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カテゴリー「「日本その日その日」E.S.モース 石川欣一訳【完】」の581件の記事

2016/02/13

E.S.モース著石川欣一訳「日本その日その日」の石川千代松「序――モース先生」 附東洋文庫版「凡例」(引用) / 全電子化注完遂!

E.S.モース著石川欣一訳「日本その日その日」の石川千代松「序――モース先生」 附東洋文庫版「凡例」(引用)

 

[やぶちゃん注:底本は今までと同じく平凡社東洋文庫一九七〇年刊のE・S・モース著石川欣一訳「日本その日その日」を用いた。

 考えてみたら、ちゃんと訳者の紹介をしていなかったので、ここで改めて御紹介しておく。ウィキの「石川欣一」より引く。石川欣一(きんいち 明治二八(一八九五)年~昭和三四(一九五九)年)は東京生まれのジャーナリスト・随筆家・翻訳家。主に毎日新聞社に属した。父は動物学者で以下の「序――モース先生」の著者であるモースの直弟子石川千代松で、母の貞は法学者の箕作麟祥(みつくりりんしょう/あきよし 弘化三(一八四六)年~明治三〇(一八九七)年)の娘である(因みに、東京帝国大学理科大学で日本人初の動物学教授となった箕作佳吉(安政四(一八五八)年~明治四二(一九〇九)年)は麟祥の従兄弟である)。明治三九(一九〇六)年に東京高等師範学校附属小学校尋常科(現在の筑波大学附属小学校)、大正二(一九一三)年に東京高等師範学校附属中学校(現在の筑波大学附属中学校・高等学校)を卒業、大正七(一九一八)年二十三歳の時、東京帝国大学英文科からアメリカのプリンストン大学に転じて一九二〇年に卒業、帰国後は『大阪毎日新聞社の学芸部員となった。留学中、父千代松の恩師、大森貝塚のエドワード・S・モースの知遇を得、その縁が、モースの『日本その日その日』の邦訳・出版』(一九二九年)に繋がった。その後、『大阪毎日新聞社から東京日日新聞社へ移り』、昭和八(一九三三年)から昭和十年まで、『ロンドン支局長を勤め』、昭和十二年に『大阪毎日新聞社文化部長となった。勤務の傍ら、随筆・翻訳の執筆にはげんだ』。昭和一七(一九四二)年(四十七歳)、『日本軍が占領したフィリッピンのマニラ新聞社に出向したが』、二年後の昭和十九年十二月、『アメリカ軍の反攻上陸をルソン島の山中に避け』、敗戦の翌月、新聞報道関係者二十二人を率いて投降、同年末に帰国した。『戦後は、毎日新聞社出版局長、サン写真新聞社長などを歴任した』とある。

 彼の父であり、「序――モース先生」の著者石川千代松(ちよまつ 万延元(一八六〇)年~昭和一〇(一九三五)年)は日本の動物学者で進化論学者。明治四二(一九〇九)年に滋賀県水産試験場の池で琵琶湖のコアユの飼育に成功し、全国の河川に放流する道を開いた業績で知られる。以下、ィキの「石川千代松によれば、『旗本石川潮叟の次男として、江戸本所亀沢町(現在の墨田区内)に生まれた』が明治元(一八六八)年の『徳川幕府の瓦解により駿府へ移った』。明治五年に『東京へ戻り、進文学社で英語を修め』、『東京開成学校へ入学した。担任のフェントン(Montague Arthur Fenton)の感化で蝶の採集を始めた』。明治一〇(一八七七)年十月には当時、東京大学教授であったモースが、蝶の標本を見に来宅したことは本作にも既に出ているから(「第十章 大森に於る古代の陶器と貝塚 49 教え子の昆虫少年を訪ねる」)、モースにとってはこの青年も旧知の仲であったのである。翌明治十一年、東京大学理学部へ進んだ。モースが帰米したあとの教授は、チャールズ・オーティス・ホイットマン、次いで箕作佳吉であった。明治一五(一八八二)年、動物学科を卒業して翌年には同教室の助教授となっているとあるので、モースが逢った時はまだ「教授」でも「助教授」でもなかったものと思われる。その年、明治一二(一八七九)当時のモースの講義を筆記した「動物進化論」を出版しており、進化論を初めて体系的に日本語で紹介した人物としても明記されねばならぬ人物である。その後、在官のまま、明治一八(一八八五)年、新ダーウィン説のフライブルク大学』(正式名称は「アルベルト・ルートヴィヒ大学フライブルク」(Albert-Ludwigs-Universität Freiburg)。ドイツ南西部のバーデン=ヴュルテンベルク州フライブルク・イム・ブライスガウにある国立大学)『アウグスト・ヴァイスマン』(Friedrich Leopold August Weismann 一八三四年~一九一四年:フライブルク大学動物学研究所所長で専門は発生学・遺伝学)の下で学び、『無脊椎動物の生殖・発生などを研究』、明治二二(一八八九)年に帰国、翌年に帝国大学農科大学教授、明治三四(一九〇一)年に理学博士となった。『研究は、日本のミジンコ(鰓脚綱)の分類、琵琶湖の魚類・ウナギ・吸管虫・ヴォルヴォックスの調査、ヤコウチュウ・オオサンショウウオ・クジラなどの生殖・発生、ホタルイカの発光機構などにわたり、英文・独文の論文も』五十篇に上る。『さかのぼって、ドイツ留学から帰国した』明治二十二年の秋には、『帝国博物館学芸委員を兼務』、以降、『天産部長、動物園監督になり、各国と動物を交換して飼育種目を増やした。ジラフを輸入したあと』、明治二八(一九〇七)年春に辞した。「麒麟(キリン)」の和名の名付け親であるとされる。

 さてここに一つ問題がある。

 それは「凡例」の電子化である。これは平凡社東洋文庫編者によって附されたものであるから当然の如く著作権が存続している。しかもこれはまさに編集権に関わる内容注記である。しかし、この「凡例」の内容は私が全電子化注を終えた訳文全体に関わる極めて重要な変更点が注されてあるものであり、これを電子化しないことは、私の電子テクストについての書誌上の重要な変更箇所が明記されず欠落してしまうことになる。別に私が言い換えても構わないのではあるが、寧ろ、そのまま引用する形で示すのが礼儀というものであろうと私は考える。従って以下に《引用》することとする(底本では各条は二行目以降が一字下げであるが再現していない。最初の第一条内の『日本その日その日』の署名の後半の「その日」は底本では踊り字「〱」である)。

   《引用開始》

 

  凡  例

 

一 本書は、Edward Sylvester Morse“Japan day by day”1977 Boston. の全訳であり、故石川欣一訳『日本その日その日』(上下)(昭和四年十一月、科学知識普及会発行)の覆刻である。

一 本文庫におさめるに当たっては、原訳を尊重し、その原文をそこなわないようにつとめているが、読み易くするために、新仮名・新字体をもちい、難読のものにふり仮名を付し、外国語の漢字表記は仮名書きに改めるなど、若干手を加えている。また明らかに誤りと思われる個所は、創元選書『日本その日その日』(昭和十四年十一月、創元社発行)を参照し、訂正した。

一 モース自身のスケッチによる挿図は、すべて原著から改めて採録した。

 

   《引用終了》

 なお、今一つ、原文校合参照にさせて戴いた Internet Archive の同原書の第二巻の冒頭に本書に掲げられていないBunzou Watanabe(第一巻の冒頭にもあった)なる画家の水彩彩色画のカラー画像二枚を見出せたのでここにやはり掲げておく。キャプションは、

Japandaybyday18702morsuoft_0010

JAPANESE EXTERIOR AND INTERIOR

Village Street, Asama Hot Spring, and Room in Inn. Miyanosita

Watercolor by Bunzou Watanabe,1882

 

とある。――日本家屋の外見と室内――浅間温泉の村道と宮ノ下の旅館の部屋――ブンゾウ・ワタナベによる水彩画――で、宮ノ下は箱根のそれであろう。

 私はモースの同書の本文訳の電子化が目的であったのであり、ここで訳版の石川千代松の序の文章に注を附すことになると、管見するだけでも知らない人名・地名が多数出現し、これでは相当な調査と注が必要となり、それにひどく時間がかかることになることが予想された。これは訳の序であって、本文ではない。さればこそ注は地名や人名には原則附さないこととした。但し、私の知的欲求が望んだところの一部の例外が含まれる。悪しからず。]

 

 

     序――モース先生   石川千代松

 

 一八八七年の春英国で科学の学会があった。此時ワイスマン先生も夫れへ出席せられ、学会から帰られた時私に「モースからお前に宜しく云うて呉れとの伝言を頼まれたが彼れは実に面白い人で、宴会のテーブルスピーチでは満場の者を笑わせた。」夫れから後其年の十一月だと思ったが、先生がフライブルグに来られた事がある。其時折悪くワイスマン先生と私とはボーデンセイへ研究旅行へ行って留守であった。であったのでウィダーシャイム先生が先生を馬車に載せて市の内外をドライブした処カイザー・ストラーセに来ると、モース先生が、「アノ家の屋根瓦は千年以上前のローマ時代のものだ。ヤレ彼処にも、此処にも」と指されたので、ウィダーシャイム先生も始めて夫れに気付き、後考古学者に話して調べた処、夫れが全て事実であったと、ウィダーシャイム先生もモース先生の眼の鋭い事には驚いて居られた。先生の観察力の強い事では此外幾等も知れて居るが、先生はローウエルの天文台で火星を望遠鏡で覘いて其地図を画かれたが、夫れをローウェルが前に研究して画いたものと比べて見た処先生の方が余程委しい処迄出来て居たので、ローウェルも驚いたとの事を聴いて居た。夫れで先生は火星の本を書かれた。処が此本が評判になって、先生はイタリア其他二、三の天文学会の会員に選ばれたのである。私が一九〇九年にセーラムで先生の御宅へ伺った時先生は私に Mars and its Mystery を一部下さって云われるのに、お前が此本を持って帰ってモースがマースの本を書いたと云うたらば、日本の私の友達はモースは気が狂ったと云うだろうが、自分は気が狂って居ない証拠をお前に見せて置こうと、私に今云うた諸方の天文学会から送って来た会員証を示された。此時又先生が私に見せられたのは、ベルリンの人類学会から先生を名誉会員に推薦した証書で、夫れに付き次ぎの様な面白い事を話された。自分がベルリンへ行った時フィルショオが会頭で人類学会が開かれて居た。或る人に案内されて夫れへ行って見た処南洋の或る島から持って来た弓と矢とを前に置いて、其使用方を盛んに議論して居た。すると誰かがアノ隅に居るヤンキーに質して見ないかと云うので、フィルショオから何にか良い考えがあるならば話せと云う。処が自分が見ると其弓と矢とは日本のものと殆んど同じで、自分は日本に居た時弓を習ったから、容易にそれを説明した処が大喝采(かっさい)を博した。で帰って見たら斯んな物が来て居たと。先生は夫れ計(ばか)りでなく、実に多才多能で何れの事にでも興味を有たないものはなく、各種の学者から軍人、商売人、政治家、婦人、農民、子供に至る迄先生が話相手にせないものはない。殊に幼い子供を先生は大層可愛がられ、私がグロ-スターのロブスター養殖所へと行くと云うたら、先生が私に自分の友達の婦人を紹介してやると云われたので、先生に教わった家へ行って見ると、老年の婦人が居て、先生の友達は今直きに学校から帰って来るから少し待って下さいと云われるので、紹介して下さった婦人は或いは学校の先生ででもあるのかと思い、待って居ると、十四、五位の可愛い娘さんが二人帰って来て、一人の娘さんが、此方(こちら)は自分のお友達よと云うて私に紹介され、サー之(こ)れからハッチェリーへ案内を致しましょうと云われて、行ったが、此可憐の娘さんが、先生の仲好しの御友達であったのだ。先生は日本に居られた頃にも土曜の午後や日曜抔には方々の子供を沢山集め、御自分が餓鬼大将になって能く戦争ごっこをして遊ばれたものだが、又或る時神田の小学校で講演を頼まれた時、私が通訳を勤めた。先生の講演が済んだ後、校長さんが、先生に何にか御礼の品物でも上げ度いがと云われるので、先生に御話した処自分は何にも礼を貰わないでも宜しい。今日講演を聴いて呉れた子供達が路で会った時に挨拶をして呉れれば夫れが自分には何よりの礼であると申された。

 今云うた戦争ごっこで思い出したが、先生の此の擬戦は子供の遊戯であった計りではなく、夫れが真に迫ったものであったとの事である。夫れは当時或る日九段の偕行社の一室で軍人を沢山集めて、此擬戦を行って見せた事があったが、其時専門の軍人達が、之れは本物だと云うて大いに賞讃された事を覚えて居る。

[やぶちゃん注:「偕行社」「かいこうしゃ」と読む。戦前、帝国陸軍将校准士官の親睦・互助・学術研究組織として設立された組織。]

 斯様(かよう)に先生は各方面に知人があって、又誰れでも先生に親んで居たし、又直ぐに先生の友人となったのである。コンクリン博士が先生の事に就き私に送られた文章に「彼れは生れながら小さい子供達の友人であった計りでなく又学者や政治家の友人でもあった」と書いて居られるが実に其通りである。

 先生が本邦に来られたのは西暦一八七七年だと思って居るが、夫れは先生が米国で研究して居られた腕足類を日本で又調べ度いと思ったからである。で其時先生には江の島の今日水族館のある辺の漁夫の家の一室を借りて暫くの間研究されたが、当時我東京大学で先生を招聘(しょうへい)したいと云うたので、先生には直ぐに夫れを承諾せられ一度米国へ帰り家族を連れて直ぐに又来られたのである。此再来が翌年の一八七八年の四月だとの事であるが、夫れから二年間先生には東京大学で動物学の教鞭を執って居られたのである。

 其頃の東京大学は名は大学であったが、まだ色々の学科が欠けて居た。生物学も其一つで此時先生に依って初めて設置されたのである。で動物学科を先生が持たれ植物学科は矢田部良吉先生が担任されたのであった。先生の最初の弟子は今の佐々木忠次郎博士と松浦佐与彦君とであったが、惜しい事には松浦君は其当時直きに死なれた。此松浦君の墓は谷中天王寺にあって先生の英語の墓碑銘がある。

[やぶちゃん注:石川の認識には誤認がある。まず、モースは予め正式なお雇い外国人教師として東京大学で動物学及び生理学を教授することに決している状態で来日している。正式な契約書の取り交わしは明治一〇(一八七七)年七月十六日であったが、モースが江の島を訪れて実験施設する小屋を借り受けたのは、実にその翌日同年七月十七日のことである。また、「江の島の今日水族館のある辺の漁夫の家の一室を借りて」というのも誤りである(詳しくは本文と私の注を参照のこと)。また「松浦佐与彦」はモースのプエル・エテルヌス「松浦佐用彦」の誤りである。彼のこともモースは本文でしみじみと書いていることは何度も注した。]

 先生は此両君に一般動物学を教えられた計りでなく、又採集の方法、標本の陳列、レーベルの書き方等をも教えられた。之れ等は先生が大学内で教えられた事だが、先生には大学では無論又東京市内の各処で進化論の通俗講演を致されたものである。ダーウィンの進化論は、今では誰れも知る様、此時より遠か前の一八五九年に有名な種原論が出てから欧米では盛んに論ぜられて居たが、本邦では当時誰独りそれを知らなかったのである。処が玆(ここ)に面白い事には先生が来朝せられて進化論を我々に教えられた直ぐ前にマカーテーと云う教師が私共に人身生理学の詳義をして居られたが、其講義の終りに我々に向い、此頃英国にダーウィンと云う人があって、人間はサルから来たものだと云う様な説を唱えて居るが、実に馬鹿気た説だから、今後お前達はそんな本を見ても読むな又そんな説を聴いても信ずるなと云われた。処がそう云う事をマカーテー先生が云われた直ぐ後にモース先生が盛んにダーウィン論の講義をされたのである。

 先生は弁舌が大層達者であられた計りではなく、又黒板に絵を書くのが非常に御上手であったので、先生の講義を聴くものは夫れは本統に酔わされて仕舞ったのである。多分其時迄日本に来た外国人で、先生位弁舌の巧みな人はなかったろう。夫れも其筈、先生の講演は米国でも実に有名なもので、先生が青年の時分通俗講演で金を得て動物学研究の費用にされたと聴いて居た。

[やぶちゃん注:「本統」はママ。]

 処が当時本邦の学校に傭(やと)われて居た教師達には宣教師が多かったので、先生の進化論講義は彼れ等には非常な恐慌を来たしたものである。であるから、彼れ等は躍起となって先生を攻撃したものである。併し弁舌に於ても学問に於ても無論先生に適う事の出来ないのは明かであるので、彼れ等は色々の手段を取って先生を攻撃した。例えば先生が大森の貝塚から掘り出された人骨の調査に依り其頃此島に住んで居た人間は骨髄を食ったものであると書かれたのを幸いに、モースはお前達の先祖は食人種であったと云う抔(など)云い触し、本邦人の感情に訴え先生は斯様な悪い人であると云う様な事を云い触した事もある。併し先生だからとて、無論之れ等食人種が我々の先祖であるとは云われなかったのである。

[やぶちゃん注:モースは、大森貝塚人はアイヌ以前に本邦に先住していたプレ・アイであるという説を唱えた。]

 此大森の貝塚に関して一寸(ちょっと)云うて置く事は先生が夫れを見付けられたのは先生が初めて来朝せられた時、横浜から新橋迄の汽車中で、夫れを発見せられたのであるが、其頃には欧米でもまだ貝塚の研究は幼稚であったのだ。此時先生が汽車の窓から夫れを発見されたのは前にも云う様に先生の視察力の強い事を語るものである。

 斯様にして先生は本邦生物学の祖先である計りでなく又人類学の祖先でもある。又此大森貝塚の研究は其後大学にメモアーとして出版されたが、此メモアーが又我大学で学術的の研究を出版した初めでもある。夫れに又先生には学会の必要を説かれて、東京生物学会なるものを起されたが、此生物学会が又本邦の学会の噂矢でもある。東京生物学会は共後動植の二学会に分れたが、共最初の会長には先生は欠田部良書先生を推されたと私は覚えて居る。

[やぶちゃん注:「メモアー」英語の memoir (メモワー)でフランス語の mémoire(s)(メモワール)由来の語。研究論文(報告)、複数形で学会論文集・学会誌・紀要の意となる。]

(先生が発見された大森の貝塚は先生の此書にもある通り鉄道線路に沿うた処にあったので、其後其処(そこ)に記念の棒杭が建って居たが、今は夫れも無くなった。大毎社長本山君が夫れを遺憾に思われ大山公爵と相談して、今度立派な記念碑が建つ事になった。何んと悦ばしい事であるまいか。)

[やぶちゃん注:これは昭和四(一九二九)年十一月に建てられた品川区側の一つ目の「大森貝塚」碑であろう。御存じかとも思うが、大田区側の大森駅近くの線路側には、電車からもよく見える、その翌昭和五年に建てられたもう一つの「大森貝墟」碑が別にある(現在は考証によって品川区側が正しいことが判明している)。「大毎社長本山君」大阪毎日新聞社社長本山彦一(ひこいち 嘉永六(一八五三)年~昭和七(一九三二)年)。「大山公爵」は大山史前学研究所の創設で知られる陸軍軍人で考古学者であった大山柏(かしわ 明治二二(一八八九)年~昭和四四(一九六九)年)。以上二人は例外的に注する。]

 之れ等の事の外先生には、当時盛んに採集旅行を致され、北は北海道から南は九州迄行かれたが其際観察せられた事をスケッチとノートとに収められ、夫れ等が集まって、此ジャツパン・デー・バイ・デーとなったのである。何んにせよ此本は半世紀前の日本を先生の炯眼(けいがん)で観察せられたものであるから、

 誰れが読んでも誠に面白いものであるし、又歴史的にも非常に貴重なものである。夫れから此本を読んでも直ぐに判るが先生は非常な日本贔屓であって、何れのものも先生の眼には本邦と本邦人の良い点のみ見え、悪い処は殆んど見えなかったのである。例えば料理屋抔の庭にある便所で袖垣板や植木で旨く隠くしてある様なものを見られ、日本人は美術観念が発達して居ると云われて居るが、まあ先生の見ようほ斯(こ)う云うたものであった。

 又先生は今も云う様にスケッチが上手であられたが、其為め失敗された噺(はなし)も時々聞いた。其一は先生が函館へ行かれた時、或る朝連れの人達は早く出掛け、先生独り残ったが、先生には昼飯の時半熟の鶏卵を二つ造って置いて貰いたかった。先生は宿屋の主婦を呼び、舵に雌鶏を一羽画かれ、其尻から卵子を二つと少し離れた処に火鉢の上に鍋を画き、今画いた卵子を夫れに入れる様線で示して、五分間煮て呉れと云う積りで、時計の針が丁度九時五分前であったので、指の先きで知らせ何にもかも解ったと思って、外出の仕度をして居らるる処へ、主婦は遽(あわただ)しく鍋と火鉢と牝鶏と卵子二つを持って釆た。無論先生は驚かれたが、何にかの誤りであろうと思い、其儘外出され、昼時他の者達が帰って来られたので、聞いて見ると宿屋の御神さんは、九時迄五分の間に夫れ丈けのものを持って来いと云われたと思い、又卵子も夫れを生んだ雌鶏でなくてはと考えたから大騒をしたとの事であった。

 之れは先生の失策噺の一つであるが、久しい問に又は無論斯様な事も沢山あったろう。併し先生は今も云うた様にただ日本人が好きであられた計りでなく、又先生御自身も全く日本人の様な考えを持って居られた。其証拠の一つは先生が日本の帝室から戴かれた勲章に対する事で、先生が東京大学の御傭で居られたのは二年であったので、日本の勲章は普通では戴けなかったのである。併し先生が日本の為めに尽された功績は非常なもので、前述の如く日本の大学が大学らしくなったのも、全く先生の御蔭であるのみならず、又先生は帰国されてからも始終日本と日本人を愛し、本統の日本を全世界に紹介された。であるから日清、日露二大戦争の時にも大いに日本の真意を世界に知らしめ欧米人の誤解を防がれたのである。其上日本から渡米した日本人には誰れ彼れの別なく出来る丈け援助を与えられボストンへ行った日本人でセーラムに立ち寄らないものがあると先生の機嫌が悪かったと云う位であった。であるから、我皇室でも初めに先生に勲三等の旭日章を授けられ其後又勲二等の瑞宝章を送られたのである。誰れも知る様外交官や軍人抔では夫れ程の功績がなくとも勲章は容易に授けらるるのは世界共通の事実であるが、学者抔で高級の勲章をいただく事は真に功績の著しいものに限られて居る。であるから先生が我皇室から授けられた勲章は真に貴重なものである事は疑いのない事である。処が先生は、日本皇帝からいただいた勲章は、日本の皇室に関する時にのみ佩用(はいよう)すべきものであるとの見地から、常時はそれを銀行の保護箱内に仕舞い置かれた。尊い勲章を売る様な人面獣心の奴が日本人にもあるのに先生の御心持が如何に美しいかは窺われるではないか。

[やぶちゃん注:ウィキエドワード・S・モースによれば、モースは帰米から十五年後の一八九八年(明治三十一年)、東京大学(この授与当時は東京帝国大学)に『おける生物学の教育・研究の基盤整備、日本初の学会設立などの功績により、日本政府から勲三等旭日章を受け』ている。因みに一九〇二年六十歳を越えたモースは二十数年ぶりに『動物学の論文の執筆を再開』、一九〇八年に渡米したこの筆者石川千代松に『対しても「私は陶器も研究しているが、動物学の研究も止めない。」と述べるなど、高齢になっても研究に対する執念は尽きなかった』。一九一三年(大正二年)七十五歳となったモースは、三十年以上も前の日記とスケッチをもとにまさにこの“Japan Day by Day”の執筆を開始したのであった(四年後の一九一七年に擱筆、出版)。一九一四年には『ボストン博物学会会長』に就任、翌年には「ピーボディー博物館」(古巣の「ピーボディー科学アカデミー」が改名組織)の名誉会長にともなっている。そうして実に異例のことにここに記された通り、大正一一(一九二二)年にはさらに『日本政府から勲二等瑞宝章を受け』ている。]

 私は前に先生が左右の手を同時に使われる事を云うたが、先生は両手を別々に使わるる計りでなく、先生の脳も左右別々に使用する事が出来たのである。之れに付き面白い噺がある。フィラデルフィアのウィスター・インスチチユートの長ドクトル・グリーンマン氏が或る時セーラムにモース先生を訪い、先生の脳の話が出て、夫れが大層面白いと云うので先生は死んだ後は自分の脳を同インスチチエートへ寄贈せようと云われた。其後グリーンマン氏はガラス製のジャーを木の箱に入れて先生の処へ「永久之れを使用されない事を望む」と云う手紙を付けて送った。処が先生は之れを受け取ってから、書斎の机の下に置き、それを足台にして居られたと。先生が御亡くなりになる前年であった、先生の八十八歳の寿を祝う為めに、我々が出して居る『東洋学芸雑誌』で特別号を発行せようと思い、私が先生の所へ手紙を上げて其事を伺った処斯様な御返辞が来たのである、

 “The Wister Institute of Anatomy of Philadelphia sent a glass Jar properly labelled……in using for my brain which they will get when I am done with it.”

……の処の文字は不明)。

 此文章の終りのwhen I am done with it は実に先生でなければ書かれない誠に面白い御言葉である。

[やぶちゃん注:概ね以下のような意味か(括弧内は推定)「フィラデルフィア・ウィスター・インスティテュート内解剖学研究所がきちんと(私の名前が)ラベルに記入されたガラス製の容器を送ってきました。……私がその中だけで済むようになると同時に、彼らが手に入れる私の脳のために、使うためのものです。」といった感じか? ウィキエドワード・S・モースによれば、一九二五年(大正十四年)、八十七歳に『なってもなお手術後の静養中に葉巻をふかすなど健康だったが、脳溢血に倒れ』、十二月二十日附の『貝塚に関する論文を絶筆に、セイラムの自宅で没した』。遺言によりしっかりと彼の脳は翌十二月二十一日、『フィラデルフィアのウィスター解剖学生物学研究所に献体され』ているとある。それにしても、「……の処の文字は不明」はモースの悪筆ぶりがハンパないものであることがよく知れる。]

 斯様な事は先生には珍しくない事で、先生の言文ほ夫れで又有名であった。であるから何れの集会でも、先生が居らるる処には必ず沢山の人が集り先生の御話を聴くのを楽みにして居たものである。コンクリン博士が書かれたものの中に又次ぎの様なものがある。或る時ウーズ・ホールの臨海実験で先生が日本の話をされた事がある。此時先生は人力車に乗って来る人の絵を両手で巧に黒板に画かれたが、其顔が直ぐ前に坐って居る所長のホイットマン教授に如何にも能く似て居たので満場の人の大喝采を博したと。

 併し先生にも嫌いな事があった。其一つは家蠅で、他の一つは音だ。此音に付き、近い頃日本に来る途中太平洋上で死なれたキングスレ一博士は、次ぎの様な面白い噺を書いて居る。モースがシンシナティで、或る豪家に泊った時、寝室に小さい貴重な置時計があって、其音が気になってどうしても眠られない。どうかして之れを止めようとしたが、不可能であった。困ったあげく先生は自分の下着で夫れを包み、カバンの中に入れて、グッスリ眠ったが、翌朝此事を忘れて仕舞い、其儘立った。二十四時間の後コロンビアに帰り、カバンを開けて大きに驚き、時計を盗んだと思われては大変だと云うので直ぐに打電して詫び、時計はエキスプレッスで送り返したと。

 先生は一八三八年メイン州のポートランドに生れ、ルイ・アガッシイの特別な門人であられたが、アガツシイの動物学の講義の中で腕足頼に関した点に疑問を起し、其後大いにそれを研究して、声名を博されたのである。前にも云うた様に先生が日本に来られたのも其の研究の為めであった。其翌年から前述の如く二年間我大学の教師を勤められ、一度帰られてから八十二年に又来朝せられたが之れは先生には主として日本の陶器を蒐集せらるる為めであった。先生にはセーラム市のピーボデー博物館長であられたり又ボストン美術博物館の日本陶器類の部長をも勤めて居られた。で先生が日本で集められた陶器は悉く此美術博物館へ売られたが、夫れは諸方から巨万の金で買わんとしたが、先生は自分が勤めて居らるる博物館へ比較的安く売られたのであると。之れは先生の人格の高い事を示す一つの話として今でも残って居る。夫れから先生は又此陶器を研究せられて、一大著述を遺されたが、此書は実に貴重なもので、日本陶器に関する書としては恐く世界無比のものであろう。

[やぶちゃん注:ウィキエドワード・S・モースに、一八九〇年(五十二歳)の時、『日本の陶器のコレクションをボストン美術館へ譲渡して管理に当たり』、翌一九〇一年には、『その目録(Catalogue of the Morse Collection of Japanese Pottery)を纏めあげ』た、とある。]

 先生は身心共に非常に健全であられ老年に至る迄盛んに運動をして居られた。コンクリン博士が書かれたものに左の様な言葉がある。「先生は七十五歳の誕生日に若い人達を相手にテニスをして居られた処、ドクトル・ウワアヤ・ミッチェル氏が七十五歳の老人にはテニスは余り烈しい運動であると云い、先生の脈を取って見た処、夫れが丸で子供の脈の様に強く打って居たと。」私が先年ハーバード大学へ行った時マーク氏が話されたのに、モースが八十六(?)で自分が八十で共にテニスをやった事があると。斯様であったから先生は夫れは実に丈夫で、亡くなられる直前迄活動を続けて居られたと。

[やぶちゃん注:「八十六(?)」石川千代松自身が年齢を正確に覚えていなかったものか? モースは八十七で亡くなっているから年令上ではおかしくはない。]

 先生は一九二五年十二月廿日にセーラムの自宅で静かに逝かれたのである。セーラムで先生の居宅の近くに住い、久しく先生の御世話をして居たマーガレット・ブルックス(先生はお玉さんと呼んで居られた)嬢は私に先生の臨終の様子を斯様に話された。

 先生は毎晩夕食の前後に宅へ来られ、時々夜食を共にする事もあったが、十二月十六日(水曜日)の晩には自分達姉妹が食事をして居る処へ来られ、何故今晩は食事に呼んで呉れなかったか、とからかわれたので、今晩は別に先生に差し上げるものもなかったからと申し上げた処、でも独りで宅で食うより旨いからと云われ、いつもの様に肱掛椅子に腰を下して何にか雑誌を見て居られたが、九時半頃になって、もう眠るからと云うて帰られた。夫れから半時も経たない内に先生の下婢が遽しく駈込んで来て先生が大病だと云うので、急いで行った処、先生には昏睡状態で倒れて居られた。急報でコンコードに居る御妹さんが来られた時に少し解った様であったが、其儘四日後の日曜日の午後四時に逝かれたのである。であるから、先生には倒れられてからは少しの苦痛も感ぜられなかった様であると。

 斯様に先生は亡くなられる前迄活動して居られたが八十九年の長い間には普通人に比ぶれば余程多くの仕事をせられたのである。夫れに又前述の如く、先生には同一時に二つの違った仕事もせられたのであるから、先生が一生中に致された仕事の年月は少なくとも其倍即ち一九八年にも当る訳である。

 先生の此の貴い脳は今ではウィスター・インスチチエートの解剖学陳列室に収めてある。私も先年フィラデルフィアへ行った時、グリーンマン博士に案内されて拝見したが、先生の脳はドナルドソン博士に依って水平に二つに切断してあった。之れは生前先生の御希望に依り先生の脳の構造に何にか変った点があって夫れが科学に貢献する処があるまいかとの事からである。併しドナルドソン博士が私に話されたのには、一寸表面から見た処では別に変った処も見えない。先生が脳をアノ様に使われたのは多分練習から来たものであったろうと。

 であるから「先生は生きて居られた時にも亦死んだ後にも科学の為めに身心を提供されたのである」とは又コンクリン博士が私に書いて呉れた文章の内にあるが、斯様にして「先生の死で世界は著名な学者を失い、日本は最も好い親友を失い、又先生の知人は楽しき愛すべき仲間を失ったのである」と之れも亦コンクリン博士がモース先生に就いて書かれた言葉である。

 私がセーラムでの御墓参りをした時先生の墓碑は十年前に死なれた奥さんの石の傍に横になって居たが、雪が多いので、其時まだ建てる事が出来なかったとの事であった。

[やぶちゃん注:『遺体はハーモニー・グローヴ墓地(Harmony Grove Cemetery)に葬られている』とある。夫婦墓の写真は海外サイト“Find A Grave”で見られる。]

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 終りに玆(ここ)に書いて置かなくてはならぬ事は、此書の出版に就き医学博士宮嶋幹之助君が大層骨を折って下さった事と、啓明会が物質上多大の援助を与えられた事と、モース先生の令嬢、ミセス・ロッブの好意許可とで、之れに対しては大いに御礼を申し上げ度いのである。

[やぶちゃん注:「宮嶋幹之助」(みきのすけ/かんのすけ 明治五(一八七二)年~昭和一九(一九四四)年))は寄生虫学者。山形県生まれ。ウィキ宮島幹之助から引く(正しくは「宮嶋」)。『第一高等中学校に入学したが、ドイツ語教師が昆虫学者のアドルフ・フリッチェであったことから、志望を医科から理科に転科した。第一高等学校を経て』、明治三一(一八九八)年東京帝国大学理科大学動物学科卒。大学院に入学。日本産無脊椎動物、とくに腔腸動物を専攻した』。明治三三(一九〇〇)年には『尖閣諸島で信天翁(アホウドリ)を研究。しかし実際の目的はマラリアの研究で、東京への帰途、立ち寄った京都大学医学部衛生学教室に入局を決めてしまった。指導教官は動物学』第三代『教授の箕作佳吉。ツツガムシ病原媒介体としての赤虫の研究を行い、理学部出身者として初の医学博士となる。学位論文は「本邦産アノフェレスについて」。同年中にシマダラカによる媒介を証明した』。翌年には『京都帝国大学医科大学講師となり、寄生虫学を担当』。明治三六(一九〇三)年、『内務省所管で北里柴三郎が所長である、国立伝染病研究所入所。宮島は痘苗製造所技師となり、ツツガムシ、マラリア、日本住血吸虫、ワイル病の研究に従事』、翌年には『北里の命で、セントルイス万国博覧会に出席』。目地三八(一九〇五)年、『伝染病研究所の部長に昇任。その後、マレー半島のマラリア調査、ブラジル移民の衛生状態調査、台湾地方病および伝染病調査委員の嘱託など、たびたび海外に派遣された』。大正三(一九一四)年の学閥支配による『伝染病研究所移管時は、北里とともに辞職。北里研究所の初代寄生虫部長とな』っている。後、昭和一三(一九三八)年には『北里研究所副所長とな』った。自動車事故のために急逝。

「モース先生の令嬢、ミセス・ロッブ」モースの娘イーディス(Edith)。結婚してEdith Owen Morse Robb となっていた。一八六四年十二月九日生まれで一九六二年二月十八日に、非常な長命で亡くなっていることが先の海外サイト“Find A Grave”で判る。]

 夫れに又附言する事を許していただき度い事は私の子供の欣一が此書を訳させていただいた事で、之れは欣一が米国に留学して居た時先生が大層可愛がって下さったので、殊に願ったからである。






淋しいけれど……2013年6月26日に始めた僕とモース先生の旅は……終った……

2016/02/08

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第二十六章 鷹狩その他 (42) 最後の一言 / 日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 本文全電子化附注完遂!

 

 粗野で侵略的なアングロ・サクソン人種はここ五十年程前までは、日本人に対し最も間違った考を持っていた。男性が紙鳶をあげ、花を生ける方法を学び、庭園をよろこび、扇子を持って歩き、その他女性的な習慣や行為を示す国民は、必然的に弱くて赤坊じみたのであると考えられていた。一八五七年の『大英百科辞典』には「日本人はかつては東方の国民間にあって、胆力と軍隊的の勇気とで評判が高かった。然し現在ではそうでなく、吾人は彼等が本質的に弱々しく、臆病な国民であると見出されるであろうと思う。ゴロウニンによれば彼等は勇気に欠け、戦争の術にかけてはまったく子供である。これは、二世紀以上にわたって、すべての点で、外的と内的の平和をたのしんだ国民にあっては、事実であろうと思われる。苦痛や受難を、勇気深く、辛抱強く堪えること、更に死を軽侮することまでもが、活動的で侵略的な勇気の欠乏と矛盾しないことがあり得るのを、我々は知っている。」と書いてある。だが、こんな以前のことをいう必要はない。カーソン卿は、一八九四年に出版された『極東の問題』と称する興味深い本の中で、日本人の野望に就て、以下の様にいっている。「現に、これ等の頁が印刷所へ行きつつある時、日本が朝鮮の混乱を利用して朝鮮で行いつつある、そしてそれは、支那との実際上の衝突とまでは行かずとも、重大な論争に日本を導く懼れのある、軍隊的の飾示は、同じ性急な盲目愛国主義の、其後の結果である。」更に進んで彼は、これ等の示威運動は「国家的譫妄状態の最も熱情的弁護者の口辺にさえも、微笑を漂わせる」という。最近の出来ごとは、このアングロ・サクソン人の審判が、如何に表面的であったかを示している。

[やぶちゃん注:「アングロ・サクソン人種」今日のイギリス人の根幹をなす民族。人種的にはコーカソイド大人種(白色人種)の北方系に属し、長身・白色の皮膚・碧眼・金髪などの肉体的特徴を持つ。言語学的にはインド・ヨーロッパ語族の西方系の一派のチュートン語族(ゲルマン民族)に属し、低地ドイツ語を発祥とする英語を喋る。北西ドイツを原住地としたサクソン人、ユトランド半島基部に住んだアングル人、同半島に居住したジュート人などの幾つかの部族の混成体であり、ゲルマン民族大移動の一環として五~六世紀に原住地からブリタニアの島に移動、先住民族ブリトン人を駆逐或いは支配して現在のイングランド(「アングル人の地」の意)の地を占拠した(以上は平凡社「世界大百科事典」に拠る)。

「ここ五十年程前」本書初版刊行の一九一七年(大正六年相当)から五十年前は一八六七年で慶応三年に相当する。

「一八五七年」本邦では安政三年十二月六日から安政四年十一月十六日に相当する。

「大英百科辞典」原文“Encyclopædia Britannica”。「ブリタニカ百科事典」。最古の英語百科事典で、現在もなお製作され続けている。初版は一七六八年から一七七一年にかけてエディンバラで三巻本百科事典として発行された。ここに示されたのは一八五三年から一八六〇年にかけて発行された第八版かと思われる。

「ゴロウニン」ロシア帝国(ロマノフ朝)海軍軍人(最終階級は中将)で探検家であったヴァシーリイ・ミハーイロヴィチ・ゴロヴニーン(Василий Михайлович ГоловнинVasilii Mikhailovich Golovnin 一七七六年~一八三一年)。ウィキヴァーシリー・ゴローニンによれば、一八〇七年から一八〇九年にかけて軍艦『ディアナ号で世界一周航海に出て、クリル諸島の測量を行なう』。一八一一年(文化八年)、『軍により千島列島の測量を命じられ、自らが艦長を務めるディアナ号で択捉島・国後島を訪れる。しかし国後島にて幕府役人調役奈佐瀬左衛門に捕縛され、箱館で幽閉される。ゴローニンは幽閉中に間宮林蔵に会見し、村上貞助や上原熊次郎にロシア語を教えたりもした』。一八一三年(文化十年)、ディアナ号副艦長ピョートル・リコルドの尽力により、『ロシア側が捕らえた高田屋嘉兵衛らの日本人を解放するのと引き換えにゴローニンは解放され』、帰国後、一八一六年に『日本での幽閉生活を『日本幽囚記』という本にまとめた、この本は欧州広範囲で読まれ』、文政八(一八二五)年には『日本でもオランダ本から訳された「遭厄日本紀」が出版された。同書は、ニコライ・カサートキンが日本への正教伝道を決意するきっかけとなったことが知られる』。一八一七年(文化十四年相当)から一八一九年(文政二年相当)にかけては『カムチャツカ号で再度世界一周航海に出』てもいる。コレラに罹患して死去した。

「カーソン卿」イギリスの政治家で貴族のジョージ・ナサニエル・カーゾン(George Nathaniel Curzon 一八五九年~一九二五年)のこと。保守党に所属し、インド副王兼総督・外務大臣・貴族院院内総務などを歴任した。一般には「カーゾン卿(Lord Curzon)」の呼び名で知られる。参照ウィキジョージ・カーゾン初代カーゾン・オヴ・ケドルストン侯爵の「初期のキャリア」の項に、一八九一年から一八九二年にかけ『彼はインド省政務次官を務め』、一八九五年から一八九八年までは『外務省政務次官を務めた』。『この時期、カーゾンは世界中を旅行し』日本へも明治二〇(一八八七)年(即ち、モースが永遠に日本を去ってから四年後)と明治二五(一八九二)年の二度、訪れている。その他にも、ロシア・中央アジア・ペルシア・シャム・フランス領インドシナ・朝鮮を訪問、『アフガニスタンとパミールでの大胆な探索活動』(一八九四年)『をも行い、政策的関心と連動している中央アジア、東アジアについて著した数冊の書物を出版した。大胆かつ強迫衝動に悩む旅行者カーゾンは、東洋の生活や地勢に強く魅了されており、アムダリヤ川(オクサス)の水源を探査したことを評価され、王立地理協会から金メダルを贈られている』。『しかし彼の多くの旅行の目的はあくまで政治的な関心のもとになされていた。旅行はイギリス領インドと関連するアジアの諸問題を研究するための包括的な計画の一部をなしていた。同時に、この旅行はまたカーゾン自身の自尊心、大英帝国の帝国としての使命に対する確信を強めることにつながった』とある。

「一八九四年に出版された『極東の問題』カーゾンの書いたProblems of the Far East。黄禍論の代表的な一冊で、「松岡正剛の千夜千冊」のハインツ・ゴルヴィツァー 黄禍論とは何かによれば、この本は、『イギリスこそが世界制覇をめざすというジョンブル魂ムキムキの本で、斯界ではこの手の一級史料になっている』。『カーソンは、イギリスがこれからは世界政策上でロシアと対立するだろうから、その激突の最前線になる極東アジアについての政治的判断を早くするべきだと主張して、それには中国の勢力をなんとかして減じておくことが必要だと説いた。対策は奇怪だが周到なもので、ロシアを抑えるには中国を先に手籠めにしておくべきで、それには日本を東洋のイギリスにして、その日本と中国を戦わせるほうにもっていけば、きっと日本が中国に勝つだろうというものだった。「タイムズ」の編集長のバレンタイン・チロルも『極東問題』を書いて、この路線に乗った』。そうしてまさに『カーソンやチロルの期待と予想は当たった。なんと日清戦争で日本が勝ったのだ』。『しかし、これで問題が広がった。ひょっとしたら中国だけではなく、日本こそが世界の脅威になるのではないか。いや、日本は御しやすい。むしろ中国が戦争に負けたからといって中国の経済力が衰えることはないのではないか』といった『さまざまな憶測が広ま』ることとなった、とある。]

 

 欧洲の恐怖であった二強国、支那とロシアは、両方とも八年以内(一八九四一九〇二年)に、日本によってやっつけられ、艦隊は完全に滅され、償金が支那から現金で、ロシアからは樺太の南半で、取られた。英国は初めて日本を注目の価値ありと認め、同盟を結んだ。まるで鉱夫同志の道徳である!

[やぶちゃん注:「八年以内(一八九四一九〇二年)」明治二十七年から明治三十五年であるが、後がおかしく、ここは「十一年以内」で後は「一九〇五年」でないとおかしい。日清戦争は明治二七(一八九四)年七月(光緒二十年六月)から明治二八(一八九五)年三月(光緒二十一年二月)にかけて行われたから初めはよいものの、日露戦争は明治三七(一九〇四)年二月から明治三八(一九〇五)年の九月五日であるからである。

「償金が支那から現金で」銀で二億両(テール)が賠償金額であった。ネット上のQ&Aサイトの回答に、当時の国際的な銀価格で換算すると、凡そ三億円に相当するとある。

「樺太の南半で、取られた」日露戦争末期に日本軍は和平交渉の進む中で七月に樺太攻略作戦を実施、全島を占領していた。この事実上の占領体制が後のポーツマス講和条約(明治三八(一九〇五)年九月四日(日本時間九月五日十五時四十七分)で南樺太の日本への割譲を齎すこととなり、講和以降の樺太には王子製紙・富士製紙・樺太工業などのパルプ産業企業が進出した。因みに、十八年後、大正一二(一九二三)年七月三十一日から八月十二日にかけて、サガレン(樺太)の王子製紙に勤務している先輩を訪ね、二十六歳の一人の教師が自分の教え子の就職を依頼するために向かっている。宮沢賢治であった。この時、かの絶唱「オホーツク挽歌」詩群が詠まれている。]

 

 最近日本のことを書いたある筆者は、こういっている――「東郷の人々、即ち日本人は、愛国者の民族で、同時にまた勤労者で武士である。彼等の特質は、いまだに西洋の人々に完全に了解されていない。彼等は多数の表面的な観察者によって、独創的な行為がまるで出来ず、只他の人種の最もよき発明を選び、それ等をぶざまな方法で彼等自身の用に立てることしか出来ない、模倣国民であると伝えられた。これ程真実と違った話はない。この地上に、日本人位正確な知識の探求に熱心な国民はいない。この地上に、日本人より、より強い国家的感情に動かされる国民はいない。この地上に、日本人より、一般的な善のために、個人的な犠牲のより大なるものを払い得る国民はいない。この地上に、論理的思考力の明確と複雑とで、日本人に優る国民はいない。」

[やぶちゃん注:「最近日本のことを書いたある筆者」誰かは不詳。識者の御教授を乞う。「最近」というのは本書初版刊行前であるから、一九一七年(大正六年相当)以前ではある。]

 

 終に臨んで一言する。読者は日本人の行為が、しかも屢々我々自身のそれと、対照されたのを読んで、一体私は米国人に対して、どんな態度を取っているのかと不思議に思うかも知れぬ。私は我々が日本の生活から学ぶ可きところの多いことと、我々が我々の弱点のあるものを、正直にいった方が、我々のためになることを信じている。ボストンの警察署長、オーミアラ氏の言葉は、私に深い印象を与えた。彼は我国に対する最大の脅威は、若い男女の無頼漢的の行為であるといった。かるが故に私は対照として、日本人の行為をあげたのである。私の対照は、ひがんだ目で見たものではない。それ等は私が四十年前に見たところのものの、そのままの記述である。我我のこの弱点を感じることは、何も我等を劣等な国民として咎めることにはならず、我々はホール・ケインが『私の物語』に書いたような、米国を真に評価した文章を、誇の感情を以て読み、そして信じるのである。「我々はこの国民を愛する。彼等は世界の他の者が、あたかもひそかにするが如く見える自由を、彼等の権利として要求しているからである。私はこの国民を愛する。彼等がこの世界で、最も勤勉で、熱心で、活動的で、発明の才ある人々であり、そして、何よりも先ず、最も真面目だからである。何故となれば、表面的な観察者の軽薄な審判はともあれ、彼等は国民性に於て最も子供らしく、最も容易に哄笑し、最も容易に涙を流すまで感動し、彼等の衝動に最も絶対的に真実であり、賞讃を与えるに最も大度だからである。私は米国の男性を愛する。彼等の女性に対する挙止は、私がいまだかつて見たものの中で、最も見事に騎士的だからである。私は米国の女性を愛する。彼女等は疑う可くもない純潔さを、あからさまなる、そして不自然ならぬ態度と、性の美事な独立とで保持し得るからである。」

[やぶちゃん注:「ボストンの警察署長、オーミアラ氏」原文“Mr. O'Meara, the Police Commissioner in Boston,”。アメリカ人ネィティヴの発音では「オ・メーラ」、本姓の元(“O’”はゲール語由来で「~の孫」の意の接頭語)とも思われるアイルランドのネィティヴの発音では「オ・マーラ」と聴こえる。

「四十年前」本書初版刊行は一九一七年(大正六年相当)であるから一八七七年で明治十年、モースは最後にちゃんと最初の来日に時間を正確に巻き戻している。それが、モースがこよなく愛した日本の原風景の時空間だからに他ならない。

「ホール・ケインが『私の物語』」原文“Hall Caine, in "My Story,”。トーマス・ヘンリー・ホール・ケイン(Sir Thomas Henry Hall Caine 一八五三年~一九三一年)はイギリスの作家。グレートブリテン島とアイルランド島に囲まれたアイリッシュ海の中央に位置するマン島の生活を書いた小説家として知られ、また、画家で詩人のダンテ・ガブリエル・ロゼッティとは非常に親しい関係にあり、一八八一年から彼が亡くなる翌年まで同居している。My Storyは一九〇六年刊のケインの自叙伝。

「大度」「たいど」と読み、度量の大きいことを指す。]

 

 

                   

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第二十六章 鷹狩その他 (41) 江木学校講談会

 

 江木氏その他に、日本に於る最初の公開講演に関して質問したが、信頼すべき情報を得ることは困難であった。有名な福沢氏は私に一八七一年、数名の学者が集り、論文や評論を読んだと話してくれた。この会は非公開であった。一八七三七四年には、明六社と称する会が、年長な学者達によって組織された。一般人は彼等の議論を聞くことを許された。解放もまた発行された。一八七四七五年には福地氏と沼間氏とが少数の講演をやり、僅かの入場料を取った。一八七五年の後半期、講談会という名の、講演協会が創立された。福沢、小幡、井上、矢野、江木の諸氏その他の学者が、月に二回集った。講演を聞くのに、少額の入場料を取ったが、最初は、入場料を取ることが、無礼であるのみならず、非常に不適当だというので、会員のある者は大きに反対した。一八七八年には、新講談会として知られる別の会が組織され、一八七八年九月二十二日に最初の会合をひらいた。江木氏は米国風に、公開講演を金の支払われる職業にしようと企てた。が、入場料を取るというので、辞職した会員が又数名あった。講演は日曜日に行われ、毎回四つか五つの講演があり、そのあい間に数分間ずつの休憩時間があった。最初の課程で講演した人々の中には、杉、西、外山、河津、加藤、江木、菊池、沼間、福沢、佐藤、藤田、中村の諸氏、並にメンデンホール、フェノロサ、モースの三米人がいる。講演者は帝国大学の日米教授、政府各部の役人、新聞主筆、仏教僧侶その他の名士であった。講演は大きな会館で行われ、聴衆は平均六百人から八百人で、最後まで数が減じなかった。聴衆が畳を敷いた床の上に、押し合わずに坐り、注意深く、そして見受けるところ熱心に、宗教、天体、動物界等に於る進化に関する講義を了解しようとしている有様は、興味深く見られた。演壇がほんのすこし、畳を敷いた床よりも高い丈である。会場に人工的な暖房装置が無かったことは、いう迄もない。時々、私が厚い冬の長外套を着たままで講演せねばならぬ位、寒かった。私は靴を脱ぐ可く余儀なくされるので、空しく一箇所に立とうと努め、然し講演の終には私の足は非常につめたくなっている。講演が済むと聴衆の多くが、会場の他の場所にいる友人と挨拶を交わす為に、立ち上る。私は太った来聴者の坐っている場所に目をつけ、若し彼が立つと彼が坐っていた跡があたたかいので、そこへ行って次の講演が始る迄、足をあたためたものである。日本に於る私の初期の講演に際して、刀を帯びた巡査が私の横で椅子に坐り、聴衆の方を向いていたことは、奇妙な経験であった。故人になった私の友人江木氏は急進論者として知られており、彼が私の講演を通訳した。彼は、或は私をして、最も騒乱煽動的な文句を吐かしめたかどうか、僅かな日本語と表現としか知らなかった私には、知る由もない。その後講演をしている間に、私は時々通訳者の翻訳の意味をつかみ得る程度の日本語を覚え込んだので、二、三度、私は彼を訂正することを敢てした。私が彼等の言葉を了解し始めたことの実例であるこの事に対して、聴衆が示すうれしそうな、そして同情に富んだ表情は、まことに有難いものであった。

 以下に示すものは、講談会の最初の課程に於る主題の表である。

[やぶちゃん注:ここから以下は本書の最後の言葉の直前までが、以下に注する江木高遠が明治一一(一八七八)年九月二十一日に旗揚げした会費制学術講演会「江木学校講談会」の記録である(時間が二度目の来日時に巻き戻っていることに注意)。

「江木」既注であるが、そのまま再掲しておく。当時東京大学予備門の教諭(教授とは呼ばない)であった江木高遠(えぎたかとお 嘉永二(一八四九)年~明治一三(一八八〇)年)。以下、磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」の記載及びウィキの「江木高遠」によって記す。備後福山藩儒官で開国論者であった江木鰐水(がくすい)の第四子として福山に生まれ、安政三(一八五六)年七歳で藩校誠之館に入り、明治元(一八六八)年十九歳の秋には長崎でフルベッキに学んで、翌年、藩の推薦により東京の開成学校に転じた後、明治二(一八六九)年には慶應義塾に入ったが、明治三年二十一で華頂宮博経親王(かちょうのみやひろつねしんのう:伏見宮邦家(くにいえ)親王第十二王子。知恩院門跡から勅命により還俗して華頂宮家を創立。明治三(一八七〇)年に志願して皇族の海外留学第一号となり、アメリカで海軍軍事を学び、帰国後は海軍少将となったが、明治九年二十六歳で夭折した。)の随員の一人としてニューヨークへ渡り、コロンビア法律学校(現在のコロンビア大学)に学んで法学と政治学を修めた(途中、病気の親王と帰国、一八七四年に再渡米して一八七六年に卒業、その間の一八七五年には後の専修大学の母体である日本法律会社の結成にも関わっている)。帰国後、翌明治一〇(一八七七)年に東京英語学校教諭に着任、東大設立後は予備門の英語教諭を勤めたが、外山正一・井上良一両東大教授と並ぶ論客として独自の視点から啓蒙講演会の組織的運営を企画して名声を馳せた。明治一一(一八七八)年六月三十日には「なまいき新聞発刊記念講演」(『なまいき新聞』は、同六月、生意気新聞社が創刊した週刊新聞。同年十月には『芸術叢誌』と改名して美術雑誌となった)と称し、浅草井生村(いぶむら)楼に於いて五百人を超す客を集め、考古学と大森貝塚発掘に関するモースの講演会を開いている。この時は井上がモースを紹介江木が通訳した。これが濫觴となって同年九月二十一日に会費制学術講演会「江木学校講談会」を発足させた。社員(常任講師)として、外山正一・福沢諭吉・西周¥河津祐之(後の東京法学校校長)・藤田茂吉(『生意気新聞』主筆)・モースが名を連ねた。この講談会は明治一二(一八七九)年十月まで三十回近く催され、常任講師のほかにも長谷川泰(日本医科大学の前身「済生学舎」創設者)・沼間守一(自由民権家として知られたジャーナリスト)、トマス・メンデンホール(モースの推薦によって明治十一年に東京帝国大学物理教師となり富士山頂で重力測定や天文気象の観測を行った本邦の地球物理学の租。本郷区本富士町(現在の文京区本郷七丁目)に竣工した東京大学理学部観象台の観測主任ともなった)やアーネスト・フェノロサなども登壇した。この間、江木は明治一一(一八七九)年十二月に東大を去り、元老院大書記官となるも、直ぐに外務省一等書記官に転じた。明治十三年三月、帰任の吉田清成駐米大使に随行してワシントン公使館員として赴任したが、同年六月六日、公使館内に於いてピストル自殺した。享年三十一。自殺の動機については磯野先生によれば、『無関税で工芸品をアメリカに持ち込んだことを、在米日本人業者から糾弾されたためという』とある。

「福沢」福沢諭吉。

「一八七一年」(明治四年)「数名の学者が集り、論文や評論を読んだ」不詳。識者の御教授を乞う。

「一八七三七四年」(明治六~七年)「明六社と称する会が、年長な学者達によって組織された」明治初期の啓蒙思想団体。森有礼の主唱によって西村茂樹・津田真道・西周・中村正直・加藤弘之・福沢諭吉・箕作秋坪・神田孝平らを社員として明治六年に結成。名前は元号年に由来(ここまでは「ブリタニカ国際大百科事典」に拠る)。ウィキの「明六社」によると、会合は毎月一日と十六日に開かれ、会員は旧幕府官僚で開成所『関係者と慶應義塾門下生の「官民調和」で構成された。また、学識者のみでなく旧大名、浄土真宗本願寺派や日本銀行、新聞社、勝海舟ら旧士族が入り乱れる日本の錚々たるメンバーが参加した』。翌明治七年三月より機関誌『明六雑誌』の発行も開始され、『開化期の啓蒙に指導的役割を果たしたが』、明治八(一八七五)年に『太政官政府の讒謗律・新聞紙条例が施行されたことで機関誌の発行は』第四十三号で中絶、『廃刊に追い込まれ』た。『その後、明六社は明六会となり、福澤諭吉を初代会長とする東京学士会院、帝国学士院を経て、日本学士院へと至る流れの始原でもあった』とある。

「一八七四七五年」(明治七~八年)「福地氏と沼間氏とが少数の講演」「福地」は明六社会員で東京日日新聞主筆であった福地源一郎(天保一二(一八四一)年~明治三九(一九〇六)年)ペン・ネームは桜痴。「沼間」は旧幕臣で元老院大書記官であった、やはり明六社会員沼間守一(ぬま もりかず/しゅいち 天保一四(一八四四)年~明治二三(一八九〇)年)。後の明治一一(一八七八)年には政治結社嚶鳴社(おうめいしゃ)を設立した。

「一八七五年」(明治八年)「の後半期、講談会という名の、講演協会が創立された」不詳。江木が含まれているから、プレ江木学校講演会のようなものか?

「小幡」「学問のすゝめ」初編を福澤と共著した後に第三代慶應義塾塾長となった小幡篤次郎(おばたとくじろう 天保一三(一八四二)年~明治三八(一九〇五)年)か? 旧中津(現在の大分県中津市)藩士。後に初の東京学士会院会員(明治一二(一八七九)年)・貴族院議員。

「井上」「新体詩抄」の哲学者井上哲次郎(安政二(一八五六)年~昭和一九(一九四四)年)か?

「矢野」後のジャーナリストの矢野龍渓(嘉永三(一八五一)年~昭和六(一九三一)年)か?

「新講談会として知られる別の会が組織され、一八七八年」(明治十一年)「九月二十二日に最初の会合をひらいた」学術講演会である新江木学校講談会。

「杉」前出既注の杉亨二。

「西」言わずもがな、明六社社員であった思想家西周(にしあまね 文政一二(一八二九)年~明治三〇(一八九七)年)。

「外山」何度も出た東京大学教授(社会学)外山正一。

「河津」河津祐之(かわづすけゆき 嘉永二(一八四九)年~明治二七(一八九四)年)。当時は元老院書記官。後の大阪控訴院検事長・名古屋控訴裁判所検事長・司法大書記官・司法省刑事局長・逓信次官等を歴任、東京法学校(現法政大学)校長(刑事局長現任で着任)でもあった。

「加藤」複数回既出既注の東京開成学校綜理・東京大学法文理三学部綜理加藤弘之。

「菊池」既出既注の数学者で東京大学理学部教授菊池大麓。福沢諭吉とは盟友。

「佐藤」ウィキの「江木高遠」の記載から、実業家佐藤百太郎(ももたろう 嘉永六(一八五三)年~明治四三(一九一〇)年)であろう。日米貿易の先駆者で本邦の百貨店創始者でもあり、日本領事をも務めた。

「藤田」ジャーナリスト藤田茂吉(嘉永五(一八五二)年~明治二五(一八九二)年)。福沢諭吉の弟子で郵便報知新聞社に入社、同主筆となった。後に衆議院議員。

「中村」ウィキの「江木高遠」の記載から、啓蒙思想家で文学博士中村正直(天保三(一八三二)年~明治二四(一八九一)年)であろう。彼は『明六雑誌』の執筆者でもあった。

「メンデンホール」既出既注のモースが招聘した当時の東京大学理学部物理学教授トマス・メンデンホール(Thomas Corwin Mendenhall 一八四一年~一九二四年)。

 以下、底本では有意に一行空けがある。]

 

 九月二十一日。

  外山氏。 公開演説及び講演に就て。

  河津氏。 代読議会の利害。

  藤田氏。 協同の必要。

  西氏。 祝辞。

  福沢氏。 彼の「国民の権利」に対する批評。

  モース氏。 祝辞。

 十月六日。

  長谷川ドクタア(市病院)。 不潔な水を飲む弊害。

  沼間氏。 内外国法の衝突。

  島地氏。 価値論。

  菊池氏。 太陽系の進化。

  大内氏。 婦人により社会的な権利をゆるす利益。

  メンデンホール氏。 序論。

 十月二十日。

  菊池氏。 太陽系の進化(続)。

  モース氏。 昆虫の生活。

  加藤氏(帝国大学総理)。 本居と平田の説に就て。

[やぶちゃん注: 以下の( )部分は底本では全体が四字下げ。]

(この二人は日本には日本固有の文明があるのだから、支那の文明を棄てねばならぬと信じた、昔の日本の学者である。)

  外山氏。 連想に就て。

  杉氏。 道徳的統計。

 十月二十七、二十八、三十一日及び十一月二日。

  モース氏。 ダーウィニズム四講。動物界の進化。

 十一月十日。

  江木氏。 陸海軍に就て。

  西氏。 練習は完全にする(続)。

  フェノロサ氏。 宗教の進化。

  小野氏。 言論戦(雄弁の説伏力を示す)。

  藤田氏。 四十七浪士に就て。

 十一月十七日。

  福沢氏。 国民の権利(治外法権)。

  菊池氏。 太陽系の将来。

  外山氏。 外国交際に関することは容易に変更し難し。

  フェノロサ氏。 宗教の進化(続)。

 十二月一日。

  河津氏。 社会主義の不条理。

  フェノロサ氏。 宗教の進化(終結)。

  モース氏。 氷河説。

  辻氏。 美術に就て。

 十二月十五日。

  江木氏。 見せかけの美徳に就て。

  菊池氏。 何がよき政府を構成するか。

  藤田氏。 小切手の必要。

  杉氏。 道徳的統計。

 一月五日。

  菊池氏。 広く進化に就て。

  外山氏。 五官の錯覚。

  モース氏。 動物生長の法則。

  中村氏。 社会の善と悪。

  加藤氏。 会員へ数言。

  佐藤氏。 頭脳の涵養。

  江木氏。 密告人に賞を与える弊害に就て。

[やぶちゃん注:「長谷川ドクタア(市病院)」不詳。後段に「市立病院の医師」とあるのみ。

「島地」浄土真宗本願寺派の僧島地黙雷(しまじもくらい 天保九(一八三八)年~明治四四(一九一一)年)。周防国(現在の山口県)和田の生まれ。西本願寺の執行長。ウィキの「島地黙雷」によれば、明治元(一八六八)年に『京都で赤松連城とともに、坊官制の廃止・門末からの人材登用などの、西本願寺の改革を建白』、明治三(一八七〇)年には『西本願寺の参政となった』。明治五(一八七二)年、『西本願寺からの依頼によって左院視察団と同行、ヨーロッパ方面への視察旅行を行なった。エルサレムではキリストの生誕地を訪ね、帰り道のインドでは釈尊の仏跡を礼拝した。その旅行記として『航西日策』が残されている。「三条教則批判」の中で、政教分離、信教の自由を主張、神道の下にあった仏教の再生、大教院からの分離を図った。また、監獄教誨や軍隊布教にも尽力した』とある。明六社会員。

「大内」仏教学者大内青巒(おおうちせいらん 弘化二(一八四五)年~大正七(一九一八)年)仙台出身。ウィキの「大内青巒」によれば、『常陸国水戸で出家して泥牛と号し、その後江戸へ出て仏教の研究を志した。明治維新後は、大洲鉄然の推挙により浄土真宗本願寺派本山本願寺(西本願寺)』第二十一世宗主であった『大谷光尊の侍講をつとめた』。明治七(一八七四)年に雑誌『報四叢談』、翌年には新聞『明教新報』を発刊、『仏教における啓蒙思想家として活動した』。後の明治二二(一八八九)年には『島地黙雷・井上円了らとともに天皇崇拝を中心とする仏教政治運動団体「尊皇奉仏大同団」を結成し』ている。後に東洋大学学長。

「小野」法学者で政治運動家であった小野梓(あずさ 嘉永五(一八五二)年~明治一九(一八八六)年)。ウィキの「小野梓」によれば、土佐国宿毛(高知県宿毛市)出身(男性である)。専門は英米法で、『親友であった大隈重信を助け、東京専門学校(現在の早稲田大学)の創立の事実上の中心者となり早稲田大学建学の母とも言われている。ジェレミー・ベンサムの思想を分析した』とある。

「辻」後段の記載とウィキの「江木高遠」の記載から、文部官僚辻新次(つじしんじ 天保一三(一八四二)年~大正四(一九一五)年)である。旧松本藩士。ウィキの「辻新次」によれば、慶応二(一八六六)年に『開成所化学教授手伝並となり、明治に入ってからは大学助教、次いで大学南校校長となった。また』、明治四(一八七一)年の『文部省出仕以降は、学制取調掛、学校課長、地方学務局長、普通学務局長、初代文部次官を歴任。明治前半期のほとんどの教育制度策定にかかわったため、「文部省の辻か、辻の文部省か」と言われ』、『また「教育社会の第一の元老」、「明治教育界の元勲」などと評された。この間、明六社会員となり、大日本教育会(後に帝国教育会)、仏学会、伊学協会の各会長にも就任している』。明治二五(一八九二)年の『文部省退官後は貴族院勅選議員、高等教育会議議員、教育調査会委員に選ばれたほか、仁寿生命保険、諏訪電気、伊那電車軌道の社長を務めた』とある。

 以下、底本では有意に一行空けがある。]

 

 

 日本人の智的活動に対する内観は、単に日本語に翻訳されて何千と売られる本によってのみならず、これ等の公開講演で取扱われる主題によっても、得ることが出来る。私はボストンに於るローウェル・インスティテュートの無料公開講演【*】のみを恐らくの例外として、それ以外北米合衆国に、これに比較すべき公開講演会のあるのを知らぬ。

 

 

*我国に於る公開講演は、三十年前の高い標準から、幻灯の見世物、音楽の余興等に堕落し、思慮ある、或は科学的な講演は稀にしか無い。

[やぶちゃん注:「ボストンに於るローウェル・インスティテュート」既出既注。]

 

 

 聴衆の智的性格は、彼等が、僅かな休憩時間が間にありはするが、四つか五つの、各一時間かかる講義の間、辛抱強く坐り続けるという事実から判断することが出来る。米国あるいは他の国の、如何なる講演会の聴衆が、かかる試煉に堪え得よう。

 

 この協会の最初の課程で講義した人々のある者の、公人としての位置は以下の如くである。藤田氏は東京の日刊新聞主筆、西氏は以前兵部省の書記官、福沢氏は有名な先生で、新しい地方議会の代議員、長谷川氏は市立病院の医師、沼間氏は元老院書記官、島地氏は仏教の説教師、菊池氏は帝国大学数学教授でケンブリッジ大学数学学位試験一級及第者、大内氏は仏教雑誌の主筆、加藤氏は帝国大学総理で有名な蘭学者、外山氏は哲学の教授でミシガン大学卒業生、杉氏は統計局の長官、河津氏は元老院書記官、江木氏は帝大教授、小野氏は元老院書記官、辻氏は文部省書記官。

[やぶちゃん注:「菊池氏は帝国大学数学教授でケンブリッジ大学数学学位試験一級及第者」既注の菊池大麓は『蕃書調所(東京大学の前身)で英語を学び』、慶応三(一八六七)年と明治三(一八七〇)年の二度に渡って『英国に留学』、二度目の留学時に『ケンブリッジ大学で数学と物理学を学び学位を取得』している(ウィキの「菊池大麓」に拠る)。

「外山氏は哲学の教授でミシガン大学卒業生」外山正一は『勝海舟の推挙により』、慶応二(一八六六)年に、前注した『中村正直らとともに幕府派遣留学生として渡英、イギリスの最新の文化制度を学』んだが、幕府瓦解によって明治二(一八六九)年に帰国、一時、『東京を離れて静岡で学問所に勤めていたが、抜群の語学力を新政府に認められ』、翌明治三年に『外務省弁務少記に任ぜられ』て渡米、翌一八七一年(明治四年)、『現地において外務権大録になる。しかし直ちに辞職し』、『ミシガン州アンポール・ハイスクールを経てミシガン大学に入学。おりしも南北戦争の復興期であったアメリカの地で、哲学と科学を専攻』、明治九(一八七六)年に帰朝している(ウィキの「外山正一」に拠る)。]

 

 一八八二年秋、文部省が各県の主な先生達を東京に招集し、彼等の仕事に関する打合せをさせた。いろいろな質問が起った中に、学校に於る物理教育に関するものがあった。多くの人によって、この目的に使用する器械を購入することは彼等の力以上であり、そしてこれ等の器械が無くては、進歩が更にはかどらぬということが強調された。そこで東京師範学校の生徒達が、これ等の物理教授に必要な器械が、如何に安価に、容易に出来るかを示す目的で、いくつかの装置をつくることを決心した。会議が終る迄に、生徒達は五十六の器械をつくり、それ等を、それ等の構造に要した材料の一覧表と共に、演壇上に陳列した。材料というのが硝子や針金の小片、瓶、コルク、竹等、どこの唐物店ででも手に入れることが出来るような品である。ここにかかげる器械の表に依て、日本人が物理学を覚え込むに適した学徒であるのみならず、彼等がそれを標示するのに使用する道具をつくる上に、非常な巧さを示したことが知られる。私は学生がこのような原始的な器械の構造を研究し極め、そしてそれをつくることによって、どれ程物理学をはっきり会得するであろうかを考えざるを得なかった。このようなお手本は、我国の学生が、北部米国人特有の水兵小刀に対して持つ器用さと巧妙さとにより、更に住宅附近でもより多く手に入れ得る材料を使用して、真似をしても利益あることである。

[やぶちゃん注:以下、底本では有意に一行空けがある。]

 

 

 装置の表

  一 天秤

  二 分銅ある天秤

  三 振子

  四 遠心力磯

  五 斜面路

  六 重力の中心、二重円錐

  七 振子つきの降下秤

  八 重力の中心、平衡

  九 槓杆均衡

 一〇 ヘロス噴水

 一一 吸上喞筒(ポンプ)

 一二 凝集文様

 一三 斜面路あるベーカアの輪機

 一四 押揚喞筒

 一五 気圧の標示

 一六 ガイスラーの空気喞筒

 一七 吸引の標示

 一八 徴圧計のある空気受

 一九 空気受のある気圧計

 二〇 風車

 二一 吸引の標示

 二二 空気喞筒の排気と圧搾

 二三 音叉

 二四 鈴の震動

 二五 二種の共鳴器あるサヴェール器

 二六 弦のあるソノメータア

 二七 波動現象

 二八 共鳴器

 二九 高温計

 三〇 固体の膨張

 三一 角度鏡

 三二 ラムフォードの光度計

 三三 気体の流出

 三四 光線の実験

 三五 暗箱

 三六 光線の連続

 三七 光線の拡散

 三八 空胴角壔

 三九 目盛表示器つき気体の膨張

 四〇 液体の膨張

 四一 寒暖計の図解

 四二 磁針

 四三 磁針と台

 四四 電気振子

 四五 万能放電機

 四六 電気毬

 四七 電振子

 四八 放電機

 四九 絶縁台

 五〇 警鈴

 五一 電輪

 五二 ナイルンの電気器

 五三 ライデン瓶

 五四 検流計

 五五 電鍵

 五六 引力電池

[やぶちゃん注:ここは全原文を示す。原本では標題List, of devicesが中央インデント、各項目が半角十七字下げである。言っておくと、私は理科では唯一、物理が苦手であった。

   *

 

List, of devices

 

1. Balance.

2. Balance with weights.

3. Pendulum.

4. Centrifugal machine.

5. Inclined plane.

6. Centre of gravity, double cone.

7. Dropping-machine with pendulum.

8. Centre of gravity. Equilibrist.

9. Lever balance.

10. Heros fountain.

11. Suction pump.

12. Cohesion figures.

13. Barker's mill, with inclined plane.

14. Forcing pump.

15. Illustrating air pressure.

16. Geissler's air pump.

17. Illustrating suction.

18. Air receiver, with manometer.

19. Baroscope, with air receiver.

20. Windmill.

21. Illustrating suction.

22. Air pump exhausting and condensing.

23. Tuning-fork.

24. Vibration of bell.

25. Savert's apparatus, with two kinds of resonator.

26. Sonometer, with bow.

27. Wave phenomena.

28. Resonator.

29. Pyrometer.

30. Expansion of solid.

31. Angle mirrors.

32. Rumford's photometer.

33. Efflux of gas.

34. Light experiment.

35. Camera obscura.

36. Continuation of light.

37. Diffusion of light.

38. Hollow prism.

39. Expansion of gas, with index.

40. Expansion of liquids.

41. Illustration of thermometer.

42. Magnetic needle.

43. Magnetic needle, with stand.

44. Electric pendulum.

45. Universal discharger.

46. Electro ball.

47. Electro pendulum.

48. Discharger.

49. Insulating stool.

50. Alarum bell.

51. Electro wheel.

52. Nairne's electro machine.

53. Ley den jar.

54. Galvanometer.

55. Galvanic keys.

56. Gravitation battery.

 

   *

 以下、私の想起し難いものを注する。よく判らないが多分あんなもん、こんなもんだろうぐらいな推論が私に出来るものは注さなかった。中には、御大層な名称の割には昔の少年雑誌の付録見たようなものも含まれているやにも思われる。

「五 斜面路」斜面上の運動の模式器械。物理演習でしばしば行われる運動方向と運動方向と垂直な方向に分解する際のモデルとなる単一器械。

「六 重力の中心、二重円錐」ローリング・ダブル・コーン或いは円錐斜面と訳されるモデル機器。グーグル画像検索「DOUBLE CONE AND RAMPをリンクさせておく。

「吊り合わせ機構に振り子を用いた秤(はかり)。傾斜梃子(てこ)式秤の一種。基本的には竿に錘(おもり)を固定して振り子を形成させ、梃子の重点に吊るした物体と振り子の復元力とを吊り合わせておき、その梃子の傾きから重さを読み取るもの。

「九 槓杆均衡」「槓杆」は「こうかん」と読み、単純器械の梃子のこと。

「一〇 ヘロス噴水」ヘロンの噴水(Heron's fountain)。一世紀頃のアレクサンドリアのヘロンが発明した水力装置。『ヘロンは気圧や蒸気を研究し、世界初の蒸気機関(アイオロスの球)などを記録に残している。ヘロンの噴水も同様な玩具であり、水を噴き出させる。ヘロンの噴水を様々に変形させたものが、物理学の授業で水圧や空気圧の原理を示す実演に使われている』とウィキの「ヘロンの噴水」にある。リンク先に図と原理が載る。

「一二 凝集文様」物理の凝集力を示すための模式モデルか?

「一三 斜面路あるベーカアの輪機」「反動水車」或いは「ベーカー(氏)の水車」と呼ばれるもの。明治三八(一九〇五)年刊の関盛治「水力機械学」の国立国会図書館デジタルコレクションのこちらの画像(解説と図有り。リンクは図のある頁)を視認されたい。

「一六 ガイスラーの空気喞筒」ドイツの物理学者で真空放電管「ガイスラー管」の発明者として知られるハインリッヒ・ガイスラー(Johann Heinrich Wilhelm Geißler 一八一四年~一八七九年)の水銀を使った真空ポンプのことか。

「一八 微圧計のある空気受」次と並置されているところからは、空気の圧力を知るための、恐らくは実験用のすこぶる簡単な器械であろう。

「一九 空気受のある気圧計」“Baroscope”というのは植村正治氏の論文工部大学校(工学寮)における博物場・器具室と実習用諸器具について(PDF)に「鋭感気圧計」などと訳されているから、本格的な気圧計であろう。

「二五 二種の共鳴器あるサヴェール器」サバー氏応響器と訳されるもの。国外のサイトの写真を見ると、円筒状のものとカップ状のものが並んでいる共鳴実験装置のようである。

「二六 弦のあるソノメータア」ソノメータ。海外サイトの画像を見ると、一弦琴の形状を成し、共鳴箱の上に複数の駒を挟んだが弦があり、弦を錘で調節して音を変化させる装置のようである。

「三一 角度鏡」鏡面の反射実験のための二枚(或いはそれ以上)の鏡を組み合わせたものか。

「三二 ラムフォードの光度計」ランフォード光度計。グーグル画像検索「Rumford's photometerをリンクさせておく。影の濃さで光度を現認する器械らしい。

「三八 空胴角壔」「角壔」は「かくとう」で「角柱」に同じく、二つの合同な多角形が平行し、他の面が総て平行四辺形である多面体を言うが、原文“Hollow prism”で判る通り、光実験などに用いる、透明なガラス板で作られた空洞の三角プリズムのことである。

「四六 電気毬」不詳。摩擦電気を帯びさせる実験用の帯電物質で出来たボールか? 静電発電機として知られるヴァン・デ・グラフ起電機(Van de Graaff generator)の発明はずっと後、四十六年後の一九二九年(昭和四年)であるから、この当時は存在しない。

「四七 電振子」先の「電気振子」が単純な静電気による垂下したものを運動させるものであるのに対し、こちらは本格的な球の振り子を電池によって動かすものであろう。

「五一 電輪」不詳。静電気によって円盤を回転させるものか?

「五二 ナイルンの電気器」イギリスの技師 エドワード・ネアン(Edward Nairne 一七二六年~一八〇六年)が発明した古典的な静電発生装置。ガラス絶縁体に取り付けられたガラス・シリンダーから成る。

「五三 ライデン瓶」静電気を蓄える装置。ウィキの「ライデン瓶」より引く。一七四六年に『オランダのピーテル・ファン・ミュッセンブルーク(ピーター・ヴァン・マッシェンブレーケ)によって発明されたとされるが、このような器具で静電気を溜めることができることは』、その三ヶ月前に遠ポメラニア(ポーランド語:Pomorze Tylne/ドイツ語: Hinterpommern)出身の『牧師エヴァルト・ゲオルク・フォン・クライスト(Ewald Georg von Kleist)が発見している。オランダのライデン大学で発明されたため、「ライデン瓶」の名がある。電気の実験用に広く使われ、ベンジャミン・フランクリンの凧揚げの実験にも使われた』。『ガラス瓶の内側と外側を金属(鉛など)でコーティングしたもので、内側のコーティングは金属製の鎖を通して終端が金属球となっているロッドに接続される。通常、電極とプレートで構成され、これらが二つの電気伝導体となる。これらが誘電体(=絶縁体。例えばガラス)によって切り離され、そこに電圧をかけると電荷が貯まることになる。原理的にはコンデンサと同じである』。『当初は、ガラス瓶の中に電気が溜まると考えられていたが、実際には』『絶縁された二つの導体の表面に溜まっているのであって、その間の空間には電気エネルギーが溜まっていることになる』。『一般に、静電容量は現在の電子回路に使われているコンデンサと比較すると、それほど大きなものではない。しかし、高い電圧を加えることによって多量の電荷を蓄えることが可能で、使い方によっては感電を生じさせるほどの威力を持っている』。『平賀源内が復元したことで知られるエレキテルにも、摩擦で生じた静電気を貯める機構としてライデン瓶が用いられている』とある。

「五五 電鍵」電気信号を断続して出力するための装置。モールス信号器。モールス符号はアメリカの発明家サミュエル・フィンレイ・ブリース・モールスによって一八三七年に実験され、三年後の一八四〇年に特許取得された。

「五六 引力電池」重力電池(gravity cell)のことであろう。サイト「電気の歴史イラスト館」の重力電池」に詳しい(リンク先に図有り)。一八六〇年代に『フランスのCallaudによってダニエル電池の素焼きの容器を使用しない電池』として発明されたもので、『構造はガラス容器の底に銅製の電極が置かれ、上部に亜鉛電極が吊り下げられて、容器の底部には硫酸銅の結晶片が敷き詰められ、ガラス容器は蒸留水で満たされ』る。『この状態で電流が流れると上部に亜鉛硫酸溶液(透明)の層ができ、下部の硫酸銅溶液(青)とは重力によって分離された状態にな』る『動作原理はダニエル電池と同じで』、『この電池の特徴は2種類の電解液が重力によって分離する(たとえば水の上に油が浮かぶように)ことで二つの電解液の混合を防止したことで』、『これによってイオンの移動を妨げる(内部抵抗)ものが無くなり、大きな電流が得られるようにな』ったが、一方で『振動や過大な電流を流すと電解溶液が混ざり合ってしまい』、『電圧が低下する』欠点はあった。『当時の英国や米国で電信の電源に使用され、保守が簡単であったことから、電池の寿命が近づくと電信員が消耗した部品や溶液を容易に取り替えることができる特徴があり、電信や電話の電源として1950年代まで使用され』たとある。

 以下、底本では有意に一行空けがある。]

 

 

 以下は構造に使用した物品の表である。銅・真鍮・鉄の針金、いろいろな形式の竹、糸と紐、大錐、ネジ錐、皿、端書、亜鉛板、鉄葉(ブリキ)、鉛の銃弾、古い腰掛、浅い木造の桶、箱の蓋、独楽、薄い板、葡萄酒の瓶、硝子の管、バケツ、洋灯の火屋、紙、厚紙、皮の切れはし、銅貨、貝殻、葡萄酒杯、水のみ、護謨管、水銀、蠟燭、硝子瓶、護謨毬、各種の縫針、麦藁、婦人用鋏、磁器の鉢、コップ、提灯、算盤玉、紙製の茶入、僧侶の鈴、製図板、鉤針、鏡面用硝子並に普通の板硝子、拡大鏡、羽板、封蠟、硫酸、時計の発条、小瓶、漏斗。

2016/02/06

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第二十六章 鷹狩その他 (40) 当時の東京の殺人事件(過去十年間)はたった十三件だった!

 私は東京に於る統計局の長をしている杉氏〔統計院大書記官杉亨二郎〕と知合になった。彼は日本の青物、茶の湯、及びそれに頼するものに趣味を持つ、非常に智的な人である。彼から私は東京の保健状況に関する、興味のある事実を沢山聞いた。ミシガン州ランシングの、州立保健局長官、ドクタア・ベーカアが、私に彼の一八七九年の報告書を送ってくれた。重要な統計中、その年八十七件の故殺が行われたことを私は発見した。その時のミシガン州の人口は、東京の人口よりすこし多いので、私は杉氏にその一年間、東京で何件の故殺が行われたかを質問した。彼は皆無だといった。事実過去十年間を通じて、東京では故殺が十一件と、政治的の暗殺が二件行われた丈である。

[やぶちゃん注:「杉氏」底本では直下に石川氏の『〔統計院大書記官杉亨二郎〕』という注が入る。しかしこれは亨二郎ではなく、杉亨二(すぎこうじ 文政一一(一八二八)年~大正六(一九一七)年)と思われる。日本の統計学者で官僚にして啓蒙思想家・法学博士。「日本近代統計の祖」と称される人物で、初名は純道。以下、ウィキの「杉亨二より引く。『肥前国長崎(現在の長崎県長崎市)に生まれ、大村藩の藩医村田徹斎の書生を経て』、弘化五・嘉永元(一八四八)年に大坂の緒方洪庵の適塾に『入ったが病のため同年帰国した。翌年には江戸に出て中津藩江戸藩邸の蘭学校(慶應義塾の前身、福澤諭吉が出府するのは』安政五(一八五八)年)だが『その後も慶應義塾に出入りしている)で教えた後』、嘉永六(一八五三)年には『勝海舟と知り合い、その塾の塾長から老中阿部正弘の侍講(顧問)とな』った。万延元(一八六〇)年には『江戸幕府の蕃書調所教授手伝となり』、四年後には『開成所教授となる。この頃、洋書の翻訳に従事している際にバイエルン(現在の独バイエルン州)における識字率についての記述に触れたのが統計学と関わるきっかけになったと後年回想している』。『明治維新後は静岡藩に仕え』、明治二(一八六九)年『には「駿河国人別調」を実施したが藩上層部の反対で一部地域での調査と集計を行うにとどまった』。明治四年十二月二十四日(一八七二年二月二日)に『太政官正院政表課大主記(現在の総務省統計局長にあたる)を命じられ、ここで近代日本初の総合統計書となる「日本政表」の編成を行』っている。また、明治六(一八七三)年には明六社の結成にも参加している。『一方、現在の国勢調査にあたる全国の総人口の現在調査(当時は「現在人別調」と称した)を志し、その調査方法や問題点を把握するため』、明治一二(一八七九)年に『日本における国勢調査の先駆となる「甲斐国現在人別調」を甲斐国(山梨県)で実施した。同年の』十二月三十一日午後十二時現在の居住者を対象として行い、調査人二千人、調査費用約五千七百六十円、調査対象となる甲斐国の現在人数は三十九万七千四百十六人という結果を得た。『その後は政府で統計行政に携わる一方、統計専門家や統計学者の養成にも力を注いだ。統計学研究のための組織である表記学社や製表社(後に変遷を経て東京統計協会)を設立して後進育成を図る一方』、まさにこの年、明治一六(一八八三)年九月には『統計院有志とともに共立統計学校を設立し自ら教授長に就任した。しかし、「統計学校」の「統計」という訳語が、スタティスティックスの本来の意味を表現していないとしてよしとせず、自ら漢字を創作して使用した』(ウィキ嫌いの、公権力に追従するアカデミズムの信望者の方のために「総務省統計局」公式サイト内の『日本近代統計の祖「杉   亨二」』をリンクさせておくが、そこでは杉が考案した漢字の画像を見ることが出来る。必見)。その後、明治一八(一八八五)年に、『統計院大書記官を最後に官職を辞し、以後は民間にあって統計の普及につとめた』。明治四三(一九一〇)年には『国勢調査準備委員会委員となり、統計学者の呉文聰や衆議院議員の内藤守三らとともに長年の念願であった国勢調査の実現のため尽力したが、第1回の国勢調査が行われるのを見ずして病没した』とある。

「ランシング」(Lansing)はアメリカ合衆国ミシガン州州都。大部分がミシガン州インガム郡に位置する。人口二〇〇九年現在十一万三千八百十人。一八四七年に「デトロイト市」から「ランシング町」に州都が移転、一八五九年には「ランシング町」から「ランシング市」に命名を変更、一八七九(本記載時間より四年前の明治十二年相当)年には新州庁舎が実に百五十一万百三十ドルの費用をかけて建設されている。参照したウィキの「ランシング(ミシガン州)」によれば、『アメリカ合衆国統計局によると、この都市は総面積』は九十一・三平方キロメートルとある(因みに、単純に比較することは出来ないが、現在の東京都の面積百九十・九平方キロメートルであるが、当時の東京府のそれは調べ得なかったものの、

この作品時間から三十七年後の大正九(一九二〇)年でも東京特別区二十三句の面積は八十一・二四平方キロメートル

でランシングよりやや狭いこと、遡るこの十年前に当たる

明治六(一八七三)年一月一日の東京府の人口は百八万六千七百十八人

であったというデータもある。この数字と、モースが「その時のミシガン州の人口は、東京の人口よりすこし多い」と言っている点に着目されたい。因みに現在の東京都の人口は二〇一五年現在で千三百五十万六千六百七人で、二〇一一年の資料で東京都の殺人件数はたった一年間で百七十九件で本邦ワースト1である)。現在の状況ではあるが、同市の人口の十六・九%及び家族の十三・二% は貧困線(poverty linepoverty threshold:統計上で生活に必要な物を購入出来る最低限の収入を表す指標。それ以下の収入では一家の生活が支えられないことを意味し、貧困線上にある世帯や個人は娯楽や嗜好品に振り分けられる収入が存在しないとされる)『以下である。全人口のうち』十八歳未満の二十三・二%及び六十五歳以上の九%は『貧困線以下の生活を送っている』。『州都であるため、多くの雇用者は政府職員である。また、市の周辺にゼネラルモーターズが複数の工場を持っており、住民の多くが雇用されている』とある。

「故殺」原文“murders”

「過去十年間を通じて、東京では」「政治的の暗殺が二件行われた丈」明治一六(一八八三)年から十年前であるから明治六(一八七三)年以降であるから、一件はモースの記憶に傷ましいものとして残った大久保利通暗殺事件(「紀尾井坂の変」とも呼ばれる)明治一一(一八七八)年五月十四日に起った、内務卿大久保利通が東京府麹町区麹町紀尾井町清水谷(現在の東京都千代田区紀尾井町清水谷)で不平士族六名によって暗殺された事件であろうが、今一件は不明である。識者の御教授を乞う。大物政治家で暗殺された者には民部大輔や参議の要職を勤めた広沢真臣(さねおみ 天保四(一八三四)年~明治四(一八七一)年)がいるが、彼の暗殺は現在では政治的なものとは考えにくいとされていること(当時は木戸や大久保などが暗殺の黒幕であるとする説はあった)、さらにこの事件は十二年前になることが悩ましい。]

2016/02/05

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第二十六章 鷹狩その他 (39)

 日本から帰国する時、私は支那へ渡り、短期間滞在した後、海岸に沿うて下って安南に寄り、しばらくマライ半島とジャワとにいた。横浜から上海へ行く時、私はマサチユーセッツ州エセックス郡出身の、コンナー船長と一緒になった。下関海峡を通過すると、コンナー船長は、岩の多い、切り立った島を指さして見せ、十一年前、彼と彼の夫人とが、この島で難破した船にのっていたと語った。海は穏だったが、非常な暗夜だった。遭難火箭を打ち上げると、間もなく漁夫が、何事にでも手伝うつもりで、本土のあちらこちらから漕ぎ寄せて来た。船客の所有物は舷ごしにこれ等の救助者に手渡され、救助者達は闇の中に消えて行った。翌朝日本政府の汽船が横に来て、船客と船員とをのせ、遭難現場から百四十マイル離れた長崎へ行って彼等を上陸させた。船客達は彼等の衣服全部その他を含む荷物を、如何にして取り戻すかに就て、いく分不安の念を抱いたが、船の士官は、政府が海沿いの往還に、これ等の荷物をとどける可き場所を書いた告示を出しさえすれば、それ等はすべてまとめられ、そして送られるに違いないと、丁寧にいった。数日以後、カフス釦からよごれた襟に至るまでの、すべての品が長崎へ送られ、紛失品は只の一つもなかった。コンナー船長は、微苦笑を浮べながら、数年前、彼等夫妻が十一月、ニュー・ジャージーの海岸で難船した話をつけ加えた。その時は非常に寒かった。彼等が受けた苛酷な取扱に関しては、彼等があらゆる物を盗まれたことを書く以外、何もいう必要はない。

[やぶちゃん注:モースは明治一六(一八八三)年二月十四日に離日した。磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」より引く(注記号は省略した)。前日『十三日、モースは梅若の家に行き、謡の最後の稽古をした。これで日本でのモースの行動はすべて終わった』。

   《引用開始》

 二月十四日午前十時、モースは新橋から汽車に乗った。おそらく、大森駅の手前では、思い出の深い大森貝塚に目をやったことであろう。横浜についたモースは、その日横浜を出る上海行の「東京丸」(二一一九トン、「シティ・オブ・トーキョー」とは別の船)に乗船してヨーロッパに向った。ビゲローは日本に残り、モースの一人旅であった。

 今度の旅行では、日本から帰国するとき、東洋諸国をめぐり、ヨーロッパに立ち寄ることが最初からの予定であった。モースはその計画にそって、上海から香港をまわり、三月七日に広東に到着、そこで数日滞在して製陶所を訪れている。だが、当地での外国人に対する感情はいたって悪く、モースはどこでも敵意をもって迎えられた。しかしモースはいう、「私は気が変になったが、彼らがキリスト教国からどこでも酷い扱いを受けていることを考えれば、少しでも彼らを非難する気にはなれない。まったくのところ、もし私が中国人だったら、同じことをしただろう、しかももっと手ひどくだ」と。

 ついでモースはサイゴン、シンガポール、ジャワに寄ったが、当初予定したインドはコレラが大流行しているので取りやめてヨーロッパに直行し、四月三十日にマルセイユに上陸した。これがモースにとって初めてのヨーロッパ訪問だった。

 フランスには一週間滞在。パリでは、前にアメリカで会ったことのあるオスカー・ワイルドと再会している。

   《引用終了》

その後、イギリスを経て、ニューヨーク到着は同年六月五日のことであった。]

M777

777[やぶちゃん注:これが本書の最後のモースの挿絵である。]

 

 日本人がすべての固信から解放されていることを示す、何よりの実例は、彼等が外国の医術の健全な原理を知り始めるや、漢法を棄てたことである。素速く医学校を建てたことや、米国人がどこへ行って医科教育を終えるかを質問することは、政府の賢明を示していた。我国の有名な医者や外科医が、ベルリンとノルウェーの医科大学や病院で研究したことが知られた。かるが故に、ドイツ人が医科大学の教師として招れ、学生達は入学する迄に充分ドイツ語の基礎を持っていなくてはならなかった。更に横浜には、輸入される薬品全部を検査して、その純粋であることを確めるのを目的とする、化学試験所が建設された。経験のみに依る支那の、莫迦げた薬学は既に放棄された。もっとも田舎へ行くと、天井から乾かした鹿の胎児(図777)や、ひからびた百足その他、支那の、医療物として使用される、怪異な愚劣物が下っているのを、よく見受ける。

[やぶちゃん注:「漢法」はママ。

「鹿の胎児」「鹿のさご」「しかのはらご」「さご」などと呼ぶ。但し、漢方というより、本邦の民間薬のように思われる。ともいう。ウィキの「鹿のさご」によれば、三~四月頃、鹿の胎児は鼠よりも大きく成長して、『その皮膚には鹿の子(かのこ。皮膚の斑点)があらわれようという時期で』この時期の胎児を採り出して、『黒焼きなどにし、薬用とする。殊に山民のなかでは女性の血の道の妙薬として珍重された』とある。

「百足」漢方サイトを見ると、破傷風・小児性急性熱性痙攣・顔面神経麻痺・皮膚潰瘍及び蛇や毒虫の咬傷・切傷・火傷に外用するとある。]

 

 デモ医者は竹〔薮〕医者とよばれる。多分竹が軽くて空虚だからであろう。

[やぶちゃん注:「デモ医者」原文“a quack”。偽せ医者。他に山師・いかさま師の意もある。しかし「デモ」というのは所謂、「医者にでもなろうか」とか、「デモシカ教師」の「でも」であるからちょっと違う気はする。

「竹医者」底本では「竹」の直下に石川氏の『〔藪〕』という注が入っている。私は小学生の時、医者になろうと本気で思っており(就学直前まで結核性カリエスを患い、医師に親しく接していたためである)、そう公言していたので、私の小学生時代の渾名は「藪医者」であった。この語源説は複数あり、もっともらしいのは「野巫(やぶ)医者」「田舎の巫医(ふい)」、所謂、妖しげな呪術を用いて治療するシャーマンを指すとするものであるが、私はどうも後付の気がする。よく聴く「藪井竹庵」という下手な医者の名に由来するというのもまことしやか乍ら、却って落語噺の登場人物っぽい。「野暮な医者」が訛って「やぶ医者」になったとする説もあり、ともかくも「藪」は「田舎」の「怪しげな」の謂いである感じは強い。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第二十六章 鷹狩その他 (38) モース先生、大いに怒る――附明治の骨董商の詐欺の手口

 

 日本の骨董商人は、世界の他のすべてに於ると同じく、正直なので有名だということは無い。欧洲なり米国なりでつかませられた贋物、古い家具、油絵、特に「昔の巨匠」の絵、エジプトの遺物等を思い出す人は、日本の「古薩摩」(屢々窯から出たばかりでポカポカしている)や古い懸物やその他の商人を、あしまりひどく非難しないであろう。悪いことではあるが、これ等のごまかしのある物が、実に巧妙であるのには、感心せざるを得ぬ。一例として商人が、横浜か東京の郊外に、古風な庭のある古い家を発見したとする。若し彼がその家の住人を数週間、「所持品ぐるみ」引っこしさせることが出来れば、彼は適宜な方法で、その家の中に懸物、青銅の品、屏風、漆塗の箱、その他を一杯入れる。更に彼がその家の主人をして――彼が上品な老紳士であれば――不運な事変のため貧乏になり、今や家宝を売らねばならぬという、落ちぶれた大名の役目を演じさせることが出来れば、それでもう囮つきの係蹄は完全に張られたことになる。上陸したばかりで、日本の芸術の逸品に対して夢中になっている外国人は、ふとしたはずみに商人から、この都会から数マイルしか離れていないところに引退した大名が住んでおり、この大名は今や零落して家財を売らねばならず、非常な値うちのある、且つ非常に古い家宝を手に入れる、このような稀な好機会は、一生に一度位しか起らぬのだということを聞く。人力車が雇われ、長く、気持よく走った上で、彼は、想定的大名のささやかなる住宅ヘ着く。商人は先に行って、彼が来たことを告げる。彼はそこで正式に、尊敬すべき老人に引き合わされ、老人はそこで何ともいえぬ丁重さで彼に茶と菓子と、それから恐らくはすこしの酒とをすすめる。彼は自分がこのように、無遠慮にも押しかけて来たことを恥じ、通弁を通じて前哨戦を行う一方、彼の目は慾深く部屋中を見廻し、自分の所有に帰するにきまっている品を選ぶ。同時に彼は商人によって催眠術にかけられ、愛すべき老人の、上品で、そして家宝を手ばなさずに済めかしと訴えるような態度にだまされる。彼はその品、この品に関して慎み深くいわれる値段を、値切ることが恥しくなる。誇りがましい勝利の感情をいだいて、買物を頼み込んだ人力車でホテルへ帰る彼は、すくなくとも今度こそは稀古の宝物を手に入れたという確信を持っているのだが、品物がすべて贋物であり、彼が途法もなく騙取されたのであることは、すぐ判る。これ等の商人が敢てする面倒と、巧妙さとは他の事柄にも示される。政府の役人か大学の先生で、毎日きまった路を通って勤めさきへ行くとすると、東京の遠方で見て感心し、買いかけたが、あまり高いのでやめた品が、毎日の通路にある商人の手にうつる。値段は前よりも安いので、どうしても買うことが多い。これが、同じ都会の他の場所で、買うことを拒んだ品ではあるまいかと疑って、即座にその遠方の商人のところへ行って見ると、前にほしかった品はすでに売られている。然し、更に買うことを拒み、再び遠くにいる商人を訪れると、その品はまた彼の手もとにあり、値段は安くなっている。私は数度、このような経験をした。

[やぶちゃん注:「係蹄」本来は、繩を使って獣の足(蹄(ひづめ))を引っ掛ける罠のこと。無論、ここは比喩表現。

「数マイル」一マイルは一・六キロメートルであるから、十キロメートル前後。]

M776

図―776

 

 権左と呼ばれる老商人は、私が名古屋へ行った時、あの大きな都会中の骨董屋へ私を案内して大いに働いてくれ、この男こそは大丈夫だろうと思っていたのだが、その後私をだまそうとした。その方法たるや私が日本の陶器をよく知っていなかったら、ひどくだまされたに違いないようなものであった。私は古い手記から、初期の瀬戸の陶器のある物の、ある種の切込み記号を、非常に注意深く写し取った。これ等の写しを権左に送り、それ等の署名のある品をさがし出してくれ、そうすれば最高の値段を払うといってやった。数ヶ月後名古屋から箱が一つ私のところへとどいた。それには権左の、古い陶工の歴史を書いた手紙がついていた。そして私が彼に送った写しと同じような記号のついた、これ等の陶工がつくった茶入、茶碗その他が入っていた。私は一目してそれ等が、三百年昔のものではなく、精々三、四十年位にしかならぬことを知るに充分な位、日本の陶器に関する知識を持っていた。石鹼と水と揚子とを使うと、一度こすった丈で、なすり込んだ塵挨が取れ、切り込んだ記号が奇麗に、はっきりあらわれた。で、普通の虫眼鏡で見ると、この記号が、固く焼かれた品の上にひっ搔いてつけたものであることが知られた。本物だと焼く前に、やわらかい陶土に切り込むのだから、線の両端が持ち上っている。私はすぐさま、これ等の記号はすべて偽物であり、彼をやがて出版する日本の陶器に関する本に、ペテン師としてあげてやるという、激烈な手紙を彼に出した。数週間後に私は権左から手紙と、絹の水彩画を画いたもの(図776)とを受取った。以下はその手紙を竹中氏がざっと訳したものである。

[やぶちゃん注:「権左」「第二十章 陸路京都へ 元箱根から静岡を経て名古屋へ到着」以降に既出する名古屋の桜井権三(この姓名は磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」に拠る)なる骨董屋と思われる。

 以下は、底本では全体が二字下げ。]

 

モース先生

過日は私の経験足らぬ眼のために、私は陶器を批判することについて間違をしました。私は非常に恥入っています。私の欠陥に対して再び先生のお許を乞う可く私は今や私が誤っていた事を書き記してお送りします。この絵で椅子に坐り、陶器を見ておられるのはモース先生で、他は竹中様、他は木村様であります。彼等の前に坐り、お許しを嘆願しているのは権左であります。最後に私は先生が陶器に関する御本を出版なさるに当って、私に親切にして下さらんことを祈ります。先生が御出版なさらんとする御本のことを考えるごとに、私は先生に向って正しからぬことを致したことを、非常にくやみます。

                  敬具

               権  左

 

 絵に書いてある詩は「この世界では殆どすべてがかくの如くである。あなたは外側から、ある柿の内部の渋は見ることが出来ぬ。」という意味である。

[やぶちゃん注:「木村」大森貝塚の土器片の図版の絵を描いた画家木村静山か。この人物については、「東京大学総合研究博物館」公式サイト内の木下直之肖像のある風景/3に『平木政次の『明治初期洋画壇回顧』(日本エツチング研究所出版部、一九三六年)によれば、木村は長崎の出身、外国人の注文に応じて綿密な博物画を描く画家であった。とくに昆虫の写生を得意とした。大学と上野にあった教育博物館(理学部博物館とは別組織)の画工を兼務していたが、一八八〇年に大学の専任となった』とある。

「この世界では殆どすべてがかくの如くである。あなたは外側から、ある柿の内部の渋は見ることが出来ぬ。」図から判読すると、

 

 人の世やそとからみえぬ柿のしふ

 

という俳句である。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第二十六章 鷹狩その他 (37) 日本の海産物とその漁について

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 動物性の食料の大部分は、海から取れる。日本人は海に住む動物の殆ど全部を、食品として使用する。食料の過半をなすものは脊椎のある魚だが、而も然るべき大きさの軟体動物は、烏賊と共に市場で見られ、その他海胆の卵、蠕虫に似たサベラ、腕足類のサミセンガイ、海鞘属のホヤ、その他数種の海藻等もある。脊椎のある魚では、我国に於るよりも、遙かに多くの種類が食われる。我国の沿岸に、同様に、或はそれに近い程多くの種類がいないのではなく、我々の嗜好が僅かな種類に限られているものらしい。私が子供の頃には、誰も比目魚(ひらめ)を食わなかったことを覚えている。以前、メイン州の海岸では、ハドックを食える魚だと思っていなかった。日本人が捕える魚は、殆ど全部市場へ持って来られ、分類されて売られる。小さな舟にのった何千人の漁夫や、岩の上の大人や子供が、あらゆる魚を捕えている。我国では多数取れたり、網にかかったりする魚だけが、市場へ持って行く価値を持つものと思われる結果、食用魚が数種に制限されニューイングランドに於る主なるものは、鮭、ハドック、鮪、ハリバットだけである。我々の軟体動物即ち蛤、クワホッグ、牡蠣、海扇等に対する噂好は極度に制限され、普通の糧食供給を構成するイガイに対しても稀である。輸入される種類のホラ貝は、イタリ一人のために市場で見ることもある。これは英国では一般に食われ、美味で栄養がある。他の多くの事象と同じく、日本の各国に、それぞれ独自な釣針がある。図772は越前、越後、羽後の各国の鱈針である。図773は、長い竿のさきにつける鰻針と、あたり前の魚切庖丁と、魚をよりわける手鉤とを示す。岩代では漁夫が鯖の一種なるボニトを掃えるのに、ある種の釣針を使用する。その柄は鉛のかたまりで、横には細長い鮑貝の一片がはめ込んであり、その末端には釣針の周囲に、固い紙の条片がついている(図774)。引ずり釣には木の魚を用いる。それは金属の竜骨でまっすぐになり、尾には針の列が二重についている。これは炭火の上で茶色にこがし、両側に、より濃い色の点を焼きつける(図775)。

[やぶちゃん注:「嬬虫に似たサベラ」「サベラ」は原文Sabella。「蠕虫」は「ぜんちゅう」と読み、体が細長くて蠕動運動によって歩行或いは運動動作する動物の俗称である。このSabellaは実は既に「第十二章 北方の島 蝦夷 19 モース先生、エラコを食う! / 第十二章 北方の島 蝦夷」で出てきており、そこではその「蠕虫」をモースはペロリと平らげて美味かったと言っているんである。このモースの言う「サベラ類」とは環形動物門多毛綱ケヤリムシ目 Sabellida のケヤリムシ科 Sabellidae の類を指していると思われるが、現行ではこの綴りに完全に一致する生物群や種は存在しない(少なくとも現在は有効な属名や種名には存在しない)。さても、ここでモースが指示している種は、結論から言ってしまうと、私はこれは、

定在性ゴカイの一種である多毛綱ケヤリムシ科エラコ Pseudopotamilla occelata

と同定する。その検証過程は既に私の、

「博物学古記録翻刻訳注 9 “JAPAN DAY BY DAY” BY EDWARD S. MORSE “CHAPTER XII YEZO, THE NORTHERN ISLAND” に現われたるエラコの記載 / モース先生が小樽で大皿山盛り一杯ペロリと平らげたゴカイ(!)を同定する!」

で示してある。そこでは「第十二章 北方の島 蝦夷 19 モース先生、エラコを食う! / 第十二章 北方の島 蝦夷」の原文も総て掲げて検証しているので是非とも参照されたい。……う~む……それにしても、モース先生……日本人の常食する海産物にこれを殆んど最初に出しちゃったところが……なんともはや……凄い、の一言に尽きる。……今は勿論……当時でだって――かのグロテスクな(私はあまりグロテスクとは実は思っていないのだが)エラコを知っており――しかもそれを――あろうことか食べたことのある日本人なんてえもんは……これ――ごくごく少数に限られているから――である。……これを読んだ外国人は「ジーザス!……ジャポンでは!……あのフィッシングの、あの餌にするワームを!……ごくごく当たり前に食卓で食ってるのかッツ?!」とおぞけふるえたに違いないのである! モース先生、ちょっと、悪戯に過ぎますゾ!

「腕足類のサミセンガイ」モースの研究の専門である、嘗ては「生きている化石」と称せられた(化石種と比較すると殻形に非常に大きな変化が起こっていることから、つい最近(二〇〇三年)になってこれは否定されている)腕足動物門舌殻亜門舌殻綱舌殻目シャミセンガイ科 Lingulidae の特異な生物群。貝殻様の殻を持つが貝類ではない。詳しくはHP「鬼火」開設8周年記念 日本その日その日 E.S.モース 石川欣一訳 始動の私の注を参照されたい。

「海鞘属のホヤ」私の偏愛する海産生物。本邦で主に食用とされるのは、脊索動物門尾索動物亜門海鞘(ホヤ)綱壁性(側性ホヤ)目褶鰓亜目ピウラ(マボヤ)科マボヤ Halocynthia roretzi 及びアカボヤ Halocynthia aurantium である。私のホヤの記載は無数にあるが、「海産生物古記録集2 「筠庭雑録」に表われたるホヤの記載」及び『カテゴリ 武蔵石寿「目八譜」 始動 / 「東開婦人ホヤ粘着ノモノ」 ――真正の学術画像が頗るポルノグラフィとなる語(こと)――(後者は強烈な図あり)をリンクさせておく。

「比目魚(ひらめ)」原文“flounders”。この単語は広義には条鰭綱カレイ目 Pleuronectiformes に属するの魚類の総称で、カレイ亜目カレイ上科 Pleuronectoidea に含まれるものは総てを指していると考えてよい(同上科にはカレイ科 Pleuronectidae・スコプタルムス科 Scophthalmidae・ヒラメ科 Paralichthyidae・ダルマガレイ科 Bothidae の四科を含む)。狭義にはヨーロッパ産カレイ亜科ヌマガレイ属 Platichthys の一種を指すらしいが、これは恐らく一般的な英語圏の一般人の認識ではないと思う。私が何を言いたいかは、お判り戴けるであろう。一般的な英語圏の人間にとっては鰈も鮃も一緒くた、概ね、平べったければ皆“flounder”(フラゥンダー)であるということである。

「ハドック」底本では直下に石川氏の『〔鮭の類〕』という割注が入る。原文“haddock”。条鰭綱タラ目タラ科コダラ属コダラ Melanogrammus aeglefinus 。参照したウィキの「コダラ」には、『北大西洋両岸に生息するタラ科の魚』とあるので、本邦の領海には棲息しない。『ポピュラーな食用魚で、商業流通している』とあり、体長は一・一メートル以上になるからかなり大型で、『白い体に黒い側線が走るのが特徴であり、よく似たポラックという魚は逆に黒い体に白い側線である。また、胸鰭の上に黒い斑があり、"thumbprint"(拇印)、"Devil's thumbprint"(悪魔の拇印)または"St. Peter's mark"(聖ペトロの印)と呼ばれる』とある(英和辞典に「モンツキダラ」とあるのはこの斑点を指す異名のようである)。『引き網漁、トロール漁、延縄などで商業漁獲されている。非常に一般的な食用魚であり、生、燻製、冷凍、干物、缶詰の形で流通する。イギリスでは他のタラ類やカレイに並んでフィッシュ・アンド・チップスの材料となっている』。『新鮮なコダラの身は白みの半透明で、タラと同様に調理できる。古くなると身は青白くなる。コダラなどのタラの幼魚の切り身はマサチューセッツ州ボストンではスクロッド(scrod)と呼ばれて売られる。ノルウェーではフィスケボッレル(fiskeboller)という魚団子の主な材料ともなる』。『近縁のタラ属とは違い、コダラは塩漬けではなく干物や燻製で保存される。コダラの燻製の一種にフィナン・ハディ(Finnan Haddie)と呼ばれるものがあり、この名前はスコットランドの漁村フィンドンに因み、元々泥炭の上で冷燻製したものである。よくフィナン・ハディはミルクで煮て朝食にされる』。『また、コダラの燻製はケジャリーという英印折衷の料理の主材料でもある。スコットランド東海岸のアーブロースの町では熱燻製のアーブロース・スモーキー(Arbroath Smokie)が作られており、これは食べる前に更に調理する必要はない』とする。現行では相当に活用されている流通魚であることが判る。

「ハリバット」底本では直下に石川氏の『〔比目魚の類〕』という割注が入る。原文“halibut”。これは狭義には条鰭綱新鰭亜綱棘鰭上目カレイ目カレイ科オヒョウ属 Hippoglossus の仲間を指し、この属は超大型個体がいることで知られる巨大カレイ類の一種である。ウィキの「オヒョウ」には、『世界には複数の種が存在し、日本の北洋からオホーツク海、大西洋、ベーリング海、北極海などの冷たい海の水深』四百~二千メートル『付近の大陸棚に生息する。日本近海では東北地方以北の各地と日本海北部に、タイヘイヨウオヒョウ Hippoglossus stenolepis が生息している』(但し、本邦では大味とされ、人気が低い。私の小学生の時より馴染んだ数々の魚類図鑑では『まずい』と明記されるものが多かった。但し、ウィキにも記されているように現在では回転寿司で「鮃の縁側」の似非代用品として安く提供されているケースをしばしば見受ける)。全長はの成体ならば通常でも一~二メートル以上になり、大きい個体では三メートルを超えて体重も二百キログラムを超加する驚くべき大きさになる。但し、『このサイズになる大物はメスであり、オスは大きくてもメスの』三分の一程度の『大きさにしかならない。目のある側は暗褐色で、反対側は白色』で、大型の長命個体の中には百五十年を超えるて生きているものもいると言われる。『肉食で獰猛なため釣り上げた時に暴れ、漁師が怪我をすることもある』。主な種としては、タイヘイヨウオヒョウの他、タイセイヨウオヒョウ Hippoglossus hippoglossus がいる。但し、このウィキにもあるように、やはり英語圏ではいい加減であって、『英語でオヒョウはhalibut(ハリバット)であるが、halibutには』カレイ科『カラスガレイ属のグリーンランドハリバット Reinhardtius hippoglossoides(標準和名:カラスガレイ)や、ヒラメ科ヒラメ属のカリフォルニアハリバット Paralichthys californicus など、オヒョウ属でない魚も含まれている。halibutはカレイ目の大型魚に幅広く付けられた呼称である』とある(下線やぶちゃん)。

「クワホッグ」底本では直下に石川氏の『〔簾貝の類〕』という割注が入る。原文“quahog”。斧足綱異歯亜綱マルスダレガイ科メルケナリア属ホンビノスガイ Mercenaria mercenaria のこと。本邦にも棲息し、現行では正式和名でよくスーパーの店頭にも普通に並ぶようになったが、長く「オオアサリ」と呼ばれてきた(後述参照)。但し、アサリは同じマルスダレガイ科 Veneridae でも、アサリ亜科アサリ属アサリ Ruditapes philippinarum で種としては全く異なり、味も私は格別に下品と心得る。以下、ウィキの「ホンビノスガイ」から引く。『名前を漢字で記すと本美之主貝となる。これは』旧分類で同マルスダレガイ科 Veneridae の代表属であったビーナス属 Venus に属するとされ、その「ヴィーナス」に当て字した当時の和名「美之主貝(びのすがい)」によるのであるが、『現在はメルケナリア属 Mercenaria に分類が変更されて』しまったために、和名そのものが実体を表わさなくなってしまっている。『東京湾最奥部(千葉県湾岸部)では大アサリと呼ばれていた。(なお、中部地方沿岸部でよく食用とされる大アサリは』、マルスダレガイ科マツヤマワスレ亜科ウチムラサキ属『ウチムラサキ Saxidomus purpurata であり、別種である。)また、ハマグリの減少に伴い、流通時に白ハマグリやオオハマグリと呼ばれる事もあるが、和名シロハマグリは、同じマルスダレガイ科で南米に産する』Pitar 属『Pitar albidus に割り当てられているため、本種を指して「シロハマグリ」と呼ぶのは誤用である』。『食材偽装問題との関連で、消費者に誤解を与えるという理由で、これらの別名や通称は使用せずホンビノスガイと表記するのが一般的となりつつある』。『英名はサイズに対応して変化する「出世貝」であり、小さい順に littleneck, topneck, cherrystone と変化し、最も大きいものが quahogs または chowder clam と呼ばれる』(下線やぶちゃん。以下同じ)。『成貝の殻長は最大で』十センチメートル以上になる『比較的大型の貝であり、厚く硬い殻の表面には同心円状の肋が表れる。殻の色は生育環境により白っぽいグレーから黒ずんだ色と変化に富む。ハマグリと比較して丸みが強く、左右非対称で、殻頂がやや曲がった形をしている』。『北米大陸東海岸のほぼ全域』に分布し、『カナダプリンスエドワード島から、アメリカ東海岸を経てユカタン半島にかけて広く分布する』(モースが親しく名を挙げる意味が判る)。現在、『日本では主に東京湾、大阪湾に生息する』が、実は本種は『もともと日本には存在していなかった』。ところが、一九九八年に最初に『千葉県・幕張人工海浜で発見され』、一九九九年には京浜運河で、二〇〇〇年には千葉港、二〇〇三年に船橋付近で相次いで棲息が確認され、二〇〇〇年代に入ってからは、遠く大阪湾でも発見されている。『以後、東京湾内や大阪湾内で繁殖している外来種』と認定された(私はそれより以前にアクアラングを趣味とする知人が横須賀付近で捕ってきたのを食った経験がある)。『原産地である北米大陸から船舶のバラスト水に混ざり運ばれ、東京湾や大阪湾に定着したと考えられている。現時点では在来種への被害報告は無い』。『アメリカでは重要な食用貝であり、広く漁獲対象とされている。特にロードアイランド州では州の貝』『に選ばれている』。『日本では主に、市川市・船橋市地先の三番瀬で漁獲されて』おり、『また、東京湾最奥部の干潟域では潮干狩りでも採取される』。『日本での繁殖が確認されたのが比較的近年で、アサリ漁場に多く生息するため、かつては邪魔者として扱われることが多かった。しかし、食味の良さが注目され』、二〇〇七年頃から『首都圏の鮮魚店やスーパーなど販売チャネルが拡大し、水産物として採貝される機会が増えたため』、二〇一三年には『漁業権が設定されるまでになった』。『アメリカの東海岸で好まれ、クラムチャウダーやバターやワイン蒸しとして供されるほか、小ぶりのホンビノスガイは、ニューヨークやニュージャージーにて西洋わさびを加えたカクテルソースやレモンと共に生食もされる』。『食味は良い。ハマグリと同様、焼き貝や酒蒸しが良い』とあるが、不味くはないが、こう過大評価されては――浅利泣いて蛤は死ぬ――ね。何より、姿が貝形の醜いのが私は、イヤ!

「ホラ貝」原文“periwinkle”。これは石川氏のトンデモ誤訳腹足綱前鰓亜綱中腹足(盤足)目タマキビガイ上科タマキビガイ科タマキビ属Littorina の仲間を指す(本邦で馴染みなのは小型の潮上帯に密生するタマキビ Littorina brevicula )。腹足綱吸腔目フジツガイ科ホラガイ属ホラガイ Charonia tritonis の英名は普通は“conch”或いは“trumpet shell”である。

「長い竿のさきにつける鰻針」竿を装着した全体像は、Well肉桂氏のブログ「ニヤッとする話」の「迷作リメイクシリーズ27ダイヤモンドより貴重な食べ物(いやしんぼ7)」に示される「熊本式鰻穴釣道具」でよく判る。実際、モースは明治一二(一八七九)年五月から六月にかけての九州採集旅行の際、まさにこの熊本で本具を現認した可能性も頗る高いように私には思われる。

「魚切庖丁」出刃包丁。

「魚をよりわける手鉤」これは最も柄の短い中小型の魚種用の魚手鉤である。魚種によって鉤の形状や柄の長さが様々に異なる。

「鯖の一種なるボニト」底本では直下に石川氏の『〔松魚〕』という割注が入る。原文“bonito, a kind of mackerel”“mackerel”は広く条鰭綱スズキ目サバ亜目サバ科 Scombridae のサバ属 Scomber・グルクマ属 Rastrelliger・ニジョウサバ属 Grammatorcynus 等に分類される鯖(さば)類を総称する英語。“bonito”とは原義はスペイン語で「可愛い」(魚)の意で、石川氏の「松魚」は老婆心乍ら、「かつお」と読み、鰹のことである。しかし、カツオがサバ科マグロ族カツオ属カツオ Katsuwonus pelamis であることを理解している方が私は多いとは実は思っていない。されば、特に下線を引いておいた。

「岩代」原文“Iwashiro”。不詳。これはもしや、現在の福島県浜通及び福島県中通の内の白河郡、宮城県南部に当たる旧磐城(いわき)の読み間違いではあるまいか? あそこなら宮城県金華山沖で北上から南下に転じる脂ののった「初鰹」漁があるからである。

「ある種の釣針」以下の叙述と図からお分かり戴けるように、疑似餌(フライ)である。但し、モースは後者(図775)の如何にも小魚のフライフライした方(一般には「餌木(えぎ)」などとも言う)を「引ずり釣り」(糸を流して船を走らせながら釣る漁法)のそれとするが、現行の鰹の「曳き釣り」漁で前の図774も一般的疑似餌である。なお、この図774のそれは一気に複数を引っ掛けるサビキ釣りでも用いられる。これは一見、烏賊のシミュラクラに確信犯で作っているものが殆んどであるが、実際に鰹がこの形状を烏賊と正確に認識して食いつくわけではなく、光りの反射性や動きに対して大括りの生き餌として誤認反応しているものと思われる。図775の「餌木」は、それこそ産卵期以外のアオリイカ漁でも用い、また、疑似餌の手前にビート板のような潜水板と呼ばれるものを附けて流して左右の動きをつけさせたり、無論、生餌(彼らが好むアジ・イワシ類)を用いるものも当然ある。]

2016/02/04

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第二十六章 鷹狩その他 (36) 明治の江戸近郊の景勝その他

 日本人は睡ている人を起すのに、興味町深い方法を用いる。大声を出したり、荒々しく揺すぶったりする代りに、睡眠中の人の肩を最もやさしく叩き、次第に力を増して行って、ついには力強く引っぱたく。だから睡っていた人は、いささかも衝撃を感じることなしに、一向吃驚しないで目を覚ます。病院の看護婦その他は、この方法を採用すべきである。

 

 日本人の特に著しい性質は、彼等の自然に対する愛情である。彼等は単に自然を、そのすべての形状で楽しむばかりでなく、それを芸術家の眼で楽しむ。この性向は、東京市の案内書が数頁を費して、公園や郊外で、自然が最も見事な有様を示している場所を指示している位強い。以下にあげるものは「東京タイムス」から、これ等の頁を翻訳したものである。

  雪景色――隅田川の岸、小石川、九段、上野、愛宕山。晩冬。

  梅の花――向島、浅草、亀戸。二月下旬。

  桜の花――隅田川の岸、王子、上野、日暮、小金井。四月中旬から。

  桃の花――大沢村。四月中旬から。

  梨の花――生麦村。四月下旬。

  山吹――向島と大森。四月。

  芍薬――染井庭園、寺島、目黒。五月中旬。

  菖蒲――堀切。五月。

  藤――亀戸、目黒、野田。五月下旬。

  朝顔――染井、入谷の庭園。七月中旬から。

  蓮――木母寺、上野、溜池、向島。七月下旬から。

  秋の七草――寺島。八月下旬から。

  萩――寺島の蓮華寺、亀戸。八月下旬から。

  菊――目黒、浅草、染井庭園、巣鴨。十一月。

  紅葉――鴻台、王子、東海寺、海安寺。十一月。

[やぶちゃん注:「東京タイムス」英字新聞Tokio Timesのこと。アメリカ人ジャーナリストであったエドワード・ハウス(Edward H. House 一八三六年~明治三四(一九〇一)年:ボストン生まれ。万延元(一八六〇)年に江戸幕府が通商条約批准のために初めてアメリカに派遣した「遣米使節」の報道を通じて日本に興味を持ち、明治二(一八六九)年の暮れにニューン紙の『ニューヨーク・トリビューン』紙の東京特派員記者として日本に派遣され、長期に渡って日本の教育と外交に貢献、最後は日本で没している)が明治一〇(一八七七)年一月六日から発行を始めた。但し、本シークエンス内時間にあっては既に廃刊されている(廃刊は明治一三(一八八〇)年六月)。彼と同新聞については、中野昌彦氏のサイト「日米交流」の「17、特派員、エドワード・H・ハウス (その1)」から同「(その3)」までに非常に詳しく解説されてある。上記の記載も概ねそちらを参照させて戴いた。

「愛宕山」、東京都港区愛宕にある丘陵。記録上の標高は二十五・七メートルであるが自然の山としては東京二十三区内の最高峰。ウィキの「愛宕山」によれば、『江戸時代から愛宕山は信仰と、山頂からの江戸市街の景観の素晴らしさで有名な場所で』。「鉄道唱歌」第一番にも『「愛宕の山」と歌われている』。後のことになるが、『NHKの前身の一つである社団法人東京放送局(JOAK)は、この愛宕山に放送局を置き』、大正一四(一九二五)年七月の本放送から昭和一三(一九三八)年にNHK東京放送会館へ移転移行する『まで、この愛宕山から発信された』ことで知られる。以下、私がそれだけでは位置を定かに想起出来ない地名その他についてのみ注する。

「大沢村」不詳。原文“Osawa village”。一つの可能性であるが、これは「大沢村」ではなく、「小沢村」ではないか? 現在の東京都杉並区高円寺について調べてみると、旧高円寺村はそれ以前は、小沢村と呼ばれていたことが判る。例えばウィキの「高円寺」の「歴史」の冒頭に、『かつては高円寺村と呼ばれていたが、それより以前の江戸時代初期まで当地は『小沢村』と呼ばれていた』。『徳川三代将軍・徳川家光が鷹狩りでしばしば村内を訪れ、村内にある宿鳳山高円寺』(現在の東京都杉並区高円寺南四丁目にある曹洞宗の寺院)『を度々休憩に利用した。家光はこの寺院が気に入り、ついには境内に仮御殿が作られるようになった。そのような経緯からやがて寺の名前が有名になり、正保年間の頃には当地の地名が小沢村から寺の名前に因み高円寺村に変更され、これが現在の「高円寺」の地名のルーツになった』とあり、また、『かつて寺の周辺に桃の木が多くあり桃園とも言われ、本尊は「桃園観音」、寺は「桃堂」、門前を流れた川は「桃園川」と呼ばれていた』とあるのである。さらに検索をしてみると、kuma さんのブログ「桃園住人の大江戸うろうろ歩き」の「高円寺には高円寺がある」を見ると、『江戸時代初期までは、このあたりは小沢村と呼ばれ』ていたが、『徳川家光が鷹狩の途中に休息のためにこの寺にたびたび立ち寄ったことから、この寺が有名となり、小沢村が高円寺村と言われるようになり、さらに現在の地名となっている』と伝えられ、その頃の『高円寺の境内には桃の木が多く、家光が「桃園と称すべし」と言ったとされ』『それゆえか、ここあたりを散歩していると、「桃園〇〇」という名称の施設・公園をよく見かけ』るともある。但し、現在や明治期に高円寺村(旧小沢村)に桃の花が沢山あって、桃の花見の名所であったと記されたものはない。他に「大沢村」があって桃の名所であることを御存じの方は御教授を乞うものである。

「寺島」かつての東京府南葛飾郡にあった寺島町(てらじままち)であろうか。現在の墨田区の西部に位置する。

「堀切」現在の東京都葛飾区堀切であろう。葛飾区西部の荒川東岸の低地一帯である。

「野田」千葉県最北西部の東葛(とうかつ)地域(旧東葛飾郡)に位置する野田市か?

「入谷」現在の東京都台東区入谷は江戸末期から明治時代に朝顔栽培が盛んになり、やがて入谷朝顔市が開かれる場所として有名になった、とウィキの「入谷」にある。

「木母寺」「もくぼじ」と読む。天台宗梅柳山墨田院木母寺。現在は東京都墨田区にある。この当時は廃仏毀釈によって廃寺であった(明治二一(一八八八)年に復興)。但し、諸資料を見ると位置が微妙に移動している模様で、この当時の指す場所と現在の在地とは異なるように思われる。

「溜池」現在の赤坂見附から虎ノ門に至る「外堀通り」の旧称。

「寺島の蓮華寺」現在の墨田区東向島にある真言宗清瀧山蓮花寺。昭和七(一九三二)年に南葛飾郡全域が東京市に編入した際、寺島町の区域は向島区となっている。

「鴻台」「こうのだい」と読む。下総国の国府が置かれた台地で、現在の千葉県市川市国府台(こうのだい)の古称。

「東海寺」「とうかいじ」と読む。現在の品川区北品川三丁目にある臨済宗万松山東海寺。寛永一六(一六三九)年に第三代将軍徳川家光が但馬国出石(いずし:現在の兵庫県豊岡市出石)の沢庵宗彭(そうほう)を招聘して創建したことで知られる。

「海安寺」これは海晏寺(かいあんじ)の誤訳であろう。現在の東京都品川区南品川五丁目にある曹洞宗補陀落山(ふだらくさん)海晏寺。ウィキの「海晏寺に、江戸時代には「御殿山の桜」と並んで紅葉の名所として知られていた、とある。

 なお、この後には有意に一行空きがあるので二行空けとしておく。]

 

 

 我々はこれに関連して、螢狩には初夏浅草、王子、小石川の水田や、隅田川の岸その他へ行かねばならぬと教えられる。王子と目黒とは同じ季節に、この上なしの、滝で行う釣魚が出来る場所としてある。また「よく鳴く虫」を捕えることが出来る場所も、数個あげられる。

[やぶちゃん注:「滝で行う釣魚が出来る場所」「クリナップ株式会社」公式サイト内の「コラム江戸」の高橋達郎氏の84  「滝浴み」とは、何と風流な納涼だろう。に、江戸時代の滝涼みの場所として『もっともメジャーだったのは、この広重の浮世絵』(リンク先に画像有り)『に描かれた王子界隈の音無川(おとなしがわ)流域である。今では想像もつかないが、地勢的には飛鳥山と王子の台地にはさまれた渓谷で、両岸の断崖からは幾筋もの滝が形成されていたようである。俗に「王子五滝」「王子七滝」と言われたように滝が多く、音無川に滔々と流れ落ち水量も豊富だった』。『なかでも「不動の滝」は有名で、この絵は大げさにも思えるが、広重が残した浮世絵中最大の滝である。滝近くの褌(ふんどし)姿の男、これがまさしく滝浴みをしている光景である。手前には滝を眺めている二人連れの女性、茶屋も出て老婆が客に給仕をしている様子だ。心地よい滝の音や飛沫(しぶき)を感じながら、一時の清涼感につつまれている彼等もまた、滝浴みをしているのである』とあり、また、同じ記事の中に、『江戸の南、目黒不動尊の境内には「独鈷(とっこ)の滝」がある。こちらは、今も滔々と龍の口から勢いよく水が飛び出ている』。千二百年前から『一度も涸れたことがないという湧き水で、以前は不動行者の水垢離(みずこり)の道場として利用されていた滝だという。独鈷とは密教の仏具の一つで、説明板を見ると、開山当初に慈覚大師(じかくだいし)が自分の持っていた独鈷を投げると、そこから滝水が湧き出たという言い伝えが書いてあった。そういえば、目黒不動尊の寺名は泰叡山瀧泉寺(たいえいざんりゅうせんじ)だった』とあるのが、ここであろう。それにしても滝行の側で殺生の釣りをする異国人というのは、ちと、戴けない図では、ある。

「よく鳴く虫」鈴虫か?]

 

 この「思いつき」に関連して現れるもの以外に我我は、菊で有名な団子坂の庭園、桃花の田端、櫻、紅葉、霧島の根津の日暮、滝と松の青山と浅草、あらゆる種類の花の四谷津守、美しい草の渋谷新富士、干潮時に釣の出来る須崎弁天、滝と紅葉の滝野川等があることを教えられる。

[やぶちゃん注:「団子坂」東京都文京区の東端、現在の東京地下鉄千代田線千駄木駅から西へ上る坂。江戸時代には菊作りの植木屋が多くあり、秋には菊人形の見物で知られた。

「霧島の根津」ここは前後から見て、「霧島」はビワモドキ亜綱ツツジ目ツツジ科ツツジ属

キリシマツツジ Rhododendron × obtusum のことを指していよう。東京都文京区根津の根津神社は今も「つつじまつり」で知られる躑躅の名所である。

「四谷津守」「よつや/つのかみ」と読む。現在の新宿四谷荒木町。明治維新後で払下げられた松平摂津守(まつだいらせっつのかみ)の屋敷跡に出来た景勝地で、「津守」もそれに由来する。明治時代は庶民の憩いの地として大いに賑わった。後、大正から昭和中期にかけては東京有数の花街として賑わったが、第二次世界大戦の空襲で焼けて後は花街としての賑わいは消えてしまった、とaroma 氏のブログ「東京レトロ散歩」の「花街の面影残す階段の町・四谷荒木町」にある。モースの言う「あらゆる種類の花」は無論、本物のフローラであるが、後の歓楽街の絢爛たる花街に遠く感応して、何だかちょっとほのかな哀感の情を起こさせるではないか。

「渋谷新富士」現在の渋谷区恵比寿南三丁目にある新富士坂及びそこにあった人造の富士山のことであろう。サイト「坂学会」の「新富士坂(しんふじざか)」に電子化されているこの坂のに「目黒の新富士と新富士遺跡」という説明板によれば(コンマを読点に代えた)、『この辺りは、昔から富士の眺めが素晴らしい景勝地として知られたところ。江戸後期には、えぞ・千島を探検した幕臣近藤重蔵が、この付近の高台にあった自邸内に立派なミニ富士を築造、目切坂上の目黒元富士に対し、こちらは新富士の名で呼ばれ, 大勢の見物人で賑わった』とあり、また、『平成3年秋、この近くで新富士ゆかりの地下式遺構が発見された。 遺構の奥からは石の祠や御神体と思われる大日如来像なども出土。調査の結果、遺構は富士講の信者たちが新富士を模して地下に造った物とわかり「新富士遺跡」と名づけられた。 今は再び埋め戻されて地中に静かに眠る』とある。

「須崎弁天」これは「洲崎」(すさき)であろう。「洲崎」は現在の東京都江東区東陽一丁目の旧町名で同町近隣あるのが「洲崎弁天」である。ウィキの「洲崎」の「洲崎弁天」によれば、『三つ目通りから洲崎方向への途中、閑静な住宅街に鎮座する社。江戸時代からの名刹で、現在の正式名は「洲崎神社」。洲崎の町名の所以となった。当時この付近は海岸であり、元禄時代には時の将軍徳川綱吉の母の守本尊であり、また水にまつわる神仏でもある弁才天が祀られ、海難除けの社として地元漁民の信仰を集めた。歌川広重の浮世絵にも往事の姿が描かれている。当時は海岸から離れた小島に建てられており、人々から「浮き弁天」の名で呼ばれていたが、その後埋め立てが進み、現在では往事の景観を偲ぶすべはない。東京大空襲で壊滅的な被害を受けるが、戦後に現在の姿に復興した。直近の弁天橋脇には、弁天町の住人のほとんどが犠牲となった東京大空襲の遭難者を供養する碑が建つ』とある。

「滝野川」現在の東京都北区滝野川(たきのがわ)。ウィキの「滝野川 東京都北区には、『石神井川が板橋区加賀付近から川底を深くして渓谷状となり、水流も急であったことから「滝野川」と呼んだことに因む』とある。]

 

 

 日本人が、同じ国の住人に忠実であることは、著しいものである。彼等は郷土から来た人は、それが親類であろうと、友人であろうと、あるいは全然知らぬ人であろうと、出来さえすれば、泊めてやり、食事を与える。私の日本人の友人の一人は、このようにして、まるで見たこともない六人の青年をもてなし、彼等を数日間泊めてやったと話した。

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第二十六章 鷹狩その他 (35) 悪戯っぽい! モース先生!

 丁髷を廃止しつつある人の数によって、日本人が合理的であることがわかる。先ずこれを行ったのは、学生達である。田舎では誰でもが、丁留をくっつけているし、都会でも下層界ではこれを見受ける。古い学者達も、まだこの風習を守っている。蜷川は始終丁髷をつけていたばかりでなく、彼の羽織には、いまだに彼が両刀を帯しているかの如く、裂け目があった。茶の湯の先生で陶器鑑定家である古筆氏は、日本の服装はしているが、数年前に丁髷をやめたのだといった。非常にすこししか頭髪の無い老人は、いまだにその僅かな髪を頭の後方で集め、蠟をつけて、爪楊子位の大きさの丁髷をつくる。ある時、群衆の中で私の前に、真中にこのような丁髷をつけた、禿頭があった。私はその丁髷が黒いのに気がついた。これは染めたか、墨を塗ったかしたに違いない。もっと近づいて調べると、禿げた頭に墨で、丁髷と同じ方向に、黒い線を一本引き、その丁髷を一インチばかり長く見せる工夫がしてある。いたずらな子供は本物の丁髷を、静かに横に押し度い誘惑を感じることであろう。

[やぶちゃん注:モース先生! 先生がほんとうはやりたいんでしょ?!

「一インチ」二・五四センチメートル。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第二十六章 鷹狩その他 (34) 日本人の不思議と好古家たちの不思議

 鑑定家の蜷川氏(彼のことはすでにこの著述のどこかで述べた。彼は一八八二年に死んだ。)は、ちょいちょい私を訪問した。別の鑑定家古筆氏も、時時やって来た。私が住んでいる小さな家の前面の方は、直接私が書斎、仕事部屋、寝室に使用している部屋にひらく。冬、この人々はやって来ると戸を叩き、私はすぐにそれを彼等のためにひらく。彼等は帽子を脱いで階段に置き、頸にまいた毛布を取って畳んで帽子の上にのせる迄は、決して、私がそこにいることに気がついた様子をしない。そこで初めて、二、三度丁寧にお辞儀をし、私がそれを返すに至って、彼等は家に入って来る。この二人は一度も一緒にやって来なかった。二人の間が面白くないかどうか私は知らぬ。私が日本で会った各種の鑑定家が、お互同志の仕事について、何も知らぬらしいのには驚かされた。蜷川は石版刷の美事な挿絵のある、日本の陶器に関する面白い本を出版したのであるが、而も私が今迄にあった陶器の鑑定家は、その存在をまるで知らぬらしかった。

[やぶちゃん注:「蜷川氏(彼のことはすでにこの著述のどこかで述べた。彼は一八八二年に死んだ。)」蜷川式胤はモースの関西行の最中であった前年の明治一五(一八八二)年八月二十一日にコレラ(モース談)によって亡くなっている。その死から三ヶ月後の行われた葬儀をモースは「第二十五章 東京に関する覚書(16) 蜷川式胤の葬儀――谷中にて」で克明に記している。

「古筆」既出の好古家古筆仲。

「私が住んでいる小さな家」既注であるが、東大が今回来日したモースのために無償で提供した、本郷加賀屋敷内の天象台附属官舎のこと(現在の東大工学部七号館附近)。

「蜷川は石版刷の美事な挿絵のある、日本の陶器に関する面白い本」明治九(一八七六)年からこの明治一一(一八七八)年にかけて刊行された蜷川式胤著述になる「観古図説」。ウィキの「蜷川式胤によれば、内務省博物館掛退職前の明治(一八七六)年一月、『屋敷の一部を出版所『楽古舎』に改め、川端玉章、高橋由一らを雇い、『観古図説陶器之部』を刊行したとある(後に第六冊・第七冊も刊行している)。これはモースの言うように、『石版刷りに彩色を施した画集である。京都玄々堂の松田敦朝が刷った』もので、『仏文あるいは英文の解説も付けられ、殆どが輸出され、海外コレクターの指標になった』とある。この五冊、モノクロームではあるが、国立国会図書館の近代デジタルライブラリーのここでその総て見ることが出来る。「第十五章 日本の一と冬 蜷川式胤との出逢い 附 目利きの達人モースの語(こと)」も参照されたい。]

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