「新編相模國風土記稿」卷之九十九 村里部 鎌倉郡卷之三十一 山之内庄 今泉村
○今泉村〔伊麻伊豆美牟良〕 岩瀨村より分れし地なり〔大永二年の文書に、岩瀨鄕の内、今泉村。永祿中の物に岩瀨の内今泉と見ゆ。〕。されば、小坂鄕中なるべけれど、今、傳を失ふ。江戸より行程十二里。大永二年三月、北條左京大夫氏綱、當村に制札を出せり。これ、山ノ内明月院の所領たるを以てなり〔明月院文書曰、「制札。相州岩瀨鄕之内、今泉村竹木之事、從他鄕、剪取之事令停止畢。若於違犯輩者、可處罪科狀。仍如件。大永二年壬午三月七日。明月院傳藏主」。北條氏綱の華押あり。〕。永祿の頃も明月院領たり〔【役帳】曰、「明月院領。三十一貫九百七十文。東郡岩瀨之内、今泉。〕。家數二十。東西二十八町餘、南北十二町餘〔東、上之村。西、大船・岩瀨村二村。南、二階堂・山之内二村。北、公田・桂二村。〕。檢地は寶永七年、飯田彈右衞門・高倉伴左衝門、改む。新田あり。今、松平大和守矩典領す〔慶長中より加藤源太郎成之の采地なりしが、延享四年、御料となり、寶曆十二年、酒井平左衞門に裂賜ひ、御料の地、少しく殘れり。文化八年、子孫作次郎の時、御料を合て、一圓に松平肥後守容衆に賜ひ、文政四年六月、當領主に賜へり。〕。
[やぶちゃん注:現在の神奈川県鎌倉市今泉及び今泉台。ここ(グーグル・マップ・データ)。
「大永二年」一五二二年。室町幕府は第十代将軍足利義稙(翌年死去)であるが、既に戦国時代。
「永祿」一五五八年~一五七〇年。
「小坂鄕」「小坂」は「おさか」と読む。「鶴岡社務職次第」では鎌倉郡谷七郷の一つに挙げられ、「遠佐可」と読まれている。「小坂郡」とも称され、「山内荘」を中心とした鎌倉郡の大部分の広域を含むまでに広がっていた。南は小坪郷に「小坂郷小坪」・北は倉田郷に「小坂郡倉田」などとする記録が残り、本「相模国風土記稿」では二十八ヶ村が相当されると記される広域地域であった。小坂郷としての中心は山内と推定される(「いざ鎌倉プロジェクト」代表鎌倉智士氏作成のこちらに拠った)。
「北條左京大夫氏綱」(長享元(一四八七)年~天文一〇(一五四一)年)は後北条氏第二代当主。ウィキの「北條氏綱」によれば、『伊豆国・相模国を平定した北条早雲(伊勢盛時)の後を継いで領国を武蔵半国、下総の一部そして駿河半国にまで拡大させた。また、「勝って兜の緒を締めよ」の遺言でも知られる』。但し、『当初は父同様に伊勢氏を称しており、北条氏を称するようになるのは』、『父の死後の』大永三年か大永四年から『である。父の早雲は北条氏を称することは生涯なく、伊勢盛時、伊勢宗瑞などと名乗ったが、後北条氏としては氏綱を』二『代目と数える』とある。
「山ノ内明月院の所領」明月院へは現在の今泉台の住宅地の奥(南端)から尾根伝いに西南西に下ると、直近である。私は若い頃、二度ほど踏破したことがある。十二所の「お塔が窪」同様、「マムシ注意」の札が建っていた。
「明月院文書」「鎌倉市史」(正編)の「史料編 第三 第四」の「三九七」文書。
「明月院傳藏主」「三九七」文書編者注に『以心僧傳』とあるが、不詳。
「二階堂」現在の今泉台の奥から南に山越えすると、現在の鎌倉市二階堂地区である。
「寶永七年」一七一〇年。徳川家宣の治世。
「松平大和守矩典」川越藩四代藩主松平斉典(なりつね)の初名。既注。
「慶長」一五九六年~一六一五年。
「加藤源太郎成之」「関ヶ原の戦い」の際の家康の旗本として、御鉄砲頭に加藤源太郎の名が見える。彼か。
「延享四年」一七四七年。
「御料」幕府直轄領のこと。「今泉町内会」公式サイト内の年表に、加藤氏五『代目成像(なりやす)の代に幕府から咎めを受け改易となり』、『領地没収され』、『幕府直轄の御』料『となり、一部を残して酒井政栄の所領となる』とある。
「寶曆十二年」一七六二年。
「酒井平左衞門」不詳であるが、前注の酒井政栄の後裔であろう。
「裂賜ひ」「さきたまひ」。分割封地し。
「文化八年」一八一一年。
「合て」「あはせて」。
「松平肥後守容衆」(かたひろ 享和三(一八〇三)年~文政五(一八二二)年)は陸奥会津藩第七代藩主で会津松平家第七代。満十八になる前に夭折している(既注であるが、再掲した)。
「文政四年」一八二一年。]
○高札場
○小名 △小泉谷戸 △福泉 △中村 △のろけ谷戸
[やぶちゃん注:位置不明であるが、「のろけ谷戸」という名は気になる。]
○山 東南北の三方を包めり。東方の山上に秣場あり〔岩瀨・大船等の村々と入會の持なり。〕。山中を穿て、まゝ古瓦を得るといへり。村南山上に小塚あり。「鷹塚」と呼り。塚上に松樹あり〔圍一丈許。賴朝の鷹を埋し所と傳ふ。〕。
[やぶちゃん注:「秣場」「まぐさば」。馬草。農家にとって農耕馬牛の飼料の重要な供給地だから、「入會」地(いりあひち(いりあいち))、入会権(一定地域の住民が一定の山林原野(入会地)を共同で薪炭用・肥料用の雑木・雑草の採集等のために利用する慣習上の権利。用益物権の一つ)が行使されたのである。
「穿て」「うがちて」。掘ると。
「鷹塚」「かまくらこども風土記」によれば(以下の引用は第十三版)、現在の今泉白山神社(後に出る「白山社」。ここ(グーグル・マップ・データ))の『真南の山中に頼朝の鷹を埋めたという「鷹塚(たかづか)」といわれる小塚があります』(現在形で書かれている)。『大きな松が生えていたそうですが、今は、塚だけが残っています』とある。なかなか丹念に調べ歩いておられる武衛氏のサイト「鎌倉遺構探索」のこちらで、それらしい箇所が示されてある。必見。但し、サイト主が『鷹のお墓にしては大き過ぎるような気も』するとされており、以下の周囲「一丈」とあるのに比すと、その画像の塚は大き過ぎるようには見える。
「圍」「めぐり」と訓じておく。]
○林 字新山にあり〔一町三段三畝十步。〕。領主の雜木林なり。此餘、村民の持とする。雜木林あり〔二十二町一段二畝。〕、元文二年、金子覺右衞門、檢地す。是は御料に屬し、永錢を貢ず。
[やぶちゃん注:「元文二年」一七三七年。
「永錢を貢ず」年貢を納めたことを言う。]
○川 村内不動堂瀑布の下流なり〔幅三間許。〕。岩瀨村に沃て、砂押川と云。
[やぶちゃん注:「三間」五メートル四十五センチメートル。
「沃て」「そそぎて」。]
○神明宮 村持。下同。
〇八幡宮
〇一牛王社
○山神社
○荒神社
○子神社
[やぶちゃん注:以上の祠は廃絶したか、白山神社辺りに纏められている可能性が高い。]
○毘沙門堂 村の鎭守とす。建久元年、賴朝の建立と云ふ〔緣起に據に、賴朝上洛のついて、鞍馬寺に詣で、行基作の毘沙門に體あるを瞻禮し、其一體を請得て、鎌倉に歸り、此地に安ぜしなりと云へり。〕。本尊は行基、楠樹を以て作ると傳ふ〔長六尺許。臺座に「享祿五年九月廿八日 奉行□左衞門 名主長島彦右衞門」の銘ありしと云。是は當堂再建の時、再修の施主にて、彦右衞門が子孫、代々、村内の里正を勤め、今、「多時」と稱す。〕。祕して猥に拜する事を許さず、別に前立を置く〔長四尺六寸五分。〕。脇立には辨天〔長二尺九寸五分。〕・大黑〔長二尺六寸五分。各運慶作。〕を安ぜり。享祿五年九月再建棟札の寫を藏す〔其文に、「禪興寺莊園、相州山之内庄今泉村、毘沙門天王、自古造立、犬吉祥天音女、脇付幷修造再興。領主大勸進本願比丘 前禪興指月僧祗四十四歳 今泉寺□□華押 佛匠大藏長□□天堂棟上 享祿五壬辰九月廿七日」とあり。按ずるに、文中、當村を禪興寺庄園と記せしは、全明月院の本坊なるをもて、かく記せしにて、當村は元より、かの院領なること、論なし。當時明月院は、禪興寺塔頭なり。〕。
[やぶちゃん注:現在の白山神社。現在、参道入り口に「禪宗今泉寺」(「こんせんじ」と読む)の石碑が残り、参道左手には、建長寺の塔頭として今泉寺(こんせんじ)が建つが、これは昭和五二(一九八二)年に建立された新しい寺であって、この石柱の寺とは全く別物である。毘沙門天は現在、白山神社に祀られているが、この元の今泉寺は、これが本来祀られていた毘沙門堂(現存しないが、実際には現在では鎌倉時代以前から存在したと考えられている)の別当寺であったこと以外は、開山や沿革は不詳である。
「建久元年」一一九〇年。「かまくらこども風土記」は建久二年とする。
「毘沙門に體あるを瞻禮し」よく意味が判らぬが、この「體」は「てい」で、「それらしい立派な様子が感じられるもの」の意か。「瞻禮」は「せんれい」で、仰ぎ見て拝礼すること。
「享祿五年」一五三二年。「かまくらこども風土記」によれば、この銘は現在は見えず、修理した年号として宝永四(一七〇七)年のみが見えるとある。
「里正」庄屋。
「禪興寺」山ノ内の浄智寺の向かいの明月谷にあった禅寺であるが、現在は存在しない。本文でも述べている通り、現在ある明月院は同寺の塔頭の一つであった。元は北条時頼がここに建立した最明寺が廃寺となったのを、息子の時宗が再興したものが禅興寺であったが、明治の初めに廃寺となった。
「犬吉祥天音女」別本でも「犬」であるが、不審。「大」の誤字ではあるまいか?
「全明月院」「前」の誤りか、副詞で「まつたく」と訓じているか。]
△辨天社
△白山社
[やぶちゃん注:前に注した通り、現在の今泉白山神社。]
△別當今泉寺 壽福山と號す。臨濟宗〔鎌倉建長寺塔頭廣德院末。〕。享祿の棟札寫にも寺號見えたり。出山釋迦〔長九寸五分。行基作。〕を本尊とす。
[やぶちゃん注:寺に就いては既注。「出山釋迦」「出山(しゆつさん)の釋迦」像。二十九歳で出家した釈迦は、山に籠もって六年の難行苦行を終えるが、真実(まこと)の悟りを得ることが出来ない。その彼が更に真の悟りを求めんがために、雪山を出る、という釈迦悟達の直前の場面を言う。多くは水墨画禅画の画題として描かれるが、立像もある。一般には、ここでの釈迦は痩せこけたざんばら髪・伸びた爪・浮き出た肋骨といった姿で造型されることが多い。釈迦の真の悟りは、その直後、ガンジス川の畔ブッダガヤの菩提樹下で達成されるのであった。
以下は前の底本は改行せずに「△別當今泉寺」の後にベタで続いているが、改行し、ここに底本の国立国会図書館デジタルコレクションの画像にある不動堂の境内図をトリミング補正して示す。]
[やぶちゃん注:図中キャプションは、右上から左上、左上から左下の順で電子化した。]
男瀧
女瀧
前不動
不動堂
鐘樓
地藏堂
常念佛堂
別當稱名寺
○不動堂 今泉山と號す。弘仁元年、空海が創建の靈場と云ふ。石階三町許を攀緣して堂前に至る。本尊不動〔長二尺八寸。弘法作。前立及二童子あり。〕を安じ、大黑〔同作。長一尺二寸。像背に「承和元年」と彫る。〕を置。幷に石像なり。鎌倉繁榮の頃は代々の將軍、屢、參詣ありしとなり。後進の星霜を歷て、堂宇廢壞し、不動・大黑の二像も僅に窟中に安ぜしを、貞亭元年六月、直譽蓮入と云へる僧、宿願に依り、江島辨天に參寵し、靈夢を蒙り、此地の靈場を搜り得、村長永島氏と謀り、遂に再建の事を企て、三年にして堂宇落成せしとなり。 △鐘樓 元祿十五年鑄造の鐘をかく。 △常念佛堂 三尊彌陀を置く〔中尊、長二尺七寸五分。左右各長二尺六寸五分。幷に定朝作。〕。又、二十五菩薩あり〔各一尺六寸五分。同作。〕。 △地藏堂 △辨天社 今、廢社となり、脇士大黑・毘沙門及十五童子を合て、假に地藏堂中に置く。 △瀧 堂の南方にあり。二瀧、相對す。男瀧・女瀧と呼べり。 △岩屋 窟中に不動の石像を安ず。「前不動」と唱ふ。 △別當稱名寺 今泉山一心院と號す。淨土宗〔芝增上寺末。〕。古は密宗にて弘法大師の草創なり。中古、八宗兼學となり、圓宗寺と號せり〔按ずるに、上之村白山社神主の家系に、中納言法印の弟子寂心法師、寬文三年、當寺を開きしこと、見ゆ。盖、圓宗寺を開建せしなるべし。【鎌倉志】にも圓宗寺の事、見えたり。〕。後、本堂、廢壞し、此寺も無住となりしを、貞享元年六月僧蓮入〔單蓮社直譽と號す。寶永二年九月十二日寂。〕本堂を再建してこゝに住し、元祿六年、增上寺貞譽の時、彼末寺となり、今の山寺號を受くと云ふ。貞譽・祐天兩大僧正の名號二幅を什物とす。 ○榮泉寺 今圓山萬德院と號す。淨土宗〔岩瀨大長寺末。〕。開山存龍〔信蓮社貞譽と號す。天文十一年六月廿三日寂す。〕。本尊彌陀〔長二尺二寸五分。惠心作と云。〕 ○東光庵 淸光山と號す〔本寺、前に同じ。〕。本尊藥師〔長二尺二寸五分。行基作。〕を安ず。文明中、矢神右馬允某〔上杉氏の臣と云ふ。〕、開基す。後年、兵火に躍りしを、貞享三年九月、法譽是心〔作蓮社と號す。〕と云僧、再興して今の庵號を負すと云〔古鬼簿に、淸光山專修寺と記す。是、昔の寺號なるべし。〕。 ○地藏像 村東山中の徑側、岩腹に鐫れり。是は空海の彫せしなりと云。後年、首の缺崩れしより、俗に「首切地藏」と呼べり。
[やぶちゃん注:これは、本文内にも出る、現在の同地区にある浄土宗今泉山一心院称名寺(通称は今泉不動。ここ(グーグル・マップ・データ))である。元は円宗寺という八宗兼学の寺で、空海が開いたと伝える不動堂の別当を兼ねていた。後年、廃絶したが、貞享元(一六八四)年に直誉蓮入が本堂を再興し、元禄六(一六九三)年、増上寺末寺となり、山号寺号を改めて浄土宗寺院となった。第二次世界大戦前は滝修行で賑わったらしい。私も十九の頃、この水で顔を洗ったが、洗った傍から、散歩していた土地の老人がにこにこしながら、「いい瀧でしょ。夏場には子供が水浴びしたりしてるんですがね。実はこれは背後の住宅地から流れ出てるんですよ。でも彼らには可哀想だから言わないことにしています。」と忠告して呉れた。チョー! 遅過ぎ!
「弘仁元年」八一〇年。サイト「鎌倉のお寺さん」の高山氏記載の「称名寺の縁起」では、弘仁九(八一八)年頃、『弘法大師が金剛峰寺を開いてから』二年後とする。それによれば、『弘法大師が諸国巡行のおり鎌倉に至った際、紫雲に包まれ光明のさす山に出会い』、『人伝えに神仙の棲む金仙山と云うことを知った』。『大師がこの山に踏み入ると』、『忽然として翁・媼が現れ、「我等は此の山に数千年住み
大師の来るのを待っていた。此の山は二つとない霊地である。速やかに不動明王の像を刻み、密教道場の壇を築き』、『末世の衆生を救いなさい」と告げた』。『大師は、即刻二尺八寸の尊像を石で刻み本尊と定め、又同時に一尺二寸の大黒天を彫り』、『伽藍の守護神として祭った』。『時に彼の翁・媼は「此の地は水が乏しい。村里も困っているから豊かな水を進ぜよう」と傍の岩を穿ち』、『陰陽の滝をながし』、『村里に恩恵を与え、以後』、『金仙山を改め』、『今泉山と称することとなった。この翁は不動明王の化身で、また媼は弁財天の生まれ代わりと伝えられる』と縁起を記し、『称名寺は、初め』、『不動堂の別当で円宗寺と称し』、建久三(一一九二)年、『頼朝が征夷大将軍に就任の年』、『「上野村白山社家系中納言法師の弟子寂心法師」が寺を開き、密教に属し』、『頼朝も深く信仰していた』。『その後、北条九代に至った貞享二年』(一六八四年)『の夏、武州深川の僧・直誉蓮入師が江ノ島弁財天のお告げで、この山に七日独座念仏したところ』、『不思議にも、大黒天の背負い袋から毎朝』、二~三合の『米が漏れ出して』、『飢えの患いがなくなり、是から近郷の男女が帰衣し』、『お互いに協力、まもなく不動堂・阿陀堂の建立がなされた』。『時に元禄六年』(一六九三年)『芝の増上寺・貞誉大僧正より、「今泉山一心院称名寺」の山号寺号請け、当時』より『修験者道場として著名』となるとともに、『現在の浄土宗寺院としてその基礎を確立した』とある。本文とは時制に若干の違いがあるが、誤差範囲内ではある。
「攀緣」(階段を)頼りにしてよじ登ること。
「幷に」どちらも。
「元祿十五年」一七〇二年。
「寂心法師」不詳。
「寬文三年」一六六三年。
「盖」「けだし」。
「【鎌倉志】にも圓宗寺の事、見えたり」「新編鎌倉志卷之三」の「○不動堂〔附男瀧 女瀧〕」に、
*
不動堂は今泉村の内にあり。今泉山と額あり。不動の石像、弘法の作と云ふ。堂の向ふに瀧あり。高さ一丈計あり。南北に相ひ向て落つ。南を男瀧(をだき)と云、北を女瀧(めだき)と云ふ。寺號は圓宗寺と云ふ。今八宗兼學也。
*
「榮泉寺」廃寺。位置不詳。
「東光庵」「淸光山專修寺」廃寺。位置不詳。
「古鬼簿」古い過去帳。言わずもがなであるが、寺院で檀家・信徒の死者の俗名・法名・死亡年月日などを記しておく帳簿のこと。点鬼簿。
「鐫れり」「ほれり」。
「首切地藏」不詳。現存しないと思われる。江戸時代、博徒間で地蔵の首を懐に忍ばせておくと勝負に勝つというジンクスがあった。少なくとも、今泉から一山越えた直近の「百八やぐら」の地蔵群の首がないのは、皆、その難に遇ったものである。これは崖に彫られたもののようだが、小さなものなら、そうした結果と考えることも可能である。]