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カテゴリー「萩原朔太郎」の963件の記事

2025/03/03

茅野蕭々譯「リルケ詩抄」正規表現版 訳者茅野蕭々に拠るリルケ論「ライネル・マリア・リルケ」 「二」

 

      

 

 ライネル・マリア・リルケの人及び藝術家としての素質、その發達成熟の迹を知ろうとするには、彼の作品を點檢するに越した方法は無いやうに思はれる。彼は外面的の運動や社會的活動を事とする人ではなくて、一心に内面生活の開拓と、詩作の完成とに沒入している純粹の詩人であるからである。

 彼の第一の詩集『人生と小曲』及びその以前に知人の間に配つたという小册子『きくぢしや草』は末だ見る機會に接しない故、それに就いて何も云う事は出來ない。しかし『家神奉幣』といい、『人生に沿い行く』といい、獨立した藝術的價値から判斷して、勿論取立てて論ずる程のものでは無いようである。しかし最も正直に最もあらわに彼の性情が流露している點に於て、後のリルケを知つているものに取つては、少からぬ興味を牽くものがある。彼の精細な語感、母音の音樂、特殊な手法象徵、淸新な感覺等、後年の作品で顯著になるものが既に此處に芽ぐんで居るばかりではなく、後の進路を規定する重要な素質が可なり純粹な形で現はれてゐる。それは虔ましい愛と安靜の心とである。末だ二十歲にも足りない血氣の靑年には珍しい客觀性である。個性的(ベルゼヨエンリツヒ)でなくて著しく物的(デイングリツヒ)なことである。恰も『プラアクの話』の中のボフシュ王のように、他人の重大な或ものを知るに滿足して、それ以上何等の要求を持たない處である。斯ういふ風に不羈奔放な空想に驅られ勝ちな少年期からして、主として自己の直接經驗に觸れたもののみを歌ひ描くという實證的な行き方は、消極的な客觀性を尊重したその當時の時代精神に負ふ處があつたにしても、またリルケの受動的な所謂婦人魂の根ざしの深いことを語るものであつて、彼が自己を高潮し、個性を周圍の世界に光被[やぶちゃん注:「くわうひ」。光を広く行き亙らせること。]せしめようとするよりは、靜につつましく事象を感受し、理解し、愛し、其內の生命に觸れずには止まない傾向が、彼の素質の奧底に橫はつてゐる事を證明するものではないか。「視は愛である」と云ひ、「觀察は祈禱である」と言つて居るリルケの信條は、全く後天的の努力精神からのみ生れたものではないと思はれる。

[やぶちゃん注:「きくぢしや草」エンダイブ(ドイツ語:Endivie)。双子葉植物綱キク目キク科タンポポ亜科キクニガナ属エンダイブ Cichorium endivia のこと。和名「菊萵苣」(キクジシャ)・「苦萵苣」(ニガヂシャ)。但し、この名の「小册子」なるものは、ドイツ語のリルケのウィキにも記載はなく、不詳。

「『プラアクの話』の中のボフシュ王」(「二つのプラークの物語」:‘ Zwei Prager Geschichten ’:一八九九年)は散文。その第一の物語「ボーフシュ王」を指す。未見だが、「八戸工業大学学術リポジトリ」の水沼和夫氏の論文「リルケとプラーク(その2)」PDFで入手可能)が参考になる。]

 詩集『家神奉幣』は、古い獨逸風の遺跡と、スラヴ風によつて破られた近代風との混淆してゐる故鄕プラアク市を歌つたものである。古風と新樣との烈しい矛盾は、世間を怖れる保守的な靑年詩人の心に强い感銘を與へたやうであるが、彼は固結した記念的な過去に對しても、嵐のやうに逼迫する近代文明の殺風景に對しても、同じように穩やか愛を注いで、その何れにも偏してはゐない。家、殿堂、僧院、禮拜處、祭の行列、聖者の像、「硝子の背後にあるような街路」、そこに住む人々、晝夜、風景が主要な材題であつて、其間に往々民謠の響がきかれる。丁度パステルの色を以て畫かれた繪のやうな詩である。上品に美しいけれども、氣息のやうに消えさうな心もとなさが無いでもない。

 物的であり客觀的であつたリルケを自己に眼ざめさしたものは女性と時代思潮との力であつた。詩集『冠せられた夢』は卷頭の一篇『王の歌』を除いては全卷五十扁悉く夢と戀愛とをうたつたものである。しかし作者の夢は軟かでほのかなものが多く、其の戀は單一で純粹である。素直に來るものを受人れ、靜に自分の性情の發達に從つて居る樣を見ることが出來る。しかし一方彼が諸處の大學に聽講し、ミュンヒェンに行きベルリンに出た頃の文壇の風潮は如何であつたらう。さしもに隆盛を極めた自然主義も漸くその氣勢を挫かれて、フィスマン[やぶちゃん注:不詳。]の反旗、イブセン、ストリンドベルクの變化は云ふまでもなく、自我に還れの聲は獨逸國內に於ても既に諸處に聞かれたのである。バアルの『自然主義脫却論』の出た翌年、卽ち一八九二年の四月にはミュンヒェンで出る『ゲゼルシャフト』誌上にデエメルは長論文を揭げて自我の權威を提唱した。腐爛した汚物の中から靑い花の咲く日が來た。荒い生活の浪に觸れることを好まなかつたリルケも、此新思潮の敎ふる處を最も嚴肅に受入れたやうに見える。

 自我とは何であるか。リルケは先づそれを知らうと思つた。自我を以て肉體的個人と考えた人々は遂に鄕土藝術へ赴いた。感覺の微妙な魔術に捕へられたものはホオフマンスタアル等のやうに「美の僧院」に遁世して、新しい夢に沒入して行つた。リルケも暫く之等幾多の方向の間に彷徨した。詩集『基督降誕節』は明にこの間の消息を示すものである。『父』、『ペエタア・イャコプセン』、『ペエタア・アルテンペルグ』、『ハンス・トオマ』、『リリエンクロオン』、『リヒャルト・デエメル』等への獻詩を持つてゐる此の詩集は、詩想の上に於て種々多樣なものの混入を裏切つて居るのみではなく、また調子の上でも『家神奉幣』の純一を破つて、他人から幾多の影響をうけたことを語つて居る。

 何か花園の中へ入つて來た、

 栅は軋(きし)る音もしなかつたが、

 總べての花檀の中の薔薇は

 それが居るので戰いでゐる。

[やぶちゃん注:「戰いで」。「そよいで」。]

 斯ういう隱喩も用ひられる。またハイネ風の律動も屢目立つ上に、ほのかに優しかつたものが、聲高く叫びをあげる心の逼迫に襲はれる。「お前達の中にちろちろと啼くお前達は魂と云ふのか。……私には永遠の一片を胸の中に擔つてゐるやうに思はれる。それは放蕩し叫喚する。……これこそは魂だ。」

 當時のことを囘顧したのであらう。彼は時禱篇の中で歌つてゐる。

 私は蒔き散らされました。敵によつて

 私の自我は片々に分たれました。

 ああ、神よ、凡ての笑ふ者は私を笑ひ、

 あらゆる飮むものは私を飮みました。

 ………………

 私は火事の後の一軒家でした。

 そこには殺人者だけがをりをり、

 飢餓の罰に追はれて

 外へ出てゆくまで眠つてゐました。

 また疫病の迫つて來た

 海邊の町のやうでした。……

 總べての自己を求める者の苦しみが彼の上に來たのである。そして事物の凝視者であつた彼はまた自己の分裂崩潰をも凝視するの外はなかつた。その一つ一つの異つた姿を深く極めて、其奧底に唯一普遍なものを求めようとするのが彼の戰であつた。自作の聖像の悉くが皆な異つた容貌を持つて居るのに慊らずして[やぶちゃん注:「あきたらずして」。]、「一つの中に總べて」を收めようとして、終に忘我の中に我と我が肉體を鑿[やぶちゃん注:「のみ」。]で刻む短篇『彫刻家』の主人公ヱルネルは、實に當時のリルケ其人であつたらう。彼はこれ迄自我として賴つてゐたものが、多くは他人によつて作られた因襲であり槪念であることを學んだ。そしてそれ等一切を斥けて眞の自我を建てようとするのが、彼の切なる願であつた。

 これが私の爭だ。

 憧憬に身をささげて、

 每日を步み過ぎる。

 それから、强く廣く、

 數千の根の條で

 深く人生に摑み入る――

 惱みを經て

 遠く人生の外に熟す。

 時代の外に。

 詩集『基督降誕節』の基調はそれ故に著しく憂鬱であつた。上には重く暗い雲が懸つており、下には暴い吹雪が狂つていた。しかし降誕祭を飾る若い樅は既に森の片隅に來るべき目の輝きを待つてゐた。それは詩想の上のみについてではなかつた。此詩集によつて、リルケの詩人的才能、辭句を練り、諧調を驅使し、律動を與へる手腕が、同時代者の間に交つて遜色なきことが證明され、近づく祭日が期待されたのであつた。そして其期待に答えたものが次ぎの詩集『我が祝に』であつた。實に此集は上述のやうな意味で眞のリルケの第一詩集であると云つてもよい。『冠せられた夢』や『基督降誕節』の中にあつた、種々の不純なものが今や一掃されて、再び此處には眞にリルケ的なもののみが新しい光を發してゐる。しかし此處には末だ『少女の歌』、『マリアヘ少女の祈禱』等の示すやうな、目標のない寂しさがあつた。

[やぶちゃん注:「來るべき目の輝きを待つてゐた」は、底本では、「來るべき目の輝きを待つたゐた」である。誤植。岩波文庫版で特異的に訂した。]

 お前たち少女は四月の夕の

 花園のやうだ。

 春は數多の路の上にあるが

 なほ何處と目あてもない。

 という『少女の歌』の序詩は、ただ少女の本質を的確に表現してゐるばかりではなく、同時にまたリルケが當時の僞らない心境の表白ではなからうか。「遠く人生の外、時の外に」永遠を求めて「成熟しよう」とするリルケの憧憬には、既に目的があつて末だどの路を選む可きかといふ定かな目標がなかつたのである。永遠は虛無にもある、死にもある、愛にもある、神にもある。

 みそなはせ、私等の日はこんなに狹く、

 夜の室は氣づかはしい。

 私等は皆な倦みたわまず、

 紅い薔薇を願つてゐます。

 

 マリアよ、あなたは私等にやさしくしなくてはなりませぬ。

 私たちはあなたの血から花咲いたのです。

 また憧憬のどんなに痛いかは

 あなただけが知ることが出來まする。

 

 實に魂の少女の痛みを

 あなたはみづから知つてゐられます。

 魂はクリスマスの雪の如く感じながら、

 それで全く燃えてゐる。……

 「赤い薔薇を願ふ」憧憬の悲しさには、「平な國では待ちもうけてゐた、一度も來なかつた客をば」といふ哀音さへ時に交つて居るが、全體に於てリルケの中の詩人が自覺に到達して、

 ……生命を求めて打ちふるひ、

 また高い處へ行かうと思つてゐる。

 歌のやうに光耀のやうに。

 といふ明るさに充ちて居ることは蔽はれない。云はばリルケは此集によつて詩人としての自己の降誕を祝つてゐるらしく思はれる。『我が祝に』といふ命名も恐らくその心持であらう。その邊の消息を一層明瞭に知る爲に、我々の視線を暫く彼の小說戲曲の方へ向けてみたい。

[やぶちゃん注:『我が祝に』底本では、『我の祝に』であるが、前記の標題指示に従い、特異的に訂した。再版「詩集」でも茅野は訂正している。]

2022/03/20

現在進行中の萩原朔太郎の未発表詩篇の正規表現版電子化をペンディング、及び、詩集「月に吠える」「靑猫」「蝶を夢む」「氷島」「宿命」の詩篇の草稿の追加について

現在、私は萩原朔太郎の未発表詩篇の正規表現版電子化注を進行中であるが、その過程で、筑摩版「萩原朔太郞全集」第一巻にある、詩集「月に吠える」「靑猫」「蝶を夢む」及び第二巻の「氷島」「宿命」の草稿詩篇の電子化がかなり抜けていたことに気づいた(後の「氷島」「宿命」(一篇のみ)は現存草稿が前の三詩集に比すと、非常に少ない)。

そこで、先行する「月に吠える」「靑猫」「蝶を夢む」「氷島」「宿命」の各詩篇の正規表現版の電子化注に、そこに草稿があるものについて、それを追加する作業にこれより入ることにした。一部、古くに単独で電子化したものがあり、小学館版の旧詩集の注で電子化したものもあるのであるが、完全に電子化したものを除き、今回、新たに、概ね、各々の決定稿の後に新規に電子化して示すこととする(古いもので代替する場合は、再度、校訂を行った)。それが、正しく容易に決定稿と比較出来ると考えるからである(長詩については別にしたものもある)。

そのため、未発表詩篇の電子化は一時的にペンディングする。

なお、前の三詩集「月に吠える」「靑猫」「蝶を夢む」「氷島」の全正規表現詩版の電子化注は、その総てが、ブログ・カテゴリ「萩原朔太郎」の方にあるので注意されたい。

2021/12/30

ブログ・カテゴリ「萩原朔太郎Ⅱ」創始

ブログ・カテゴリ「萩原朔太郎」の記事が1000件に近づいてきた。私の加入しているニフティのブログ「ココログ」は、一カテゴリでは千件を超えると、過去記事が表示されなくなり、カウントも増えない。ブログ画面では1001以前の古い記事がリンクとして出てこなくなるため、過去記事を読者が読む際には、使い勝手が非常に悪くなる。特に向後も順調に増える予定の萩原朔太郎の記事では、それは甚だ困るため、「萩原朔太郎Ⅱ」というブログ・カテゴリを新規に作ることとした。今まで通り、よろしく。 心朽窩主人敬白

2021/12/29

萩原朔太郞詩集「蝶を夢む」正規表現版 極光 / 詩集「蝶を夢む」~了

 

   極光

 

懺悔者の背後には美麗な極光がある。

 

 

 

蝶を夢む

 

[やぶちゃん注:詩集「蝶を夢む」の最終詩篇と、本文最終ページの柱。左ページに奥附。本詩集は新潮社の「現代詩人叢書」の第十四編で書籍本体への思い入れが私にはないので、以上のリンクで示すに留めた。

 「極光」の初出は大正四(一九一五)年二月号『詩歌』であるが、十行からなる長めの散文詩「懺悔者の姿」の三行の一部のみを抜き出して改題したアクロバットものの新作というべきものである。ブログの古い電子化を、最近、必要上(「萩原朔太郎詩集 遺珠 小學館刊 散文詩 懺悔者の姿」の注を附すため)、補正した「懺悔者の姿 萩原朔太郎 (正規表現版・「極光」原形)」があるので、そちらを見られたい。]

萩原朔太郞詩集「蝶を夢む」正規表現版 Omega の瞳

萩原朔太郞詩集「蝶を夢む」正規表現版 Omega の瞳

   Omega の瞳

 

死んでみたまへ、屍蠟の光る指先から、お前の靈がよろよろとして昇發する。その時お前は、ほんたうにおめがの靑白い瞳(め)を見ることができる。それがお前の、ほんたうの人格であつた。

 

ひとが猫のやうに見える。

 

[やぶちゃん注:太字は底本では傍点「ヽ」。初出は大正四(一九一五)年四月発行の『卓上噴水』であるが、無題で、第二連は存在しない。以下に示す。誤字や歴史的仮名遣の誤りは総てママ。

   *

 

 

 

幼兒は眞實であり神は純一至高の感傷である。

死んでみたまへ、屍臘の光る指先からお前の至純な靈が發散する、其時お前にほんとうに OMEGA.  の瞳の靑白い感傷のひとみを見ることができる其れは汝の人格であつた。

 

   *]

萩原朔太郞詩集「蝶を夢む」正規表現版 柳

 

   

 

放火、殺人、竊盜、夜行、姦淫、およびあらゆる兇行をして柳の樹下に行はしめよ。夜において光る柳の樹下に。

そもそも柳が電氣の良導體なることを、最初に發見せるもの先祖の中にあり。

 

手に兇器をもつて人畜の内臟を電裂せんとする兇賊がある。

かざされたるところの兇器は、その生(なま)あたたかき心臟の上におかれ、生ぐさき夜の呼吸において點火發光するところのぴすとるである。

しかしてみよ、この黑衣の曲者(くせもの)も、白夜柳の木の下に凝立する由所である。

 

[やぶちゃん注:「由所」はママ。筑摩版全集校訂本文では『所以』に強制消毒されてある。「白夜柳」は恐らく「びやくややなぎ」であろうが、特定の種名ではなく、「黑衣の曲者」に応じて幻想された造語と思われる。初出は大正四(一九一五)年二月号『詩歌』。標題は「柳に就て」。以下に示す。太字は底本(筑摩版全集)では傍点「ヽ」である。

   *

 

 柳に就て

 

放火、殺人、竊盜、夜行、姦淫、及びあらゆる兇行をして柳の樹下に行はしめよ。夜に於て、光る柳の樹下に行はしめよ。

かかる塲合に於ける、すべての兇行は必ず靈性を生ず。

そもそも、柳が動物電氣の良電體なることを、世界に於て最初に發見せるもの我々の先祖にあり。

しかも極めて不徹底に無自覺に、あまつさへ、傳說的に表現せられしところに新人の增補がある。

 

手に兇器を所持して人畜の内臟を電裂せんとする兇賊がある。

彼はその愛人の額に光る鑛石を射擊せんとして震慄し、かつ疾患するところの手を所有する。

かざされたるところの兇器は、その生あたたかき心臟の上におかれ、生ぐさき夜の靈智の呼吸に於て、點火發光するところのぴすとるである。而して見よ、この黑衣の曲者も、白夜柳の木の下に停立凝視する由所である。

 

なお、筑摩版全集の「草稿詩篇 蝶を夢む」に草稿がある。以下に示す。誤字・脱字及び誤字と思しいもの、歴史的仮名遣の誤りは、総てママである。三行目の数字群は朔太郎が打ったもの。「震りつ」は「震慄」に同じ。

   *

 

  

 

いまいたむべし夜に於て光る柳の葉は薄き金屬の碎片である、光る柳の木は 霜月動物心理の靈性冬幹樹心あらゆる樹木の中最も靈性を有するところの感電白金體である

およそあらゆる樹木のうち生物の微動物電氣の知感に於て鋭感すること枯霜霜かれ月の柳の如きものはない、

5兇行放火、4姦淫、3夜行、2竊盜、1殺人、云々

されば

みよ彼はつねに柳の木の下にひそみかくる、

彼は手に兇器を所持して、人類の畜の内臟を電裂せんとするところの兇賊であるがある、

彼の眼は闇夜の空に飛鳥を射殺するところの兇器である

彼の手はその愛人の額に光る礦石を射擊せんとして震りつしその兇器はかつ發光するところの手である、を所有す、

而してみよその兇器は生あたゝき心臟のうヘにおかれ

生ぐさき夜の靈智の呼吸を

墓場より掘屈せられたるところの生膽である、

さて兇器は生れたる胎兒の述走神經である、

みよその兇器は生あたゝき心臟の上におかれ生ぐさき夜の靈智の呼吸に於て點火發光するピストルである、

而してみよこの白金の黑衣の曲者も白夜、柳の下に停立する由所である、

 

殺人、强姦、詐僞、竊盜、夜行、あらゆる兇行の行はるゝところに

必ず柳をうえしめよ

あらゆる兇行はその塲合必ず靈性を生ず

かくの如きものは具體的說明は最も進步せる 學と科學哲理と科學との說明にまつ外なし、

詩人はこれを直覺すれば足れり、

他物を凝視するとこせよとの謂は自我の心靈を凝視せよの謂なり、人若し自我心靈の發光を感知するとき外物悉く我に傾斜し光輪を有するに至るべし、

ありがたや魚にも

心外無物心内有物(オイケン)

ありがたや魚にも後光(白秋)

 

・「自我心靈の」「感知するとき」は筑摩版全集初版では「自我が心靈の」「感知するごとき」となっているが、後の差し込みでかく訂正している。

・「オイケン」ドイツの哲学者でノーベル文学賞受賞者(一九〇八年受賞)であるルドルフ・クリストフ・オイケン(Rudolf Christoph Eucken 一八四六年~一九二六年)。体系的哲学者ではなかったが、生の哲学及び理想主義の立場から多くの著作をものし、日本を含め、国外にも多くの影響を与えた。但し、彼の息子でネオ・リベラリズムの代表者である経済学者ウォルター・オイケン(Walter Eucken  一八九一年~一九五〇年)の方が現行では知名度が高い。さて、この「心外無物心内有物」(「心の外には、物、無し。心の内にのみ、物、有り。」か)であるが、私は父オイケンの著作を読んだことがないので、なんとも言えぬが、これは、彼の示した思想というより、仏教の「心外無別法」(しんげむべっぽう)のことで、「認識していると信じている一切の現象世界は、総てが各自の心識から出たものに過ぎず、別にその物対象が存在するのではないということ」を指しているものと思う。

・「ありがたや魚にも後光(白秋)」不詳。朔太郎の盟友北原白秋の詩歌の一節にでもあるものか? 私は知らない。]

萩原朔太郞詩集「蝶を夢む」正規表現版 散文詩(パート標題)・添え書き・「吠える犬」

 

    散 文 詩 四 篇

 

[やぶちゃん注:パート標題。その裏に以下の添え書き。]

 

 

   「月に吠える」前派の作品

 

 

   吠 え る 犬

 

月夜の晚に、犬が墓地をうろついてゐる。

この遠い、地球の中心に向つて吠えるところの犬だ。

犬は透視すべからざる地下に於て、深くかくされたるところの金庫を感知することにより。

金庫には翡翠および夜光石をもつて充たされたることを感應せることにより。

吠えるところの犬は、その心靈に於てあきらかに白熱され、その心臟からは螢光線の放射のごときものを透影する。

この靑白い犬は、前足をもつて堅い地面を掘らんとして焦心する。

遠い、遠い、地下の世界において微動するものを感應することにより。

吠えるところの犬は哀傷し、狂號し、その明らかに直視するものを掘らんとして、かなしい月夜の墓地に焦心する。

 

吠えるところの犬はである。

なんぢ、忠實なる、敏感なる、しかれどもまつたく孤獨なる犬よ。

汝が吠えることにより、病兒をもつた隣人のために銃をもつて擊たれるまで。

吠えるところの犬は、靑白き月夜においてのである。

 

[やぶちゃん注:太字は底本では傍点「ヽ」。初出は大正四(一九一五)年二月号『詩歌』。以下に示す。誤字或いは誤植と思われるものは総てママである。

   *

 

 吠える犬

 

月夜の晚に、犬が墓地を墓標をめぐつて居る。

この遠い地球の核心に向つて吠えるところの犬だ。

犬は透視すべからざる地下に於て深くかくされたるところの金庫を感知することにより、金庫には斐翠及び夜光石を以て充たされたることを感能せることにより。

吠えるところの犬は、その心靈に於て明らかに白熱され、その心臟に於て螢光線の放射の如きものを肉身に透影する。

この靑白い犬は前足を以て固き地面を堀らんとして焦心する。遠い、遠い地下の世界に於て微動せるところのものを感得することにより。

吠えるところの犬は哀傷し、疾患し、しかもその明らかに直視するところのものを堀らんとして月夜の墓地に焦心する。

 

吠えるところの言葉は『詩』である。

汝、忠實なる、敏感なる、然れども全く孤獨なる犬よ。汝が吠えることにより、洞察なき隣人のために銃をもつて擊たるるまで、名字が餓死するに及ぶまで、汝が『謎』を語ることを止めざる最後にまで。

吠えるところの犬は、靑白き月夜に於ての『詩人』である。

 

   *

初出では最後の第二連が本篇の核心である象徴の謎の解き明かしのようになっていて、面白くない。決定稿の方が遙かに詩となっている。しかし、この詩篇こそが、近代詩に突如出現した「月に吠える犬」であり、そうした意味で本邦の近代詩史に於ける重大な「疾患」のメルクマールなのである。本篇には、草稿が二種あり、その一つが筑摩版全集の「草稿詩篇 蝶を夢む」に載る。標題は「犬」である。以下に示す。歴史的仮名遣の誤りや誤字・衍字と思しいものはママ。

   *

 

  

月夜の晚の

犬が*柳の木を//墓場の墓標を*めぐつて居る

[やぶちゃん注:「*」「//」は私が附したもので、「柳の木を」と「墓場の墓標を」が並置残存していることを示す。]

この犬の心靈は柳の葉にふれて

この遠い地球の核心に向つて吠えるところの犬だ

犬の心靈はあきらかに飢えかがやいて居る。 そは 犬の心靈は靑く犬の述走神經はあるたしかな

彼は透徹すべからざる地下に於て深く匿かれたるところの主人の金銀貴金屬の金庫がある、祕密のを感知することにより、

而て金庫には斐翠及び夜光石を以てみたされてゐる

彼は吠えるところの犬はその心靈に於てあきらかに白熱され

その心臟に於て螢光線の放射の如きものを肉身に透影する、

この靑白き犬に於ては前足に於て固き地を掘らんとして居るして焦心する、

遠い遠い地下の世界に於ては何人も知らないところの靈がくされたる微動するところのものを明確に感知したるものは地上に於て一疋の蓄生である、ところの犬である、

犬は感傷し犬は疾患し而してその知る直視するところのものを掘らんとして月夜の晚に焦心する、

うゑたる犬は吠える、

 

  *

最後に編者注があり、『本稿の冒頭欄外に「龜について、」とある。』とある。詩集「月に吠える」に載せた「龜」を想起し、そのイメージとの関連性を自身のメモランダとしたものか。]

萩原朔太郞詩集「蝶を夢む」正規表現版 榛名富士

 

   榛 名 富 士

 

その絕頂(いたゞき)を光らしめ

とがれる松を光らしめ

峰に粉雪けぶる日も

松に花鳥をつけしめよ

ふるさとの山遠遠(とほどほ)に

くろずむごとく凍る日に

天景をさへぬきんでて

利根川の上(へ)に光らしめ

祈るがごとく光らしめ。

               ――鄕土風物詩――

 

[やぶちゃん注:初出は大正四(一九一五)年一月号『水甕』。以下に示す。「くろづむ」はママ。

   *

 

   榛名富士

      ――鄕土風物詩――

 

その絕頂(いたゞき)を光らしめ、

とがれる松を光らしめ、

峯に粉雪けぶる日も

松に花鳥をつけしめよ

ふるさとの山、遠遠(とほどほ)に、

くろづむごとく凍る日に、

天景をさへぬきん出て、

利根川の上(へ)に光らしめ、

いのるがごとく光らしめ。

          ――十一月作――

 

   *

本篇には草稿がある。以下に示す。行頭の数字は朔太郎自身が打ったもの。誤字はママ。

   *

 

  榛名富士

   (上野三岳ノ一、形樣富士山ニ似タルヲ

    以テコノ名アリ、)

 

1その絕頂を光らしめ

2とがれる松を光らしめ

3おも峯に粉ゆきふるときも→けぶる日も→ふれる日もけぶる日も

4松に花鳥をつけしめよ

利根 さ靑に利根をはしらせて

けぶるがごとく凍る日に

遠山脈の 消ゆる日に 凍る日に

5ふるさとかみつけの山遠々に

6くろづむごとく凍る日に

7天景をさへぬきんでゝ

8利根川のへに光らしめ

9いのるが如く光らしめ、

     ――滯鄕 詩扁 哀語――
     ――鄕土詩扁――
     ――鄕土景物詩――
     ――一九一四、一一、一五――

 

   *]

萩原朔太郞詩集「蝶を夢む」正規表現版 綠蔭俱樂部

 

   綠蔭俱樂部

 

都のみどりば瞳(ひとみ)にいたく

綠蔭俱樂部の行樂は

ちまたに銀をはしらしむ

五月はじめの朝まだき

街樹の下に並びたる

わがともがらの一列は

はまきたばこの魔醉より

襟脚きよき娘らをいだきしむ。

綠蔭俱樂部の行樂の

その背廣はいちやうにうす靑く

みよや都のひとびとは

手に手に白き皿を捧げもち

しづしづとはや遠近(をちこち)を行きかへり

綠蔭俱樂部の會長の

遠き畫廊を渡り行くとき。

 

[やぶちゃん注:「綠蔭俱樂部」なる怪しげにして在雑なものの実態は不詳。初出は大正三(一九一四)年六月号『詩歌』。以下に示す。二行目の誤植はママ。

   *

 

 綠蔭俱樂部

 

都のみどりば瞳(ひとみ)にいたく、

綠蔭俱榮部の行樂は、

ちまたに銀をはしらしむ、

五月上旬(はじめ)のあさまだき、

街樹の下に並びたる、

わがともがらの一列は、

はまきたばこの魔醉より、

襟脚きよき娘らをいだきしむ、

みないつしんにいだきしむ。

綠蔭俱樂部の行樂の、

その背廣はいちやうにうす靑く、

みよや都のひとびとは、

手に手に白き皿を捧げもち、

しづしづとはや遠近(をちこち)を行きかへり、

綠蔭俱樂部の會長の、

遠き𤲿廊を渡り行くとき。

 

   *

本篇のクライマックスの「襟脚きよき娘らをいだきしむ、」の後に強調の「みないつしんにいだきしむ。」の一行が挟まれてあり、これが反転のバネとなって上手く働いて、詩想のクレッシェンドが静かにデクレッシェンドへと転じており、私はこの初出形の方がよいと感じている。

 なお、筑摩版全集の『草稿詩篇 蝶を夢む』の最後には、『綠蔭俱樂部(本篇原稿一種一枚』としつつも、掲げずに、『末尾に「(大正三年五月一日)」と附記されている』とのみ記す。但し、同全集の『一九一三、九 習作集第九卷』には、以下の草稿が載る。

   *

 

 綠蔭俱樂部

都のみどりば瞳(ひとみ)にいたく

綠蔭俱榮部の行樂は

ちまたに銀をはしらしむ

五月はじめの朝まだき

街樹の下に並びたる

わが友がらの一列は

襟脚しろき娘らをいだきしむ

みないつしんにいだきしむ。

綠蔭俱樂部の行樂の

その背廣はいちようにうす靑く

みよや都のひとびとは、

手に手に白き皿を捧げもち

しづしづとはや遠近を步みいづ、

綠蔭俱樂部の會長の

遠き畫廊をすぐるときしも。

             (大正三年五月一日)

 

   *]

萩原朔太郞詩集「蝶を夢む」正規表現版 空に光る

 

   空 に 光 る

 

わが哀傷のはげしき日

するどく齲齒(むしば)を拔きたるに

この齲齒は昇天し

たちまち高原の上にうかびいで

ひねもす怒りに輝やけり。

みよくもり日の空にあり

わが瞳(め)にいたき

とき金色(こんじき)のちさき蟲

中空に光りくるめけり。

 

[やぶちゃん注:「齲齒」の音は正しくは「くし」と読む。「うし」と読むことが多いが、「う」は慣用音で本当は誤りである。まあ、「むしば」と読んでしまっているから、いいけれど、個人的には「むしば」という読みは本詩篇の詩想から見ると、『何だかな~』っていう感じが私はしてならないのだが。

「とき金色(こんじき)のちさき蟲」の「とき」は、前の「わが瞳(め)にいたき」を受けるから、「利き」「鋭き」で、「ちさき蟲」の形容。

初出は大正三(一九一四)年六月号『詩歌』。以下に示す。

   *

 

 空に光る

 

わが哀傷の烈しき日、

するどく齲齒を拔きたるに、

この齲齒は登天し、

たちまち高原の上に浮びいで、

ひねもす怒りに輝やけり。

みよ、くもり日の空にあり、

わが瞳(め)にいたき、

とき金色(こんじき)のちさき蟲

中空に光りくるめけり。

 

   *

本篇には筑摩版全集の『習作集題九卷』に草稿が一つある。標題は「光る齲齒」。

   *

 

  光る齲齒

 

わが哀傷の烈しき日

するどく齲齒を拔きたるに

この齲齒は登天し

たちまち高原の上に浮びいで(懸りて)

ひねもす怒りにかゞやけり

見よくもり日の空にあり

わが眼にいたき

とき金色の小さき蟲

中空に光りくるめけり。

 

   *]

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