本ブログ・カテゴリ「「鎌倉日記」(德川光圀歴覽記)【完】」のリンクに就いて
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「ひょっとこ太郎」氏より御指摘を頂き、「鎌倉日記(德川光圀歴覽記)」の「鹽嘗地藏」の「明道ノ石佛」の注を補正した。孤独な作業者としての僕としては、「ひょっとこ太郎」氏には、何遍、謝意を評しても足らない気がしている。ありがとう!
「ひょっとこ太郎」氏より更なる情報を頂戴し、「鎌倉日記(德川光圀歴覽記)」の冒頭で未確定であった「旗立山」を同定した。
誰も振り返って立ち止まっては呉れないと思っていたのに――タルコフスキイが言うように――必ず振り返って――そして微笑んで呉れる人がいるんだなぁ……
「鎌倉日記(德川光圀歴覽記)」の冒頭で不詳としていた「燈寵崎」「海馬嶋」「旗立山」に近世史研究家「ひょっとこ太郎」氏の御教授により、同定情報を追記させて戴いた。「ひょっとこ太郎」氏に心より謝意を表する。因みに、氏のHP、江戸の剣客無外流流祖辻月丹(つじげったん 慶安元(一六四八)年~享保一二(一七二七)年)を探る「無外流兵法譚」――必見である!
「やぶちゃんの電子テクスト:小説・戯曲・評論・随筆・短歌篇」に同一括版「鎌倉日記(德川光圀歴覽記) 德川光圀 附やぶちゃん注」を公開した。本年最初の大型テキスト公開となった。
佐竹屋敷
名越海道ノ北、五本骨ノ扇ノ如クナル山ノウネアリ。其下ヲ云也。
安 養 院
祇薗山ト號ス祇薗ノ社アリ。本尊阿彌陀、淨土宗智恩院ノ末寺ナリ。開山願行也。二位尼ノ草創ニテ、長谷ノ前、水無瀨川ノ邊ニ有シヲ、高時滅亡ノ時、此地ニ移スト云傳フ。然ドモ舊記ナケレバ慥ニハ知ガタシ。願行ハ笹目ガ谷長樂寺開山隆觀ガ弟子也トイフ。按ズルニ向者(サキ)ニ淨光明寺ノ僧語テ云、願行ハ禪僧正義專一代居住シ、他ニ出ルコトナシト。又覺園寺ノ開山心意和尚ハ願行ノ嗣法也ト。覺園寺ハ律宗ニテ、泉涌寺ノ末也。然ラバ泉涌寺ノ僧ト云説、是ナルベシヤ。但願行ニ同名二人アリテ、此寺ノ開山ハ別ナルニヤ、未ダ審ナラズ。
[やぶちゃん注:「智恩院」は「知恩院」の誤り。この記載の疑義は、安養院がここに移転する前に善導寺(移転前に廃寺)という寺があったこと、この善導寺の開山が浄土宗名越派の祖であった良弁尊観(浄土宗三祖良忠の弟子)で下総・常陸・下野から東北地方全域へと教線を広げていったその本拠地が善導寺であったこと、その後に移って来た安養院はもと律宗であったものが途中で浄土宗に改宗された寺であること等による。しかし、今回、更に調べてみて不思議なことが分かった。それは、「鎌倉市史 社寺編」の「安養院」には、
延享四(一七四七)年
六月に行われた『諸宗寺院本末改により京都知恩院末となる』という記載がある点である。この「鎌倉日記(德川光圀歴覽記)」は、
延宝二(一六七四)年
五月の記録である。これは「鎌倉市史」の言う延享四年より七十三年も前に、既に知恩院末寺となっていたことを示している。これはどういうことか? 非公式には以前から既に知恩院末格となっていたものが、そこでの改組に伴い正式に認定されたということか? 識者の御教授を乞うものである。]
花 谷〔附蛇谷〕
内ニ谷々多シ。大倉へ出ル切通シニアリ。此谷ノ内ニ蛇谷ト云アリ。昔若キ男アリ。老女ト相具セリ。老女廿歳計ナル娘ヲ持タリ。年來住渡リテ老女ノ思ヘルハ、我齡傾キヌ。若キ男ニ相馴シコト、誠ニヲコガマシ。不若(若(し)かじ)我娘ヲ我男ニ合セ、吾ハ別ニ家ヲ作ラセテ居ンニハトテ、彼男ニカクト語ケレバ、男是ヲ受ゴハズ。猶親カリケレドモ、老女少モウハノ空ナルコトニアラズ。望ム如クニシ玉へト、度々云ケレバ、男モ否(イナ)ミ難クテ、我居所ノ側ニ、小キ居ヲ構テ老女ヲ居キ、男ハ娘ト相具シテケリ。一年ニ年住渡テ彼母、煩クテ閨ヨリ出ザリケレバ、男ノ留守ニ娘母ノ許へ行テ、此程ハ御心重ク見へサセ玉フ。藥ナド奉ンヤト問ケレバ、母痛ク忍テ事ナキ由ヲ云ケリ。娘ノ云ク、何事ヲカ我ニ隱サセ玉フゾトテ、泣恨ケレバ、母點シガタクテ曰ク、我男ニソコヲ合置テ、カタ住ナスコト專心ヨリシテ爲(ナス)事ナレバ、人ヲ恨ムべキニ非ズ。然ヲ何トナク寢ザメノサビシサ、又ハ二人住居ルヲ餘所ナガラ見ナセシガ、若ソレニヤ有ケン、我指二ツ蛇ニ化(ナ)レリ。我身ナガラモ愧ク、妬シサニヤ成ケント思ヒ、煩フ計ナリ。是見ヨトテ出スヲ見レバ、兩ノ大指ハ蛇ニ成、目口鮮(アザヤカ)ニ有テケリ。娘恐ロシク二目トモ見ルコトナク、トカク我ガ在故ニヤト思ヒ、其儘走出テ或ル寺へ行、尼ニナリニケリ。男歸テ此事ヲ聞キ、爲方ナクヤ思ヒケン、其マ、男モ樣ヲ化ケリ。母モ若キ二人ノ者共ダニ出家ス。我トテモ爭カ有ントテ、樣ヲ化(カヘ)、諸國修行シケバ、輪囘ヲヤ離レケン、本ノ如クエ指ハナリケルトカヤ。是ヨリシテ蛇谷ト云リ。長明ガ發心集ニ詳ナリ。今此所ヲ尋ルニ、イヅクトモ知レガタシ。今按ズルニ舊記ニカク引タレドモ、發心集ニハ何レノ國ト慥ニ聞侍リシカド、忘ニケリト云リ。沙石集ニ、鎌倉ニ或ル人ノ女、若宮ノ僧坊ノ兒ヲ戀テ、思ヒ死ニ死ヌ。骨ヲ善光寺へ送ラントテ箱ニ入置ケリ。其後兒病付テ物狂ハシクナリケレバ、一間ナル所ニ押コメテヲクニ、人ト物語スル聲シケリ。人物ノヒマヨリ見レバ、大キナル蛇ト向ヒ居ル。サテ終ニ兒モ死ニケリ。若宮ノ西ノ山ニ葬ムルニ、棺ノ中ニ大キナル蛇アリテ、兒ニマトハリタリ。サテ女ノ骨モ小蛇ニ化(ナリ)タリト云リ。此故事故ニ谷ノ名歟。
[やぶちゃん注:本話「母妬女手指成虵事(母、女(むすめ)を妬み、手の指、虵(くちなは)に成る事)」は「新編鎌倉志卷之七」の「蛇谷」で、「発心集」の正規本文も示して詳細な考証も附してあるので、是非、お読み頂きたい。また、最後に引く「沙石集」の「七 妄執に依つて女蛇と成る事」も「鎌倉攬勝考卷之一」の「蛇谷」で全文と語注を附してある。合わせてご覧頂きたい。従ってここでは表記上の問題箇所の指摘にのみ留める。
「不若我娘ヲ我男ニ合セ、吾ハ別ニ家ヲ作ラセテ居ンニハトテ」ここは、「我が娘を我が男に合はせ、吾は別に家を作らせて居(す)まんには若かじ、とて」と返らなければおかしい。
「煩クテ」「わづらはしくて」と訓じているか。若しくは「煩ヒテ」の誤記かも知れない。患って。
「母點シガタクテ」は「母默シガタクテ」の誤り。「もだし」と読む。]
妙 法 寺
楞嚴山ト號ス。本ハ不受不施ニテ松光山啓運寺ト云リ。日蓮始テ法華經ノ首題ヲ讀誦セシ所ナリ。本尊釋迦、開山日卯、中興日受ナリ。住持之云、誰ノ建立トモ知レズ。近來鎌倉久兵衞ト云市人ガ再興セリ。
[やぶちゃん注:「日卯」は「日印」の誤り。]
安 國 寺
妙寶山ト號ス。前記ニ寶久山ト云ハ誤ナリ。比企谷ノ末寺ナリ。本尊釋迦。此堂ハ廿年計以前ニ家臣小野角右衞門言胤再興ス。日蓮安房ノ小湊ヨリ始テ來リ、此堂ノ後ナル岩窟ニ居テ、安國論ヲ編ケルトナリ。内ニ日蓮ノ石塔アリ。前ニ影堂アリ。
名 越 入
材木座ト名越切通トノ間ヲ云。東鑑三建久三年七月廿四日、幕下名越殿に渡御ストアリ。
長 勝 寺
石井山ト號ス。名越坂へ通ル東北ノ谷ナリ。法華宗本國寺ノ末也。本尊釋迦、開山日卯、嘉暦元年ノ草創。其後日靜ハ尊氏ノ叔父ナル故、彌繁昌タリシガ、日靜本國寺へ入院ノ時、寺家多ク隨ヒ移リテヨリ以來、次第ニ零落シタリト也。寺領四貫三百文、豐臣秀吉幷三御當家四代ノ徹朱印アリ。秀吉禁制札モアリ。本堂ハ小田原北條家ノ時ニ、遠山因幡守宗爲再興ス。因幡守夫婦ノ木像アリト、寺僧隆玄院物語シ侍リヌ。
[やぶちゃん注:「日卯」は「日印」の誤り。]
日蓮乞水
名越切通ノ坂、鎌倉ノ方へ一町半計前ナル道ノ側ニ、少キ井ノ樣ナル所アリ。里翁ニ間へバ、果シテ是ヲ乞水ト云。是ハ日蓮安房ノ國ヨリ鎌倉ニ移ル時、此坂ノ中ニテ水ヲ求レバ、俄ニ涌出ケルトナリ。今ハ跡バカリアリ。
名 越 坂
三浦へ通フ道ナリ。杜戸ノ明神へ行ク陸道ハ此坂ヲ行也。此峠鎌倉ト三浦トノ境也。甚峻峻ニシテ道狹ク、左右ヨリヲヽヒタルガ如シ。峠ヨリ西ヲ名越ト云。東ヲ久野谷ト云。
名越三昧場
名越切通ヨリ北山ノ巓キ、少廣所三石塔一ツアリ。男石塔、女石塔アリト云事、前記ニアレドモ、今ハイヅクエアリトモ見へズ。
御猿場山王
小山三松少シ有所ヲ云。昔此ニ山王ノ社アリ。里老ガ云。日蓮鎌倉ニ始テ出ル時、諸人憎テ一飯ヲモ送ラズ。然ル時此山ヨリ猿ドモ、群ガリ來リテ、畑ニ集リ、喰物ヲ營ミテ日蓮へ送リケル故ニ云ト也。
法 性 寺
猿畠山ト號ス。寺ヨリ遙カ上ニ塔アリ。其上ノ岩穴ニ日蓮ノ影アリ。今ハ塔ノ内へ入置。塔ヨリ北ニ六老僧ノ籠アリ。塔ノ前ニ日朗ノ墓所アリ。其上ニシルシノ木トテ大ナル松アリ。弘安九年ニ日蓮此寺ヲ建立ス。猿ドモ我ヲ養シコト、山王ノ御利生トテ建立スト云リ。
凡此等ノ事、郷導ノ教ニ任セ、見聞ニシタガヒテ草々シタ書トメヌ。鎌倉記・名所物語・順禮ナド云ル書ヲ指シテ舊記前書トハ云ナリ。件ノ書ニ戴ル事ノ詳ニシテ語ラザルヲバ贅スルニ及バズ。其泄シ殘シテ違ヒヌル事ヲ更ニ考へ正シ、且又モトヨリ聞ケルコトドモ思ヒ出ルマヽニ、アト前トナク雜へシルシヌ。鎌倉ノ地圖、三崎・杜戸・江島・金澤・鶴岳社・建長寺・圓覺寺・稱名寺・道寸古城等ノ諸圖、及ビ諸寺ノ鐘銘等ハ、別紙ニアリ。合テ見ルべシ。
延寶二年〔甲寅〕五月 日
引用書目錄
[やぶちゃん注:以下は底本では四段組。]
萬葉集 類衆和名抄
詞林采葉〔仙覺作〕 東鑑
太平記 徒然草
野槌 長明海道記
發心集 沙石集〔無位作〕
[やぶちゃん注:「無位」は「無住」の誤り。]
續古今和歌集 新拾遺倭謌集
未木集〔藤長淸作〕 類聚名所和歌〔昌瑑〕
[やぶちゃん注:「昌瑑」は連歌師里村「昌琢」の誤り。]
鶴岡記 鎌倉五山記
鎌倉物語〔中川喜雲〕 鎌倉順禮〔澤庵作〕
[やぶちゃん注:「中川喜雲」は正確には「中河喜雲」が正しい。]
鎌倉記〔松村〕 鎌倉集書〔手塚太郎左衞門〕
[やぶちゃん注:「鎌倉記〔松村〕」「鎌倉集書〔手塚太郎左衞門〕」ともに私は不詳。識者の御教授を乞う。]
鎌倉覺書〔四通〕 關東兵亂記
[やぶちゃん注:「鎌倉覺書〔四通〕」不詳。識者の御教授を乞う。]
寺社領員數記 大友興廢記
王代一覽 日本事跡考
[やぶちゃん注:「日本事跡考」寛永二〇(一六四三)年に儒学者林春斎が記した「日本国事跡考」のことと思われる。]
神社考 壒嚢鈔〔行譽〕
節用集 闇齋遠道紀行
道春丙辰紀行 東海道名所記〔淺井松雲作〕
延寶三年〔乙卯〕正月 日
吉元常
同校
井友水
[やぶちゃん注:最後の記名は底本では詰まった二名の二行書きの中央下に「同校」がある。因みに、「新編鎌倉志序」の三種ある内の最後の「新編鎌倉志」参補である力石忠一のものの冒頭には、
延寶甲寅の夏、我
水戸相公、常陽より至る時、路(みち)、鎌倉に過ぐる。名勝を歷攬して、吉常をして見聞する所を記せしむ。丙辰の秋、特に河井友水をして鎌倉に如(ゆ)かしめ、古祠舊寺、以て里巷・荒村・蒭蕘(すうげう)の言に迨(いた)るまで、質(ただ)し問ひて之を載す。
とあることから、実際の本日記の筆録は、光圀の指示を受けた吉元常になることが分かる。
以上を以って「鎌倉日記(德川光圀歴覽記)」総てのテクスト化を終了した。]
地 藏 坂
建長寺ヲ出、南行シテ路傍ニ伽羅陀山ノ地藏堂アル所ヲ云。
[やぶちゃん注:これは当時既に廃寺となっていた伽羅陀山心平寺の地蔵堂である。「鎌倉廃寺事典」によれば、建長寺は元処刑場であったが、そこに元あった禅宗寺院が心平寺えあったとする。『建長寺創建の際、当心平寺の地蔵堂だけが残っていたのを、小袋坂上に移建したという』とする。「新編鎌倉志卷之三」の建長寺の図の右下に「伽羅陀山地藏」と記す一堂が描かれてある。『この堂は小袋坂新道開通前まであって、いまは横浜三溪園に移されている。その本尊地蔵菩薩坐像は建長寺仏殿内に安置してある』とある。]
小袋坂〔或ハ作巨福呂〕
建長寺ノ南、地藏坂ヨリ南ノ切通ヲ云。延應二年〔月付落ル〕十九日、山ノ内ヲ切通シ、往還ノ通路ヲ作ル。賴經將軍ノ治世、泰時ノ執權ノ時ナリト云。山ノ内トハ小袋坂ヨリ北ノ出崎マデノ總名ナリ。
[やぶちゃん注:「新編鎌倉志卷之三」の「山内」の条に『里人は、東は建長寺、西は圓覺寺の西野の道端、川邊に榎木あるを境として、それより東を山内と云ひ、西を市場村・巨福路谷(こふくろがや)と云』とある。この時期には既に現在の狭義の「山ノ内」と同領域にこの地名が限定されていたことが分かる。]
聖 天 坂
小袋坂ノ出崎ノ西南ノ高キ所ニ、昔聖天ノ宮アリシ故ニ、今モ其所ヲカク云トナン。遂ニ雪ノ下へ出テ旅寓へ歸リヌ。明日ハ早武江へ行ントスルニ、名越口見殘シツレバ、老臣等ヲ遣シテ是ヲ見セシム。
[やぶちゃん注:見残して去ってしまう部分を、ちゃんと家臣に命じて見聞させているところ、流石、黄門さま、面目躍如たる感がある。]
建 長 寺
五山ノ第一ナリ。相摸守平時賴、建長五年ニ建立ス。開山大覺禪師、諱ハ道隆、蘭溪ト號ス。嗣法無明。詳ニ元享釋書ニ見へタリ。寺領九十五百九百文ナリ。表門ニ天下禪林ノ額、崇禎元年十一月日、竹西書ストアリ。門前ノ池ハ金龍水ト云名水也。山門ノ額巨福山、筆者シレズ。鐘アリ。至テ妙巧、鐘ノ銘、別幅戴之(之を戴す)。此寺昔ハ塔頭四十九ヶ寺アリシガ、今ハ廿一ヶ寺アリトナリ。昔ノ跡トテ今モ猶實ニ五山トオボシキハ圓覺・建長ノ二寺ノミ。境内廣ク、山澗林岡樹木欝々タル勝地ナリ[やぶちゃん字注:「澗」の「日」は底本では「月」。]。本堂ノ本尊、應行ノ作ノ地藏也。腹中ニサイタ地藏アリト云。應行ハ運慶ノ弟子也。此ニ谷アリ。地獄谷ト云。賴朝ノ時、犯罪ノ者ヲ成敗セシ所也。或時サイタト云者、科ニ因テ刑ニ逢ケルニ、敷皮ニナヲリケル時、人敢テ切ルべキ心地モナク、時ヲウツシケレバ、各罪ユルサレケリト心得テ退散シケリ。後ニ見レバ、多年尊信シケル地藏ノ首ニ、太刀ノ切目アリ。是ヨリ地藏ヲ地獄谷ニ安置シテ、サイタ地藏ト云ナリ。大友興廢記ニ、千躰ノ小地藏アリ。サユウト云者ノ作ナリト云。今ハ見へズ。但サイタ地藏ノコトカ。又開山堂ノ後ロヲ開山山ト云。地藏アリトナン。巳ニシテ方丈ニ到ル。龍源庵溪堂長老、諱ハ玄廉ト云僧迎接ス。方丈ノ後ニ靈松觀音石アリ、庭除多景也。千手觀音ノ木像〔常ニハ山門ニアリ。今修理ノ爲ニ暫ク此ニヲクト云。〕、時賴・開山ノ木像アリ。
[やぶちゃん注:「庭除」「除」も庭の意。庭園。中庭。]
寺寶
三幅對〔中尊釋迦 思恭筆 左右猿猴 牧溪筆〕
羅漢 八幅
〔但一幅ニ二人充畫ク、是ヲ唐畫ト云傳フ。狩野探幽永眞等ハ、兆典主ナランカト云フ。〕
開山堂ニ詣ル。圓鑑ト云額アリ。開山大覺ノ筆ナリト云傳フ。開山自作ノ木像其側ニアリ。柱杖ヲ渡海ノ柱杖ト云。入唐ノ時携タル故ト也。外堂ニ迦葉・達磨ノ木像アリ。開山ノ舍利、院中ニアリト云。開山堂ノ前ニ舍利樹ト云木アリ、枝葉扶疎タリ、側ノ堂三上テ寺寶ヲ見ル。
[やぶちゃん注:底本では、この「達磨……」の右に編者による『(以下錯簡ニ付キ異本ヲ以テ補ウ)』という傍注がある。確かに、次の行で再び「寺寶」とある。また、この注によって本「鎌倉日記(德川光圀歴覽記)」は少なくとも二冊以上の異本があることが分かる。]
寺寶
〔此形ナル鑑ナリ。クモリテ分明ナヲズ。中ハサビノ如ク、高ク起上リタルアトアリ。〕
[やぶちゃん注:以下に「新編鎌倉志卷之三」の「建長寺」の項の「圓鑑(えんかん)」の図を示しておく。
此鏡ノ記、前人ノ説詳也。其略ニ云。開山隨身之鏡也。入寂ノ時隨侍ノ僧ニ授ク。其後平時宗禪師ヲ慕ヒ、愁歎斜ナラズ。或夜夢ニ禪師時宗ニ向テ曰ク、シカジカノ僧ニ授ケ置シ鏡ニ、我容ヲ殘ス也。我ヲシタハヾ、此鏡ヲ見ヨトノ玉フ。夜明テ時宗此鏡ヲ尋トリテミガケバ、觀音ノ像ト見へタル紋アリ。時宗感ジテ圓覺寺ノ山ノ内ニ觀音三十三躰ヲ安置シ、寶雲閣ト名ケ、其本尊ノ首ニ納シガ、圓覺寺火災ノ時、建長寺ノ守嚴和尚坐禪シテ在ケルニ、空中ニ聲有テ守嚴ト呼。守嚴驚テ圓覺寺ニ行、門前ノ白鷺池ニ觀音ノ首アリ。取上見レバ中ニ此鏡アリ。即ソレヨリ建長寺へ納ト也。佛光・一山・月江・虎關ナドノ讚銘序ノ諸作多シ。
大覺自作小觀音 一軀
開山法語 二幅
十六羅漢左右兩頭蓮 十八幅究
觀音像〔顏輝筆〕 三十二幅
朱衣達磨〔啓書記筆〕 一幅
開山自畫自贊〔開山筆〕 一幅
贊曰 拙而無比 與它佛祖結深※1 老不知羞 要爲人天開正眼
是非海中濶歩 輥百千遭 劍戟林裏横身 好一片膽
引得朗然居士
於※2峯上能定乾坤
負累蘭溪老
向巨福山乘舴艋
相同運出 自家珍
一一且非 從外産
辛未季春住持建長禪寺宋蘭溪 道隆
奉爲朗然居士書干觀閣
今案ズルニ辛未ハ文永八年ナリト。
[やぶちゃん注:「※1」=「窟」-「屈」+「免」、「※2」={(上)「雨」+(下)「隻」}。
「奉爲朗然居士書干觀閣」の「干」は「于」の、原本の誤りか底本の誤植と思われる。
「新編鎌倉志卷之三」の「建長寺」の項の「朗然居士の畫像」条に連続した文として示されてある賛を、ここと同じ位置で、句読点を排して配してみる。
拙而無比 與它佛祖結深寃 老不知羞 要爲人天開正眼
是非海中闊歩 輥百千遭 劍戟林裏横身 好一片膽
引得朗然居士
於※2拳上能定乾坤
負累蘭溪老人
向巨福山倒乘舴艋
相同運出 自家珍
一一且非 從外産
辛未季春住持建長禪寺宋蘭溪 道隆
奉爲朗然居士書于觀瀾閣
「寃」は影印では(うかんむり)が(あなかんむり)であるが、基礎底本とした地誌大系本を採っている。「※2」は影印では「雨」が「兩」のように見受けられる字体。大きな相違点は「※2」の次の字で、ここでは「峯」であるのが、「新編鎌倉志卷之三」では「拳」となっている点。この「朗然居士」とは現在、蘭渓を招聘した時の執権北条時宗と推定されている。以下に影印の訓点を参考に書き下したものを同じような配置で示しておく。
拙にして比無し 它(ほか)の佛祖と深寃を結ぶ 老いて羞を知らず 人天の爲に正眼を開かんことを要す
是れ非海の中に闊歩して 輥(こん)百千遭 劍戟林裏に身を横たふ 好一片の膽
朗然居士を引き得て
※2拳上に於いて能く乾坤を定む
蘭溪老人に負累して
巨福山に向ひて倒るに舴艋(さくまう)に乘る
自家の珍を運出するに相ひ同じく
一一且つ外より産するに非ず
辛未季春住持建長禪寺宋の蘭溪 道隆
朗然居士が奉らんが爲に觀瀾閣に書す。
「它」は「他」の意か。「輥」はぐるぐる回ることを言う。「舴艋」は小さな舟のこと。「※2拳上」は不詳、ただ本文の「※2峯上」の方が当たりな感じがする。雲を突いて出る峰などの謂いか。識者の御教授を乞うものである。]
白衣觀音畫 一幅〔思泰筆〕
金剛經 一部〔大覺筆〕
紺紙金泥法華經 一部〔八軸〕
日蓮筆、袖並ノ繪モ日蓮筆ナリト云。
開山九條袈裟 四
同衣 一
坐具 一
珠數 一
掛羅 一連
[やぶちゃん注:「掛羅」は「くわら(から)」と読む。「掛絡」「掛落」とも書き、本来は禅僧が普段首に掛けて用いる小さな略式の袈裟を言うが、これは数詞を「連」としており(袈裟なら「頂」のはず)、推測であるが、掛羅袈裟に付けてある装飾用の象牙などの輪のことを言っているのではあるまいか。なお、次の「佛舍利」も参照のこと。]
佛舍利 二〔一ツハ水晶、玳瑁ニテ六角〕
[やぶちゃん注:「玳瑁」の前に「一ツハ」を補いたい。「新編鎌倉志卷之三」の「寺寶」の中には、
開山九條の袈裟 貮頂 環クワンは水晶。
開山七條の袈裟 貮頂 環は玳瑁、六角なり。
という条々がある。この袈裟の数を見ると、合わせて「四」で、実は先の光圀の記載はいい加減であることが分かる。更に高い確率で、それら「袈裟」の水晶と玳瑁(タイマイ)製の袈裟の装飾具だけを外したものを光圀は見せられて、仏舎利と騙されたと考えられる(禅門なら平気でやりそうだし、実際、それは確信犯であるのかも知れぬ。円覚寺や建長寺などで私の実見した仏舎利と称するものは、その殆んどがどれも水晶であった)。]
十六山善神 一幅〔唐繪、筆シレズ。〕
〔寺僧云、唐畫八十幅ホドアレドモ、朽弊シタル所アル故ニ出サズ。此外ニ書畫甚多シ。詳ニ見ルニイトマアラズ。〕
本堂ニ乙護童子ノ木像アリ。江嶋ヨリ飛來ルト云傳フ。溪堂長老ガ云、本ヨリ伽藍ノ守護神ニテ、寺ニアルべキコトナリトゾ。開山堂ノ總門高山ノ額ハ、納置テ出サズ。佛光ノ筆ナリ。西來庵ノ額、竹西筆ナリト云。興國禪寺ノ額、子曇西澗筆ナリ。傳燈庵ノ開山ナリト云。裏門ノ額ニ海東法窟崇禎元年十一月日竹西書トアリ。朝鮮人ナリ。建長寺ノ内、囘春庵存首座、長壽寺ノ天溪ナド云僧出テ案内セシ次デニ物語シテ云ク、此寺ノ後ニ池アリ。大覺池ト云。大龜常ニ居ルト云。
[やぶちゃん注:「開山堂ノ總門高山ノ額」の「高山」は「嵩山」の誤り。
「次デニ」は底本に右に『(序)』と補注するが、「次」は鎌倉時代以来、「ついで」と一般的訓ずるものである。]
圓 覺 寺
五山ノ第二也。相模守時宗、弘安五年十月十四日建立。開山圓滿常照國師佛光禪師、諱ハ祖元、字ハ子元、無準ノ嗣法ナリ。亨釋書ニ詳ナリ。本尊ハ釋迦・梵天・帝釋ノ木像、倶ニ京ノ殿ノ作ナリト云。大門ノ額ニ瑞鹿山〔龜山院勅筆〕。法堂ノ額、大光明寶殿〔後光嚴院勅筆〕。百四十貫文ノ御朱印アリ。今ハ塔頭十九ヶ寺アリ。明鏡堂は本尊觀音、佛殿ノ脇ニアリ。毎月十八日ニ衆中寄合懺法アリ。
[やぶちゃん注:「亨釋書」「元亨釋書」の脱字。]
寺寶
常照國師自畫白讚
時宗自筆佛法問答ノ狀幷佛光自筆ノ返札
勅謚佛光禪師ノ掛物〔伏見院宸翰〕 一幅
圓覺興聖禪寺ノ額 一幅
山門ノ額ナリト云。筆者シレズ。
平貞時ヨリ圓覺寺へノ壁書。其文ニ
圓覺寺制府條々
一 僧衆事
不可過弐百人
一 粥飯事
臨時打給一向可停止之
一 寺中點心事
不可過一種
一 寺參時※從輩儲事
可停止之、
[やぶちゃん字注:「※」=「广」+(中に)「邑」。]
一 小僧喝食入寺事
自今以後一向可停止之、但旦那免許非禁制之限、
一 僧徒出門女人入寺事
固可守先日法、若違犯者可追放之、
一 行老人工帶刀事
固可禁制之、若有犯者永可追出之、
右所定如件、
乾元二年二月十二日 沙彌判ト有
[やぶちゃん注:提示の順序が逆。乾元二(一三〇三)年のこちらの寺院禁制の定め書きである制符状の方が次の同文書(クレジット永仁二(一二九四)年)よりも新しい。これは、「鎌倉市史 資料編第二」の資料番号三七の乾元二年二月十二日附「崇演〔北條貞時〕圓覺寺制符條書」である。「※從」はそこでは「扈從」となっている。題の「制府」はママ。寺内の僧衆の総員は二百人を超えてはならない・臨時の粥飯を支給してはならない(禅宗では斎(とき)という午前中一回の食事以外には原則上食事は認められないが、非時と称して昼や夜が認められていたが、ここはそれ以外の間食を禁じているのであろう)・寺内での点心(禅家で非時の昼食を指すが、これは一汁一菜のことと思われ、正式な食事である斎を含む総てか)は一種類を過ぎてはいけない・檀家が檀那寺に参る際には僧の供の者どもに対して饗応してはならない・檀那が許可した以外の小僧や喝食を寺に入れてはならない(稚児はしばしば同性愛の相手となった)・僧の出奔や女の入寺の禁止と違約した者の永久追放(破戒僧は恐らくは打擲されて死んだ場合もあろう)・行者や人工(寺内で作業する職人のことか)の帯刀禁止と違約した者の長期に亙る強制退去の内容である。これは次の禁制の円覚寺再通達版であるところをみると、これらを違反する僧衆が(高い確率で結局はこの後も)後を絶たなかったことを意味している。「沙彌」は貞時のこと。本文に異同はない。]
又
禁制條々
一 僧衆不帶免丁事
一 禪律僧侶夜行佗宿事
若有急用之時者爲長老之計可差副人也、
一 比丘尼幷女人入僧寺事
但許二季彼岸中日、二月十五日、四月八日、
七月孟蘭盆兩日、此外於禪興寺者毎月廿二日、
於圓覺寺者毎月初四日可入也、
一 四月八日花堂結構事
一 成臘牌結構事
一 僧侶横行諸方採花事
一 僧衆去所不分明出門事
一 延壽堂僧衆出行事
一 僧侶着日本衣事
一 僧徒入尼寺事
一 四節往來他寺作礼事
一 僧衆遠行之時送迎事
右條々於違犯之輩者不論老少、可令出寺也、若於有子細者可指申其名之狀如件、
永仁二年正月日
貞時ノ判ナリト云。
[やぶちゃん注:これは、「鎌倉市史 資料編第二」の資料番号二四の永仁二年正月附「北條貞時禪院制符條書」で、題と内容から見ると、これは鎌倉御府内(と考えられる)の禅宗寺院への共通禁制の定め書きと考えられる。寺内の僧衆は必ず「免丁」――「めんちん」と読み、当該寺院の修行僧であることの安居(あんご)許可証――を所持すること・僧の夜間外出及び外泊の禁止(急用の場合は住持が許可することがあってよいが、その際には必ず人を同伴させることという例外条項あり)・比丘尼及び女性の入寺禁止と除外日の規定(春秋の彼岸の中日〔父母・祖霊の供養〕/二月十五日〔釈迦入滅の涅槃会〕/四月八日〔釈迦誕生の灌仏会〕/七月盂蘭盆両日〔父母・祖霊の供養〕/禅興寺のみ開基北条時頼の命日である毎月二十二日の法会/円覚寺のみ開基北条時宗の命日である毎月四日の法会)・灌仏会に於いてそれを執り行う花堂の供養は質素父母・祖霊の供養・その他の仏事に於ける授戒時の礼式や蠟燭や位牌も質素を心掛けること・僧侶が濫りに寺外に出歩き花を摘むことの禁止・僧衆の無断(行先を告げない)外出の禁止・延壽堂(病気の療養を行っている僧が居住した)の僧の外出禁止・禅僧の正式な宋様式でない日本服の着用禁止・男性の僧徒の天セラへの入寺禁止・四節(叢林に於ける結夏・解夏・冬至・年朝の日を指し、その日に行われる上堂説法のこと)に他の寺に行って礼(飛び入り参加か)をすることの禁止・僧衆の遠出の際の送迎餞別禁止と、それら総てについて違反するものは老若を問わず、寺から永久追放、万一、その違反に仔細がある場合はその内容を申告させよ、という実にこまごまとした禁制が示されていてまっこと面白い。資料二四には最後に貞時の花押があるとする。本文に異同はない(漢字表記は市史所収のもので確認した。「礼」はママ。「違犯」は「市史」では(しんにょう)の中が異なるが、底本通りとした)。]
宿龍懸物 一幅〔天山道義トアリ。〕
桂昌 一幅〔同筆〕
普現 一幅〔同筆横ニ並ビテアリ。〕
[やぶちゃん注:「普現」は「普賢」の誤り。]
敕會法華御八講役付書 一卷
相摸入道ノ時ノ事也。レイサン和尚南山ナド云僧此寺ニ在シナリ。
靑蓮院墨蹟 一幅
至德元年十二月十一日トアリ。
最勝輪ノ額 一枚〔後光嚴院宸筆〕
黄梅院額 一枚
〔後小松院寅筆二枚、倶ニ夢想堂ノ額ナリ。夢想ハ佛光ヨリ四十九年モ後ナリ。佛光ノ孫弟子ナリ。佛光ハ大覺俗衣ノ甥ナリ。〕
大幅ノ唐畫ノ觀音 一幅
浴室本尊跋陀婆羅菩薩畫 一幅
筆者宗淵トアリ。
五百羅漢畫 五十幅
唐畫カ、兆典主カト云。
[やぶちゃん注:「兆典主」は「兆殿主」の誤り。]
佛光硯 一面
佛牙舍利幷記
舍利ヲ琉璃ノ皿ニ入、匕(サジ)ヲ添テスクフテ見セシム。長一寸餘、五アリ。
一山自筆状 一通
臨濟像 一幅〔無準贊〕
佛鑑像 同 〔璵東凌贊〕
十六善神 同
南院國師眞跡 同
普明國師眞跡 同
葦航和尚眞跡 同
中山和尚眞跡 同
貞時眞跡 四幅
高時眞跡 一幅
建長圓覺中納言奉書 一幅
西園寺殿書 二幅
六波羅越後守狀 一幅
尊氏判形 二幅
瑞泉寺判形 二幅
同 眞跡 一幅
法衣寄進状 同〔持氏眞跡〕
鹿苑院眞跡 同
此外書畫倶ニ多シ。枚擧スべカラズ。
塔頭ノ内續燈庵ノ寺寶
尊氏自筆ノ法華經 八卷
〔跋ニ奉爲三品觀公大禪定門修五種妙行觀應三年九月五日書寫了。正三位源尊氏判トアリ。續燈庵ハ佛滿禪師ト云僧開山ナリ。淨妙寺へモ住持シタル僧ナリ。〕
本堂ノ乘北へ行コト數町計ニシテ、開山ノ影堂アリ。萬年山續庵ト云。西御門ノ大平寺ト云尼寺ヲ引テ法堂ニ立ルト也。開山ノ木像ノ肩・背ニ鳩ト龍トヲ刻ム。妙作也。野鳥來テ肩ニナレ、百龍袈裟ニ現ズト云傳フ。詳ニハ神社考ノ鶴岡部ニ見へクリ。開山堂ノ上ニ坐禪窟アリト云。路險ニシテ上リ難シ。開山堂ノ東側ニ小池アルヲ宿龍地ト云。佛光日光へ渡シ時、一ツノ龍舟ヲ守護ス。後ニ鎌倉マデ送リ、上ノ池ニ宿セシ故ニ名付ト云。山ノ上ニ鹿岩アリ。此寺創立ノ時、鹿ノ奇瑞アルニ因テ瑞鹿山ト名ク。鹿岩アルモ此故ナリトゾ。本堂ノ北側ニ妙香池ト云池アリ。池ノ北ノ岩ヲ虎頭岩ト云。此寺ノ鐘極テ奇巧ナリ。高林ノ中ニ懸タリ。鐘銘幷ニ足利ノ寒松ガ福鹿懷古ノ詩文別紙ニ戴之(之を戴す)。
表門ノ左右ニアル池ヲ白鷺池ト云。佛光來朝ノ時、八幡白鷺ト化シテ鎌倉ノ導引ヲシテ此池ニ止レリ。因テ此所ニ寺ヲ立テ、池ヲ白鷺池ト云。圓覺寺ヲ出テ南行シテ、第六天ノ森ヲ見ル。建長寺ノ西北、海道ヨリ西ニ有森ナリ。
[やぶちゃん注:「萬年山續庵」は「萬年山續統庵」の脱字。
「佛光日光へ渡シ時」は「佛光日本へ渡シ時」の誤り。
「足利」底本に右に『(足利学校)』と注する。]
淨 知 寺
明月院ノ西北ナリ。金峯山ト號ス。五山ノ第四也。寺領七貫文餘アリ。相摸守師時ノ建立。開山佛源禪師、詳ニ元亨釋書ニ見へタリ。本尊釋迦・彌勒・彌陀ナリ。龜山院ノ細字、文應元年ニ佛源禪師ハ宋ニ歸ル。附法ノ弟子眞應禪師ハ壯年ナルヲ以テ、徑山石溪和尚ノ法嗣佛源禪師言ヲ殘シケル故ニ、眞應・佛源兩師ヲ開山トモ云ナリ。寺へ上ル坂ノ下南ノ方ニ甘露水ト云名水アリ。
寺寶
竺泉畫像 一幅
佛源木像 一軀
伊達天像 一軀〔澤間法眼作〕
地藏 一軀〔運慶作〕
平貞時證文 二通
此外寺寶ドモ有シガ、度々ノ囘祿ニ亡シト也。
[やぶちゃん注:「淨知寺」は「淨智寺」の誤り。
「澤間法眼」は「宅間法眼」の誤り。]
松 岡 山
山門。東慶總持禪寺ト額アリ。本尊ハ釋迦・文殊・普賢、金銅ニテ鑄之(之を鑄る)。此寺ハ平ノ時宗ノ室、尼ト成テ學山和尚ト云。二代目ハ後醍醐天皇ノ姫宮、薙染シ玉ヒ、住持アリシトナン。或ハ學山已前ヨリモ尼寺ニテ有ケルガ、學山住テヨリ世上ニ名高クナルト也。今モ百廿貫文ノ寺領アリ。
[やぶちゃん注:「學山和尚」は「覺山和尚」の誤り。]
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