○相摸守高時出家 付 後醍醐帝南北行幸
嘉曆元年三月に、高時、既に剃髮し、法名をば宗鑒(そうかん)とぞ號しける。舍弟左近大夫泰家を鎌倉の執權として、金澤修理大夫貞顯と連署せさせんとしける所に、長崎新左衞門尉高資、同心せず、押(おさ)へて泰家を出家せしむ。泰家、大に憤妬(いきどほりねた)みて、貞顯を殺さんと計る。貞顯、思ひけるは、『枝葉(しえふ)の職に居て、身を苦め、心を惱(なやま)し、人の嘲(あざけり)を蒙(かうぶ)らんは、偏に世の亂根となり、家門の爲、然るべからず』。これとても、俄に入道して、相摸守守時と北條左近太郎維貞(これさだ)と兩人を以て執權とす。泰家は、鎌倉、亡びて後に還俗し、西園寺の家に忍びでありけるが、刑部卿時興(ときおき)と名を替へて、謀叛しける人なり。維貞は、翌年十月に病死せられたりければ、自(おのづから)遺恨も止みて、別事(べつじ)なく成りにけり。元德二年二月に、主上、思召立ちて、南都に行幸ましましけり。同月の末に及びて、還御あり、又、北嶺に行幸(ぎやうかう)あり。是(これ)、更に佛法信心の爲にあらず、東夷(とうい)征伐の評議を以て衆徒の心を傾けられん謀(はかりごと)とぞ聞えし。當時、山門の貫主(くわんしゆ)は、主上第六の皇子、御母は大納言公廉(きんかど)卿の娘にて、梨本(なしもと)の門跡に御入室あり。承鎭(しようちん)親王の御門弟となり、圓頓止觀(ゑんとんしかん)の窓の前に、實相眞如(じつさうしんによ)の月を弄(ろう)し、荊溪(けいけい)玉泉(ぎよくせん)の流(ながれ)を汲んで、本有常住(ほんうじやうじう)の德を澄(すま)しめ給ひし所に、主上、思召立つ事有りてより、行學修道(ぎやうがしゆゆだう)の勤(つとめ)を捨てて、勁捷武勇(けいせふぶよう)の稽古の外、他事(たじ)なし。大塔宮護良(だいたふのみやもりなが)親王とは、この御事を申すなり。主上は男女に付きて、皇子(みこ)九人、皇女十九人までおはしける。その中にも、大塔宮は殊に武勇智謀に長じ給ひ、主上の御爲、柱礎爪牙(ちうそさうげ)の猛將にて渡らせ給ひける所に、運命、空(むなし)く閉ぢて、後に關東に引下され、直義(なほよし)が爲に殺せられ給ひけるこそ口惜(くちをし)けれ。同五月、二階堂下野〔の〕判官、長井遠江守、二人、關東より上洛す。法勝寺(ほふしようじの)圓觀(ゑんくわん)上人、小野文觀(をのゝもんくわん)僧正、南都の知教(ちけう)、教圓(けうゑん)、淨土寺の忠圓僧正を六波羅へ召捕りたり。是は去ぬる比、主上中宮、御産の御祈(いのり)に事寄せて、鎌倉調伏の法を行はれしと聞えければ、猶、主上御謀叛の子細を尋ねられん爲なり。又、二條中將爲明(ためあきら)は主上の近臣なりとて、六波羅へ召捕りて、拷問・水火(すゐくわ)の責(せめ)に及ばんとせし所に、
思ひきや我が敷島の道ならで浮世のことを問(とは)るべしとは
常盤(ときは)駿河守範貞、この歌を見て、關東の兩使と共に感淚を流し、卽ち、許されて、過(とが)なき人になりたり。忠圓、文觀、圓觀の三僧は、關東へ倶せられて、主上御謀叛の事、具(つぶさ)に白狀せられければ、後に遠流(をんる)に所(しよ)せられけり。君の御隱謀、今は疑ふ所なしとて、同七月、俊基朝臣、重ねて鎌倉へ召下され、粧坂(けはいざか)にして斬れ給ふ。日野中納言資朝〔の〕卿は、佐渡の配所にして、本間山城〔の〕入道に仰せて、斬せられしかば、資朝の子阿新殿(あにひどの)、本間を殺して、父の仇(あだ)を報ぜられけり。資朝、俊基兩人は、殊に隱謀密策の張本(ちやうぼん)なる故とぞ聞えし。
[やぶちゃん注:和歌は前後を一行空けた。湯浅佳子「『鎌倉北条九代記』の背景――『吾妻鏡』『将軍記』等先行作品との関わり――」(東京学芸大学紀要二〇一〇年一月)によれば、後半の後醍醐帝行幸と俊基・資朝の処刑は「太平記」巻第二の一項目の「南都・北嶺行幸(ぎやうがうの)事」から六項目の「俊基被ㇾ誅(ちうせらるる)事 付(つけたり) 助光(すめみつが)事」が利用されている。
「嘉曆元年三月」十三日。一三二六年。正確には正中三年である。正中三年は後の四月二十六日に嘉暦に改元するからである。
「舎弟左近大夫泰家」第九代執権北条貞時四男で第十四代執権北条高時の同母弟である北条泰家(?~建武二(一三三五)年頃?)。ウィキの「北条泰家」より引く。『はじめ、相模四郎時利と号した』。ここで『兄の高時が病によって執権職を退いたとき、母大方殿(覚海円成)と外戚の安達氏一族は泰家を後継者として推すが、内管領長崎高資の反対にあって実現しなかった。長崎氏の推挙で執権となった北条氏庶流の北条貞顕が』第十五『代執権となるが、泰家はこれを恥辱として出家、多くの人々が泰家と同調して出家した。憤った泰家が貞顕を殺そうとしているという風聞が流れ、貞顕は出家してわずか』十『日で執権職を辞任、後任は北条守時となり、これが最後の北条氏執権となった(嘉暦の騒動)』。正慶二/元弘三(一三三三)年、『幕府に反旗を翻した新田義貞が軍勢を率いて鎌倉に侵攻してきたとき、幕府軍を率いてこれを迎撃し、一時は勝利を収めたが、その勝利で油断して新田軍に大敗を喫し、家臣の横溝八郎などの奮戦により』、『鎌倉に生還。幕府滅亡時には兄の高時と』は『行動を共にせず、兄の遺児である北条時行を逃がした後、自身も陸奥国へと落ち延びている』。『その後、京都に上洛して旧知の仲にあった西園寺公宗』(彼が関東申次で親幕派であったことによる)『の屋敷に潜伏し』、建武二(一三三五)年六月に『公宗と共に後醍醐天皇暗殺や北条氏残党による幕府再挙を図って挙兵しようと計画を企んだが、事前に計画が露見して公宗は殺害された。ただし、泰家は追手の追跡から逃れている』(高時の遺児時行が御内人の諏訪頼重らに擁立されて幕府再興のために挙兵した「中先代(なかせんだい)の乱は、この二ヶ月後の七月)。その後、建武三年二月、『南朝に呼応して信濃国麻績御厨』(おみのみくり)『で挙兵し、北朝方の守護小笠原貞宗、村上信貞らと交戦したとされるが、その後の消息は不明。一説には』建武二年末に『野盗によって殺害されたとも言われて』おり、「太平記」でも建武二年の『記述を最後に登場することが無いので、恐らくはこの前後に死去したものと思われる』とある。
「金澤修理大夫貞顯」北条(金澤)貞顕(弘安元(一二七八)年~元弘三/正慶二年五月二十二日(一三三三年七月四日))はここに出る通り、第十二代連署となり、そのままそれに続けて、第十四第執権高時が病気で職を辞したのを受けて、形の上で、たった十日間だけの第十五代執権(非得宗:在職:正中三年三月十六日(一三二六年四月十九日)~正中三年三月二十六日(一三二六年四月二十九日))となった。父は金沢流北条顕時(実時の子)。「卷第十二 金澤家譜 付 文庫」に一部を注したので、それに続けて、ウィキの「北条貞顕」から引く(一部、前の「舎弟左近大夫泰家」の注とダブる)。正和五(一三一六)年七月に『北条高時が執権になると、病弱な高時を補佐することになった』。この時、『高時が病気で執権職を辞職して出家すると、貞顕も政務の引退と出家を望むが、慰留を命じられる。後継を定めない高時の出家は次期執権に高時の子の邦時を推す内管領の長崎氏と高時の弟の北条泰家(後の時興)を推す外戚の安達氏が対立する得宗家の争いに発展する』。三月十六日、『貞顕は内管領・長崎高資により、邦時成長までの中継ぎとして擁立されて』第十五『代執権に就任する。このとき』、『貞顕は「面目、極まりなく候」と素直に喜び、執権就任の日から評定に出席するなど』、『精力的な活動を見せた』。しかし、『貞顕の執権就任に反対した泰家は出家し、それに追従して泰家・安達氏に連なる人々の多くが出家し』ている。『これにより』、『貞顕暗殺の風聞まで立ったため』、『窮地に立たされた貞顕は』十『日後』『に執権職を辞職して出家した(法名は崇顕)』。『そして新たな執権には』、四月二十四日に『北条守時が就任した』(嘉暦の騒動)。『出家後の貞顕は息子の貞将・貞冬らの栄達を見ることを楽しみにしていたとい』い、『六波羅探題南方として在京する貞将に鎌倉の情勢を伝えたりする役目も勤めている。なお、金沢流は貞顕の出世のため、貞将・貞冬の時代にも幕府の中枢を担うようになっていた』。元徳二(一三三〇)年閏六月頃、『貞顕は眼病を患っており』、閏六月三日付の『書状では子の貞将宛にそれを』伝えている。『新田義貞が上野で挙兵して鎌倉に攻め寄せ』た時には、『貞顕の嫡子の貞将と』、『その嫡男の北条忠時ら金沢一族の多くは』、『巨福呂坂を守備して新田軍と戦い』、『奮戦したが討死にした。そして』五月二十二日、『崇顕貞顕は高時と共に北条得宗家の菩提寺である鎌倉・東勝寺に移り最後の拠点として北条一族の多くと共に新田軍と少し戦った後、自刃した(東勝寺合戦)』享年五十六であった。
「相模守守時」第六代執権北条長時の曾孫にあたる北条(赤橋)守時(永仁三(一二九五)年~正慶二/元弘三年五月十八日(一三三三年六月三十日)。ウィキの「北条守時」によれば、『父は赤橋流の北条久時。同幕府を滅ぼし、室町幕府初代将軍となった足利尊氏は妹婿(義弟)にあたる』。徳治二(一三〇七)年十月一日、僅か十三歳で『従五位下左近将監に叙任されるなど』、『その待遇は得宗家と変わらず、庶流であるにもかかわらず、赤橋家の家格の高さがうかがえる』(『赤橋流北条氏は、北条氏一門において』、『得宗家に次ぐ高い家格を有し、得宗家の当主以外では赤橋流北条氏の当主だけが』、『元服時に将軍を烏帽子親としてその一字を与えられる特権を許されていた』)。応長元(一三一一)年六月には、『引付衆就任を経ずに』、『評定衆に任命され』ている。この『嘉暦の騒動の後、政変に対する報復を恐れて北条一門に執権のなり手がいない中、引付衆一番頭人にあった守時が』第十六代執権となったが、『実権は、出家していた北条得宗家(元執権)の北条高時(崇鑑)や内管領・長崎高資らに握られていた』。正慶二/元弘三(一三三三)年五月に『姻戚関係にあった御家人筆頭の足利高氏(のちの尊氏)が遠征先の京都で幕府に叛旗を翻し、六波羅探題を攻め落とし、同母妹の登子と甥の千寿王丸(のちの足利義詮)も鎌倉を脱したため、守時の幕府内における立場は悪化し、高時から謹慎を申し付けられ』ている。五月十八日、『一門から裏切り者呼ばわりされるのを払拭するため』、『新田義貞率いる倒幕軍を迎え撃つ先鋒隊として出撃し、鎌倉中心部への交通の要衝・巨福呂坂に拠り』、『新田勢の糸口貞満と激戦を繰り広げて一昼夜の間に』六十五『合も斬りあったとされるが、最期は衆寡敵せず』、『洲崎(現在の神奈川県鎌倉市深沢地域周辺)で自刃した』。『一説に北条高時の思惑に配慮して退却せずに自刃したともいわれる』。『子の益時も父に殉じて自害した』。享年三十九。
「北條左近太郎維貞(これさだ)」第十一代執権北条(大仏(おさらぎ))宗宣の子で大仏流当主となった北条維貞(弘安八(一二八五)年或いは翌年?~嘉暦二(一三二七)年)。朝直の曾孫。ウィキの「北条維貞」より引く。嘉元二(一三〇四)年に『引付衆に任じられる。以後は小侍奉行、評定衆、引付頭と順調に出世を重ね』正和四(一三一五)年には『六波羅探題南方に任じられて西国・畿内の悪党の取り締まりに尽力した』が、元亨四(一三二四)年に『探題職の辞任を命じられ、鎌倉への帰還を命じられたが、このときに後任の北条貞将への引き継ぎ、さらに空白の合間をぬって後醍醐天皇一派によって』、九月には「正中の変」が『引き起こされている。そ』の『変後の』十月三十日には『評定衆に返り咲い』ている。正中三(一三二六)年四月二十四日に『連署となり、第』十六『代執権の北条守時を補佐した。しかしこれは同年の嘉暦の騒動』を受けての、『内管領として幕政を主導していた長崎高資らによる融和策の一環として維貞が利用されたものとされる。そしてほどなくして病に倒れ、出家して』亡くなった』。『家督は嫡子の高宣(たかのぶ)が継いだが』、翌年に『早世し、弟の家時(いえとき)が家督を継いだ。大仏一族はのち、家時が鎌倉幕府滅亡時に自決し、貞宗、高直らが降伏後に処刑されている』とある。
「維貞は、翌年十月に病死せられたり」誤り。維貞の逝去は嘉暦二年九月七日(一三二七年九月二十二日)である。
「元德二年二月」誤り。三月。「元德二年」は一三三〇年。
「南都」東大寺と興福寺。
「北嶺」延暦寺。
「山門の貫主」ここは延暦寺の貫主、天台座主(ざす)のこと。
「主上第六の皇子」これは最後に「大塔宮護良(だいたふのみやもりなが)親王」とするので、かの悲劇の後醍醐天皇の皇子護良親王(延慶元(一三〇八)年~建武二(一三三五)年七月二十三日鎌倉:「もりよし」とも読む)ということになる。「ブリタニカ国際大百科事典」から引く(コンマを読点に代えた。『母は権大納言源師親の娘親子』。『鎌倉幕府追討のため』、『有力社寺との連絡を考慮した後醍醐天皇の意を受け、梶井門跡の大塔に入室』、嘉暦元 (一三二六) 年、落飾して尊雲法親王と称し、世に大塔宮といわれた。同』二年には『天台座主となり、関東調伏の祈祷をし、山門衆徒の収攬に努めた』元徳三 (一三三一) 年の「元弘の乱」が起こると、翌年、『還俗して護良と改名、吉野に兵をあげた。楠木正成の赤坂城が落ちてからは』、『幕府の追及を逃れて十津川。吉野。熊野などに転じ、各地の武士や社寺に反幕府の決起を促した。元弘三/正慶二(一三三三) 年後醍醐天皇の京都還御とともに入洛して征夷大将軍となり、兵部卿に任じられたが、まもなく足利尊氏との反目が起り、その勢力削減をねらって楠木、新田、名和氏らと画策したが』、『失敗』、『一方、成良親王の皇太子が廃止されるのを恐れた後醍醐天皇の後宮藤原廉子 (のちの新待賢門院) の讒言もあって』建武元 (一三三四) 年には『鎌倉に流されて幽閉され、同』二年七月に「中先代の乱」が『起ると、足利直義の命を受けた淵辺義博に弑殺された』。なお、彼が『大塔宮と呼ばれたのは、東山岡崎の法勝寺九重塔(大塔)周辺に門室を置いたと見られることからである』とウィキの「護良親王」にある。
「大納言公廉(きんかど)卿の娘」そうなると後醍醐天皇の室の一人、二条為子を指すであるが、これは誤り。二条為子の父は二条為世(ためよ)である(「大納言公廉」とは阿野(藤原)公廉で、その娘は後醍醐天皇の別な寵妃で後村上天皇(義良親王)などを産んだ阿野廉子である)。そもそもが、為子は尊良親王や宗良親王の母であって、護良親王の母ではない。ここは、北畠師親(村上源氏中院流)の娘で後醍醐のやはり別な室であった北畠親子でなくてはおかしいのである。因みに、どうしてこんな混乱が筆者に起こったのかを推理してみると、後醍醐天皇には室が大勢おり、皇子もさわにあって、しかも、それらの名が皇族であるから仕方がないのだが、「~良親王」という一字違いの名であること、護良親王と同じような働きをした皇子がおり、それがまた天台座主を勤めていたからではないかと思うのである。それが直前に出した、第百二十世・第百二十三世天台座主で後醍醐天皇の皇子で還俗した宗良親王(むねよし/むねながしんのう 応長元(一三一一)年~元中二/至徳二(一三八五)年?)なのである。彼は、当初、妙法院に入室し、出家して尊澄法親王と称し、同門跡を嗣ぎ、さらに天台座主となった(就任は元徳二(一三三〇)年)。父である後醍醐天皇が討幕活動を開始すると、行動をともにし、「元弘の変」(一三三一年)後、幕府方によって讃岐へ流されたが、幕府の滅亡と建武の新政で京に戻り、天台座主に還任した。しかし、南北朝内乱が始まると、また還俗して宗良と名乗り、父天皇の軍事面の一翼を担った。まず、伊勢に赴いて、その後、遠江井伊城に入った。一時、吉野に戻って、暦応元/延元三(一三三八)年九月には北畠親房らとともに、船で伊勢大湊から東国を目指したが、台風によって親王の一行のみ、遠江に漂着、再び井伊城に入り、以後、信濃を中心に北陸・関東に転戦した。南朝勢力が下降すると、信濃小笠原氏に押され、同国伊那地方に籠もったが、その間、何回か南朝行宮(あんぐう)に赴いている。和歌に秀で、歌集「李花集」があるほか、南朝関係者の和歌を集め、勅撰集に準ぜられた「新葉和歌集」を編集している(以上は「朝日日本歴史人物事典」に拠った)という人物だ。これはどちらにも悪いが、何とも紛らわしいのである。
「梨本(なしもと)の門跡」増淵氏の割注に『現在の大原三千院。天台三門跡(皇子などの居住する特定の寺』で、後の二つは青蓮院と妙法院である)『の一』つ、とある。ウィキの「護良親王」によれば、六『歳の頃、尊雲法親王として、天台宗三門跡の一つである梶井門跡三千院に入院した』とあり、この叙述と一致する。六歳というと、正和二(一三一三)年頃となる。
「承鎭(しようちん)親王」増淵氏の割注に『後宇多院養子、岩倉宮の子』とある。
「圓頓止觀(ゑんとんしかん)の窓の前に」「圓頓止觀」は通常「えんどんしかん」と濁る。人格を完成させた完璧な悟りの境地を指す語で、総ての真存在の理法を完全に具備し(あらゆる存在がそのまま全体(円)として直ちに真実の法則に合致すること)、雑念なく、直ちに悟りに到る境地のこと。主に天台宗で「漸次止観」「不定止観」と合わせて「三種止観」と呼ばれる。「窓の前に」は、それを学ぶことの比喩。以下も同じ。
「實相眞如(じつさうしんによ)」「實相」と「眞如」は同じ存在体を異なる立場から名づけたもの。万有の本体。永久不変にして平等無差別なもの。即ち、涅槃・法身・仏性(ぶっしょう)を指す。
「荊溪(けいけい)」中国の天台宗の第九祖で天台中興の祖とされる湛然(たんねん 七一一年~七八二年)のこと。「荊渓尊者」「妙楽大師」と称された。初祖智顗(ちぎ)の著述の研究とその教学の宣揚に努めた。「溪」や「湛然」という名(「湛然」は一般名詞で「静かに水をたたえているさま・静かで動かないさま」の意)から、「玉」露の「泉」の比喩を成したのである。
「本有常住(ほんうじやうじう)」現行では諸宗派は「ほんぬじょうじゅう」と読んでいる。本来固有にして生滅変化することがなく、三世に亙って常に存在すること。仏性が一切の有情非情に本来的に平等に備わっており、無始無終の存在であることなどを意味する。
「勁捷武勇(けいせふ)」強靱にして素早いこと。
「主上は男女に付きて、皇子(みこ)九人、皇女十九人までおはしける」後醍醐の子女は、ウィキの「後醍醐天皇」のデータで数えてみると、実に二十一人の皇子と二十三人の皇女がいる。
「柱礎爪牙(ちうそさうげ)」ある対象(事物・行動)の大黒柱や土台石、重要な基本部分や根幹となるもの、また、外部からの攻撃や抵抗勢力に対する、爪や牙のような非常に強力な武器となることを言う。
「直義(なほよし)」足利直義(あしかがただよし 徳治元(一三〇六)年~観応三/正平七年二月二十六日(一三五二年三月十二日))足利貞氏の子で兄尊氏とともに建武政権樹立に貢献、建武二年の「中先代(なかせんだい)の乱」に際し、護良親王を殺害したことから、建武政権と決別、室町幕府創設後は尊氏を補佐したが、後、執事高師直(こうのもろなお)と対立し、兄尊氏とも不和となってしまう(観応の擾乱)。一時は和睦したが、再び尊氏と戦って降伏、鎌倉で四十七歳で死去した。兄による毒殺とされる(概ね、講談社「日本人名大辞典」を参照した)。
「同五月」叙述からは元徳二(一三三〇)年になってしまうので、誤り。元弘元(一三三一)年。
「二階堂下野〔の〕判官」二階堂時元(?~暦応元/延元三(一三三九)年)。二階堂元重の孫で行元の子。サイト「南北朝列伝」のこちらの記載によれば、『二階堂一族の一員として鎌倉幕府の政務官僚をつとめていた』。「太平記」ではこの『「元弘の変」の際に幕府の使者として「二階堂下野判官」』『時元が長井遠江守と共に上洛したと書かれているが、史実ではこの時の幕府の使者は別の二人と確認されており、時元が実際に上洛したかは不明である』とある。その後、正慶元/元弘三(一三三三)九月には『畿内の討幕派鎮圧のために派遣された幕府軍に参加(同族の二階堂道蘊もいた)。恐らく吉野や千早城の攻撃に参加し、そのまま幕府の滅亡を迎えて後醍醐側に投降したと思われる。他の二階堂一族と同様にその政務能力を買われていたはずである』とし、『足利幕府が発足するとこれに参画し、建武四/延元二(一三三七)年には『幕府の内談衆メンバーにその名がみえる』とある。調べてみると、二階堂氏の中には足利氏に転じて命脈を保った流れが結構あるようである。
「長井遠江守」不詳。サイト「南北朝列伝」のこちらの記載によれば、『鎌倉幕府の実務官僚を多く出した長井氏の誰かと思われるが』、『実名不明』とある。
「法勝寺」(ほっしょうじ)は平安時代から室町時代まで平安京の東郊白河(現在の岡崎公園・京都市動物園周辺。この附近(グーグル・マップ・データ))にあった六勝寺(同時代に建立された「勝」の字を持つ勅願寺六ヶ寺)の筆頭とされた寺。白河天皇が承保三(一〇七六)年に建立した。皇室から厚く保護されたが、応仁の乱以後に衰微廃絶した。
「圓觀(ゑんくわん)上人」弘安四(一二八一)年~延文元/正平一一(一三五六)年)は南北朝時代を代表する天台宗の高僧で、「太平記」作者説もある人物。サイト「南北朝列伝」のこちらに詳しく、『皇室の帰依も受け、後伏見・花園・後醍醐に円頓戒を授け、とくに後醍醐の信任を受け嘉暦元年』(一三二六年)『の中宮安産祈願にかこつけた倒幕の祈祷に文観とともに参加している』。ここにあるように、その一件が露見して『捕えられ』、六『月に取り調べのため』、『鎌倉に送られた』が、『「太平記」によれば』、『鎌倉についた円観は北条一門の佐介越前守に預けられ、文観・忠円が拷問にかけられ』、『白状したあと』、『円観も拷問にかけられようとしたが、北条高時が夢に比叡山の神獣・猿たちが円観を守ろうとする光景を見て、さらに佐介越前守が円観の様子を見に行ったところ』、『障子越しの円観の影が不動明王の姿に見えた。これらの奇跡を見て恐れをなした高時は円観の拷問を中止させ、当初遠流に決定していたところを奥州・白河の結城宗広に預けるという軽い処分で済ませた』とある。後に『幕府が滅ぼされ』、『建武政権が成立すると、円観は』『京に戻った』。『法勝寺住持に返り咲いた円観は、同じく流刑地から戻った文観と共に後醍醐から厚く遇せられ』、『「権勢無双」と称され、「法勝寺の僧」と聞いただけで関所の兵士たちが弓を伏せうずくまったと伝えられる』とある。
「小野文觀(をのゝもんくわん)僧正」(弘安元(一二七八)年~延文二/正平一二(一三五七)年:「もんがん」とも)は、やはりサイト「南北朝列伝」のこちらに詳しい。冒頭に『後醍醐天皇の腹心となった僧侶。邪教とされる「真言立川流」の大成者とされ、その人脈と存在感から「南北朝動乱の影の演出者」「怪僧・妖僧」とまで呼ばれる』とある。「小野」は京都市山科区小野(ここ(グーグル・マップ・データ))にある真言宗小野随心院。小野小町所縁の寺としても知られる。珍しく私も行ったことがある。
「南都の知教(ちけう)」尊鏡(そんぎょう 文永二(一二六五)年~?)のこと。やはりサイト「南北朝列伝」のこちらに詳しい。冒頭に『後醍醐天皇の討幕計画に参加した律宗僧。『太平記』では「知教」、花園天皇の日記では「智暁」、『鎌倉年代記裏書』では「智教」と表記されているが、その正体は西大寺の智篋房(ちぎょうぼう)尊鏡であることが近年研究者により解明されている』とある。
「教圓(けうゑん)」これは「太平記」に記載する名で、サイト「南北朝列伝」のこちらを見るに、慶円(ぎょうえん 文永元(一二六四)年~暦応四/興国二(一三四一)年)である。冒頭に『後醍醐の討幕計画に関与した唐招提寺の僧』とある。
「淨土寺」かつて銀閣寺(正式名称は慈照寺)の場所にあった天台宗寺院か。
「忠圓僧正」は生没年不詳。サイト「南北朝列伝」のこちらを参照されたいが、それによれば、「太平記」『では忠円自身は呪詛には参加していなかったが、後醍醐に近い立場にあって仏教界に顔が広く、陰謀について知らないはずがないというのが逮捕の理由であったとされる(』『実際には呪詛に関与した可能性が高い)』。『忠円は円観・文観と共に鎌倉に送られ、足利貞氏(尊氏の父)の屋敷に預けられた』が、「太平記」によると、『忠円は元来』、『臆病な性格であったため拷問されそうになると』、『たちまち後醍醐の陰謀についてすべて白状してしまったという。幕府は忠円を越後国へ流刑にしたというが、その後の消息は不明である』とある。また「太平記」巻二十五では、『「観応の擾乱」の前触れとして仁和寺に護良親王ら南朝方の怨霊が集まり世を乱す陰謀を語る逸話があり、ここで忠円は峰僧正春雅・智教上人(尊鏡)と共に天狗の姿になって登場、怨霊たちがそれぞれに幕府の有力者にとりついて世を乱そうと提案している。忠円自身は高師直・高師泰兄弟の心にとりついて足利直義と争わせたことになっている。こうした描写からすると、忠円は配流先の越後で死去したということだろうか』と記しておられる。
「主上中宮」後醍醐天皇の中宮西園寺禧子(きし 嘉元元(一三〇三)年~元弘三(一三三三)年)。太政大臣西園寺実兼の三女。
「御産の御祈に事寄せて、鎌倉調伏の法を行はれしと聞えければ」ウィキの「西園寺禧子」に、『禧子は』正和四(一三一五)年に『第二皇女、懽子内親王(のちの光厳上皇妃、宣政門院)を出産しているが、その後は自身の上臈であった阿野廉子に天皇の寵愛を奪われたこともあってか、子女を産むことはなかった』。『なお、天皇がしばしば中宮御産の祈祷を行ったとされ、通説ではこれを「関東調伏」の祈祷の口実とするが』、歴史学者『河内祥輔は関東申次として幕府にも強い影響力を及ぼした西園寺家を外戚とする親王が誕生すれば、将来の皇位継承から除外された後醍醐天皇の皇子といえども』、『鎌倉幕府がこれを無視することが困難になるため、禧子所生の親王の誕生を必要としたとする説を提示している』とある。
「二條中將爲明(ためあきら)」二条為明(永仁三(一二九五)年~貞治三/正平一九(一三六四)年)。二条為藤の子で、歌壇の中心人物として活動し、後光厳天皇から「新拾遺和歌集」の撰集を命じられたが、撰の途中で死去した。歌は「続(しょく)千載和歌集」などにあり、勅撰入集数は計四十五首ある。
「思ひきや我が敷島の道ならで浮世のことを問(とは)るべしとは」水垣久氏のサイト「やまとうた」の「千人万首」の「二条為明」に「太平記」所収として、本歌を載せ、「補記」で、
《引用開始》
太平記巻二「僧徒六波羅召捕事付為明詠歌事」。元徳三年=元弘元年(1331)、後醍醐天皇の討幕計画が漏れた際、為明は側近の歌人として六波羅に捕われた。拷問にかけられようとした時、硯を所望し、料紙にこの歌を書いた。幕府の使者たちはこれを読んで感涙し、為明はあやうく責を遁れたという。和歌としてすぐれた作ではないが、南北朝の政争に翻弄された歌人為明の人生を象徴するという意味では彼の代表作となろう。為明の歌人としての名声はこの一首によって高まったという(近来風体抄)。
《引用終了》
「常盤(ときは)駿河守範貞」北条範貞(?~正慶二/元弘三(一三三三)年)。北条氏極楽寺流の支流常盤流の当主。父は北条時範、重時の曾孫である。北条貞時が得宗家当主であった期間内(一二八四年~一三一一年)に元服し、「貞」の偏諱を受けたと見られる。正和四(一三一五)年に引付衆に任ぜられて幕政に参画。元応二(一三二〇)年には評定衆に補充された。元亨元(一三二一)年、六波羅探題北方に任命されて上洛、元徳二(一三三〇)年、北条仲時と交替するまで九年間、務めた。同年、帰還した鎌倉で三番引付頭人に就任した。元徳元(一三二九)年に駿河守に任ぜられている。「太平記」によれば、新田義貞による鎌倉攻めに際し、他の北条一族と共に自害して果てた(東勝寺合戦)とする。同じく「太平記」では北条貞将とともに六波羅探題留任の要請を謝絶したこと、謀叛の廉で捕らえられた二条為明への尋問を行い、為明の披露した歌を聞き、無実であると裁定を下して釈放したことなどが記されている。彼は歌人でもあり、勅撰集に三首収録されている(以上はウィキの「北条範貞」に拠った)。
この歌を見て、關東の兩使と共に感淚を流し、卽ち、許されて、過(とが)なき人になりたり。「所(しよ)せられけり」処罰された。
「同七月」これも前が元弘元年なので誤りで、月も違う。日野俊基の処刑は元弘二(一三三二)年六月である。
「俊基朝臣」日野俊基(?~元弘二/正慶元年六月三日(一三三二年六月二十六日))刑部卿日野種範の子。既出既注であるが、再掲しておく。文保二(一三一八)年の後醍醐天皇の親政に参加し、蔵人となり、後醍醐の朱子学(宋学)志向に影響を受けて、討幕のための謀議に加わった。諸国を巡り、反幕府勢力を募ったが、六波羅探題に察知され、正中の変で同族の日野資朝らとともに逮捕された。彼の方は処罰を逃れ、京都へ戻ったが、この「元弘の乱」の密議で再び捕らえられて、得宗被官諏訪左衛門尉に預けられた後、鎌倉の葛原岡(ここでは「化粧坂(けはいざか)」とするがこの切通しは葛原岡の南の上り坂口ではあるものの、そこで処刑されたのではないから、やはりおかしい)処刑された。
「日野中納言資朝」(正応三(一二九〇)年~元弘二/正慶元(一三三二)年)日野俊光の子。やはり既出既注であるが、再掲しておく。後醍醐天皇の信任を得て、元亨元 (一三二一) 年に参議となり、院政をやめて親政を始めた天皇が、密かに計画した討幕計画に同族の日野俊基らと加わり、同三年、東国武士の奮起を促すために下向した。しかし、翌正中元 (一三二四) 年九月に討幕の陰謀が漏洩し、六波羅探題に捕えられ、鎌倉に送られ、翌二年に佐渡に流された (正中の変) 。その後、この後醍醐天皇の再度の討幕計画の発覚 (元弘の乱)した際、配所で処刑されている。
「本間山城〔の〕入道」(?~正慶元/元弘二(一三三二)?)は佐渡守護代。サイト「南北朝列伝」のこちらによれば、『本間氏は北条氏大仏流の家臣。佐渡守護の大仏家に代わって守護代として佐渡支配にあたっていた。実態としては守護代というより』、『現地地頭と言った方がいいとの意見もある』。『本間山城入道は』「太平記」巻二に登場し、『「正中の変」で佐渡へ流刑となった日野資朝を預かっていたが、「元弘の乱」が起こったために幕府の命を受けて資朝を処刑する役回りである』。「太平記」では元徳三/元弘元年の『うちに処刑される展開になっているが、史実では乱がひとまず鎮圧され』、『後醍醐天皇が隠岐へ流された後の』正慶元/元弘二(一三三二)年六月二日に『処刑が執行されている』。「太平記」では『処刑直前に資朝の子・阿新丸が佐渡までやって来て、本間山城入道は哀れには思って丁重に扱いつつも』、『父子の面会は許さぬまま』、『処刑する。そのために阿新丸に父の仇として命を狙われるが』、『代わりに息子の本間三郎が殺されてしまうという展開になっている』。『雑多系本間氏系図では』、『この山城入道に該当しそうな人物として「泰宣」がいる。この系図では彼が「山城兵衛尉」であったとしているためだが、「正慶元年六月十日死」と注記されており、これが事実であれば』、『資朝処刑の直後に死去したことになる』。しかし『一方』では新田の『鎌倉攻めで、大仏貞直に従って極楽寺切通しで奮戦した本間山城左衛門と同一人とする見方もある』とある。ともかくも、このサイト「南北朝列伝」の人名録は感服するほど素晴らしい!
「資朝の子阿新殿(あにひどの)」増淵氏の訳では、この「阿新殿」に対して『くまかわどの』のルビが振られており、平凡社「世界大百科事典」でも「阿新丸」として「くまわかまる」と訓じている。それによれば(コンマを読点に代えた)、元応二(一三二〇)年生まれで正平一八/貞治二(一三六三)年没とし、『鎌倉時代末の公家日野資朝の子。資朝は後醍醐天皇の討幕計画に参加したが、事が漏れて捕らえられ、佐渡に流された』十三『歳の阿新は従者』一『人をつれて佐渡に渡り、守護本間入道に父子の対面を願ったが』、『許されず、父は殺されてしまった。復讐の機をねらう阿新は、ある夜』、『本間の寝所に忍び込んだが、入道は不在で果たせず、父を斬った本間三郎を殺して巧みに逃げ、山伏に助けられて都に帰った話が』「太平記」『にくわしく記されている。その後』、『阿新は邦光と名のって南朝の忠臣となり、中納言に任ぜられた』とある。]