の一生』の最後の章にちかい、『剥製の白鳥』の一節である。

 芥川は、いよいよ自分でこの世(裟婆)を捨てる、という時まで、かがやいた芸術家であった、極度の神経衰弱にかかりながら、『死ぬ薬』を飲む時吾も、決して正気〔しょうき〕を失わなかった。

 されば、ここ書いた一節も、創作であるかもしれない、いや、創作であろう。しかし、創作、である、としても、この時すでに自殺を覚悟していた、とすれば、「彼は彼の、一生を思ひ、涙や冷笑のこみ上げるのを感じた」「日の暮の往来をたつた一人歩きながら、……」などというところは、文字どおり、悲痛である。

 ところで、この『剥製の白鳥』は、六月二十日〔はつか〕前後に、書いたものであろう。

 六月二十日、といえば、私は、日は忘れたが、六月の上旬に、芥川をたずねた。

[やぶちゃん注:以下の注で述べるが、この記憶は錯誤である可能性が高い。]

 

 六月上旬の或る日の夜の九時頃、上野桜木町の私の家をたずねて来た、高野敬録と一しょに、芥川を、訪問することになった、「中央公論」の編輯を、滝田樗陰の下で、長い間、していたのを、半分以上自分から進んで止〔や〕めた高野を、「文藝春秋」の編輯部に、世話してくれることを、芥川に、頼むためである。(その時分の「文藝春秋」は、『看板に偽〔いつわり〕なし』という諺〔ことわざ〕どおり、文芸雑誌であり、その頃、『文壇の檜舞台』と称せられた「中央公論」に、菊池に、はじめて、小説[註―『無名作家の日記』]を、たのみに行ったのは、高野であり、それ以来、芥川や菊池その他に、「中央公論」の原稿をたのみに行ったのは、殆んど皆、高野であったから、文藝春秋社に高野ははいれるであろう、と、こう、単純に、考えたからであった。それで、その時、高野は、文藝春秋社に、はいれなかったが。)

 さて、時間もおそく、その方〔ほう〕が便利であったから、桜木町の私の家から、田端の芥川の家まで、私たちは、人力車に、乗った。六月の晩としては珍しく初秋のような涼しい晩で、いや、肌寒い晩で、私は、車の上で、幾度か、単物〔ひとえもの〕の襟をかき合わせた。やがて、見なれた芥川の家の門の前に、車がついたので、玄関で声をかけると、めずらしく、夫人が出て来て、「すぐ近くにおりますから、呼んでまいりましょう、」と云った。が、私たちは、それは辞退して、「さしつかえのない所でしたら、おしえてくださいましたら……」と云って、芥川が原稿を書いているという、隠れ家の方へ、行くことにした。

 その家は、自笑軒[註―芥川の家(高台)の下の狭い町の中にあった。「天然自然軒」というのが本当の名で、茶料理専門も芥川のヒイキの家であったが、芥川の歿後、何十年、毎年、祥月命日(七月二十四日)の夜、友人たちが、芥川を思い出す『河童忌』をひらいたのも、この家である]の裏あたりの、静かな一軒家であった、(と思う。なにぶん、二十四五年前に、それも、夜、一度しか行った事がない所であるから、記憶はおぼろである、が、芥川の家の方から行って、自笑軒の前を通〔とお〕り、五六間〔けん〕ほど行ったところを右にまがり、曲〔まが〕ってからまた五六間ぐらい行った右側にあった、ように、覚えている。)

[やぶちゃん注:宇野のこの記憶には、私は錯誤があると踏んでいる。何故なら、現在の年譜的事実を並べて見た時、凡そこれから書かれるような――平常な状況下に宇野浩二自身がなかった――と考えられるからである。宮坂年譜などをもとにこの前後を見ると、

●五月中下旬か

精神に変調をきたし、母や内縁の妻八重、友人の画家永瀬義郎らに伴われて箱根に静養に行くも、途中の小田原の料理屋で突然薔薇の花を食べるような奇行があり、数日で帰京する。

●五月下旬

友人広津和郎・芥川龍之介・永瀬義郎らが、宇野発狂の報を受け、奔走する。

●六月二日

芥川龍之介の紹介で斎藤茂吉が宇野を診断する(同日診察後の宇野の同行は不明)。同夜十時頃、芥川は主治医で友人の下島勲を訪れ、宇野の病態を下島医師に説明している。

●六月上旬(二日から十一日前後)

斎藤茂吉の紹介によって、王子の小峰病院に嫌がる宇野浩二を半ば強制的に入院させる。以後の入院日数は七十日。

●六月十二日

午後、下島勲と宇野の症状などを談話。

●七月二十四日

芥川龍之介、自死(宇野は継続入院中)。

以上の経緯から、六月二十日には宇野は既に入院しており、芥川訪問などあり得ないのである。この錯誤記載の時期が宇野の発狂とシンクロしているのには、前にも少し書いたが、私は宇野の側の病跡学的な問題と大きな関係があると考えている。それはそれとして、宇野が先に引いた昭和二年一月三十日附宇野浩二宛芥川書簡に『高野さんがやめたのは気の毒だね。』の一言から、この宇野と高野の芥川龍之介訪問が事実あったとすれば(年譜上は確認されていないが、これは事実あったと考えてよい)、その上限は昭和二(一九二七)年二月から下限は同五月下旬の宇野が精神病の発作をする直前までである。しかし、五月は十三日から二十七日まで例の改造社の『現代日本文学全集』宣伝のための旅行に出ており、上記のように宇野の発作も起こっているから考えにくい。宇野が以下で、『六月の晩としては珍しく初秋のような涼しい晩で、いや、肌寒い晩で、私は、車の上で、幾度か、単物の襟をかき合わせた』と記す六月以外を信ずるならば、二、三月ではあり得ない。これは、四月下旬、いや、五月の上旬の記憶の錯誤ではあるまいか?

 更に付け加えるならば、芥川龍之介がこのような自宅近くに作業場を持っていたことも初耳である。宮坂年譜を見ると、六月の上旬の項に、『この頃、編集者や来客を避けるため、自笑軒の近くに家を借り、仕事場として利用していた』とはあるのだが、実はこれは、この宇野浩二「芥川龍之介」のここの記載にのみ拠ったもので、他にそのような事実を証明する事実はないようである。私は宇野のこの時期の記憶は、以上述べた通り、精神病発症の直後であるだけに信ずるに躊躇するのである。しかし、宇野のここでの道筋や家屋の描写は実にリアルである。逆に言えば、この作業場がこの時期にあったことが他のソースで立証されれば、私の宇野への疑惑は偏見であったことになる。情報があれば御教授願いたい。宇野のために。]

 背〔せ〕の低い枝折垣〔しおりがき〕があって、此方〔こちら〕から行くと、その枝折垣の手前の方に、柴折戸〔しおりど〕があった。そうして、その枝折垣の中に、五六坪の庭があって、その庭の向〔むこ〕うに、小ぢんまりした平屋建〔ひらやだ〕ての家が立っていた。そうして、その家の座敷のまん中〔なか〕の上〔うえ〕の方〔ほう〕に、明〔あか〕りが一〔ひと〕つ、ぽつりと、ついていた。それが妙に寂しべに見えた。

 私たちが、暗〔くら〕い狭〔せま〕い町町〔まちまち〕をたどって、その柴折戸の前に、立った時、これらの光景が、陰絵〔かげえ〕のように、見えたのであった。それとともに、その明〔あか〕りの下〔した〕に、二三人の人影が、影人形のように、あわただしく、動くのが、見えた、深閑〔しんかん〕とした町の中を、私たちがあるいて行った足音と、その 足音が柴折戸の前あたりに止〔と〕まった気〔け〕はいを、家の中にいた人たちが、覚〔さと〕ったのであろう。

「……客らしいね、」「うん、でも、……」と、云いながら、私たちは、暗い中で、顔を見あわして、ちょっと、ためらった。

 と、ふいに、玄関に、芥川の、立ちはだかるような恰好〔かっこう〕をした、影法師が、あらわれた。それを見つけた私は、思わず、はッと、声が出るほど、おどろいた、その影法師が、骸骨のように痩せ細って、見えたからである。

 しかし、それは、一瞬間で、私は、芥川の姿を見かけると、すぐ、「おおい、」と、向うまでとどくような声で、叫んだ。私は、自分の声のはずんでいるのが、自分で、わかった、うれしかったのである。芥川の方でも、私の声がすぐわかったらしく、「やあ、」と、元気のよい声で、答えた。

 ここで、思い出したが、(まちがっているかもしれないけれど、)その家は、玄関が二畳か三畳で、つぎの間〔ま〕が、あの表〔おもて〕の方から見えた座敷で、八畳ぐらいであったか、(と思う。)

 さて、先客は、二人であったか、私たちと入れ違いに、帰って行った。芥川は、客を送り出して、座敷に戻ってきて、私の方を見ると、いきなり、「君、困ったよ。……まあ、坐〔すわ〕りたまえ、」と云った、「今の人たちは、君が『婦人公論』に出した小説のことで、ゴタゴタがおこった、と云って、優に相談に来たんだよ。」

「……なに、『婦人公論』の小説って、」と、私は、ちょっと考えて、「ああ、そうか、『彼等のモダアン振り』というのか、」と聞いてみた。

「そうだよ、君、……彼等は、モダアンじゃないよ、だから、モダアンでない僕が、仲裁をたのまれて、因ってるんだ。」

 この小説は、たしか、その頃、井伏鱒二と、傾向は正反対であるが、『ナンセンス』文学の創始者と云われ、新進作家の雙璧と並〔なら〕び称せられた、中村正常と、私の注学校[大阪府立天王寺中学校]の国語の教師であり、旧派の歌人兼歌学者である、田中常憲の姪、女流文士志望者、伊牟田何子〔いむたなにこ〕と、――この両人の噂話を面白可笑〔おもしろおか〕しく作り上げた物であるが、どういう事を書いたか、きれいに忘れてしまった、殆んど悉く作り話であったからである。(唯、中村の最初の戯曲に、幕があくと、一人の青年が、仰向〔あおむ〕けに寝ながら、両足を壁に突っぱって新聞を読んでいる、というような場面があったのに感心し、次ぎに、「芸術復興」とかいう同人雑誌に出た、中村の小説の中に、恋い人にシュウクリイムを贈るのに、持って行くのが極〔き〕まりがわるかったのか、そんな事は趣きがないと思ったのか、シュウクリイムを、郵便配達人になって、「はい、小包、」と云って、とどける、というような場面があるのを、面白い事を書くもんだな、と思ったような記憶がある。それから、ついでに書くと、昭和五六年頃であったか、文藝春秋社から出していた「婦人サロン」という雑誌に、毎号、『ユマ吉ペソ子何とか』という連載読み物が出ていたが、その筆者が井伏鱒二と中村正常であり、たしか、ユマ吉が中村であり、ペソ子が井伏であった。いうまでもなく、『ユマ』とは『ユウモア』であり、『ペソ』とは『ペエソス』である。)

[やぶちゃん注:「彼等のモダアン振り」不詳。宇野の代表的作品一覧の中には見当たらない。宇野には登場人物に実際のモデルが多く、「大阪人間」(昭和二十六(一九五一)年)はモデルから告訴されて未完となっている。

「中村正常」(まさつね 明治三十四(一九〇一)年~昭和五十六(一九八一)年)は劇作家・小説家。岸田国士に師事し昭和四(一九二九)年に戯曲「マカロニ」で注目される。他に「ボア吉の求婚」「隕石の寝床」などのナンセンス・ユーモア作品を発表し新興芸術派の代表的作家となったが、後に文壇を離れた。女優中村メイコの父である(以上は講談社「日本人名大辞典」に拠った)。

「田中常憲」(つねのり 明治六(一八七三)年~昭和三十五(一九六〇)年)は歌人・教育者。鹿児島生。上京して落合直文に師事。二十三歳で小学校校長となり、長野・大阪・大分・福岡県・京都府福福知山から桃山の各中学校校長を歴任した。

「伊牟田何子」不詳。]

 さて、私が殊更このような事を書いたのは、私が芥川を訪問したのは、前に述べたように、昭和二年の六月十日頃であり、その六月十日頃には、芥川が、あの一世一代の『或阿呆の一生』を、この隠れ家で、一章ずつ、ぽつり、ぽつり、と書いていた時分である、そうして、私が、高野と、夜〔よる〕おそく、この隠れ家を、たずねた時、私たちより先きに芥川を訪問したのは、どうも、中村正常と伊牟田何子であるような気がするからである。

 しかし、私は、その時、芥川に、「君はそんなことを云うけど、君だって、ほんとは、『彼等』をモダアンだ、と思ってるんだろう、」と、云おう、と思ったのであるが、それは止めて、その時の訪問の目的である高野の勤め口の話をした。

 さて、その話がすんで、高野が帰って行き、二人〔ふたり〕きりになると、芥川は、「御馳走しようか、」と云った。「御馳走なら、何でもいいよ、」と私が云った。

 その『御馳走』というのは抹茶であった。

 今〔いま〕、思いがけなく、芥川が、茶を点じてくれるのは、私には、涙の出る程うれしい事であった、

 しかも、二人きりで。

 二人きりになると、二人は、やっと、寛〔くつろ〕ぎをおぼえた。が、ふと、茶を点じている芥川の手が、痩せて骨ばっているのに、目が止ったので、私が、思わず、「……君、ひどく、痩せたね、大事〔だいじ〕にしたまい、ね、」と云うと、芥川は、(芥川も、)私の顔を眺めながら、「君も、痩せたよ、養生したまい、ね、」と、同じような事を、しみじみした調子で、云った。

「……ここで、ずっと、書いてるの。」

「うん、書いてる、……しかし、先月は、書きなぐったので、つまらない物ばかりだ、……君、僕は、ね、書かなければならない。必要があって、書いたんだよ、……情ないよ。」(この時、芥川が、書きなぐつた、と云ったのは、『たね子の憂鬱』、『古千屋』、『冬』、『手紙』などで、これらの作品は、佐藤春夫が、「心にもない重たげな筆を義務を痛感しながら不機嫌さうに運んでゐる、」と説いているように、出来〔でき〕のよい物ではない。)

[やぶちゃん注:この証言が事実とすると、作品群から推すと一見、六月説が正しく見えるように叙述されてはいる。私の推測するように、五月説をとると、四月発表の作品には「三つのなぜ」「春の夜は」「誘惑」「浅草公園」「今昔物語鑑賞」といった、とても書きなぐったとは言えない、野心的な(若しくは「三つのなぜ」のように芥川にとって私的に深い意味のある)作品があるからである。]

「しかし、今夜〔こんや〕は、元気そうな顔をしているね、」と、そこで、私が、云うと、

「うん、」と云って、顔を上げた芥川は、久しぶりで見る『いたずらっ児〔こ〕』らしい笑い顔をしながら、「君の『軍港行進曲』の向こうを張った訳ではないが、横須賀を題材にした小説を書いたんだ。……妙な小説だけど、これは、ちょいと自信があるんだがね、……」

「長いもの、」と、私は、ちょっと息をはずまして、聞いた。

「いや、二十五枚だが、君の『軍港』のような勢いはないけど、……僕のは、二万噸の一等戦闘艦が、舞台だ、……が、結局、しまいに、その戦闘艦を人間にしてしまうのが『味噌』なんだけど、……」と云って、云ってしまってから、なぜか、芥川は、急に侘しそうな顔をした。

 しかし、その時は、私は、「戦闘艦を人間にしてしまう」などというのは、例の芥川の洒落〔しゃれ〕(『ざれごと』)であろうぐらいに、思っていた。(それが、『三つの窓』の㈢の『戦闘艦××』であった事は、後に知ったのである、「二万噸の××は白じらと乾いたドツクの中から高だかと艦首を擡〔もた〕げてゐた。彼の前には巡洋艦や駆逐艦が何隻も出入してゐた。それから新らしい潜航艇や水上飛行機も見えないことはなかつた。しかしそれ等は××には果〔はか〕なさを感じさせるばかりだつた。××は照つたり曇つたりする横須賀軍港を見渡したまま、ぢつと彼の運命を待ちつづけてゐた。その間もやはりおのづから甲板〔かんぱん〕のじりじり反〔そ〕り返つて来〔く〕るのに幾分か不安を感じながら。……」という文句で終つている『戦闘艦××』を、そうして、その『戦闘艦××』が芥川その人であった事を。)

[やぶちゃん注:「三つの窓」の脱稿は六月十日である。正に悩ましい日附けではないか!「書いたんだ」という過去形は確かに気になる。宇野が元気なら六月二十日は正にぴったりくるのだが、先に述べたようにそれはあり得ない。……いや……それより何より……宇野が……「三つの窓」の、正にこの「三 一等戰鬪艦××」の……

 

 横須賀軍港には××の友だちの△△も碇泊してゐた。一萬二千噸の△△は××よりも年の若い軍艦だつた。彼等は廣い海越しに時々聲のない話をした。△△は××の年齡には勿論、造船技師の手落ちから舵の狂ひ易いことに同情してゐた。が、××を劬〔いたは〕るために一度もそんな問題を話し合つたことはなかつた。のみならず何度も海戰をして來た××に對する尊敬の爲にいつも敬語を用ひてゐた。

 すると或曇つた午後、△△は火藥庫に火のはいつた爲に俄かに恐しい爆聲〔ばくせい〕を擧げ、半ば海中に横になつてしまつた。××は勿論びつくりした。(尤も大勢の職工たちはこの××の震へたのを物理的に解釋したのに違ひなかつた。)海戰もしない△△の急に片輪〔かわた〕になつてしまふ、――それは實際××には殆ど信じられない位〔くらゐ〕だつた。彼は努めて驚きを隱し、はるかに△△を勵〔はげま〕したりした。が、△△は傾いたまま、炎や煙の立ち昇る中〔うち〕にただ唸り聲を立てるだけだつた。

 それから三四日たつた後〔のち)、二萬噸の××は兩舷の水壓を失つてゐた爲にだんだん甲板も乾割〔ひわ〕れはじめた。この容子を見た職工たちは愈〔いよいよ〕修繕工事を急ぎ出した。が、××はいつの間にか彼自身を見離してゐた。△△はまだ年も若いのに目の前の海に沈んでしまつた。かう云ふ△△の運命を思へば、彼の生涯は少くとも喜びや苦しみを嘗め盡してゐた。××はもう昔になつた或海戰の時を思ひ出した。それは旗もずたずたに裂ければ、マストさへ折れてしまふ海戰だつた。……

 

そう……この……

『一萬二千噸』の『戰艦△△』が……

他ならぬ宇野浩二であることに……

これを書いている時点に於いても本人宇野浩二が全く気付いていないことに……

私は呆然とするほか……

ないのである……

いや……

分かっていなかったとは思われない……

もし、恐ろしい鈍感でないとしたら……

宇野は――この比喩を――自分とは絶対に認めないのだ、としか思えない――

絶対に自身の精神異常を――精神異常、則ち――「発狂」としたくないのである――

彼は自分はあくまでも――正常範囲での――たかが境界的な神経衰弱に過ぎなかったと――

固く信じていることになる――いや――信じているのである――と私は確信しているのである……

さればこそ宇野浩二にとって、この『戰艦△△』が、彼自身であろうはずが、ないのである――]

 さて、芥川は、その晩、「門のところまで送ろう、」と云って、提燈〔ちょうちん〕を片手に、飛び石づたいに、あるきながら、問わず語りに、「僕は、今、すこし骨の折れる原稿を書いているんだが、それを書き上げたら、ここを引きあげるつもりだ、」と云った。「ここにいる間は、うちには帰らないの。」「うちへ帰ったら、寝てばかりいる。」「体もなんだけど、……君、どうしたんだ、ひどく気が弱くなったね。」「……」「ね、しつかりしろよ。」「ありがとう。」(この時、ちょうど柴折戸のところに来たので、)「じゃ、」と私が云うと、「じゃ、さよなら、大事〔だいじ〕にしたまいね、じゃ、……」、芥川が、云った。

 今、この時の事をかんがえると、この時、芥川が、「すこし骨の折れる原稿」と云ったのが、『或阿呆の一生』であったのだ。

宇野浩二 芥川龍之介 二十三~(7)

 さて、丸善の二階といえば、最初の一章であるからか、たいていの人が知っている、『或阿呆の一生』の一ばん初めの『時代』が、やはり、丸善の二階が舞台になっている。必要があるので、つぎに、それを写す。

 それは或本屋の二階だつた。二十歳の彼は書棚にかけた西洋風の梯子に登り、新〔あた〕らしい本を探してゐた。モウパスサン、ボオドレエル、ストリントベリイ、イブセン、シヨウ、トルストイ……

 そのうちに日は迫り出した。しかし彼は熱心に本の背文字を読みつづけた。そこに並んでゐるのは本といふよりも寧ろ世紀末それ自身だつた。ニイチエ、ヴエルレエン、ゴンクウル兄弟、ダスタエフスキイ、ハウプトマン、フロオベエル、……

 彼は薄暗がりと戦ひながら、彼等の名前を数へて行つた。が、本はおのづからもの憂い影の中に沈みはじめた。彼はとうとう根気も尽き、西洋風の梯子を下りようとした。すると傘のない電燈が一〔ひと〕つ、丁度〔ちやうど〕彼の頭〔あたま〕の上に突然ぽかりと火をともした。彼は梯子の上に佇んだまま、本の間に動いてゐる店員や客を見下〔みおろ〕した。彼等は妙に小〔ちひ〕さかつた。のみならず如何にも見すぼらしかつた。

「人生は一行のボオドレエルにも若〔し〕かない。」

 彼は暫く梯子の上からかう云ふ彼等を見渡してゐた。

 おなじ丸善の二階が舞台になっていても、これは、さきに引いた『歯車』の中の一節とくらべると、感じもまるで違い、物も全然ちがう。つまり、先きに引いたところは、いくらか虚仮〔こけ〕おどしの感じのするところもあり、文章も素気〔そっけ〕ない感じさえあるが、何〔なに〕か側側〔そくそく〕と人の心に迫るものがあった、ところが、これは、文章が気がきいていて、様子〔ようす〕がよく、見得を切っている観さえあるが、読む者の心に殆んど残るものがない。

『楼門五三桐〔さんもんごさんのきり〕』という歌舞伎芝居で、石川五右衛門が、南禅寺の楼門にあがって、大見得を切りながら、「絶景かな、絶景かな、春の夕ぐれの眺め、価〔あたひ〕千金とは、……」と叫ぶところがある。

 それとこれとは全〔まった〕く違うけれど、私は、この『或阿呆の一生』が、はじめて、昭和二年の十月号の「改造」に、出た時、この一ばん初めの『時代』を読んで、「これはまずいな、」と思った、というのは、芥川が、本の一ぱい詰まっている丸善の書棚にかけた梯子の上に立って、傘のない一〔ひと〕つの電燈に照らされながら、下の方に動いている店員や客を見おろしで、「人生は一行のボオドレエルにも若〔し〕かない、」と、大見得を切りながら、叫んでいるのを、ふと、想像したからである。

 私は、ここで、二十歳の芥川が、こういう生意気な事を云うのが、おかしい、などと云うつもりではない、芥川が、相変らず、一等俳優を気取っているな、と思ったのである。

[やぶちゃん注:「見得を切っている」私の電子テクスト「或阿呆の一生」の最後に附した本章の別稿を以下に示す。

 

       一 時  代

 

 それは或本屋の二階だつた。二十歳の彼は書棚にかけた西洋風の梯子に登り、新らしい本を探してゐた。モオパスサン、ボオドレエル、ストリンベリイ、イブセン、シヨオ、トルストイ、………

 そのうちに日の暮は迫り出した。しかし彼は熱心に本の背文字を讀みつづけた。そこに並んでゐるのは寧ろ世紀末それ自身だつた。ニイチエ、ヴェルレエン、ゴンクウル兄弟、ダスタエフスキイ、ハウプトマン、フロオベエル、…………

 彼は薄暗がりと戰ひながら、彼等の名前を數へて行つた。が、本はおのづからもの憂い影の中に沈みはじめた。彼はとうとう根氣も盡き、西洋風の梯子を下りようとした。すると傘のない電燈が一つ、丁度彼の頭の上に突然ぽかりと火をともした。彼は梯子の上に佇んだまま、本の間に動いてゐる店員や客を見下した。彼等は妙に小さかつた。のみならず如何にも見すぼらしかつた。

 「何と云ふもの寂しさ、……」

 彼は暫く梯子の上からかう云ふ彼等を見渡してゐた。………

 

「何と云ふもの寂しさ、……」の部分はテクストを見て頂くと分かる通り、最初、『何と云ふ貧しさ!』と書いたものを削除線で消し、「何と云ふもの寂しさ、……」と書き直したものである。宇野の言うように、この初期形と比すと、芥川龍之介は「南禅寺山門の場」の五右衛門の如く、美事に見得を切っている、とは言える。

「楼門五三桐」は安永七 (一七七八)年の大阪初演の歌舞伎。初代並木五瓶作の全五幕の荒唐無稽な伝奇ロマン活劇であるが、宇野が引用する二段目の返し「南禅寺山門の場」の五右衛門の名台詞で専ら有名。

『昭和二年の十月号の「改造」に、出た時、この一ばん初めの『時代』を読んで、「これはまずいな、」と思った』というのは、死後の小説家としての芥川の名声や光栄に、傷が附くことを宇野は危惧したということになる。勿論、この「一 時代」や「或阿呆の一生」、更には宇野のように後期の芥川作品を評価しない(宇野は少なくとも「小説」としては評価ていない)評者もいることはいる。しかし、どうであろう、宇野の危惧は杞憂であったというべきであろう。「見得」を切らなかった宇野の作品は、今や容易に書店に見出すことも出来ない。宇野の嫌った「見得」が(宇野はそれが芥川の「小説」を似非物にしていると考えていると私は断言する)、皮肉なことに(宇野にとってである)芥川龍之介の「小説」人気の長命の一つの要因であることは間違いないのである。]

 芥川は、『一等俳優』の一人であった、が、普通の一等俳優に間間〔まま〕あるような、単純な心の持ち主ではなかった、そうして、すぐれて聡明な人であった、それから、前に何度か述べたようにはげしい神経衰弱にかかりながら、精神病者のようになりながら、頭の働きは殆んど鈍らなかった。それは、(そのほんの一例は、)『或阿呆の一生』の中の『剥製の白鳥』の書き出しの、

 彼は最後の力を尽し、彼の自叙伝[註―『或阿呆の一生』]を書いて見ようとした。が、それは彼自身には存外容易に出来なかつた。それは彼の自尊心や懐疑主義や利害の打算の未だに残つてゐる為〔ため〕だった。……

という文句だけでも、わかる。

 ついでに述べると、神経衰弱がひどくなるにつれて、芥川の頭〔あたま〕は、ますます、冴えてきたようにさえ、私には、思われるのである。

 それから、しばしば云うように、その作品が用意周到であったように、生活などもなかなか用意周到であった芥川は、自分が死んだ後の事まで、作品の事も、残った者たちの生活の事も、ちゃんと、抜かりなく、考えていたのである。

 何ものかの僕を狙つてゐることは一足〔ひとあし〕毎に僕を不安にし出した。そこへ半透明な歯車も一つづつ僕の視野を遮り出した。僕は愈〔いよいよ〕最後の時の近づいたことを恐れながら、頸すぢをまつ直にして歩いて行つた。歯車は数の殖〔ふ〕えるのにつれ、だんだん急にまはりはじめた。同時に又右の松林はひつそりと枝をかはしたまま、丁度細〔ちやうどこま〕かい切子硝子〔きりこガラス〕を透かして見るやうになりはじめた。僕は動悸の高まるのを感じ、何度も道ばたに立ち止まらうとした。けれども誰かに押されるやうに立ち止まることさへ容易ではなかつた。……

 これは、『歯車』の㈥の「飛行幾」の最後に近いとこかの、一節である。

 君は芸術の天にたぐひなき凄惨の光を与へぬ。即ち未〔いま〕だ曾〔かつ〕て無〔な〕き一つの戦慄を創成したり。[上田敏による]

[やぶちゃん注:これは「海潮音」のボードレールの上田訳の掉尾「梟」の後にポイント落ちで附された上田敏の解説に現れる。以下にその全文を引いておく。

 

現代の悲哀はボドレエルの詩に異常の發展を遂げたり。人或は一見して云はむ、これ僅に悲哀の名を變じて欝悶と改めしのみと、而も再考して終に其全く變質したるを曉〔さと〕らむ。ボドレエルは悲哀に誇れり。即ち之を詩章の龍葢帳中に据ゑて、黑衣聖母の觀あらしめ、絢爛なること繪畫の如き幻想と、整美なること彫塑に似たる夢思とを恣にして之に生動の氣を與ふ。是に於てか、宛もこれ絶美なる獅身女頭獸なり。悲哀を愛するの甚しきは、いづれの先人をも凌ぎ、常に悲哀の詩趣を讚して、彼は自ら「悲哀の煉金道士」と號せり。

 

           *

 

先人の多くは、惱心地定かならぬまゝに、自然に對する心中の愁訴を、自然其物に捧げて、尋常の失意に泣けども、ボドレエルは然らず。彼は都府の子なり。乃ち巴里叫喊地獄の詩人として胸奧の悲を述べ、人に叛き世に抗する數奇の放浪兒が爲に、大聲を假したり。其心、夜に似て暗憺、いひしらず、汚れにたれど、また一種の美、たとへば、濁江の底なる眼、哀憐悔恨の凄光を放つが如きもの無きにしもあらず。    エミイル・ルハアレン

 

ボドレエル氏よ、君は藝術の天にたぐひなき凄慘の光を與へぬ。即ち未だ曾て無き一の戰慄を創成したり。                       ヸクトル・ユウゴオ

 

「龍葢帳中」は「りようがいちようちう(りょうがいちゅちゅう)」と読み、「龍蓋」は超能力を持った龍を呪法によって封じ込めることを言う。ボードレールが魔術的自在性をその詩句に込めたことを比喩するものであろう。「黑衣聖母」黒い聖母マリア及び聖母子像。ここでは単にただ汚れて黒ずんだ聖像を指すのではなく、原始キリスト教以前にオリエント一帯に広まっていた大地母神信仰の習合されたそれをイメージし、原母(グレート・マザー)への畏怖を示す。「獅身女頭獸」スフィンクス。]

 これは、ヴィクトル・ユウゴオが、シャルル・ボオドレエルに宛てた手紙の中の、有名な文句であるが、誇張して云えば、この文句をいくらか思わせるようなものが、『歯車』の中に、ところどころに、ある。例えば、(そのほんの一例を上げると、前にも引いたかもしれないが、)つぎのようなところである。

 海は低い砂山の向うに一面に灰色に曇つてゐた。その又砂山にはブランコのないブランコ台が一〔ひと〕つ突つ立つてゐた。僕はこのブランコ台を眺め、忽ち絞首台を思ひ出した。実際又ブランコ台の上には鴉が二三羽とまつてゐた。鴉は皆僕を見ても飛び立つ気色さへ示さなかつた。のみならずまん中にとまつてゐた鴉は大きい嘴を空へ挙げながら、確かに四たび声を出した。

 芥川は、その作品の中に好んで鴉をつかうが、鴉といえば、斎藤茂吉が鴉を詠んだ歌の中に、こういうのがある。

  しまし我〔われ〕は目をつむりなむ真日〔まひ〕おちて鴉ねむりにゆくこゑきこゆ

  ひさかたのしぐれふりくる空〔そら〕さびし土〔つち〕に下〔お〕りたちて鴉は啼くも

[やぶちゃん注:「しまし」は上代語で、暫く、ちょっとの間、の意。いずれも「あらたま」所収の句。]

 さて、『歯車』は、ずっと前に述べたように、葛西善蔵がほめ、佐藤春夫が、芥川の作品の中で第一である、と激賞し、廣津和郎も「一ばん頭〔あたま〕に残つてゐる、」と云い、川端康成などは、「芥川氏のすべての作品に比べて、断然いいと思ふ、……文章までが『歯車』だけは何〔なん〕か違ふやうな気がし、自〔おのづか〕ら迫りながら、暢びてゐて、……芥川氏の気もちが一番よく出でゐると思ふ、……どこか気遣ひと正気の間ぐらゐな、……」と、述べている。

 この川端の説には私もほぼ同感であるが、又、『歯車』には川端の好きそうなところもある。

 が、いずれにしても、『歯車』は、欠点は随分あるけれど、これこそ、芥川が、必死で書いたようなところもある。そうして、この作品の中には、それこそ、「人生は地獄よりも地獄的である、」というところもあり、その実感のいくらか出ている.ところもある、それに、作者が夜〔よる〕となく昼となく悩まされた極度の神経衰弱から起こる脅迫観念と恐怖が一種の迫力をもって読者に迫ってくるところもある。

 ざっとこういう点で、『歯車』は、芥川の全作品の中で、もっともすぐれた作品という訳にはゆかないが、前にも書いたように、もっとも特殊な作品である。

 しかし、又、この『歯車』は、無理やりに、怪奇に、怪奇に、と工〔たく〕んでいるようなところが随所にあり、何〔なに〕も彼〔か〕もあまりに誇張して書いてあるので、不自然な気がするところも可也〔かなり〕あり、それに、筆がすべり過ぎていて、興味を殺〔そ〕ぐようなところも多分にある。

 それから、多くの人が問題にしている『歯車』の最後の「僕はもうこの先を書きつづける力を持つてゐない。かう云ふ気もちの中に生きてゐるのは何とも言はれない苦痛である。誰か僕の眠つてゐるうちにそつと絞め殺してくれるものはないか?」という文句なども、私などは、書き過ぎであるばかりで、なく、否味〔いやみ〕である、とさえ思うのである。

 しかし、さすがに、芥川は、『歯車』が書き過ぎであることは、覚〔さと〕っていた。それから、芥川は、『歯車』は、書き過ぎたところがあるばかりでなく、発表をはばかられるような所もあり、未定稿でもあったからか、筐底にしまってしまった。

 ところで、『歯車』を脱稿したのは四月七日であり、『歯車』は、芥川の物としては可なり長い方〔ほう〕で、七十五六枚であるから、立ち入った事を云えば、その時分の芥川は、どこかの雑誌にでも出して、金〔かね〕にかえた方が、便利であったのではないか、と思われるのに、それをしなかったのは、臆測を逞しくすれば、芥川の芸術的な良心と打算のためであったのであろうか。(ここで、『打算』というのは、この原稿⦅つまり『歯車』⦆を、死後に、家族のために、残しておこう、という程の意味である。)

[やぶちゃん注:厳密には「一 レエン・コオト」は、生前の昭和二(一九二七)年六月の『大調和』に「歯車」の題で掲載されている(全文公開が死後の十月一日発行の『文藝春秋』)。また、私も(というより、本作の内容に於いて、勿論)、「歯車」全体は、芥川が死後に公開されることを念頭に於いて「計画的に」(それは作品の随処に現れている)執筆したものと考えてよい(芥川龍之介の自死があってこそ「歯車」は絶対暗黒の強靭さを持つのであり、生き延びた芥川龍之介と名作「歯車」のツー・ショットなんどは全体にあり得ないのである)。但し、芥川龍之介が「歯車」を『筐底にしまってしまった』という宇野の表現は、如何なものか。先に宇野が、

(『歯車』は、原稿には、はじめ、『夜』とか、⦅『東京の夜』とか、⦆いう題をつけてあったが、佐藤春夫が、その原稿を見せられた時、『夜』というのは個性がなさ過ぎ、『東京の夜』というのは気取りすぎる、と云って、『歯車』という題をすすめた、と書いている。)

と述べている事実からも、これは言い過ぎである。四月七日の脱稿は現在の年譜的事実からも確定されているが(但し、それも掉尾のクレジットによって、である)、芥川は「歯車」を、恐らく最後まで改稿する努力を続けていたと私は考えている。]

 死後、と云えば、芥川が、いかに、自分の死後の名聞〔みょうもん〕の事や家族の事などを、気にしたか、――それは、『河童』の最後の方の、自殺したトックの幽霊と心霊学協会の会員との問答の報告(記録)の中の、「予の死後の名声は如何〔いかん〕?」「予の全集は出版せられしや?」(「君の全集は出版せられたれども、売行甚だ振〔ふる〕はざる如し、」)「予の全集は三百年の後、――即ち著作権の失はれたる後、万人の購〔あがな〕ふ所となるべし。予の同棲せる女友だちは如何?」「予が子は如何?」「予が家は如何?」などという記事だけを見ても、大凡〔おおよ〕その一端が窺われるであろう。

 ところで、前に述べたように、芥川が、『歯車』の最後の分〔ぶん〕㈥『飛行磯』を脱稿したのは、四月七日である。

 昭和二年になってから、芥川は、力作、『玄鶴山房』、『河童』、それから、『歯車』、と、書いてまったく、精根を、使い尽〔つく〕してしまった。

 それで、芥川の最後の作品は、(作品らしい作品は、)未定稿ではあるが、『歯車』である、という事になる。

2012/05/04

宇野浩二 芥川龍之介 二十三~(6)

「河童」などは時間さへあれば、まだ何十枚でも書けるつもり。唯婦人公論の「蜃気楼」だけは多少の自信有之候。但しこれも片々たるものにてどうにも致しかた無之候。何かペンを動かし居り候へども、いづれも楠正成が湊川にて戦ひをるやうなものに有之、疲労に疲労を重ねをり候。[中略]一休禅師は朦々三十年と申し候へども、小生などは碌々三十年、一爪痕も残せるや否や覚束なく、みづから「くたばつてしまへ」と申すこと度たびに有之候。御憐憫下され度候。この頃又半透明なる歯車あまた右の目の視野に廻転する事あり、或〔あるひ〕は尊台の病院[註―青山脳病院]の中に半生を了ることと相成るべき乎……

[やぶちゃん注:「楠正成が湊川にて戦ひをるやうなもの」勝ち目のない戦さと知りながら、死を覚悟で出陣したことを比喩する。

「一休禅師は朦々三十年と申し候……」は一休話の一つとして伝わる、一説に一休辞世の句とされるものの、最初の句を指して言っているものと思われる。

  朦々然而三十年

  淡々然而三十年

  朦々淡々六十年

  末後脱糞捧梵天[以下略]

   朦々然として三十年

   淡々然として三十年

   朦々淡々 六十年

   末期の脱糞 梵天に捧ぐ[以下略]

「朦々」とはこの場合、心がぼんやりとすることで、迷いに迷って、の意。「淡々」は悟りの境地を指している。

「碌々三十年」一休はそれでも三十年の迷いを経て悟達し得ましたが、小生は、凡俗そのままに全く以て役立たず、たいした事も出来ないままに、その三十年が過ぎてしまいました、と言っているのである。]

 これは、芥川が、昭和二年の三月二十八日に、斎藤茂吉に宛てて、書いた手紙の中の一節である。

 さて、『歯車』は、㈠「レエン・コオト」、㈡「復讐」、㈢「夜」、㈣「まだ?」、㈤「赤光」、㈥「飛行機」の六章から成り立っている。

『歯車』(一種の連作)を書こうと思い立った時の芥川は、文字どおり、必死の覚悟をしたかもしれない。少なくとも、『歯車』を書く時、芥川は、(たとい「ペンを執る手も震へ出し」ていた、としても、)奮〔ふる〕い起〔た〕ったにちがいない。それは、『河童』が不評であったことも応〔こた〕えたであろう、しかしそれ以上に、これが「最後」というような気もちもあったのではないか。

 三月、――芥川は、二十三日に、まず、「レエン・コオト」を書いた、(「レエン・コオト」を読んだ人は、作者の精神が少し異常ではないか、というような気がするであろう、さて、)「レエン・コオト」を書いて、へとへとになり、暫く休んで、二十七日から、何〔なに〕かに急〔せ〕き立てられてでもいるように、二十七日に、「復讐」を、二十八日に、「夜」を、二十九日に、「まだ?」を、三十日に、「赤光」を、書いた、そうして、それから一週間ほど後に、(四月七日に、)最後の「飛行機」を、書き上げた。

 ここで、ついでに述べると、『歯車』の㈠から㈤までの主〔おも〕な舞台をホテルにしている事なども、芥川が、このような健康状態にあっても、いかに「用意周到」な人であったかが、わかるのである。「用意周到」といえば、芥川は、死後の事まで、「用意周到」な人であったのだ。この事については、例によって、後に、稍〔やや〕くわしく述べるつもりである。

 僕はもう夜〔よる〕になつた日本橋通りを歩きながら、屠竜[註―竜を屠り殺すこと」という意味である、ついでに書くと『屠竜の技』という句がある。これは荘子の『説剣篇』中の「主泙漫学屠竜於支離益殫千金之家三年技成、而無所用其巧」から出た句で、「芸に長じているけれど、時世に用をなさない」という譬]と云ふ言葉を考へつづけた。それは又僕の持つてゐる硯の銘にも違ひなかつた。この硯を僕に贈つたのは或若い事業家だつた。彼はいろいろの事業に失敗した揚句〔あげく〕、とうとう去年の暮に破産してしまつた。僕は高い空を見上げ、無数の星の光の中にどのくらゐこの地球の小〔ちい〕さいかと云ふことを、――従つてどのくらゐ僕自身の小さいかと云ふことを考へようとした。しかし晝間は晴れてゐた空もいつかもうすつかり曇つてゐた。僕は突然何ものかの僕に敵意を持つてゐるのを感じ、電車線路の向うにある或カツフエへ避難することにした。

[やぶちゃん注:「屠竜」の割注を補足する。「とりょうのわざ」「とりゅうのわざ」と読むが、これは「荘子」の「雑篇」「列禦寇篇 第三十二」にある故事に基づくもので、宇野の引用を書き下すと、「朱泙漫〔しゅひょうまん〕、竜を屠〔ほふ〕るを支離益〔しりえき〕に学び、千金の家を殫〔つ〕くし、三年にして技成るも、其の巧を用うる所無し。」と読む。本来は、世俗に於いてはそうした多大の犠牲を払いながら徒労に終わる、全く無駄な人為というものに満ち満ちていることを喩える語である。ところが、本邦では、第二次世界大戦中の大日本帝国陸軍戦闘機である二式複座戦闘機キ四五改の愛称として知られるように、「屠龍の技」を、「龍を殺すという想定外の事態に備えたような研鑽や努力」「その仕儀を讃えること」という全く逆の意味にも使われる傾向がある。道家の本義に帰って考えれば、これは『無用の用』とも言えなくもないと私は思うので、これもあり、であろうとは思う。但し、芥川龍之介がここで「考へ」ているのは、「荘子」の意味する完全なる徒労であり、更に言えば、芥川龍之介の「龍」への関係妄想としての、「屠龍」であろう。なお、芥川は「歯車」の「三」(引用の前の部分)では、「屠龍」の故事を「韓非子」と誤って記している。更に、役に立たない徒労という謂いは芥川龍之介が好んだもので、そこでも回想しているように、若き日のペン・ネームに類語の「壽陵余子」を用いた「骨董羹―壽陵余子の假名のもとに筆を執れる戲文」がある。これには私藪野直史の暴虎馮河の現代語訳『芥川龍之介「骨董羹―寿陵余子の仮名のもとに筆を執れる戯文―」に基づくやぶちゃんという仮名のもとに勝手自在に現代語に翻案した「骨董羹(中華風ごった煮)―寿陵余子という仮名のもと筆を執った戯れごと―」という無謀不遜な試み』がある。興味のあられる方は御笑覧あれ。]

 これは、『歯車』の中の㈢「夜」のなかの一節である。(『歯車』は、原稿には、はじめ、『夜』とか、⦅『東京の夜』とか、⦆いう題をつけてあったが、佐藤春夫が、その原稿を見せられた時、『夜』というのは個性がなさ過ぎ、『東京の夜』というのは気取りすぎる、と云って、『歯車』という題をすすめた、と書いている。)

 さて、先きの話のつづきで、『僕』という主人公が、「或カツフエへ避難」してからの事を、つぎのように書いてある。

……僕は一杯のココアを啜り、ふだんのやうに巻煙草をふかし出した。巻煙草の煙は薔薇色の壁へかすかに青い煙を立ちのぼらせて行つた。この優しい色の調和もやはり僕には愉快だつた。けれども僕は暫らくの後、僕の左の壁にかけたナポレオンの肖像画を見つけ、そろそろ又不安を感じ出した。ナポレオンはまだ学生だつた時、彼の地理のノオト・ブツクの最後に「セント・ヘレナ、小さい島」、と記してゐた。それは或〔あるひ〕は僕等の言ふやうに偶然だつたかも知れなかつた。しかしナポレオン自身にさへ恐怖を呼び起〔おこ〕したのは確かだつた。……

 僕はナポレオンを見つめたまま、僕自身の作品を考へ出した。するとまづ記憶に浮かんだのは「侏儒の言葉」の中のアフオリズムだつた。(殊に「人生は地獄よりも地獄的である」と云ふ言葉だつた。)それから「地獄変」の主人公、――良秀と云ふ画師の運命だつた。それから……

[やぶちゃん注:ナポレオンの話はネット上で検索をかけると、ナポレオンが学生時代、授業で地図を開いていたところ、セント・ヘレナ島という島がたまたま目に留まり、何気なくノートに「セント・ヘレナ」と落書きしたとあり、実話らしいと記されている。確かな伝記か何かの一級資料が出典なのであろうか。識者の御教授を乞う。]

 ここに引いた文章をあらためて読みかえして、『屠竜』という硯をくれた若い事業家が、いろいろの事業に失敗した挙句〔あげく〕の果てに、とうとう破産してしまった、とか、昼間は晴れていた空もすっかり曇り、「突然何ものかの僕に敵意を持つてゐる」のを感じて、「避難」するために、電車通りの向うにある、或カッフェに駈け込む、とか、そのカフェの壁にかかっているナポレオンの肖像画を見つけて、ナポレオンが、学生時代に、地理のノオト・ブックの最後に「セント・ヘレナ、小さい島」と書いた、という話を思い出して、「そろそろ又不安を感じ出した、」とか、そのナポレオンの肖像画を見つめながら、自分の作品の、『侏儒の言葉』の中の「人生は地獄よりも地獄的である」というアフォリズムや、『地獄変』の主人公の絵師の良秀の運命を考え出した、とか、――それからそれと、よくも、このような不吉な事や気味のわるい話を、段取りよく、巧みに、書いたものだ、と、私は、今更ながら、感心した。

 しかし、『地獄変』は、ずっと前に述べたように、上手〔じょうず〕な絵巻物を見るような感じがするだけに止〔とど〕まり、「人生は地獄よりも地獄的である」というアフォリズムはただ言葉だけで、空虚な感じがする。しかし、『歯車』は、それらのものとは違う。『歯車』にも随所に作り事のようなところはあるけれど、『歯車』には、ところどころに、切羽〔せっぱ〕つまった気もちが、出ていて、読む者の心に迫ってくるものがある。

 僕は丸善の二階の書棚にストリントベルグの「伝説」を見つけ、二三頁〔ペイジ〕づつ目を通した。それは僕の経験と大差のないことを書いたものだつた。のみならず黄いろい表紙をしてゐた。僕は「伝説」を書棚へ戻し、今度は殆ど手当り次第に厚い本を一冊引きずり出した。しかしこの本も挿し画の一枚に僕等人間と変りのない、目鼻のある歯車ばかり並べてゐた。(それは或独逸人の集めた精神病者の画集だつた。)僕はいつか憂鬱の中に反抗的精神の起るのを感じ、やぶれかぶれになつた賭博狂のやうにいろいろの本を開いて行つた。が、なぜかどの本も必ず文章か挿し画かの中に多少の針を隠してゐた。どの本も?――僕は何度も読み返した「マダム・ボヴアリイ」を手にとつた時さへ、畢竟(ひつきやう)僕自身も中産階級のムツシウ・ボヴアリイに外ならないのを感じた。……

 日の暮に近い丸善の二階には僕の外に客もないらしかつた。僕は電燈の光の中に書棚の間をさまよつて行つた。それから「宗教」と云ふ札を掲げた書棚の前に足を休め、緑いろの表紙をした一冊の本へ目を通した。この本は目次の第何章かに「恐しい四つの敵、――疑惑、恐怖、驕慢(けうまん)、官能的欲望」と云ふ言葉を並べてゐた。僕はかう云ふ言葉を見るが早いか、一層反抗的精神の起〔おこ〕るのを感じた。それ等の敵と呼ばれるものは少〔すくな〕くとも僕には感受性や理智の異名に外ならなかつた。

[やぶちゃん注:『ストリントベルグの「伝説」』一八九七年に刊行された自伝小説で、創作活動と錬金術への傾斜から困窮、強迫観念と幻聴を伴う精神変調と治療、神秘主義者スウェーデンボリの思想との接触による救済から妻との離婚に至るストリンドベルグが自ら『地獄』と呼んだ時代を描く(以上は二〇一〇年花書院刊の三嶋譲『「歯車」の迷宮〔ラビリンス〕」』の記載を参照した)。]

ここにも芥川の(芥川流の)虚構はあるかもしれない。しかし、この文章には遊びがなく透〔す〕きがない。この丸善の二階の書棚の前で「賭博狂のやうにいろいろの本」を開いている人間の姿は痛ましく、その人間の心も痛ましい。(それから、ついでに書くと、右の文章の中の、「僕等人間と変りのない、目鼻のある歯車ばかり並べてゐた、」とか、「なぜかどの本も必ず文章か挿し画の中に多少の針を隠してゐた、」とか、いう文句は、これこそ、異様であり、気味がわるい。もっとも、芥川が愛読したゴオゴリの初期の作品には、これらよりもっと異様な気味のわるい物はあるが、……)

2012/05/03

宇野浩二 芥川龍之介 二十三~(5)

『芥川龍之介』の人と芸術について書いている人たちが、「十人が十人まで」と云ってもよい程、『点鬼簿』、『玄鶴山房』、『河童』、その他について述べる時、「既に死を覚悟していた作者は、……」という文句を、使っている。しかし、これらの作品を、発表された時、はじめて読んだ時は、私は、作者が「死を覚悟」して書いたなどという事は、まったく考えなかった。いや、はじめて読んだ時は、そんな事は少〔すこ〕しも頭〔あたま〕に浮かばなかった、そんな事が頭に浮かびようもなかったからでもある。

 凡そ一〔ひと〕つの作品は、作者が、それを書く時、どういう心の状態にあったか、というような事と殆んど関係はない。

 ところが、こんど、芥川の最晩年(つまり、昭和二年)の幾つかの作品をくりかえし読んでみて、芥川の最晩年の作品だけは、「作者が、その作品を書く時、どういう心の状態にあったか、」という事と、かなり関係がある事を、私は、感じたのである。

……芥川龍之介! 芥川龍之介、お前の板をしつかりとおろせ。お前は風に吹かれてゐる葦だ。空模様はいつ何時〔なんどき〕変るかも知れない。唯しっかり踏んばつてゐろ。それはお前自身の為〔ため〕だ。同時に又お前の子供たちの為だ。うぬ惚れるな。同時に卑屈にもなるな。これからお前はやり直すのだ。

 これは『闇中問答』の最後の一節である。

[やぶちゃん注:「闇中問答」の私の電子テクストは、こちら。]

 私が、この『闇中間答』をはじめて読んだのは、昭和二年の九月号の「文藝春秋」に出た時である。(この「文藝春秋」は、『芥川龍之介追悼号』であり、その「文藝春秋」の発行所は、東京市麹町区下六番町であるから、文藝春秋社が、有島武郎邸を借りていた時分である。その頃、直木三十五が、有島邸の近くに、住んでいた。さて、文藝春秋社は、この『芥川龍之介追悼号』を出してから間もなく、あの内幸町の大阪ビルディングの二階に、移転したのである。――こういう事を書いていると、その時分の事をよく知っている私は、懐しさとともに、ありふれた言葉であるが、そのありふれた言葉どおり、『感慨無量』である。)

 さて、その「文藝春秋」には、遺稿として、巻末に、この『闇中問答』が出〔で〕、巻頭に、『十本の針』と『或旧友へ送る手記』とが出ている。(猶、この『或旧友へ送る手記』は、「文藝春秋」、のほかに、「改造」にも、都下の新聞にも、出たように思う。)

[やぶちゃん注:「或旧友へ送る手記」は、宇野の言う通り、自死の翌日の昭和二(一九二七)年七月二十五日の『東京日日新聞』と『東京朝日新聞』に初出掲載され、同年九月号『文藝春秋』と『改造』に再掲されている。]

 それから、ついでに述べると、前に書いたほかに、芥川の死後、遺稿として、『西方の人』は、「改造」の八月号に、『続西方の人』は、「改造」の九月号に、『歯車』は、「文藝春秋」の十月号に、『或阿呆の一生』は「改造」の十月号に、発表せられた。

  私がこういう事を殊更に書いたのは、『西方の人』や『続西方の人』や『十本の針』や『闇中問答』や『歯車』や『或阿呆の一生』などを、芥川が死んでから二三箇月後〔かげつのち〕に読むのと、全集になってから読むのと、その全集をずっと後に読むのと、では、それぞれ、読む人に、随分ちがった感銘をあたえるに違いないと思うからである。

 若し天国を造り得るとすれば、それは唯地上にだけである。この天国は勿論茨〔いばら〕の中に蕎薇の花の咲いた天国であらう。そこには又「あきらめ」と称する絶望に安んじた人々の外には犬ばかり沢山歩〔ある〕いてゐる。尤も犬になることも悪〔わる〕いことではない。

 これは、『十本の針』の中の『天国』という一節であるが、この一節を、芥川が死んでから二た月〔つき〕も立たないうちに、「文藝春秋」の九月号で、読んだ時は、私は、ぞっとした。

 ところが、その時から二十五六年も過ぎた今、この一節をおちついて読むと、これも、亦、散文詩のようなものである。しかし、最後の方の「人々の外には犬ばかり沢山歩いてゐる、」というところなどは、今よんでも、ずいぶん気味がわるい。

[やぶちゃん注:「十本の針」の私の電子テキストは、こちら。]

 ところで、『或阿呆の一生』は、前に述べたように、気の向いた時に、一節ずつ書いて行って、六月(何日〔なんいち〕かわからぬが)に、脱稿している。それから、『十本の針』は、これも何日かわからないけれど、七月に、脱稿している、が、芥川は七月二十四日に世を捨てたから、七月の上旬に、書き上げたものであろう。

[やぶちゃん注:現在の年譜的知見によれば、「或阿呆の一生」の脱稿は六月二十日で(同日中に久米正雄に同作を託す文章を書いている。「十本の針」の脱稿は不詳。]

『或阿呆の一生』も、『十本の針』も、一節一節が極めて短かいのは、根気がなくなったからである。それから、大正十五年の末から昭和二年の七月までの作品の中に、ときどき、同じような事を、書いているのは、書くべき事を殆んど書きつくしてしまったからである。そうして、それらの作品の中に出てくる、芥川のもっとも得意なものとされているアフォリズムの文句も、つまらなくなり、精彩がなくなった。(私には、大抵の人がほめる、『侏儒の言葉』は、面白いところもあるが、殆んど興味が感じられない。しぜん、『或阿呆の一生』の中のアフォリズムめいた文章を、私は、あまり取らない。)

 あらゆる古来の天才は、我我〔われわれ〕凡人の手のとどかない壁上の釘に帽子をかけてゐる。尤も踏み台はなかつた訣ではない。

 しかしああ言ふ踏み台だけはどこの古道具屋にも転がつてゐる。

 これは、『侏儒の言葉』の中の、ふと開いたところから、引いたのであるが、ちょいとは面白いようであるが、私には、つまらない。

[やぶちゃん注:以上の引用は「侏儒の言葉」の「作家」十一章の内の、連続する二つを並べたもので、これはこの十一章全部を通読して初めて面白い。私の電子テクスト『「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版)』で確認されたい。]

 ところで、『闇中問答』(何という陰気な題であろう)は、(昭和元年十二月)とあるから、わかりよく云えば、大正十五年十二月二十六日以後に、書かれたものであろう。とすると、この作品は、芥川が、心のもっとも迷っていた時分に、書いたものである。それで、今よむと、死ぬ覚悟をきめていたらしいようなところも窺われるが、弁解めいた、(いや、はっきり弁解をした、)文句が随所にあり、後に、『河童』や『或阿呆の一生』などに出てくるのと同じ話が方方〔ほうぼう〕に使われている。そうして、この同じような話が到る処に出てくると、何〔なに〕か痛痛〔いたいた〕しい気がする。

[やぶちゃん注:「闇中問答」の初出である昭和二(一九二七)年九月号の『文藝春秋』の「編集後記」で、菊池寛はその執筆時期を『昨年末若しくは今年初のもの』と推定している。]

 しかし、又、その同じような話の中〔なか〕の一〔ひと〕つである、「僕は死ぬことを怖れてゐる。が、死ぬことは困難ではない。僕は二三度頸〔くび〕をくくつたものだ。しかし二十秒ばかり苦〔くる〕しんだ後は或〔ある〕快感さへ感じて来る。僕は死よりも不快なことに会〔あ〕へば、いつでも死ぬのにためらはないつもりだ、」などというところを読むと、相変らず痩せ我慢を言っているな、と思って、苦笑するような気もちになる。

 ところが、又、この『闇中問答』の中には、まだこの世に、(芥川の好きな言葉をつかうと、この裟婆に、)未練たっぷり、というような口ぶりが、随処に、見られる。

 それで、さきに引いた、この『闇中問答』の最後の、「芥川龍之介! 芥川籠之介、お前の根をしっかりとおろせ。お前は風に吹かれてゐる葦だ。空模様はいつ何時〔なんどき〕変るかも知れない。唯しつかり踏んばづてゐろ。……」という文句を、仮りに、芥川が、自らを戒め、自らを励ます言葉と取れば、これは、まったく、文字どおり、悲壮な覚悟ではないか。(芥川が、この『闇中間答』を、せっかく書きながら、生前に、発表しなかった気もちが、私には、よおく分かる気がするのである。)

 芥川は、こういう覚悟をして、『玄鶴山房』、『蜃気楼』、『河童』、と、つづけざまに、必死に、書いたに違いない。(『必死』とは、「死を決してなすこと」とか、「死力を尽すこと」とか、いう程の意味であるが、芥川が『玄鶴山房』と『河童』をつづけさまに書いた時は、文字どおり、「必死」であったのだ。)

 芥川は『玄鶴山房』に精根〔せいこん〕をかたむけ、『河童』に精根をつくした。

 仮りに芥川が、『河童』と『或阿呆の一生』との中で、自分の事と自分の気もちとを述べた、とすれば、先きに述べたように、『或阿呆の一生』には飾りが多く、『河童』の方が、飾りが少なく、芥川という人を、ひょいひょいと、現しているところがある。

 私は、ずっと前に述べたように、『河童』の中に、随処に、芥川の、苦悩、悲哀、不平、不満、その他が、現れているのを、殊更に高く買うのである。

……殊に家族制度と云ふものは莫迦げてゐる以上にも莫迦げてゐるのです。トツクは或時窓の外を指さし、「見給へ。あの莫迦げさ加減を!」と吐き出すやうに言ひました。窓の外の往来にはまだ年〔とし〕の若い河童が一匹、両親らしい河童を始め、七八匹の雌雄〔めすをす〕の河童を頸のまはりへぶら下げながら、息も絶え絶えに歩いてゐました。

 これは、一〔ひと〕つ戯画として見ても、面白いばかりでなく、何ともいえぬ物悲しいところもあるではないか。

 しかし、これは『河童』の中のほんの一〔ひと〕つの場面であって、人物(いや、河童)として、作者がもっとも身を入れて書いているのは、トックという詩人とクラバックという音楽家とマッグという哲学者である。そうして、この三匹の芸術家は、それぞれ、作者の分身である。

 トックは超人(超河童)であり、クラバックは「この国の生んだ音楽家中〔ちゆう〕、前後に比類のない天才」であり、マッグは、「いつも薄暗い部屋に七色の色硝子〔いろガラス〕のランタアンをともし、脚の高い机に向ひながら、厚い本ばかり読んでゐる」哲学者である。

 さて、この河童の国に、クラバックとならんで称せられているロックという音楽家がある。クラバックは、そのロックの存在を大〔たい〕へん気にしていて、「ロツクは僕の影響を受けない。が、僕はいつの間〔ま〕にかロツクの影響を受けてしまふ、……ロツクはいつも安んじてあいつだけに出来る仕事をしてゐる。しかし僕は苛〔い〕ら苛〔い〕らするのだ。それはロックの目から見れば、或〔あるひ〕は一歩〔いつぽ〕の差かも知れない。けれども僕には十哩〔マイル〕も違ふのだ、」と云う。――このクラバックの言葉は、つまり、芥川の本音〔ほんね〕である。

 芥川の本音、と云えば、私が、『河童』の中で、いろいろ心を引かれた所の中から、その一〔ひと〕つを、すこし長いけれど、つぎに、うつそう。

「………」

「この近頃マツグの書いた『阿呆の言葉』と云ふ本を見給へ。――」

 クラバツクは僕に一冊の本を渡す――と云ふよりも投げつけました。それから又腕を組んだまま、突〔つつ〕けんどんに、かう言ひ放ちました。

「ぢやけふは失敬しよう。」

 僕は悄気〔しよげ〕返つたラツプと一しよにもう一度往来へ出ることにしました。人通りの多い往来は不相変山毛欅〔あひかはらずぶな〕の並〔な〕み木のかげにいろいろの店を並〔なら〕べてゐます。僕等は何と云ふこともなしに黙〔だま〕つて歩いて行きました。するをこへ通りかかつたの髪の長い詩人のトツクです。トツクは僕等の顔を見ると、腹の袋から手巾〔ハンケチ〕を出し、何度も額を拭ひました。

「やあ、暫らく会〔あ〕はなかつたね。僕はけふは久しぶりにクラバツクを尋ねようと思ふのだが、……」

 僕はこの芸術家たちを喧嘩させては悪〔わる〕いと思ひ、クラバツクの如何にも不機嫌だつたことをトツクに話しました。

「さうか。ぢややめにしよう。何しろクラバツクは神経衰弱だからね。……僕もこの二三週間は眠られないのに弱つてゐるのだ。」

「どうだね、僕等と一しよに散歩をしては?」

「いや、けふはやめにしよう。おや!」

 トツクはかう叫ぶが早いか、しつかり僕の腕を摑みました。しかもいつか体中〔からだぢゆう〕に冷〔ひ〕や汗を流してゐるのです。

「どうしたのだ?」

「どうしたのです?」

「何〔なに〕あの自動車の窓の中から緑いろの猿が一匹首を出したやうに見えたのだよ。」

 僕は多少心配になり、兎に角あの医者のチヤツクに診察して貰ふやうに勧〔すす〕めました。しかしトツクは何と言つても、承知する気色〔けしき〕さへ見せません。のみならず何〔なに〕か疑はしさうに僕等の顔を見比べながら、こんなことさへ言ひ出すのです。

「僕は決しで無政府主義者ではないよ。それだけはきつと忘れずにゐてくれ給へ。――ではさやうなら。チヤツクなどは真平御免〔まつぴらごめん〕だ。」

 僕等はぼんやり佇〔たたず〕んだまま、トツクの後〔うし〕ろ姿を見送つてゐました。

 この一筋の中で、特に、トックが気違いになりかかっているところの書き方は、巧妙を極めている。

 ところで、この一節を読んで、私は、『歯車』の㈡『夜警』の中の次ぎの一節を、思い出した。

 或精神病院の門を出た後、僕は又自動に乗り、前のホテルへ帰ることにした。が、このホテルの玄関へおりると、レエン・コオトを着た男が一人何〔ひとりなに〕か給仕と喧嘩をしてゐた。給仕と?――いや、それは給仕ではない、緑いろの服を着た自動車掛りだつた。僕はこのホテルへはひることに何〔なに〕か不吉〔ふきつ〕な心もちを感じ、さつさともとの道を引き返して行つた。

 この主人公も一種の精神病者であるが、この書き方も、やはり、実に旨いものである。

 ところで、作者はこの哀れな詩人のトックを、(この『河童』の国に登場する河童たちの中で作者が一ばん愛していたらしいトックを、)自殺させている。

 硝子会社の社長のゲエルに、「何しろトツク君は我儘だつたからね、」と云われ、医者のチャックに、「トツク君は元来胃病でしたから、それだけでも憂鬱になり易かつたです、」と云われたトックは、つぎのような詩を、書き残している。

 いざ、立ちて行かん。裟婆界を隔つる谷へ。

 岩むらはこごしく、やま水〔みづ〕は清く、

 薬草〔さくさう〕の花はにほへる谷へ。

哲学者のマッグは、「これはゲエテの『ミニオンの歌』の剽窃ですよ。するとトック君の自殺したのは詩人としても疲れてゐたのですね、」と云う。

 しかし『万葉集』の中にも、

  神さぶる岩板こごしきみよしぬのみくまり山を見ればかなしも

という歌もある。

 いずれにしても、作者の芥川は、自殺したトックについても、身に抓〔つま〕れたように、いろいろと、書いている。

「あなたはトツク君の死をどう思ひますか?」

「いざ、立ちて、……僕も亦いつ死ぬかわかりません。……裟婆界を隔つる谷へ。……」

「しかしあなたはトツク君とは親友の一人〔ひとり〕だつたのでせう?」

「親友? トツクはいつも孤独だつたのです。……裟婆界を隔つる谷へ……トツクは不幸にも、……岩むらはこごしく……」

「不幸にも?」

「やま水は清く、……あなたがたは幸福です。……岩むらはこごしく。……」

 これは、トックの自殺の報を聞いて駈〔か〕けつけて来た、哲学者のマッグと音楽家のクラバックが、死んだトックの亡骸〔なきがら〕の傍で、交〔か〕わしている話である。

 芥川は、『河童』の中で、こういう事を、書いているのである。

 私は、『河童』は、芥川の最晩年の作品の中で、いろいろな欠点はあるけれど、最後のかがやかしい「火花」である、と、確信するのである。

[やぶちゃん注:引用では分かり難いので注しておくと、台詞の話者は、

マツグ「あなたはトツク君の死をどう思ひますか?」

クラバツク「いざ、立ちて、……僕も亦いつ死ぬかわかりません。……裟婆界を隔つる谷へ。……」

マツグ「しかしあなたはトツク君とは親友の一人〔ひとり〕だつたのでせう?」

クラバツク「親友? トツクはいつも孤独だつたのです。……裟婆界を隔つる谷へ……トツクは不幸にも、……岩むらはこごしく……」

マツグ「不幸にも?」

クラバツク「やま水は清く、……あなたがたは幸福です。……岩むらはこごしく。……」

である。私の電子テクストで確認されたい。

以下、本引用に現れた部分について、私の『芥川龍之介「河童」やぶちゃんマニアック注釈』から引用しておく。出来れば、この前後の注も参照されたい。

・「こごしく」古語「凝(こご)し」で、凝り固まっているさま。険しいさま。

・「これはゲエテの『ミニヨンの歌』の剽竊ですよ」ここでマッグが剽窃だ言う Johann Wolfgang Goethe ゲーテ(一七四九年~一八三二年)の“Mignon”「ミニヨンの歌」は、現在、「ヴィルヘルム・マイスター修業時代」の第三巻に収められている南欧への憧れを詠った著名な詩“Mignon”の内(“Mignon”と称するものは他にも三種ある)、最終第三連である。以下にドイツ語原詩を示し(引用はドイツのテキスト・サイトから)、後に該当部分の訳詩集「於母影」の森鷗外訳を(岩波版新書版選集を底本として正字に直した)、その後に高橋義孝訳を示し(こちらは新全集三嶋氏注解に示されたものの孫引き)、最後にトックの詩を掲げて参考に給する。

 

  Kennst du den Berg, und seinen Wolkensteg?

  Das Maultier sucht im Nebel seinen Weg;

  In Höhlen wohnt der Drachen alte Brut;

  Es stürzt der Fels und über ihn die Flut,

  Kennst du ihn wohl?

     Dahin! Dahin

  Geht unser Weg! o Vater, laß uns ziehn!

 

   *

 

  立ちわたる霧のうちに驢馬は道をたづねて

  いなゝきつゝさまよひひろきほらの中には

  もも年經たる竜の所えがほにすまひ

  岩より岩をつたひしら波のゆきかへる

  かのなつかしき山の道をしるやかなたへ

  君と共にゆかまし

 

   *

 

  ご存じなの、その山を、雲の行きかう山道を?

  らばは霧の中で道をさがし、

  ほら穴には、年老いた龍の族が住み、

  岩は切り立って、その上を滝が流れていて――

  御存じなの、あの山を?

  さあゆきましょう、あの山へ、

  この道真直ぐに。お父さま、

  さああの山へ!

 

   *

 

  いざ、立ちて行かん。娑婆界を隔つる谷へ。

  岩むらはこごしく、やま水は淸く、

  藥草の花はにほへる谷へ。

 

それにしてもこのマッグは残酷である。自殺したトックの死体の前で微苦笑さえ浮かべて、こんな死者を辱しめる言葉を吐けるとは。いや、それが河童の世界なのである。いや、人間世界のように虚飾を排した正直な感懐と言うべきなのかも知れない。そうして――そうしてこの時、芥川龍之介は、五ヶ月後の、自分自死の後に集まった文人たちの思いを、既に以ってここに悪意を以って(こうした行為を果たして「悪意」と言うだろうか?)予言してもいたものであろう。

 

「神さぶる岩板こごしきみよしぬのみくまり山を見ればかなしも」は、「万葉集」巻七の一一三〇番歌、

     芳野にて作れる

  神〔かむ〕さぶる岩根〔いはね〕こごしきみ吉野の水分山〔みくまりやま〕を見れば悲しも

で、詠み人知らず。「水分山〔みくまりやま〕」とは奈良県吉野郡吉野町の吉野山最南端にある青根ヶ峰のこと。この峰は極めて特異な分水嶺で、この山に降った雨は東に流れると音無川となり、蜻蛉の滝を経て吉野川に合流する。また、南に流れるそれは丹生川となり、下流の五条市で吉野川に合する。更に、西は秋野川から吉野川へと続き、北は喜佐谷を流れ下って(「象の小川」と呼ばれる)宮滝で吉野川と合流している。「悲しも」は「愛しも」である。

〇やぶちゃん通釈

……神々しくも岩と石が積み重なり聳え立つ吉野の水分山〔みくまりやま〕……それを見上げると……不可思議な畏敬の念と不可思議な帰属の念と……むらむらと湧き起こってくる、この私の心に……切ないまでに!……]

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