杉个谷 小袋坂
管領(くわんれい)の屋敷跡、今は田畑(でんはた)となり、その形(かたち)のこれり。杉が谷(やつ)辨財天の宮(みや)、その東にあり。こゝに俳諧師梅翁(ばいおう)の碑(ひ)あり。この邊の山の内小袋坂(こぶくろざか)の上なり。伽羅陀山(からだせん)といふは小袋坂にあり。
〽狂 ゑんめいの小ぶくろざかはかま
くらへ
たから入こむめい所けんぶつ
旅人
「儂(わし)は昨日(きのふ)、どうした事か、にはかに鹽梅(あんばい)がわるくなつて、どうもあるかれませぬから、商人(あきんど)の見せ先(さき)をかりてやすんでゐたが、しきりに氣がとほくなって目をまはしましたが、なにか、ひいやりと咽喉(のど)へとほつたとおぼへて、氣がついて見ましたら、私(わたし)の傍(そば)に、うつくしい神(かみ)さまがいて、
『さてはお前、氣がつきましたか、いろいろしても、いかぬゆへ、これはいとしいこと、どふぞ、正氣にしてあげたいと、水をひとつ、妾(わたし)がふくんで、お前を妾の膝の上へだきあげて、口移しに水をあげましたら、お氣がつきました。』
といふから、その神さまを見るに、色が雪のやうにしろくて、目附きがよくて、口元がかはゆらしく、にこにことわらふ、その愛嬌(あいけう)の良さ、儂は首筋元(くびすじもと)からぞつとして、
『さてもさても、このやうな辨天さまのやうな、うつくしい女中(ちう)の口から、儂がこの、入齒(いれば)をした口へ口移しとは、ありがたい、もつたいない。』
と、あんまりうれしく、有頂天(うてうてん)になつて、とりのぼせ、また、目をひきつけましたら、今度は、
『口移しでもゆくまい、灸(きう)をすへるがよい。』
とて、袋艾(ふくろもぐさ)を一包(ひとつゝみ)、腹へすへられまして、氣はつきましたが、これ、御らうじませ、その灸の跡が、このとほりにくづれて、もうもう、ひりひりといたみまして、昨夜(ゆふべ)もよつぴて、ふせりませぬ。誰(たれ)でも、あるくとお前方(がた)も、この上、ひよつと、どういふことで、あそこの門(かど)先で目をまはすまいものでもないから、その時、灸はすへてくださるなと、先(さき)へことわつておいてから、目をまわしなさるがいゝ。儂は、とんだ目にあいました。」
[やぶちゃん注:笑談の部分は、何だか妙な話である。売春絡みの何か隠喩が隠れているようにも感じられるが、よく分からない。識者の御教授を乞う。
「杉个谷」は「すぎがやつ」と読みを振る。
「管領の屋敷跡」これについては伝承のみで、確固たる同定確証はなく、現在は最早、位置も定かには現認出来ない(一応、長寿寺の向いの東北一帯を「東管領屋敷」と呼称してはいる)。「新編鎌倉志卷之三」に、
管領屋敷 管領屋敷は、明月院の馬場先(ばばさき)、東鄰の畠也。上杉民部の大輔憲顯(のりあき)、源の基氏の執事として此所に居す。其の後上杉家、代々此の所に居宅す。其の時鎌倉にても京に似せて、管領を將軍或は公方などと稱し、執事を管領と云故に、此の處を管領屋敷と云なり。後に上杉顯定、上州平井の城に居す。しかれども山の内の管領と云ふ。憲顯の末流を、山の内上杉と云なり。扇谷(あうぎがやつ)の上杉と云あり。扇谷の條下に詳かなり。
とある。「上杉民部の大輔憲顯」(徳治元(一三〇六)年~応安元・正平二三(一三六八)年)は南北朝期の武将。関東執事から関東管領。足利尊氏・直義の従兄弟。特に直義とは同年で親しかった。鎌倉で足利義詮を補佐したが、もう一人の執事であった高師冬と対立、観応二・正平六(一三五一)年に師冬を滅ぼして関東の実権を握った。その後、兄と不仲になった直義を匿おうとして尊氏と対立、敗走、信濃に追放となった(観応の擾乱)。後、鎌倉公方足利基氏に許されて復帰、貞治二・正平一八(一三六三)年は入鎌して関東管領となった。足利氏による関東支配の中核を担い、更に関東上杉氏勢力の基盤を固めた人物。「上杉顯定」(享徳三(一四五四)年~永正七(一五一〇)年)は戦国の武将。関東管領。越後守護上杉氏の出身であったが山内上杉家当主を継ぎ、四十年以上の長きに亙って関東管領職を務めた。古河公方足利成氏との対立、家臣長尾景春の反乱、同族の扇谷上杉定正との抗争、越後の長尾為景との戦い(この戦で戦死)など、兵乱の只中を生きた、山内上杉氏の最後の光芒を放った人物である。「上州平井」現在の群馬県藤岡市平井にあった山内上杉氏の本城。この城下町は高崎市山名根古谷地区まで及び、『関東の都』と呼ばれて繁栄した。
「杉が谷(やつ)辨財天の宮」現存しない。これについては、今回のテクスト化で非常にお世話になっている鶴岡節雄氏校注「新版絵草紙シリーズⅥ 十返舎一九の箱根 江の島・鎌倉 道中記」(千秋社昭和五七(一九八二)年刊)の鶴岡節雄氏の解題「名所記とそのカルチュア」の「名所・そのカルチュア」にある「そのⅠ 杉之谷弁財天」に、詳細な考証が記されてある。かなり長いものであるが、鶴岡氏も述べておられる通り、この名所は現在、ほぼ完全に忘れ去られたものであり、現行の鎌倉地誌や案内記にも記載が殆んどない(私もこれを読むまで、その全くと言ってよいほどに知らなかった。但し、引用に表われる蘭渓道隆の童子の逸話の原話は比較的人口に膾炙するものではある)。さすれば、鶴岡氏のこの記載は貴重な探査と記録であり、是非とも広く知られるべき内容であると確信し、全文を引用する(踊り字「〱」は正字化し、写真のページを示すアラビア数字を漢数字に代えさせて頂いた。但し、当該写真はや「さきにもあげた上総国大野村名主の鎌倉道中の日記」などは底本をご購入の上、実見されたい。私の引用は著作権の侵害を意図するものではないが故に)。
《引用開始》
本書「箱根鎌倉」編の「杉が谷」は、最近の鎌倉案内(ガイド・絵図)はもとより、『鎌倉の廃寺』というような専門的な研究書などにも、ほとんど見かけられない。しかし、鎌倉の古絵図(前述のうち『鎌倉絵図』『鎌倉勝概図』『鎌倉一覧図』など)には、本書記述の位置(山の内、管領屋敷の東)に、明らかに「杉ケ谷弁財天」、または「杉谷弁天」としるされている。現地の方がたにもお聞きしたが、容易にその所在を知ることができなかった。
再三、鎌倉にを運んだ結果、はからずも建長寺塔頭龍峯院の門前、石階の傍らに立つ「杉之谷弁財尊天」の碑(八十一頁の写真)に、バッタリと出会うことができた。碑陰には「元禄十四巳年九月吉旦之内講中」とあった。龍峯院の峰藤耕雨師にお聞きしたところ、この碑の右手台上に堂があったが、大正十二年の大地震で崩壊、本尊は現在建長寺(龍王殿右側)に移されているとのことであった。峰藤さんの紹介で、その後、建長寺資料を保管している鎌倉国宝館の三浦勝男氏から、杉の谷弁天の縁起資料のご提供をいただく幸運を得た。ご提供いただいた資料中に、前述碑建立の翌年(元禄十五年九月)の縁起がある。その要旨を略記すると、およそ次のようなものである。
[やぶちゃん注:以下の「 」の引用部は、底本では全体が二字下げである。]
「杉谷山弁才尊天は弘法大師の作で、もと江の嶋岩くつの本尊であった。(伝によると、岩くつには大師の作三体あり、一体は今にあり、一体は光明寺に、-体はこの尊天であると)建長寺開山大覚禅師この尊天を請待し、十世、一山禅師、この尊天を祈願、玉雲庵を開基、これをまつる。元禄十四年、武陽不忍池の弁天を信じていた一庶民の杉山某なる者、夢に杉谷弁天をいのれとのお告げをうけ、三百余年すたれていた杉之谷弁天の宮を再興。ために霊験大いにあらわる。杉山某は沙門覚真なり」
なお、明治十年の建長寺什物帳の記録では、この再造を元禄年度(年なし)東都(江戸)戸川弾正としている。沙門覚真と戸川弾正とがどのような関係かは判然しないが、不忍池の弁天を信仰していたという杉山某、沙門覚真も、あるいは江戸の人であったかもしれない。
それはともかく、元禄十五年の縁起より、ちょうど半世紀後の宝暦二年(一七五二)江戸日本橋、須原屋から板行された『鎌倉物語』には、建長寺弁天について、次のような話がのせられている。
[やぶちゃん注:以下の引用部は、底本では全体が一字下げである。]
『鎌倉物語』-建長寺に絵嶋(ゑのしま)の弁才天十六童子(とうじ)の内童子ハ此寺に置といへりむかし蘭漢和尚(らんけいおしやう)らい朝の節(せつ)絵嶋弁才天より一童子を船中まで迎につかハされ鎌倉まで送(おく)りまいらせけるとなり扨らんけい此寺建立の時絵嶋弁才天らんけいにの給ふやう仏力とうとしとハいへども福神なくてハ法のはんじやう成がたからんか然バ童子をミやづかへ玉へとて三十二そうの美女をさづけ玉ふらんけい神のつげにまかせ蔵あづけ納所をぞまかなハせ玉ふさて諸事万宝(まんほう)をねがひ給ふに叶ざるといふことなし扨もいよいよ寺ほんじやうしけれ然る所に鎌倉中にらんけい美女をかくし置玉ふといふ説(せつ)ちまたにをほしその比の御台所此事いつハリにをいてハうたがひあらじ然ども人のもうあく鬼口ふさぐに所なし寺請に事よせて実(じつ)を見んとぞはかられける扨俄(にはか)に美(び)女二千人を催(もよを)し建長寺に参詣(さんけい)し給ふ然バくり(庫裡)めんざう(眠蔵)ゑんの下まで人ならずと云事なし然バ神女かくれかに所なく扨こそ御台所かの美女を求得たり御台所らんけいにの給ふやう和尚(おしやう)等(たつと)しといへども珍敷(めづらしき)ものをゑたりいかゞふしんおほしと有し時らんけいのいはく我破戒(はかい)のなんにあらず是絵嶋(ゑしま)の弁才天よりさづけ給ふ神女なりとて則神女をめし出し誠の姿(すがた)をあらハしめ玉へと有し時に俄に神女建廿丈斗の大蛇となりろう門を七重にまきて見せ玉へバ御台所ありがたし共おそろしとも只もとの姿と有し時又美女とぞなり玉ふ其時らんけい神女にのたまふ俄の事とハいひながら此人数を馳走して玉へと有しかバ神女則三千人に膳(ぜん)ぶわたしてほうらいの山をつき白玉のくわしをもってちそうし給ふかく俄の事といへども神女のなすわざ凡人の及所にあらずとぞの給ひける御台所ハうたがひをはらしてかへらしめ給へバ神女ハてんにあがり玉ふ扨こそ一童子の内福神ハ建長寺にいはゝれ玉ふと先立のかたりし也
ところで、建長寺に隣る円覚寺にも龍神や江の島弁天ゆかりの「宿龍池」や「洪鐘弁天堂」があるが、さきにもあげた上総国大野村名主の鎌倉道中の日記には、妙隆寺の鐘にまつわる次のような話がしるされている。
[やぶちゃん注:以下の引用部は、底本では全体が一字下げである。]
白井惣右ヱ門という人が、零落の妙隆寺に龍頭を掛けようとしたが、大勢寄っても容易に掛けられず因っているところへ、一人の女があらわれ、やすやすと掛け、わたしは龍宮から円覚寺の龍頭掛にきた者だが、一夜の宿をねがいたいと惣右ヱ門の家に入り、臼の中に入って上からむしろをかけてもらって寝、ゆうべこの臼の中に産をしたので、この子を育ててもらいたいといって立ち去った。その子の子孫が同家をついだので、六十一年目六十一年目に釣鐘供養があるとのことだ(要約)
この話は、円覚寺の洪鐘祭(洪鐘弁天は江の島からうつされたもので六十一年ごとに江の島弁天と会うというお祭)の説話とも通ずるものがある。これらは、たとえ説話であろうと、建長寺や円覚寺、その他鎌倉の地に、江の島弁天が色濃く影をおとしていることに変わりはない。それはいわずもがな、江戸中期ころから、ほうはいと高まった江の島詣と深くかかわるものであろうし、杉之谷弁財尊天の碑や資料は、そうした足あとを明かすものといえよう。
杉が谷弁天はいま忘れ去られようとしているが、名所記は、その記録をしるしつづけてきた。沢庵がしるした江戸初期の衰退を思うにつけ、名所旧跡の鎌倉の繁栄が、これら名所記のカルチュアと無関係とは思われないのだが。
《引用終了》
最後に再度、本電子テクスト化に際しても大いに参照させて頂いている本書の校注者鶴岡節雄氏に深く敬意を表するものである。
「俳諧師梅翁の碑あり」「俳諧師梅翁」は談林派の祖西山宗因(慶長一〇(一六〇五)年~天和二
(一六八二)年)のことであるが、この碑、現在は行方不明と思われる。
「伽羅陀山」円応寺の向かいの山上にあった佉羅陀山(からだせん)心平寺のことであるが、現存しない。「新編鎌倉志卷之三」に、
○地藏堂 地藏堂は、小袋坂(こふくろさか)より山の内へ行(ゆけ)ば右の方にあり。佉羅陀山(からだせん)心平寺と云ふ。建長寺の境内なり。【鎌倉大(をほ)日記】に、建長元年に、小袋坂の地藏堂建立とあれば、建長寺草創以前、地獄谷(じごくがやつ)と云し時より、地藏此の所にあり。濟田(さいた)地藏の根本なり。事は建長寺の條下にあり。
とあり、また「建長寺」の「佛殿」の項には、
佛殿 祈禱の牌を懸て、毎晨祈禱の經咒怠らず。本尊地藏、應行が作。相ひ傳ふ此寺建立なき以前、此の地を地獄谷と云、犯罪の者を刑罰せし處なり。平の時賴の時代に、濟田と云者、重科に依て斬罪に及ぶ。太刀とり、二(ふた)大刀まで打てども切れず。刀を見れば折れたり。何の故かあると問ひけるに、濟田荅て曰、我れ平生地藏菩薩を信仰して常に身を放たず。今も尚髻(もとど)りの内に祕すと云ふ。依てこれを見れば、果して地藏の小像あり。背(せなか)に刀(かたな)の跡あり。君臣歎異して、則ち濟田が科(とが)を赦す。濟田此の地藏を心平寺の地藏の肚中(とちう)に收むとなり。此の寺草創の時、佛殿の地藏の頭内に移す。長(たけ)一寸五分、臺座ともに二寸一分、立像の木佛(もくぶつ)なり。背に刀の跡ありと云ふ。(以下略)
と由来を伝える。
「ゑんめいの小ぶくろざかはかま/くらへ/たから入こむめい所けんぶつ」この狂歌、勘でしかないが……何となく猥雑の臭いがする(これも一九先生に毒された所以か)。識者の御教授を俟つ。
「よつぴて」発音は「よっぴて」で副詞。「夜一夜(よっぴとい)」の変化した語で、一晩を通してずっと。夜どおし。夜もすがら。「よっぴとよ」「よっぴてえ」とも言い、今は「よっぴいて」が普通。]