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カテゴリー「大手拓次詩集「藍色の蟇」【完】」の292件の記事

2014/01/27

ブログ・アクセス540000突破記念 サイト完全版大手拓次詩集「藍色の蟇」(やぶちゃん注附初版再現版)+縦書版

ブログ・アクセス540000突破記念としてサイト完全版・大手拓次詩集「藍色の蟇」(やぶちゃん注附初版再現版)+縦書版を「心朽窩 新館」に公開した。ブログ版をルビ化し、細部をブラッシュ・アップして、少なくとも現在、出版されているもの及びネット上に存在するところの、大手拓次詩集「藍色の蟇」を標ぼうするものの中では、最も原本に忠実なテクストである自信はある。豪華な装幀も詩と一緒にご覧あれ。

2013/11/04

奥付

[やぶちゃん注:以下、奥付。なるべく似せたが、正式な配置は後の画像で確認されたい。]

昭和十一年十二月二十六日印刷  藍 色 の 蟇
昭和十一年十二月  三十日發行     定價三圓八十錢

             著作者  大 手 拓 次
             編輯者  逸 見   享
                  東京市中野區宮前二五
 販  權       發行者  北 原 鐡 雄
 (逸見印) ・       東京市神田區神保町三丁目
 所  有       印刷者  山 本 英次郎
               東京市牛込區東五軒町四〇
             印刷所 山本源太郎印刷所
               東京市牛込區東五軒町四〇
東京市 神田區 神保町三丁目     發行所
振替  東京   二四八八八番     ア ル ス
電話九段二一七五・二一七六

Okuzuke_2

以上を以って、本2013年2月21日から開始したブログ版大手拓次詩集「藍色の蟇」完全電子化プロジェクトを完遂した。

近日中に、サイト鬼火版の作製に入る。

エールを戴いた方々に、この場を借りて心から御礼申し上げる。

編者の言葉

      編者の言葉

 

 一昨年の四月十八日、拓次危篤の報をうけて、南湖院に着いた時には、もう死室に移されてゐた。私は誰にともない腹立たしさで胸がいつぱいになりながら、やうやく死室に案内されたが、其處ではじめて彼が生前最も敬慕してゐた白秋氏にお目にかかることが出來た。それは全く思ひがけない、なによりも有難いことだつた。

 お通夜は近親の外には白秋氏夫妻と、私とだけで營まれたが、詩集發行の計畫はこのしめやかな雰圍氣のうちに胚胎したのである。その時の氏の暖い心情と、さびしくも明るい安堵の氣配とを忘れることが出來ない。そして私は編輯一切をなにげなくお引受けしたが、不馴な自分にはかなりの重荷に相違なかつた。さいはひ本人が大正十五年に詩集出版の計畫をたて、それまでの原稿を整理してあつたので、その後の分を輯めればよかつた。けれどもほとんど日記のやうに書き綴られた多數の詩篇を見て一時は迷つてしまつた。が彼自身編輯すれば多分この程度であらうと思はれるまでに多くの詩を割愛した。このきびしい態度も詩集にゆるみを見せたくなかつたためである。

 思へば今までに一册の詩集もなかつたのは、彼の性情による結果とはいへ、あまりにもさびしいことである。せめて生前この詩集を見せたかつた。あの大きな掌にのせて、無言のままほほゑむであらう彼の姿を見たかつた。

 この書のうち、宿命の雪(自序にかへて)及び孤獨の箱のなかから(おぼえがき)は、大正十五年に彼が書いたもので、そのまま用ひた。(おぼえがきのうち黄色い接吻以下の解説は私が追記した)

 散文詩は代表作といふよりも各年代をうかがへるやうに集めた。

 この外、數十篇の譯詩と、抒情小曲が澤山あり、日記、手紙にも面白いものが殘されてゐるが、これは他日私の手でまとめて、發行の豫定故ここに集めないこととした。

 裝幀は彼の日頃の意を汲んで皮表紙金刷とし、生前見たがつてゐた私の版畫「サボテンのある風景」の縮められたものを用ひて、彼への踐とした。

 又彼を偲ぶよすがにもと、彼の肖像・死顏・筆蹟を各一枚づつ插入しておいた。

 編輯にあたつて、北原白秋氏はその序文に見られる通りの、あのあたたかい心を常に私にも寄せられ、編輯上の御注意はもとより、徹夜までされて無理な執筆をして下すつた。

 また萩原朔太郎氏はその跋に見るごとく、もつともよき理解者の一人として、いろいろ御氣づきの顚點を話して下すつた。その話されるのを聞いてゐると、時々拓次に接してゐるやうな錯覺を起すことすらもあつた。

 彼の交遊はまことに狹かつたが、最も尊敬するふたりの詩人から、かくまで暖い心づかひをうけつつ死んで行つた彼もまた幸福な詩人であつたと思ふ。序と跋とは兩氏とも多忙を極められた時機にお願ひせねばならなかつたにもかかはらず、かくまで心のこもつたものを頂けたことは、編者として特に嬉しく誇らしいことである。玆に深く探く感謝致します。

 尚この面倒な出版をお引受け下すつた北原鐡雄氏、完成するまでにいろいろお骨折を願つた、アルスの中村正爾氏及び其他の方々、種々御便宜を與へられた大木惇夫氏、恩地孝四郎氏、絶えず熱意をもつて私をはげまされた、故人の令弟櫻井秀男氏とその令息達に厚く御禮申上げる次第であります。

                      (昭和十一年十二月十五日深夜・逸見 享)

 

[やぶちゃん注:「この外、數十篇の譯詩と、抒情小曲が澤山あり、日記、手紙にも面白いものが殘されてゐるが、これは他日私の手でまとめて、發行の豫定故ここに集めないこととした」後に逸見が編纂した詩画集「蛇の花嫁」(龍星閣昭和一五(一九四〇)年刊)・訳詩集「異国の香」(龍星閣昭和一六(一九四一)年刊)及び「詩日記と手紙」(龍星閣昭和一八(一九四三)年刊)を指す。但し、これらの作品(私は未見)について、原子朗氏は「定本大手拓次研究」(牧神社一九七八年刊)で、逸見の『拓次個人への友情の厚さや熱意』及び逸見の一連の拓次関連書刊行への『努力には私も素直に敬意を表したい』としながらも、逸見は『文学のヂレッタントであり、しろうとであった。拓次の詩をどの程度理解していたか疑わしい』と述べ、本詩集は勿論、これら「蛇の花嫁」や「詩日記と手紙」などは、『どちらかといえば俗受けをねらった編集、改竄ぶりは甚だしい』と、手厳しく批判されておられる。

「踐」「セン」と音読みしているか。この語には先人の行跡に従う、(約束を)履行するといった意味はあるが、どうも「彼への踐とした」という謂いとは馴染まない。私の勝手な憶測であるが、これは「餞」の誤植で、「はなむけ」と読んで――彼(の死出の旅路)への餞とした――という謂いではあるまいか?

「北原鐡雄」(明治二〇(一八八七)年~昭和三二(一九五七)年)は写真・文学を専門とする出版社「アルス」を設立し、代表を務めた人物で、北原白秋の弟(三男)に当たる(ウィキの「北原鉄雄」に拠る)。

「中村正爾」(なかむらしょうじ 明治三〇(一八九七)年~昭和三九(一九六四)年は歌人で編集者。新潟生。新潟師範学校卒業後、小学校教員を経て、大正一一(一九二二)年北原白秋を頼って上京、出版社「アルス」に入社、昭和一〇(一九三五)年に白秋が創刊した『多磨』に参加して終刊まで編集に当たった。昭和二八(一九五三)年には『中央線』を創刊して主宰となった(講談社「日本人名大辞典」に拠る)。

「恩地孝四郎」(明治二四(一八九一)年~昭和三〇(一九五五)年)版画家・詩人。東京生。東京美術学校中退。竹久夢二に私淑してドイツ表現派・ムンク・カンディンスキーの影響を受ける。大正三(一九一四)年に詩と版画の同人誌『月映(つくはえ)』を創刊、同誌上に抽象木版画を発表して以来、日本の抽象絵画の先駆者として活躍した。大正六(一九一七)年に刊行された萩原朔太郎の詩集「月に吠える」の挿絵・装丁を手掛けて以後、多数の装本をも生業とし、昭和五(一九三〇)年のアルス社版「北原白秋全集」の装幀によって装本家の地位を確立した。日本創作版画協会や日本版画協会の創立に参加、大正・昭和期を通じて日本の近代版画の確立と普及、版画家の育成と国際美術展への参加等、版画界の発展に尽力した(平凡社「世界大百科事典」に拠る)。]

詩集 藍色の蟇 目次

[やぶちゃん注:以下の目次はリーダと頁数は煩瑣で必要性もないと判断し、省略した。詩群の間は見易くするために、底本より有意に空けてある。]

 

 

 

   詩集 藍色の蟇

 

 

 

陶器の鴉

 

 藍色の蟇

 

 陶器の鴉

 

 しなびた船

 

 黄金の闇

 

 槍の野邊

 

 象よ歩め

 

 枯木の馬

 

 鳥の毛の鞭

 

 道心

 

 漁色

 

 撒水車の小僧たち

 

 羊皮をきた召使

 

 海鳥の結婚

 

 慰安

 

 蛇の道行

 

 なまけものの幽靈

 

 泡立つ陰鬱

 

 長い耳の亡靈

 

 目をあいた過去

 

 なりひびく鉤

 

 のびてゆく不具

 

 やけた鍵

 

 美の遊行者

 

 秋

 

 裸體の森

 

 罪の拜跪

 

 肉色の薔薇

 

 つんぼの犬

 

 野の羊へ

 

 威嚇者

 

 憂はわたしを護る

 

 河原の沙のなかから

 

 

 

球形の鬼

 

 雪をのむ馬

 

 假面の上の草

 

 香爐の秋

 

 木立の相

 

 武裝した痙攣

 

 創造の草笛

 

 球形の鬼

 

 ふくろふの笛

 

 くちなし色の車

 

 春のかなしみ

 

 生きたる過去

 

 輝く城のなかへ

 

 咆える月暈(つきかさ)

 

 銀の足鐶

 

 ひろがる肉體

 

 躁忙

 

 走る宮殿

 

 耳のうしろの野

 

 笛をふく墓鬼

 

 あをい狐

 

 老人

 

 紫の盾

 

 白い髯をはやした蟹

 

 みどりの狂人

 

 よれからむ帆

 

 みどり色の蛇

 

 死の行列

 

 名も知らない女へ

 

 

 

濕氣の小馬

 

 黄色い馬

 

 朱の搖椅子

 

 法性のみち

 

 曼陀羅を食ふ縞馬

 

 金屬の耳

 

 妬心の花嫁

 

 白い象の賀宴

 

 蛙にのつた死の老爺

 

 日輪草

 

 ふくらんだ寶玉

 

 足をみがく男

 

 夜會

 

 むらがる手

 

 靑白い馬

 

 怪物

 

 花をひらく立像

 

 めくらの蛙

 

 窓わく

 

 黑い手を迎へよ

 

 つめたい春の憂鬱

[やぶちゃん注:底本は「春」が「帶」となっているが、誤植であるから訂した。]

 

 ヒヤシンスの唄

 

 ジヤスミンのゆめ

 

 母韻の秋

 

 濕氣の小馬

 

 森のうへの坊さん

 

 草の葉を追ひかける眼

 

 喪服の魚

 

 

 

黄色い帽子の蛇

 

 曉の香料

[やぶちゃん注:底本は「曉の香」であるが、脱字であるから訂した。]

 

 魚の祭禮

 

 黄色い帽子の蛇

 

 きれをくびにまいた死人

 

 手のきずからこぼれる花

 

 はにかむ花

 

 蛙の夜

 

 年寄の馬

 

 無言の顏

 

 毛がはえる

 

 雜草の脣

 

 小用してゐる月

 

 水草の手

 

 彫金の盗人

 

 三本足の顏

 

 鼻を吹く化粧の魔女

 

 あをざめた僧形の薔薇の花

 

 嫉妬の馬

 

 僧衣の犬

 

 罪惡の美貌

 

 手の色の相

 

 

 

香料の顏寄せ

 

 月下香(Tubereuse)の香料

 

 ベルガモツトの香料

 

 ナルシサスの香料

 

 鈴蘭の香料

 

 香料のをどり

 

 すみれの葉の香料

 

 佛蘭西薔薇の香料

 

 香料の墓場

 

 Wistaria の香料

 

 香料の顏寄せ

 

 

 

白い狼

 

 湖上をわたる狐

 

 灰色の蝦蟇

 

 舞ひあがる犬

 

 靑狐

 

 林檎料理

 

 まるい鳥

 

 白い狼

 

 疾患の僧侶

 

 盲目の鴉

 

 蜘蛛のをどり

 

 鏡にうつる裸體

 

 指頭の妖怪

 

 

 

木製の人魚

 

 をとめの顏

 

 わかれることの寂しさ

 

 わらひのひらめき

 

 水母の吸物

 

 眞黑な水の上の月

 

 きものをきた月

 

 夏の夜の薔薇

 

 木製の人魚

 

 洋裝した十六の娘

 

 戀

 

 山のうへをゆくこゑ

 

 窓をあけてください

 

 十四のをとめ

 

 月の麗貌

 

 椅子に眠る憂鬱

[やぶちゃん注:底本では「憂欝」で異体字を用いているが、詩の用いている正字で訂した。]

 

 水のおもてのこゑ

 

 

 

みどりの薔薇

 

 あをざめた薔薇

 

 うづまく花

 

 まぼろしの薔薇

 

 うしろをむいた薔薇

 

 薔薇のもののけ

 

 手をのばす薔薇

 

 ばらのあしおと

 

 薔薇の誘惑

 

 ひびきのなかに住む薔薇よ

 

 なやめる薔薇

 

 さびしい戀

 

 かなしみ

 

 わかれ

 

 

 

風のなかに巣をくふ小鳥

 

 幻影

 

 祕密の花

 

 悲しみの枝に咲く夢

 

 風のなかに巣をくふ小鳥

 

 足

 

 秋

 

 遠い枝枝のなかに

 

 思ひ出はすてられた舞踏靴

 

 あなたの一言にぬれて

 

 戀人を抱く空想

 

 西藏のちひさな鐘

 

 さびしいかげ

 

 あなたのこゑ

 

 盲目の寶石商人

 

 

 

莟から莟へあるいてゆく

 

 馬にゆられて

 

 十六歳の少年の顏

 

 水中の薔薇

 

 雪のある國へ歸るお前は

 

 焦心のながしめ

 

 四月の顏

 

 流れの花

 

 季節の色

 

 四月の日

 

 呪ひに送られる薔薇

 

 マリイ・ロオランサンの杖

 

 月に照らされる年齡

 

 月をあさる花

 

 しろいものにあこがれる

 

 みちのほとりをゆく

 

 うつり氣の薔薇

 

 夢をうむ五月

 

 莟から莟へあるいてゆく人

 

 名もよばないでゐるけれど

 

 かげの心

 

 六月の雨

 

 卵の月

 

 

 

黄色い接吻

 

 夜の時

 

 春の日の女のゆび

 

 黄色い接吻

 

 ひとすぢの髮

 

 蛇行する蝶

 

 合掌する縊死者の群

 

 頸をくくられる者の歡び

 

 乳白色の蛇

 

 死は羽團扇のやうに

 

 夜の脣

 

 お前の耳は新月

 

 齒

 

 雪が待つてゐる

 

 髮

 

 靑い紙の上に薔薇を置く

 

 八つの指を持つ妬心

 

 夕暮の會話

 

 道化服を着た骸骨

 

 あをい馬

 

 そらいろの吹雪

 

 うつくしい脣

 

 謎のやうな

 

 癡愚

 

 煙のなかに動く幻影

 

 夜の光の日向の花

 

 落葉のやうに

 

 おまへの息

 

 靑い吹雪が吹かうとも

 

 

 

みづのほとりの姿

 

 ふりつづく思ひ

 

 朝の波

 

 白い階段

 

 靑靑とよみがへる

 

 日はうつる

 

 しろい火の姿

 

 月にぬれた鳥

 

 とぢた眼に

 

 みづいろの風よ

 

 睫毛のなかの微風

 

 よりかかる鐘の音

 

 雪色の薔薇

 

 みづのほとりの姿

 

 そよぐ幻影

 

 

 

薔薇の散策

 

 薔薇の散策

[やぶちゃん注:総標題が「嗇薇の散策」、個別詩題が「薔薄の散策」となっているが、誤植であるから訂した。なお、この「薔薇の散策」は本文を見て戴ければ分かる通り、個別詩題は本文では示されていない。]

 

 

 

散文詩

 

 綠の暗さから

 

 琅玕の片足

 

 帽子の谷

 

 二ひきの幽靈

 

 木造車の旅

 

 狂人の音樂

 

 あをい冠をつけて

 

 暗のなかで

 

 愛戀する惡の華

 

 言葉の香氣

 

 白い鳥の影を追うて

 

 香水夜話

 

 噴水の上に眠るものの聲

 

 日食する燕は明暗へ急ぐ

 

 綠色の馬に乘つて

 

 無爲の世界の相について

 

 

 

肖像  (寫眞版)  ・ 平野次郎寫

死顏 (グラビア版) ・ 逸見 享畫

筆蹟 (グラビア版) ・ 大手拓次筆

 

[やぶちゃん注:平野次郎氏は不詳。従って著作権が存続している可能性がないとは言えない。その場合は写真は撤去する。この方の没年や事蹟を御存知の方、御教授をお願いしたい。]

大手拓次略年譜

   大手拓次略年譜
[やぶちゃん注:底本では記事部分は六字下げとなっている。]

明治二十年  (一歳)
十二月三日群馬県碓氷郡磯部温泉寶來館大手宇佐吉の次男として生る。祖父萬平は同温泉の開拓者として郷黨の尊敬を集む。

明治二十二年 (三歳)
弟秀男(後、櫻井家の養子となり、現磯部館主)出生。

明治二十七年 (八歳)
二月父字作吉三十一歳にて夭逝す。
四月磯部小學校に人學す。

明治二十九年 (十歳)
母のぶ三十四歳にて死す。

明治三十三年 (十四歳)
縣立安中中學校に入學す。

明治三十七年 (十八歳)
十月腦を病み、中學五年を退學、此時より一方の耳遠くなる。
詩人として立つ希望を抱く。

明治三十八年 (十九歳)
病氣快復し高崎中學五年生に編入。

明治三十九年 (二十歳)
高崎中學卒業。同年兄孫平、或目的のため家を出しため、家督をつぐこととなりしも、詩人となる希望を捨てず、弟秀男に讓つて、十月早瀨田大學豫科に入學す。

明治四十年  (二十一歳)
同大學英文科に入學。

明治四十五年 (二十六歳)
同大學英文科卒業。

大正元年   (二十六歳)
白秋氏主宰の雜誌「ザムボア」にはじめて詩を發表す。

大正二年   (二十七歳)
「ザムボア」及び「地上巡禮」に詩を發表す。

大正三年   (二十八歳)
一時郷里に歸りしも再度上京、此閒多數詩作す。

大正五年   (三十歳)
ライオン齒磨本舖(廣告部)に入社。

大正六年   (三十一歳)
詩歌・版畫誌「異香」を發行す。

大正七年   (三十二歳)
祖父ふさ九十歳にて逝去。
逸見享と詩畫集「黄色い帽子の蛇」を發行。

大正八年   (三十三歳)
十二月、祖父萬平九十一歳にて逝去。
逸見享と「無言の歌」を發行。

大正九年   (三十四歳)
逸見享と詩・版畫集「あをちどり」を發行す。

大正十年   (三十五歳)
「詩と音樂」に詩を發表。

大正十一年  (三十六歳)
「詩と音樂」に詩を發表。

大正十二年  (三十七歳)
「詩と音樂」に詩を發表。

大正十三年  (三十八歳)
逸見享と詩・版畫集「詩情」を發行。
「日光」に詩を發表。

大正十四年  (三十九歳)
「詩と版畫」「日光」「アルス・グラフ」「近代風景」に詩を發表。

大正十五年  (四十歳)
「近代風景」に詩を發表。

昭和二年   (四十一歳)
「近代風景」に詩及散文詩を發表。

昭和三年   (四十二歳)
「近代風景」に詩及散文詩を發表。

昭和七年   (四十六歳)
病臥すること多し。十一月伊豆山温泉に療養のため赴く。

昭和八年   (四十七歳)
伊豆山にて正月を迎へ、一度歸京、三月廿三日茅ヶ崎南湖院に入院。
詩「そよぐ幻影」を「中央公論」に寄稿す。

昭和九年   (四十八歳)
四月十八日午前六時三十分南湖院にて死去、十九日茶毘に附し、二十日郷里磯部に遺骨到着、二十四日葬儀を營み、同日大手家墓地に埋葬さる。

[やぶちゃん注:この左頁のノンブルは「581」で、次の次の左頁から始まる「目次」は新たに「1」からノンブルが始まり(文字タイプは同一)、「編者の言葉」の最終頁「25」で終っている。]

蟇の足跡 拓次の生涯 逸見享

    蟇 の 足 跡

 拓 次 の 生 涯

逸見 享 

 

 彼は逝いた、しかも忽然と。

あの神樂坂の下宿都館に、二十年も詩に瘠せ、戀に蝕まれてつひに最も恐れてゐた茅ヶ崎南湖院の一室に、看護婦ひとりに看取られながら死んでいつた。

 思へばあの鬱蒼とした相貌と、異常なる神經との作つた彼の生涯こそはまことに異風景である。

 ちひさい時分に兩親をなくした彼は、上州磯部温泉を拓いた祖父の大手萬平翁と祖母との愛を一身に集めて成長した。あの我儘はこの閒に培はれたものであらうか。臆病で、おこりっぽく、はにかみやで、少年時代から孤獨に慣れ、それを樂むやうにさへなつてゐた。よく手を嗅ぐ癖があつで、熊だ熊だといはれたさうである。病氣で耳をわるくしてゐたが、鼻はかなり敏感でいろんな香水を嗅ぎわける癖は晩年までつゞいてゐた。

 高崎中學を卒業して、早大英文科に入學した頃から彼の詩作生活がはじめられた。が我儘に育てられた彼には、月々のきめられた送金と、不自由な下宿生活がかなり憂鬱なものだつたらしい。

 當時は詩壇の華やかな頃で、白秋氏の芳醇に醉ひ、ボオドレエルの惡の華に魅せられて、この若き詩人の鬼火のやうな魂は怪しく燃えさかつた。そして新鮮で特異な詩があふれるやうに生れた。

 彼のどの詩を讀んでもわかるやうに、あの言葉は得難いものであるが、その研究はまことに深いものがあつた。「花野」と題する三十餘册のノオトに印されたいろんな言葉、それ等はいつのまにか彼に吸收され、その血管をめぐつで詩の中に生きてゐるやうに思はれるのである。

大學を出た頃はあの下宿で明け暮れ詩に浸つでゐた。ちやうど白秋氏が「ザムボア」「地上巡禮」などを出され頃で、そのザムボアに始めて吉川惣一郎のペンネエムで詩を發表した。この頃が彼の生涯でのもつとも華やかな、樂しい思ひ出の頃だつたであらう。

 だがいつまでも下宿に夢を追うてばかりはゐられなかつた。彼のいふ窮迫時代がこの若き詩人のうへにもひしひしと押し寄せてゐた。彼は鬱憂の日々を故郷にまた神樂坂に妖気を吐きつづけてゐた。

 その内にライオン齒磨廣告部にはひることになつて、自活の道がひらけた。大正五年五月のことである。私と知合つたのもその頃で、うつろの眼をしばたたきながら、腕を組んで何かを追ひかけてゐる彼が思ひ出される。彼の詩的教養はその廣告文案に現はれて、一種の清新味を漾はせた。けれどやはり彼は詩人であつた。ひたすらに詩をつくり、孤獨を守ら續けた彼には、あの二十年近い社員生活もつひに空虛なものだつたに違ひない。他と十分解けあはぬのみか、むしろ多くの人のなかにあつてその孤獨癖は一層深められて行つた。

 私はそのころ毎日のやうに彼と詩歌や畫の話をした。これはもつとも彼を喜ばせた。あのきれの長い眠が輝き、細長いその手が紅潮して別人のやうに潑溂として見えた。話の高潮する時は掌を眞直ぐに上にあげ、眼をおもむろにつむつて新作の詩を歌ふこともめづらしくなかつた。その頃彼の發表する雜誌がなかつたので、私がすすめて數人の同志と詩歌誌「異香」を發行した。

 萩原朔太郎氏の「月に吠える」がそれと前後して發行され、詩壇に大反響を呼び起した。氏から贈られた詩集を見て彼は何と思つたであらうか。「朱欒」「地上巡禮」「ARS」など白秋氏の發行された詩誌には常に發表しあつて來たふたり、互に十分の信賴をもちあつてゐた氏の詩集は後に非常な感動を與へずにはおかなかつた。私は彼に一脈のさびしさを見た。そして祕に愛讀してゐた彼からこの詩集についてつかに何も聞いたことがない。

 その後幾度か彼と二人で詩畫集を出したが、以前に見る情熱がだんだんうすれて行くやうに思はれた。

 ちやうどあの大震災後、ある少女に熱烈な戀をした。彼にあつては、戀愛によつて詩が高潮するよりも哀しき調べに終つてゐる。そしてこの戀は通り魔のやうに過ぎて行つた。昭和に入つてこの四十過ぎた寂しい詩人は現實の、また幻の戀人を慕ひ歩いた。その度に少年のやうな純な性情と、弱氣の彼がまざまざと見られで、私は彼の心情に祕に涙したものである。そしてその詩に於ても實にやさしく涙ぐましい抒情詩が作られてゐる。當時白秋氏の發行された「近代風景」に發表された多くの詩のほとんど總てがその哀唱である。

 その内昭和二年の初め頃からほのかにある異性を想ひ初めてゐたが、年を追うて深められて行つた。そして昭和七年頃の日記には絶え入るばかりのせつなさを書き綴つてゐる。

 ……戀するものにとつて夕暮こそこよなき樂園である。あのうす靑い光こそなんといふなぐさめとゆめとを私にあたへてくれるでせう。

といつてゐる。また

 ……たゞやすらかな美しき死をば願へり。

 ……たとひいのちはむなしくなるともこのおもひはつきざらむ。

ともいつてゐる。

 そしてつひに病臥する日が多くなつて行つた。

 その年の十一月、たうとう伊豆山温泉に療養することになり、私が送つて行つた。その夜旅館の二階の一室に彼と蒲團を竝べたが、私はまことにねぐるしかつた。うちよせる窓下の波の音、その絶え閒に浮ぶ遠き彼のことども、近きその横顏の疲れをうすあかりに見て獨り平復を祈つた。この年は其處で越して八年に入つた。病氣はあまりはかばかしくなかつた。日々の單調さと同じ食物に耐へきれなくなつた彼は、其處を引上げて寂しく神樂坂に歸つて來た。そして醫師のすすめで茅ケ崎南湖院に入院した。三月のことである。

 彼は此處でも詩を書いたがそれも六月で終つてゐる。その頃の詩を讀んで見ると深い寂しさに襲はれ、そのままあの幻を追ひつつ、自分も死の淵へ吸ひ込まれるやうに思はれて來る。

 南湖院の彼の窓からは小松林が續いでゐた。

 彼の好きな五月のそよ風のわたる時、葉梢に澄みわたる十月の靑空を仰ぐ時など、ふと便りなど書く氣にもなつたらしいが、それも極く稀になつて、遠ざかりゆく戀人のうへをのみ思ひつづけてゐたらしいのである。がたまさかに見舞ふ私を迎へてやはりうれしさうであつた。病院の食物の不平を訴へたり、家族の安否を聞いてくれたりした。好きな大福餅ばかり食つて一日過したなどとも聞いたので、好物の豆を煮て持つて行つたこともあつたが、彼は非常に喜んでくれた。

 その頃から病氣もかなら順調のやうに醫者から聞いてゐたので、九年の春には彼を東京に迎へることが出來るものとばかり思つてゐたが、ここにも彼の我儘が出てかなり無理をしたらしく、つひに命を縮めてしまつた。

 彼は逝いた。しかも忽然と。

 あの小兒のやうに純眞な彼、實に得難いこの本質的な詩人は、一生獨身のその生涯を寂しく閉じた。彼は日頃北原白秋氏、萩原朔太郎氏、大木惇夫氏などの敬愛する詩人達と私とのほかには殆んど交遊がなかつた。彼が死の床に見たものは、看護婦のつめたい白衣のみであつた。

 作品に不滿を感じつつ新境地を拓くこともなく、失戀に失戀を重ねてつひに病床に瘠せせ衰へて行つた彼、彼はいかに寂しかつたであらう。

 いや私はさう思かたくない。詩を愛し、戀人を愛し、孤獨に、寂しさに徹し、一切空の心境にあつて、親しければこそ友にその臨終を示さず、むしろ安らかに眠つて逝つたに違ひないのである。

 あの死顏に見た崇高さ、靜けさ、彼は今もなほ薔薇の足音を聞きながら幻を追ひつゞけてゐるであらう。          昭和十年四月十八日夜

2013/11/01

「藍色の蟇」 跋――大手拓次君の詩と人物 萩原朔太郎 附 大手拓次訳 アルベール・サマン「秋」

    跋

 

 

  大手拓次君の詩と人物

 

              萩原朔太郎

 

 昭和九年の春であつた。遲櫻の散つた上野の停車場へ、白骨となつた一詩人を送つて行つた。その詩人の遺骨は、汽車に乘せて故郷の上州へ送られるのであつた。

 停車場のホームには、大勢の見送人が集つて居た。それらの會葬者は、いづれもモーニングやフロックコートを着、腕に喪章の黑布を卷いてた。彼等の全部は會社員であつた。遺骨が汽車に乘せられ、窓から恭々しく出された時、ホームの人々は帽子を脱いだ。一人の中年の紳士が、簡單に告別の演説をした。その演説の内容は、我々の會社に於て、多年忠實に勤めてくれた模範店員の一人を、今日遺骨として此所に送ることは、如何にも哀悼の情に耐へないといふのであつた。汽笛が鳴つた。そして信越線行の長い列車が、徐々に少し宛プラットホームを離れて行つた。

 一人の平凡な會社員が、かうして平凡な一生を終つたのである。彼が内證で詩を書いて居たこと、しかも秀れた詩人であつたことなど、會葬者のだれも知つては居ないのだつた。ただその群集の中に混つて、四人の人だけが彼を知つてた。北原白秋氏と、室生犀星君と、大木惇夫君と、それから私であつた。そしてこの四人だけが、彼の生前に知りた一切の文壇的交友だつた。

 「寂しいね。」

 見送りをすなした後で、私は室生君と顏を見合せて言つた。

 

 

 上野驛に遺骨を送つて、歸つて來や日の翌日だつた。詩を作る若い人が訪ねて來たので、昨日の新しい記憶を話した。

 「大手拓次? 大手拓次?」

 暫らく考へた後で、その若い詩人が言つた。

 「あ、知つてます。知つてます。前に白秋氏の難詰で詩を書いて居ましたね。貴方の模倣みたいな詩を。」

 「反對ですよ。僕が模倣をしたのだよ。」

 と言つたら

 「アハヽヽヽ」

 と靑年が笑ひ出した。私が諧謔を弄して、何かの逆説を言ふのだと思つたのである。だが諧謔でも逆説でもない。私は實際、大手君の詩から多くを學んだ。特に「靑猫」のスタイルは、彼から啓示されたところが多い。尤も後には、大手君の方でも私から取つたものがあるらしく、兩方混線になつてしまつたけれども、私の方で學んだ部分が、たしかに多いことは事實である。その意味で大手君は、私より一日の先輩である。

 と、これだけ話をしても、まだその靑年は腑に落ちないやうな顏をして、

 「でも貴方などより、ずつと新しく詩壇に出た、若いグループぢやありませんか。」

 と言つた。

 大手拓次! この名は實際新しく、詩壇の人に耳慣れない。今の詩壇の人々は、だれもおそらくこの名の詩人を、あまり記憶して居ないであらう。稀れに記憶してゐる人々も、その靑年と同じやうに、若い時代の新進詩人――しかもあまりぱッとしない新進詩人――として忘れかかつた記憶の一部に、ぼんやり名を止めて居るに過ぎないだらう。然るに實際の大手君は、私よりも少し早く、室生犀星君等と前後して詩壇に出、大に活躍した詩人なのである。

 その頃の大手君は、吉川惣一郎のぺンネームで詩を書いて居た。と言つたら、昔の「ザムボア」などを讀んでた人には、初めて記憶が確實になり、一切の經過が解るであらう。大手拓次の本名に歸つたのは、後に北原白秋氏が、アルスから詩の雜誌を出すやうになつてから極めて最近のことに屬してゐる。大手君の花々しい詩人的活躍時代は、その短かい本名時代に無くして、實に過去の吉川惣一郎時代にあつたのである。

 私が初めて大手拓次、即ち吉川惣一郎の名を知つたのは、北原白秋氏の雜誌「ザムボア」の誌上であつた。常時その同じ誌上に、室生犀星も詩を發表し、少し遲れて私もまたこれに加はつた。この室生、吉川、萩原の三人組は、その後も常に發表の機關を一にし、後に「地上巡禮」から「ARS」、「ARS」から「近代風景」へと、常に白秋氏の雜誌を追つて轉々とつつ、詩人としての共同經歷を一にして居た。單にまたそればかりでなく、三人共に白秋氏を私淑し、且つ白秋氏の推選によつて詩壇に出た。そのため世間では、私等のトリオを稱して「白秋旗下の三羽鴉」と呼んだ。

 藝術的經歴に於て、かくも親しく兄弟のやうな閒でありながら、人間としての大手君には殆んど友誼を結ぶ機緣がなかつた。私が大手君に逢つたのは、前後を通じて僅か三度しか無かつた。最初は室生君と共に牛込の下宿を訪ねた。二度目は白秋氏の家のパーチイで一所になつた。そして三度目は、既に遺骨となつて居た大手君を上野に送つた。それほど實に寂しく、墓ない友誼であつた。だがそれにもかかはらず、大手君が常に私のことを心に思ひ、白秋氏と共に深い愛情をよせてをられたことを、この事の卷尾にある同君の覺え書によつて知り、今更また故人への追憶を新たに深くするのみである。

 

 

 大手拓次君の藝術は、一言で言へば實にユニイクなものである。新體詩以來今日に至るまで、日本の全詩壇の歷史を通じて私は他にこんなユニイクの詩と詩人とを見たことがない。第一にその言葉と内容とが、過去の詩人のどんな影響も受けて居ないのである。たいていその頃の詩人たちは、當時の詩壇の流行であつた類型的自由詩の形態を學んで居た。さうでないものは、蒲原有明氏以來の文章語詩形を襲統して居た。然るに大手君(當時の吉川惣一郎君)の詩には、當時のどんな類型もなく、過去のいかなる襲統もなく、全く別個の珍らしいものであつた。單にフオルムやスタイルばかりでなく、詩の情操する内容がまた特殊であつた。

 しかしその「詩」を語る前に、私は先づその「詩人」を語らねばならぬ。なぜなら大手君のすべての詩は、實にその特殊な人間と生活とを根據にして居り、その「人」に對する理解なしにその藝術を味ふことが出來ないほど、人と作品とが密接に結ばれてゐるからである。そしてしかも大手君の人間と生活とが、その藝術以上にまた特殊であり、他に全く類型を見ないほどの、絶對ユニイクの存在なのである。

 私が室生君と共に、初めてその下宿屋に大手君を訪ねたのは、今から約二十年近くも昔のことであつた。(その牛込の下宿屋に、大手君はその後二十年も住んで居た。その間に下宿屋の主人が死んで、代が變つても依然として住んで居た。)第一印象に映じた大手君は、蒼白く情熱的な顏をしながら、寂しい憂鬱を漂はせてゐるやうな人であつた。どこか生田春月君に似たやうなところもあり、全くまた別の風貌にも屬して居た。そして要するに、その抒情詩そつくりの人物を感じさせた。

 下宿の狹い部屋は淸潔に掃除されて、萬事が几帳面に整理されてた。室の一隅に書架があつて、佛蘭西語の詩集や雜誌がぎつちり積まれて居た。話をして驚いたことは、佛蘭西語の書物以外に、日本語の本を殆んど讀んで居ないことであつた。特に意外であつたのは、北原白秋氏一人を除いて、他の如何なる日本の詩人の存在さへも全く知らずに居ることだつた。當時詩壇には、白秋氏の外に三木露風、川路柳虹、高村光太郎、富田碎花、福士幸次郎、西條八十等、既に一家の名を成してる多くの詩人が活躍してゐた。私と室生君とは、常に此等の先輩詩人を對象にして語つて居たので、大手君に逢ふと同時に、先づかうした詩壇の現狀を話しかけた。然るに驚いたことは大手君は全くその人々の名前さへも知らないのである。況んや詩壇のことなど、全く風馬牛に無關心で、私等の話を迷惑さうに默つて聞いて居た。

「佛蘭西の詩、ボードレエルとサマンより外、少しも讀んで居ませんから。」と言ふのを聽いた時、私は室生君と顏を見合せた。そして世にも尊大なペダンチックの奴が居るものだと思ひ、一種の侮辱を感じて腹を立てた。しかし大手君の表情に少しの尊大な倨傲もなく、却つて内氣に恥かしがつて居るのを見た時、すつかりこの人の詩人的天質が了解された。つまりこの純一の詩人は、自己の詩情に驅りたてられて、自己の悦樂のためにのみ詩を書いてるので、文壇的に地位や名聲を克ち得ようとする野心――それが昔時の私たちには充分あつた――を全く所有して居ないのである。したがつて詩壇の現狀や詩人の名を、殆んど知らずに居るのも當然である。大手君としては、ただその愛誦するボードレエルとサマンだけを、佛蘭西語の原詩で讀んで居れば足りたわけだ。此所で一つ詩を紹介しよう。

[やぶちゃん注:「サマン」アルベール―ヴィクトール・サマン(AlbertVictor Samain 一八五八年~一九〇〇年)はフランスの詩人。北フランスのリール生。一八八〇年にパリに出、翌年の『メルキュール・ド・フランス』誌の創刊に参加したが、小身の公吏として病弱のうちに母子二人暮しの孤独な生涯を送った。処女詩集「王女の庭にて」(一八九三年)の甘美でもの憂く漠とした悲哀感を漂わす詩風によって象徴派の一人とも目されるが、第二詩集「花瓶の胴に」(一八九八年)では寧ろ高踏派的な形式美を志向して諧調に富む異教的雰囲気を醸し出している(以上は平凡社「世界大百科事典」に拠る)。本詩の最後に大手拓次訳のサマンの詩を掲げておく。]

 

 

     枯木の馬

 

  神よ、大洋をとびきる鳥よ、

  紳よ、凡ての實在を正しくおくものよ、

  ああ、わたしの盲の肉體を滅亡せよ、

  さうでなければ、神と共に燃えよ、燃えよ。王城の炬火(たいまつ)のやうに燃えよ、

  ああ、わたしの取るにも足らない性の遺骸を棄てて

  暴風のうすみどりの槌の下に。

  香枕のそばに投げだされたあをい手を見よ、

  もはや、深淵をかけめぐる枯木の馬にのつて、

  わたしは懷疑者の冷たい着物をきてゐる。

  けれど神樣よ、わたしの遺骸には永遠に芳烈な花を飾つてください。

 

「神」「信仰」「忍從」「罪」「實在」「道心」「尼僧」「惡魔」「僧形」「祈禱」「香爐」「紫※」等々の言葉は、實に大手君の詩の主調を成してるイメーヂである。全卷の詩篇を通じて、話者はあのカトリツク教寺院の聖壇から立ちこめてる、乳香や煉香の腹々とした煙の匂ひを感ずるだらう。かうした大手君の詩想は、おそらくボードレエルから影響されてる。しかしこの詩人の學んだものは、ボードレエルの中のカトリック教的部分であり、單にその部分の「香氣」にすぎなかつた。詩人としての本質から言へば、大手君は決してあの異端的、叛逆的の懷疑を抱いた「惡の花」の詩人ではなく、むしろそれと正反對なリリシズムをもつた純情の詩人であつた。彼の場合は、むしろサマンの方に接近してゐるやうに思はれる。

[やぶちゃん注:「紫※」(「※」=「袍」-「礻」+「糸」)。筑摩書房版萩原朔太郎全集第十四巻に所収するそれでは編者によって「紫袍」に書き変えられている(同全集は一貫して編者による恣意的な『誤字訂正』が行われてある)。「紫袍」とは「紫色の上着」の謂いであるが、私はこれは本当に正しく『訂正』していると言えるとは思っていない。以下にその理由を示す。まず、ここに朔太郎が並べた十二に語句であるが、この内、「香爐」までの総ては詩集「藍色の蟇」の中にどれも複数回使用されている単語である。ところがこの「紫※」「紫袍」の孰れも使用例がない(無論、「藍色の蟇」に限って朔太郎が述べたのではなく、広義の大手拓次の詩語として述べたのだと考えることも可能であるが、この文脈の中で一つだけそういう単語を選んで入れるということは実質上考えにくいと私は断ずる)。では、「紫」及びを「紫」を含む単語を「藍色の蟇」の中での使用例を見てみる。以下が「藍色の蟇」に於けるその総てである。

 

ぬしの御座は紫の疑惑にけがされてゐる。(「罪の拜跪」より)

 

紫の角を持つた羊のむれ、(「野の羊へ」より)

 

木立は紫金(しこん)の蛇をうみ、(「木立の相」より)

 

紫(むらさき)の縞目(しまめ)をうつした半月(はんげつ)の盾(たて)をだいて

 *

角(つの)ある鳥をゑがいた紫の盾はやすやすともたげられて、

 *

紫の盾よ さちあれ、(三つとも「紫の盾」より)

 

赤(あか)と紫(むらさき)とのまだらの雪がふる。(「曼陀羅を食ふ縞馬」より)

 

さては、なつかしい姉のやうにわたしの心を看(み)まもつてくれる紫のおほきいヒヤシンスよ、(「ヒヤシンスの唄」)

 

紫は知らぬ運動の轉回、(「手の色の相」より)

 

うきあがる紫紺(しこん)のつばさ、(「鈴蘭の香料」より)

 

そらよりみだれかかる紫琅玕(しらうかん)のうはこと、(「うづまく花」より)

 

古くさい小池の綠には、薄紫のつつじ、生々とした笹の葉、楓や松や檜や、石菖や、がある。(「綠の暗さから」より)

 

紫藍色の車はせはしく過去へきしる。(「琅玕の片足」)

 

紫色の病氣の指(「噴水の上に眠るものの聲」最終連より)

 

この孰れを見ても紫色の衣服、紫衣、「紫袍」の人物や表象は出現しない。従って私は「紫袍」という筑摩版全集の『訂正』は『誤り』と断ずるものである。但し、「廣漢和辭典」にも出ない「※」は明らかに誤字である。敢えて言うならこれは一例の使用例が出現し、それ以外にも頻繁に現われるところの紫色、それは紺がかった紫色や濃い紫色であるところの紫の色調を局限するもの――「紫紺」の誤りである――とすべきだと私は考えるものである。大方の批判を俟つ。]

 

 

    撒水車の小僧たち

 

 お前は撒水車をひく小僧たち、

 川ぞびのひろい市街を悠長にかけめぐる。

 紅や綠や光のある色はみんなおほびかくされ、

 Silence(シイランス)と廢滅の水色の色の行者のみがうろつく。

 これがわたしの隱しやうもない生活の委だ。

 ああわたしの果てもない寂寥を、

 街のかなたこなたに撒きちらせ、撒きちらせ。

 撒水車の小僧たち、

 あはい豫言の日和が生れるより先に、

 つきせないわたしの寂蓼をまきちらせ、まきちらせ。

 海のやうにわきでるわたしの寂蓼をまきちらせ。

 

[やぶちゃん注:七行目は底本では「街のかなたこなたに撒きちらせ。」「撒きちらせ」のリフレインがないが、本文の詩形で訂正した。]

 

 これにはサマンの影響が感じられる。そして尚、少しばかり白秋氏の影響も感じられる。しかし本來言つて、大手君はサマンでもなく、白秋でもなく、況んやボードレエルのやうな型の詩人でもない。この特異な詩人の本領は、性の惱ましいエロチシズムと、或る妖しげな夢をもつたプラトニツクの戀愛詩に盡きるのである。童貞のやうに純潔で、少女のやうに夢見がちなこの詩人は、彼の幻想の部屋の中で、人に隱れた祕密をいたはり育てて居た。彼のエロチシズムと戀愛詩は、いつも阿片の夢の中で、夢魔の月光のやうに縹渺して居た。それは全く常識の理解できない、不思議な妖氣にみちたポエヂイである。彼の詩について語る前に、生活について語らなければならないのである。

 

 以下私が話すことは、故人の親友であつた所の、畫家逸見享氏から聞いた事實である。そしてこの逸見氏だけが、大手拓次の生活を知つてる唯一の人であつた。それほど大手君には全く他に友人と言ふものがなかつた。

 詩人といふ人種は、元來非社交的の人種であり、宿命的に孤獨を愛するやうに生まれついてる。しかし大手拓次のやうな詩人は、私の知つてる範圍で類例がなく、全く無人島的な生活をした孤獨者だつた。彼はその生計のために、ライオン齒磨の廣告部に勤め、會社員としての日課を續けて居た。しかし會社では、殆んどだれとも口を利かずに、默々とし啞のやうに仕事をして居た。かうした不思議な人間が、如何にその同僚から氣味惡しく、變人扱ひに嫌厭されるかは、充分想像できるであらう。仲間はづれにされてる孤獨の椅子で、この氣の弱い内氣な詩人は、いつも情熱的な戀愛詩を書き續けて居た。それは同じ會社に勤めて居るところの、若い女事務員に對する殉情だつた。しかしこの詩人の内氣さと羞かしがりは、少女より尚いぢらしく、戀を打明けることが出來ないのである。そして人の知らない祕密の思ひに、情熱の胸を焦しながら、悲しい嘆息ばかり續けて居た。或る時は忍びあまつて、歸途を急ぐ女の袂に、そつと一片の紙片を入れたりした。その小さな紙片には、彼の思ひあまつた詩が書いてあつた。しかしモダンガールの少女店員は、古風な抒情詩に興味がなく、意味を理解することもできなかつた。その上に作者の名前が書いてなかつた。彼女はけげんの顏をしながら、不思議な紙片を破いてしまつた。

 かうした悲しい生活が、四十八歳になる迄も續いて居た。彼は幾人かの少女を戀し、幾篇かの抒情詩を書き、そして終生幻影の戀を迫つて生活して居た。さうした彼の生活は、純情の若い處女たちが、小箱の中に祕密をこめ、人の知らない不思議な言葉で、人形と會話して居るやうなものであつた。それこそは本當に「胸に祕めたる」純情のリリシズムであつた。古今東西の詩人を通じて、私は彼のやうに美しく純潔な詩人を知らない。その四十八歳の童貞生涯は、全くミユーゼに捧げた加特力教的の獻身だつた。彼は一度も結婚せず、女の肉體に就いて知らなかつた。四十八歳で死ぬ時まで、眞に淸淨な童貞で身を保つた。それは現實の世に有り得ないほど、加特力教的天國の物語に類して居る。

 後年肺を患つてから、彼は茅ケ崎の病院に一人で臥て居た。そして毎日、海鳴りの音を聽きながら詩を書いて居た。私はその遺稿を見て悲しくなつた。それは女の子の小箱に張る千代紙で、手製の表裝をした和紙の本に、細い紅筆のやうなもので詩が書いてあつた。その詩は皆短かい小曲で

 

  今日もまた便りが來ない

  もう何もかも夢のやうに消えてしまつた。

  殘るものは涙ばかりだ。

  涙ばかりが殘つてゐるのだ。

 

 といふ風な歌が、いくつもいくつも繰返して書いてあつた。ノートは十册位もあつたが、詩は皆同じやうなことを繰返し、同じ一つの切ない思ひを、盡きずに綿々と歌つてゐるのであつた。一人の友人もなく、見舞客もなく、病氣を看護する者さへもなく、眞に天涯孤獨の身で、病院の一室に寂しく臥て居た彼は、ベツドの中で、毎日遠い戀人を思ひ續けてゐたのであつた。しかもその戀人の方では、彼の存在さへも忘れて知らずに居るのである。こんな悲しく寂しい人生はない。そしてまた、こんなに純潔で美しい詩人の生涯もない。彼はおそらく、胸に祕めた永遠のリリツクを抱きながら、安らかに微笑して死んだであらう。逸見氏がスケツチした彼の死顏は、天使のやうに純潔で美しかつた。五十歳に近い彼の顏には、少しも中年者の穢れがなく、永遠の童貞として生活した、聖畫の基督が輪光して居た。

[やぶちゃん注:この前に示された詩は引用せぬ方がよい部類のものである。私はこれはまさに直後で「といふ風な歌」と朔太郎自身が述べている如く、大手拓次自身の詩句の忠実な引用とは思われないからである。詩想からは死後の編纂になる詩集「蛇の花嫁」所収の文語定型様短詩群の主意とは似ているように思われるものの、私は現存するそれを突き付けられでもしない以上はこれを大手拓次の詩として肯んずることを断固として拒否する者である。]

 

 

 かうした特殊の生活を背景として、彼の特殊な藝術が作られて居た。読者にして彼の生活を知つたならば、彼の詩について言ふ必要はなく、すつかり解つてしまふであらう。一言にして言へば、それは純粹に加特力教的精神の抒情詩である。しかしながら彼の加特力教は、ボードレエルやヱルレーヌやと同じく、多分に肉情的の感覺を持つたところの、近代的異端趣味の加特力であつた。彼の詩に於ける特殊な言葉、例へば「球形の鬼」「輝く城」「紫の盾」「金屬の耳」「盲目の蛙」「僧衣の犬」「道化の骸骨」「法相の像」「幻の薔薇」「嫉妬の馬」等のものは、すべてかうした異端趣味の、彼の心象に浮んだイメーヂであり、香爐の煙の中に漂ふところの、妖しい僧院の幻想だつた。それらの不思議な妖しい言葉は、作者の意味に於てすべて性慾を表象して居る。即ち「犬」とい毒藥、「僧」といふ言葉、「城」といふ言葉などが、作者のイメーヂの中では、すべて女性の肉體(胴や、臍や、胸や、乳質)を表象して居るのである。詩人は此等の言葉の中に、妖しい性慾の惱みをこめて歌つて居る。その抒情への切ない悶えは、作者と言葉とが一つに重なり、離すことが出來ないほどに食い付いてる。眞にこの詩人の場合に於ては、言葉と詩とが一つの紐で結びつけられ、互に抱き合つて情死して居るといふ感じがする。かつて日本の詩壇に於て、これほど純粹に藝術的であつた詩人はなく、これほどまた純粹に詩人であつた作家も無かつた。

 この加持力數的な不思議な詩人は、三十歳を過ぎる迄も、異性に對する眞の sex も知らずに居た。初期の靑年期に作つた詩は、たいてい皆美少年を對象にして歌つて居た。その同性の少年等は、彼にとつて全く女のやうに思はれて居た。それは集中の詩に歌はれてゐるやうに、少女に對する如き愛撫であつた。それらの詩の中で、彼は美少年の手足を撫で、胴をさすり、足の指を弄んで樂しんで居る。しかもその感覺遊戲は、少し邪淫的なものでなくつて、宗教的に純粹な祈りとロマンチシズムを本質してゐるものであつた。つまりこの詩人は思春期に近い少女のやうに、純粹な感傷性とロマンチシズムとで、同性への愛と思慕とを求めたのである。そして彼の詩篇の中では、この初期時代の作品が一番よく、藝術としての最も高い香氣を持つて居た。後に異性への愛に轉向してから、彼の詩はげつそり色彩を落してしまつた。つまりその時代からして、彼は藝術創造的野心を無くして、ひとへに自己の感傷性の中に溺れてゐたのである。そして詩人が感傷性に溺れる場合、もはや文化上の建設價値を喪失して、自己慰安の作者に墮してしまふのである。彼の後年の日課は、毎日その戀人のために詩を作り、それを無記名にして送るのだつた。逸見氏の話によれば彼はそのために詩の調子を下げ、少女の戀人にも解るやうに、わざと通俗にして書いたといふことであつた。かうした悲しい詩人に對して、私はもはや言ふ言葉がなく、批判の必要さへないのである。(吉川惣一郎といふペンネームは、彼の愛した二人の少年の姓と名とを、一語につづつたものださうである。)

 

 

 彼はいつも孤獨の部屋で、默つて一人で詩を書いて居た。そして時々、恥かしさうにそれを取り出し、白秋氏の雜誌にだけ送つて居た。詩を公表することさへが、彼にとつては恥かしく、處女のやうに顏を赤らめることであつた。(彼の性格が、如何に女性的であり、基督教尼僧的であつたかは、本書の自傳に書いてる白秋氏への彼の心情と、その女らしい思慕の純情とによく現れて居る。)

 かうした箱入娘のやうな内氣の男が、文壇や詩壇に立つて活躍するのは、あまりに周圍の空氣が粗野にすぎて荒々しく、不適當に傷ましいやうな感じがする。彼も自らそれを意識して居たらしく生涯一册の詩集も出さず、詩壇的に無記名のままで死んでしまつた。この遺稿詩集でさへも、逸見氏の如き書き友人が居なかつたら、おそらく世に出る機會が無かつたであらう。何等賣名的野心がなく、文壇的功名心もなかつた詩人は、それで地下に滿足して居るかも知れない。しかし十八歳から詩に志し、四十八歳で死ぬ時まで、三十年も詩作に專念して、その上にも數々の秀れた作品――それらの作品の價値は、日本詩壇の歴史的過程を通じて、第一流の最高位に列せらるべきものである。――を残した詩人が、一册の詩集も出さず無記名のままで葬られて居ることは、私等にとつてあまりに寂しく、且つ良心が許さないことである。況んや今日の詩壇には、昨日今日の馳出し作家や、人眞似事で駄詩を書いてるやうな連中さへが、堂々とした詩集を出し、相當に名を賣つてるのである。批判の公平と正義の爲にも、私は大手拓次君を紹介して、詩壇に推賞しなければならない義務を持つてる。この不思議な妖術を持つた變化の詩人。加特力教寺院の密室から、香煙の煙に漂ふ異形な幻影を見せる詩人。純情無比なリリシズムと、プラトニツクな夢を持つてる浪漫詩人。しかしまた性のやるせない惱みを歌ひ、官能の爛れる情痴を歌ふエロチシズムの大詩人を、私は自分の「私淑する先輩」として、廣く日本の詩壇に廣告紹介したいのである。

[やぶちゃん注:この「この遺稿詩集でさへも、逸見氏の如き書き友人が居なかつたら、おそらく世に出る機會が無かつたであらう」という言葉を記憶してもらいたい。則ち、この期(大手拓次の死後)に至っても、実は永く詩集原稿を握っていた北原白秋ではなくて、唯一人の親友逸見享の尽力(その熱意が並々ならぬ驚くべきものであることはこの詩集を実際に手にとって見ればずしりと分かる)なしには詩集「藍色の蟇」の出版は覚束なかったことを意味している。私は以前にも述べた通り、白秋に対して本詩集が生前に出なかったことへのある種の深い疑惑を持っているが、それを強く裏付ける言葉として私は受け取っていることをここに表明しておく。白秋は拓次の生前に於いて正しく優れたこの弟子を導く師たる詩人では実はなかったと私は思っているのである。]

 

 大手君の詩は、言葉の音韻上に於ける使用法で、佛蘭西語の詩と類似した所があるといふ人がある。佛蘭西語の詩以外に、他のどんな文學も讀んで居なかつた大手君のことであるから、或はたしかに、さうした自然的の類似があるかも知れない。とにかく彼の詩の言葉は、非常に美しく抒情的で、その上に全く音樂的である。私は詩集「靑猫」に於て、彼の影響を多分に受けてゐることも、此所で再度正直に告白しておかねばならない。その同じことは、一方で大手君の方からも言ふであらうが、私としては心密かに、常に彼を一日の長者として自分の及ばない先輩詩人として畏敬して居た。そしてこの畏敬の情は、彼の故人となつた今に於て、一層深く眞實に感じられるものがある。私が心から畏敬し、眞に頭を下げるところの詩人は、北原白秋氏以後に於て、ただ吉川惣一郎の大手拓次君あるのみである。

 最後にこの稀有の詩人が、私と同郷の上州に生れたといふことにも、私はまたささやかな血縁的愛情を感じて居る次第である。          (一九三五・八・二〇)

 

[やぶちゃん注:以下のアルベール・サマンの訳詩は岩波文庫版原子朗氏編「大手拓次詩集」に所収するものを恣意的に正字化して示し、原詩はこちらで読める。

 

 秋 アルベール・サマン

 

うづまく風は扉をたふし、

そのしたに森は髮のやうに身をもだえる。

かちあふ木木の幹は砂(いさご)の輾轉(てんてん)する海のびびきのやうに、

はげしい風鳴りをたかめてゐる。

 

おぼろな丘におりてくる秋は、

重い歩みのうちにわたし達の心をふるへさせる。

そしてどんなにいたはしく萎れた薔薇のめめしい失望を、

かなしんでやるかをごらんなさい。

 

休みなくぶんぶいつた黄金色の蜂の翔けりも沈默した。

閂(かんぬき)は錆(さび)のついた門格子にきりきりとなる。

あを蔦(つた)の棚はふるへ、地はしめつてきた。

そして白いリンネルは圍ひ地のなかに、うろたへてかさかさとする。

 

さびれた庭は微笑する、

死がくるときに、ながながとお前に別れをいふやさしい顏のやうに。

ただ鐵砧(かなしき)のおとか、それとも、犬のなきごゑか、

うつたうしくしめきつた窓ガラスにやつてくる。

 

母子草と黄楊(つげ)の樹の瞑想をさましつつ、

鐘はひくいねに檀家の人の心になりいでる、

また光りは苦悶のはてしない身ぶるびをして、

空のふかみに、ながいながい夜のくるのをきいてゐる。

このものあはれな長夜(ながよ)も明日(あす)になつたらかはるだらう、

すがすがしい朝とびややかな又うつけな朝と、

たくさんの白い蝶は葉牡丹のなかにひらめきながら、

また物音はこころよい微風の中にさはやかになりながら。

 

それはさておき、この家はお前のことを嘆きもしないで、

その木蔦と燕の巣とでお前をもてなしてくれる、

そして自分のわきに放蕩者のかへるのを待ちうけて、

ながい藍色の屋根の波にけむりをのぼらせる。

 

命がやぶれ、ながれいで、もえあがるとき、

うき世のつよい酒にゑひしれて、

血の盃のうへにおもい髮の毛がたれかかれば、

よごれた魂はちやうど遊女のやうである。

 

けれども、鴉は空のなかに數しれずむらがる、

そしてもはや、さわがしい狂氣をすてて、

その魂は、旅人が歸り旅のみちすがら、

なじみの調度にめぐりあふたのしい嘆息をおしのける。

 

夏の花びらは花梗のうへに黑くしをれてゐる。

おまへの室にまたはひり おまへのマントを釘にかける。

水のなかの薔薇のやうなお前のゆめは、

仲のよいランプのあまい太陽にひらいてくる。

 

思ひにしつんでゐる時計では、

知らせの鈴(りん)がひそかに沈默の心をうつ、

窓ぎはの孤獨はその氣づかひをひろめてゆき、

かがみながら姉のやうにおまへの額に接吻する。

                          

これは申分のない隱れ家だ、これは氣持のよい住居(すまゐ)だ。

あつたかい壁の密室、ひまもない竃(かまど)、

そこで極めて稀なる越粟幾失兒(エリキシル)のやうに、

内心の生命(いのち)のうつくしい本質をつくりあげる。

 

そこに、お前は假面と重荷とをとりのけることが出來る。

騷擾(さうぜう)からはなれて、いな虛飾から遠くのがれて、

いとしいものの匂ひを、カーテンの襞(ひだ)のなかにあらはになつてゐる。

おまへの胸にばかりただよはせるために。

 

このときこそ、心おきなく仕事にいそしんでまことの神を禮拜し、

神神しい身ぶるひがお前の年若さと淸らかさとを、

はればれとあらはすやうになつてくる。

秋はこのためにたぐびないよい季節である。

 

すべてのものはしづかに、風は廊下の奧にすすりなき、

お前の精神はおろかなる鎖をたちきつた。

そしてうごかない時の水のうへに裸のままうなだれて、

そのふさはしい鏡のきれいな水晶に自分の姿をうつす。

 

それは消えかかつた火のわきの裸の女神(めがみ)である、

あたらしい空氣のなかに船出するぼんやりとした大きな船である、

肉感的な、また物思はしい接吻のするどい液(しる)と、

人に知られない水のうへの日沒である………

 

「母子草」知られた「ははこぐさ」、キク目キク科キク亜科ハハコグサ連ハハコグサ Gnaphalium affine(別名ホウコグサ)であるが、実は原文は“immortelle”であって、これは双子葉植物綱キク目キク科ムギワラギク Helichrysum bracteatum を指す(因みに属名“Helichrysum”(ヘリクリサム)はラテン語で「太陽の黄金」を意味し、花に独特の金属光沢があることに由来するとウィキの「ムギワラギク」にある。フランス語の「不滅のもの」「神」を意味する“immortelle”がこの花を指すのはそれと関係するか)。何れにせよ、聞き慣れぬ本種を日本人に馴染みのある「母子草」に変えたことは首肯出来ないことはなく、また「母子草」を選んだ拓次の深層も興味深い。

「花梗」「くわかう(かこう)」と読む。原文は“hampe”で花茎の意。これは花柄(かへい)で花軸(花をつける枝)がさらに分枝し、その先端に花をつけるところの小さな枝のことをいう。

「越栗幾失兒(エリキシル)」原文“élixir”。音訳はエリクサー・エリクシャー・エリクシール・エリクシア・イリクサ・エリクシル・エリキシルなど。錬金術で不老不死の霊薬を指す。賢者の石と同一物と考えてよい。参照したウィキの「エリクサー」によれば、アイザック・アシモフの「化学の歴史」の「第二章 錬金術 アラビア人達」によれば、語源は、これが乾いた粉の形状をなしていると考えられていたことから、ギリシア語の “xerion”(乾いたの意)がアラビア語に翻訳され“al iksir”とあり、『錬金術の至高の創作物である賢者の石と同一、或いはそれを用いて作成される液体であると考えられている。服用することで如何なる病も治すことができる・永遠の命を得ることができる等、主に治療薬の一種として扱われており、この効果に則する確立された製造方法は今もって不明とされている』とある。この漢字の当て字は拓次の独創かと思われる。]

2013/10/31

孤獨の箱のなかから――おぼえがき―― 大手拓次

  孤獨の箱のなかから

        おぼえがき

 

               大 手 拓 次

 

 わたしは ながいあひだ蝸牛のやうにひとつの箱のなかにひそんでゐた。ひとりで泡をふいてゐた。さうして、わたしのべとべとな血みどろの手が、ただひとり人 北原白秋氏にむかつて快くさしのべられた。白秋氏のみえない手がつねにわたしの指にさはつた。「ザムボア」に、「地上巡禮」に「ARS」に、「詩と音樂」に、そしてまた「近代風景」に、ちやうど大正元年から今まで十五年といふ長い間、わたしは常に白秋氏のあたたかき手のうちにあつた。そのあたたかき手にわたしは育てられたのである。

 しかも、このながい十五年のとしつきのあひだ、わたしはただの一度も白秋氏をおとづれはしなかつた。未知の戀人をおもふやうにたえず氏を思ひつつ、一度もおとづれることができなかつた。なんといふ内氣な、はにかみやの、氣むづかしい、けつぺきな、ぴりぴりとあをじろい神經のふるへるわがまま者だつたのであらう。けれども、わたしの心のすべては私の詩を通じて氏にひらかれてゐたのである。

 わたしは涙のあふれるやうな敬愛の情をたたへながらも、さびしくものおとのしない孤獨の箱のなかにとぐろをまいてゐた。

 いんうつな心、くらい心、はげしい情熱のもどかしさ。まつたくその頃のわたしは、耳ののびる亡靈であつた。みどりの蛇であつた。めくらの蛙であつた。靑白い馬であつた。つんぼの犬であつた。笛をふく墓鬼であつた。しばられた鳥であつた。

 わたしの憂鬱は本質的でどうともすることが出來なかつた。自然にこのうすぐらい花が散つてゆくのを待つよりほかはなかつた。

 白秋氏のやはらかい手はどんなに私にとつてうれしかつたか。

 うれしくなればなるほど蝸牛は角をかくし、蛇はとぐろをまいた。

 まだごのあひだにあつて、萩原朔太郎氏は、ときどき火花のやうな熱情のこもつた友愛を私にしめしてくだすつた。

 さらに、大木惇夫氏にはなにやかやいろいろおほねをりにあづかつてゐる。こんど、白秋氏をおたづねするやうになつたのも、氏があつたればこそである。

 わたしボオドレエルといふ古風な黄色いランプをともして、ひとりとぼとぼとあるいてきたのであつた。その孤獨の道に、みどり色のあかるいみちびきの光をともして下すつたのが白秋氏である。十五年といふ長いあひだである。おもふさへ、うれしくなる。ありがたくなる。

 この詩集の刊行は、白秋氏のひとかたならぬ御配慮にあづかつたたまものである。ここに護しんで御禮申上げます。

 詩の選擇も、自分としてはすゐぶん思かきつてしたつもりである。私の初期に屬する吉川惣一郎の名で發表したものは大部分とり、「詩と音樂」時代のものは、駄作が多いので、四分の一ぐらゐにすててしまつた。また、をりがあつたら、惡いのをすててゆかうと思つてゐる。詩の排列は凡て年代順にしてある。

[やぶちゃん注:以下の詩群の後の解説は底本ではポイント落ちで全体が二字下げである。詠み易くするために各詩群の間に一行空きを入れた。]

 

 陶器の鴉

大正元年秋から大正二年末までの作品で、吉川惣一郎の名のもとに「ザムボア」及び「創作」に載つたものである。

 

 球形の鬼

私の最も窮迫した時代大正三年頃の作で、やはり吉川惣一郎の名で、「地上巡禮」に載つたものである。

 

 濕氣の小鳥

大正四、五、六年頃の作品で、そのうち「朱の搖椅子」から「むらがる手」までは「ARS」に載つたものである。

 

 黄色い帽子の蛇

大正七、八、九年頃の作品で、「無言の歌」及び「あをちどり」に載つたもの、「詩と音樂」に載つたものである。

 

 香料の顏寄せ

大正九、十年頃の作品で、「詩と音樂」に載つたほかは、未發表のものである。

 

 白い狼

大正十年の作品、即ち私の病氣中の作である。「詩と音樂」に載つたもののほかは、未發表のものである。

 

 木製の人魚

大正十年、十二年の作品で、すべて「詩と音樂」に載つたもののみである。

 

 みどりの薔薇

大正十二年の作品で、うち四、五篇をのぞいて、他は凡て「詩と音樂」に載つたものである。

 

 風のなかに巣をくふ小鳥

大正十二年の作品で、「詩情」及び「日光」に載つたものなどがある。

 

 莟から莟へあるいてゆく

大正十四、五年の作品で、「詩と音樂」「日光」「アルス・グラフ」「近代風景」に載つたものである。

 

 黄色い接吻

昭和二、三、四年の作品で、「近代風景」に載つたものである。

 

 みづのほとりの姿

昭和七年病氣療養のたの伊豆山温泉に行つた前後及び八年南湖院に入院して書いたもの、このうち「そよぐ幻影」が八年八月の「中央公論」に載つたほかは未發表のものである。

 

 薔薇の散策

作品として最後のものである。

 

 散文詩

綠の暗さから・琅玕の片足・帽子の谷 は大正元年の作で未發表のものである。

二ひきの幽靈・木造車の旅 は大正二年の作で未發表のものである。

狂人の音樂・あをい冠をつけて は大正三年の作で、未發表のものである。

暗のなかで は大正四年の作で、未發表のものである。

愛戀する惡の華 は大正六年作で、未發表のものである。

言藁の香氣・白い鳥の影を追うて・香水夜話 は以上大正三年の作で、未發表のものである。

噴水の上に眠るものの聲 は大正十五年の作、「近代風景」に載つたものである。

日食する燕は明暗へ急ぐ は昭和二年の作で、「近代風景」に載つたものである。

綠色の馬に乘つて は昭和三年の作で、「近代風景」に載つたものである。

無爲の世界の相に就いて は昭和五年の作で、未發表のものである。

 

[やぶちゃん注:「散文詩」の項の二行目は底本では「二ひきの幽靈・木造車の旅は 大正二年の作で未發表のものである。となっているが誤植として訂した。

「大木惇夫」(おおきあつお 明治二八(一八九五)年~昭和五二(一九七七)年)は翻訳家・詩人。昭和七(一九三二)年までは大木篤夫と名乗っていた。広島生。太平洋戦争中の各種戦争詩や軍歌・戦時歌謡で有名だが、児童文学作品の他、「国境の町」などの歌謡曲や「大地讃頌」を始めとした合唱曲及び社歌・校歌・自治体歌等の作詞も多く手掛けた。青年期に文学者を志し、広島商業学校(現在の広島県立広島商業高等学校)の学生時代より与謝野晶子・吉井勇・若山牧水らの短歌に感化されて短歌を始めが、その後、三木露風や北原白秋の詩を知り、特に白秋に深い感銘を受けたという。学校卒業後は一時、銀行に勤めたが文学への志向止み難く、二十歳で上京、博文館で働きながら文学活動を行った。またこの頃、キリスト教の受洗も受けている。その後、同棲している女性の肺結核療養のため、博文館を辞めて小田原に引っ越し、文筆活動に専念したが、これが契機となって、当時、小田原に在住していた北原白秋の知遇を得、大正一一(一九二二)年に、大手拓次の詩の発表の舞台ともなった白秋・山田耕筰編の雑誌『詩と音楽』創刊号に初めて詩を発表した。大正一四(一九二四)年にはジョバンニ・パピーニ「基督の生涯」の翻訳をアルスから出版してベスト・セラーになるとともに、処女詩集「風・光・木の葉」を白秋序文附きで同じくアルスから出版、その後も一貫して詩人として白秋と行動をともにした。昭和一〇~一五(一九三〇年代後半)から歌謡曲の作詞も手掛けるようになり、一世を風靡した東海林太郎の「国境の町」の他、「夜明けの唄」「隣の八重ちゃん」「八丈舟唄」「雪のふるさと」などを作詞、また知られたスコットランド民謡「麦畑」(誰かさんと誰かさんが)(伊藤武雄共訳)他の訳詞から軍歌・社歌、山田とのコンビで多くの校歌も多数残す。太平洋戦争が始まると徴用を受け、海軍宣伝班の一員としてジャワ作戦に配属された。バンダム湾敵前上陸の際には乗っていた船が沈没したため、同行の大宅壮一や横山隆一と共に海に飛び込み漂流するという経験もした。この際の経験を基に作られた詩を集めてジャカルタで現地出版された詩集「海原にありて歌へる」(昭和一七(一九四二)年アジアラヤ出版部刊)に日本の戦争文学の最高峰とも称され、前線の将兵に愛誦された「言ふなかれ、君よ、別れを、世の常を、また生き死にを……」の詩句で知られた「戦友別盃の歌-南支那海の船上にて。」が掲載されている。彼はこの詩集で日本文学報国会の大東亜文学賞を受賞、同時に作品の依頼が殺到した。この国家的要請に対して大木は誠実に応じ、詩集「豊旗雲」「神々のあけぼの」「雲と椰子」や従軍記・国策映画用音曲の作詞・各新聞社が国威発揚のためにこぞって作成した歌曲の作詞等をも行ったが(その一方で序文以外には殆ど戦時色の感じられぬ詩集「日本の花」も編集している)、戦争末期になると過労が祟って身体精神共に不調となり、福島に疎開して終戦を迎えた。戦後は一転、戦時中の愛国詩などによって非難を浴びて戦争協力者として文壇から疎外された。参照したウィキ大木惇夫によれば、『戦争中、大木をもてはやした文学者やマスコミは彼を徹底的に無視し、窮迫と沈黙の日が続いた。そのため、戦後は一部の心ある出版社から作品を出版しながら、校歌の作詞等をして生涯を過ごした』。『ただ、石垣りんの項目にあるように、新日本文学会の重鎮のひとりであった壺井繁治とともに、銀行員の詩集の選者をつとめているということもあるので、戦後の活動の全体像についてはなおも検証が必要である』とし、『大木惇夫は太平洋戦争(大東亜戦争)中、海軍の徴用を受けて従軍し、その経験を基に作詩をした。また、帰国後も国家やマスコミの要請に応じて、多数の作品を作った。このような戦争協力は大木だけでなく、当時の文学者や芸術家の多くが当然の行為として行ったことである。また、大木は戦争詩を作ったことで多数の栄誉を受けているが、これは純粋に作品が評価されたためのことであり、これは今日でもその戦争詩の一部が高い評価を受けていることでも証明される。また、大木自身が戦時中に特権を求めるような行為をした形跡は無く、むしろ、終戦前には過労からノイローゼに近い状態にすらなっている』。『終戦後の文壇やマスコミは大木を徹底して無視、疎外し、反論の機会すら与えずに詩壇から抹殺しようとした』。『大木自身も戦争中の活動を『はりきり過ぎた』と指摘されたことに対し『顔から火が出るほど恥ずかしかった。』としているが、これは自分の行為や詩そのものを否定するものではない。『(前略)堂々とわたしをやっつける人がなくて、すべて私を黙殺してゐるから、その向きに対しても、私は答へる術を知らないのである。』と述べている』。『戦後の一時期、著しく左傾化した文壇で行われた迫害行為から、大木は完全に復権したとはいえない。このことはソビエトでボリス・パステルナークが政府から迫害された際に、自由主義の各国で非難の声が上がったにもかかわらず、日本では文壇が全く反応をしなかったことなどと共に、戦後日本文学史の政治的な汚点の一つともされる』。しかし、昭和三六(一九六一)年には『依頼により作成した「鎮魂歌・御霊よ地下に哭くなかれ」の詩碑が故郷である広島市の平和記念公園に建てられるなど、日本国民の評価は文壇やマスコミとは明らかに異なっていた』とある。なかなか骨のあるウィキ記載であると私は思う。]

2013/10/30

無爲の世界の相について 大手拓次

 無爲の世界の相について

 

 ながいあひだ私は寢てゐる。

 何事もせず、何物も思はない、心の無爲の世界は、生き生きとして花のさかりの如く靜かであつた。

 わたくしは日頃から、眼に見えないものへ、また形のないものへのあこがれを抱いてゐたのであつた。この願ひはいつ果されるともなく、わたくしの前に白く燃え續けてゐた。

 偶然にとらへられてその白く燃えてゐる思念が、この無爲の世界のなかに此上もなくふさはしく現はれてきたのであつた。

 その時、心の「外へのよそほひ」は凡てとりさられ、心は心みづからの眞の姿にかへつて、ほがらかに動きはじめたのであつた。

 心は表面の影を失ひ、内面の自由な動きの流れへ移つたのである。

 わたくしは見知らぬ透明な路をあるいてゆくのである。

 心のおもては閉ざされて暗い。けれど形よりはなれようとする絶えざる内心の窓はらうらうとして白日よりもなほ明らかである。

 感情は靑色の僧衣をきてかたはらに佇んでをり、たえず眠りの横ぶえをふいてなぐさめてゐるではないか。

 

[やぶちゃん注:本詩を以って詩集「藍色の蟇」の詩本篇が終わる。因みに、本詩題は岩波版「大手拓次詩集」では、

 

 病間錄

  ――無爲の世界の相に就て――

 

となっており(正字化して示した)、二段落目の「この願ひはいつ果されるともなく」の部部は同岩波版では、

 

この願ひは、いつ果されるともなく

 

と読点が入っている。]

2013/10/29

綠色の馬に乘つて 大手拓次

 綠色の馬に乘つて

 

 彼には空にとどく眼があつた。生成のまへのものに觸れる指と齅覺とを持つてゐた。フランソア・ギヨンの漾ふ姿は繫縛のうちに動き、羽ばたき、生きのびる帆のひらめきを教へる。

 卵はいろづいて凡てを魅了する。

 影のなかにある影の芽、未生の世界に泳ぐ大噴水塔の鴉は木の葉の黄昏に呼吸をしたたらしてゐる。門柱の鐘を鳴らす一人の訪客は、その歩道のかたはらに莟をもつてわらひかける微風の毛を意識してゐるけれど、その足は限りなくしばられてゐるのである。あの夜の虹の私語にしばられてゐるのである。

 ひそかに、しかも渾身の力の動きに押しすすめられてゆく路は、昏迷の落日の丘ではないか。大旋風の滿開の薔薇のごとく咲きみだれてゐる眞鍮製の圓錐體である。そこに盲目の手をいだして闇の砲彈をさぐりあて、全身のうつろに植ゑこみ、蓮華の花祭のやうに童貞を點火するのである。あらゆる無意識は機構の深淵に溺れて死に瀕しつつ綠色光を放つて世界をこえる。手負の魂は白い假面をかぶつて路の側にたたずみ、泥濘の皿に朝の髯をきつてゐる。幻想のなかに浮ぶ靑い耳はおそはれる火のもとである。それは廢滅の武器ではなく、盛りあがる愛の花束の散歩ではないか。

 MARIA UHDEN の奇怪なる繪を見よ。ひとつの心の心靈現象のやうなゆがめられた人間のあへぎが、べつとりと血をはいてゐる。十六本の指に電光をともして蛙の小徑をゆけ。悲しみの繁吹は軟風にたはむれる馬と馬とのひろがりをとつて、その生成の水のうへにそそりたつのである。

 掌を彌縫する雷鳴はしきりに曉の舌をだして、連翹の笑ひをしてゐる。この癡笑の糞は裸形の香炎をふみつぶして焦燥する一羽の白鳥である。逆行する空間に蠱惑の螢をとばし、念念として凝固し、雲散霧消する。この未發の風景に遠吠する消息は靑い牢獄である。表現からかくされた存在の胎動に味到し、屈伸自在の埒外にひるがへるもの、黑布をつけた群盲の永遠の音なき葬列である。

 いつさいは暗くとどろき、ひれふして、將に發せんとするものの危機を持續するのである。

 わたしは自らを俎上にのせ、昏昏として胚珠のごとく靜觀する。震動體の月光を織り紡いで吹く彼の佛蘭西象徴派のひとむれと、水に浮く百合の花をこもごもに取りあひ、華麗なる臥床にゆらめく影をくゆらせたのである。しかしながら、いま私は不思議なる門扉のまへにたつ。怖ろしい地鳴は悉く直立の白刄を私に擬してゐる。そしてわたしの背後に啼きつづける蒼白の「抒情の鳥」を刺し殺さうとしてゐる。この陰慘にして快適なる風景の脚は破れざる殼をつけたるまま、黑と金との宗教の庭園に漫歩する不行跡をあへてする。

 盲目こそ境を絶したる透徹の明である。

 やぶれざる前の破れこそ聲である。

 うごかざる前の動きこそ行ひである。

 波動の全圓に影はせまりきて、ひたりしづみ、觸れえざる生身の肌に恍惚としておよがせる魚の姿である。

 

[やぶちゃん注:「MARIA UHDEN」マリア・アーデン(一八九二年~一九一八年)。ドイツの女流版画家(グーグル画像検索「Maria Uhden)。

「繁吹」は「しぶき」と読む。飛沫。水滴。

「彌縫」は「びほう」と読む。(一般には失敗や欠点を一時的に)とりつくろうことをいう。

「味到」は「みたう(みとう)」と読み、内容を十分に味わい知ることをいう。

「盲目こそ境を絶したる透徹の明である。」の「明」は思潮社版「大手拓次詩集」では「卵」である。誤植とも思われるがママとした。「盲目」と「明」は寧ろ、詩句としてしっくりくるからである。]

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