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カテゴリー「「明恵上人夢記」」の90件の記事

2021/03/04

明恵上人夢記 93

 

93

一、同七月【十七日。十九日。】、深き心を起して、「六時(ろくじ)の行(ぎやう)」を企(くわだ)つ。又、深く心に十心(じふしん)を起す。同廿日の夢に云はく、淸淨の綿を以て、多宇佐儀(たふさぎ)に懸けたり。又、一人の女房有りて、護身と爲して、予に近づきて語る。「夢に云はく、和尙の邊に糞穢(ふんゑ)の香(か)、有り。只、護身、爲(な)らざるのみに非ず。剩(あまつさ)へ、此の穢れたる相(さう)有り。」。心に慙(は)ぢて、之を思ふ【之を思ふべし。】。

[やぶちゃん注:時制推定は「90」の私の冒頭注を参照されたい。彼を取り巻く「糞穢の香」は私には、「90」夢に出た、彼を「渡りに舟」の人物として陰で利用せんと画策している当時の現実社会の仏教や政治家らの汚物臭と感じる。

「六時の行」六時は六分した一昼夜を指す(その中はまた、「昼三時」と「夜三時」に纏められ、「晨朝(じんじょう)」・「日中」・「日没(にちもつ)」を昼三時と、「初夜」・「中夜」・「後夜(ごや)」を「夜三時」と称する)。則ち、一切の有意なインターミッションを持たない一昼夜連続の過酷な行法を指す。

「十心」恐らくは、「十住心」(じふじゆうしん)の「秘密荘厳住心」、則ち、「真言の秘密の法門を悟る心を観想すること」を意味しているものと思われる。「十住心」は空海が宗教意識の発達過程を十種の心の在り方に分類したもので、㊀「異生羝羊住心」(動物のような低俗な本能に支配される凡夫の心)、㊁「愚童持斎住心」(人倫の道を守る程度の人の心) 、㊂「嬰童無畏住心」(人間界の苦しみを厭離(おんり)して天上の楽を求むるレベルの心) 、㊃唯蘊(うん)無我(住心五蘊(存在を構成する要素(色(しき)・存在一般を構成する作用・機能の様態である「受」(感受)・「想」(表象)・「行」(意志)・「識」(識別))の法は実在するものの、我(が)はないと覚知する声聞(しょうもん)の心) 、㊄抜業因種住心(人間の苦の根本体である原因を完全に除去せんとする縁覚の心) 、㊅他縁大乗住心 (人法の二我を離れて慈悲心によって衆生を救おうとする心) 、㊆覚心不生(ふしょう)住心(心の不生を覚る心) 、㊇一道無為住心(あるがままの真理をそのままに悟る心)、㊈極無自性(ごくむじせい)住心(真如が縁によって現れることを直ちに知る心)の九段階を経なければ、摑むことは出来ないとされる。

「多宇佐儀(たふさぎ)」これは底本のルビである。原題仮名遣は「とうさぎ」。漢字表記は「犢鼻褌」「褌」。直接に肌につけて陰部を覆うもの。「下袴(したばかま)」。古くは「たふさき」と清音であったか。褌(ふんどし)一丁のみの姿である。そこにぶら下げた「綿」とは何か? 判らない。浄化された明恵自身の胞衣か?

 

□やぶちゃん現代語訳

93

 同七月[明恵注:十七日及び十九日の両日。】、思うところあって、心に決意を立てて、「六時の行(ぎょう)」を企(くわだ)てた。また、深く、心中に「十心(じゅうしん)」に至らんことを起請した。

 それを成就し得たと思った、明けた同二十日、こんな夢を見た――

 私は清浄な綿を以って、褌(とうさぎ)に懸けている。

 そこに、一人の女房がいて、私の護身役として在り、私に近づいて、次のように語った。

「私(わたくし)、夢にあなたさまについてのお告げを受けました。それは、『和尚さまの周辺に糞穢(ふんえ)の絶え切れぬほどに臭い気(かざ)が満ちている』と。されば、私は、ただ、あなたさまの護身のため、それのみならず、この忌まわしき穢れている御仁の相(そう)のためにここにおるのです。」

と。

 夢の中にあって、私は、心底、恥じて、その事実を強く感じていた[明恵注:この「恥」をよく考えなくてはならない!]。

明恵上人夢記 92

 

92

一、六月の禪中に、兜率天上(とそつてんじやう)に登る。彌勒の寶前に於いて、金(こがね)の桶を磨きて沈香(ぢんかう)を之に入れ、一人の菩薩、有りて、予を沐(あ)ましむと云々。

[やぶちゃん注:時制推定は「90」の私の冒頭注を参照されたい。ここでやっと翌月に転じている。

「禪中」坐禅中の観想の内に見た覚醒型の夢想である。

「兜率天」仏教の宇宙観にある天上界の一つ。サンスクリット語「トゥシタ」の漢音写。漢訳では「上足」「知足」とする。欲界の六天(四王天・忉利天・夜摩天・兜率天・化楽天(けらくてん)・他化自在天)の中の第四天。ここには七宝でできた宮殿があり、宮殿には内院と外院があって、内院には弥勒菩薩が住んで説法を行なっている。外院には天衆の遊楽の場所がある。ここでの寿命は四千歳で、その一日は人間界の四百年に相当するとされる。また、仏伝では、釈迦は、ここから降下して摩耶夫人の胎内に宿って生誕したとされている。弥勒は釈迦入滅から五十六億七千万年後、この兜率天での修行を終えて如来となり、地上に下って末法世の果ての総ての衆生を済度するとされてもいる。なお、底本の注には、『『比良山古人霊託』には明恵が兜率天に往生したと語られている』とある。「比良山古人霊託」(ひらさんこじんれいたく)は鎌倉前期の延応元(一二三九)年五月十一日に元関白・左大臣九条道家(当時は既に出家している)が病いとなり、慶政(けいせい:一説に道家の兄とする)が加持祈祷のために道家の住む法性寺に赴いた。慶政が法性寺にある間に二十一歳の女房に「比良山の大天狗」の霊が憑依し、自らを藤原鎌足の以前の祖であると称し、五月二十三日から二十八日までの間に慶政と三度の問答をしたが、その問答を慶政が記録したものである。その内容は、天狗が現れた意図・道家の病いの原因と治療法・関係者や著名人の後世(ごぜ)・狗の世界の状況などに及んでいる。

「沈香」狭義にはカンボジア産「沈香木(じんこうぼく)」を指す。東南アジアに植生するアオイ目ジンチョウゲ科ジンコウ属 Aquilaria の、例えば、アクイラリア・アガローチャ Aquilaria agallocha が、風雨や病気・害虫などによって自分の木部を侵された際に、その防御策としてダメージを受けた部分の内側に樹脂を分泌する。その蓄積したものを採取して乾燥させ、木部を削り取ったものを「沈香」と呼ぶ。原木は比重が〇・四と非常に軽いが、樹脂が沈着することによって比重が増し、水に沈むようになることからかく呼ぶ。原木は幹・花・葉ともに無香であるが、熱することで独特の芳香を放ち、同じ木から採取したものであっても、微妙に香りが違うために、僅かな違いを利き分ける香道において「組香」での利用に適している(以上はウィキの「沈香」を参考にした)。]

 

□やぶちゃん現代語訳

92

 六月の禅観中の折り、こんな夢を見た――

 兜率天の天上へと登る。

 ありがたき弥勒菩薩の宝前に於いて、金で出来た桶(おけ)を、まばゆいばかり磨き上げた中に、沈香(じんこう)を入れ、一人の菩薩が来たって、私を、その沈香の香でもって、沐浴させて下さる……

 

2021/03/03

明恵上人夢記 91(二つの夢)

 

91

一、又、一人の若き僧有りて云はく、「先日、寶筐印陀羅尼(ほうきやういんだらに)を書きて賜はるべき由、申しき。書きて賜はるべし。」と云ふ。心に之を思惟(しゆい)す。其の後に、將に法衣を著(つけ)むとす。帶、少しき、しにくきに、此の僧、「借りて著(ちやく)せむ。」と欲するを、快くして、遮(さへぎ)らず。僧、感じて云はく、「御房、廣大なる心、まします也。」。頻りに之を感ず。

 又、夢に、南の尼御前有りて云はく、「佛を造りて給ふべき也。」。予、答へて曰はく、「何にしてか、造るべき。」。堪へざる由を稱す。夢の中に、彼(か)の人、現(うつつ)に存ずる由を思ふと云々。

[やぶちゃん注:時制推定は「90」の私の冒頭注を参照されたいが、そこでも書いたように、ここで明恵の母の姉らしき近親者が出るのも、「89」夢との関係に於いて、非常に重要であると私は思っている。

「一人の若き僧」私は一読して、「これは釈迦の若き日のそれではないか?」と思ったことを注しておく。

「寶筐印陀羅尼」釈迦が路辺の朽ちた塔(ストゥーパ)を礼拝し、「これこそ如来の全身舎利を集めた宝塔である」として、その塔の功徳などを述べた「宝篋印陀羅尼経」に説く陀羅尼。四十句からなる。

「思惟」この場合は、この若い僧僧に、私明恵が、今、宝筐院陀羅尼を書き与えてよいかどうか、ということを深く考えたことを指す。以下は、それを「諾」と明恵が判断し、さてもそれを書くための仕儀を整えていることを示すものと読める。

「借りて著せむ」私は若僧のこの僧が「私の致しておりますところの、この粗末な帯を、お貸し申し上げます」と申し出たものと思う。さればこそ、コーダが腑に落ちるからである。

「南の尼御前」底本の注には、『『明恵上人行状抄』には湯浅宗重女に「次女」とあり、この女性を指すか』とする。明恵の母は紀伊国の有力者であった湯浅宗重の四女であった(父は高倉上皇の武者所に伺候した平重国)。

「堪へざる由を稱す」とは、「南の尼御前」の本心である。とすれば、「南の尼御前」の事蹟を知り得ない我々にとって最も理解し易い真意は、実はこれは明恵自身の本音とは言えないだろうか? 前の「90」夢では、明恵は世間の自身への尊崇が単なる当時の状況下に於ける、如何にもいい加減なものに起因するものであることを語っていた(と私は思う)ことを考えれば、「堪えられない」のは明恵自身の正直な気持ちの外化された憤懣ではなかったか? と私は考えるのである。

「彼の人」記述上は「南の尼御前」を指すように思われるが、それでは、夢の中の明恵がわざわざ覚知することを言う必要がないと考える。少なくとも私自身の永年の夢記述の中にあってはこのような判り切った無駄な言い添えをするはずがないという確証を持っているからである。さすればこそ、第一夢との並置からみて、私はこれも「釈迦」であるように感ずるものである。]

 

□やぶちゃん現代語訳

91

また、こんな夢を見た――

一人の若い僧がいて、彼が言うには、

「先日、『「寶筐印陀羅尼」を書いて私に賜わる』と申された。されば、書いて賜はれたい。」

と。

 私は、静かに、そのことについて、その正否を心に思惟した。

 その後に、私はそれを「諾(だく)」と考え、それを自筆するために法衣を著ようとした。

 すると、私の用意した帯を廻(まわ)したところ、少しばかり、

『し難いな。』

と思った折り、この若い僧は、

「どうか。私の帯を借りて、お廻しなされよ。」

と切に望んだによって、私はそれを、すこぶる快く思い、断らなかった。

 すると、その若い僧は、いたく感じ入って、言ったのだ!

「御房! それ! 広大無辺なる心! ましまする!」

と。

 しきりに、私はそれに、心、撲(う)たれ、感じたのだ!

    *

 また、こんな夢を見た――

 南の尼御前がいて、言うことには、

「仏のお姿をお造り下さるようお願い申し上げます。」

と。

 私は、それに応じて、言った。

「何のために造らねばならぬのか?」

と。

 南の尼御前は、

「堪えられぬから!」

といった旨を語った。

 その時、私は、夢の中で、

「これは。『かの人』が、たまさか、私の夢の中に現われて示現されたのだ!」

ということを、心に深く感じたのであった……

 

明恵上人夢記 90

 

90

一、其の夜、夢に、常圓房【尼。】有りて云はく、「南都には、御事(おほんこと)を、『北京(ほくけい)の諸僧【山(ひえ)・寺(みゐ)等也[やぶちゃん注:それぞれの漢字への当て訓としてのルビである。]。】、尊重し奉る』とて歸敬(ききやう)し奉る。」と云ふ。心に思はく、『南都には、「北京に大事ある」とて大事にし、北京には又、「大事にせる一切の僧の中に尊重を蒙るべき」也。』と云々。

[やぶちゃん注:重大な「89」夢の続きであるのかも知れぬし、そうでない錯簡の可能性も疑われる。しかし、それを夢の内容から推理することは不可能である。しかし、河合氏のようなユング派であるなら、これを「89」夢と連関して解釈するのが普通ではないかと思うのだが、河合氏は何故か、これも、また、次の「91」(二つの夢記述のカップリングで、日附がなく、孰れも唐突に「又」で始まる)も全く採り上げておられない。フロイト派のような超自我の検閲が強力に夢に行われていると、考えるなら、寧ろ、やはり、「89」とも関連をつけた夢解釈が行われるようには思われる。但し、私は「89」夢の後に、「89」夢とは何の関係もない夢を連続して見ることは、最新の脳科学上から考えれば、何も奇異なことではないと感ずる人間である。夢は過剰になった記憶の整理のためにシステマティクに自動的機械的に脳の物理的機能として行われる現象であり、実は夢そのものには全く意味がないとするいう学説をも、私は決して否定しないからである。しかし、この夢、「其の夜」という指示語で始まること以外にも、やはり「89」との関連が私は激しく疑われると思われる箇所があり、河合氏が続けて考察されていないのを、実は不満に思っている。何故なら、登場するのが、明恵の姉妹である「常圓房」だからである。彼女は「65」に登場し、その夢を河合氏が明恵の夢の中でも特異点の夢の一つとして採り上げ、『唯一つ、彼の母と姉妹が出現している珍しい夢であ』り、『これは女性との「結合」を経験し、以後のより深い世界へと突入してゆこうとする明恵にとって、一度はその肉親に会うことが必要だったということであろう』とされ、『明恵の場合は』、『あるいは、慰めの意味で母』や姉妹『に会ったのであろう。母』と姉妹『は既に尼になっていて、仏門に帰依している。明恵は安心して深層への旅を志した』の『であろう』とまで述べておられるからである(リンク先ではソリッドに引用してある)。

「山(ひえ)」天台宗の比叡山延暦寺。

「寺(みゐ)」天台宗の三井寺、則ち、長等山(ながらさん)園城寺(おんじょうじ)。言わずもがなであるが、明恵は華厳宗である。]

 

□やぶちゃん現代語訳

90

 その夜、別に、こんな夢を見た――

 私の姉妹の一人である常円房【既に尼となっている。】がおり、私に言うことには、

「南の奈良にておきましは、あなたさまのことを、『北の京都の諸々の知られた僧徒[明恵注:言うまでもないが、比叡山・三井寺などの僧徒を指す。]は、皆、尊重し申し上げている』と言うて、仏・菩薩の如く、崇敬しておりますよ。」

と。

 しかし、私は心の中で思った。

『南の奈良に於いては、専ら、「北の京都には種々の現実上の直面する重大な問題がある」という観点から、「明恵は、暫く、大切にせねばならない」と考えているからに過ぎず、北の京都に於いては、これまた、「大事にしておかねばならない一切の僧徒の中でも、明恵は取り敢えず、現実上の諸問題を解決するために、特に尊重を蒙っても、まあ、しかるべき存在ではある」と考えているだけのことである。』

と……

 

2021/02/27

明恵上人夢記 89

89

一、同廿日の夜、夢に云はく、十藏房、一つの香爐【茶埦(ちやわん)也。】[やぶちゃん注:これは底本では割注ではなく、本文で、ポイント落ち。]を持てり。心に思はく、『崎山三郞【貞重。】、唐(から)より之を渡して十藏房に奉る』。之を見るに、其の中に隔(へだ)て有りて、種々の唐物(からもの)有り。廿餘種許り、之(これ)在り。兩(ふたつ)の龜、交合(かふがふ)せる形等(など)あり。心に、『此(こ)は、世間之祝物(いはひもの)也』と思ふ。其の中に、五寸許りの唐女(からむすめ)の形、有り。同じく是(これ)、茶埦也。人有りて云はく、「此の女の形、大きに、唐より渡れる事を歎く也。」。卽ち、予、問ひて曰はく、「此の朝(てう)に來(きた)れる事を歎くか、如何(いかん)。」。答へて、うなづく。又、問ふ、「糸惜(いとほし)くすべし。歎くべからず。」。卽ち、頭を振る。其の後(のち)、暫時ありて、取り出(いだ)して見れば、淚を流して、泣く。其の淚、眼に湛(たた)ふ。又、肩を濕(うる)ふ。此(これ)、日本に來れる事を歎く也。卽ち、語(ことば)を出(いだ)して云はく、「曲問(ごくもん)之(の)人にてやおはしますらむに、其の事、無益(むやく)に候。」と云ふ。予、答へて云はく、「何(いか)に。僧と申す許(ばか)りにては然(しか)るべき、思ひ寄らざる事也。此の國には、隨分に、大聖人(だいしやうにん)之(の)思(おぼ)え有りて、諸人、我を崇(あが)むる也。然れば、糸惜くせむ。」と云ふ。女の形、之を聞き、甚だ快心(くわいしん)之(の)氣色ありて、うなづきて、「然れば、御糸惜み有るべし。」と云ふ。予、之を領掌(りやうじやう)す。忽ちに變じて、生身(しやうしん)の女人(によにん)と成る。卽ち、心に思はく、『明日、他所(たしよ)に往きて、佛事、有るべし。結緣(けちえん)の爲(ため)に彼(か)の所に往かむと欲す。彼(か)の所に相具(あひぐ)すべし。』。女人、悅びを爲(な)して、「相朋(あひともな)はむ」と欲す。予、語りて云はく、「彼(かしこ)に公(こう)之(の)有緣之人(うえんのひと)、有り。」【心に、崎山の尼公、彼の所に在り。聽聞の爲に至れる也。三郞之(の)母の故(こと)なり。此の女(むすめ)の形は、三郞、渡れる故に此の說を作(な)す。】。卽ち、具(とも)に此の所に至る。十藏房、有りて云はく、「此の女、蛇と通ぜる也。」。予、此の語(こと)を聞きて、『蛇と婚(ま)ぎ合ふに非ず。只、此の女人、又、蛇身(じやしん)、有る也』。此の思ひを作(な)す間(あひだ)、十藏房、相(あひ)次ぎて云はく、「此の女人は蛇を兼(けん)したる也。」と云々。覺め了んぬ。

  案じて曰はく、此(これ)、善妙也。
  云はく、善妙は、龍人にて、又、
  蛇身、有り。又、茶埦なるは、
  石身(せきしん)也。

[やぶちゃん注:何年かは不詳。「84」夢の私の注の冒頭を参照されたい。河合隼雄氏が「明惠 夢に生きる」(京都松柏社一九八七年刊)で一章を立てて分析し、特に「善妙の夢」と名づけておられる、明恵の意識+無意識内の女性像の一つ頂点を成すものである。注を附す前に、河合氏の分析を引用する。かなり長くなるが、梗概を記したのでは、河合氏の意とするところが枉がってしまう可能性があるので、途中を中略させながら、引く。「第六章 明恵と女性」の「3 善妙」パートである。

   《引用開始》

明恵の夢に現われた善妙は、明恵が編纂した『華厳宗祖師絵伝』(華厳縁起)に登場する女性である。『華厳宗祖師絵伝』は幸いにも、一部の欠損と錯簡はあるが、今日まで高山寺に伝えられている。これによって、われわれは善妙がどのような女性であり、明恵が彼女にどのようなイメージを託していたかをよく伺い知ることができる。この絵巻は、『宋高僧伝』に語られる新羅の華厳宗の祖師、元暁と義湘に関する物語を絵巻としたもので、詞書の原文は明恵によって作られたと推定されている。明恵の善妙に対する思い入れの深かったことは、貞応二年(一二二三)、彼が承久の乱による戦争未亡人たちの救済のために建てた尼寺を、善妙寺と名づけている事実によっても知ることができる。[やぶちゃん注:以下、「善妙の夢」と名づけて、本文が引かれるが、略す。既に述べたが、河合氏はここまでの一連の夢を総て承久二(一二二〇)年と設定している。]

 この夢は、明恵にとっても重要な夢であることが意識されていたのであろう、最後のところに「案じて曰はく、此善妙也。……」と彼自身の解釈を書き記している。それに原文を見ると、この陶器の人形が泣くところ、「其の後、暫時ありて取り出して見れば、……此、日本に来れる事を歎く也」の文は、上欄の余白に書き足してあり、彼がいかにこの夢を大切に考え、少しの書き落としもないように努めたかが了解されるのである。[やぶちゃん注:河合氏は原本(高山寺蔵本十六篇。岩波文庫はこれをのみ底本としている)を確認されている点に注意されたい。]

 この夢では、明恵が十蔵房から唐より渡来の香炉を受けとる。そのなかには仕切りがあっていろいろな唐物がはいっており、亀が交合している形のもある。五寸ばかりの女性の形をした焼き物があり、唐から日本に来たことを嘆いているということなので、明恵が問いただすと、人形がうなずく。そこで明恵は「糸惜(いとほし)くすべし。歎くべからず」と言うが、人形は頭を振って拒否。そんなことは無用のことと言う(ここの曲問之人という表現の意昧は不明)。これに対して明恵は自分は単に僧侶というだけではなく、この国では大聖人として諸人にあがめられているのだと言う。人形はこれを聞いて嬉しく思ったようで、「それならおいとしみ下さい」と答え、明恵が了承すると、たちまち生身の女になった。この突然の変容が、この夢における重要な点と思われる。明恵はそこで明日他所で仏事があるから、そこへこの女性を連れて行こうと考える。実際に行ってみると十蔵房が居て、この女性は蛇と通じたと言う。明恵は、そうではなくてこの女性は蛇身を持ち合わせているのだと思う。そう思っている間に、十蔵房は、この女は蛇を兼ねているのだと言った。

 この夢を見て、明恵のような聖人でも性的な夢を見るのだとか、やっぱり性欲は抑え切れぬものだ、などと思う人もあろう。しかし、性欲はあって当然で、それに対してどのように感じ、どのように生きたかが問題なのである。既に述べたように、性の意味は極めて多様で深い。先に紹介した「性夢」は相当に直接的なものであったが[やぶちゃん注:ここと同じ「第六章 明恵と女性」の「2 女性の夢」の「性夢」パートである。実は河合氏の「明惠 夢に生きる」が「夢記」の底本としているのは私の底本としている岩波文庫を主とするのであるが、一部で京都国立博物館蔵の「夢記」が用いられてあり、これがそれで、岩波文庫には残念乍ら、含まれていない。底本を終わった後に同書からそうした箇所を総て引こうとは考えている。簡略に述べると、建暦元(一二一一)年十二月二十四日の夢で――ある大きな堂で異様に太った貴女と対面し、明恵は心の内でこの女性は香象大師(「12」の私の注を参照)の持つ諸特徴と似ていると思う。そして、ダイレクトに『此人と合宿、交接す。人、皆、菩提の因と成るべき儀と云々。卽ち互ひに相抱き馴れ親しむ。哀憐深し』(本文の漢字は恣意的に正字化した)とある夢を指す。]、それに比してこの夢は、はるかに物語性をもち感情がこめられている。意識と無意識との相譲らぬ対決のなかから、物語は生み出されてくるのである。

 この夢のなかで、明恵が自分のことを「大聖人として諸人にあがめられている」と言うところがある。これだけを見ると、明恵という人が大変に思い上がっているように思えるが、この点については、『伝記』のなかの次のようなエピソードを紹介しておきたい。ある時、建礼門院[やぶちゃん注:建礼門院平徳子(久寿二(一一五五)年~建保元(一二一四)年)は元暦二(一一八五)年三月二十四日の壇ノ浦での平家滅亡から凡そ一ヶ月後の五月一日に出家して直如覚と名乗っているが、本話は事実とすれば、ちょっと私はおかしい気がしている。]が明恵に戒を受けることになった。そのとき、院は寝殿の中央の間の御簾(みす)の内に居て、手だけを御簾から差し出して合掌し、明恵を下段に坐らせて戒を受けようとした。これに討して明恵は、自分は地位の低い者だが、仏門にはいったからには、国王・人臣にも臣下としての礼をとることはできない。授戒・説法のためには僧は常に上座につくべきであると経典にも明記されている。自分は釈尊の教示に背いて、院の気に入るようにはできないので、自分以外の誰か他の僧に受戒されるとよろしいでしょうと言い、そのまま帰ろうとした。建礼門院は非を悟って詑び、明恵を上座に坐らせて戒を受けた。この場合でも、明恵はまったく個人的なことではなく、仏教者としての誇りを明確に示したと言うべきである[やぶちゃん注:私の「栂尾明恵上人伝記 57 明恵、建礼門院徳子に受戒す」(本文は正字)を参照されたい。]。先述の夢に対して、奥田勲も「夢記の中の自負は、それだけみるとそのあまりの誇りの高さは異様だが、このような明恵の思考体系に位置づけを求めれば決して不思議ではない」と述べている。

 この点については、この人形が唐から来たものだということも関連しているように思われる。仏教は中国を経由して日本に渡ってきた。その間に、既に述べたように中国化、日本化の波をかぶってきたのであるが、明恵はひたすら釈尊の教えとしての仏教に心を惹かれ、当時の日本の仏僧たちとは異なる生き方をしていた。明恵は言うならば、仏教の魂が日本に移ってくる間に、生気を失って石化してしまったことを嘆いていたのではなかろうか。この人形が「日本に来た」ことを嘆いているのは、それと関連しているように思われる。明恵が日本における聖人としてあがめられている者だ、などと言うとき、彼は日本における仏教の在り方について責任をもたねばならぬものとして、日本に渡来した「石化した魂」の問題に直面しなくてはならぬという自覚を示しているようにも思われる。女性像を魂の像としても考えるべきことは、ユングの主張しているところである。

 生身のものが石化するとか、石化していたものが生きた姿に還るとかいうテーマは、古来から多くの神話や昔話に生じてきたものである。石化しているものを活性化することは、困難ではあるが大切なことである。われわれはこのテーマを、既に「石眼の夢」において見てきた[やぶちゃん注:これも陽明文庫本「夢記」に載るもので岩波文庫には所収しない。建保二(一二一四)・三年辺りに見たと推定されるも夢。「一つの石を得た。『長さ一寸許り、廣さ七八分、厚さ二三分許り』で、その石の中に『當(まさ)に眼あり。長さ五分許り、廣さ二三分許りなり。其の石、白色なり。而して純白ならず、少(やや)鈍色(にびいろ)なり。此の眼あるに依りて、甚だ大靈驗あり。手を放ちて之を置くに、動躍すること、魚の陸地に在るが如し』とあって、随喜している上師に対し、明恵がこの魚の名を「石眼」と伝える。さてその時、屋根の下に腸(はらわた)などを失った魚がぶら下げられており、片眼が飛び出しているような感じである。ところが、その眼が少し動く(以下、少し錯文が疑われる)。その傍らに獣の革のような物もある。その奇体な魚を明恵は上師に見せたく思う。さて、今度は、そこに一人の女房が来て、ぶらさがった魚を取って行ってしまう。一方、革は小鹿のような生きたものであって、四足を持っているが、その背の部分には多数の穴が穿(宇賀)たれている。女房が言う。『我、ただならぬに、此(かく)の如き物を手をかくる、何ぞあるべきやらん』と。明恵は心の内で『姬子なり』(姫の子)と思う。この獣を可哀そうに思い、労(いた)わる。すると、この獣は軒先から地に降ろされるや、『只、本(もと)の如く釣り懸けられよ』と人語を操る。明恵は心の中で『久しく釣り習はされて、此の如く云ふなり』と思う。その獣は恐ろしく苦痛な様子であり、片手は切れていた。仕方なく、言うに任せてこれをもと通りに釣った」という夢。明恵の解釈が附されてあり、この「上師」は釈迦、「女房」は文殊菩薩、「姫」は覚母殿(これは文殊菩薩の異名とも、「現図胎蔵界曼荼羅」の持明院の中尊で知恵の象徴にして総ての仏陀の母ともされる)とし、『石眼の眼は此の生類の眼に勝(まさ)るべきなり』(本文の漢字は恣意的に正字化した)と記している、難解な夢である。私はシュールレアリスム映画の傑作「アンダルシアの犬」(Un Chien Andalou:ルイス・ブニュエルLuis Buñuel)とサルバドール・ダリ(Salvador Dalí)による一九二八年に製作され、一九二九年に公開されたフランス映画)を見ているような気になった。]。それがここに継承されていることに気づかされる。[やぶちゃん注:以下略。]

   《引用終了》

以下、本夢を解釈するには「華厳宗祖師絵伝」の善妙を知らねばならないとされ、「華厳縁起」のパートを立てておられる。そこから引く。

   《引用開始》

その話の要約を次に示すが、もともとこれは「足暁絵」二巻と「義湘絵」四巻に分けられていたものである。善妙は「義湘絵」に現われるのであるが、この物語はどららも明恵を理解するために大切なので、両者を紹介することにする。

 まず「義湘絵」から述べる。義湘と元暁は二人一緒に唐に行き、仏教を学ぼうとする。たまたま旅の途中で雨に会い、そこにあった洞穴で雨宿りをする。ところが翌日になってみると、ただの穴だと思っていたところは墓場で、骸骨などが散らばっているので、二人はぞっとする。しかし、その日も雨で出発できずにそこに宿ることにした。すると夢に恐ろしい鬼が出てきて、二人を襲おうとする。これは二人が同時に恐ろしい夢を見たことになるわけだが、目覚めた途端、元暁の方は悟るところがあった。前日、何も知らないで安心して寝ていた場所も、墓と知ったときには鬼に襲われた。つまり、一切のことは皆自分の心から生じるので、心のほかに師を尋ねてみても意味がないと悟り、元暁は志をひるがえして、新羅に留まることを決意する。義湘はこれまでの志を変えなかったので、旅が始まってすぐ二人は別れ、義湘一人が唐に渡ることになる。元暁の翻意を知ったとき、義湘はそれに同意をするのでもなく、また反対をするのでもなく、二人は別々にあっさりと異なる道を選ぶところが、なかなか印象的である。

 義湘は船で唐に着き、里へ出て物乞いをはしめる。そのうち善妙という美しい娘と出会うが、容姿端麗な義湘を見て、善妙は一目ぼれをしてしまう。そこで善妙は巧みな声で、「法師、高く欲境を出て、広く法界を利す。清くその功徳を渇仰し奉るに、尚、色欲の執着抑へ難し。法師の貌を見奉るに、我が心、忽ちに動く。願はくは、慈悲を垂れて、我が妄情を遂げしめ給へ」と言う。義湘はこれに対しても「心堅きこと石の如し」で、「我は仏戒を守りて、身命を次にせり。浄法を授けて、衆生を利す。色欲不浄の境界、久しくこれを捨てたり。汝、我が功徳を信して、長く我を恨むること勿れ」と答える。

 これを聞いた善妙はたちまちに道心を発して、義湘の功徳を仰ぎ、義湘が衆生のためにつくすのを「影の如くに添ひ奉りて」助けようと述べる。その後、義湘は長安に行き、至相大師のもとで仏法の奥儀を極め、帰国することになる。義湘の帰国を知った善妙は贈り物を整え港に駈けつけるが、船は出た後であった。彼女は歎き悲しむが、贈り物のはいった箱を、義湘のところに届けと祈って海中に投げ入れる。すると、その箱は奇跡的にも義湘の船に届いたのである。善妙はそれに勇気づけられて、義湘を守ろうとする大願を起こし、波のなかに飛びこんでゆく。このとき善妙は龍に変身し、義湘の乗った船を背中に乗せ、無事に新羅まで到達する。

 この次に続く義湘絵は戦火によって夫われているが、詞書は錯簡によって現存の「元暁絵」の方に入っている。それによって話を続けると、義湘は新羅に帰り、自分の教えを広める場所を求め、一つの山寺を適当なところと考える。しかし、そこには「小乗雑学」の僧が五百人も居るので困ってしまう。そのとき、善妙は「方一里の大盤石」に変身して、寺の上で上がった下がったりしたので、僧たちは恐がって逃げてしまう。そこで、義湘はその寺で華厳宗を興隆することになり、浮石大師と呼ばれるようになった。これが「義湘絵」の物語である。

 次に「元暁絵」の物語を紹介するが、こちらは義湘の物語ほどには話に起伏がないように思われる。最初の部分は「義湘絵」と同じであり、元暁は義湘と別れて新羅に留まることになる。元暁はそこで内外のすべての経典に通じることになるが、一方では「或時は巷間に留まりて歌を歌ひ、琴を弾きて、僧の律儀を忘れたるが如し」という生き方をする。義湘が戒を守る厳しい態度をとり続けたのに対して、元暁は極めて自由奔放な生活態度をとったのである。絵巻には明確に言われていないが、この話の元となった『宋高憎伝』によると、「居士に同じく酒肆・倡家[やぶちゃん注:「しょうか」。]に入り」と述べられているので、酒屋や遊女屋に出入りしていたことがわかるのである。元暁はこのような行為の反面、「経論の疏(そ)を作りて、大会[やぶちゃん注:「だいえ」。]の中にして講讃するに、聴衆皆涙を流す」有様であり、「或時は山水の辺に坐禅す。禽鳥虎狼、自ら屈伏す」というほどの徳の高さがあった。

 ある日、国王が「百坐の仁王会[やぶちゃん注:「にんのうえ」。]」に元暁を招こうとする。しかし、「愚昧の人」が居て、「元暁法師、その行儀狂人の如し」というわけで、何もそんな僧を招く必要がないと申し入れ、国王は元暁を招くのをあきらめる。

 その頃、国王の最愛の后が重病となり、祈禱や医術をつくすが効果がない。そこで救いを求めて勅使を唐に派遣する。ところが勅使の一行は船で海を渡ろうとするとき、海上で不思議な老人に会い、老人の案内で海底の龍宮に導かれる。そこで龍王から一巻の経を授けられ、新羅に帰ってまず大安聖者という人にその経の整理をさせ、元暁に注釈を頼めば、后の病いは直ちに治るであろうと言われる。勅使は帰国して以上のことを国王につげ、国王は早速に大安聖者を召して、経の整理にあたらせる。続いて、元暁に対して、経のために注釈をつくり講義をすることが求められる。元暁は早速その仕事にかかるが、それを嫉む人に注釈を盗まれ、三日の日延べをして貰って完成する。

 元暁は法座に臨んで経を講ずるときに、「一個の微僧無徳に依りて、先の百坐の会に洩れにき。今日に当たりて、独り講匠の床に上る。甚だ恐れ、甚だ戦く」と言ったので、それを聞いた列席の僧たちは皆顔を伏せて、大いに恥じいったという。元暁は無事に講義を終え、后の病いも快癒する。元暁のその経に対する注釈は、金剛三味論と名づけられ、世間に広く流布するところとなった。以上が「元暁絵」の話の大略である。

 これらの物語における義湘と元暁の性格は、極めて対照的である。そして、これまで論じてきたことからも明らかなように、この二人は、明恵の内面に存在する対立的要素を際立てて表現しているように思われる。先学が指摘するように、絵巻に描かれた元暁の顔が、しばしば樹上坐禅像の明恵の顔に似ているのが印象的である。「島への手紙」[やぶちゃん注:私の『尾明恵上人伝記 20 「おしま殿」への恋文』を参照されたい。何も言わずに読まれると面白い。だから何も言わない。]にも自ら記していたように、「物狂おしい」ところがあるのをよく自覚していた明恵は、「その行儀狂人の如し」と言われた元暁の行ないに、強い親近感を抱いたことと思われる。

 「義湘絵」の方には理論的とも言えるような長い説明文がついており、そのなかで、善妙が龍に化して義湘を追ったのは「執着の咎」に値しないか、という問いに答えるところがある。確かに男女の愛欲による執着から、女が蛇や龍に化身して男を追いかける話はよくあるところだ。それと善妙の場合とはどう違うのか、というのである。義湘と善妙の物語を読んでただ感心してしまうのではなく、このような疑問を発し、それに答える形で思索を深めてゆくのが明恵の特徴の一つである。

 ここで明恵は、善妙の最初の義湘に対する気持ちは確かに煩悩のなす業には違いないが、善妙は単に龍になったのみでなく、大盤石と化して仏法を護った。これを見ると、単なる執着などというものではなく、高められた菩提心となっていると主張している。そして、愛には親愛と法愛があり、前者は人間の煩悩にもかかわるものであるが、法愛は清らかなものである、と注目すべき意見を述べている。ところが、『華厳縁起』の詞書には、校注者の小松茂美によれば、二か所の書き損じがあるとされる。それをそのまま次に示す。書き損じの所は、小松による推定を( )内に記す。

[やぶちゃん注:以下の引用は底本では全体が一字下げ。]

「愛に親愛・法愛有り。法愛は一向に潔(きよ)し、親愛は染浄(「汚」か)に近せり。信位の凡夫は、親愛は優れ、法愛は劣なり。三賢十地は、法愛は優れ、親愛は劣なり。或は、十地にはただ法愛のみ有り。若し愛心の事識地を所依(しよい)として、染汗(「汚」か)の行相に起こるをば、乖道の愛と名づく」

 ここに述べられた「三賢十地」の三賢は、華厳における菩薩の五十二位の階位のうち、十住、十行、十回向の階位の総称であり、十地は最高の十階位を指している。つまり、凡夫は親愛が多く法愛が少ないが、菩薩となって階位が高くなるにつれ、法愛のみになるというのである。この文において、極めて興昧深いのは、親愛は染汚と書くべきところを誤って、「浄」とまったく逆の字を書いてしまっていることである(染汗の「汗」は、原文おそらく「汗」〈「汚」と同字〉であって、こちらは問題はないのではなかろうか)。原文を書いた明恵が既に書き損じていたのか、その文を書写した人物が間違ったのか、今では確かめようがないが、ともかく興味深いことである。[やぶちゃん注:私はこの「書き間違い」にフロイトの当該理論も当て嵌めたくなる。ユング派は旧主フロイトをテツテ的に無視する傾向が強い。どうも気に入らないね。]

 愛を親愛と法愛に分けることは、頭では納得できるとしても、そんなことが本当に可能であろうか。法愛のみの世界など存在するのであろうか。親愛は、果たして単純に「染汚」と決めつけられるのであろうか。ここには、簡単には答え難い問題が多く内包されているのである。事実、明恵もこの段に続いて、「彼の十住の菩薩、如来の微妙の色身を愛して、菩提心を発す。これ即ち、親愛の菩提心なり。況や、軽毛退位[やぶちゃん注:風に吹かれて飛ぶ軽い毛のように信心が薄いことと、凡そ正法の菩薩の位階に進むことは出来ない存在であることの意であろう。]の凡夫有徳の人に於て、愛心無きは、即ち法器に非ざる人なり」と明言している。親愛が生してこそ、そこから深い信仰が生まれてくるのである。

 愛の問題には、永遠の謎を含んでいると言ってもいいほどのものがある。明恵が親愛と法愛という言葉でこれを割り切り、親愛に「汚」の字を当てようとしたとき、彼の無意識は、はっきりとそれに抵抗を示した、と見ることができるようである。

   《引用終了》

以下で続く「女性像の結実」では、「華厳縁起」の極めて対照的な元暁と義湘の対応関係を分析されておられるが、それは当該本を読んで戴こう(私は全部引用したいが、著作権に触れそうになるので、敢えて部分引用に留める。そこで河合氏は、『義湘の物語を見ると、義湘と善妙の関係こそ』、『アニマの軸において生じていると思われ』、『善妙の義湘に対する情念は強い拒否に遭うが、それによって彼女の愛は浄化され、宗教的なものへと高められる。海の底を泳ぐような龍から空に浮かぶ石への変身は、その高さへの昇華を示しており、物語はその宗教的な価値に重点をおいて語られる』と述べておられる。

   《引用開始》

 しかし、龍が最後に石化したことは、何を意昧しているだろうか。石化はその永続性を示すものである一方、そこに生じた情念が生命力を失うことを意味する。義湘と善妙が成した偉人な仕事は、アニマ軸上における情念の石化という犠牲の上に立ってなされたと言えないであろうか。石化された善妙は、いつの日か再活性化され救済されることを待って、そこに立ちつくすことになったと思われる。『華厳縁起』は兵火のなかをくぐって奇跡的に現在まで残ったのであるが、善妙の龍が石化する部分のみは、そのとき失われてしまったのである。筆者にはこれは単なる偶然とは思われない。石のなかに閉じこめられていた情念の火が、ある時に突如として燃えあがり、自らを焼きつくしてしまったのだとさえ思われるのである。

 このように考えてくると、明恵の「善妙の夢」が成就した仕事の意義が、はっきりと認められてくる。夢のなかで、明恵は石化していた善妙を活性化することに成功したのである。このような課題の遂行に結びついていたので、明恵も夢のなかで、自分は大聖人として諸人にあがめられているのだ、などと言明する必要を感じたのであろう。よほどの態度でもって臨まないかぎり、陶器に生命力を賦活することは不可能であっただろう。

[やぶちゃん注:以下、元暁・義湘及び明恵の夢に於ける女性像を明恵の内界における女性像として図示して分析が行われるが、図がないと判りにくいので大幅にカットする。]

 石化した善妙に生気を与えた明恵は、言うならば、「九相詩絵」に示されていたようなアニマの死に対して、それを再生せしむる仕事を、日本文化のなかで行なったとも言うことができる。ただ明恵の仕事は、あまりにも他の日本の人々とスケールが異なっていたので、その真の後継者は一人もなかったと言えるだろう。明恵自身も、後継者をつくる意志がなかった。しかし、彼の成し遂げたことは、わが国が西洋の文化と接触し、本当の意味でのそれとの対決がはじまろうとしている現在、意義をもつのではないか、と筆者は考えている。

   《引用終了》

 以下、私の語注に入る。

「十藏房」不詳。「52」に初出し、明恵の夢の登場人物としては、出が多い。また、本夢では明恵にある種の開明を示す立場にあるように私には読めるから、弟子とは思えない。

「崎山三郞【貞重。】」底本注に、『咲山良貞男。のちの記述には崎山の尼公の子とある』とある。「崎山の尼公」は「73」を参照。

「曲問(ごくもん)」河合氏もおっしゃった通り、意味不明である。そのままで訳に用いた。

「糸惜く」「愛おしく」。可愛がって。

「快心」よい気持ち。

「領掌(りやうじやう)す」了承・諒承・領承に同じい。相手の申し出や事情などを納得して承知するの意。

「生身」河合氏は「なまみ」と読んでいるようだが、私は納得出来ない。私は仏・菩薩が、衆生済度のため、父母の体内に宿ってこの世に生まれ出ること。また、その身、仏の化身の意で「しょうしん」(「しょうじん」でもよい)と読む。

「結緣(けちえん)」「仏・菩薩が世の人を救うために手をさしのべて縁を結ぶこと」が原義。他に、「世の人が仏法と縁を結ぶこと。仏法に触れることによって未来の成仏・得道の可能性を得ること」の意があり、ここはハイブリッドでよい。

「彼(かしこ)に公(こう)之(の)有緣之人(うえんのひと)、有り。【心に、崎山の尼公、彼の所に在り。聽聞の爲に至れる也。三郞之(の)母の故なり。此の女(むすめ)の形は、三郞、渡れる故に此の說を作(な)す。】」「公」は割注によって、「崎山の尼公」を指すことは明らかである。「有緣」は仏・菩薩などに逢って、教えを聞くところの縁があることを言う。

「善妙」河合氏の引用で尽きているが、底本の注に、『明恵は貞応』(じょうおう)『二年(一二二三)に善妙寺を建て、この女性を祀ったと』「華厳縁起」にあるとある。この寺は高山寺別院として建立したものであるが、現存しない模様で、善妙大明神として高山寺の南にあるのがそれらしい(グーグル・マップ・データ)。

「石身」石化(ここは陶器)して示現・垂迹(すいじゃく)したもの。]

 

□やぶちゃん現代語訳

89

同じく二十日の夜、こんな夢を見た――

 十蔵房が、一つの「香爐」【実際には茶碗である。】を持って来た。

 心の内で思うたことには、

『崎山三郞[明恵注:咲山貞重のこと。]が、中国から、これを手に入れて、十蔵房に進上したものである。』

と、見た。

 これを閲(けみ)したところ、その中には区分けされた隔てがあって、いろいろな唐物(からもの)が入っている。二十あまりの品物がこの中に納めてある。例えば、二匹の亀が交接している形に象(かたど)った物などがある。

 さてもまた、心の内で、

『これは、中国の世俗の祝い物だな。』

と、思うた。

 その中に、五寸ばかりの「唐娘(からむすめ)」を象(かたど)った人形(ひとがた)があった。

 同じく、これも、茶碗、則ち、陶器製であった。

 そこに、別な人がおり、その人が言うには、

「この娘の人形(にんぎょう)は、ひどく、中国から渡ってきてしまったことを、嘆いておる。」

と断じた。

 そこで、私が、その人に問うて言った。

「この日本に来てしまったことを、嘆いているのか? どうだ?」

と。

 その人は答えて、頷(うなず)く。

 そこで、また、私は、その人形に問うた。

「可愛がってやろうぞ。嘆いては、いけないよ。」

と。

 ところが、即座に人形は、頭を振って、それを拒んだ。

 その後(のち)、暫くしてから、その人形を取り出して見たところが、涙を流して、泣いているのだった。

 その涙は、眼に満々と湛(たた)えられている。

 また、そこから、零(こぼ)れ落ち、彼女の肩をさえ、湿らせているのであった。

 これは、疑いもなく、日本に来てしまったことを嘆いているのであった。

 そして、人形は、即座に言葉を発して、言うた。

「曲問(ごくもん)の人にてあられると、お見受け致しますが、その御配慮は、全く益のないことにて、御座います。」

と答えた。

 私は、それに答えて、

「なんと! ただの僧と申すばかりの凡僧にては、さにあらず! そなたには思いよらざることであろう。が、しかし、この国においては、我れ、これ、随分、大聖人(だいしょうにん)の評判の覚えあって、諸人(もろびと)が我れを崇(あが)めておるのじゃ! さればこそ、可愛がってやろうぞ!」

と、言うた。

 娘の人形は、これを聞くと、甚だ、快心の気色(けしき)を浮かべ、

「こつくり」

と、頷いて、

「されば、可愛がって下さいませ。」

と、言うた。

 私は、それを、心から了承した。

すると――

忽ち――

その陶器の人形は――

変じて――

――生身(しょうしん)の女人(にょにん)となった。

 その瞬間、私は心に思うた。

『明日(あす)、寺から他所(よそ)へ行き、仏事を修することになっている。結縁(けちえん)のために、かの所に往くことになっている。さすれば、この女人を、かの所にあい具して、行こう!』

と。

 女人は、即座に、その私の内心の思いを知り得て、悦びの体(てい)を示し、

「あい伴のうて! 参りましょう!」

と、自(おのずか)ら告げた。

 私は、語って言うた。

「そこには私の知れる尼公(にこう)の有縁(うえん)の人がおるのだ。」[明恵注:夢にあっても、私の覚醒していた意識の中で、『崎山の尼公がそこに居られる。聴聞のために至るのである。尼公は三郎の母のことである。この娘の姿は、三郞が中国から手に入れたことにその怨言がある』と、この解釈をしっかりと意識していたことを言い添えておく。]。

 その通りに、ともに、翌日、その所へと、彼女を連れて至った。

 すると、そこに、十蔵房がいて、私に言うことには、

「この女は、蛇と通じておるぞ!」

と。

 しかし、私はこの言葉を聞いて、

『蛇とまぐわったのでは、ない。ただ、この女人は、また、蛇身をも、一つの垂迹(すいじゃく)の姿として、持っているのである。』

と、思うた。

 この思いを心に抱いた、その直後、十蔵房は、忽ち、次いで、言うたのだった。

「うむ! この女人は、確かに! 蛇身をも、兼ねて持っておるの!」

と……

 この瞬間、覚醒した。

[明恵注:この夢を勘案して解釈するならば、これは、かの「善妙」のことである。そうさ! 謂おう! 「善妙は龍人(りゅうじん)にて、また、蛇身を持つ! また、茶碗=陶器であるというのは、これ、言わずもがな、「石身(せきしん)」であるからに他ならない!」と。]

[やぶちゃん注追記:私も島や絵の中の善妙を愛そうと思う。生身(なまみ)の女は、これ、「こりごり」だ。]

明恵上人夢記 88

 

88

一、同五月上旬の比(ころ)、靈鰻菩薩(りやうまんぼさつ)の飛び騰(のぼ)れる形の事を議(はか)る間(あひだ)、日中、假(かり)に眠る【此の時、此の事を心に懸けず。】。忽然に夢に云はく、一つの淸く澄める池、有り。其の中より鰻(うなぎ)の如き魚の跳り擧がる【長さ一尺餘り也。】。其の形、頭・尾、倶に垂(た)る。其の形、★【此(かく)の如く也。】。是、卽ち、靈鰻之應驗(わうげん)也。

 

88

 

[やぶちゃん注:「★」の部分に入る絵を、底本よりトリミングして上に掲げた。何年かは不詳。「84」夢の私の注の冒頭を参照されたい。「【此の時、此も事を心に懸けず。】」の部分は底本では二行割注ではなく、ポイント落ちで一行で本文に入れ込んである。添え書きという感じでもない。凡例に説明もない。思うに、本文を書いている最中に、明らかに字を小さくして注記してあるもの、ということであろう。

「靈鰻菩薩」石井修道氏の論文「中国の五山十刹制度の基礎的研究㈠」PDF。『駒澤大學佛敎學部論集』第十三号(昭和五七(一九八二)年十月発行)所収)の「九二」ページから載る「〔資料 一〕 大唐禅刹位次」の中に(文中の「鄮」(音「ボウ」)の(へん)は底本では「貿」。前者は異体字なので問題ない。底本では頭の<第五>が本文一字目から書かれ、二行目以降は総て一字下げである)、

   《引用開始》

<第五>阿育王山。鄮山廣利禅寺。明州の慶元府にあり。玉几蜂、玉几亭、妙喜泉<張九成幷び大慧禅師、泉の銘を作す>、無畏堂、鄮峯、舎利道場<又た妙勝之殿と云う>、霊鰻池<又た(霊鰻を)聖井魚と云う>あり。開山は宜密素禅師、第二は初禅師、第三は(常)坦禅師、第四は(澄)逸禅師、第五は大覺(懷)璉禅師、第六は宝鑑(法達)禅師、第七は正覚禅師なり<三十三代は無準和尚なり。入唐記>。

霊鰻菩薩、護鰻菩薩は、育王の土地神にして、仏舎利を護る。云云。育王寺の井に霊鰻有り、即ち大現修理菩薩なり。東晋の時、中印土の宝掌禅師は、東の方、震旦に游び、此に戾止[やぶちゃん注:「れいし」。戻り留まる。]し、世に住すること一千七十二年なり。唐の咸亨中に云りて[やぶちゃん注:ママ。「至りて」の誤字ではないか?]示寂す。云云。蒲室疏序。

   《引用終了》

私は当初、鰻というと、本邦では虚空蔵菩薩と関係が深いと言われているから、その異名かと思ったが、これを見るに、そうではなく、浙江省寧波にある阿育王山(あいくおうざん:浙江省寧波の阿育王禅寺。西晉の武帝の二八一年に西晋の劉薩訶(りゅうさっか)が釈迦入滅の百年(または二百年)後の古代インドで仏教を守護した阿育王(アショーカ王)の舎利塔の古塔を発見して建立した地で、宋代には広利寺と称して禅宗五山の第五となった。私は専ら「北條九代記 宋人陳和卿實朝卿に謁す 付 相模守諌言 竝 唐船を造る」の話を想起する。私の現代語訳もあるでよ!)の土地神であった。さらに、「何故、こんなことを明恵が弟子たちと議論するのか?」という理由も判った。サイト「東北大学東北アジア研究センター磯部研究室」の「~高山寺五種目録室町期文書 一巻~」に『明恵の夢日記には鰻が登場してその図解まであるが、これも宋国より輸入した『明州阿育山如来舎利塔伝并護塔霊鰻菩薩伝』という本を読んでいた印象が、彼の夢の世界に再現したものと見られる。そのような環境を理解して始めて、明恵の傍らに木彫の小犬や鹿などの動物キャラクターがあったことが素直に理解できるのではないか』と述べておられるので氷解した。なお、ウィキの「大権修利菩薩」には、この大権修利菩薩(だいげんしゅりぼさつ)が阿育王山の鎮守であったと書かれてある。但し、「霊鰻」の名は全くなく、両者の関係はどうなってるのかさっぱり解らないのだが、海の守護者であるところなんぞは、鰻っぽい感じはする。一応、引いておく。大権修利菩薩は『禅宗、特に曹洞宗寺院で尊重され祀られる尊格である。伽藍神の』一『つとされる。したがって、大権修利は菩薩という尊号にはなっているものの、護法善神の一尊と見る向きもある』。『大権は「だいごん」とも読み、大権菩薩と略称される。なお、修利を修理と書かれる場合もあるが、本来これは誤りとされる。多くの像容は右手を額にあてて遠くを見る姿勢で表現され、身体には唐時代の帝王の服装をまとっている』。『もと』は『唐の阿育王山の鎮守であった。阿育王山は東海に臨み海を渡る人々が、毎度山を望んで航海の安全を祈ったというが、その右手をもって額にかざすのは遥かにその船を望んでこれを保護する意があった』。「西遊記」の『古い形を残す元曲雑劇である、楊景賢の』「西遊記雑劇」では、『伽藍を守護する役割として知られる華光神と韋駄天と共に、この大権修利菩薩が登場する』。『一説に』、一二七七年に『道元が唐より帰国する際、姿を潜(ひそ)めて随って日本に来朝して法を護ると誓った招宝七郎と一体であると伝えられる。この招宝七郎の名は』「水滸伝」にも出るとある。「育王録」に『「僧問。大権菩薩因甚以手加頞。師云。行船全在樞梢人」とあることから、曹洞宗の寺院が招宝七郎と称して山門守護の神とするものをこれを同体、あるいは本地垂迹と見たてて、招宝七郎大権修理菩薩として祀る。しかし、その出所があまり明らかでない』。『この点について、臨済宗の無著道忠』(むじゃくどうちゅう 江戸後期の妙心寺派の学僧)『は、修利を修理とするのは間違いと指摘した上で「伝説では大権修利はインドの阿育王の郎子であり、阿育王の建てた舎利塔を守るものと言われ、その神力によって中国明州の招宝山に来たりて、手を額にかざし四百州を回望する、また阿育王寺でこれを祀り土地神とした。各寺院がこれに倣ってこの尊神を祀ることになった」と述べている。さらに、招宝七郎とは道元和尚が帰国する際に、白蛇に化けて随伴し来たった護法善神で』(ここにはちょっと不審があるので略した)、『大権修利と同体であると言う者も多いが疑わしい、と疑義を呈している』。『また織田得能』(万延元(一八六〇)年~明治四四(一九一一)年:浄土真宗の学僧。東京浅草松清町の宗恩寺に入り、没するまで、生涯をかけて「仏教大辞典」(全一巻。死後の大正六(一九一七)年刊行された)を完成した。『も、無著の説を引き継ぎ、自身が編集した』『辞典で、大権修利と招宝七郎を一体とすることは、たやすく信じるべきではなく、招宝とは寧波府定海縣にある山の名称である、と記述している』とある。

「此の時、此も事を心に懸けず」どうも気になる意味と書き方である。少なくとも直前まで霊鰻菩薩のことを語り合っていたのに、わざわざ霊鰻菩薩のことを気にかけることもなく、急速に深い眠りに落ちたということか。しかしおかしな言い方だ。明恵は夢解釈をする点から見ても、人間の中に無意識の心理パートがあることは気づいていたと考えねばならぬ。でなくては河合隼雄の言うような予知夢を生じて、それが確かに自分の将来の変化として実現されるという認識は持てないはずだからである。明恵が予知夢を外部の超自然的刺激から惹起すると考えていたならば、そもそもが夢は明恵の意識外に完全に外化されてしまうことになり、明恵自身が夢記述への関心を持たないはずだと私は考えるからである。

「應驗」「おうけん」と清音でも読む。ここは神仏などが示現(じげん)する不思議な働きで、霊験に同じい。]

□やぶちゃん現代語訳

88

 同じ年の五月上旬の頃、霊鰻菩薩(りょうまんぼさつ)の飛び騰(のぼ)れる形態のことについて弟子たちと議論をした。その途中、日中であったが、少しばかり眠って――なお、この仮眠時には、私は全く霊鰻菩薩のことを気にかけていなかったことを明言しておく――忽然と――こんな、夢を見た――

 一つの清く澄んでいる池がある。

 その中から――鰻(うなぎ)のごとき魚が――跳り挙がった【長さは一尺あまりであった。】。その形は、頭も、尾も、ともに垂れている。その形は、★【こんな感じの様態である。】。

 私は、この夢は、即ち、確かな、霊鰻菩薩の応現と断ずるものである。

 

明恵上人夢記 87

 

87

一、同四月五日、槇尾(まきを)に渡る事を議(はか)る。案(つくえ)に倚(よ)り懸かり、晝の休息之(の)次(つい)でに、眠り入る。夢に云はく、道忠僧都有りて、予之(の)後(うしろ)に在り。心に不審有らば、之を問ふべし。卽ち、定量(ぢやうりやう)を爲すべき由を思ひて、問ひて曰はく、「槇尾に住むべきか。」。答へて曰はく、「尓(しか)也。」。卽ち、勸めて云はく、「相構(あひかま)へて槇尾に住ましめ給ふべき也。」。又、問ひて曰はく、「百日(ひやつかにち)之(の)中(うち)に死せむ事は實(まこと)か。」。答へて曰はく、「實(まこと)ならざる也。死ぬべからざる也。」。卽ち、覺(さ)め了(をは)んぬ。

[やぶちゃん注:何年かは不詳。「84」夢の私の注の冒頭を参照されたい。珍しい強力な問答形式の夢である。

「槇尾」既出既注であるが再掲する。現在、京都市右京区にある真言宗大覚寺派槇尾山西明寺(まきのおさんさいみょうじ)。京都市街の北西、周山街道から清滝川を渡った対岸の山腹に位置する。周山街道沿いの高雄山神護寺、栂尾山高山寺とともに三尾(さんび)の名刹として知られる。寺伝によれば、天長年間(八二四年~八三四年)に空海の高弟智泉大徳が神護寺別院として創建したと伝える。その後荒廃したが、建治年間(一一七五年~一一七八年)に和泉国槙尾山寺の我宝自性上人が中興、本堂・経蔵・宝塔・鎮守等が建てられた。後、正応三(一二九〇)年に神護寺から独立した(以上はウィキの「西明寺」に拠る)。明恵がいる高山寺とは、直線で南西に五百メートルほどしか離れていない。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「案(つくえ)」文机(ふづくえ)。

「道忠僧都」底本注に、『明恵の弟子の一人か。円明寺大納言平時忠男の道忠と同一人物か』とあるが、検索しても平時忠にその名の男子は見当たらない。不審。

「定量」不詳。小学館「日本国語大辞典」にも載らない。真の自分の確かな思いを慮ることか。]

 

□やぶちゃん現代語訳

87

同じ四月五日、槇尾(まきお)に移ることを弟子たちに諮(はか)った。文案(ふづくえ)に倚(よ)り懸かかって、昼の休息の次(つい)でに、ふと、眠りに入った。

 その時、こんな夢を見た――

 道忠僧都がいて、私の後ろに座っている。

 私の心に不審があるならば、この者にを問うてやろう、と思うた。

 されば、即座に、定量(じょうりょう)を確かめるべき必要を感じたによって、道忠に問うて言うに、

「槇尾に住(じゅう)すべきか?」

と。

 道忠が答えて言うことには、

「それが、よろしいです。」

 即座に重ねて、勧めて言うことには、

「相い構えへて。確かに槇尾にお住み遊ばされるべきで御座る。」

と。

 さて、また、私は問うて言うことには、

「百日(ひゃっかにち)のうちに、私が死ぬであろうことはまことか?」

と。

 道忠、答えて曰うことには、

「まことでは御座らぬ! 死ぬはずが御座らぬ!」

と。

――その瞬間、私は覚醒した。

 

明恵上人夢記 86

 

86

一、同四月一二日の比(ころ)【日付、能くも覺えず。】、夜、夢に云はく、余、中宮御產の安穩(あんをん)を祈り奉る。太平にして產み生ましめ給ひ了んぬ。諸人、之に感じて、大僧正の御房と之を祈り奉る【疑ひ思ひて、此の比(ころ)、死生(ししやう)の事を聞く所之間の夢也。本尊を祈請せし夜也。】。

[やぶちゃん注:何年かは不詳。「84」夢の私の注の冒頭を参照されたい。なお、この明恵の割注の内、少なくとも後者は、かなり後になって書き添えたもののように読める。

「中宮」底本の岩波書店一九八一年刊久保田淳・山口明徳校注「明恵上人集」の注に、『順徳天皇の中宮藤原立子』(りっし/たつこ)『(良経女)か。立子は建保六年(一二一八)年十月十日懐成親王(仲恭天皇)を出産している』とある。「良経」摂政で太政大臣九条良経。但し、この時には既に亡くなっている。

「大僧正の御房」同前で、『慈円か。彼は中宮立子の御産の祈禱をしており、夢告を得ている』とある。慈円(久寿二(一一五五)年~嘉禄元(一二二五)年)は天台僧。諡号は慈鎭。関白藤原忠通の子で、関白・太政大臣九条兼実の弟。永万元 (一一六五) 年、覚快法親王の室に入って道快と称し、翌々年に出家得度した。治承四(一一八〇)年頃、慈円と改名。兼実の尽力により、順調な昇進をとげ、建久三(一一九二)年に権僧正・天台座主・護持僧となった。同七年に源通親のために、一旦、座主の地位を追われたが,建仁元 (一二〇一) 年には、再び、座主となって以来、実に四度も座主を務めた。同三年に大僧正となり、まもなく辞退した。その著「愚管抄」は日本最初の歴史哲学書として有名で、また、歌人としても聞え、「新古今和歌集」・「千載和歌集」以後、歴代の勅撰集に入り、家集に「拾玉集」がある。

「死生(ししやう)の事を聞く」これは実際の事実を記していると読める。とすれば、この慈円らしき「僧正の御房」に聴聞したものと流れでは読める。訳でもそうした。]

 

□やぶちゃん現代語訳

86

同じ四月十二日の頃[明恵注:日付はあまりよく覚えていない。]、夜、こんな夢を見た――

 私は、中宮のお産の安穏(あんのん)を祈禱し申し上げている。

 全く健やかに、産み生ましめ遊ばれて、ことなく、終わった。

 諸人は、これに感激して、大僧正の御房とともに、この祈禱成就を仏に感謝の祈りを申し上げた。[明恵注:不審を感じたので想起してみると、この頃、私は死生(ししょう)のことについて、大僧正の御房に親しく聴聞申し上げた間に見た夢である。本尊に祈請し申し上げた夜のことである。]

明恵上人夢記 85

 

85

一、同二月十四日の夜、夢に云はく、一つの池を構(かま)ふ。僅かに、二、三段許りにして、水、少なくして乏(とぼ)し。雨、忽ちに降りて、水、溢(あふ)る。其の水は淸く澄めり。其の傍(かたはら)に、又、大きなる池、有り。古き河の如し。此の小さき池に、水、滿つる時、大きなる池を隔(へだ)つる事、一尺許りなり。『今少し、雨下(ふ)らば、大きなる池と通(かよ)ふべし。通ひ已(をは)りて、魚・龜等、皆、小さき池に通ふべし。』と思ふ。卽ち、心に『二月十五日也。』と思ふ。『今夜の月、此の池に浮かびて、定めて、面白かるべし。』と思ふ。

  案じて云はく、小さき池は此(これ)、禪觀也。
  大きなる池は諸佛菩薩所證の根本三昧也。魚等
  は諸(もろもろ)の聖者(しやうじや)也。
  一々に深き義なり。之を思ふに、水少なきは
  修(しゆ)せざる時也。溢るゝは修する時也。
  今少し、信ぜば、諸佛菩薩、通ふべき也。當時、
  小さき池に魚無きは初心也と云々。

[やぶちゃん注:何年かは不詳。「84」夢の私の注の冒頭を参照されたい。後半部は明恵自身による卓抜した夢解釈である。

「二月十五日」釈迦の入滅、即ち、釈迦が如来と成った日。この夢が二月十四日の夢であることに注意。

「二、三段許り」地面から少しばかり掘られた浅い池であることを言う。

「禪觀」「坐禪觀法」の略。心を一つの対象にのみ集中し、正しい智慧により、真理を洞察すること。

「所證」修行によって得られた悟りの内容。

「根本三昧」(こんぽんざんまい)仏教の真理のみを心に集中して、一切、動揺しない状態。雑念を完全に去って、それに没入することによって、正しく捉えること。]

 

□やぶちゃん現代語訳

85

 同じ二月十四日の夜、こんな夢を見た――

 一つの池がそこに造られてある。

 僅かに、二、三段ばかりの浅い池で、水も少なくて、如何にも乏(とぼ)しい。

 ところが、雨が俄かに降りきたって、水が溢(あふ)れた。

 その水は、とても清くして澄んでいた。

 ふと、見ると、その傍らに、また、大きな池が出現していた。

 あたかも、それは古くからあった河のようにも見えた。

 先の、その小さな池に、雨で水が滿ちた、その時、大きなその池とは、隔てること、僅かに一尺ばかりなのであった。

 夢の中の私は、思うた。

『今、少し、雨が降ったならば、この小さな池は、あの大きな池と通うに違いない。通い終ったならば、魚(さかな)や亀など、皆、小さい池の方にも通うに違いない。』

と。

 その時、夢の中の私は、即座に、心に、

『それは明日――二月十五日――のことである。』

と思うた。

『今宵の月が、この小さな池に浮かんで、それはそれは、必ず、興趣に富んだ景観に違いない。』

と思うた。

[明恵注:この夢を解釈するに、「小さな池」は、これ、「禅観」を象徴するものである。「大きな池」は、諸(もろもろ)の仏・菩薩を所証するところの「根本三昧」を象徴するものである。「魚」や「亀」などは、仏教草創以来の諸の聖人たちを象徴するものである。夢の中の対象物の一つ一つが深い意義を表わしているのである。これを思うに、「水が少ない」という様態は修行が不全なる時を意味する。「水が溢れる」という様態は修行が完遂される時を意味する。今、少し、正法(しょうぼう)を信ずれば、諸の仏・菩薩が、通ってくるはずであるという意味である。されば、今、現在、「小さき池に魚がいない」という様態は、取りも直さず、私が未だ初心にして不全であることを意味するのである……]

明恵上人夢記 84

84

一、同二月の夜、夢に云はく、船に乘りて大きなる海を渡る。海の上に、浮かべる物、有り。徑(わたり)五寸許りの圓(まどか)なる物也。形は金色にして、將に之を取らむとする間(ま)、飛びて手に入る。其の下に、七、八枚を重ねて、物を書けり。之を取りて懷(ふところ)に入ると云々。

[やぶちゃん注:順列ではおかしい。前の「83」夢は承久二年十二月八日(同年旧暦十二月は既に六日でユリウス暦一二二一年一月一日、グレゴリオ暦換算で一月八日)だからである。この「同」を同じ「承久」ととるなら、承久三年か、或いは記載が前後して「83」の前の承久二年の二月なのかも知れない。河合隼雄氏は「明惠 夢に生きる」(京都松柏社一九八七年刊)では承久二年と推定されておられるが、失礼乍ら、これは河合氏の総合的な予知夢としての夢解釈の順列上での認識に基づくものであって、必ずしも物理的な資料上書誌学上の推定とは思われない感じはする。そこで河合氏は『内界への旅は夢のなかで舟の旅に擬せられることがよくある。明恵は舟に乗って海へ出て、図らずも金色の円形の物を入手する。この物が何を意味するかは不明であるが、これ以後の続く内界の旅によって、彼が極めて貴重なものを手に入れるだろうことを、この夢は予示している。そして、五月には「善妙の夢」が出現する』とされる。「善妙の夢」はこの後の「89」で特異的に記載が長く、興味深い夢である。

「五寸」約十五センチメートル。]

 

□やぶちゃん現代語訳

84

 同じ二月の夜、こんな夢を見た――

 船に乗って、大きな海を渡っている。

 その海の上に、浮かんでいる物がある。

 直径は五寸ほどの丸い感じの物である。

 全体に、金色を呈しており、さても、まさにこれを私がとろうとした瞬間、その物の方が、自然に飛んで、私の手中に入った。

 よく見ると、その下に、七、八枚の紙を重ねて、何か物が書かれてある。

 私は、その書をとって、懐(ふところ)に入れる……

 

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