□「中島敦 南洋日記」附録(帰国前後から現存する死の一ヶ月程前の最後の書簡)
[やぶちゃん注:底本年譜によれば、昭和一七(一九四二)年(満三十四歳。敦の誕生日は五月五日)、『一月中旬より約二週間、土方久功等とパラオ本島一周旅行の途につ』(といっても既に日記で見てきたように公務上の視察である)き、二月二十一日にコロールへ帰還、それから二十四日後の『三月十七日、南洋よりおそらくは東京轉勤の意を含めた出張のため歸京。嚴しい寒さのため肺炎を發し、世田谷區世田谷一ノ一二四の父田人方にて病ひを養ふに至る。六月、恢復する。七月、妻子を實家』(妻たかの郷里である愛知県碧海郡胃依佐美(よさみ)村新池(しんいけ)。現在は刈谷市半城土町新池)『へ歸してゐる間に、手稿やノート類を大量に燒却する。八月末、南洋廰へ辭表を提出し、九月七日、願により本官を免ぜられる。十月初め、文學座公演の眞船豐「鶉」を見に行くが、これが最後の小康だつた模樣である。同月中旬より喘息の發作が烈しく、心臟が衰弱する。十一月中旬、世田谷區世田谷一ノ一七七番地岡田病院に入院。十二月四日、午前六時、宿痾喘息のため同病院にて死去、多磨墓地に葬られる』とある。ここにあるように、敦は晩年の記録の多くを焼却しているため、実に今回の私の電子化は旧全集で知り得る敦の晩年、昭和一六(一九四一)年九月十日から死の昭和一七(一九四二)年十二月四日までの事蹟を概ね記載し、注釈した結果となった(また、全くの私の私事に及ぶのであるが、私は死後、慶応大学医学部に献体しており、解剖実習に使用され後に、敦と同じ多磨墓地にある同医学部の共同墓地に葬られることになっている。何か妙な縁(えにし)をふと感じた)。以下は、敦の帰国前後、先の「一月十七日」の日記の注に附した同日附の中島たか宛書簡(旧全集書簡番号一五七の次のたか宛電報(旧書簡番号一五八でその間には旧全集には書簡は存在しない)から現存する死の一ヶ月程前の最後の『文學界』編集部庄野誠一宛書簡(旧全集書簡番号一七九)までの書簡全二十二通である。]
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〇三月二日附(消印世田谷一七・三・二 パラオ。世田谷区世田谷一ノ一二四 中島たか宛。至急電報。旧全集書簡番号一五八)
チカクジョウキヨウノヨテイナニモオクルニオヨバヌ アツシ
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〇三月十九日附(東京市世田谷区世田谷一ノ一二四。横浜市中区豆口台六八 川口直江宛。葉書。旧全集書簡番号一五九)
出張で一昨日上京、當分滯在の豫定故いづれ横濱へも出掛けます、一寸お知らせ迄
寒くて堪りません
[やぶちゃん注:「川口直江」注に既出。横浜高等女学校時代の初期の教え子。]
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〇三月十九日附(東京市世田谷区世田谷一ノ一二四。横浜市中区西戸部町一ノ三四 鈴木美江子宛。葉書。旧全集書簡番号一六〇)
出張で一昨日上京。かなり長く滯在する豫定です。勿論横濱にも出掛けます、
内地は寒くて閉口。
早速風邪をひきました、
一寸お知らせまで
[やぶちゃん注:「鈴木美江子」同じく横浜高等女学校時代の初期の教え子。]
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〇三月十九日附(世田谷区世田谷一ノー二四。市内淀橋区上落合二の五四一 田中西二郎宛。葉書旧全集書簡番号一六一。)
出張で一昨日上京。
寒くて顫へてゐます、當分滯在の豫定故その中お會ひ出來ることゝ思つてゐます
取敢へずおしらせ迄
[やぶちゃん注:「田中西二郎」十一月二十七日の日記の注に既注。]
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〇三月二十二日附(世田谷区世田谷一ノ一二四。横濱市中区初音町 諸節登志子宛。盟友土方久功の版画「南洋風景」の絵葉書。旧全集書簡番号一六二)
出張で十七日の日に上京しました、かなり長く滯在する豫定ですから、その中ゆつくり横濱にも行けると思ひます、中濱君その他にも宜しくお傳へ下さい。
(寒くて ふるへて ゐます)
[やぶちゃん注:「鈴木美江子」注に既出。同じく横浜高等女学校時代の初期の教え子。]
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〇五月二十二日附(世田谷区世田谷一ノ一二四。市内王子区豊島三ノ一二 小宮山靜宛。土方久功の版画「南洋風景」の絵葉書。旧全集書簡番号一六三)
出張で十七日の日に上京しました、
寒いのに閉口してゐます、相當長く滯在の豫定、その中お合ひ出來ることでせう
一寸お知らせ迄 二十二日
[やぶちゃん注:次の書簡で一緒に注する。]
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〇五月二十二日附(世田谷区世田谷一ノ一二四。大森区北千束六二一丸ノ内洋裁内 小宮山靜宛。油絵の「南洋風景」の絵葉書。題名は同じであるが、油絵とあり、前で使われている土方のものとは全く違うものと思われる。同日附で同一の小宮山静宛であり、しかもそれがこうして残っている点に着目されたい。旧全集書簡番号一六四)
君が二月頃パラオへ向けて出した手紙が、南洋から戻つて來て、やつと昨日、こちらに着きました、
元氣でゐますか? 勉強はいそがしいんでせうね? 僕は上京以來ずつと病氣をして了つて(喘息――氣管支カタル)五月になつて、やつと外へ出られるやうになつたばかり。その中ひまな時でもあつたら、一度遊びに來て呉れませんか、玉川電車の世田谷驛(下(シモ)高井戸行乘車)下車、踏切を越してから、その邊の理髮(トコ)屋にでも聞けば、直ぐ判ります、南洋の奇談、珍談だけは澤山ありますよ、
[やぶちゃん注:太字「ひま」は底本では傍点「ヽ」。
この二通の相手小宮山静は、既にして私が「中島敦の禁断の恋の相手である女生徒を発見した」で述べた通り、曰く附きの元教え子の女生徒、敦のファム・ファータルである。一六三書簡は前に出る他の同期の教え子らへ出したものと変わらないが、一六四の頻りに自宅へと誘いかけている親密さはどうか?! そもそもこの同日附二通の書簡が存在するのは、ここに書かれているように偶然、一六三の葉書を書いて投函した後に小宮山静の南洋の敦宛書簡が転送されてきた、そこで彼女が洋裁学校に寄宿していることを知ってそちらに一六四を書いたという謂いを信じてよいものであろうか? だとするならば、一六三と一六四の記載の大きな内容の違いは不審ではあるまいか? そうした「単なる書簡類の行き違い」であった(しかなかった)なら、この二通の葉書は実は似たような文面になっていなくてはおかしと私は思うのである。この静の実家へ送られたと思しい一六三書簡が現存するということは、静の父母がこれを洋裁学校の寄宿舎に転送したものとも考え得るが、転送には時間も手間も掛かる(だから静の父母は文面を見て転送の急を感じず、近日中に静が実家に戻る日に渡したかも知れないのである)。だからこそ、普通に考えれば実際に「単なる書簡類の行き違い」であったとすれば、なおのこと、両書簡の記載内容は一致させるのが自然である(と私は思う)。ところが、一六四の書簡は如何にも手放しで喜んでいるさまが見てとれ、あたかも一六三を読んだ相手に、追伸で逢いたい、逢いに来てくれという正直な思いの丈を具体に記したものとしか私には読めない。そうしてそこには親の目を気にせずに静の訪問を慫慂している敦が見えるように思う。私はこの一六四の文面は静の親が見たらかなり警戒心を持つ部類のものだと実は感じている。無論、洋裁学校の舎監も相応に警戒するではあろうが、「パラオ」「南洋から戻つて」「病氣」「喘息」「気管支カタル」という文句や静の『私の女学校の恩師です』という言葉があれば安心するであろう。そういう観点から考えると私は実は静がパラオに送った敦宛書簡はとうの昔に東京に転送されていたのではないか? という気がしてくるのである。
即ち、一六三書簡は静の父母を安心させるためのダミーの葉書であったのではないか? と実は私は疑っているのである。かつて静の親族の御殿場の別荘を敦が借りている件(私はそこで敦と静が高い可能性で密会したと考えていることも既に述べた)、妻たかが追想する静の非常に気の強い一面などからみて、私は小宮山静の両親は、少なくとも娘が妻子持ちの敦に対してかなり特別な思いを強く持っていることを感じ取っていたと思うのである(それ故にこそ実は父母は自宅あてのそれを寄宿舎には転送しないという気もするのである。そもそも附箋や添書をした直接の転送葉書であったならば、それが書誌データに示されるはずである)。]
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〇五月二十六日 東京市世田谷区世田谷一ノ一二四。横浜市中区竹ノ丸一〇 山口比男宛。葉書。旧全集書簡番号一六五)
今ゐる父の家がどうも僕の身體によくないので、又、横濱へでも戻らうかと考へてゐるんですが、そちらの近くに空いた家が出來さうだつたら、お知らせ下さいませんか。
お願ひまで、
[やぶちゃん注:「山口比男」は注で既出。横浜高等女学校時代の同僚。]
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〇六月二十二日 東京市世田谷区世田谷一ノ一二四。横浜市中区間門町一ノ一六八 本田章宛。油絵の南洋風景の絵葉書。旧全集書簡番号一六六)
突然乍ら、そちらの近所に空(あ)いてる家はありませんか、四間(ま)はなくては困るんだが、それで四十圓程度の)もし、あるやうだつたら御面倒ながらお知らせ下さい
僕、三月末上京、暑い所から急に寒い所へ飛込んだものだから、忽ち身體をこはして了ひ、漸く昨今、外へ出られるやうになつたばかり。今ゐる家(父の家)はどうも喘息に惡いので、引越さうと思つてるんです、
[やぶちゃん注:「本田章」不詳。住所はかつて家を構えた中区本郷町や横浜高等女学校に近い。やはり旧同僚若しくは縁故者か。]
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〇七月三日 東京市世田区谷世田谷一ノ一二四。横濱市中区西戸部町一ノ三四 鈴木美江子宛。封書。旧全集書簡番号一六七)
元氣ですか?
僕は、餘り達者ともいへないけれど、とにかく毎日ずつとうちで書きものをしてゐます、所で、今ゐるうち(父の家)がどうも僕の身體に良くないので、又横濱へでも引越さうかと思つてゐるんですが、何處か心當りの所でもありませんか? もし、あるやうだつたら一寸知らせて貰へませんか。部屋は四間以上、家賃は五十圓を越さない方がいい。二階があれは申し分無いんですがね。
間門あたりが良いやうに考へたもんだから、小谷くんに賴んで見たんだが、鷺山へ引越したんだつてね。
贅澤をいつてても仕方が無いから、必ずしも間門・本牧の海の近くに限りません、何處でもいいから、若しあつたら、一寸しらせて下さい。
○何時か、君に淸書して貰つた原稿が、今度愈々一册の本にまとまつて、なつて、出ます。今月中には出る筈。もつとも、君の知らない原稿の方が多いんだが、今迄雜誌(君達の讀まない雜誌)に出したものが一册にまとまる譯です。勿論、君には上げるから買つてはいけません。
これからは大體、役人もをやめて、原稿を書いて生活して行くことになりるでせう。今も、盛んに書いてゐます。(但し、僕の書くものは、女の子の雜話には向かないから、君達の目には中々觸れないでせう)時々淸書してくれる人が欲しくなりますよ。
どうです? たまには東京へ出てくる元氣はありませんか?
僕も、横濱迄行くのは、ちと、面倒だけれど、銀座迄なら、チヨイチヨイ出掛けます。(もつとも今月の一番おしまひの日曜にはクラス會があるといふので、横濱に行きます)
七月三日 中島
此の際だから、家(うち)は滅多に無いでせうから、さう無理をして探してくれなくてもいいのです。唯、何か心當りでも、あつたら、といふ程度。
[やぶちゃん注:「一册の本にまとまつて、出ます。今月中には出る筈」七月十五日筑摩書房刊の第一作品集「光と風と夢」(収録作は「古譚」(「狐憑」「木乃伊」「山月記」「文字禍」のオムニバス)・「斗南先生」・「虎狩」・「光と風と夢」の七篇)のこと。
「時々淸書してくれる人が欲しくなりますよ」明らかに慫慂している。しかし、先の小宮山静に対するような、行程を記したすこぶる具体なそれではない点に注意されたい。]
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〇七月八日附(世田谷区世田谷一ノー二四。 王子区豐島三ノ一二 小宮山靜宛。土方久功版画「南洋の少女」の絵葉書。旧全集書簡番号一六八)
鹽原からのお葉書有難う。東京も仲々暑いやうですね 南洋歸りにも餘り涼しいとは思へません。是非一度お會ひしたいのですが、王子は餘りに遠くて閉口します。所で、君の洋裁學校は、まだ授業があるのですか? もし、まだ、北千束の寄宿の方にゐるやうだつたら、土曜日に王子へ歸る時にでも澁谷迄廻り路できませんか? 僕の方からでも、澁谷までなら直ぐ出られるのですが。
…………………………………………………………
僕の最初の本が今月中に出る筈。これからは、カキモノをして生活して行くことになります、
[やぶちゃん注:「鹽原」は避暑に赴いた那須塩原であろうか。小宮山静の家はなかなかに裕福であったことが分かっている。
「…………………………………………………………」この点線は非常に気になる。実は彼の書簡の中には実はこうしたリーダそのものが驚くべきことに殆んど全く使用されていないのである!(敦が好んで用いるはダッシュ「――」) ではこの六十六点にも及ぶリーダは何か? これがもし、底本全集編者による省略を意味するものであるならば、その旨の注記は後記や解題に注記されていなくてはならないが、それはない。従ってこれは省略ではない。そもそもこれは絵葉書であるから、これらの文面の文字量から見ても、六十六点で既定の一マス三点リーダとしても二十二文字分が省略されるというのは、奇異なことであり、それを全集編者が注記し忘れるというのは考え難い。しかもよく見ると、このリーダの行は三文字分下が空いている。これは寧ろ、元の絵葉書では、書信欄にはこの行にこうしたリーダが打たれてあって、前後の行の下から三字目辺りまでそのリーダが打たれてあることを意味していると私は読む(私が全集編者ならばそういう意味としてこのリーダを打つ。因みに、そもそもこの六十六点のリーダ点数は元の数値と本当に一致しているかどうか甚だ疑問である)。
ともかく、この一行分のリーダは、中島敦書簡の中の、稀に見る特異点なのである。そしてそれはそれを見た小宮山静にとっても特異なものとして映ったはずである。彼女は敦の教え子である。敦の小説や私信ばかりではなく、教師の彼が黒板やプリントに書くものを数多く見て来た彼女にとっても、明らかにこのリーダは特異点であったということに気づかねばならない! これは敦の静への秘密のメッセージ、それが大袈裟なら、彼女と逢いたいという思いを彼女にだけ分かるように示したマークなのではあるまいか? これは実家宛であるから父母も見るであろう。従って、それ以上の具体な慫慂を避けたのであろう。そして次行に近日刊行される作品集のことを述べておけば、小宮山の両親はそちらの方に惹きつけられ、我が子のかつての国語教師の小説家デビューを快く思い、前半部の押しつけがましい誘いをさまで意に介さなかったのではないか? とも思うのである。
なお、年譜には示されていないのであるが、たかの回想に基づく進藤純孝氏の推測によれば(平成四(一九九二)年六興出版刊「山月記の叫び」)、実はこの手紙の直後と思われる昭和十七年の夏に、敦は小宮山静の実家所縁の御殿場の貸間か貸家か貸別荘に滞在していた可能性が疑われている(そこで敦は静と密会していた疑いも当然の如く浮上してくる)。これは私の「中島敦の禁断の恋の相手である女生徒を発見した」を参照されたい。さすれば、こうした事実を考えると、実は小宮山の両親は実は敦に対して警戒心を全く持ってはいなかった可能性さえも十分に出てくるのである。]
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〇七月八日 東京市世田谷区世田谷一ノ一二四。横浜市中区豆口台六八 川口直江宛。土方久功版画「南洋風景」の絵葉書。旧全集書簡番号一六九)
御手紙有難う
相當暑いやうですね 南洋歸りにも、餘り涼しくはないから、やうです、僕の本は、印刷屋の都合で、恐らく今月末になるでせう。「光と風と夢」といふ題。筑摩書房といふ所本屋からの發行。この本の名は僕がつけたのではありません、
[やぶちゃん注:「この本の名は僕がつけたのではありません」作品集の標題ともなっている小説「光と風と夢」は当初、「ツシタラの死」であったが、初出の『文學界』に発表されるに際して、四月七日附の同編集担当者からの敦への葉書に、『河上鐡太郎氏等と相計りました結果』『題名變更していただき度』『何か他の題名をお考へ下さいませんでしようか』『もう少し抽象的な一寸題名丈では内容がわからぬやうなものを願ひたい』(底本全集第一巻解題より引用)と要請があり、どうも敦はしぶしぶ改題したものらしいことがこの教え子宛の書簡で分かる。なお、その時の改題候補は残存しており、「暖風」「風日」「津涯」「凱風」「風と佛桑華」「風吹く家」「風吹く丘の家」「風と夢」「風と光と夢」そして「光と風と夢」であったと同解題に記されてある。売れ筋ということで言えば確かにそうだが、実は私は以前からこの「光と風と夢」というNHKの大河ドラマみたような標題や題名が好きになれないでいるのである。――「ツシタラの死」――うん、敦ちゃん、やっぱり――これだよね……]
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〇七月二十四日附(東京市世田谷区世田谷一の一二四。 横濱市中区西戸部町一ノ三四 鈴木美江子宛。葉書。旧全集書簡番号一七〇)
この日曜(二十六日)には午後、四組のクラス會があり、夜は女學校の先生方と會食する筈で、横濱へ出掛けますので、もし都合がついたら午前十一時頃(十一時から十一時五分位迄の間に)櫻木町驛まで來て呉れませんか。別に用は無いのですから忙しいやうだつたら、勿論、來るには及びません、たまにしか濱へ行かないから、一度にかためて皆に會つておかうと思ふのです。
[やぶちゃん注:太字「かためて」は底本では傍点「ヽ」。]
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〇八月六日 世田谷区世田谷一ノ一二四。淀橋区上落合二の五四一 田中西二郎宛。葉書。旧全集書簡番号一七一)
お褒めに預かつて恐縮です。單行本の方はもう近日中に出る筈。出たら送りませう。とにかく、一度遊びに來て下さい(但し、明七日から女房の郷里へ一寸行つてくるので、七日――九日迄は不在ですが、十日からさきはずつと内にゐます。)南洋廰へは辭表を出しました。作品が書きたいからではなく、身體が(南洋へ又行くのでは)持たないからです。
とにかく一度將棋でもさしに來て下さい。學校をやめる時、生徒等の贈つてくれた上等のバンがあります、
[やぶちゃん注:宛名の淀橋区は現在の新宿区。
「單行本の方は近日中に出る筈」第一作品集「光と風と夢」の書誌上の発行は七月十五日であるが、次のどうも妻のたか宛書簡を見ても、時期が時期でもあり、実際の販売は遅れたことが分かる。後の一七三書簡によって八月十一日前後には店頭に出たものと思われる。
「南洋廰へは辭表を出しました」冒頭に引用した年譜では辞表の提出を八月末とするが、この記載から見ると、七月末かこの八月六日以前の八月初めであることが分かる。問題は、免官の辞令が九月七日であることで、とすると退職願が一ヶ月も留保されて(ということは一ヶ月分の給与が彼に支払われた)ことになる点か。]
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〇八月十一日 東京市世田谷区世田谷一の一二四。愛知県碧海郡依佐美村高棚新地橋本辰次郎様方 中島たか宛。葉書。旧全集書簡番号一七二)
吐氣(け)は無くなつたかい? 身體が良くなつたら御病人の身體でもさすつて上げることだ、
こちらのおぢいちやんにも話をして置いたから、桓の學校に間に合ふ程度に、ゆつくり、そちらで骨を休めてくるがいい。十八・九日頃にでも歸ればいいだらう。歸りにテイちやんにでも送つてきて貰へるのだつたら汽車賃を送るよ。誰も送り手が無ければ僕が又迎へに行つてやらう。そちらも草取で忙しいんだから、無理して送つて頂くことはない。土屋さんの小母さんから手紙が來たので、家のことかと思つて開けたら、さうぢやない。僕の本の廣告を見て有隣堂へ行つたら、まだ來てなかつたといふ。有隣堂には大分註文が來てるらしいとのこと。もつとも、横濱で賣れなかつた日にはアガツタリだからな。皆さんに宜しく。狸の樣な犬にも。
[やぶちゃん注:たかの帰郷は親族の見舞いが目的であったことが分かる。]
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〇八月十三日附(東京市世田谷区世田谷一ノ一二四。横浜市中区豆口台六八 川口直江宛。葉書。旧全集書簡番号一七三)
大分遲くなつたが、本、もう出た筈。有隣堂へでも行つて御覽なさい。
裝幀は割りに氣に入つてゐます、紙質は今は、あれ以上どうしようも無いのです、
君達にも一册づつ上げたいのだが、本屋が少ししか呉れないから、仕方がありません。
今月末までに、次の本一册分を書上げて本屋(別の)に渡す約束なので、この所少し忙しいのです、
牧野さんに會つたら宜しく傳へて下さい、
[やぶちゃん注:「今月末までに、次の一册分を書上げて本屋(別の)に渡す約束」第二創作集「南島譚」のことで、年譜によれば、この八月中に同創作集に載せる「幸福」「夫婦」「雞」の三篇(同作品集で総題を「南島譚」とするオムニバス)を完成させ、九月八日には「過去帳」(「かめれおん日記」と「狼疾記」二篇)と、「南島譚」三篇脱稿、同年十一月十五日に「今日の問題」社より刊行している。なお、この間の十月末には「李陵」の初期稿を書き上げており、相当に無理を重ねていることが分かる。第二創作集「南島譚」の収録作は「南島譚」(「幸福」「夫婦」「雞」)・「環礁―ミクロネシヤ巡島記抄―」(「寂しい島」「夾竹桃の家の女」「ナポレオン」「眞晝」「マリヤン」「風物抄」の六篇構成)・「悟淨出世」・「悟淨歎異―沙門悟淨の手記―」・「古俗」(「盈虚」「牛人」のオムニバス)・「過去帳」(「かめれおん日記」「狼疾記」)の十五篇。]
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〇八月二十七日 東京市世田谷区世田谷一の一二四。靜岡県御殿場町上町 小宮山静宛。土方久功版画「南洋風景」の絵葉書。旧全集書簡番号一七四)
御手紙拜見、
御殿場での生活は樂しさうで、羨ましいな、
何時頃迄そちらにゐるんですか? 東京へ歸つたら、一度ぜひ、ウチへ來て下さい、
君の今ゐるのは、いつか、僕も一度寄つたことのある、あの活版屋さんの家ですか? いつかの勝又さんの所みたいに長く置いてくれる所があつたら僕も仕事をしに行きたいものですね
[やぶちゃん注:この書簡については私の「中島敦の禁断の恋の相手である女生徒を発見した」も参照されたい。そこで示した敦御殿場行という進藤氏の推理が正しいとするならば、この時点では、まだ敦は御殿場に行っていない。しかし、この文面は意味深長であはある。小宮山静が滞在している場所を明確に確認していること、まさに最後の創作の燃焼の最中にあった彼が「長く置いてくれる所があつたら僕も仕事をしに行きたい」と渇望していること、がである。これに対して、静が敦の意に添うように応えたとしたら……そうして彼女自身も翌月までその御殿場に滞在することにしていた、若しくは、滞在を引き延ばしたとしたら……]
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〇八月三十一日 世田谷区世田谷一ノ一二四。麹町区内幸町二ノ一文藝春秋社内「文學界」編輯部 庄野誠一宛。葉書。旧全集書簡番号一七五)
前略、
先日お送り申上げました原稿の下書を昨日讀返して見ました所餘りの酷さに我乍らいやになつて了ひました。殊に二番目の「夫婦」と題するものなど、全く冷汗が出ます。どうしてあんなものをお送りしましたものか、さぞ御迷惑なすつたことと存じます
それで、甚だ勝手な事ばかり申しますが、其の後書いて見ました短いもの二つ(やはり南洋もの)を別便でお返り致します故あの「夫婦」の代りに、その中の一つをお選び下さるやう(もし採れる程度のものでしたら)お願ひしたいのです。勿論この二つも又、あとで讀返せば冷汗ものかも知れませんが、あの「夫婦」では何としてもひどいと思ひますので。
但し、以上は、拙稿がお採り願へるものとしての話ですが、もし面白くないやうでしたら、本當に御遠慮なく、前の分も、今度の分も其の儘お送り返し頃ひます。自分でも少しも自信の無いものなのですから、本當に御遠慮なく、どうぞ。
[やぶちゃん注:なかなか意外な展開となるであるが、結局、『文學界』はこの三篇総てを捨てることになる。既に示した第二創作集のリストでもなんとなく分かるのだが、その理由は後掲する最後の書簡(旧全集書簡番号一七九)で明らかとなる。]
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〇九月九日 東京市世田谷区世田谷一の一二四。横浜市中区西戸部町一の三四 鈴木美江子宛。土方久功版画「南洋風景」の絵葉書。旧全集書簡番号一七六)
本を送ります、
二册目の本の原稿を漸く書上げて昨日本屋に渡したところです。やつと少しひまになりました。
本當に、一度こちらへ遊びにきませんか。今度の(十三日)の日曜はふさがつてゐるけれど、次の日曜か、秋季皇室祭にでも、どうです? 澁谷まで迎へに行きますよ、
下さい、
[やぶちゃん注:次の書簡と一緒に注する。]
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〇九月十八日 東京市世田谷区世田谷一の二一四。横浜市中区西戸部町一の三四 鈴木美江子宛。葉書。旧全集書簡番号一七七)
それでは、二十四日の午前十一時頃澁谷につくやうに(東横線で大體一時間近くかゝるものと見て)出てきませんか。
もし君の方が早かつたら、電車を降りた所で待つてゐて下さい、
改札口を出ると、まぎれ易いから。
ノボルは今おできを澤山こしらへてゐてミツトモナイつたらありません、
もし、そちらの都合がよかつたら、ですよ。無理をしなくてもいいんですよ
[やぶちゃん注:同じ教え子でも一七三書簡の川口直江には献本していないし、文面に温度差があるが、これはこの鈴木美江子がかなり特別な存在であったからである。表面上は一六七の彼女宛に書かれているように、当該作品集の中の比較的古い作品の一つの初期原稿の清書を彼女が手伝っている手前、事前に献本を予告していたからではある。但し、敦が小宮山静以外に、この鈴木美江子に対しても、かなり特別な感情を抱いていたことも想像に難くはない。しかし、それは小宮山静に対する秘すべきそれとはやはり質を異にするものであったであろうことは、例えば次男の格(のぼる)のことを記している辺りにも窺える。原稿の清書を頼める信頼すべき才媛であったものと思われる(彼女はまた次の書簡に表われるように子ども好きであったものらしい。格は昭和一五(一九四〇)年二月生まれで、この時満二歳半を過ぎていた)。]
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〇十月二十一日附(東京市世田谷区世田谷一ノ一二四。 横浜市中区西戸部町一ノ三四 鈴木美江子宛。封書。旧全集書簡番号一七八)
十七日の日には行くと約束しておいたのに、御免なさい、身體の工合も良くなかつたし、それに、あの天氣だつたからです、もう一つ、本印刷屋から校正が出てゐる最中でもあつたのです、(その校正はもう濟みました。本は十一月中に出來上るさうです)校正の時になると、君がそばにゐてくれればいいなと思ひます 十七日の代りに今度の日曜と思つてゐた所、多摩墓地迄行かなければならない用事が出來て了つて、これも駄目。
あの女學校の同窓會の日といふと、どうして決つたやうに天氣が惡くなるんでせうね? 全く不思議なくらゐ。級の人、たくさん集まりましたか?
去年は冬を知らないで了つた譯なので、屹度今年の寒さは身にこたへることゝ覺悟してゐます、今からビクビクしてゐるのんですよ。もう一月ぐらゐは、まだ大丈夫だけれど。その大丈夫な間に一度は横濱へ出かけたいと思つてゐます
それから、この間、君がうちに來て呉れた時桓におみやげを殘して行つたんですね?(あの時は氣が付かなかつたのです)どうも有難う。
いづれ、又、お會ひした時に。(どうも、僕が行くのは、君の迷惑になりさうだな?)
二十一日 敦
[やぶちゃん注:最後の「どうも、僕が行くのは、君の迷惑になりさうだな?」というのはやや意味深長な台詞ではある。
さて、実は私が気になるのは、この書簡の日附なのである。
この前の一七七は同じ鈴木美江子宛で、そこでは九月二十四日に渋谷で逢うことを約束している(これは果されたものであろう)。ところが次にあるこの書簡の日付けは一ヶ月近く後の十月二十一日である。そしてその内容は十七日に開かれた、敦も出席することになっていた横浜高等女学校の同窓会に欠席したお詫びから始まっている。しかも、そのそこではかなりくどい言い訳がなされている。当日の悪天候、第二作品集の校正(そこでは彼女をくすぐるような台詞も添えてある)、そして「十七日の代りに今度の日曜と思つてゐた所、多摩墓地迄行かなければならない用事が出來て了つて、これも駄目」とあるのであるが、この部分、当年のカレンダーを見ると、この十月十七日は土曜であり、「今度の日曜」が翌十八日日曜とは思われないから、例えばこの謂いは、美江子たちが、敦が十七日に来れなかったことから急遽、これから来る二十八日の日曜日に親しい者たちに声を掛けて敦を囲む会をしようと誘ったのに対する答えではないかと思われる。その日は「多摩墓地」に用があって駄目だと(「多摩墓地」は「多磨墓地」であろう。彼が一月半後に葬られる場所である。親族の墓地なのであろうが、読む者には何か不吉なものを感じさせずにはおかない)。――これらは年譜上の記載から見る限りでは、特におかしなところは見受けられない。確かに事実なのであろうとは思われる。――思われるが――実はこの書簡の凡そ一ヶ月の空白が気になるのである。年譜も唯一、『十月初め、文學座公演の眞船豐「鶉」を見に行くが、これが最後の小康だつた模樣である。同月中旬より喘息の發作が烈しく、心臟が衰弱する』がそこを埋める乏しいデータなのである。喘息の悪化が起こるのはこの手紙を書いた頃、中旬以降なのであってみれば、この空白はやや解せない。第二作品集の校正に没頭していたとしても書簡のやり取りはもってあってよいはずである(あったけれども消失したと言われればそれまでだ)。それがないのではなぜか? 彼はこの九月二十五日(鈴木美江子と渋谷で逢った翌日)から十月初旬(文学座の公式サイトの「過去の上演作一覧」によれば、同年の文学座公演の眞船豊「鶉」はまさに十月一日から十五日まで築地の国民新劇場で上演されている)最低でも一週間、長ければ最長十九日の空白が生ずることになる。進藤純孝は、この年の御殿場行を『南洋から帰った昭和十七年の夏過ぎのことかも知れません』と推測しているが、この時期にそれを仮定してみても決して無理はないように私には思われるのである。]
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〇十月二十八日附(世田谷区世田谷一ノ一二四。麹町区内幸町二ノ一 文藝春秋社内「文學界」編輯部 庄野誠一宛。封書。旧全集書簡番号一七九)
前略
誠に申し譯無いことを申上げなければなりませんのですが 實はこの九月に「今日の問題社」といふ所から一册分の原稿を求められました時枚數が足りませぬままに、此の前そちらにお送りしました拙稿の下書を他の原稿と一緒に、つい、渡して了つたのです、いづれ出來上り迄には半年位はかかるのだらうと考へてのことなのですが、その後、その本(若い人達ばかりの叢書です)が大變早く出來上りさうな樣子で、先方の話では何でも十一月中には出ると申します さうしますと結局あれはもう今後の雜誌の原稿にはなり得ない譯ですから、勝手な事ばかり申しまして恐縮ですが、何卒お燒捨て下さるなり何なり御處分下さいますやうお願ひ致します、大騷ぎして御一讀をお願ひして置きながら今更こんな事をいへた義理ではないのですが慣れぬ事とて、つい、こんなへンなことをして了ひまして誠に申譯無く存じます、深くお詫致します 又その中何か出來ましたら(今、史記の作者のことをいぢくつてをります)見て頂き度く存じてをります、今度はもう決してこんな妙な眞似は致しませんから、
小生、まだ南洋廰からお暇が出ません、今度又あちらへやらせられれば身體のもたない事は判りきつてゐますので之だけはどうあつても頑張つてやめさせて貰はうと思つてをります
匆々
十月二十八日 中島敦
庄野誠一樣
[やぶちゃん注:この書簡が旧全集の「書簡Ⅰ」の掉尾である(「書簡Ⅱ」は南洋日記で一部を電子化した長男桓(たけし)や格への書簡類)。それがまた、作家としては許されざる二十投稿の謝罪文であるというのも、何か痛ましい感じがする。但し、「まだ南洋廰からお暇が出ません」というのは年譜的事実からは嘘である。既に示したように凡そ二ヶ月も前の九月七日附で敦は南洋庁勤務を解かれている。これも弁解の際に同情を買うための方便ででもあったのかも知れない。なお、ここで敦が述べる畢生の名作「李陵」は、既にそのように取り決めてあったものか、死後の翌昭和一八(一九四三)年七月号『文學界』に掲載されてある。]