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カテゴリー「「明恵上人夢記」」の98件の記事

2023/02/11

明恵上人夢記 101

 

101

一、式を撰ずる間、夢に、此の本堂の後(うしろ)の戶に、二、三人の僧、有り。黑き色の鶉衣(ずんえ)なり。心に『聖僧(ひじりそう)なり。』と思ふ。卽ち、問答し奉りて曰はく、「住處(すみか)を白(まう)すベし。」。問ひて云はく、「住處は如何(いかん)。」。答へて曰はく【木丁(きちやう)へ、斯(か)く論ず。】、心に、『天竺は此(かく)の如き處に、之(これ)、在り。』と思ふ。尙、强ひて名字を問ひ奉る。頻りに、之(これ)を祕し給ふ。切々(せつせつ)に問ひ奉る。外(そと)の戶に、諸人(しよにん)、有る心地す。予、之に近づき、卽ち、憚り付き奉る。予之(の)左の耳に當りて、答へて曰はく、「賓頭盧(びんづる)也。」。予、深く哀傷し、「不審を問ひ奉るべきに、此(これ)にて足るべく候。無禮に候へば。」と申して覺め了(をは)んぬ。『餘の、二、三人も、十六羅漢の隨一也(なり)。』と思ふ。

[やぶちゃん注:クレジットはないが、日付のある「100」を承久二年七月三十日未明と私は指定した。この二つ後に「同八月四日」と頭に記す夢があるので、これも承久二年七月三十日(同月は大の月)から八月三日までの閉区間が時制となる。なお、この夢は明恵の心内表現の間に、明恵の三つの台詞と、聖僧(ひじりそう)の囁く一と声とが、極めて印象的に響いてくるSE(サウンド・エフェクト)で、タルコフスキイの映画の一場面のように素敵である。

「鶉衣(ずんえ)」「じゆんえ」とも読む。継ぎ接ぎだらけの着衣、或いは、破れ、擦り切れて短くなった弊衣(へいい)。「うずらぎぬ」とも言う。鳥のウズラの斑模様に喩えたもの。厳しい行脚をしてきた結果のそれで、だからこそ、明恵は「聖僧」と直感したのである。

『問答し奉りて曰はく、「住處(すみか)を白(まう)すベし。」。問ひて云はく、「住處は如何(いかん)。」。答へて曰はく』どうもこの部分、錯文か衍文のようにも感じられる。しかも、応じた返答が全くなかったりと、ちょっと不自然である。しかし、「强ひて名字を問ひ奉る。頻りに之を祕し給ふ。切々に問ひ奉る」という明恵の畳み掛けた表現から、僧らは不詳の一応答と囁きを除いて、他には声を発しなかったものととってよいと断ずる。訳では、不詳部を「□…………□」と仮に置いて訳しておいた。

「木丁」「几帳」に同じ。古文でお馴染みの屏障具の一つ。室内に立てて隔てとし、また、座側に立てて遮るためのもの。台に二本の柱を立て、柱の上に一本の長い横木を真横に渡し、その横木に帳(とばり)を懸けた簡易のパーテーション。「へ」は「几帳へ向かって」「几帳を隔てて」問答したことを意味する。

「天竺」明恵はこの11年後の建仁二(一二〇二)年満二十九歳の時、天竺(インド)へ渡来する計画を立てている。但し、翌年正月に春日明神の神託により中止しており、元久二(一二〇五)年にも再度、計画したがも、同年中に、やはり中止している。

「賓頭盧」釈迦の弟子で、十六羅漢の一人。サンスクリット語「ピンドーラ・バーラドバージャ」の漢音写「賓頭盧頗羅堕(闍)(びんづるはらだ(じゃ))の略。優陀延(うだえん)王(生没年不詳)の大臣の子として生まれ、出家し、「獅子吼(ししく)第一」と言われるほど、人々を教化し、説得する能力が頭抜けていた。王は、彼の法を聞いて、深く仏教に帰依したともされる。後世、仏の教えを受けて、末世の人に福を授ける役を担当した人物として造形され、法会の際には、食事などを供養する風習が生じ、中国では、彼の像を造って食堂(じきどう)に安置した。日本では、本堂の外陣(げじん:堂の縁の上)に像を安置し、信者が病気している部分と、同じ部分を撫でると、平癒するという「撫で仏」(なでぼとけ)の風習が俗信として広がって今に至っている。古い像はそのために同時代のものよりも各部位の損耗が激しい。]

 

□やぶちゃん現代語訳

 修法を選んでいる間、こんな夢を見た――

 今、私がいる神護寺の本堂の後ろの戸に、二、三人の僧が、おるようである。

 彼らは皆、黒い色の鶉衣(じゅんえ)である。その姿や形相(けいそう)から、心の内で、『彼らは正しく厳しい修行を経た聖僧(ひじりそう)である。』

と思った。

 されば、心惹かれて、即座に問答し奉らんとて、曰わく、

「貴僧らの住処(すみか)を、これ、おっしゃって下されい。」

と。

 しかし、返事は、ない。

 されば、再び、問うて曰わく、

「住処は、これ、何処(いづこ)か。」

と。

 すると、答えて曰わく、

「□…………□。」

と[明恵割注:以上の応答は几帳(きちょう)を介してかくなされたものである。]

 私は心の内で、

『天竺は、現にこの日本に居ながらにして、眼前に見えるようなところに、それは、在るのだ。』

と思うた。

 なおも、私は、強いて、僧たちの名字(みょうじ)を問ひ奉った。

 しかし、頻りに、これを秘密にし遊ばされるのである。

 心で詰め寄るように、切に切に問ひ奉った。

 戸の外(そと)に、複数の聖僧の方々おられる心地がした。

 私は、これ近づき、即座に、憚り乍ら、供奉し奉った。

 私の左の耳に誰かが口を寄せた気配がし、答えて曰わく、

「――賓頭盧(びんづる)。」。

と呟いた。

 私は、それを聴くや否や、深く悲しみ、傷ましい思いにかられ、思わず、

「不審を問ひ申し上げるべきところで御座いましたが、これにて、満足致しまして御座る。御無礼申し上げましたことを、切にお許しを……。」

と申し上げた――と――思ったところで、覚醒しきって、夢は終わっていた。

 覚醒した私は、

『他におられた、二、三人の方々も、これ、十六羅漢の随一のお方衆であったのだ。』

と思うたのであった。

 

2022/12/24

明恵上人夢記 100

 

100

一、同廿九日、後夜(ごや)、坐禪す。禪中の好相(かうざう)に、佛光の時、右方に續松(ついまつ)の火の如き火聚(くわじゆ)あり。前に、玉(ぎよく)の如く、微妙(みみやう)の光聚(かうじゆ)あり。左方に、一尺、二尺の光明、充滿せり。音(こゑ)、有りて云はく、「此(こ)は『光明眞言(かうみやうしんごん)』也。」。心に思はく、『此の光明の躰(てい)を「光明眞言」と云ふ也。本文(ほんもん)と符合す。之を祕すべし。』。

[やぶちゃん注:既に注した通り、承久二(一二二〇)年説をとる。なお、河合隼雄「明惠 夢に生きる」(京都松柏社一九八七年刊)では、『承久二年七月二十九日、明恵は禅中に好相を得る。これは『夢記』にも記載されているが、『冥感伝』の冒頭に、より詳しく述べられている。そちらの方から引用してみよう』(二七六ページ)とあった。「冥感伝」(「華厳仏光三昧冥感伝」)は原文をネットで見ることは出来ないので、河合氏の引用部を概ね恣意的に正字化して以下に示す。一部に句読点・記号を追加。変更し、読みも補足した。

   *

問ふ、「何を以て、此光明眞言の、此の三昧に相應せる眞言なるを知るや。」。答ふ、「談ずること輯(たやす)からずと雖(いへど)も、冥(ひそか)に大聖の加被有り。予、承久二年夏の比(ころ)、百餘日、此の三昧を修するに、同しき七月二十九日の初夜、禪中に好相を得たり。すなはち、我が前に白き圓光有り、其の形、白玉の如し。徑(わたり)、一尺許(ばか)りなり。左方に、一尺、二尺、三尺許りの白色の光明有りて、充滿す。右方に、火聚の如き光明、有り。音(こゑ)有りて、告げて曰はく、『此は是れ、光明眞言なり。』と。出觀(しゆつくわん)の時、思惟(しゐ)すらく、甚だ深意あり、火聚の如き光明は、惡趣を照曜(せうえう)する光明なり。別本の儀軌に、いはゆる「火曜(くわえう)の光明有りて、惡趣を滅す。」とは、卽ち、此の義なり。」と云々。

   *

既に述べた通り、以下で河合氏は、『この禅中好相は、はっきりと承久二年と書かれているが、『夢記』のこの記録とのつながりで』(中略)、『他の一群の夢が承久二年のものと断定できるのである』(ここが承久二年のものとされる根拠である)。『ここに「此の三昧」と述べられているのが「仏光三昧観」であり、この好相を明恵は仏光三昧観の基礎づけのひとつと考えたのである。彼の見た「光明」は「悪趣を滅す」ものとされているが、このような光明はまた、まさに華厳の世界という感じを与える』(中略)。『明恵は「仏光三昧観」を修していて、このような素晴らしい光の世界に接したのである』。『このような「光」のヴィジョンは、最近とみに報告されるようになった臨死体験者の光の体験を想起させるものがある』と述べておられる。非常に首肯出来る見解である。

「同廿九日」「99」を受けて、七月のそれでとる。但し、以下の「後夜」という言い方から考えれば、実際には承久二年七月三十日(同月は大の月)未明である。

「後夜」六時の一つ。寅の刻(午前四時頃)。夜半過ぎから夜明け前の時間帯を指し、その暁の折りに行う勤行をも指す。

「續松」「つぎまつ」の音変化で、松明(たいまつ)のこと。

「光明眞言」「真言陀羅尼」の内でも最も有名なものの一つ。「不空羂索毘盧遮那仏大灌頂光真言経」に出ている。「オン阿謨伽尾盧左曩摩訶母捺ラ 麽ニ鉢納 麽入バラ鉢ラ韈タ野吽」 (おんあぼぎゃべいろしゃのうまかぼだらまにはんどまじんばらはらばりたやうん) がそれである。この光明を誦すると、仏の光明を得て、諸々の罪報を免れるので、この名がある。また、この真言を誦し、土砂に加持して、死骸の上に散じると、その加持力によって諸々の罪障を除いて、死者を西方安楽国土に往生させることができるとされる。天台宗や真言宗で法要や施餓鬼などの儀式に用いる。光明真言を誦する儀式を光明供 (こうみょうく) という(「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。]

 

□やぶちゃん現代語訳

 七月二十九日の後夜(ごや)、座禅した。その座禅の最中、こんな夢を見た――

 有難い映像の内に、仏の光が発し、右の方に松明の火の如き、火の塊りがある。

 その前に、玉(ぎょく)の如く、微妙(みみょう)の光の塊りがある。

 左の方には、一尺、二尺の光明が、充満していた。

 声があって言うことには、

「これは『光明真言』である。」

と。

 その時、即座に、心に思うた。

『この光明の体(てい)を『光明眞言」というのだ! 経典の本文(ほんもん)と確かに一致する! これは、秘すべきことだ!』

と。

 

明恵上人夢記 99

99

一、此の廿八日以前の夢に、板木に「彌勒經」の、二、三枚なるを、押し付けたり。經を印する時の如く、押し付けたり。『此(これ)を放ちて讀むべし。』と思ふ。覺めて後に、『「八名經(はちみやうきやう)」を讀むべきか。』と思ふ處、『後日に此の式を撰じたる以後、佛前に於いて祈請すべし。可なりや不(いな)や。』の由、之を思ふ處、案ずれば、此の夢は、卽ち、彌勒の之を印可(いんか)し給ふ夢想也。然りといへども、尙々、諸人にも志(こころざし)有るものには、之を授くべし。仍(よ)りて、大聖(たいしやう)之(の)御知見、御許し有るべき由一つを、同廿九日の朝、佛前に於いて所作之時、精誠に祈請す。其の時、所作の中(うち)に、少し、眠り入る心地す。幻の如くして、一つの大きなる門有るを見る。年來(としごろ)、人、通はず。一人の長(たけたか)き人、有り。「之(これ)に勅(ちよく)して、開くべき由。」を仰(おほ)す。一人【童子の心地す。】有りて、來りて、此の大きなる門を開く。『往昔(そのかみ)より、人、通はずして、久しく成りぬる門を、今、許可(こか)有りて、諸人、此(これ)より之(ここ)に出入すべし。』と思ふ。其の夕(ゆふべ)、道場に入る時、思ふに、此、卽ち、本尊之許可也。仍(よ)りて、一七日(ひとなぬか)許りと思ふに、此の相を得て、佛前に置く。式を取りて出で了(をは)んぬ【例時之(の)本尊に料理し奉り、釋迦・彌勒の御前にて祈請し奉る也。】。

[やぶちゃん注:これも日付から前にある「97」「98」との連続性は明らかである。既に述べた通り、承久二(一二二〇)年説をとる。さて、本記載は、やや複雑である。まず、

①以前に見た夢についての記載(時間が経って意識が論理的に整序してしまった感は強い)

②その直後に覚醒して考えた分析

③その後に修法を行ったが、その途中、睡眠に似た状態に入ったような感じになって見た夢

が語れるという構造を持つ。最初に記された夢はちょっと意味が判り難い。――「弥勒経」(未来仏である弥勒菩薩について述べた経典の総称で、特に竺法護訳「弥勒下生(げしょう)経」、鳩摩羅什訳「弥勒大成仏経」、沮渠京声(そきょけいせい)訳「弥勒上生経」を『弥勒三部経』と称する)の板木に印刷するために紙を押し付けた――というのではなく、何の板木であるかは判らないが、それにあたかも摺り版をするように、既に書かれてしまっている「弥勒経」の、二、三枚の経文を何故か押しつけた――というのである。しかも、そうしながら、夢の中の明恵は――『これを剥がして「弥勒経」を読むのがよい、正しい。』と確信を持っているというのである。これは思うに、弥勒菩薩の真の在り方が世上に理解されていないこと、そこで私が弥勒本来の教えを、まっさらの版木に押しつけて、真の完全唯一の「弥勒経」を作り上げ、衆生にそれを示すのがよいと明恵が思い至ったことを意味しているように私は考えた。

「八名經」底本の注に、『八名は神呪の徳真名。八名呪を受ける者は後代の威徳を得ると説く』とある。

「印可」師が、その道に熟達した弟子に与える許可のこと。「印定許可」「印信認可」などの略。所謂、「お墨付き」のことである。

「料理」物事を整え修(おさ)めること。十全に処理すること。]

 

□やぶちゃん現代語訳

99

 七月二十八日以前にこんな夢を見た――

 板木(はんぎ)に、「弥勒経」を記した、二、三枚の一部を、私は押しつけている。あたかも経を摺り版する時のように、経自体を押しつけているのである。

『これを剥がして読むのがよい。』

と夢の中の私は思っていた。

――さて、その夢から覚醒した後(のち)に、私は即座に、

『「八名経」を讀むべきか。』

と思ったのだが、

『後日に、この式法を正しく選んで以後、仏前に於いて、祈請こととしようか?……さて、しかし、それでよいか、否か?』

といった逡巡をし、しきりに思い迷ったのではあるが、よく考えてみると、この夢は、まさに弥勒菩薩御自身が、それを私に印可なされた夢想であったのだ!

 しかし……そうは思ったものの、

『……なおなお、諸々の人々にも、志しある者には、弥勒菩薩は、これを授かるるに違いない。いやいや、大いなる聖人の御(おん)知見は、それを当然のこととしてお許しになられるに違いない。』

という、もやもやした感覚を抱きつつも、翌日の同月二十九日の朝、佛前に於いて法事を修(しゅ)する時、精魂を傾けて祈請をした。その時、修法の途中に、少し、眠りに入った心地がし、こんな夢を見た――

 幻のように、一つの大きな門があるのを見た。そこは、見たところ、長い年月(としつき)の間、人が通っていない場所なのであった。

 一人の背の高い人が、そこにおられた。

「ここに勅(ちょく)して、この門を開(ひら)くべし。」

という由(よし)を仰せになる。

 そこに一人――童子姿であったように記憶する――があって、来たって、この大いなる門を開いた。

『遙かな昔より、人が通はずに、久しくなった、この門を、今、許可(こか)あって、諸々の人々が、これより以降、ここに出入りすることになるに違いない。』

と思った。

――さて、その夢から覚醒し、その日の夕べのことである。道場に入る際、ふと思った。

『これは! 則ち、本尊の許可(こか)であったのだ!』

と。

 それより、七日(なのか)ばかりの間、それを思念し続けたところ、この真正なる相であるという確信を得て、仏前に、その思いを心に念じ捧げた。式を終えて、道場を出で、私の惑いは、きれいさっぱり消え終わっていたのである。[明恵注:以上は、見た目は、何時もの通りの仕儀で行い、本尊に十全に洩れなく法事をし奉った上、釈迦如来と弥勒菩薩の御前(おんまえ)にて祈請し奉ったものであった。]

 

2022/12/23

明恵上人夢記 98

 

98

  同七月より、一向に佛光觀を修(しゆ)す。

一、廿八日、末法尓觀(まつぽふにくわん)の時、禪中、好相(かうさう)の中(うち)に、我が身、一院(いちゐん)の御子(みこ)と爲(な)る【如來の家に生るゝ也。】。

[やぶちゃん注:「97」の注で示した通り、承久二(一二二〇)年説をとる。特にこれは、明らかに前の「六月」で始まる「97」と連続するものと考えてよく、そこに有意に共通する心理が認められると考えてよい。

「好相」「相好(さうがう(そうごう))」に同じい。仏の身体に備わっている三十二の相と八十種の特徴の総称。但し、訳では有難い映像と意訳した。

「末法尓觀」よく判らないが、「尓」は「その・それ」の指示語、「然り・そうである」の意であるから、末法であることをまずは正面から仮に認めることから始める観想法なのであろう。

「一院」底本の注に、『後鳥羽院か』とある。]

 

□やぶちゃん現代語訳

98

 同年七月より、専心して仏光観を修(しゅ)した。

 その七月二十八日のこと、その時は末法尓観(まつぽうにかん)を修していたのであるが、その禅の最中(さなか)、非常に好ましい映像の中で、私の身が、とある高貴な一りの院(いん)の御子(みこ)として転生(てんしょう)したのであった。

 ――付け加えて言い換えるならば、既にして「如来の家」に生まれ変わったという意味なのである。

 

明恵上人夢記 97

 

97

一、六月、天より一つの棹(さを)、埀れ下(くだ)る。其の端一丈許りは繩也。予、之を取るに、其の末は、晴天に屬して、之に付く。五十二位(こじふにゐ)に分別すと云々。又、人、月性房(げつしやうばう)、有りて云はく、「東大寺の大佛、年來(としごろ)思へるに似ず、小さき佛也。又、片(かた)つ方(かた)に、金(あかがね)、薄くして、土の躰(てい)、現ぜり。『下を土にて造れるが、顯(あらは)る。』と覺ゆ。予、『諸人(しよにん)に勸進して、鑄(ゐ)奉らむ。』と欲す。直ちに、『諸人之(の)依用(えゆう)も不定(ふぢやう)に思ひて、結構せず』と云々【同夜の夢也。】。

[やぶちゃん注:かなり強い象徴的な同じ夜に見た別な夢二種である。「六月」とあるが、底本の記載順列に疑問があるため、時制推定は不能。「84」の私の冒頭注を参照されたい。但し、「95」の河合速雄氏説に従うなら、承久二(一二二〇)年となる。而して河合氏は「明恵 夢に生きる」の276ページで、この夢を取り上げ、明恵は彼の別な書「冥感伝」で、この夢の解釈を試みているとあった。この「冥感伝」とは、諸論文を参看するに、正しくは「華厳仏光三昧冥感伝」で明恵が承久三年十一月九日に完成させた「華厳仏光三昧観秘宝蔵」の一部であることが判っていることから、河合氏は『「夢記」とのつながりで』、この前後の『他の一群が承久二年のものと断定できるのである』と述べておられる。されば、ここ以降では承久二年説を既定値として示すこととする。

「一丈」三・〇三メートル。

「五十二位」菩薩が仏果に至るまでの修行の段階を五十二の位に分けたもの。「十信」・「十住」・「十行」・「十回向」・「十地」及び「等覚」・「妙覚」を合わせたもの。「十信」から「十回向」までは未だ凡夫であり、「十地」の「初地」以上から聖者の位へと移り、「等覚」で仏と等しい境地となるとされる(小学館「デジタル大辞泉」に拠った)。

「月性房」不詳。

「依用」「拠り所とする対象」を指す。]

 

□やぶちゃん現代語訳

97

 六月に、こんな二つの夢を見た――

 まず、その一。

 天から、一つの「棹(さお)」が垂れ下(くだ)ってくる。

 その端の一丈ばかりは、棹ではなく、縄となっている。

 私が、これを取ったところが、その棹の高い末の部分は、晴天に溶け合って、青空に属しており、私は、その蒼穹へと一気に就いた。

 それは確かに「五十二位」に分別されている階梯そのものを一気に昇った……

 また、その二。

 かの人――月性房である――が、在って、私に言うことに、

「東大寺の大仏というのは、年来(としごろ)思い続けてきたのに似ず、なんだか、小さい仏(ほとけ)なのだ! また、その仏像の片側は、赤銅(あかがね)が薄くて、土のような様態を現(げん)じているのだ! 俺は、

『この仏像、下の部分を、金属なんぞではなくって、土で造ってあることが、露見したぞッツ!』

と感じたのだ! そこで、我れは、

『諸人(しょにん)に勸進して、改めて、鑄(い)奉ろうぞ!』

と欲した。が、しかし! いや! すぐに思い直したんだ!

『諸人をよりどころにするというのも、これ、一定せず、頼りないぞッツ!』

と思いなおして、

『やはりよろしくないッツ!』と……」

 さても――そうさ、この二つは同じ夜に見た夢なのであったよ。

 

明恵上人夢記 96

 

96

一、此の觀法の式を撰(せん)ずる間、夜々、好(よ)き夢、有り。常に貴人之寵愛を蒙ると云々。其の中に未だ撰ぜざる以前なり。

[やぶちゃん注:底本の記載順列に疑問があるため、時制推定は不能。「84」の私の冒頭注を参照されたい。但し、「95」の河合速雄氏説に従うなら、承久二(一二二〇)年となる。

 ここでは、彼が、ある観想法を選んだ後よりも、それを『どれを今度(このたび)の観想法にしようか?』と悩んでいる時に限って、寧ろ、不思議に素敵な夢を見たよなぁ、と感慨しているような感じであろうか。]

 

□やぶちゃん現代語訳

96

 今、現在、私が行っている観想法をまだ「選ぼう」と思案している間に、毎夜、良き夢を見た。それは、どれも常に、優れたある高貴な方から寵愛を受けるといった夢で……

……いや……まだ、この観想法に決定(けつじょう)する以前の時期にこそ、私は、その良き夢を見ていたのであったなぁ。

明恵上人夢記 95

 

95

一、夜、夢に、五、六人の女房、來り、親近して予を尊重す。此(かく)の如き夢想、多々也。後日、記せるが故に、分明ならずと云々。

 前の夢を翻(ほん)せる也。

[やぶちゃん注:底本の記載順列に疑問があるため、時制推定は不能。「84」の私の冒頭注を参照されたい。但し、河合速雄氏は「明恵 夢を生きる」(204ページ)で、この夢を「89」(氏は「善妙の夢」として最重要の夢の一つとされ、詳細な分析をなさっている。それは「89」でも一部を引用してある)の『「善妙の夢」に続いて、同じく承久二』(一二二〇)『年七月頃に見たとする夢と推定される夢』として挙げておられ、さらにクレジットが推定できる「76」(樋口の女房が池に飛び込むも上がってくると一切濡れていないという夢)を直後に引用してある。

「翻(ほん)せる」これは「うつしかえる・うつしとる」の意であろう。]

 

□やぶちゃん現代語訳

95

 ある夜の夢に――

 五、六人の女房がやって来て、いかにも親しく近侍して、私を尊重すること頻り……

といったような同内容の夢想が、私には、実は、甚だ多くある。

 私はそれを後日に書き記しているため、実は、その夢の記憶は朧げになってしまっていて、

「分明ではない」と言ったような記載ばかりが残っている……

 これは、前の夢を私の心が、何遍も繰り返し映し撮って、再現していることに他ならないのである。

 

2022/01/01

明恵上人夢記 94

 

94

一、同廿一日晨朝(じんてう)に、信心を起し祈請す。「淸淨之夢想を得ば、如法懺侮(さんげ)之驗(しるし)と爲すべし。」と申す。學文所(がくもんしよ)に繩床(じようしよう)より下りて、祈請之(の)休みの夢に云はく、予、菩提子(ぼだいし)の數珠を持てり。覺むる前に所持せしには非ず。少々、水精(すいしやう)の裝束(しやうぞく)あり。其の緖(を)、切れたり。其の珠、落ち散る。早く求め出(いだ)して多くは散らず。一つの珠を、自(おのづか)ら、之を求め出し、一つの珠をば、上師、傍(かたはら)より、新調の衣と袈裟とを著(ちやく)し、著して、威儀具足して來臨し、卽ち、折敷(をしき)の上より求め出(いだ)して、「此(これ)に有る也。」と告げしめ給ふ。卽ち、『此の緖(を)を、自(おのづか)ら、他人をして之を貫かしめむ。』と欲す。上師、進みて、之を取る。「我は、すげむ。」とて、奧へ入りて、すげて、之を出し與へ給ふ。予も敬重之(の)思ひ深し。傍(かたはら)に又、南の尼有りて、云はく、「あら忝(かたじけな)き哉(かな)や、忝き哉や。」。其の珠々(しゆじゆ)、達磨(だるま)水精にて、而も普通よりは、其の勢(いきほひ)、小さし。羯磨(こんま)を以て莊(かざり)と爲し、弟、珠を貫きて、悅喜の心深くして、覺め了んぬと云々【祈請に應ずること、之を思ふべし。】。

[やぶちゃん注:底本の記載順列に疑問があるため、時制推定は不能。「84」の私の冒頭注を参照されたい。

「晨朝」六時の一つ。卯の刻。現在の午前六時頃。この時刻は「朝の勤め」の勤行を行う定時でもある。

「學文所」僧が教学を行う部屋。

「繩床」木の床に繩又は木綿の布を張った、粗末な腰掛け。主に禅僧が座禅の際に用いる。

「菩提子」サンスクリット語「ボーディ・シ」の漢音訳。ヒマラヤ地方のボデ樹(インドから東南アジアにかけて広く分布するバラ目クワ科イチジク属インドボダイジュ Ficus religiosa の実。仏教の経典から天竺菩提樹(テンジクボダイジュ)の別名を持つ)の実。淡黒色で、丸く、香りが強い。数珠の玉の材料とされた。訳名から、中国原産で仏教のそれの代わりに寺院に植えられることが多い、全くの別種である菩提樹(アオイ目アオイ科 Tilioideae 亜科シナノキ属ボダイジュ Tilia miqueliana )の実と混同される。

「水精の裝束」ここは「水晶で作られた数珠」の意。

「上師」今迄通り、母方の叔父で出家最初よりの師である上覚房行慈ととる。明恵はこの十二年前の建仁二(一二〇二)年に、この上覚から伝法灌頂を受けている。

「著(ちやく)し、著して」衍文と思われる。

「南の尼」先行既出する(91)の注で述べた通り、底本注で『『明恵上人行状抄』には湯浅宗重女に「次女南」とあり、この女性を指すか』とする。明恵の母は紀伊国の有力者であった湯浅宗重の四女であった(父は高倉上皇の武者所に伺候した平重国)。

「達磨水精」楕円不均等の達磨型或いは文字通りのお馴染みの達磨大師を模した達磨の水晶製の数珠玉のことであろう。

「羯磨」羯磨(かつま:「こんま」とも読む)金剛杵(しょ)のこと。密教修法具で三鈷杵を十字に組み合わせた呪具。仏に、本来、備わっている智慧の働きを象徴する金剛杵の一つ。多くは銅で作る。「精選版 日本国語大辞典」の画像を参照されたい。

「弟」「上師」に対する明恵自身の自称。]

 

□やぶちゃん現代語訳

94

 同二十一日晨朝(じんちょう)に、信心を起こし、祈請を行った。

 仏・菩薩に、

「真に清浄なる夢想を得たならば、如法懺悔の験と致しましょう。」

と申し上げた。

 学文所に祈請を修している繩床(じょうしょう)から、一時、下(さが)って、祈請の中休みをしたが、その時、こんな夢を見た――

 私は、菩提子の數珠を持っていた[明恵自注:夢を見る前の覚醒時に所持していた数珠ではなかった。]。

 見ると、その数珠は、全体に小さなものであったが、珠を水晶で作った物であった。

 その緖が、切れた。

 その珠が、落ち、散らばる。

 即座に、手で探し求めて集めたので、多くは、散らなかった。

 私は、しかし、一つの珠が足りぬので、自然、これを求めんとして辺りを探した。

 すると、その足りぬ一つの珠を、上師が、ふっと、傍らより、新調の衣と、袈裟とを、著(ちゃく)されて、威儀正しく、欠けるところなき装束を具足されて来臨なされ、即座に、近くに置かれてあった折敷(おしき)の上より、求め出だされて、

「ここに、あるぞ。」

とお告げまされた。

 その時、即座に、

『この緖(を)をば、私は、自然、誰か、他者をして、元の通り、貫(つらぬ)かしめねばならぬ。』

と強く思った。

 すると、上師自らが、私の前に進んでこられ、この切れた数珠と最後の一珠をお取りになった。そうして、

「我が、すげてやろう。」

と仰せられて、奧へ入って、元通りにすげられて、これを私に差し出しなされ、お与えになられた。

 夢の中の私も、忝き敬重の思ひが、深く心に起こった。

 傍らに、また、南の尼がおられて、おっしゃられたことには、

「あら、どんなにか、忝きことでありましょうか! 忝きことよ!」

と。

 その数珠の珠の一つ一つは、達磨大師を象った水晶玉であってて、しかも、普通よりは、その感じは、小さなものにして静謐であった。羯磨(こんま)を以って荘厳(しようごん)となしてあり、弟子たる私は、珠を美事に貫いたそれを戴いて、喜悦の心、これ、謂わん方なく、深く感じた……

と――思うたところで――夢は醒め、既に覚醒していたのであった……【私が行っている祈請に応じた聖なる夢であったこと、これをよく思索し、感じねばならぬのだ!】。

 

2021/03/04

明恵上人夢記 93

 

93

一、同七月【十七日。十九日。】、深き心を起して、「六時(ろくじ)の行(ぎやう)」を企(くわだ)つ。又、深く心に十心(じふしん)を起す。同廿日の夢に云はく、淸淨の綿を以て、多宇佐儀(たふさぎ)に懸けたり。又、一人の女房有りて、護身と爲して、予に近づきて語る。「夢に云はく、和尙の邊に糞穢(ふんゑ)の香(か)、有り。只、護身、爲(な)らざるのみに非ず。剩(あまつさ)へ、此の穢れたる相(さう)有り。」。心に慙(は)ぢて、之を思ふ【之を思ふべし。】。

[やぶちゃん注:時制推定は「90」の私の冒頭注を参照されたい。彼を取り巻く「糞穢の香」は私には、「90」夢に出た、彼を「渡りに舟」の人物として陰で利用せんと画策している当時の現実社会の仏教や政治家らの汚物臭と感じる。

「六時の行」六時は六分した一昼夜を指す(その中はまた、「昼三時」と「夜三時」に纏められ、「晨朝(じんじょう)」・「日中」・「日没(にちもつ)」を昼三時と、「初夜」・「中夜」・「後夜(ごや)」を「夜三時」と称する)。則ち、一切の有意なインターミッションを持たない一昼夜連続の過酷な行法を指す。

「十心」恐らくは、「十住心」(じふじゆうしん)の「秘密荘厳住心」、則ち、「真言の秘密の法門を悟る心を観想すること」を意味しているものと思われる。「十住心」は空海が宗教意識の発達過程を十種の心の在り方に分類したもので、㊀「異生羝羊住心」(動物のような低俗な本能に支配される凡夫の心)、㊁「愚童持斎住心」(人倫の道を守る程度の人の心) 、㊂「嬰童無畏住心」(人間界の苦しみを厭離(おんり)して天上の楽を求むるレベルの心) 、㊃唯蘊(うん)無我(住心五蘊(存在を構成する要素(色(しき)・存在一般を構成する作用・機能の様態である「受」(感受)・「想」(表象)・「行」(意志)・「識」(識別))の法は実在するものの、我(が)はないと覚知する声聞(しょうもん)の心) 、㊄抜業因種住心(人間の苦の根本体である原因を完全に除去せんとする縁覚の心) 、㊅他縁大乗住心 (人法の二我を離れて慈悲心によって衆生を救おうとする心) 、㊆覚心不生(ふしょう)住心(心の不生を覚る心) 、㊇一道無為住心(あるがままの真理をそのままに悟る心)、㊈極無自性(ごくむじせい)住心(真如が縁によって現れることを直ちに知る心)の九段階を経なければ、摑むことは出来ないとされる。

「多宇佐儀(たふさぎ)」これは底本のルビである。原題仮名遣は「とうさぎ」。漢字表記は「犢鼻褌」「褌」。直接に肌につけて陰部を覆うもの。「下袴(したばかま)」。古くは「たふさき」と清音であったか。褌(ふんどし)一丁のみの姿である。そこにぶら下げた「綿」とは何か? 判らない。浄化された明恵自身の胞衣か?

 

□やぶちゃん現代語訳

93

 同七月[明恵注:十七日及び十九日の両日。】、思うところあって、心に決意を立てて、「六時の行(ぎょう)」を企(くわだ)てた。また、深く、心中に「十心(じゅうしん)」に至らんことを起請した。

 それを成就し得たと思った、明けた同二十日、こんな夢を見た――

 私は清浄な綿を以って、褌(とうさぎ)に懸けている。

 そこに、一人の女房がいて、私の護身役として在り、私に近づいて、次のように語った。

「私(わたくし)、夢にあなたさまについてのお告げを受けました。それは、『和尚さまの周辺に糞穢(ふんえ)の絶え切れぬほどに臭い気(かざ)が満ちている』と。されば、私は、ただ、あなたさまの護身のため、それのみならず、この忌まわしき穢れている御仁の相(そう)のためにここにおるのです。」

と。

 夢の中にあって、私は、心底、恥じて、その事実を強く感じていた[明恵注:この「恥」をよく考えなくてはならない!]。

明恵上人夢記 92

 

92

一、六月の禪中に、兜率天上(とそつてんじやう)に登る。彌勒の寶前に於いて、金(こがね)の桶を磨きて沈香(ぢんかう)を之に入れ、一人の菩薩、有りて、予を沐(あ)ましむと云々。

[やぶちゃん注:時制推定は「90」の私の冒頭注を参照されたい。ここでやっと翌月に転じている。

「禪中」坐禅中の観想の内に見た覚醒型の夢想である。

「兜率天」仏教の宇宙観にある天上界の一つ。サンスクリット語「トゥシタ」の漢音写。漢訳では「上足」「知足」とする。欲界の六天(四王天・忉利天・夜摩天・兜率天・化楽天(けらくてん)・他化自在天)の中の第四天。ここには七宝でできた宮殿があり、宮殿には内院と外院があって、内院には弥勒菩薩が住んで説法を行なっている。外院には天衆の遊楽の場所がある。ここでの寿命は四千歳で、その一日は人間界の四百年に相当するとされる。また、仏伝では、釈迦は、ここから降下して摩耶夫人の胎内に宿って生誕したとされている。弥勒は釈迦入滅から五十六億七千万年後、この兜率天での修行を終えて如来となり、地上に下って末法世の果ての総ての衆生を済度するとされてもいる。なお、底本の注には、『『比良山古人霊託』には明恵が兜率天に往生したと語られている』とある。「比良山古人霊託」(ひらさんこじんれいたく)は鎌倉前期の延応元(一二三九)年五月十一日に元関白・左大臣九条道家(当時は既に出家している)が病いとなり、慶政(けいせい:一説に道家の兄とする)が加持祈祷のために道家の住む法性寺に赴いた。慶政が法性寺にある間に二十一歳の女房に「比良山の大天狗」の霊が憑依し、自らを藤原鎌足の以前の祖であると称し、五月二十三日から二十八日までの間に慶政と三度の問答をしたが、その問答を慶政が記録したものである。その内容は、天狗が現れた意図・道家の病いの原因と治療法・関係者や著名人の後世(ごぜ)・狗の世界の状況などに及んでいる。

「沈香」狭義にはカンボジア産「沈香木(じんこうぼく)」を指す。東南アジアに植生するアオイ目ジンチョウゲ科ジンコウ属 Aquilaria の、例えば、アクイラリア・アガローチャ Aquilaria agallocha が、風雨や病気・害虫などによって自分の木部を侵された際に、その防御策としてダメージを受けた部分の内側に樹脂を分泌する。その蓄積したものを採取して乾燥させ、木部を削り取ったものを「沈香」と呼ぶ。原木は比重が〇・四と非常に軽いが、樹脂が沈着することによって比重が増し、水に沈むようになることからかく呼ぶ。原木は幹・花・葉ともに無香であるが、熱することで独特の芳香を放ち、同じ木から採取したものであっても、微妙に香りが違うために、僅かな違いを利き分ける香道において「組香」での利用に適している(以上はウィキの「沈香」を参考にした)。]

 

□やぶちゃん現代語訳

92

 六月の禅観中の折り、こんな夢を見た――

 兜率天の天上へと登る。

 ありがたき弥勒菩薩の宝前に於いて、金で出来た桶(おけ)を、まばゆいばかり磨き上げた中に、沈香(じんこう)を入れ、一人の菩薩が来たって、私を、その沈香の香でもって、沐浴させて下さる……

 

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