跋
大手拓次君の詩と人物
萩原朔太郎
昭和九年の春であつた。遲櫻の散つた上野の停車場へ、白骨となつた一詩人を送つて行つた。その詩人の遺骨は、汽車に乘せて故郷の上州へ送られるのであつた。
停車場のホームには、大勢の見送人が集つて居た。それらの會葬者は、いづれもモーニングやフロックコートを着、腕に喪章の黑布を卷いてた。彼等の全部は會社員であつた。遺骨が汽車に乘せられ、窓から恭々しく出された時、ホームの人々は帽子を脱いだ。一人の中年の紳士が、簡單に告別の演説をした。その演説の内容は、我々の會社に於て、多年忠實に勤めてくれた模範店員の一人を、今日遺骨として此所に送ることは、如何にも哀悼の情に耐へないといふのであつた。汽笛が鳴つた。そして信越線行の長い列車が、徐々に少し宛プラットホームを離れて行つた。
一人の平凡な會社員が、かうして平凡な一生を終つたのである。彼が内證で詩を書いて居たこと、しかも秀れた詩人であつたことなど、會葬者のだれも知つては居ないのだつた。ただその群集の中に混つて、四人の人だけが彼を知つてた。北原白秋氏と、室生犀星君と、大木惇夫君と、それから私であつた。そしてこの四人だけが、彼の生前に知りた一切の文壇的交友だつた。
「寂しいね。」
見送りをすなした後で、私は室生君と顏を見合せて言つた。
上野驛に遺骨を送つて、歸つて來や日の翌日だつた。詩を作る若い人が訪ねて來たので、昨日の新しい記憶を話した。
「大手拓次? 大手拓次?」
暫らく考へた後で、その若い詩人が言つた。
「あ、知つてます。知つてます。前に白秋氏の難詰で詩を書いて居ましたね。貴方の模倣みたいな詩を。」
「反對ですよ。僕が模倣をしたのだよ。」
と言つたら
「アハヽヽヽ」
と靑年が笑ひ出した。私が諧謔を弄して、何かの逆説を言ふのだと思つたのである。だが諧謔でも逆説でもない。私は實際、大手君の詩から多くを學んだ。特に「靑猫」のスタイルは、彼から啓示されたところが多い。尤も後には、大手君の方でも私から取つたものがあるらしく、兩方混線になつてしまつたけれども、私の方で學んだ部分が、たしかに多いことは事實である。その意味で大手君は、私より一日の先輩である。
と、これだけ話をしても、まだその靑年は腑に落ちないやうな顏をして、
「でも貴方などより、ずつと新しく詩壇に出た、若いグループぢやありませんか。」
と言つた。
大手拓次! この名は實際新しく、詩壇の人に耳慣れない。今の詩壇の人々は、だれもおそらくこの名の詩人を、あまり記憶して居ないであらう。稀れに記憶してゐる人々も、その靑年と同じやうに、若い時代の新進詩人――しかもあまりぱッとしない新進詩人――として忘れかかつた記憶の一部に、ぼんやり名を止めて居るに過ぎないだらう。然るに實際の大手君は、私よりも少し早く、室生犀星君等と前後して詩壇に出、大に活躍した詩人なのである。
その頃の大手君は、吉川惣一郎のぺンネームで詩を書いて居た。と言つたら、昔の「ザムボア」などを讀んでた人には、初めて記憶が確實になり、一切の經過が解るであらう。大手拓次の本名に歸つたのは、後に北原白秋氏が、アルスから詩の雜誌を出すやうになつてから極めて最近のことに屬してゐる。大手君の花々しい詩人的活躍時代は、その短かい本名時代に無くして、實に過去の吉川惣一郎時代にあつたのである。
私が初めて大手拓次、即ち吉川惣一郎の名を知つたのは、北原白秋氏の雜誌「ザムボア」の誌上であつた。常時その同じ誌上に、室生犀星も詩を發表し、少し遲れて私もまたこれに加はつた。この室生、吉川、萩原の三人組は、その後も常に發表の機關を一にし、後に「地上巡禮」から「ARS」、「ARS」から「近代風景」へと、常に白秋氏の雜誌を追つて轉々とつつ、詩人としての共同經歷を一にして居た。單にまたそればかりでなく、三人共に白秋氏を私淑し、且つ白秋氏の推選によつて詩壇に出た。そのため世間では、私等のトリオを稱して「白秋旗下の三羽鴉」と呼んだ。
藝術的經歴に於て、かくも親しく兄弟のやうな閒でありながら、人間としての大手君には殆んど友誼を結ぶ機緣がなかつた。私が大手君に逢つたのは、前後を通じて僅か三度しか無かつた。最初は室生君と共に牛込の下宿を訪ねた。二度目は白秋氏の家のパーチイで一所になつた。そして三度目は、既に遺骨となつて居た大手君を上野に送つた。それほど實に寂しく、墓ない友誼であつた。だがそれにもかかはらず、大手君が常に私のことを心に思ひ、白秋氏と共に深い愛情をよせてをられたことを、この事の卷尾にある同君の覺え書によつて知り、今更また故人への追憶を新たに深くするのみである。
大手拓次君の藝術は、一言で言へば實にユニイクなものである。新體詩以來今日に至るまで、日本の全詩壇の歷史を通じて私は他にこんなユニイクの詩と詩人とを見たことがない。第一にその言葉と内容とが、過去の詩人のどんな影響も受けて居ないのである。たいていその頃の詩人たちは、當時の詩壇の流行であつた類型的自由詩の形態を學んで居た。さうでないものは、蒲原有明氏以來の文章語詩形を襲統して居た。然るに大手君(當時の吉川惣一郎君)の詩には、當時のどんな類型もなく、過去のいかなる襲統もなく、全く別個の珍らしいものであつた。單にフオルムやスタイルばかりでなく、詩の情操する内容がまた特殊であつた。
しかしその「詩」を語る前に、私は先づその「詩人」を語らねばならぬ。なぜなら大手君のすべての詩は、實にその特殊な人間と生活とを根據にして居り、その「人」に對する理解なしにその藝術を味ふことが出來ないほど、人と作品とが密接に結ばれてゐるからである。そしてしかも大手君の人間と生活とが、その藝術以上にまた特殊であり、他に全く類型を見ないほどの、絶對ユニイクの存在なのである。
私が室生君と共に、初めてその下宿屋に大手君を訪ねたのは、今から約二十年近くも昔のことであつた。(その牛込の下宿屋に、大手君はその後二十年も住んで居た。その間に下宿屋の主人が死んで、代が變つても依然として住んで居た。)第一印象に映じた大手君は、蒼白く情熱的な顏をしながら、寂しい憂鬱を漂はせてゐるやうな人であつた。どこか生田春月君に似たやうなところもあり、全くまた別の風貌にも屬して居た。そして要するに、その抒情詩そつくりの人物を感じさせた。
下宿の狹い部屋は淸潔に掃除されて、萬事が几帳面に整理されてた。室の一隅に書架があつて、佛蘭西語の詩集や雜誌がぎつちり積まれて居た。話をして驚いたことは、佛蘭西語の書物以外に、日本語の本を殆んど讀んで居ないことであつた。特に意外であつたのは、北原白秋氏一人を除いて、他の如何なる日本の詩人の存在さへも全く知らずに居ることだつた。當時詩壇には、白秋氏の外に三木露風、川路柳虹、高村光太郎、富田碎花、福士幸次郎、西條八十等、既に一家の名を成してる多くの詩人が活躍してゐた。私と室生君とは、常に此等の先輩詩人を對象にして語つて居たので、大手君に逢ふと同時に、先づかうした詩壇の現狀を話しかけた。然るに驚いたことは大手君は全くその人々の名前さへも知らないのである。況んや詩壇のことなど、全く風馬牛に無關心で、私等の話を迷惑さうに默つて聞いて居た。
「佛蘭西の詩、ボードレエルとサマンより外、少しも讀んで居ませんから。」と言ふのを聽いた時、私は室生君と顏を見合せた。そして世にも尊大なペダンチックの奴が居るものだと思ひ、一種の侮辱を感じて腹を立てた。しかし大手君の表情に少しの尊大な倨傲もなく、却つて内氣に恥かしがつて居るのを見た時、すつかりこの人の詩人的天質が了解された。つまりこの純一の詩人は、自己の詩情に驅りたてられて、自己の悦樂のためにのみ詩を書いてるので、文壇的に地位や名聲を克ち得ようとする野心――それが昔時の私たちには充分あつた――を全く所有して居ないのである。したがつて詩壇の現狀や詩人の名を、殆んど知らずに居るのも當然である。大手君としては、ただその愛誦するボードレエルとサマンだけを、佛蘭西語の原詩で讀んで居れば足りたわけだ。此所で一つ詩を紹介しよう。
[やぶちゃん注:「サマン」アルベール―ヴィクトール・サマン(Albert‐Victor Samain 一八五八年~一九〇〇年)はフランスの詩人。北フランスのリール生。一八八〇年にパリに出、翌年の『メルキュール・ド・フランス』誌の創刊に参加したが、小身の公吏として病弱のうちに母子二人暮しの孤独な生涯を送った。処女詩集「王女の庭にて」(一八九三年)の甘美でもの憂く漠とした悲哀感を漂わす詩風によって象徴派の一人とも目されるが、第二詩集「花瓶の胴に」(一八九八年)では寧ろ高踏派的な形式美を志向して諧調に富む異教的雰囲気を醸し出している(以上は平凡社「世界大百科事典」に拠る)。本詩の最後に大手拓次訳のサマンの詩を掲げておく。]
枯木の馬
神よ、大洋をとびきる鳥よ、
紳よ、凡ての實在を正しくおくものよ、
ああ、わたしの盲の肉體を滅亡せよ、
さうでなければ、神と共に燃えよ、燃えよ。王城の炬火(たいまつ)のやうに燃えよ、
ああ、わたしの取るにも足らない性の遺骸を棄てて
暴風のうすみどりの槌の下に。
香枕のそばに投げだされたあをい手を見よ、
もはや、深淵をかけめぐる枯木の馬にのつて、
わたしは懷疑者の冷たい着物をきてゐる。
けれど神樣よ、わたしの遺骸には永遠に芳烈な花を飾つてください。
「神」「信仰」「忍從」「罪」「實在」「道心」「尼僧」「惡魔」「僧形」「祈禱」「香爐」「紫※」等々の言葉は、實に大手君の詩の主調を成してるイメーヂである。全卷の詩篇を通じて、話者はあのカトリツク教寺院の聖壇から立ちこめてる、乳香や煉香の腹々とした煙の匂ひを感ずるだらう。かうした大手君の詩想は、おそらくボードレエルから影響されてる。しかしこの詩人の學んだものは、ボードレエルの中のカトリック教的部分であり、單にその部分の「香氣」にすぎなかつた。詩人としての本質から言へば、大手君は決してあの異端的、叛逆的の懷疑を抱いた「惡の花」の詩人ではなく、むしろそれと正反對なリリシズムをもつた純情の詩人であつた。彼の場合は、むしろサマンの方に接近してゐるやうに思はれる。
[やぶちゃん注:「紫※」(「※」=「袍」-「礻」+「糸」)。筑摩書房版萩原朔太郎全集第十四巻に所収するそれでは編者によって「紫袍」に書き変えられている(同全集は一貫して編者による恣意的な『誤字訂正』が行われてある)。「紫袍」とは「紫色の上着」の謂いであるが、私はこれは本当に正しく『訂正』していると言えるとは思っていない。以下にその理由を示す。まず、ここに朔太郎が並べた十二に語句であるが、この内、「香爐」までの総ては詩集「藍色の蟇」の中にどれも複数回使用されている単語である。ところがこの「紫※」「紫袍」の孰れも使用例がない(無論、「藍色の蟇」に限って朔太郎が述べたのではなく、広義の大手拓次の詩語として述べたのだと考えることも可能であるが、この文脈の中で一つだけそういう単語を選んで入れるということは実質上考えにくいと私は断ずる)。では、「紫」及びを「紫」を含む単語を「藍色の蟇」の中での使用例を見てみる。以下が「藍色の蟇」に於けるその総てである。
ぬしの御座は紫の疑惑にけがされてゐる。(「罪の拜跪」より)
紫の角を持つた羊のむれ、(「野の羊へ」より)
木立は紫金(しこん)の蛇をうみ、(「木立の相」より)
紫(むらさき)の縞目(しまめ)をうつした半月(はんげつ)の盾(たて)をだいて
*
角(つの)ある鳥をゑがいた紫の盾はやすやすともたげられて、
*
紫の盾よ さちあれ、(三つとも「紫の盾」より)
赤(あか)と紫(むらさき)とのまだらの雪がふる。(「曼陀羅を食ふ縞馬」より)
さては、なつかしい姉のやうにわたしの心を看(み)まもつてくれる紫のおほきいヒヤシンスよ、(「ヒヤシンスの唄」)
紫は知らぬ運動の轉回、(「手の色の相」より)
うきあがる紫紺(しこん)のつばさ、(「鈴蘭の香料」より)
そらよりみだれかかる紫琅玕(しらうかん)のうはこと、(「うづまく花」より)
古くさい小池の綠には、薄紫のつつじ、生々とした笹の葉、楓や松や檜や、石菖や、がある。(「綠の暗さから」より)
紫藍色の車はせはしく過去へきしる。(「琅玕の片足」)
紫色の病氣の指(「噴水の上に眠るものの聲」最終連より)
この孰れを見ても紫色の衣服、紫衣、「紫袍」の人物や表象は出現しない。従って私は「紫袍」という筑摩版全集の『訂正』は『誤り』と断ずるものである。但し、「廣漢和辭典」にも出ない「※」は明らかに誤字である。敢えて言うならこれは一例の使用例が出現し、それ以外にも頻繁に現われるところの紫色、それは紺がかった紫色や濃い紫色であるところの紫の色調を局限するもの――「紫紺」の誤りである――とすべきだと私は考えるものである。大方の批判を俟つ。]
撒水車の小僧たち
お前は撒水車をひく小僧たち、
川ぞびのひろい市街を悠長にかけめぐる。
紅や綠や光のある色はみんなおほびかくされ、
Silence(シイランス)と廢滅の水色の色の行者のみがうろつく。
これがわたしの隱しやうもない生活の委だ。
ああわたしの果てもない寂寥を、
街のかなたこなたに撒きちらせ、撒きちらせ。
撒水車の小僧たち、
あはい豫言の日和が生れるより先に、
つきせないわたしの寂蓼をまきちらせ、まきちらせ。
海のやうにわきでるわたしの寂蓼をまきちらせ。
[やぶちゃん注:七行目は底本では「街のかなたこなたに撒きちらせ。」「撒きちらせ」のリフレインがないが、本文の詩形で訂正した。]
これにはサマンの影響が感じられる。そして尚、少しばかり白秋氏の影響も感じられる。しかし本來言つて、大手君はサマンでもなく、白秋でもなく、況んやボードレエルのやうな型の詩人でもない。この特異な詩人の本領は、性の惱ましいエロチシズムと、或る妖しげな夢をもつたプラトニツクの戀愛詩に盡きるのである。童貞のやうに純潔で、少女のやうに夢見がちなこの詩人は、彼の幻想の部屋の中で、人に隱れた祕密をいたはり育てて居た。彼のエロチシズムと戀愛詩は、いつも阿片の夢の中で、夢魔の月光のやうに縹渺して居た。それは全く常識の理解できない、不思議な妖氣にみちたポエヂイである。彼の詩について語る前に、生活について語らなければならないのである。
以下私が話すことは、故人の親友であつた所の、畫家逸見享氏から聞いた事實である。そしてこの逸見氏だけが、大手拓次の生活を知つてる唯一の人であつた。それほど大手君には全く他に友人と言ふものがなかつた。
詩人といふ人種は、元來非社交的の人種であり、宿命的に孤獨を愛するやうに生まれついてる。しかし大手拓次のやうな詩人は、私の知つてる範圍で類例がなく、全く無人島的な生活をした孤獨者だつた。彼はその生計のために、ライオン齒磨の廣告部に勤め、會社員としての日課を續けて居た。しかし會社では、殆んどだれとも口を利かずに、默々とし啞のやうに仕事をして居た。かうした不思議な人間が、如何にその同僚から氣味惡しく、變人扱ひに嫌厭されるかは、充分想像できるであらう。仲間はづれにされてる孤獨の椅子で、この氣の弱い内氣な詩人は、いつも情熱的な戀愛詩を書き續けて居た。それは同じ會社に勤めて居るところの、若い女事務員に對する殉情だつた。しかしこの詩人の内氣さと羞かしがりは、少女より尚いぢらしく、戀を打明けることが出來ないのである。そして人の知らない祕密の思ひに、情熱の胸を焦しながら、悲しい嘆息ばかり續けて居た。或る時は忍びあまつて、歸途を急ぐ女の袂に、そつと一片の紙片を入れたりした。その小さな紙片には、彼の思ひあまつた詩が書いてあつた。しかしモダンガールの少女店員は、古風な抒情詩に興味がなく、意味を理解することもできなかつた。その上に作者の名前が書いてなかつた。彼女はけげんの顏をしながら、不思議な紙片を破いてしまつた。
かうした悲しい生活が、四十八歳になる迄も續いて居た。彼は幾人かの少女を戀し、幾篇かの抒情詩を書き、そして終生幻影の戀を迫つて生活して居た。さうした彼の生活は、純情の若い處女たちが、小箱の中に祕密をこめ、人の知らない不思議な言葉で、人形と會話して居るやうなものであつた。それこそは本當に「胸に祕めたる」純情のリリシズムであつた。古今東西の詩人を通じて、私は彼のやうに美しく純潔な詩人を知らない。その四十八歳の童貞生涯は、全くミユーゼに捧げた加特力教的の獻身だつた。彼は一度も結婚せず、女の肉體に就いて知らなかつた。四十八歳で死ぬ時まで、眞に淸淨な童貞で身を保つた。それは現實の世に有り得ないほど、加特力教的天國の物語に類して居る。
後年肺を患つてから、彼は茅ケ崎の病院に一人で臥て居た。そして毎日、海鳴りの音を聽きながら詩を書いて居た。私はその遺稿を見て悲しくなつた。それは女の子の小箱に張る千代紙で、手製の表裝をした和紙の本に、細い紅筆のやうなもので詩が書いてあつた。その詩は皆短かい小曲で
今日もまた便りが來ない
もう何もかも夢のやうに消えてしまつた。
殘るものは涙ばかりだ。
涙ばかりが殘つてゐるのだ。
といふ風な歌が、いくつもいくつも繰返して書いてあつた。ノートは十册位もあつたが、詩は皆同じやうなことを繰返し、同じ一つの切ない思ひを、盡きずに綿々と歌つてゐるのであつた。一人の友人もなく、見舞客もなく、病氣を看護する者さへもなく、眞に天涯孤獨の身で、病院の一室に寂しく臥て居た彼は、ベツドの中で、毎日遠い戀人を思ひ續けてゐたのであつた。しかもその戀人の方では、彼の存在さへも忘れて知らずに居るのである。こんな悲しく寂しい人生はない。そしてまた、こんなに純潔で美しい詩人の生涯もない。彼はおそらく、胸に祕めた永遠のリリツクを抱きながら、安らかに微笑して死んだであらう。逸見氏がスケツチした彼の死顏は、天使のやうに純潔で美しかつた。五十歳に近い彼の顏には、少しも中年者の穢れがなく、永遠の童貞として生活した、聖畫の基督が輪光して居た。
[やぶちゃん注:この前に示された詩は引用せぬ方がよい部類のものである。私はこれはまさに直後で「といふ風な歌」と朔太郎自身が述べている如く、大手拓次自身の詩句の忠実な引用とは思われないからである。詩想からは死後の編纂になる詩集「蛇の花嫁」所収の文語定型様短詩群の主意とは似ているように思われるものの、私は現存するそれを突き付けられでもしない以上はこれを大手拓次の詩として肯んずることを断固として拒否する者である。]
かうした特殊の生活を背景として、彼の特殊な藝術が作られて居た。読者にして彼の生活を知つたならば、彼の詩について言ふ必要はなく、すつかり解つてしまふであらう。一言にして言へば、それは純粹に加特力教的精神の抒情詩である。しかしながら彼の加特力教は、ボードレエルやヱルレーヌやと同じく、多分に肉情的の感覺を持つたところの、近代的異端趣味の加特力であつた。彼の詩に於ける特殊な言葉、例へば「球形の鬼」「輝く城」「紫の盾」「金屬の耳」「盲目の蛙」「僧衣の犬」「道化の骸骨」「法相の像」「幻の薔薇」「嫉妬の馬」等のものは、すべてかうした異端趣味の、彼の心象に浮んだイメーヂであり、香爐の煙の中に漂ふところの、妖しい僧院の幻想だつた。それらの不思議な妖しい言葉は、作者の意味に於てすべて性慾を表象して居る。即ち「犬」とい毒藥、「僧」といふ言葉、「城」といふ言葉などが、作者のイメーヂの中では、すべて女性の肉體(胴や、臍や、胸や、乳質)を表象して居るのである。詩人は此等の言葉の中に、妖しい性慾の惱みをこめて歌つて居る。その抒情への切ない悶えは、作者と言葉とが一つに重なり、離すことが出來ないほどに食い付いてる。眞にこの詩人の場合に於ては、言葉と詩とが一つの紐で結びつけられ、互に抱き合つて情死して居るといふ感じがする。かつて日本の詩壇に於て、これほど純粹に藝術的であつた詩人はなく、これほどまた純粹に詩人であつた作家も無かつた。
この加持力數的な不思議な詩人は、三十歳を過ぎる迄も、異性に對する眞の sex も知らずに居た。初期の靑年期に作つた詩は、たいてい皆美少年を對象にして歌つて居た。その同性の少年等は、彼にとつて全く女のやうに思はれて居た。それは集中の詩に歌はれてゐるやうに、少女に對する如き愛撫であつた。それらの詩の中で、彼は美少年の手足を撫で、胴をさすり、足の指を弄んで樂しんで居る。しかもその感覺遊戲は、少し邪淫的なものでなくつて、宗教的に純粹な祈りとロマンチシズムを本質してゐるものであつた。つまりこの詩人は思春期に近い少女のやうに、純粹な感傷性とロマンチシズムとで、同性への愛と思慕とを求めたのである。そして彼の詩篇の中では、この初期時代の作品が一番よく、藝術としての最も高い香氣を持つて居た。後に異性への愛に轉向してから、彼の詩はげつそり色彩を落してしまつた。つまりその時代からして、彼は藝術創造的野心を無くして、ひとへに自己の感傷性の中に溺れてゐたのである。そして詩人が感傷性に溺れる場合、もはや文化上の建設價値を喪失して、自己慰安の作者に墮してしまふのである。彼の後年の日課は、毎日その戀人のために詩を作り、それを無記名にして送るのだつた。逸見氏の話によれば彼はそのために詩の調子を下げ、少女の戀人にも解るやうに、わざと通俗にして書いたといふことであつた。かうした悲しい詩人に對して、私はもはや言ふ言葉がなく、批判の必要さへないのである。(吉川惣一郎といふペンネームは、彼の愛した二人の少年の姓と名とを、一語につづつたものださうである。)
彼はいつも孤獨の部屋で、默つて一人で詩を書いて居た。そして時々、恥かしさうにそれを取り出し、白秋氏の雜誌にだけ送つて居た。詩を公表することさへが、彼にとつては恥かしく、處女のやうに顏を赤らめることであつた。(彼の性格が、如何に女性的であり、基督教尼僧的であつたかは、本書の自傳に書いてる白秋氏への彼の心情と、その女らしい思慕の純情とによく現れて居る。)
かうした箱入娘のやうな内氣の男が、文壇や詩壇に立つて活躍するのは、あまりに周圍の空氣が粗野にすぎて荒々しく、不適當に傷ましいやうな感じがする。彼も自らそれを意識して居たらしく生涯一册の詩集も出さず、詩壇的に無記名のままで死んでしまつた。この遺稿詩集でさへも、逸見氏の如き書き友人が居なかつたら、おそらく世に出る機會が無かつたであらう。何等賣名的野心がなく、文壇的功名心もなかつた詩人は、それで地下に滿足して居るかも知れない。しかし十八歳から詩に志し、四十八歳で死ぬ時まで、三十年も詩作に專念して、その上にも數々の秀れた作品――それらの作品の價値は、日本詩壇の歴史的過程を通じて、第一流の最高位に列せらるべきものである。――を残した詩人が、一册の詩集も出さず無記名のままで葬られて居ることは、私等にとつてあまりに寂しく、且つ良心が許さないことである。況んや今日の詩壇には、昨日今日の馳出し作家や、人眞似事で駄詩を書いてるやうな連中さへが、堂々とした詩集を出し、相當に名を賣つてるのである。批判の公平と正義の爲にも、私は大手拓次君を紹介して、詩壇に推賞しなければならない義務を持つてる。この不思議な妖術を持つた變化の詩人。加特力教寺院の密室から、香煙の煙に漂ふ異形な幻影を見せる詩人。純情無比なリリシズムと、プラトニツクな夢を持つてる浪漫詩人。しかしまた性のやるせない惱みを歌ひ、官能の爛れる情痴を歌ふエロチシズムの大詩人を、私は自分の「私淑する先輩」として、廣く日本の詩壇に廣告紹介したいのである。
[やぶちゃん注:この「この遺稿詩集でさへも、逸見氏の如き書き友人が居なかつたら、おそらく世に出る機會が無かつたであらう」という言葉を記憶してもらいたい。則ち、この期(大手拓次の死後)に至っても、実は永く詩集原稿を握っていた北原白秋ではなくて、唯一人の親友逸見享の尽力(その熱意が並々ならぬ驚くべきものであることはこの詩集を実際に手にとって見ればずしりと分かる)なしには詩集「藍色の蟇」の出版は覚束なかったことを意味している。私は以前にも述べた通り、白秋に対して本詩集が生前に出なかったことへのある種の深い疑惑を持っているが、それを強く裏付ける言葉として私は受け取っていることをここに表明しておく。白秋は拓次の生前に於いて正しく優れたこの弟子を導く師たる詩人では実はなかったと私は思っているのである。]
大手君の詩は、言葉の音韻上に於ける使用法で、佛蘭西語の詩と類似した所があるといふ人がある。佛蘭西語の詩以外に、他のどんな文學も讀んで居なかつた大手君のことであるから、或はたしかに、さうした自然的の類似があるかも知れない。とにかく彼の詩の言葉は、非常に美しく抒情的で、その上に全く音樂的である。私は詩集「靑猫」に於て、彼の影響を多分に受けてゐることも、此所で再度正直に告白しておかねばならない。その同じことは、一方で大手君の方からも言ふであらうが、私としては心密かに、常に彼を一日の長者として自分の及ばない先輩詩人として畏敬して居た。そしてこの畏敬の情は、彼の故人となつた今に於て、一層深く眞實に感じられるものがある。私が心から畏敬し、眞に頭を下げるところの詩人は、北原白秋氏以後に於て、ただ吉川惣一郎の大手拓次君あるのみである。
最後にこの稀有の詩人が、私と同郷の上州に生れたといふことにも、私はまたささやかな血縁的愛情を感じて居る次第である。 (一九三五・八・二〇)
[やぶちゃん注:以下のアルベール・サマンの訳詩は岩波文庫版原子朗氏編「大手拓次詩集」に所収するものを恣意的に正字化して示し、原詩はこちらで読める。
秋 アルベール・サマン
うづまく風は扉をたふし、
そのしたに森は髮のやうに身をもだえる。
かちあふ木木の幹は砂(いさご)の輾轉(てんてん)する海のびびきのやうに、
はげしい風鳴りをたかめてゐる。
おぼろな丘におりてくる秋は、
重い歩みのうちにわたし達の心をふるへさせる。
そしてどんなにいたはしく萎れた薔薇のめめしい失望を、
かなしんでやるかをごらんなさい。
休みなくぶんぶいつた黄金色の蜂の翔けりも沈默した。
閂(かんぬき)は錆(さび)のついた門格子にきりきりとなる。
あを蔦(つた)の棚はふるへ、地はしめつてきた。
そして白いリンネルは圍ひ地のなかに、うろたへてかさかさとする。
さびれた庭は微笑する、
死がくるときに、ながながとお前に別れをいふやさしい顏のやうに。
ただ鐵砧(かなしき)のおとか、それとも、犬のなきごゑか、
うつたうしくしめきつた窓ガラスにやつてくる。
母子草と黄楊(つげ)の樹の瞑想をさましつつ、
鐘はひくいねに檀家の人の心になりいでる、
また光りは苦悶のはてしない身ぶるびをして、
空のふかみに、ながいながい夜のくるのをきいてゐる。
このものあはれな長夜(ながよ)も明日(あす)になつたらかはるだらう、
すがすがしい朝とびややかな又うつけな朝と、
たくさんの白い蝶は葉牡丹のなかにひらめきながら、
また物音はこころよい微風の中にさはやかになりながら。
それはさておき、この家はお前のことを嘆きもしないで、
その木蔦と燕の巣とでお前をもてなしてくれる、
そして自分のわきに放蕩者のかへるのを待ちうけて、
ながい藍色の屋根の波にけむりをのぼらせる。
命がやぶれ、ながれいで、もえあがるとき、
うき世のつよい酒にゑひしれて、
血の盃のうへにおもい髮の毛がたれかかれば、
よごれた魂はちやうど遊女のやうである。
けれども、鴉は空のなかに數しれずむらがる、
そしてもはや、さわがしい狂氣をすてて、
その魂は、旅人が歸り旅のみちすがら、
なじみの調度にめぐりあふたのしい嘆息をおしのける。
夏の花びらは花梗のうへに黑くしをれてゐる。
おまへの室にまたはひり おまへのマントを釘にかける。
水のなかの薔薇のやうなお前のゆめは、
仲のよいランプのあまい太陽にひらいてくる。
思ひにしつんでゐる時計では、
知らせの鈴(りん)がひそかに沈默の心をうつ、
窓ぎはの孤獨はその氣づかひをひろめてゆき、
かがみながら姉のやうにおまへの額に接吻する。
これは申分のない隱れ家だ、これは氣持のよい住居(すまゐ)だ。
あつたかい壁の密室、ひまもない竃(かまど)、
そこで極めて稀なる越粟幾失兒(エリキシル)のやうに、
内心の生命(いのち)のうつくしい本質をつくりあげる。
そこに、お前は假面と重荷とをとりのけることが出來る。
騷擾(さうぜう)からはなれて、いな虛飾から遠くのがれて、
いとしいものの匂ひを、カーテンの襞(ひだ)のなかにあらはになつてゐる。
おまへの胸にばかりただよはせるために。
このときこそ、心おきなく仕事にいそしんでまことの神を禮拜し、
神神しい身ぶるひがお前の年若さと淸らかさとを、
はればれとあらはすやうになつてくる。
秋はこのためにたぐびないよい季節である。
すべてのものはしづかに、風は廊下の奧にすすりなき、
お前の精神はおろかなる鎖をたちきつた。
そしてうごかない時の水のうへに裸のままうなだれて、
そのふさはしい鏡のきれいな水晶に自分の姿をうつす。
それは消えかかつた火のわきの裸の女神(めがみ)である、
あたらしい空氣のなかに船出するぼんやりとした大きな船である、
肉感的な、また物思はしい接吻のするどい液(しる)と、
人に知られない水のうへの日沒である………
「母子草」知られた「ははこぐさ」、キク目キク科キク亜科ハハコグサ連ハハコグサ
Gnaphalium affine(別名ホウコグサ)であるが、実は原文は“immortelle”であって、これは双子葉植物綱キク目キク科ムギワラギク Helichrysum bracteatum を指す(因みに属名“Helichrysum”(ヘリクリサム)はラテン語で「太陽の黄金」を意味し、花に独特の金属光沢があることに由来するとウィキの「ムギワラギク」にある。フランス語の「不滅のもの」「神」を意味する“immortelle”がこの花を指すのはそれと関係するか)。何れにせよ、聞き慣れぬ本種を日本人に馴染みのある「母子草」に変えたことは首肯出来ないことはなく、また「母子草」を選んだ拓次の深層も興味深い。
「花梗」「くわかう(かこう)」と読む。原文は“hampe”で花茎の意。これは花柄(かへい)で花軸(花をつける枝)がさらに分枝し、その先端に花をつけるところの小さな枝のことをいう。
「越栗幾失兒(エリキシル)」原文“élixir”。音訳はエリクサー・エリクシャー・エリクシール・エリクシア・イリクサ・エリクシル・エリキシルなど。錬金術で不老不死の霊薬を指す。賢者の石と同一物と考えてよい。参照したウィキの「エリクサー」によれば、アイザック・アシモフの「化学の歴史」の「第二章 錬金術
アラビア人達」によれば、語源は、これが乾いた粉の形状をなしていると考えられていたことから、ギリシア語の “xerion”(乾いたの意)がアラビア語に翻訳され“al iksir”とあり、『錬金術の至高の創作物である賢者の石と同一、或いはそれを用いて作成される液体であると考えられている。服用することで如何なる病も治すことができる・永遠の命を得ることができる等、主に治療薬の一種として扱われており、この効果に則する確立された製造方法は今もって不明とされている』とある。この漢字の当て字は拓次の独創かと思われる。]