[やぶちゃん注:標題頁左下に配された折口信夫の河童の絵。池田彌三郎蔵品。「後書」を参照されたい。]
火野葦平は才情を兼ね備へて多藝多能な文人である。その人重厚にして放膽、朴訥にして任俠の風あり襟度の大なる僕の最も欽慕するところ。檀一雄が彼の爲人を稱して戲れに九州の大統領と呼ぶも亦故なきに非ず。
[やぶちゃん注:「襟度」(きんど)とは、立場や考えなどが異なる人を受け入れるだけの心の広さのこと。「度量」と同義。
「欽慕」(きんぼ)とは、敬い慕うこと。「敬慕」に同じい。
「爲人」老婆心乍ら、「ひととなり」と訓ずる。]
彼の奔放不羈超凡の詩想は世上低俗の人情風俗を爲すを以って足れりとせず、假るに河童のローマン的生態を以つてして人生を寓し、また胸中の磊塊を遣る。
[やぶちゃん注:最初の「以って」の拗音はママ。
「奔放不羈」(ほんぱうふき(ほんぽうふき))の「羈」は「馬を繫ぐ」の意で、「不羈」は、そこから転じて、束縛を受けずに自由なことを指すから、常識や規範にとらわれずに、自分の思うままに振る舞うことを指す。
「磊塊」は「らいかい」と読み、「磊嵬」「磊磈」等とも表記する。見て通り、「多くの石が積み重なっていること」の意で、転じて、胸中に積み重なった不平を指す。]
芥川龍之介のカッパはその知性によって成る人間生活の諷刺であったが、火野の河童はひとり知性のみの産物ではなく、その情意を傾けて成る。その人の相違は自ら文の差となって現はれ、火野の河童の生態が芥川が白眼を以って見たるものと異るは言を俟たぬ當然であるが、僕が芥川の白眼に見たるカッパを喜ばず寧ろ火野が靑眼を以つて河童を見るを愛好するのは、僕が火野とともに南國の田舍者として、その性情の芥川に遠く火野に近いものがあるためか。その故は自らも未だつまびらかにしないが、火野川の河童の芥川のそれに優るとも劣らぬ詩美のあるは疑はぬところである。
[やぶちゃん注:「僕が」「南國の田舍者」佐藤春夫は和歌山県東牟婁郡新宮町(現在の新宮市)生まれである。]
僕、一昨年筑後野に櫨紅葉を探つて一日、火野らの導くがままに博多の旅亭の水炊きに名を得たる水樓に赴くに、席上、火野が描くところの水墨河童合戰圖の衝立があつた。傍人の私語によれば、火野の初戀びとが現にこの樓に來り働いてゐるため、火野はしげしげと足をここに運んで酒を呼び、杯を重ねて興の到る每に河童の軍勢を少しつつ描き添へ寫し加へて終にこの兩軍雲霞の大兵の混戰となると、蓋し敗戰昔時の鬱懷を屁のカツパとここにこの戲畫を成したのであらう。宴酣に及んで火野は僕をしてこの圖に贊をせしめた。僕も醉餘の惡筆を捧つて卽興の戲詩を題するを辭しなかつた。
[やぶちゃん注:「櫨紅葉」「はぜもみぢ」と読む。ムクロジ目ウルシ科ウルシ属ハゼノキ Toxicodendron succedaneum の葉は秋美しく紅葉する。
「水樓」湖水や河川に臨んで立つ楼閣。「後書」にあるように、鶏の水炊きで知られる「新三浦」。現在の福岡県福岡市博多区石城町の御笠川川畔にある。
「酣」老婆心乍ら、「たけなは(たけなわ)」と読む。]
今また彼の河童曼荼羅の成らんとするに當つて敍文を僕に徴するも亦、先年、河童合戰衝立に惡詩を題せしめた因緣のつづきであらうと、禿筆を一呵してここに不文を敢て辭退せぬ所以である。
昭和丙申秋はじめ
信州北佐久山中延壽城にて
佐藤春夫話す
[やぶちゃん注:「禿筆」(とくひつ)は穂先の擦り切れた(ちびた)筆で、転じて、自分の文章や筆力を謙遜していう語。
「昭和丙申」丙申(かのえさる)は昭和三一(一九五六)年。本書刊行は翌年五月。
以下、「目錄」が続くが省略する。但し、その標題左下に配された宇野浩二の河童図を最後に示しておく。]
[やぶちゃん注:以上は標題頁の左下に添えられた丸木スマ(明治八(一八七五)年~昭和三一(一九五六)年)の絵。彼女は七十歳を過ぎてから絵を描き始め、以下の本文で火野が言うように、実際に「おばあちゃん画家」として有名になった女性画家。かの「原爆の図」で知られる画家丸木位里の母で、彼とその妻俊の勧めで絵筆を執った。「原爆の図丸木美術館」公式サイト内の「丸木スマ」によれば、『長く家業の船宿や野良仕事をしながら』、『子どもを育ててきたスマは、以来、八十一歳で『亡くなるまでに』、七百点を『超える厖大な数の絵を描』いた。『「そんなに描いたら疲れるでしょう」と俊がいうと、「畑の草取りにくらべたら遊んでいるようなものだ」と答えた』といい、『その天衣無縫で奔放な作風は画壇に認められ』、昭和二六(一九五一)年に『初めて日本美術院展に入選』し、その二年後には『院友に推挙され』た、とある。]
後書 河童獨白
[やぶちゃん注:「河童曼荼羅」の後書き。なお、この後に、出版当時、葦平の秘書であった仲田美佐登氏の「跋 編集覺書」(クレジット:昭和三二(一九五七)年四月一日)が載るが、恐らく氏の著作権は存続しているものと思われるので、電子化しない。その後に「畢」と書かれたページがあり、その次(白紙)の次が奥付となる。奥付に捺された印は『河伯淵主』と読める。その右には筆者の家紋か(火野の本名は玉井勝則)「橘紋」が印刷されてある。
本篇中には多くの人名・地名・書名及び河童の異名が出るが、それら総てに注をしているとエンドレスになるので、原則、私が全く知らないもののみに限った。失礼乍ら、私も実は河童フリークであり、通常の方よりは河童に詳しいので、悪しからず。]
あなたは何の年ですかときかれると、私はカツパの年だと答へることにしてゐる。「カツパの年なんてありますか」「ありますとも。ネ、ウシ、トラ、ウ、タツ、ミ、カツパ、ヒツジ、サル、トリ、イヌ、ヰ」もつとも、私は干支(えと)なんて信用してゐないし、易(えき)でいふやうに、人間の性格や運命が生まれ年のエトによつて左右されるなどと考へたこともないから、なんの年だつてかまはない。しかし世間には案外十干十二支にこだはつてゐる人たちが多いし、よくたづねられるので、カツパの年と答へることにしてゐるわけである。私は明治三十九年十二月三日生、いはゆる丙午(ヒノエウマ)である。だから、カツパをミとヒツジの問にしてゐるのである。しかし、私は正式な戸籍面では明治四十年一月二十五日生になつてゐる。なぜさうなつてゐるかは、「花と龍」といふ小説に詳述したので、ここでは繰りかへさない。
[やぶちゃん注:「花と龍」昭和二七(一九五二)年四月から翌年五月まで『読売新聞』に連載された長編小説。明治中期から太平洋戦争後の北九州を舞台とした著者の父玉井金五郎(若松(現在の福岡県北九州市若松区)の沖仲仕で玉井組組長)と妻のマンの夫婦を主人公とした実録に近い大河小説で葦平自身の自伝性も強い。以上はウィキの「花と竜」を参照した。但し、私は未読なので、生年が異なる理由は知らない。]
また、私にむかつて、よく、カツパは實際にゐるものですかときく人も多い。私がカツパを主人公にした作品をたくさん書き、酒席などで興がいたるとやたらにカツパの繪を描きちらすからであらう。しかし、この質問ほど私を當惑させるものはない。仕方なく、私は、どうぞ私の作品を讀んで下さいと答へる。すこしおどけて、作家は眞實を語るものであるから、作品にあらはれてゐるとほりですといふ。さういへば、私もこれまでずゐぶんカツパ作品を書いて來たものだ。今ここに集めてみて、ためいきのやうなものを感じる。最近はカツパブームとやらがはびこつてゐるさうだが、無論、私のカツパはそんなブームや流行とはすこしも關係がない。私はどんな場合でも流行や風潮やオポチユニズムからは背をむけてゐたいと考へてゐる。カツパが跳梁(てうりやう)するのは、たいてい亂世か、上に惡い政府や大臣がをり、これが愚劣な政治家たちといつしよになつて、國民を苦しめてゐる惡政の時代といはれてゐるから、現在のカツパの跋扈(ばつこ)はそのためにちがひない。私が最初のカツパ作品「石と釘」を書いたのは昭和十五年であつた。これは古くから私の郷里の街、九州若松に傳はつてゐる話に多少の潤色を加へたものだが、背中にカツパ封じの釘を打たれた石地藏は、現在でも、高塔山(たかたふやま)の頂上にある。高塔山は海拔わづか四百尺、若松市街地の背後にそびえてゐるが、丘の親分ほどの高さなので、散步にはちやうどよく、この頂上からの見晴らし、特に夜景は東洋一だと私はすこし冗談めかしていく度も作品のなかに書いたことがある。數年前から、祇園の夏祭といつしよにカツパ火祭といふ行事がはじまつた。町内でそれぞれ獨創的なカツパ人形を作り、コンクールをやるのである。夜は八時くらゐから、數千本の炬火(たいまつ)をかざした群衆が列をなし、列中にカツパ人形を加へて高塔山に登る。この火の行進は美しい。公園になつてゐる頂上では、「石と釘」の傳説にちなんで、山伏たちやカツパの群がページュントをやり、炬火は全部燒いてしまふ。別に祭壇をしつらへて、中央にカツパ大明神を安置し、皿用特級水の一升びんや胡瓜を獻じて、祭文を奏上する。このカツパ祭文を私が讀む。去年のは、カツパの神通力とヒユーマニズムとをもつて、この地球上から原水爆と戰爭の恐怖を驅逐(くちく)してもらひたいといふ意味のものであつた。冥土の芥川龍之介や佐藤垢石老から花環が來たり、關門海映の女カツパ頭目海御前(あまごぜ)から挨拶狀が來たりする趣向である。古くからカツパ祭をやつてゐるのは、大分の下毛郡(しもげぐん)下郷(しもがう)や、日田(ひだ)の八幡神社、久留米(くるめ)水天宮などをはじめ少くない。カツパはかうして私たちのなかに生きてゐる。小學生のころ、母たちに、川や海に行くときには、カツパに尻を拔かれないやうにといつも注意された。どこの誰それはカツパに引かれたといふ話もきかきれた。その時分から、すこしづつカツパは私の體内に棲みこむやうになつたのかも知れない。全國にあるさまざまのカツパの傳説を調べることは、私の樂しみの一つになつた。カツパの話を古老にきくために、わざわざ出かけたことも一皮や二度ではない。そして、この瓢逸な傳説の動物のよろこびや悲しみや怒りやが、しだいに私自身のよろこびや悲しみや怒りと合致する氣配を感じるやうになつたとき、カツパは私の宿命となつたのである。もともと私は妖怪變化のたぐひが好きであつたが、カツパのやうに、私の身内深く入りこんで來たものはなかつたし、カツパのやうに、私の救ひになつたものもない。詩と小説との間を彷徨(ほうこう)しながら苦しんでゐたとき、私にむかつて灯をさしだしてくれたのがほかならぬカツパであつた。しかし、それが作品の形になつてあらはれたのは、前述したとほり、「石と釘」が最初である。その同じ年「魚眼記」を着いた。これは昭和十五年十一月號の「文藝」に發表されたものだが、同じ月の「改造」には、「幻燈部屋」が載つてゐる。私はこのむづかしい作品で苦吟してゐる最中に、「魚眼記」を書いたのである。詩と小説との結び目ににじみでる憂愁のかげりがカツパの形を借りたのかも知れない。かういふ風にして、戰爭中にも、「白い旗」「千軒岳にて」などのカツパ作品を次々に書いた。長い恐しい戰爭が敗北に終つても、私の愛するカツパは幸にして生きのこつた。そして、戰後も機會あるごとに、私はカツパを書きつづけて來たのであるが、いま集めてみると、最近作「花嫁と瓢簞」まで、長短あはせて四十三篇、四百字詰め原稿紙にして千枚を超えてゐる。もつとも十五年間に書いたものとすれば、さうおどろくほどの量ではなく、むしろ少いといへるかも知れない。もつとカツパに夢中になつてゐたならば、百篇を超え、枚故も三千枚に達してゐたであらう。しかし、これらの作品は私が小記を書く片手間仕事だと人々に思はれ、私自身もそんなにカツパばかりを書いてゐることはできなかつた。けれども私はけつしてカツパを片手間に書いたわけではなく、どんな短い作品にも打ちこんで取り組んだし、すこし大仰にいへば、一つのカツパ作品ができあがることは、五百枚の長篇が完成されると異らないほどのよろこびであつた。そして、いま思ふのである。毀譽褒貶(きよはうへん)はともあれ、これはたしかに、私のライフ・ワークの一つである、と。
[やぶちゃん注:本段落内で語られている祭りは現在も「若松みなと祭り」の中の「高塔山火まつり」として行われている。若松区の公式サイト内のこちらを見られたい。また、筆者が高塔山の夜景を推奨しているので、グーグル画像検索「高塔山 夜景」をリンクさせておく。私は残念ながら、修学旅行の引率や乗換えの待ち時間のために福岡駅周辺に足を降ろしたきりである。]
十五年間の世のうつりかはりに、私のカツパもさまぎまの影響を受けた。しかもこの十五年間は平和の時代とはちがつてゐたために、私のカツパもよろこびよりも悲しみの方が深かつたやうに思はれる。私のカツパ作品の悲しさや重苦しさを批評家に指摘されたこともある。しかし、カツパがいつもよろこびや樂しさをうしなふまいとし、美しいもののためにはどんな獻身をもいとはなかつたことも認められなければならない。また、カツパは正義と信義と眞實とをも愛してゐる。カツパが現實と象徴との問題を解明する一つの役を果さうとしたこともあらう。さういふカツパの眞摯な姿は、外目には滑稽や道化やとぼけたものに映りがちだが、そして、それがどんなにをかしからうとも、カツパがまじめであることに變りはない。暗愚なるものはカツパであるといはれても、その暗愚さこそがカツパの生命なのである。しかし、私はカツパを觀念化して、無理に諷刺(ふうし)の具にしたくなかつた。結果においてなにかの諷刺になつたとしても、血肉の通つたカツパそれ自體の喜怒哀樂を、自然のままに放置することをつねに心がけた。つまり、あまり鹿爪らしい屁理屈をカツパ作品にこじつけまいと考へたわけである。私は芥川龍之介の「河童」を愛讀はしたけれども、あんな風にカツパを諷刺のみのために踊らせることは好まなかつた。私のカツパは混亂してゐるかも知れない。しかし、それでよいのだと思つてゐる。ただ、次々に書いて行きながら、その形式、スタイルやレトリツクには多少の工夫をこころみた。このため、小説、散文詩、物語、對話、獨白、演説、手紙、芝居、などとさまざまな形になり、一人稱、二人稱、三人稱と、必然的に、これも數とほりに分れた。十五年間を經てゐるので、文章や文字の使ひかたにも統一を缺いてゐるし、出來不出來もあるが、それは改めないことにした。一つ一つ、そのときどきの思ひ出があり、書いたときの氣分があらはれてゐるので、それを尊重したのである。ただ、假名づかひだけは舊假名に統一した。なにも歷史的假名づかひにこだはるものではないが、新舊入りまじつてゐてはみつともないからである。作品の配列は製作年代順によらず、同じスタイルのものが重複しないやうに目次を作つた。また、一つ一つが獨立した短篇ではあるけれども、多少は連關したり、續いたりしてゐるものもあるので、それは前後しないやうにした。とはいつても、詩集のやうに、どこから讀んでもらつてもかまはないのである。むしろ、氣まぐれに開いたところを好手に讀んでもらつた方が、カツパの變幻自在さにかなふものかも知れない。ただ、作者としては、自分の才能のまづしさが眞にカツパの變幻自在な本領を書きつくし得なかつたことを悲しむのみである。
カツパの傳説は全國いたるところにある。古い文獻の中にもカツパはいくらでも探しだすことができる。「和漢三才圖會」「甲子夜話」「水虎義略」「物類稱呼」「利根川圖志」「本草綱目釋義」「善庵隨筆」「倭訓栞」「本朝食鑑」「ありのまま」「筑庭雜錄」「本朝俗諺誌」「閑窓自語」その他のなかには、いろいろなカツパが紹介されてゐる。また、カツパは日本だけではなく、西洋にも、ニクゼン、ワツセルロイテといふカツパに似た水中動物がゐるといふし、中國には、あきらかに、水虎や河伯がゐる。水蘆、水唐、水蝹もカツパの一族にちがひない。「西遊記」で、三藏法師のお伴をして行く孫悟空、猪八戒、沙悟淨のうち、悟淨はカツパといはれてゐるし、五朝小説の「神異經」のなかには、赤い鬣(たてがみ)のある白馬にまたがり、十二人の家來をしたがへて、風のごとく水上を疾走して行く河伯が書かれてゐる。「酉陽雜俎」には、馬でなくて二頭だての龍を駁して行く河伯が活躍し、「事文類聚」には、女に惚れてこれを女房にしようとしたが、まんまと逃げられた助平カツパのことが出てゐる。私は「兀然堂(きつぜんんだう)」のカツパといふ張子人形を持つてゐるから、朝鮮にもゐるにちがひない。琉球でも、川にゐるカーガタモ、ガジユマルの樹に棲むキジムナー、火をもてあそぶ喜如嘉(きじよか)のブナガヤなど、カツパの類と思はれる。しかし、カツパは日本において、(琉球もむろん九州の沖繩縣ではあるが)もつとも獨特で溌溂とした存在になつたのである。しかし、各地方で生態はすこしづつちがひ、名辭も異つてゐる。私たちの北九州では、カツパといつてゐるが、南九州に行くと、鹿兒島では、ガラツパ、宮崎では、ヒヨウスンボ、大分では、カワノトノ、佐賀ではヒヨウスへといふところがある。橫山隆一君の話によると、土佐ではシバテンと稱するさうだ。ガアツパ、ガタロ、ガワラ、川小僧、川太郎、カワコ、ガゴ、ミヅシ、エンコウ、ガソ、コマヒキ、ゴンゴウ、ネネコ、など、地方によつて、さまざまに呼ばれる。そして、概して北方のカツパは孤獨で思索的であり、南方のカツパは集團をなして行動的であるやうだが、頭に皿があり、これが生命力の根源で、皿に水のあるときは強いけれども、水がなくなると弱くなる點はどこも共通してゐるやうだ。宮崎地方のカツパについては、中村地平さんがよく書いてゐるが、ヒヨウスンボは空を飛び、樵夫(きこり)の小屋を打ちほがしたり、風呂に入つたりするらしい。秋口になると、集團をなして烏のやうに鳴きながら川をくだるといふ。また、全國いたるところに、カツパから傳授されたといふ傷膏藥があり、カツパの手と稱するものや、カツパの詫證文も、方々に殘つてゐる。カツパは古くから文獻にもあらはれてゐるから、江戸時代の浮世繪にも多く描かれてゐる。歌麿にも面白いカツパの繪がある。私は嘗て、西田正秋氏(藝術大學教授)の家をおとづれて、その豐富なカツパ繪と文獻の蒐集におどろいたことがあるが、カツパを愛する人は昔からたくさんあつた。小川芋錢、佐藤垢石、芥川龍之介、淸水崑といふやうな人たちは、カツパによつてユニークな藝術境をひらいたものといへよう。特に、芋錢子の「カツパ百態」は私をうならせる。芋錢はカツパの實在を信じきつてゐたといふから、そのカツパには不思議な迫眞力がある。美しいのはいふまでもない。最近、名取春仙畫伯のきもいりで、私も芋錢のカツパ七枚を手に入れ、時折とりだしては悦に入つてゐる。長崎の旅亭「菊本」にある芥川龍之介の「河童晩歸の圖」には肌を冷えさせるやうな鬼氣がある。銀屛風に墨一色でかかれた瘦せ細つたカツパは、日暮れてどこへ歸るのであらうか。私にはどうも地獄へのやうに思はれ、芥川龍之介の文學の悲劇を象徴してゐるやうで、見てゐるのが息苦しい。明朗潤達なのは淸水崑君のカツパだ。最近は女カツパにすさまじい色氣さへ出て來た。しかし、昆君はへソと耳とをわざとかかないことによつて、エロチシズムの節操を保つてゐる。私はこれまで、カツパ作品を集めた本を數册出してゐるが、早川書房版「河童」(昭和二十四年刊)には、淸水君が二十數葉の插繪をかいてくれた。ところが、その繪は簡單にできたのではない。本文はとつくに刷りあがり、出版社はただ繪の完成を待つばかりになつてゐたのに、崑君がなかなかかかない。ほつたらかしてゐるわけではなく、苦心慘憺してゐる樣子だつた。本屋の方は鎌倉に行つて泊りこみ、となりの部屋でがんばつてゐるが、崑ちやんはかいては破り、破つてはかき、一向にすすまない。たうとう繪のために出版が半年おくれてしまつた。しかし、できあがつたカツパの繪はすばらしかつた。それから、淸水君は急に自信がついたやうに猛烈にカツパをかきだし、現在のやうに、カツパといへば崑ちやんみたいになつてしまつたのだが、その直接の動機が私の本のためなので、いまでも、淸水君は私をカツパの親分などといふのである。むろん私がゐなくたつて淸水君はカツパをかいたであらうし、私のためでもなんでもないのだが、カツパにおいては淸水君と私との因緣が淺くないことはたしかである。しかし、淸水君のカツパも天下に流行するにいたつてずゐぶん變化した。愛されるカツパになつたのである。戰爭中にも、カツパ作品集「傳説」(小山書店阪・昭和十八年刊)を出した。このときは、中川一政畫伯にみごとな挿繪を九枚かいてもらつた。かうしてみると、私のカツパの歷史も長く、幾變遷を經てゐるが、いま、これまでに書いたカツパ作品四十三篇が一册に集められて刊行されることに對しては、いひあらはしがたいよろこびにつつまれてゐる。自分の本の出版にこれほどのうれしさと樂しさとを感じたことはめつたにはない。
[やぶちゃん注:「和漢三才圖會」私の電子化注「卷第四十 寓類 恠類」の「川太郎」を参照。
「ありのまま」「有の儘」。芳宜陸可彦著・飯田備編・雪仙春嶺画になる随筆。全四巻。文化四(一八〇七)年刊。
「ニクゼン」これは石田栄一郎「河童駒引考」の第二章の頭書「ゲルマン族 水の雄牛」の部分に出るイギリスの『水精ニックス Nix』のことか。三瀬勝利氏のこちらデータ(PDF)によれば(石田氏の当該書を基礎とした叙述とするが、引用元はトンデモ本飛鳥昭雄・三神たける共著『「失われた異星人グレイ河童」の謎』なので確度は留保する)、『世界の河童類としては、チェコスロバキアのウッコヌイ、インドのバインシャースラ、ハンガリーの水魔、フィンランドのネッキ、ロシアのヴォジャノイ、スコットランドのケルピー、スペインのドゥエンデ、ディルガディン、ドイツのワッセル、ロイテ、ニッケルマン、ブラジルのサシペレレ、エジプトのドギルが知られている』が、『なかでも、日本の河童に似ているのが、ヨーロッパの水の精「ニクス」で』水精『ニクスは、ドイツ』や『イギリスなどに棲んでいた先住民ケルト人の間で信じられていた妖精で、女性の姿をしたものを「ニクシー」と呼ぶ』。『ニクスは人の姿をしているが、皮膚の色は緑色。男ニクスは、緑の歯に緑の帽子』。『女ニクシーは、金髪巻き毛の美人。言葉を理解するが、人間にとっては危険な存在である』。『なにせ、川の近くを通りかかった人間をいきなり襲い、水の中に引き込んでしまう』。『ことニクシーは男性を誘惑し、一緒にダンスを踊り、そのまま一緒に水中に入ってしまう』。『当然ながら、水中に引き込まれたら、最後。人間は、お陀仏である』。『妖精とはいっているが、日本でいえば、ほぼ間違いなく河童と呼ばれるといっても過言でない』とはある。
「ワツセルロイテ」不詳。前注の資料では「ドイツのワッセル、ロイテ」と分離されてあるから、二種或いは二様の呼び名のようにも見えるのだが、“Wasser” はドイツ語で「水」であり、ドイツ語の辞書を引くと、似たような発音のものには“Wasserratte”(ヴァッサァ・ラッテ:川鼠(ヌートリの類か)・比喩で「水泳の上手な人」の意)があり、河童のドイツ語版を見ると、“Wasserchlange”(ヴァッサァ・シュランゲ:伝説上の怪物である海蛇)の文字を見出せるから一語である。やはり「ワッセルロイテ」で一語である。善意で解釈すれば「ワッセル、ロイテ」は「ワッセル・ロイテ」のつもりなのであろう。
「水虎や河伯」御存じの方も多いと思うが、言っておくと、これらは本来は河童とは別な中国の妖怪或いは神(神怪)である。「水虎」はウィキの「水虎」によれば、『湖北省の川にいたという妖怪』で、『外観は』三、四『歳の児童のようで、体は矢も通さないほどの硬さの鱗に覆われている』。『普段は水中に潜っており、虎の爪に似た膝頭だけを水上に浮かべている』。『普段はおとなしいが』、『悪戯をしかけるような子供には噛みつき返す』。『この水虎を生け捕りにすることができれば、鼻をつまむことで使い走りにすることができるという』とある。ここ様態は中国で食用や薬用とされる哺乳綱ローラシア獣上目センザンコウ目センザンコウ科 Manidae のそれによく似ているように私には思われ、ウィキにも妖怪絵巻でとみに知られる鳥山石燕も「今昔画図続百鬼」で以上の『記述を引用しており、水虎の鱗をセンザンコウにたとえて表現している』とある。『日本には本来、中国の水虎に相当する妖怪はいないが』、『中国の水虎が日本に伝えられた際、日本の著名な水の妖怪である河童と混同され、日本独自の水虎像が作り上げられている』。『日本では水虎は河童によく似た妖怪』『もしくは河童の一種とされ』、『河童同様に川、湖、海などの水辺に住んでいるとされる』。『体は河童よりも大柄かつ獰猛で』、『人の命を奪う点から、河童よりずっと恐ろしい存在とされる』などとして、以下、殊更に河童との差別化叙述をウィキはしているが、私は賛同出来ない。「河伯」もウィキの「河伯」から引いておく。中国語では Hébó(ホーポー)で『中国神話に登場する黄河の神』の名である。『人の姿をしており、白い亀、あるいは竜、あるいは竜が曳く車に乗っているとされる。あるいは、白い竜の姿である、もしくはその姿に変身するとも、人頭魚体ともいわれる』。『元は冰夷または憑夷(ひょうい)という人間の男であり、冰夷が黄河で溺死したとき、天帝から河伯に命じられたという。道教では、冰夷が河辺で仙薬を飲んで仙人となったのが河伯だという』。『若い女性を生贄として求め、生贄が絶えると黄河に洪水を起こ』とされ、『黄河の支流である洛水の女神である洛嬪(らくひん)を妻とする。洛嬪に恋した后羿(こうげい)により左目を射抜かれた』。古く「史記」の二十九巻「河渠書第七」にも、『「爲我謂河伯兮何不仁」と「河伯許兮薪不屬」と言う記述があ』り、「楚辞」「九歌」にも『河伯の詩がある』。『日本では、河伯を河童(かっぱ)の異名としたり、河伯を「かっぱ」と訓ずることがある。また一説に、河伯が日本に伝わり河童になったともされ、「かはく」が「かっぱ」の語源ともいう。これは、古代に雨乞い儀礼の一環として、道教呪術儀礼が大和朝廷に伝来し、在地の川神信仰と習合したものと考えられ、日本の』六世紀末から七世紀『にかけての遺跡からも河伯に奉げられたとみられる牛の頭骨が出土している。この為、研究者の中には、西日本の河童の起源を』六『世紀頃に求める者もいる』。以下、ウィキにも書かれている通り、火野が言っている「西遊記」の沙悟浄も、日本では専ら、河童として語られたり、描かれたりしているけれども、中国ではこの神怪としての「河伯」と認識されているので、安易にそれをイコールとするのは私は正しいと思っていない。
「水蘆」不詳。一部のネット記載では中国で河童様妖怪の呼称とするが、怪しい。
「水唐」不詳。同前。
「水蝹」日文研の「怪異・妖怪伝承データベース」のこちらに、辻雄二「キジムナーの伝承-その展開と比較-」『日本民俗学』第百七十九号(平成元(一九八九)年八月日本民俗学会発行。但し、それも文献引用で東洋文庫「南島雑話」(昭和五九(一九八四)年刊)を引用元とする)を出典として、読みは『スイイン』とし、他に「カワタロ」「ヤマワロ」「ケンモン」を併置する(当漢字は現在では使用される頻度の著しく低い字であるから、寧ろ、音読みのそれで呼ばれることはないであろう)。採集地は沖縄県恩納村で『水蝹(カワタロ、山タロ)は好んで相撲をとる。その姿をみたものはすくないが、きこりについていって木を負うなど加勢をするという。人家をみれば逃走する』とある。ケンムンなら私はよく知っており、沖繩の妖怪の中でも「キジムナー」と並んで好きな一人であるので、長くなるが、例外的にウィキの「ケンムン」を引いておく。『ケンムンまたはケンモン(水蝹)とは、奄美群島に伝わる妖怪。土地ごとに相違があるものの、概ね河童や沖縄の妖怪であるキジムナーと共通する外観や性質が伝えられている』。『古くは』江戸末期の文献である「南島雑話」に「水蝹(けんもん)」として記述されてある。『相撲好きで人に逢えば挑戦するとされ(河童と共通)、画では頭に皿があって河童と同様な姿である』。『かつては人害を及ばさず』、『木こりや薪拾いが運ぶのを手伝う、目撃はまれで人家や人っ気の多いところから退散する、と記される』。『別名「カワタロ」「山ワロ」との付記もみえ、ケンムンの一種に宇婆があるとしている』。『昔と今では、ケンムンの概念の変遷が生じている。すでに幕末の頃から、有益無害だという伝承は失われつつあった』が、『時代を経るにつれ、ケンムンは一転して危険で忌避すべき存在となった。木運びを手伝うなどの伝承は語り継がれなくなっている』。『ケンムンは、河童の原型が核となっている。金久正』(昭和三八(一九六三)年)『によって収集された伝承でも、河童的要素が色濃いと評されている。また、本土の河童伝承が加わった部分も否めない』。『ケンムンはしかし、水の精でもあるが、同時に木の精でもあり』、『沖縄に伝わる木の精キジムナーとも多くの共通性がみられる』。『すなわち、海にも山にも目撃される。これは季節によって生息場所を変えるためといわれる』。『まず形状に限って言えば』、『体と不釣合いに脚』(腕も含まれるケースがある)『が細長く(膝を立てて座ると頭より膝の方が高くなるほどあり』『)先端が杵状だといわれ、頭の皿に力水』(或いは油ともする)『を蓄えている』。『しかも姿を変える能力を持っており、見た相手の姿に変化したり、馬や牛に化けたりする』。『周囲の植物などの物に化けたり、姿を消して行方をくらますこともできるとも言われる』。『ケンムンは発光する、または怪しい灯りをともす、といわれる。これは涎が光るためだとも、指先に火をともすためだともいう』。『または頭の皿が光るか』、『頭上の皿の油が燃えるのだとも、説明される』。『海にも山にも現れるケンムン火は、ケンムンマチ(ケンムン[ウ]マツ)とも呼ばれている』。『一部で伝わるところによれば、大きさは子供の身の丈のほどで』、『顔つきは犬、猫、猿に似ている』とし、『目は赤く鋭い目つきで、口は尖ってい』て、『涎は悪臭を放ち、涎が青光るのは燐成分によるという』。『髪は黒または赤のおかっぱ頭。肌は赤みがかった色で』、『全身に猿のような体毛がある』。『体臭は山芋の匂いに似ている』。『ガジュマルの木を住処としており、木の精霊ともいわれる』。『この木を切ると、ケンマンに祟られると恐れられる』。『ケンマンに祟りの遭うと、目を病んでしまう(目を突かれてように腫れ上がってしまい、失明寸前になることもある』『)、または命を落とすこともある』。『魚や貝を食料としており、漁が好きで、夜になると海辺に現れ、(指に)灯りをともし岩間で漁をする』。『夜に漁に出た人間が鉢合わせすることもある』。『特に魚の目玉を好む(キジムナーと同様)。漁師が魚を捕りに行くとなぜか魚がよく捕れたが、どの魚も目玉を抜かれていたということもある』。『カタツムリ、ナメクジも食べる。カタツムリは殻を取って餅のように中身を丸めて食べる』。『ケンムンの住んでいる木の根元にはカタツムリの殻や貝殻が大量に落ちているという』。『蛸とギブ(シャコガイ)を嫌う』。『ケンムンを追い払うには蛸を投げつけるか、虚偽でも何か別の物を蛸と称して投げるか、投げると脅すと効果がある』。『なお』、『キジムナーも蛸が嫌いである』。『相撲好きな習性は河童やキジムナーと共通する』。『河童同様に皿の水が抜けると力を失う。相撲を挑まれた際に逆立ちをしたり礼をしてみせると、ケンムンもそれを真似るので、皿の中身がこぼれて退散する』。『悪口を言われることが嫌いで、体臭のせいか、山の中で「臭い」といったり、屁のことを話すことも嫌っている』。『ケンムンは本来は穏健な性格で、人に危害を与えることはない。薪を運んでいる人間をケンムンが手伝った話や、蛸にいじめられているケンムンを助けた漁師が、そのお礼に籾を入れなくても米が出てくる宝物をもらったという話もある。加計呂麻島では、よく老人が口でケンムンを呼び出して子供に見せたという』。『しかし河童と同じように悪戯が好きな者もおり、動物に化けて人を脅かしたり、道案内のふりをして人を道に迷わせたりする』。『食べ物を盗むこともあり、戦時中に空襲を避けた人々がガジュマルの木の下に疎開したところ、食事をケンムンに食べられたという話が良く聞かれた。その際のケンムンは姿を消しており、カチャカチャと食器を鳴らす音だけが聞こえたという』。『石を投げることも悪戯の一つで、ある人が海で船を漕いでいたところ、遥か彼方の岸に子供のような姿が見えたと思うと、船のそばに次々に巨大な石が投げ込まれたという話がある』。『山中で大石の転がる音や木が倒れる音を立てることもある』。『さらに中には性格の荒い者もおり、子供をさらって魂を抜き取ることがある。魂を抜かれた子供はケンムンと同じようにガジュマルの木に居座り、人が来ると木々の間を飛び移って逃げ回る。このようなときは、藁を鍋蓋のような形に編んでその子の頭に乗せ、棒で叩くと元に戻るという。大人でも意識不明にさせられ、カタツムリを食べさせられたり、川に引き込まれることもある』。『これらの悪戯に対抗するには、前述のように蛸での脅しや、藁を鍋蓋の形に編んでかぶせる他、家の軒下にトベラの枝や豚足の骨を吊り下げる方法がある』。但し、『ケンムンの悪戯の大部分は、人間たちから自分や住処を守ろうとしての行動に過ぎないので、悪戯への対抗もケンムンを避ける程度に留めねばならず、あまりに度が過ぎると逆にケンムンに祟られてしまう』。『ケンムンの由来伝説は多々あり、以下の』①の『「蛸」の例のほか、福田晃が挙げた』四『タイプがある』。
①「蛸にいじめられて樹上生活者となったとする説」
『月と太陽のあいだに生まれたケンムンは、庶子だったので天から追放され、はじめ岩礁に住まわされた。しかし蛸にいじめられたので、太陽に新しい住処を求めたところ、密林のなかで暮らせと諭され、ガジュマルの木(や同属のアコウの木)に住まいを求めるようになった』。
②「藁人形の化身説」
『ある女性が、この地の大工の神であるテンゴ(天狗)に求婚された。女性は結婚の条件として』、六十『畳もの屋敷を』一『日で作ることを求めた。テンゴは二千体の藁人形に命を与え、屋敷を作り上げた。この藁人形たちが後に山や川に住み、ケンムンとなった』。
③「人間の化身――殺人者が罰せられた姿とする説」
『ネブザワという名の猟師が仲間の猟師を殺し、その妻に求愛した。しかし真相を知った妻は、計略を立てて彼を山奥へ誘い込み、釘で木に打ちつけた。ネブザワは神に助けられたが、殺人の罰として半分人間・半分獣の姿に変えられた。全身に毛が生え、手足がやたら細長い奇妙な姿となった彼は、昼間は木や岩陰の暗がり隠れ、夜だけ出歩くようになった。これがケンムンの元祖だという』。
④「孤児の姉弟説」
『ノロ神の姪・甥が孤児が、山へススキ刈りに行かされ難儀していたところ、老人が通りかかり、海で貝を取って暮らせと勧めた。冬の海は寒く、山に舞い戻ってくると、こんどは老人が来て』、『山・川・海に季節ごとに暮らせと指示し、姉弟をケンムンと名付けた』。
⑤「虐げられた嫁説」
『嫁いびりに』遭って、『五寸釘でガジュマルの木に打ち付けられた女性がなった』。
『第二次世界大戦以後は、ケンムンはそれまでに比べてあまり目撃されなくなったが、その大きな要因は近年の乱開発によってガジュマルなどの住処を失ったためといわれている』。『GHQの命令で奄美大島に仮刑務所が作られる際、多くのガジュマルが伐採されたが、島民はケンムンの祟りを恐れ「マッカーサーの命令だ」と叫びながら伐採した。後にマッカーサーがアメリカで没した際、島民は「ケンムンがいなくなったのは、アメリカに渡ってマッカーサーに祟っていたためだ」と話した。しばらく後にまた』、『ケンムンが現れ始め』、『「ケンムンがアメリカから帰って来た」と噂がたったそうである』。『ケンムンの名は「化け物」「怪の物」の訛りとされ、得体の知れない霊的な存在を意味している』。『沖永良部島では、ヒーヌムン(木の者)と呼ぶ』。『別名としてクンモン、クンム、ネブザワともいう。また一説によれば、本来この妖怪の名は仮名では正しく表記できない発音であるため、仮にケンムンという表記を当てているともいう』とある。
「事文類聚」中国の類書(百科事典)。全百七十巻。宋の祝穆(しゅくぼく)の編。一二四六年成立。先行する「芸文類聚」の体裁に倣って古典の事物・詩文などを分類したもの。後に元の富大用が新集三十六巻と外集十五巻を、祝淵が遺集十五巻をこれに追加して、現行のものは総計二百三十六巻に及ぶ。
「兀然堂(きつぜんんだう)」不詳であるが、直後に「朝鮮にもゐるにちがひない」とするから、朝鮮半島製であることは間違いない。「兀」は通常は「コツ・ゴツ」と読む。不審。朝鮮語の音か?
「カーガタモ」不詳。このような沖繩の妖怪は知らないが、「カー」は沖繩方言で「川」であり、「ガタモ」は本土でも河童の異称として「ガタロ」(河太郎)によく似ている。或いは「川(カー)の方(ガタ:方面の。領域の。)の者(モん)」の略かも知れぬ。
「喜如嘉(きじよか)」地名。現在の沖縄県国頭郡大宜味村喜如嘉。ここ(グーグル・マップ・データ)。
「ブナガヤ」大宜味村公式サイト内のこちらの「ブナガヤの素顔」より引く。その特徴は、『からだ全体が赤くて、子供のように小さい』。『赤い髪をたらしている』。『赤い火を出したり、火のように飛んだりする』。『山や川や木の上でみかける』。『漁が上手で、魚やカニを食べる(魚は目玉だけ)』。『すもうをとるのが好きである』。『木(薪)を持つなど人の加勢はするが、里には入らない』。『人なつっこく、自ら人に害を加えることはしない』。『祈願によって追い払うことができる』とある。次に「ぶながやと友達になる法」。『ぶながやの世界の要素である山や川や海や木や土や風や水や動物が好きであること』。『ぶながやは自然そのものであるが、雷や嵐は恐がるし、大きな音はきらいであるので、大きな音はたてないこと』。『ぶながやの心は清純そのものであるので、悪ふざけをしたり、何かの目的に利用しないこと(すればたちまちいなくなる)』。『ぶながやは人の心を直観でき、心が優しいので童心でつき合うこと』。『ぶながやは威張ったり、いい身なりをしたりはしないし、特に力があるのでもないが、どこかで出会ったら、顔笑みをなげかけるか、できたら手を差し出して握手をすること。同情する必要はない。そうすれば友達になれる』。『ぶながやと友達になったら、邪心や策心や偽心や威心を捨てて真に豊かな発想を楽しむこと。そうすればぶながやは逃げたりはしない』。『ぶながやの得意な漁を一緒に楽しむのもよい。また、取った魚をくれたりするので喜んでもらい、たまには一緒に食事をすると』、『なお』、『よい』。ウィキの「ブナガヤ」によれば、『人間の子供が誤ってブナガヤの手を踏んでしまうと、その』子の『手にブナガヤ火(ブナガヤび)と呼ばれる火をつける。また』、ブナガヤの『足を踏むと、同じようにブナガヤ火によって火傷させる。このブナガヤ火は通常の火と異なり、青みがかった色をしているという。かつてはブナガヤ火で子供が火傷をすると、土地の年寄りたちが呪文を唱えて火傷を消したという話もある』。『沖縄本島北部の大宜味村では戦後まで、旧暦』八『月頃に巨木の上や丘の上に小屋を立てて』、『ブナガヤの出現を夜通し待つ「アラミ」という風習が行われていたという』。『人間と関わった数少ない事例では、大正』七、八『年頃、砂糖を作る農民の元に毎晩来ていたブナガヤを捕まえて、サーターグルマ(砂糖車)の圧搾口へ押し込んだら、潰れたらしく、血まみれになったという話がある』とある。但し、所持する千葉幹夫編「全国妖怪語辞典」の沖繩県の「ブナガ」の項には、『本島で木に宿る怪をい』い、『国頭地方でいうキジムン』(キジムナーと同じ)『と似たモノ』で、『ボージマヤともいう。大宜味間切高里村の某家の主人としかしくなった』が、『後に主人が交際を絶とうと烏賊をぶつけたら驚いて逃げ』(先のケンムンが蛸を嫌うのとよく似る)『二度と現われなかった』とする一方、折口信夫の「沖繩採訪記」からとして、『大宜味村ではキジムンそのもののこと。ブナガルは髪を振り乱すの意』とする。
「中村地平」「酒の害について」で既注。
「歌麿にも面白いカツパの繪がある」私が思い浮かぶのは喜多川歌麿の春画(水中で海女が二匹の河童に強姦されているもの)である。ネット上でも見られるが、猥褻なのでリンクしない。
「西田正秋」(明治三四(一九〇一)年~昭和六三(一九八八)年)は人体美学(美術解剖学)者。大正一五(一九二六)年から東京美術学校で「西田式美術解剖学」の講義を行った。]
さらに、このよろこびを助長させてくれたのは、諸先輩、友人知己の厚情だ。特に、武者小路實篤先生が題字を書いて下さり、佐藤春夫先生はありがたい序文を下さつた。ともに私が中學生時代から畏敬してゐた大先達なので、私は夢のやうな心地である。文學をやらうと心に定めて、大正十二年春、早稻田第一高等學院に入學したとき、私の文學の偶像は佐藤春夫であつた。大學に進み、田畑修一郎、中山省三郎、寺崎浩、丹羽文雄などと、同人雜誌「筏」をはじめたとき、私が發表した作品はことごとく佐藤春夫の影響を受けてゐた。昭和三年、學校をやめるとともに、私は勞働運動に沒頭し、しばらく文學から遠ざかつた。そして、昭和十三年、思ひがけなく、「糞尿譚」で芥川賞を受けたとき、審査員佐藤春夫先生の批判を胸をとどろかせて讀んだ。その後、「麥と兵隊」を書いてから、はじめて先生にお逢ひしたとき、僕の作品から出發して、かういふ境地をひらいたことをよろこぶといはれて、淚の出る思ひを味はつた。その佐藤先生から、「河童曼陀羅」に序文をいただける日が來ようとは夢想だにしなかつたことである。また、その序文が過分のもので、身體がすくむ心地である。先年、檀一雄君とともに先生のお伴をして、柳川に白秋遺跡をたづねたとき、先生は、僕は中學時代はカツパといふ綽名をつけられてゐたといつて笑はれた。その歸途、博多の水だき屋「新三浦」で、私がカツパをかいた衝立(ついたて)に、贊をして下さつたのである。さらに、この本のために、私は諸先輩に奇妙奇手烈なお願ひをした。四十三篇をそれぞれ異つた人たちのカツパ・カツトで飾りたかつたからである。これまで一度もカツパをかいたことのない人たちが多かつたにちがひないし、多分、私の依賴は突飛で變てこな無理難題であつたであらう。それにもかかはらず、承諾して下さつた方々が次々にカツパのカツトを寄せられ、私を狂氣させた。特に、つけ加へておきたいのは、お婆さん畫家丸木スマきんのカツパが入つたことである。八十數歳で繪をかきはじめた丸木さんは私をおどろかせたが、畫集が出版されるとき、私はすすんで推薦文を書いた。すると、よろこんだスマきんが、火野さんはカツパ好きだからといつて、生まれてはじめてといふカツパの繪を彩色入りでかいて下さつた。ところが、そのスマさんは、氣の毒なことに、まもなく不慮の死を遂げたので、カツパの繪が形見みたいになつてしまつた。また、折口信夫先生の河童圖は、特に池田彌三郎氏から拜借願つたものである。折口先生も今は鬼籍に入られた。しかし、この二人の故人のカツパは溌溂としてゐて生きてゐるやうである。それぞれの人のそれぞれのカツパ、それこそが眞に絢爛(けんらん)たるカツパ・マンダラといへやうか。どんなに感謝しても感謝しきれない氣持である。ありがたうございました。
[やぶちゃん注:「田畑修一郎」(明治三六(一九〇三)年~昭和一八(一九四三)年)は島根県出身の小説家。早稲田大学英文科に入学するも中退し、後、宇野浩二に師事した。大学在学中、火野が述べている通り、彼らと同人誌『街』を創刊している。代表作は昭和八(一九三三)年に発表した「鳥羽家の子供」で、芥川賞候補にもなった。死因は病死と思われる(ウィキの「田畑修一郎」に拠る)。
「中山省三郎」(明治三七(一九〇四)年~昭和二二(一九四七)年)は詩人でロシア文学の翻訳家として知られた人物。茨城県生まれ。ウィキの「中山省三郎」によれば、同郷の詩人『横瀬夜雨の薫陶を受けて詩作を始め、田畑修一郎の勧めで早稲田大学露文科に進み原久一郎に学ぶ。火野葦平・田畑とともに同人誌をやり、ロシア文学を翻訳・研究し、他に詩を書き、長塚節研究などをした』。死因は『持病の喘息の発作』であった。私は彼のツルゲーネフの作品の訳を「心朽窩新館」で多量に公開している。
「寺崎浩」(明治三七(一九〇四)年~昭和五五(一九八〇)年)出生地は岩手県盛岡市であるが、出身は秋田とする詩人・小説家。早稲田大学文学部仏文科中退。大学在学中に火野らと『街』を創刊、また、西條八十に師事して同人詩誌で小曲風の象徴詩も発表している。昭和三(一九二八)年頃から横光利一に師事し、昭和十年文壇にデビューした。以後は小説に専念した。代表作に短編集「祝典」、長編「女の港」、「情熱」、詩集「落葉に描いた組曲」などがある(日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」に拠る)
『博多の水だき屋「新三浦」』現存する。明治四三(一九四三)年創業の鶏の水炊き屋。公式サイトはこちら。
「折口信夫先生の河童圖」この後で電子化する佐藤春夫の「敘」に添えられたもの。後で掲げる。]
この本には、私の繪も添へた。繪かきでない私の繪など恥かしい思ひであるが、專門家でない故に笑つて見ていただけるかも知れない。亡友中山省三郎の家に、私の畫集四卷がある。中山は私が九州から上京するたび、畫帖に一枚づつ繪をかかせてゐたが、それが昭和十五年以後、昭和二十二年、彼が聖ヨハネとして昇天するまで、「徂徠(そらい)集」「矢音(しおん)集」「愛日集」と三春たまつた。彼の沒後はそのことば跡絶(とだ)えてゐたが、富士子未亡人が夫がゐなくてもつづけて欲しいといふので、最近また帖をおこし、「遊魚集」として四册目をかきはじめてゐる。この本の卷頭にのせた繪のうち、「河童果物皿登之圖」「河童龍乘之圖」「河童竹林遊魚之圖」の三枚は、中山家の畫帖から撰んだものである。あとはこの本のために、新に描いた。私は死ぬまでカツパから脱れられないと觀念してゐるので、これからも折にふれて、カツパの繪は描きたいと考へてゐる。いや、多分、かかずにはをられないであらう。因果なことである。
[やぶちゃん注:ここで火野が挙げている三枚の絵は電子化しない。それはせめても、底本国書刊行会による復刻版に敬意を表するためである。底本はなかなか高かった(一万六千二百円)。私も大枚をはたいて買ったのだから、どうしてもその絵を見たいという人は是非とも買って戴きたい。調べる限りでは、在庫もあるようだ。]
最後になつたが、この本の出版について、多大の犧牲をはらひ、豪華本の完成に全力をそそいで下さつた四季社の社長松本國雄氏、編集長藤崎斐虎張氏に、多大の謝意を表さなくてはならない。また、編集や校正等の面倒な仕事をいとはずにやつてくれた仲田美佐登さんにも禮をのべなくてはならない。三氏の熱情がなかつたならば、このやうな美しい本はできあがらなかつたであらう。ともあれ、この「河童曼荼羅」は私の數多くの著書のうち、もつとも私をよろこばせたもので、私の生涯の記念になるかも知れない。うれしさのあまりか、つい後書が長たらしくなつてしまつた。
昭和三十二年一月二十五日
釣魚庵主人葦平記
[やぶちゃん注:「藤崎斐虎張」名前の読み方は不詳。識者の御教授を乞う。
奥付によれば、原本の発行は昭和三二(一九五七)年五月十日である。因みに、私は同年二月十五日生まれである。]
[やぶちゃん注:底本「河童曼荼羅」の本文掉尾。十二番まである。太字は底本では傍点「ヽ」。]
小雨(こさめ)降る宵春の雨
なかなしむや川太郎
ひとり音〆(ねじめ)の爪(つま)びきに
ふるへて靑し絲柳
[やぶちゃん注:「音〆(ねじめ)」は本来は三味線・琴などの弦を締めて、音調を整えることを指すが、ここはそこから派生したもので、三味線の音(ね)の冴えや音色を謂う。]
ここの館(やかた)に棲むものは
世の常ならぬ川太郎
色とりどりの酒の味
空靑きを戀ふるなれ
びいどろびんのレッテルに
とぢこめられてこの月日
胡瓜(きうり)ひときれ口にやせぬ
レッテル悲し空戀し
[やぶちゃん注:老婆心乍ら、「口にやせぬ」は「口にゃせぬ」と唄う。]
しよせんしがない河童ゆゑ
逢うてうれしいひとときも
岩の衾(しとね)が身につまり
苔の靑さに吐息つく
口のへらずが怪我のもと
八方眼(はつぽうまなこ)も盲とさ
耳の敏(さとい)も聾なら
見まい聞くまい語るまい
蓮の行燈(あんど)の水あぶら
筆のはこびもよどみがち
百本千本つぶて文
書いて瘦せればしよんがいな
たかが河郎(かむろ)の分際で
繪をかき詩をかき歌うたひ
果ては女に惚れるとは
身のほど知らぬ橫道者(わうどもの)
浮かれ女の尻子玉(しりこだま)
拔いて食べての腹くだし
草津のお湯でもなほりやせぬ
醫者に見しようも恥かしい
かうといつたん決(き)めたらば
どうでも取らねば氣がすまぬ
沼に落ちたる月ひとつ
靑い目のよな月ひとつ
眼(まなこ)光らし腕ふつて
かたる言葉はみだるとも
酒と戀とが命なら
いつ果てるぞやこの宴(うたげ)
手に手に葦の太刀(たち)かざし
ほむらに乘れる者の群(むれ)
數は百萬風のごと
ひようひようひようと鳴つてゆく
われもと雲の性(さが)なれば
かかる塵(ちり)の世なんであろ
いざ胸をはり風に乘り
空のかなたに去(い)なむかな
[やぶちゃん注:底本「河童曼荼羅」では、この後に「河童音頭」全十二編番が配されて、本文が終わっている。
本篇は戯曲であるので表記が相応の配置となっているが、ブログのブラウザでの不具合を考え、ト書きは特定字数で改行した。また、台詞が二行以上に渡る場合、底本では、二行目以降が一字下げとなっているが、無視した。なお、台詞内の丸括弧のト書きを含め、ト書きは総てややポイント落ちであるが、本文と同ポイントで示した。傍点「ヽ」は太字とした。
文中に出る「がんがさ」は「雁瘡」で、慢性湿疹或いは痒疹(ようしん)の一種で難治性の非常に掻痒性の皮膚疾患。雁の来る頃に起こり、去る頃に治るところから称するという。
「シンデリイラ」はママ。無論、シンデレラのこと。
本電子化は2006年5月18日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来、本ブログが百万アクセスを突破した記念として公開する。【2017年9月15日 藪野直史】]
妖術者
登場人物 三角帽をかぶつた妖術者のほか、
大勢の河童たち。
舞 臺 水邊。靑空と、樹と、草と、花と
を、幻想的に。中央に岩。
幕あくとだれもゐない。蛙、蟬、鳥の聲。
二匹の河童、右手から登場。一匹は老河
童、眼鏡、蕗(ふき)の菜の鞄をぶら下
げてゐる。醫者である。一匹は跛(びつ
こ)をひきひき、ときどき頭に手をやる。
河童醫 これこれ、そんなに觸(さは)つてはいけないつてば。なんど言うたら、わかるんぢや。
河童一 どうも、ひりひりしましてな。
河童醫 痛むのは仕方がないよ。でも、がまんせんことにや、手の毒でもはいつて、敗血症でもおこしたら、どうする?
河童一 おどろきましたな。あんなことは、生まれてはじめてですよ。ほんとに、おどろいた。皿が腐るやうなことはないでせうな?
河童醫 わしの腕を信用せんといふのかな?
河童一 いえ、あなたの醫者としての名聲を疑ふわけではないのですが、……どうも、頭の具合がただごとでありませんでな。ひりひりするうへに、かう、まんなかのところが、はち割れるやうな氣がしますんでな。氣分も惡いんですよ。だいぶん、ひどい故障ができとりますか。
河童醫 なに、大したことはない。ぢき、なほるよ。
河童一 さうですか。わたしを安心させようと、輕くいひなさつとるのとちがひますか。わたしにや、どうも、取りかへしのつかぬ、飛んでもないことがおこつとるやうな氣がして、仕方がないんですが……
河童醫 よい藥が塗つてあるから大丈夫ぢや。
河童一 たいそうしみる藥ですが、どんな妙藥です?
河童醫 うるさい患者だな。さつぱり醫者を信用しをらん。お前さんの皿に塗つたのは、わしの祖先から傳はつた家傳の特效藥でな、ゼラチンとカストリとをねりあはせたもんぢや。萬々まちがひはないと思ふが、そんなに心配なら、念のため、もうひとつ療法を教へとくから、おぼえときなさい。三日も經つて、ひりつくのがやまなんだり、變色する氣配があつたら、ええかな、金魚藻を石でくだいてな、その綠いろの汁を皿にすりこむんぢや。ぢやが、けつして、ぢかに手でやつてはいかん。熊笹の葉でやるんぢや。
河童一 金魚藻を石でくだいて、熊笹の葉で、皿に、……わかりました。それで安心しました。……だが、おどろいたな。あんな馬鹿なことつて、あるもんぢやない。畜生、生意氣なおたまじやくし奴が!
河童醫 おたまじやくし?
河童一 さうですよ。おたまじやくしが天から降つて來やがつたんだ。そんなことつて、ありますか。わたしは水から首を出して、ぼんやりしてたんだ。ぼんやり、(にやつと笑つて)ぢやなくて、考へごとしてたんだ。
河童醫 ふん、また、あの娘(こ)のことぢやらう。
河雲 勿論ですよ。あの娘(こ)のこと以外に、考へることがありますか。あの娘はすばらしいな。あの美しい皿、まるで牡丹の花のやうぢやないか。あの娘の皿のやうにすばらしい皿をもつた女が、この沼のどこにゐますか。太陽にあたつたら、きらつきらつと、金いろに光る。朝陽、夕陽で、まるきりダイヤモンドのやうにかがやく。さうでせう。こんなすばらしい天氣の日に、彼女のことを思ふのは、われわれ靑年の特權でせう。それは靑春の歌だ。わたしは水面に浮かんで、彼女の夢を見てゐたんだ。そして、きつと、彼女もわたしのことを考へてゐるにちがひない、さう思つて、うつとりしてたんだ。なんたることか。靑天の霹靂(へきれき)とはこのことだ。天から、なにかが降つて來て、わたしの瞑想(めいさう)をぶつこはしたんだ。そればかりぢやない。大事な皿を破壞してしまつた。こんな馬鹿なことがありますか。……ああ、痛い、痛い。また、ひどく疼きだした。……打ちあけますが、情なくて、泣きたいのですよ。皿が割れたことは、わたしの靑春の破壞なんだ。こんなぶざまな恰好になつて、どうして、二度と、あの娘に會へますか。ああ、俺はもう駄目だ。戀人をあいつにとられる。あいつも狙つてるんだ。畜生、おたまじやくし奴!……だが、變だな、おたまじやくしが天から降るなんて? ぴつくりして見たら、ただ一匹のおたまじやくしが、ちよろちよろ泳いでゐるだけなんだ。爆彈でも落ちて來たかと思つたのに……
河童醫 (笑ひだす)
河童一 なにがをかしいんです?
河童醫 そりや、お前さん、森靑蛙(もりあをがへる)だよ。
河童一 森靑蛙?
河童醫 頭のうへに、木の枝が出てゐなかつたかい?
河童一 さういへば、出てゐた。
河童醫 廣い葉つぱはなかつたかい?
河童一 ありました。
河童醫 そんなら森靑蛙にちがびない。森靑蛙は、木のうへに卵を生むんだよ。しかも、水のうへにさし出してゐる枝にな。本能的に知つてゐるんだな。そして、おたまじやくしになつてから、水のなかへ落ちるんぢや。單なる動物の生態にすぎんよ。自然現象にすぎんよ。その眞下にゐたお前さんが、運が惡かつただけだ。
河童一 とぼけちやいけませんよ。そんなことぢやないですよ。わたしには、ちやんとわかつてるんだ。陰謀だ。あいつの陰謀だ。あの娘を狙つてるあいつが、戀敵(ライバル)の俺を不具者にしようとしたんだ。畜生、負けるもんか。……あいた、あいた。やけに疼きやがる。……まちがひないでせうな。熊笹を石でくだいて、その汁を、金魚藻で……
河童醫 あべこべだよ。
河童一 うん、あべこべだ。ちよつと、まちがつてみたんだ。金魚藻、熊笹、……金魚藻、熊笹……
河童一、左手に去る。
河童醫 どうもこのごろの連中はひねくれてゐる。まともな心をどこかに忘れてしまつた。なにかの墮落がはじまつてゐる。でなかつたら、おたまじやくしくらゐで、負傷する筈がない。おまけに、賤しうなりをつて、昔なかつたやうな下品な病氣ばかりしをる。内臟だけならよいが、不潔な皮膚病が流行するには閉口だ。がんがさ、ひぜん、たむし、風眼、兎唇(みつくち)、梅毒、水むし、……ああ、きたない、きたない。
呟きつつ左手に去る、蛙、蟬、鳥の
聲。左手から、三角帽をかぶつた河
童、蓮の葉の大きな袋をもつて出て
來る。あたりをうかがひ、中央の岩
石のうへにそれをひろげる。中から、
多くの首。ならべる。
そこらを步きながら、長い葦笛を喇
叭(らつぱ)のやうに、四方へ鳴ら
す。
大勢の河童左右から登場。
三角帽 さあさ、皆さん、お立らあひ。よく、お集り下きつた。わが輩も本望。わが輩は香具師(やし)ではありません。ごらんのとほり、わが輩も諸君の眷族(けんぞく)、この沼に籍のある者ではないが、遠からぬところの他にすむ同族の河童です。機を得ず、諸君とはいまだ面識がなかつた。そのわが輩が、このたび、わざわざ諸君の沼へやつて參りましたのは、やむにやまれぬわが輩の義俠心、道義心、同情心、美へのあこがれ、靑春への讚歌、眷族の幸福をねがふ博愛心、つまり、實にロマンチシズムの精神の然らしむるところなのであります。わが輩は晦澁(くわいじふ)なことをいつて、諸君を困惑せしむるものではない。諸君の顏に、あきらかにあらはれてゐるその疑念をといてください。わが輩はきはめて、簡明直截な用件で參つたものだ。つまり、諸君を美しくするために、やつて來たのです。
河童たち、おたがひの顏や姿を見あ
つて、動搖。
三角帽 (聽衆を見まはしながら、大仰に)聞きしにまさる慘狀だ。これほどまでとは思はなかつた。まるで、化物屋敷ぢやないか。いや、失禮、お氣にさはつたらお許しくだきい。諸君を輕蔑したわけではない。率直にわが輩のおどろきと感想を述べたまでです。それにしても、ひどいものですな。まつたく、同情にたへない。わが輩は生涯を美にささげてゐる者です。美とともに生命はある。然るに、この沼は、諸君の慘狀は、全然美とは隔絶してゐる。それは、生命と絶緣してゐるといふことだ。お氣にさはつてもしかたがない。怒られてもよいです。お世辭にも、その諸君のざまを見て、美しいなどとはいへないぢやないですか。もつとも美しいと思へる顏だつて、さうですな、この顏と(一つの首をとりあげる)くらべたら、古いたとへだが、まるきり月とすつぽんですな。種も仕掛けもない。諸君の眼がしかと見てゐるとほりです。ところが、ごらんください。この顏は、わが輩がここにならべた首のなかでは、もつとも最下等でせう。どうです、これらの首のかがやくばかりの美しさは? まるで、巨大な寶石をならべたやうではありませんか? いや、あわてないでください。わが輩は諸君をなぶりに來たのではない。諸君を救ひに來たのです。わが輩の目的は、諸君を美しくするにある。美こそ、生命です。(思はせぶりに、ならべた首の頭の毛を櫛でなでつけたりしながら)それにしても、諸君はひどいですな。もはや哀れといふやうなものではない。さつきから諸君の顏を見てゐたら、嘔氣(はきけ)をもよほして來ましたよ。はじめは乞食ばかり集つたのかと思つた。かさかき、眼くされ、面瘍(めんちやう)、兎唇(みつくち)、ひびわれ皿、田蟲、しらくも、口ゆがみ、拔け毛、禿、耳だれ、にきび、鼻まがり、……醜惡むざん、まるきり、疫病(えきびやう)の展覽會ぢやないか。この沼には、智者はゐないと見えますな。智者がゐたとしても、これぢや匙(さじ)をなげるほかはあるまい。多少の治療はできようが、根本的な療治は到底むつかしい。まして、どんな名醫でも、金輪際(こんりんざい)、手に負へぬことがある。若さ、これです。老衰はとどめようがない。諸君のなかにも、相當おいぼれたのが見える。齒も拔け、嘴も折れ、眼もかすんでゐるらしい。死期も遠くはないでせう。ああ、見るに耐へぬ。待つてください。わが輩の心もせいて來ました。美こそ生命、何度でもいひます。若さこそ、永遠の幸福、たれが疑ふ者がありませう。この臺のうへを見てください。すべて、若さと美、靑春の豐饒(ほうぜう)さ、かがやかしい生命力の充實、橫溢(わういつ)、……いえ、この贈りものを諸君にさしあげます。……まあ、まあ、そんなに、あわてないで。……もはや、諸君の顏は醫學の及ぶどころではない。整形術の限界をはみだしてゐる。首をすげかへる以外に、絶對に方法はないです。ここにある首は、わが輩の精根こめた作品です。これによつて、諸君を美と若さの幸福のなかへみちびき入れてあげる。……これこれ、そんなにあわてなさんなといふに……
少年河童 小父ちやん、その首、どうしてこしらへたの?
三角帽 いやいや、さやうなことは輕々しくは申されんな。わが輩のみの祕傳だからな。また、諸君には用のないことだ。諸君に必要なことは、この美しい首がここにあるといふこと、そして、やがて、諸君のそのうすぎたない首と交換するといふことだけだ。
少女河童 その首、眼をつぶつてるわね。盲目とちがふの?
三角帽 (得意氣にけらけら笑つて)なるほど、もつともだ。眼をつぶつてる。(一個とりあげる)ほらごらん。(頭をさういひながら、ばんとたたく。眼、ぽちつとひらく。感歎のつぶやき。)どうです。ぱつちり澄んだ眼をひらいた。どれ、まづ、これを孃ちやんにあげるかな。なんと、孃ちやんの顏はきたないなう。そのただれ眼はどうしたんだ。眼やにがうんこのやうにたまつとる。可哀さうに、食べものが惡いんで、榮養失調だな。顏色が靑くて、毛に艷がない。鼻もまがつとるぢやないか。諸君、いま、わが輩が最初の實驗を行ふ。ことはつておくが、わが輩は最初に述べたやうに、香具師(やし)ではない。商賣人ではない。美と生命の使徒、藝術家、救世主、ロマンチシストだ。代價など貰はうとは思はない。商取引などは、考へても蟲唾(むしず)がはしる。だが、お待ちなさい。わが輩もこれだけの作品をものするには、若干の實費を要してをる。奇特の士あつて、應分の喜捨をたまはらば、辭退するものではない。(三角帽のさしだす蓮の葉に、皆、あらそつて金錢、品物を投げる。)これはこれは、多大の志、ありがたく頂戴いたす。(置く。)さて、では、孃ちやん、もつと、こつちへ。おう、臭いこと。虱もわいとるな。よくもまあ、こんなみつともない首を、がまん強うこれまでつけとつたもんだ。さ。(とりかへる。皆感歎のつぶやき。)おう、立派になつたぞ。まるで、お伽噺(とぎばなし)のお孃さまだ。シンデリイラもかなはぬぞ、すばらしい、すばらしい。
老河童 わしも、ひとつ顧みます。
三角帽 やあ、これは、なんとよぼよぼ爺さん、もう、棺桶に半分足を入れてござつとるな。
老河童 さやう、今年、六百七十三歳になるでな。
三角帽 それぢや、餘命いくばくもない。ひとつ、若がへりと行きますかな。
老河童 うんと若いところをな。
三角帽 さて、このあたりかな。
老河童 もつと、若いの、賴みてえな。
三角帽 うふん、爺さん、若がへつて、もう一ぺん娘つ子口説(くど)くといふ算段とみえる。よろしからう。靑春の快復だ。生命の讚歌だ。これにするかな。(老河童の首と靑年河童の首とかへる)ほう、これはどうだ。わが輩が娘つ子なら、ひと目でふるひつくぞ。
河童一 僕も願ひたいですが……
三角帽 やあ、あんたの皿はどうなさつた?
河童一 なにね、油斷してて、おたまじやくし奴にやられましてね。
三角帽 おたまじやくしに? ほう、それは御災難、奇妙な膏藥張つてなさるが……
河童一 ゼラチンとカストリの混合液を塗つたんです。それでもひりつくのがなほらんので、さつき、金魚藻を石でくだいて、熊笹の葉で……
三角帽 馬鹿な! たれがそんな阿呆な療法を教へたのだ。籔醫者がをるとみえるな。よろしい、よろしい。そんな手間ひまはいらん。すこぶる健康、美的な皿のある首ととりかへてあげる。……これ、よろしいか。
河童一 結構です、結構です。(おしいただいて泣く)ありがたい。
三角帽 ほれ、(首、とりかへる)やあ、二十世紀のダンデイ、ドン・ファン。
婆河童 わたくしにも、ひとつ……
三角帽 なんかいうたですかな? 齒が拔けとるで、なにいうとるのかわからんわ。
婆河童 たのみまつする。(拜む)
三角帽 さつぱりわからん。だが、首をかへてくれといふんだらう。なんと、この婆さんの皺くちやぶりはどうだ。まるきり、しなびた冬瓜(とうがん)だ。わかつた、わかつた。思ひきり若くしてあようワ。(若い娘の首とかへる)ほう、すばらしい美人になつた。わが輩が惚れたくなつたぞ。靑春の復歸だ。これから、思ふ存分、戀を語りなさるがよい。
三角帽、心配げに、臺上の首をしら
べる。見物と首との數を見くらべて、
小首をかたむける。
三角帽 (さりげない風で)諸君、わが輩の美の實驗は、眼のあたり、ごらんのとほりだ。もはや、わが輩をうさんくさい眼で見る者はあるまい。わが筆が諸君の救世主であることはわかつただらう。ところで、諸君は、いづれも、首のとりかへを望まれるか。
群集 勿論。あたしも。俺も。わしも。賴む。どうぞ。ぜひ……(などと異口同音に)
三角帽 希望者は手をあげてください。(皆、手をあげる)はて、全部ですな。(首をひねつて、しばらく考へる振り)どうも、困つた。……弱つたな。名案が浮かばぬ。……諸君、諸君の熱望に、わが輩も大いに感動しました。全部の諸君の期待に添ひたい思ひは山々なのだが、……ごらんのとほり、さつきから數へてゐるのだが、どうも、首の數が足りない。(群衆に動搖がおこる。)わが輩もうかつでした。もつと作つてくればよかつたのだが、今となつては……
にはかにどよめいた群衆は、われさ
きに臺上におしよせて、勝手に首を
とらうとする。
三角帽 これこれ、そんな亂暴な、……諸君、……おい、諸君、無茶せんで、わが輩のいふことを……
群衆はきき入れず、めいめい首をと
つて、自分でつけかへる。臺上は古
い首と新しい首とが入りみだれ、血
迷つた河童たちはもう首を選擇して
ゐる餘裕がない。ただ、とりかへれ
ばよいといふあわてかたで、古い首
でもなんでもつけかへる。混亂の後、
左右へ散つて、誰もゐなくなる。い
つの間にか、岩のうしろ側にかくれ
てゐた三角帽の河童が、頸を出す。
散らばつてゐる首を蓮の葉につつみ、
石のおもりをつけて沼の底へ沈める。
[やぶちゃん注:ここは改行。]
三角帽河童、中央に出て來て、岩石
に腰をおろし、けらけらと奇妙な聲
をたてて、長いこと、笑ふ。岩のう
しろへ姿を消す。
蛙、蟬、鳥の聲。
一匹の女河童そはそはと右手から出
て來る。あたりを見まはしながら、
木かげに來て、沼のなかへ、立小便
をする。
その左手から、河童一、出て來る。
河童一 (おそるおそる)もしもし、たいへん失禮ですが、御婦人の方が立小便なさるのは、どうかと思ひますな。
女首河童 御婦人? たれが?
河童一 あなたですよ。
女首河童 冗談いつちや困るよ。僕は男ですよ。立小便はわるかつたが、つい、癖だもんだから、……君は警官ぢやないでせう。
河童一 警官ぢやないが、……をかしいな。……さうか。あなたもまちがつたのだ。
女首河童 なにが?
河童一 鏡を見ましたか。
女首河童 鏡なんか見ないよ。
河童一 見てごらんなさい。
女首河童 (沼に顏をうつしに行つて)あつ、大變だ。女の首だ。
河童一 美人には美人だが、首だけぢや……
女首河童 いつたい、こりやどうなるんだ。俺は男か、女か?
河童一 わたしも弱つてるんです。わたしはあの三角帽の男にちやんとかへて貰つたんで、まちがひはなかつたんですが、わたしの惚れてゐたあの娘がゐなくなつてしまつたんです。あの娘に氣に入られたいばかりに、首をとりかへて貰つたのに、あの娘がどこに行つたかわからなくなつた。なんのためかわからないんだ。きつと、あの娘も首をとりかへたんだ。
女首河童 ひとのことなんかどうだつていい。俺はどうなるんだ。俺は男か、女か?
頭をかかへて右手にかけ去る。
入れちがひに、ひとりの婆河童出て
來る。
婆首河童 ここにいらしたわ。うれし。(河童一にとびかかる)
河童一 あなたはどなたです?
婆首河童 ひどいわ、あたしよ。あたしがわからないの?
河童一 あなたのやうなお婆さんには……
婆首河童 お姿さんですつて……
河童一 (氣づく)あつ、……(慄然として、左手へ逃げだす)
婆首河童 どうして逃げるの? とうなさつたの? 待つてよ、待つてよ。
追つて入る。
ひとりの少女河童、泣きながら左手
から出て來る。
少女河童 母ちやんがわからない。母ちやんがわからない。母ちやんがゐなくなつた。母ちやん、母ちやん……
右手に入る。
若い男河童、左手から出て來る。
男河童 僕はほんたうに幸福に思ひます。こんなうれしいことはないです。あなたのやうな美しいひとは、生まれて一度も見たことがありません。
女河童 まあ、お上手ばつかり。それはあたしの申しあげることですわ。あたし、もう、あなたのおそばにゐるだけで、太陽を仰いでゐるやうにまぶしくて……
男河童 あなたは虹です。あなたにお會ひしたとき、僕は明瞭に七色のかがやかしい色彩が、眼のなかに流れこんで來るのを感じました。もう僕の網膜にやきついたあなたの映像は、永久に消えません。永久に、さうです。永久にです。僕の申しあげる意味がおわかりでせうか。
女河童 わかりますわ。あたし、……もう、あなたのためなら……
男河童 どんなことでも聞いてくれますか。
女河童 はい。
男河童 僕は生活のあらたな勇氣がわきました。あなたとなら、どんな苦難にも耐へて、永久に、さうです。何度でもいひます。永久に、暮してゆける自信ができました。僕たちのかたい結ばれを信じてもよろしいですね。
女河童 ええ。
男河童 僕たちの戀愛は淸純です。ロミオとジュリエット、太陽と虹との絢爛(けんらん)たる結合です。なんといふすばらしいことか。僕たちは靑春をあらんかぎり滿喫するんだ。(二人、すこしづつ寄り添ふ)すべてを、あなたは許して下さいますね。
女河童 ええ。
男河童 接物も……
女河童 ええ。
男河童 それから、……あの、……あれも……
女河童 (恥かしさうに、うつむいて、うなづく)
男河童 僕は幸福で卒倒しさうです。唇がふるへて、うまく言葉が出ない。しかし、僕たらはもう餘計な言葉はいらないのだ。もはや、すべてを許しあつたのだ。(あたりを見まはし)幸ひ、ここには誰もゐない。もう、僕はがまんができない。
男河童、女河童をひきよせる。兩方か
ら、同時に、びつくりして飛びはなれ
る。
男河童 (おののきながら)なんたることか。ああ、心臟が止まるやうだ。(女河童の身體を見、自分の身體をつくづく見て身ぶるひする)なんといふ老ひさらぼうた身體か。若さなんかどこにもない。乾からびた、しなびた手足、胸、腰、からからだ。うすぎたなく、ふき出ものまで出てゐる。ああ、恐しい。ぞつとする。首だけいくらとりかへても駄目だ。顏は二十歳でも身體は六官歳だ。靑春の快復なんか、どこにあるか。あの女、顏は虹のやうに美しいのに、身體は、……身體は……俺と同じだ。爺と婆だ。靑春の血などてんで湧きはしない。冷たい骸(むくろ)だ。ああ、畜生、精神と肉體の分裂だ。新しい苦惱の誕生だ。
女河童 さよなら。
右手へ駈け去る。
男河童、働突する。よろめきながら、沼に投身する。その昔。
右手から爺河童、登場。そのあとを、婆河童、追つて來る。
婆河童 たうとう、見つけた。こんなとこ、うろうろしくさつて。なんちゆう不精たらしい爺さんぢやろか。(後首をつかむ)
爺河童 これこれ、なにしなさる?
婆河童 なにするもないもんぢや。わしがあれだけいひつけといたのに、どうして、胡瓜の芋葉煮(いもばに)を作りなさらん? もう出來たころと思うて、歸つてみりや、まあだ皮もむいてない。どうする氣ぢや。
爺河童 變ないひがかりつけなさんな。胡瓜の芋葉煮なんて、わしの知つたことか。
婆河童 しぶとい爺さんぢやなう。朝から五へんも六ペんも念押してあるぢやないか。知らん振りをしようとて、今日は許さん。わしばかり仕事させて、それでよう氣が安まるこつちやなう。さあ、とつとと歸つて……
爺河童 こら、離せ。どこの糞婆か知らんが、なんちゆう因念つけるか。蹴とばしてくれるぞ。
そこへ右手から、一匹の婆河童來る。
爺河童左手へ去る。婆河童同志、顏
見あつて、しばし無言。
婆河童 おや、あんたはわしではないか。
婆河童 なにをいひなさる? わしがあんたであるもんか。
婆河童 いんや、あんたはわしにちがはん。わしがどこに行つたかわからんで、探しまはつとつたのに、こんなとこにをつた。さあ、あんたはわしで、わしはあんたぢやから、早う家に歸んなさい。
婆河童 わしがあんたなんて、あんたとわしがどんな關係があるか。わしはあんたなんか知らんがな。わしはわしぢやよ。
婆河童 わからんわしぢやなう。あんたはわしといふとるのに、何べんいや、わかるか。わしのことをわしが勝手にするのに、誰からも文句はいはせん。こら、わし、わしのところへ歸れ。
婆河童 わしはわしぢやが。なんの、わしがあんたぢやろか。離しておくれ。
婆河童 わしよ、わしについて來い。
ぐんぐん右手へひきずつで行つてし
まふ。
蛙、蟬、鳥の聲。
左右から、大勢河童が出て來て、誰
が誰やらわからず、口口にわめきあ
ひ、からみあひ、なぐりあひする。
めちやめちやである。
左右へ散つてしまつたあと、岩石の
かげから、三角帽の河童姿をあらは
す。退屈でたまらぬやうに、長い欠
伸(あくび)をする。木かげから、
醫者河童とびだす。
河童醫 貴樣、俺たちをたぶらかしやがつて、貴樣、ほんたうに俺たちの眷族か? 河童か? 惡魔ぢやないのか? 皿があるかないか、見せろ! その三角帽をぬいでみろ!
醫者河童、帽子に手をかける。三角
帽は抵抗しないで、岩の向かふから、
身體を前方に曲げる。
帽子がとりはらはれると、頭に皿は
なく、二本の角が出る。
その角から、もうもうと靑い煙が出
て、舞臺中にひろがる。醫者河童、
尻餅をつく、
[やぶちゃん注:読点はママ。]
煙につつまれて見えなくなつたなか
で、三角帽河童の奇妙な笑ひ聲の、
長々しくひびくなかに。
幕
[やぶちゃん注:本文では特異的に拗音が散見されるが、それならここも拗音となるべきであると思われる箇所がなっておらず、全体にそうした歴史的仮名遣的箇所の方が多い。それらは総てママとした。
以下、簡単な注を附しておくが、ネタバレになる本話全体への私のある感懐は最後に回した。
・本文で二箇所に出る「先登」はママ。先頭。
・「カルカヤ」本邦では単子葉植物綱イネ目イネ科キビ亜科メガルカヤ属メガルカヤ Themeda triandra var. japonica(或いはThemeda triandra)を指す。高さ約一メートルで、長毛を有する。九月から十月にかけて稈頂に包葉がある仮円錐花序をつける。日当りのよい丘陵地や草地に生え、本州から九州に分布する。和名は「雌刈萱」で、オガルカヤ(雄刈萱:キビ亜科オガルカヤ属 Cymbopogon tortilis var. goeringii)に対し、それよりも小形であることに由来する。Katou氏の「三河の植物観察」のこちらを参照されたい。
・「德の洲」は正確には「徳淵の津」である。この附近(グーグル・マップ・データ)で、マー君のブログ「生涯現役毎日勉強」の「徳淵の津と河童」に詳しく、画像も載るが、後者のリンク先は読後に見られんことをお勧めしておく。
・本文で球磨川の支流として「白川」・「靑葉川」・「枕川」と順に出し、最後の枕川で本流の球磨川に接続したという記載が出るが、「白川」は阿蘇山の根子岳(ねこだけ)に発し、阿蘇カルデラの南部の南郷谷を西流し、南阿蘇村立野で、カルデラの北側の阿蘇谷を流れる支流の黒川と合流、急流の多い上中流域を抜けて、熊本市市街部を南北に分けて貫流した後に有明海に注ぐ川である(ここ(グーグル・マップ・データ))。「靑葉川」と「枕川」は不明で(国土地理院の地図も調べたが、当該河川名を発見出来なかった)、現在の河川状況からは、この白川から球磨川に支流河川を通って容易に行けるようには私には思われない。現在の白川の最も南の部分から直線でとっても球磨川は真南に約三十キロメートルも離れている。可能性としては平地である宇土を抜けて河川を行くルートか。あったとすれば、その付近に「靑葉川」及び「枕川」はあることになる。因みに、白川の南には「緑川」が流れており、これは「靑葉」という名とは親和性があるように思われはする。ただ、「枕川」が肝心要の作品の舞台及びその近くの川であるから、実在するならば、何とかして知りたい。識者の御教授を乞うものである。
また、「松尾川」は熊本県熊本市西区を流れる現存河川で、西区松尾町上松尾附近を源流とし南流し、熊本市立松尾東小学校近くを通って、先の「白川」の北側を流れる坪井川に合流する川である。ここ(グーグル・マップ・データ)。
虎助の台詞の「ええごとしてもろうて、よか」は「好きにしてもらって、いいぞ」の意であろう。
「カマツカ」コイ目コイ科カマツカ亜科カマツカ Pseudogobio
esocinus。ウィキの「カマツカ」によれば、体長十五~二十センチメートルほどの『細長い体と、長く下に尖った吻が特徴。吻の下には』一『対のヒゲがある』。『主に河川の中流・下流域や湖沼の砂底に生息し、水生昆虫などの底性の小動物や有機物を底砂ごと口から吸い込み、同時に砂だけを鰓蓋から吐き出しながら捕食する。繁殖期は春から初夏にかけてである』。『おとなしく臆病な性質で、驚いたり外敵が現れたりすると、底砂の中に潜り、目だけを出して身を隠す習性があることから「スナホリ」・「スナムグリ」・「スナモグリ」など、また生態が海水魚のキスに似ていることから「カワギス」など、また鰓蓋から勢いよく砂を吐き出す仕草から「スナフキ」という別名もある』。美味な淡水魚として知られ、塩焼きや天ぷら、甘露煮などにする、とある。
なお、本テクストは2006年5月18日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来、本ブログが990000アクセスを突破した記念として公開する。【2017年8月18日 藪野直史】]
一
稻の穗の稔りのうへを秋風がすぎると、黃金色の波が美しい縞をつくりながら、はてしもなくかろがつて行く。風が強いときには鳴子(なるこ)が鳴り、ある田ではキラキラと銀紙が光つて、雀どもが一散に飛び立つ。案山子(かかし)のおどけた姿や顏にさわやかな太陽があたり、その光線は村のいたるところに、象牙細工のやうな柿の實を光らせてゐた。部落の藁屋根や瓦葺のうへには銀杏の葉が降りそそぎ、野や畦道(あぜみち)は、オミナエシ、キキョウ、ハギ、カルカヤ、キクなどの花盛りであつた。天には、悠々とトンビが舞つてゐる。平和で美しい村の風景である。
しかし、今、この美しい村をさらに一段と美しく彩つて、通りすぎて行くのは花嫁の一行であつた。白い眞綿の帽子に角かくし、あでやかな衣裳をつけた花嫁は、馬の背に橫坐りになり、紅白だんだらの手綱を持つた馬子に引かれて行く。その前後には型どほりの行列が、村民たちの見物のなかを拔けて、靜々と、婚家先へ進んで行つた。眞晝間なのに、先登の男は定紋入りの提燈をぶらさげ、もう醉つぱらつてゐるのか、すこし千鳥足で、調子はづれの鼻唄をうたつてゐた。
村人たらは、沿道は勿論、遠近(をちこち)の自分の豪から、田圃のなかから、丘のうへから、このあでやかな花嫁道中を眺めてゐた。
「おい、お前たらもそろそろぢやッど」
百姓虎助は、自分の左右にゐる三人の娘たちを見まはして、意味ありげにいつた。
「まだ早かたい」
「なんの早かろか。大體がもう三人とも遲れちよるちゆうても、よかくらゐぢや。あげな晴れがましか花嫁衣裳ば、早よ着てみたうはなかッとかい?」
「そら着てみたかばつてん」
「今年のうちに、みんなよか婿ば取らんば。ウメは一番上ぢやけん、養子をせんにや仕樣なかばつてん、キクとアヤメはよかとこへ行けや。それで、お父ッあんもおッ母ァも安堵ばするけん」
虎助は特別に慾張りでも因業でもなかつたが、やはり、三人姉妹の婿が金に困らぬ男で、氣立てがよく、よく働き、男ぶりも惡くないことを祈らずには居られなかつた。どういふものか男の子が出來ず、養子をしなければならぬことが殘念だけれども、揃ひも揃つて三人娘が器量よしなので、きつと自分を滿足させる婿が來るだらうと樂觀してゐた。虎助が娘たちを意味ありげな眸でながめたのは、さういふ思ひをこめてゐたからで、彼は自分の三人娘が自慢でたまらぬのだつた。
「虎助どんは幸福者ばい。三人ともこん村にならぶ者がなか別嬪ぢやで、寶物を持つとると同じたい。三國一の花婿が來らすぢやろ」村人も口を揃へて、それをいふ。そのたびに相好をくづして、
「トンビがタカば生んだッたい。へへへへ」
と、やに下がるのが常だつた。
河童たちも、この花嫁行列を見てゐた。この部落のはづれを流れてゐる枕川は、球磨川(くまがは)の支流で、さうたくさんはゐないが、二三十匹ほどの河童が棲んでゐた。彼等はいたづら好きで、ときどき村民に角力(すもう)を挑んだりするけれども、子供たちの尻子玉(しりこだま)を拔いたり、野菜畑を荒したりして、ひどい被害をあたへることはなかつた。たまに、犬や馬や牛を川へ引きこんでみたりする。しかし、それとて、それらの動物たちを殺したり、これを餌(えさ)にしたりすることが目的ではなく、自分たちの力をためしてみたい心からで、もう一つはこれらの動物たちが水中で必死にもがくさまが面白くてたまらぬからだつた。スポーツか見世物のつもりなのだ。もともと、四千坊頭目に率ゐられてゐたのは、九千坊一族が球磨川から筑後川へ大移住したとき、破門されて本流から支流へ追放された連中の末孫だから、まづ優秀の部類とはいへない。それでも村では恐れられてゐて、村民はなるべく河童に觸(さは)らないやう、河童と事をかまへないやうに極力注意してゐた。
花嫁行列の絢爛(けんらん)さに、河童たちは感にたへてゐた。河童の仲間でも嫁入りのときには、花嫁は飾るけれども、たかが蓮の葉の帽子にありあはせの花をのせ、背の甲羅を水中の藻で飾るくらゐが關の山で、人間の花嫁の美しさとはくらべものにならない。河童たらは眼を瞠(みは)り、嘴を鳴らし、しきりに、巨大なためいきを吐きつづけてゐた。
そのなかで、もつとも恍惚とした眼つきになり、惱ましげに、やるせなげにしてゐるのは三郎河童であつた。彼は羨望のあまり、河童に生まれて來たことを嘆くほどの感動にとらはれてゐた。出生の宿命はくつがへすべくもない。日ごろは自分の身分を下賤とは思はず、かへつて人間の愚劣さを輕蔑さへしてゐたこともあつたのに、この花嫁姿の美しさはほとんど三郎の人生觀をくつがへしてしまふほどのショックであつた。
二
花嫁の一行が村はづれに出て、枕川の岸邊にさしかかつたとき、椿事がおこつた。
長い道中なので、堤防にある大きな榎や銀杏のかげに八つて、一行は休憩してゐたのだが、そのとき、花嫁が乘つてゐた馬が、河童のため、川へ引きづりこまれたのである。花嫁は降りて床几に腰かけてゐたので被害はなかつた。河童の方も花嫁を傷けようとは考へて居らず、いくらか燒き餅年分、花嫁の乘馬にいたづらしたのである。五六匹の河童が馬の尻尾や肢をつかみ、まつたく無造作に、川の中へつれて行つてしまつた。三尺足らずの小さい身體なのに、頭の皿に水が滿ちて居れば、トラックでも機關車でも引きこむくらゐ強力なのである。花嫁はこれを見て仰天し、氣をうしなつてたふれた。
「ガラッパの畜生奴」
「馬を返せ」
混亂におちいつた伴(とも)の連中は、口々に叫んだ。しかし、ただ騷いでゐるばかりで、馬を助けに行かうとする者はない。行けば自分たちも引きこまれることは眼に見えてゐる。馬がゐなくなつても、花嫁を送りとどけることは出來るといふ計算もあつた。
馬はあばれて抵抗した。狂つたやうにいなないた。水面がはげしく波立ち、魚やウナギやスッポンがはねあがつた。しかし、案ずるはどのことはなかつた。河童はいたづらしただけだから、まもなく、馬は川面に浮きあがつた。ぶるんぶるんと鬣(たてがみ)や身體の水を切りながら、鼻を鳴らして岸にかけあがつて來た。
すると、枕川の水面がふいに渦をまいたやうに騷ぎはじめ、急速に水量が增して、堤防の緣すれすれまでにあがつて來た。これは川底で河童たらが大笑ひをしてゐるためにおこつた現象である。古老はこの傳説の掟を知つてゐた。河童をあまりひどくよろこばせたり、怒らせたり、悲しませたりしては危險なのであつた。そのたびに川の水量が增して洪水になる場合があるのである。二匹や二匹ではそんなことはないが、十匹を越えると增水の可能性が生まれるのだつた。
「まつたく困つたガラッパどもぢや」
花嫁をとりまいて、村人たちは苦々しい顏をした。河童たちが笑ひやんだとみえて、水面は下がり、渦も消えた。
このいたづら河童たちのなかには、三郎はゐなかつた。彼は、花嫁姿に對して、さういふチャチな鬱憤晴らしでは消えないほどの強烈な衝擊を受けてゐたので、仲間の方法をたわいないものに考へ、さういふ單純さのなかには進步はないし、理想追求の熱情も感じられないと思つた。三郎の眼には、不思議な淚が宿つてゐた。
この騷動の噂はすぐに村中に傳はつた。そして、あらためて河童を恐れさせた。
「お父ッあん、ガラッパの征伐は出來んとぢやろか?」
末の妹のアヤメが訊(き)く。
「コラコラ、そぎやんなことを大きな聲でいひばしするな。ガラッパが立ち聞いたら、どぎやん仕返しすァか知れんど」
虎助はおびえた顏つきで、あたりを見まはした。アヤメは笑つて、
「こぎやんとこにガラッパが居るもんか。枕川とは三町も離れとる。聞えはせん。な、お父ッあん、ガラッパの語ば、して聞かせて」
「そぎやんいやァ、まさか、ここでの話し聲が枕川まで屆きはすまい。さうぢやなァ。今夜は閑(ひま)ぢやけん、お前たちにガラッパの話でもしてやろかい」
熊本から鹿兒島地方にかけて、河童はガラッパと呼ばれてゐる。虎助は、三人の娘にとりまかれ、芋燒酎を引つかけながら、ガラッパの話をはじめた。
「大體、日本のガラッパはこの熊本縣が本家たい。お前たちも球磨川下りをしたことがあるけん、知つとるはずぢや。八代(やつしろ)の德の洲にやァ、河童上陸記念碑が立つとる。ガラッパはどこか遠いアジアの方から來たもんらしか。おれやァ學問のなか土百姓ぢやけん、詳しいこた知らんばつてん、なんでもアラビア地方から、九千坊ちゆう大頭目が何千何萬といふガラッパを引きつれて、東方に移動して來たちゆうんぢや。ジンギスカンてら、アレキサンダー大王てらいふ豪傑のまねしたかどうか知らんばつてん、インドのデカン高原の北、ヒマラヤ山脈の南にあるタクラマカン沙漠を通つて、蒙古、支部、朝鮮、それから海をわたつて、この熊本縣の德の洲から日本に上陸したらしか」
「大遠征ばいねえ」
「うん、途方もない大遠征ぢや。途中でだいぶん落伍したガラッパもあつたぢやらうが、ともかく、德の洲から日本に入つたガラッパが、今ぢやァ日本中に散らばつたとたい。枕川に居るとはその名殘りぢやよ」
「ガラッパにも、男と女とがあッと?」
「あたりまへのことよ。雄と雌とが居らんにやァ、子孫はふえんたい」
「ガラッパでも、惚れたり張れたりするぢやろか」
「するぢやろな」
「ああ、をかしか。ガラッパの戀か――ウフフフ、ガラッパの花嫁さんば、いつペん見たいもんぢやな」
「コヲコラ、ガラッパには近づかんにかぎる。ガラッパはやつばり化けもんぢやけんなァ」
三
虎助は自分は學問のない百姓だといつたが、河童についての傳説はよく知つてゐた。醉つて來るといよいよ雄辯になり、聲も大きくなつた。そして、熱心に聞き入る娘たちに、次のやうな語をした。
――昔、川に橋が少なく、渡船が交通機關であつたころ、或る日、渡船場で、一人の若者が船頭に一通の手紙と、一挺(いつちやう)の小さな樽とをことづけた。
「實はこれを持つて球磨川に行くはずでしたが、急に母が危篤といふものですから、ここから引きかへきなくてはならなくなりました。ついては、この手紙と樽とを球磨川の魚津といふところで、川に投げこんで下さいませんか。お禮は充分いたします」
船頭ははじめ面倒くさいことに思つたが、若者が莫大な謝禮金をさしだすにおよんで、二つ返事で引きうけた。若者が去ると、船は川面に出、白川、靑葉川、枕川と、支流を經て、球磨の本流に入つて來た。
ところが、乘客のうちで、その手紙と樽とはどうもをかしいといひだした者があつた。大體、品物を誰かに渡すのなら話はわかつてゐるが、川の中へ投げこめとは腑に落らない。若者は依賴したとき、この樽には大切なものが入つてゐるし、手紙も重要な祕密文書だから、どちらもけつして途中で見てくれるなと、くどいほど念を押した。見るなといはれれば見たくなるのが人情だし、まして、怪しいとすれば、眞相をたしかめたくなる。船頭ははじめ躊躇したけれども、乘客の輿論に押しきられて、遂に、樽の方から先に開けてみた。梅干に似た丸つこい物がいつぱい詰まつてゐる。なにかわからないが、蓋をとつた途端、嘔吐(おうと)をもよほす異臭がとびだして、乘客は一樣に鼻をつまんだ。
次に手紙を讀んだ。奇妙なくづしかただつたが、やはり漢字まじりの日本文なので、どうにか判讀することが出來た。
「拜呈仕候。九千坊將軍閣下には愈〻御盛大大慶至極に存じ上候。きて、例年の尻子玉年貢百個、早々に差し出すべき筈の處、最近は人間共がすこぶる用心深くなり、なかなかに數を揃へ申す事が困難にて、延引の段お許し下され度候。然るに、更にお詫び申し上げたきは、百個の定の處、遂に〆切までに九十九個しか集らず、一個不足致し居る事にて候。その不足分は何卒この船の船頭の尻子玉を拔きて、數をお揃へ下され度、御配慮の程よろしく御願申上候。恐惶(きようくわう)謹言、三拜九拜。肥後の國、松尾川頭目、二百坊より」
舷頭はまつ靑になつた。腰が拔けてしまひ、船底にへたばつた。乘客たちもおどろいたが、船頭にくらべるとものの數ではなかつた。船頭は癲癇(てんかん)にかかつたやうに泡をふいてゐる。
球磨川の河童大頭目九千坊が、これによつて、所々の中小頭目から年貢を取りたててゐることがわかつた。所によつてちがふのであらうが、松尾川の二百坊は年間尻子玉百個を約めねばならぬらしい。それが一個足りないので、船頭ので埋めあはせてくれといふのだつた。
「手紙は燒いてしまび、樽だけをここで投りこめ」
と、客が忠告した。船頭はそのとほりにした。小さい樽すぐに川底へ引きこまれた。船頭は無事だつた。
しかし、この事件がきつかけになつて球磨川にはお家騷動がおこつた。年貢の取り立てなどは大頭目九千坊のあづかり知らぬことだつたからである。九千坊の威光を笠に、九千坊の名で税金を課し、苛斂誅求(かれんちゆうきゆう)を事としてゐたのは、家老職の四千坊であつた。四千坊が松尾川から來た尻子玉が九十九しかないことを詰(なじ)り、ただちに一個追加の嚴命を發したため、ひどい搾取(さくしゆ)に隱忍してゐた二百坊も、遂に堪忍袋の緒を切つて謀叛(むほん)をおこしたのである。なにも知らぬ九千坊は、はじめ、二百坊の謀叛を怒つて、追討軍をさしむけようとしたが、眞相を知るにおよんで、四千坊の方を懲罰に附した。一族を引きつれて、筑後川へ大移動することになつたとき、四千坊とその腹心を枕川に流刑したのである。
「それでなァ、いま、枕川に居るガラッパたちは、四千坊の子孫ちゆうわけなんぢやよ」
語り終ると、虎助はおいしさうに、芋燒酎をまたぐいぐいと傾けた。[やぶちゃん注:「芋燒酎」は底本では「芋酎燒」。誤植と断じて特異的に訂した。]
家の外にたたずんでゐた三郎河童は、急に自分の身體がふくらんで來るやうな氣がした。あんまり虎助の聲が高いし、ガラッパといふ言葉がいく度も聞えるので、枕川から出て來て立ち聞いてゐたのだが、虎助の語は三郎に大いなる期待をあたへた。三郎は立ちあがると、誇らしげに、呟いた。
「おれは、名門四千坊の末裔(まつえい)だ。下賤でもなければ、低級でもない。このあたりの土百姓どもにくらべれば、貴族といつてよい。今日から、胸を張つて生きるんだ」
枕川の仲間たちは、自分たちの歷史や傳統をまるで知らない。四千坊が死んで後は、なんの記錄も殘つてゐないので、單に、配流の河童として無意味に生きてゐただけだつた。人間から教へられたことは皮肉だが、それはもうどうでもよかつた。三郎は新しい光明に向かつて進むやうに、せせこましい枕川を望んで步きだした。胸を張り、肩を怒らし、頭の皿をまつすぐにして、まるで、凱旋將軍でもあるかのやうに。
四
旱魃(かんばつ)といふほどではないが、雨が少く、水の切れる田が出來はじめた。稻はよく稔つてゐるけれども、いま田が涸れ、龜裂を生じたりすると、収穫に大影響する。虎助の五段ほどの田は山手に近く、それでなくてさへ水引きが惡いのに、日照りつづきで、どの田もからからに乾いた。勢のよかつた稻穗もげんなりとしほれ、色が變りはじめるのも出た。虎助はおどろき、狼狽し、躍起(やくき)になつて、每日、水揚げ車を踏んだ。しかし、枕川からも遠く、堤からの潅漑用水も制限されてゐて、田を蘇生させるには不充分だつた。
「畜生、これだけやつても駄目か。神も佛も居らんとか」
絶望的になり、天を恨んだ。見あげる秋空には積亂雲がもりあがり、雨の氣配などどこにもなかつた。村では一週間も前から、鎭守社で雨乞ひ祈願がおこなはれてゐるけれども、一向に靈驗のあらはれる兆候はない。
どこの田にも百姓たちが出て、必死に水あげに熱中してゐた。しかし、努力は報はれず、百姓たちは情なささうな顏を見あはせあひ、無言で、日に灼けこげた顏を打ちふつた。表情をまつたく變へないのはおどけた顏の案山子だけである。稻穗をわたる秋風も無情だつた。
くたくたに疲れた虎助は、田の畦に腰をおろし、鉈豆煙管(なたまめぎせる)を腰から拔いて、一服吸つた。好きな煙草の味もしなかつた。死にかかつてゐる田を眺めると泣きたくなる。絶えまなく、ためいきが出て、思はず、ひとりごとのやうに呟いた。
「おれの田に水を入れてくれる者があつたら、娘を嫁にやるばつてんなァ」
その言葉が終るか終らぬかのうちに、不思議がおこつた。どこからかはげしく水の流れる音が聞えて來て、次第に近づくと、虎助の田に水がどんどん流れこみはじめた。白つぽく乾いて龜裂してゐた土はみるみる水の下になり、田は五枚とも、たつぷりと水を湛へた。しほれてゐた稻穗も息をふきかへし、いつせいに、蛙まで鳴きはじめた。
「やァ、水が入つたどう。田が生きもどつたどう」
虎助はをどりあがつてよろこんだ。五枚の田の周圍を狂氣のやうに飛びまはり、萬歳を絶叫した。淚がぼろぼろほとばしり出た。
百姓たらも集つて來て、虎助の田だけに急に水が入つたことを不思議がつた。他の田はどれもこれも干割れてゐて、虎助の田は沙漠の中のオアシスのやうに見えた。
「をかしなこともあるもんぢやなァ」
「この水、一體どこから來たんぢやろか」
疑問は當然その點に落らる。虎助も加はつて水路を探してみると、虎助の田から一本太く、それは曲りくねりながらも枕川につづいてゐた。
「うい、枕川の水がひとりでに、虎助の田だけに上つて行つとるど。なんちゆう奇妙なことぢやろか」
村民たちはいよいよ不思議がつた。
「ガラッパのしわざかも知れんど」
と、一人の百姓がいつた。
それを聞いて、虎助は靑くなつた。それは、いつか、彼が娘たらに話して聞かせた、九十九個の尻子玉を百個にするため、この船頭の尻子玉を披けといはれた、その船頭以上のおどろきであつたかも知れない。虎助は、さつき、田の畦で、田に水を入れてくれる者があつたら、娘を嫁にやる、と呟いたことを思ひだしたのである。虎助は恐しさでふるへだした。
どこからか、なまぐさい一陣の風が吹いて來たと思ふと、虎助のすぐ前に、一匹の小柄な河童が姿をあらはした。
「虎助さん、あなたの田に水を入れてあげましたよ。さァ、約束どほり、娘さんを私の嫁に下さい」
河童は慇懃(いんぎん)で、禮儀正しかつた。微笑さへ浮かべてゐた。三郎であつた。彼は虎助から自分が由緒ある四千坊の血筋を引く者であることを知らされてから、人間の女を嫁にする資格が充分あると自負してゐた。しかし、思ひあがることはいけないと考へ、仰天して口もきけないでゐる虎助に、
「三人の娘さんのうち、どなたでもよろしいです。一人を私に下さい」
と、謙虛に、つけ加へた。
五
虎助の家では、沈痛な合議がはじまつた。母トヨ、娘ウメ、キク、アヤメ、自慢の幸福な家庭であつたのに、にはかに、暗澹とした空氣につつまれた。河童との約束は絶對に破ることは出來ない。河童の傳説に詳しい虎助は、河童がいたづら者の年面、すこぶる義理がたく、信義にあつい動物であることをよく知つてゐた。まして、村民たらの大勢見てゐる前で、河童と約束したのである。村人は虎助に同情するよりも、彼の田だけが潤つたことを嫉んでゐて、三人娘の一人くらゐは當然お禮として河童に進呈するのが人間の道だなどといふ始末だつた。虎助は絶對絶命である。やつと、河童に三日間の返事の猶豫(いうよ)をもらつた。無論、それは娘をやるやらぬの返事ではなく、三人のうち誰にするかを定めるためであつた。
人ばかりよくて愚鈍な母トヨは、
「なんちゆう馬鹿な約束を、ガラッパなんかとしたもんぢやろか。阿呆たらしか。娘どもには三人とも、よか婿どんを見つけてやろて考へとつたとに、ガラッパの嫁にやるなんて、氣でも狂うたとか」
と、泣きながら、やたらに恕つたり愚痴をいつたりするばかりで、なんの解決策も見いだすことは出來なかつた。虎助はほとほと當惑して、まづ姉の方から、口説いてみた。
「ウメ、お前、行つてくれるか?」
「お父ッあん、あたしは長女ばい。こン家を繼がにやならん責任がある。お父ッあんだつて、いつでもそぎやんいひよつたぢやなかか。あたしは養子ばもらはんならんけん、よそに嫁御に出ることはでけんたい」
「キク、お前は?」
「いやァなこと。ガラッパの嫁御なんて、考へただけでも身ぶるひがする。あぎやん化けもんの嫁になるくらゐなら、石の地藏さんと添うたがまし」
「さうか、お前たちにしちやア無理もあるまい。アヤメも同じ考へぢやろ。さう三人が三人ともいやがるなら、ガラッパに噓ば、ついたことになる。ガラッパはどぎやん仕返しをするか知れん。ガラッパの仕返しは恐しか。困つたなァ。そんなら、いつそ籤(くじ)にするか」
それがよいと贊成する者はなかつた。籤の結果を考へると恐しいのである。すると、これまで默つてなにかを考へてゐた末娘のアヤメが、顏をあげて、
「お父ッあん、あたしがガラッパのところに、お嫁に行きませう」
と、きつぱりした口調でいつた。
「ほんとかあァ」
と、虎助はとびあがつた。母と二人の姉もびつくりして、末娘を見た。
アヤメは落ちついてゐて、
「三人のうち誰かが行かんことにやア、お父ツあんが噓つきになる。姉さんがたは、どぎやんしてもいやといはすけん、あたしが行かにや仕樣ンなか。行きます。お父ッあん、枕川に行つて、三郎といふガラッパにそのことを傳へて下さい」
「お前、本氣ぢやろな?」
「本氣ですとも」
虎助が改めて本氣かとたしかめたのは、アヤメが村の龍吉といふ靑年と戀仲になつてゐることを知つてゐたからである。そして、それを虎助も許してゐた。なぜなら、龍吉はちよつとした物持の息子で、氣立てもよく、働きもあり、男ぶりも十人前、つまり、虎助が娘たちの婿にと考へてゐた條件にぴつたり合つてゐたからだ。それなのに、河童のところに嫁入りすると斷乎として宣言したので、虎助は面くらつたのである。アヤメが行けば自分は大助かりだが、娘の眞意がわからず、娘の犧牲的精神が大きすぎて、虎助の理解をはみだしてゐたのだつた。これを知つたら、龍吉だつて默つてゐるはずはない。ガラッパと三角關係が生じて、どんな面倒がおこるかわからない。龍吉と河童と決鬪でもするやうなことになつたら大變だ。虎助は頭がこんぐらかつて、眩暈(めまひ)さへおぼえた。
「アヤメ、お前、ガラッパの嫁御になッとかァ」
といつて、母はおいおい泣きだした。
しかし、ともかく、家族合議は終つたのである。そして、不思議なことに、一家の愁嘆のなかで、當ののアヤメだけがけろりとしてゐた。彼女は悲しむどころか、不敵な微笑さへたたへて、家族の者の眼を瞠(みは)らせた。その夜も、アヤメ一人が熟睡した。
六
「おうい、ガラッパの三郎どうん」
虎助は、枕川の岸に立つて大聲でどなりながら、一本の胡瓜を川に投げこんだ。
そこには千年を經たかと思はれる大榎があつて、太い幹に張りめぐらされた七五三繩(しめなは)の御幣(ごへい)が秋風にゆらめいてゐた。小さな祠(ほこら)が樹の洞(ほらあな)に安置されてある。ここが河童との連絡場所になつてゐた。胡瓜はその合圖である。
いつたん沈んだ胡瓜は浮きあがると、くるくると獨樂(こま)のやうに𢌞轉しはじめた。その渦のなかから、ぽつかりと三郎河童の姿があらはれ、胡瓜をつかみとると、岸へ上がつて來た。濡れた靑苔色の身體が雫をたらし、背の甲羅や、頭の皿がきらきらとガラスのやうに秋の太陽を反射してゐた。三尺にも滿たぬ體格でひどく子供つぽく、これが結婚適齡期の靑年かと疑はれるほどである。水かきのある足がびちやびちやと音を立てる。
「これは、虎助さん、ようお出で下さいました。お待ちして居りました」
「約束の返事ば、しに來たんぢや」
「で、どなたを私に下さいますか」
「末娘のアヤメをやる」
「それはありがたうございます。誰でなければならんといふ贅澤は申しません。それで、アヤメさんは、龍吉さんの方はよろしいのでせうな?」
虎助はあきれた。河童がそんなことまで知つてゐようとは意外だつた。
「勿論、あんたにアヤメをやる以上は、龍吉の方とはいざこざがないやう、話はつけてある」
「それなら結構です。三角關係はいやですからね」
「それでは、祝言(しうげん)についての打らあはせば、しておかう。これが大切ぢや」
「河童方式でやりませうか。人間方式でやりませうか」
「アヤメば、川の底のあんたの家につれて行つてからは、河童方式でやつてもよかばつてん、川に入るまでは人間方式でやりたか」
「承知しました。妥當の案と思ひます。それでは、水面を境界にしまして、地上は人間方式、水中は河童方式と定めます。それでは、アヤメさんを花嫁として水中へ送つて下さるまでの人間方式を教へて下さい」
「こぎやん風にしたか。人間方式では、花嫁には嫁入道具がつきものぢやけん、まづ、その嫁入道具を先にあんたの方に屆ける」
「ありがたうございます」
「その嫁入道具があんたの川底の家に納まつてから、花嫁ば送りだす。あんたは、ちやんと、嫁入道具を受けとつて、家に納めたちゆう報告をしてくれにやいかん」
「仰せのとほりにします」
「嫁入道具は濡れんやうに、入れ物に入れて川に投げこむけん、川底へ引きこんでおくれ」
「わかりました」
「嫁入道具ば、ちやんと家に納めきらんやうな婿には、嫁はやられんことになつとるけん、それも承知しといてや」
「なにからなにまでの指示、感激のいたりです。それでは、アヤメさんを受けとつてからの河童方式について、ちよつと御説明申しあげておきませう。われわれ河童の習慣としまして、……」
「いや、よかよか。嫁にやつてから先のことは、なんもかんもガラッパどんだちに委せる。ええごとしてもろうて、よか。それぢやあ、明後日が大安吉日ぢやけん、その日の朝ンうらに、嫁入道具ば屆けることにする」
「お待ちして居ります」
河童がよろこんで淚さへためてゐるのを殘して、虎助は、一散に、わが家へ歸つた。外交交渉はうまく行つたやうである。河童は人間とはくらべものにならぬはど信義にあつい動物だから、後日のための七面倒な約定書、調印などはしなくてよかつた。虎助は、しかし、なほ、結婚式當日の成果に若干の不安があつたので、まだ、心から笑つたりすることは出來なかつた。
七
川底では、祝ひの準備に忙殺されてゐた。三郎の思ひもかけぬ幸運を、大部分の河童たらは手放しで祝福した。これまでの河童の歷史に嘗てなかつた破天荒(はてんくわう)の痛快事といつてよい。いつぞやは美しい花嫁姿をやつかんで、花嫁の乘馬を川へ引きずりこみ、わづかに溜飮を下げたのであつたが、今度はその人間の花嫁が河童の三郎のところへ來るといふのだ。これをよろこばずして、なにをよろこぶことがあらうか。河童たらは三郎を羨むよりも、自分たち全體の光榮を感じて、みんなが心から三郎の祝典のために、努力を惜しまなかつた。河童方式による結婚式の準備は着々と整へられた。川底の淵にある三郎の家は、蓮の花、水中藻、ヒヤシンス等の花で飾られ、鮎、鮭、鮒、スッポン、鰻、泥鰌、岩魚、カマツカなどの珍味が大量に揃へられた。苔から精製した特級酒も飮みきれぬほど用意された。[やぶちゃん注:底本の行末で改頁最終行でもある「スッポン」の後には読点がないが、特異的に誤植と断じて補った。]
「祝言の日は、底拔け騷ぎをやらかすぞ」
「三郎はおれたちのホープだ」
「人間を征服した英雄だ。死んだら、胴像を建ててやらう」
「おいおい、めでたい日に死ぬことなんて、いふなよ」
「とにかく、河童界はじまつて以來の慶事だ。枕川河童族萬歳」
もう河童たちはその日の來ぬうちから有頂天で、前景氣は盛んだつた。
しかし、今度の結婚に多少の不安を感じる者がなくもなかつた。それは主として老人組で、まつたく異つた人間と河童との國際結婚がはたして破綻(はたん)なく續くものかどうか、自信は持てないもののやうだつた。河童は河童同志がよいのではないか。しかし、三郎自身が得意と歡喜の絶頂にあり、仲間たちもよろこんでゐるのだから、強ひて異は立てず、やはり式典の準備を手傳つた。
ここに、一人だけ、この祝言を悲しんでゐる者があつた。トエといふ名の女河童だつた。彼女ははげしく三郎に思慕してゐたので、仲間といつしよに祝福する氣にはなれなかつた。といつても、三郎と契つてゐたわけではなく、片思ひだつたのだから、三郎を裏切者と呼ぶわけにも行かない。ひとり小さい胸がつぶれるほどに嘆いてみるだけだ。トニは悲しかつた。しかし、淚をおさへて、祝言の手傳ひはした。そして、三郎に花嫁が來たら、どこか遠くへ行かうとせつない流離の思ひにとざされてゐた。三郎がそはそはと落らつかず、ときどき、にやにやと思ひだし笑ひをしてゐるのがはがゆく、そのアヤメとかいふ人間の花嫁が二目と見られぬ醜女(しこめ)で、根性がわるく、夫婦になつても喧嘩ばかり、すぐに別れてしまふやうになればいい、などと、いつか考へてゐて、嫉妬は女のアクセケリーとはいひながら、そんなはしたない考へを抱く自分を恥ぢた。すなほに愛する三郎の幸福を祈らなければならぬと思つた。
いよいよ、結婚式の當日がおとづれた。すがすがしい秋晴れの朝だつた。
三郎は頭の皿を洗つて新しい水を滿たし、髮をきれいになでつけて、苔のポマードをつけた。背の甲羅も一枚づつ叮嚀に磨き、嘴もぴかぴかと光らせた。彼は、あの、眞白な綿帽子、魅惑的な角かくし、裾模樣の衣裳をつけた美しい花嫁姿が、もう眼にちらついて、心臟ははげしく高鳴りつづけだつた。虎助の三人娘のうちアヤメがもつとも器量よしであることも滿足の一つである。彼女が來たら、いたはつて幸福な家庭を作らうと思ふ。三郎はその夢の設計が樂しかつた。
トポンと、水面で音がした。底から見ると、ガラスの天井のやうに明るい水面が波紋でくづれ、その中心に、黑い新月のやうなものが見えた。胡瓜であつた。
「合圖があつたぞ。まず嫁入道具を受けとりに行け」
祝言實行委員長の河童が叫んだ。
「よし來た」
河童たちは、いつせいに、水面に顏をあらはした。三郎もつづいて出た。岸に、十人ほどの人間が立つてゐる。その先登に虎助がゐた。
「ガラッパの三郎どん、さァ、嫁入道具ば渡すけん、受けとつてくれ」
虎助のその言葉で、枕川のうへに、大きな荷物が投げこまれた。それは互大な七つの瓢簞を一つの網のなかに包んだもので、嫁入道具は濡れないやうに、それらの瓢簞の中に入れてあるらしかつた。水しぶきを立てて落ちた瓢簞はぷかぷかと波に浮いてただよつた。
「そら、引つぱりこめ」
掛け聲勇しく、河童たちは瓢簞の荷物に手をかけて、水中へ引き入れようとした。頭の皿に水さへあれば、馬でも、牛でも、トラックでも、機關車でも、戰車でも、水中へ引きこむほど強力である河童にとつては、そんな輕い七つの瓢簞など問題ではなかつた。いや問題ではないと、誰もが思つたのだ。ところが、大當てはづれだつた。容易に水中に沈まないのである。力まかせに引けば、水中へいくらか入りはするが、力をゆるめると、すぐに水面に浮きあがつてしまふ。七つの瓢簞を一つにした浮力は大きかつた。河童たらにはその原理がわからない。そこで群がりついて、なんとかして沈めようと懸命になつた。
「みんな、賴む。この嫁入道具を家まで運んでしまはなければ、花嫁は來ないんだ。もつと力を出してしつかり引つぱつてくれ」
三部は躍起(やくき)になつて、全身の力をこめた。仲間も負けてはゐない。ありたけの力をふりしぼつた。けれども、なんとしても瓢簞は表面から十尺とは沈まなかつた。どうかしたはずみに沈んでも、また、もとへかへつてしまふ。おまけに河童の方は次第に疲れて來たが、浮力の方はすこしも衰へないので、もはや勝敗は決定したといつてよかつた。
八
三郎は全身が解體して行くやうな疲勞を感じながらも、なほ、瓢簞をつつんだ網から手を放さなかつた。これこそ自分の命であるといふ執念が、すでに力は拔けてしまつた腕を網にしばりつけ、機械的に、引き下げる動作をさせた。それでも、なは、彼はまだ人間から欺かれたといふことには氣づかなかつた。
「ようい。早よ嫁入道具ば持つて行かんかァ。花嫁御がつれて來られんぢやなかか。なにを愚圖々々やつとるんぢや」
虎助は、岸から、嘲笑的に、しきりにどなつた。半信半疑であつたのに、娘アヤメの作戰どほりになつて、愉快でたまらなかつた。すべてはアヤメの智惠である。アヤメは自分が嫁に行かうといひだしたときに、この戰術が胸にあつたのだ。虎助はすべて娘に智惠を授けられて、枕川の三郎河童に緣談の打ちあはせに行つたのであつた。えらい娘だと舌を卷かずには居られなかつた。河童たちが瓢簞を引きこまうとして狼狽してゐるさまが、滑稽で仕方がなかつた。これでアヤメを河童にやらずにすんだわけである。
虎助の背後に、龍吉がゐた。三郎はそれを見た。アヤメの戀人がアヤメの祝言の手傳ひに來てゐるのを見れば、なにかの祕密、なにかの陰謀があることに氣づかねばならないのに、正直一途の三郎にはそんな陰慘な第六感は働かなかつた。三郎はただ自分たちの非力を悟り、それを嘆いただけであつた。
「なにやつとるか。そん嫁入道具を引つこみきらんやうな者には、娘はやられんど」
いよいよ圖に乘つて、虎助は叫んだ。
「みんな」と、遂に、三郎は、協力してくれてゐる仲間に向かつて、力弱い聲でいつた。「ありがたう。もういい。とても駄目だ。この嫁入道具は、絶對に、川底まで引いて歸ることは出來んことがわかつた。もう、あきらめる」
「さうか」
仲間は三部を哀れに思つたが、局面を打開する方途を誰も知らなかつた。河童たちは科學に太刀打ちする力は持たない。枕川の水を遠い田へ流れこませるやうな神通力は持つてゐても、科學には齒が立たなかつた。もはや、かうなると退却のほかはない。
瓢簞から手を放したとき、三郎は絶望とともに深い孤獨に沈んだ。眞白い綿帽子と角かくし、美しい人間の花嫁姿は、ただ幻想となつて殘つたにすぎない。七つの瓢簞は河童たちを嘲笑するやうに、さざなみのうへに、踊るやうに浮いてゐた。その黑い影は雲のやうに川底までも暗くした。土堤の人間たちは大笑かしながら、勝利の萬歳を唱へた。河童たちがすて去つた七つの瓢簞を引きよせ、また、これをかついで歸つてしまつた。
その後に、ただ一人、龍吉だけがたたずんで、複雜な表情で枕川の水面を凝視してゐた。顏の表情がいろいろに變る。それは心内でなにかの格鬪がおこなはれてゐる證左だつた。龍吉は立ちあがつた。唇を嚙んで呟いた。
「アヤメは智惠がありすぎる。すばらしい作戰で、まんまと河童を騙くらかしてしもうた。恐しい女ぢや。あんな女と夫婦になつたら、いつ、どんな目に合はされるかもわからんど」
獨白しながら、龍吉はなにかを決心したやうに、ゆつくりした足どりで、虎助たちとは反對の方角に步み去つた。
川底での祝言の準備はむだにはならなかつた。人間との國際結婚を危ぶんでゐた長老は、かへつてこの破談をよろこび、トニと三郎とを夫婦にする仲人を率直に買つて出た。傷心の三郎はすぐには氣分轉換が出來なかつたが、長老の、やつぱり河童は河童同志といふ意見と、トニが長い間自分を思つてゐたといふことに動かされた。仲間たちも全部が贊成したので、急に、三郎とトニとの結婚式に肩代りをすることになつた。もはや人間方式をまつたく交へぬ純粹河童方式になつたのである。祝言と披露の宴は底拔け騷ぎになつた。
三郎もすこしづつ座の雰圍氣に卷きこまれ、笑顏を見せるやうになつた。仲間が奇妙奇手烈な歌や踊りをやると、腹をかかへて笑つた。人間の瓢簞に敗北した鬱憤が大爆發をした。三郎も隱し藝をやりだした。川底はげらげらと雷鳴のやうな笑ひ聲で滿たされた。すると、傳説の掟の示すとほり、枕川の水面はざわめき渦卷き、急速に水量がふえはじめた。たちまち、水は土堤を越えた。
「やァ、田に水が入つたどう」
百姓たちはよろこんだ。からからに乾いてゐ水田は水に潤された。しかし、よろこんでゐるうちに、水量はぐんぐんと增す一方で、遂に大洪水となつた。稻田の全部の穗は水面から見えなくなり、またたく間に濁流の底に沒してしまつた。
[やぶちゃん注:私はこのエンディングに快哉を叫ぶ。この話の基本は世界的には三人の姉妹の末の妹だけが二人の姉と異なった運命或いは試練を与えられるという「シンデレラ」型を示し、またその型の日本の典型例である「猿の聟入(むこい)り」型の異類婚姻譚を踏襲しながら、それを結末を原話類とは異なった形で美事に変形してインスパイアしてあるからである。因みに、御存じない方のために小学館の「日本大百科全書」から「猿婿入(さるむこい)り」の項を引いておくと、『爺(じじ)が、田に水を引いてくれた者に娘を嫁にやるという。猿がそれを聞き、田に水を引き、娘をもらいにくる。上の』二『人は断り、末娘が承知する。里帰りのとき、川の上に見える花を取ってくれと娘が頼む。猿は、花を取ろうとして川に落ち、おぼれて死に、娘は無事に帰る。全国的に数多く分布する昔話の一つである』(私はこの「花摘み」の前に、末妹が非常に重い「臼」と「杵」と「米」を「嫁入り道具」として指定し、それを担いだ猿が桜の花を手折ろうとして橋から川に落ちて溺れ死ぬという話として本話を知っている。所持する岩波文庫の関敬吾編の「日本の昔ばなし(Ⅰ)」によれば、爺さんが嫁にやると約束して猿が手伝うのは「牛蒡掘り」(フロイト的には面白い)であり、しかもそれはまさにこのロケーションと近い「熊本県阿蘇郡」の採話なのである)『不特定の人に、一定の条件を果たしたら娘を嫁にやろうと約束するという発端の形式は、婿を異類とする婚姻譚の特色で、「犬婿入り」「蛇(へび)婿入り」などにもみられる日本の信仰で』(中略。ここを省略するのは、その解説者のここでの解説に私は微妙に違和感を感じるからである)、『蛇は水の霊の姿であるが、猿を水の霊として描いた伝説も少なくない。『古事記』に猿田毘古(さるたひこ)が海水におぼれたとあるのもその一例である。「猿婿入り」の猿も、水の霊の姿であろう。「蛇婿入り」には、ひさごを持って嫁に行き、ひさごを沈めることができたら嫁になろうといって蛇を試す例もある。「猿婿入り」の臼は、「蛇婿入り」のひさごに相当する。ひさごを沈めることができるかどうかで、水の神の霊力を試す話は、すでに『日本書紀』仁徳(にんとく)紀に』二『例もみえている。「猿婿入り」は、田に水を引く水の霊を、人間がひさごの力で征服し、水田経営を無事に進めるという宗教的な物語が昔話化したものであろう』とある(下線は私が引いた)。この「猿」=「蛇」=「水神」という説は、零落した「水神」としての「河童」にこそ相応しいと言えよう。
ともかくも、私はこの「猿の聟入り」を幼少の頃に読んだ時、実は激しい生理的嫌悪感を抱いたのである。何も悪いことをしていない猿があまりに可哀想だったからである。私は私に子があったら、絶対にこの話は読ませない。智恵を以って誠意を以って対処した相手を殺害するこんな忌まわしい話は読ませたくない。大人になってから、岩波文庫で読んでも、不快感は幼少期にも増して増幅した。
私は「猿の聟入り」の末の妹が激しく嫌いである!
言いようもなく、恐ろしい女ではないか?!
龍吉の最後の態度と「アヤメは智惠がありすぎる。すばらしい作戰で、まんまと河童を騙くらかしてしもうた。恐しい女ぢや。あんな女と夫婦になつたら、いつ、どんな目に合はされるかもわからんど」という台詞、そしてその土地を去って行く後ろ姿にこそ、私は激しく共感する。]
[やぶちゃん注:底本では以前に電子化した「手」の後に配されてある(なお、前回を以って途中の未電子化部分を総て終り、従来の底本の順列電子化に戻った。底本本文は後、小説「花嫁と瓢箪」と戯曲「妖術者」及び小唄集「河童音頭」のみとなった)。単行本の所収は河童小説集である昭和四九(一九七四)年四月早川書房刊「河童」であるから、戦後の作品と考えてよいであろう。底本の傍点「ヽ」は太字とした。以下、先に簡単な語注を附しておく。
・「ベール・エムロード色」はフランス語“vert émeraude”の音写(正確には「ヴェール・エムロードゥ」)で英語の“emerald green”(エメラルド・グリーン)のことである。
・「春秋の筆法」とは五経の一書「春秋」の文章には孔子の正邪の判断が加えられているところから、「事実を述べるに対してそこに筆記者の価値判断を含ませて書く書き方、特に間接的原因を結果に直接結びつけて厳しく批判する仕方を指す。
・「松王丸の首實驗」浄瑠璃「菅原伝授手習鑑」(延享三(一七四六)年大坂竹本座初演。初代竹田出雲・竹田小出雲・三好松洛・初代並木千柳の合作。平安時代の菅原道真の失脚を中心に道真の周囲の人々の生き様を描く。四段目の切の「寺子屋の段」が特に知られる)の登場人物。梅王丸の弟、桜丸の兄で、藤原時平の舎人(とねり)。菅原道真への報恩のためにその子秀才の身代わりに自分の子の小太郎を差し出す。私は何度か文楽で見ているので意味が分かるが、不明の方はウィキの「菅原伝授手習鑑」などを参照されたい。
・『「ベニスの商人」の宮廷で、皇女の求婚者たちが、金、銀、鉛、三つの箱をえらぶ。髭もじやのモロッコ王は、金の箱に眼がくらんで失敗した。鉛の箱が幸運の使者であつた』ウィリアム・シェイクスピアの喜劇「ヴェニスの商人」(The
Merchant of Venice)のこのシークエンスは高橋葉子(西平葉子)氏のサイト「きいろい★ながれぼしの旅」の『「ヴェニスの商人」のあらすじ』が判り易い。
・「鳶口野郎」相手の河童の口の先が鳶口(伐採した木材を引き寄せたり、消火作業などに用いる長い柄の先に鳶の嘴(くちがし)のような鉄製の鋭い鉤(かぎ)を付けた道具)のように有意に曲がっていることからの卑称かと思われる。
本テクストは2006年5月18日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来、本ブログが980000アクセスを突破した記念として公開する。【2017年7月18日 藪野直史】]
女の害について
まあ、聞いてくれ。いつか話さうと思つてゐた。君にかくしてもしかたがない。君がきつとやつて來ると思つてゐたが、やつぱり來たね。君が來なかつたら、おれの方で出かけるつもりだつた。噓ではない。あの女のことは、おれ以上に君が關心をもつてゐることは知つてゐたし、……、いや、もう、そんな上品ないひかたをしなくともよい。おれと君とが戀がたきであつたといふことは、はじめから明瞭だつたんだから、こんどの事件については、おれとしても、君に報告せずにはをれないわけなのだ。……まあ、さう、眼のいろかへてせかずに、おれの話を聞いてくれ。
なにも、君を出しぬいたわけぢやない。なるほど、おれはあの女とふたりでしばらく旅をすることはした。しかし、それは駈落ちでも、樂しい旅でもなかつたんだ。樂しいどころか、なんといつたらいいか、じつに、變てこりんな、不思議な、奇妙な、苦しい、馬鹿げた、そして、恐しい旅だつたんだ。見てくれ。おれはこんなに瘦せてしまつたばかりでなく、頭の皿だつて、水氣が減つて、ひびがはいつてゐる。ふさふさした毛も拔けたうへに、白くさへなつてしまつた。甲羅だつて、ほれ、こんなに乾いて、粉がふいたみたいに腐れかかつてゐる。眼もかすんでゐるし、腰の蝶番(てふつがひ)も尋常ぢやない。さつき君が人ちがひぢやないかと眼をみはつたはど、おれは變りはててゐるんだ。みんなあの女とのこんどの旅が原因なんだ。おれがどんな目にあつたかがわかるぢやないか。
そんな疑ひぶかい眼で睨むな。君はおれを信用してないのか。女はどこにゐるかつて? 女はゐるよ。居どころもわかつてゐるよ。いま話すよ。そのまへに、おれと女との變てこな旅の語を、まあ、終ひまで聞いてくれ。おれは、もう、あの女を君にゆづつてもいいくらゐに思つてゐるが、君がおれの話を聞いたら、きつと、そんな女ならもう用はないといふだらう。おれはそれを信じてゐる。
こんどの旅は、おれがいひだしたんぢやないんだ。そりや、白狀してもいいが、あの女と、どこかへ、二人きりで旅したいといふ氣持は、日ごろからあるのはあつたさ。しかし、いつもは、あの女は、いつたいおれにどんな感情をいだいてゐるのか、さつぱり見當もつかない曖昧な態度だつたし、おれがおづおづそんなことを口に出しても、鼻であしらつて、受けつけることなんて、一度もなかつたんだ。君だつてさうだつたんだらう。かくさなくたつていいよ。これまでは戀がたきで睨みあつてゐたが、今日からは友だちなんだ。なぜ、友だちかつて? そりや、最後まで話してしまへば、ひとりで合點の行くことだが、もう、あんな女、二人とも忘れてしまつて、仲よくできると思ふからなんだ。
ところで、こんどの旅は、とつぜん、女の方からいひだしたことなんだ。十日ほど前のことだ。女がやつて來て、いつにないなれなれしさで、
「たのみがあるのよ」
さういふぢやないか。じつは、白狀してもいいが、おれはもううれしさで胸がどきどきして、多分、多少うはづつた聲で、
「どんなこと? どんなことでもするよ」
と、せきこみながら答へたもんだ。
「ほんとに、どんなことでも、聞いて下さる?」
どんなことでも、に力を入れて、じつとおれの眼のなかをのぞく。おれはもう夢中だ。彼女のためなら死んでもいいと、日ごろから思つてゐたんだし、躊躇するわけもない。
「うん、どんなことでも。さあ、いつてみたまへ」
「そんなにいはれると、かへつて困るわ。そんな大變なことぢやないのよ。ちよつと旅をしなくてはならないんだけど、ひとりぢや心細いの。御迷惑かもしれないけれど、いつしよに行つていただきたいのよ」
白狀してもいいが、おれはよろこびで飛びあがつたんだ。なんの迷惑なことがあらうか。願つたりかなつたり、望むところ。しかし、おれはやつぱり男としての自尊心があつたし、あまりこちらの卑屈なこころを見すかされまいと、わざと不承不承のやうに、
「旅? 君と? ちよつと困るなあ」
「ああら、いま、どんなことでもするとおつしやつたくせに。噓つきね。さう、なら、いいわ、そんなに迷惑なのなら……」
君の名前が出さうになつたんで、おれはあわてて、
「いや、迷惑なことはないよ。迷惑なことなんてあるもんか。行くよ、行くよ」と、たわいもなく、降參してしまつた。そして、どこに、どういふ用件で行くのか、とたづねた。
「これを持つてね」と、彼女がおれに示したのは、小さな、さうだね、縱一尺、橫八寸、高さ六寸くらゐの、蓮の葉づくりの綠りいろの小筥だつた。これが問題の小筥だつたんだが、そのときはべつだん深くも氣にとめなかつた。[やぶちゃん注:「綠り」の送り仮名「り」はママ。]
「伯父さんのところへ行かなくてはならないの。伯父さんて、あんた、知らないかしら。臍無沼(へそなしぬま)の宰領(みかじめ)をしてゐるひとだけど。この白鷺川(しらさぎがは)をまつすぐにくだつて、さうね、二百キロはあるから、一日に十五キロ行くとしても、十三、四日はかかる勘定ね。そんな長旅、あたし、ひとりぢや怖(こは)いわ。とてもできない。それで、お願ひしたの。ね、無事向かふへつくまで、あたしを守つて行つて下さるわね」
「よろしいとも。そんなことくらゐ、屁の河童だよ。で、また、こつちへかへつて來るのかい」
「勿論よ」
さうして、おれたちの奇妙な旅がはじまつたといふわけさ。
おれは單に隨伴で、護衞、つまり用心棒といふところだが、白狀してもいいが、それでも樂しくないことはなかつた。惚れた女との二人旅、それに、男女のなかは異なものだから、旅をしてゐる間に、いつか、なにかのきつかけで、思ひをとげることのできる機會が來ないともかぎらない。その期待で、おれはわくわくとこころもをどつてゐた。
荒れた梅雨の名ごりもとつくにすぎたあと、白鷺川は適度の水量で、流れもおだやかだつた。水もすんでゐるし、鮒(ふな)、鮠(はや)、鰻(うなぎ)、えび、みぢんこ、など、食糧にことはかかぬし、水底の旅はまづ快適だつた。食糧採集はおれの役目だ。おれは戀人の兵站部(へいたんぶ)になることがうれしくて、魚とりに得意の手練を發揮した。彼女もほめたり、よろこんでくれたりした。夏の太陽はきらきらと、水面を光らせながら、すこしはあたためるが、底の方はひいやりとしたこころよい肌ざはりで、甲羅も、皿も、嘴も、水かきも、生涯のうちでもつとも健康、かつ快調のやうに思はれた。
ならんでゆく彼女は、いかにも美しい。彼女の豐饒(ほうぜう)で金色の頭髮、瑪瑙(めなう)のやうに靑びかりするつやつやしい皿、ルビーのやうな二つの眼、貝殼のやうな嘴、そんなものにも增して、ながれにしたがつて、濃くなつたり淡くなつたりするベール・エムロード色の甲羅と、そのこまかな網目模樣、きらに、まろやかな兩肩の線、なんともいへぬ腰のあたりのやはらかいふくらみ、それが步行にしたがつて、ゆるやかに振られる惱ましさ。――そんな恐しい眼で、おれを見るな。君はやきもちをやいてゐるのか。とんでもない。そんな彼女の姿態の虛僞といやらしさが、あとですつかりわかつたんだ。話が終るまでは、さまたげないでくれ。……
さて、まづ、出發から、三日ほどは、なんの變つたこともなく過ぎた。おれは胸のをどる期待で、彼女との結合を空想してゐたんだが、大あてはづれで、すこしいらいらして來た。白狀してもいいが、おれはもう我慢がしきれなくなつて、いつそ暴力にうつたへてもと、彼女がおれのかたはらで眠つてゐるときなど、何度か考へたこともあるんだ。だが、氣弱なおれには、それがどうしてもできなかつた。しかし、それは單におれのお人よし、優柔不斷ばかりぢやなかつた。いま考へてみてわかることがある。なにか、彼女はおれにふれさせない或る神祕なもの、といふより、えたいの知れぬ祕密なものを藏してゐたんだ。それがはじめはわからなかつたが、三日目ごろから、すこしづつ明らかになつて來たんだ。
不思議の第一は、彼女の持つてゐた小筥だ。蓮の葉で製造した箱は、たれでも持つてゐるし、すこしも珍しいものではない。その筥も筥自體はきはめてありふれたもので、注目をひくものはなにもないのだが、その小筥を所持してゐる女の態度が、ただごとではないのだつた。
「その筥、僕が持つてあげよう」
おれは何度さういつたかしれない。こちらは惚れた弱味の用心棒で、お伴だから、それくらゐの奉仕は當然だらうぢやないか。か弱い女に荷物を持たせて、(それに、大變重さうだつた。筥自體の重さはしれたものだから、入つてゐるものが思ひやられた)大の男が手ぶらで步く法はない。しかし、おれが何度さういつても、彼女は、いいのよ、いいのよ、と頑固に首をふつて、おれに持たせようとしない。
「そんなにまでして貰はなくともいいのよ」
「でも、重さうだから、持ちたくてしかがないのだから、家來にかつがせたらどうだね」
「いいのよ。これは着くまで、あたしが持つて行く」
あんまり重さうにしてゐるので、つい見かねて、また、持たうといつてしまふのだが、
おれがしつこく(歡心を得たいためとはいへ、こちらはまつたくの親切心からなのに)同じことをくりかへすと、しまひには、彼女はするどい猜疑(さいぎ)のまなざしで、おれを睨むやうにするのだつた。その眼のいろには、あきらかに、持つて逃げるのではないかといふ疑ひの光があつて、さらに、だまさうたつて渡すものかといふ反撥の氣配さへあつて、おれは情なく、また腹だたしくもなるのだつた。
それよりも、
「その小筥、ずゐぶん大切にしてゐるが、どんな大事なものが入つてるんだね?」
さう聞いたときの、彼女のすさまじいばかりの凝視を、わすれることができない。女でもこんな恐しい眼ができるものだらうか。その眼はもはや猜疑といふよりも、一種脅迫のいろさへおびてゐて、おれは恐怖で心臟が凍る思ひにすらなつた。なにが入つてゐるのか、さういふ好奇心はたれでもおこるものだし、こちらも氣輕に聞いたつもりだつたのに、彼女をこんなにもおどろかし、また思ひがけぬすさまじい逆反應をおこさうなどとは、夢想だにしなかつたのだ。
おれがびつくりして、どぎまぎと默つてしまふと、女は、急に、にこにこと不自然な笑顏になつて、
「お願ひだから、二度と、そんなことを聞かないでね」
機嫌をとるやうに、おれの顏をのぞきこんで、媚態(びたい)に似たものを示すのだつた。
おれの好奇心と疑惑とは、彼女への慕情のせつなさと平行し、あるひは交錯しつつ、日とともに高まつた。つまり、いろいろな意味で、彼女はしだいにおれを惱まし、苦しめはじめたのだ。
女の小筥にたいする態度は、どう考へても、尋常とは思はれない。愛着とか愛撫とかいふやうな種類の感情ではなく、もつと別の、極端にいへば、ふとなにか不純なものさへ感じさせる、大事がりやうである。かたときも、自分の手からはなさないのは無論のこと、きたない話だが、大小便の用たしにもちやんとかかへて行くし、おどろいたことには、眠るときには、その筥をしつかりと、葛の紐で自分のからだにくくりつけるのだ。おれは不愉快と情なさで、自分を泥棒と思ふのかと、どなりつけたい衝動をしばしば感じた。しかし、そこが惚れた弱味、彼女の自分への不信にたいして、ひとことも、抗議の言葉をはくことができないのだつた。
ところが、彼女がおれを苦しめたのは、そればかりではない。氣をつけてみると、彼女の行動は、一から十まで、不可解至極といつてよかつた。
彼女は步行の途中でも、いきなり、おれにしがみついて、おれをおどろかせた。おれたちは、水中ばかり步いてゐたのではない。ときには氣ばらしに、岸を步いた。ただ、岸を行くことは多少の危險がともなふので、主としてこころおきない水底をえらんだのだ。おれたち河童は、姿を消すことはできるけれども、それは完全には安全といふわけにいかぬ。そのことは、君もよく知つてゐるとほりだ。人間のなかには河童の習慣を知つてゐる奴がゐるので、油斷はならぬ。仲間がたびたび遭難してゐる。傳説の掟はきびしくて、變更することができない。水かきのある平べたい足音は、よつぽど注意せぬと、地獄耳の人間に聞かれるおそれがあるし、おれたちが步いて行くと川風がかならずおこるし、おれたちの身體から發散する特有なにほひは、なんとしても消しがたい。そこで、この長い道中を、おれたちは主として水底を行つたのだ。
そんなとき、彼女がおれにしがみつくのだ。おれはびつくりする。しかし、白狀してもいいが、はじめはおれはうれしさで、ぞくぞくしたのだ。彼女がおれをどう思つてゐるのか、おれには皆目見當がたたないのだが、理由のいかんにしろ、彼女がおれにしがみつく、つまり、だきつくといふのは、おれに好意がなければ、できないことぢやあるまいか。君だつて、さう思ふだらう。……また、君は睨んでゐるな。早合點せずに聞けよ。……おれはだきつかれて、身ぶるひする思ひがした。ふつくらとゆたかな女の體溫が、おれの心臟までとどく氣がする。女の身體がぴつたりとおれに密着してゐる。しつかりとおれにだきついてゐる。もつとも、そんなときでも彼女は蓮葉の小筥をはなさないのだから、片手がおれの身體を卷いてゐるわけなのだが。
機會の到來がおれを興奮させた。おれの誠意が彼女に通じたのだ。彼女は、しかし、これまでおれへつらく當つて來たことをてれて、唐突な愛情の表現で、おれの求愛にこたへようとしたのだ。おれはさう信じた。たれもゐない水底で、しつかりと女にだきつかれれば、たれだつてさう思はうぢやないか。おれも思つた。おれは身體中の血がたぎつて來た。そして、女の表現にこたへるために、彼女を抱擁し、接吻し、そして、さらにもつとふかい結合をしたいと思つた。
ところが、なんとしたことか。おれが彼女を抱かうとして、滿足の眼を彼女の顏にそそいだ瞬間、おれの心臟はとつぜん冷却した。恐怖に靑ざめてゐる彼女の顏、眼はひきつり、嘴はふるへ、頭髮はぶるぶるとゆらいでゐる。頭髮のみでなく、彼女の身體全體が小きざみにふるへてゐて、おれの身體とうちあつて、がちがちと鳴つてゐるのだ。どこにも愛情の表現などはない。さすがのおれも、助平根性をふりすてざるを得なかつた。
そして、こちらも奇妙に不安な氣特になつて、
「どうしたのかね、どうしたのかね」
と、うはづつた聲で聞いてゐた。
「あそこを見て」
彼女の恐怖におののくまなざしのつきささつてゐる場所に、おれも眼を轉じた。
もりあがつた岩と岩との間に、藻が森林のやうにつづき、そのうへをいくつかの菱の實が黑豆のやうにただよつてゐる。おれたちが行くと、魚たちは退散してしまふので、岩のうへに、一匹の源五郎がゐるほか、魚の姿も見えない。白晝の光があかるく全體をかがやかしてゐる。それだけのありふれた川底の風景にすぎぬ。とりたてて不思議なものも、まして、彼女が恐怖に靑ざめるやうなものは、なにもない。おれは氣あひぬけがしたが、やさしい聲で、
「なんにもありはしないよ」
と、なぐさめるやうにいつた。
「ほんとに、なんにも見えないの?」
「恐しいものなんて、小豆(あづき)粒ほどもないよ」
「ほんとに」彼女はほつとしたやうに、「もう見えない。消えてしまつたわ」
「消えた? さつきはなにかあつたのかね」
「いいのよ。あんたが見なかつたら。……さ、すこし急ぎませう」
かういふことが、たびたびあつた。
それからでも、いきなりしがみつかれると、やつぱり、未練なおれは、もしやと思ふのだが、いつの場合でも、彼女がなにかの幻影におびえてゐるだけで、おれの願望は果されなかつた。
それにしても、彼女はなにを見てゐるのだらうか。いくら眼をこらしても、おれは彼女の見てゐるものを理解することができなかつた。
「あれが見えないの、怖い、怖い」
囈言(うはごと)のやうに、さう叫んで指さしてゐるときでも、おれの眼には平凡な水底の風景しかうつらないのだ。
步いてゐるときだけではなく、彼女は眠つてゐるときでも、なにかにおびやかされ、魘(うな)される。恐しい夢を見てゐるやうに、呻き聲を發し、眼をひきつらせ、七轉八倒する。しきりに、なにごとか口走るが、その意味は、どうしても聞きとれない。いまにも死ぬかと思はれるやうなときがあつて、おれがゆりおこすと、きよとんと意識づき、はつとしたやうに、蓮葉の筥をだきしめる。おれの顏を疑ひぶかさうにながめ、ふいに、につこり媚態を示す。
なんの亡靈に惱まされてゐるのか? もとより、おれにわからう筈もない。しかし、彼女の祕密が、ともかく、狂氣じみた守りやうで、肌身はなさぬ蓮葉の筥にあることは、もはや疑ふ餘地はないと思つた。
「臍無沼に行つても、伯父さんがゐるかどうかわからない。でも、行かなくてはならないの。租先からの動かしがたい戒律が、あたしにさういふ宿命をつくつてゐるの。この重い運命に耐へなければならないわ。あたしはもし伯父さんがゐなくても、その絶望と、もう一度たたかつてみるつもりなのよ」
彼女の言葉の眞の意味はなんであらうか。深刻すぎて、おれにわかる筈もないのだが、その崇高な女の決意は、すこぶるおれを感動させた。その女の悲しさは、彼女をきらに美しく見せ、おれの慕情をいやがうへにも燃えたたせた。さうして、同時に、すべての彼女の精紳と肉體の祕密をあかす鍵が、蓮葉の筥にあることも確信するとともに、おれはもうその筥になにが入つてゐるかを知りたくてたまらなくなつて來た。出發以來の彼女のすべての行動が、ことごとく小筥につながつてゐるにちがひないことを、どうして疑ふことができよう。
おれは、やがて、狡猾(かうくわつ)のこころで、女の祕密をのぞく機會を待つた。同時に、祕密にむすびつけられてゐる彼女のすべての行爲が、さらに魅惑的となつて、彼女の美しさをいちだんと增した。いまや、おれ自身の精神と肉體とのどんな感度も、反應も、もはや彼女ときりはなしては(といふことは、春秋の筆法ではないが、小筥ときりはなしては)考へられなくなり、意味をなさなくなつたのだ。
なにが入つてゐるかと聞いてさへ、氣色を損じるのだから、彼女の口から語らせることの不可能はいふまでもない。とすれば、自分で中をのぞく以外に、手段はないわけだ。ところが、彼女が肉體の一部のやうに、常住、筥をはなさぬので、目的達成の困難ははかり知れぬものがあつた。――それにしても、彼女がほとんど死守してゐるこの玉手箱には、いつたい、なにが入つてゐるのだらうか? わからねばわからぬはど、考へてみたいが人情だ。おれはいろいろと考へめぐらした。その想像は樂しかつた。戀人の美しさと魅力の根源となつてゐるものをつきとめる。彼女の幻影の正體を知る。これ以上、惚れた者としての滿足のないことば、君にもわからう。松王丸の首實驗のやうな野暮なものである筈はない。パンドラの匣(はこ)に似てゐるか? サンタ・クロスの靴下か? それとも、人間の尻子玉(しりこだま)か? うかつに斷定できぬ。「ベニスの商人」の宮廷で、皇女の求婚者たちが、金、銀、鉛、三つの箱をえらぶ。髭もじやのモロッコ王は、金の箱に眼がくらんで失敗した。鉛の箱が幸運の使者であつた。いまは、自分の戀人の筥は一つしかない。迷ふところはない。機會を待つだけだ。……おれはそのときのことを考へ、顏はほてり、動悸はうち、苦しく、樂しく、さうして、いつか、せつなく、なにかにむかつて祈つてゐた。
「やつと、半分來たわね。あなたのおかげよ。ひとりでなら、とても、一日も步けやしなかつたわ。お禮いふわ」
「そんな水くさいことはいはないで貰ひたいな。あなたを守るのは、僕の義務なんだ。どこまででも、あなたのお伴をして行くよ」
「ほんとに、あなた、親切だわ」
ふつと、彼女が淚ぐんだやうな氣がした。旅のつかれで、強氣の彼女もいくらか氣弱になつてゐたのであらうか。
感傷は生理の狀態に關係ぶかいもののやうに思はれる。
「僕は幸福だと思つてゐるのだよ」と、おれはいくらか圖に乘つて、「あなたのお役に立てたこと、生涯の滿足だ。僕は僕だけのありたけのまごころと、……それから、……愛情とを」この愛情といふ言葉がなかなか出なかつた。出てしまふと、一瀉千里(いつしやせんり)、「あなただけにさきげて來たんだ。これまでだつて、さうだつたし、これからだつて變らない。金輪際(こんりんざい)、僕の心はかはらない。あなたが僕をどう思つてゐたつて、そんなことはどうだつていいんだ。そりや、僕はあなたから愛されたいと思ふ。しかし、そんなことを強要しようとは思はないし、たとへ輕蔑されても本望なんだ。愛は惜しみなく奪ふのではなくて、與ふなんだ。僕は、そりや、一度でも、あなたの抱擁を得られたなら……」
このとき、彼女はおれをひしと抱いた。幸福で、おれは眼まひを感じた。いま、このままの姿勢で、消えてなくなるならなくなれ。そんなに、きらきら眼を光らすな。いちいち、うるさい男だ。彼女はなにもおれの愛情をうけ入れたわけぢやなかつたんだ。やつぱり、あれだつたんだ。いい氣になつたおれは、彼女の唇を盜まうとしたんだが、なんだ、やつぱり彼女はまた幻影におびえてゐたんだ。おれなんか見てゐやしない。そのときは森のなかにゐたが、あらぬ天の一角を凝視して、ふるへてゐる。
おれはがつかりして、手をはなした。
つひに、宿望の筥をかいま見るときがおとづれた。
半分來た旅路ののこり半分を、また半分ほどすぎた或る夕方のこと、おれたちは、すこし流れの早くなつた川岸にゐた。そこは人跡まれなふかい溪谷で、西側はきりたつた崖壁が屛風をつらねたやうにつづいてゐる場所だつたので、全く人間に顧慮する要がなかつた。水中の旅もたのしいが、幽邃(ゆうすゐ)の地上の行程も、またすてがたい。人間への危險がなければ、畢調な水底よりも、どちらかといふと、地上の方がよい。おれたらは、その二日ほどは、陸上が多く、猿が崖のうへを群れとんでゐるその深い溪谷の曲り角に來て、ひとやすみしたのであつた。
さすがに彼女の面輪(おもわ)にはつかれが見えてゐた。こころもち、頰がくぼみ、ふさふさした髮がみだれて、太陽や水の光線にしたがつて、濃淡のあやを敏感にうつしだすべール・エムロードいろの甲羅のほそい網目模樣も、どこかにゆるみが來、その何枚かはよごれ乾いてゐた。また、いつどこで打つたのか、眉や膝や股にかすり傷ができ、鮑(あはび)の裏のやうに光つてゐた瀟洒(せうしや)な嘴も、いろがあせて見えるうへに、缺けてゐるところがあつた。しかし、美しいものは、どんな變化もまた別の美しさに見えるものだ。それとも、惚れた眼には、あばたもえくぼといふあれか。おれはさういふ彼女へさらに慕情が高まるばかりで、岩鼻にちよこんと腰をおろし、猫背になつた姿勢で、もの思はしげなうつろな眼を、とき折白い飛沫をたてる流れへじっと投げてゐる女のすがたを、ほれぼれとながめてゐた。
夕やけ雲からさそひだされた、たそがれの光りが、崖の間をぬひ、そのなかに蝙蝠(こうもり)がとびかひはじめたとき、彼女がふいと立ちあがつた。
「ちよつと」
その表情と言葉とは、放をつづけてゐて馴れてゐた。彼女は便意をもよほしたのだ。大小はわからないが、淑女であるから、おれの眼のとどかぬところへ行くのは論をまたぬ。
「どうぞ」
いつものとほりさういつたが、いつもでないことが起つた。
「これ、ここに置いとくわ。腕がつかれて、もう持つて用たしができさうもないの。張り番しててね」
なにを思つたのか、彼女はこれまで肌身をはなきなかつた蓮葉の小筥を、いままで腰をおろしてゐた岩のうへに、そつと置いた。
「大丈夫だよ」
おれは内心しめたと、胸をどきどきさせながら、なにげない樣子で答へた。
「お願ひするわ」と行きかけたが、何步もゆかぬうち、ひきかへして來て、
「あなた、これ、見ないでね」
と、おれを睨むやうにした。
「見るもんか。君の禁止令には、もう最初から服從してるぢやないか」
「きつとよ」
彼女のやさしい眼は、まるでくるりと眼玉をいれかへたやうに邪慳(じやけん)に變り、猜疑と脅迫のつめたい光が、ぞつとするするどさで、おれの顏をつきさした。もし見でもしたら承知せぬ、どんなことになるかわからないぞ――その眼はたしかにさう語つてゐた。にもかかはらず、愚かなおれは、そのときになつても、まだ、その眼すら美しいなどと考へてゐたのだ。
「見やしないよ。安心して行きたまへ」
おれは、こんな筥問題でないといふやうにいつた。[やぶちゃん注:「筥問題でない」はママ。「筥、問題ではない」。]
彼女はふりかへりふりかへり、蔦(つた)のはひのぼつてゐる岩壁のかげに消えた。
この機を逸してよからうか。おれはもうほとんど逆上狀態といつてもよかつた。冒險への志向はひとを勇者にするが、盲目にもする。おれは自分の裏ぎりを彼女へ發見された場合、どんなことになるのか、明確な算定はすこしもできてゐなかつた。しかし、もうおれの恣意(しい)は計畫をこえてゐた。同時に、この祕密を知ることによつて、女の根源のものを、愛情のかたちに還元し得る。ああ、むづかしいいひかたはすまい。白狀してしまつていい。おれは祕密を知ることによつて、女の心を自分にひきつける方策を確立し得ると思つたのだ。そして、……ええ、これも白狀してしまへ。……もし發見されたとしても、女が自分へ危害を加へるどころか、祕密をにぎられた弱味で、かへつて急速に自分になびく結果になるのではないか。さういふ蟲のよい計算ができてゐたのだ。
それにしても、宿望たる小筥をひらく機會にめぐりあつたことで、おれは興奮でふるへた。すばやく、おれは綠の小筥に手をかけた。手もふるへた。
ところが、まんまと失敗したのだ。手をかけるのと、かへつて來る足音がきこえるのとが同時で、おれははつと手をひいた。素知らぬ顏になつて、膝をだき、はるか高い崖のうへを走る猿の群を見た。
「あなた!」
はげしくするどい氷のやうな聲に、おれはぎくつとふりむいた。怒りにみちた眼がおれをまつすぐに見くだしてゐた。
「なんだい」
「あんなに見てはいけないといつたのに、見なさつたわね」
「冗談いふなよ。見るもんか。おれはそんな噓つきぢやないよ」
「それでも、あたしが筥の角を、この岩の條目(すぢめ)にあはせて行つたのに、動いてゐるわ」
おれは返事ができなかつた。彼女の筥への執着と、綿密な警戒心にあきれるばかりで、ただ、見ない、見ない、とくり返すほかなかつた。仔細に筥を點檢してゐた彼女も、やつと、中を見られてゐないことを知つた模樣で、安心した顏つきになると、
「ごらんになつてはゐないやうね。疑つてすまなかつたわ。ごめんなさい」
と、機嫌をとるやうに、握手をもとめて來た。
しかし、おれは、もう、意地になつてゐた。狂氣じみた好奇と、奇妙な復讐めいた觀念にとらはれてゐた。そして、その翌日のたそがれどき、同じやうな場所で、同じやうな狀態がおとずれたとき、たうとう筥のなかを見てしまつたのだ。
例によつて見るなと念をおして、排泄(はいせつ)のため去つたあと、ふるへる手つきで、必死の氣組でおしひらいたその蓮葉の小筥なかには、なんと、なんにも入つてはゐなかつた。正眞正銘のからつぽだつた。[やぶちゃん注:「小筥なかには」はママ。「小筥のなかには」の脱字であろう。]
どうだ。はじめに、おれのいつたことがわかつただらう。なんとつまらぬ女ぢやないか。深刻さうに見えたばかりで、なんにもありはしなかつたんだ。おれは白けはてて、いつペんに女への關心がさめてしまつたのだ。君だつて、さうだらう。こんな女は問題にするにたらんぢやないか。君も忘れてしまつた方がいいよ。
お、なにをする? なにを亂暴するんだ。あいた! おい、やめろ! なにをするんだ。わけをいへ。……なに? ――貴様はこんな話をして、おれを女から遠ざけて、自分が獨占するつもりだらう、つて? 筥を見てから、いつそう女が好きになつたんだらう、つて? ちがふよ。らがふよ。なにを誤解してるんだ。……あいた、亂暴はやめろ。そんな無茶な。話せば、わかる。……話してもわからぬ? 畜生、たうとう看破されたか。案外、貴樣は頭のいい奴だ。おう、白狀してもいい。あの女はおれのものだ。貴樣なんかにとられてたまるもんか……くそ、力の強い奴だ。よし、來い。相手になつてやる。……ええい、うぬ、これでもくらへ!……畜生、……あいた、やりやがつたな。この鳶口野郎奴! うぬ!……
[やぶちゃん注:本篇は実際には底本の「河童曼荼羅」では、既に公開した「梅林の宴」と「水紋」の間にある。これは私のある誤った馬鹿げた認識から電子化を後回しにしていたに過ぎない。
なお、これまでの本底本では、各小説の前に各方面の火野の知り合いであった作家・画家・文化人の河童の挿絵が挿入されているのであるが、その殆んどがパブリック・ドメインではなかったため、それを画像化していなかったが、今回は中村地平で(挿絵には「地」のサインがあり、絵の下には底本では『中村地平 畫』とキャプションがあるが、編集権侵害をしないように除去した)。彼は著作権満了であるので(以下の没年参照)、今回は添えた。
中村地平(ちへい 明治四一(一九〇八)年~昭和三八(一九六三)年)は宮崎県出身の小説家で銀行家(宮崎相互銀行(現在の宮崎太陽銀行)社長)。本名、中村治兵衛。台湾総督府立台北高等学校卒業後、東京帝国大学文学部美術史科に入学、入学試験の会場で太宰治と知り合った。学生時代の昭和七(一九三二)年に「熱帯柳の種子」を発表、やがて井伏鱒二に師事して太宰治・小山祐士とともに井伏門下の三羽烏と称せられたが、後に『日本浪曼派』運営の齟齬その他で太宰とは絶交した。大学卒業後は『都新聞』(現在の東京新聞)に入社、昭和一二(一九三七)年に発表した「土竜どんもぽっくり」は芥川賞候補にノミネートされ、翌年にも「南方郵信」で芥川賞候補となり、所謂、南方文学の旗手として注目された。戦後は『日向日日新聞』(現在の宮崎日日新聞社)編集総務や西部図書株式会社の設立に関わり、宮崎県立図書館長を勤めたりもしたが、晩年は父の跡を継いで、宮崎相互銀行社長に就任した。彼には民話集「河童の遠征」(昭和一九(一九四四)年翼賛出版協會「新民話叢書」刊)がある(以上はウィキの「中村地平」に拠った)。
本小説の発表は冒頭のメチル云々から見ても、戦後の作であり、ネット上の書誌データを見る限りでは昭和二一(一九四九)年四月以前の作である。
本電子化は私のブログ「鬼火~日々の迷走」の開設十二周年記念及び2006年5月18日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来、本ブログがブログ970000アクセス突破記念(気が付いたら、昨日、一日で5000越えのアクセスをされていた)として公開した。【2017年7月6日 藪野直史】]
酒の害について
かすかな風が芒(すすき)の穗を光らせる。沼からつづいてゐる窪地は土堤(どて)のかげになつてゐて、道路からは見えない。そこで五匹の河童が酒宴をひらいてゐた。もうだいぶん早くからはじめてゐるらしく、酒量によつて差はあるが、ほろ醉ひ、なま醉ひ、微醺(びくん)、べろべろ、くにやくにやとその形がみだれてゐた。このごろの人間世界の酒はうすくなつたり、ひどいのになるとメチルがあつて死におとし入れたりするといふことで、人間の墮落がそんな面にもよくあらはれてゐたが、河童の世界ではそんな心配はなかつた。長年月の醱酵(はつこう)を必要とする猿酒はさうたやすく手に入らぬが、茄子と胡瓜とを原料にし、これに尻子玉(しりこだま)の精分をそそぎこむ草酒は時折は口にすることができるので、河童たちは交歡にこと缺くことはなかつた。尤もいつでも誰でも入手できるといふのではない。やはりその製造の祕訣を知つてゐる者があつて、口傳と手練でこれを傳へてゐるのだから、その專門家のところへは多量の交換物資、主として川魚を必要とした。だから川魚の捕獲の下手な者、不精な者は草酒にありつけない。だから河童たちがのべつに宴會をしてゐるといふわけのものでもなかつた。
さて、ここにゐる五匹の河童はその飮みぶりといひ、現さといか、仲間でも名だたるもののやうに思はれた。くにやくにやは額に傷をしてゐる大河童、べろべろは大あぐらをかいた肥大(ひだい)河童、後席はひよろ高い瘦せ河童、なま醉ひはちんちくりんの小河童、ほろ醉ひは眼のほそい鼻孔の大きな老河童、それだけ聲色もちがひ、身ぶり手まねには癖があり、どうやらひとかどの者たちのごとく見うけられる。
秋の陽ざしはやはらかくこのたのしげな酒宴のうへにそそぎ、蜻蛉(とんぼ)がときどき芒の穗にとまる以外に、この場をみだすものもない。しかしながらこの酒宴の一見たのしげな外見のなかに、どこかただならぬ空氣、なにやらただよふ殺氣、陰險さ、警戒心、さういふものが感じられて、飛んで來る蜻蛉はあわてて逃げてゆく模樣だつた。何故なら河童の喧嘩の飛ばちりを食つて非業の最後をとげた者が少くないからである。半分にわられた瓢の盃がぐるぐるまはる。かたはらのまんまんと幾つかの石桶のなかにたたへられてゐる綠色の酒は時間とともに減つてゆく。山盛りにされた魚がかたはしから骨になる。
「なんとも大した御馳走で恐縮です」
ちんちくりんの小河童が舌鼓をうちながら、石の上へ腰をおろしてゐる老河童に聲をかける。
「いやこんなに存分にいだいたことは初めてです。盆と正月とが一緒に來たやうです」
瘦せ河童がさういへば、
「わたしはとんと川魚取りが下手で、このところ好きな草酒にも緣が切れてゐたのに、こんな大盤ふるまひにあづかるとは、これで百年も長生きした氣がします」
「人間のやうに惡辣な奴は河童には居らんから、いくら飮んでも命に別條はない。ああ、ええ氣持ぢや。河童音頭でも歌はうかい」
「いや、そんなに皆さんがよろこんでくれれば、わたしもおよびした甲斐がある。さあさあ、今日はとことんまでやつて下さい。まだまだこれくらゐのことでは飮んだうちには入らない。……さあ、注がう」
どうやら今日の宴會は鼻孔の大きな老河童の招待のやうだつた。老河童はしきりにもてなしながら、ときどきぢろりと四匹の河童たらの顏色をうかがび、なにやら陰險な目つきで妙なうなづきかたをしてゐた。
河童たちはぐにやぐにやしたり、ゆらゆらしたりするが、頭だけはいつもまつすぐにしてゐた。頭を斜にして皿をかたむけては大切な水が流れ出る。皿の水は河童の生命であるから、うつかり流すことはできない。ちやうど首だけが垂直に天からつりさげられてゐるやうに、身輕がどんなにくづれみだれても、傾斜しないのである。
老河童はすこしあせつて來た。
「さあ、どんどんおあがり」
立ちあがつて、酒をついでまはる。
「遠慮なしにいただきます」
「あなたもどうぞ」
「やい、盛りが惡いぞ」
「もつたいない。こぼすな」
それぞれに醉態がはげしくなり、言葉づかひも亂暴になつて來た。
老河童はもつともちんちくりんの小河童に注目してゐた。身體は小さいが、この小河童が仲間のあひだで尊敬され、この小河童のいふことなら、厄介なつむじ曲りである他の三匹もきくことを知つてゐるからである。小河童の醉ひかげんをはかることが老河童の目的で、つねに小河童への注意をおこたらなかつた。
陽ざしが芒の影をすこしづつ西から東へ移動させる。頃あひよしと觀察した。
老河童は石のうへに立つと、
「さて皆さん」とあらたまつた聲をかけた。
八つの醉眼が彼の方にむけられた。
「ところで、酒の味はいかがですか」
「たいへん結構」
「世界一です」
「いまごろなにいふか。わかりきつたこといふな」
「話はやめて歌へ」
「皆さんがさういつて下さるので、わたしも安堵しました。實はこれだけの酒をあつめるのは容易なことではなかつた。部下の者を總動員して川魚狩りをし、沼の酒屋には大車輪で製造をさせた。胡瓜や茄子はいくらでも手にはいるが、當節尻子玉の精分はなかなか拂底して居る。これも金に糸目をつけず取りよせさせた。幸ひ大洪水で土左衞門が大量にできた。天われに惠みをたれ給うたのです。他の證文はみんなことわつて、本日の宴會のための草酒をこしらへたのですよ。どうです、すばらしいでせう」
「すばらしいことです」
「そんなにまでとは思ひませんでした」
「恩に着せるな」
「講釋はやめとけ」
「恩に着せるといふわけでもないのぢやが、まづ大體わたしの苦心も買つてはもらひたいですな。これだけわたしが熱意を傾けて、皆さんに奉仕した氣持を知つてもらへればいいのです」
「わかりました」
「御厚意は忘れませんよ」
「てへ、苦心がきいてあきれら」
「それでどうぢやちゆうのか」
「日ごろ皆さんがそれぞれ立派な意見を持つて居ること、力を持つて居ること、仕事のできること、大いに尊敬してゐます。皆さんはこの口無沼(くちなしぬま)の誇りといつてもいいくらゐです」
「そんなことはありませんよ」
「それは買ひかぶりです」
「おだてるねえ」
「皮肉をぬかしやがる」
「けつしておだてでも皮肉でもない。わたしは事實を申すだけです。皆さんが立派であるやうに、この沼全體が立派であるとうれしいのぢやが、さうでないのがいきさか殘念です。長老として非才のわたしを、皆さんが立てて下さることが、わたしは心苦しいくらゐです。それはいくらか皆さんと意見の相違もあり、そのことを心外にも存じて居りましたが、かうして打ちとけて酒をくみかはす日の來ましたことを、なによりうれしく存じて居る。前に何度もおまねきしたのに來てくれなかつたので、わたしもいささか氣に入らなかつたが、いや昔のことはもうどうでもよい。今日こんなにして來て下さつたのだから、もう皆さんはわたしの友達です。すつかり十年の知己(ちき)になりました。かうしてわたしの獻立(こんだて)に皆さんが滿足して下さつた以上は、わたしと深いつながりができました。そして皆さんがわたしの招待に感謝してくれる氣持がよくわかりました。つまり皆さんがわたしのいふことをきいて下さることがわかつたのです」
「どういふことですか」
「いふことをきく? 例のことですか」
「變てこなこといふな」
「なんでもいつてみやがれ」
「わたしはこの口無沼の發展のために、皆さんがわたしの意見に賛成して下さることを望むのです。われわれの故郷である口無沼の發展を、皆さんが反對だと思ひません。否、人いちばいこの沼の發展を望んでゐるにちがひないと思つてゐます」
「それは望んでゐます」
「わかりきつたことですよ」
「へん、また初めやがつたな」
「陰謀屋」
「陰謀とは心外です。この口無沼の發展のために、橫暴、傲慢、惡逆、出たらめ、けちんぼ、鼻無沼の奴原(やつばら)を征伐することが絶對に必要です。でなかつたら、あべこべに鼻無沼の方からやられる。奴等は虎視耽々(こしたんたん)として、われわれの沼を狙つて居る。わたしは常にこのことを主張し、未然にこれを防ぎたいと皆さんにはかるが、皆さんは賛成されない。他の連中はいつでもわたしの號令ひとつで動くといふのに、皆さんだけが反對された。わたしには皆さんの考へがわからない。皆さんには愛沼心がない。なるほど、皆さんのいふやうに爭ひを強ひておこすことはまちがひです。しかし默つて居れば相手からやられるとわかつてゐるのに、沈默してゐるのに、それは思慮といふものではない。怯儒(けふだ)、卑怯、腰拔け、さうではありませんか」
「すこし意見がちがひます」
「もうあなたの持論はききあきました」
「なに、腰拔け? もう一ぺんいつてみろ」
「ぬかしやがつたな。たたき殺すぞ」
「今日はわたしの苦心の御馳走で、皆さんは大いに滿腹された。わたしの饗應は氣まぐれではない。皆さんと胸襟をひらき、友だちとなり、共同の目的のために共同の行動をやりたいと思つたのです。まだ飮み足りないのですか。さあ、どんどん飮んで下さい。皆さんの酒豪はわかつてゐますから、そのつもりで用意してあります。大いに飮み、胸襟をひらいて下さい。きつとわたしの意見の正しさがわかり、賛成するやうになりませう。……さ、どんどんあけなさつて……」
「酒は頂戴します。しかし意見に賛成はいたしません。何度おつしやつても同じです。あなたのいふことは表面はたいへん立派です。しかしあなたの本心がどこにあるかは、つとにわれわれの看破するところです。あなたはこの沼の幸福と發展などにはなにも興味はないのです。仲間のことなどなにも考へてゐない。自分一個の利慾、エゴイズム、陰謀です。あなたが自分の商賣のことで、鼻無沼といきさつのできてゐること、そんなことはわたしたちはすべて存じてゐるのです。あなたは自分一個の利益のために、沼全體の仲間を不幸におとし入れようとたくらんでゐるのです。あなたのその惡心をわれわれが知つてゐるので、あなたはわたしたちが煙たくてならなかつた。わたしたちが反對したら、仲間もあなたのいふことをきかない。そこであなたはわたしたちを籠絡(ろうらく)しようと考へた。酒好きのわたしたちに鱈腹酒をのませて、それを恩に着せてわたしたらを説伏しようとなさつた。わたしたちはよばれたときから、あなたの下心を知つてゐました。いくら酒をのましても、わたしたちの意見はらつとも變りません。饗應で手なづけようとしても駄目です」
老河童は眼をほそめ、不機嫌さうに大きな鼻孔を鳴らした。相當に醉つてゐる癖に、はつきりと自分の意見をいふ小河童をいまいましげに見た。が俄に相好をくづし、わざとらしい作り笑かをたたへて、瓢の盃をとりあげた。
「いや、むつかしい話はやめにしませう。酒の席に鹿爪らしい強談義はふさはしくない。さあ、どんどん飮みませう。わたしとしたことが座興をこはしてしまつて。……わたしも酩酊(めいてい)したとみえますな。どうも酒といふ奴はものごとを狂はせます。さ、注ぎませう。やつぱり噂にきいた飮み手ばかり、いやはや見事なものですな」
「頂戴いたします」
「徹底するまでやります」
「ふん、ざま見やがれ」
「なんぼでも持つて來い」
失敗した老河童の心に新な惡心がわいた。憎惡に燃えた老河童はこの四匹の河童たちの命を奪はうと決心した。もう仲間につけようといふ意圖は完全に抛棄(はうき)したのである。命を奪ふといつても直に手を下すのはまづい。またそれは到底できない相談である。そこでどんどん酒をすすめ醉ひつぶさうと考へた。酒をすすめることに疑念の生ずる餘地はない。いかに酒豪とはいへ、體力には限度がある。いつかはつぶれるにちがひない。さすれば自然に身體が橫になり、頭の皿の水が流れ出して、無意識のうちに命を失つてしまふ。それは自業自得で、自分に罪はかぶせられない。こんな巧妙な殺人法はない。にたりとほくそ笑んだ老河童は、まるで口のなかにおしこむやうにして、酒をすすめだした。河童たちは何の警戒心もなくがぶがぶと飮み、ぐにやぐにや、でれでれ、ふらふらと身體を振りはじめた。老河童はぎらりと眼を光らせ、その效果をたしかめるやうに、陰險なまなざしで、不愉快な河童たちの醉態に注目してゐた。
空にわたる風がたそがれの色をさそひだし、陽(ひ)のかげはしだいに長く土堤のうへにたなびいた。にもかかはらず、河童の饗宴ははてもない。老河童はすこし焦(じ)れて來た。小首をひねつた。こんなことがあるだらうか。期待はまつたくはづれたのである。小河童、大河童、瘦せ河童、肥え河童、醉ひぷりはそれぞれちがひながら、共通してゐることが一つあつた。それはどんなに身體をくづしても、けつして頭の位置を變へないことである。皿の水の流れ出ないやうに頭をまつすぐにしたまま、あたかも中天から首だけを吊り下げてゐるに異らない。酒のために精神を錯亂させようと考へてゐたのに、かへつていよいよその精神はみがかれて、その智慧が河童を支へてゐるもののやうだつた。瘦せ河童が眠りはじめた。しめたと老河童は思はず片唾をのんだ。しかし眠つた河童は木の幹にもたれ、頭の皿はまつすぐだつた。早く醉はせようとつとめた老河童は返酬(へんしう)の酒に、思はず自分も度をすごしてゐた。そして眠氣をもよほし、いつか、窪地に長く橫たはつてゐた。傾いた頭の皿から、水が流れ出た。なほも酒豪河童の饗宴は芒のかげの消えるのも知らずつづけられた。
[やぶちゃん注:これは本来は底本の「皿」の後に入る(意図はなく、ただ単にうっかり電子化を落してしまっただけである)。
ネタバレを避けるために、注は本文の当該段落の後に附した。
本電子化は、昨日、2006年5月18日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来、本ブログが960000アクセスを突破した記念として公開する。【2017年6月17日 藪野直史】]
梅林の宴
野から、村から、山から、そのどよめきはおこつた。そして、とめどがなく、あまりにもけたたましすぎて、はじめはなんのことやらまつたく意味がわからなかつたほどである。革命がおこつたのかと考へた者もあつた。或ひは女のための出入りかと思つた者もある。一人の美しい女のために國が傾いたり、國と國とが戰爭したりする例はこれまでたくさんあつたし、その騷擾(さうぜう)のなかからはしばしば女の金切聲がきこえて來たからである。さうでないとわかると、ヤクザどもの出入りかと想像された。無知な博徒たちが繩張といふ勝手な勢力圈をこしらへて、一宿一飯の奇妙な仁義(じんぎ)をふりまはし、無意味に命のやりとりをする事件も、これまでうんざりするほどくりかへされたからであつた。しかし、そのどよめきは以上のどれでもなかつた。以上の三つのどれとも異つた悲壯で悽慘な趣を呈してゐた。
ときに春がおとづれる季節であつたため、すでに雪のとけた大地からはきまざまの花が咲きいで、雲にも、村にも、山にも、鳥は樂しげにさへづつてゐた。まだ櫻は咲かなかつたが、梅はいたるところに紅く白くその高雅な花をひらき、馥郁(ふくいく)とした香をはるか遠くにまで放つて、これまで寒さにふるへてゐた人里に陶然(たうぜん)の風を吹き入れはじめたころなのである。每年の例からすれば、貧しい農家からもゆつたりとした歌聲がきこえ、梅林(ばいりん)に集まつた人間たちが一升德利から酒くみかはして、おどけた踊りで日の暮れるのを忘れるときなのである。ところが、今年は樣相が一變してゐた。筑豐(ちくほう)の野におとづれた春の姿は毎年と少しも變らなかつたのに、これを迎へる人間たちの方がまつたく變つてゐたのである。
香春岳(かはらだけ)のふもとにある梅林に、紅白の花は撩亂(れうらん)と咲きいでても誰一人おとづれる者はなく、まして酒盛りなどの氣配もなかつた。このため河童たちが梅林で宴をひらく宿望を達することができたのである。先祖代々、蓮根畑といつた方がよい泥水の宮下池に棲みなれてゐた河童たちは、いつか一度は香春(かはら)の梅林で一杯やりたいと念願してゐた。しかし、毎年蕾(つぼみ)が咲きはじめてから散つてしまふまで、人間たらに占領されづくめで、その希望がはたされたことがなかつた。今年は大いばりでそれができた。蕾のときは無論のこと、どんなに紅白の花が咲きみだれても人間どもの姿はまつたくあらはれず、まるでこの美しい梅林を突然忘れ去つてしまつたやうな觀さへあつた。
[やぶちゃん注:「香春岳」(現代仮名遣では「かわらだけ」)は現在の福岡県田川郡香春町にある三連山で構成された山塊を指す。ウィキの「香春岳」によれば、地元では「香春岳」とは呼ばず、「一ノ岳」・「二ノ岳」・「三ノ岳」それぞれを分けて呼ぶことが多いという。最高峰は三ノ岳で標高五〇八・七メートルである。ここ(グーグル・マップ・データ)。]
「どうも變てこだね」
と、一匹の河童がおいしさうに、蓮根酒の盃をかたむけながら、小首をひねつた。
「たしかに變てこだ」と他の一匹が答へた。
「人間どもの考へてゐることはさつばりわからん。しかし、おかげでおれたちは幸(しあは)せした」
「さうだ。いつかはこんな日を迎へたいと、寢言にまで話してゐたからな」
「命がのぴるよ」
「うん、來年もこんな風だとええな」
「だけど、どうして今年は人間どもが梅の花なんか見向きもせんのぢやらうか」
「そんなこた、どうでもええぢやないか。どうせ人間世界なんて、おれたちと無關係なのだ。無關係なことに神經を使ふのは馬鹿げとる。おれたちは河童世界のことだけを考へとればええんぢや」
「わかつた。わかつた。人間のことなんか相手にせずに、大いにやらう」
河童たちの梅林の饗宴はいつ果てるとも知れなかつた。連日これをつづけても人間からさまたげられることがなかつた。
ところが、事態は急變した。人間どもと無關係だと超然としてゐたのに、はからずも河童たちはその人間の騷擾のなかに卷きこまれ、傳説の掟を破つて、人間とたたかはねばならぬ羽目におちいつたのである。
二
河童たちをおどろかせたけたたましいどよめきは農民と武士とのたたかひなのであつた。蓆旗(むしろばた)をおしたて、槍、鍬(くは)、竹槍などを持つた農民たちの一隊が、代官所を襲つて非道の代官をやつつけたところまでは景氣がよかつたのだが、城主のゐる町から討伐隊がかけつけて來ると、百姓たちは總くづれになつた。武士たちは刀劍をふりまはし、槍をしごき、鐡砲まで射ちかけたので、武藝の心得のない百姓たちはひとたまりもない。それでも必死になつて抵抗した。
今年は梅林に人間があらはれなかつた理由を、河童たちもすこしづつ理解するやうになつた。それはすでに長い間、香春岳のふもとに棲んで、すこしは人間世界の事情を知つてゐたからである。騷擾が野にも村にも山にもひろがると、河童たちも梅林へなど行けなくなつた。しきりに流彈が梅林にまで飛んで來て、幹につきささり、花を散らしてゐた。のみならず、梅林が戰場になつて、はげしい戰鬪の後、南軍が去つた後には、農民たちの屍骸が散りしいた梅の花のなかにころがつてゐたこともある。
蓮根池のなかで首だけ出して、河童たらはこの騷ぎをあきれた顏でながめてゐた。ときどき、ヒユーンと蜂のつぶやきのやうな音を立てて彈丸が頭上をすぎた。びつくりして水にもぐつた。しかし好奇心はおさへられず、またそつと頭を出す。ときどき、兩軍が池のほとりの道をあわただしげに走りすぎることもあつた。
「これは百姓一揆(き)といふもんぢやよ」
と一匹の河童がいつた。
「おれもさう考へる」と、他の一匹が答へた。「百姓たらは去年の暮ごろから蹶起(けつき)する下心ぢやつたらしいぞ。いま思ひ當る節がある。それで春になつて梅が咲いても、酒盛りどころぢやなかつたんぢやよ」
「代官所でもうすうすそのことを氣づいとつたにちがはん。さうでなかつたら、梅林から百姓を追つぱらつて、武士たちが遊び步くはずだ。今年は武士も梅林にあらはれなかつたのは、酒盛りの途中、女とたはむれるところを百姓に襲はれることを恐れてゐたのだとおれは思ふ」
「だが、百姓も一揆をおこすまでにはずゐぶん我慢をしたものよ。あんなに武士からいぢめられ、重い税金をとりたてられ、米をつくる百姓のくせに米は食へず、粟(あわ)、稗(ひえ)、豆、それに水を飮むやうな暮しだつたからな。梅林の酒盛りだつて、ヤケ酒みたいなところがあつたからな」
「さうとも、きうとも。どうせ武藝のたしなみのない百姓がどんなに武士に刀向かつたつて勝ち目はない。なんぼ徒黨を組んだところでタカが知れとる。それがわかつてゐながら立ちあがらずに居られなんだところが可哀さうだよ」
「見ろ。あんなに、武士からひどい目に合はされとる」
河童たちはおほむね農民へ同情的であつた。無論、河童たちに人間世界のからくりはわかるはずもなく、なぜ汗水たらして働く農民が一番みじめであるかといふ理由がさつぱりのみこめなかつた。城主の權力が絶對であつて、支配者が思ふままに農民を搾取(さくしゆ)できること、それに抵抗すれば重い罪になるといふことも容易に理解できなかつた。また、一揆を鎭壓に來た武士たちが同じ人間であるのに、まるで蟲けらでもひねりつぶすやうに、無造作に農民たちを殺し、多く殺すほど手柄になるといふことも不可解至極に思はれた。けれども、河童たちは農民の應援にまで出て行く氣はない。義憤は感じても、人間世界にかかはりを持たぬことが傳説の掟であつたし、好んで傷を求める愚もしたくなかつたのである。これまで人間と關係を生じて得になつたためしがなかつた。ヒユーマニズムは爆發させずに垣のこちら側においておく方が無難であると同時に、こころよい自己陶醉も感じる。蓮根池のなかで河童たちは橫暴な支配者へ怒りを燃やしながらも、池から出て行かうとはしなかつた。そして、やはり梅の散らぬ前に騷亂が終結することが河童たらのなによりの望みであつた。
三
「一揆ヲ退治スル功名」を武士たちは誰も狙(ねら)つてゐた。鎭定後の恩賞にあづかれば昇進の道もひらける。そこでできるだけ多く百姓どもを殺さうとし、その首領を捕へようとした。けれども文字どほり必死の農民たらは、正常な武藝は知らないが、命がけの奮鬪をして、あべこべに武士をたふすことが多かつた。武士のなかにも腰拔けはゐて、百姓の竹槍に芋刺しにされた。
討伐隊のなかに河童たちを瞠目(だうもく)させた一人の武士があつた。有馬藩中でも劍豪として知られた戸塚八左衞門である。そんなに身體は大きくなく、むしろ小柄といへるほどだが、その動作の敏捷で、太刀のひらめきの鋭さはおどろくばかりだつた。八左衞門が動きまはると、一揆はまるで大根か胡瓜のやうになで斬りにきれ、彼の周圍にはたちまち百姓たらの屍骸が山と積まれた。河童たちは百姓たらを哀れみ、百姓たちの勝利を祈つてゐたが、一週間ほどの後、一揆は鎭壓された。靜かになつた村の廣場で、一揆の首謀者十數人が磔(はりつけ)の刑に處せられた。その指揮をしてゐたのも戸塚八左衞門である。
[やぶちゃん注:「有馬藩」久留米藩は元和六(一六二〇)年から幕末まで摂津有馬氏が藩主を務めていたから、それを指しているとしか読めないが、香春は久留米からはあまりに距離があり、実際、同所は小倉藩の藩領であったと思われるので不審である。もし、私の理解(不審)に誤りがある場合は御教授戴けると嬉しい。
「戸塚八左衞門」不詳。彼が実在すれば、前の記載の不審も明らかとあるのだが。]
十數本の十字架が立てられ、百姓たちはそれにしばりつけられた。
「お上に刃向かふ不屆者ども、以後の見せしめに命の根をとめてくれる。誰でも彼でも政府の方針にしたがはぬ奴はこのとほりだぞ」
八左衞門はさういつて、十字架上の百姓から、竹矢來の外に押しよせて、歎きかなしんでゐる百姓の家族たちに視線をうつした。彼は城主への忠誠の念にあふれ、任務達成の快感にひたつてゐた。今回の一揆鎭壓における戸塚八左衞門の勳功は拔群である。彼は得意の絶頂にあつた。
八左衞門のするどい三角眼がぐるッと一巡して、その視線が蓮根池に向いたとき、河童たちはびつくりして、水中に沈んだ。自分たちを睨んだやうな氣がしたのである。
[やぶちゃん注:「三角眼」「さんかくめ」と読んでおく。
まぶたの外側がつり上がり、三角形の形になっている目¥のこと。]
「なにがなんでも、恐しい人間どもとは關係を結ばない方が得策だ」
誰もがさう思つてゐた。
それから數日後、大勢の人夫たちがどこからか莫大な土砂を運んで、宮下池のほとりにやつて來た。赤や黒の土を積みあげた車力や馬車が陸續としてつづいた。
「いつたい、なにことがはじまるのだらう」
「人間どものすることはわからない」
「なにをしても相手になるな」
河童たちは不安の面持でさきやきかはした。
土砂運搬隊を指揮してゐるのも戸塚八左衞門だつた。彼は藩主からその手腕を買はれ、新しい任務をさづけられたのである。
「ようし、早く池を埋めろ」
と、八左衞門は號令をくだした。
人夫たちはいつせいに運んで來た土砂を蓮根池に投げこみはじめた。土と人數とが多いので、あまりひろくもない池は見る見るうちに埋めたてられて行つた。
河童たちは仰天した。先祖代々からの棲家がうしなはれようとしてゐる。だんだん狹められて行く池の水の殘りの部分へ、右往左往して逃げて行きながら、河童たちはあまりのことに淚も出なかつた。まつたく人間どもの心はわからない。人夫となつて働いてゐるのはみんなこの村の百姓たちだ。ついこの間まで蓆旗を立て、鎌、鍬、竹槍をふるつて武士に反抗した百姓たちが、その敵の武士の手先になつて、唯々諾々(ゐゐだくだく)と命令にしたがつてゐる。河童たちは一揆の間、終始百姓たちに同情し、實際上の鷹援はしなかつたとしても、百姓たちの味方のつもりでゐた。それなのに、その百姓たちは河童のもつとも大切な住居を埋めたてて、追放しようとしてゐるのだ。
「こんな馬鹿なことがあるか」
河童たちはあきれ顏でブツブツと呟(つぶや)きあつたが、そんな河童の思惑などどこ吹く風かと、池は急速に野と化して行つた。
「よし、おれが交渉して來る」
つひに我慢しきれなくなつて、一郎坊が眉をあげた。
「賴む」
と、他の河童たちも異口同音にいつた。
人間どもの理不盡に對して、河童たちは團結してたたかふ勇氣はなかつた。梅林で酒盛りするときにはすぐ團結するが、人間とたたかふことは生命にかかはるので、おいそれと團結ができなかつたのである。それに、百姓一揆鎭壓における武士どものすさまじい暴力、刀、槍、鐡砲などの武器の恐しさを見たばかりだつたので、河童たちも躊躇せずには居られなかつたのであつた。誰も好んで危險に近よりたくはない。それで、一郎坊が交渉方を買つて出ると、ほつとした面持で、これに望みを托した。
一郎坊は思慮と勇氣に富む若者であつた。宮下池には大頭目は居らず、もと筑後川九千坊の二十七騎の一人であつた三百坊が、その昔の閲歷(えつれき)によつて、名目上の頭領となつてゐたが、元來が愚圖で、お人よしなので、統率力などはない。九千坊から破門同樣になつて、たわいもない蓮根池に左遷されるくらゐだから、その器(うつは)も知れてゐる。そこで、仲間うちには三百坊をしりぞけて、一郎坊を首領にいただかうと考へてゐる者もあつたほどである。その一郎坊なので、河童たちも大いに期待をかけた。
大きな石に腰をかけ、銀煙管でスパスパ煙草をくゆらしながら、人夫たちを監督してゐる戸塚八左衞門の前に、一郎坊は姿をあらはした。うやうやしく膝をつき、頭の皿の水がこぼれないやうに用心しながら、頭を下げた。
八左衞門は、突然、奇妙な動物が眼前に出現したので、三角眼をパチクリさせ、
「その方は何者だ?」
「河童でございます」
「なに、河童?」
「わたくしどもは、いま、埋めたてられて居ります宮下池に、先祖代々棲みなれて居ります河童です。お役人樣、お願ひでございます。わたくしどもの命から二番目の家をとりあげないで下さい。この池を埋めたてることを思ひとどまつて下さい」
「馬鹿なことを申すな。われわれにはこの土地が必要なのだ。殿の命(めい)によつてここに大馬場(だいばば)を作ることになつたのだが、この池が邪魔になる。よつて埋めたてるのになんの異存があるか」
「異存がございます。この池がなくなればわたくしどもは放浪しなくてはなりません。われわれ河童にとりましては一大事でござ小ます」
「ワッハッハッハッ、河童なんどのために、國家が決定した工事の中止ができるものか。いくらいつても駄目だ。歸れ、歸れ」
「歸りません。埋めたてを中止していただくまでは、ここを動きません。なにとぞ、お情を持ちまして、わたくしどもの大切な池を……」
「うるさい奴だなあ。政府の方針に楯(たて)をつくと容赦はせぬぞ」
「戸塚八左衞門樣、このとほり、頭を地につけまして、一同のため御歎願申しあげます」
「くどい」
その言葉と同時に、河童はあふむけにひつくりかへつた。背の甲羅にはげしい痛みをおぼえ、頭の皿から水が流れ出て氣が遠くなつた。さらに足や肩に火でも投げつけられたやうな疼(うづ)きをおぼえたが、そのあとは意識が朦朧となつた。
太い木劍をにぎつて立ちあがつた八左衞門は、
「馬鹿なやつ奴」
といつて、高らかに哄笑した。
人夫たらは八左衞門の不思議な擧動を、眼を皿にして凝視した。袖をひきあつてささやきあつた。突然、氣がちがつたのではないかと思ふ者もあつた。なぜなら、彼等の眼には河童の姿は見えなかつたからである。
四
二年ほどが經つた。
或る夜、月下の梅林で、河童の宴がひらかれてゐた。
香春岳(かはらだけ)はくつきりと夜空に浮きあがり、空には滿月とともにきらめく星の數も多かつた。梅林には相かはらず春にさきがけて梅の花が吹きみだれたが、晝間は武士か百姓かに占領されてゐるので、河童たちは深夜をえらばねば仕方がなかつた。今年は天地開闢(かいびやく)以來の大豐作とかで百姓はホクホクだつた。しかし、苛斂誅求(かれんちゆうきゆう)は一層はげしくなつてゐて、いくら豐作であつてもその大部分は藩主からとりあげられる。しかし、その搾取のはげしさに對しても、二年前の失敗にこりた百姓たちは泣き寢入りをしてゐた。ただ、ものが豐富にあるといふことはなんといつても氣持のゆとりを作るので、百姓たちの鼻息も荒く、梅林での宴會も度かさなるといふわけだつた。
[やぶちゃん注:「度かさなる」「たびかさなる」。]
月は夜ふけとともにすこしづつ西にかたむいて、地上にうつる梅の木の影もしだいに東へ向かつて長くなつて行つた。宮下池を埋めたてられたため、その狹かつた蓮根池よりもつと狹くて水のきたない、泥沼といつた方が早い夜宮池(よみやいけ)に引つこさざるを得なくなつた河童たちは、やはり環境の影響で氣力も減退してゐた。ひとり元氣溌刺として、この二年間變らなかつたのは一郎妨だけである。
「きつと、思ひをとげて見せる」
その願望のはげしさによつて、彼はつねに内部を充足させ、この二年間で仲間を瞠目させる生長を遂げた。頭目三百坊がノイローゼでいよいよ器量を下げたので、一郎坊は仲間のホープとなつたのである。しかし、彼にはたかが夜宮池の小頭領になつていばらうといふやうなケチな考へはなかつた。彼の唯一の宿念は人間に打ち克つことである。全精神はそのことで燃え、この二年間、孜々(しし)として鍛錬に倦むところがなかつた。
[やぶちゃん注:「孜孜として」熱心に努め励むさま。]
戸塚八左衞門から太い木劍で打擲(ちやうちやく)された傷は、一カ月ほどで癒へた。それから一郎坊は猛然として、武藝修業をはじめた。彦山川(ひこさんがは)にゐる阿修羅坊(あしゆらばう)は性格が粗暴のため、武藝の點では河童界にならぶ者がなかつたのに、つねに孤立してゐた。人德がないので、子分が寄りつかないのである。劍豪だといつておだてておいて敬遠してゐた。その阿修羅坊を師と仰いで、一郎坊は苦しい二年間の精進をした。戸塚八左衞門の腕前のほどは自分の眼でたしかめてゐるので、彼をたふすためには彼以上の力を必要とする道理である。
[やぶちゃん注:「彦山川」現在の福岡県田川郡添田町の英彦山(ひこさん)を源流とする全長約三十六キロメートルの川。同県の直方(のうがた)市で遠賀川に合流する。]
「一郎坊、みごとな上達ぢや。それならもう八左衞門に負ける心配はない」
二年の後、師の阿修羅坊は滿足げにいつた。
「ありがたう存じます。これまでの御指導によつて彦山流奧義をきはめることができました以上は、ただちに大月に參上し、憎みてもあまりまる戸塚八左衞門を打ち負かして歸ります」
[やぶちゃん注:「大月」不詳。小倉藩にも久留米藩にもこのような地名はない模様で、現在の福岡県内にも現認出来ない。]
「まだ彦山流の免許皆傳といふわけぢやない。祕傳はなほある。ぢやが、今くらゐ上達すれば、戸塚八左衞門を負かすには事缺くまい。行け」
「きつと勝つてみせます」
かういふ次第で、いよいよ宿望の仇討行を決行することになつた一郎坊のため、今宵は梅林で壯行の宴が張られてゐるのであつた。師の阿修羅坊も特にはるばるやつて來て出席してゐた。性粗暴な者が劍術の師範であることは警戒を要するので、河童たらはビクビクしてゐたが、噂とはちがつて、阿修羅坊は豪快な飮みぶりではあるが、格別、あばれたりからんだりする樣子はなかつた。それどころか、弟子のために、壯行の歌をうたひ、梅の木の枝を折つて手ごろな木劍をこしらへてくれた。
「一郎坊、この木劍を試合に使へ。わしなら枝に花をつけたまま試合をし、どんなにはげしく丁々發止(ちやうちやうはつし)とわたりあつても、花は散らさぬが、お前にはまだそれは無理ぢやらう。この梅の劍で、八左衞門の腦天を割れ」
「なにからなにまで、お薰情かたじけなく存じます」
一郎坊はその梅の木劍をおしいただいた。梅の香がまだ殘つて居り、折られたばかりの枝の切口からは伽羅(きやら)に似た芳香があふれ出てゐた。二三度打ちふつてみると、實に使ひよい恰好の武器で、
(これで勝てる)
その自信が出來た。
[やぶちゃん注:「伽羅」梵語の音訳「多伽羅」の略で「黒沈香(じんこう)」の意。沈香の最優品を言う。沈香はジンチョウゲ科の常緑高木の幹に自然或いは人為的につけた傷から真菌が侵入、生体防御反応によって分泌された油・樹脂の部分を採取したもので、香木の代表とされる。当該木材の質量が重いために水に沈むところから「沈水香」とも呼ばれる。インド・ベトナム・東南アジア産であるが、その中でも特に優良な製品を伽羅と呼び、香道で珍重される。]
「一郎坊の武道長久を祈つて乾盃しよう」
三百坊の音頭で、いつせいに盃があげられた。無氣力で無能力な三百坊頭領も乾盃の音頭をとることくらゐは出來た。數十の蕗(ふき)の葉の盃から、蓮根酒がせせらぎのやうに音をたてて飮み干された。
夜目にも大馬場(だいばば)が望まれた。月光をうけてゐて湖のやうに見える。ここでは馬術のみならず、弓、槍、劍、薙刀(なぎなた)、手裏劍(しゆりけん)、鎖り鎌等、あらゆる武道の鍜錬がなされてゐた。馬場の右には實彈射擊場もつくられ、鐡砲の音もしばしば聞えた。それは武士の示威(じゐ)運動のやうでもあり、來るべき戰爭の備へのやうでもあり、庶民の血税によつて成立した軍事豫算を使ひすてる無意味な行爲であるやうにも見うけられた。人間のすることは河童にはわからないことだらけだが、一つだけ確實にわかつてゐることは、この大馬場の下には嘗てのなつかしい宮下池があるといふことであつた。
[やぶちゃん注:「鍜錬」「たんれん」。鍛錬。「鍜」は「鍛」の異体字。]
(おれが八左衞門の木劍で打らたふされたのは、あの、流鏑馬(やぶさめ)の的のある場所だ。畜生、今に見て居れ)
復讐の念に燃える一郎坊の若々しい瞳は、妖しくギラギラ光つてゐた。
五
戸塚八左衞門の家は大月町のはづれにあつた。その一帶は中祿者(ちうろくしや)の武家屋敷になつてゐて、練土塀(ねりどべい)に冠木門(かぶきもん)のついてゐる家がならび、方々に海鼠壁(なまこかべ)があつて、火の見櫓が立つてゐた。周圍は松林である。その裏を尾奴川(をぬがは)が流れ、對岸に霧岳(きりだけ)がそびえてゐる。閑靜で、風光もまづ惡くない。
[やぶちゃん注:「大月町」前に注した通り不詳であるが、以下の「尾奴川(をぬがは)」もその対岸にあるとする「霧岳」も不詳なのは、或いは、この、一見、冒頭、香春の実在ロケーションと匂わせながら、実は存在しない「有馬藩」という仮想藩の、仮想の剣豪「戸塚八左衞門」という作者火野葦平の確信犯の虚構設定なのかも知れぬと思われてきた。
「練土塀」練った泥土と瓦を交互に積み重ねて築き上げたその上に瓦を葺いた塀のこと。
「冠木門」左右の門柱を横木(これを「冠木(かぶき)」と称する)によって構成した門。]
(これで、百姓一揆だの、戰爭だのがなかつたら申し分ないのだが、……)
八左衞門は築山のある屋敷内の庭を散步しながら、そんなことを考へる。劍豪と稱せられる八左衞門も好んで人と爭ひたくはないし、人を斬りたいこともない。やはり、平和が好きだ。特に最近はさう思ふやうになつた。二年前の一揆鎭定の功を賞(め)でられて、馬𢌞り三百石にとりたてられてから、幸運が追つかけて來るやうに相ついだ。それをいちいち書くことは省くが、ともかく彼は家中の同僚たちから羨望の眼をもつて見られ、事あるごとに「戸塚氏にあやかりたいものでござる」と合言葉にいはれるほどになつてゐた。おまけに、家老の娘を嫁にもらつたばかりだ。このまま波瀾などなく幸福な一生をすごしたいのである。
(しかし、また、百姓一揆がおこるかも知れぬ。どうも最近不穩な動きがほのみえる。腹の立つ百姓ども奴)
八左衞門はただ騷ぎをおこす百姓の方にばかり憎しみがわいた。なぜ百姓が蹶起せずには居られないのか、その原因の方には頭が向かない。一揆がおこれば八左衞門が討伐隊長に任命されることは既定の事實といつてよかつた。
領主有馬種次(ありまたねつぐ)は口癖に、
「一揆は八左衞門にまかせておけばよい。八左衞門にかかつたら、どんなたちのわるい一揆でも、鼠か蚤のやうに、ひとたまりもなくひねりつぶされてしまふわ」
といつてゐるからである。
[やぶちゃん注:太字「たち」は底本では傍点「ヽ」。
「有馬種次」不詳。久留米藩有馬氏の歴代藩主には「種次」なる人物はいない。ますます虚構性が、俄然、増してきた。]
(なんにもおこらんでくれ。このまま、十年でも二十年でも、平穩無事がつづいてくれ)
八左衞門は必死のやうに、なにかに向かつて心中で祈るのだつた。
或る夜、もう深更になつてから、八左衞門の寢處の雨戸をかるくたたく者があつた。
「戸塚八左衞門殿、……戸塚殿、……八左衞門殿、……」
さう呼ぶ聲も聞える。聞きなれぬ聲音なので、八左衞門は小首をひねつた。男のやうでもあり、女のやうでもあり、皿をたたく音か、キツツキが木の幹をつつく音のやうでもあつた。しかし、この聲を八左衞門は聞いてゐるはずなのである。しかし、もはや二年前のことであるし、香春の大馬場埋立工事のとき、文句をいひに來た河童のことなどは、とつくに念頭から去つてゐたので、すぐには憶(おも)ひだせないのであつた。
「あなた、誰でせう?」
妻の菊乃も眼をさまして、不審の眉をひそめた。
「出てみよう」
丹前姿のまま、八左衞門は手燭をかざして、廊下に出た。腕におぼえがあるので、何者であつたところで恐れる氣持はなかつた。
「戸塚殿、……八左衞門殿」
と、なほも呼んでゐる聲の場所に行つて、油斷なく雨戸を一枚めくつた。
月光がさして晝のやうに明るい庭に、異樣な動物が一匹立つてゐた。ぬれてゐる身體や、頭のてつぺんにある丸い皿がキラキラ月に光つてゐる。それを見た瞬間、
(ああ、あのときの河童の聲だつたのだ)
と、思ひだした。
河童は一本の木劍を右手に待つたまま、
「戸塚八左衞門樣、お久しゆうございます」
「うん、久しいなあ」
「わたくしを御記憶ですか」
「よく憶えてゐる。あれから二年になるかなあ。ハッハッハッハッ……」
八左衞門は當時のことを思ひだすとをかしくてたまらなくなり、笑ひだしてしまつた。
一郎坊はむつとして、
「それなら、もう、わたくしがここへ參りました理由はおわかりになつたでせう?」
「仕返しに來たのか」
「そのとほりです」
「よし、待て」
八左衞門も劍の達人であるから、相手の河童が二年前とはすつかりちがつてゐることに、すぐ氣づいた。二年前はだらしがない未熟者であつたのに、いま眼前にゐる河童は全身に堅確の氣が流れ、寸分の隙もない。劍氣に殺氣が重なつて、一種劍妖に似たすさまじさを呈してゐる。
[やぶちゃん注:「堅確」(けんかく)は、しっかりしていて動じないこと。確固。]
(これは油斷がならぬ)
と警戒心がわいた。
やがて、數分の後、ひろい庭では、二人の劍客の息づまる試合が展開されてゐた。月が明るいので、進退に不自由はない。どちらも木劍をかまへ、祕術をつくしてわたりあつた。
六
どちらの額にも油汗がふき出て來た。正直いふと、八左衞門は相手を油斷がならぬと警戒はしたものの、どんなに河童が克くてもタカが知れてゐると思つてゐた。それで、立ちあひと同時に打ちこんでしまふつもりでゐたのに、それができなかつた。それどころか、ちよつとでも氣をゆるめると、こちらが打ちこまれさうになる。河童の身體は魚か鳥かのやうに敏捷で、その飛びまはる間からつきだして來る木劍のするどさは、膽を冷やさせるほどだ。もし頭に當れば腦天がわれてしまふし、胴に當れば肋骨が折れてしまふだらう。足や腰に受け損じればみぢんに碎かれるにきまつてゐる。
(あつぱれな達人ぢや)
河童の分在とあなどつてゐたので、舌を卷いた。しかし、感心してゐてもはじまらぬ。命の瀨戸際になつて來たので、八左衞門も必死だつた。
河童の方も同樣な昏迷にとらはれてゐた。
(阿修羅坊師匠は、これならもう八左衞門に勝てるといつたのに、……?)
自信を持つてゐた一郎坊も、相手の強さにたじたじだつた。しかし、これとて、師を恨んでみたところで、眼前の一瞬々々に生死を賭けてゐるので、全力をつくしてたたかふほかはなかつた。どちらもが計算ちがひをしたのである。
試合は數刻におよんだが、勝敗は決定しなかつた。兩劍客はへとへとになつた。
[やぶちゃん注:「數刻」一刻は一般には現在の三十分相当。「數刻」という以上は最低でも一時間半にも及ぶか。後の野次馬蝟集を考えると、確かに非常に長い間、この決闘は続けられたことが判る。]
ところが、二人が知らぬ間に、周圍には人だかりがしてゐた。妻菊乃が夫が寢室から出て行く樣子が變なので、後をつけてみると、丹前を着物に着かへた。襷(たすき)をかけて袴の股立(ももだち)をたかくとつた。愛藏の樫の木劍を持つて庭に出た。そして、一人で木劍をふりまはしはじめたのである。
[やぶちゃん注:「股立」袴の左右両脇の開きの縫止めの部分を指す。そこをつまんで腰紐や帯に挟んで袴の裾をたくし上げることを「股立を(高く)とる」と称し、走ったり、試合をする際の敏捷な活動のプレの仕度の一つを指す語となった。]
「一體、どうしたのでせう?」
老母をおこしたので、女中や仲間(ちうげん)も出て來た。近所にもふれ步いたので、同僚も見物にやつて來た。亂心したのではないかと疑ふ者が多かつたけれども、さうとばかりもいはれない。河童の姿は八左衞門だけにしか見えないので、八左衞門の擧動がすべて氣ちがひじみて見える。しかし態度が眞劍で氣魄に滿らて居り、聲をかけるのを憚らせるなにかがあつた。劍をふるひながら、一人氣合のこもつた掛け聲を發して、月光のなかを跳躍する八左衞門の姿は、劍鬼になつた觀さへ示してゐた。
長いせりあひの後、一郎坊は木劍を引いた。
「戸塚殿、今夜はこれまでとします」
「逃げるのか」
「とんでもない。あくまであなたとたたかひますよ。しかし、今夜は疲れたし、時刻もううつたので、勝負なしとし、明晩また同じころに參ります」
「よし、待つてゐる」
實は八左衞門もほつとして、河童の申し出に同意した。
河童は裏木戸からいづこへともなく立ち去つて行つた。その舌打ちするやうなぬれた足音が、尾奴川のほとりから霧岳の方角へ遠ざかつて行くやうだつた。そのかすかになつた足音が絶えてしまふと、八左衞門はぐつたりとなつてそこへへたばつた。
片唾(かたづ)をのんで見物してゐた連中がかけよつて來た。口々に、一體どうしたことか、譯を早く聞かせて欲しい、といつた。
八左衞門は汗でどろどろになつた顏に、につと不氣味な笑みをたたへ、會心の面持で呟いた。
「はじめて、相手にとつて不足のない好敵手を得申したよ」
糊(のり)のやうに疲れてゐたので、その夜はそのまま寢處にかへり、翌日になつて一部始終を家族の者に話した。二年前、軍事基地を擴張するため、河童のゐる池を埋めて、抗議に來た河童代表をひと打ちにたふした話は、前に何度かしたことがあつたので、聞いた者は河童の執念に身ぶるひする面持になつた。しかし、八左衞門は敵ながらあつぱれといつて河童を褒めた。それは家中の者に對する皮肉にも聞えて、戸塚八左衞門はノイローゼにかかつてゐるのだと蔭口をたたく者もあつた。
[やぶちゃん注:「糊(のり)のやうに疲れてゐた」聴き慣れない直喩であるが、体がぐにゃぐにゃになってべったりと横たわってしまいたくなるほど、といった意味合いとしては、よく判る。]
この話はたちまち一日のうちに町全體にひろがつた。このため、次の夜は戸塚家には觀衆が押しよせた。八左衞門は閉口したが、好奇心をおさへることのできない野次馬は、まだ日も暮れぬうちからよい座席をとるために亭(ちん)や築山や練塀のうへに頑張る始末だつた。庭の木にのぼつてゐる者も多い。家中の武士のなかには手土産を下げて來て、老母や細君をくどき落して、特等席を豫約する者もあつた。
[やぶちゃん注:「亭(ちん)」屋根だけで壁のない休息所とする四阿(あずまや)のこと。]
「弱つたな」
へこたれた八左衞門が頭をかくと、老母や妻は、
「いいぢやないの。あなたの腕前を見せるのだから」
と、かへつて群衆の殺到を歡迎してゐた。
七
約束どほり、河童はやつて來た。そして、前夜のとほり、二人ははげしくたたかつた。今夜も容易に勝敗がきまらなかつた。
見物はできるだけ姿をあらはさないやうに、片唾をのんでこの試合を見守つた。といつても、八左衞門だけしか見えないので、變てこな具合である。ただ氣合のこもつた八左衞門の進退、木劍のうごき等によつて、河童のゐることを想像するほかはなかつた。木劍のはげしくかちあふ音、八左衞門のではない、陶器を打つやうな奇妙な掛け聲がときどき聞えるので、河童の存在を疑ふことはできなかつた。
「八左衞門殿、しつかりおやり」
老母も菊乃もゐても立つても居られない氣持で、口からいく度となくその言葉が出かかつた。しかし、聲援や應援は絶對にしてくれるなと、かたく八左衞門から禁じられてゐたので、ただ氣があせるばかりだつた。方々に潛(ひそ)んでゐる觀衆も聲援したい衝動にかられたが、やはり我慢をしてゐたので、數百人の人間がゐるのに、奇妙に邸内はしいんとしてゐた。月光ばかりが明るい。
(人間どもの考へてゐることはわからん)
試合をつづけながら、一郎坊はあきれてゐた。命をかけた眞劍勝負をしてゐるのに、まるで野球かレスリングを見物するみたいに、人間が集つてゐる。どこにどんなに隱れてゐても河童にはわかつた。しかし、それもいいと思ふ。八左衞門が河童をやつつけるところを大勢の人に見せたいといふのなら、一郎坊の方も八左衞門を降參させるところを見せてやりたい。人間に打ち克つ、人間を嘲笑してやる絶好の機會だ。そして、さらに一郎坊は全力をふるひおこし、八左衞門打倒のために祕術をつくした。時がながれ、月がかたむいた。
「戸塚殿、今夜はこれまでといたしませう」
「よろしい」
八左衞門が木劍を引くと、河童の足音が裏木戸から、尾奴川べりへ、そして、霧岳の方角に遠ざかつて行つた。
その翌日はたいへんなことになつた。評判は擴大するばかりで、たうとう領主有馬種次の耳に入つた。八左衞門の妻が家老の娘であるから、自然といへば自然だつた。藩主はすこぶるこのことに興味をおぼえ、三日目は戸塚邸へ出張して見物するといふ達しがあつた。さうなると、簡單ではすまされなくなる。にはかに戸塚家では大掃除が開始され、襖や疊がはりかへられた。植木の手入れもされ、練塀や冠木門のペンペン草も拔きとられた。庭には城主の紋章入りの幔幕が張りめぐらされ、まるで御前試合のやうなものものしさだつた。
「弱つたな」
八左衞門は恐慌(きようくわう)の態である。しかし、領主の命令は絶對で拒みやうがなかつた。
(今夜はどうしても河童奴を打ち負かさねばならぬ)
八左衞門は齒を食ひしばつて、覺悟を新にした。神佛に祈願をこめ、水垢離(みづごり)をとつた。老母や女房は領主が自宅にお成りになるといふので、感泣してゐた。
日が暮れて、月が出た。月がかたむいて深夜になつた。庭にさす月が明るくなつた。
「そろそろ參る時分でございます」
凛々しい試合支度の八左衞門は、緣側の床几に腰かけてゐる有馬種次に告げた。
「しつかりやれよ」
「はい」
「そちがその劍豪河童を打ち負かしたならば、二百石を加増し、有馬家指南番にとりたてて仕はす」
「かたじけなうござります」
ところが、深更をすぎても、河童はあらはれる樣子がなかつた。月はぐんぐんと霧岳のいただきに吸ひこまれて行き、どこかで一番鷄が鳴きはじめた。殿樣をはじめ見物は欠伸(あくび)を連發し、居眠りをする者もあつた。東の空が白みはじめた。八左衞門はいらいらして待つたが、呼びに行く術もなく、朝を迎へてしまつた。
不興の果、激怒した藩主は、
「たはけ者奴が。切腹申しつける」
はげしい言葉をのこし、寢不足の赤い眼をこすりながら、駕籠(かご)で城へ歸つて行つた。
八
一郎坊は必死の思案をめぐらしたのであつた。二日間たたかつてみて、戸塚八左衞門の強さがわかつた。といふより、まだ自分の腕が未熟なのだと悟つた。現在の實力をもつてしては試合は堂々めぐりをつづけるばかりで、勝敗は決定しさうもない。もうちよつと強ければ勝てるのだ。さう思つたとき、師阿修羅坊の言葉が浮かんだ。
(さうだ。師匠はまだ免許皆傳ではないといつた。もつと祕傳があるといつた。それを教へてもらはう。さうすれば、きつと今度は八左衞門をたふすことが出來るにちがはん)
そして、一郎坊は三日目の勝負に行くことをやめ、倉皇(さうくわう)として彦山川へかけつけたのであつた。一日目には別れるとき、翌夜はかならず行くと約束したが、二日目には別に三日目の試合を約束はしなかつたので、不信の行爲をしたとは思はなかつた。阿修薙坊から極意(ごくい)をさづかれば、早速また試合に出なほすつもりだつた。
[やぶちゃん注:「倉皇」「蒼惶」とも書き、慌てふためくさま・慌ただしいさまを指す。]
(出なほしだ。この木劍はもう要(い)らぬ)
いくらたたかつても勝つことのできなかつた緣起のわるい木劍だと思ひ、尾奴川の岸に立つたとき、これを粉みぢんにへし折つて、そこへ打ちすてた。そして、一散に大月町を後(あと)にしたのであつた。
彦山川のほとりで、阿修羅坊は首をひねつた。苦笑しながら、
「ふうん、戸塚八左衞門らゆうのがそんなに豪傑か。ちと勘定ちがひをしたかな。よしよし、お前もそこまで考へつめとるなら、あくまで目的を達成せねば氣がすむまい。とつておきの祕傳ぢやが、特別にさづけて仕はさう。よく覺えて行け」
それから數日、血の出るやうな稽古がつづいた。一郎坊は眞劍だから、むづかしい祕傳を短時日によく會得した。これでよからうと免許皆傳を許した師匠は、また新しい木劍を今度は桑の木で作つてくれた。勇み立つた一郎坊は宙をとぶやうにして大月町にかけつけた。
(いつたいこれはどうしたことだ?)
尾奴川をわたり、戸塚八左衞門邸の前に立つて、一郎坊は茫然となつた。もはやそこにはまつたく見知らぬ他人が住んでゐて、八左衞門の姿はなかつた。不思議なことに思ひ、人間に化けて町のうどん屋で、それとなく事情を聞いてみた。戸塚八左衞門と河童との試合は小さな城下町では有名な大事件になつてゐたので、うどん屋の女將は詳しい事情を知つてゐた。それによると、八左衞門は殿樣の逆麟(げきりん)にふれ、切腹して死んだといふのであつた。
一郎坊は仰天した。昏迷した。
(おれがあれだけ武術の極意をつくしても、たふすことのできなかつた劍豪を、藩主は手をくださずして、たつた一言の言葉で殺してしまつたといふが、これはなんの極意だらう。恐しく強い人間もあつたものだ。どうしてそんなすばらしいことができるか、殿樣に逢つて教へてもらはう)
さう決心した一郎坊は、城内に忍びこみ、有馬種次の前に姿をあらはした。
「殿樣」
膝まづき、頭の皿の水がこぼれぬやうに注意しながら、お辭儀をした。
突然、奇怪な動物が眼前にあらはれたのを見て、城主はまつ靑になつた。腰を拔かし、がたがたとふるへだした。齒の根もあはず、ふるへ聲で、
「だ、だ、だれか居らぬか。……ば、ば、ば化(ば)けものが出たァ。助けてくれえ」
武士たちのかけ集まつて來る氣配に、一郎坊は急いで城を退散した。なにがなにやらわからなくなり、泣きさうな顏つきになつて、故郷の香春岳(かはらだけ)のふもと、夜宮池の方角へ步を轉じた。
數年の後、尾奴川(をぬがは)のほとりに、梅林が出現してゐた。一郎坊がちぎりすてた梅の木劍が全部芽をふいたものである。そこは大月町の新名所となり、花咲くころには賑はつた。宴會ももよほされる。
香春岳をかこむ村々に、またも、どよめきがおこつた。その一揆を鎭壓するため、討伐隊が編成された。討伐隊は壯行宴をこの大月の梅林でからいた。領主有馬種次もその席に望み、勇しく部下を督勵した。
「生意氣至極の土百姓どもを、一人のこらずひねりつぶせ」
その姿は颯爽とし、その聲は凛としてゐた。
[やぶちゃん注:本作は題名も内容も確信犯のチェーホフの独り芝居の一幕物喜劇「煙草の害について」(Anton Pavlovich Chekhov“O vrede tabaka”1886)のインスパイアである。本来は、このブログ・カテゴリ『火野葦平「河童曼荼羅」』では、底本に従うなら、「新月」と「珊瑚礁」の間に入れるべきものであるが、チェーホフの元の話を電子化するまで待とうと思ったため、かく遅れた。先般、ブログ950000アクセス突破記念として「煙草の害について アントン・チェーホフ作・米川正夫譯」を電子化したので、ここに示すこととした。
太字は底本では傍点「ヽ」。
最初に現われる「當辨論大會出場」の「辨」はママである(以降は「辯」となっている)。
「菊石(あばた)」は二字へのルビ。かつて主に天然痘に罹患して予後、その主に顔面に菊石のような痕が残ったことから、「あばた」のことをかく言った。こう書いて「じゃんこ」などとも読んだようである。
また、作中、主人公は以前に「女の害について」「酒の害について」を弁論したとあるが、実は「河童曼荼羅」には「女の害について」「酒の害について」という題の作品が含まれている(未電子化。近い将来、順次、電子化予定)。ただ、その二つは弁論形式ではなく、本作と形式上で先行するダイレクトなプレ作品としては読めないのでお断りしておく。題名を見ただけで期待されてしまい果てに失望されても困るので(私は別に困らないのだが)それらの電子化より先に事前に述べておく。
なお、本電子化は2006年5月18日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来、本ブログが250000アクセスを越えた記念として、チェーホフのそれに次いで公開するものである。【2017年5月26日 藪野直史】]
煙草の害について
滿堂の紳士淑女諸君、
わたくしが、このたび、鼻無沼(はななしぬま)代表といたしまして、當辨論大會出場の光榮に浴しました皿法師と申す者であります。自己紹介いたすまでもなく、每年、侃々諤々(かんかんがくがく)、流麗絢爛(けんらん)、奔流決河の雄辯をもつて、當壇上から、諸君におまみえしてきたものでありまして、諸君には、わたくしの印象は、さぞかし強烈に、消えがたいものとなつて殘つてゐることと信じます。ごらんのとほり、わたくしのこの頭の皿の巨大なことは、近郊近在に稀でありまして、故もなく頭百間といつて誹謗する者もあるにはありますが、實に、まさに、腦髓の巨大、かの世界的大詩人ゲーテの腦味噌のごとく、萬能の力と夢とを、この皿の下に藏して居る證據でありまして、わたくしが、まことに、河童世界において、選ばれたる者としての標識たることは、一點の疑ふ餘地もありません。
鼻無沼、口無沼、臍無沼、耳無沼、眼無沼等、近郊河童界の合同辯論大會が、かく、空靑く澄み、水はつややかに、若葉きらめくこの季節に、大々的にもよほされますことは、まことに當代の盛大事、河童文化界の一大欣快事、かかる機會あればこそ、わたくしも諸君にまみえ、得意中の得意たる辯舌をもつて、諸君の稱讚をかち得ることのできますことは、喜びの第一であります。……どうも、諸君の眼は、冷いですな。どうして、そんな皮肉な眼で、わたくしを見なさる? 諸君の眼にはいやな光、輕侮のまなざしがある。……なるほど、わたくしは、本年までの大會におきまして、遺憾ながら、優勝したことはありません。それはないです。しかし、そんなことがなんですか。昨年は八等、一昨年は十一等、一昨々年は六等、一昨々々年は九等、一昨々々々年は二十二等、一昨々々々々年は四等、といふ具合に、わたくしは名譽ある榮冠をかち得たことは、たしかにただの一度もない。しかしながら、その理由は明瞭です。罪はわたくしの側にあつたのではありません。昨年までは、暗愚無能の審査員、眞の言葉をきく耳なく、眞の姿を見る眼なく、眞の偉大を理解する頭腦なく、そして、眞の眞實を語る口なき徒輩が、おこがましくも、審査にあたつて居りましたために、眞に價値あるものはかへりみられず、言語同斷の不公平の結果を將來したものであります。のみならず、審査の事前にあたりまして、眼や耳を掩ひ、唾したき醜陋(しゆうろう)のことが行はれて居りましたことは、はつきり申します。饗應、追從(つゐしよう)、懇願、そして贈賄(ぞうわい)が、こつそり審査員に對してなされましたことは、歷然たる事實でありまして、かくのごとくしては、いかで、神聖なるべき審査に、公平を期し得ませう。中正嚴烈の立場を堅持し、一に技(わざ)を辯口の練達に置き、いやしくも邪(よこしま)に組せぬわたくしが、その辯舌のならびなき優秀さにもかかはらず、審査員諸兄の鼻息をうかがはなかつたといふだけで、一等の榮冠を得ることのできなかつた理由は、ただに、以上の奇怪事にもとづいてゐるのであります。が、既往は問ひますまい。今囘は、その弊があらためられ、もつぱら技術の練能のみを審査基準として、公正の判定が下されますやうになりましたことは、喜びこれに過ぎるはありません。然るうへは、わたくしの眞價も、今囘はあやまりなく認められ、一等優勝の月桂冠をかち得ることを確信して疑はないところであります。理解ふかく達識ある聽衆たる紳士淑女諸君におかせられても、不屈の雄辯に、魅了されることは當然でありまして、擧(こぞ)つてわたくしに人氣投票して下さるものと、これまたふかく確信して居ります。
さて、わたくしの演題は、ここにかかげてありますやうに、「煙草の害について」。昨年は、「女の害について」。一昨年は、「酒の害について」薀蓄(うんちく)をかたむけて、諸君に説きましたことは、なほ、御記憶に新なところであらうと存じます。しかるうへは、殘されたる煙草の害について語るは當然、三部作は世に流行するところであります。年來の河童の知己(ちき)たるあしへいさんも、土・花・麥といふ三部作を書いて居ります。酒と女と煙草、この三者の大害について、一大教訓を垂れますことは、わたくしの救世の宿願といつてもよろしく、すでに、酒と女とについて述べました以上は、今回、最後の煙草について、諸君にわたくしの卑見を開陳いたしますことは自然の順序、否、わたくしの義務、使命なのであります。ロシアのチエホフといふ作家が、嘗て、同問題について、一場の講演をしたことがありますが、わたくしのはさやうな陳腐退屈なものではありません。しばらく御靜聽を煩はしたく存じます。エヘン。
わたくしは、最近、熱烈な戀愛をいたしました。いや、現在、なしつつある、つまり、その眞最中であります。……そのやうに、お笑ひ下きるな。わたくしとて、老いたりといへども、なほ、靑春の血は、五體の隅々にまでたぎつてゐる。わたくしは、この日ごろ、一女人のために、情熱のほむらをたぎらし、わたくしの一生の蓮命を、この戀に賭けて居るのであります。その女人こそは、鼻無、口無、臍無、耳無、眼無、五界にかけてたぐひも並びもなき麗人でありまして、東洋の詩人の言葉を借りますれば、沈魚落雁閉月羞花、實に、暗夜に現出した燦然(さんぜん)たる太陽、虹、その一顰(いつぴん)一笑によりまして、あたかも電燈の明滅するごとく、あたりの光も左右されるほどの、すばらしい婦人なのであります。……どうも、皆さん、よくお笑ひなさる。惚れた眼には、菊石(あばた)もゑくぼ、とおつしやるのですか。よろしい、それなら、それとして置きませう。どうぞ、野次(やじ)らずに聞いて下さい。いづれ、わたくしの言葉の眞實がわかるときが參ります。……ともかく、わたくしは戀をいたしました。いたして居ります。この戀愛の成就によつて、わたくしの生涯は精彩をはなち、幸福の基礎は定まる。わたくしは希望に燃え、胸高鳴らせて、わたくしの全力をこの戀愛に傾注いたしました。いたして居ります。わたくしの戀人たるその女人は、牡丹のやうな美しい皿に、水晶液のやうな水をたたへ、瑪瑙(めなう)の眼と、大理石の嘴と、綠玉の甲羅と、そして、螢石の手と、……もうわかつたとおつしやるのですか。どうも、さう、まぜかへされては、話ができませんな。戀人の自慢はもうたくさんだといふのですね。なに? 演題の煙草の害の話は、どうしたのかつて? どうも、せつかちですな。話には順序があります。起承轉結、布置結構、文章と同樣、演説にも、構成、スタイル、山あり、谷あり、ただ、のべつに、がさつに、工夫もなく、話したのでは、味も素氣もありません。拙劣といふものです。わたくしが、「煙草の害について」といふ演題をかかげながら、突如として、主題とは緣もゆかりもなきごとく見ゆるわたくしの戀愛について語りだしましたのも、まつたく、わたくしの練達習熟せる小説的技法にもとづいて居つたのであります。居るのであります。つまり、わたくしの戀愛そのものが、實に、煙草に、煙草の害に直結して居るわけでありまして、わたくしの戀愛を語ることなくしては、絶對に主題たる煙草の害について語ることはできない。春秋の筆法を借りるまでもなく、實に、わたくしをして煙草の害を説かしむるものは、説かざるを得ざらしめたものは、わたくしの戀愛、わたくしの愛人、その女人なのであります。おわかり下さいましたでせうか。お靜まりになつたところを見ると、御理解下さつたものと信じます。感謝いたします。では、話を進めませう。
前述しましたとほり、わたくしは全身の血をたぎらせて、戀に沒頭いたしましたが、幸のことに、その女人も、わたくしの氣持を汲み、受け入れてくれました。くれたらしく、見えました。わたくしはドン・ファンではありません。ウエルテルです。女から女へ蜜蜂が花を漁り、花を變へ、今日は椿に、明日は百合にと、飛びまはるやうな浮氣心はわたくしには微塵もありません。わたくしはかの悲しきウエルテルのごとく、これと定めた戀人ただ一人に、すべてを捧げつくし、死をもいとはぬ誠實の徒なのであります。なるほど、わたくしは、醜男です、お笑ひ下さつてもよろしい。この頭の皿は、前述しましたやうに、大詩人ゲーテに匹敵する才能と夢とを藏してゐるとはいへ、たしかに、ちよつと不恰好です。頭百間といはれて笑はれても仕方がない。ことに、知識とか、才幹とか、人格とかいふやうなものはどうでもよく、ただ、のつペりとした顏形、通常色男と稱せられてゐるやうな男子に、關心を集中する婦人にとつては、わたくしのごときは、對象たる資格はありますまい。しかしながら、河童の眞實は、さやうな、單なる外形上の皮膚や骨格のなかにあるのではない。肉體ではない。精神です。肉體にだけ河童の價値を見るのは、精神の近視眼、色盲、實に、かのミーチャンハーチャン的輕薄の思想にほかなりません。したがつて、眞に精神美を理解し、人格に關心を有する女性は、わたくしのごとき、才幹豐かにして、哲學的な男性に、眞の價値を見いだすものです。わたくしの思ひをかけました女人が、この醜男たるわたくしの氣持を汲んでくれたといふのも、彼女がさういふ良識深き女性であつたからでありませう。わたくしの求愛にこたへてくれた、くれたかに見えた彼女へ、わたくしは深く感謝し、淚をもよほさんばかりの歡びをおぼえました。わたくしの人生は、この戀の成就によつて輝き、才能と力とはいよいよ發揮され、なにごとも今や不可能なることなしとさへ、わたくしは希望に燃えました。
ああ、わたくしは、このことを語るのが、苦痛なのであります。かくも、歡びと希望とに燃えたわたくしの戀が、いかに無殘なる形で、今日(こんにち)、放置されてゐるか。胸が苦しくなります。頭が疼きます。失禮お許し下さい。悲しくなりました。ちよつと淚を拭かきせていただきます。……わたくしは、實に、今、嘗て經驗せぬ最大の勇氣をふるつて、告白して居るのであります。告白と懺悔(ざんげ)とには、非常な苦痛と勇氣を要します。かのジャン・ジャック・ルソオが懺悔錄を書いたとき、彼は萬人の前に血をはく思ひをもつて、すべての眞實を叶露したのだと申しましたが、あの悲壯な書物のなかにも、なほ、隱されてゐる眞實、否、明瞭に虛僞があるといふではありませんか。しかし、わたくしは、なにも隱しません。すべてをここに告白いたします。わたくしが全靈をゆすぶる苦痛をもつて語りますことを、皆さんも眞劍にお聞き下さいますよう。
かの女人は、わたくしの求愛にこたへ、誘はれるままに、一日、鼻無沼の靑草萠える土堤に出ました。五月の太陽は、わたくしたちの戀愛を祝福するかのごとく、さんさんとあたたかい光をそそぎかけます。わたくしは美しい彼女の姿がまぶしく、さうです、實に、彼女は、沈魚落雁閉月羞花、虹、色硝子、プリズム、太陽の光線をはねかへして、わたくしの眼をくらませるのです。わたくしは滿足と幸福とで、有頂天でした。
わたくしたちは、ならんで、草のうへに腰を下しました。今や、わたくしは諸君のまへに、かの、ラヴ・シーンといふものを展開しようとしてゐるのであります。しかしながら、それがのろけでも自慢でもないことは、諸君のよく賢察されることでありませう。これこそは、わたくしの破綻(はたん)の、悲しき除幕式であつたのであります。とはいへ、なほ、その破滅までの數分はわたくしたちにとつて、えもいへぬ甘美と陶醉の悦樂境でした。心臟の高鳴りを押へ、つとめて平靜を裝つてゐましたけれども、わたくしは若干の聲のふるへを如何ともすることができませんでした。彼女の方はいかがだつたでせうか。それはわたくしの知るところではない。いたづらに高貴な女人の心境を忖度(そんたく)することは、失禮にあたりますので、わたくしは遠慮いたしますけれども、彼女とて、その妙(たへ)なる胸の琴線になにか觸るるものを感じて居つたのではないでせうか。心の窓たる眼は一切の祕密を語る。わたくしはうぬぼれませぬけれども、それどころか、自己の醜さを知つてゐるわたくしは、女人の前でいかなる場合でも謙虛、といふより、臆病、おどおど、ひやひや、ほとんど萎縮してゐるのが常でありましたけれど、そのときは、わたくしは、明瞭に、彼女のわたくしに對する好意を、その二つの涼しい瑪瑙の眼のなかに感じとりました。感じとつたと信じました。さすれば、もはや相思、心通ひあふ戀人同志、この五月の土堤のあひびき、ラヴ・シーンは完璧で、この幸福と前途に、なんの暗い影もあるわけではなかつたのです。にもかかはらず、この事痛が無殘にも崩れたのは?
あれです! ああ、あれです! 實に、煙草です! 煙草、聞くだに恐しい言葉!
幸福感に、痴呆のごとく醉ひ痴(し)れてゐましたわたくしは、瞬間、はつと凝結して、息をのんでしまひました。驚愕と、失望と、悲しみと、怒りと、さまざまの感情が、坩堝(るつぼ)に、いちどきに、千種類の金屬を投げこんだやうに、こんぐらかり、煮えかへり、騷ぎはじめました。わたくしは阿呆のごとくひらいた眼を女人の動作に釘づけにして、もう膝頭がふるへ、背の甲羅のつぎ目がぎしぎしと鳴り軋(きし)むのをおぼえました。
煙草です。彼女が煙草を吸ひはじめたのです。蓮葉の小筥から、金口のシガレットをとりだした彼女は、いかにも馴れた手つきで、ライターの火を點じ、あの大理石の嘴にもつてゆくと、いかにもおいしさうに、くゆらしはじめました。彼女がその行動をもつとも通常のことと考へ、わたくしの思惑などをいささかも氣にかけてゐないことは、その安らかな自然の行動で明瞭でした。それは、さうでせう。煙草をのむことが、惡事でも、破廉恥でもなく、今やひとつのエチケットにさへなつてゐるものとすれば、彼女がそのことを、なんのわたくしの前に遠慮したり、恥ぢたりするわけがありませう。道德も、倫理も、法則すらも、強力な習慣の作用にもとづいてゐることは、歷史が證明してゐます。常人の法則は、その萬人の最大多數の認識によつて肯定される。さういふ法則には、一切、羞恥はともなはない。されば、彼女が悠々とわたくしの前で煙草をのみはじめたことは、自然の理で、なんら咎むべきところはないのでありました。
然らば、その彼女のなにげない行爲に對して、わたくしが何故にそのやうに驚愕し、混亂したか? それは實に、わたくしの生理的本能、あのどうにもかうにもやりきれぬ、煙草嫌ひといふ氣質にもとづいてゐるのです。これは、もはや、道德でも、理論でもない。無論、法則でもない。仕樣のないわたくしの天性、生來の潔癖、宿命ですらあるのです。
わたくしは他人の趣味、嗜好に對して、誹謗を加へたり、排擊はしない。それは、自由です。しかし、わたくしは萬人の最大多數が煙草をたしなみ、その醍醐味を説き、紫煙の幻術、エクスタシイ、そして、その偉大なる價値を説かうとも、わたくし自身は、頑として、その宣傳に乘らぬ、誑(たぶら)かされぬ。そして、あの、いやなニコチンの匂ひ、毒に染まぬと決心してゐました。わたくしは煙草のみを輕蔑しはしませんが、これを賞揚する氣のないのは勿論、煙草のみの客がきて、あの無遠慮無感覺に、煙草の灰を散らす、これまでのんでゐたコーヒーの皿にでも、食べてゐた茄子や胡瓜の椀にでも、灰を落す、あの無神經、その不快さに辟易することは、一再ではありません。男子はまだよい。婦人が煙草を吸ふ姿を見ると、誇張ではなく、慄然と身ぶるひがしてくる思ひなのです。好意をよせてゐた女人が、煙草をのむと知つて、たちまち嫌ひになる、その經驗はたぴたびなのでした。宿命となれば、致しかたありません。かくしてわたくしは恐しい煙草から遠ざかり、今日まで、一度も、手に取つたことすらなかつたのです。[やぶちゃん字注:「煙草の灰を散らす」底本では「煙草の灰を敢らす」であるが、読めないので、誤植と断じて、特異的にかく訂した。]
なんといふ皮肉でせうか。さういふ天性の煙草嫌ひ、ほとんど煙草恐怖症といつてもよいわたくしが、全精神と全生活とを賭けて惚れました女人が、なんとしたことか、またしても、煙草のみ、煙草好きであらうとは! わたくしが、五月の土堤で心地よげに煙草をのみだした戀人の姿に、愕然とし、失望し、悲しみ、そして、絶望的な氣特になつて行つたことは、諸君の充分に明察されるところであらうと信じます。
わたくしは苦しみ、迷ひました。わたくしのその女人に對する思慕の情は、これまで經驗したやうな淺薄のものではなく、いかなる困難、迫害があらうとも、かならず突破して、成就しなければならぬといふ鞏固(きようこ)な勇氣をわたくしの身内にふるひおこし、ほとんどわたくしを英雄的興奮に追ひあげてゐたほどのものであつたのです。親が反對するか、周圍が反對するか、或ひは彼女へ思ひをかける戀敵(ライバル)が、わたくしへ決鬪を申しこむか、火でも、矢でも、嵐でも、來らば來れと、決意してゐたのでした。ところが、それが、なんと! あらはれた敵といふのが、煙草であらうとは!
ああ、戀か? 煙草か? わたくしの戀人が煙草のみであるといふことは、到底わたくしの耐へ得るところではない。然らば、彼女を思ひ切るか。ああ、それができるくらゐなら、なんでこれほど苦しみませう? わたくしは混亂し、悶え、天を仰いで、慟哭(どうこく)しました。彼女が煙草をやめてくれれば、これに越したことはないのでありますけれども、彼女の煙草を吸ふ樣子といふものは、彼女の煙草への愛好がいかに深いかといふことを、如實に語つてゐます。彼女はわたくしに、一本いかがといつて、小筥のケースをさしだしました。わたくしが、のまないと申しますと、ちよつと怪訝(けげん)な顏はしましたが、そんなにわたくしが、極端な煙草嫌ひ、煙草恐怖症といふことを、もとから知るわけはありませんから、默つてケースをしまふと、なほも、煙草をくゆらし、さもおいしげに、心地よげに、空にむかつて、紫色の輪を吹くのでした。それが五月の風にたなびいて、消えてゆく。見た目にはきれいなのですが、わたくしの方は、そのにほひのいやらしさに、悶絶せんばかりでしつかりと鼻をふさいでゐるのでした。わたくしが彼女を失ひたくなければ、この煙草への嫌惡を我慢するほかはない。この忍耐と克己がはたして可能か。わたくしの宿命を變へ得るか。いかなる暴力的な施療をもつてすれば、この變貌を遂げ得るか。わたくしに自信も意見もあらうわけはなく、戀か? 煙草か? 不可能を可能にし得ぬ弱少の資質に、ほとんど泣きたいばかりでありました。
彼女とて、かういふわたくしをも愛し、この戀愛を遂げんとすれば、煙草をやめなければ、あの、黑白一致の完全な合體はできない。戀か? 煙草か? とりもなほさず、それは彼女自身の悲痛な課題でもあつたでありませう。
紳士淑女諸君、
かくのごとく、煙草の害たるや、恐るべきものであります。わたくしは觀念しました。今さら、わたくしが最大の鬼門であり、なにより、先天的習性による宿敵といつてよい煙草へ屈服することは、いかにしてもできない。何度でもいひます。わたくしは煙草は嫌ひです。どうしても好きになれません。煙のにほひを嗅ぐと、卒倒しさうになります。これまで一度も、手にしたことすらありませんが、もし、手にしたら、その瞬間に、わたくしは癲癇(てんかん)的發作をおこすかも知れません。煙草はわたくしの敵です。そして、煙草は、……おや! 皆さん、これは、なんとしたこと! 皆さんは、わたくしをなぶるつもりですか。人が惡いにもほどがある。誰もかれもが、煙草をのみはじめた。五六人かと思つたら、七人、十人、二十人、四十人、百人、……ああ、みんなだ。全部の方が、煙草を吸ひだした。煙がもうもうと場内を埋める。わたくしの方へくる。たまらない。いやなにほひだ。皆さんは、わたくしを燻(いぶ)し殺すつもりですか。ああ、やめて下さい! やめて下さい!
おや、わたくしの眼のあやまりではないか? 全部が煙草を吸つてゐるのに、たつた一人、吸はない人がある。あの人だ! あなただ! あなたが、今夜の辯論大會にきてゐることをはじめから、僕は知つてゐたんです。僕は、あなたのことを念頭において、はじめから喋舌(しやべ)つてゐたんです。いや、あなた一人に向かつて、話、いや、僕の告白、願望を述べてゐたんだ。ああ、あなたは煙草を吸つてゐない。あんなに、好きだつた煙草を。戀か? 煙草か? あなたの考へはきまつたんですか?
滿堂の紳士淑女諸君、
諸君は意地わるく、わたくしを嘲弄しようとなさる。わたしを煙攻めにする。わたくしを癲癇で卒倒させようといふ魂膽にちがひない。たしかにわたくしは眼が舞ひさうだ。氣が狂ひさうだ。しかしながら、わたくしは諸君に負けたのではない。勝利者はわたくしです。わたくしが勝つたのだ。わたくしの戀人がわたくしをうけ入れたのだ。……皆さん、その中央の座席にゐる女人、さつきから、わたくしが縷(る)々として述べたすばらしき美人、それこそ、彼女です。ああ、煙草の海のなかで、たつた一人、煙草を吸はずにゐる。すてきだ! 僕は勝つた!……おや、あなたはどなた? 演説の最中に、演壇に土足であがるとは、なにごとです? なに、警察官? 警官が、小生になんの用があるのです? 用があるなら、あとで承ります。いまは、大切な辯論の最中だ。小生の一生の輝ける瞬間です。殺風景な警官の闖入(ちんにふ)で、妨げられたくはありません。小生の辯論に忌諱(きゐ)にふれる個所はない筈です。檢閲にひつかかるやうなことは、なにひとついつてゐないぢやありませんか。……なに? 全然、別の用だつて? なんです、それは? 逮捕状! 小生を逮捕するのですか? 冗談ぢやないですよ。僕はそんなことはなにもしてゐないよ。……えつ? 僕がヤミ煙草を製造した? ここで皆が吸つてゐる煙草は、全部、僕の祕密工場から出たものだつて? やめて下さい。冤罪(ゑんざい)を着せるにも、ほどがある。さつきからの僕の辯説を聞かなかつたんですか。僕は生來煙草嫌ひ、煙は勿論、煙草を手にとつただけでも卒倒する。そんな僕が、なんで、煙草なんか作るもんですか。とんでもない濡衣です。……あつ! それは!……うむ、……そんな證據があがつてゐるのか。……さうか。……そんなに引つぱらなくてもよろしい。もうかうなつたら、惡びれはしません。行きます。待つて下さい。一服してから行きます。……どうです、あなたがたも一服されたら? これ、最上等の葉卷ですよ。
[やぶちゃん後注:正直、惨めな恐妻家を痙攣的に露呈してゆく原話に比すと、格落ちは否めず、落ちもイマイチである。演じて見たい気はあまりしない。]
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