106
一、同初夜坐禪の時、滅罪の事を祈願し、戒躰(かいたい)を得たり。
「若(も)し好相(かうざう)現(げん)ぜば、諸人(しよにん)に戒を授けむ。」
と祈願す。
其の禪中、前(さき)の六月の如く、身心、凝然たり。
空より、瑠璃(るり)の棹(さを)、筒(つつ)の如くにて、
『其の中(なか)、虛しき也。』
と思ふ。
其の末(すゑ)を取りて、人、有りて、予を引き擧(あ)ぐ。
予、
『之に取り付きて、兜率(とそつ)に到る。』
と覺ゆ。
其の筒の上に、寶珠、有り。
淨(きよ)き水、流れ出でて、予、之(この)遍身に灑(そそ)く。
其の後(のち)に、心に、
『予、之(この)實躰(じつたい)を見む。』
と欲す。
其の面(おもて)、忽ちに、明鏡(めいきやう)の如し。漸々(ぜんぜん)に、遍身、明鏡の如し。卽ち、圓滿なること、水精(すいしやう)の珠(たま)の如し。
動き、轉じて、他所(たしよ)に到る。
又、音の告げ有るを待つに、卽ち、聲、有りて云はく、
「諸佛、悉く、中(うち)に入(い)る。汝、今、淸淨を得たり。其の後、變じて大きなる身と成り、一間許(ばか)りの上に、七寶(しつぱう)の瓔珞(やうらく)、有りて、莊嚴(しやうごん)す。」
と云々。
卽ち、觀(くわん)より、出で了(をは)んぬ。
又、其の前に眞智惠門(しんちゑもん)より出でて、五十二位を遍歷す。
卽ち、信位之(の)發心(ほつしん)は文殊也。佛智は十重(とへ)を分(わか)ち、此の空智を現ず。
此の十住の中(うち)に一切の理事を攝(せふ)して、諸法(しよほふ)、盡きぬ。
卽ち、文(もん)に云はく、
『十方(じつはう)、如來の初發心(しよほつしん)は、皆、是、文殊の敎化(きやうげ)の力(ちから)なり、といふは、是也。文殊の大智門より、十住の佛果を生ずるが故(ゆゑ)也。眞智に於いて、住果(ぢゆうくわ)を生ずといふは、佛果の文殊より生ずる也。信位に於いて、初住の一分(いちぶ)を生(しやう)ずといふは、文殊、佛果の弟子と爲(な)る也。卽ち、因果の相卽(さうそく)する也。此の下(しも)十行は、之(これ)、普賢の大行(だいぎやう)の具足する也。十𢌞向(じふゑかう)は理智の和合也。此より、十地を生じ、理智を作(な)すこと無く、又、冥合(めいがふ)を證得する也。佛果は此(これ)、能生(のうしやう)也。定(ぢやう)の中に於いて、忽ちに、此の義を得るは、卽ち、因果、時を同じくする也。之を思ふべし。紙筆に記し難し。』
と云々。
同十八日に、之を記(しる)す。其の夜、同十日に、彼(か)の事あり。
[やぶちゃん注:これは、順列からも、承久二(一二二〇)年八月七日の夢と確定されている。明恵は若き日より、文珠菩薩に従って自己の信仰を揺るぎないものとする信念を持っていた。それは、彼が、建久六(一一九五)年に、東大寺への出仕を辞し、神護寺を出て、俗縁を絶って、紀伊国有田郡白上(しらかみ:現在の和歌山県有田郡湯浅町(ゆあさちょう)白上:グーグル・マップ・データ)に遁世し、凡そ三年に亙って白上山(しらかみやま)で修行を重ねた際、翌建久七年、二十四歳の時、『人間を辞して少しでも如来の跡を踏まんと思い、右耳の外耳を剃刀で自ら切り落とした』(当該ウィキより引用)直後に、文殊菩薩の示現に与(あず)かったことからの、長い個人的な確信的信仰であった。河合隼雄「明惠 夢に生きる」(京都松柏社一九八七年刊)でも、この夢を、河合氏が『心身凝然の夢』と名づけて、一章を設けておられる(278~284ページ)。それによれば、『この夢は『冥感伝』にも詳しく述べられている。『夢記』には書かれていない部分もあり、極めて大切な夢であるから、重複もするが『冥感伝』の記載を次に示すことにする』とあって、同書の同夢の引用がある。私は「冥感伝」(正しくは「華嚴佛光三昧冥感傳」で明恵が承久三年十一月九日に完成させた「華厳仏光三昧観秘宝蔵」の一部であることが判っている)所持せず、原本は漢文なので(「京都大学貴重資料デジタルアーカイブ」のここから視認出来る。但し、写本)、以下、河合氏の訓読された、それを恣意的に正字化して示すことする。読みは、河合氏の附されたもののほかに、私が推定で歴史的仮名遣で付加してある。
*
同八月七日に至り、初夜の禪中に、身心凝然として、在るが如く、亡(な)きが如し。虛空中に三人の菩薩有り。是れ、普賢、文珠、觀音なり。手に瑠璃の杖を執(と)りたまふ。予、が右の手を以て堅く杖の端を執る。菩薩、杖の本(もと)を執り、予、杖の右を執る。三菩薩、杖を引き擧げたまふ。予、杖に懸(かか)りて速(すみや)かに兜率天に到り、彌勒の樓閣の地トに着(ちやく)す。其の間、身(しん)淸涼として心(こころ)適悅(てきえつ)す。譬(たと)へ取らんに、物なし。忽ち瑠璃の杖の、寶地(はうち)の上に立つを見る。其の杖の頭に寶珠あり。寶珠より寶水流れ出で、予の遍身を沐浴(もくよく)す。爾(そ)の時に當たりて、予の面(おもて)、忽ち明鏡の如く、漸々(ぜんぜん)に遍身明鏡の如し。漸々に遍身の圓滿なること水精(すいしやう)の珠の如く、輪(わ)の如く運動す。其の勢(いきほひ)、七八間許りの舍宅の如し。禪中に心想有るが如く、奇異の想ひを作(な)す。時に、忽ち空中に聲有るを聞く。曰はく、「諸佛、悉く中に入る。汝今、淸淨を得たり」と。其の後、本(もと)の身に復(かへ)るに、卽ち七寶の瓔珞有りて虛空中(ちゆう)に垂(た)れ莊(かざ)る。予、其の下に在りて、此の相(さう)などを得ると與(とも)に、定(ぢやう)を出で畢(をは)んぬ。
*
河合氏は、この後に以下のように解説されておられる。
《引用開始》
これらを見ると、『夢記』には「前の六月の如く、身心凝然たり」とあって、六月の「兜率天に登る夢」[やぶちゃん注:私の「92」がそれ。]のときも、同様の状態になったことが解るが、この「身心凝然」とはどのような状態を言うのだろうか。これについては『冥感伝』の「身心凝然として、在るが如く、亡きが如し」という表現が理解を助けてくれる。おそらく身も心もひとつになり、しかも、それは極めて軽やかな、あるいは、透明な存在となったのであろう。明恵の場合は、修行を通じて、その身体存在が心と共に変化するところが特徴的である。身体は、彼にとって幼少のときから常に問題であった。空から降りてきた瑠璃の棹によって、明恵は兜率天へと上昇するが、そのとき棹をもって明恵を引きあげてくれたのが、普賢、文殊、観音の三菩薩であることを、『冥感伝』の記述が明らかにしてくれる。兜率天に到達するときの感じが、そこには「身清涼として心適悦す」と表現されている。
杖の上に宝珠があり、そこから流れでる宝水によって明恵の全身が洗われるのは、前の「兜率天に登る夢」と同様である。このときに明恵の体には大きい変容が生じ、まずその顔が鏡のようになり、続いて体全体が水精の珠のようになる。まさに「透体」というべき状態である。そのときに声がして、「諸仏、悉く中に入る。汝今、清浄を得たり」と言う。この「諸仏、悉く中に入る」というところが、[やぶちゃん注:中略。]まさに華厳の世界の体現という感じを与える。
これに対する明恵のコメントは、前の「天よりの棹の夢」[やぶちゃん注:私の「97」がそれ。]のときに述べたことを、もっと詳しく論じている。つまり、十信の位の達成は、文殊の智によってする五十二位の遍歴に通じ、成仏に到っているという彼の考えを開陳している。このコメントの結びとして、「定の中に於いて忽ちに此の義を得るは、即ち、因果、時を同じくする也」と述べているところも、いかにも華厳らしい考えである。[やぶちゃん注:中略。]
このような夢に接すると、明恵という人にあっては、その宗教における教義の理解、修行の在り方、またそれによって生じてくる夢想などのイメージが一体となり、統一的に把握され、それに今までに示してきたような彼の生活の在り方も関連してきて、「行住坐臥」のすべてが、深い宗教性と結びついていたことが解る。
《引用終了》
「初夜」六時の一つ。戌の刻(午後八時頃)。宵の口で、その時刻に行う勤行をも指す。
「戒躰」「戒」の「実体」の意。戒を受けることによって得られる、悪を防ぎ止め、善を行なう、ある種の法力。
「好相」「相好(さうがう(そうごう))」に同じ。仏の身体に備わっている三十二の相と八十種の特徴の総称。
「身心、凝然たり」一種のトランス状態であろう。
「水精」水晶。
「一間」約一・八二メートル。
「五十二位」菩薩が仏果に至るまでの修行の段階を五十二に分けたもの。「十信」・「十住」・「十行」・「十回向」・「十地」、及び、「等覚」・「妙覚」をいう。「十信」から「十回向」までは「凡夫」で、十地の初地以上から「聖者」の位に入り、「等覚」で仏と等しい境地となる。
「信位之發心」「三種発心」、「信成就発心」・「解行(げぎょう)発心」・「証発心」の初回である「信成就発心」。業(ごう)の果報、或いは、大悲を信じることによる発心であり、また、護法の因縁による発心を指す。参照した「WEB版新纂浄土宗大辞典」の「三種発心」によれば、『また』、元暁の「起信論疏」に『よれば、信成就発心は』、『信心が成就して決定心が起こること、解行発心は六波羅蜜の修行が熟して回向心が起こること、証発心は法身を証得して真心が起こることである。これら三種の発心は、菩薩の階位と対応して理解され』、『信成就発心が十信・十住、解行発心が十行・十回向、証発心が初地以上とされる。良忠は』「東宗要」の一に『おいて、義寂の説を用いて』、『法蔵の発心を』、『この三種に分類するが、これは』「悲華経」と「無量寿経」との『二経典に説かれる説を合わせた上で、前者を初住の発心、後者を地上の発心と理解したものである』とある。
「文(もん)に云はく」以下は「華厳経」の引用かと思われる。
「同十八日に、之を記(しる)す。其の夜、同十日に、彼(か)の事あり。」意味深長な附記である。河合氏は同前の章でこれについて、以下のように述べておられる。
《引用開始》
ここで少し楽屋話めくことを一つ。『夢記』を通読しているうちに、この「身心凝然の夢」のすぐ後に続いて、
「同十八日に之を記す。其の夜、同十日に彼の事あり」
という記録があり、これが心に残った。そして続いて読みすすむうちに、前章で取りあげた「毘廬舎耶の妃の夢」に至り、ここで明恵が「彼の事」と書いたのは、女性との関係において、記録しておくべきだが明らさまには書かぬ方がいいと判断されることがあったのではないかと考えた。「毘廬舎那の妃の夢」については既にコメントしたが、このように考えるとすると、これらは承久三年のことである方が、承久の乱後の明恵が女性と接触をもつ機会が多かっただけに、蓋然性が高いのである。ところが、当時は『夢記』に関する一番信頼し得る資料は『明恵上人資料第二』であり、そこでは奥田勲がこれらはすべて承久二年のこととしていた。
ところで、『夢記』の影印本文を見ると、前記の「彼の事あり」の記録は、極めて小さい字で、おそらく余白に後で書き込んだのではないかと思われ、筆者の推察を強化するような感しを与えた。ここで女性に関することというのは、既に前章に論じたとおり、明恵にとっては極めて深い意味をもつことであり、戒を破りかけたときに「不思議な」ことが生じたことを、彼は大切に考えているので、そのような体験についての心覚えを、ここに留めておこうとしたのではないかと推察したのである。
このような点と、承久二年の夢があまりに多いこともあって、おそらく承久三年の夢が錯簡によってはいりこんでいるのではないかと考えていた。そのときに『冥感伝』のなかに、既に述べたような「承久三年」という日付を見出したので、これで疑問が晴れたと思ったが、そうなると「身心凝然の夢」や「善妙の夢」などまでが承久三年のものとなる可能性が生じてくる。筆者の考えとしては承久二年に、このような深い宗教的体験を成就したからこそ、明恵は承久の乱のなかで冷静に対外的に対処できたのだ、としていたので、これらの夢も承久三年となると、そのへんの理解が困難となってくるのである。そのようなとき、奥田勲の新しい研究に触れ、まさに「同十八日に之を記す。其の夜、同十日に彼の事あり」の行より承久三年のことと判定されていることを知り、理解の筋が通ったようで嬉しく思った次第である。もちろん、この「彼の事」について、あるいは「毘廬舎那の妃の夢」について、女性との実際的な関係を考えるのは、筆者の当て推量に過ぎないのではあるが。
《引用終了》
私は河合氏の説を全面的に支持するものである。]
□やぶちゃん現代語訳
同じ初夜の座禅の際、滅罪の事を祈願し、戒体を得た。そこで私は、
「もし好相(こうぞう)が現(げん)じたならば、諸人(しょにん)に戒を授けんとする。」
と祈願した。
その禅の最中、先の六月の如く、身心が、凝然となった。
夢が始まった……
空より、瑠璃(るり)の棹が、筒の如くにして下ってくるのを直感した。
『其の筒の中は、誰もいない。』
と、やはり、直感した。
虚空に、人があって、その筒の端(はし)の部分を取って、私を、
「すうっ」
と引き挙(あ)げた。
私は、
『これに取りついて、私は、兜率天に到るのだ。』
と直感した。
そのの筒の上には、宝珠がある。
清浄な水が流れ出でており、その浄水が、私の遍身に灑(そそ)がれた。
その後(のち)に、心に、
『私は、この実体を見たい。』
と欲した。
その筒の表面は、瞬時に明鏡のようになった。
すると、徐々に、私の遍身もまた、明鏡のようになる。
筒も、私も、まさに円満なること、水晶の珠(たま)のようになる。
筒と私は、ともに動き、転じて、別な所に到った。
又、声の告げがあるのを待っていると、即座に、声があって曰わく、
「諸仏、悉く、中(うち)に入(い)った。汝は、今、清浄を得たのだ。その後(のち)、変じて、大なる身体となって、一間ばかりの上に、七宝(しっぽう)の瓔珞(ようらく)があって、汝の存在を荘厳(しょうごん)する。」
と……。
その瞬間、観(かん)から脱して、夢は終わった。
因みに、言い添えると、その前に、真智恵門(しんちrもん)から出(い)でて、五十二位を遍歴していた。
則ち、「信位の発心」は文殊である。
仏智は十の階梯を分かって、この「空智」を現じたのであった。
この十住の内に、一切の理(ことわ)りを、悉く、摂取して、諸法も、これ、悉く、完遂していたのである。
則ち、経文(きょうもん)に曰わく、
『「十方(じっぽう)の如来の初発心は、皆、これ、文殊の教化(きょうげ)の力(ちから)である。」と言うのは、これを指すのである。文殊の「大智門」より、十住の仏果を生ずるが故である。「真智に於いて、住果(じゅうか)を生ず。」と言うのは、仏果の文殊より生ずるものなのである。「信位に於いて、初住の一分(いちぶ)を生ずる。」と言うは、文殊の、仏果の弟子となることなのである。即ち、因果の相即(そうそく)することを指すのである。この下(しも)十行は、これ、普賢の大行(だいぎょう)の具足することを指すのである。「十回向」は「理智の和合」を意味する。これにより、十地を生じて、理智をなすこと、なく、また、冥合(めいごう)を証得するということなのである。仏果はこれ、能生(のうしょう)である。定(じょう)の中に於いて、忽ちにして、この義を得ることは、即ち、因果が、時を同じくすることに等しい。これをしっかりと思うがよい。紙筆には記し難きものなのである。』
と……。
因みに、訳(わけ)あって、以上は、夢を見た日から十五日経った、八月十八日に、これを記(しる)した。
ああ、そうだ。その夜――則ち、夢を見た日から丁度、四日後の八月十日の夜のこと、まさに――「あの事」――が、あったのだった。