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カテゴリー「「生物學講話」丘淺次郎【完】」の238件の記事

2018/02/13

幾つかのサイト版についてのお断り

労多くして、讃辞のない「北條九代記」サイト版のほか、「耳囊」「生物學講話」(後者二本はブログ版は完成済み)のサイト版は、既公開分は残すが、以降の版は作成をしないことに決した。悪しからず。

実は讃辞などなくてもいいのだが、問題はルビ・タグの不具合が頻繁に起こってイライラすることと、外部リンク付け作業が大変だからである。されば向後、

「北條九代記」(オリジナル電子化注の残りは「卷第十二」のみ)

「耳囊」(二〇一五年四月二十三日附・オリジナル電子化訳注完成済み)

「生物學講話」(二〇一六年三月三日附・オリジナル電子化注完成済み)

は、それぞれ、以上のリンク先のブログ版で読まれたい。悪しからず。

2016/03/03

丘淺次郎 生物學講話 目次

[やぶちゃん注:以下、「目次」であるが、リーダと頁数は省略する。サイト版もよろしく! なお、本日2016年3月3日より、丘淺次郎進化論講話」藪野直史附注』をブログで新たにカテゴリを作って始動した。今度は、そちらもよろしく御愛顧の程、お願い申し上げる。

 

生物學講話 目次

 

 第一章 生物の生涯

  一 食うて産んで死ぬ

  二 食はぬ生物

  三 産まぬ生物

  四 死なぬ生物

  五 生物とは何か

 第二章 生命の起り

  一 個體の起り

  二 種族の起り

  三 生物の起り

  四 刹那の生死

 第三章 生活難

  一 止まつて待つもの

  二 進んで求めるもの

  三 餌を作るもの

  四 殺して食ふもの

  五 生血を吸ふもの

  六 泥土を嚥むもの

  七 共食ひ

 第四章 寄生と共棲

  一 吸著の必要

  二 消化器の退化

  三 生殖器の發達

  四 成功の近道

  五 共棲

 第五章 食はれぬ法

  一 逃げること

  二 隱れること

  三 防ぐこと

  四 嚇かすこと

  五 諦めること

 第六章 詐欺

  一 色の僞り

  二 形の僞り

  三 擬 態

  四 忍びの術

  五 死んだ眞似

 第七章 本能と智力

  一 神經系

  二 反射作用

  三 本能

  四 智力

  五 意識

 第八章 團體生活

  一 群集

  二 社會

  三 分業と進歩

  四 協力と束縛

  五 制裁と良心

 第九章 生殖の方法

  一 雌雄異體

  二 雌雄同體

  三 單爲生殖

  四 芽生

  五 分裂

  六 再生

 第十章 卵と精蟲

  一 細胞

  二 原始動物の接合

  三 卵

  四 精蟲

  五 受精

 第十一章 雌雄の別

  一 別のないもの

  二 解剖上の別

  三 局部の別

  四 外觀の別

  五 極端な例

 第十二章 戀愛

  一 細胞の戀

  二 暴力

  三 色と香

  四 歌と踊

  五 緣組

 第十三章 産卵と姙娠

  一 卵生

  二 胎生

  三 子宮

  四 羊膜

  五 胎盤

 第十四章 身體の始

  一 卵の分裂

  二 胃狀の時期

  三 體の延びること

  四 節の生ずること

  五 脊骨の出來ること

 第十五章 胎兒の發育

  一 全形

  二 顏

  三 腦髓

  四 手足

  五 陰部

 第十六章 長幼の別

  一 變態

  二 えび類の發生

  三 鰻の子供

  四 幼時生殖

  五 世代交番

 第十七章 親と子

  一 産み放し

  二 子の保護

  三 子の養育

  四 命を捨てる親

  五 親を食ふ子

 第十八章 教育

  一 教育の目的

  二 鳥類の教育

  三 獸類の教育

  四 人間の教育

  五 命の貴さ

 第十九章 個體の死

  一 死とは何か

  二 非業の死

  三 壽命

  四 死の必要

  五 死後の命

 第二十章 種族の死

  一 劣つた種族の滅亡

  二 優れた者の跋扈

  三 歷代の全盛動物

  四 その末路

  五 さて人間は如何

 

 附錄 生物に關する外國書

生物學講話 丘淺次郎 附錄 生物學に關する外國書 /「生物學講話」藪野直史電子化注完結!

 

[やぶちゃん注:以下は講談社学術文庫版(昭和五十六(一九八一)年刊の本人の意思とは無関係に改題された「生物学的人生観」(上・下二巻 八杉龍一序))では省略されている。] 

 

      附 錄 生物學に關する外國書 

 

 先に著した進化論講話の例に倣うて、本書と内容の相似た通俗的の外國書を幾種か選び出し、その表題を掲げて讀者の參考に供したいと考へたが、本書と同じやうな仕組に書き綴つた書物はまだ何國にもないので、本書を讀み終つた讀者に引き續いて讀むに適するものとして特に紹介すべき書物は一册も見當らぬ。生物の攻擧、防禦の方法とか、寄生・共棲の狀態とか、雌雄の關係とか、胎兒の發育とかいふやうに一部分づゝに分けて見れば、これに關する書物や論文は素より夥しくある。そして、その多數は全く專門的の研究報告として公にせられたもので、一般の人が讀むには適せぬが、また誰にもわかるやうに通俗的に書いた書物も決して少くはない。次に掲げるのは、かやうな書物の中から、偶然著者の手近にあつたもの若干を選んだのであるから、他に比して特にこれ等が宜しいと考へたわけでもないが、いづれも本書の内容の一部を更に詳しく述べた如きもので、參考としては十分の價値を有するもののみである。

[やぶちゃん注:「進化論講話」明治三七(一九〇四)年刊。当時最新のダーウィンの進化論を初めて一般人向けに解説したもの。因みに、本書の最後で、当該生物の生存に有利に働いた特異形質が過度に発達し過ぎた結果、逆にその種属を滅亡へと導いた、それはヒトという種に於ける脳(智力)と手(道具)の於いても例外ではないとする、一種、悲観的な文明的批評、人類の未来観を述べておられるのは、丘先生の独自の進化学説である。科学技術と名打った「手」(道具)が人倫や科学という領域を遙かに凌駕して増殖、ロボット兵士の「技術」が実現し、クローンによって人間を創造する禁断の「技術」も手に入れ、最初の人類が「手」にした「火」が遂にはチェレンコフ光の「業火」となって人類自身を死滅させるに至るであろう現在、丘先生の憂鬱は実にまことに正しかったのだと私は今、思っているのである。なお、今回のこの「生物學講話」電子化注の終了後には、引き続き、その「進化論講話」の電子化注に遷りたいと不肖、私は目論んでいることをここに告白しておく。] 

 

 1 Hesse und Donein, Tierbau und Tierleben

     (ヘッセ、ドフライン合著、動物の構造と生活)

 二册物の大きな書物で讀み終るにはなかなか手間が掛かるが、動物の習性や外界との關係をこの位によく書いてゐるものは恐らく他にないであらうから、獨逸語によつて生物學の通俗書を讀まうとする人には、第一にこの書を薦めたい。挿畫も良いものがなかなか多い。本書に掲げた圖の中にもこの書物から寫したものが幾つもある。著者は兩人とも獨逸の大學教授で、ドフラインの方は嘗て一度日本へも來て、澤山の動物を採集して歸つた。同氏の著した Ostasien-Fahrt といふ旅行記は日本の動物のことが種々書いてあつて面白い。

[やぶちゃん注:一九一〇年刊。

「ヘッセ」ドイツの動物学者で生態学者リヒャルト・ヘッセ(Richard Hesse  一八六八年~一九四四年)。

「ドフライン」ドイツの動物学者で生態学者フランツ・テオドール・ドフライン(Franz John Theodor Doflein 一八七三 年~一九二四年)。彼と日本の関係については、「日本分類学会連合」公式サイト内の藤田敏彦氏の「フランツ・ドフラインと相模湾の深海動物」に詳しい。

Ostasien-Fahrt」前記の藤田氏の記載に全五百十一頁の『「東亜紀行」(Ostasienfahrt, 1906)』と出、『ドフライン自身が行った相模湾の深海動物の調査とその結果についても詳しく述べられている』とある。] 

 

 2 Brehm, Tierleben (ブルーム著、動物誌)

第四版が一九二二年に完成した。十三册もある大部な書物である故、始めから終りまで讀み通すには適せぬが、有らゆる動物の種類を網羅し、その生活狀態を通俗的に記載してあるから、讀みたい處だけを拾ひ讀みにしても、頗る面白い。大勢の學社が分擔して筆を執り各々得意とする種類を引き受けて書いたもので、獸類と鳥類との部は特に詳しい。圖畫も立派なものが多數に入れてゐる。通俗的の博物書としては恐らくこれに匹敵するものは他になからう。

[やぶちゃん注:「ブルーム」ドイツの動物学者アルフレート・エドムント・ブレーム(Alfred Edmund Brehm 一八二九年~一八八四年)。ウィキの「アルフレート・ブレーム」によれば、現在は「ブレーム動物事典」と訳されているようで、独題は「Brehms Tierleben」、英題は「Brehm’s Life of Animals」とあり、第一版は全六巻で「Illustrirtes Thierleben」というタイトルで、一八六四年から一八六九年にかけて出版され、第二版は全十巻となって一八七六年から一八七九年にかけて「Brehms Thierleben」と改題されて出版された。第二版で『追加されたグスタフ・ミュッェルらのイラストは、チャールズ・ダーウィンに「これまで見たなかで、最も優れている」と評されている』。この第二版は一八八二年から一八八四年に再出版されており、続いて第三版が一八九〇年から一八九三年にかけて出版された。この事典は各国語に翻訳され、二十世紀になってからも、要約して一巻に纏めた本なども出版されている、とある。]

 

 3 Hanstein, Tierbiologie (ハンスタイン著、動物生態學)

 これは第一に掲げた書物と同樣の事柄を遙に小規模に編纂したもので、中位の書物一册となつて居る。通讀するにはまづ手頃なものであらう。

[やぶちゃん注:著者も書誌も不詳。識者の御教授を乞う。] 

 

 4 Semper, Animal Life (センペル著、動物の生活)

 萬國科學叢書中の一册で、主として外界から動物の身體に及ぼす影響を論じてある。著者は已に故人であるが、嘗てフイリッピン群島や南洋のパラオ島へ採集に來て種々の動物の生活狀態を研究した有名な大學教授であつた。同じ書物が英語、佛蘭西語、獨逸語で出版せられてあるからどれでも隨意に選むことが出來る。

[やぶちゃん注:一八八一年刊。英訳は正確には「Animal life as affected by the natural conditions of existence」(自然状態に於いて影響を受ける動物の生活)。

「センペル」ドイツの動物学者で探検家カール・ゴットフリート・センペル(Karl Gottfried Semper 一八三二 年~一八九三年)。一八六八年にヴュルツブルク大学の動物学及び比較解剖学教授となっている。] 

 

 5 Romanes, Animal Intelligence (ロマーネス著、動物の智慧)

 表題の通り主として獸類・鳥類等の智力に關する實驗觀察が掲げてある。少しく古い書物ではあるが、今日と雖も一讀の價値はある。卷末の猿の日記などもなかなか面白い。前のと同じく萬國科學叢書中の一册でゐる。

[やぶちゃん注:一八八一年刊。

「ロマーネス」カナダ生まれのイギリスの進化生物学者で生理学者であったジョージ・ジョン・ロマネス(George John Romanes 一八四八年~一八九四年)ウィキの「ジョージ・ロマネス」によれば、彼は『比較心理学の基盤を作り、ヒトと動物の間の認知プロセスと認知メカニズムの類似性を指摘した。姓はロマーニズとも表記される』。『彼はチャールズ・ダーウィンの学問上の友人の中でもっとも若かった。進化に関する彼の見解は歴史的に重要である。彼は新たな用語「ネオダーウィニズム」を提唱した。それはダーウィニズムの現代的に洗練された新たな形を指す用語として、今日でもしばしば用いられている。ロマネスの早すぎる死はイギリスの進化生物学にとって損失であった。彼の死の』六年後に『メンデルの研究は再発見され、生物学は新たな議論の方向へ歩み出した』。『ロマネスはカナダのオンタリオ州キングストンで、スコットランド長老派の牧師ジョージ・ロマネスの三男として生まれた。二歳の時に両親はイギリスに帰国し、彼はその後の人生をイギリスで過ごした。当時の英国の博物学者の多くと同様、彼も神学も学んだが、ケンブリッジで医学と生理学を専攻することを選んだ。彼の一家は教養があったが、彼自身の学校教育は風変わりであった。彼はほとんど学校教育を受けず、世間について知識がないまま大学に入学した』。一八七〇年にゴンヴィル・アンド・キーズ・カレッジを卒業している。『最初にチャールズ・ダーウィンの注意をひいたのはケンブリッジにいるときであった。ダーウィンは「あなたがとても若くて大変嬉しい!」と言った。二人は生涯』、『友人でありつづけた。生理学者マイケル・フォスターの紹介で、ロマネスはユニバーシティ・カレッジ・ロンドンのウィリアム・シャーペイとジョン・バードン=サンダーソンのもとで無脊椎動物の生理学について研究を続けた』。一八七九年、三十一歳の『時にクラゲの神経系の研究を評価され、ロンドン王立協会の会員に選出された』。『青年であった頃、ロマネスは敬虔なキリスト教徒だった。そして最後の病気に間にいくらか信仰を取り戻したようであるが、彼の人生の半ばはダーウィンの影響によって不可知論者であった』。『彼が晩年に書いた未完の原稿では、進化論が宗教を捨てさせたと述べている』。『ロマネスは死去する前にオックスフォード大学で公開講座を開始した。それはしばらく後にロマネス・レクチャーと名付けられ、現代でも引き続き行われている』。一八九二年の『初回には首相グラッドストンが、第二回には友人のトマス・ハクスリーが講義を行った。テーマは科学だけでなく、政治、芸術、文学など幅広い。チャーチルやルーズベルト、ジュリアン・ハクスリー、カール・ポパーなども講義を行っている』。『ロマネスはしばしば進化の問題に取り組んだ。彼はほとんどの場合、自然選択の役割を支持した。しかし彼はダーウィン主義的進化に関する次の三つの問題を認めた』。一つは、『自然の中の種と人工的な品種の変異の量の違い。この問題は特にダーウィンの研究に関連する。ダーウィンは進化の研究に主に家畜動物の変異を扱った』。二つ目は、『同種を識別するために役立つ構造は、しばしばどんな実用的な重要性も持たない。分類学者は分類の目安にもっとも目立ちもっとも安定した特徴を選んだ。分類学者には役に立たなくても、もっと生き残りに重要な形質があるかも知れない』。三点目が、『自由交配する種がどのようにして分裂するかという問題。これは融合遺伝に関する問題で、ダーウィンをもっとも困らせた問題である。これはメンデル遺伝学の発見によって解決され、さらに後のロナルド・フィッシャーは粒子遺伝が量的形質をどのように生み出すかを論じた』。『ダーウィンはその有名な本のタイトルに反して自然選択がどのように新種を造り出すのかを明らかにしなかったが、ロマネスはこの点を鋭く指摘した。自然選択は明らかに適応を作り出すための「機械」であり得たが、新種を造り出すメカニズムは』何か? に対する『ロマネス自身の回答は「生理的選択」と呼ばれた。彼の考えは、繁殖能力の変異が親の形態の交雑防止の主な原因で、新種の誕生の主要な要因である、ということだった。現在、多数派の見解は地理的隔離が種分化の主要な要因(異所的種分化)で、交雑種の生殖能力の低下は第二以降の要因と考えられている』とある。] 

 

 6 Fabre, Souvenirs entomologiques (ファーブル著、昆蟲の話)

 昆蟲の生活狀態を極めて面白く書いたもので出版は少しく古いが、讀者をして恰も詩か小説でも讀んで居る如き感じを起さしめるとの評判がある。著者は一九一五年の十月九十二歳の高齡で死んだ。

[やぶちゃん注:フランスの偉大な昆虫学者で博物学者ジャン=アンリ・カジミール・ファーブル(Jean-Henri Casimir Fabre 一八二三年~一九一五年)は同時に作曲活動をも成し、プロヴァンス語文芸復興の詩人としても知られる(ウィキの「ジャン・アンリ・ファーブル」に拠った)。「昆虫記」(Souvenirs entomologiques)は一八七八年から一九〇七年にかけて実に三十年近くを費やして完成された名著である。ファーブルがダーウィンの進化論に強く反対していたことは夙に知られる。] 

 

 7 Reuter, Djurens Själ (ロイテル著、動物の精神)

 著者は一九一三年に死んだロシヤ國領へルシンキ大學の教授で、特に昆蟲の社會的生活の起りなどを研究した人でゐる。この書は小さな書物で、スウェーデン語で書いてあるが、獨逸語に譯したものも殆ど同時に出版せられた。

[やぶちゃん注:一九〇七年刊。

「ロイテル」フィンランドの動物学者Odo Morannal Reuter(一八五〇 年~一九一三 年:発音不詳につき、カタカナ音写を控えた)。] 

 

 8 Groos, Spiele der Tiere (グロース著、動物の遊戲)

 種々の動物、特に鳥類、獸類の幼時に於ける遊戲を調べて書いたもので、著者自身が直接に觀察した譯ではないが、多くの書物に散在してある材料を一册に纏めてあるから、讀む者には大に便利である。

[やぶちゃん注:一八九六初版。

「グロース」ドイツの哲学者・心理学者であったカール・グロース(Karl Groos 一八六一年~一九四六年)。] 

 

 9 Krall, Denkende Tiere (クラル著、考へる動物)

 近頃有名になつたエルバーフェルドの馬に就いて、飼主自身が著した書物である。この馬の智力に關しては種々の議論もあるが、多數の動物學者の實驗證明する所によると考へる力の有ることは決して疑はれぬやうに見える。

[やぶちゃん注:一九一二年刊。「第七章 本能と智力 四 智力」の図と図版のキャプションを参照。

「エルバーフェルド」エルバーフェルト(Elberfeld)は、現在はドイツ連邦共和国ルール地方の工業都市、ノルトライン=ヴェストファーレン州ヴッパータール(Wuppertal)と呼称が変わった。

「クラル」カール・クラール(一八六三年~一九二九年)。彼に就いてはドイツ語版ウィキはある。お読みになれる方はどうぞ。私は読めないのでこれ以上の注を附すことは避ける。] 

 

 10 Minot, On Growth, Age, and Death (マイノット著、生長、老年及び死)

 著者はアメリカ大學の解剖學の教授である。この書に書いてあることは、生長。老年、死等に關するその人の意見であるが、死を論ずる如き場合には大に參考となるであらうと思はれる。

[やぶちゃん注:一九〇八年刊。なお、文中の「アメリカ大學」は「アメリカの大學」の脱字であろう。

「マイノット」アメリカの解剖学者で発生学者のチャールズ・セジウィック・マイノット(Charles Sedgwick Minot 一八五二年~一九一四年)。一八八六年に顕微鏡用切片標本を作成するための自動回転式ミクロトームを発明したことで知られる。一八九二年にハーバード大学教授、一八九七年には全米科学アカデミー会員にも選出されている(以上の事蹟は日外アソシエーツ「20世紀西洋人名事典」に拠る)。] 

 

 右の外になほ讀んで面白く、且人生に一する思考の材科どなるべき通俗的生物學書の多くあるべきことはいふに及ばぬ。但し、Biolody, Biologie 等の文字を表題として掲げた書物は、大概動物學・値持學の教科書を合本にした如き體裁のものが多く、隨つて一般の人が卷の終りまで興味を以て讀み通すやうに出來て居るものは極めて少い。考へて讀みさへすれば、如何なる書物でも思想の材料にならぬものはなからうが、わからぬ術語なふぉが頻繁に出て來ては了解も困難で、それだけ興味も殺がれるから、生物學と銘打つた外國書はなるべく後に廻した方が宜いやうである。

[やぶちゃん注:底本は「Biology」が「Biolody」となっているが、誤植と断じて訂した。] 

 

 11 Korschelt, Lebensdauer, Altern und Tod

              (コルシェルト著、壽命、老衰と死)

 一九二四年に增補第三版が出來た。表題の事項を念入りに、且獨立の考へで取り扱ふてある。讀んで見て頗る面白い書物で、單細胞生物の老衰現象を説いて居る邊などは、單細胞生物には死はないなどと簡單に論ずる人々に對して大に參考になると思はれる。

[やぶちゃん注:初版は一九一七年刊。

「コルシェルト」ドイツの動物学者ユーゲン・コルシェルト(Eugen Korschelt 一八五八年~一九四六年)。]

 

 12 Meissenheimer, Geschlecht und Geschlechter

              (マイセンハイメル著。性と兩性)

 性に關する書物は近來澤山に出來たが、本書は大部でもあり、挿圖も多く、事實を記載してあることの精密な點では恐らく群を拔いたものであらう。苟しくも、性に就いて論ずる人が一度は必ず目を通して置くべき書物である。

[やぶちゃん注:一九二一年刊。

「マイセンハイメル」ドイツの動物学者ヨハネス・マイゼンハイマー(Johannes Meisenheimer 一八七三年~一九三三年)。丘先生の綴りはママ。] 

 

 13 Alverdes, Tiersoziologie (アルヴェルデス、動物社會學)

 一九二五年の出版で、比較的小さな書物ではあるが、動物界に見られる各種の社會を悉く網羅して、いづれも簡單に短かく、述べてある。

[やぶちゃん注:「アルヴェルデス」ドイツの動物学者で心理学者のフリードリヒ・アルヴェルデス(Friedrich Alverdes 一八八九年~一九五二年)。] 

 

 14 Wheeler, Social Life among the lnsects

              (ホイーラー著、昆蟲の社會生活)

  一九二四年の出版。著者は有名な蟻の研究者であるだけ、本書に載せてあることも、多くは、著者自身の實地觀察にかゝるもの故、それだけ安心して讀める。人間の社會を研究する人々にも大に參考になる點が多からうと思はれる。

[やぶちゃん注:「ホイーラー」アメリカの昆虫学者ウィリアム・モートン・ホゥイーラー(William Morton Wheeler  一八六五年~一九三七年)。] 

 

 15 Hempelmann, Tielpsychologie (ヘンペルマン著、動物心理學)

 一九二六年出版の最も新らしい書物である。原始動物から哺乳類に至るまで、各類の動物に就いて、まづ分類の順序に從ふてその心理を述べ後半に於て更にこれを總論的に取扱ふて居る。處々に著者の主觀に過ぎはせぬかと感ずる點もあるが、從來の比較心理の書物とは大に違ふて居るから、確に一讀の價値を有する。

[やぶちゃん注:書名の綴りがおかしい。ドイツ語の著者のウィキを見ると、「Tierpsychologie vom Standpunkte des Biologen. Leipzig 1926.」とある。

「ヘンペルマン」ドイツの動物学者フィリードリヒ・ヘンペルマン(Friedrich Hempelmann 一八七八 年~一九五四年)。] 

 

[やぶちゃん注:以下、底本の奥附。底本では全体が長方形の太枠に囲まれており、「著作権/所有」(「所有」は底本は左右均等割付)の横書二行は四角い枠に囲まれてある。「株式会社は二行割注型。字配は再現していない。]

大正五年一月一日印   刷 大正 五年一月五日發  行

大正十五年七月一日四版印刷 大正十五年七月五日四版發行

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         著作者     丘 淺次郎

生 定     東京市小石川區小日向水道町八十四番地

物 價 著    發行者 株式会社 東京開成館

學 金 作 所  印刷者  代表者 松本繁吉

講 五 權 有 東京市小石川區小日向水道町八十四番地

話 圓     發行所  株式会社 東京開成館

 〔振替貯金口座〕東京第五參貮貮番

 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 大阪市東区心齊橋通北久寳寺町角

   販 賣 所         三木 佐肋

 東京市日本橋區數寄屋町九番地

                 林 平次郎

2016/03/02

生物學講話 丘淺次郎 第二十章  種族の死(6) 五 さて人間は如何 /「生物學講話」本文終了

     五 さて人間は如何

 

 今日地球上に全盛を極めて居る動物種族はいふまでもなく人間である。嘗て地質時代に全盛を極めた各種族はいづれも一時代限りで絶滅し、次の時代には全く影を隱したが、現今全盛を極めて居る人間種族は將來如何に成り行くであらうか。著者の見る所によれば、かやうな種族は皆初め他種族に打ち勝つときに有効であつた武器が、その後過度に發達して、そのため終に滅亡したのであるが、人間には決してこれに類することは起らぬであらうか。未來を論ずることは本書の目的でもなく、また著者のよくする所でもないが、人間社會の現在の狀態を見ると一度全盛を極めた動物種族の末路に似た所が明にあるやうに思はれるから、次に聊かそれらの點を列擧して讀者の參考に供する。

 

 人間が悉く他の動物種族に打ち勝つて向ふ處敵なきに至つたのは如何なる武器を用ゐたに因るかといふに、これは誰も知る通り、物の理窟を考へ得る腦と、道具を造つて使用し得る手とである。もしも人間の腦が小さくて物を工夫する力がなかつたならば、到底今日の如き勢を得ることは不可能であつたに違ない。またもしも人間の手が馬の足の如くに大きな蹄で包まれて、物を握ることが出來なかつたならば、決して他の種族に打ち勝ち得なかつたことは明である。されば腦と手とは人間の最も大切な武器であるが、手の働と腦の働とは實は相關連したもので、腦で工夫した道具を手で造り、手で道具を使うて腦に經驗を溜め、兩方が相助けて兩方の働が進歩する。如何に腦で考へてもこれを實行する手がなければ何の役にも立たず、如何に手を働かさうとしても、豫め設計する腦がなかつたならば何を始めることも出來ぬ。矢を放ち、槍で突き、網を張り、落し穴を掘りなどするのは、皆腦と手との聯合した働であるが、かゝることをなし得る動物が地球上に現れた以上は、他の動物種族は到底これに勝てる見込みがなく、力は何倍も強く牙は何倍も鋭くとも終に悉く人間に征服せられて、人問に對抗し得る敵は一種もなくなつた。かくして人間は益々勢を增し全盛を極めるに至つたが、その後はたゞ種族内に激しい競爭が行はれ、腦と手との働の優つた者は絶えず腦と手との働の劣つたものを壓迫して攻め亡し、その結果としてこれらの働は日を追うて上達し、研究はどこまでも深く、道具はどこまでも精巧にならねば止まぬ有樣となつた。人はこれを文明開化と稱へて現代を謳歌して居るが、誰も知らぬ間に人間の身體や社會的生活狀態に、次に述べる種族の生存上頗る面白からぬ變化が生じた。

 

 まづ身體に關する方面から始めるに、腦と手との働が進歩してさまざまのものを工夫し製作することが出來るやうになれば、寒いときには獸の皮を剝ぎ草の纎維を編みなどして衣服を纒ひ始めるであらうが、皮膚は保護せられるとそれだけ柔弱になり、僅の寒氣にも堪へ得ぬやうになれば更に衣服を重ね、頭の上から足の先まで完全に被ひ包むから、終には一寸帽子を取つても靴下を脱いでも風を引く程に身體が弱くなつてしまふ。また人間が自由に火を用ゐ始めたことは、すべて他の動物に打ち勝ち得た主な原因であるが、食物を煮て食ふやうになつてからは齒と腸胃とが著しく弱くなつた。野生の獅子や虎には決してない齲齒が段々出來始め、生活が文明的に進むに隨うてその數が殖えた。どこの國でも下層の人民に比べると、貴族や金持には齲齒の數が何層倍も多い。嗜好はとかく極端に走り易いもので、冬は沸き立つやうな汁を吹きながら吸ひ、夏は口の痛むやうな氷菓子を我慢して食ふ。盬や砂糖を純粹に製し得てからは、或は鹹過ぎる程に鹽を入れ、或は甘過ぎる程に砂糖を加へる。これらのことや運動の不足やなほその他の種々の事情で胃腸の働は次第に衰へ、蟲樣垂炎なども頻繁に起り、胃が惡いといはねば殆ど大金持らしく聞えぬやうになつた。住宅も衣服と同じく益々完全になつて、夏は電氣扇で冷風を送り冬は曖房管で室内を温めるやうになると、常にこれに慣れて寒暑に對する抵抗力が次第に減じ、少しでも荒い風に觸れると忽ち健康を害するやうな弱い身體となり終るが、これらはすべて腦と手との働が進んだ結果である。

[やぶちゃん注:「齲齒」「うし」と読んでいようが、正確には「くし」が正しい読み方。虫歯のこと。「齲」一字でも「むしば」と訓ずる。

「蟲樣垂炎」虫垂(突起)炎。確かに、進化の過程の中で肉食動物が摂餌対象の変化によって盲腸が退化したことは事実であるが、文明化して贅沢をしたり運動しなくなったりした結果として虫垂炎が多発するようになったという丘先生の謂いは、ちょっと説得力を欠くように思われる。なお、「盲腸炎」という謂い方は誤りで、盲腸は右下腹部の上行結腸(大腸)の一番下窪んだ箇所の名称で、その盲腸の端から細長く飛び出しているのが「虫垂」である。その昔、診断の遅れなどから開腹手術した際、既に虫垂が化膿や壊死を起こして盲腸に癒着していて、見た目が盲腸自身の炎症疾患のように見えた誤認からの呼称である。]

 

 智力が進めば、病を治し健康を保つことにもさまざまの工夫を凝らし、病原黴菌に對する抵抗力の弱い者には人工的に抗毒血淸を注射してこれを助け、消化液分泌の不足する者には人造のヂヤスターゼやペプシネを飮ませてこれを補ふが、自然に任せて置けば死ぬべき筈の弱いい者を人工で助け生かせるとすれば、人間生來の健康の平均が少しづつ降るは勿論である。醫學が進歩すれば一人一人の患者の生命を何日か延し得る場合は多少增すであらうが、それだけ種族全體の健康狀態がいつとはなく惡くなるを免れぬ。文明人の身體が少しづつ退化するのは素より他に多くの原因があつて、決して醫術の進歩のみに因るのではないが、智力を用ゐて出來るだけ身體を鄭重に保護し助けることは確にその一原因であらう。身體が弱くなれば病に罹る者も殖え、統計を取つて見ると、何病の患者でも年々著しく數が增して行くことがわかる。

[やぶちゃん注:「ペプシネ」脊椎動物の胃に存在する蛋白質分解酵素(プロテアーゼ)であるペプシン(pepsin)の服用薬であろうが、実は読者は恐らく、明治一一(一八七八)年から資生堂が売り出した「健胃強壮」を謳った怪しげな「ペプシネ飴」のことを想起したのではあるまいか? 「ペプシネ飴」の成分や薬効は早稲田大学図書館公式サイト内の「古典籍総合データベース」の画像で読める。御関心のある向きはお読みあれ。]

 

 他種族を壓倒して自分らだけの世の中とすれば、安全に子孫を育てることが出來るために、人口が盛に殖えて忽ち劇しい生活難が生ずる。狹い土地に多數の人が押し合うて住めば、油斷しては直に落伍者となる虞があるから、相手に負けぬやうに絶えず新しい工夫を凝らし、新しい道具を造つて働かねばならず、そのため、腦と手とは殆ど休まるときがない。その上智力が進めば如何なる仕事をするにも大仕掛けの器械を用ゐるから、その運轉する響と振動とが日夜神經を惱ませる。かくて神經系は過度の刺戟のために次第に衰弱して病的に鋭敏となり、些細なことにも忽ち興奮して、輕々しく自殺したり他を殺したりする者が續々と生ずる。神經衰弱症は野蠻時代には決してなかつたもので、全く文明の進んだために起つた特殊の病氣に相違ないから、これを「文明病」と名づけるのは直に理に適うた呼び方である。

[やぶちゃん注:「神經衰弱症」という疾患(病態)自体は現在、精神疾患の名称として用いられていない。以下、ウィキの「神経衰弱」から引用する。神経衰弱(しんけいすいじゃく、英: Neurasthenia)は、一八八〇年に『米国の医師であるベアードが命名した精神疾患の一種である』。『症状として精神的努力の後に極度の疲労が持続する、あるいは身体的な衰弱や消耗についての持続的な症状が出ることで、具体的症状としては、めまい、筋緊張性頭痛、睡眠障害、くつろげない感じ、いらいら感、消化不良など出る。当時のアメリカでは都市化や工業化が進んだ結果、労働者の間で、この状態が多発していたことから病名が生まれた。戦前の経済成長期の日本でも同じような状況が発生したことから病名が輸入され日本でも有名になった』。『病気として症状が不明瞭で自律神経失調症や神経症などとの区別も曖昧であるため、現在では病名としては使われていない』のである。ここで着目してよいのは、その当時であっても具体的症状として眩暈・筋緊張性頭痛・睡眠障害・消化不良といった身体症状が挙げられ、それに付随する形で強迫感や焦燥感を伴う不定愁訴がある、即ち、現在の心身症とほぼ同等のものを念頭に置いてよいということである。丘先生はしかし、当時の一般的な感覚からは恐らくは、もっと重い自律神経失調症や神経症的病態、即ち、真正の神経症や精神病をも包含して述べていると見て良かろう。但し、その場合、必ずしもそれは「文明病」ではなく、原始社会や近世以前にも幾らもあったことは述べておかねばならない。問題は近代よりも前やもっと古えにあってはそれらを必ずしも「病い」と分類していたわけではないのであるが、それはここで注すべきことではないので、以上の注で留めおくこととする。]

 

 競爭の勞苦を慰めるむめの娯樂も、腦の働が進むと單純なものでは滿足が出來ぬやうになり、種々工夫を凝らして濃厚な劇烈なものを造るが、これがまた強く神經を剌戟する。芝居や活動寫眞などはその著しい例であるが、眞實の生存競爭の勞苦の餘暇を以て、假想人物の生存競爭の勞苦を我が身に引き受けて感ずるのであるから、無論神經系を安息せしむべき道ではない。また人間は勞苦を忘れるために、酒・煙草・阿片などの如きものを造つて用ゐるがどれは種族生存のためには素より有害である。およそ娯樂にはすべて忘れるといふことが要素の一つであつて、芝居でも活動寫眞でもこれを見て喜んで居る間は自分の住する現實の世界を暫時忘れて居るのであるが、酒や煙草の類は實際の勞苦を忘れることを唯一の目的とし、煙草には「忘れ草」といふ名前さへ附けてある。そしてかく忘れさせる働を有するものはいづれも劇毒であるから、常にこれを用ゐ續ければ當人にも、子孫にも身體精神ともに害を受けるを免れぬ。阿片の如きは少時これを用ゐただけでも中毒の症狀が頗る著しく現れる。酒の有害であることは誰が考ヘても明であるから、各國ともに禁酒の運動が盛に行はれるが、暫くなりとも現實の世界から逃れて夢幻の世界に遊ぶことが何よりの樂みである今日の社會に於ては、飯を減らし著物を脱いでも、酒や煙草を止められぬ人間が、いつまでも澤山にあつて、その害も長く絶えぬであらう。そしてこれらは他の動物種族では決して見られぬ現象である。

[やぶちゃん注:『煙草には「忘れ草」といふ名前さへ附けてある』嫌煙運動の盛んになった現今では最早、死後であるが、煙草は別名で「相思草(そうしそう)」とか「返魂草(はんごんそう」、「忘れ草」とか「思い草」という別名を持っていた。]

 

 なほ生活難が增すに隨ひ、結婚して家庭を造るだけの資力が容易には得られぬから、自然晩婚の風が生じ、一生獨身で暮す男女も出來るが、かくては勢ひ風儀も亂れ、賣笑婦の數が年々增加し、これらが日々多數の客に接すれば痳病や梅毒は忽ち世間一體に蔓延して、その一代の人間の健康を害ふのみならず、子供は生まれたときから既に病に罹つたものが澤山になる。その他、智力によつて工夫した避姙の方法が下層の人民にまで普く知れ渡れば、性慾を滿足せしめながら子の生まれぬことを望む場合には盛にこれを實行するであらうから、教育が進めば自然子の生まれる數が減ずるが、蕃殖力の減退することは種族の生存からいふと最も由々しき大事である。子の生まれる數が減れば生活難が減じて、却つて結構であると考へるかも知れぬが、なかなかさやうにはならぬ。なぜといふに珊瑚や苔蟲の群體ならば百疋の蟲に對して百疋分の食物さへあれば、いづれも滿腹するが、人間は千人に對して千五百人分の食物があつても、その多數は餓を忍ばねばならぬやうな特殊の事情が存するから、人數は殖えずとも競爭は相變らず劇しく、體質は以上述べた如くに次第に惡くなり行くであらう。

[やぶちゃん注:「賣笑婦」本書初版は大正五(一九一六)年刊。売春防止法の施行は昭和三二(一九五七)年四月一日で猶予期間を経て、完全施行は翌昭和三十三年四月一日附。

「痳病」真正細菌プロテオバクテリア門βプロテオバクテリア綱ナイセリア目ナイセリア科ナイセリア属淋菌 Neisseria gonorrhoeae に感染することによって発症する性行為感染症(STD)の淋病のこと。ウィキの「淋病」によれば、「淋」とは『「淋しい」という意味ではなく、雨の林の中で木々の葉からポタポタと雨がしたたり落ちるイメージを表現したものである。淋菌性尿道炎は尿道の強い炎症のために、尿道内腔が狭くなり痛みと同時に尿の勢いが低下する。その時の排尿がポタポタとしか出ないので、この表現が病名として使用されたものと思われる』とあり、感染した女性が妊娠出産する場合、その『新生児は出産時に母体から感染する。両眼が侵されることが多く、早く治療しないと失明するおそれがある』とある。

「梅毒」真正細菌スピロヘータ門スピロヘータ綱スピロヘータ目スピロヘータ科トレポネーマ属梅毒トレポネーマ Treponema pallidum に感染することによって発症するSTD。ウィキの「梅毒」の「先天性梅毒」の項によれば、『妊娠中、または出産時に感染する症例である。感染した幼児の』三分の二は『症状が表れない状態で生まれてくる。生後数年で、一般的に、肝臓、脾臓の増大、発疹、発熱、神経梅毒、肺炎といった症状が表れる。治療がなされない場合、鞍鼻変形、ヒグメナキス徴候、剣状脛、クラットン関節と言われる後期先天性梅毒の症状が表れる』とある。医学書によると、胎児の経胎盤感染の全リスクは凡そ六十から八十%とある。]

 

 次に道德の方面に就いて考へるに、これまた腦と手との働の進むに隨ひ段々退歩すべき理由がある。智力のまだ進まぬ野蠻時代には通信や運輸の方法が極めて幼稚であるから、戰爭するに當つて一群となる團體は頗る小さからざるを得なかつた。隊長の命令の聞える處、相圖の旗の見える處より外へ出ては仲間との一致の行動が取れぬから、その位の廣さの處に集まり得るだけの人數が一團を造つて、各々競爭の單位となつたが、かゝる小團體の内では、各人の行動がその團體に及ぼす結果は誰にも明瞭に知れ渡り、團體の生存に有利な行爲は必ず善として賞せられ、團體の生存に有害な行爲は必ず惡として罰せられ、善の隱れて賞せられず、惡の顯れずして罰を免れる如きことは決してなく、善のなすべき所以、惡のなすべからざる所以が極めて確に了解せられる。且かゝる小團體が數多く相對立して劇しく競爭すれば、惡の行はれることの多い團體は必ず戰に敗けて、その中の個體は殺されるか食はれるかして全部が滅亡し、善の行はれることの多い團體のみが勝つて生き殘り、それに屬する個體のみが子孫を遺すから、もしもそのまゝに進んだならば、自然淘汰の結果として終には蟻や蜂の如き完全な社會的生活を營む動物となつたかも知れぬ。しかるに腦の働と手の働とが進歩したために、通信や運輸の方法が速に發達し、これに伴うて競爭の單位となる團體は次第に大きくなり、電話や電信で命令を傳へ、汽車や自動車で兵糧を運搬するやうになれば、幾百萬の兵隊をも一人の指揮官で動かすことが出來るために、いつの間にか相争ふ團體の數が減じて各團體は非常に大きなものとなつた。所で團體が非常に大きくなり、その中の人數が非常に多數になると、一人づつの行動が全團體に及ぽす結果は殆どわからぬ程の微弱なものとなり、一人が善を行うてもそのため急に團體の勢がよくなるわけでもなく、一人が惡を行うてもそのため遽に團體が衰へるわけでもなく、隨つて善が隱れて賞せられねことも屢々あれば、惡が免れて罰せられぬことも屢々あり、時としては惡を行うた者が善の假面を彼つて賞に與ることもある。かやうな狀態に立ち至れば、善は何故になさねばならぬか、惡は何故になしてはならぬかといふ理窟が頗る曖昧になつて來る。小さな團體の内では惡は必ず顯れて嚴しく罰せられるから、潜に惡を行うたものは日夜劇しく良心の苛責を受けるが、團體が大きくなつて惡の必ずしも罰せられぬ實例が澤山目の前に竝ぶと、勢ひ良心の刄は鈍くならざるを得ない。また團體が大きくなるに隨ひ、團體間の競爭に於ける勝負の決するのに甚しく時間が取れ、競爭は絶えず行はれながら、一方が全滅して跡を止めぬまでには至らぬ。即ち敗けても兵士の一部が死ぬだけで、他は依然として生存するから、團體を單位とした自然淘汰は行はれず、その結果として團體生活に適する性質は次第に退化する。大きな團體の内では、各個人の直接に感ずるのは各自一個の生存の要求であつて、國運の消長の如きは衣食足つて後でなければ考へて居る餘裕がない。そして個人を單位とする生存競爭が劇しくなれば、自然淘汰の結果として益々單獨生活に適する性質が發達し、自分さへ宜しければ同僚はどうなつても構はぬといふやうになり、かゝる者の間に立つては良心などを持ち合さぬ者の方が却つて成功する割合が多くなる。各個人がかくの如く利己的になつては、如何に立派な制度を設け、如何に結構な規約を結んでも、到底完全な團體生活が行はれるべき望はない。團體的生活を營む動物でありながら、追々團體生活に適せぬ方向に進み行くことは、種族の生存に取つては極めて不利益なことであるが、その原因は全く團體をして過度に大ならざるを得ざらしめた腦と手との働にある。

 

 更に財産に關する方面を見るに、手を以て道具を用ゐる以上は何事をなすにも道具と人とが揃はねばならず、人だけがあつても道具がなくては殆ど何も出來ぬ。「かはをそ」ならば自分の足で水中を游ぎ、自分の目で魚を捕へるが、人間は船に乘り櫓を漕ぎ、網で掬ひ、龍に入れるのであるから、この中の一品が缺けても漁には出られぬ。僅に櫓に掛ける一本の短い綱が見付からなくても岸を離れることが出來ぬ。かゝる場合には、取れた魚の一部を與へる約定で隣の人からあいて居る櫓や綱を借りるであらうが、これが私有財産を貸して利子を取る制度の始まりである。そして物を貸して利子を取る制度が開かれると、道具を造つて貸すことを專門とする者と、これを借りて働くことを專門とするものとが生ずるが、腦と手との働が進んで次第に精巧な器械を造るやうになると共に、器械の價は益々高く勞働の價は益々安く、器械を所有する者は法外の收入を得るに反し、器械を借りる者は牛馬の如くに働かねばならぬやうになる。共同の生活を營む社會の中に、一方に何もせずに贅澤に暮すものがあり、他方には終日汗を流しても食ヘ者がゐるといふのは、決して團體生活の健全な狀態とは考へられぬ。蒸氣機關でも機織り器械でも發電機でも化學工業でも、著しい發明のある毎に富者は益々富み貧者は益々貧しくなつた所から見れば、今後も恐らく文明の進むに隨ひ最少數の極富者と大多數の極貧者とに分れ行く傾が止まぬであらうが、それが社會生活の各方面に絶えず影響を及ぼし、身體にも精神にも著しい喫化を引き起す。しかもそれがいづれも種族生存の上に不利益なことばかりである。

 

 前に健康や道德に關して今日の人間が如何なる方面に進みつゝあるかを述べたが、貧富の懸隔が甚しくなればすべてこれらの方面にも直接に影響する。極富者と極貧者とが相隣して生活すれば、男女間の風儀なども直に亂れるのは當然で、餓に迫つた女が富者に媚びて婬を責るのを防ぐことは出來ず、貧者は最も安價に性慾の滿足を求めようとするから、それに應ずる職業の女も殖え、世間一般に品行が亂脈になれば花柳病が盛に蔓延して終には殆ど一人も殘らずその害毒を被るであらう。その他富者は飽いて病を得、貧者は餓えるえて健康を保ち得ず、いづれも體質が次第に下落する。現に文明諸國の貧民には榮養不良のために抵抗力が弱くなつて、些細な病にも堪へ得ぬものが夥しくゐる。また富者は金を與へて如何なることをも敢へてし、貧者は金を得んがために如何なることをも忍ばざるを得ぬから、その事柄の善か惡かを問ふ暇はなく、道德の觀念は漸々薄らいで、大概の惡事は日常のこととして人が注意せぬやうになつてしまふが、これでは到底協力一致を旨とする團體生活には適せぬ。

 

 國内の人民が少數の富者と多數の貧者とに分れ、富者は金の力によつて自分らのみに都合のよいことを行へば、貧者はこれを見て決し默つては居ず、富者を敵として憎み、あらゆる方法を講じてこれを倒さうと試み、貧者と富者との間に妥協の餘地のない劇しい爭鬪が始まる。教育が進めば貧者と雖も智力に於ては決して富者に劣らぬから、自分の境遇と富者の境遇とを比較して、なぜかくまで相違するかと考へては不滿の念に堪へず、現今の社會の制度を悉く富者のみに有利な不都合千萬なものと思ひ込み、全部これを覆さうと企てる者も大勢出て來る。今日社會問題と名づけるものにはさまざまの種類があるが、その根本はいづれも經濟の問題であるから、貧富の懇隔が益々甚しくなる傾のある間は到底滿足に解決せられる見込みはなからう。かくの如く、一團體の内が更に幾つもの組に分れて互に相憎み相鬪ふことは、團體生活を營む種族の生存に取つては頗る有害でゐるが、その根源を質せば皆初め手を以て道具を用ゐたのに基づくことである。

 

 要するに、今日の人間は最初他の動物種族を征服するときに有効であつた武器なる腦と手の働が、その後種族内の競爭のためにどこまでも進歩し、そのため身體は弱くなり、道德は衰へ、共同生活が困難になり、貧富の懸隔が甚しくなつて、不平を抱き同僚を呪ふ者が數多く生じ、日々團體的動物の健全なる生活狀態から遠ざかり行くやうに見受ける。これらのことの實例を擧げるのは煩しいから省くが、毎日の新聞紙上に幾らでも掲げてあるから、この點に於ては世界中の新聞紙を本章の附錄と見倣しても差支はない。今日地球上の人間は幾つかの民族に分れ、民族の間にも個人の間にも腦と手とによる劇しい競爭が行はれて居るから、今後もなほ智力は益々進み器械は益々精巧にならうが、この競爭に一歩でも負けた民族は忽ち相手の民族から劇しい壓迫を蒙り極めて苦しい位置に立たねばならぬから、自己の民族の維持繼續を圖るには是非とも腦と手とを働かせ、發明と勤勉とによつて敵なる民族に優ることを努めねばならぬ。かく互に相勵めば所謂文明はなほ一層進むであらうが、その結果は如何といふに、たゞ民族と民族、個人と個人とが競爭するに用ゐる武器が精鋭になるだけで、前に述べた如き人間種族全體に現れる缺陷を救ふためには何の役にも立たぬであらう。人間の身體や精神が漸々退化する傾のゐることに氣の附いた學者は既に大勢あつて、人種改善とか種族の衞生とかいふことが、今日では盛に唱へられて居るが、以上述べた如き缺陷はいづれも腦と手との働が進んだむめに當然生じたもの故、同じ腦と手との働によつて今更これを救はうとするのは、恰も火を以て火事を消し、水を以て洪水を防がうとするのと同じやうで、結局は到底その目的を達し得ぬであらう。「知つて居ることは何の役にも立たず、役に立つやうなことは何も知らぬ」といふたファウストの歎息はそのま々人種改良學者らの最後の歎息となるであらうと想像する。但し、幾多の民族が相睨み合うて居る現代に於ては少しでも相手の民族よりも速く退化するやうなことがあつては、忽ち敵の迫害のために極めて苦しい地位に陷らざるを得ぬから一方腦と手との力によつて相手と競爭しながら、他方にはまた腦の働、手の働の結果として當然生ずべき缺陷を出來るだけ防ぐやうに努めることが目下の急務でゐる。いづれの民族も結局は、腦の過度に發達したために益々生存に不適當な狀態に赴くことを避けられぬであらうが、いま敵よりも先に退化しては、直に敵のために攻められ苦められるべきは明でゐるから、その苦みを免れようとするには是非とも、更に腦と手とを動かせ、工夫を凝らし力を盡して、身體・精神ともになるべく長く健全ならしめることを圖らねばならぬ。人間全體が終には如何になり行くかといふやうな遠い將來の問題よりも、如何にして我が民族を維持すべきかといふ問題の方が目前に迫つて居るから、應急の手段としては、やはり入種改善や種族衞生を學術的に深く研究して、出來る限りの良法を實地に試みるの外はない。かくして、一方に於ては智力によつて、軍事・殖産等の方面を進歩せしめ、他方に於ては同じく智力によつて生活狀態の退化を防ぐことを努めたならば、遽に他の民族のために亡される運命には恐らく遇はぬであらう。

[やぶちゃん注:哀しいことであるが、この時代の発言としては、この最後の謂いは仕方のないもの、寧ろ、削ごく当然のものと勘案せねばなるまい。

『「知つて居ることは何の役にも立たず、役に立つやうなことは何も知らぬ」といふたファウストの歎息』ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ(Johann Wolfgang von Goethe  一七四九年~一八三二年)の戯曲「ファウスト」(Faust)の第一部(一八〇八年発表)に出るファウスト自身の台詞の一節(第一〇六五節)。森鷗外訳で台詞全体を示し、当該箇所に私が下線を引いた(底本は昭和三(一九二八)岩波文庫版を用いた。節番号は省略した。踊り字「〱」は正字化した)。

   *

ファウスト いや。この迷の海から浮き上がることがあらうと、

まだ望んでゐることの出來るものは、爲合(しあはせ)だ。

なんでも用に立つ事は知ることが出來ず、

知つてゐる事は用に立たぬ。

併しこんな面白くない事を思つて、

お互に此刹那の美しい幸福を縮(ちぢ)めるには及ばぬ。

あの靑い烟に取り卷かれている百姓家が、

夕日の光を受けてかゞやいているのを御覽。

日は段々ゐざつて逃げる。けふ一日ももう過去に葬られ掛かる。

日はあそこを驅けて行つて、又新しい生活を促すのだ。

己の此體に羽が生えて、あの跡を

どこまでも追つて行かれたら好からう。

さうしたら永遠なる夕映(ゆふばえ)の中に、

靜かな世界が脚下に横はり、

高い所は皆紅に燃え、谷は皆靜まり返つて、

白銀(しろかね)の小川が黃金(こがね)の江に流れ入るのが見えよう。

さうしたら深い谷々を藏(ざう)してゐる荒山(あらやま)も、

神々に似た己の歩(あゆみ)を礙げることは出來まい。

己の驚いて睜つた目の前に、潮の温まつた

幾つかの入江をなした海原が、早くも廣げられよう。

それでもとうとう女神は沈んでしまふだらう。

只新しい願望が目醒める。

女神の永遠なる光が飮みたさに、

夜(よる)を背(せ)にし晝を面(おもて)にし、

空を負ひ波に俯して、己は驅ける。

あゝ。美しい夢だ。しかし夢は消え失せる。

幻に見る己の翼に、眞實の翼が出來て

出合ふと云ふことは容易ではない。

兎に角この頭の上で、蒼々とした空間に隱れて、

告天子が人を煽動するやうな歌を歌ふとき、

樅の木の茂つてゐる、險しい巓の上の空に、

鷲が翼をひろげて漂ってゐるとき、

廣野の上、海原の上を渡つて

鴻雁が故郷へ還るとき、

感情が上の方へ、前の方へと

推し進められるのは、人間の生附(うまれつき)だ。

   *

幾つか「・」で注しておく。

・「礙げる」「さまたげる」と読む。

・「睜つた」「みはつた(みはった)」と読む。「瞠る」に同じい。

・「とうとう」はママ。但し、後半は底本では踊り字「〱」である。「到頭」であるから、本来、歴史的仮名遣では「たうとう」であって、踊り字の使用は出来ない箇所である。

・「告天子」「かうてんし(こうてんし)」と読む。雲雀(ひばり)の別名。

・「巓」「いただき」。

・「鴻雁」野生の雁(がん)、或いは、「鴻」が大きな雁(がん)で「雁」は小さな雁を指すとも、或いは種としては鳥綱カモ目カモ科 Branta 属カナダガン Branta Canadensis を指したりするようであるが、そもそもが英訳や高橋義孝氏の訳(新潮文庫版)を見る限り、ここは鶴(ツル)である。]

 

 以上の如く考へて後に更に現今の人間を眺めると、その身體には明に過度に發達した部分のあることに氣附かざるを得ない。前に鹿の或る種類ではその滅亡する前に角が大きくなり過ぎ、虎の或る種類では同じく牙が大きくなり過ぎことを述べたが、人間の身體では腦が確に大きくなり過ぎて居る。人間はいつも自分を標準として物を判斷し、人體の美を論ずるに當つても斷金法などと稱する勝手な法則を定めどれに適うたものを圓滿な體格と見倣すが、虛心平氣に考へて見ると、重さ四五瓩、長さ一・六米の身體に重さ一・三五瓩、直徑一七糎餘もあるやうな大きな腦が具はり、これを包むために、顏面部よりも遙に大きな頭蓋骨の發達して居る有樣は、前に述べた鹿の角や虎の牙と相似たもので、いづれも、ほゞ極端に達して居る。もしも彼の鹿が、角の大き過ぎるために滅亡し、彼の虎が牙の長過ぎるために滅亡したものとすれば、人間は今後或は腦が大きくなり過ぎたために滅亡するのではなからうかとの感じが自然に浮ぶが、これは強ち根據のない杞憂でもなからう。已に現今でも胎兒の頭が大きいために難産の場合が澤山にあり、出産の際に命を失ふ者さへ相應にゐる位故、萬一この上に人間の腦が發達して胎兒の頭が大きくなつたならば、それだけでも出産に伴ふ苦痛と危險とが非常に增し、自然の難産と人工的の避妊とのために生殖の率が著しく減ずるに違ない。母が子を産むのは生理的に當然のことで、本來は何の故障もなしに行はるべき筈のものであるのに人間だけは、例外として非常な危險がこれに伴ふのは、確に人間が種族の生存上不利益な方向に進み來つた證據と考へねばならぬ。本書の始にもいうた通り、およそ物は見やうによつて種々に異なつて見えるもので、同一の物に對しても觀察する人の立つ場處を換へると全く別の感じが起る。人間種族の將來に關してもその通りで、人間のみを見るのと、古今の諸動物に比較して見るのとでは大に趣が違ひ、また同じく生物學的に論じても一人一人に考へ方は著しく異なるであらう。それで他の人々が如何に考へるかは知らぬが、著者一人の見る所は、まづ以上略述した如くである。              (をはり)

[やぶちゃん注:「斷金法」不詳乍ら、恐らくは例の古代ギリシャ以来最も調和的で美しい比とされた「黄金分割」に基づくような、怪しげな美的身体比説であろうと思われる。]

2016/03/01

生物學講話 丘淺次郎 第二十章  種族の死(5) 四 その末路

      四 その末路

 

 以上若干の例で示した通り、地質時代に一時全盛を極めた動物種族は、その後必ず速に滅亡して次の時には全く影を止めぬに至つたが、これは一體如何なる理由によるか。一度すべての敵に打ち勝ち得た種族はなぜそのまゝに次の時まで優勢を保ち續け得ぬのであらうか。この問に對しては、前にも述べた如くまだ何らの定説が發表せられたことを聞かぬ。少くとも何人をも滿足せしめ得るやうな明瞭な解決を試みた人はまだないやうに見受ける。どの種族も全盛時代の末期には必ず何らかの性質が過度に發達して、そのため生存上却つて不都合が生じ、終に滅したかの如くに見える所から考へて、或る人は生物には一度進歩しかゝつた性質はどこまでもその方面に一直線に進み行く性が具はつてゐると説き、これを直進性と名づけ、一度盛に發展した動物の種族が進み過ぎて終に滅亡したのは、全く直進性の結果であると唱へたが、これは單に不可解のことに名稱を附けただけで、わからぬことは依然としてわからぬ。次に説く所は著者一人の考である。

 

 およそ生存競爭に勝つて優勢を占める動物種族ならば、敵に優つた有効な武器を具へて居ることはいふまでもないが、その武器は種族の異なるに隨うてそれぞれ違ふ。或は筋力の強さで優るものもあらう。または牙と爪との鋭さで優るものもあらう。或は感受の鋭敏なこと、走ることの速なこと、皮膚の堅いこと、毒の劇しいこと、蕃殖力の旺盛なこと、その他何らかの點で敵に優つたために、競爭に勝つを得たのであらうから、全盛を極める種族には各々必ずその得意とする所の武器がある。さて生物各種の個體の數が平常著しく殖えぬのは他種族との競爭があるためで、もし敵がなかつたならば忽ちの間に非常に增加すべき筈であるから、すべての敵に勝ち終つた種族は盛に蕃殖して個體の數が限りなく殖えるであらう。そして個體の數が多くなれば生活が困難になるのを免れず、隨つて同種族内の個體間もしくは團體間の競爭が劇烈にならざるを得ないが、その際各個體は如何なる武器を以て相鬪うであらうかといふに、やはりその種族が嘗て他種族を征服するときに用ゐたのと同じものを用ゐるに違ない。即ち筋力で他種族に打ち勝つに種族ならば、その個體が相戰ふにも同じく筋肉によるであらう。また爪と牙とで他種族を亡した種族ならば、その個體間に於てもやはり爪と牙とによる戰が行はれるであらう。個體間に劇しい競爭が行はれる結果として、これらの武器益々強くなり大きくなるであらうが、いづれの器官でも體部でも過度に發育すると却つて種族生存のためには不利益なことになる。例へば筋力の強いことによつて敵を悉く征服した種族が、敵のなくなつた後に更に個體間で筋力の競爭を續けて益々筋力が增進したと想像するに、筋力が強くなるには筋肉の量が增さねばならぬが、筋肉が太くなればその起點・著點となる骨も大きくなり隨つて全身が大きくならねばならぬ。角力取りが普通の人間より大きいのも、力委せに敵を締め殺す大蛇が毒蛇類よりも遙に大きいのも、主として筋肉發育の結果である。かやうな種族内の競爭では身體の少しでも大きいものの方が力が強くて勝つ見込みがあらうが、身體が大きくなればそれに伴うてまた種々の不便不利益なことが生ずる。即ち日々の生活に多量の食物を求めねばならず、生長には非常に手間がかかり、隨つて蕃殖力は極めて低くなる。その上「大男總身に智惠が廻り兼ね」といふ通り、體が重いために敏活な運動が出來ず、特に曲り角の處で身の輕い小動物の如くに急に方向を變へることは惰性のために到底不可能となるから、小さな敵に攻められた場合には恰も牛若丸に對する辨慶の如くに忽ち敗ける虞がある。されば身體の大きいことも度を超えると明に種族生存のために不利益になるが、他種族の敵がなく同種族内の個體同志のみで筋力の競爭をなし續ければ、この程度を超してなほ止まずに進むことを避けられぬ。直進性とはかゝる結果を不可思議に思うて附けた空名に過ぎぬ。また牙が大くて鋭いためにすべて他の種族を壓倒し得た種族が、敵のなくなつた後に更に個體間で牙による競爭を續けたならば、牙は益々大きく鋭くなるであらうが、これまた一定の度を超えると却つて種族の生存上には不利益になる。なぜといふに、およそ如何なる器官でも他の體部と關係なしに、それのみ獨立に發達し得るものは決してない。牙の如きももし大きくなるとすれば、その生じて居る上顎・下顎の骨からして太くならねばならず、顎を動かすための筋肉も、その附著する頭骨も大きくならねばならぬが、頭が大きく重くなれば、これを支へるための頸の骨や頸の筋肉まで大きくならねばならず、隨つてこれを維持するために動物の負擔が餘程重くなるを免れぬ。即ち他に敵のない種族の個體が牙の強さで互に競爭し續ければ、牙と牙に關係する體部とはどこまでも大きくなり、終には畸形と見倣すべき程度に達し、更にこの程度をも通り越して進むの外はない。その有樣は歐米の諸強國が大砲の大きさを競爭して妙な形の軍艦を造つて居るのと同じである。何事でも一方に偏すれば他方には必ず劣る所の生ずるのは自然の理であるから、牙の大きくなることも度を超えて極端まで進むと却つて種族の生存には不利益となり、他日意外の敵に遭遇した場合に脆くも敗北するに至るであらう。

 

 以上は單に一二の場合を想像して理窟だけを極めて簡單に述べたのであるが、實際地質時代に一時全盛を極め後急に絶滅したやうな動物種族を見ると、その末路に及べば必ず身體のどこかに過度に發達したらしい部分がある。或は身體が大き過ぎるとか、牙が長過ぎるとか、角が重過ぎるとか、甲が厚過ぎるとか、とかく生存に必要と思はれるより以上に發育して殆ど畸形に近い姿を呈し、恐らくそのために却つて生存が困難になつたのではなからうかと考へられるものが頗る多い。從來はかやうなことに對し直進性といふ名を附けたたりして居たが、著者の考によれば一方のみに偏した過度の發育は全く他種族の壓迫を蒙らずに自己の種族のみで個體間または團體間に劇しい競爭の行はれた結果である。他種族と競爭して居る間は種族の生存に不利益な性質が發達する筈はないが、すべて他の種族を征服して對等の敵がなくなると、その後は種族内で競爭を續ける結果として、嘗て他種族に打ち勝つときに有効であつた武器が過度に進歩し、殆ど畸形に類する發育を遂げるであらう。個體間の競爭で勝負の標準となる性質が、競爭の結果過度に進むを免れぬことは、日常の生活にも屢々見掛ける。例へば女の顏の如きも色が白くて唇の赤いのが美しいが、男の愛を獲んと競爭する結果、白い方は益々白く塗つて美しい白の程度を通り越し、赤い方は益々赤く染めて美しい赤の程度を通り越し、白壁の如くに白粉を塗り、玉蟲の如くに紅を附けて得意になつて居る。當人と、痘痕(あばた)も靨(えくぼ)に見える情人とはこれを美しいと思うて居るであらうが、無關係の第三者からはまるで怪物の如くに見える。新生代の地層から掘り出された牙の大き過ぎる虎や、角の重過ぎる鹿なども恐らくこれと同じやうに同僚間の競爭の結果過度の發達を遂げたものであらう。

 

 一方に過度の發育を遂げれば、これに伴うて他方には過度の弱點の生ずるを免れぬであらうから、これが或る程度まで進むと、今まで遙に劣つて居る如くに見えた敵と競爭するに當つて、自分の不得意とする方面から攻められると脆く敗北する虞が生ずる。前にも述べた通り、優れた種族とはいづれも自分の得意とする方面だけで敵に優るもの故、得意とせぬ方面に甚しい缺陷が生じたならば、種族の生存はそのため頗る危險となるに違ない。一時全盛を極めた動物種族がその末路に及んで遙に劣つた敵にも勝ち得ぬに至つたのは、右の如き狀態に陷つたためであらう。その上一時多くの敵に勝つやうな種族は必ず專門的に發達し、身體各部の分業も進んだものであるから、もし外界に何らかの變動が起り、温度が降るとか、濕氣が增すとか、新な敵が現れるとか、從來の食物がなくなるとかいふ場合には、これに適應して行くことが餘程困難で、そのため種族の全滅する如きことも無論屢々あつたであらう。

 

 要するに著者の考によれば、生物各種族の運命は次の三通りの外に出ない。競爭の相手よりも遙に劣つた種族は無論競爭に敗れて絶滅するの外はない。また競爭の相手よりも遙に優つた種族はすべての競爭者に打ち勝ち、天下に敵なき有樣に達して一時は全盛を極めるが、その後は必ず自己の種族内の個體間の競爭の結果、始め他の種族を征服するときに有効であつた武器や性質が過度に發達し、他の方面にはこれに伴ふ缺陷が生じて却つて種族の生存に有害となり、終には今まで遙に劣れる如くに見えた敵との競爭にも堪へ得ずして自ら滅す亡するを免れぬ。たゞ敵から急に亡されもせず、また敵を亡し盡しもせず、常に敵を目の前に控へて、これと對抗しながら生存して居る種族は長く子孫を殘すであらうが、その子孫は長い年月の間には自然淘汰の結果絶えず少しづつ變化して、いつとはなしに全く別種と見倣すべきものとなり終るであらう。ニイチエの書いたものの中に「危く生存する」といふ句が有つたやうに記憶するが、長く種族を繼續せしめるには危い生存を續けるの外に途はない。「敵國外患なければ國は忽ち亡びる」といふ通り、敵を亡し盡して全盛の時代に蹈み込むときは、即ちその種族の滅亡の第一歩である。盛者必滅・有爲轉變は實に古今に通じた生物界の規則であつて、これに漏れたものは一種としてあつた例はない。以上述べた所は、これを一々の生物種族に當て嵌めて論じて見ると、なほ細かに研究しなければならぬ點や、まだ説明の十分でない處が澤山にあるべきことは素より承知して居るが、大體に於て事實と矛盾する如きことは決してないと信ずる。

[やぶちゃん注:『ニイチエの書いたものの中に「危く生存する」といふ句が有つたやうに記憶する』これはフリードリヒ・ヴィルヘルム・ニーチェ(Friedrich Wilhelm Nietzsche 一八四四年~一九〇〇年)が一八八二年に刊行した、かの「永劫回帰説」を示し、「神は死んだ」と記したアフォリズム形式の「悦ばしき知識」(Die fröhliche Wissenschaft)の「第四書」の「二八三」章の一節であろう。所持する一九九三年刊筑摩書房ちくま刊学芸文庫版「ニーチェ全集」第八巻の信太正三氏の当該箇所の訳文を引くと、『――生存から最大の収穫と最大の享受とを刈り入れるる秘訣は、危険に生きるということだからだ!』(太字「危険に生きる」の箇所は底本では傍点「ヽ」)とある。原文は「gefährlich leben!」(ゲフェーアリヒ・レーベン!)か。]

生物學講話 丘淺次郎 第二十章  種族の死(4) 三 歷代の全盛動物

      三 歷代の全盛動物

 

 地殼を成せる岩石には火成岩と水成岩との區別があるが、水成岩の方は長い間に水の底に泥や砂が溜まり、それが次第に固まつて岩と成つたもの故、必ず層をなして相重なり、各層の中にはその地層の出來た頃に生存して居た生物の遺骸が化石となつて含まれてある。地質學者は水成岩の層をその生じた時代の新舊に從ひ、始原代・古生代・中生代・新生代の四組に大別し、更に各代のものを若干の期に細別するが、これらの各時代に屬する水成岩の層を調べて見ると、その中にある化石には頗る稀な珍しい種類もあれば、また非常に澤山の化石が出て、恐らくその頃地球上の到る處に多數に棲息して居たらうと思はれる種類もある。個體の數や身體の大きさや構造の進んだ點などから推して、その頃全盛を極めて居たに相違ないと思はれる種族がいづれの時代にも必ずあるが、かゝる種族の中から最も著しいもの若干を選び出して、次に簡單に述べて見よう。

[やぶちゃん注:「火成岩」地球内部に出来たマグマが地表に噴出したり、地下の種々な場所に貫入して冷却・固結して出来た岩石の総称。化学組成や生成される時の状態によって分類され、地下深所で固結したものを「深成岩」(花崗岩など)、地表或いは地表近くで固結したものを「火山岩」(安山岩・玄武岩など)、前二者の中間の地下で固結したものを「半深成岩」と称する。

「水成岩」成層岩。堆積作用によって形成された岩石。自然の機械的な堆積作用による砕屑(さいせつ)岩(砂岩・礫岩など)、化学的堆積作用による化学的沈殿岩(チャート・岩塩など)、有機的又は生化学的堆積作用による有機的堆積岩(石灰岩・石炭など)等に分かれる。

「始原代」現行の地質時代の最も古い時代区分。古生代カンブリア紀が始まる約 五億四千二百万年前までのおよそ四十億年以上の期間を指す。古い時期から「始生代」・「原生代」と二区分することがある。この時代の岩石は世界の楯状地を形成して分布し、大部分が片麻岩・結晶片岩などの変成岩や花崗岩などの深成岩であるが、後期の先カンブリア時代後期の岩石には各種の堆積岩がある。原始大気中に遊離酸素が存在しなかった時代から始まり、酸素が増加する約二十億年前、初めて超大陸が形成されて地殻内の全マントル対流が始まったのが約十九億年前とされる。酸素を作るシアノバクテリア(cyanobacteria:現行の藍色細菌門 Cyanobacteria の藍藻類で、単細胞或いは糸状で核膜を持たない。色素によって光合成を行う)によるストロマトライト(stromatolite:糸状体状の原核微生物の群集が作る堆積構造に由来する岩石)の出現は約二十七億年前とされ、この頃には既に生命活動があったと推定されている。

「古生代」約五億四千二百万年前から約二億五千百万年前の期間に亙る時期の総称。古い時期から「カンブリア紀」・「オルドビス紀」・「シルル紀」・「デボン紀」・「石炭紀」・「ペルム紀」に区分される。海棲無脊椎動物が繁栄し、後半には魚類・両生類も発生発展した。植物界では多様な藻類やシダ類の繁栄期である。

「中生代」今から約二億四七〇〇万年前から約六五〇〇万年前までの間で、古い時期から「三畳紀」・「ジュラ紀」・「白亜紀」に三分されする。陸上では裸子植物や巨大爬虫類が全盛となり、鳥類・哺乳類・被子植物が出現、海中では軟体動物のアンモナイトや原初の斧足類などが繁栄した。

「新生代」今から約六千五百万年前から現在までの時代を指す。「第三紀」・「第四紀」に二分される。哺乳類や被子植物類が発達して繁栄、末期には人類も出現した。]

Sanyoutyu

[三葉蟲]

Anmonaite

[アンモン石]

[やぶちゃん注:以上の二図は底本の国立国会図書館国立国会図書館デジタルコレクションの画像からトリミングし、補正を加えたものである。]

 

 古生代の岩石から掘り出される「三葉蟲」の類もその頃には實に全盛を極めて居たものと見えて、世界諸地方から夥しく發見せられる。我が國では極めて稀であるが、支那の山東省邊からは非常に澤山出て、板の形に割つた岩石の表面が全部三葉蟲の化石で一杯になつて居ることが珍しくない。三葉蟲にも澤山の種や屬があつて、小さいのは長さ三粍にも及ばず、大きいのは三〇糎以上にも達するが、いづれも「かぶとがに」と船蟲との中間の如き形で、裏から見ると「わらぢむし」に似て足が多數に生えて居る。この類は古生代にはどこでも頗る盛に繁殖したやうであるが、不思議にもその後忽ち全滅したものと見えて、次なる中生代の地層からは化石が一つも發見せられぬ。それ故もし或る岩石の中に三葉蟲の化石があつたならば、その岩石は古生代に屬するものと見倣して間違はない。かくの如く或る化石さへ見れば直にその岩石の生じた時代を正しく鑑定し得る場合には、かやうな化石をその時代の「標準化石」と名づける。中生代の地層から掘り出される「アンモン石」といふ化石は、「たこ」・「いか」などに類する海産軟體動物の貝殼で、形が恰も南瓜の如くであるから、俗に「南瓜石」と呼ぶ地方もある。これもその時代には全盛を極めたものと見えて、種の數も屬の數も頗る多く、懷中時計程の小さなものから人力車の車輪位の大きなものまで、世界の各地方から多數に發見せられる。我が國の如きはその最も有名な産地である。今日生きて居る動物で稍これに似た貝殼を有するものは僅に「あうむ貝」の類のみであるが、「さざえ」や「たにし」の貝殼とは違ひ、扁平に卷いた殼の内部は澤山の隔壁があつて多くの室に分れて居る。そして「アンモン石」では隔壁と外面の壁との繫ぎ目の線が實に複雜に屈曲して美しい唐草模樣を呈し、その點に於ては如何にも發達の極に達した如くに見える。この類も中生代の終までは全盛を極めて居たが、その後忽ち全滅したと見えて、次なる新生代の岩石からは一つもその化石が出ぬから、地層の新古を識別するための標準化石として最も重要なものである。

[やぶちゃん注:「三葉蟲」節足動物門三葉虫綱 Trilobita に属するトリロバイト類。ウィキの「三葉虫」から引く。『多数の体節を持ち、各体節に一対の付属肢が備わっていたと考えられている。甲羅(背板)の特徴は、縦割りに中央部の中葉(axis)とそれを左右対となって挟む側葉(pleura(e))となっており、この縦割り三区分が三・葉・虫の名称の由来となっている。また、頭部(cephalon)、胸部(thorax)、尾部(pygidium)といった横割りの体区分も認められる。頭部と尾部は一枚の"甲羅"(背板)であり(ただし、脱皮時には頭部は最大』五つの『パーツに分割される)、胸部は』二基から六〇基を超える『甲羅(背板:特に胸節(thoracic segment)と呼ぶ)で構成されている』。『中葉はアーチ状に盛り上がり、側葉の内側は平坦である。より派生的なグループでは側葉の外側が腹側(生物体の下側)へと傾斜する傾向を持つ。このため、生物体が腹側へと丸まった時に胸節側葉部の外側域が重なり合い、甲羅(背板)でほぼ球状に生体部を覆うこととなる防御姿勢(enrollment)の構築が可能となる。誤解が多いので述べておくが、球状にならなくても防御姿勢というので注意を要する。頭部には、通常複眼が左右に』一対『あるが、頭部に対する相対的なサイズは様々であり、盲目化した種もさまざまな系統で知られている。口は頭部中葉域の腹側にあり、より腹側にある石灰質のハイポストーマ(hypostome)で覆われた状態であったと考えられている。そのため、開口部は体の後方を向いていたと考えられている』。『また、頭部・胸部・尾部の付属肢間で形態的差異はほとんどない。現在の節足動物甲殻類のカニやエビなど、さらに陸生の昆虫やムカデなどに認められるいわゆる口器とされる特殊化した付属肢は存在しない』。『触角以外の付属肢は基本的に二肢型であり、主に歩行に用いたであろう内肢と、その基部の肢節(注:甲殻類の肢節(coxa)ではない)より生物体の外側へと分岐し』、『櫛歯状の部位を有する外肢で構成される』。『目のレンズは全身の外骨格と同じ方解石(カルサイト)という鉱物でできており、多数の個眼を持ち、その数は数百に及ぶ。ほとんどの種では正面と両側面の視覚が優れていたことが明らかにされている』。『基本的には、海底を這ったり、泳いだりして生活していたものと想像されている。一部に、泥に潜っていたとか、浮遊性であったと推測されているものもある。多くは腐食生活者であるが、一部の種は捕食者である。例えば、オレノイデス(Olenoides)』『の成長は、硬い外骨格は成長につれて伸びることができないので、古い殻を脱ぎ捨て新しい殻に変える脱皮によって行われ、脱皮ごとに細部の構造が変わっていった』と考えられている。『現在、発見されている三葉虫の化石のうちで最も大きいものは全長』六〇センチメートルもあるものから、小さいものでは一センチメートルに満たず、幼生化石では、最も小さなそれは直径〇・二ミリメートルとされる。『幼生は胸部の体節が少なく、成長につれて体節を増やしたことが考えられる。また、ノープリウスに近い形の浮遊性の幼生らしいものも発見されている』。一九七〇年代までは、『三葉虫を節足動物のなかでもっとも原始的な群とする見解が主流であった。しかし、それ以降に北米のバージェス動物群やグリーンランドのシリウス・パセット動物群や中国の澄江(チェンジャン)動物群の記載分類学的および系統学的研究が活発に行われることで、節足動物の初期進化についての議論が活発化した。その流れのなかで、三葉虫が節足動物のなかで最も原始的といった解釈は自然消滅的に支持されなくなっていった。ただし節足動物の大きな区分として、甲殻類、多足類、昆虫類と鋏角類に並ぶ一群としての位置はほぼ認められている。それらの間の類縁関係については定説がない。古くは三葉虫から触角が退化して鋏角類が生じたとの説があり、カブトガニがその直接の子孫だと言われたこともあるが、現在では認められない』。古生物学の分類学的辞書ともいえる「Treatise of Invertebrate Paleontology」においては、『三葉虫種全てを三葉虫綱(Class Trilobita)としてまとめている。三葉虫の化石は、ほとんどのものが背側に備わった石灰質の"甲羅"(背板)のみが化石化しているため、分類の定義は背板上の形質に頼らざるを得ない。これは、付属肢などの生体部の形状を重要視して分類同定を行う現生の節足動物群とは根本的に異なるので注意が必要である。つまり不完全な記載分類学的研究ではあるが、その研究の歴史は古く』、十八世紀後半には『三葉虫を節足動物の中の独立したグループとする見解が提出され、また分類学の始祖とされるスウェーデンのカール・フォン・リンネも三葉虫を数種記載している。ただし現今では新種報告の数が著しい減少傾向にあるとされ、主流となる三葉虫研究の方向性の転換も求められているようである。この長い記載分類学の歴史を経た現在、三葉虫綱では』八の目(研究者によっては九から十目とする見解もある)、百七十を超える科、そして一万を超える『種とする見解が主流である』。『三葉虫綱における高次分類群間の類縁関係については』、一九五〇年代以降に『飛躍的に増加した個体発生過程の情報を用いた研究結果に頼るところが大きい。しかしながら、化石化されない生体部の情報がほぼ完全に欠如しているといったデメリットなどにも起因し、研究者間の見解の一致には未だ遠く、今後も大幅な改訂があるかもしれない』。以下その三葉虫綱八目を示しておく(特徴の詳細はリンク先を参照されたい)。

 アグノスタス目 Agnostida

 レドリキア目 Redlichiida

 コリネクソカス目 Corynexochida

 アサフス目 Asaphida

 ファコプス目 Phacopida

 プロエトゥス目 Proetida

 プティコパリア目 Ptychopariida

 リカス目 Lichida

三葉虫の『衰退、絶滅の正確な理由はわかっていないが、多様性、生息数が減少しはじめたシルル紀およびデボン紀にサメを含む魚類が登場、台頭していることと何らかの関係があるという説がある。それでも一部の系統は命脈を保ち続けていたが最終的にペルム紀末期の大量絶滅に巻き込まれる形で絶滅した』とある。

「かぶとがに」節足動物門鋏角亜門節口綱カブトガニ目カブトガニ科カブトガニ属カブトガニ Tachypleus tridentatus であるが、以前、本種の幼生は三葉虫に似ているとされ、「三葉虫型幼生」の名もあり、実際にサンヨウチュウと系統的に近いと思われたこともあったが、現在ではこの生物学的近縁性は全く否定されているので注意されたい。因みに、私は似ているとは全く思わない。

「船蟲」節足動物門甲殻綱等脚(ワラジムシ)目ワラジムシ亜目フナムシ科フナムシ属フナムシ Ligia exotica 。形状の近似(私は丘先生には悪いが似ているとは思わない)に過ぎない全くの別種である。

「わらぢむし」節足動物門甲殻亜門軟甲(エビ)綱真軟甲亜綱フクロエビ上目等脚(ワラジムシ)目ワラジムシ亜目 Ligiamorpha下目 Armadilloidea 上科ワラジムシ科 Porcellio属ワラジムシ Porcellio scaber などの類であるが、これも他人の空似であって全く縁故はない。化石から復元されたそれ脚部も私は必ずしも似ているとは思われない。以上の三種の喩えは、一般向けとしても形態学的博物学の観点からも私は不適切であり、肯んじ得ない。

「標準化石」示準化石。英語「index fossil」。

「アンモン石」アンモナイト(ammonite)。古生代のデボン紀に出現して中生代に栄え、中生代の終りに絶滅した螺旋型の軟体動物門頭足綱菊石(アンモナイト)亜綱に属する生物種の総称。現行ではアンモナイト亜綱はオルドビス紀から生息する後注する「あうむ貝」を含むオウムガイ亜綱 Nautiloidea の中から分化したものと考えられている。ウィキの「アンモナイトによれば、『アンモナイトの殻(螺環)の外観は一見しただけでは巻き貝のそれと同じようにみえるが、注意深く観察するとそうではない。一般的なアンモナイトの殻は、巻き貝のそれと共通点の多い等角螺旋(対数螺旋、ベルヌーイ螺旋)構造を持っていることは確かであるが、螺旋の伸張が平面的特徴を持つ点で、下へ下へと伸びていき全体に立体化していく巻き貝の殻とは異なり、巻かれたぜんまいばねと同じような形で外側へ成長していくものであった(もっとも、現生オウムガイ類がそうであるように縦巻きである)』。『また、殻の表面には成長する方向に対して垂直に節くれ状の段差が多数形成されていることが多い』。『巻き貝との違いは殻の断面からもわかる。螺旋が最深部まで仕切り無くつながっている巻き貝の殻の内部構造に対し、アンモナイトの場合、螺旋構造ではあるが多数の隔壁で小部屋に区切られながらの連なりとなっている』。『この構造は、現生オウムガイ類の殻と相似性をなしており、このことからアンモナイトは頭足類であると考えられた』。『殻(螺環)の内部は、現生オウムガイ類』『同様、軟体部が納まる一番外側の大部屋(住房;じゅうぼう)と、その奥にあって浮力を担う小部屋(気房;きぼう)の連なりとで構成されている。住房と気房とは細い体管(連室細管)によってつながり、ガス交換がなされていたはずである』。『気房は、数学的規則性(ベルヌーイ螺旋)をもって配置される隔壁(セプタ、septa)によって奥から順次区分される造りになっている。そこにあった体液は排出され、代わりに空気が採り込まれることで中性浮力』『が発生する。これによって気房は魚の鰾(ひょう。浮き袋)に相当する器官として働いていたと考えられる。この説から、たとえ巨大な種であっても行動に不自由は無かったと推測できる』。『現生オウムガイ類の飼育研究から、殻の成長に伴って軟体部が断続的に殻の口のほうへ移動し、その後に残された空洞は最初は体液で満たされているものの浸透圧が作用して体液が自然に排除される仕組みであったと推測されており、積極的にガスを分泌するのではないと考えられている。現生オウムガイ類との相違点として、現生オウムガイ類の隔壁が殻の奥に向かってくぼむのに対してアンモナイトの隔壁は殻の口の方向に突出する傾向があること、隔壁間の空洞を連結する連室細管は現生オウムガイ類では隔壁の中央部を貫通するのに対してアンモナイトでは殻の外側に沿っていることが多いことなどが挙げられる』。『縫合線が菊の葉のような模様を描き出し』、さらに『隔壁はしばしば殻の本体と接する縁の部分で複雑な襞(ひだ)状に折れ込んでいる。これは、ダンボールや波板、H形鋼などと同様、殻の強度を高めつつ軽量化を図るという相矛盾する課題を達成するための仕組みである。殻の内面に現れた隔壁と接する縫合線(Suture Line)の形状は年代による差異が明確で、後代のものほど複雑になっており(一部例外あり)、分類学上重視される形質の一つである』。『この縫合線はまた、複雑に入り組んだ自然の織りなす模様となってアンモナイト化石に美術的価値を生み出してもいる。幾何学的で、かつ、どこか植物的でもあるその模様は、日本や中国では菊の葉を連想され、アンモナイトが「菊石」と呼ばれる由来となった。殻皮』『を剥がして磨きをかけることによって商品化されるものである』。『通常のアンモナイトの殻は同一平面に螺旋に巻いた渦巻状の形態である。ところが中生代も後期の白亜紀に入ると、「異常巻き」と呼ばれる奇妙な形の種が数多く見られるようになってくる。細長く伸びたようなものや、紐がもつれたような非常に複雑な形状のものなど、様々な形態が現れ(ニッポニテスが有名。左の画像参照)、過去の研究者を悩ませた。これらは系統進化上の寿命なるものが尽きることで引き起こされた一種の末期的な畸形(きけい)の症状であると見なすのが旧来の説だったが、現在は浅海域が発達した白亜紀という時代の環境に因を求め、そこに生じた複雑なニッチ(生態的地位)に適応して様々な生活型のアンモナイトが分化した結果であるという説が唱えられている』。「巨大アンモナイト」の項。『ンモナイト亜綱の動物は、殻の直径で数センチから十数センチメートル程度のものが多い。しかし、中には大きな種も存在し、ドイツ・ノルトライン=ヴェストファーレン州の白亜紀後期層から発見された史上最大のアンモナイト』とされるアンモナイト目アンモナイト亜目デスモセラス科パラプゾシア・セッペンラデンシス(パキディスクス・セッペンラデンシスParapuzosia seppenradensisPachydiscus seppenradensis)などは殻の直径が二メートルに『達するものであった』とある。

「南瓜石」「一般財団法人 地球の石科学財団 奇石博物館」公式サイト内の「奇石博物館 収蔵品」の中にここに、確かにアンモナイトが「カボチャ石」として紹介されてある。それには『かつては異常巻きアンモナイトと呼ばれ、巻きがほどけて立体的になったもの』とある。確かに南瓜っぽくはある。

「あうむ貝」頭足綱オウムガイ亜綱 Nautiloidea(四鰓亜綱 Tetrabranchia)オウムガイ目オウムガイ科オウムガイ属 Nautilus 

 オウムガイ Nautilus pompilius

 パラオオウムガイ Nautilus belauensis

 ヒロベソオウムガイ Nautilus scrobiculatus

 コベソオウムガイ Nautilus stenomphalus

 オオベソオウムガイ Nautilus macromphalus

 キレフオウムガイ Nautilus pompilius repertus

(他に、Nautilus pompilius × Nautilus stenomphalus と言った交雑種がある模様)及び

オウムガイ科アロノーチラス属 Allonautilus

を立てる説もあるようだが、英語版ウィキを見ると、このタイプ種はAllonautilus scrobiculatus でヒロベソオウムガイNautilus scrobiculatusのシノニムと思われる。但し、同属には同英語ウィキに

 Allonautilus perforatus(和名不明)

という種が示されてある。日本語版ウィキの「オウムガイ」の記載によれば、『生きている化石のひとつで』、『殻に入った頭足類で、南太平洋〜オーストラリア近海に生息し、水深およそ』百~六百メートルに棲息する。『深海を好むというイメージもあるが』、水深が八百メートルを『超えた所では殻が水圧に耐えきれず壊れてしまう。その祖先(アンモナイトに近い)は』四億五千万年前から五億年前に『誕生し、それからほとんど進化していないとされる生物である』。『餌を捕食するために』九十本ほどの『触手を使い、触手にあるたくさんの皺でものに付着する。触手のうち、上面にある二つの触手の基部が分厚くなって融合し、帽子のような形状を作り殻の口に蓋をする働きを持つ。何かに付着する以外には、触手を運動に使わない』。『眼は短い柄の先に付いて、外側が平らになった独特の形を持つものであるが、これはピンホールカメラ方式である。すなわち、タコやイカのカメラ眼とは異なり、レンズの構造がないため、視力はよくない。水の中に落ちた化学物質には素早い動きを見せる』。『イカやタコと同じく漏斗(ろうと)と呼ばれる器官から噴き出す水を推進力にして、体を軽く揺すりながらゆっくりと運動する。主な餌は死んだ魚介類や脱皮した殻などである。俊敏に移動できないので、イカやタコのように生きた魚介類を捕まえて食べることができない。イカやタコとは異なり、墨汁の袋は持っていない』。『また、タコやイカが一年、もしくは数年で死んでしまうほど寿命が短いのに対し、オウムガイの寿命は長く、十数年~二十年近くも生きるといわれるが、それは殻の生成による時間がかかることによる成長の遅さが起因しており、それは殻を完全に退化させ、成長速度を速めたタコやイカと対照的である』。『オウムガイの殻は、巻き貝のそれによく似て見えるが、内部の構造は大きく異なる。巻き貝の殻は、奥までが一続きでほとんど奥まで肉が入っているのに対し、オウムガイの殻の内部には規則正しく仕切りが作られ、細かく部屋に分けられている。もっとも出口に近い部屋が広く、ここに体が収まり、それより奥は空洞である』。『この空洞の部分にはガスと液体が入っており、浮力をそこから得ている。このガスと液体の容積の比率を調節することによって自分自身の全体としての比重を変化させて浮力の調整をして』いるが、『ガスと液体の容積の調整は弁のような機構的な構造によるものではなく』、『液体の塩分濃度を変化させることによる浸透圧の変化によって水分を隔壁内外へ移動させる事で行う。そのために海水中での深度調整の速度は他の海洋生物に比べると遅い』。『死んで肉が無くなると殻が持つ浮力のために浮かびやすく、海流に乗って長距離を流される事もあり、日本沿岸にもよくその殻が漂着する』。『頭足類であるから、タコやイカに近いことになるのだが、イカとタコには多くの類似点が認められるのに対してオウムガイは異なるところが多い。そのため独立した亜綱に分類されている』。『殻の形態や構造は中生代のアンモナイトにも似ているが、むしろそれより古く、古生代のチョッカクガイ』(直角貝:頭足綱オウムガイ亜綱直角石(オルトセラス)目 Orthocerida に属する直線的な殻を持つ化石生物群。オルドビス紀中期の示準化石)『などと共通の祖先を持つ(アンモナイトはイカやタコに近縁とされる)。チョッカクガイの化石は示準化石に指定されているが、現生のオウムガイと違い、殻は槍の先のように真っ直ぐに伸びていた。因みに、オウムガイがチョッカクガイの直系の子孫にあたるという説もあったが、現在では否定されている』。『日本語のオウムガイは、殻を正位置に立てた場合、黒い部分(生息時は、ここに「ずきん」が被っている)がオウムの嘴に似ている為にこの名がついたものである。英名はノーチラス(Nautilus)で、ギリシャ語の』「水夫」に由来するとされる。『ガスの詰まった殻内部の容積を調節して浮き沈みする仕組みは潜水艇と同様である。そのため、ジュール・ヴェルヌは『海底二万里』に登場する潜水艦にこの名を使い、また現実の多くの潜水艦にもこの名が使われた(特にアメリカの原子力潜水艦が有名)』とある。]

Kabutouo

[冑魚]

[やぶちゃん注:以上の図は底本の国立国会図書館国立国会図書館デジタルコレクションの画像からトリミングし、補正を加えたものである。]

 

 以上は兩方ともに無脊椎勤物の例であるが、次に脊椎動物に就いて見ると、古生代の魚類、中生代の爬蟲類、新生代の獸類などには、それぞれその時代に全盛を極めて居た種族が澤山にある。まづ古生代の魚類を見るに、今日の普通の魚類とは大に違うて光澤のある厚い骨のやうな鱗を被つた種類が多く、スコットランドの赤色砂岩から出た化石の如きは、「かに」か「えび」かの如くに全身厚い甲冑を著けて殆ど魚類とは見えぬ。勿論陸上へは昇り得なかつたが、魚類以上の水棲動物がまだ居なかつた時代故、かゝる異形の魚類は到る處の海中に無數に棲息して實に全盛を極めて居た。通俗の地質學書に古生代のことを「魚の時代」と名づけてあるのも尤な次第である。しかしその後に至つて皆忽ち絶滅して、今日これらの魚類に聊かでも似て居るのは、僅に「てふざめ」などの如き硬鱗魚類が數種あるに過ぎぬ。

[やぶちゃん注:「甲魚」「かぶとうを(うを)」と訓じているらしい(学術文庫ルビから)。「甲冑魚(かっちゅうぎょ)」のこと。古生代に棲息した硬く厚い外骨格を持った魚類で翼甲類及び板皮類に属した。翼甲類は脊索動物門脊椎動物亜門(又は頭蓋亜門)無顎上綱翼甲綱 Pteraspidomorphi に属する魚類の総称で約五億年前のカンブリア紀後期からオルドビス紀前期に出現したが、この類の殆ど総ての種(プテラスピスPteraspis・アストラスピスAstraspis・アランダスピスArandaspisなど)は絶滅してしまったが、現生のヌタウナギ類(無顎口上綱ヌタウナギ綱ヌタウナギ目ヌタウナギ科ヌタウナギ属 Eptatretusの仲間)の祖先であるとする説がある一方、別系統であるとする説がある。板皮類は魚類上綱の一綱Placodermiで、古生代シルル紀の後期から石炭紀の初期にかけて生息した。頭部と胸部は厚い装甲に覆われ、頭甲と胸甲は左右で関節化し、軟骨魚類や硬骨魚類に見られるような歯を持たず、顎骨板が露出して、鉈(なた)状を成しており、これで獲物を嚙み切ったと推定される。殆どが肉食性と思われ、その代表的なものは節頸類(コッコステウス目)である。全長数メートルに達したと思われるダンクルオステウス Dunkleosteus が有名である(概ね、小学館「日本大百科全書」に拠る)。]

Kyouryuu1

[中生代の大「とかげ」]

Kyouryuu2

[中生代の大「とかげ」]

[やぶちゃん注:以上の二図は底本の国立国会図書館国立国会図書館デジタルコレクションの画像からトリミングし、補正を加えたものである。]

 

 中生代に於ける爬蟲類の全盛の有樣は更に目覺ましいもので、陸にも海にも驚くべき大形の種類が勢を擅にして居た。今日では爬蟲類といふと、龜・蛇・「とかげ」などの類に過ぎず、熱帶地方には幾らか大きなものも居るが、普通に見掛けるものは小さな種類ばかりであるから、全盛時代に於ける爬蟲類の生活狀態は到底想像も出來ぬ。ヨーロッパやアメリカの中生代の地層から掘り出された爬蟲類の化石を見ると陸上を四足で匍ひ歩いた種類には、長さ二〇餘米に及び脛の骨一本だけでも殆ど人間程あるもの、また「カンガルー」の如く後足だけで立つた種類には、高さが五米以上に達するもの、また蝙蝠の如く前足が翼の形となつて空中を翔け廻つた種類には、兩翼を廣げると優に五米を超えるものがあり、その他形の奇なるもの姿の恐しいものなど實に千變萬化極まりない有樣であつた。しかもそれが皆頗る數多く掘り出され、べルギーのベルニッサールといふ處からは長さ一〇米もある大「とかげ」の化石が二十五疋も一處に發掘せられた。ブリュッセル博物館の特別館内に陳列してあるのはこれである。中生代にはまだ獸類も鳥類も出來始まりの頗る幼稚な形のもののみであつたから、陸上でこれらの恐しい爬蟲類の相手になつて競爭し得る動物は一種もなかつたに相違ない。更に海中では如何といふに、こゝにも爬蟲類が全盛を極めて魚の如き形のもの、海蛇の如き形のものなどさまざまの種類があり、大きなものは身長が七米一三米にも達してゐて、恰も今日の鯨の如くにしかも今日の鯨よりは遙に多數に到る處の海に游泳して居た。通俗の書物に中生代のことを「爬蟲類の時代」と名づけてあるのも決して無理ではない。かやうに中生代には非常に大きな爬蟲類が水中・陸上ともに全盛を極め、殆ど爬蟲類にあらざれば動物にあらずと思はれるまでに勢を得て居たが、その後に至りいづれも遽に滅び失せて、次なる新生代まで生き殘つたものは一類としてない。特に不思議に感ぜられるのは海産「とかげ」類の絶滅したことで、陸産の方ならば或は新に現れた獸類などに攻め亡されたかも知れぬといふ疑があるが、海中に鯨類の生じたのは新生代の中頃であつて、海産「とかげ」類の斷絶してから遙に後のこと故これらは決して新な強敵に出遇うて敗けて亡びたのではない。それ故なぜ自ら滅び失せたか今までたゞ不可解といふばかりであつた。

[やぶちゃん注:「陸上を四足で匍ひ歩いた種類には、長さ二〇餘米に及び脛の骨一本だけでも殆ど人間程あるもの」これはもう、図を見れば一目瞭然、約一億五千万年前の中生代ジュラ紀後期に棲息していた爬虫綱双弓亜綱主竜形下綱恐竜上目竜盤目竜脚形亜目竜脚下目ディプロドクス科アパトサウルス属 Apatosaurusの一種である(一科一属)大型草食性恐竜、

アパトサウルス・エクスセルスス Apatosaurus excelsus (Marsh, 1879c) Riggs, 1903

である。同種は旧シノニムをブロントサウルス・エクスセルススBrontosaurus excelsus とも称し私の世代には、この「ブロントサウルス」の方が遙かに通りがよい(但し、現在の古生物学ではこの属名のシノニム自体は全く無効となっている)。本邦の子供向けの恐竜図鑑の通称「カミナリリュウ(雷竜)」もずっと今以って親近感があると言える。現在では他に、

アパトサウルス・アジャクス Apatosaurus ajax Marsh, 1877(本属の模式種)

アパトサウルス・ロウイサエ Apatosaurus louisae Holland, 1915

アパトサウルス・パルヴス Apatosaurus parvus (Peterson et Gilmore, 1902)

の四種が立てられてある。因みに丘先生の引いた挿絵は古生物学者オスニエル・チャールズ・マーシュ(Othniel Charles Marsh 一八三一年~一八九九年)の手になる「Brontosaurus excelsus」(現在のApatosaurus excelsus)の骨格見取図(一八九六年)に生体時の推定輪郭線を附したものであることが、ウィキの「アパトサウルス」に示された原図から判る。同原図はパブリック・ドメインなので以下に示す。比較されたい。但し、これは百二十年前の当時の知見による恣意的な作図であり、正確なものではない(特に脚部の骨や爪など)ので注意が必要である。同ウィキによれば、『属名(ラテン語)Apatosaurus は古代ギリシア語』の『(アパーテー)「騙す、まやかす」』の意に、(サウロス)「とかげ」の語を合成した『語で、「惑わせ竜」とでもいった含意』で、『模式種の種小名 ajax は、ギリシア神話の英雄である大アイアース』『に由来する』『ほか、excelsus はラテン語で「高みなる」「気高い」「上位の」といった意味。 louisae 「ルイーズの」はアメリカの実業家アンドリュー・カーネギーの妻ルイーズ・カーネギー(Louise Carnegie)への献名。parvus はラテン語で「小さな」の意であるが、元の学名 Elosaurus parvus』(エロサウルス・バルヴス)『からの継承である』とある。約一億五千万年前の分布域は単独大陸として北半球に存在した現在の北アメリカ大陸西部地域に相当し、全長は約二十一~二十六メートルにも及び、体重は推定試算方法によって幅があるが、凡そ二十四 トンから三十二トンという見積もりが出ている。本属類は『群れを成して移動し、森林の木の葉を常食していたものと考えられ』ている。一九六〇年代までは、『あまりに体重が大きいため、陸上を歩くことができず、湖沼に棲息していたという見方が定説となっていて、下肢骨が重く脊椎骨に多くの空洞があって重心が低位置にあること、首が長いこと、鼻孔が頭の上部に開口していることなどが水中生活に適応した証拠とされていた。その後、アメリカ人古生物学者ロバート・T・バッカーらの研究により、陸棲であったことが明らかになっている』とある。

Brontosaurus_skeleton_1880s

『「カンガルー」の如く後足だけで立つた種類には、高さが五米以上に達するもの』五メートル以上という立脚時の高さから考えると、六千八百五十万年前から約六千五百五十万年前の中生代白亜紀末期の現在の北アメリカ大陸地域に生息していた(但し、起源は原ユーラシア大陸とされる)肉食恐竜

爬虫綱双弓亜綱主竜形下綱恐竜上目竜盤目獣脚亜目テタヌラ下目ティラノサウルス上科ティラノサウルス科ティラノサウルス属ティラノサウルス・レックス(タイプ種)Tyrannosaurus rex

及びその近縁種しか考え難いのであるが(それ以外の二足歩行をすることを特徴とする獣脚亜目 Theropodaのトカゲや恐竜類は後ろ足で立った際の高さがこんなに大きくならないと思う)、しかしこれが挿絵に掲げられたものであるとすると、どう見ても、この頭骨がティラノサウルス属ではない気が私はする。

獣脚亜目ケラトサウルス下目ケラトサウルス科ケラトサウルス属 Ceratosaurus

なら高さは合うが、頭骨上顎や後肢の大腿部の構造が違う。

獣脚亜目テタヌラ下目アロサウルス上科アロサウルス科アロサウルス属 Allosaurus

も頭部が異なる。どうもこれは、竜盤目獣脚亜目に拘っているのが問題なのかも知れんと思い、あくまで先細りの頭部骨格を恐竜類の海外骨格標本サイトで縦覧するうち、かなり似ているものを見出した。

恐竜上目鳥盤目鳥脚亜目ハドロサウルス上科ハドロサウルス科ハドロサウルス亜科エドモントサウルス属 Edmontosaurus

である。ハドロサウルス科 Hadrosauridae はそもそもが「カモノハシリュウ(鴨の嘴竜)」として知られ、鴨のように長く平たい口吻部が特徴的な草食恐竜であり、本頭骨とよく一致する。ウィキの「エドモントサウルス」によれば、本属は体長は成体で九メートル程度が一般的だが、種によっては十三メートル、三・五トンに達したものもいたとあり、二足歩行時の本記載に合致する範囲である。中生代白亜紀マーストリヒト期(約七千百万~約六千五百万年前)の現北アメリカ大陸西部域相当に棲息した。英文ウィキのEdmontosaurus annectensにある、やはり、オスニエル・チャールズ・マーシュの手になる「Edmontosaurus annectens」の骨格復元スケッチを以下に示す。頭頂部が扁平に過ぎ、後脚股間部分の骨格に違いが認められはするが、獣脚亜目のズングリした頭骨と比すれば、遙かに本挿絵に似ていると私は信ずる。これが精一杯。もしアサッテのトンデモ比定であるならば、是非とも識者の御指導を乞うものである。

Large_marsh_claosaurus

「蝙蝠の如く前足が翼の形となつて空中を翔け廻つた種類」爬虫綱双弓亜綱主竜形下綱翼竜上目翼竜目 Pterosauria の初めて空を飛んだ脊椎動物である中生代の爬虫類翼竜の類。主な種は、ウィキの「翼竜」によれば、

ランフォリンクス Rhamphorhynchus

(『ジュラ紀に出現した。長い尾の先が菱形になっていたが、これは飛行時に舵の役割をしたのではないかとする説がある。翼開長は最大』百七十五センチメートル』)

プテロダクティルス Pterodactylus

(『ジュラ紀に出現した。翼開長は』五十〜七十五センチメートルほど。)

プテラノドン Pteranodon

(『白亜紀の北アメリカに出現した。翼開長は』七・五メートルにも『及ぶ大型の翼竜で、大きなくちばしをもち、頭部の後ろにも大きな突起がある』)

ケツァルコアトルス Quetzalcoatlus

(『白亜紀の北アメリカに出現した。翼開長は』十二メートルにも『及び、目下空を飛んだ最大の動物とされている。属名はアステカ神話の神ケツァルコアトルに由来する』。体重は七十キログラム程度と推定されている)

ダルウィノプテルス Darwinopterus

(中国北東部で出土し、研究によって二〇〇九年に新種として認定された。大きさはカラスほどの小型翼竜)

丘先生の言及しているのはプテラノドンPteranodon である。

「べルギーのベルニッサール」ベルギー王国のワロン地域エノー州のベルニッサール(Bernissart)。そこのにあるサンバルベ炭坑で発見された。

『長さ一〇米もある大「とかげ」の化石』「ブリュッセル博物館の特別館内に陳列してある」ベルニッサールのサンバルベ炭坑で発見された、

爬虫綱双弓亜綱主竜形下綱恐竜上目鳥盤目鳥脚亜目イグアノドン上科イグアノドン科イグアノドン属 Iguanodon

の恐竜研究史の最初期に発見された鳥脚類の一種である。和名は「禽竜(きんりゅう)」。ウィキの「イグアノドンによれば、『イグアノドンを発見したのはイギリスの田舎医者だったギデオン・マンテル(Gideon Mantell)である。マンテルは相当な古生物マニアで、医師業の傍ら自ら化石を取りに出かけていたという。マンテルの収集した化石コレクションは当時のイギリスでも有数のものだった。ある日、診察の帰りに工事で掘り返された道路を見ていたところ、巨大な歯と取れる化石を発見、すぐさま博物学者ジョルジュ・キュヴィエなど専門家の下に意見を仰ぎに行った。ところがキュヴィエらはサイか、象の歯としか捉えず、マンテルは納得しなかった。その後、爬虫類であるイグアナの歯と化石の特徴が一致することを突き止めたマンテルは、その化石が古代に生きた巨大な爬虫類のものであるとし、「イグアナの歯」を意味する学名、Iguanodon(イグアノドン)を与えた』。『このイグアノドン発見譚には、最初の発見者は、マンテル本人ではなく往診に付き添った妻であるとするものもある。じつのところ、マンテルはある書簡では自分が発見したと書き、別の書簡では妻が発見したと書き残している。また、生前の友人、知人と交わした会話でも、発見者については自分であるとも妻であるとも述べている。はたして実際の第一発見者が誰であるのかは興味を惹く問題であり、これまでにも何度か調査が行われたが、結局結論は出ていない』。『マンテルが想像したイグアノドンは、鼻先に角を持ち、長大な尾、イグアナのような体躯をしていた。イグアナをモデルとした結果、マンテル・イグアノドンは、体長』七十メートルという『非常に巨大な生物となってしまった。体長はともかく、その後長くマンテル・イグアノドンのスタイルはしばらく受け継がれることになる』。一八七八年に『ベルギーのエノー州にあるベルニサール炭鉱から』三十体以上の『完全な全身骨格化石が発見され、イグアノドンの復元についての研究が大きく進んだ。現在この化石はベルギー王立自然史博物館に展示されている』。『実際のところ、一般的な現生爬虫類であるイグアナと、絶滅した古生物であるイグアノドンの間には生物学的になんら関係はない。歯の形が似ているぐらいのものである』。実体長は七~九メートル。『イグアノドンは他の一般的鳥脚類と同様にくちばし(鳥のようなくちばしではなく、骨格の一部をなす骨)を持ち、竜脚類に比べ発達した数百本の臼歯があった。上顎には歯列を左右に動かすことができる関節があった。こうした構造は、固定され上下するのみの下顎の歯列との間に側方剪断力を生み』、『植物を効率的に剪断、すり潰す事が出来た』。『比較的短い前肢と長めの後肢を持つ。イグアノドンのもっとも大きな特徴はその前肢にある。親指は殆どが長さ』十五センチメートルほどの、『円錐状の鋭くとがった骨からできていて、マンテルが角と見ても仕方がなかった。実際には、骨に更に角質の爪がかぶるので更に長くなる。これが親指だと判明した当時は肉食恐竜に対する唯一の防御方法として知れ渡っていたが、現在では柔軟性の高い』第五指(小指)と『共に藪の中で好みの葉を寄せる時に使われたのではないかと考えられている。実際、捕食動物に襲われた際、この親指を武器として使える余裕があったかどうかは疑問である』。『イグアノドンはマンテルの頃に』四足歩行、後に二足歩行で『復元されるようになり、現在では再び』四足歩行に『戻っている。これは前肢の』五本の指の内、真ん中の三本に、『手の甲側へ深く曲げることのできる特殊な関節を持っていることが分かったためである。イグアノドンは通常』は四足歩行し、『体重の軽い若い個体や急ぐ時などは』二足歩行を『していたのだろうと考えられている』。『イグアノドンの尾の断面は縦長になっているため、かつては尾を使って泳ぐ水生動物と考えられたこともあったが、現在では陸生であったとされる』。復元とその復元図は伊藤裕一氏の「イグアノドン復元の話」(PDF)に詳しい。因みに、地図を見ると、ベルニッサールには「イグアナドン通り」(!)という街路名がある。

「海中では如何といふに、こゝにも爬蟲類が全盛を極めて魚の如き形のもの、海蛇の如き形のものなどさまざまの種類があり、大きなものは身長が七米一三米にも達してゐて、恰も今日の鯨の如くにしかも今日の鯨よりは遙に多數に到る處の海に游泳して居た」これはまず、

爬虫綱魚竜目 Ichthyosauria

で、『イルカに似ており(収斂進化参照)大きい歯を持っていた。中生代の大部分に亘って生存していた』。約二億五千万年前に、恐竜(約二億三千万年前に出現)よりもやや早くに出現し、九千万年前、恐竜より約二千五百万年早く絶滅している。『三畳紀前期に魚竜は、陸棲爬虫類のいずれかより進化して水棲になった。これはイルカを含むクジラ類の進化と並行的である。現時点で魚竜がどのような陸棲爬虫類から進化したかは不明である。双弓類に属するのは間違いないが、その二大系統である鱗竜形類(トカゲ・ヘビや首長竜を含む系統)や主竜形類(カメおよびワニや恐竜を含む系統)には属さず、それ等が分岐する以前の、より古い系統に発するのではないかとされる。魚竜はジュラ紀に特に繁栄した』(以上はウィキの「魚竜」に拠る)。次の「海蛇の如き形のもの」以下は、

双弓亜綱首長竜目 Plesiosauria

に属するプレシオサウルス類を指しているものと思われる。ウィキの「首長竜」によれば、『中生代三畳紀後期に現れ、ジュラ紀、白亜紀を通じて栄えた水生爬虫類の一群の総称。多くは魚食性だったと思われる。その名の通り大半は首が長いが、クロノサウルス』(後述)『やリオプレウロドン』(首長竜目プリオサウルス亜目プリオサウルス科リオプレウロドン属 Liopleurodon 。現行では平均体長七~十メートルほど。形状や生態はウィキの「リオプレウロドン」を参照されたい)『のような首が短い種もある。非常に長い時間をかけて繁栄し続けたが、他の大型水生爬虫類同様、中生代の最後の大量絶滅を乗り切れずに絶滅した』。『一部の種、例えばエラスモサウルス』属Elasmosaurus『の仲間では首(頸)が体より長い。その他の種でも胴や尾を含めた長さと同じくらいのものが多かった。四肢は完全に鰭状に変化しており、尾は短く、水生生活に適応していた。当時の水中の生態系での頂点に君臨していたと考えられる。主に魚食性であったが、アンモナイトやオウムガイ等も食べていた事、また、機会があれば海面近くに飛来したプテラノドンなどの翼竜や陸上の恐竜、他の海棲爬虫類も捕食した事が近年の研究で分かっている』。『首長竜については未だ多くの謎がある。その筆頭格が、「首長竜は陸に上がって産卵したか」「そもそも首長竜は陸に上がる事ができたか」というものである。肺呼吸をする海棲爬虫類が卵を産む場合には、ウミガメ』(爬虫綱双弓亜綱カメ目潜頸亜目ウミガメ上科 Chelonioidea)『やエラブウミヘビ』(爬虫綱有鱗目ヘビ亜目コブラ科エラブウミヘビ属エラブウミヘビ Laticauda semifasciata)など『のウミヘビのように陸に上がらなければならず、そうでなければ海面で幼体を産む必要がある。首長竜の骨格構造では陸に上がる事は不可能とする見解があるが、反論として陸に上がる事は可能だったとする説もあり、賛否は分かれている』。『魚竜の場合、胎児を持つ化石や出産中に死亡した化石が発見されており、最初から予想されていた胎生であることは既に証明されているが、首長竜の場合は卵の化石はもとより、魚竜のように胎児を持つ化石や出産中の化石も長らく未発見であり、結論が出せない状況にあった。しかし、アメリカの研究チームが』一九八七年に『発掘された首長竜の一種であるプレシオサウルス類の化石を分析したところ、体内に』一匹の子供の骨格が残っていることが二〇一一年に判明しており、『これにより、首長竜は胎生であり、陸に上がって産卵する卵生ではなかったことが証明されたと研究チームは結論付けている。ちなみに子供の体長は約』一・五メートルで、親の体長(約四・七メートル)と『比べて非常に大きく、しかも子供はまだ成長過程にあったと見られ、最終的に子供は親の体長の』四割を超える(約二メートル)まで『成長してから出産された可能性があると見られている。このように、首長竜は大型の子供を』一度に一匹だけ『産むタイプの生物であったと見られることから、首長竜は同じタイプのクジラと同じように群れを作って手厚い子育てをしていた可能性もあると研究チームは語っている』とある。丘先生の「大きなものは身長が七米一三米にも達してゐ」たというのは、そこに出た、最大級の、

首長竜目プリオサウルス亜目プリオサウルス科クロノサウルス Kronosaurus

を指していよう。ウィキの「クロノサウルス」によれば、『属名の由来はギリシャ神話の神クロノス。クロノスはゼウスの父であり、息子による権威の簒奪を予言されたため『自分の子供達を次々と丸呑みして腹中に封じてしまう』という逸話があり、巨大な顎をもつこの生物の名前として採用された。ゼウスの父クロノス自体が時間の神クロノスと混同される事が良くあるため、しばしば「時のトカゲ」と和訳されることがあるが』、『厳密に言えば誤りである』(私もそう思い込んでいた)。『首長竜は『首が長く頭が小さいグループ』(プレシオサウルス亜目)と『首が短く頭が大きいグループ』(プリオサウルス亜目)に大別されるが、クロノサウルスは後者における最大級のもので』、頭骨は三メートル近くもあり、『全長はローマー(Romer)の推定によれば』十二・八メートルとされるが、二〇〇三年Kearによって『行われた他のプリオサウルス類化石との比較から、実際にはもっと小さく』、九~十メートル程度『であった可能性が示唆されている』。また、『吻は長く伸びた三角形となり、顎には長さ』約二十五センチメートルに『達する鋭い歯を多数持っていた。胃の内容物の痕跡から、魚介類や他の海棲爬虫類を主食にしていた事が判明している。鰭脚は後ろが大きい。胴体は硬く引き締まり、尾は短いが、上部には鰭があったと推定されている。全部の鰭脚と尾の鰭で舵取りを行っていたとされる』とある。

『かやうに中生代には非常に大きな爬蟲類が水中・陸上ともに全盛を極め、殆ど爬蟲類にあらざれば動物にあらずと思はれるまでに勢を得て居たが、その後に至りいづれも遽に滅び失せて、次なる新生代まで生き殘つたものは一類としてない。特に不思議に感ぜられるのは海産「とかげ」類の絶滅したことで、陸産の方ならば或は新に現れた獸類などに攻め亡されたかも知れぬといふ疑があるが、海中に鯨類の生じたのは新生代の中頃であつて、海産「とかげ」類の斷絶してから遙に後のこと故これらは決して新な強敵に出遇うて敗けて亡びたのではない。それ故なぜ自ら滅び失せたか今までたゞ不可解といふばかりであつた』現在、この時期の大量絶滅の原因は、小惑星が地球に衝突し、『発生した火災と衝突時に巻き上げられた塵埃が太陽の光を遮ることで、全地球規模の気温低下を引き起こし、大量絶滅につながったという説(隕石説)が最も有力であり、ユカタン半島で発見されたチクシュルーブ・クレーターがその隕石落下跡と考えられている』とウィキの「大量絶滅」の「白亜紀末」の項にある。更に詳しくはウィキの「K-T境界」Cretaceous-Paleogene boundary(クリテイシャスペェィリィアヂィーン・バゥンダリー):地質年代区分の用語で、約六千五百五十万年前の中生代と新生代の境目に相当し、顕生代(カンブリア紀以後の古生代・中生代・新生代を含む時代)に於いて五回発生した大量絶滅の中で最後の事件をも指す)を参照されたい。]

Manmos

[マンモス]

Kodainoootunojika

[古代の大角鹿

アイルランドの新生代後期の地層から掘り出した化石に基づいてその生きた姿を想像して畫いた圖である 左右の角の尖端の距離が約五米 角と頭骨だけでも重さ百二十瓩以上]

Sekkijidaimanmos

[石器時代の「マンモス」の繪]



Sabeltiger

[牙の大き過ぎる虎の頭骨]

 

[やぶちゃん注:以上の四図は底本の国立国会図書館国立国会図書館デジタルコレクションの画像からトリミングし、補正を加えたものである。]

 次に新生代に於ける獸類を見るに、これまた一時は全盛を極めて居た。今日では陸上の最も大きな獸といふとまづ印度産とアフリカ産との象位であるが、人間の現れる前の時代には今の象よりも更に大きな象の種類が澤山にあり、その分布區域も熱帶から寒帶まで擴がつて居た。シベリヤの氷原からはときどき「マンモス」と名づける大象の遺骸が發掘せられることがあるが、氷の中に埋もれて居たこととて、恰も冷藏庫の内に貯藏してあつたのと同じ理窟で、何十萬年か何百萬年も經たに拘らず、肉も皮も毛も生きて居たときのまゝに殘つて居る。レニングラードの博物館にある完全な剝製の標本はかやうな材料から製作したものでゐる。我が國でもこれまで處處から「マンモス」その他の象の化石、犀の化石、素性のわからぬ大獸の頭骨などが掘り出されたことを考へると、太古には今日と違うて恐しい大きな獸類が多數に棲息して居たに違ない。また食肉類には今日の獅子や虎よりも更に大きく、牙や爪の更に鋭い猛獸が澤山に居た。ブラジルの或る地方から掘り出された一種の虎の化石では上顎の牙の長さが三〇糎程もある。鹿などの類にも隨分大きな種類があつて、左右の角の南端の距離が四米以上に達するものもあつた。その他この時代にはなほさまざまの怪獸が到る處に跋扈して世は獸類の世であつたが、その後人間が現れてからは大體の種族は忽ち滅亡して、今日では最早かやうなものは一種も見ることが出來ぬやうになつた。「マンモス」などが暫く人間と同時代に生活して居たことは、石器時代の原人が遺した彫刻にその繪のあるのを見ても確に知られる。

[やぶちゃん注:「印度産とアフリカ産との象」インド産は、

アフリカ獣上目長鼻(ゾウ)目ゾウ科アジアゾウ属アジアゾウ亜種インドゾウ Elephas maximus indicus

で、アフリカ産は、

ゾウ科アフリカゾウ属アフリカゾウ Loxodonta Africana

を指す。たまには子供向けに両者の違いを示す。

 

アフリカゾウは、

 ・耳が大きな三角形を成す

 ・鼻先の上下に突起を有する

 ・頭頂部が平たい

 〇前足の蹄(ひづめ)が四つで後ろ足が三つ

 ・肩と腰が有意に盛り上がっていて背中は窪んでいる

 ♂♀ともに前方にカーブした牙を持ち、では三メートル以上に延びる

 

のに対し、インドゾウを含むアジアゾウ(アジアゾウ属 Elephas )では、

 

 ・耳が小さな四角形を成す

 ・鼻の尖端は上だけに突起を有する

 ・頭頂部は左右に二つのピークを持つ

 〇前足の蹄は五つで後ろ足が四つ

 ・背中が丸い

 牙は極めて短く、には牙がないこともある

 

点である(以上は「富士サファリパーク」公式サイト内の「アフリカゾウとアジアゾウの比較」を参照した)。

「人間の現れる前の時代には今の象よりも更に大きな象の種類が澤山にあり、その分布區域も熱帶から寒帶まで擴がつて居た」ウィキの「ゾウ目」によれば、『長鼻類は、すでに絶滅した原始的な哺乳類のグループである顆節目(かせつもく) Condylarthra から分岐したと考えられる』。『化石は古第三紀初期』(五千万年以上前)まで『遡ることができ、現在知られる最古のものとして、モロッコの暁新世層から出土したフォスファテリウムがある。とはいえ、最近の遺伝子などを基にした研究では長鼻類はじめアフリカ獣類に含まれる哺乳類は白亜紀には顆節目を含む北方真獣類とは既に分岐していた独自グループであるとの説も有力になりつつある。これによれば長鼻類含むアフリカに起源をもった有蹄草食哺乳類達(現生のものは長鼻目、海牛目、岩狸目)は祖先を共有する一群とされ、これは近蹄類と呼ばれる。更にこの中でも長鼻目と海牛目の両者は、より近縁同士であるとみられ、これらをまとめてテティス獣類と呼ぶ。化石から知られる初期の長鼻類が、初期の海牛類同様に水陸両棲傾向が強い(現在で言えばカバのような)植物食動物であったとみられることも、この見方を補強している。『』当時、アフリカ大陸はテチス海によって他の陸地(ユーラシア)から隔てられており、長鼻類を含むアフリカ獣類は、この隔絶された大陸で、独自の進化を遂げた』。『始新世には、アフリカのヌミドテリウム、バリテリウム、モエリテリウム(メリテリウム)、インド亜大陸(当時、インドはテチス海を挟みアフリカに近い位置にあった島大陸だった)のアントラコブネ類など、非常に原始的な長鼻類が何種か知られている。これらは遠浅で温暖な海であったテチス海の海岸沿いを中心に棲息していたと思われる。始新世末期から漸新世にかけて、長鼻目はデイノテリウム亜目(ダイノテリウム亜目)と、現生のゾウ類に連なるゾウ亜目とに分岐した』。『中新世になると、新しい造山運動によってテチス海が分断され、アフリカとヨーロッパが地続きとなった。長鼻類はこのときにできた陸橋を通って、分布域を広げた。世界各地に数十種に及ぶ長鼻類が分布し、中新世は長鼻類の最盛期となった』。二つの『亜目のうち、デイノテリウム類は、アジア・ヨーロッパに分布域を広げ、中新世から更新世にかけて繁栄したが、更新世に姿を消した。その特徴は、下あごから湾曲しながら腹側後方へ伸びる、独特の牙(門歯の発達したもの)にあった』。『デイノテリウム類には肩高』四メートルに『及ぶものもあり、インドリコテリウムに次いで、史上』二番目に『サイズの大きな陸生哺乳類とされることもある』。『一方、ゾウ亜目は中新世以降、著しく発展した。プラティベロドンやアメベロドンなどのシャベルキバゾウがこれに含まれる。系統関係はまだ議論の途上にあるが、漸新世にマムート科(マストドン類)』(mammutidae)『が分岐し、中新世に基幹的なグループとして、やはり下あごのシャベル状の牙を特徴とするゴンフォテリウム科が派生した。ゴンフォテリウム類は非常に繁栄し、アジア、ヨーロッパ、アフリカ、北アメリカに広く分布していた。日本からもアネクテンスゾウ、ミヨコゾウ、センダイゾウなどが発掘されている。また、ステゴドン科とゾウ科は、このゴンフォテリウム科からさらに分化したものと考えられる。鮮新世以降まで存続したゾウ亜目のグループでは、一般的にサイズの著しい大型化が見られる』。最新の知見では、現生種のゾウに似た種は、二千六百万年ほど『前に現れたと考えられるようになった。これらの種の進化は、主に頭骨とあごの比率および牙と大臼歯の形状に関わるものであった。初期のゾウ類の多くは、上下のあごに』一対ずつ、計四本の短い牙をもっていた。中新世後期(約七百万年前)に『ゴンフォテリウム類から生じたと考えられるプリムエレファスは、マンモス類と現代のゾウ類の直接の祖先に当たるとされる。』約五百万年前に『世界的な寒冷化が始まると、ほとんどの長鼻類はこれに適応できず、多くの種は絶滅した』。『氷河期にも、現生ゾウ類によく似たマンモスやマストドンのような寒冷化に適応した種が少なからず存在したが、人類による狩猟が盛んになった更新世を迎え、その多くが絶滅している。特に更新世の末期、地球の急速な温暖化が進行したこともあってか、寒冷化に適応していた種は完全に姿を消した』。『古生物学者たちは、およそ』百七十種の『化石種を長鼻目に分類している』とある。

「マンモス」アフリカ獣上目ゾウ目ゾウ科ゾウ亜科アジアゾウ族マンモス属 Mammuthus に属する絶滅種群。ウィキの「マンモス」によれば、『現生のゾウの類縁だが、直接の祖先ではない』。約四百万年前から一万年前頃(絶滅時期は諸説ある)までの『期間に生息していた。巨大な牙が特徴で、種類によっては牙の長さが』五・二メートルに『達することもある。日本では、シベリアと北米に生息し太く長い体毛で全身を覆われた中型のケナガマンモス』(Mammuthus primigenius)『が有名だが、実際にはマンモスは大小数種類あり、シベリア以外のユーラシア大陸はもとより、アフリカ大陸・アメリカ大陸に広く生息していた。特に南北アメリカ大陸に生息していたコロンビアマンモスは、大型・短毛で、かつ最後まで生存していたマンモスとして有名である』。最古のマンモスは約五百万~四百万年前の『北アフリカにおいて生まれたと考えられて』おり、七百万~六百万年前に『アフリカゾウ属(Loxodonta から、「インドゾウとマンモスの共通の祖先」が分岐した。さらに』六百万~五百万年前に、『その「インドゾウとマンモスの共通の祖先」から、アジアゾウ属 Elephas)とマンモス属 Mammuthus)に分岐した』。Mammuthus subplanifrons は、約四百万~三百万年前に『生息したとされる最古のマンモスの一種で、南アフリカ共和国、ケニヤなどから化石が出土している。チャド、リビア、モロッコ、チュニジアで見つかった Mammuthus africanavus も最古期のマンモスと信じられ、一説に』約四百八十万年前に『生存したとされるが、出土したのは臼歯と牙のみであり、これら「最古のマンモス」については異論もある』。約三百万~二百五十万年前、『アフリカからヨーロッパに北上して移住する過程で、マンモスは新しい種 Mammuthus meridionalis を誕生させた。さらに、アジア、シベリアを経て』、約百五十万年前には『北米大陸まで広がった。当時シベリアとアラスカの間にベーリング海峡は存在せず陸続き(ベーリング地峡)だったため、自由に往来ができた』。『更新世末期にあたる』約四万年前から数千年前の間に『多くの大型哺乳類と共にマンモスは絶滅した。最後のマンモスは』紀元前一七〇〇年頃、『東シベリアの沖合にある北極海(チュクチ海)上のウランゲリ島で狩猟されたという説が提起されている』。『原因は未確定であるが、有力な仮説として氷河期末期の気候変動に伴う植生の変化を原因とする説がある』。約一万年前に『氷河期が終わり高緯度地域の気温が』十度程度『上昇した。この温暖化以前のシベリアは乾燥した大地で柳やイネ科の草が生息する草原が広がっていた。シベリアで発見されたマンモスの胃の内容物からイネ科の植物がマンモスの主食であり、他にキンポウゲ科やヨモギ類などを食べていたと推測される。ところが温暖化に伴って湿潤化し、一年の半分は大量の雪が降り積もる植物の生育に適さない大地へと変貌していった。マンモスの食料となる草木は激減し、マンモスもシベリアから消えていった、というストーリーである』。『その他の有力な仮説としては、ヒトの狩猟の対象になったことを原因とするものがある。アメリカ大陸に』一万年前後から『人類が進出した。人類がマンモスハンティングに使用したクロビス石器が登場する』一万一千年頃と『相前後してマンモスは地上から姿を消し始める。シミュレーションによれば、アメリカ大陸に人類が進出して』八百年ほどで『マンモスは絶滅している。子供を一度に』一頭しか『うまない大型動物であるマンモスは狩猟圧に弱い動物である』。『また、アメリカ大陸のコロンビアマンモスの化石の検証から伝染病説が最近の有力な仮説として提唱されている。これはアメリカ大陸でマンモスの化石と一緒に発見された矢じり(人間による狩猟の証拠)は全体で』七件しか『ないにもかかわらず、病変と見られる大腿骨の変形が』八割近くの『化石で確認されていることによる。この伝染病の原因は人間が連れてきた家畜であり、そのため人類がアメリカ大陸に上陸した直後にマンモスは絶滅したが、決して人類の狩猟のみによって絶滅したのではないという説である。上記のほかに』、約四万年前の『超新星爆発によって絶滅したとする説も存在する』。『ただし、ウランゲリ島』(北極海、東シベリア海とチュクチ海との間にあるロシア領の島)『でのマンモスの絶滅については、最新の研究で人類の到達する』約百年前に『マンモスが絶滅していたと考えられること、遺伝的多様性も維持されていたという調査結果から環境の緩やかな変化や狩猟によってではなく、巨大な嵐、細菌、ウィルスといった突発的な事件によってマンモスは絶滅したのではないかという説も出されている』。二〇一二年五月九日発行の「英国王立協会紀要」に『史上最小のマンモス』(肩高百二十センチメートル、体重三百十キログラム)がクレタ島で三百五十万年前まで『生息していたという研究が発表された』。また、『寒冷地には今なおマンモスが生息可能な環境があるとされ、近代に古生物として認知される以前から目撃情報がある』として、一五八〇年に『シベリアで山賊退治の騎士達が毛の生えた大きな象を目撃』、一八八九年にはアラスカで体高六メートル、体長九メートルのマンモスを射殺し、当該個体は六本もの牙を持っていたという。二十世紀初頭になっても、一九二〇年、『シベリアのタイガ地帯で猟師が巨大な足跡と糞を発見、足跡を追ううちに巨大な牙と赤黒い毛を持つ象を発見』と記す。こういう記載があるから、ウィキペディアは好き!

『我が國でもこれまで處處から「マンモス」その他の象の化石、犀の化石、素性のわからぬ大獸の頭骨などが掘り出された』」先のウィキの「マンモスによれば、日本では十三点の化石が発見されており、その内、十二点が北海道での発見で、残り一点は島根県日本海の海底約二百メートルから引き揚げられた標本であるとする。『加速器分析計による放射性炭素年代測定が行われ』、八点が測定可能で、得られた結果は約四万八千年前から二万年前までであった。これらの結果から、約四万年前より古い化石と約三万年前より新しい年代を示す化石に分けられ、約三万五千年前あたりを『示す化石はなかった。マンモスに替わってナウマンゾウが生息していた時代ではないかと推測されている』とある。ウィキの「ナウマンゾウによれば、ゾウ科パレオロクソドン属ナウマンゾウ  Palaeoloxodon naumanni は、肩高二・五メートル~三メートルで、『現生のアジアゾウと比べ、やや小型である。氷河期の寒冷な気候に適応するため、皮下脂肪が発達し、全身は体毛で覆われていたと考えられている。牙(切歯)が発達しており、雄では長さ』約二百四十センチメートル、直径十五センチメートルほどに『達した。この牙は小さいながらも雌にも存在し、長さ』約六十センチメートル、直径は六センチメートルほどであった。『最初の標本は明治時代初期に横須賀で発見され、ドイツのお雇い外国人ハインリッヒ・エドムント・ナウマン(Heinrich Edmund Naumann』(一八五四年~一九二七年:東京帝国大学地質学教室初代教授)『によって研究、報告された』。その後、大正一〇(一九二一)年には、『浜名湖北岸、遠江国敷知郡伊佐見村佐濱(現在の静岡県浜松市西区佐浜町)の工事現場で牙・臼歯・下顎骨の化石が発見された』。『京都帝国大学理学部助教授の槇山次郎は』、大正一三(一九二四)年に『それがナルバダゾウ Elephas namadicus の新亜種であるとしてこれを模式標本とし、日本の化石長鼻類研究の草分けであるナウマンにちなんで Elephas namadicus naumannni と命名した。これにより和名はナウマンゾウと呼ばれることになった』。戦後の昭和三七(一九六二)年から昭和四十年まで、長野県野尻湖で実施された四次に亙る『発掘調査では、大量のナウマンゾウの化石が見つかった。このときまでナウマンゾウは熱帯性の動物で毛を持っていないと考えられていたが、野尻湖発掘により、やや寒冷な気候のもとにいたことが明らかになった』。昭和五一(一九七六)年には、『東京の地下鉄都営新宿線浜町駅付近の工事中』、地下約二十二メートルのところから三体の『ナウマンゾウの化石が発見された。この化石は浜町標本と名付けられ、頭蓋や下顎骨が含まれている。出土地層は』約一万五千年前の『上部東京層で』、『他にもナウマンゾウの化石は、東京都内だけでも田端駅、日本銀行本店、明治神宮前駅など』二十箇所以上で『発見されている』。また、一九九八年のこと、『北海道湧別町東芭露(ひがしばろう)の林道沿いの沢で奇妙な形の石を隣村から山菜取りに来ていた漁師が発見』、『湧別町教育委員会に寄贈した。同委員会は札幌の北海道開拓記念館に石(化石)の調査を依頼した。北海道ではマンモスは』六~四万年前に、ナウマンゾウは約十二万年前に『生息していたと考えられていたので』、約三万五千年前の『マンモスの臼歯化石であると発表された。しかし』、二〇〇二年に『琵琶湖博物館の鑑定でナウマンゾウのものであり、北海道でもマンモスと入れ替わりながらナウマンゾウが生息していた新しい事実が明確になった』とある。後の「犀の化石」というのは不詳。体長三メートルほどの現生種スマトラサイに近縁と考えられているサイの新種で、本邦で化石が出、ウマ目サイ科スマトラサイ属ニッポンサイ Dicerorhinus nipponicus と命名された種の、化石発見は昭和四一(一九六六)年のことである。戦前にサイの化石発見があったという事実に行き当たらなかった(本書の初版の刊行は大正五(一九一六)年)。識者の御教授を乞う

「ブラジルの或る地方から掘り出された一種の虎の化石では上顎の牙の長さが三〇糎程もある」獣亜綱ネコ目ネコ亜目ネコ科マカイロドゥス亜科スミロドン属 Smilodon の所謂、「サーベルタイガー」のことであろう。ウィキの「スミロドンによれば、『新生代新第三紀鮮新世後期から第四紀更新世末期』の約三〇〇万~十万年前の『南北アメリカ大陸に生息していたサーベルタイガーの一種』で、一般に「サーベルタイガー」と呼ばれた中でも『最後期に現れた属である。アメリカ大陸間大交差によって北アメリカから南アメリカに渡った一種』。体長は一・九~二・一メートル、体高一~一・二メートルであるが、『南アメリカに進出したグループの方がより大型であった』。「サーベルタイガー」の名の元となる二十四センチメートルにも『及ぶ牙状の長大な上顎犬歯を持つ』。『この犬歯の断面形状は楕円であり、後縁は薄く鋸歯状になって』おり、『これは強度と鋭利さを兼ね備えた構造であり、獲物にこれを食い込ませる際の抵抗は小さくなっている。また下顎は』百二十度まで『開き、犬歯を効率よく獲物に打ち込むことができた』。『しかし、この犬歯は現生のネコ科の様に骨を噛み砕ける強度は持っておらず、硬い骨にぶつかるなどして折損する危険を回避するため、喉元の気管など柔らかい部位を狙ったと推定される』。『前肢と肩は非常に発達しており、獲物を押さえ込んだ上で牙を打ち込むのに適した形態であった。また発達した肩は、牙を打ち込む際の下向きの強い力を生み出す事が出来たとされる』。『しかし一方、発達した前肢に比べて後肢が短く、ヒョウ属の様な現代のネコ科の大型捕食者ほど素早く走ることは出来なかったとされる。そのためマンモスのような動きの遅い大型動物やマクラウケニアなどの弱った個体や幼体を群れで襲い、捕食していたと考えられている。群れを形成していた事の傍証としては、怪我をして動けない個体が暫く生きながらえていたという例が挙げられる。これは、他の個体から餌を分け与えられていたものと推測されている』。『スミロドンの食性については、大きく発達した犬歯をもつため、柔らかい肉や内臓のみを食べたとする説のほか、上下の顎を噛み合わせる事が困難であるから獲物の血を啜ったとする説』、『スカベンジャー(腐肉食者)とする説もある』が、『スミロドンの骨格には獲物と戦った際についたとおぼしき損傷の跡が見られるものも多いことから、プレデター(捕食者)であったとする説が主流である』。『大型の犬歯と発達した前肢は、確かに大型獣を捕殺するのに極めて適応した形態であった。しかしながら走行という面においては、走行と捕殺の機能を高次に兼ね備えた新しいタイプの捕食者に大きく水をあけられてしまう事を意味した。地球が寒冷化し、大型草食獣が減少しつつある時代においては、かれらは時代遅れの存在となっていた』。タールピット(自然に出来たタールの池)に『嵌った獲物を狙い、自らも沼に脚を取られて死んだとおぼしき化石も発見されている』。『絶滅時期にはヒトはまだアメリカ大陸に進出していないので、間接的にヒトの影響があったとする説には根拠がない』とある。

「鹿などの類にも隨分大きな種類があつて、左右の角の南端の距離が四米以上に達するものもあつた」ここで丘先生が出されたのは、獣亜綱鯨偶蹄目反芻亜目シカ科シカ亜科メガロケロス属Megalocerosの仲間、或いは同属オオツノシカ Megaloceros giganteus のこと。ウィキの「オオツノシカより引く。二百万年前~一万二千年前『(新生代第三紀鮮新世後期 - 第四紀更新世末)のユーラシア大陸北部に生息していた大型のシカ。オオツノジカとも記される。マンモスや毛サイと並んで氷河期を代表する動物として知られる。和名はこの属の特徴である巨大な角の後枝から。学名も同様に「巨大な枝角」を意味する。なお、日本で発掘されるヤベオオツノシカ(Sinomegaceros yabei)は別属別種であり、単にオオツノシカと呼ぶ場合は大陸産の本種を指す』。最大の個体では肩高約二・三メートル、体長三・一メートルに『達した大型のシカ。その名の通り巨大な角を持つ。角の差し渡しは最大』三・六メートル以上、重量は五十キログラムを『超えるといわれる。この角を支えるため、首筋から肩にかけての筋肉が発達していた。この角は発情期において性的ディスプレイ及び闘争の手段として使われたと思われる。それによって傷を負い、動けなくなって餓死したと思われる個体の化石も発見されている。現生のヘラジカも大型の角を持つが、両者の類縁は遠い』。『旧石器時代の壁画にかれらの姿が描かれている。おそらく人類の狩の対象になったと思われる』。『ヨーロッパからアジアの中北部に生息。特にアイルランドの泥炭地帯から多数化石が発見されている。そのため、かつてはアイルランドオオツノシカなどとも呼ばれた。氷河周辺の草地や疎林などで暮らしていたと思われる』。『長野県野尻湖では、ナウマンゾウとならび、数多くの化石が発見されている』(下線やぶちゃん。学術文庫版ではここはメートルではなく『二間』となっており、これは三・六三六メートルでぴったり一致する)。

「怪獸」私は面白いと思うのだが、丘先生がこの言葉を本書で使ったのはここが何と初めてである。]

2016/02/29

生物學講話 丘淺次郎 第二十章  種族の死(3) 二 優れた者の跋扈

     二 優れた者の跋扈

 

 劣つた種族が生存競爭に敗れて滅亡することは理の當然であるが、しからば優れた種族は永久に生存し得るかといふに、これに就いては大に攻究を要する點がある。優れた種族は敵と競爭するに當つては無論勝つであらうが、悉く敵に打ち勝つて最早天下に恐るべきものがないといふ有樣に遂した後は如何に成り行くであらうか。敵がなくなつた以上は、なほいつまでも全盛を極めて勢よく生存し續け得るであらうか。または敵がなくなつたために却つて種族の退化を引き起す如き新な事情が生ずることはないであらうか。今日化石となつて知られて居る古代の動物を調べて見るに、一時全盛を極めて居たと思はれる種族は悉く次の時代には絶滅したが、これは如何なる理由によることであるか。向ふ處敵なき程に全盛を極めて居た種族が、なぜ今まで己よりも劣つて居た或る種族との競爭に脆くも敗北して忽ち斷絶するに至つたか。これらの點に關してはまだ學者間にも何らの定説もないやうで、古生物學の書物を見ても滿足な説明を與へたものは一つもない。されば今から述べようとする所は全く著者一人だけの考であるから、その積りで讀んで貰はねばならぬ。

 

 およそ生存競爭に於て敵に勝つ動物には勝つだけの性質が具はつてあるべきはいふまでもないが、その性質といふのは種族によつてさまざまに違ふ。第一、敵とする動物が各種毎に違ふから、これに勝つ性質も相手の異なるに從ひ異ならねばならぬ。今日學者が名前を附けた動物だけでも數十萬種あるが、如何なる動物でもこれを悉く敵とするわけではなく、日常競爭する相手はその中の極めて僅少な部分に過ぎぬ。例へば産地が相隔れば喧嘩は出來ず、同じ地方に産するものでも森林に住む種族と海中に住む種族とでは直接に相敵對する機會はない。されば勝つ性質といふのは、同じ場處に住み、ほゞ對等の競爭の出來るやうな相手に對して優れることであつて、樹の上の運動では巧に攀ぢるものが勝ち、水の中の運動では速く游ぐものが勝つ。そして水中を速く游ぐには足は鰭の形でなければならぬから、木に登るには適せず、巧に木に登るには腕は細くなければならぬから、水を游ぐには適せぬ。それ故、水を游ぐことに於て敵に優れたものは、樹に登るには敵よりも一層不適當であり、木に登ることに於て敵に優れたものは、水を游ぐには敵よりも一層不適當であるを免れぬ。同一の足を以て、樹上では猿よりも巧に攀ぢ、平原では鹿よりも迅く走り、水中では「をつとせい」よりも速に游ぐといふ如きことは到底無理な註文である。鴨の如く飛ぶことも歩くことも游ぐことも出來るものは、飛ぶことに於ては遠く燕に及ばず、走ることに於ては遠く駝鳥に及ばず、游ぐことに於ては遠くペンギンに及ばず、いづれの方面にも相手に優る望はない。魚類の中には肺魚類というて肺と鰓とを兼ね具へ、空氣でも水でも勝手に呼吸の出來る至極重寳な種類があるが、水中では水のみを呼吸する普通の魚類に勝てず、陸上では空氣のみを呼吸する蛙の類に勝てず、今では僅に特殊の條件の下に熱帶地方の大河に生存するものが二三種あるに過ぎぬ。龜の甲の厚いことも、「とかげ」の運動の速いことも、それぞれその動物の生存には必要であるが、甲が重くては速に走ることが到底出來ず、速に走るには重い甲は何よりも邪魔になるから、「とかげ」よりも速力で優らうとすれば、甲の厚さでは龜に劣ることを覺悟しなければならず、甲の厚さで龜よりも優らうとすれば、速力では「とかげ」に劣ることを覺悟しなければならぬ。

[やぶちゃん注:「肺魚類」脊椎動物亜門肉鰭綱肺魚亜綱 Dipnoi に属する、肺や内鼻孔などの両生類的特徴を有する魚類で、出現は非常に古く、約四億年前のデボン紀で、化石では淡水産・海産合わせて、約六十四属二百八十種が知られるが、現生種は以下の六種のみが知られ、所謂、「生きた化石」と称される。現生種は全て淡水産。

ケラトドゥス目 Ceratodontiformes

 ケラトドゥス科ネオケラトドゥス属

  ネオケラトドゥス・フォルステ(オーストラリアハイギョ)Neoceratodus forsteri

レピドシレン目 Lepidosireniformes

 レピドシレン(ミナミアメリカハイギョ)科レピドシレン属

  レピドシレン・パラドクサ Lepidosiren paradoxa

 プロトプテルス科(アフリカハイギョ)科プロトプテルス属

  プロトプテルス・エチオピクス Protopterus aethiopicus

  プロトプテルス・アネクテンシス Protopterus annectens

  プロトプテルス・ドロイ Protopterus dolloi

  プロトプテルス・アンフィビウス Protopterus aethiopicus

ウィキの「ハイギョによれば(記号の一部を省略した)、『ハイギョは他の魚類と同様に鰓(内鰓)を持ち、さらに幼体は両生類と同様に外鰓を持つ』(ネオケラトドゥスは除く)『ものの、成長に伴って肺が発達し、酸素の取り込みの大半を鰓ではなく肺に依存するようになる。数時間ごとに息継ぎのため水面に上がる必要があり、その際に天敵のハシビロコウやサンショクウミワシなどの魚食性鳥類に狙われやすい。その一方で、呼吸を水に依存しないため、乾期に水が干れても次の雨期まで地中で「夏眠」と呼ばれる休眠状態で過ごすことができる』(ネオケラトドゥスは除く)。『この夏眠の能力により、雨期にのみ水没する氾濫平原にも分布している。アフリカハイギョが夏眠する際は、地中で粘液と泥からなる被膜に包まった繭の状態となる。「雨の日に、日干しレンガの家の壁からハイギョが出た」という逸話はこの習性に基づく』。『オーストラリアハイギョが水草にばらばらに卵を産み付けるのに対し、その他のハイギョでは雄が巣穴の中で卵が孵化するまで保護する。ミナミアメリカハイギョの雄は繁殖期の間だけ腹鰭に細かい突起が密生し、酸素を放出して胚に供給する』。『ハイギョは陸上脊椎動物と同様に外鼻孔と内鼻孔を備えている。正面からは吻端に開口する』一対の『外鼻孔が観察でき、口腔内に開口している内鼻孔は見えない』。『ハイギョの歯は板状で「歯板」と呼ばれる。これは複数の歯と顎の骨の結合したもので貝殻も砕く頑丈なものである。獲物をいったん咀嚼を繰り返しながら口から出し唾液とともに吸い込むという習性を持つ。現生種はカエル、タニシ、小魚、エビなどの動物質を中心に捕食するが、植物質も摂食する。頑丈な歯板は化石に残りやすいため、歯板のみで記載されている絶滅種も多い。ハイギョの食道には多少の膨大部はあるものの、発達した胃はない。このためにじっくりと咀嚼を繰り返す。ポリプテルス類、チョウザメ類、軟骨魚類と同様に、腸管内面に表面積拡大のための螺旋弁を持つ。総排出腔は正中に開口せず、必ず左右の一方に開口する。糞はある程度溜めた後に、大きな葉巻型の塊として排泄する』。『硬骨魚類は肉鰭類と条鰭類の』二系統に分かれるとされるが、『四足類は肉鰭類から進化したとされる。肉鰭類の魚類は現在』シーラカンス(肉鰭亜綱総鰭下綱シーラカンス目ラティメリア属のラティメリア・カルムナエ(シーラカンス)Latimeria chalumnae 及びラティメリア・メナドエンシス(インドネシアシーラカンス)Latimeria menadoensis の二種)『とハイギョのみである。かつての総鰭類(肉鰭類から肺魚類を除いた群)は分岐学に基づいて妥当性が見直され、さらに、現生種に対して分子遺伝学手法が導入された結果、シーラカンスよりもハイギョが四足類に近縁とする考えや、それに基づいた分類が用いられるようになった』とある。]

 

 かくの如く、優れた種族といふのは皆それぞれその得意とする所で相手に優るのであるから、競爭の結果、益々專門の方向に進むの外なく、專門の方向に進めば進むだけ專門以外の方面には適せぬやうになる。鳥の翼は飛翔の器官としては實に理想的のものであるが、その代り飛翔以外には全く何の役にも立たぬ。犬ならば餌を抑へるにも顏を拭ふにも地を掘るにも前足を用ゐるが、鳥は翼を用ゐることが出來ぬから止むを得ず後足または嘴を以て間に合せて居る。されば如何なる種族でも己が得意とする點で相手に優り得たならば、忽ち相手に打ち勝つてその地方に跋扈することが出來る。即ち水中ならば最もよく游ぐ種族が跋扈し、樹上では最もよく攀ぢる種族が跋扈し、平原ならば最もよく走る種族が跋扈することになるが、今日までに地球上に跋扈した種族を見ると、實際皆必ず或る專門の方面に於て敵に優つたものばかりである。

 

 對等の敵と競爭するに當つては一歩でも先へ專門の方向に進んだものの方が勝つ見込みの多いことは、人間社會でも多くその例を見る所であるが、同じ仕事をするものの間では、一歩でも分業の進んだものの方が勝つ見込みがある。身體各部の間に分業が行はれ、同じく食物を消化するにも、唾液を出す腺、膵液を出す腺、硬い物を咀嚼する器官、液體を飮み込む器官、澱粉を消化する處、蛋白質を消化する處、脂肪を吸收する處、滓を溜める處などが、一々區別せられるやうになれば、身體の構造がそれだけ複雜になるのは當然であるから、數種の異なつた動物が同じ仕事で競爭する場合には、體の構造の複雜なものの方が分業の進んだものとして一般に勝を占める。古い地質時代に跋扈して居たさまざまの動物を見るに、いづれも相應に身體の構造の複雜なものばかりであるのはこの理由によることであらう。相手よりも一歩先へ專門の方向に進めば相手に打ち勝つて一時世に跋扈することは出來るが、それだけ他の方面には不適當となつて融通が利かなくなるから、萬一何らかの原因によつて外界の事情に變化が起つた場合には、これに適應して行くことが困難になるを免れぬ。相手よりも一層身體の構造が複雜であれば、無事のときには敵に勝つ望が多いが、複雜であるだけ破損の虞が增し、一旦破損すればその修繕が容易でないから、急に間に合はずして失敗する場合も生ぜぬとは限らぬ。恰も人力車と自動車とでは平常はとても競走は出來ぬが、自動車は少しでも破損すると全く動かなくなつて、到底簡單で破損の憂のない人力車に及ばぬのと同じことである。嘗て地球上に全盛を極めた諸種の動物は、各その相手に比して專門の生活に適することと分業の進んだこととで優つて居たために、世界に跋扈することを得たのであるが、それと同時にここに述べた如き弱點を具へて居たものであることを忘れてはならぬ。

[やぶちゃん注:「膵液」膵臓で分泌される消化液。重炭酸塩及び多種の消化酵素を含んでおり、消化酵素にはトリプシン・キモトリプシン・カルボキシペプチダーゼなどの蛋白質分解酵素、リパーゼなどの脂肪分解酵素、アミラーゼなどの炭水化物分解酵素、ヌクレアーゼなどの核酸分解酵素が含まれ、三大栄養素の全てを消化出来る。]

生物學講話 丘淺次郎 第二十章  種族の死(2) 一 劣つた種族の滅亡

      一 劣つた種族の滅亡

 

 いつの世の中でも種族間の生存競爭は絶えぬであらうから、相手よりも遙に劣つた種族は到底長く生存することを許されぬ。同一の食物を食ふとか、同一の隱れ家を求めるとか、その他何でも生存上同一の需要品を要する種族が、二つ以上同じ場處に相接して生活する以上は一競爭の起るのは當然で、その間に少しでも優劣があれば、劣つた方の種族は次第に勢力を失ひ、個體の數も段々減じて終には一疋も殘らず死に絶えるであらう。また甲の種族が乙の種族を食ふといふ如き場合に、もし食はれる種族の繁殖力が食ふ種族の食害力に追ひ附かぬときは、乙は忽ち斷絶するを免れぬでゐらう。かくの如く他種族からの迫害を蒙つて一の種族が子孫を殘さず全滅する場合は常に幾らもある。そして昔から同じ處に棲んで居た種族の間では、勝負が急に附かず勝つても負けても變化が徐々であるが、他地方から新な種族が移り來つたときなどは各種族の勢力に急激な變動が起り、劣つた種族は短日月の間に全滅することもある。ヨーロッパに、アジヤの「あぶらむし」が入り込んだために、元から居た「あぶらむし」は壓倒されて殆ど居なくなつたこともその例であるが、かゝることの最も著しく目に立つのは、大陸と遠く離れた島國へ他から新に動物が移り入つた場合であらう。ニュージーランドの如きは從來他の島との交通が全くなくて、他とは異なつた固有の動物ばかりが居たが、ヨーロッパ産の蜜蜂を輸入してから、元來土著の蜜蜂の種族は忽ち減少して今日では殆どなくなつた。鼠もこの島に固有の種類があつたが、普通の鼠が入り込んでからはいつの間にか一疋も殘らず絶えてしまうた。蠅にもこれと同樣なことがある。

[やぶちゃん注:「あぶらむし」ここで謂うのは恐らく、有翅亜綱半翅目(カメムシ)目腹吻亜目アブラムシ上科 Aphidoidea に属するアリマキ(蟻牧)類のことであろう。但し、今のところ、丘先生が述べておられるような侵入によるヨーロッパ産の在来種のアリマキが圧倒されたという学術的記述を見出せない。調査を続行するが、是非とも識者の御教授を乞うものである。

「ニュージーランド」の固有種(という意味であろう)「土著の蜜蜂の種族は忽ち減少して今日では殆どなくなつた」という種も確認出来なかった。これも調査を続行するが、やはり是非とも識者の御教授を乞うものである。

「鼠もこの島に固有の種類があつたが、普通の鼠が入り込んでからはいつの間にか一疋も殘らず絶えてしまうた」というのも同定出来なかった。ただやや不審なのは、ニュージーランドにはキーウィ(鳥綱古顎上目キーウィ目キーウィ科キーウィ属 Apteryx)などの飛べない特異な鳥類が豊富にいるが(但し、近年は移入動物のネズミやネコの食害により個体数の深刻な現象が起こっている)、これは元来、ニュージーランドには彼らの天敵となるネズミやネコといった小型哺乳類がいなかったことが、固有の生態系と種を保存出来たと私は認識しており、この固有の齧歯類(ネズミ)というのにはどうも引っかかる。これも調査を続行するが、やはり是非とも識者の御教授を乞うものである。

「蠅にもこれと同樣なことがある」固有種の同定不能。これも調査を続行するが、やはり是非とも識者の御教授を乞うものである。

Baison

[アメリカの野牛]

Dodo

[モーリシヤス島に居た奇体な鳩]

[やぶちゃん注:以上の二図は底本の国立国会図書館国立国会図書館デジタルコレクションの画像からトリミングし、補正を加えたものである。]

 

 近代になつて絶滅した種族もなかなか數が多いが、その大部分は人間がしたのである。鼠とか雀とか蠅とか「しらみ」とかの如き常に人間に伴うて分布する動物を除けば、その他の種族は大抵人間の勢力範圍の擴張するに隨うて甚しく壓迫せられ、特に大形の獸類、鳥類の如きは最近數十年の間に著しく減少した。近頃までアメカ大陸に無數に群居して往々汽車の進行を止めたといはれる野牛の如きは、今は僅に少數のものが特別の保護を受けて生存して居るに過ぎぬ。ヨーロッパの海狸も昔は各處の河に多數に住んで居たが、今は殆ど絶滅に近いまでに減少した。獅子・虎の如き猛獸はアフリカやインドが全部開拓せられた曉には、動物園の外には一疋も居なくなるであらう。人間の力によつて已に絶滅した種族の例を擧げて見るに、マダガスカル島の東にあるモーリシアス島に居た奇態な鳩の一種は今から二百年餘前に全く絶えてしまうた。またこの島よりも更に東に當るロドリゲス島にはこれに似た他の一種の鳥が住んで居たが、この方は今から百年程前に捕り盡された。これらは高さが七六糎以上目方が一二瓩以上もある大きな鳥で、力も相應に強かつたのであるが、長い間海中の離れ島に住み、恐しい敵が居ないために一度も飛ぶ必要がなく、隨つて翼は退化して飛ぶ力がなくなつた所へ西洋人の航海者がこの邊まで來て屢々この島に立寄るやうになつたので、水夫はその度毎に面白がつてこの鳥を打ち殺し、忽ちの間に全部を殺し盡して、今ではどこの博物館にも完全な標本がない程に絶對に絶えてしまうた。シベリヤ・カムチャツカ等の海岸には百五六十年前までは鯨と「をつとせい」との間の形をした長さ七米餘もある一種の大きな海獸が居たが、脂肪や肉を取るために盛に捕へたので、少時で種切れになつた。前の鳥類でもこの海獸でも敵に對して身を護る力が十分でなかつたから、生存競爭に劣者として敗れ亡びたのであるが、もし人間が行かなかつたならば無論なほ長く生存し續け得たに違ない。劣つた種族が急に滅亡するのは大抵強い敵が不意に現れた場合に限るやうである。

[やぶちゃん注:「近頃までアメカ大陸に無數に群居して往々汽車の進行を止めたといはれる野牛」偶蹄目ウシ科ウシ亜科バイソン属アメリカバイソン Bison bison 。別名、バッファロー(buffalo)。ウィキの「アメリカバイソン」によれば、分布は『アメリカ合衆国(アイダホ州、アリゾナ州、カリフォルニア州、サウスダコタ州、モンタナ州、ワイオミング州、ユタ州)、カナダ』。『以前はアラスカからカナダ西部・アメリカ合衆国からメキシコ北部にかけて分布していた』が、『ワイオミング州のイエローストーン国立公園とノースウェスト準州のウッド・バッファロー国立公園を除いて野生個体群は絶滅し、各地で再導入が行われている』。体長はで三〇四~三八〇センチメートル、で二一三~三一八センチメートル。肩高はで一六七~一八六センチメートル、で一五二~一五七センチメートル。体重はで五四四~九〇七キログラムにも達し、は三一八~五四五キログラム。の最大体重個体では実に一トン七二四キログラムのものもいた』。『肩部は盛り上がり、オスでは特に著し』く、『成獣は頭部や肩部、前肢が長く縮れた体毛で被われる』。『湾曲した角』を有し、最大角長は五〇センチメートル。分類学上は二亜種に『分ける説がある』一方、『生態が異なるのみとして亜種を認めない説もある』。

ヘイゲンバイソン Bison bison bison (Linnaeus, 1758)

シンリンバイソン Bison bison athabasca Rhoads, 1898

『草原、森林に』棲息し、『以前は季節により南北へ大規模な移動を行っていた』。と幼獣からなる群れを形成し、が『この群れに合流するが、これらが合流して大規模な群れを形成することもある』。同士では『糞尿の上を転げ回り臭いをまとわりつかせて威嚇したり、突進して角を突き合わせる等して激しく争う』。『食性は植物食で、草本や木の葉、芽、小枝、樹皮などを食べ』、『通常の成獣であれば捕食されることはないが、老齢個体や病気の個体・幼獣はタイリクオオカミ・ピューマに捕食されることもある』。『また、イエローストーン国立公園において、若い成獣がヒグマに捕食されたことが観察されている』。  ~九月に交尾を行い、妊娠期間は二百八十五日。四~五月に一回に一頭の幼獣を出産、は生後三年で、は生後二~三年で性成熟する。『ネイティブ・アメリカンは食用とし、毛皮は服・靴・テントなど、骨は矢じりに利用された』。『ネイティブ・アメリカンは弓や、群れを崖から追い落とすなど伝統的な手法によりバイソンの狩猟を行っていた。特にスー族など平原インディアンは農耕文化を持たず、衣食住の全てをバイソンに依存していた』。十七世紀に『白人が北アメリカ大陸に移入を開始すると食用や皮革用の狩猟、農業や牧畜を妨害する害獣として駆除されるようになった』。十八世紀に『人による、主に皮革を目的とする猟銃を使った狩猟が行われるようになると、バイソンの生息数は狩猟圧で急激に減少』、一八三〇年代以降は『商業的な乱獲により大平原の個体も壊滅的な状態となり、ネイティブ・アメリカンも日用品や酒・銃器などと交換するために乱獲するようになった』。一八六〇年代以降は『大陸横断鉄道の敷設により肉や毛皮の大規模輸送も可能となり、列車から銃によって狩猟するツアーが催されるなど娯楽としての乱獲も行われるようになった』。『当時のアメリカ政府はインディアンへの飢餓作戦のため、彼らの主要な食料であったアメリカバイソンを保護せずむしろ積極的に殺していき、多くのバイソンが単に射殺されたまま利用されず放置された。この作戦のため、白人支配に抵抗していたインディアン諸部族は食糧源を失い、徐々に飢えていった。彼らは、アメリカ政府の配給する食料に頼る生活を受け入れざるを得なくなり、これまで抵抗していた白人の行政機構に組み入れられていった。狩猟ができなくなり、不慣れな農耕に従事せざるを得なくなった彼らの伝統文化は破壊された。バイソン駆除の背景には牛の放牧地を増やす目的もあったとされ、バイソンが姿を消すと牛の数は急速に増えていった』。一八六〇年代以降は『保護しようとする動きが始まるが、開拓期の混乱が継続していたこと・ネイティブ・アメリカンへの食料供給の阻止・狩人や皮革業者の生活保障などの理由から大きな動きとはならなかった』。十九世紀末から二十世紀になると、フロンティアの消滅に伴って、『保護の動きが強くなりイエローストーン国立公園などの国立公園・保護区が設置されるようになり』、一九〇五年になってやっと保護を目的とする「アメリカバイソン協会」が発足された。『白人が移入する以前の生息数は』約六千万頭だったと推定されているが、一八九〇年には千頭未満まで激減した。一九七〇年には一万五千から三万頭まで増加したとされる、とある。鯨から油だけを搾り採り、肉を日本に売っていた、「世界正義」を標榜するアメリカの実態がこれだ。

「ヨーロッパの海狸」「海狸」は「かいり/うみだぬき」で「ビーバー」と読んでおく(既に丘先生は本文で「ビーバー」と表記しているからである)。哺乳綱齧歯(ネズミ)目ビーバー科ビーバー属Castor の一属のみ)。ここで謂うのはヨーロッパ北部・シベリア・中国北部に生息する

ヨーロッパビーバー Castor fiber

であるが、他にもう一種、北アメリカ大陸に生息する

アメリカビーバー Castor Canadensis

がいる。丘先生は専ら前者の急激な減少のみを問題にているように読めるが、荒俣宏氏の「世界大博物図鑑5 哺乳類」(平凡社一九八八年刊)の「ビーバー」の項を見ると、ビーバーは『かつて北半球に広く分布していたが』、『近世以降』、『高価に取引きされるために乱獲され』、『個体数は著しく減少』、十七世紀に『イギリスやフランスの上流階級のあいだでビーバーの毛皮でつくった山高帽が流行』、『これが植民地時代のアメリカにおける本格的な乱獲に火をつけたといわれる』とあり、十九世紀前半には年間十万頭から五十万頭ものビーバーが毛皮用に殺され、『ハドソン・ベイ・カンパニー(北米原住民との毛皮取引きを目的として設立されたイギリスの会社)の紋章にもなった』。十九世紀半ばに『なって乱獲は下火となったが』、『一時は絶滅寸前かと噂された』。『二十世紀に入ってからは各州』(これは明らかにアメリカである)『の保護のもと』、『個体数は多少増えつつある』とあるから、乱獲と個体数激減で深刻だったのは寧ろ、アメリカビーバー Castor Canadensis の方だったことが窺えるのである(下線やぶちゃん)。

「マダガスカル島の東にあるモーリシアス島に居た奇態な鳩の一種は今から二百年餘前に全く絶えてしまうた」マダガスカルの東方八百九十キロメートルのインド洋上マスカレン諸島に位置する、イギリス連邦加盟国であるモーリシャス共和国(Republic of Mauritius)の首都ポートルイスのあるモーリシャス島に棲む、

ハト目ドードー科 Raphus 属モーリシャスドードー Raphus cucullatus

で、一般に単に「ドードー」と呼んだ場合は本種を指す。ウィキの「ドードー」によれば、『大航海時代初期の』一五〇七年に『ポルトガル人によって生息地のマスカリン諸島が発見された』。一五九八年に八隻の『艦隊を率いて航海探検を行ったオランダ人ファン・ネック提督がモーリシャス島に寄港し、出版された航海日誌によって初めてドードーの存在が公式に報告された。食用に捕獲したものの煮込むと肉が硬くなるので船員達はドードーを「ヴァルクフォーゲル」(嫌な鳥)と呼んでいた』『が、続行した第二次探検隊はドードーの肉を保存用の食糧として塩漬けにするなど重宝した。以降は入植者による成鳥の捕食が常態化し、彼らが持ち込んだイヌやブタ、ネズミにより雛や卵が捕食された。空を飛べず地上をよたよた歩く、警戒心が薄い、巣を地上に作る、など外来の捕食者にとって都合のいい条件が揃っていた』『ドードーは森林の開発』『による生息地の減少、そして乱獲と従来』は『モーリシャス島に存在しなかった人間が持ち込んだ天敵により急速に個体数が減少した。オランダ・イギリス・イタリア・ドイツとヨーロッパ各地で見世物にされていた個体はすべて死に絶え、野生のドードーは』一六八一年の『イギリス人ベンジャミン・ハリーの目撃を最後に姿を消し、絶滅した』。『ドードーは、イギリス人の博物学者ジョン・トラデスカントの死後、唯一の剥製が』一六八三年に『オックスフォードのアシュモレアン博物館に収蔵されたが、管理状態の悪さから』一七五五年に『焼却処分されてしまい、標本は頭部、足などのごくわずかな断片的なものしか残されていない』。『しかし、チャコールで全体を覆われた剥製は、チェコにあるストラホフ修道院の図書館に展示されている『特異な形態に分類項目が議論されており、短足なダチョウ、ハゲタカ、ペンギン、シギ、ついにはトキの仲間という説も出ていたが、最も有力なものはハト目に属するとの説であった』。『シチメンチョウよりも大きな巨体』『で翼が退化しており、飛ぶことはできなかった。尾羽はほとんど退化しており、脆弱な長羽が数枚残存するに過ぎない。顔面は額の部分まで皮膚が裸出している』。『空を飛べず、巣は地面に作ったと言う記録があ』り、『植物食性で果実や木の実などを主食にしていたとされる』。『また、モーリシャスにある樹木、タンバラコク(アカテツ科のSideroxylon grandiflorum、過去の表記はCalvaria major〈別称・カリヴァリア〉であった)と共生関係にあったとする説があり』、一九七七年に『サイエンス誌にreportが載っている』。『内容は、その樹木の種子をドードーが食べることで、包んでいる厚さ』一・五センチメートルもの『堅い核が消化器官で消化され、糞と共に排出される種子は発芽しやすい状態になっていることから、繁茂の一助と為していたというものであった。証明実験としてガチョウやシチメンチョウにその果実を食べさせたところ、排出された種子に芽吹きが確認された記述もあった。タンバラコクは絶滅の危機とされ』、一九七〇年代の観測で老木が十数本、実生の若木は一本とされる。『ただし、この説は論文に対照実験の結果が示されていないことや、サイエンス誌の査読が厳密ではなかったと推測する人もおり、それらの要因から異論を唱える専門家も存在する』。『ドードーの名の由来は、ポルトガル語で「のろま」の意』で、また、『アメリカ英語では「DODO」の語は「滅びてしまった存在」の代名詞である』とある。但し、荒俣宏氏の「世界大博物図鑑別巻1 絶滅・稀少鳥類」(平凡社一九九三年刊)の「ドードー」によれば、『一説によると』、『ドードーという名前そのものが』、『この鳥の鳴き声だともいう』とある。ヒトに見つけられて絶滅させられるまで、たった百四十七年であった(下線やぶちゃん)。

「ロドリゲス島にはこれに似た他の一種の鳥が住んで居たが、この方は今から百年程前に捕り盡された。これらは高さが七六糎以上目方が一二瓩以上もある大きな鳥で、力も相應に強かつたのであるが、長い間海中の離れ島に住み、恐しい敵が居ないために一度も飛ぶ必要がなく、隨つて翼は退化して飛ぶ力がなくなつた所へ西洋人の航海者がこの邊まで來て屢々この島に立寄るやうになつたので、水夫はその度毎に面白がつてこの鳥を打ち殺し、忽ちの間に全部を殺し盡して、今ではどこの博物館にも完全な標本がない程に絶對に絶えてしまうた」これは、モーリシャス島の北東五百六十キロメートルに位置するモーリシャス領の孤島で三つの島からなるロドリゲス島(Rodrigues Island)にのみ棲息していた、

ハト目ドードー科 Pezophaps 属ロドリゲスドードー Pezophaps solitaria

を指す。別名、「ソリテアー」(solitaire:ひとりもの)で、『形態などの差異からモーリシャスドードーとは別属に分類されている』。体長一メートルほどで、『体重は最も肥満する時期で』二十キログラム以上にも達した。『体色は主に褐色で白いものもある。飛べない。歩く速度は、「開けた場所なら簡単に捕まえられるが森の中ではなかなか捕まえられない」程度。卵は地上に葉を積み上げた巣に』、一個だけ産む。敵がおらず、『生息地が限られている環境で種を維持するには』、二個以上の卵を『産むのは不適当だったからであろうが、この習性が人間がロドリゲス島に来た後になって個体数の回復を難しくした可能性が高い』。この鳥を一六八九年に『はじめて発見したフランソワ・ルガの手記によると、多数が生息していたにもかかわらず複数で行動しているところはみかけなかったとのことで、別名のソリテアー(ひとりもの)と学名の種小名solitaria はそこから名付けられた』。一七六一年を『最後に目撃者がおらず、絶滅したとされる。標本は残っておらず、ヨーロッパに持ち込まれたこともない。人間による捕獲とネズミなどの移入動物による(特に卵や雛の)捕食が絶滅の原因とされている』とある。ヒトに見つけられて絶滅させられるまで、こちらは実に七十二年しかかからなかった。なお、ドードーには今一種、モーリシャス島西南方百九十キロメートルに位置するレユニオン島(現在はフランス領)に棲息していた、

レユニオンドードー Raphus solitaries

 

がいた。ウィキの「レユニオンドードー」によれば、『島を訪れた航海者の手記によると、「シチメンチョウ程度の大きさで、太ったおとなしい鳥」。羽毛は白、クチバシと羽の先は黄色。飛べない』。モーリシャスドードー Raphus cucullatus と同様の理由によって十七世紀末には絶滅したとされており、二羽ほどが『ヨーロッパに送られたらしいが、標本は残っていない。なお』、同島内では『ロドリゲスドードーに似た痩せた姿のレユニオンドードーも目撃されており、絵が残されている。日本の鳥類学者蜂須賀正氏はこれをレユニオンドードーとは別の種』(同氏は「ホワイトドードー」(victoriornis inperialis)と「レユニオンソリテアー」(Ornithaptera solitaria)という、孰れも別個立ての新属として種小名も「レユニオンドードー」(Raphus solitaries)とも異なる二種に分けて命名している)『としたが、今のところ一般には採用されていない』とある。「世界大博物図鑑別巻1 絶滅・稀少鳥類」で荒俣氏の記載にも小さな島(百九平方キロメートルしかない)に『類似した種が二つもいるとは考えられぬとして否定的な意見が多い』とある。私も同感である。なお、モーリシャス島・ロドリゲス島・レユニオン島では、他にも多くのリクガメやゾウガメの仲間が同時期に絶滅してもいる。

「シベリヤ・カムチャツカ等の海岸には百五六十年前までは鯨と「をつとせい」との間の形をした長さ七米餘もある一種の大きな海獸が居たが、脂肪や肉を取るために盛に捕へたので、少時で種切れになつた」ベーリング海に棲息していたジュゴン科に属する寒冷地適応型の一種で、体長七~九メートル、最大体重九トンにも及ぶ哺乳綱海牛(ジュゴン)目ダイカイギュウ科ステラーカイギュウ亜科ステラーカイギュウ属ステラーカイギュウHydrodamalis gigas  ロシアのベーリング率いる探検隊の遭難によって一七四二年に発見された彼らは、その温和な性質や傷ついた仲間を守るため寄ってくるという習性から、瞬く間に食用に乱獲され、一七六八年を最後に発見報告が絶える。ヒトに知られてから何と、僅か二十七年の命であった「地球にやさしい」僕らは、欲望の赴くまま、容易に普段の「やさしさ」を放擲して、不敵な笑いを浮かべながら、第二のステラーダイカイギュウの悲劇を他の生物にも向けるであろう点に於いて、何等の進歩もしていない。この頭骨の語りかけてくるものに僕らは今こそ真剣に耳を傾けねばならないのではないか? 自分たちが滅びてしまう前に――

 

 人間の各種族に就いても理窟は全く同樣で、遠く離れて相觸れずに生活して居る間は、たとひ優劣はあつても勝敗はないが、一朝相接觸すると忽ち競爭の結果が顯れ、劣つた種族は暫くの間に減少して終には滅亡するを免れぬ。歷史あつて以來優れた種族から壓迫を受けて終に絶滅した人間の種族は今日までに已に澤山ゐる。オーストラリヤの南にあるタスマニア島の土人の如きは、昔は全島に擴つて相應に人數も多かつたが西洋の文明人種が入り込んで攻め立てた以來、忽ち減少して今から數十年前にその最後の一人も死んでしまうた。昔メキシコの全部に住んで一種の文明を有して居たアステカ人の如きも、エスパニヤ人が移住し來つて何千人何萬人と盛に虐殺したので、今では殆ど遺物が殘つて居るのみとなつた。古い西洋人のアフリカ紀行を讀んで見ると、瓢を持つて泉に水を汲みに來る土人を、樹の蔭から鐡砲で打つて無聊を慰めたことなどが書いてあるが、鐡砲のない野蠻人と鐡砲のある文明人とが相觸れては、野蠻人の方が忽ち殺し盡されるのは當然である。今日文明人種の壓迫を蒙つて將に絶滅せんとして居る劣等人種の數は頗る多い。セイロン島のヴェッダ人でも、フィリッピン島のネグリト人でも、ボルネオのダヤック人でも、ニューギニヤのパプア人でも、今後急に發展して先達の文明人と對立して生存し續け得べき望みは素よりない。文明諸國の人口が殖えて海外の殖民地へ溢れ出せば、他人種の住むべき場處はそれだけ狹められるから、終には文明人とその奴隷とを除いた他の人間種族は地球上に身を置くべき處がなくなつて悉く絶滅するの外なきことは明である。人種間の競爭に於ては、幾分かでも文明の劣つた方は次第に敵の壓迫を受けて苦しい境遇に陷るを免れぬから、自己の種族の維持繼續を圖るには相手に劣らぬだけに智力を高め文明を進めることが何よりも肝要であらう。

[やぶちゃん注:「タスマニア島の土人の如きは、昔は全島に擴つて相應に人數も多かつたが西洋の文明人種が入り込んで攻め立てた以來、忽ち減少して今から數十年前にその最後の一人も死んでしまうた」タスマニア島の原住民であったタスマニアン・アボリジニ(Aborigine:アボリジニーはオーストラリア大陸と周辺島嶼(タスマニア島など。ニューギニアやニュージーランドなどは含まない)の先住民。タスマニアン・アボリジニーは一八〇〇年代前半に起こったイギリス植民者との「ブラック・ウォー(Black War)」で敗北、大量に殺戮され、或いは小島に移住させられて、ほぼ絶滅させられた。ウィキの「ブラック・ウォー」によれば、『この戦争は公式な宣戦布告無しで開始されたため、その継続期間についてはいくつかのとらえ方がある』。一八〇三年に『タスマニア島に最初にヨーロッパ人が入植した時に始まったとする見方もある。 最も激しい衝突があったのは』一八二〇年代で、『特にこの時期をブラック・ウォーと呼ぶことが多い』。この一八二〇年代の激しい衝突の後、一八三〇年にイギリス人副総督ジョージ・アーサー(George Arthur)は、『タスマニア島内のアボリジニーを一掃する計画を立てた。この作戦はブラック・ラインとして知られ、流刑者まで含めた島内全ての男性入植者が動員された。入植者は横列を組んで南と東に向け数週間かけて進み、タスマン半島へとアボリジニーを追い込もうとした。しかし、ほとんどアボリジニーを捕捉することはできなかった』。『もっとも、ブラック・ラインの実行は、アボリジニーを動揺させ、フリンダーズ島への移住を受け入れさせることにつながったと一般に考えられて』おり、約三百人の生き残っていた『タスマニアン・アボリジニーの大半は』、一八三五年末までにジョージ・ロビンソン(George Augustus Robinson)の提案に従って、『フリンダーズ島へ移住して、事態の鎮静化までの「保護」を受けることになった。そして、この移住完了をもってブラック・ウォーについて戦争終結と見るのが一般的である』。しかし、『フリンダーズ島への移住後、劣悪な生活環境とヨーロッパ人がもたらした疫病によりタスマニアン・アボリジニーの人口は激減』、一八四七年に『タスマニア島のオイスター湾保護区に再移送されるまでにタスマニアン・アボリジニーは約』四十人にまで減少、『その固有の文化も失われた。民族浄化というブラック・ラインの目的は、フリンダーズ島移住によって代わりに実現されたことになる』。『ジョージ・ロビンソンは』、一八三九年に『ポート・フィリップ地区の主席アボリジニー保護官に任命された。彼の下でオイスター湾の保護区は運営され』、一八四九年末に閉鎖された。このおぞましい大虐殺について、かのイギリスの作家H・G・ウェルズは、その「宇宙戦争」(The War of the Worlds:一八九八年刊)の序文で、次のように触れている。(火星人の侵略について考えるに際して)『われわれ人間は、自らが行ってきた無慈悲で徹底した破壊という所業を思い起こす必要がある。それも、バイソンやドードーといった動物を絶滅させただけでなく、われわれの劣等な近縁種たちまでも手にかけてきたことを。タスマニア人たちは、われわれ人とよく似ていたにも関わらず、ヨーロッパからの移民が行った駆除作戦によって』、五十年の『うちに絶滅させられてしまったのだ』(下線やぶちゃん)。同時代に生きた丘先生の本パートはまさにウェルズと同じ慙愧の念を以って語られているとは思えないか?

「昔メキシコの全部に住んで一種の文明を有して居たアステカ人の如きも、エスパニヤ人が移住し來つて何千人何萬人と盛に虐殺したので、今では殆ど遺物が殘つて居るのみとなつた」テノチティトランと呼ばれた現在のメキシコ市の中心部に都を置き、アステカ文化を花開かせた彼らは、十四世紀からスペイン人によって征服されてしまった一五二一年まで栄えた。「アステカ(Azteca)」とは彼らの伝説上の起源の地「アストラン(Aztlan)の人」を意味する(平凡社「世界大百科事典」に拠る)。以下、ウィキの「アステカ」から滅亡の前後を見よう。『メソアメリカ付近に現れたスペイン人は、繁栄する先住民文化をキューバ総督ディエゴ・ベラスケスに報告した』。一五一九年二月、『ベラスケス総督の配下であったコンキスタドールのエルナン・コルテスは無断で』十六頭の『馬と大砲や小銃で武装した』五百人の『部下を率いてユカタン半島沿岸に向け出帆』、『コルテスはタバスコ地方のマヤの先住民と戦闘を行』って、『その勝利の結果として贈られた女奴隷』二十人の『中からマリンチェという先住民貴族の娘を通訳として用いた』。『サン・フアン・デ・ウルア島に上陸したコルテスは、アステカの使者からの接触を受けた。アステカは財宝を贈ってコルテスを撤退させようとしたが、コルテスはベラクルスを建設し、アステカの勢力下にあるセンポアラ(スペイン語版、英語版)の町を味方に付けた。さらにスペイン人から離脱者が出ないように手持ちの船を全て沈めて退路を断ち』、三百人で内陸へと進軍『コルテスは途中の町の多くでは抵抗を受けなかったが、アステカと敵対していたトラスカラ王国とは戦闘になり、勝利し、トラスカラと和睦を結んだ』。十月十八日、チョルーラの町で彼らを礼節を以って迎えた三千から六千人ともされる無辜の民をおぞましい方法で大虐殺し、その後、千人の『トラスカラ兵と共にメキシコ盆地へと進軍』、一五一九年十一月十八日、『コルテス軍は首都テノチティトランへ到着』、モクテスマ二世は『抵抗せずに歓待』、コルテス達はモクテスマ二世の父の宮殿に入って六日間を過ごしたが、『ベラクルスのスペイン人がメシカ人によって殺害される事件が発生すると、クーデターを起こして』モクテスマ二世を支配下に治めた。翌一五二〇年五月、『ベラスケス総督はナルバエスにコルテス追討を命じ、ベラクルスに軍を派遣したため、コルテスは』百二十人の守備隊をペドロ・デ・アルバラードに託して一時的にテノチティトランをあとにした。ナルバエスがセンポアラに駐留すると、コルテスは黄金を用いて兵を引き抜いて兵力を増やした。雨を利用した急襲でナルバエスを捕らえて勝利すると、投降者を編入した』。『コルテスの不在中に、トシュカトルの大祭が執り行われた際、アルバラードが丸腰のメシーカ人を急襲するという暴挙に出』たことから、『コルテスがテノチティトランに戻ると大規模な反乱が起こり、仲裁をかって出た』モクテスマ二世は『アステカ人の憎しみを受けて殺されてしまう』『(これについては、スペイン人が殺害したとの異説もある)』。翌月末の六月三十日、『メシーカ人の怒りは頂点に達し、コルテス軍を激しく攻撃したので、コルテスは命からがらテノチティトランから脱出した』。『王(トラトアニ)を失ったメシーカ人はクィトラワクを新王に擁立して、コルテス軍との対決姿勢を強めた』。翌一五二一年四月二十八日、『トラスカラで軍を立て直し、さらなる先住民同盟者を集結させたコルテスはテテスコ湖畔に』十三隻の『船を用意し、数万の同盟軍とともにテノチティトランを包囲』、一五二一年八月十三日、『コルテスは病死したクィトラワク国王に代わって即位していたクアウテモク王を捕らえアステカを滅ぼした』。その後、『スペインは金銀財宝を略奪し徹底的にテノチティトランを破壊しつくして、遺構の上に植民地ヌエバ・エスパーニャの首都(メキシコシティ)を建設した。多くの人々が旧大陸から伝わった疫病に感染して、そのため地域の人口が激減した(但し、当時の検視記録や医療記録からみて、もともと現地にあった出血熱のような疫病であるとも言われている)』。『その犠牲者は征服前の人口はおよそ』一千百万人で『あったと推測されるが』、一六〇〇年の『人口調査では、先住民の人口は』百万程度に『なっていた。スペイン人は暴虐の限りを尽くしたうえに、疫病により免疫のない先住民は短期間のうちに激減した』のであった。当ウィキの注釈には、『アステカ王国がわずかな勢力のスペイン人に』たった二年半で滅ぼされてしまった『理由が、白い肌のケツァルコアトル神が「一の葦」の年に帰還するという伝説があったため』、『アステカ人達が白人のスペイン人を恐れて抵抗できなかったというためだったという通説については、異論を唱える研究者もいる。大井邦明によれば、ケツァルコアトルが白人に似た外観であったというのはスペイン人が書き記した文書にのみ見られるという。白人が先住民の支配を正当化すべく後から話を作った可能性があるという』。『また、スーザン・ジレスピー(フロリダ大学)によれば、アステカ側の年代記制作者が、わずかな勢力に王国が滅ぼされたことの理由付けとして後から話を作った可能性があるという』。『実際の理由としては、アステカがそれまで経験してきた戦争は生贄に捧げる捕虜の確保が目的であ』って、『敵を生け捕りにしてきたのに対し、スペイン人達の戦い方は敵の無力化が目的であり』、『殺害も厭わなかったこと』、『また、スペインの軍勢の力を見せつけるべくチョルーラで大規模な殺戮を行うなどしたが、アステカの人々にとっては集団同士の戦いでの勝敗はそれぞれの集団が信仰する神の力の優劣を表していたこと』、『そしてまた、スペイン人達は銃や馬で武装しており、アステカの軍勢は未知の武器に恐れをなしてたびたび敗走したこと』、『スペイン人がアステカに不満を持っていた周辺の民族を味方につけたこと』『などが挙げられる。これらの他、モクテソマ王自身が、不吉な出来事や自身が権力の座を失うことなどに不安を募らせ』、『希望を失なって首都を離れようとするなど』、『厭世的な気持ちに捕らわれていたことがアステカの軍勢の士気をも落としていただろうという指摘もある』とある。

「劣等人種」「鐡砲のない野蠻人と鐡砲のある文明人」時代的限界性からこれらが現行では許されない表現であることは言を俟たない。しかしどうあろう、丘先生はこれらを一種鉤括弧つきで皮肉に用いておられるようにも私には思われるのである。生物学的な「進化」の観点からは「劣等」「優等」という措辞を完全抹消することは恐らくは出来まい。そうして、例えば「鐡砲のない野蠻人と鐡砲のある文明人」を、現代の合わせて私は「鐡砲のない野蠻人と」全人類を何度も絶滅し得るだけの馬鹿げた核兵器を保持し、ゲーム感覚の電子精密「鐡砲」で無辜の民を殺すことに興じている「文明人」と言い換えてみたくなる。私は――「瓢」(ふすべ)「を持つて泉に水を汲みに來る土人」でありたいが、「樹の蔭から鐡砲で打つて無聊を慰め」る「文明人」には金輪際、なりたくないのである。――

「セイロン島のヴェッダ人」ウィキの「ヴェッダ人(英語:Vedda)によれば、『スリランカの山間部で生活している狩猟採集民。正確にはウェッダーと発音するが』、これは実は侮蔑語であって、彼らの『自称はワンニヤレット (Wanniyalaeto, Wanniyala-Aretto)で「森の民」の意味である』。『人種的にはオーストラロイドやヴェッドイドなどと言われている。身体的特徴としては目が窪んでおり彫りが深く、肌が黒く低身長であり広く高い鼻を持つ。 記録は、ロバート・ノックス』(Robert Knox)の「セイロン島誌」(An Hiatorical Relation of the Island Celylon in the East Indies,1681)に遡り、人口は一九四六年当時で二千三百四十七人、『バッティカロア、バドゥッラ、アヌラーダプラ、ラトゥナプラに居住していたという記録が残る』が、一九六三年の統計で四百人と『記録されて以後、正式な人口は不明で、シンハラ人との同化が進んだと見られる』。『現在の実態については確実な情報は少ない。伝説の中ではヴェッダはさまざまに語られ、儀礼にも登場する。南部の聖地カタラガマ(英語版)の起源伝承では、南インドから来たムルガン神が、ヴェッダに育てられたワッリ・アンマと「七つ峯」で出会って結ばれて結婚したとされる。ムルガン神はヒンドゥー教徒のタミル人の守護神であったが、シンハラ人からはスカンダ・クマーラと同じとみなされるようになり、カタラガマ神と呼ばれて人気がある。カタラガマはイスラーム教徒の信仰も集めており、民族や宗教を越える聖地になっている』。八月の『大祭には多くの法悦の行者が聖地を訪れて火渡りや串刺しの自己供犠によって願ほどきを行う』。『一方、サバラガムワ州にそびえるスリー・パーダは、山頂に聖なる足跡(パーダ)があることで知られる聖地で、仏教、ヒンドゥー教、イスラーム教、キリスト教の共通の巡礼地で、アダムスピークとも呼ばれるが、元々はヴェッダの守護神である山の神のサマン』(英語:Saman)を『祀る山であったと推定されている。古い神像は白象に乗り弓矢を持つ姿で表されている。サバラガムワは「狩猟民」の「土地」の意味であった。古代の歴史書『マハーワンサ』によれば、初代の王によって追放された土地の女夜叉のクエーニイとの間に生まれた子供たちが、スリーパーダの山麓に住んだというプリンダー族の話が語られている。その子孫がヴェッダではないかという』。『また、東部のマヒヤンガナ』『は現在でもヴェッダの居住地であるが、山の神のサマン神を祀るデーワーレ(神殿)があり、毎年の大祭にはウエッダが行列の先頭を歩く。伝承や儀礼の根底にある山岳信仰が狩猟民ヴェッダの基層文化である可能性は高い。なお、民族文化のなかで、一切の楽器をもたない稀少な例に属する』とある(下線やぶちゃん)。

「フィリッピン島のネグリト人」「ネグリート」とも呼ぶ。ウィキのネグリト(英語:Negrito)から引く。彼らは『東南アジアからニューギニア島にかけて住む少数民族を指し、これらの地域にマレー系民族が広がる前の先住民族であると考えられている。アンダマン諸島のアンダマン諸島人』、(十族)と、『Jangil、ジャラワ族、オンゲ族、センチネル族』を合わせた十四の『民族、マレー半島と東スマトラのセマン族』、『タイのマニ族』、『フィリピンのアエタ族・アティ族・バタク族(英語版)・ママンワ族』の四民族、『ニューギニアのタピロ族』『などの民族が含まれる』。『身長は低く、諸民族の中でも最も小さな人々であり「大洋州ピグミー」とも呼ばれる。オーストラロイドに属し、暗い褐色の皮膚を持ち、巻毛と突顎を持つ。山地にすみ単純な採集や狩猟を行い、移動焼畑を行う場合もある採集狩猟民である。フィリピンのアエタなどは火を使用するが、アンダマン諸島民は火を使わない。セマンは木の皮を叩いてやわらかくして衣服を作り、洞窟や木の葉で覆った家に住んでいたと記録されている』。『ネグリトという言葉はスペイン語で「小柄で黒い人」という意味であり、当初スペイン人航海者たちはネグリト人の肌の黒さからアフリカ人(アフリカの黒人)の一種かもしれないと考えていた。マレー語ではオラン・アスリ(orang asli)、すなわち「もとからいた人」と言う。フィリピンでは、現在のマレー系の民族が舟で到来する前の先住民とされ、パナイ島の伝説ではボルネオ島から渡ったマレー人たちがネグリト系のアエタの民から土地の権利を買ったとされている』。『ネグリトの人々は他の民族と比較して最も純粋なミトコンドリアDNAの遺伝子プールを持つとされ、彼らのミトコンドリアDNAは遺伝的浮動の研究の基礎となっている。またニューギニアに住む集団は、ネグリトとはさらに別に、メラネシア・ピグミーとされる事がある』。使用言語の項。『アンダマン諸島やニューギニア島のネグリトは固有の言語を持つが、マレー半島やフィリピンのネグリトは周辺諸族(非ネグリトのモンゴロイド)と同様のものを話す。これは過去のある時点で固有の言語を喪失したものと考えられている』。平凡社「世界大百科事典」(一九九八年版)の「ネグリト」によれば、インド洋のアンダマン諸島に約六百人、タイ南部と半島マレーシアの内陸に約二千五百人(セマン族)、フィリピン群島に約千五百人(アエタ族)が居住するとある(下線やぶちゃん)。

「ボルネオのダヤック人」平凡社「世界大百科事典」(一九九八年版)の内堀基光氏の「ダヤク族」(英語:DayakDyak)によれば(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更・追加した)、『オランダ系の民族学においては、ボルネオ島(カリマンタン)に住むプロト・マレー人系の原住民の総称として「ダヤク」の名称が一般的に用いられる。したがってこの語に各民族名を冠し、「カヤン・ダヤク」、「クニャー・ダヤク」、「ヌガジュ・ダヤク」、「海ダヤク(イバン族)」、「陸ダヤク」などの複合名称がしばしば用いられる。ダヤク諸族間の言語・文化的類縁関係については諸説があるが、ごく大きく分けて、(一)フィリピンの諸民族と近い北部群(とくにムルット族)、(二)中央カリマンタン諸族(カヤン族・クニャー族を含む)、(三)西ボルネオ諸族(イバン族・陸ダヤク)の三群を認めることができる』。『ダヤク諸族全体を通して焼畑陸稲栽培、顕著なアニミズム的世界観、発達した葬制、双系的な社会構造などの共通性が存在する。農耕方式における例外としては、北部高地のケラビット族の棚田耕作、西部海岸のミラナウ族のサゴヤシ栽培が文化史的に重要である。ボルネオ島の各地方海岸部に住むマレー人の起源は、多くの場合、イスラム化したダヤク族に求められるであろう。現在でも進行中の社会過程としてダヤク族のイスラム化=マレー化は、東南アジア島嶼部の歴史を理解するうえで重要な現象である。ボルネオ北西部を占めるサラワク(現・マレーシア領)では、イギリス植民地時代から「ダヤク」の語を「海ダヤク」と「陸ダヤク」に限定して用いてきた。日本でダヤク(ダイヤ)族という場合、実際にはイバン族をさしていることが多い』とある(下線やぶちゃん)。

「ニューギニヤのパプア人」平凡社「世界大百科事典」(一九九八年版)の畑中幸子氏の「パプア人」によれば(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更・追加した)、『ニューギニア島の高地に住む人々を指す場合と、パプア・ニューギニア(ニューギニア島東部)に住む人々を指す場合がある』(丘先生の謂いはこの両者を含むと考えてもよいが、少数の被圧された種族という意味ではニューギニア高地人で採るのがよかろう)。『高地に住む人々は、人種的にはオーストラロイドまたはオセアニック・ネグリトといわれ、アジア大陸から太平洋に向かって押し出された最古の集団である。これらの人々は約三万年前にニューギニア島に到着していた、後から来たモンゴロイド系に高地に追いやられた。一般にニューギニア高地人と呼ばれ、他のメラネシア地域とは異なる人種集団を形成している。一時期に大規模な人種の混血があったため、身体的特徴も地域により異なる。一九六〇年半ばから始まった考古学調査によると、高地の各地の渓谷に約一万年前に人が住んでいたことが明らかとなった。ベールに包まれたまま長く外界と孤立していたパプア人の多くは、第二次世界大戦後、オーストラリア行政と接触した。しかし六十年代までパプア人社会に近代化政策がもち込まれなかったため、発展が遅れた』。『パプア諸語には、数百を下らぬ数の異なる言語が含まれ、それぞれの言語の話者数は、数百から十五万人以上とさまざまである。パプア人社会は威信の獲得、蓄積を競う男性社会によって支配される部族社会であり、その特徴は中央集権化された政治組織および体系化された宗教がないことにある。儀礼が発達しており、多くはシングシング』(singsing:南西太平洋のメラネシア、特にパプア・ニューギニアでよく使われる、主として踊りなどを指すピジン・イングリッシュ)『が伴う。リーダーシップは世襲ではなく、戦闘や部族間の交易によって築かれ獲得されたもので、氏族(クラン)ごとにいるリーダーはビッグマン(ピジン・イングリッシュで「首長」の意)と呼ばれた。ビッグマンは氏族の全面的支持を背景として対外関係を処理してきた。部族間の取引関係を通じて通婚関係や同盟が成立していたが、張合いと攻撃性はしばしば武力抗争にまで発展した。貝貨・豚は欠かすことのできない財であった。技術の発達は遅れており、一般に階層分化も社会分業も未発達であった。人々はすべて形あるものは精霊から授けられると信じ、また呪術が部族間・部族内を問わずはびこっていた。彼らは根茎類(ヤムイモ・タロイモ・サツマイモ・キャッサバなど)の栽培を生業とする自給農民であるが、主として女性が農耕に従事する。主食のサツマイモは約三〇〇~三五〇年前にポルトガル人あるいはマレー人によって海岸地方にもたらされ内陸部に達したもので、これが高地の人口を増加させ、社会を変えたといわれる。一九六〇年代には換金作物の茶、コーヒーが導入されて栽培に成功、国の経済発展に一役買っている』。一九七三年に『パプア・ニューギニアに自治政府が樹立され、パプア人たちも政治に参加する機会をえた』。一九七五年には『イギリス女王を元首とする立憲君主国として独立したが、パプア・ニューギニアの約三百六十万人』(一九八四年次推定)の人口の三分の二が『パプア人である。メラネシア人との人種混血がおきており、ラネシア人国家ということから国民の間にメラネシア人としてのアイデンティティ(同類意識)が育ちつつある。西欧文化との接触が新しいため、土着文化が西欧文化と共存している』とある(下線やぶちゃん)。]

生物學講話 丘淺次郎 第二十章  種族の死(1) (序)

    第二十章  種族の死

 

 生物の各個體にはそれぞれ一定の壽命があつて、非業の死は免れ得ても壽命の盡きた死は決して免れることが出來ず、早いか晩いか一度は必ず死なねばならぬ運命を持つて居るが、さて種族として論ずるときはどうであらうか。同樣の個體の集まりである種族にも、やはり個體と同じやうに生死があり壽命があつて、一定の期限の後には絶滅すべきものであらうか。これらのことを論ずるには、まづ生物の各種族が如何にして生じ、如何なる歷史を經て今日の姿までに達したものかを承知して置かねばならぬ。

 

 動植物の種族の數は今日學者が名を附けたものだけでも百萬以上もあつて、その中には極めて相似たものやまるで相異なつたものがあるが、これらは初め如何にして生じたものであるかとの疑問は、苟しくも物の理窟を考へ得る程度までに腦髓の發達した人間には是非とも起るべきもので、哲學を以て名高い昔のギリシヤ人の間にもこれに關しては已に種々の議論が鬪はされた。しかし近代に至つて實證的にこれを解決しようと試みたのは、誰も知る通りダーウィンで、「種の起原」と題する著書の中に次の二箇條を明にした。即ち第一には生物の各種は長い間には少しづつ變化すること、第二には初め一種の生物も代を多く重ねる間には次第に數種に分れることであるが、絶えず少しづつ變化すれば、先祖と子孫とはいつか全く別種の如くに相違するに至る筈で、太古から今日までの間には境は判然せぬが幾度も形の異なつた時代を經過し來つたものと見倣さねばならず、また初め一種の先祖から起つた子孫も後には數種に分れるとすれば、更に後に至れば數種の子孫の各々がまた數種に分れるわけ故、すべてが生存するとしたならば、種族の數は次第に增すばかりで、終には非常な多數とならねばならぬ。この二箇條を結び合せて論ずると、およそ地球上の生物は初め單一なる先祖から起り、次第に變化しながら絶えず種族の數が殖えて今日の有樣までに達したのである。即ち生物各種の間の關係は、一本の幹から何囘となく分岐して無數の梢に終つて居る樹枝狀の系圖表を以て示し得べきもので、各種族は一つの末梢に當り、相似た種族は、相接近した梢に、相異つた種族は遙に相遠ざかつた梢に當つて、いづれも互に血緣の連絡はあるが、その遠いと近いとには素より種々程度の相違がある。これだけは生物進化論の説く所であるが、これは單に議論ではなく、化石學を始とし比較解剖學・比較發生學・分類學・分布學など生物學の各方面に亙つて無數の證據があるから、今日の所では最早疑ふ餘地のない事實と見倣さねばならぬ。

[やぶちゃん注:「動植物の種族の數は今日學者が名を附けたものだけでも百萬以上もあ」るとあるが、本書初版刊行の大正五(一九一六)年から八十八年も経った二〇〇四年現在は、ウィキの「種」によれば、

命名済みの種だけで二百万種

あり(これは化石種も当然含まれる。生物学者である丘先生の謂いも同じと考えてよいと思うが、一般的向けの本書の体裁から考えると、この百万種以上というのは現生種(現在、生存している種)のみの数とも読め、それだと八十八年で五十万増えると言うのはかえって自然と言えるかもしれない)、実際に

地球の歴史上ではそ『の数倍から十数倍以上の種の存在が推定され』ている

とあるから、実に百年弱で百万種が増えたことになる。しかし、ウィキの「古生物」によれば、

古生物(かつて地球上に存在した生物種)は約十億種以上(但し、『(?)』が附されてある)

化石種(化石として発見された種)は約十三万種

人類が発見して命名した現生種は約百五十万種

未確認種は数千万種

とされるとあるから、実に

化石絶滅種を含めた生物の推定種数は実に十億数千万種以上

ということになろう。

「種の起原」『種の起源』原題「On the Origin of Species」はイギリスの自然科学者チャールズ・ロバート・ダーウィン(Charles Robert Darwin 一八〇九年~一八八二年)が一八五九年十一月二十四日(安政六年十一月一日相当)に出版されている。本書初版刊行の大正五(一九一六)年の五十七年前となる。]

 

 かくの如く生物の各種族はいづれも長い歷史を經て今日の姿までに達したものであるが、その間には何度も形の變じた種族もあれば、また割合に變化することの少かつた種族もあらう。しかしながらいづれにしても變化は徐々でゐるから、いつから今日見る如き形のものになつたかは時期を定めていふことは出來ぬ。化石を調べて見ると、少しづつ次第次第に變化して先組と子孫とがまるで別種になつてしまつた例は幾らもあるが、これらは血筋は直接に引き續いて居ながらその途中でいつとはなしに甲種の形から乙種の形に移り行くから、乙なる種族はいつ生じたかといふのは、恰も虹の幅の中で黄色はどこから始まるかと問ふのと同じである。人間などは化石の發見せられた數がまだ甚だ少いから、この場合の例には不適當であるが、もしも時代の相續いた地層から多數の化石が發見せられたならば、やはりいづれから後を人間と名づけてよいかわからず、隨つていつ初めて生じたといふことは出來ぬであらう。

 

 生物種族の初めて現れる具合は、今述べた通り漸々の變化によるのが常であるが、かくして生じた種族は如何になり行くかといふに、無論繼續するか斷絶するかの外はなく、繼續すれば更に少しづつ變化するから、長い間には終に別の種族となつてしまふ。地屏の中から掘り出された化石が時代の異なる毎に種族も違つて、一として數代に繼續して生きて居た種族のないのは、昔もその通りであるが、今後とても恐らく同じことであらう。稀には變化の極めて遲いものがあつて、いつまでも變化せぬやうに見えるが、これは寧ろ例外に屬する。「しやみせんがひ」や「あかがひ」などの種族は隨分古い地層から今日まで繼續して居るから、その間だけを見ると殆ど永久不變のものであるかの如き感じが起るが、「しやみせんがひ」屬「あかがひ」屬の形になる前のことを考へると、無論變化したものに違ない。また或る地層までは澤山の化石が出て、その次の地層からは最早その化石が出ぬやうな種族は、その間の時期に斷絶して子孫を殘さなかつたものと見倣さねばならぬが、かやうな種族の數は頗る多い。獸類でも魚類でも貝類でも途中で斷絶した種族の數は、現今生きて居る種族の數に比して何層倍も多からう。そしてこれらの種族はなぜかく絶滅したかといふと、他種族との競爭に敗れて亡びたものが多いであらうが、また自然に弱つて自ら滅亡したものもあつたであらう。

[やぶちゃん注:「しやみせんがひ」三味線貝(その独特の形状由来)。冠輪動物上門腕足動物門 Brachiopoda に属する、二枚の殻を持つ海産の底生無脊椎動物。腕足綱無関節亜綱舌殻(シャミセンガイ/リンギュラ)目シャミセンガイ科シャミセンガイ属オオシャミセンガイ Lingula adamsi やミドリシャミセンガイ Lingula anatina などのシャミセンガイ類(他にシャミセンガイ科 Lingulidae には Credolingula 属・Glottidia 属・Lingularia 属があり、化石属になると更に多数ある。分類タクサは保育社平成四(一九九二)年刊の西村三郎編著「原色検索日本海岸動物図鑑」に拠った)。一見、二枚貝に似ている海産生物であるが、体制は大きく異なっており、貝類を含む軟体動物門とは全く近縁性のない生物である。化石ではカンブリア紀に出現し、古生代を通じて繁栄したグループであるが、その後多様性は減少し、現生種数は比較的少ない。「腕足動物門」の学名“Brachiopoda”(ブランキオポダ)はギリシャ語の“brachium”(腕)+“poda”(足)で、属名Lingulida(リングラ)は「小さな舌」の意(学名語源は主に荒俣宏「世界大博物図鑑別巻2 海産無脊椎動物」(平凡社一九九四年刊)の「シャミセンガイ」の項に拠った)。以下、まずウィキの「腕足動物」から引用する。『腕足動物は真体腔を持つ左右相称動物』で、斧足類(二枚貝)のように二枚の殻を持つが、斧足類の殻が体の左右にあるのに対し、『腕足動物の殻は背腹にあるとされている。殻の成分は分類群によって異なり、有関節類と一部の無関節類は炭酸カルシウム、他はキチン質性のリン酸カルシウムを主成分とする。それぞれの殻は左右対称だが、背側の殻と腹側の殻はかたちが異なる』。二枚の『殻は、有関節類では蝶番によって繋がるが、無関節類は蝶番を持たず、殻は筋肉で繋がる』。殻長は五センチメートル前後のものが多く、『腹殻の後端から肉茎が伸びる。肉茎は体壁が伸びてできたもので、無関節類では体腔や筋肉を含み、伸縮運動をするが、有関節類の肉茎はそれらを欠き、運動の役には立たない。種によっては肉茎の先端に突起があり、海底に固着するときに用いられる』が、種によってはこの『肉茎を欠く種もいる』。『殻は外套膜から分泌されてできる。外套膜は殻の内側を覆っていて、殻のなかの外套膜に覆われた空間、すなわち外套腔を形成する。外套腔は水で満たされていて、触手冠(英語版)がある。触手冠は口を囲む触手の輪で、腕足動物では』一対の『腕(arm)に多数の細い触手が生えてできている。有関節類では、この腕は腕骨により支持されるが、無関節類は腕骨を持たず、触手冠は体腔液の圧力で支えられる』。『消化管はU字型。触手冠の運動によって口に入った餌(後述)は、食道を通って胃、腸に運ばれる。無関節類では、消化管は屈曲して直腸に繋がり、外套腔の内側か右側に開口する肛門に終わるが、有関節類は肛門を欠き、消化管は行き止まり(盲嚢)になる』。『循環系は開放循環系だが不完全。腸間膜上に心臓を持つ。真の血管はなく、腹膜で囲われた管がある。血液と体腔液は別になっているとされ』、ガス交換は体表で行われる。一対か二対の『腎管を持ち、これは生殖輸管の役割も果たす』。『神経系はあまり発達していない。背側と腹側に神経節があり』、二つの『神経節は神経環で繋がっている。これらの神経節と神経環から、全身に神経が伸びる』。生態は『全種が海洋の底生動物である。多くの種は、肉茎の先端を底質に固着させて体を固定するか、砂に固着させて体を支える支点とする。肉茎を持たない種は、硬い底質に体を直接固定する。体を底質に付着させない種もいる』。『餌を取るために、殻をわずかに開き、触手冠の繊毛の運動によって、外套腔内に水流を作り出す。水中に含まれる餌の粒子は、触手表面の繊毛によって、触手の根元にある溝に取り込まれ、口へと運ばれる。主な餌は植物プランクトンだが、小さな有機物なら何でも食べる』。以下、「繁殖と発生」の項。『有性生殖のみで繁殖し、無性生殖はまったく知られていない。わずかに雌雄同体のものが知られるが、ほとんどの種は雌雄異体』で、『雌雄異体のものでも、性的二型はあまりない』。『体外受精で、卵と精子は腎管を通じて海水中に放出され、受精するのが一般的。一部の種では、卵は雌の腎管や外套腔、殻の窪みなどに留まり、そこで受精が起こる。その場合には、受精卵は幼生になるまで、受精した場所で保護される』。以下、ウィキの「シャミセンガイ」の項。『尾には筋肉があるだけで、内臓はすべて殻の中に入っている。殻は二枚貝のように見えるが、二枚貝が左右に殻を持つのに対して、シャミセンガイは腹背に殻を持つ。殻をあけると、一対のバネのように巻き込まれた構造がある。これは触手冠と呼ばれ、その上に短い多数の触手が並び、そこに繊毛を持っていて、水中のデトリタスなどを集めて食べるための器官である』。『特異な外観は、日本では三味線に例えられているが、中国では舌やモヤシに例えられて、命名されている』(中文サイトを見ると「舌形貝」「海豆芽」とある)。『太古から姿が変わっていない生きている化石の一つと言われることも多いが、実際には外形は似ているものの内部形態はかなり変化しており、生きた化石とは言いがたいという説もある。化石生物と現在のものとは別の科名や属名がつけられている』。二〇〇三年、『殻の形が大きく変化していることから、生きている化石であることは否定された』(下線やぶちゃん)。『日本では青森県以南に分布する。砂泥の中に縦穴を掘り、長い尾を下にして潜っている』。『中国では、渤海湾以南に分布』し、『台湾にも見られる』。しかし、『生息数が減少しており、地域によっては絶滅が危惧されている』。『大森貝塚(東京都大田区・品川区)の発見者であるエドワード・S・モースは』、明治一〇(一八七七)年に東京大学お雇い外国人として生物学を教える一方、シャミセンガイの研究のためにも来日しており、滞在期間中の凡そ一ヶ月の間、『江ノ島臨海実験所で研究をしており、その間にミドリシャミセンガイを』五百個体も捕獲している(私の「日本その日その日」E.S.モース 石川欣一訳」の「第五章 大学の教授職と江ノ島の実験所」以下のパートを参照されたい。因みに、日本で最初にダーウィンの進化論を東京大学や公開講演会で学術的に講義講演したのも、このモースである日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十章 大森に於る古代の陶器と貝塚 27 日本最初のダーウィン進化論の公開講演などを参照されたい)。日本に於ける代表種であるミドリシャミセンガイ Lingula anatina は『岡山県児島湾や有明海で食用とされる。有明海ではメカジャ(女冠者)と呼ばれ、福岡県柳川市や佐賀県佐賀市周辺でよく食用にされる。殻及び触手冠の内部の筋肉や内臓を食べる。味は二枚貝よりも濃厚で、甲殻類にも似た独特の旨みがある』。『日本での料理としては、味噌汁、塩茹で、煮付けなどにすることが多』く、『中国では広東省湛江市、広西チワン族自治区北海市などで主に「海豆芽」(ハイドウヤー)などと称して炒め物にして食べられており、養殖の研究も行われている』(引用部を含め、下線やぶちゃん)。

「あかがひ」翼形亜綱フネガイ目フネガイ上科フネガイ科アカガイ属アカガイ Scapharca broughtonii モースによる、現在の東京都品川区から大田区に跨る繩文後期から末期の大森貝塚の発掘(明治一〇(一八七七)年六月十七日に横浜に上陸したモースは二日後の六月十九日に東京大学との公式契約を結ぶために横浜から新橋へ向かう途中、大森駅を過ぎてから直ぐの山側の崖に貝殻が積み重なっている地層を発見、三ヶ月後の九月十六日に第一回発掘調査を行い、九月十八或いは十九日に第二回を、十月一日附で東京府の許可を得た上で十月九日から本格的な発掘を開始し、終了は十二月一日)の際には多量の、アカガイを含むフネガイ科 Arcidae の埋蔵貝類の殻を発掘し、同時に近くの海岸で同種・近縁種である現生種の貝殻も採取してそれを比較検討している日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十五章 日本の一と冬 大森貝塚出土の貝類と現生種の比較の本文及び私の注を是非、読まれたい。私も小学生の頃、家近くの切通しや崖から沢山の未だ化石化していないアカガイの埋蔵物古物を発掘したものだった。泥だらけになりながら、それを掘り出すのに至福を覚えた(今も絵日記に残っている)あの少年は、どこへ行ってしまったのだろう……

2016/02/28

生物學講話 丘淺次郎 第十九章 個體の死(6) 五 死後の命 /第十九章 個體の死~了

     五 死後の命

 

 身體は死んでも魂だけは後に殘るとは昔から廣く信ぜられて居ることであるが、これなどもたゞ人間のみに就いて考へるのと、生物を悉く竝べ、人間もその中に加へて考へるのとでは、結論も大に違ふであらうと思はれるから、死の話の序にこゝに一言書き添へて置く。すべての生物種類を竝べた中へ、人間をも加へて全部を見渡すと、人間は脊椎動物中の獸類の中の猿類中の猩々類と同じ仲間に屬するものなることは明であるから、身體を離れた魂なるものが人間にあるとすれば、猿にもあると考へねばならず、猿に魂があるとすれば、犬にもあると見倣さねばならず、かうして先から先へと比べて行くと、何類までは魂が有つて何類以下には魂がないか、到底その境を定めることが出來ぬ。假に下等の動物まで魂が有るとすれば、これらの動物が人間とはまるで違うた方法で子を産んだり死んだりするときに、魂はいつ身體に入り來りいつ身體から出で去るかと考へて見ると隨分面白い。「いそぎんちやく」が分裂して二疋になる場合には魂も分裂して二個となつて兩方へ傳はるか、それとも今まで宇宙に浮んで居む宿なしの魂が新に一方に入り來るか、もしさうならば、もとから居た魂と新に來た魂とは如何にして受持の體を定めるかなどと幾つでも謎が出で來る。また人間だけに就いて考へても、卵細胞の受精から桑實期、胃狀期を經て、身體各部が次第次第に發育し終つて成人になるまでを一目に見渡した積りになつて、いつ初めて魂が現れたかと尋ねると、やはり答に當惑する。身體から離れた個體の魂が永久に不滅であるとすれば、今日までに死んだ者の魂が皆どこかに存するわけで、その數はどの位あるか知れぬがそれらはいつ生じたものであるか。終を不滅と想像するならば、始も無限と想像して宜しからうが、假に始もなく終もなく永久に存在するものとすれば、それが身體に乘り移らぬ前には何をして居たか。世間でいふ魂はいつまでもその一時關係して居た肉體の死んだときの年齡で止まるやうで、五歳で死んだ孩兒の魂はいつまでも五歳の幼い狀態にあり、九十で死んだ老爺の魂はいつまでも九十の老耄した狀態にあるやうに思はれて居るが、これらの魂は肉體に宿る前には如何なる狀態にあつたかなどと尋ねると、まるで雲の如くで摑まへ所がない。かくの如く身體と離れて獨立に存在し得る個體の魂なるものがゐるとの考は、生物界のどこへ持つて行つても辻悽の合はぬことだらけであるから、虚心平氣に考へると所謂魂なるものがあるとは容易に信ぜられぬ。神經系の靈妙な働の一部を魂の働と名づけるならば、これは別であるが、身體が死んでも後に魂が殘るといふ如きは、實驗と觀察とによつて生物界を科學的に研究するに當つては全く問題にも上らぬことである。

[やぶちゃん注:「人間は脊椎動物中の獸類の中の猿類中の猩々類と同じ仲間に屬する」再度、確認しよう。現行ではヒトは 

動物界 真正後生動物亜界 新口動物上門 脊索動物門 脊椎動物亜門 四肢動物上綱 哺乳綱 真獣下綱 真主齧上目 真主獣大目 霊長目 真猿亜目 狭鼻下目 ヒト上科 ヒト科 ヒト亜科 ヒト族 ヒト亜族 ヒト属 ヒト Homo sapiens Linnaeus, 1758 

に分類される。「猩々類」(しやうじやうるい(しょうじょうるい)」とはオランウータンのことで、 

オランウータンはヒト科オランウータン亜科オランウータン属ボルネオオランウータン(オランウータン)Pongo Pygmaeus 及びスマトラオランウータン Pongo abelii 

中国語では本属は「猩猩屬」と現在も書く。ヒト科にはオランウータン亜科 Ponginae・ヒト亜科 Hominidaeの二亜科しかない(オランウータン科 Pongidae を別に立てる学説もある)。因みに、ヒト科には現生のゴリラ族ゴリラ属 Gorilla 及びヒト族チンパンジー亜族チンパンジー属 Pan 、そして化石人類のアウストラロピテクス属 Australopithecus  やホモ・ネアンデルターレンシス Homo neanderthalensis などが含まれる。この分類から考えると、現在ならヒト族チンパンジー亜族チンパンジー属ボノボ(ピグミーチンパンジー) Pan paniscus や模式種であるチンパンジー(ナミチンパンジー)Pan troglodytes とチンパンジー「類と同じ仲間に屬する」とする方がしっくりくる。

「桑實期」「第十四章 身體の始め(1の「一 卵の分裂」を参照。

「胃狀期」第十四章 身體の始め(2) 二 胃狀の時期を参照。リンク先の文章と挿絵から見て、現行の胞胚期(但し、桑実胚と胞胚期の区別は明確ではない)から原腸胚期及び原腸貫入から神経胚形成の前までを丘先生はかく呼称しているように読める。]

 

 しかるに肉體が死んでも魂だけは生き殘といふ信仰が極めて廣く行はれて居るのはなぜかといふに、これには種々の原因があるが、一部分は確に感情に基づいて居る。その感情とは、自分が死んだ場合に肉體も精神もなくなつて全然消滅してしまふことを、何となく殘り惜しく物足らぬやうに思ふ感じであるが、これも熟考して見るならば魂などが殘つてくれぬ方を有り難く思ふ人も多からう。死んで魂が殘るのは自分と自分の愛する人とだけに限るならば實に結構であるが、嫌ひな人も憎い人も債權者も執達吏も死ねば、やはり魂の仲間入りをして來ることを考へると、寧ろ魂などを殘さずに綺麗に消えてなくなつた方が苦患が短く濟むことに心附かねばならぬ。魂といふ字は學者にいはせれば種々深い理窟もあらうが、通俗にいひ傳へ來つた魂なるものは、單に個人の性質が身體なしに殘つた如きもので、至つて幼稚な想像に過ぎず、男ならば死んでも男、女ならば死んでも女、酒呑みは死んだ後にも酒好きで、吃りは死んだ後にも吃り、實際草葉の蔭か位牌の後に隱れて居て、供へ物の香を嗅ぎ御經の聲を聞き得るものの如くに考へて居るのであるが、かやうな種類の死後の命はこれをあると信ずべき理由は少しもない。生物學上からいへば、子孫を遺すことが即ち死後に命を傳へることであつて、子孫が生き殘る見込みの附いた後に自分が死ねば、自分の命は已に子孫が保證して受け繼いでくれたこと故、自分は全く消え果てても少しも惜しくはない筈である。されば、子孫の生き殘ることを死後の命と考へ、死後も自己の種族の益々發展することを願うて、專ら種族のために有効に働き得るやうな優れた子孫を遺すことを常々心掛けたならば、これが何よりも功德の多いことであらうと思はれる。

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