E.S.モース著石川欣一訳「日本その日その日」の石川千代松「序――モース先生」 附東洋文庫版「凡例」(引用) / 全電子化注完遂!
E.S.モース著石川欣一訳「日本その日その日」の石川千代松「序――モース先生」 附東洋文庫版「凡例」(引用)
[やぶちゃん注:底本は今までと同じく平凡社東洋文庫一九七〇年刊のE・S・モース著石川欣一訳「日本その日その日」を用いた。
考えてみたら、ちゃんと訳者の紹介をしていなかったので、ここで改めて御紹介しておく。ウィキの「石川欣一」より引く。石川欣一(きんいち 明治二八(一八九五)年~昭和三四(一九五九)年)は東京生まれのジャーナリスト・随筆家・翻訳家。主に毎日新聞社に属した。父は動物学者で以下の「序――モース先生」の著者であるモースの直弟子石川千代松で、母の貞は法学者の箕作麟祥(みつくりりんしょう/あきよし 弘化三(一八四六)年~明治三〇(一八九七)年)の娘である(因みに、東京帝国大学理科大学で日本人初の動物学教授となった箕作佳吉(安政四(一八五八)年~明治四二(一九〇九)年)は麟祥の従兄弟である)。明治三九(一九〇六)年に東京高等師範学校附属小学校尋常科(現在の筑波大学附属小学校)、大正二(一九一三)年に東京高等師範学校附属中学校(現在の筑波大学附属中学校・高等学校)を卒業、大正七(一九一八)年二十三歳の時、東京帝国大学英文科からアメリカのプリンストン大学に転じて一九二〇年に卒業、帰国後は『大阪毎日新聞社の学芸部員となった。留学中、父千代松の恩師、大森貝塚のエドワード・S・モースの知遇を得、その縁が、モースの『日本その日その日』の邦訳・出版』(一九二九年)に繋がった。その後、『大阪毎日新聞社から東京日日新聞社へ移り』、昭和八(一九三三年)から昭和十年まで、『ロンドン支局長を勤め』、昭和十二年に『大阪毎日新聞社文化部長となった。勤務の傍ら、随筆・翻訳の執筆にはげんだ』。昭和一七(一九四二)年(四十七歳)、『日本軍が占領したフィリッピンのマニラ新聞社に出向したが』、二年後の昭和十九年十二月、『アメリカ軍の反攻上陸をルソン島の山中に避け』、敗戦の翌月、新聞報道関係者二十二人を率いて投降、同年末に帰国した。『戦後は、毎日新聞社出版局長、サン写真新聞社長などを歴任した』とある。
彼の父であり、「序――モース先生」の著者石川千代松(ちよまつ 万延元(一八六〇)年~昭和一〇(一九三五)年)は日本の動物学者で進化論学者。明治四二(一九〇九)年に滋賀県水産試験場の池で琵琶湖のコアユの飼育に成功し、全国の河川に放流する道を開いた業績で知られる。以下、ウィキの「石川千代松」によれば、『旗本石川潮叟の次男として、江戸本所亀沢町(現在の墨田区内)に生まれた』が明治元(一八六八)年の『徳川幕府の瓦解により駿府へ移った』。明治五年に『東京へ戻り、進文学社で英語を修め』、『東京開成学校へ入学した。担任のフェントン(Montague Arthur Fenton)の感化で蝶の採集を始めた』。明治一〇(一八七七)年十月には当時、東京大学教授であったモースが、蝶の標本を見に来宅したことは本作にも既に出ているから(「第十章 大森に於る古代の陶器と貝塚 49 教え子の昆虫少年を訪ねる」)、モースにとってはこの青年も旧知の仲であったのである。翌明治十一年、東京大学理学部へ進んだ。モースが帰米したあとの教授は、チャールズ・オーティス・ホイットマン、次いで箕作佳吉であった。明治一五(一八八二)年、動物学科を卒業して翌年には同教室の助教授となっているとあるので、モースが逢った時はまだ「教授」でも「助教授」でもなかったものと思われる。その年、明治一二(一八七九)当時のモースの講義を筆記した「動物進化論」を出版しており、進化論を初めて体系的に日本語で紹介した人物としても明記されねばならぬ人物である。その後、在官のまま、明治一八(一八八五)年、新ダーウィン説のフライブルク大学』(正式名称は「アルベルト・ルートヴィヒ大学フライブルク」(Albert-Ludwigs-Universität
Freiburg)。ドイツ南西部のバーデン=ヴュルテンベルク州フライブルク・イム・ブライスガウにある国立大学)『アウグスト・ヴァイスマン』(Friedrich Leopold August
Weismann 一八三四年~一九一四年:フライブルク大学動物学研究所所長で専門は発生学・遺伝学)の下で学び、『無脊椎動物の生殖・発生などを研究』、明治二二(一八八九)年に帰国、翌年に帝国大学農科大学教授、明治三四(一九〇一)年に理学博士となった。『研究は、日本のミジンコ(鰓脚綱)の分類、琵琶湖の魚類・ウナギ・吸管虫・ヴォルヴォックスの調査、ヤコウチュウ・オオサンショウウオ・クジラなどの生殖・発生、ホタルイカの発光機構などにわたり、英文・独文の論文も』五十篇に上る。『さかのぼって、ドイツ留学から帰国した』明治二十二年の秋には、『帝国博物館学芸委員を兼務』、以降、『天産部長、動物園監督になり、各国と動物を交換して飼育種目を増やした。ジラフを輸入したあと』、明治二八(一九〇七)年春に辞した。「麒麟(キリン)」の和名の名付け親であるとされる。
さてここに一つ問題がある。
それは「凡例」の電子化である。これは平凡社東洋文庫編者によって附されたものであるから当然の如く著作権が存続している。しかもこれはまさに編集権に関わる内容注記である。しかし、この「凡例」の内容は私が全電子化注を終えた訳文全体に関わる極めて重要な変更点が注されてあるものであり、これを電子化しないことは、私の電子テクストについての書誌上の重要な変更箇所が明記されず欠落してしまうことになる。別に私が言い換えても構わないのではあるが、寧ろ、そのまま引用する形で示すのが礼儀というものであろうと私は考える。従って以下に《引用》することとする(底本では各条は二行目以降が一字下げであるが再現していない。最初の第一条内の『日本その日その日』の署名の後半の「その日」は底本では踊り字「〱」である)。
《引用開始》
凡 例
一 本書は、Edward Sylvester Morse“Japan
day by day”1977 Boston. の全訳であり、故石川欣一訳『日本その日その日』(上下)(昭和四年十一月、科学知識普及会発行)の覆刻である。
一 本文庫におさめるに当たっては、原訳を尊重し、その原文をそこなわないようにつとめているが、読み易くするために、新仮名・新字体をもちい、難読のものにふり仮名を付し、外国語の漢字表記は仮名書きに改めるなど、若干手を加えている。また明らかに誤りと思われる個所は、創元選書『日本その日その日』(昭和十四年十一月、創元社発行)を参照し、訂正した。
一 モース自身のスケッチによる挿図は、すべて原著から改めて採録した。
《引用終了》
なお、今一つ、原文校合参照にさせて戴いた Internet Archive の同原書の第二巻の冒頭に本書に掲げられていないBunzou Watanabe(第一巻の冒頭にもあった)なる画家の水彩彩色画のカラー画像二枚を見出せたのでここにやはり掲げておく。キャプションは、
JAPANESE EXTERIOR AND INTERIOR
Village Street, Asama Hot Spring, and
Room in Inn. Miyanosita
Watercolor
by Bunzou Watanabe,1882
とある。――日本家屋の外見と室内――浅間温泉の村道と宮ノ下の旅館の部屋――ブンゾウ・ワタナベによる水彩画――で、宮ノ下は箱根のそれであろう。
私はモースの同書の本文訳の電子化が目的であったのであり、ここで訳版の石川千代松の序の文章に注を附すことになると、管見するだけでも知らない人名・地名が多数出現し、これでは相当な調査と注が必要となり、それにひどく時間がかかることになることが予想された。これは訳の序であって、本文ではない。さればこそ注は地名や人名には原則附さないこととした。但し、私の知的欲求が望んだところの一部の例外が含まれる。悪しからず。]
序――モース先生 石川千代松
一八八七年の春英国で科学の学会があった。此時ワイスマン先生も夫れへ出席せられ、学会から帰られた時私に「モースからお前に宜しく云うて呉れとの伝言を頼まれたが彼れは実に面白い人で、宴会のテーブルスピーチでは満場の者を笑わせた。」夫れから後其年の十一月だと思ったが、先生がフライブルグに来られた事がある。其時折悪くワイスマン先生と私とはボーデンセイへ研究旅行へ行って留守であった。であったのでウィダーシャイム先生が先生を馬車に載せて市の内外をドライブした処カイザー・ストラーセに来ると、モース先生が、「アノ家の屋根瓦は千年以上前のローマ時代のものだ。ヤレ彼処にも、此処にも」と指されたので、ウィダーシャイム先生も始めて夫れに気付き、後考古学者に話して調べた処、夫れが全て事実であったと、ウィダーシャイム先生もモース先生の眼の鋭い事には驚いて居られた。先生の観察力の強い事では此外幾等も知れて居るが、先生はローウエルの天文台で火星を望遠鏡で覘いて其地図を画かれたが、夫れをローウェルが前に研究して画いたものと比べて見た処先生の方が余程委しい処迄出来て居たので、ローウェルも驚いたとの事を聴いて居た。夫れで先生は火星の本を書かれた。処が此本が評判になって、先生はイタリア其他二、三の天文学会の会員に選ばれたのである。私が一九〇九年にセーラムで先生の御宅へ伺った時先生は私に Mars and its Mystery を一部下さって云われるのに、お前が此本を持って帰ってモースがマースの本を書いたと云うたらば、日本の私の友達はモースは気が狂ったと云うだろうが、自分は気が狂って居ない証拠をお前に見せて置こうと、私に今云うた諸方の天文学会から送って来た会員証を示された。此時又先生が私に見せられたのは、ベルリンの人類学会から先生を名誉会員に推薦した証書で、夫れに付き次ぎの様な面白い事を話された。自分がベルリンへ行った時フィルショオが会頭で人類学会が開かれて居た。或る人に案内されて夫れへ行って見た処南洋の或る島から持って来た弓と矢とを前に置いて、其使用方を盛んに議論して居た。すると誰かがアノ隅に居るヤンキーに質して見ないかと云うので、フィルショオから何にか良い考えがあるならば話せと云う。処が自分が見ると其弓と矢とは日本のものと殆んど同じで、自分は日本に居た時弓を習ったから、容易にそれを説明した処が大喝采(かっさい)を博した。で帰って見たら斯んな物が来て居たと。先生は夫れ計(ばか)りでなく、実に多才多能で何れの事にでも興味を有たないものはなく、各種の学者から軍人、商売人、政治家、婦人、農民、子供に至る迄先生が話相手にせないものはない。殊に幼い子供を先生は大層可愛がられ、私がグロ-スターのロブスター養殖所へと行くと云うたら、先生が私に自分の友達の婦人を紹介してやると云われたので、先生に教わった家へ行って見ると、老年の婦人が居て、先生の友達は今直きに学校から帰って来るから少し待って下さいと云われるので、紹介して下さった婦人は或いは学校の先生ででもあるのかと思い、待って居ると、十四、五位の可愛い娘さんが二人帰って来て、一人の娘さんが、此方(こちら)は自分のお友達よと云うて私に紹介され、サー之(こ)れからハッチェリーへ案内を致しましょうと云われて、行ったが、此可憐の娘さんが、先生の仲好しの御友達であったのだ。先生は日本に居られた頃にも土曜の午後や日曜抔には方々の子供を沢山集め、御自分が餓鬼大将になって能く戦争ごっこをして遊ばれたものだが、又或る時神田の小学校で講演を頼まれた時、私が通訳を勤めた。先生の講演が済んだ後、校長さんが、先生に何にか御礼の品物でも上げ度いがと云われるので、先生に御話した処自分は何にも礼を貰わないでも宜しい。今日講演を聴いて呉れた子供達が路で会った時に挨拶をして呉れれば夫れが自分には何よりの礼であると申された。
今云うた戦争ごっこで思い出したが、先生の此の擬戦は子供の遊戯であった計りではなく、夫れが真に迫ったものであったとの事である。夫れは当時或る日九段の偕行社の一室で軍人を沢山集めて、此擬戦を行って見せた事があったが、其時専門の軍人達が、之れは本物だと云うて大いに賞讃された事を覚えて居る。
[やぶちゃん注:「偕行社」「かいこうしゃ」と読む。戦前、帝国陸軍将校准士官の親睦・互助・学術研究組織として設立された組織。]
斯様(かよう)に先生は各方面に知人があって、又誰れでも先生に親んで居たし、又直ぐに先生の友人となったのである。コンクリン博士が先生の事に就き私に送られた文章に「彼れは生れながら小さい子供達の友人であった計りでなく又学者や政治家の友人でもあった」と書いて居られるが実に其通りである。
先生が本邦に来られたのは西暦一八七七年だと思って居るが、夫れは先生が米国で研究して居られた腕足類を日本で又調べ度いと思ったからである。で其時先生には江の島の今日水族館のある辺の漁夫の家の一室を借りて暫くの間研究されたが、当時我東京大学で先生を招聘(しょうへい)したいと云うたので、先生には直ぐに夫れを承諾せられ一度米国へ帰り家族を連れて直ぐに又来られたのである。此再来が翌年の一八七八年の四月だとの事であるが、夫れから二年間先生には東京大学で動物学の教鞭を執って居られたのである。
其頃の東京大学は名は大学であったが、まだ色々の学科が欠けて居た。生物学も其一つで此時先生に依って初めて設置されたのである。で動物学科を先生が持たれ植物学科は矢田部良吉先生が担任されたのであった。先生の最初の弟子は今の佐々木忠次郎博士と松浦佐与彦君とであったが、惜しい事には松浦君は其当時直きに死なれた。此松浦君の墓は谷中天王寺にあって先生の英語の墓碑銘がある。
[やぶちゃん注:石川の認識には誤認がある。まず、モースは予め正式なお雇い外国人教師として東京大学で動物学及び生理学を教授することに決している状態で来日している。正式な契約書の取り交わしは明治一〇(一八七七)年七月十六日であったが、モースが江の島を訪れて実験施設する小屋を借り受けたのは、実にその翌日同年七月十七日のことである。また、「江の島の今日水族館のある辺の漁夫の家の一室を借りて」というのも誤りである(詳しくは本文と私の注を参照のこと)。また「松浦佐与彦」はモースのプエル・エテルヌス「松浦佐用彦」の誤りである。彼のこともモースは本文でしみじみと書いていることは何度も注した。]
先生は此両君に一般動物学を教えられた計りでなく、又採集の方法、標本の陳列、レーベルの書き方等をも教えられた。之れ等は先生が大学内で教えられた事だが、先生には大学では無論又東京市内の各処で進化論の通俗講演を致されたものである。ダーウィンの進化論は、今では誰れも知る様、此時より遠か前の一八五九年に有名な種原論が出てから欧米では盛んに論ぜられて居たが、本邦では当時誰独りそれを知らなかったのである。処が玆(ここ)に面白い事には先生が来朝せられて進化論を我々に教えられた直ぐ前にマカーテーと云う教師が私共に人身生理学の詳義をして居られたが、其講義の終りに我々に向い、此頃英国にダーウィンと云う人があって、人間はサルから来たものだと云う様な説を唱えて居るが、実に馬鹿気た説だから、今後お前達はそんな本を見ても読むな又そんな説を聴いても信ずるなと云われた。処がそう云う事をマカーテー先生が云われた直ぐ後にモース先生が盛んにダーウィン論の講義をされたのである。
先生は弁舌が大層達者であられた計りではなく、又黒板に絵を書くのが非常に御上手であったので、先生の講義を聴くものは夫れは本統に酔わされて仕舞ったのである。多分其時迄日本に来た外国人で、先生位弁舌の巧みな人はなかったろう。夫れも其筈、先生の講演は米国でも実に有名なもので、先生が青年の時分通俗講演で金を得て動物学研究の費用にされたと聴いて居た。
[やぶちゃん注:「本統」はママ。]
処が当時本邦の学校に傭(やと)われて居た教師達には宣教師が多かったので、先生の進化論講義は彼れ等には非常な恐慌を来たしたものである。であるから、彼れ等は躍起となって先生を攻撃したものである。併し弁舌に於ても学問に於ても無論先生に適う事の出来ないのは明かであるので、彼れ等は色々の手段を取って先生を攻撃した。例えば先生が大森の貝塚から掘り出された人骨の調査に依り其頃此島に住んで居た人間は骨髄を食ったものであると書かれたのを幸いに、モースはお前達の先祖は食人種であったと云う抔(など)云い触し、本邦人の感情に訴え先生は斯様な悪い人であると云う様な事を云い触した事もある。併し先生だからとて、無論之れ等食人種が我々の先祖であるとは云われなかったのである。
[やぶちゃん注:モースは、大森貝塚人はアイヌ以前に本邦に先住していたプレ・アイであるという説を唱えた。]
此大森の貝塚に関して一寸(ちょっと)云うて置く事は先生が夫れを見付けられたのは先生が初めて来朝せられた時、横浜から新橋迄の汽車中で、夫れを発見せられたのであるが、其頃には欧米でもまだ貝塚の研究は幼稚であったのだ。此時先生が汽車の窓から夫れを発見されたのは前にも云う様に先生の視察力の強い事を語るものである。
斯様にして先生は本邦生物学の祖先である計りでなく又人類学の祖先でもある。又此大森貝塚の研究は其後大学にメモアーとして出版されたが、此メモアーが又我大学で学術的の研究を出版した初めでもある。夫れに又先生には学会の必要を説かれて、東京生物学会なるものを起されたが、此生物学会が又本邦の学会の噂矢でもある。東京生物学会は共後動植の二学会に分れたが、共最初の会長には先生は欠田部良書先生を推されたと私は覚えて居る。
[やぶちゃん注:「メモアー」英語の memoir (メモワー)でフランス語の mémoire(s)(メモワール)由来の語。研究論文(報告)、複数形で学会論文集・学会誌・紀要の意となる。]
(先生が発見された大森の貝塚は先生の此書にもある通り鉄道線路に沿うた処にあったので、其後其処(そこ)に記念の棒杭が建って居たが、今は夫れも無くなった。大毎社長本山君が夫れを遺憾に思われ大山公爵と相談して、今度立派な記念碑が建つ事になった。何んと悦ばしい事であるまいか。)
[やぶちゃん注:これは昭和四(一九二九)年十一月に建てられた品川区側の一つ目の「大森貝塚」碑であろう。御存じかとも思うが、大田区側の大森駅近くの線路側には、電車からもよく見える、その翌昭和五年に建てられたもう一つの「大森貝墟」碑が別にある(現在は考証によって品川区側が正しいことが判明している)。「大毎社長本山君」大阪毎日新聞社社長本山彦一(ひこいち 嘉永六(一八五三)年~昭和七(一九三二)年)。「大山公爵」は大山史前学研究所の創設で知られる陸軍軍人で考古学者であった大山柏(かしわ 明治二二(一八八九)年~昭和四四(一九六九)年)。以上二人は例外的に注する。]
之れ等の事の外先生には、当時盛んに採集旅行を致され、北は北海道から南は九州迄行かれたが其際観察せられた事をスケッチとノートとに収められ、夫れ等が集まって、此ジャツパン・デー・バイ・デーとなったのである。何んにせよ此本は半世紀前の日本を先生の炯眼(けいがん)で観察せられたものであるから、
誰れが読んでも誠に面白いものであるし、又歴史的にも非常に貴重なものである。夫れから此本を読んでも直ぐに判るが先生は非常な日本贔屓であって、何れのものも先生の眼には本邦と本邦人の良い点のみ見え、悪い処は殆んど見えなかったのである。例えば料理屋抔の庭にある便所で袖垣板や植木で旨く隠くしてある様なものを見られ、日本人は美術観念が発達して居ると云われて居るが、まあ先生の見ようほ斯(こ)う云うたものであった。
又先生は今も云う様にスケッチが上手であられたが、其為め失敗された噺(はなし)も時々聞いた。其一は先生が函館へ行かれた時、或る朝連れの人達は早く出掛け、先生独り残ったが、先生には昼飯の時半熟の鶏卵を二つ造って置いて貰いたかった。先生は宿屋の主婦を呼び、舵に雌鶏を一羽画かれ、其尻から卵子を二つと少し離れた処に火鉢の上に鍋を画き、今画いた卵子を夫れに入れる様線で示して、五分間煮て呉れと云う積りで、時計の針が丁度九時五分前であったので、指の先きで知らせ何にもかも解ったと思って、外出の仕度をして居らるる処へ、主婦は遽(あわただ)しく鍋と火鉢と牝鶏と卵子二つを持って釆た。無論先生は驚かれたが、何にかの誤りであろうと思い、其儘外出され、昼時他の者達が帰って来られたので、聞いて見ると宿屋の御神さんは、九時迄五分の間に夫れ丈けのものを持って来いと云われたと思い、又卵子も夫れを生んだ雌鶏でなくてはと考えたから大騒をしたとの事であった。
之れは先生の失策噺の一つであるが、久しい問に又は無論斯様な事も沢山あったろう。併し先生は今も云うた様にただ日本人が好きであられた計りでなく、又先生御自身も全く日本人の様な考えを持って居られた。其証拠の一つは先生が日本の帝室から戴かれた勲章に対する事で、先生が東京大学の御傭で居られたのは二年であったので、日本の勲章は普通では戴けなかったのである。併し先生が日本の為めに尽された功績は非常なもので、前述の如く日本の大学が大学らしくなったのも、全く先生の御蔭であるのみならず、又先生は帰国されてからも始終日本と日本人を愛し、本統の日本を全世界に紹介された。であるから日清、日露二大戦争の時にも大いに日本の真意を世界に知らしめ欧米人の誤解を防がれたのである。其上日本から渡米した日本人には誰れ彼れの別なく出来る丈け援助を与えられボストンへ行った日本人でセーラムに立ち寄らないものがあると先生の機嫌が悪かったと云う位であった。であるから、我皇室でも初めに先生に勲三等の旭日章を授けられ其後又勲二等の瑞宝章を送られたのである。誰れも知る様外交官や軍人抔では夫れ程の功績がなくとも勲章は容易に授けらるるのは世界共通の事実であるが、学者抔で高級の勲章をいただく事は真に功績の著しいものに限られて居る。であるから先生が我皇室から授けられた勲章は真に貴重なものである事は疑いのない事である。処が先生は、日本皇帝からいただいた勲章は、日本の皇室に関する時にのみ佩用(はいよう)すべきものであるとの見地から、常時はそれを銀行の保護箱内に仕舞い置かれた。尊い勲章を売る様な人面獣心の奴が日本人にもあるのに先生の御心持が如何に美しいかは窺われるではないか。
[やぶちゃん注:ウィキの「エドワード・S・モース」によれば、モースは帰米から十五年後の一八九八年(明治三十一年)、東京大学(この授与当時は東京帝国大学)に『おける生物学の教育・研究の基盤整備、日本初の学会設立などの功績により、日本政府から勲三等旭日章を受け』ている。因みに一九〇二年六十歳を越えたモースは二十数年ぶりに『動物学の論文の執筆を再開』、一九〇八年に渡米したこの筆者石川千代松に『対しても「私は陶器も研究しているが、動物学の研究も止めない。」と述べるなど、高齢になっても研究に対する執念は尽きなかった』。一九一三年(大正二年)七十五歳となったモースは、三十年以上も前の日記とスケッチをもとにまさにこの“Japan Day by Day”の執筆を開始したのであった(四年後の一九一七年に擱筆、出版)。一九一四年には『ボストン博物学会会長』に就任、翌年には「ピーボディー博物館」(古巣の「ピーボディー科学アカデミー」が改名組織)の名誉会長にともなっている。そうして実に異例のことにここに記された通り、大正一一(一九二二)年にはさらに『日本政府から勲二等瑞宝章を受け』ている。]
私は前に先生が左右の手を同時に使われる事を云うたが、先生は両手を別々に使わるる計りでなく、先生の脳も左右別々に使用する事が出来たのである。之れに付き面白い噺がある。フィラデルフィアのウィスター・インスチチユートの長ドクトル・グリーンマン氏が或る時セーラムにモース先生を訪い、先生の脳の話が出て、夫れが大層面白いと云うので先生は死んだ後は自分の脳を同インスチチエートへ寄贈せようと云われた。其後グリーンマン氏はガラス製のジャーを木の箱に入れて先生の処へ「永久之れを使用されない事を望む」と云う手紙を付けて送った。処が先生は之れを受け取ってから、書斎の机の下に置き、それを足台にして居られたと。先生が御亡くなりになる前年であった、先生の八十八歳の寿を祝う為めに、我々が出して居る『東洋学芸雑誌』で特別号を発行せようと思い、私が先生の所へ手紙を上げて其事を伺った処斯様な御返辞が来たのである、
“The Wister Institute of
Anatomy of Philadelphia sent a glass Jar properly labelled……in using for my
brain which they will get when I am done with it.”
(……の処の文字は不明)。
此文章の終りのwhen I am done with it は実に先生でなければ書かれない誠に面白い御言葉である。
[やぶちゃん注:概ね以下のような意味か(○括弧内は推定)「フィラデルフィア・ウィスター・インスティテュート内解剖学研究所がきちんと(私の名前が)ラベルに記入されたガラス製の容器を送ってきました。……私がその中だけで済むようになると同時に、彼らが手に入れる私の脳のために、使うためのものです。」といった感じか? ウィキの「エドワード・S・モース」によれば、一九二五年(大正十四年)、八十七歳に『なってもなお手術後の静養中に葉巻をふかすなど健康だったが、脳溢血に倒れ』、十二月二十日附の『貝塚に関する論文を絶筆に、セイラムの自宅で没した』。遺言によりしっかりと彼の脳は翌十二月二十一日、『フィラデルフィアのウィスター解剖学生物学研究所に献体され』ているとある。それにしても、「……の処の文字は不明」はモースの悪筆ぶりがハンパないものであることがよく知れる。]
斯様な事は先生には珍しくない事で、先生の言文ほ夫れで又有名であった。であるから何れの集会でも、先生が居らるる処には必ず沢山の人が集り先生の御話を聴くのを楽みにして居たものである。コンクリン博士が書かれたものの中に又次ぎの様なものがある。或る時ウーズ・ホールの臨海実験で先生が日本の話をされた事がある。此時先生は人力車に乗って来る人の絵を両手で巧に黒板に画かれたが、其顔が直ぐ前に坐って居る所長のホイットマン教授に如何にも能く似て居たので満場の人の大喝采を博したと。
併し先生にも嫌いな事があった。其一つは家蠅で、他の一つは音だ。此音に付き、近い頃日本に来る途中太平洋上で死なれたキングスレ一博士は、次ぎの様な面白い噺を書いて居る。モースがシンシナティで、或る豪家に泊った時、寝室に小さい貴重な置時計があって、其音が気になってどうしても眠られない。どうかして之れを止めようとしたが、不可能であった。困ったあげく先生は自分の下着で夫れを包み、カバンの中に入れて、グッスリ眠ったが、翌朝此事を忘れて仕舞い、其儘立った。二十四時間の後コロンビアに帰り、カバンを開けて大きに驚き、時計を盗んだと思われては大変だと云うので直ぐに打電して詫び、時計はエキスプレッスで送り返したと。
先生は一八三八年メイン州のポートランドに生れ、ルイ・アガッシイの特別な門人であられたが、アガツシイの動物学の講義の中で腕足頼に関した点に疑問を起し、其後大いにそれを研究して、声名を博されたのである。前にも云うた様に先生が日本に来られたのも其の研究の為めであった。其翌年から前述の如く二年間我大学の教師を勤められ、一度帰られてから八十二年に又来朝せられたが之れは先生には主として日本の陶器を蒐集せらるる為めであった。先生にはセーラム市のピーボデー博物館長であられたり又ボストン美術博物館の日本陶器類の部長をも勤めて居られた。で先生が日本で集められた陶器は悉く此美術博物館へ売られたが、夫れは諸方から巨万の金で買わんとしたが、先生は自分が勤めて居らるる博物館へ比較的安く売られたのであると。之れは先生の人格の高い事を示す一つの話として今でも残って居る。夫れから先生は又此陶器を研究せられて、一大著述を遺されたが、此書は実に貴重なもので、日本陶器に関する書としては恐く世界無比のものであろう。
[やぶちゃん注:ウィキの「エドワード・S・モース」に、一八九〇年(五十二歳)の時、『日本の陶器のコレクションをボストン美術館へ譲渡して管理に当たり』、翌一九〇一年には、『その目録(Catalogue of the Morse
Collection of Japanese Pottery)を纏めあげ』た、とある。]
先生は身心共に非常に健全であられ老年に至る迄盛んに運動をして居られた。コンクリン博士が書かれたものに左の様な言葉がある。「先生は七十五歳の誕生日に若い人達を相手にテニスをして居られた処、ドクトル・ウワアヤ・ミッチェル氏が七十五歳の老人にはテニスは余り烈しい運動であると云い、先生の脈を取って見た処、夫れが丸で子供の脈の様に強く打って居たと。」私が先年ハーバード大学へ行った時マーク氏が話されたのに、モースが八十六(?)で自分が八十で共にテニスをやった事があると。斯様であったから先生は夫れは実に丈夫で、亡くなられる直前迄活動を続けて居られたと。
[やぶちゃん注:「八十六(?)」石川千代松自身が年齢を正確に覚えていなかったものか? モースは八十七で亡くなっているから年令上ではおかしくはない。]
先生は一九二五年十二月廿日にセーラムの自宅で静かに逝かれたのである。セーラムで先生の居宅の近くに住い、久しく先生の御世話をして居たマーガレット・ブルックス(先生はお玉さんと呼んで居られた)嬢は私に先生の臨終の様子を斯様に話された。
先生は毎晩夕食の前後に宅へ来られ、時々夜食を共にする事もあったが、十二月十六日(水曜日)の晩には自分達姉妹が食事をして居る処へ来られ、何故今晩は食事に呼んで呉れなかったか、とからかわれたので、今晩は別に先生に差し上げるものもなかったからと申し上げた処、でも独りで宅で食うより旨いからと云われ、いつもの様に肱掛椅子に腰を下して何にか雑誌を見て居られたが、九時半頃になって、もう眠るからと云うて帰られた。夫れから半時も経たない内に先生の下婢が遽しく駈込んで来て先生が大病だと云うので、急いで行った処、先生には昏睡状態で倒れて居られた。急報でコンコードに居る御妹さんが来られた時に少し解った様であったが、其儘四日後の日曜日の午後四時に逝かれたのである。であるから、先生には倒れられてからは少しの苦痛も感ぜられなかった様であると。
斯様に先生は亡くなられる前迄活動して居られたが八十九年の長い間には普通人に比ぶれば余程多くの仕事をせられたのである。夫れに又前述の如く、先生には同一時に二つの違った仕事もせられたのであるから、先生が一生中に致された仕事の年月は少なくとも其倍即ち一九八年にも当る訳である。
先生の此の貴い脳は今ではウィスター・インスチチエートの解剖学陳列室に収めてある。私も先年フィラデルフィアへ行った時、グリーンマン博士に案内されて拝見したが、先生の脳はドナルドソン博士に依って水平に二つに切断してあった。之れは生前先生の御希望に依り先生の脳の構造に何にか変った点があって夫れが科学に貢献する処があるまいかとの事からである。併しドナルドソン博士が私に話されたのには、一寸表面から見た処では別に変った処も見えない。先生が脳をアノ様に使われたのは多分練習から来たものであったろうと。
であるから「先生は生きて居られた時にも亦死んだ後にも科学の為めに身心を提供されたのである」とは又コンクリン博士が私に書いて呉れた文章の内にあるが、斯様にして「先生の死で世界は著名な学者を失い、日本は最も好い親友を失い、又先生の知人は楽しき愛すべき仲間を失ったのである」と之れも亦コンクリン博士がモース先生に就いて書かれた言葉である。
私がセーラムでの御墓参りをした時先生の墓碑は十年前に死なれた奥さんの石の傍に横になって居たが、雪が多いので、其時まだ建てる事が出来なかったとの事であった。
[やぶちゃん注:『遺体はハーモニー・グローヴ墓地(Harmony Grove Cemetery)に葬られている』とある。夫婦墓の写真は海外サイト“Find A Grave”のこちらで見られる。]
× × × × ×
終りに玆(ここ)に書いて置かなくてはならぬ事は、此書の出版に就き医学博士宮嶋幹之助君が大層骨を折って下さった事と、啓明会が物質上多大の援助を与えられた事と、モース先生の令嬢、ミセス・ロッブの好意許可とで、之れに対しては大いに御礼を申し上げ度いのである。
[やぶちゃん注:「宮嶋幹之助」(みきのすけ/かんのすけ 明治五(一八七二)年~昭和一九(一九四四)年))は寄生虫学者。山形県生まれ。ウィキの「宮島幹之助」から引く(正しくは「宮嶋」)。『第一高等中学校に入学したが、ドイツ語教師が昆虫学者のアドルフ・フリッチェであったことから、志望を医科から理科に転科した。第一高等学校を経て』、明治三一(一八九八)年東京帝国大学理科大学動物学科卒。大学院に入学。日本産無脊椎動物、とくに腔腸動物を専攻した』。明治三三(一九〇〇)年には『尖閣諸島で信天翁(アホウドリ)を研究。しかし実際の目的はマラリアの研究で、東京への帰途、立ち寄った京都大学医学部衛生学教室に入局を決めてしまった。指導教官は動物学』第三代『教授の箕作佳吉。ツツガムシ病原媒介体としての赤虫の研究を行い、理学部出身者として初の医学博士となる。学位論文は「本邦産アノフェレスについて」。同年中にシマダラカによる媒介を証明した』。翌年には『京都帝国大学医科大学講師となり、寄生虫学を担当』。明治三六(一九〇三)年、『内務省所管で北里柴三郎が所長である、国立伝染病研究所入所。宮島は痘苗製造所技師となり、ツツガムシ、マラリア、日本住血吸虫、ワイル病の研究に従事』、翌年には『北里の命で、セントルイス万国博覧会に出席』。目地三八(一九〇五)年、『伝染病研究所の部長に昇任。その後、マレー半島のマラリア調査、ブラジル移民の衛生状態調査、台湾地方病および伝染病調査委員の嘱託など、たびたび海外に派遣された』。大正三(一九一四)年の学閥支配による『伝染病研究所移管時は、北里とともに辞職。北里研究所の初代寄生虫部長とな』っている。後、昭和一三(一九三八)年には『北里研究所副所長とな』った。自動車事故のために急逝。
「モース先生の令嬢、ミセス・ロッブ」モースの娘イーディス(Edith)。結婚してEdith Owen Morse Robb となっていた。一八六四年十二月九日生まれで一九六二年二月十八日に、非常な長命で亡くなっていることが先の海外サイト“Find A Grave”のこちらで判る。]
夫れに又附言する事を許していただき度い事は私の子供の欣一が此書を訳させていただいた事で、之れは欣一が米国に留学して居た時先生が大層可愛がって下さったので、殊に願ったからである。
*
淋しいけれど……2013年6月26日に始めた僕とモース先生の旅は……終った……