上人、夢に、大海(だいかい)の邊に大盤石さきあかりて高く聳え立てり。草木華葉鬱茂(うつも)して、奇麗の勝地也。大神通力(だいじんづうりき)を以て大海と共に相具して十町計りを拔き取りて、我が居所の傍に指し置くと見る。夢覺めて語り給はく、此の夢は死夢なりと覺ゆ。來世の果報を現世に告ぐるなりと命ぜしめ給ふ。
[やぶちゃん注:「あかりて」は岩波文庫版「ではあがりて」。この夢は「高山寺明惠上人行狀」の中にも記されてあり、それはやや叙述が異なり、また実は見た際の明恵の病態が尋常ではなかったことなども分かるので、今、国立国会図書館のデジタル化資料「史籍雑纂」(国書刊行会編明治四四(一九一一)~大正元・明治四五(一九一二)年刊)に載るものを視認して示すこととする。
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一同三年〔辛卯〕十月一日より、年來の痔所勞更發し、又不食の氣に煩ふ、同十日夜、殊大事なり、仍臨終の儀に住して、彌勒の像の御前に端坐して寶號を唱ふ、すなはち衆に示して曰く、我れ自ら寶號を唱ることは時に隨ふへし、諸衆寶號を唱へしと云て、我は坐禪入觀す。數刻の後出觀して、又理供養の儀をもて行法あり、其後暫く稱名す、後夜に臨て休息す、其後漸々に聊少減を得といへども、恒に不快なり、上人夢に大海の邊に大盤石さきあかりて高く聳へ立り、草木花菓茂欝して奇麗殊勝なり、大神通力をもて大海と共に相具して十町許りをすき取て、我か居處のかたはらにさしつくと見る、此の夢は死夢と覺ゆ、來生の果報を現世につくなり。
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私はこの電子化とは別に「明恵上人夢記」の電子化訳注を並行して行っている関係上、この夢記述はすこぶる興味深い。まずは取り敢えず、この二稿の夢に私の電子化訳注に準じて訳してみたい。①としたのが「伝記」版の、②としたのが「行状」版である。「十町」は一・一キロメートル(四方)に相当する。「數刻」一刻は二時間であるから、四~六時間後という感じか。
§
①
ご上人さまが、ある日見た夢であらせられる。
「大海のほとりに一枚板の大きな岩が、屹立して高く聳え立っている。草木や花や葉が鬱蒼と繁茂して、すこぶる綺麗なる景勝地なのであった。私は聖なる神仏の神通力を以って、大海とともに合わせて十町計りの空間を抜き取って、私の居んでいる場所の傍らに、その景観を丸ごと据えおくことに成功したのであった。」
この夢からお醒めになったご上人さまは、
「……この夢は私の死を告げる予知夢であると感じている。……がしかし、これは私の来世(らいせ)での果報のありさまを如実に現世(げんせ)の私に告げ下すったものである。」
と、宣言なさったのであった。
§
②
一、同三年〔辛卯(かのとう)。〕十月一日より、年頃、お患いなさっておられたところの痔疾の状態が悪化なされ、かなりお苦しみになられるようになって、加えてご食欲が殆んどなくなられるといったご容態になられた。同月十日の夜、殊に病態が悪しくなられたによって、御自ら、臨終の儀式に臨まんものと、弥勒菩薩の御像の御前に端坐なされ、弥勒の尊き御名号(おんみょうごう)をお唱えになられた。そうして、直ちに会衆に示唆なさって、
「……我れら、自ら弥勒のあらたかなる御名号を唱えるは――まさに時に当たって従っているのだとお心得あれかし――諸衆もともに安らかに高らかにあらたかなる名号をお唱えになられよ。――」
と仰せられて後、御自身は座禅なさったままに観想にお入りになられた。
数刻の後、観想からお戻りなられて、また作法通り、齟齬なき供養の儀を以って行法をなさった。その後、暫く神仏の称名をなさった。その後、やっと夜になってから御休息をなされた。その後はだんだんといささか生気を取り戻されたようであられたが、依然として御不快のご気配であらせられた。
その時、ご上人さまは次のように宣われた。
「我ら、夢を見申した。……
大海のほとりに一枚板の大きな岩が、屹立して高く聳え立って御座った。――
草木や花や葉が鬱蒼と繁茂して、それはそれは綺麗なる景勝地で御座った。――
我ら、聖なる神仏の神通力を以って、大海とともに合わせて十町計りの空間をすっぽりと透き取って、我らが居所の傍らに、その景観を丸ごと、接ぎ足し据えて御座った――
……と申す夢を見申した。……さても……この夢は我らの死を告げる夢と存ずる……いや……我らが現世(げんせ)の生(しょう)の果てを来世(らいせ)に接ぐものと心得て御座る。……」
と。
§
これは明恵にして見ることの出来た己れの入寂、否、浄土への転生の美事な予知夢と言ってよい。いや、彼ならば浄土から再び衆生を救うためにあえて戻ってくるはずであろうから、これは明恵の生まれ変わりが見た現実の未来の紀州かどこかの景色ででもあったに違いないと私は思うのである。ご存知ない方のために老婆心乍ら述べさせてもらうと、再び戻ってくるというのは、還相回向(げんそうえこう)のことを述べたものである。中国は南北朝の僧で浄土教の開祖とされる曇鸞は「浄土論註」巻下の中で往相(おうそう)・還相(げんそう)の二種の回向を説いている。往相回向とは「往生浄土の相状」の略で、自分の善行功徳を他の対象に廻らし、他の対象の功徳としてともに浄土に往生しようという誓願を指す。即ち、共時的な連帯した極楽へのベクトルを持った往生である。ところが「還来穢国の相状」の略である還相回向というのは、極楽浄土へ往生し者を、あまたある煩悩に縛られた衆生を救うために再び現世へ還り来たらしめんとするところの願いのことを指す(浄土教ではこれら利他のはたらきを阿弥陀仏の本願力の回向とする)。私は明恵は必ず還相回向をせんとする人と考えるのである(往相及び還相回向の部分にはウィキの「回向」の記載を一部、加工用に用いさせて戴いた)。
なお、この部分について、河合隼雄氏は「明惠 夢に生きる」の中で、以下のように述べておられる(河合氏の「行状」の引用は、私が先に掲げたものとは新字の漢字片仮名交じりで、一部に異同があるので表記その他が異なる)。
《引用開始》
「此ノ夢ハ死夢ト覚ユ」と断定するところがなんとも言えないが、その内容もまた意表をつくものがある。「大海ノ辺(ほとり)ニ大盤石」云々という景色は、明恵の好んだ白上の峰を思わせるものがあるが、それをもっと素晴らしくしたものであろう。それを神通力で運んできて、自分の居処の傍に置いたのだから、もう死ぬ準備はできたと考えたのであろう(この「来生ノ果報ヲ現世ニツグナリ」という文における「ツグ」は、その前の文にある「サシツグ」と同じ意で、「接ぐ」と解せられるが、『伝記』の文は「来世の果報を現世に告ぐる也」となっている。どちらとも考えられて断定し難い)。
ユングも死ぬ少し前に、死の夢と彼が感じた夢を弟子たちに告げている。それは次のような夢である。
「彼は『もう一つのボーリンゲン』が光を浴びて輝いているのを見た。そして、ある声が、それは完成され、住む準備がなされたことを告げた。そして、遠く下の方にクズリ(いたちの一種)の母親が子どもに小川にとびこんで泳ぐことを教えていた」
ボーリンゲンは、ユングが特に愛した彼の別荘ある。はじめ彼は自ら煉瓦を積んで塔をつくり、電気、水道などを一切用いず、ここでよく瞑想にふけったりしていた。夢のなかで、彼は「もう一つのボーリンゲン」が「あちら」に完成され、新しい住人を待っていることを知らされるのである。明恵の場合は、「あちら」の世界を神通力で引き抜いてくるのだが、ともかく、両者共に、次に住むべき所が夢のなかに提示され、どちらもそれを「死夢」と判断しているのは興味深いことである。
《引用終了》
私は、二十六年前、河合氏の当該書を読んで、最も感動したのはこの箇所であった。特に明恵の大神通力なんぞより何より、ユングの夢の最後の「遠く下の方にクズリの母親が子どもに小川にとびこんで泳ぐことを教えていた」という箇所にこそ、深く心打たれたのを忘れないのである……]