中島敦漢詩全集 附やぶちゃん+T.S.君共評釈 始動 / 中島敦漢詩全集 一
カテゴリ「中島敦漢詩全集 附やぶちゃん+T.S.君共評釈」を始動する。内容は以下の冒頭注を参照されたい。但し、本カテゴリはいつにも増して多忙となったT.S.君の職務の関係上、牛歩の更新となることを、予めお断りしておく。
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中島敦漢詩全集 附やぶちゃん+T.S.君共評釈
[やぶちゃん注:底本は筑摩書房昭和五七(一九八二)根年刊増補版「中島敦全集 第二巻」を用いた。便宜上、底本の漢詩番号をそのまま用いた。
最初に当該白文を示し、その後に私のオリジナルな訓読文を配した後、私の最初の教え子で「芥川龍之介漢詩全集」でも協力して呉れた中国語に堪能なT.S.君の手になる(一部に藪野が補筆)の、これもオリジナルな中国語を踏まえた語釈・現代日本語訳・評釈を附した。今回は訓読以外のパートは基本的に彼が担当し、私との何回にも亙るやり取り(彼は上海在住であるのでメールによって)を経て決定稿を造る、という仕儀をとった。なお、私が中国文学は専門外であるように、彼の専門は文学とは無縁である。従って、典籍に気づかずに薄っぺらに解釈して終わらせていたり(これが二人が最初に最も恐れた/作業に入った現在も恐れている部分である)、どこかに二人して大きな陥穽に陥っていながら、それに気づかず、遠い井戸の口を星と見上げる致命的な誤りをなしている可能性もないではない。それと気づかれた識者の方は、どうか速やかに御助言の程、お願い申し上げるものである。
本テクストの価値は九九・九%、基本、T.S.君の手になる語釈と評釈にこそある――とお考え戴きたい。従って本テクストの訓読及び評釈の転載は粗末な訓読者である私藪野直史と私を通した評釈者T.S.君の許諾なしには、これを認めない。但し、T.S.君の単独の許諾を受けた場合――その際は私の訓読文分の著作権を放棄する――と、本ブログからの引用であることを明記されての引用(引用の多少を問題としない)の場合は、その限りではない。【ブログ始動:二〇一三年三月十一日】]
一
習々東風夜淡晴
星光潤暈不鮮晶
淸明未到天狼沒
穀雨已過角宿瑩
庭上見星幽客意
花陰踏露惜春情
微芳滿地無人識
只有隣家靜瑟聲
〇やぶちゃんの訓読
習々たる東風 夜(よ) 淡く晴るるも
星光 潤暈(じゆんうん)として 鮮晶(せんしやう)たらず
淸明 未だ到らざるに 天狼 没し
穀雨 已に過ぎて 角宿 瑩(えい)たり
庭上 星を見る 幽客の意
花陰 露を踏む 惜春の情
微芳 地に滿つるも 人 識る無し
只だ有り 隣家 靜瑟(せいひつ)の聲
〇T.S.君原案(一部は藪野補筆)の中国語を踏まえた語釈
・「習習」現代中国語でも書面語として使われる擬音語。風が静かに柔らかく吹くさま。「シーシー」で、そよそよ。
・「淡晴」微かに晴れていること。続く詩句の意から判断し、春霞の影響でもあるかと思われる。
・「暈」ぼうっとすること。
・「鮮晶」粒がキラキラ光ること。
・「淸明」二十四節気のひとつ。冬至から百五日目からの三日間に当たる清明節のこと。太陽暦では四月四日から四月六日の頃。
・「天狼」天狼星、即ち、おおいぬ座の一等星シリウス。太陽を除き、全天で最も明るい恒星。古代中国では、鳥を狙っている狼とされたためにこの名がついた。冬の星。
・「穀雨」二十四節気の一つ。通常、太陽暦四月二十日頃。
・「角宿」二十八星宿の一つ。おとめ座にあるスピカと、もう一つの恒星からなる星座。穀雨を過ぎた頃の夜空では、午前零時前に南中する。日本語では「かくしゅく」若しくは「かくしゅう」と訓ずる。
・「瑩」玉のように光る石のこと。透き通ったように光るさまを言う。
・「見星」これは「星を見る」というよりも、「星が見える」というニュアンスが強い語句である。
・「幽客」世に隠れ住む隠士を指すのが通常であるが、ここは本作の作者自身と捉えるのが妥当であろう。
・「花陰」陽射しが届かぬほど群れた花によって覆われた場所を言う。本邦で、四月下旬に人の背丈より高い位置で鬱蒼と咲きほこり、且つ、「花」の一字で表現して読者に理解し得る存在感のある「花」といえば、これは、八重桜若しくは藤の花ではないかと思われる。
・「微芳」微かで繊細な香り。中国の古典詩文では、自らの美徳を謙譲の意を籠めて形容する際に用いられることが多いので、そうした詩背からの詩想の芳香としても読み取るべきか。されば、最終句の「有隣」――「論語」里仁編の「德不孤、必有隣」(德、孤ならず、必ず隣り有り)――の語とも仄かに響き合う。
・「瑟」古代中国の二十五弦琴のことを指すが、ここでは一般の琴の音と受け取ってよいであろう。この琴を弾く隣人もまた、「有隣」の隠士の風貌である。
〇T.S.君による現代日本語訳
東風がそよそよと吹いている。夜は微かに晴れている。
星の光は柔らかく滲み、ぼやけている。
清明節を迎える前には、天狼星は没し去り、
穀雨を過ぎた今は、角宿が玉(ぎょく)のようにきらめく。
庭に夜空の星を見上げるこの私は、
花の下に露を踏み、行く春を惜しむ。
辺りに満ちている微かな芳香を、私以外の誰一人とて知る者もない。
遠くかすかな隣家の琴の音だけが伝わってくる。
〇T.S.君とやぶちゃんの協働取組みによる評釈
七律の鉄則通り、第一句・二句・四句・六句・八句の末尾、すなわち「晴qing2」「晶jing1」「瑩ying2」「情qing2」「聲sheng1」が脚韻を踏む。また、第二聨(第三句と第四句)、第三聨(第五句と第六句)は対になっている。伝統に忠実で、堅固な構造を示す。
しかし、私は戸惑った。中国語で朗誦すると重心となる句が見出せないからである。第三聯にも第四聨にもこれといった高揚は感じられない。幾つか、音の流れに小さな淀みがある他は終始一定のリズムで通され、発音や声調などにも特筆すべき仕掛けは見出せない。実はこれは意味の上でも言えることである。一貫して淡々と事実を述べるだけで、感情の起伏が表面に出てこないのである。
そしてもうひとつの戸惑いがある。それは第三句と第四句の解釈である。第三句には『清明節がまだ来ていない』とあるのに、第四句では『穀雨を既に過ぎ』とする。一時点の形容としては両立し得ない。では「淸明」を別義としてある『清明たる夜明け』とすればいいのか? しかしこれは問題である。第三句と第四句は対になるという鉄則を侵しかねないことに加えて、穀雨後の四月下旬には、角宿のスピカは午前零時前に南中し、天狼は午後九時頃には既に地平に沈んでしまうからである。『夜明けはまだ来ない』と詠むには早すぎる時間なのである。そもそも、最終句に隣家の琴の音の描写があることに着目せねばならない。夜明け前に琴を弾くというのは、如何にも考えにくいことではないか。従って「淸明」は、これ、やはり清明節なのである。
とすれば、第三句と第四句を如何に解釈すればよいか。
最終的な私なりの回答は次のような解釈である。
「清明節を迎える前には天狼星は没し去り、穀雨を過ぎた今は角宿が玉のようにきらめく」
既述の通り、詩中に大きなクライマックスはない。しかし一読して非常に印象的なのは、ロマンティックで崇高な夜空の描写である。
天狼・角宿という名から、なんと神秘的な輝きが発せられることか。
そして星空の描写への圧倒的な力の配分。
第一聯と第二聯が、たっぷり、この目的に供される。
第三聯で、やっとゆっくり人界に降り来たって、最後に少しだけ、惜春の情と琴の音が詠われる。
この詩において描写される人の活動は、春を惜しむ詩人の心と琴の音だけであり、他は全て自然現象である。
人の悩みも喜びも、そして涙も笑みも、ここでは直接に語られることは、ない。
あくまで、描かれるのは、滲んだように輝く一等星――そして底無しの星空……。
そこにこそ想起されるではないか。
この詩人の手になる小説には往々にして――
――天
そして
――星
とりわけ、
――天狼星
の描写が組み込まれていることを。
長いが、敢えて例を挙げよう[やぶちゃん注:底本は昭和五一(一九七六)年刊の筑摩書房版全集により、踊り字「〱」は正字化した]。
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Ⅰ『彼の家の近くに住む一商人は或夜紀昌の家の上空で、雲に乘つた紀昌が珍しくも弓を手にして、古の名人・羿(げい)と養由基の二人を相手に腕比べをしてゐるのを確かに見たと言ひ出した。その時三名人の放つた矢はそれぞれ夜空に靑白い光芒を曳きつつ參宿と天狼星との間に消去つたと』(「名人傳」)
Ⅱ『十日もゐる中に月はなくなつた。空氣の乾いてゐるせゐか、ひどく星が美しい。黑々とした山影とすれすれに、夜毎、狼星が、靑白い光芒を斜めに曳いて輝いてゐた。十數日事なく過ごした後、明日は愈々此處を立退いて、指定された進路を東南へ向つて取らうと決したその晩でのことである。一人の歩哨が見るとも無く此の爛々たる狼星を見上げてゐると、突然、その星の直ぐ下の所に頗る大きな赤黄色い星が現れた。オヤと思つてゐる中に、その見なれぬ巨きな星が赤く太い尾を引いて動いた。と續いて、二つ三つ四つ五つ、同じやうな光がその周圍に現れて、動いた。思はず歩哨が聲を立てようとした時、其等の遠くの灯はフツと一時に消えた。まるで今見たことが夢だつたかの樣に』(「李陵」)
Ⅲ『併し、天は矢張り見てゐたのだといふ考へが李陵をいたく打つた。見てゐないやうでゐて、やつぱり天は見てゐる。彼は肅然として懼れた。今でも己の過去を決して非なりとは思はないけれども、尚こゝに蘇武といふ男があつて、無理ではなかつた筈の己の過去をも恥づかしく思はせることを堂々とやつてのけ、しかも、その跡が今や天下に顯彰されることになつたといふ事實は、なんとしても李陵にはこたへた』(「李陵」)[やぶちゃん注:末尾の「こたへた」には底本では傍点「ヽ」が附されている。]
Ⅳ『彼は地團駄を踏む思ひで、天とは何だと考へる。天は何を見てゐるのだ。其の樣な運命を作り上げるのが天なら、自分は天に反抗しないではゐられない。天は人間と獸との間に區別を設けないと同じく、善と惡との間にも差別を立てないのか。正とか邪とかは畢竟人間の間だけの假の取決(とりきめ)に過ぎないのか?』(「弟子」)
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私は高校の頃、初めてⅠに接した。そのときの陶酔を、今でも忘れることができない。宇宙の無限の闇に消えていく矢の青白い光芒……。
そしてⅡは漢の遠征軍幕営中でのエピソード。歩哨が見た赤黄色い星は、果たして胡兵の篝火であった。夜が明けると戦闘準備を整えた李陵の軍は初めて匈奴の攻撃を受けることになる。そして以降、敵の執拗な追撃が続く。天狼星のすぐ下に敵軍来襲の予兆を見るとは何と出来た話か……。
いや――文学には文学の真実があるはずだ。……
続くⅢとⅣは、いずれも天が人間の運命を左右し得るということを前提にした言葉だ。詩人が人間の運命というものを考えるとき、意識の深いところに、中国思想に言うような「天」があったに違いない。そして思考の背景に底無しの星空が広がっていたに違いない。そして忘れてはならないのが、全天で最も明るい天狼の輝き……。
そうだ、そこから詩想を広げていこう。すると……見えては来ないだろうか。天そのものの生きた気配が……人間の運命まで含めた森羅万象を司る不思議な力が……。
頭上に広がる恐ろしいほど広大で底無しの星空。
静かに着実に、そして正確に季節は巡る。
天狼星が去り、角宿が輝きを増していく。
潤いを帯びた晩春の大気。星々の煌きが天空に滲む。
過ぎ行く春を惜しむ私という存在の、なんとちっぽけなことか。
今まさに卑小な下界の営み全てが消え失せた。ただ辛うじて微かな琴の音のみ。
ああ、天よ!
私は今こうやって唯ひとり、大いなるあなたと対峙し、
あなたが息づく密やかな気配を感じている。
あなたは私に何をさせようとしているのか……。
あなたは私に如何なる運命を用意しているのか……。
あなたは――。
星空……中島敦という詩人の宿命――